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田中克己日記 1958
【昭和33年】
学者として身を立つる志の止みがたく、まづは上京するだけはした詩人でしたが、たった一年で本務校である東洋大学から御役御免を言ひ渡されてしまひます。糊口を凌ぐべく在京4大学(防衛大、成城大、立教大、聖心女子大)の非常勤講師を続けながら、どこか常勤として迎へ入れてくれる大学はないかと、コネを拡げながら打診をつづけます。
その結果、やうやく年末になって転機が訪れ、定年まで勤めあげることとなる成城大学に専任教授として迎へ入れられることになるのですが、これまでも家族のことなど顧みず、自発的に引っ越しと職探しを(この順番大切(笑))繰り返してきた詩人のことです。田中家の家計安定は結果論であって、勤めあげた教員人生を後から振り返ってみて、さう思ふにすぎません。
当時の成城大学には、蓮田善明以下四人の国文学者が戦前に興した雑誌『文芸文化』の同人のうち、栗山理一、池田勉の二名が奉職してをり、また高校部には戦歿詩人山川弘至の未亡人である山川京子も教鞭を執ってゐました。みな日本浪曼派グループの近傍にあったひとたちであり、環境として申し分なく、このたびも栗山理一氏が文学部長だったおかげで採用に与ったやうです(池田勉氏は図書館長)。日記には後年その経緯の個所に赤鉛筆が引かれてゐます。
しかしながらこの年の春の時点では、全く途方に暮れてゐた詩人でした。東洋大学のリストラ禍に遭った10名の教授陣のうち、中心人物として訴訟を起こすまでに至る文学部長の齋藤晌は、田中克己にとって大坂から東京に自分を呼んでくれた恩人です。善後策を議す際には率先して走り、齋藤の自伝的新刊『死ぬる前に』が出れば自腹で何冊も買っては友人に配り、朝日新聞学芸部次長だった安西均に書評を頼んだりしてゐます。
また恩師の白鳥清が奉職する立教大学では、博士の子息郁郎氏の遺稿詩集『しりうす』の出版記念会の御膳立てを頼まれ、故人の同期生を探したり会場を押さへたりと、あれこれ世話を焼いてゐます。もちろん常勤への布石とならんかの思ひもあったでしょうが、学恩に対するこの詩人らしい律義な一面を見る思ひがします。
律義といへば、戦時中の南方徴用中に恩誼を(おそらく一方的に)感じてゐた“小畑信良閣下”への表敬訪問、そして『李太白』を読んで感心したといふ、未知の読者(横山雄偉)からのファンレターの文面に感じ入り、日記に写しとったものの、それが元玄洋社の老志士と知っては吃驚してゐます。
いったいに上からは都合よく使はれるものの、報われることは少ない。コネクション作りに余念のないさまは、(一昔前の日本では普通でしたが)、会ふ人ごとに出身と学校を訊ねてゐることにも表れてゐます。
一方、後進や教へ子など、関西にのこしてきた支援者からは相変らず慕はれ続けてをり、手紙や贈物が尽きません。
井上多喜三郎をはじめとする畿内詩人の仲間たちは、詩を捨てて東京に去った盟友に対していつまでも温かいですし、歌誌『薔薇』の村上新太郎は、擱筆宣言した詩人に対しても、なほ詩作の慫慂をし続ける奇特ぶり。岩崎昭弥は岐阜に移ってから政治力さへ具へ、詩人をサポートする気まんまんで、事あるごとに詩人を気にかけてくれてゐます。
このやうな、自分を評価してくれる在阪時代からの温かい支援者たちには、気安さも手伝ってか、総じて無頓着にあしらってゐるやうにもみえる詩人ですが、本務校を失ったこの年は下阪することも叶はず、たびたび大阪や天理の夢を見てをり、やはり旧歓の念は抑へがたかったやうです。教へ子たちが上京してくれば喜んで会ってをり、演劇志望者の娘には、引き合はせた義弟西島大(青年座脚本家)から見放されようと、親身に相談に乗り続けてゐます。フットワークが軽く面倒見もよかった田中克己は、お点の辛い先生であったものの、女子学生には評判が極めてよかったやうです。
東京における交遊関係は、さうして各勤務先の大学や東洋文庫、母校東大の研究室を中心に拡がってゆくのですが、なかで御近所のよしみを以て往来が繁くなったのは、東洋大学の講師をしてゐた赤羽中学校校長の畑山博氏で、度々日記に出てきます。「畑山浩」といふペンネームで『歴程』同人でもありましたが(※宮沢賢治研究者とは別人)、田中克己とは詩を語り合ふ純粋な文学的な関係といふより、教員でありながら詩人であるといふ、一種同類の安心感をもって下世話な話が出来る付合ひであったやうです。家計を助けるための家庭教師の口も、彼の口利きで得てゐます。
文学関係の交遊といふことで云ふなら、文壇にデビューする前の萩原葉子が訪ねてきたり、2月5日の記述
「浅野晃氏より「手紙見た。8日の日本歌人の会にて会ふ」と!芳賀氏との面接をいかにせんと困る(中略)芳賀氏へ日本歌人の会に浅野晃氏も出席の旨伝ふ!」
の条りなんかは、ちょっと気になるところです。芳賀檀と田中克己との関係は依然良好で、東洋大学のなかで絶交に至ったのではなかったことが分かったのですが、芳賀氏と浅野晃氏と間はうまくいってなかったのでしょうか。なにか鉢合せにならぬか心配してゐるやうにも見える文面です。
ともあれ成城大、防衛大、聖心女子、立教大(採用されるも受講者なし)と掛け持ち授業をしながら、さらに帰宅後は近所に家庭教師に出向いてまでして糊口を凌がねばならぬ始末。悠紀子夫人もパート仕事で協力するものの、古本はもとより交遊に係る出費も外面が良ければ減ることがありません。コネクションは、拡がればそれに伴ひお金も出てゆくのが道理で、大阪高校時代の同窓との飲み会でも、暗黙の了解で支払はひとり免ぜられるやうな有様。プライドの高い詩人のことだけに、一家の当主としてさぞかし気に病んでゐた様子を、この年就職して家にお金を入れるやうになった長女の依子さんからお聞きしました。さうしてこれがやがて夫婦間の「不満のエネルギー」としても鬱積していった模様であります。
先ほど面倒見がよく女性たちの評判がよかったと書きましたが、私生活面においてこの年、これまでのプライベートな交際に対する清算が行はれてをります。保田與重郎氏の恋愛騒動を嗤ひ、また不倫の不始末をどうすべきか悩む卒業生の相談にものってゐる詩人ですが、『ハイネ恋愛詩集』の訳者にして色恋沙汰が他人ごとである筈がありません。すなはち年末になって恐れてゐた事態が、つまり永らく家族ぐるみで交際してゐた八木さんとの関係について、夫人の怒りが爆発したのでした。
この年は下阪してゐませんし、日記を見る限りきっかけも分からないのですが、依子さんの記憶にある修羅場といふのは、この時のことではなかったでしょうか。私はいつも温和で情緒の安定してゐる悠紀子夫人しか見たことがありません。以降の日記の解析には女性陣への同情バイアスが掛かってゐることを予め御承知おき下さい。よほど腹に据ゑかねられたのに違ひありません。
ただ幸ひなことに、恋情が見境なく燃え上がるロマンチックな時期といふのはとうに過ぎ去ってゐました。日記から窺はれるのは、どちらかといへば思ひ出は思ひ出として、今は詩人も彼女が職業婦人として自立しようとする行く末について、心を砕いてゐる様子です。
急遽彼女を関西から呼び出し、自宅に邀へた悠紀子夫人にせよ、一旦は嫉妬に逆上したものの、当事者の夫を抜きにして、夜を徹して二人で語り明かしたその内容とは言へば、おそらく田中克己といふロマンティーク「詩人」を愛してしまった不運と、嘆くべき現状、そしてこれからの不安を語り合ったのではなかったでしょうか。私にはさう思はれるのです。
知らない仲でもない、どころか、もっとも家計が苦しかった天理時代には、田中家は富貴な八木家の世話に度々なってゐます。娘たちの為にも何くれとなく世話を焼いてくれ、昭和24年、あとさき考へず天理図書館を辞めてしまった詩人が精神的危機に陥った際には、彼女が絶望をともに悩んでくれました。謂はば十年にわたった在阪時代を通じ、八木さんは生活上での恩人と呼んで差し支へない、詩人一家にとって一番気の置けない人であったのです。
結局彼女が結婚しなかった(しようとしなかった)のも、わが貧乏亭主にずるずる引かされた挙句のことであったかと夫人が理解してみれば、彼女も私と同じまことに被害者、といふ気持に落ちつかれたのかもしれません。八木家が身近にあった在阪時代に問題視されなかったことが、考へてみれば不思議な気もしますが、修羅場から逃げ出し、ひとり外泊して帰ってきた翌朝、詩人は日記に、
「八木さん送りにゆき、帰れば悠紀子泣きてあやまる。哀れなり。」
なんて記してゐます。でも悠紀子夫人があふれさせた涙って、旦那に勘違ひを謝った涙だったんでしょうか。当事者の記した言葉から真反対の事情が窺はれるのもどうしたことかと思ったことです(笑)。
俗に「雨降って地固まる」とは申しますが、この後、夫婦の危機は辛うじて回避され、冒頭に述べた成城大学専任の話も決定します。実際の順序からいへば「地が固まる然るべき時に雨も降った」のだ、と云へますが、とまれ事情はこの年末を境に徐々にですが好転してゆくのです。
悠紀子夫人が云ひ放ったといふ「(子供たちが育つまで)十年待ってくれれば(こんな亭主は)くれてやる」とは、なかなかの殺し文句であります。「男はもうあなたでこりごり」とも仰言ってをり、御両人の晩年のお姿しか存じ上げない私としては、とにかくビックリすることが書いてあった日記ですが、新年を最悪の感情を引きずったまま迎へることが避けられたのは、何よりのことでありました。
上野から北に向かって東西を分けて走ってゐる“道灌山台地”。そのはづれの高台に位置してゐたのが王子の岸町アパートであり、転居先住所のゴム印まで用意した下町北千住への転居計画は取りやめとなってゐます。翌くる一年間も公団住宅の抽籤ははずれ続け、その末に田中家は中央線沿線吉祥寺の住人となるのですが、田中家が王子にあった三年あまりの期間といふのは、詩人の後半生が晩年へと落ちついてゆく過程での、象徴的な分水嶺にあった時期だったかもしれません。
昭和33年1月1日〜昭和33年8月29日 「東京日記 3」 本冊画像PDF
25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き
1月1日
晴、暖し。依子、9:30の「なにわ号」にて大阪へゆきし由。座席なかりしと、送りゆきし悠紀子の話也。
11:00賀状268枚。親戚知友58枚。返事のいるもの同92枚。帝塚山関係118枚。他に原田裕代の年賀電報。
平野静雄氏夫妻(※アパート階上住人)15:30手拭もちて挨拶に来る。われ賀状55枚かきて頭痛す。
1月2日
晴。京をつれて悠紀子、阿佐谷(※実家)へ出てゆく。弓子発熱39.5℃、流感らし。史をして大(※西島大、弟)に電話かけさすれば「仕事にて忙し。明日来よ」と云ひしと。
賀状、知友11枚、帝塚山17枚。返事いらざるもの3枚。返事85枚ほど書く。
夕方、中華そば食ひにゆきし留守に、西川英夫君chocolateもちて年始に来る。
悠紀子20:30帰宅、阿佐谷のきちがひ部落の話(※同名映画「気違い部落」を踏まへ、実家のある町の閉鎖性について)長々とす。
けふ『果樹園24』『日本歌人1月号』来る。ともにわが稿をのす。「Gûlumalûn(※紀要原稿「通訳グルマフンについて」)」書けず。
1月3日
11:30入浴。賀状・返事11枚。帝塚山短大4枚(齋藤堅太郎先生、市教員委員となりしと)。親戚知友5枚(今井三郎叔父よりあり)。
中野清見より「令息帰省した」と。史、大を訪ねしに留守なりしと。賀状帝塚山文2の13枚をのこす。
青木(※妹)夫妻来らず。悠紀子出勤はじむ。われ炊事にあたりPLの祝ひ米を入れて炊ぐ。
1月4日
賀状みなすませ、畑山博氏(※東洋大学講師、『歴程』同人「畑山浩」)に電話してゆくと云ひ、背広着てゆき酒のまさる。帰り菓子一折たまはる。
12:30帰れば賀状の返事来をり、他に(※上京時の郵便預け場所)西川より転送の瀧井美智子、西野平造、上田阿津子、広沢雄一郎。
植村清二先生より『神武天皇』。(われ古本の初買ひに長沖一『やんちゃ娘(30)』)。
けふ土曜とのこと忘れ、郵便局より金出せず。夕食のおかず京と買ひにゆく。寒し。
1月5日(日)
依子7:00すぎ帰宅。けふは暖し。増田春恵より「帰省して教員の試験受ける。ザボン送る」と。賀状の返事7枚、他に6枚。八木嬢に「card賜へ」と手紙書き、15:00入浴。17:00、4児と夕食すれば悠紀子帰り来る。
19:00京、太田dr.に風呂もらひにゆき、史も(※京都下総町の祖父宅へ)出発す。
1月6日
教へ子よりの賀状9枚。他に返事5枚。千川稚泉より『俳句作家』。
11:00悠紀子、西島寿一へ年始にゆく。午后、服部紗智子氏より賀状、久美子より返事。千草(※妹)夫妻来り、そば食はす。千草、悠紀子と同じせりふ(※家計について?)云ひしに陽生気の毒なりし。
沢田四郎作先生より『近畿民俗』21、22号賜はる。けふ社会思想研究会八坂氏に電話して「あす15:00ゆく」と云ふ。
悠紀子22:00帰り来り、「寿一宅に居すわり寿一夫婦のそろふまで待ちし。家内汚かりし」と。
1月7日
沢田四郎作博士に礼状。白鳥清先生奥様より「郁郎君の詩集(※『しりうす』)すでに出来上り売出されてゐる」と。山本八郎夫人幹子氏より賀状の返事。増田春恵、熊本県八代郡鏡町のZabãs(※ザボン)1箱送り来る。酸けれどありがたし。
13:00出て東京ライフ社へゆき、相談せしも返答なし。出て大安へゆき、王鍾翰『清史雑考(220)』、『常用字江(85)』買ひ(それまでに古本屋にて大川白雨『森鴎外(10)』、野口『蕃地飛行(10)』、浜田隼雄『南方移民村(10)』、茅原廉太郎『日本人民の誕生(10)』、矢野仁一『近代支那の政治と文化(100)』買ふ)。
懐中15円となり、筑摩書房にゆき東博氏に会ひ、『白楽天』の相談す。『太陽』廃刊と。12日(日)13:00の東京日本歌人会に出るといひ、社会思想研究会おそはり八坂安守草間営業部長に会ひ、知己を謝し、まあことはりすむ。
湯島聖堂内の文物流通会とかに寄りて名簿の訂正たのみ、都電にて帰宅。
依子、弓子ともにねをり、悠紀子帰宅の後、医師につれゆかしむれば消化器不良と。増田春恵へ礼状。
1月8日
朝、速達にて史より賀状転送48枚。中に学院11枚(三毛和子とは。旧姓わからず)。38枚返事かきて疲る。『果樹園』の新年宴会のよせ書。大東幸子夫人と小高根二郎、山根忠雄、福地邦樹、堀内歴、石浜恒夫の6氏。
夕方、われ買物にゆく。けふ暖し。小松保博より賀状。八木嬢より「原稿かきゐる」と。
1月9日
防衛大学へと8:40の特急おくれて出、心配せしもbusにまにあふ。3月の気候とてstove入らず。
昼食後、図書館へゆけば「麓保孝館長、青森へ出張」と。
(※授業)すませて直行して帰宅すれば、村田幸三郎、先刻来りしと。まつ中、夫人、江商の親友、坊やと現はれ、持参のbeerのむ。「伊藤忠より1,300万円入り、年越せし」と。奥戸の斡旋ありしらしきも酔ってわからず。同行の人、山崎忠の死にぎはを知りをる様子。
坂根千鶴子来りしを待たし、やがて出てゆきしあと会へば、土産に岩おこしと渡辺三七子よりことづかりの靴下と渡さる。山本陽子、胸をわるくしゐるらし。
杉山平一氏の返事。南村和子夫人より「年内24通出し、夫君より20通来し」と。
弓子、浦畑生よりの連絡ありしと。
1月10日
朝、西野平造より速達「村田越年出来る見通しで帰阪、12日上京」と。
14:00すぎまで弓子ら帰り来るを待ちしもだめ。急ぎて東洋文庫へゆき、田川孝三氏の『瀋獄問題』を見しに「上」のみ。研究室の田川氏にきけば「下」は書きたまはざりしと。そのまま出て帰宅。Beerのみて眠りし。
1月11日
昨夜より下痢。小畑富子氏より「信良閣下、姉君死去のため不在」と。
14:00依子帰宅。渡辺三七子へ靴下の礼状かき投函せしのち散髪。すみて依子より100円借りて家を出、新宿より経堂下車。
小高根太郎訪ねていろいろ話す。「最中」もちゆきしとて母上挨拶に出られしも元気。
17:00出て古本屋で吉野作造『中国革命史論(20)』買ひ、17:45中河邸につきしに来客は我のみ。
やがておでん焼鳥にて酒のみ、19:00となりて芳賀檀、曾野綾子など来る。20:00となりて西垣[修]、森房子氏など来てのち辞去。三浦、公平2嬢の見送り受けし。
『文芸春秋』2月号買ひてよみもて帰宅。22:30。酔ひ発して苦し。けふ「Gûlumalûn」14枚まで清書せし。
1月12日(日)
朝食のとき電報。川久保悌郎君より「39-4747ヘ電話せよ」と。かければ「上京中にて会ひたし」と。松本善海に連絡して時間場所きめるゆゑ12:00までに電話せよと也。12:30また電話すれば「火曜17:00池袋の喫茶店で」と。
14:00出て信濃町を千駄ヶ谷とまちがへ、歩きて「Hotel松平」といふにゆく。東博氏と早川智慧(宮崎)氏の外は初対面。30人以上をり、
歌の評のあと、奈良の思ひ出話ささる。石川信夫、古川政記、森一郎、大伴道子(ここの女主人?)、荘雪子、名坂八千子などの人の顔と名とあひし。
大塚で下車。『文学界』さがせしに売切れ。王子で買ひしに「現代詩の展望」羊頭狗肉なりし。
1月13日
よべ書きし「東京通信」に書き足して8枚とし、悠紀子に速達せしむ。悠紀子けふ定休とて平林(※平林英子:小説家と同名異人)邸のクラス会にゆく。ゆきがけ、この間駒込の叔母にききしと一興叔父ならびにわが父の不品行なりしことを明らかにす。不快。
小林英俊氏より「何する気力もなく、夏ごろまでいらせそう」と。渡辺三七子より「太田部長にブローチ買ってもらった」と。
14:20東洋大学へゆき、三浦女史に『果樹園』3冊わたし、研究室へゆけば学生1人。
賀状、荒井平次郎、加賀山秀夫、天牛中谷政一氏、畑谷(上平)博子と大島廉といふがあり。
講義やめて一旦帰来。17:20また登校。宮崎幸三教授に会へば「齋藤部長に24日付解職通知ゆきし」と。夜学生6人ほど来り、18:30までやる。2月3日より試験と。すみて帰宅。疲れて眠る。
1月14日
雨。三火会より「21日(火)川島武宣氏の話を12:00〜13:30まで」と来しのみ。
12:00まで「Gûlumalûn」書きつづけ、うれしけれどくたくたとなる。京、依子帰り16:00となる。京、300貸しくれ、無軌道電車にて池袋。
約束の喫茶店へゆき、17:10となり松本来り、やがて川久保来る。茶のみて、わが話せしあと洋食くひにゆき、われ茶代だけ払ひ20:00散会。
松本、川久保ともに冬のbonus手取り6万円にて、子は中学生なり。
けふ気づけば階上の平野夫人、悪阻いちじるし。夜半「Gûlumalûn」書き了る。註ともに46枚。
1月15日(成人の日)
雨、坂根みつせ、南村和子へハガキ。「Gûlumalûn」あさまたちょっと書き直してすむ。
柏井数男より賀状! けふ賀状の抽籤あり、5等に15枚、(※名前略)の賀状なり。
16:00雨の止むを待って郵便局へ速達出しにゆき、須藤光暉『愚禿親鸞(30)』買ひ、入浴。悠紀子けふ17:00帰り来る。
1月16日
いつもの通り8:40品川発にて防衛大学へゆき講義。事務室にstove入り、中国語(新開)、国語(東)教授と話す。小泉女はいちばん役に立たずとのこと也。
15:05のbusと電車にて同車なりし教官と国鉄にて話合ひ、ドイツ語の千疋教授とてドイツ帰りなることを知る。御徒町にて下車、雲呑くひて帰宅。東洋大学紀要の校正をす。
