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 田中克己年譜  系図


1911年(明治44年)  当歳

8月31日、大阪府東成郡天王寺村(現在阿倍野区天下茶屋2−5)に生まれる。(本籍:住吉区萬代西4丁目20番地)
父、西島喜代之助(戸籍上は喜代之輔。1883年2月11日-1961年8月20日)は西成郡今宮村328(現在浪速区)生まれの人(父喜代三郎33歳、母み津22歳のときの子)。 日本銀行大阪支店の行員で歌人(号西島南峯)でもあった。
母、田中これん(1886年3月4日-1915年10月7日 父甚城(1858年1月10日-1910年5月9日。甚四郎長男)、母こしげ船越氏)は淡路島賀集(かしゅう)村(現在南淡町)より出で、 大阪のミッションスクール(ウィルミナ女学校・プール女学校専攻科)を卒業。同じく歌を嗜み、喜代之助とは眷族船越嘉一郎主催の歌会にて出会う。 明治43年に結婚。父が長男、母は戸主だった為、長男の克己はただ一人母の家を継いで田中姓となり、母は西島家へ入った(父28歳、母25歳)。

12月、兵庫県三原郡賀集村538番屋敷田中甚城家を継ぐ。


1912年(明治45年)  1歳

10月、妹千草生まれる。


1913年(大正2年)  2歳

天下茶屋の山荘に移る。


1914年(大正3年)  3歳

8月、第一次大戦の青島陥落を祝う提灯行列を記憶。
10月、双子の弟、光日子、端日子(てるひこ、みづひこ)生まれる(光日子は日経たず早世)。


1915年(大正4年)  4歳

春、東成郡関目村(現在城東区)へ転居。
10月7日、母これん、早産の後に体調を崩し病没(29歳)。(岳父西島喜代三郎の墓に納骨、戒名流光自芳信女)。

10月11日、柏井悠紀子生まれる。

年末、南区馬淵町別荘へ転居。


1917年(大正6年)  6歳

3月、泉北郡高石町羽衣(現在高石市)へ転居。
10月、弟、端日子病没。


1918年(大正7年)  7歳

春、高石町高師之浜へ転居。

4月、高石尋常小学校に入学。成績全優にて級長を務めた。
同月、父喜代之助、神前志ず江と結婚。その後、三男二女(泉、咲耶、真砂、建、大:ひろし)をもうけた(泉、真砂は夭折)。
この頃、伽羅橋教会の日曜学校に通う。


1920年(大正9年)  9歳

高石町葛葉へ転居。


1922年(大正11年)  11歳

祖父母と同居する為、南区南高岸町(現在浪速区)へ転居。それに伴い恵美第三小学校へ転校。


1924年(大正13年)  13歳

4月、大阪府立今宮中学校に入学。
中河内郡高井田村新喜多2番地(現在東大阪市)へ転居。
中学校時代より父の蔵書から万葉集や森鴎外に親しむ。


1927年(昭和2年)  16歳

10月、父喜代之助、先妻これんの遺稿歌集「廉子遺稿」を刊行。
新喜多10番地へ転居。


1928年(昭和3年)  17歳

4月、高等学校等入試の予備テストに3番となり、中学4年修了で大阪高等学校文科乙類に合格し入学。親許を離れ図南寮に起居す。
同級には後のコギト同人となる主要メンバーが揃った。恩師に佐々木青葉村、財津愛象、R・シンチンゲルあり。高校時代を通じて盛んに万葉の歌枕を巡る。 秋より野球部マネージャーとなる。


1929年 (昭和4年)  18歳

8月、創作ノート「夜光雲」を記し始める。ペンネームは嶺丘耿太郎(みねおか こうたろう)。


1930年 (昭和5年)  19歳

1月、野田又夫ら先輩から引き継いだ謄写坂の短歌雑誌「璞人」を「R火:かぎろひ」と改名。保田與重郎(湯原冬美)と編集に当る。
7月、丸三郎、能勢正元、友眞久衛らと野球部松江遠征に参加。
9月、「このみちをなきつつわれのゆきしこと」の歌成る。この頃、木下利玄に私淑。
11月、保田與重郎、竹内好を中心に、大阪高等学校ストライキ事件起こる。その失敗を契機にして「かぎろひ」同人間の親密度が増した。特に克己は保田の感化により、アララギ、 中野重治に親しむ。また肥下恒夫の妹に初恋。
藤井寺に下宿。


1931年 (昭和6年)  20歳

1月、野球部の親友増田正元病没(21歳)。追悼記念集『夕映え』に寄せた文章が初めての活字となった。
3月、大阪高等学校卒業、4月、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。恩師に和田清、池内宏、加藤繁あり。
母方の遠縁に当たる柏井家(東京市杉並区天沼3丁目788番地)に船越章と共に下宿。当家次女悠紀子(1915年10月11日生。立教高等女学校2年)と相知る。この頃左翼文献を読み漁る。
5月、手書き歌集『嶺岡耿太郎歌集』を作成、以後昭和8年まで書き継がれる。
6月、満州事変勃発。


