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たなかかつみ【田中克己】『神軍』1942
『神軍』
田中克己 第三詩集
昭和17年5月20日 天理時報社(丹波市町)刊
151p 18.8cm×13.2cm 上製函 \1.50
初刷1000部 2刷5000部
第二刷に付せられた帯
大内の御垣守ると
静けき御濠に影映しいつも常盤の松の老木(おいき)よ
われなんぢらがために日本を愛す
小さき手に小旗振り振り
万歳を先づおぼえたる幼子らよ
われなんぢらがために日本を愛す
ゆく夫(つま)が征衣につきし糸屑を
黙(もだ)して取りしその外に涙も見せぬ妻たちよ
われなんぢらがために日本を愛す
乗れる船外海に出づ
あな白き富士よ、そをめぐる箱根、愛鷹(あしたか)、日本の山よ
われなんぢらがために日本を愛す
ある墓碑銘 (昭和17年2月 コギト 115号 )
こは真珠湾爆撃に
身魂ともに火となりし勇士が奥津城なり
骨はウェスト・ヴァージニアの艦底にあり
ここには遺髪数條を留む。
われは懐ふ (昭和17年2月 コギト 115号 )
われは懐ふ 夕明りなき熱帯の夕を
また懐ふ 大王椰子の梢の星を
さらに懐ふ ドリアンはた檬果(マンゴー)を食(お)し
夜襲のかてとなせる兵らを。
大詔 (昭和17年2月 コギト 115号 )
きびしかりしか
大詔(おおみことのり)露霜の置ける木の下うづくまり
われは聞きしがその時ゆ
日月かはれど忘れずあるは。
わが世たのし
畏くも聖の帝 上にいまし
おほみいつ四方にかがやき
わが友の本位田昇、増田晃は中支にあり
池澤茂は北支に 平田内蔵吉(くらきち)は朝鮮に
大塩麟太郎は南支にあり
(石黒碩二郎は何処にありや)
わが兄の田中三郎も台湾にあり
わが教へ子はいくたりぞ
いくさのにはに命おもはず
わが師わが友みな良ければ
わが世たのし
わがたのしければ わがうから
わが妻わが子みなたのし
この楽しさを
畏こけれど返しまゐらすすべもがな。
軍艦を頌(たた)ふ (昭和17年1月 みちのとも)
広袤数万里
太平洋に波高けれど
わ艨艟の至らざる処なく
至るところ勝を奏せざるなし
舳頭 菊花の御紋章を挿し
内に生還を期せざる将士を載せたれば
醜敵何の恐るるところあらん
見よや いま戦闘旗 揚る
好餌 英艦か はた米
将士 必勝に莞爾たり
波涛 舷を叩いて已に凱歌をうたふ。
哀歌 (昭和17年1月)
岸の柳の逝く水を惜むがごとく
去りにし君をわれ嗟(なげ)く
永劫の時の一瞬を
われら交(かた)みに友と呼び
君もわれも若かりしかば
かはせし言(こと)もゆめの如かり
さればわれわが黒髪に霜の置かむ日
君をおもふことわが青春を惜むに似ん
岸の柳の逝く水を惜むがごとく
去りにし君をわれ嗟く。
ハワイ海戦、マレイ沖海戦、比島馬来の敵前上陸
と皇軍の到る処成功を見ざるなく、これひとへに
神業と思ふより外なし。こゝに於いて作れる詩。
この朝(あした) 虚空に光り
神人(しんじん)の飛び交ふを見る
ひとり云ふ 『戦ひ如何に』
答ふらく『皇軍(みいくさ)は
勝ちに勝ちたれ
子どもらが乗れる鳥舟(とりぶね)
あだつくに艦(ふね)うちつくし
沈めしは大艦(おほぶね)五つ
他もすべて役(やう)なくはせし
皇神(すめがみ)に申さむためと
急ぎゆくなり さて卿(そこ)は』
曩(さき)のもの答へていはく
『南(みんなみ)の軍(いくさ)を見にと
皇神(すめがみ)の任(まけ)のまにまに
ゆくなれど それもまた
同じくはあらむ みいくさなれば』
さて後は言(こと)と絶えつつ
光るものまた姿なし。
細戈(くわしほこ)千足(ちたる)の国に
大君の上にいませば
わが友らわが弟ら
強く良き兵とはなりて
虎が住むマレーの林
あらし吹くハワイの島に
みいくさは勝ちに勝ちつつ
去年(こぞ)は暮れたり
今年また勝ちに勝たなむ
われらみな心あはせて
敵(あだ)なべておそれ伏さしめ
地をなべて日を仰ぐごと
大君を仰がしめなむ
かくてのちわが子わが孫
その子らに語り継がむぞ
『わが祖父(おおぢ)わが父の世の
勲(いさおし)を汝(なれ)もまもれ』と
宛然一個の驕慢児
力を恃みて非理を唱導し
物に倚りて正義を圧服せんと欲す