けさ八木嬢より原稿速達にて来あり。20:00すぎ案内乞ひしは中野英夫君。「義兄田中氏の坊や、豊島附属小の入学に斡旋を」と。太田常蔵君に紹介状かく。「店儲かり50万円の負債返却せし」と。22:30まで話して去る。
1月17日
9:30印刷屋と八木氏へ速達2通。郵便貯金出さんとせしに「印鑑ちがふ」とてだめ。悠紀子に電話せしも仕方なし。八木氏へ手紙かく。岩田生より「父に勘当受けさう」と。
午后昼寐し、京、帰りしに目さませば日本紡績検査協会原氏より手紙。糸屋鎌吉氏よりラマンチャの会出席への礼状。清水文子生より「谷川生と旅行した」と。
依子帰宅。17:00出て登校。「俸給は1月より25日支払とす」との理事長告示を見て不快。
演習は辻村生1人、中国現代史は河田+小野2生「中国の学生」「私の孫文伝」のいづれかを書けとReport題を決める。
丸に電話すれば「中野剛宣君、日活に通る筈」と。
1月18日
晴。原氏に「離婚促す」と。郵便局より8,100引出す。小室氏より「22日(水)16:00来年度2部史学科の打合せに来い」と。田中雅子より「明日午后来訪」と。
産経に電話かけ、順二郎君に「明日都合わるし」との伝言たのむ。糸屋鎌吉氏へハガキ。
午后、上十条へ散歩。Wellace『馬来群島(200)』、松田『近畿キリシタン史話(60)』買ひ来る。
文雅堂より速達にて「アイタ」(※「アイタの伝記」)の再校来る。責了として送り返す。夜、銭湯へゆけば満員。
1月19日(日)
晴。家居。清水、平岡、柏原、西岡、谷川、田中文子、福井房子のGroupの新年会の寄せ書呉る。
22日(水)教授会と。
1月20日
晴、八木嬢より「原稿受取った」と。13:40出て郵便局へゆき、賀状の景品切手受取り、東洋大学。
昼の部すませ試験の報告し、大森君と話し、三浦嬢に会へば、年末調整の1,690渡さる。
学生3人と会ひcoffeeのませ中華そば食って夜学。すませて肴町より畑山博氏へ電話すれば「他出なれどすぐ帰る」と夫人の話。
家に帰りて夕食してのち電話すれば帰りしと。ゆきて『世界の酒』贈り、羊羹と毎日新聞の緒方昇氏への紹介名刺もらふ。畑山氏4月に教育会議にCeylonへゆく様子。
(けふ太田常蔵より「田中氏の2、3回の訪問受けたれど他出中にて、しかも豊島に知人なし」と)。
1月21日
晴。9:30出て田中氏に電話すれば不在。国電にて水道橋、東京ライフ社へゆき八木氏に(※齋藤晌著『死ぬる前に)』)1冊買ひ(200)、2冊新聞社へと預り、田中順二郎君に電話すれば「待つ」と。
大安に寄り、敦煌展の絵ハガキきけば「有り」と出し来る(70)。『南明史略(160)』買ひて都電にて大手町。
産経にゆき山本文雄氏に紹介たのめば、けふは休みと(校閲部)。大阪より昆布預り来てをると。
地下鉄にて西銀座。「New
Tokyo」へゆけば吾が最も早く、来りしに矢野昌彦と西寛治より話相手なく。川島武宣氏の性道徳の比較おもしろかりし。東京大高会の名簿買ひ、毎日新聞へ畑山浩氏の名刺もちて緒方昇氏に会へば出版局次長。
『悲歌』贈りて出、朝日へゆき、安西均氏に会ひ『死ぬる前に(※齋藤晌著)』(※書評掲載)たのめば「いま審査中」と(西君にもたのみしがいかがにや)。思ひ直してまたNew Tokyo Buil.にゆき「菩提樹」見る。
帰れば八木嬢よりcard1箱来をり。富士ハウスより転送の賀状、竹田誠伍、久万哲男(佐川町町会議員となりしと)、家本美枝子の3枚。(※転送が)父の字にてなきは如何にや。
1月22日
晴。午前中、東洋史談話会より「25日(土)14:00山上会議所で」と。
午后、王鍾翰氏の清太祖時代は奴隷制社会なりしとの論文よむ。
午后の便にて岩田生より「手紙見た。原氏25日(土)午后来訪」と。筑摩書房より『太陽』休刊の挨拶。
史へ「八旗満洲氏族通譜」のnote送れとハガキ。
16:00ゆけば教授会未了とて待たさる。『朝鮮史講座』1冊借り、青山君にきけば講談社にArbeitにゆきをれど、一向きかずと。
16:30より2部の会。「来年度の主任を鳥羽正雄教授に」と。渡辺君(※渡辺道夫氏)の専任講師の件は「時期を見て」と。
18:00出て一旦帰宅。夕食すましてまたゆき、渡辺君に会へば「このごろ墨田区役所にArbeitにゆく。日給320」と。あはれ。
3時間目、鈴木生1人のみゆゑ、さそひておでんやへゆき、けふにて終了とす。Reportの題目を「私の中国論」400×5とす。けふ読売夕刊に『死ぬる前に』の評のり、「事件なさすぎる」と。
1月23日
晴。防衛大学へゆく。Stove入らず。田中順二郎君の友人、岩崎二佐を教官名簿で探せしも見当らず。麓館長に会ひにゆきしも来客。
すまして千疋助教授と同車。終戦まで滞独と。いろいろ話きく。Schinziner先生、安井先生を識ると。
蒲田で下車、東京ライフ社へ電話して齋藤先生のこときけば「明日また連絡せよ」と。
中華そば食ひ東京駅にて絵ハガキ買ひて帰宅。
中野清見君より「明日9:00タカラホテル83-0101へ電話せよ」と電報。山本達郎博士より「南方史研究会に名つらねよ」と。返事29日迄にと幹事より。
緒方昇氏より『日本未来派』『花粉』『歴程』へならいつでも紹介すと。
1月24日
晴。9:00中野清見君に電話すれば「来よ」と。ゆきて杉野祐二郎君来るといふに話しつつ待ち、11:00来しとtaxiにて東大社研の藤田若雄講師を訪ね(加藤俊彦教授けふも不在)、4人にて「百万石」へゆき、とり鋤焼食はしてもらふ。藤田君大高10回文甲と。
14:00別れて一旦帰宅。あかね書房より小学生の『世界文学全集』に、わがHeineの訳のせてよきやと布施へ(※問合せあり)。
15:00東京ライフ社に電話すれば「16:00佐渡氏へ電話せよ」と。また電話すれば「齋藤晌先生他出」と。
小高根二郎君より「2月4日夕、会ひたし」と。夜学にゆき、けふにて今年終りとす。帰れば悠紀子すでに眠りをり。
1月25日
小高根二郎氏へ「2月4日の会、承知」と。緒方昇氏へ「田代、矢加部2君の消息しらしたまへ」と。
平光善久氏へハガキ。『不二』へと「千里行脚歌集をよみて」9枚。
防衛大学より1月分2,040! 日経[紙]みれば「中村地平図書館長はやめ相互銀行取締役となりし」と見ゆ。
13:30原氏に置手紙して、東大山上会議所の東洋史談話会にゆく。和田先生、桑田博士などおくれてお越し。酒井忠夫君の「郷紳と土人」なる話、くどくて非論理的なりし。永井算己、矢沢利彦などと挨拶し、青山定雄氏に防大の試験のこといひ、山本博士に「南方史研究会のこと承知」といひ、白鳥芳郎君に「郁郎君の詩集(※遺稿詩集『しりうす』)、不出来」ときき、田村博士の話きけずに16:00すぎ、小憩のまに出れば、追ひ来しは意外にも幼方直吉氏。話したげなりしも、田村博士のSoviet紀行きけとすすめて別る。
(和田先生、われを見て莞爾とされ、われも笑ひ返せし。鈴木俊氏に都合とへば「30日17:30中大後楽園校舎にて」と。)
さて帰宅して待ちしに原君来りしは18:00。現在の夫人とはつひに恩怨なしと。早く離婚せよ、そのあと我はたらかんとすすめ、beerのませる。機嫌よく去りゆきし。あと入浴。
1月26日(日)
10:00西垣脩君に電話して「2月4日の会の世話を糸屋君で」とたのむ。他に事なし。
1月27日
「なつかしい中国」9枚を朝日新聞へと書き、10:30、三菱銀行にて2,040受取り、『日本』3月号買ひ来る。
八木嬢より『死ぬる前に』受取り、よんだと。13:30出て朝日新聞へ速達し、東洋大学へゆきsalaryもらひ、三浦嬢より『ラマンチャ』2冊もらひ、大野文吉氏に南方史研究会への印もらひたのみ、昼の学生5人に演習。
すみて神田へゆき東京ライフ社で電話かけまはしてもらひしも齋藤氏つかまらず。鍛治初江君へとまた1冊送ることたのみ(200)、小山正孝君訪ぬれば会議中と。
まむしと肝吸食べ、ヒューズ『西洋文化の支那侵略史(200)』と『英国の暴政(50)』買ひて帰校。夜学教へて帰宅す。
1月28日
朝、父より速達「城平叔父を坪井明に紹介せよ」と。早速、坪井と父に速達かき、緒方昇氏に『果樹園』4冊包み、石浜先生古稀記念会へ1,000。
清水文子groupへヱハガキかく。大東塾への原稿返送、上通を上目黒と誤記のため也。『東方学15』来る、−140と? 麓保孝氏より賀状の返事。名刺あつらへしに「明日出来」と(150)。午ごろより粉雪。大東塾へ送り直す。
1月29日
晴。岩田生へ手紙。影山正治氏より『告日本国』。東洋大学教授会1日(土)15:00と。議題「学部長候補選出の件」。
13:30郵便局へ簡易保険払ひにゆき、東洋大学。南方史研究会への学長印もらひ、宮崎、千葉、小室3氏と会ふ(小室君、この間齋藤先生と会ひしと)。
別れて東大東洋史研究室。石橋助手より『世界研究』に「夜話(15〜20枚)」書けといはれ、諾して社研へゆけば、加藤俊彦君をり、堀さん(※堀辰雄)の義女、近々結婚と(24才)。
帰りみち古本屋見まはり、『アジアの目覚め(50)』買ひて帰宅。入浴。
1月30日
防衛大学へゆく途、電車おくれしもドイツ語の千疋氏と一緒ゆゑ心丈夫。馬堀海岸で保柳教務部長と落合ひ、bus呼んでもらって丁度10:20。
Stoveにあたりては講義し、帰途ロシア語の岸本氏に話しかけられる。「平田氏より10年先輩」の如く見えしらし。
水道橋の中央大学へ鈴木俊氏訪ね、18:00近く高橋君(明治学院大)と3人でtaxiにてお茶の水食堂へゆき夕食ご馳走となる。「(※中央大学)欠員あれど来年。星君呼ぶつもり」「鳥山(※鳥山喜一)・船木(※船木勝馬)2氏よりもきいたが今のところ首、安全とのこと故、居れ」と。
20:00上野駅まで同車す。安西均氏より「写真送れ」と。城平叔父より「今、速達クハシク文シタ。宜シクタノム」の電報。
田中順二郎君より「山本文雄氏に話したら一度会ってよし」と電話番号42-9637世田谷区若林町。
(けふきけば満鉄にゐし佐野利一氏、静岡の高校教頭で1月1日卒去と)。
1月31日
妻子出しあと眠りしらしく、覚めれば小島樹氏より問合せ。
村上新太郎氏より『薔薇』やっと出来た、次号にも詩たのむと(20日迄)。小室栄一氏より「村松正俊氏を推すことと決定した」と。
(小高根二郎君より速達来り、「4日夜9時まであかず、同人会とりやめられたし。まだ他には云はず」!と。すぐ西垣君に電話すれば会場きめ、まだ同人には通知しをらず。承知したと也)。
古川政記氏へ8日出席と返事。小島氏へも返事。城平叔父よりの速達来り、「12月3日より1月6日まで脳出血で倒れし。坪井へたのむは平鋼治(城東区白山町)にて追手門中学部」と。坪井と城平叔父へ速達出す。
RadioできけばSchubertの161回誕生日と。悠紀子帰宅。飯くはずに先に風呂にゆく。
2月1日
このごろ太宗老档の人名cardとりてひまつぶす。新坂康子より「菩提樹」みたと。押上佳子より「妹のこと長沖氏にたのんだ」と。村松正俊氏より『国民文庫』。
子ら帰り昼食して14:30東洋大学にゆき、。8日(土)日本歌人の会13:00「Hotel松平」にての通知受取る。
千葉氏の研究室のみあき、入りゆけば田部重治先生あり。面白き話なさる。「“とても”を肯定に使ふは大正のはじめ信州方言より」と。
宮崎氏14:40来られしに佐藤先生と6人となり。村松氏やめて鳥山教授推薦となる。小室、辛島氏らみな委任状。さて投票は(早坂一郎博士、島根大学長となられ欠席)、鳥山17票、竜山21票にて敵の作戦成功。
出て芳賀檀君にさそはれ、宮崎、千葉2氏と票の勘定する中、村松正俊氏とさそひに来られ、東京駅地下のおでんやにて飲む。村松氏とは完全一致、芳賀氏も了解せし点ある模様。『日本歌人』の会にさそひおく。
帰宅、『薔薇37』来をり。
2月2日(日)
雪。石浜先生古稀記念会より原稿と1,000の受取。岩田生、原2氏より礼状。鍛治初江君より『死ぬる前に』受取った、伊藤久子の婚礼は3月7日、富子は5月と。我5月下阪のときclass会すると??
三大会「15日(土)14:00に400円でbeer party」と。千川義雄より角川の『蕪村・一茶』よんだと。
齋藤晌、浅野晃氏へ報告の手紙。
2月3日
晴。前川佐美雄氏より『日本歌人』の会にて会ひたしと。堀内歴より『果樹園』に入り云々。安西均氏より写真返送。
山本文雄氏、新坂康子氏、古川政記氏へハガキ。午后『果樹園25』、詩よろし。15:30入浴。けふ節分と。
2月4日
京、ものもらひ出来しとて、9:30出て林富士馬dr.にゆき、親切なる診断受く。風邪もひきゐると。われにも注射たまひしゆゑ礼云ひて出る。
小島樹氏よりハガキ。村松正俊氏へ日本歌人の会の案内。石橋秀雄氏へ「世界史夜話」につき問合せ。
午后の便にて城平叔父「坪井より8日に会ふこととなりし」と。
21:00すぎ玲音荘に電話すれば小高根二郎君をり、林氏と西垣氏に電話せよといふ。増山君よこにをり。
(そのまへ畑山氏に電話すれば「風邪でねてゐる」と)。
2月5日
朝、『詩人学校』来り、午后、依子帰り来しあと散髪にゆきて帰れば、浅野晃氏より「手紙見た。8日の日本歌人の会にて会ふ」と!芳賀氏との面接をいかにせんと困る(※不仲の故?)。
山本実子、林佳子、上野董子、佐々木慧子の4人蓼科より寄せ書。
畑山博氏にゆけば「けふ登校せし」と。豊島の附属は抽籤と。(史より地図類の包み来る120円、「八旗満洲氏族通譜」のnoteはなし)。
芳賀氏へ日本歌人の会に浅野晃氏も出席の旨伝ふ!
2月6日
晴。馬堀海岸にてまたbus出しあとにて、保柳部長にbusよんでもらふ。昼食後、麓館長に会ひにゆき、齋藤晌先生の件伝ふ。
帰りまた千疋助教授と同車。東京駅で下りてヱハガキ買ふ。(13日は運動会にて休みと)(試験3月3日(火)1時限と。監督できずといふ)。
村松正俊教授より「歌わからぬが出ても良きか」と。蒲池歓一氏より「乾直恵氏も先週金曜(31日?)に逝去」と。
18:00坂根ちづ生来り、「山本実子らに銀座で遇ひし」と。俳優座受験すると。大、また宿かはりしと。
2月7日
雨。依子けふ富士銀行の身体検査。鈴木俊、田中順二郎、蒲池歓一、堀ノ内歴の諸氏へヱハガキ。林佳子生にハガキ。三大会へ欠席の通知かく。史へ受取ったと。
〒太田陽子夫人より「5月の帰阪の日しらせ」と。『文芸日本』の牧野吉晴氏追悼号よみゐる中、穂積驚氏とて賀状の不明なりし人は牧野氏の弟子なりしを知る。ここに弔状をかき、太田陽子夫人には「ゆかず」と返事す。
夕方鶴崎生来り、「加藤勘十代議士の紹介にて大映に「運動中」と。
2月8日
雪やむ。八木嬢にヱハガキ。高尾書店の書目来りしのみ。村松正俊氏に電話すれば、「出席」と。
12:30京、帰宅せしゆゑ留守せしめて「Hotel松平」の日本歌人の会にゆく。中谷孝雄、浅野晃、亀井勝一郎の3氏、すでに来りて前川氏と話す。14:30になりて閉会。村松氏、芳賀氏来会、珍しきは伊藤佐喜雄。東洋大学のこと話せず。すず子ちゃん芸大受験とききて出る。
村松氏誘ひて神田で酒のみ、同氏も東洋大学3年にてわけわからず、宮崎、辛島2氏危険とききて別る。田中智慧子より「佐藤姓となりし」と。
2月9日(日)
長尾良へ見舞状書きゐれば角川書店より『昭和詩集』の6〜9版分1,068−160=908来る。
午后、十条へ散歩。『死ぬる前に(160)』林富士馬氏へと買ひ、中野清見の『日本人(230)』買ひ、『楊貴妃とクレオパトラ(50)』買ひ『India and its faith(180)』買ふ。帰って入浴。
2月10日
鬱してゐしに田中秀子より「西宮氏にきけば学院の景気よかりしと」との便りありしのみ。
稲荷の初荷にて香具師の口上ききて京よろこびて帰り来る。
夜、鶴崎生再来、大映うまくゆかざりし模様、昆布呉る。
2月11日
晴。迷ひゐしに長尾良君より「金曜に林dr.(※林富士馬邸)ででも会はん」とのハガキ来りし故、11:30出て林邸。
注射うってもらひ、来週のこときけば「不在」と。
歩きて池袋に出、西武depart7階の婦人Hallの宮崎智慧氏訪ね、茶のみながら色々話し、21日15:00ここにて会ふは如何にと長尾君にハガキ書きて別る。
それより新宿へ出、小田急にて成城学園。会議前の栗山理一氏に偶然会へて退職必至をいへば「(※講義の)時間こさへるやう努力する」とのことなりし。
出て電話して小畑信良閣下を訪ひまいらす。敗戦後、満洲よりChita、Khabarovsk(※チタ、ハバロフスク)をへてMoscowより
300kmの地に移され、前後11年間ゐたまひしと。参謀本部で占領地経営方針かかされしあと、SumatraついでBurmaをへて満洲と。
占領地の話をわれもし、またを約して出、梅ヶ丘に和田先生お訪ねすれば御在宅。「聖心女子大は大丈夫ならん。明日原田博士に会ふ故、ききおく」とのことなりし。お土産置けば「羽田の物と同じく京阪の品は口に合はず」と。
帰り来りて渡辺といふ全欠学生よりの非常識なるハガキ見て、畑山氏に電話すれば他出と。和田先生に『東方学』へ書きて宜しと承りし。
2月12日
村松正俊氏へ『悲歌』とハガキ。紀元節国守せずと自民党軟化せしと。筑摩書房より『現代詩集』初版5.4万部を2月10日発行と。
中野清見より「本そのうちに送る」「夫人病気」と。渡辺三七子より「一度会ってくはしく話したい」と。西宮一民君より「短大370名の志望で230名とった」と。「東京通信」9枚とす。筑摩書房より『現代詩集』届く。75人中の1人なり。
2月13日
奈良女子大より6,720−805の源泉徴収票。長尾君より14日(金)12:30ごろ林dr.に電話してみると。川崎宏子より「日生のことで喜びゐる」と。
昼寐ちょっとせしあと、角川書店より「検印紙を1月10日までに返送で送りし」との旨、布施より転送。
靴直しかたがた出て電話し、「検印紙あらためて送れ」といふ。
西宮一民、佐藤智慧子、田中秀子3氏へ手紙。
夕方より寒気し、計れば37.4℃。そこへ坂根千鶴子来り、大は西大久保へ転居と。帰りしあと慄へて薬のむ。
2月14日
行きがけ悠紀子「男はもうあなたでこりごり」云々。角川より「印紙2,000枚、15日までに届けよ」との速達。齋藤晌先生へ宮崎、辛島2教授のこと。渡辺三七子生へ「5月には(※大阪へ)行かず」と。中野清見君へ見舞。田中雅子夫人より「夫君の姪、手伝ひに来る故、心配いらず」と。平凡社より1,300−195の源泉徴収票。
12:00に電話しおきし林dr.へゆけば長尾君すでにをり、わが持参のbeerのむ。「瀬川病院の支払20万円以上。小学生用の参考書会社につとむ。新学社の東京支社長は他人にきまりゐること知りしあと」と。また我を「皮肉いふ故、怖がらる。物事の悪いことばかり話す」と。悠紀子と同意見なり。
ともに出て西武陸軍と性病Departに入れば芳賀氏に会ふ。すぐ別れて7階にゆけば宮崎智慧氏欠勤と。名刺おきて茶のむ中、女づれの芳賀氏を見かけし。
busにて東洋大学へゆけば、研究室しまりreport入手の手段なく、教務のぞけば大野文吉と文学部長ら話しゐる。
会計の三浦嬢に『果樹園』3冊わたして帰宅。山中タヅ子より「帰阪待つ」と。松本善海君より(清)陸燿『甘薯録』の教示。萩原葉子、松本善海、川崎宏子、千川稚泉へ返事かき、丸に電話すれば「関口八太郎17日渡米につき送別会を西川英夫世話しゐる」と。
22:00訪ふ声に電報かと出て見れば畑山浩夫妻。「中野の本貸せ」と、色紙おきて去る。
(けふ林dr.に風邪薬もらふ。患者殆どなきが心配なり)。
2月15日