1932年 (昭和7年)  21歳

1月、旧『かぎろひ』同人を結集して文芸同人誌の創刊を計画。
2月、大学構内で帝国主義反対の集会に手入れあり、演説した長野敏一とその場に居合わせ一夜坂本警察に拘留される。その際心配した悠紀子とはその後次第に親交が深まった。
3月、『コギト』創刊。保田與重郎、肥下恒夫と編集に当り、作品の発表を始める。
主な創刊同人は、保田與重郎、肥下恒夫、田中克己、中島栄次郎、 松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己、薄井敏夫、松田明、石山直一ら。
肥下の経済的扶助により間断なく発行され、克己の主要な発表誌ともなった『コギト』は、保田の文芸評論を中心に据え、 昭和十年代を通じて日本のロマン主義文学の拠って立つ代表的な文学誌として機能した。
4月、中野重治逮捕。この頃、佐藤春夫とハイネに親しむ。
11月、悠紀子との交際に難色だった柏井家を去り、中野区鷺宮1−268仙蔵院の離れへ転居。


1933年 (昭和8年)  22歳

1月、北園克衛の誘いでモダニズム同人詩誌『マダムブランシュ』の同人となる。酒井正平、川村欽吾、饒正太郎、江間章子らと親しむ。
3月、春休みに帰省の折、伊東静雄を中島栄次郎と訪ねる。
4月、杉並区馬橋4−542 根本方に下宿転居。
5月、コギト同人松浦悦郎病没(23歳)。
8月、卒論資料収集を兼ね、佐藤春夫の小説の舞台となった台湾を単独旅行


1934年 (昭和9年)  23歳

3月、詩稿「西康省」一夜に成る。
同月、大学卒業。卒論研究は中国の海賊を題に採った「清初の支那沿海」。
4月、大学院に籍を置き、就職難の中、実家へ帰阪。大毎・大朝の新聞社には学科後の面接審査で落ち、失業中ノヴァーリスの遺稿小説の訳出を始める。
5月、大阪国学院設立の浪速中学校の嘱託講師となり、大学院は退学。
9月、浪速中学校教諭となる。室戸台風襲来。
10月、『四季』(第二次)創刊。堀辰雄より間もなく詩稿の依頼あり。
11月、編集から遠ざかっていた『コギト』に「日本浪曼派広告」載る。克己は誘われなかった。一方、大阪在住者で「木曜会」を催し、中島、伊東、桑原武夫らと度々集まる。 この年、徴兵検査にて丙種合格。
また、手書き詩集『田中克己遺稿集』を作成。昭和11年まで書き継がれる。


1935年 (昭和10年)  24歳

5月、柏井悠紀子と結婚。新婦は満19歳(『田中克己詩集』掲載の20歳は誤り)。高石町高師之浜1280に新居を構える。


1936年 (昭和11年)  25歳

1月、ノヴァーリス遺稿小説を『青い花』として第一書房より刊行、処女出版となる。
2月、堀辰雄の推挙により『四季』同人となる。のち神保光太郎、津村信夫らと編集にも携わった。
3月、住吉区住吉町1694(現在万代西4120)へ転居。
7月、長男史(ふびと)誕生。
10月、叔父北村英雄、父方西島氏の系譜を『西島氏歴代考』にまとめ、併せて始皇帝末裔伝説について調査依頼する。
同10月、ノヴァーリス『ヒアシンスと花薔薇』を服部正己と共訳、山本文庫の一冊として刊行。


1937年 (昭和12年)  26歳

1月、東洋史の石浜純太郎に就く。
3月、高石町羽衣444へ転居。
7月、蘆溝橋事件起こり日中戦争に拡大。
8月、三好達治を訪ね、佐藤春夫に紹介される。その後、三好と共に信州追分の油屋旅館へ投宿。堀辰雄、立原道造らと出会い、東京進出への想いつのる。