空しく蒐め得たり艦と機と砲と
海外に盤踞して神州を呑むと想へり
一億国民みな切歯せしが
聖詔 既に下りて秋霜より烈し
時は維れ昭和十六年十二月八日
颶風未だ収まらず全天闇し
母艦々上 司令 命を伝へ
言々壮んにして復た厳を極む
紅顔の健児 目眦(もくし)裂け
吾が生は皇国に享く 死は布哇(ハワイ)
醜敵を屠り得て鴻恩に報ぜんと
挙手して機に上ればまた後顧せず
爆音轟々 敵空を圧し
金鯱(きんこ)一たび巨鯨に臨むと見しが
須臾に摧破し去る巨大艦
雲煙散じ去つて再(ま)た影を見ず
真珠湾頭 星条旗低し
捷報連(しき)りに故国に到り
山川歓呼して草木揺(ゆら)ぐ
盟邦また瞠目し 醜小狼狽す
吾れ国史の此の瞬間に生きたるを喜び
仰いで霊峰富士を望み見るに
暗雲一拭されて皓として白し
民国三十年に寄す (昭和16年10月 中國文學 10月号 ) 1 2
古往今来 革新に流血を見ざりしことあらず
乞ふ我が血をしてそがために流れしめん
かく云ひて従容刑場に就きし青年ありき
中華四万万の民生のため這の一男児を屠らずばと
摂政王の通行路 甘石橋下に爆弾を伏せし白面の青年や誰れ
赤手空拳 広東省城を奪はんとし
黄花崗上 碧血を濺ぎし七十二人の烈士ありき
ああ中華民国 こはすべて爾が生誕を待ちうけて
設(しつら)ひ行はれし饗宴にはあらざりしや
烏兎忽々 三十年の歳月は茲に流れたり
黄花崗上の碑石はすべて苔青く
甘石橋には人馬の往来繁けれど 識らず
我と齢ひ殆ど等しき爾 中華民国に
三十にして立たずの悔 有りや無しや
幾百幾千の船が一塊りとなつて
南へ南へと進んでゐる
どの船の船室も蒸暑いが
健やかな寝息で一杯だ
艫(とも)には日の丸が夜気にはたはたと鳴り
舳先には南十字の星が光つてゐる
これは元和寛永のころ
山田仁左衛門尉や天竺徳兵衛を照した星であり
さうしてこの海路は彼等とその一行が
小唄を歌ひカルタを弄びながら下つたみちだ
いま艦橋で当直の若い士官は双眼鏡をとり直す
四つの星はそのとき物言ひたげに瞬いてみせる。
わが台湾紀行 (昭和16年9月 コギト 110号 ) 1 2
南(みんなみ)の島なつかしみわがゆきて
オランダびとの城あとを見てのかへるさ
鳳凰樹紅く咲くみちを
俥にゆられゐしときに 手にとりもちし
小扇はいづちゆきけむ
大君の知ろしめす土にはあれど
山川草木なべてめづらに
わがこころ驚かすことも多かりしに
いま家居の 夏に想へば かの旅や
解怠(けたい)の心のみぞのこれる
双思樹 (昭和16年9月 コギト 110号 )
みんなみの島びさすらふわがうへを
きみもわすれずおもへとの木ぞ
トンネル近く (昭和16年9月 文藝世紀 浪曼派特輯 9月号 ) 1 2
わが汽車は小田原すぎて
早川や真鶴(まなづる)あたり
黄柑子(こうじ)はたわわにみのり
その木みな海に傾く
窓に倚るをとめごありて
叫ぶらく 沖の島見よ
うつくしや ゆきて住まばや
をとめ ながまなこ ながくち
島よりもさらに美くし
なが住まばわれも行き見む
かくわれに云はしめんとか
汽車は入る小さきトンネル。
道の曲り角に咲いてゐた朴の木は枯れ
鴬を飼つてゐた老人は死んだ
今そこには子供の多い賑かな家があつて
燈灯し頃にはわれかへるやうな騒ぎだ
ある日彼等が鴬笛を吹くのを聞き
朴の木と老人とをふと思ひ出した
この頃 (昭和16年9月 俳句研究 9月号 )
巷にいろいろ取沙汰がある
けふ私は軒しのぶに露を吹きながら
一寸それを思ひ出して吹き止めてみたが
隣家では謡をうたふしラヂオも聞えるし
私の心構へもそんなことで日々強くなる。
城市之図 (昭和16年9月 俳句研究 9月号 ) 1 2 3
中央亜細亜にタシュケントといふ市があり
狭い曲りくねつた街路の両側には
回教寺院(モスク)や露店市場(バザール)や低い汚い家々が並んでゐる
そこでは人々は頭に白いターバンを巻き
水煙草をのみながら取引したり
定刻の礼拝を厳粛に行つたりしてゐる
そこにはまた学校があり 何処かはらず可哀い子供たちが
唸るやうな声を立てて本を読んだり習字をしたりしてゐる
ところどころに池や園があつて、池に流れ入る水には水車が音たてて廻ってゐる
回教徒の市街の南には支配者の露西亜人の市街があり