晴。中野英夫氏へハガキ。山中タヅ子、田中雅子へ同。朝日新聞より6,000−200=5,100。
小野彰生よりreport。山川京子の『桃』来る。昨日長尾より「保田、同女の家にて泊る」とききしばかり也。をかし。
午后の便にて太田陽子夫人より「帰らねばうそをついたことになる」と。史より「noteそのうちに送る」と。
その前、大に電話せしに(新宿区大久保2-212小室荘)「白鳥郁郎氏のsrarnd(※不詳)はradioなら心がけおく」と。「坂根生は見込なし」と。
畑山氏に電話すれば「今日明日と東洋大学の会議」と。入浴。夕食後、西川に電話かければ「けふ三大会に関口よび鎌田、奥戸、高垣にて3次会までやりし」と。中山正善、酒井教授をつれて来しと。
2月16日(日)
9:00起き、10:00朝食。西川、丸、竹内あたりへゆきたかりしも止め、「東京通信」を帝塚山の文芸clubのために書き、太田陽子夫人に送る。早川智慧さんより留守のことはり状。
村松教授より、この間疲れてゐしと。角川書店より源泉徴収票14,000−2,100を布施をへてと。印紙2,000枚の受取。
21:00ごろ訪ふ声は中野英夫君。「従兄の子を中央大商科へ入れたしとて紹介たのむ」と也。
2月17日
9:00家を出て常磐線金町(40)。書店で葛飾区地図(20)買ひ、探しまはりて鈴木邸。中野英夫君の話すれば「尽力せん」と。ありがたし。
出て有楽町、住友銀行丸の内出張所にて朝日の稿料受取り、第一弁護士会へゆけば丸、出廷と。
本位田を訪ね、話しながら待ちしも来ず。またゆきて丸掴へ別れ、我は共同通信にゆき、田浦義光氏呼び出しsmatra会せんといへば賛成と。
会議中なりしことわかり這う這うの態で出、東博氏と話せしのち『蕃族調査書アミ族(200)』『台湾海峡(100)』『米英東亜侵略史(30)』
『蘭印探訪記(30)』買ひ、加藤定雄君のぞきしに不在。都電にて一口坂。中国研究所さがしまはり、ゆけば野原、幼方2氏会議中なりし。大島豊の悪きことは幼方氏も認めし。他日またといひて国鉄にて帰宅。
手塚隆義氏来訪され「あす午ごろ電話かけよ」と。学生も1人来て、「明日14:00渋谷東横にて送別会す」と云ひおきしと。
林富士馬、萩原葉子2氏より礼状。原氏より「岩田君をなだめてくれ」と。飯くひしあと、畑山氏に電話すれば「来よ」と。
『現代詩集』もちゆけば「売れ」と。三沢先生(※三沢元貫)昨日来りて、常務理事を承知されざりしと。また電話して交渉するをよこでききゐし。
Beerのまされて21:00帰る。
2月18日
中野英夫君へ速達。『薔薇』へ「同窓会」。帝塚山短大へ「源泉徴収票たのむ」と。
12:00立教大学の手塚隆義教授に電話して「すぐゆく」といひ、12:30ゆけば「東洋近世史手薄と山本達郎教授にいはれし」と。喜んで承知し、兼任講師の同意書かきしも著書論文目録にて明日提出とし、出て古本屋。『妄人妄語(120)』買ひ、『東京西北部』買ひして渋谷東横8階の東洋史送別会といふにゆく。卒業生は中村と櫻田の2人。1年は金生1人。2年は顔もしらず。鳥山教授、船木助教授参加。16:00すみて鳥山教授に辛島、宮崎2氏のこといふ。
青年座にゆき見しに大、来ゐしと。伝言たのみ帰宅。井上多喜三郎氏より「荒木君病気、『果樹園』はわが上京以来もらはず」と。前川佐美雄氏より「村松氏のadressしらせ」と。
押上佳子夫人より令妹補欠となりしと。井上、前川、押上3氏へ返事。比留間一成氏へ『青衣』の受取。
2月19日
京にハガキ4枚の投函たのみしに帰り来て「学校への500失くせし」と泣く。また1枚与へてゆかしむ。
齋藤晌先生より「教職員半減より仕方なし。卿はしばらくとどまれ」と。「20日午、学士会館で会ひたし」と。
12:00出てbusにて池袋。立教大学図書館に手塚教授さがしあて、書類わたし、水道橋まで国電でゆき、東京ライフ社に明日会へずとの齋藤先生あての伝言たのみ、中教出版に小山正孝氏を訪ぬ。『果樹園』に書きしと、『現代詩集』受取らずとのことに、竹西氏に電話かければ「昨日送った」と。「Köln」につれゆかれ、パノンの会(※戦中に催された萩原朔太郎を囲む会)のこと質問さる。
波木井書店で山本実彦『満鮮(30)』『支那(30)』、杉山平助『支那と支那人と日本(20)』『南方拓殖第一報(10)』買ひ、都電で巣鴨、国電にのりかへて帰宅。坂根生、饅頭もちて来り「金曜12:00また来る」といひしと。
八木氏より「ランガナタンを次号廻しとせし」と。夜、また中野英夫君来り、鈴木氏への謝礼のこといふ。釣道楽の話す。
2月20日
寒風吹く小原台の防衛大学へゆき、けふまでを試験範囲といふ。午后、平田俊春氏に会ひ、聖心女子大きまりしをきく。(教務課へゆき「試験問題呈出を25日までのばしてくれ」といふ)。
千疋助教授とまた同車して帰る。小高根二郎君より『果樹園』の原稿17日に着き、まにあはざりしと。
齋藤昭三助手より「研究室にreport預りゐる」と。櫻田、古巣2生よりreport。
夜、青山定雄教授へ「連絡の日時しらしたまへ」との往復ハガキかく。(櫻田生、師恩を謝すとの手紙同封しあり)。
角川文庫のHeine8版1冊来る。浅野、齋藤2先輩に報告かく。
2月21日
8:00王子郵便局へ青山教授あての速達出しにゆき、八木、小高根2氏へハガキ。坂根生11:00来り、pão食べて話す。4月の俳優座の試験受けると也。
青山教授より入れちがひにハガキ。「明日午、東洋文庫。または東洋史談話会にて会ふ」と。石橋秀雄氏より「『世界史研究』送らす」と。
12:30出て坂根生と別れ、東洋大学へゆきしに誰もゐず。Report受取り、大森君に袋もらひ会議室へゆき、結局、宮崎氏(※宮崎幸三)との
み話し、評議員会の新学■なるもの配布うけ、無言のまま出て(野溝女史に『悲歌』1冊贈る)宮崎氏と話せば「夜学の史学は応募学生にすすめて受付けず。辛島氏のみでなく、我も危し」と。
ともに出て神田へ同行。Coffeeのましていただく。筑摩書房へゆき、『現代詩集』2冊買取り、お茶の水駅前で『支那の民族問題(10)』買ひて帰宅。
山本夏津子より「子供できず」とのたより見、手塚隆義氏の来訪受け、わが大学院講師は小林とて青二才の反対ありしときく。謝して、東洋大学退職とならんといひ、帰られしあと悠紀子帰宅。
この二三日身体わるしといふに医者にかかれといひしもきかず、不快。
2月22日
悠紀子病臥。依子起きて朝飯を炊ぐ。学校へゆきしあと11:00『学芸手帖6』が5冊来る。
渡辺三七子より「心配いらず」との手紙。小室氏へ速達し(45)、東洋文庫へ12:00着きしも青山氏不在。中華そば食ひにゆき、また待てど来られず。山根幸夫君と話す。小室栄一氏の没落におどろき、米林の栄華におどろく。
出て山上会議所へゆけば青山氏より電話。「19世紀末までのイギリスの東洋進出について」と共同の題をきめ、われより吉田氏に速達することとなる。
やがて和田先生お越し「君、まだ原田君(淑人博士)に行ってないね、出来なくなるよ。“我をやめさせよ。然らずば田中君と両方使へ”と強硬談判せし」といはる。
明日参ると申し上げ、『学芸手帖』見ていただく。講演は一橋出の増淵龍夫とていや味でつまらず。
山本博士に東洋大の自然退職申し、鈴木俊さんに中野君昨夜伺ひしときき、鎌田重雄の顔見しが収穫なりし。
松本にcoffeeのまされ、小林は立教理事の息子ときく。中野清見の本うれざるらし。本郷3丁目で別れて帰宅。
悠紀子元気になりゐる。入れちがひに青山氏より返事来あり。25日16:00より東洋大学史学科謝恩会の案内状。『学芸手帖』の編集、戸田謙介氏は和田賀代女史の隣家なることと判明。
2月23日(日)
9:00家を出て早稲田にゆき、原田淑人先生のお宅を訪ぬれば出られしあと。夫人に19:00再来を申し上げ、新宿をへて(昼食小鯛ずし50『新北京百題(20)』『支那問題の基礎知識(20)』『大東亜巡察考(20)』『赤裸の支那(20)』)祖師谷大蔵。
栗山理一氏訪ぬれば「転任多き理由はいかに。体は大丈夫なりや」の質問され「少なくとも兼任として8時間(12,000)は確実、専任になるや否は2、3日中にしらす」とのことなりし。
ついで青山定雄氏訪ね、来年度も麓氏の気に入りなれば云々。聖心女子大のことはきいてゐる云々と。
『現代詩集』夫人に贈りて駅まで見送りうけ、小高根君(※小高根太郎)。
「もう来さうだと思ってゐた云々」。出て大江勉、房子夫妻に寄り、正平の慶応受験をきく。マミ子も訪ねる由。矢野長官邸訪ひしに不在。渋谷を経て阿佐谷。戸田謙介氏訪ねて『学芸手帖6』また5冊もらひ、原田先生へと1冊托され、船越章を訪ひ、こせん伯母に甚城祖父の父問へば「知らず。淡路にききあはさん」と。
出て原田邸へ急行。先生引見され「聖心4時間にはすべし。ただ専任は無理か」と。成城のこと云ひておことわりせしもきかれず。
出てトロリーbusにて池袋。busにて王子につけば学生まちをり中村生をつれて4人。22:00まで話してゆく。(西川に電話かけ、高垣に本宮の本の推薦たのめと云ひし)。
2月24日
防衛大学へ「19世紀末までのイギリスの東洋進出について」との題送りprintたのむ(吉田氏へ速達)。
午睡してさめれば依子も外出。坂根みつ女氏より三宝柑の送り状(昨日来て子ら喜び食ふ)。
吉田東洲氏より「3月8日13:00、新丸buil.ポールスターにて会する」と。村上新太郎氏より「詩、21日につきし」と。山根忠雄氏より「第2詩集出したし」と。川勝重子生より「いとこ百々礼子、子ども生みし。阪本も結婚して大阪にゐる」と。川勝、山根2氏へ返事。雨にて採点すます。
京、帰りしあと15:30出て登校。採点わたす(吉原、辻村、安部の3生欠)。
明日14:00すぎsalary出ると。悠紀子帰り来て流感と。口喧嘩より夕食くはず寝てしまふ。
2月25日
晴。悠紀子ものいはずして出てゆく。南極隊、犬15頭を残して寄航の途につく。小山正孝君より『現代詩集』の受取。浅野氏より「めでたし、我もArbeit欲し」と。
防衛大学より2月分として8,160。法学部4年生の荒井生reportもち来る。13:00三菱銀行王子支店にて8,160受取り『世界の名歌(130)』買ひ、靴直しにゆき(40)、散髪(120)。恰も15:30となりしゆゑ、東洋大学にゆき、荒井生の採点提出。Salaryもらひ、偽文学部長と遇へば、先方も変な顔せし。
神田にゆき大安にて『敦煌莫高窟(400)』『小腆紀年附考(700)』『台湾歴史概述(55)』『隋唐五代史綱要(125)』『内蒙古歴史概要(200)』と買ひ、蒲池歓一氏に電話かけしにまたまた他出。
波木井書店にて『太平洋民族誌(80)』初版ゆゑ買ひ、国電にて帰宅すれば坂根生まちゐし。三宝柑の礼云ひ、夕食せしめ、速達にて大島豊より「27日(木)15:00までに学長室へ来れ」との状見、畑山博君に電話すれば「君にも来たか、今それにて相談に出る。27日はゆくな」と。
他に辻村生のreport。山口玲子より「恋愛してゐる」と。けふ家に39,000わたす。
2月26日
8:00すぎ宮崎教授に電話かければ「27日13:00に呼ばれたり。小室君も呼ばれゐる」と。わがゆかざるを云ひ、善処と、3月1日に会ふ約束をし、村松、佐藤2教授も危うしときき、村松氏に電話せしにここへは呼出し来てをらぬ様子なりし。
栗山教授より「今年度は講師として中国文学講読(文芸2,3年)、中国文学史講義(文芸4年)、中国文学講読(短大1年)、東洋文化史(文芸2年)もつことと内定」と。
山川出版社より『世界史の研究』6冊。12:00まへ林dr.に電話かけ、最後の健康保険のと云ひて注射打ってもらふ。beerのまされ、出て西武dept.宮崎智慧氏に会ひ、前川夫人へ「明日、明後日忙し」との連絡たのみ吉祥寺。busにて竹内(※竹内好)を訪へば、をり、馘首さることを云ひ、中野の本のことを話す。杉浦正一郎夫人この間来り、嬢はお茶の水女子大と東京女子大受けると。専任考慮すと云ひ、夫人の帰宅まちて出、西荻窪まで歩きて帰宅。依田義賢氏より電報来をり、明日17:30電話すると云ひ、(八木嬢より「転任運動たのむ」と履歴書。田中秀子より「5月下阪の日取りしらせ」と。防衛大学の小泉嬢より源泉徴収票)、
畑山氏に電話してゆけば香港姑娘預りをり「卿が留任のため人々はたらかせ、いまも勝承夫理事はたらきゐる。明日返事あらん。4月三沢常務理事来任まで待て」と。
(中野清見の『ある日本人』第2部見付けて買ふ)。
聖心女子大には内藤智秀博士あり「田中の来任決定」といひをらる由、不審。竜山も知りゐると、不快。
2月27日
栗山理一氏に礼状を投函して防衛大学最後の授業。Printみなすまし、午休み教務課にゆけば問題printしてくれたりし。採点要領もらひ、麓館長に挨拶にゆきしに不在。手紙かきて托し、(土屋(中国語)、新開、岸本(ロシア語)、東(国語)の諸氏をおぼえし)。
午后すませて岸本、千疋2教官と同車。新橋にて下車、テッキン旅館に電話すれば「依田義賢氏、山本プロダクション」と。そこへ電話して銀座「双幸」にて会ふこととし、taxiにてゆけば、すでに待ちあり。映画関係のおでんやにて依田君ほとんど知りをり。『骨』同人の忠告伝へられ、19:30出て有楽町にて夕食して帰宅。
矢野兼三氏より留守の挨拶。
2月28日
晴。10:30宮崎教授に電話して「13:00ゆく」と云ひ、わが稿のせし『不二』見て早昼くひ、11:00出て渋谷(途中買ひし『週刊朝日』に中野清見の批評出てをり)、玉川電車にて駒沢下車。
宮崎邸訪へば化学の野尻教授(※野尻貞雄)をり、小室氏すでに辞表出し、辛島博士も辞意表明し、宮崎氏は明日辞表郵送すと。われ三沢氏の出馬云へば「遅すぎる」と。結局、西洋史には内藤智秀博士来り、日本史は犠牲出ず。史学の4人のみにてすむと也。矢野兼三氏、電話せしに不在。『歴史教育』の電話しらべしもわからず。
青年座へゆけば大、けふ小室荘より転居と。和田先生に電話すれば「夜まで会合に出らる」と。思ひついて中村書店にゆけば『西康省』なし。大東塾にゆけば影山正治氏出られ、一部始終話し、保田翁にと1冊もらひ、大よこせとききて微酔にて出る。
帰れば村松教授より「様子しらせ」と。
3月1日
平田俊春氏へ『歴史教育』の稿
(※「白居易とその時代」)、1月乃至1週間おくらせと速達。村松教授に電話して経過報告す。和田先生にお電話すれば「午前中に来よ」と。急いで髭剃り靴みがかせてゆけば11:10。聖心女子大の海老沢有道氏なかなかうんと云はずと。『東方学』書けと。
出て新宿にてラーメン食ひ『歴史教育』出すといふ日本書院に電話かけて「締切1週間のばす」ときき池袋。
宮崎智慧氏に会ひ「前川夫人(※前川佐美雄夫人)、五味邸にあり」ときき、電話すれば「すず子君8番の受験番号(※芸大受験)。油絵できず」と。
busにて帰り、藤田亮策先生訪ひしに無人。『学芸手帖』を挿して帰る。15:30入浴。
夜、中野剛宣君来訪、『ある日本人 第2部』 (※父、中野清見著)預り来る。西川に会へと紹介状かく。(ラジオ経済通信社)。
20:00すぎ中野英夫君来り、「鈴木俊氏だめなら文科へ入れると云ひし」と。自慢話し、わが馘首されしと云ふに見舞として金おかんとす。
3月2日(日)
速達2通。1は「種々御都合もおありのことと存じますがお話申上げたいことがございますので」4日14:00会ひたしと大島豊より。1は城平叔父より「どうしても大手前通したいゆゑ云々」と。
伊藤佐喜雄君よりbar「リヨン」の案内。依子、富士銀行押上支店勤務ときまりしと。
畑山君に電話せしにかからず、西川に電話すれば「昨夜帰らず、母はねてゐる」との坊やの返事。やむなく畑山氏へゆけばMars-commi(※マスコミ?)の講師になるやもしれずと。
午、石山(※石山直一)、吉永孝雄2先輩への添書同封、城平叔父に速達。坪井明君に速達。鈴木俊氏へ礼状。田中秀子、太田陽子2君へ「5月帰阪せず」とハガキ。
午后、松本善海に電話して「遊びにゆく」と云ひ、いろいろ話して18:00帰宅。
洋服ぬぎしところへ電話。青葉建設へかかり「畑山に電話せよ」とのことにて、きけば三沢先生(※三沢元貫)お越し「すぐ来てよし」と。
ゆきて北京のこと話し、思ひ出したとて色々話さる。結局、畑山君の性急なるたのみはきかず、勝承夫氏を専務理事とし、畑山君を理事にし、ゆきづまれば三沢先生出るとなりし。われには「水のみて良き詩かけ」と。
喜びて仰せに従ひしところへ勝氏より電話。「田中のこともだめ」ときこえしゆゑ、われ出て礼云ひ、辞表郵送すと云へば「一度大島に会へ」とのことなりし。
21:00帰宅。税金申告しても過納と悠紀子喜ぶ。
3月3日
悠紀子休日。子らつれて買物にゆく。われ終日家居。また無為。父より悠紀子に便あり。『果樹園26』来る。つまらず。
3月4日
晴。浅野晃氏より「齋藤晌先生と7日(金)12:00神田一ツ橋学士会館談話室にて会はん」と。小山正孝氏より『ユリイカ』にパノンの会や朔太郎のこと書けと。
難波逸夫氏より「三菱銀行丸の内支店に勤務」の挨拶状。
12:30出て東洋大学。2部の教学課に辻村生の点を提出し、大島に会ふ。
「白鳥に会ふか」「近ごろ会はず」
「善隣高商はいかがなりしや」「われ追放後、経営成らず明治学院に合併」
「さて2部史学科、他の中哲、仏教と同じく経営成り立たぬ故、廃止するについてはやめてもらひたい。但し竜山心配して聖心にきまりし故安心、防衛大学も運動しおく」と也。
「それでは円満退職と心得て宜しきや」「宜し」
「和田先生に報告する。貴公よりも伝言なきや」「宜しくむたのむ」と名刺托さる。
出て大森倖二君に『果樹園』わたし、紀要出来上ればもち来りもらふこととす。三浦嬢をらず。
70周年記念事業会に柳井正夫氏訪ね、退職の挨拶し、都電にて神保町。蒲池歓一氏訪へば在宅。珍しく退職のこと云ひ、出て宮崎幸三氏に電話かけて報告し、大曲まで都電、日本書院にゆき、『歴史教育』2冊もらひ、創元社に寄りしも知念君不在。牛込北町に都電でゆき、新潮社に『堀辰雄全集』編集の谷田君訪ひしにまた不在。代りに出し女史にわれあてのハガキ1枚、25年付なることを云ひて出、角川書店まで歩きて『立原全集』の係といふ志摩氏に会へば俳人と。『立原全集』既刊2冊もらひ、「近々稿料送る」ときき、九段上より東京駅行のbusにのりしに、産経会館の前通りしゆゑ下車して田中順二郎君訪へば席にあらず。置書し、西川に電話かけてゆきしも会へず、帰宅。
城平叔父より速達2通。吉永、石山2氏にわが手紙出しおくと也。夕食して畑山氏に電話して「円満辞職」いへば、氏もけふ大野文吉、竜山義亮に電話してききしと也。
浅野、齋藤2先輩に7日会ふとハガキ書く。
けふ船越こせん伯母より、淡路国三原郡西淡町湊、菊川こたま氏のハガキ同封。
「田中甚城様の母は田中六左衛門様より分家された人。其人に私家菊川家の三代の弟(吾平)5人兄弟の末が養子(田中一郎さんの家)に行ってゐたのです。吾平に私の母きみ、阿萬の新田の船越国蔵の母よね、甚城と外に長女立川「東リ」の矢野へ嫁いでゐた人は分家した人が外家へ嫁いでゐた時の連れ娘とか聞つたへてゐます。甚城の母は初代とかです」とあり。
3月5日
晴。朝8:00まへ速達、城平叔父より2通。1は5,000。1は「坪井、石山、吉永3氏に東京土産わが名にて送れ」と也。わが手紙も大阪出しにては変とて返送しあり。王子郵便局へ「その旨承知」の返事と、石山、吉永2氏の手紙計3通速達しにゆき(100)、東京駅へ出、西川に会ふ。
きけば「山本の海苔よからん。中央大学の相場は5万円位か」と!