1938年 (昭和13年)  27歳

7月、職を投げ打ち家族と共に上京、妻の実家柏井家に入る。再び就職に奔走、合間に多くの先輩文学者と初めて交わる。

9月13日、四季同人会で津村信夫を識る。

10月、退職金150円で第1詩集『詩集西康省』を250部自費刊行(11月13日丸の内「マーブル」にて出版記念会)。

 反響大きく、とりわけ斎藤茂吉の感想に感激。三好達治の紹介で佐藤春夫門下の一人になる。

同10月、コギト同人松下武雄病没(28歳)。また、家庭教師の口を見つける。


1939年 (昭和14年)  28歳

1月、法政大学中学部講師となる(〜昭和15年3月)。

同1月中旬、中原中也賞の予選銓考会、2月13日決定銓考会に出席。立原道造と共に最終候補に残った(立原道造が受賞)。

3月、同人雑誌『文藝文化』への作品発表始まる。立原道造病没(24歳)。

7月2日、萩原朔太郎主宰の詩の講義「パノンの会」が丸の内3丁目帝国農会地階の喫茶店「パノンス」で始まる。

 『四季』の同人・会員を集めて11月5日までの日曜午後、十回余に亙り、克己は助講として朔太郎に学識面で特に信頼された。

 またこの頃より、増田晃、薬師寺衛、大垣国司ら『コギト』の後輩と親しむ。

9月、長女依子誕生。

10月、コギト同人伊藤佐喜雄『花の宴』出版記念会


1940年 (昭和15年)  29歳

2月、神保光太郎詩集『鳥』、4月、山岸外史『芥川龍之介』出版記念会

4月、恩師和田清の紹介で善隣協会蒙古研究所研究員(〜昭和16年3月)

7月5日、新宿の鳥田中で、萩原朔太郎を囲む会。三好達治、保田與重郎、津村信夫と。

9月、長女依子誕生。伊東静雄の斡旋により第2詩集『大陸遠望』刊行。
この年、法政中学を退職。新設された亜細亜文化研究所(立教大学構内)に勤務。


1941年 (昭和16年)  30歳

1月、中河與一主宰「文藝世紀」の同人となり、翌2月2日萩原朔太郎『帰郷者』が第4回北村透谷賞を受賞したのを祝ふ文藝世紀同人会に出席。
2月、蓮田善明と一度きりの面晤。

4月、北亜細亜文化研究所研究員(〜昭和17年2月)

9月、次男梓誕生。
10月、「楊貴妃とクレオパトラ」出版、伊東静雄の『詩集夏花』とともに第5回北村透谷賞を受賞。
12月、対米英開戦。


1942年 (昭和17年)  31歳

1月17日、新宿高野フルーツパーラーの四季同人会に出席。

2月、文士徴用の第二陣馬来派遣軍軍属として、北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと南方戦線後方へ派遣される。シンガポールで英字新聞の編集をし、 やがてスマトラへ赴く。
5月、日本不在中に保田與重郎の斡旋により第3詩集『神軍』を刊行。萩原朔太郎病没(56歳)。
6月、映画版を案内して赤道を越える。フォート・デ・コクにて近衛師団の帰還命令。
8月、現地で交通事故。
12月、台湾を経て熱田港へ帰国、徴用解除。