総督官邸を中心に六百軒ばかりの白い清潔な家が立つてゐる
どの家も広々とした庭をもち そこにはこの地方に多いひなげしや
ふうてうさうの花が咲いてゐる
道路の両側には並木があり 柳と白楊とがそれを構成してゐる
果樹園では桃や李や巴旦杏がたわわに果実を着け
ひつそりした扉口へ時々鴬が飛んで来て啼く
私は机上に本をひろげ白昼この城市の夢を見てゐる
それは露西票ソヴイエートになるずつとまへ一八七〇年代のタシュケントだから
時代の霧と遠距離の霞の中でこのうへなく美しい
私は回教徒の市街を甚だ愛し 露西亜人の市街をも愛して眺めてゐる
うつくしき海にむかひて
ふたりゐし時にいひつる
わがやまひ ほどなく癒えむ
わがいのち 永くしあらむ
かくいひし言の葉なべて
うつつなりしか
ゆめにありける
亡きあとをわが来てみれば
火の山はけふも火を吐き
ひるがほに昼の虫啼く
ながらへてけふはあれども
わがいのち はたいくばくぞ
わが死せむ後もかかるか
かくこそあらむ
(友真久衛を悼みて)
わが若き日は恥多し
前(さき)の欧洲大戦は
われが十九の時なりき
わが学校に独逸人 名をキュンメルといひけるが
語学教師の任にあり
日独国交断絶後 面(おもて)は常に愁ふれど
なほとゞまりて教へしを
十一月のことなりし
朝食(あさげ)のあとに号外の
我軍勝てるを報じたり
さてキュンメルの授業時は三時限なり
二時限の休憩時間に白墨(チョウク)とり
われ勇敢に大書せり
青島己陥落矣(チンタオ・イスト・ゲフアレン)と
クラスメートは喝采し われは
文法的錯誤なきや数度確かめぬ
始業の鐘は鳴らされぬ
靴音とまり 扉(ドーア)あけ
渠(かれ)キュンメルは入り来しが
わが筆の跡見るやいな
その白督の面には 紅さし やがて死者の如 蒼ざめ 踵(きびす)めぐらしぬ
再び起る喝采に われは首(かうべ)をあげざりき
――わが若き日は恥多し。
少年テムジン (昭和16年9月 國民六年生 9月号 ) 1 2 3 4 5 6
満洲国の西どなりに 蒙古と呼ばれる地方がある
そこは一面の砂原に ところどころ草が生えてゐる
その草を食ふ牛や馬や羊と
それらの動物を飼ふ蒙古人の住んでゐるところである
今から八百年ほどまへ蒙古人のなかに一人の赤児が生まれた
父をイエスガイといひ 母をエレン・エケといふ
生まれて来たとき右手には赤い血のやうな石を握つてゐた
その子が将来 アジアとヨーロッパと
二大洲に跨る国を建てる 成吉思汗(ヂンギス・カン)であつたのだ
子供の時の名はテムジン 金属の中で武器となる
鉄にちなんだ名だつたが
強く雄々しい一生がその名にも表はれてゐたのだつた
テムジンが九歳になつたとき
父につれられて南方に旅行した
彼はもう馬に乗ることが出来た
(今でも蒙古の少年は自由自在に馬に乗れる)
途中ではじめて河に遊ぶ鴎を射て弓術の稽古をした
旅の目的地についた時 テムジンは将来の花嫁の
ブルテといはれる少女を見た
しかしそれより驚いたのは
自分の生まれた北蒙古より南蒙古に物が多く またその南の金の国は物資が豊かなことだつた
毎目毎日商人が金の国からやつて来て
毛皮や動物と美しい支那の衣服や装飾品とを交換した
テムジンはこの時はじめて世界の広さを知り
それをいつか全部自分の思ふままに出来たらといふ
少年らしい空想を抱いたのだ
強い父とやさしい母に見守られた楽しい時代はなくなつた
十三歳のときテムジンの父イエスガイが
敵のために毒をいれた食物で殺されたのだ
敵はイエスガイの一家をみな殺しにするつもりだつた
家来も親類もみな逃げてしまつた
テムジンは母と弟三人と妹一人とをつれて砂原の方々を逃げ歩いた
家畜を守り 魚をとり いちごやななかまどの実を拾ひ集め
草木の根や黍(きび)で暮してゆかねばならなかつた
わざはひはそれだけではすまなかつた
蒙古を統一しようとしたタイチウ人たちは
あの強かつたイエスガイの子テムジンをそのままにしておかなかつた
数日食物もなしに逃げ廻つたあとで
テムジンは捕へられて敵の大将の面前に引出された
さうして首と手に枷(かせ)をはめられた
敵は此夜 大宴会をした テムジンを捕へたお祝ひのため
その油断を見すましてテムジンは枷のはしで
見張りの男の頭をぶつて気絶させた