歩きて山本へゆき石山、吉永2氏に1,500の海苔、坪井に1,300の海苔急行便にて送らせ、日銀鎌田正美君に会ふ。「本宮(※中野清見)の本よまず」と。
ともに原田運治訪ねしも「まだ来らず」と。都電にて帰宅。
大江房子、増田春恵の手紙をよみ、昼食後、田中六郎家系図さがしまはる。写真帖にはさみありし(※リンクあり)。これを写して城平叔父に報告速達す。
3月6日
防衛大学校より書留小包にて試験答案来る。山口玲子、中野清見にハガキ。八木嬢、勝承夫2氏に手紙。勝氏には『悲歌』別送す。
岩田生より「夫人別れるなら死ぬといひ、また同居しはじめた」と。父より城平叔父の礼言を伝ふ。平田俊春氏より速達の返事。立教大学より「歓迎会を4月7日伊豆伊東で」と。
午后の便にて渡辺三七子。夜、坂根千鶴子来り、三宝柑送るため大の家さがしまはりしと(渋谷区鉢山町10雅荘14号室)。
夜、「白楽天の生きた時代」書き出す(9枚)。
3月7日
雪よべ降る。10:00藤田亮策先生を訪ねまいらせしに登校されしあと。帰りて坂根みつせ氏に礼状かき、渡辺三七子にハガキ書きて都電にて学士会館。
浅野氏12:20来られ、齋藤晌氏12:30お越し。階下の食堂にて定食よばれて報告す。「5月よりsalary出なくなるおそれあり。教職員半減の必要あり」と。16:30ともに三崎町にゆき、別れて中教出版KKに小山正孝君を訪へば不在。帰宅。
城平叔父より「通れば恩にきる」とのたより来あり。白鳥(※白鳥清)夫人より「(※郁郎氏遺稿脚本の件で)会ひたし」と。緒方昇氏より矢加部勝美君の勤先と住所しらせたまはる。『果樹園』より19号まで払ひゐると。村松正俊教授より昨日の「教授会で退職10人の名を発表した」と。
3月8日
伊藤佐喜雄へハガキ。岩田生へ「処置なし」の手紙。難波逸夫、齋藤晌先生へハガキ。
安西均氏より第2詩集『美男』。三浦久子氏より「3月分salaryもってゆく」と。
小高根二郎氏より「服部三樹子氏上京、本も出来て16日送別会」と。城平叔父より「大手前の出願締め切り307人。坪井君にたのむ」と。
3月9日(日)
晴。村松氏に電話かけて「そのうち芳賀氏と3人会せん」と云ふ。「成瀬正一兼任教授も退職」と。
11:00「白楽天」の稿了り、『日本歌人』2月号(3月東京歌会23日(日)10:00〜19:30西武dept.7階婦人Hallにて。
100円夕食代と)。
史より送付のnote見てより、畑山博氏に電話すれば「夕方18:00ごろ電話せよ」と。
12:30芸大へゆき見れば16:00発表と。一旦帰宅。「白居易とその時代」清書してのち16:30芸大の発表見ればNo.8は合格しをり。五味邸へ上野より電話すれば「すず子君1人にて見にゆき、音沙汰なし」と。16日ごろまで緑夫人滞京とききて帰宅。
18:30畑山君に電話すれば「すぐ来よ」と。先約ありしこと気づかず。話してともに出、帰れば中野英夫氏来り、三沢師との会見談す。中央大学の出来わるかりしと也。
23:00「白居易とその時代」38枚清書し了る。うれし。
3月10日
晴。日本書院への送稿、悠紀子に托し、9:30出て原田淑人先生お訪ねすれば聖心大へゆかれしあと。
令息に伝言おねがひし、またトロリーバスにて渋谷上通までゆき、鉢山町の大のapartをたづねあてればをり、白鳥郁郎氏の「明智光秀」は機会を掴へて上演(televi又はradioにて)のつもりと。
11:30出て渋谷、昼食すませ、白鳥邸に電話すれば「来てよし」と。寿福寺前行のbusにて参り、まづ清先生に立教(※講師斡旋)の礼申上げ、
聖心のこと云へば「まだきまらぬだらう」と。
先生の出られしあと、君子夫人に郁郎氏の詩集の出来上りし(※リンクあり)を見せていただき、手塚氏(※手塚隆義ではなく序文を書いた手塚富雄)と相談の上、Don
Bosco社、野々山君に(※夫人の不満につき)抗議せんと云ふ。帰りがけ芳郎氏「父子連名制と爨氏の系譜」の抜刷と「政治貧論」とたまふ。帰りて眠く、
夜、防大の採点4,5枚やりしのみ。
3月11日
依子あそびにゆく。植田生と堀口太平氏に去夏の暑中見舞の返事。防大の採点。佐野利一氏遺児育英資金1口500を4月25日までにと。
午后、鶴崎裕雄より「受験のため上京、宿所に電話くれ」と。19:00家を出て鈴木俊教授訪ねしに、いまだ帰られず、夫人駅まで見送りたまふ。
3月12日
晴。8:30金町着、鈴木邸へつけば俊教授在宅。若松生不出来のこと云へば、14日発表と。ひとまづ文学部にも出願しおけと。
中央大講師は山本博士の話にて島田君をいれしと。礼はいらずと。
出て大井町をへて中野君へゆけば12:00。鈴木氏の言葉伝へ、いつもの如く佃煮もらひ、busに案内され東京行にのりしに、途中平塚橋とかを通りしに気付き、下車して支那そばを食ひ、森房子氏を訪ふ。
夫君久礼田博士は退職され、明大、上智大の教授と。服部三樹子氏上京の話し、夫人とともに出てbus。東京駅まで乗りて帰宅。
ユリイカより「朔太郎の思ひ出」10枚を3月末日までに書くかと。歴史教育研究会より「6月号に受取った」!?と。中河与一先生より福田須磨子『詩集原子野』。
入浴。14日会議といふ『東方学』に書かんと思ふ。
けふ鈴木邸のあと亀有下車。村松正俊氏を訪へば夫人これまた医師(小児科)なり。自由主義の根柢は夫人の力によること大なり(宮崎教授夫人も女医也)。帰りて同教授よりの『国民文庫』を見る。
夜、不二歌道会鈴木正男氏より速達「3月21日14:00東郷神社での不二歌道会で話せ」と。「承知」の返事す。
3月13日
「ハルハ五部の成立と住地」写す。和田先生より「至急来れ」と。山本海苔店より吉永孝雄氏あての海苔、宛名見つからず返り来りしと(大手前高校あて再送たのむ)。
太田陽子夫人より「(※帰阪できぬこと)怒りゐず『文芸通信』出しclass会する」と。勝承夫氏より詩集『悲歌』受取ったと。堀口太平君あてのハガキ返送(宛名先に見当らず)。
高島屋より羊羹来り、送り人しらべれば石山直一氏。入学斡旋拒絶のしるしかと不快。
太田夫人宛ハガキ書き、18:00出て和田先生訪ね参らすればまだ帰られずと。西島寿一宅へゆけば寿一帰らず、寿賀子帰り来るまで叔母と話し、
梅ヶ丘駅近くにて電話すれば「すぐ来よ」との仰せに参れば、
「原田先生、田中君は東洋大学留任となりしと云ひに来しとて運動やめらる。来年の空きに青山定雄氏入れんと海老沢部長きめをり、今年はとらずときめゐるならん」とのことに、東洋大に身許しらべ来りしこと、正式に辞職となりしこと申上げ、そのあと「ハルハ五部」の話すれば、先生喜ばる。
22:00帰宅。坂根生来りしと。夜半「ハルハ五部」書き了る、52枚。
3月14日
晴。よべ一睡もせざりしが8:00出て、原田淑人先生を訪ひまゐらす。青山定雄氏を採用するとて東洋大にも調査ゆきをらぬ筈、中国キリスト教史やらんと云へば喜ばる。大学卒業後、考古学を選ばれるまでの苦しさを話さる(「明代の蒙古」につき問ひまゐらせし)。
10:00出て東方学会へゆけば鈴木俊氏をられ、今度の号の原稿の集りよく、のるやのらぬや不明と。
ともに出て茶おごられ、蒲池氏に寄り、きのふ聞きし石田先生(※石田幹之助)への斡旋を謝す。
出て小山正孝氏に電話してゆき、昼食ともにし、いろいろ話す。立原道造の杏所・翠軒の裔でなしといふ稿を母君のため保留しゐると。立原忌やるならやれと云ひ、御馳走となりて出る。
森本忠『匿れし人達(10)』『明治天皇御製集(10)』『日本外史(50)』。
帰れば石山直一氏より手紙。「出来るだけ骨折らん」と。城平叔父より速達「正平合格らしきゆゑ、姉弟2人の室を見つけよ」と。
成城大学より「出講予定日(4科目なりし)と講義内容しらせ」と。昼寐す。
八木嬢より「岡田温先生より返事なし」と。田中保子より「試験すみ、赤倉へskiiに来し」と。
けふ小山氏に『新潮』にわがこと桑原武夫氏書くこときき、買ひし。
3月15日
曇。城平叔父よりまた速達「室は勉君世話するゆゑ放念せよ」と。城平叔父へ返事。石山直一氏へ礼状。立教史学科の会へ不参加。東洋史談話会へ欠席と。
依子学校へゆきしあと「山本恭子、島宏氏と結婚4月4日(金)帝国ホテルにて披露宴」の案内。出席の返事出す。村松正俊氏より「今後のことしらせ」と。
3月16日(日)
晴。9:00藤田亮策先生に電話して参る。山本信江の弟、慶応受けしと。西王母の画は六朝ならんとの仰せ。
11:00帰り、佐藤春夫先生の「春の日の会」4月9日(水)15:00清澄庭園にてとの案内と、不二歌道会鈴木正男氏よりのハガキ見、山本恭子へ祝辞かき、
栗山理一氏に会ひ、講義内容を説明し、図書館に欠員あるやもしれずときき、来年気に入れば専任になすつもりときき(服部三樹子『ねむの花』『短歌』誌に評かくといひ)、出て青山定雄氏訪ひしに入試出勤と。
林俊郎君訪ひ、夫人に紹介され(嬢、今日子と)歓待受け、経堂にて西垣脩氏に電話かければ不在。小高根太郎君訪ひてだべり、帰宅。小高根君に借りし『古代殷帝国』よむ。
3月17日
成城大学へ1時限のみゆるせと(10:20始まり)返事、講義内容も同封。服部三樹子氏へ角川『短歌』に1冊送れと。佐藤春夫先生「春の日の会」出席と。
10:00出て東洋大学。大森君に学長印捺してもらひ、三浦嬢に「遊びに来よ」と云ひ、月収3,1250と教へてもらひ、同窓会へゆき柳井、伊賀上2氏と話す。月原橙一郎(原嘉章)は知人なるも卒業生にても半退にてもなしと。きのふ勝理事とわがこと話せしと柳井氏の話。渡辺道夫君と遇ふ。
同じく免職の通知受け、教務課長に会ひに来しと也。
悠紀子、京をつれて田中雅子の見舞にゆく。大東幸子夫人よりたより。すぐ返事。(けふ服部紗智子を学生課に訪ねしに「母上病気にて帰郷」と)。
夕方、悠紀子帰り来り、田中順二郎君、この間わが残せし伝言書見ざりし様子と。やがて何やらにてわが言葉咎め「理解者おあり」と云ひて飯食はず寝る。
夜半めざめ、「斗酒なほ辞せず」大盃にてのむことと王瑶をよみて識る。村松正俊氏へ手紙かく。
3月18日
悠紀子、飯炊きしのみにて出てゆく。田中保子へ返事。林富士馬氏よりも「春の日の会」の案内あり、夜、2度電話せしも「医師会に出て帰らず」と。
竹内好、Radioで『阿Q』を話し、夜更け大の「誤解」(これをきかずに寝る)。
3月19日
郵便局へ3,100出しにゆき林dr.に「15:00ゆく」と云ひ、散髪。
(城平叔父より発表は20日。麻美子ら巣鴨に室予約せしと。石山氏の令息の名しらせと。父より史25日すぎ帰省と。青山定雄教授より欠席者なかりしと)。
鶴崎裕雄来り、「大映2時まで通過した」と。そば食はす。帰りしあと坂根千鶴子来り、茶のみしあと、つれて都電にのり、林dr.のそばまで同行。
林dr.、beerのましたまふ。16:30帰宅。
3月20日
曇。弓子卒業式と11:00までゐる。関口八太郎副総監Texas州Dallasより3月16日出のハガキ。近々帰来らし。東方学会より「6月発行にのる。概要と英訳と略歴と送れ」と。
史より悠紀子に「24日ごろ帰省、4月半ばまでゐる」と。『詩人連盟』へ礼状。
14:00電報来り、「ザンネンオチタフミタナカ」と。我も残念なり。八木氏へ手紙。15:00入湯。
夜、渡辺道夫君来り「小室教授と縁切れしを喜ぶ。須永助手は新潟へゆく」と。
ゆめ――2人にて佐藤先生にゆき待たして怒らる。
3月21日
春分の日。服部三樹子氏より歌集の送り状。12:00出てbusにて池袋。宮崎智慧子氏に会ひ、前川夫人の消息きけば「無し」と。
国電にて代々木下車。明治神宮に参拝。まだ時間あまり、倭周蔵訪ひFranceの写真見せらる。別れて東郷神社。詩の話す(※不二歌道会)。大賀知周氏来会。歌3首作り16:30トロリーバスにて池袋をへて帰宅。
鈴木俊氏より「若松生、文学部に入学できた」と速達。城平叔父より「力及ばざりし」と速達。夕食すました中野英夫君に「合格祝す」の電報打ちにゆく。
3月22日
城平叔父へ慰問状。東方学会へ略歴と梗概。小高根太郎君より『果樹園』に「ねむの花」のことちょっとふれよと。八木氏より「28日ごろ来訪」と。
(母子にて北陸廻り上京と)。
小高根氏へ返事。依子をして史へ1,500送らす。石山直一氏より手紙。「平鋼治50人落ちし中の中位」と。山中タヅ子生より「東京へ上る機会なし」と。井上京子より手紙。
村松正俊氏より「退職の意思ありを云ひふらされをり、芳賀氏は関学大専任となりし」と。
けふより朔太郎書かんとす。(夜半めざめ、山中、井上へハガキかき、朔太郎10枚かく)。
3月23日(日)
石山直一氏へ礼状。倭周蔵君より「Javaのスジャト君につき我のこと週刊朝日に投書した」と。あはて者なり。
12:00西川英夫に電話してゆくと云ひ、昼食すまして訪ぬれば夫人下阪と。Televiの野球見ながら話し、port-wineのまされ14:30出て都電にて池袋。西武depart7階婦人Hallにて待つ中、宮崎智慧氏に五味邸へ電話かけてもらへば、「前川緑夫人17日帰寧」と。「来年も芸大受ける」と。
古川政記、宮崎智慧、名坂八千子の諸氏の外、山村智慧、見原(文月)夫人も上京参会。山村令嬢、曾我廼家十吾一座に加はると!
20:00外へ出て中野英夫君のこと気になり帰り来しにつひに来らず、不審。
けふ村松正俊教授に電話すれば「卒業式にゆき20:30まで帰らず」と。倭周蔵は一家そろって外出と。
3月24日
晴。井上多喜三郎氏へ『果樹園』包む(24)。依子外出。史13:00ごろ帰宅。送りし金は間に合はざりしと。本5冊と畠山氏よりの海苔2瓶もち来る。
3月25日
曇。8:00家を出て大井町をへて中野英夫君訪ぬれば電報昨日着き「北海道へ電話し母君27日来るを待ちて」と云々。
出て朝日新聞社にゆき、三島秀雄君呼び出し(昭和19年より会はざりし)、週刊朝日の件われにて無き云ふ(けさ山口玲子よりまた速達にて我なるときはうれしと云ひ来りし也)。
「佐々木六郎、名古屋にあり」と。帰れば防大の手当来ず。坪井明君よりわび状。川崎宏子より「宮口時喜子の後任となりゐる」と。涌井千恵子より「後期の試験病欠」と。
午后の便にて林良子より卒業の礼と「保田の長男瑞穂京大文化へ入りし」と。
小松保博より「大阪外大2部卒業式に中国語科の総代となりし」と。山本恭子より「新居は三田のapart」と。
『骨』13号と山前実治詩集『花』。田中順二郎・雅子夫妻より依子の祝に靴下。隣のお婆さん、京に「猫のことたのむ」と云ひて移りゆきしと。昨日は京(図画5あとみな3)、けふは弓子(4×2、2×1あと3)と成績わるくふしぎ。
夜半、増田、小松、林良子、山口玲子、涌井千恵子、川崎宏子、坪井明君へハガキ書く。
3月26日
雨。東洋大学の三浦久子氏に電話かければ「今日来る」と。村松正俊氏に電話かけ「明日17:00上野駅待合室にて」ときむ。齋藤晌氏より「麓氏に紹介せよ。東洋大学の入学者375名」と。
白鳥きみ子夫人より「ドンボスコ社と話合つきさう」と。田中雅子氏より送り状。齋藤氏へ手紙で紹介すとかき、麓氏に手紙書く。
16:00入湯。18:00salaryもち来たまひし三浦久子嬢と夕食し、『立原道造全集』2冊貸し、悠紀子に電話せしめて畑山博氏に伴ひゆく。風邪とて臥床。「大島にいひて退職手当出すこととなりし」と。飛鳥山まで送り『牡丹灯籠(50)』買ひて帰宅。
けふ初めてききしに三浦嬢もと常務理事国井順一氏の姪」と。また事務3人退職を命じられしと。夜半、白鳥夫人へ宜しと返事。けふ「萩原さんの思ひ出」16枚となる。
3月27日
曇。朝、「萩原さんの思ひ出」20枚とし、12:00依子の友だち来るといふに出て、湯島聖堂の内の古書流通会に『韃靼漂流記の研究』探しにゆきしに無く、『詩人李白(100)』『西域考古記挙要(75)』『中国文学史(220)』買ひ、麓氏のこときけば来られゐしも帰られしと。
筑摩書房にゆき、東博氏呼び出し「白楽天」書きてよきや土井氏に訊ねてくれといひ(印税4月17日頃と)、加藤君を都民銀行のぞきしも不在。昭森社呼びしも応答なく小山正孝君に電話して聞けば、ユリイカ社も同所と。向ひの喫茶店で伊達君探しあて、安水稔和君上京中なると会ひ、やがて来し那珂太郎氏と萩原さんの話し、雨中ゆくところなく寒ければ一旦帰宅。
大江叔母より「27日上京、そのうち連絡す。物送った」とのハガキ。林満寿氏より「令嬢卒業の祝送った」とのハガキ。
井上多喜三郎氏君の受取。あかね書房より「700円を5月末に」との手紙見る。(昼まへ大田医院に火傷のことききにゆけば、あと残らずとのことなりし。50)。
史、渋谷の住宅協会より帰り来て「大に会へざりし」と。over-coat借りて上野へゆき、村松氏には会ひしも芳賀氏来ず、beerと酒その他よばれて帰宅(21:00)。大江叔母より調味料来をり、けふ史にきけば父、今年末退職申渡されしと。古川政記氏より「会ふ日しらせ」と。
3月28日
寒し。父より「史への送金封したまま置きゐる」と。防衛大学より「追試験の問題しらせ」と。林満寿夫人よりbiscuitsの大缶。
15:00八木嬢来り、依子に就職祝賜ひ(3,000)、われにタバコ、他に金沢の菓子賜ふ。云ひて国会図書館の岡田氏に電話かけさせ、話きくに明ちゃん成功と。そこへ山本信江の父君来訪、chocolate一箱たまひ、藤田先生にゆくとてすぐ去る。「信江君、出産せし。2男慶応の経済に入りし」と。
鶴崎裕雄生来り、「大映に入れし。大阪勤務」と。めでたしと云へば喜ぶ。これも菓子賜ふ。
八木嬢帰り鶴橋生帰りしあと、山本嘉蔵氏待ちしに遂に来らず、憂鬱となる。悠紀子帰り来り、飯食はず風呂へゆき、帰って寝てしまふ。
飯沢匡(飯沢紀)氏へ田中正平のこと書く。純正調pianoを『オール読物4月号』に書けば也。
夕方より雪。夜半、山本嘉蔵氏へ礼状。村松正俊氏へ礼と「春の日の会」に出たまふなと。
3月29日
寒し。9:30原田淑人先生へと菓子もち出しも会へず。つまらぬ映画(オードリー・ヘプバーン)見て帰る。悠紀子もの云はず夕食くふ。〒なし。
3月30日(日)
大江叔母より「正浩発熱、出られず。来よ」と。浜谷、古田2生「信州より1日上京、芝本旅館に電話せよ」と。
防衛大渡辺氏より問題送れと。林満寿氏へ礼状。防衛大へ「近世の印度」の題送る。
出て渋谷にてアブサンのみてゆけば千草帰りしあとと「城平叔父、右半身不随となり、康平叔父は腰立たずなりし。曽祖父の名知らぬはお前だけ」
云々。正平、まみ子高円寺に室きめしと。17:00すぎ出て帰宅。
けふbiscuits大缶もち運び神経苛立ちし。
3月31日
晴。8:30家を出て東十条の古川(佐藤)政記氏を訪ひ、beerのまされて語る。シベリアに3年ゐし話、面白くききし。前川佐美雄氏を呼ばんと云ふ。12:00帰宅。15:00入浴。
17:00八木嬢来り、「岡田氏より紹介受け、田中日比谷館長に会ひしに予算なくて云々」と。履歴書忘れしと。20:00まで悠紀子待ちしも帰らず(依子に帽子賜ふ)。トロリーbusにて亀戸までゆき高野宅へ送りしに勝美夫妻不在。出れば明子氏帰り来り、ちょっと話して出る(明日帰ると。履歴書2通預る)。亀戸までtaxi(80)。帰れば皆ねてゐて起きず。
(飯沢匡氏より「田辺寿雄氏のことにて田中博士は知らず」と。江口、前田2氏より寄せ書)。
4月1日
晴。依子けふより富士銀行員となり本店へ出てゆく。前川佐美雄氏より速達「すず子君の4、5月分の下宿を中央線に探せ」と。杉浦宅の所を悠紀子をして田辺東司氏に訊ねしむ。吉祥寺と。堀多恵子氏「日暮里に転居」と。
12:00出て池袋。西武dept.に宮崎智慧氏訪ねしも不在。成城大学教務課に電話して木曜第1限を許せと云へば「伝へおく」と。
吉祥寺下車、杉浦美知子夫人訪ね、正一郎君の最期きき、長女の戸山高校補習科、次女の西高校入学をきき、「室建てましの為、お世話できず」ときき乍らbeerご馳走となって竹内(※竹内好)にゆけば「『不二』とはどんな関係か」ときく。「中野清見の出版記念会を月半ばすぎにやる。春夫先生の翻訳の下請けせよ」とききて三鷹にゆき、浅野建夫待ちて「雑賀留夫君、入試の斡旋す」ときき、論文の字句訂正引受けて、すし御馳走となり外出の夫人に会へずして出、思ひつきて東京駅にゆき、大和号の列見しも八木母子見えず。天理にゆく南方史研究会の某君に遇ひ、島居君への紹介の名刺かく。
帰れば増田春恵より「熊本大学工学部機械科教室に勤めることとなりし」と。
悠紀子眠りをり。
4月2日
江口三五氏へハガキ書き、浜谷生へ電話、11:00八重洲口で待合すこととす。杉浦美知子氏へ「断られしや否や」の問合せ。
悠紀子、退職手当5,000+2,000もらひしと。10:00出て西川訪ね、保証人承諾せしめ、書類は悠紀子取りにゆくと云ふ。
ついで浜谷、古田2生に会ひ、有楽町より日比谷公園、有楽町で昼食を浜谷生にふるまはれ、別れて古田房子のみ我家に伴ふ。
成城大学より「木曜第1限を土曜第2限に変へる」と。城平叔父より「謝す」と。安水稔和氏よりのハガキと見て、しばらく話し、山本恭子(東急apart)に電話して古田生ゆかせぬと云ひ、ともに神田。演劇関係の本見せてのち喫茶。神田駅前にて夕食くはせ(240)、小網町までtaxiにて送り(70)、帰宅すれば和田先生より速達「原田先生のおかげにて聖心大きまりさうゆゑ、明日午后、海老沢氏に会ひにゆけ」と。