1943年 (昭和18年)  32歳

1月、帰還後、北亜細亜文化研究所研究員に復職(〜昭和20年12月)。 資料を求めて東洋文庫、東洋文化研究所(東京大学)などに足しげく通ふ。

同1月、湯川弘文社からの新詩叢書について企画者竹中郁から手紙があったか。

2月6日、南方から帰還した井伏鱒二、神保光太郎、田中克己とドイツから帰朝した芳賀檀を祝ふ「四季の会」が日比谷山水楼で催された。

7月、増田晃、中支石灰窯にて戦死(28歳)。

9月、次女弓子誕生。夫人の産院入院中、添寝していた次男梓が疫痢に罹り早世。生涯の悲しみとなる。


1944年 (昭和19年)  33歳

4月、『李太白〈東洋思想叢書〉』を日本評論社より刊行。中国詩人の評伝最初の一冊にして好評を得る。

4月、5月と二度にわたり、恩師和田清より「君、右傾したね。」と言われた事を日記に記録す。

6月、『四季』81号で終刊。

同6月、頻繁につるんでいた教へ子の筒井護郎が召集。代りにシンガポールで知り合った文学青年大垣国司が内地勤務の間に田中家へ通ふようになる。

8月、荻窪警防団員となり10月、副団長に任ぜらる。

9月、『コギト』146号で廃刊。その以前4月に肥下恒夫を訪ね、同人脱退と絶交を一方的に申し渡す。

11月、三好達治の斡旋により第4詩歌集『南の星』刊行。


1945年 (昭和20年)  34歳

3月18日、応召入隊(中部23部隊)。北支派遣独立警備兵の二等兵として河北省唐県にて情報室付任務に当たる(至武15696部隊 荒木隊)。

2月、薬師寺衛、フィリピン諸島レイテ島にて戦死(32歳)。

5月、中島栄次郎、フィリピン諸島ルソン島にて戦死(35歳)。

6月、田家荘のトーチカに屯居。戦友、小林俊文と親しむ。

8月、敗戦。一等兵を命ぜられ現地除隊。

9月、望都県で京漢線鉄道の警備に当たる。

10月、現地除隊、北京へ逃れる。その後、天津で歯科医を営む義弟宅に寄寓(天津特別市第一区松島街19-1東海林方)。日本荒廃の噂に一時在住を決意。


1946年 (昭和21年)  35歳

2月20日、義弟柏井数男一家と共に佐世保へ入港、帰国。

3月6日、帰宅。自宅(天沼3−788)は焼失をまぬがれるも、夫人は大垣疎開中に冒された十二指腸虫に半年間悩まされる。

同3月、和田清の紹介で外務省調査部の仕事を5月までする傍ら、聊斎志異を訳出し金尾文淵堂に打診。

5月、大垣国司の手許に預けた貴重な手紙類が散佚していることが分り激怒す。以後疎遠となった大垣は翌年発狂。26年精神病院で死亡

7月、杉浦正一郎、服部正己の紹介で天理図書館司書研究員となる。住居が見つかるまでは単身、服部宅(二階堂村田井庄住宅アパート)に居住した。

8月、保田與重郎を介して桜井町本町2丁目(現在桜井市)来迎寺の離れに転居。父君槌三郎・弟順三郎氏と親しむ

9月、第三次『四季』創刊(角川書店)。堀辰雄の呼びかけで再び作品の発表を始める。 晩年の辰雄が中国古典に傾倒するとともに、加藤家(多恵子夫人と弟)を通じて信頼が深まった。