月の明るい夜だつた オノンの大河は渦巻いて流れてゐた
テムジンは枷をはめたまま 葦の生えた中洲まで泳いで行つた
何と強い体力だらう 名の通り鉄だ
この鉄の体が最後に彼を世界の英雄にしたのだ
追手はオノンの河岸で立ち止まつた
河を渡つて逃げることはとても出来ないことだ
口々に呟いて引返して行つた
そのあとでテムジンは悠々と岸に引返し
知合の天幕(テント)に隠して貰つた
月が落ちてから 首枷(くびかせ)手枷をはづしてもらつて
馬に乗つてテムジンは駆けて駆けて逃げた
『僕はやるぞ やり通すぞ いつかの望みを達するぞ』
さういひながら闇夜をテムジンは駆けてゐた
わたしの散歩路に一本の木がある
幹はまつすぐに天に向つて伸びてゐる
この木を訪れるのは風と日光と
口喧ましい小鳥たちと雨
それから幹を這ひ上る勤勉な蟻の群
木はこれらの訪問客をみな受けいれ
いつも天を仰いで立つてゐる
風が通るときはひそかな囁き声がし
小鳥は梢でぺちやくちや喋るが
木はこれらを愛しすなほに愛撫して
天へ天へと伸びてゆく
さてこれは一誰何の象徴か
他人を好き嫌ひしいつも足場の動いてる
おれには讃仰の的なのだが
王位覬覦(きゆ)者 (昭和16年7月 文藝文化 37号 ) 1 2 3 4
わが中央アジアなるタシュケントに在りし日
ひとりの貴族ザイド・ハーンと相識たりき
ときに三十四五の壮年にして ブハラ汗(ハーン)モザッファル・エッヂンの姉の子
曩(さき)の汗位継承の争に父母家眷を叔父がため殺されて
そこタシュケントに亡命し来り
年毎に総督より二千四百留(ルーブル)を給せられゐしが
そをすべて姣童(かげま)と乱痴気とに投じて
悔ゆることなき愚か者なり。
われに逢ふ毎 揚言すらく
『わが再びブハラに帰り 汗位に即かん日は近し
けふも簒奪者の側近より密書来り
かしこの状(さま)を事細かに告げて来りぬ
ただ憾むらくはその書
いまここに持せざれば汝に示す能はず。』
かかる言(こと)三度五度(みたびいつたび)われ殆(ほとほ)と
そを詐(いつわ)りと思ひ決めし日
ひそやかに渠(かれ)衣嚢(かくし)より書を出し読めといふ
そを読めば
『財産の真の所有者に御身告げ
この悪しき家令を放逐せしむべし
彼みづからが為さざらば
吾党それを為さんとす
時機は熟せり 欠くるもの
唯一つ自他の決意のみ。』
われその意味を覚り得ぬ 所有者とはこれ
露西亜の総督 家令はすなはちブハラ汗
発信者は汗の親信せる占星師(うらないし)なり
かくてザイドの陰謀はわれは再び信ぜしが
渠が愚鈍の面貌には更に決意の影のなく
ただ僥倖を喜べる色のみあるを
憐れむ情(こころ)の動くをも禁じ得ざりき
いまその陰謀の結末とザイドの行方をわれ知らず
タシュケントに多かりし杏を食(は)めば渠を懐ふ。
私の故郷には一つの泉があつて
どんな炎天にも枯れることがない
それは周囲に羊歯類の葉を茂らし
中に数尾の鯉を棲ませてゐる
──少年の日私にはそれを覗くことが楽しみで
それが母の心配の種となつたのだが
そこから流れ出る水は海に注ぐまでに
多くの桃畑と桑畑と田圃とを潤ほす
いま私は壮年で他郷に住み
困難な詩作を仕事にしてゐる
私の耳にはあの泉の声が二六時中(しょっちゅう)『滾々』と響いてゐる
私の吃り勝ちな言葉の泉が
もしもあの泉のやうに多くの人の心を
楽しい希望で潤ほしてくれればいいのだが──
象の記憶 (昭和16年7月 日本の風俗 7月号 )
その動物園へ行く途中には
双思樹の並木が連り
紫色のひるがほが咲いてゐた
私はそこへ台湾コブラや百歩蛇(ひゃっぽだ)や
伽陵頻伽(かりょうびんが)を見に行つたのだが
象の柵のまへを通るとき
弟や妹を掴まへて説明してゐる少女の声を聞いた
それに誘はれて見た象の
いかに見窄(みすぼ)らしく、その皮膚の
いかにカサカサとして鉛色だつたか
いまでも象と聞くと思ひ出す
わが頭脳の余計なる負担。
一八五六年 露軍がジュレクを取りしとき
コーカンド※の将バチル・ベク傷く
そのとき人々 医師(くすし)を索(もと)め
われアスドゥラーを求め得たり
軍の大将カーナヤト・シャー厳命すらく
『十二日がうちに癒すべし さなくば汝が首を斬らん
さてもし癒さば汗(カーン)のもとに ともなひゆきて侍医となさん」
