2017.02.20up / update  Back

肥下恒夫 コギトメモ

澤村修治氏 『敗戦日本と浪曼派の態度』

ライトハウス開港社 2015年12月刊行 より、 147-160pにわたる

田中克己の記載のある部分について、抄出させていただきました。

昭和15年3月9日 〜 昭和17年1月18日


昭和15年3月9日

文藝文化の清水文雄氏を訪ねるため新宿駅ホームで田中と一時半待ち合せる約束あり。出かけんとする時、田中の奥さん、史ちゃん依子ちゃんとを つれて来訪、田中学校へ出たあとから清水より今日は都合悪いので明日にしてくれと葉書来た由。田中の学校へ電話かけたが話中で待たされ、かか つたときは田中かへつたあとだつたため僕にしらせに来られた由。
とにかく新宿駅へゆく。二時十分頃田中来る。学校は休みだつたのを知らずに行つたので、浦和へ行つて来たから遅くなつた由。
明日清水氏を訪ねることにして駅を出てヱルテルへ行く。田中昨夜魚にあたつたといつて青い顔をしてゐる。
ヱルテルを出てかへる。


昭和15年3月10日

一時半田中来る。一緒に祖師ケ谷に清水文雄氏を訪ふ。コギトの印刷所の紹介のため。今の印刷所が用紙入手難のため思はしくないため。
帰り途小田急電車経堂で下車、二人で小高根を訪ふ。いい具合に在宅。二時間位ゐて六時頃帰る。留守中竹内好来訪。近所の神谷某を訪ねたるならん。
夜、松壽堂印刷所の松本、「山上療養館」の印刷代金の残りを受取りに来る。


昭和15年3月11日

三時前神田駅で田中と待合せ、東陽印刷所へ行く。コギトの印刷費見積り頼んでかへる。田中と一緒にぐろりあそさえてへ行く。山田新之輔尊父病気のため帰省中の由。
レインボーグリルへ入る。木山捷平、若林つやゐる。二人こちらのテーブルへ移つて来て話す。五時少し過ぎ別れて田中とつくばへ行く。分甲文乙のクラス会あるなり。
集まるもの、長野、俣野、鎌田、竹内、室、加藤、久保の九人。長野、超国家的巨大財閥論を語り、日本の即時撒兵説を主張す。十時過散会。帰途降雨しきり。


昭和15年3月13日

(前略)田中午過ぎ一寸来て帰る。一緒に出て田中、東陽印刷所見積書催促の電話をかける。


(昭和15年3月14日)

東陽印刷所から見積書来る。大へん高い。高くいつて断るつもりらしい。田中を訪ねて松壽堂印刷所を聞いてみ、 そこが駄目なら矢張り宮島印刷所にすることにする。


昭和15年3月23日

(午後6時から第2回詩人懇話会賞授賞式が産業組合中央会館講堂で催された。顔を出した肥下はそこで田中、小高根などコギトの仲間に会う。
受賞者は三好達治で、島崎藤村から商品が渡された。続いて萩原朔太郎、野口米次郎の講演があり、さらに詩の朗読がおこなわれる。
閉会後、肥下たちコギトの面々は三好達治に連れられて銀座裏の料理店へ移った。)
 澤村氏の記述より

昭和15年3月29

(『コギト』四月号の校了日であった。肥下、田中、
山田新之輔が校了時メンバーであり、夕方には作業が済んだとある。) 澤村氏の記述より


昭和15年4月13

(山岸外史『人間キリスト記』『芥川龍之介』の出版記念会(於・日比谷公園松本楼)にコギト同人保田、田中、山田と共に参会してゐる。
) 澤村氏の記述より


昭和15年4月16

(コギトの在京同人が新宿に集まった。肥下のほか、保田、田中、山田、小高根、船越章が出席者であった。ほかに長野敏一、船越友人の五味が加わっている。『コギト』百号記念号をどうするかが話題になった。「同人各自四十枚位書くといふ計画」が話された。
) 澤村氏の記述より



(コギト関係者との交流はさかんで、肥下恒夫は五月もほぼ連日、彼らの誰かと会っており、とりわけ田中克己、保田與重郎の名は「メモ」で頻出している。) 澤村氏の記述より



昭和15年7月11

(同人の伊藤佐喜雄が予告なく上京する。同日夜は新宿高野で宇治にいた小高根二郎の「上京の会」が開かれることになっており、肥下は伊藤と連れ立ち参加した。
ほかの参加者は
保田、田中、山田、長野、池澤茂、小高根太郎で計九人である。) 澤村氏の記述より


昭和15年8月30

(同人の
池 澤から召集されたとの報を受け、翌31日にコギト同人は急遽送別会を開いた。肥下のほか保田、田中、山田、小高根が集まった) 澤村氏の記述より


昭和15年9月8

(長尾良が肥下を訪問してきた。飛行学校へ配属され、その最初の外出日であった。「少し痩せてゐる」と肥下は「メモ」に点記している。
この日は
田中、山 田も来たが、彼らが帰ったあと肥下は印刷所へ行っている。夜には田中克己詩集『大陸遠望』の校正ゲラを読んだ
「良い詩集になるだらう。一冊に集めて見るといろいろ気付くことが多い。矢張りえらい男と思ふ」と、好印象を記している。)
 澤村氏の記述より


(
長野敏一の渡支出帆の日取りは9月21日に決まった。その前に会っておきたいと長野から意向を伝えられ、11日夜7時、新宿で待ち合わせることになった。保田、田中も参加する。戦場へ赴くのだからこれで最後かもしれない。深夜11時近くまで4人は話し込んでいる。)
 澤村氏の記述より




昭和16年6月22

(田中克己を留守中に訪ねた帰途、「阿佐谷六丁目の途上でヒットラー対ソ宣戦布告のラジオニュースを聞く」)
 澤村氏の記述より


昭和16年10月11

保田を訪ふ。しばらくして田中来る。コギトにつき相談あり。

澤村氏の記述より




昭和17年1月18日 日 晴

田中徴用をうけ今夕大阪へ向け出発。正午より阿佐ケ谷ピノチオで壮行会を開く。
 大君のみことかしこみうた人のいまかいで立ついにしへのごと


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