1947年 (昭和22年)  36歳

1月、天理教真柱で職場トップの中山正善管長が保田與重郎との面会を希望、周旋す。

4月、 間借の来迎寺から追ひ出され、使はれなくなった町内の隔離病舎に一時転居。6月、桜井大教会付設の十畳間に移転。

同4月、 大阪毎日新聞社での会合にて伊東静雄、小野十三郎、中野繁雄、山本信雄らと会合。

同4月、 肥下恒夫への絶交を反省し、再び交流始まる。

8月、中島栄次郎の戦死を確信(公報は12月着)、

12月、後輩同僚との恋愛さなか、悠紀子夫人流産。

12月、第三次『四季』終刊。 中山正善の発議により前年創刊した『大和文学』を再刊、保田與重郎と共に同人となるも翌年廃刊。


1948年 (昭和23年)  37歳

1月、愛知大学から板倉鞆音を介して教授への招聘あるも受けず、同僚の服部正己が代った。

3月、遺骨なき中島栄次郎の葬儀。遺稿編集に肥下恒夫と共に動き、奈良の養徳社や野田又夫に打診するもならず。

 また保田與重郎が公職追放される(26年解除)。戦争詩を書いた詩人達からは指定者が出なかった。

6月、三興出版部(奈良)『ハイネ詩抄』刊行。戦後最初の著書となる。

11月、養徳社『狐の詩情(聊斎志異抄)』刊行。

12月、図書館の待遇と気風に嫌気がさし、転職先が決らぬうちに父の寓居近く、京都市上京区大宮田尻町32(現在北区)西田方へ転居。


1949年 (昭和24年)  38歳

3月、三女京(みやこ)誕生。

5月、京都近辺の詩人たち、天野忠、天野隆一らとコルボウ詩話会を結成、詩誌『コルボウ』を創刊す。

11月、文童社(京都)『ゲエテ詩集・新しい戀〈コルボウシリーズ1〉』刊行。

12月、9月に創刊された保田與重郎らの『祖国』に参加、前川佐美雄の歌誌『くれない』とともに作品発表の拠点とした。

 この年、師友の協力を得るも大阪大学その他への口利き話まとまらず、同僚との恋愛も圧力となり精神衰弱。天理教への入信さえ考える。


1950年 (昭和25年)  39歳

1月、神田喜一郎博士から名古屋大学への口利き話があるも学内に反対者あり、あきらめて彦根高等女学校と関西大学付属第一高等学校への話をすすめる。

3月、天理図書館を依願退職。

4月、滋賀県立短期大学(彦根高等女学校改称)教授に任ぜられる。

5月、関西大学付属第一高等学校講師を兼任。

6月、彦根市尾末町35−1の大学官舎に転居。

8月、井上多喜三郎らと近江詩人会を結成、詩誌『詩人学校』を創刊。10月、田中冬二、岩佐東一郎を招き彦根・長浜にて歓談

12月、酣燈社『ハイネ詩集〈詩人全書〉』刊行。


1951年 (昭和26年)  40歳

[1月-2月]、芹橋公舎へ移転。

3月、冬の寒さ耐え難く、滋賀県立短期大学を依願退職。

 井上多喜三郎ら近江詩人会より餞別として詩集『寒冷地帯』が著者極秘に刊行され贈られた

3月、角川書店『ハイネ戀愛詩集〈『歌の本』〉』刊行。

4月、帝塚山学院短期大学教授に任ぜられる。同僚に杉山平一、小野十三郎あり。布施市西堤町607の1の富士鋼業社宅に移り、社員寮(富士ハウス)の管理も任される。


1952年 (昭和27年)  41歳

3月、療養中の伊東静雄を見舞ふ。

6月、坪井明幹事で大阪高校の同窓会。閉会まぎはに来た肥下恒夫の窮状に感ず。また同月、大高OBコギト同人の薄井敏夫の病死(25年4月)を知る。

10月、コルボオ詩話会から「休会」(名誉同人扱ひされる)。


1953年 (昭和28年)  42歳

同3月、伊東静雄(46歳)、5月、堀辰雄(48歳)ともに結核にて死去。
11月、井上多喜三郎らと詩誌『骨』を創刊。

1月、小高根二郎との間で『コギト』後継誌名として『スム』が話題に挙がる。

3月、伊東静雄死去。(結核にて46歳)病院に駆けつけるも間に合はず。四十九日法要に参加。

同3月、角川書店『ハイネ戀愛詩集〈角川文庫〉』刊行。以後、版を重ねる。

4月、大高恩師、本庄実の頌寿記念会に骨折る。

5月、奈良の吉野書房社長前田隆一邸で、浅野晃、保田與重郎と会談。

同5月、後輩の戦歿詩人、薬師寺衛の母堂を訪ね、遺稿を借りて写す。

同5月、教へ子西保恵以子の歌集刊行に世話を焼く。

同5月、堀辰雄の訃報。(結核にて48歳)

6月、今宮中学同窓会。

同6月、『祖国:伊東静雄追悼号』に保田與重郎が「最も意味のあつた詩人」として「昭和から次の代に亘る詩人は、蔵原伸二郎、宮沢賢治それに伊東静雄」と3人を挙げたことに落胆。