われアスドゥラー 身戦(おのの)きて能はざれば
齋戒し神(アラー)に祈りしのち バチルが傷を診にゆきしに
げに重し 銃丸は口を貫きて耳より抜けて出でしかば
歯はすべて落ち 飲み食ひ物いふ能はざりき
さてわれ熱湯もてバチルの身を洗ひ
薬草と油を和して膏薬となし
また管をもて養ひを送る
かくてあること四日 患者はじめて唇(くち)うごかしていふ
「医師(くすし) 医師 なれこそわが再生の恩人
神(アラー)は頌(ほ)むべきかな 神のほかに神はなし』
八日となりていよよ快ければ
人々われに多くの黄金(くがね)与へ
タシュケントにゆきて待つべしといふ
さて十五日目にはかしこにて
われ駿馬(すんめ)と従者(ずさ)と汗(カーン)よりの招待状を受取りぬ
※中央アジアにありし回教国
※蒙古人、土耳古人が皇帝もしくは王を指していふ称号
五月の公園で (昭和16年5月 三田新聞 5月15日) 1 2
それがいつものことなのだが
空があまりに青すぎて
さうして退屈さがまたひどかつたので
こそ五月の公園に来てみたのだ
人気の少い場所をさがし
冷い土を選んで坐るのは何の心か
わが愛する植込の空より青い一叢は
愛蘭(アイルランド)の野辺に咲く矢車草
ああその白粉刷毛に似た種子を
持ち帰つたひとたちはいまいづこ
いましがた木の間がくれに
歓声をあげたのはその孫たちか
人間の歴史 花の歴史
それが少しは退屈をまぎらせるとも思ふのだが
人気の少い場所をさがし
冷い土を選んで坐るのは何の心か
死ぬ前に子供は
熱に浮かされて云つた
『オ父チヤン ソト
風ガ吹イテルネ』
それを聞いた哀れな父は
爾来風の夜ごとに寐られない
そとは春になり毎日毎日風が吹く
その風毎に色んな花が咲き出しては散つてゆく
よく子供がその下で遊んだ大木蓮の花が
咲いた夜 哀れな父ははつきりと聞く
『オ父チヤン ソト・・・」
とび起きて雨戸を繰ると
あるかないかの風に
今大木蓮の花がほたりと落ちるところだつた。
この数世紀間
亜細亜は累々たる墓石の堆重ねだつた
ヒマラヤ杉や枝垂柳や檉柳(タマリスク)の蔭に
墓碑銘だけは立汲な墓石が転がり
弔ふひともないくせに
至るところから啜泣(すすりなき)の声が聞えた
青ざめた薄明りだけがあつて昼がなかつた
いま茜刺(あかねさ)す太陽が登りつつある
死人を食つてゐた蛆虫たちは影を潜め
墓石の蔭から澤山の稚児の群が躍り出て
歓声をあげて太陽を迎へてゐる
陰鬱な植物のかはりに
色とりどりの花が咲き出さうとしてゐる
墓碑銘の代りには五彩の旗が朝風にはためく
待ち焦れられてゐた自己を意識して
太陽はすべてににこやかに会釈する
自ら発光する大いなる塊よ
遍照光は大いなるかな。
点々たる人家みな杏花を挿(かざ)し
四月の風は遼河の水を吹いて爽やかに
一群のみさごはたちまち飛びたちまち降(くだ)る
けふしもここに黄龍の大纛(みはた)翻へるは何ぞ
太宗皇帝躬(み)みづから
征戦の師の凱旋を迎へたまはんがためなり
定刻 遠征の二軍 列を正して来る
左翼の先頭は大将軍多爾袞(ドルグン) つづくは皇子豪格(ホーゲ)
右翼の先頭は──こはそもいかに
去年(こぞ)の八月末つ方 威風凛々として
出でたちし副将軍岳託(ヨト)の姿なし
怪しみ訝る人々の前に
右翼の副将軍杜度(ドド)進み奏すらく
『われら去んぬる秋 み前を立ちしより
嶮(さか)しき長城を越え 敵の首都を過(よぎ)つて
敵の城を陥(おと)し降すこと二十一城
遠く山東の済南に至り 敵の親王由枢を
生擒(いけどり)せしをはじめに 俘(とら)へし男女二十万四千人
そはみな随へて軍の背後にあれど
大将軍は野営の夜の風寒によつて
陣中に薨じ けふの日に会はざりし口惜しさよ
死のまぎはまで我国の将来はその念頭より去らざりき』
奏聞 天聴に入るや皇帝馬を下り
地に伏して哭(な)きて詔(みことの)らせたまはく
『可惜(あたら)をのこ、可惜ますらを』と
この時しりへにありし岳託の父 礼親王は
地にたふれその白頭を起しもやらず
三軍の師 ために声を挙げて泣きぬ。
空気は重く澱んでゐて
本堂の大屋根から鐘楼の屋根まで
大きい星が鎖のやうに懸つてゐる
いましがた着いたらしい下り便の船の
船客たちのぞよめきが海の方で聞え
さうしてそれが止んだあとは囁き声一つしない