けふ史、柏井(母方実家)へゆく。(水道橋にて中河与一氏に会ひ、成城出講を申上ぐ)。
4月3日
杉浦美知子氏へ「断られしや否はっきりせず」とハガキ書き、米沢昭子「10月伊沢姓となる。東京銀行行員」と。宮本正都氏より「筑摩の『現代詩集』と村上氏の四季詩集?で見た」と。
12:00前出て聖心女子大へ13:00前着き、海老沢氏ゐずとのことに散歩し、のちほど会へば「和田先生の代りに東洋近世史を2時間」と。海老沢氏は立教出にて高慢。ものいひ知らぬに呆れしも、和田先生に大学院講師留任を条件に電話かけるをきき、17日(木)また来ると決めて出、青年座に寄りしに大をらず。
池袋に下車。busにて帰宅。けふ悠紀子class会に京つれゆき、弓子は映画。依子は新入社員歓迎会とてみなおそく、夕食19:00。
悠紀子、千草に会ひ極貧の話ききしと。秀樹、横浜大の発表明日と。
4月4日
防衛大渡辺氏より速達。すぐ採点(D)し、速達し、「手当いつ呉れるや」と訊ぬ。
浅野建夫へ原稿書留にて返送。悠紀子をして東洋大、西川英夫にゆかしむ。和田先生へ謝し奉ると手紙。
田中順二郎氏より「2日10:00長男出産、章博と名づける予定」と。角川書店より『立原道造全集月報』の稿料2,500−375=2,125来る。散髪す(120)。午后、芳野清君より「東京通信」よんだと。
16:00出て東京駅、産経へゆき田中順二郎君に会ひ、お産軽かりしときき、taxiにて帝国ホテル(山本恭子・島宏(※島秀雄長男)披露宴)。
受付にて祝辞の交渉受け、藤助夫人、花嫁に会ふ。待合室にて浜谷生、米川生(英文)と話し、西垣脩君と話す。席は山本敬子・敦子の父母と同じ。国鉄総裁、いすず自動車社長、辻村太郎博士などのあと、花嫁の紹介さされ、卒業のreport「向井去来」の出色なりしことを云ふ。すみてひとり出、帰宅。
4月5日
晴。立教大学より出講希望時間を第3希望までと。「火、木、金の午前中」を以て答ふ。昼寐して12:00となり、東洋文庫へゆけば岩井主事不在。閲覧券書きかへてもらひ、吉田金一氏に会ふ。『明清史料乙編』写し、和田先生のお声するに気づきしもお会ひ奉らず、出て『白居易』買ひ、高橋新吉に遇ひ、自己紹介すれば角川文庫『新吉詩集』呉る。うれし。帰宅。
山根忠雄氏より「15日頃第2詩集出す」と。八木嬢より1日11:00離京と。杉浦美知子氏より「他に心当り探す」と。山本嘉蔵氏より「藤田邸にておそくなりし」と。
入浴。夕食。子らのするたこ焼食って畑山博氏訪ね、「三波元貫氏わが上を案じらる」ときく。八木嬢へ返事。
4月6日(日)
曇。村松、井上2氏に『果樹園』送る。硲晃氏より「坪井明君、富田林高校長となりし」と。
平凡社より『ある日本人』の会、12日18:00如水会館にてと。成城大学より2年以上14日(月)詩業。1年は23日(水)よりと。印鑑証明書必要とて悠紀子、西川夫人に電話す。
来客なし。(中野英夫の消息なきは不審なり)。史、退屈す。
4月7日
曇。2児学校はじまる。硲、芳野清、宮本正都、増田春恵の諸氏へハガキ。服部三樹子氏より「代々木山谷の後町工務店にあり」と。
昼、千草来り、「秀樹横浜大学も落ちし」と。ぐだぐだと陽生の無力無反省を云ふ。
われ区役所出張所へ二度往復して印鑑証明書とり来る。(西川君の分は会社にありとて、史とりにゆく)。
後藤末雄『支那四千年史(40)』。14:30悠紀子、千草とともに出て三鷹の田中雅子夫人見舞にゆく。
夕方、大森倖二氏『東洋大学紀要12』と抜刷100部とを持参、慷慨の言をなす。悠紀子18:30帰来。
4月8日
曇。小高根二郎、服部三樹子2氏にハガキ。岩崎昭弥君より「19、20日上京」と。白鳥きみ子夫人より「郁郎氏詩集幾冊必要か」と。
王子税務署より10,220還付すと。13:00出て東洋文庫。岩井主事に「アイタ」(※「アイタの伝記:東洋大学紀要抜刷」)贈呈。田川孝三氏に同。『明清史料乙編』写し、15:00大塚仲町まで都電。東方文化研究所の松本善海訪ね、出てまた都電。
西武dept.の宮崎智慧氏訪へば「東博氏より前川氏の借室の件ききしが心当りなし」と。
出て林dr.。明日の「春の日の会」にゆくと。芳賀檀氏、高血圧と。whisky入りの紅茶ご馳走となり向原より都電にて帰宅。櫻田悟朗生より礼状。
4月9日
曇。岩崎君へ「19、20日両日待つ」と。櫻田生へ返事。太田陽子夫人より「明日10日さくら7号車にて着京」と。
村松正俊教授より「老子ならびに道徳教の英独仏語で出てゐるものを教へよ」と。
吉田東洲氏の『燃ゆる神曲』出版記念会を21日(月)14:00より三笠会館でと。
雨の中を12:30出て東洋文庫。cardの老子関係を写し、14:00出て駒込、両国をへて清澄庭園の「春の日の会」にゆく。
長谷川氏(※長谷川幸雄)の司会。先生、奥様に御挨拶申上ぐ。浅野晃氏「収入なくて困る」と。
中谷孝雄夫人、亀井勝一郎、林富士馬、外村繁、井上靖(われを人間わるしと云ひしことなしと)、邱永漢、檀一雄、山之口獏(琉球踊りを指揮す。われ思はず落涙せし)などの諸氏に挨拶し、浅野氏の見えざるに不審がりつつ退席。(竹田龍児氏に挨拶受け「Aita」(※東洋大学紀要「アイタの伝記」)贈りし)。
井上靖の詩集評2枚を書くことを約す(16日締切)。酔発して苦しく、両国駅まで歩きて帰宅。
八木嬢より履歴書おくれると。島恭子夫人、新婚旅行先より礼状。
4月10日
田村春雄氏より速達にて「上野小島館にあり」と。すぐ電話せしに今夕18:30宿を訪ぬることとす。
村松氏へ老子のlist。芳賀檀邸に電話すれば不在。『果樹園』に「東京通信」6枚かく。竹田龍児氏へ「清初の奴隷」の抜刷贈る。昨日吉森(藤原)幸子夫人、東大入学の弟をつれて来りしと。大江房子より「叔母6日帰阪した」と。防衛大学渡辺氏より「手当近々送る」と。
林満寿夫人より「保田父君『不二』を見て喜びゐる。与重郎君、嵐山に新築の計画」と。
渡辺三七子生より「元気」と。社長父子上京のことはいはず。白鳥きみ子夫人に「郁郎氏詩集(※『しりうす』10冊頒けよ)」と。
19:00出て上野小島館にゆけば春雄博士まだ帰らずと。駅に引返せば遇ひ、ともに喫茶。18:30一旦別れて東京駅にゆきみれば「さくら」は19:50と。やめて上野に引返し入浴中の春雄君待ち、夕食賜はって丸と電話させ、東京、大阪の話し、21:00となりて出てまた喫茶。「明夜、来たまへ。12日如水会館へ来たまへ」と云ひて別る。春雄君、大東dr.を知ると。清徳保男君母堂卒中と。
4月11日
よべ中夜目覚め苦し。『帝塚山文芸クラブ通信9』堺より送り来る。立教大学より火曜第1時限(8:30〜)に定めしと。井上靖氏詩集、共同通信社小塙学氏より速達。
午后の便にて『満文老檔V』。服部三樹子氏より「13日午后来訪」と。20:00田村春雄君、cakeもちて来訪。子ら見てもらひ、小泉丹『眉毛眼上集』と『悲歌』と贈る。
4月12日
史、けふ帰ると。事情説明す。谷口氏に電話して太田氏の電話きき、陽子夫人に礼云ふ。
東洋文庫へゆき「Gûlumalûn」を『八旗通志初集』で見しに康熙[●]の微臣。老檔註の誤れるを知りしのみ。
帰れば防衛大学より4,080来をり! 村松正俊教授より(※東洋大学)1週4日勤務がならはしとなり、バカらしくてやめたと。保田父君よりたより。
史、出発とて悠紀子に500円借り平鋼治君に『concise』を買ひてわたせといひ、畠山氏への礼状、硲君へ「Aita」抜刷を托す。史、「大に会ひにゆき500もらひし」と。
17:00出て新庚申塚をへて都電にて一ツ橋。如水会館にゆけば無人(※中野清見『ある日本人』の会)。やがて同窓にては阪本、黒野両先輩、久保(※久保光男)、竹内(※竹内好)、原田(※原田運治)、丸(※丸三郎)、西川(※西川英夫)。鶴身祐輔令息俊輔はじめ20人足らず。山本治雄来ることとなりゐしに来ず。田村春雄氏も現はれず。
21:30散会、神田で喫茶後、新宿へtaxiで出て伊藤佐喜雄の「リヨン」といふへ行けば閉めをり、近所で酒ちょっとのみて0時帰宅。
4月13日(日)
前川佐美雄氏より速達「阿佐谷の友人宅に置いてもらふゆゑよろし」と。海老沢有道氏より「25日(金)13:10〜15:00まで東洋近世史・近代史」と。火曜(15日)に会ひたしと。
杉浦美知子夫人へ謝り状を速達で出し、海老沢氏へ「15日午后ゆけず16日又は17日に変へてくれぬか。15日電話にて訊ねる」と。
依子の友だち来り、午すぎまで居り、14:00服部三樹子氏来り、「職なく6ヶ月の失業保険にてゆく」と。意外なるにおどろき、更に図書館にて人待たすといふに来てもらへば京都人の叟。話してport-wine1瓶おきて帰りしあと、17:00案内せしは井上睦子。「熱海旅行のあと父母と
別れ、長兄と来り一眼見ればと思ひて来し」と。待ちゐる兄にことはらし、20:00まで話し銀座2丁目の宿まで送りゆき、兄に会ふにろくに挨拶せず。街角まで送られ握手して別る。
4月14日
9:00悠紀子に三菱銀行王子支店へゆかしめしに防衛大学の手当呉れし。定期買はんとせしに新宿まで一ヶ月690にて安くなし。
11:30成城学園前駅にゆけば丸令嬢をり挨拶す。短大英文2年にして中国文学史きくと。ゆきて栗山教授問へば不在と。教務課長に教室その他きき「文芸学部開講は来週より」と。
短大と合併の明日の文学史は休講ときめ、折柄来合せし栗山部長に『天理図書館写真集』贈り、忙しときき、図書館に寄り池田教授(※池田勉)に挨拶す。『果樹園』このごろ来ずと。
出て祖師谷大蔵で下車、中華そば食ひ、青山定雄氏訪ひて聖心女子大のこと訪ぬ。
経堂に下車、小高根太郎と話し、母上の元気に帰宅したまふを見る。『日本民族の起源』借る。『日本文化史概説(20)』買ふ。
梅ヶ丘の和田先生お訪ねせしに御不在。夜おそくまで基督教大学と。明日お電話するといひて出、池袋下車。立教大学へゆき手塚隆義教授訪ねしに「学科指導」と。「明日再訪」といひて帰宅。
硲晃君より「驚きし」と。入浴、疲れゐるに気づく。
4月15日
悠紀子、都庁へ住宅の空家の申込みにゆき10:30帰り来る。梅ヶ丘に2室670円のがありしと。
出て立教大学。手塚氏訪ぬれば海老沢氏も在り。立教は聴講なきやもしれずと。海老沢氏に14:00ゆくと云ひ、出て渋谷。神泉町23田中といふを訪ねまはり12:30着けば坂根千鶴子不在。同居の奥さんに『果樹園』托し、中華そば食ひて青年座にゆけば、大の室の掃除をArbeitとするといふactress親切にことづけ聞いてくれる。
聖心大にゆけば院長新入生に訓話しをり、海老沢部長に案内されて見物す。ここは元久邇宮邸と。15:00まへ院長に紹介さる。和田先生に参りて報告せんと思ひしも金なくて帰宅。
竹田龍児氏よりの受取見る。『薔薇38号』来る。古川政記氏より「日本歌人の会20日13:00Hotel松平にて」と。
足痛くねてをれば坂根生来り「芸術座の試験おちし」と。母にも便りせず恋愛しゐると。夕食して18:00帰りゆく(金曜再来と)。
和田先生にお電話して「明日午前中お訪ねする」といひ、あとであはてて詩集『北国』(※井上靖詩集)の評の草稿かく。
4月16日
曇。9:00まへ出て日比谷共同通信にゆき、原稿を受付にわたし、日比谷より経堂行のbusにのり世田谷区役所前で下車、20分歩いて和田先生をお訪ねし、お礼申上ぐ。原田先生2度も往来したまひしと。「近世史は清初よりでよし。早くやるとすんで了ふぜ」と。「ハルハ五部」およみいただき、わが説よかりしと。
出て新宿。中村屋で羊羹買ひ、原田淑人先生お訪ねし、お礼申上ぐれば和田先生もここへ訪ねられしと。聖心女子大気持よき学校なりと。
トロリーbusにて池袋。(日比谷より五味氏に電話すれば前川夫人未着と五味氏の声なりし)。
宮崎智慧氏訪ね、20日(日)「日本歌人の会」にゆかずと云ひて帰宅すれば岩崎昭弥より「20日来ず」と!
田中秀子生より「寺本生東京に嫁ぎ来る」と。めでたし。悠紀子をして丸夫人に電話かけしめ「明日ゆく」と云ふ。
4月17日
8:30家を出、新宿をへて丸家に10:00着き、丸と話し、丸夫人より末嬢(ゆみ子)通学を校医より禁じられしときき、これをも浅野君に見せることすすめ、1:00高円寺駅。12:00まへ浅野邸につき、坊やの話すれば「転地させよ」と。嬢は証明書かく故通学させよと。
12:30出て三鷹駅前ですし食はされ、吉祥寺で別れぎは、浅野君の小池校医への手紙を坊やにもちゆかせしに気づく。
別れて亀井勝一郎氏に会へば、東洋思想講座(※至文堂)第4巻に「愛情とその表現の特徴――東洋の感受性と発想法」3、40枚を5月一杯に書けと。
出て吉祥寺医院に森良雄訪ね、coffeeのまされて話きく。『文芸春秋』にpen-nameで書きしことありと。杉浦家を訪ねずして帰宅。古田房子生より礼状。
4月18日
雨のち曇。『ユリイカ』5月号来り、朔太郎号なり。
坂根千鶴子来りしゆゑ山本陽子の見舞を命ず。井上睦子より「このあひだロビーへも上げずに」とあやまり来る。
4月19日
晴。羽田へ抜刷5冊(里井、三田村2氏への分も)。小高根二郎氏へ雑誌類転送。
悠紀子、職安へと出てゆく。保田槌三郎翁、林満寿氏へハガキ。羽田へも一筆。
丸よりハガキ「休学承知して帰宅した。運動せぬやうに」と。悠紀子、職なしと帰り来る。
午后、弓子のPTAに悠紀子ゆく。島居清氏より「中田氏よりの伝言きいた。杉浦の芭蕉の研究の校正やりをる」と。
城平叔父より「英和辞典もらった。正平たちの住所中野区大和町32三和荘」と。山根忠雄氏より『詩集岩に刻む』60p100円。
金環蝕の日とて曇りしあと入浴。帰りて昼寐してをれば岩崎昭弥君来訪。
(悠紀子PTAにて依子の不遜を云はれ、向丘高校の及落の境目とききしと)。
ともに夕食し、『文芸日本』の月例会へ浅野晃氏に会ひにゆくといふに、案内かたがたゆけば浅野氏欠席。榊山潤氏と葉山君(尾崎秀実の弟といふをあとで林君よりきく)。林富士馬君中座せしとて待ち、21:00となり浅野氏に電話せしもかからず、その詩よきをほめて散会。
林君と岩崎君を駅まで送り、林君の家にゆき、茶よばれて向原より帰宅。
依子すでに眠りをり、本俸6,000+臨時手当3,480−(保険料280、住宅預金1,000、ソロバン代900、その他にて2,705)=6,775。家へ3,000入れしと。
4月20日(日)
都営住宅の抽籤番号来しのみ。田村春雄へのハガキ投函して信濃町。野球と創価学会の葬式にて混雑。堤夫人、在原夫人などおぼえる。五味邸へ電話すれば「緑夫人あす朝8:30東京着」と。石川信夫氏来り、17:00までゐて帰宅。
4月21日
8:30出て成城大学へゆけば短大の入学式と。教務の女史にのちほど云ひてあやまられる。中河与一先生を訪ひ『誘惑の谷』いただく。『探美の夜』の紹介せよと。幹子夫人も出らる。高校へ寄り山川京子氏と会ひ、漢文の教諭新垣淑明氏に紹介さる。庶務課長に会ひしに「専任でなきゆゑ通勤証明書出せず」と。
busにて東宝砧撮影所へゆけば「柴山胖、重役になり所長やめしも今来りをる」と。やがて秘書来り、忙しくて会へずと。
またbusにて農大前。矢野長官を訪ねしに「10月10日にはSumatra会しゐる。戦犯獄中記400枚を出版社に紹介せよ。住友住宅の芥を注意せよ」と。句集『赤道標』賜ふ。
大江に寄り房子君に会へば、正平君わが家訪問したしと道たずねしと。出て小高根家へ寄れば太郎君不在。道にて母上に会ふ。新宿をへて帰宅。
八木嬢より履歴書2枚。「島居氏にもてなされしは阿部秋生か」と。正平へ道筋かきしハガキ出す。(矢野閣下新婚にて中山久四郎博士の姪が夫人と)。
4月22日
晴。7:30出て8:20立教大学へゆき、教務と話す中、手塚教授来り、一応T3といふ裏階段3階の神学研究室へゆきしも誰も来ず。『臨川書目』など見て40分待ち、研究室にゆきて山田昭次副手と話し、手塚、海老沢、林助教授とゐる処へ、貫東洋大助教授も現はれ大学院みな学生なきらし。
11:00手塚氏と会計へゆき、salary4,500−375もらひ、文学部長菅円治氏(悠紀子習ひしと)に挨拶し、出て帰宅。
昼食して12:20急ぎ成城大学へゆけば13:30。栗山部長と話し、服部三樹子氏の口ふさがりしを知る。庶務課長に電話して証明書出ることとなる。301号室へゆけば文学4人に短大6人ほど中国文学史なりしことを知り、開講の辞しばらくやりて講師室にかへり(4月分車馬代30日に払ふ。
今後は21日と掲示あり)、庶務課にゆきて証明書もらひ、池袋にて西武dept.7階にゆきしに宮崎女史忙しく、餡蜜くひ五味邸に電話せしもかからず、busにて帰宅。
けふ島恭子より新居の通知。史より「畠山家に(※家庭教師)1週2時間ゆくこととなりし」と。羽田君より「抜刷つきし」と。
(けふ三浦久子氏に悠紀子をして電話せしめれば私学組合の金1〜1.5月かかると。その3月分とりに来ると)。
正平君来り、「明夜、城平叔父泊るゆゑ会ひたし」と也。床のべてゐれば訪はれしは藤田亮策先生にて「困りゐるなら講師の口にて来しも、そんなに行ってゐるならもうよし云々」。がっかりして駟も舌に及ばず也。「Aita」もちてお帰りになりし。
21:00すぎ五味宅の緑夫人に電話し「27日(日)1:00西武婦人Hallで会ふ」こととせし。(けふ池袋で武部利男『李白』上(※中國詩人
選集)140で買ひし)。
4月23日
雲。島(山本)恭子へハガキ。山本嘉蔵氏へ同。散髪にゆけば勤務評定反対の休校に憤慨する秋田の叟ありし。
丸夫人に電話すれば「タケ敏発熱した。ユミ子云々」と。岩崎昭弥君より「当日21:00に岐阜へ着いた」と。
13:00出て都電にて神田明神前にゆき、ふと医科歯科大に田中克己dr.を訪へば在室。「明治44年生れ」と。『Heine恋愛詩集』買ひ賜ひ
しと。いろいろ話してのち筑摩書房へゆき東博氏呼び出してcoffeeのまされ、前川氏上京につきいへば「弟子たちたよりなく、東京にては有名ならず云々」と。石川信夫氏も来るとのことなりしも出て、都民銀行神田支店へゆけば加藤定雄をり、「嬢ちゃん聖心の英文2年と。この間平凡社の常務と話せし」と。
出て都電にて九段上、角川書店へゆけば志肇氏不在。飯田橋より国鉄にて高円寺。途あるく中、正平君に会ひ、きけば城平叔父より「おそくなるゆゑ夕飯いらず」と電報来しと。一度apartへゆきマミ子君のこさへし夕食くひ、正平君の買ひ来しbeerのむ中、20:00をすぎ、丸にゆくとて送りてもらひ、ゆけば丸帰宅せしところ。喧嘩せぬかと心配してハガキ書きし由。いちごよばれて受験参考書もらひて帰宅。
渡辺三七子より「忙しくて休暇もらへず」と。けふ正平君にきけば「大江叔父十合を退職した」と。
4月24日
共同通信社小塙学氏より『東京タイムス』4月21日号(※井上靖詩集評)。村上新太郎氏より「詩呉れ」と。
12:00出て立教大学へゆき白鳥先生にお会ひすれば「郁郎君の詩集まだ送れず」と。忙しくされるゆゑ出て(宮本、小林2氏と会ふ)、佐々木喜市先生訪ひしも不在。
駅前の古本屋にて吉川博士『詩経国風 上(140)』買ひ、疲れて帰宅。
昼寐しゐれば畠山氏より「史を家庭教師にする」と。坪井明君より高校長就任の挨拶。
4月25日
11:00までnote作りし、昼食して聖心へと出、渋谷で大に電話かければ不在。早めに女子大に着けば青山定雄教授をられ、田中保隆氏より挨拶受く。
やがて和田先生お越しになる。東洋近世史と近代史とを45分づつやり、疲る。出て渋谷で青年座に電話せしも大をらず。帰宅。
〒なく金なし。鳥居清、畠山六右衛門2氏に礼状。
4月26日
成城大へ出講。暉峻康隆氏と話す。「中村(※中村幸彦)、九大教授となりし」と。高田瑞穂教授と話す。
中国文学やり、宮崎幸三氏に電話すれば「在宅」と。busにて三軒茶屋。駒沢まで電車にのりてゆけば無聊と。「(※東洋大学に対する)遺恨忘れず」といひて出る。
渋谷青年座にゆけば大の居場所教へてくれ、電話せしに「日活の仕事中」と。
昼食せずに15:00帰宅。高林生(防大)より退院ののち訪問し来ると。福地邦樹君より「令弟今年も芸大失敗」と。
立教大学より5月5日の会の案内。入浴し、福地、山根、防大渡辺3氏にハガキ。石浜恒夫氏より『日本アンデルセン』。
夜、前川夫人より「29日に会合変更となった故、同日11:00西武婦人Hallで会ひたし」と速達。
4月27日(日)
立教大学へ5日の会欠席の通知。八木、正平2氏へハガキ。(正平・まみ子2人づれにて連休の一日来よと)。
共同通信より稿料(2,000−300)。硲君より「Aita」2部を誰にわたすべきかと。石井英雄生(東洋大学国史)より「続群書類従完成会に勤めゐる」と。
依子、八木嬢よりの金にて買ひし布地を自ら裁ち縫ふ。
夕食後、悠紀子にすすめられ鈴木俊先輩を金町に訪ひ伺へば「中野英夫より挨拶なし」と。市古宙三、松崎寿和2氏の眼前にて1,000を佐野利一氏遺児教育資金にと出す。7万円ほど集りしと。
某教授より入学斡旋の礼といふwhiskyご馳走となり、雨中を駅まで送られて帰る。中野英夫へ「スマナカツタナ」とハガキ。