9月、依田義賢、荒木利夫、山前実治、井上多喜三郎、佐々木邦彦、田中克己6名で相談、11月、詩誌『骨』創刊。以後20年余の長命を保つ。

10月、市立文化会館「伊東静雄を語る会」で講演。

11月、浪速中学の30周年会。


1954年 (昭和29年)  43歳

1月、2月、4月、5月、7月、10月と京都にて『骨』同人の会。

3月、伊東静雄の一周忌に肥下恒夫、小高根二郎、富士正晴、織田喜久子らと出席。

5月、帝塚山短大の教へ子と和歌山遠足。7月、奈良遠足。10月、飛鳥遠足。

6月、浪速中学の教へ子による同窓会。

7月、元々社『李太白〈民族教養新書9〉(後版)』刊行。上京して元々社を訪問、

 また恩師和田清ほか在京旧友と久闊を辞す。小高根太郎とともに薄井敏夫未亡人を訪ふ。

8月、教へ子一向と岐阜・犬山・彦根を観光。岐阜在住の旧友と会ふ。

7月、職場の講演会に芥川比呂志呼ぶ。9月、今東光氏呼ぶ。10月、竹中郁呼ぶ。

11月、諫早の伊東静雄の詩碑建立に尽力の蒲池歓一を迎へ、柳井道弘とともに大阪史蹟案内


1955年 (昭和30年)  44歳

2月、少年時代以降これまでの歌を集めた『歌集戦後吟』を文童社(京都)より自費刊行。

同2月、『祖国』終刊。6月、中央誌『新論』として打って出るも不評、半年で廃刊するを見る。

3月、筑摩書房より評伝『李白〈鑑賞世界名詩選〉』刊行。

4月、奈良女子大学へ非常勤講師として出講。天野忠と同僚となる(〜昭和32年3月)。

同4月、元々社『楊貴妃とクレオパトラ〈民族教養新書28〉(後版)』刊行。

5月-7月、前川佐美雄邸に出入り繁く、息女の家庭教師も行ふ。8月、前川主宰『日本歌人』の吉野合宿(保田與重郎も参加)。

9月、胃潰瘍で入院中の保田與重郎を警察病院に見舞ふ。

10月、小高根二郎、福地邦樹らと語らひ『コギト』の後継誌を、保田與重郎を欠いて出すことを計画。11月『果樹園』と決まる。


1956年 (昭和31年)  45歳

1月、同人雑誌『果樹園』を創刊。初代発行人となる。

 表紙のない8ページ余りの小冊子ながら月刊を堅持。小高根による伝記評論や浅野晃の詩などを世に送り、1973年の終刊まで204号を数へた。

11月、福地邦樹の選・岩崎昭弥の周旋により第5詩集『悲歌』を刊行。大阪市中央公会堂で出版記念会(39名参席)。

同11月、京都で東大東洋史学科の同窓会あり上京の意志固まる。


1957年 (昭和32年)  46歳

2月、今東光直木賞祝賀会。杉浦正一郎死去(直腸癌46歳)。

 また、二宮尊道・D.J.Enright監修のアンソロジー『The poetry of living Japan』に英訳詩2篇(「偶得」「曠野」)掲載を知る。

3月末、送別会を受けて上京。一旦本郷菊坂町の西川英夫宅に身を寄せ、4月、北区岸町1−7中込アパートへ転居。『果樹園』編集から外れる。

4月、東洋大学文学部教授に任ぜられる。再び東洋文庫、東洋文化研究所(東京大学)に通ふやうになる。中河與一に呼ばれ『ラマンチャ』同人会出席。

9月、今宮中(在京組)同窓会。

9月、防衛大学校講師を兼任することとなる(〜昭和33年3月、昭和34年9月〜昭和35年3月)。

11月、佐藤春夫初版本66冊を岩崎昭弥に譲る。


1958年 (昭和33年)  47歳

3月、内部紛争の末、齋藤晌らと共に東洋大学を依願退職、芳賀檀と疎隔生ず。

4月、成城大学文藝学部、立教大学文学部大学院(〜昭和38年3月)、聖心女子大学(〜昭和38年9月)で非常勤講師として教鞭を執る。

4月、「春の日の会」にて佐藤春夫に挨拶。

11月、宏池会主催の勉強会「三水会」に招かれる(-1961)。


1959年 (昭和34年)  48歳

3月、岐阜を経て下阪。帝塚山短大教へ子や『骨』創刊同人と会合。淡路島の田中家親族を訪問。

4月、成城大学文藝学部教授を任ぜられる。

 同僚に『文藝文化』元同人の栗山理一、池田勉ほか、高田瑞穂、築島謙三、富永次郎、野田宇太郎(非常勤)、山川京子(高校部)、西山松之助、鎌田久子等あり、以後定年まで勤め上げる。防衛大学非常勤を辞める。

4月5月、天理時代の同僚嬢のことで悠紀子夫人と諍ひ止まず。

5月、岩崎昭弥、岐阜市市会議員選挙に当選し、詩集『墓碑銘』を出版。序文を書く。

6月、糸屋鎌吉『首の蔭』出版記念会。

7月8月、五味康祐宅および日本医大病院に、胃の手術のため上京中の保田與重郎を見舞ふ。

10月、長男史氏の就職、大蔵省に決まる。

11月、東洋史会の会合に下阪。旧コギト同人坪井明、肥下恒夫にも会ふ。

12月、萩原葉子『父・萩原朔太郎』出版記念会。また術後の保田與重郎が自宅に訪ね来り、翌日滞在中の荻窪山川京子宅を訪ふ。


1960年 (昭和35年)  49歳

1月、盲腸手術、武蔵野市吉祥寺本町(吉祥寺2856)へ転居。

3月、影山正治と対談、『不二』5月号に載る。

4月、佐藤春夫「春の日の会」。芥川瑠璃子詩集『薔薇』出版記念会

5月、竹内好、安保強行に抗議して辞職。遺族らと共に堀辰雄墓参

10月、その慰労会を大高OB上京歓迎会と兼ねて行ふ。また岐阜、京都、奈良に旧友を訪ね、大阪で帝塚山短大の同窓会に参加。

コルボウ詩話会解散(1949-1960)。


1961年 (昭和36年)  50歳

1月、「半自敍伝」を『果樹園』に連載開始。柳原白蓮をインタビュー

4月、下阪して帝塚山クラス会。京都鳴滝の保田與重郎邸を訪問。新制博士号をとる学者らに対しても違和感と疎外感とを抱く。  天理時代の同僚嬢と逢ったかは不明にて、帰宅後は連日の夫婦喧嘩。今西春秋からの求愛にも悩む嬢に苦衷を書簡し、入信の意を旧友に初めて洩らす。

4月、佐藤春夫「春の日の会」。

5月、奈良に学生引率旅行。その間に悠紀子夫人も下阪して件の嬢と直々に話し合ひ、不倫感情の清算に努めさせる。

7月26日-9月27日 「東京日記11」欠損。この間、十二指腸潰瘍にて入院。

9月、父、西島喜代之助逝去(78歳)。下阪して葬儀。

11月、熱海で大阪高校同窓会。恩師シンチンゲルほか竹内好も参加。

12月、宏池会主催の勉強会「三水会」解散。


1962年 (昭和37年)  51歳

3月、劇作家となった異母弟、西島大、結婚。

同3月、『コギト』刊行者であった肥下恒夫自殺(53歳)。

12月、日本基督教団吉祥寺教会にて受洗。プロテスタントとなる。


1963年 (昭和38年)  52歳

3月、宮崎智惠・大伴道子の合同出版記念会

4月、長女結婚。

5月、大高OB山本治雄、吹田市長選出。

6月、大学の恩師、和田清逝去。

10月、癌恐怖症によるノイローゼのため武蔵野中央病院に一週間入院。

11月、自宅にテレビが入る。齋藤医院神経科(齋藤茂太院長)に通院。12月、悠紀子夫人が心労発作。


1964年 (昭和39年)  53歳

1月、成城大学を休職す(〜12月)。

2月、『果樹園』に「コギトの思ひ出」連載開始(至昭和41年)。

同2月、父喜代之助の遺稿歌集『歌日記』を刊行 (跋 1 2
)