大蘇鉄の葉がちよつと揺ぐと見えたのは
そこにとまつてゐる蝶が何かに驚いて舞ひ出たのだが
それもほかの葉でまた眠つてしまつた
見上げるやうな高い石段の上に
常盤木にとりかこまれて
ひともとの桜が咲き満ちてゐた
そこから笙や笛の音がひびいてゐた
わたしは見上げたまま帰路を辿つた
しかしその音は家でも耳の中で響き
さうして披(ひろ)げた旅嚢からは
桜の花びらが一枚 掌(て)の中へ落ちて来た
岬 (昭和16年3月 日本の風俗 3月号 )
棕櫚や蘇鉄が自生してゐる村
漁網を繕ふのに忙しがつてゐる村
その村を過ぎて岬角を曲ると
碧い海がひらけ軍艦が見えた。
われらはべーリング海峡に堰堤を築くだらう
カムチャツカの花を食卓に飾り
カスピ海の鱒魚鮞(カヴイア)を食ひイスパハンの葡萄酒を大いに飲むだらう
われらは阿爾泰(アルタイ)山脈から金を採り、崑崙の玉を採るだらう
モスルの油田、コーカサスの油田、ボルネオの油田は
われらのためにその貴重な水を噴くだらう
われらはクラの地峡に運河を開鑿し
ゴビの沙漠に白楊を植ゑるだらう
われらはアジアから黄熱病と黒死病(ペスト)と虎列刺(コレラ)とを撲滅するだらう
波斯(ペルシャ)婦人から面帕(チャドル)をとり去り
蒙古人から蜘嚇教をとり去るだらう
(印度人から大英帝国の首枷が除かれるのはそのずつと前であらう)
われらは成功する われらは享受する
もしもわれらすべてが子供の夢を大人の意志と知慧とで遂行してゆくなら
そしてこれを夢想と嗤つた者どもの墓に
われらは尿(いばり)を注ぎかけるだらう
春いと早く咲き出(で)しは
我が庭つ辺のプリムウラ※ ※桜草
夜鶯(ナハテイガル)らがひるのやど
槲(かし)の林をめぐる水
水のほとりに咲きにけん
花こそこれが祖母(おおはは)か
春のはじめのいとよき日
誰(たれ)が上衣に挿(さ)さんとて
日耳曼(ゼルマン)少女(おとめ)の摘みにけん
いまわが庭の風情なき
籬(まがき)のかたに植ゑられて
あるじつれなく忘れしを
咲き出でたりな いと早く。
わが小夜曲(セレナーデ) (昭和16年1月 文藝世紀 1月号 ) 1 2
たそがれ毎に愁しみて
うたつくりしはむかしなれ
いまたそがれは吾子ふたり
家ゆるぐがにうちさわぎ
詩(うた)かくわれを妨げて
『小悪魔!』とわががなる時刻(とき)。
三方を竹林が取巻いて
一條の小径が僅かに通つてゐる館があり
いつもそこから琴の音を聞いたが
今宵あかりが煌々として
人馬の往来のはげしいのは何事か
『館のあるじの大き博士
国危きを見棄てじと
丞相の官に任(ま)けられて
出で立たせたまふ酒(さか)ほがひ
酒は祝ひの酒ならで
国に死なんの輩(ともがら)を
あつめて交す誓ひ酒。』
それなら今弾く琴が出立の曲か
それにしてもその音が愴(いた)ましく
おれの胸に響いてやまぬのは何故だらう
鳥たちが竹林から不吉に啼きかはすのは何故だらう
読書人 (昭和15年12月 四季 52号 )
びとはみな城外の祭に行つてしまつた
街には一匹の犬もうろついてゐない
ひねくれ者のおれはそこで閉ぢこもり
読書してゐたがその窓にもすでに西日が射しはじめた
さてその光線の下で見ると本は手垢だらけだし
机には薄く砂埃が溜つてゐる
ああいま窓の外を楽しげにざわめきながら
ひとびとが婦つて来るのが聞えるが
おれの日はこれで暮れちまつた
昭和十二年七月七日
『撃て』と一つの声が号令し
その時日本の歴史は転換した
その時以来日の丸は前進し
北はオルドスの沙漠を渉(わた)り
南はソンコイ河の平原に進んだ
この壮大の日を忘れてはならぬ
けふ友達から届いた便りも
長江を下り東支那海を運ばれて
大陸の雁のことを伝へるために来た
それが地平から地平まで連つて
啼きながら空を飛び渡るのを
感傷なくして眺めてゐると
この壮大の日を忘れてはならぬ
『工場で歯車が廻り ベルトが廻り
胡椒や棗椰子や赤貝印石油缶が世界中を駈け廻る
この日々をコスモスの花咲き乱れ
太陽は金の光線を滴らすのが
おれには実にふしぎに思はれてならない。』
『君の眼をもう一回転させて見ろ
コスモスは小宇宙だといふことがわかる
(そして世の中にはふしぎはない)
太陽は──君の上を既に
空しく一万と三百六十余回廻つた!