4月28日
成城大へ出講。李白のprint切り、今宮中学出で天理図書館で話せしといふ高城氏、われが詩人なることを知る富永次郎氏、台北高校でわが話ききしといふ上原助教授と話す。龍口直太郎氏とは話さざりし。
短大1年に私語して不快なる2人あり、叱りてさらに不快。疲れて考へながら田中順二郎邸訪へば疔とかにて欠勤、在宅。北野母君と美千子君の芸に笑ひつつ出て、また不快となる。17:00帰宅。
兼頭淳子生より「専攻科にのこりし」と。角川書店齋藤和生氏より『蕪村・一茶』の再版。
夜、萩原葉子氏より速達にて明日の演奏会の切符。けふ悠紀子、銀行へゆき1,700とり来りしと。硲晃氏へハガキ。
4月29日
10:30家を出てbusにて西武dept.7階婦人Hallにて宮崎智慧女史と話しつつ待てば、前川緑夫人11:45に現はれ、ともに茶のみつ
つ話きけば、「すず子君6月竣工の哲学堂apartとやらに2間約束されをり、芸大の男生と先生とにつく」と。「前川氏、半分東京伴ひす」と。「6月来たまひし時、ゆっくり計画立てたまへ」と云ひ、12:15別れて千駄ヶ谷。
日本青年館へゆき、萩原葉子さん見当らず。14:30までmandolineの演奏きき、廊下に出れば萩原さん母子に会ふ。『蕪村・一茶』贈り、昼食くはざればふらふらと原宿まで歩き、渋谷よりまた大のapart探しつつゆき(朝、悠紀子に電話さし在室たしかめありし)、pão食ひつつ「毎月3,000を京都(※実家)へ送れ」といひ、承諾せしめて出、帰宅。
服部三樹子氏、いちご持ちて来しと。和田博徳氏より「Aita」受取りしと。『不二』わが歌をのす。
4月30日
8:30家を出て成城大学。6日(火)の中国文学史のため詩経抄のprint切り、了へて会計課へゆけば13:00まで車代出ずと。待つ中、野田宇太郎氏来り、田中正平博士のこと話す。15、6日まで九州旅行と。
13:30会計課へゆきはじめてsalary見れば15,000−1,788=13,212、ありがたし。
出て駅前にて後町工務店に電話かけて服部三樹子氏呼び出し、南新宿で待ち合すこととし、30分後会ひて喫茶。別れて代々木より飯田橋。角川書店にゆけば志摩、齋藤、角川の3氏みな不在。
歩きて蒲池氏に寄り転職のこと報告す。勝承夫氏に会ひて「手おくれなりし」と聞きしと。
山本書店で倉石『中国文学史簡話(100)』買ひ、加藤定雄のぞきしも不在。筑摩へゆく気なくなり、お茶の水より帰宅。
田中万美子より「休みに来られず。正平は来る。四家文子女史の独唱会の切符売れ」と。『東洋史研究16の4』。
5月1日
父、史へ手紙同封4,000送らす。本位田重美氏へ成城大学出講の挨拶。
王子税務署より「計算のまちがひ発見した」と6日の呼出し状。東洋史談話会より「10日14:00」と。
今中みよ子生より今先生に会ったと(4月28日)。今中生へ返事。入浴。聖心女子大のnote作りに腐心す。兼頭生へハガキ。
5月2日
悠紀子、職安へゆきしも締切りあとと帰来。田中順二郎氏より祝返しに石鹸。中河与一氏より「金言を云へ」と。正平より「3日午后来る」と。鈴木俊氏より受取。
11:30出て聖心女子大に着きしは12:30。和田先生来られるまで話相手なし。講義くはしくゆっくりやりしもnote不足ぎみなり。
Salary650×4−208=2,392もらふ。和田先生に都電下通まで案内していただき渋谷でお別れし、角川へゆかんと都電にのりしも青山一丁目で下車。間組に池田徹訪ぬれば不在。また都電にのり駿台下にゆき、加藤定雄訪ぬれば旅行らし。古本屋見てMacaulay『LordClive(20)』買ひ、国電にて帰宅。
鈴木登美子より「三野姓となりし」と。中千枝子より「寺本和代、二坂姓となり上京、中野区に住む」と。(和田先生「藤野彪君急死、きみ後任にゆかないか(※愛媛大学)」と。おことはりす。)
5月3日
憲法発布記念日と。依子出てゆく。鈴木俊氏へわび状。中千枝子氏へ絵ハガキ。共同通信社小塙学氏より『南日本新聞』(※井上靖詩集評)。
15:00正平君来訪。Davis’ Cup戦に日本teamの負けるをきき、夕食たべさし四家文子女史の切符もち帰りもらふ。
5月4日(日)
『果樹園』28来る。増田春恵より便り。萩原葉子氏より礼状。昼食後、畑山博氏訪へば「高校の夜学へゆけば如何に」と。碁4番打ち負けて帰る。
けふ11:30小島樹氏、坊やつれて来り、武田泰淳の『司馬遷』の文庫名訊ぬ。岡崎文夫『司馬遷』貸す。ちまきと柏餅とを賜ふ。
5月5日
子どもの日と。東順子氏より京都府立医大生と婚約、『果樹園』見たと。青木大乗展5月6日〜11日高島屋6階でと。
昼食して藤田亮策先生へお礼に伺ひしも無人。小高根二郎、東順子氏へヱハガキ。柴田武『日本の方言』買ふ。
5月6日
8:15立教大へゆき手塚教授に会ひてきけば「聴講のあるなし不明」と。T3室で40分待ち、図書館へゆき武田泰淳『司馬遷』しらべしもなく、研究室へゆき山田助手にいへばしらべてくれ、創元文庫昭和27年発行と。海老沢、林2氏のほか、小林、野々村2教授に会ふ。
11:00出て新宿で昼食。
12:00すぎ成城大へ着き、高田瑞穂氏と池田勉氏に『果樹園』わたし(池田春三君いま県庁の課長と)、短大主事の坂本浩氏にゆけば出席40人。
まだ15人はゐるらしくprint刷り直しとなりてくさる。丸令嬢をりし。
出て小高根太郎に行かんとすれば経堂の駅にをり、同車して池袋まで来る。
史より「もう本なし」と。瀧口喜久子生より「泉大津へ転任した」と、めでたし。野村朝子より「4月15日以降在京、会ひたし」と。史と野村生へハガキ。
けふ悠紀子、王子税務署へゆき「50%控除みとめられず1,020出せ」と云はれしと。小島樹氏、瀧口喜久子、三野(鈴木)登美子2生へ返事。
5月7日
9:30出て都電にて高島屋の青木大乗展。画伯夫妻をられ「弥与子生は明日着京」と。やや話して増築の東京建物へゆけば、西川「王子英語学校主、
渡辺氏に話さん」と。出てお茶の水。満江巌『聖フランシスコ・ザビエル(30)』買ひて、加藤定雄訪へば風邪欠勤と。
小山正孝氏に電話し、東方学会へ寄り校正未だ出来ずとききて昼食。小山君に角川の知合の名ききてより、思ひつきて東京ライフ社へ寄れば「齋藤晌教授けふ駿河台」と。矢野氏の話(※矢野兼三の獄中記)すれば「原稿見てよし」と。元々社あとへゆき、しばらく待ちていつ来られるか不明とのことに名刺置き、角川へゆき齋藤和生氏に初対面。「印税10日出る」と。
矢野氏の句集預け、「志摩氏にきいて呉れ」と云ひ、至文堂へゆく途、紙入れなきに気付き、受付のお嬢さんに探してもらひ、また国鉄にて駿河台。
齋藤氏に会へ、「訴訟やっと書類出来て13日かに初公判」と。喜びて出、いやいや筑摩にゆき土井氏に会ひて転任いひ、稿料10日すぎときき「仕事与へたまへ」といひして東博氏に赤面しつつ会ひてのち、都電にて帰宅。
西宮君より「3日の2回生の会13人出席、樫本氏わが転任知りをる」と。鶴崎裕雄より「三原に出張した」と。東方学会より「23日(金)10:30〜17:00霞山会館にて国際東方者会議」と。
宮崎幸三氏に電話かけて齋藤氏のこと云へば「近々会合せん」と。村松氏転任を(※東洋大学当局が)許さずと。
5月8日
村松正俊氏に電話し、短大への転任妨害されをると宮崎氏にききしをただせば、話合中と。
立教大学史学研究室より「本年度単位取得者なし」と。昼食後、十条へ岩波文庫『論語(20)』探しにゆく。
西宮一民、坪井明、石井英雄、増田春恵の諸君にハガキ。坪井明よりいれちがひに「21日上京、24,5日まで在京、会ひたし」と。硲晃氏より「藤井、羽倉2氏と会ひ、わが事案じゐしと。旅行は6月4日又は5日着京」と。
山中タヅ子生よりハガキ。根木薫生より手紙。15:00銭湯へゆかんとせしところへ坂根千鶴子来訪、「渡辺、井上、山本陽子に会ひし」と。夕食して19:00帰る。中河与一先生へ『論語』より引用して送る。
5月9日
『ラマンチャ』来り、中に三浦久子氏の手紙あり。「近々猪俣君つれて来る」と。平凡社より稿料870−130=740。寺本和代生より「中野区桜山町25山田荘に住む」と。婿養子らし。
小高根二郎君より3君の書評ぜひ書けと。出て聖心女子大。だんだん講義旨くゆく様子なり。和田先生、藤野君の死をまた説かれ、「君、いまにここでも好かれるよ」と。
大塚で一度下車、都電にて帰宅。夕食すませしあと野村朝子生来り、「televiのanouncerになれし」と。21:00すぎまで話してゆく。八木嬢より手紙。
5月10日
8:40出て成城大。暉峻康隆博士(!)と話す。「天理図書館へゆく」と。2年の中国文学聴講者20名以内とわかる。売店に『唐詩選』来り1冊呉る。
11:50出て新宿。中華そば食ひ御茶ノ水をへてbusにて東大へゆき研究室。石橋君ゐず、13:50となりて山上会議所へゆき松本善海と会ふ。辛島昇君をおぼえ、あとにて自己紹介す。東洋大学船木助教授「夜学の授業やりゐる」と。大島うそつきし也。松本善海と出てcoffeeおごってもらひ帰宅。(けふ山根君に「Aita」の抜刷6部わたせし)。
小島樹氏より礼状。防衛大学より「履歴書と研究著書論文講演目録折返し至急送れ」と。また高林生のreport送付し来る。夜入浴。
5月11日(日)
雨。角川書店より『ハイネ(※ハイネ恋愛詩集)』8版の印税14,000−2,100=11,900。
東洋文庫より東洋学講座の案内。5月21日〜6月25日毎水曜日。履歴書と業績目録ペン書にし、高林生の採点Cとともに防衛大学へ速達(45)。
根木薫、山中タヅ子、渡辺三七子、安水稔和、羽田明の諸氏へハガキ。
5月12日
雨。8:30出て成城大。詩経のprint切り、富永次郎氏と高田瑞穂氏とまちがへし。龍口直太郎氏に自己紹介す。
14:30すみて帰宅。『東方学』の初校来る。9pとなりをり。羽倉裕景氏より「Aita」受取りしと。渡辺三七子より「白浜へゆく」と。鍛治初江君より「洋裁に通ふ」と。前田光子より「13日17:00勤めすまして来る。簡易保険局に勤めてゐる」と。
「青木政代、東洋Olinpicの水泳の代表となりし」と新聞にあり。『薔薇』へ「向ふ側」。寺本和代、鶴崎裕雄へ返事。『果樹園』に「東京通信」8枚。大田医院の老先生亡くなられしとて悠紀子、香奠もちゆく(500)。松ちゃん梅ちゃん京の友なり。
5月13日
晴。新聞に玉村式索道4月3日より給料不払、工場閉鎖でst.と見ゆ。高橋重臣君より「東京通信はわびしすぎてつらい」と!
12:00出て成城大学。臼井教授と話す人を松村達雄君と知り、高城助教授に紹介さす。長尾良君の友なり。
(栗山部長に防衛大学のこといへば今年は了解も不必要、来年専任となれば37,000近く貰へる筈ゆゑ、その節は兼任整理すべしと也)。
図書館の柳田文庫見せてもらひ、ethnographie(※民族誌)の本も大分あるを知りし。
詩経教へ、すみて坂本氏(※坂本浩)に『果樹園』わたして帰宅。
鈴木(山本)敬子夫人より相生通へ転居の通知と、花井彩生よりのたより見る。前田光子生19:00近くに来り、22:00近く帰りゆく。詩作りたしといふを止めよといふ。
高橋重臣、羽倉裕景、鈴木敬子、鍛治初江、花井彩の諸氏に返事。
5月14日
筑摩書房より『現代詩集』の印税21,188−税3,178−買上=16,120来る。
防衛大学渡辺氏より書類の受取。昼食後、十条へ散歩。この間見付けし春夫先生『白雲去来(70)』買ふ。83pに「この映画は一見するに足るものであったが、さらに史実を知らうとする人があったら、田中克己の『楊貴妃とクレオパトラ』が詳しい」とある也。
帰れば曽根桂子より「新宿松竹座へ出演中、22日(木)17:00来訪」と。藤井通雄氏より「北野高校教頭となった。山川信夫は高津高校長となった」と。
5月15日
島(山本)恭子夫人へ「青木政代の応援にゆけ」とハガキ。午后の便にて三浦久子君より「訪ねて良き日しらせ」と。林富士馬君より「服部女史の会やるのを出すぎとためらふ。北海道より田中克己立候補す」と。
太田陽子夫人より5月3日のclass会の写真。後藤田卓美結婚して藤堂姓となりしと。三浦氏には「土日に来れ」と返事。太田陽子、藤井通雄2氏へハガキ。
5月16日
よべ2:00までねられず。あさ日本書院より『白楽天』の校正の速達。すまして郵便局へ出しにゆき、山村生への手紙とともに出し、散髪屋にゆき、帰れば朝食いまだとりをらざるとわかる。朝食兼ねし食事し、千川より『俳句作家』に蕪村のこと多く書けるを見て、聖心女子大へゆく。
青木氏来ず、和田先生お越し。抜刷3部賜ふ。2時間目の4年生「noteやめ参考書と話とで」と。困りて和田先生に申上ぐれば「(※学生は)いろいろ云ふ」由。
都電で渋谷、先生とお別れし、大塚より林富士馬君にゆけばbeerのまさる。酔ひて帰宅。[●]の人工衛星をソ聯打上げし。
5月17日
成城大へゆく。高田瑞穂氏より国文科の会を20日(火)18:00新宿「秋田」で開くゆゑ出よと。帰り、経堂で下車、中華そばを食へば驟雨。新宿でも止まず、寄り途やめて帰宅すれば止みゐる。
島(山本)恭子夫人より「青木政代の激励承知した」と。西川英夫より「母君逝去、帰阪して坪井明に会ひ、学士会館あたりで会したし」と。聖心女子大小林氏より通勤証明書。
けふ下痢しをり。入浴す。(『東方学』の「ハルハ五部」の再校来をり、すまして王子局へ投函)。
けふ12:30ごろ服部三樹子氏来訪。「成城に電話せしにゐずと云ひし」と。
5月18日(日)
前田光子より「詩を作る」と手紙。家居せしに午すぎ寺本和代生、婿君順吉氏と来訪。「竹中KK東京出張所につとめゐる」と(日本橋小舟町1の2の15)。
けさ西川英夫君に電話し、「坪井の歓迎会は学士会館で、日はその中きめん」と。19:00三浦久子氏、猪俣君(ラマンチャ同人、早大政経)をつれて来る。同君、硲晃氏に習ひしと。22:00去る。
5月19日
成城大学へゆき、『楚辞』のprint切る。漢文早くすませ、午后文化史。すませて世田谷代田より下北沢まで歩き、小堀杏奴『回想(20)』買ふ。堀ノ内歴君より『果樹園』に入れしを喜ぶ。『Viking』を脱退せしと。『日本歌人』の例会25日(日)13:00、Hotel松平にてと。
5月20日
よべより雨。服部三樹子、堀ノ内歴、寺本順吉和代夫妻へハガキ。神田信夫君より「Aita」受取ったと。不二歌道会より「10代の文章を6,7枚、31日までに」と。
12:40家を出しに、雨やみしかば傘おきに帰りて出しに成城にてまた降りをる。松村達雄氏とまた話し、中国文学史やり詩経了ふ。丸嬢をり「用ありや」と問へば「無し」と。
土曜のためprint切り、16:30になれば高尾嬢帰りゆく。下北沢に下車して古本屋にゆきしに町中休業日なりし。「秋田」を探しまはり中華そば食ひ乍らきけば偶然近くなりし。
(※成城大学国文科の会)われを最初に齋藤清衛、栗山[理一]、池田[勉]、坂本[浩]、高田[瑞穂]5教授、山田助教授、今井、内田、野田宇太郎諸講師にて盛会。野田氏と我と話し手にまはる。「土曜13:30より詩の話せよ」と坂本氏に云はれて諾す。21:30散会。ひとり帰る。
(けふ伊藤佐喜雄の店に寄りしにまた無人なり)。
5月21日
猪俣欣也君(世田谷区給田町345伊藤方)よりこの間の礼。
午后はドンボスコ社より『しりうす』10冊(80×10+40)。1冊を坤道(旧伊藤)久子に包む。白鳥郁郎氏の教へ子なりしと也。
川久保悌郎君より「清代に於ける辺疆への罪徒配流について」の抜刷。17:30出て東洋文庫。
東洋大学の学生をり(来週水曜来ると)、藤田亮策先生の話くどかりしが欠点なりしも、宮城県や水沢に前方後円墳の大いなる(径105m)が発見されしといふをききとめし。
和田、桑田両博士お越しなれど話せず、吉田金一氏と話し、白鳥郁郎氏の本贈りて帰宅。西川に電話すれば「明日また電話せよ」と。
5月22日
神近市子(※社会党)に投票。近藤久子、今市佐恵2夫人にハガキ。川久保悌郎君へハガキと「Aita」の抜刷。千川義雄君へ『俳句作家』の礼。堀内民一君へ『奈良県観光』の礼。
15:00西川に電話すれば他出。入浴し、16:30また電話すれば「17:00坪井来社、わが家へつれ来る」と。夕食して待ちて18:00まへ来しと話す。杉浦の家教へ、19:30来し坂根、曽根桂子と入れ違ひに出てゆく。
曽根ら21:00近くまでをり、まだ舞台のこりゐると悠々と帰りゆく。
5月23日
Noteかけず11:30出て(よべ遅くまで選挙の開票ききしため眠し)、聖心女子大へゆき、会計の小林氏に礼云はんとすればsalary出てをり。
和田先生、国際学会出席のためお出であらず。青山氏に会ひて防衛大学のこといへば「秋のため早めに用意せし」と。2時限目わが身の上語り、
noteとりをつづけることとす。
疲れて渋谷で餡蜜たべ、青年座にゆきて大のこときけば「缶詰め」と。文紀堂によれば『金田一博士古稀文集』あり2,000と。1週間のとりのけたのみ、『楊貴妃とクレオパトラ(50)』みつけ『杜甫(150)』買ひ、池袋で下車。
宮崎智慧氏に25日の『日本歌人』の会に欠席ことはりて帰宅。
けふ村上新太郎氏より詩の受取来しのみ。けふ『しりうす』聖心女子大の図書館へと学生にわたせし。
5月24日
8:30出て成城大へゆき、中国文学すませ、外へ出て中国料理店で昼食(出がけに坪井に電話して「宿舎へ17:00ゆく」といひ、大に電話してそのころ来るとききし)、出れば中河与一先生に声かけらる。「長崎へ月末帰りたまふ」と。
帰りて短大の坂本浩氏訪ね『北村透谷』もらひ、13:30まで待ち、講師室へゆきしに中学の先生6人と坂本、池田のみなりし。話してタバコ切れ、
16:00出て渋谷までのbus代払へばタバコ買へざるに気づきし。
桜山町の宿にゆき10分待てばアジア大会見にゆきし坪井帰り来り、大18:00に来るまでにbeerと夕食とあつらへられ合計2,000位のおごりを兄弟で受けし。道玄坂へ案内し、喫茶して帰る。
正平来り「水曜、城平叔父上京」と。なにもかもチグハグなり。坂根千鶴子より「池袋2-1238舞台芸術学院(電97-2819)へ12:00ごろ電話せよ」と。史より「畠山氏5月末にて名古屋に転任と」と。
白鳥清先生へ『しりうす』10冊の受取。寝るところとなりて今日もらふつもりならsalaryとれしことに思ひつく。
5月25日(日)
林佳子、上野薫子2生、大島よりヱハガキ「アジア大会見に来し」と。
坪井12:30の特急で帰りしならん、情なし。終日家居、依子午后より出てゆき21:00ごろ帰来。
5月26日
晴。成城大へゆき、漢文教へしあと、服部三樹子氏より電話「駅前にゐる」とのことに、正門で待ちしも来ず、駅にゆきて探せしも見つからず、rice-curry食ふところへ来り「教へられし道ちがひし」と。
山川京子氏につれゆき12:30より東洋文化史教へ、中国文学史のprint切り了へしところへ再来。つれて栗山理一氏を訪ぬれば「新宿のおでんやにて働かずや」と。つれ出して下北沢で別れ、古本屋見て中村亮平『東洋美術の知識 上・下(100)』買ひて帰宅。
けふsalary貰ひし也。渡辺三七子より「京大英文生と婚約せん。隣家にして何もかも承知」と。宜しからん。
林富士馬氏より、三島由紀夫の悪口なりし故『果樹園』へ送稿せざりしと。浜谷弘子より「Asia大会へ招待する故27日夜、山本恭子へ電話せよ」と。
八木嬢より「就職」と「就任」と統一せばいかんと。『近畿民俗23』を沢田四郎作博士より。
5月27日
林富士馬、畠山六右衛門2氏へハガキ。東洋大学大野より手紙。「依願退職としたいが辞表提出なきため困る云々」。
学芸手帖改題『民間伝承』。12:00出て巣鴨で龍山義亮とのりあはす、ふしぎ。
新宿より宮崎幸三氏に電話すれば会ひたしと(けふ悠紀子、私立学校共済組合にゆきしに114,480支払は厚生年金の手続ある宮崎、小沢と我3人のみにて1週間おくれると)。
ゆきて『李白』のprint切り、中国文学史すまし、松村達雄君待ちしもおくれし故、出てbusにて三軒茶屋。世田谷新町の宮崎氏訪ぬれば「齋藤氏に一度、会を主催せよと云へ」と。世話人は野尻、小室2君がやると。
出て駒沢の古本屋にて『楊貴妃とクレオパトラ』見つけ「著者なり」と云へば65円を50円にまけてくれし。
渋谷をへて高円寺。すし食って三和荘にゆけば正平のみをり、参考書2冊与へ、城平叔父へ鋼治君についての坪井の話を手紙とし、出てbusにて新宿。
山本恭子に電話せしに不在。畑山博氏に電話せしに不在。(玉電にて三軒茶屋より西島寿一と乗合せし)。
帰れば留守中、千草来りしと。楳垣教授より「金田一論集注文する」と。
5月28日
齋藤晌、八木嬢2氏へ手紙。島恭子夫人へ電話「Asia大会招待は好意謝するも忙し」といふ。
杉浦美知子氏へ手紙。ドン・ボスコ社へ840(『しりうす』10冊代)送ると。みな悠紀子に托す。
『古今評論』来り、吉田東洲、沢田四郎作2氏に礼状。悠紀子帰り来りしあと、堀多恵子夫人に電話すれば「多摩墓地にゆかれし」と。調べしに(※堀辰雄)命日なりし!