2月、ノートに遺言を書き留める。斎藤医院に一ケ月入院す。

4月、杉並区阿佐谷南1−40−8(旧1丁目870番地)へ転居。渡欧する羽田明と会食。

5月、佐藤春夫死去(72歳)。葬儀参列。

6月、長女夫婦を名古屋に訪問。

7月、立教大学、聖心女子大学の非常勤を辞める。

同7月、亡父墓参に飛行機で下阪。

同7月、集英社『白楽天〈漢詩大系 第12巻〉』刊行。

9月、筑摩書房『中國后妃伝〈グリーンベルトシリーズ50〉』刊行。

11月、自宅に電話引く。斎藤医院に10日間の再入院。


1965年 (昭和40年)  54歳

1月、鬱症悪化。

2月、南北社『批評』関係者に講演(日本出版クラブ会館)。

3月、大高OB関口八太郎の自衛隊西部方面総監就任の祝賀会出席。大高OBコギト同人の服部正己死去。

4月、懐妊長女を見舞に名古屋へ。岐阜にも立寄る。(7月、初孫誕生)

同4月、井上靖『楊貴妃伝』完結につき婦人公論社の仲介で井上夫妻と会食。田川孝三出版記念会出席。

5月、堀辰雄13回忌出席。

7月、大高OB谷口静夫告別式出席。

9月、小山正孝来り、平凡社の現代語訳漢詩企画について相談・承諾。

10月、萩原朔太郎研究会にて講演(前橋図書館)。


1966年 (昭和41年)  55歳

3月、『月刊国民百科』座談会。なだいなだ、檀一雄ら6名と。

4月、詩友井上多喜三郎、交通事故死(64歳)。修学旅行の付添にて下阪の際、単独で天理や倉敷を訪れ、京都依田義賢宅で仲間と井上を偲ぶ。

同4月、佐藤春夫の「春日忌」を欠席。

5月、NHKでクレオパトラの話を録音。6月「みんなの茶の間」にて放送。

7月、集英社『白楽天〈コンパクトブックス中国詩人選4〉』(新書版)を刊行。『ハイネ恋愛詩集』25版を以て改版。その後も増刷を重ねた。

同7月、『新潮』に「『四季』の人々」

8月、夫人と共に33年振りに台湾を旅行。台北、基隆、野柳、烏来をめぐり、楊雲萍、頼永承2教授に歓待さる。

10月、長男史氏が別居・独立。11月、結婚。

12月、『四季』復刊につき、丸山薫ほかの旧同人、および潮流社の八木憲爾と相談。


1967年 (昭和42年)  56歳

1月、『四季』の会。2月「これからの四季」、4月「三好達治 人と作品」座談会。

4月、三島由紀夫による浅野晃詩集の朗読会。大高OB山本治雄、吹田市長再選。

5月、佐藤春夫の会。

同5月、10月池島信平と『婦人画報』の対談。

7月、空き巣に入らる。信濃追分にて卒論指導。

同7月、文藝春秋社の指示によりニューオータニホテルで執筆。8月、石田幹之助と対談。9月、石田との共著『大世界史4〈大唐の春〉』刊行。

8月、下阪。亡父西島喜代助7回忌。

11月、『四季』日本近代文学館より復刻。

12月、第四次『四季』創刊(潮流社)、 詩の掲載権について意に染まず脱退通知、周旋の小山正孝と絶交、すぐ解く。


1968年 (昭和43年)  57歳

3月・7月と、中央公論社のベストセラー『日本の詩歌』シリーズの第24巻〈丸山薫,田中冬二,立原道造,田中克己,蔵原伸二郎〉解説担当の阪本越郎と面談。9月刊行さる。