さあその曲つた背中をしやんと伸して
ベルトの廻る方角へ一歩でも歩むがいい。』
冬が来た 冬が来た
山々は雪化粧をした 風は寒い
ねえ あの尾根でこの夏見た
雷鳥の雛は凍えてゐないだらうか
冬が来た 冬が来た
道ばたの草はみな枯れた そして
蚕は蚕種(さんしゅ)になつた 夏この辺を
飛び廻つてゐた美しい蝶はみな死んだ
子供等よ嘆くな 良い季節は
もともと話しながら待つものだ
蝶も蚕も来年また生れて来る
雪や風は炉辺の物語で消せる
さあ 谷に雪の来ぬうちに
おまへは薪を運べ おまへは柴を刈れ
Mortality (昭和15年10月 コギト 100号 ) 1 2 3 4 5 6 7 8
1
空は高くて輝いて
田には垂穂(たるほ)の波が打つ
愚にもつかないことながら
垂穂のために胸痛む
空は永劫 垂穂には
まもなく鎌が働いて
彼等を刈つて刈り蓋す
──空は高くてまだ輝く
2
目のさめるやうに美しい少女を見た
小高い土地の松に倚つてゐて
その背後には油絵風の遠景がはてしなく続き
少女の髪には微風が吹いてゐた
この少女のためにおれはかなしむ
まもなくその面は黄ばみ皺ばみ
油絵風の遠景には夜が来るだらう
大風が松を揺がすだらう
そして小高い土地はわが想ひの墓となる
3
おまへは何を呟くか 愚かな詩人
おまへの想ひは少女より儚い
おれがこの小径をもう一人の少女をゆかせ
(美しい少女は無数にある)
もしくは草花か小犬を見せれば
おまへの考へは変つてしまひ
少女は墓もなくておまへの中で死ぬ
松の木には永いあひだ風が吹く
4
風は地球中を吹きめぐる
きのふおれを吹いた風がけふはアレウト列島※を吹く ※アリューシャン列島
海驢(あしか)や海豹(あざらし)の背を吹く
しかしおれはアレウト列島を見ないで死ぬ
海驢や海豹は動物園で
人工の島に倚つてゐるのを見たばかりだ
そのまはりには臭い水が波打つてた
かれらが切なげに啼くときに
5
おれの中でも切なげに啼くものがある
海驢や海豹が啼くときに
それは多くの死人と死の声だが
おれはその啼き声に耳をかさない
おれは一皿何銭の餌を買つて
海驢や海豹に与へてゐる
それが真実興ある遊びと思つたことを
夜になつて寝床では後悔するが
6
どうして夜はかう考へさせるのだ
虫の音が家中をめぐるのだ
花が昼より一層ひどくかほるのだ
昼の光で誇らしげに見えたものが
夜はかう何もかも暗いのだ
おれの肝臓は痛み 張り裂けさうだ
昼は肝臓のありかなど考へたらうか
7
おまへは水で以て作られた
それに脂肪と含水炭素と少量の
燐や加里や石灰や鉄がまじつてゐるのだ
それをおまへが大地から借りたからには
やがて大地に返さねばならないのだ
返還期日は近い 督促人が
おまへの近くへ来てゐるのだ
おまへには足音が聞えないのか
8
おれはその督促者を見たことがある
親しい友だちの枕許にゐたのを
反対側の枕もとでおれは見たのだ
友だちの眼はうつろで吐く息は苦しかつた
その眼がかつては最も聰明な眼だつた
正義と不正とを一瞥で識別(みわ)けた
その口が軽快な酒落と親切な慰めをいつた
しかしかつて知慧のありかを示したその額は
いまはもう骨を覆ふ皮にすぎなくて
そこに冷い膏汗がじつとり滲み出てゐた
それを彼はしづかに眺めてゐた
9
彼をおれはもう怖れてゐない
かれの来る日はおれの仕事の終つた時だ
かれの来る処は肉親たちのとり囲む枕辺か
それともランボオが云つたやうに
海の上かを決定する権利がおれの手に
確(かた)く留保されてゐるのをおれは信ずる
おれはもうかれをおれについては恐れない
ただ妻と子にかれの来る日を怖れるのだ
それがおれの日より遅いやうに願ふのだ
10
秋晴れがまだ二三日残つてゐる
その間におれの収穫(とりいれ)を急ぐことにしよう
外交や愚な世事に妨げられず
この数日をおれは刈り尽す
おれの鎌が刈り得る限りを刈り尽す
そしてそれを子孫の倉に蔵(い)れる
長い冬の劫は尽きた 待ち望んでゐた春が来た
(とはまた陳腐な言草ながら)
蔓薔薇はたわわに咲き乱れ
接骨木(にわとこ)の葉は瑞々しく青い
しかし池に白い雲が影を映すとき
それに驚いて真鯉たちは逃げまどふ
そのやうにおれの心も時しれず戦(おのの)く
そして涙はひつきりなしに滴り墜ちてゐる
おお、これが春だ 待ち望んでゐた春だ
しかし何かが足りない それがおれに悲しい
この悲しみのために待ち望んでゐたわが心よ
泣くために瞠いてゐたわが眼(まなこ)よ 蹉舵(あしずり)し爪立ちしてゐたわが足よ
──お前たちを慰めるのにおれはもう飽いちまつた!