大野教務課長に「辞表呈出の要なからん」と返事。『民間伝承』の礼を戸田謙介氏に。
17:00夕食せんとせしところへ増村、安部、杉田の東洋大学東洋史学科3人来る。東洋文庫へゆけず話し、『朝鮮史講座』の返却をたのむ。
20:00出でゆきしあと畑山博君訪ねんとすればtobacco忘れあり、駅まで追ひゆきて増村生見つけ返せば前田光子「詩を見てくれ」と。断りて21:10帰らしむ。
けふ至文堂の黒河内氏に電話して亀井勝一郎より(※東洋思想講座への原稿依頼の件)話きかざることわかる。早く交渉せよと云ひやる。
5月29日
10:00出て大塚より林富士馬dr.訪ね、大病院へ勤務の意あることを知る。ただし一般に安く、労多しと也。『Sirius』1冊おき、立教大学へゆけば研究室に手塚教授不在。まづ会計にて5月分もらひ、手塚氏に会ひ、昼食注文せしあと、佐々木喜市教授に電話かけてもらひ挨拶にゆく。すみて研究室に帰り昼食。
会議中の白鳥先生待ち(手塚氏に『Sirius』1冊贈る)、挨拶し、ともに池袋駅まで歩き、「明日、大に会はば云々」と申上ぐ。
帰り大塚駅より堀夫人に電話せしにまた他出。帰宅して服部三樹子氏より「27日林dr.訪ひし云々」とのたより見、伊藤久子より『Sirius』の受取を見る。篠田統博士より「続小豆雑煮」の抜刷。堀夫人へハガキ書く。入浴。けふ暑し。
5月30日
晴。暑し。11:00前田光子生より手紙と原稿。今市佐恵夫人より血液1/2失ひしも回復したと。11:30出て雅荘に電話せしに話中。渋谷でかかり、きけば大「この間、坪井を見送りにゆかざりし」と。「televi、radioともに連続物ばかり註文さる」と。15:00すぎ青年座へゆくと云ひ聖心女子大。
和田先生お越し、「鴆毒とは何か」の御質問に弱りし。すみて先生と共に下通へ出、渋谷でお別れして青年座にゆく途、白鳥清先生にお会ひす。夏殷周抹殺論ドイツで本になるとて500Markを受けらると。
Ice-creamいただき乍らお話承り、青年座の女性に『楊貴妃とクレオパトラ』と『しりうす』托し(白鳥先生に伊藤久子(※郁郎教へ子)の手
紙およみし、7月1日の郁郎君命日に出版記念会開催につき手塚教授(※手塚隆義ではなく序文を書いた手塚富雄)と相談することお引受す)、文紀堂にゆけば「楳垣教授に(※『金田一博士古稀文集』)送りし」と。
宮益坂へゆけば芳賀檀氏に遇ふ。ふしぎ。立話し『不二』の原稿ことはりを鈴木正男君にいひ、都電にて秋葉原(長沢規矩也『支那文芸史概説(50)』渋谷にて買ふ)。
川久保悌郎より「この間東京へ来し」と(白鳥先生よりききありし)。伝田雅子より『足音4』、謄写版となりし。篠田博士へ礼状。
5月31日
成城大へゆき坂本浩氏へと給仕に『果樹園』わたし、講師室にゆけば「浜谷生より電話ありし」と。こちらより掛ければ「12:00前来る」と。
4大学の会するとのprint見しに会計委員に生悦住生の名あり(成城・成蹊・武蔵・学習院が4大学なり)。
「李白」了へて浜谷生待ち、12:00に来しと成城園にて冷そば食ひ、春の旅行のcolour-film見る。「十時生も上京中」と。10月結婚して来るときき千歳船橋で下車すると別れ、われは小高根太郎。
借りし本2冊返却し海苔贈る。14:00出て帰宅。
暑きゆゑ入浴。『不二』来り、小島樹氏より写真封入し「秦代は1年365日か」と!
硲晃君より「4日16:00新宿着、本郷弓町1-8朝陽館に入る」と(電小石川2892,3643)。
6月1日(日)
悠紀子、就職のため出てゆく。依子、深大寺へとゆく。少女2名も出しあと手塚富雄氏に郁郎君同級生紹介せよとハガキ同封の手紙かく(速達)。
堀多恵子夫人よりお墓は多摩墓地12区3側と。あかね書房より823−123=700。beerもちて飲みにゆかんと畑山博氏へ電話かけしめしに「修学旅行にゆきし」と。
6月2日
悠紀子、就職のため出てゆく。8:20出て靴みがかせ時間早きため世田谷中原で下車、梅ヶ丘まで歩きてのち登校。漢文早くやめ高橋邦太郎氏に自己紹介してSmatraの話す。わが自動車事故知りをられたり。「船越章とはSaigon局長にて知る」と。
東洋文化史やりて退出。経堂で下車。鈴木正四『インド兵の反乱(40)』買ひ、東北沢でまた下車。「遊仙窟」さがせしも見つからず。新宿で下車。
また見つからず野尻抱影『星まんだら(20)』買ひて帰宅。〒なく悠紀子の職もなかりしと也。
6月3日
寒し。シャツ、ズボンかへしところへ千草来り、「日生の勧誘員になる故、保証人になれ。印鑑証明書もほし」と也。悠紀子には了解ずみなりしはふしぎ。印おいて成城大学。
元気なき講義し、松村達雄君のすむを待てば、帰室ただちに鞄盗まれゐしと云ひ、高尾給仕泣く。本のみ入りゐしも見かけよき鞄なりし。教頭に届けさし、出て紅茶ご馳走となり、興地実英教授の家に入りゐしとて、思出話す。
帰りて千草の件咎むれば悠紀子ふくれる。上野薫子、八木嬢2氏にハガキ。
6月4日
曇。齋藤晌氏より「小室、宮崎、野尻3氏に会ひたく世話せよ」と也!宮崎氏に電話すれば「小室氏に会ひて相談せよ」と!
15:00郵便、布施税務署の呼出しなど見て国鉄にてお茶の水。明大大学院へゆき見れば「小室氏休み」と!加藤定雄のぞき見れば不在。
Riesenberg『太平洋史(150)』、『蒙古土産(100)』、『韃靼一千年史(150)』、『梅花一両枝(20)』など買ひ「遊仙窟」さがせども見つからず。朝陽館に電話かけしにかからず、雨中をゆけば未着と。ややしばは待合室にてまちしあと一旦帰宅。
夕食すませ朝陽館に電話し硲晃君にゆくと云ひ『蒙古土産』『太平洋民族史』『清代塩政の研究』を土産としてゆけば堀敏一君在席、同級と。心配を謝し、出て西川に寄りしに在宅。ともに古本屋見て今関天彭『中国文化入門(40)』買ふ。愚著なり。
宮崎氏に電話して「明朝小室君を訪ねる」と云ふ。(西川に「渡辺英語学校校主恐縮しゐる」ときく。中央大学出の弁護士と)。(けふ一誠堂で天理図書館の上野に会ひし「仙田とともに図書館会議に来し」と)。
6月5日
8:30家を出て西荻窪の小室家へゆけば在宅、「昨日も明大にゐし」と。いろいろ話して17日夕に会することときめ、宮崎氏に電話かける。そのあと吉祥寺へゆき杉浦夫人訪ねしに銀行へゆくところと。ともに出て森良雄に紹介す。増改築に70万円の予算なりしこと、その他わかる。
国鉄内、話しながらゆけば前にゐし学生、市ヶ谷で降りがけ紙わたし「失礼ですが前のボタンに御注意願ひます」とあり赤面す。神田で別れて帰宅。
『文芸地帯』の尾上欣一より云々。午后の便にて『文芸日本』。ねむきところへ正平来り、「この間、田中勤氏を2人して訪ねし」と。夕食すすめしもきかず。送り出して入浴。
6月6日
朝の〒来らず。11:30出て聖心女子大。海老沢氏に久しぶりに会ひ和田先生の「達延汗について」の校正見す。やがて先生お越し「Xavierはサビエル」と。2時間すませて先生と渋谷へ出、経堂行のbusにも御同車。われは赤堤一丁目で下車。野尻貞雄氏訪ね、夫人に「19日(木)夕方、会してよきや返事またききに来る」と云ひて経堂へ出て帰る。
手塚富雄教授より「郁郎君の卒業年次わからず、東大の日本独文学会にゆきてたづねよ」と。小高根二郎君より印刷所の主人死亡で『果樹園29』おくれしと。(けふ和田先生の学生に13日は休業ときく)。
6月7日
成城大へゆき話す。すみて成城園で中華そば食ひ、白鳥夫人に電話すれば「夕方もう一度かけよ」と。金子薫園夫人の葬式にゆくと也。一旦帰宅。
立教大学より「19日(木)16:00よりタッカーHall教授室にて、大学院文学研究科教授学生の懇談会に出よ」とのハガキ。千川義雄より『俳句作家』2冊送ったとのハガキ見、夕食後、白鳥家へ電話すれば「来よ」と。
19:00すぎゆきて任すとのこときき、ともに橋口倫介邸(上智大助教授)へゆき紹介受く。西洋史出にて学習院の親友と。昭和女子大、東大独文の連絡われに任すと也。
21:00出て祐天寺より帰宅。留守中、畑山博氏来訪。「明日一日在宅」と也。
6月8日(日)
久しぶりに雨。東洋大学大野文吉より「辞表の代りにこの間のハガキを用ゐる」と。野尻貞雄氏より「19日の夕方の都合よろし」と。東洋史談話会「14日(土)14:00より」と。
畑山博氏へbeer1本もちゆき碁打つ。「赤羽中学へ英語教へに来ぬか」と。Beerのみ最中もらひて帰り来る。
渡辺三七子よりわが手紙よみしと。齋藤晌氏へ「19日都合よろしきや否や」問合せ書く。
6月9日
朝、雨。成城大へとゆき高橋邦太郎氏と話す。Medanの地図見たき様子なり。文化史出席の連中にきき見れば、2年で専攻必修ゆゑ聴講card出さずと。
すみて高橋氏と駅までゆき、別れて三宿までbus。昭和女子大へゆき人見翁(※人見東明)に面会もとめ、白鳥郁郎君の話すれば「きれいな人でした」とのことなり。
「会合にここ使用して良し」と云はれ、一応留保し、『しりうす』差上げて出、渋谷をへて帰宅。
『歴史教育』と抜刷(※「白居易とその時代」)、『果樹園29』来をり。悠紀子、けふ史へ奨学金手続に必要な書類送る。郵便の袋しらべる中、八木嬢よりの「書類少しおくれる」のハガキ入りをりし。ふしぎ。村松正俊氏へ『果樹園』と「白居易」(※抜刷)とを包む。
6月10日
晴。10:00畑山夫人来訪。「知合の家の英語の教師にゆかずや」と。「ゆく」と答へしあと帰りたまふ。
成城大学にゆきprint切る。けふはbonus出、高尾嬢「5,000もらひし」と喜びゐし。
『果樹園』を池田、高田2教授にくばり、「白居易」を栗山、池田の2教授にくばる(村松正俊氏にも送りし)。
帰りて河野岑夫より「協和銀行大阪支店に転勤」と。入浴、散髪し、鐵屋の大野氏(※畑山夫人知合の家)へ19:30ゆき、大泉高校の女子英語の先生の帰りしあと高3女子2名、高2女史1名、中3男子1名の家庭教師となり、21:00まで話せしあと、帰る途中、畑山夫人に電話す。「博校長、東洋大学の評議員会に出しと。明日新潟に出張」と。
6月11日
眠きも9:30出て東大独文研究室にゆき、伊藤利男助手に面会し、白鳥郁郎君の同窓たづぬれば「是枝達郎(鹿児島大)、永戸一朗と3人のみの昭和20年9月卒業にて2同窓とは連絡なし」と。上下への連絡たのみ、東洋史研究室のぞけば南方史研究会を開催中らしうかりし。
西島助教授と話し、「白居易」贈りて出、加藤俊彦君のぞけば「忙し」と。「堀夫人来週月曜軽井沢へゆく」と。
赤門前にて『米国東亜侵寇史(30)』買ひて帰宅。服部三樹子氏より「浅野晃氏につれてゆけ」と。
私立学校共済組合より11万円余、歴史教育社より1,770−266=1,504来をり。
小高根二郎君へハガキ。硲晃君より礼状。畠山六右衛門氏より「熱田に転居、大東魚類KK常務」と。
雨中19:00出て大野家へゆき4人を教ふ。吉川幸次郎『陶淵明伝』買ひ、葡萄酒買ふ。橋口倫介氏に電話かけ「明日15:00すぎ白百合へゆく」と約束す。
けふ京、林dr.へ眼の治療にゆく。当分毎日来よとのこと也しと。
6月12日
服部三樹子氏へ「ひとりで訪はれてよし」とハガキ。新田晃子生へ「果樹園社を小生気付にするな」とハガキ。日本書院へ(※「白居易」)受取。
悠紀子、丸ノ内へ就職の面接にゆく。午后、井上靖氏より『詩集北国』の特製本。
13:30出て角川書店へ寄りしに志摩、齋藤2氏とも不在。名刺に返事せよと書きておき、時間あまりて靖国神社境内にをり、15:00白百合学園へゆきしに待たされ、橋口氏20分して出て来しを待ち、喫茶店にて相談。四谷のDon
Bosco社売店へゆき5冊買ひ、まだいくらも売るときく。安心して上智大学にゆき白鳥夫人に電話してもらひ、「7月5日(土)昭和女子大にてはいかに」と問合せ、「清先生と相談の上にて」といふことになり、4冊を橋口氏に贈り、「明日12:15上智大に参る」といひて別る。
帰れば坂根生待ちをり、八木さんより履歴書1通打ってもらひしと。齋藤先生より「19日18:00学士会館にて」の返事。涌井千恵子より「10月修学旅行の時会ひたし」との手紙来りをり。
けふ依子の蔭口を悠紀子われに伝へ不快なりし。
6月13日
起きて『果樹園』に鴎外研究断念記7枚かく。京の画どこやらに入選せしと。白鳥先生に電話し「昭和女子大にて土曜にて承知」ときき、『果樹園』へ速達。八木さんへ礼状。齋藤、宮崎、小室、野尻4氏へ「19日(木)18:00一ツ橋の学士会館集合」のハガキ書き、
火の会より日本浪曼派云々のenquêteに「作品は伊藤佐喜雄の「花の宴」」とのみ答へ11:30出て上智大学。橋口氏に案内書原稿検してもらひ、『しりうす』を先づ送ることを白鳥家に話してもらふこととし、渋谷にゆき東横dept.にて新本展を見、河村敬吉の『鴎外論(60)』買ひ、玉電三宿で下車。
昭和女子大に人見翁訪ねまいらせれば「10分ひまあり」と。「7月5日(土)温考館で」ときめ、『悲歌』1冊贈呈して出る。
三軒茶屋まで歩き大きな古本屋あるを見、池田勉『森鴎外(30)』買ひて疲れつつ帰宅。
悠紀子、畑山家へゆきをり帰り来て「そして気にやまずともよし」と云はれしと。畑山氏越後湯沢より帰りゐしと。
夜、橋口氏に電話し、坂本由五郎氏(昭和女子大)を発起人に加へると承知してもらひ、印刷をtypeにせん、その印刷屋紹介をたのむ。悠紀子、京の治療に夕方より林dr.。
6月14日
成城大学へ出講。暉峻博士欠講とて話相手なし。高尾女も欠勤。午食を成城園で食ひ、小高根太郎君を訪ふ。話すこともなし。
出て下北沢下車。古本屋まはり歩きしも何もなく15:30帰宅。
村松正俊氏より「一度会ひたし」と。立教大学より「写真と調書出せ」と。田中正平より木曜来ざりしことはり。
けふ悠紀子、依子の時計買ひに十合へゆき齋田君(※斎田昭吉)に会ひ、昌三叔父重役になりしとききしと。
6月15日(日)
依子級友と会ひにゆく。悠紀子2児をつれて阿佐谷へゆく。伊藤利男助手より白鳥郁郎君の同級の報告。
小高根二郎君より『果樹園』のこと『中央公論7月号』にのすと。宮崎教授より「19日の会承知した」と。
帰りし悠紀子にきけば「数男の妻、尚子の実践女子の友、村松夫人」と。
夜、橋口氏に電話かければ「印刷屋と連絡とれざりし」と。『中央公論』見にゆきしにわが「東京通信」をのす。
6月16日
成城大へ出講。午まへ高橋邦太郎氏にMedanとSaigonの地図貸す。中国文学史のprint切りしあと、昨夜少眠の疲れ出て、東洋文化史短めに切りて家にまっすぐ帰る。
城平叔父より礼状。曽根桂子生より「9月の公演に来る」と。岩田生より「45万円の慰藉料払ひし」と。
『バルカノン』編集部より「日本浪曼派についての回顧を400×3以内で」と。
夜、橋口氏に電話し、「あす案内の原稿速達す」といふ。田中正平に「今週木曜不在」をハガキ。
けふ悠紀子、京の授業参観にゆき松井先生より「京5二人、4+一人の4の下の方」ときかされしと。
6月17日
涌井千恵子、曽根桂子2生へハガキ。橋口氏へ速達出し、岩田生へ祝ひ云ひて、三島一教授還暦記念会の受取見て東大独文研究室へゆけば伊藤助手不在。置手紙し『しりうす』置きて駒込より成城大学。
宮本和吉学長に池田勉氏より紹介受け、土井光知先生を見しも紹介されず。松村達雄氏に『ある日本人』第一部貸す。尚子は夫人の友達ではなきらしき。
中国文学史すませ、庶務へゆき定期の購入書もらひ、家まで直行。
『詩人連邦』来り、月原橙一郎書きゐし。夜、(※家庭教師)大野家へゆけば雨降り来り、鈴木坊主来らず、傘借りて帰宅。
6月18日
村松正俊氏へ「近々会はう」とハガキ。『バルカノン』へ「日本浪曼派についての追憶」6枚。
成城大学より「23日〜28日まで文3A、4A休め」と。藤田幸子より「田中雅子訪ねた」と。
11:30訪ひしは青木秀樹。悠紀子の世話にて柏井の家庭教師となるとて昼食くひてゆく。何やら生意気なのが憎し。
午后、吉田東洲氏より『燃ゆる神曲』贈らる。夕方、雨中を悠紀子、林dr.へ京つれゆきしあと、出んとせしところへ渡辺道夫君来り「鳥山喜一氏にたのみゐる」と。図書館長にて鈴木俊氏へ履歴書たのみもらひしと『高麗史』貸せとなり、貸してのち大野家へゆき英語教ふ。
藤田幸子夫人に返事。「その中訪ねる」と。
6月19日
朝、〒なし。12:30出て林富士馬氏訪ぬれば「太宰治忌にゆかれし」と。
池袋三越にゆき、川柳展を見、立教大学へゆけば14:30。手塚氏に会ひ「のちほど再来」を云ひ、
『中央公論』7月号買ひice-cream食べ、15:40また立教。16:30やっと会はじまり、白鳥先生も来らる。わが家に『しりうす』30冊送りたまひしと。
17:15先づ出んとすれば、追ひ来て話ききたしと神学の先生。「来週木曜に」と云ひて出、中央線にて野原四郎氏に声かけらる。
学士会館へ18:00丁度に着けば、宮崎、齋藤の2氏待たれ、野尻氏来り、小室氏来らず。(宮崎氏に「我も一度ゆくか、齋藤氏に直接云はすべきだった」と注意さる)。Coffeeのみてそのまま話しあひ、20:00になりて近くのそば屋へゆき、出て宮崎氏と別れ、3人にて新宿までtaxi。そのあと野尻氏と話して22:30帰宅。
新田晃子生よりハガキ。正平けふ来て「もう来ず」といひし。
6月20日
起床9:00。朝食後note造り、了へて昼食し、立教大学より「25日(水)15:00史学談話会」の案内を見て、聖心女子大。
和田先生来られ「至文堂の講座、亀井勝一に書かすつもり」と。そこへ小林氏。6、7の2ヶ月分の給料4,700をもち来り玉ふ。
2時間教へ「卒業論文に元の大都のことかく」といふ学生に参考書問はれ、来週教へるといひて先生と渋谷まで同行。お別れして餡蜜食べ古本屋にゆきしに定休。
池袋で下車。川柳展にまたゆき『末摘花詳釈拾遺篇』買ひ、busにて帰宅。
太田常蔵君よりHallの『東南アジア史』を東洋大学へ持参せんかと。橋口氏に電話かけ『Sirius』30冊来をり明日発送のため伺ふときめる(14:00)。
6月21日
成城大学へゆく。すみて2人『蜘蛛』同人と云ひて来る。1人は相馬弘とて詩人、いま1人は名を忘る。
12:00まへ暉峻博士とsalaryもらひにゆく。定期証明書にけちつけられし。