4月、浅野晃詩碑発起人を受諾。

5月、前橋で行はれた萩原朔太郎研究会へ出席。


1969年 (昭和44年)  58歳

1月、角川書店『現代詩鑑賞講座〈第10巻・現代の抒情〉』刊行(福地邦樹解説)。

4月、肥下恒夫未亡人、養女と共に2度上京、泊める。

6月、アンソロジー解説を担った阪本越郎死去、9月、追悼会。

7月、長男岳父、坂出市長に選出。

8月、平凡社『唐代詩集 上〈中國古典文學大系〉』刊行。田中克己は李白、小山正孝は杜甫の現代語訳を担当。

9月、下阪、帝塚山学院同窓会。

10月、蓮田善明25回忌。

10月-11月 成城大学、学生運動によるストに入る。


1970年 (昭和45年)  59歳

1月、次女結婚。

3月、小高根二郎『蓮田善明とその死』刊行。出版記念会。4月、佐藤春夫の会。

11月、三島由紀夫自殺をテレビで知る。12月、義弟逝去につき下阪。


1971年 (昭和46年)  60歳

1月、下阪、帝塚山クラス会。教へ子に「わたしと田中克己」(※還暦記念文集)原稿依頼するも中止す。

2月、前川佐美雄歓迎会。

4月、かかりつけ医の山住医院一家との交流始まる。

5月、病気再発、2年ぶりに斎藤医院に通院。

6月、浅野晃より『日本浪曼派』復刊計画あり、参加承知するも翌年創刊『浪曼』同人とならず。


1972年 (昭和47年)  61歳

2月、萩原朔太郎研究会。中村地平の会。

4月、コギト同人長尾良死去。遺稿集に協力。

6月、与謝野寛・晶子の会。

同6月、大東塾の行動につき警察が影山正治について訊きに来る。

9月、教会より讃美歌の訳を依頼。


1973年 (昭和48年)  62歳

3月、『果樹園』終刊。

6月、墓地を八王子市上川霊園1区1号に定む。

10月、下阪、今宮中同窓会。


1974年 (昭和49年)  63歳

2月、幼なじみの懇意医師、浅野建夫死去。精神不安定となる。

4月、大学同窓松本善海死去。

7月、佐藤春夫の会。

9月、台湾へ一週間の単独旅行。帰還後再び精神不安定となり斎藤病院に入院一ヶ月。年内休職。


1975年 (昭和50年)  64歳

5月、三女結婚。

12月、大東塾(不二歌道会)と距離を置く。『浪曼』寄贈も途絶える。

同12月、第四次『四季』終刊(丸山薫追悼号)。『日本の詩歌』は文庫本に。


1976年 (昭和51年)  65歳

1月、6月、影山正治からの面会希望を無視。

4月、講談社より評伝『杜甫伝』刊行。

5月、大高OB本位田昇死去。8月、帝塚山元同僚長沖一死去。


1977年 (昭和52年)  66歳

1月、大阪の好事家より“杜甫真蹟”の鑑定依頼。

3月、竹内好死去。旧友代表として後事に周旋。

6月、11月、在阪時代に世話になった叔父叔母逝去。


1978年 (昭和53年)  67歳

1月、北川冬彦夫妻と会食

6月、躁鬱を伴ふ神経症によるノイローゼのため斎藤病院に入院。8月退院。10月、同じく塩入病院に入院。年末退院


1979年 (昭和54年)  68歳

4月-5月、神経症再発、自宅療養。

8月、伊豆韮山の別荘を借り逗留。

11月、下阪。大高同窓会に参加の足で、淡路島の田中家親族を訪問。


1980年 (昭和55年)  69歳

8月、木曽福島の別荘を借り逗留「蘇東坡」執筆。

9月、研文出版(山本書店)『中国の自然と民俗』刊行。


1981年 (昭和56年)  70歳

10月、保田與重郎死去(71歳)。


1982年 (昭和57年)  71歳

3月、成城大学を定年退職。5月、名誉教授となる。

同3月、昭和9年の自筆詩集を麥書房より復刻自費刊行(『田中克己詩集:自選自筆1932-1934』)

9月、平凡社『天遊の詩人 李白〈中国の名詩4〉』刊行。


1983年 (昭和58年)  72歳

3月、研文出版(山本書店)より評伝『蘇東坡』刊行。

  

8月、第6詩歌集『神聖な約束』30部自費刊行。


1984年 (昭和59年)  73歳

1月、自ら主幹となり第五次『四季』創刊(四季社)。旧『果樹園』同人らが拠った。

6月『コギト』臨川書店より復刻(解題を執筆)。

10月−12月、「文芸広場」に杉山平一との対談集。


1985年 (昭和60年)  74歳


1986年 (昭和61年)  75歳


1987年 (昭和62年)  76歳

3月、第五次『四季』11号にて終刊。


1988年 (昭和63年)  77歳

2月、外出の翌朝倒れ、武蔵野療園病院に入院。リハビリ後、関東中央病院より6月に退院。
10月、自宅改築の為、一時阿佐谷南3−25−7へ転居。


1989年 (平成元年)  78歳

4月、新居へ移る。以後長男家族と同居。


1990年 (平成2年)  79歳

7月、近江詩人会四十周年記念誌に寄せた一文あり。絶筆となる。


1991年 (平成3年)  80歳

7月、悠紀子夫人、癌の為、河北病院へ入院。見舞に足繁く通う。
11月、肺炎の為、八王子市多摩病院へ入院。


1992年 (平成4年)

1月15日、多摩病院にて永眠。17日、日本基督教団阿佐谷教会にて葬儀。
3月8日、悠紀子夫人逝去。

墓所(八王子市上川霊園1区1号)。


*本年譜作成に当たっては、御遺族及び関係者の協力を得、自筆略歴や日記ほか、複数資料の信憑性を照合した。年譜中に表れぬ著作については、 著書目録著作総目録を参照されたい。(中嶋康博)


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