ブラウンシュヴァイヒ・ヴォルフェンビュッテル公国の世子殿下師傅(しふ)ドクトル・Sは
ふと春の午後の仮睡から覚めて仰天した。御歳五才の世子殿下がロココ風の卓の
上の玻璃瓶から支那伝来の金魚を掴み出して床の上に撒き散してをられたのである。
ドクトルは気を鎮めるとともに徐ろに片眼鏡(モノケル)をとりあげ、咳一咳してかう申し上げた。
『獅子の如く勇しとの御名をお持ち遊ばされた御先租様の血は争へぬとは申しながら、
かやうな魚めあてに勇気はお奮ひ遊ばさるるものではム(ござ)いませぬ。魚どもは
断末魔の喘ぎをしてをります。御仁慈をもちましてかやうな御遊びはお取り止めが然るべきかと愚考仕ります』
そのとき世子殿下は肩をすくめ俯向かれたが、Pfui(プフイ)と聞えた微かな声音は殿下
の御舌打だつたか、また魚たちの喘ぎだつたか、ドクトルは確めも得せず、また眼蓋を閉ぢた。
公宮の昼下り、大芝生には陽炎もえ、遠く糸杉の叢林も若芽が燃え立つほどの鮮かな青さである。
田中克己の詩集『大陸遠望』以後昭和十七年一月二十日に到る間の作品を集め、『神軍』と題して上梓されるにつき、ここにその後記を代つて誌すのは、君は今、詩人としての任をうけ、
その神軍に従つて海の外遠くにあるからである。彼は東洋歴史の学問を専攻し、近くは北アジアに関する研究所の枢要の任に当つてゐたが、皇軍が南方を指し、
彼は詩人として公の命を受けた。由来東洋古代の文学においては、陣中の作に干古の詩風を象った佳作が多い。彼は東洋の詩韻に通じる文人として、
又アジアに残る多くの土語を解する詩家として、今やわが新文壇の唯一人である。
彼は学究にして、さらに詩人であつた。我々は少年十九歳の日に、初めて会うて以来交友既に十数年をへたが、共に文藝の道を等しくし、彼は一言も云はない時にさへ、
つねに我々に対して、詩と美の暗示を与へたごとき詩人であつた。その優雅の国風の中に、熾烈切実の正義感を蔵し、果敢にしてしかも可憐、或ひはその批評の厳しい根柢には、
つねに愛情を秘める。近来は多くアジアの古の饗宴を描いて、その哀愁を今の人に教へ示した。己を律することなくして趣昧の間に自在に往き、歌つて理をいはず、
斬新を賦してつねに古典の風格を踏みはづさない。
『神軍』は大東亜戦争を熱祷した新時代の詩集である。けふの若者の歌つたこの大なる日の、最高唯一の詩集であることは今の人の多くも認め、後世の感謝するところとなるであらう。
彼が初めて新詩を歌つた日、既に十年を去る昔となつたが、その新声の出現によつて、わが詩神の伝統は明らかとなり、わが国詩文藝を一変する劃紀をなしたことは、
文藝の史論家の深く信ずるところである。
二十歳の歌心において、詩を思ひつつアジアの歴史を学ばうとした彼の志は、昭和七年以降日本文壇に一大転換を与へる若者の新声の高く美しく激しい第一声であつた。
彼は既往十数年の詩人的全生涯をかけて、民族の今日の世界構想を歌ふために、わが時代に出た最も早い先駆の詩人であつた。その第三の詩集を『神軍』と題して、
今日の我々に与へたことは、さもあるべきことであり、かくもあらねばならのことである。『神軍』は昨日や今日に描かれた戦争の詩集ではない。
彼においては過去の詩人的全生涯から集約帰結した作品である。
彼の詩風はその出現において、すでに具眼者によつては、時代を劃する新時代の始動と評されたが、今や『神軍』は胎動してゐたものを一段と明かにしたのである。
我々の文藝と詩人の思想は、時代に対する変革的なものであつた。伝統に立たない変革は、我々の歴史の中にないのである。さういふ我々の時代の若者の思想を、昭和七年以降、
詩入の声として、詩人の詩そのものとして歌ひ示してきたのが、田中克己である。
詩集『神軍』の編輯については、大略本年一月以前に田中の集めたものであるが、加へるべきものにおいては、肥下恒夫と小生との責任においてした。かって新しい文藝の道を歌ひあげ、
時代を先駆した田中克己の詩が、この『神軍』においてさらに次に来る時代の若者の歌として歌はれることを、小生は信じ又望むのである。
昭和十七年三月二十一日
保田與重郎
奥付
コギト掲載の広告
コメント:
日本出版文化協会の推薦の辞を刷り込んだ「帯」が、初版本にはついてゐない(8/10に推薦を受けて10日後の8/20に第二刷発行)。
刊行日時はわずかに三ヶ月の違ひしかないが、初刷(1000部)と較べると二刷(5000部)は紙が若干粗悪。
また函も、初版の背にはタイトル印刷が無いのに二刷にはある。価格は変わらないものの検印紙のデザインにも異同がある。
【参考】
送別 伊東静雄
君が「神軍」と題する詩をよめば
神人が虚空にひかり
見しといふ
みんなみのいくさ
君もみにゆく
みそらに銀河懸くるごとく
春つぐるたのしき泉のこゑのごと
うつくしきうた 残しつつ
南をさしてゆきにけるかな
(昭和17年3月コギト初出)