冷し中華そば食べbusにて渋谷。東横dept.で封筒さがせしもなく、祐天寺にて2軒歩き2種買ふ。そのまへハガキ30枚買ひ、のり買ひして用すみ、橋口倫介氏と発送手続し、この間買ひし詩集代を寄付し、中目黒へゆき、郵便局にて発送すます。
渋谷へ出て全線座で「母と娘」といふ映画見ればまじめなる性教育映画なりし。すみて帰宅。タバコ買へば金なくなりをり。
けふ橋口氏より『上智大学』1,2もらひ、家に『Biblia』10来をり、半田元夫『キリスト教史』買ひし。
井上幸子より手紙。けふ依子、高野明子夫人訪ねしに、夫君入院のため不在なりしと。夜半姉君に見舞と問合せ状かく。
6月22日(日)
増田清秀氏(大阪学芸大)より『清商曲の源流と呉歌西曲の伝唱』『隋唐における古典の伝唱』(※紀要抜刷)布施局より転送、礼状かく。井上幸子へハガキ。
15:00畑山博氏訪ね、大野家の報告す。29日東洋大学理事評議員の改選と。碁3番打ち、beer1杯よばれて帰る。
青木のみさ子来り、兄の柏井家庭教師延期となりしといふ。大野家のマサ子君来り、試験問題集買ってくれと500預けゆく。
6月23日
成城大学へ出講。元学長山崎氏(※山崎匡輔)と話す。文部次官、東大教授なりしと。
文化史courseの女生「木曜16:30より大藤氏ら教官と学生との懇談会に出るや」ときく。「出る」と答へし。
経堂下車。旺文社『英文標準問題精講(120)』3冊買ふ。
中野清見より「ひまで困る。夏に江刈へ来ぬか」と手紙。呉市笹本毅氏より『バルカノン』の原稿受取。『山の樹3』来をり。
京、久しぶりに林dr.へゆく。「患者来をりし」と、めでたし。夜、中野清見に「行かず」の返事。
6月24日
伊藤利男氏より出席したく案内を乞ふとの(※白鳥郁郎の)友2人のしらせ賜はる。橋口倫介氏に転送。
西川英夫より「鎌田正美日本銀行福岡支店長に栄転につき、土曜16:30より送別会を学士会館です」と。
夕方入浴。19:00出て大野家。参考書わたし教へて出れば4,300呉る。海老沢有道『南蛮文化』買ふ。
(前田光子より「父に呼ばれて帰郷す」と、めでたし)。伊藤利男氏に礼状。
6月25日
小島樹氏より『司馬遷』返却。野村朝子より「まだ東京にゐる」と。平凡社より『世界百科事典』に李自成、李善長、李之藻を書けと(8月31日まで)。野村朝子へ「また来よ」と。
夕方、Poppe教授(※ニコラス・ポッペ)の講演を東洋文庫にききにゆかんとせしが果たさず、19:30鈴木生のため『中学生の英語(130)』買ひて大野家にゆく。鈴木生全くできず。『山の樹』の受取かく。
6月26日
小室栄一氏に19日の会合の報告。立教大学へ12:00ゆき手塚氏に会ひ『史苑』もらひ、白鳥先生喜ばる様子をきき、会計でsalaryもらひ、庶務課に書類わたし、中沢氏を13:00まで待ち、会へば「図書館のBibleの整理に立ち会へ」と。承知して来週火曜ときめ、出て成城大学。
栗山部長に会へば「服部三樹子氏、料理屋に口できてゆきし」と。16:00よりの会といふに山川京子氏に会ひにゆけば「岩崎昭弥、一昨日と昨日と上京せし」と。
「7月13日(日)13:00杉並公民館の『桃』の会に出る」といひ、氷たべて図書館長室にゆき、鎌田女史(宮本馨太郎氏よく知ると)(※鎌田久子。のちに同僚となる。)、今井富士雄氏(小高根太郎と教学練成所の同僚と)、大藤時彦氏(※オオトウ)に紹介され、竹岡勝也先生とともに案内されて料理屋にゆき、池内彌(ワタル)講師と教師5人。学生8人(女生4人)の会。なかなかに家庭的でよろしく、20:00すみて帰宅。
坂根千鶴子待ちをりし。正平またも来て「5月帰阪」と。
けふ夏の鳥打帽を東急dept.で買ひ(200)、浅野建夫より『Q式血液型』もらひ、『明代満蒙史料10』もらひ、八木嬢より『Biblia』の原稿で忙しかりし。高野君入院は知らざりしと手紙もらひし。
6月27日
晴。暑し。小島樹氏より礼状。11:40出て聖心女子大。久しぶりに青山定雄氏に会ひ防衛大学のこと云へば「自分はやめる。後任もみつかる予定」と。
和田先生お越し、「Poppe教授は61才、明代Mongolsのhero詩がBuriatにもXalxaにもありとの話なりしが、途中眠りし」
と。
教へにゆけば「先生、話!」の声あがり、話して早くやめ、教授室に帰り湯沸しのこんろをこはし、方々に報告廻る。2時間目、あはてて葡萄牙語よりの日本語の話し『蒙古史雑考』と『東亜論叢3』とを某生に貸し、和田先生を待たずに出て広尾橋に出、都電にて信濃町。大塚よりまた都電にて帰宅。
宮口時喜子より「藤本姓となり甲陽園に住む」と。
このごろ頭悪く失敗多し。依子、けふ高野明子夫人より電話あり「勝美氏扁桃腺炎の手術なりし」と。ばからし。
6月28日
八木嬢へわび状。東大文学部へ受領書。成城大へゆき最後の時間は切上げが例ときく。
すみて成城園へそば食ひにゆけば、少孩「このおぢーちゃん長い顔」といひし。
出て小高根家。今井富士雄氏のこと云へば「知ってをる」と。碁うち互先で一勝一敗。
14:00出て帰宅。暑き日ゆゑ入浴。近藤久子夫人「転居した。物贈る」と。菊地成子より「帝塚山へ帰ってくればよいにと研究室でいふ」と。佐野利一夫人より礼状と。同後援会より「12万3千円集った」と報告。
16:00出て巣鴨をへて学士会館。西川来られざりしと。丸より出ろとすすめられしと来し竹井眞君をいれて鎌田、谷口、原田、室、加藤、矢野、高垣と我にて9人。Beerのみ会費払ふとなりて、我のみ不要と原田がいひ、43のみ払はされし。そのあと神田の喫茶店にゆき、原田とtaxiにて秋葉原。21:00帰宅。
けふ32度を越す暑さなりし。依子、高野家へゆきしと。21:30帰り来る。
6月29日(日)
近藤久子夫人より檳榔団扇3枚とこけし人形贈らる。東洋大学秘書課より「依願退職を命ず」と「手当出すにつきとりに来れ」と。畑山氏にゆき礼云ひ、碁一番うちて帰り来る。
風吹き乾燥し、土埃ひどし。近藤久子、菊地成子、藤本時喜子3生へハガキ。浅野建夫君へ出版の祝詞。
15:00都電にてはじめて赤羽にゆき、『文芸春秋6月号(40)』買ひ、東十条まで乗りて歩きて帰る。
古物屋できけば「本棚即日売れし」と。平凡社へ「李自成」「李之藻」諾と返事(8月31日迄)。
6月30日
8:30出て成城大学。宮崎氏に電話すれば「外出」と。漢文教へまた電話して「15:00ゆく」といひ、高橋邦太郎氏の昼食のともせんと思ひしに「食はず」と。
我のみ出てそば食ひ、中国文学史のprint切り、東洋文化史の時間には7人相手にFolk-loreの外縁を説明し、これにて了りといへば、相馬弘来り話すうち、山崎前学長来り「追分の寮へゆけ」と。
出てbusにて三軒茶屋。駒沢よりまたbusにのり宮崎氏に会ひ、退職手当みなもらひしをきき、Danteの本を蒐集せし大場氏の話きき、『プラトン哲学』いただき、中央公論社牛島軍平氏への紹介状もらふ。(矢野兼三氏に電話かけしに夫人わからずと)。
帰れば三田村泰助氏より抜刷4種。渡辺三七子より手紙。『東洋史研究17の1(欠430円と)』。
夕食後、橋口倫介氏に電話してきけば「出席の返事23枚」と。
7月1日
三田村泰助氏、渡辺三七子へハガキ。10:30立教へゆき中沢教授を図書館に訪ね、聖書類を書庫に検す。端本その他にて同氏の「中華訳聖書の訳が日本訳」との言をききしのみ。
出て駅前でrice-curry食ひ(Handkerchief忘れて出しゆゑ40で買ひし)、渋谷をへて三宿の昭和女子大。
人見先生に食堂まで同行たまひ、5日25人200円づつの用意たのむ。
出てbusにて農大前下車。大江房子不在。姐やに叔母の見舞たのみ、矢野家。兼三閣下御在宅。中央公論は前に話せしと。いま3月内にとの話ありと。
出てまたbusにて成城大学。松村君『ある日本人』よみしと。中国文学史了へれば短大2年、試験のこときく。「北海道旅行より帰りて3日目につき止めよ」と云ふがあり、不快。まっすぐに帰宅。
森本ヤス子氏より『虹夫人』来りしのみ。夜、大野家。姉妹のみなりし。姉「東京女子大と日本女子大とを受験す」と。
7月2日
大阪東大clubより「本日会する」との案内。転居届す。
13:00東洋大学。曙町で東洋史3年生の1人に会ふ。いまより船木勝馬君の演習と。秘書課へゆけば「会計へゆけ」と。ゆけば「1年ゆゑ1万円」と。
三浦嬢に私立学校共済組合の立替金わたし、「Angin」でcoffeeおごり、(この間、結核の疑で2週間休みしと)、都電にて三崎町。大安にて『三曹詩選(90)』、『李白詩論及其他(85)』、『白居易伝論(110)』買ひ、小山正孝氏訪ねしに不在。『毛沢東(20)』、『忠王李秀成(20)』を波木井で買ひ、蓮田善明『忠誠心とみやび(10)』買ひて東京駅。西川訪ひしに不在とてice-creamたべて帰宅。
大阪より転送の印刷物のみ見て19:00となり、出て畑山博氏に電話すれば不在。夫人に1万円もらひしてと告げ大野家。姉娘遠足にて疲れしと。鈴木生また来ず。21:00まで教ふることなく退屈して帰る。
成城大学より速達「中国文学史の試験問題を15日までに示せ」と。小高根太郎より借りしApollinaireを訳す。
7月3日
森本ヤス子氏へ『虹夫人』の礼。神田信夫氏より『清初の貝勒について』の抜刷。その礼状すぐ書く。東洋史研究会へ1,000送金。
午后散髪、入浴。林dr.に電話すれば「来てよし」と。『Q式血液型』もちてゆきbeerのまされ『果樹園』来をるを見て出、池袋にてうなぎ丼食ひ、新宿よりbusにて高円寺。
正平をり、呼び出してすし食はせbeerのませ駅近くにて丸に電話すれば「来てよし」と。近くまで送られ、丸家へゆけば「夫人、長男の転地にゆき、長女basketの試合より帰らず」と。
21:00になり中野まで歩き国鉄にのりて帰宅。橋口倫介氏より速達来をり、電話かけて「30人近くの出席者なら心配いらず」といひてすむ。
7月4日
立教大学、菅文学部長円吉氏より「聴講者なきゆゑ前期のみにて俸給とりやめる」と。『果樹園』30号来る。成城大学短大へ「試験問題を火曜にもってゆく」と速達。
午后の便にて大江房子より「仲人してゐる。お艶叔母だいぶ宜し。小学校休みには子らつれてゆく」と。
7月5日
『ラマンチャ』を三浦久子氏より。『文芸日本』7月号。三浦氏の手紙はさみあり。扇子を東洋大学会計課に忘れしらし。
11:30昭和女子大へゆき(途中、三宿の古本屋にてウィンステット『マレーの歴史自然文化(30)』、『ソロモン群島滞在記(30)』、『文芸春秋7月号(30)』買ひして)、温考館にて13:20まで待てば、橋口倫介氏未着。
14:30より始まりし会(※白鳥郁郎遺稿詩集『しりうす』出版記念会)に25名?われ母上の前にその詩の異例なるを云ふ。
すみて立替金700返却を受け、三軒茶屋より帰り来る。山本書店の目録来ありしのみ。
7月6日(日)
けふ又雨。水饑饉解消? 〒なし。
午后、畑山氏にゆき碁打つ。1万円は小野専務理事のせいかと。帰途、瀧野川、板橋を歩きまはり疲る。
依子、よべ鎌倉へ組合学校とかにて泊る。
7月7日
成城大学へ登校。短大1年の漢文教へ11:00まへに了り、前学長山崎氏と話す。桐生の人と。高橋邦太郎、富永次郎の2氏も来る。すみて教務の女史に教科書のこと試験のことと云ふ。(『果樹園30』を池田、坂本2氏に配り、今井富士雄氏にも渡せし)。
経堂下車。野尻貞雄氏訪ねしに前都立大学長の葬儀にゆきしとて留守。駅前にて氷水のみて帰宅。
森本ヤス子『虹夫人』の出版記念会を14日(月)18:00、Station
Hotelにてとの案内と、田中静子とて洋子司書の母より「娘のこと相談したし」と云ひ来る(火、水の夜、日曜だめと云ひやる)。
午后の便にて前田光子より「東京医大病院に入院の友に付添ひゐる」と。夜、アポリネール訳了。
夜半、天理へゆきしゆめ見て覚む。八木、前川、仙田、富永、増野みなありありと出て来し。
八木さんへ手紙かく。13:30。
7月8日
大江房子より暑中見舞。渡辺三七子より「大阪雨つづき」と。『民間伝承7月号』。文芸日本社へ出席の返事。大江房子へハガキ。悠紀子をやりて池袋三越より和田先生にお中元送らしむ。
午后、千草来り、大野夫人お中元賜ふ。夜、ゆきしに「鈴木生、母子呼びをる」と云ひしも来ず。マサ子君、英語とりわけ悪く同級の中以下と。
7月9日
〒印刷物と布施税務署の呼出しのみ。太田静子『斜陽日記』といふをよむ。33才の出もどりなりし。
武田豊氏へ小林英俊の見舞かく。夜、大野氏へゆく。鈴木生また来らず。
7月10日
白鳥夫人の筆にて清先生の礼状。田中静子、前田光子、坂根千鶴子みな来ず。
午后八木さんより七夕の歌と『Variétés
sinologiques』の新購入に59,60のみなかりしとの通信。日本生命より「千草の保証人を認めし」と。坪井明より手紙。夜、三浦久子氏、桃一箱もちて来訪。「(※『ラマンチャ』)評判よろし」と云ふに「ますます書け」とすすむ。
7月11日
田中正平、浜松より手紙。午后は西田俊栄「太宰治全集にわが名見つけし」と。野新田へbusで散歩。荒川堤のgolf場見しのみ。
7月12日
西田俊栄へハガキ。茅ヶ崎の横山雄偉なる未知の人より、(※元玄洋社々員。広田弘毅の親友)
敬啓。未だ拝晤の機を得ませんが昭和二十九年七月十日付で公刊されました高著『李太白』を三十一年五月七日入手いたし熟読いたしました。最近またある感興から高著を拝読しましたので、元々社に問合せ、この状認めた次第です。
私は明治拾六年正月七日生りですから、あなたより二十八年も年長、ことしの正月七日で満七拾五歳です。随て子供の時から漢詩には心魂を尽して熱意を注いだものです。
私は日露戦争が終結するとすぐ倫敦に行き、六年四箇月、主として倫敦、その他欧洲や米国に滞在しました。その後八回洋行し、前後引続き十四年半在外生活をいたしましたが、色々研究に力を尽くした中で、世界の詩を読みましたが、そして得た結論は、世界各国の詩の中で一番傑れてゐるのは漢詩だと云ふことです。その世界最高の漢詩の中で世界最高の詩を生み出した人は李太白です。その第一位の詩人である李太白の詩の中で、一番優れた詩は酔っぱらった時の作物だといふことです。
「友人會宿」の結句、「酔来臥空山、天地即衾枕」をその一例として、私は常に内外の知人に紹介するのです。私は曽てA級戦犯者として巣鴨にゐたこともありましたので、マッカーサー元帥とは常に交歓する機会があったのです。或時この句を元帥に説明しますと、彼は心からこの偉大なる詩人の特色を理解できたと前置きして――スバラシイ稀有なもの、規模宏大、眞に漢民族の眞の性格を描き出したものだ――と嘆賞しました。
私が常に云ふことですが、文を作る、金を作るよりも難し、です。その難事業である文を作る中で一番六かしいのは、一つの古典を他の古典に訳することです。第二次戦争中、私は度々能楽や歌舞伎を英独仏語に訳して、外国人に紹介したものです。そして難事中の難事につき当った時、扶けを借りるのは、人の力ではありません。何でせう。酒の力です。酒の力なくしては絶対に不可能に終るのです。お目にかかります時、その実例を見て頂きます。
私の宅には電話が二つあります。茅崎の二〇三三と二八一六番とですが、私の部屋のは二〇三三番ですから御架電の節はこの番号を御利用ください。昨年来以来、茅ケ崎の電話は東京と直通になりましたから、東京からは「〇六四、二〇三三」とお廻しになれば、市内電話と同様に直通します。御使用の電話番号お知らせ下されば、私から架電いたしまして拝晤の機を得度く存じます。
乱筆御免下さい。匆々不尽
田中教授様
偉
昭和三十三年七月九日正午に認
とあり、ありがたくも畏し。村松正俊氏に相談せんと電話すれば他出。林富士馬氏に電話すれば「出る前」と。他に野尻貞雄氏より「宮崎、小室氏との会合の世話せよ」と!?
15:00入浴。帰れば岩崎昭弥君より「小林英俊氏の病床にゆき詩集出版を約せし」と。その死は今年中ならんと。千川義雄君より「末弟に下宿と嫁とを世話すべし」と。
けふ京の画(消防展)金賞に入りしと。夜、畑山氏へつれゆく。
7月13日(日)
9:00村松教授に電話し「19:00うかがふ」と云ふ。高橋重臣君より『架橋3』。服部三樹子氏より「勤先やめし」と。長尾良君より「けふ13:00西武dept.の『日本歌人』の会に出よ」と。
高橋君へハガキ。12:30出て池袋、西武dept.の宮崎女史に会ひて長尾君のハガキ見すれば日曜は27日の日曜と。唖然。
すぐ出て新宿、busにて天沼、杉並文化会館にゆけば(※『桃』の会)3、4人のみ。15:00までに11人来り、歌の披露。われ山川弘至君追悼2首をのこして出、川久保家たづねてゆけば姪君出て「悌郎君上京につきたよりなし」と。帰宅。
夕食して19:30、村松教授を訪ふに数十坪の増築さる。わが問ふところに明確なる返答賜ひ、beerのまされて21:30辞去。日暮里で下車。支那そば食ひて帰宅。
7月14日
横山雄偉氏へ「参れず」と手紙。『白楽天』も送る。長尾、服部、岩崎3氏へハガキ。田中静子氏より「洋子上京、本日15:00銀座千疋屋へ来い」と。大谷篤蔵氏より「大阪女子大へ転任」と。竹内好より『魯迅』2冊。宮崎幸三氏へ中間報告。
14:00出て千疋屋へゆきしは14:50。中村氏(洋子叔父)呼出し、coffeeよばれる中、洋子母子来り「Juheim」にてice-
creamよばれ乍ら話きけば
「楳垣氏きつく、この間2ヶ月帰郷欠勤せし。現在月給1万円。関学法科出の男来り働かず。岩崎江嫗は不随となりて退職、その手当5千円なりし」と。
意外のことばかりにて「退職してもよろし。我も探すがあてにするな」と云ひ、洋子のみつれて有楽町。
「十合」により森脇昭吉君に礼云ひて二人とも喫茶ささる。『果樹園』は寄贈も受けずと。這々の態にて出、大井まで送りつつきけば「19日帰阪、ついで鳥取の祖母へ帰省」と。途方に暮れつつ桃一箱もらひて帰宅。
帰りて夕食。林dr.へ京とゆき「治療の要なし」ときき、chocolate-fingerもらひて帰宅。けふradioにて人見円吉先生、相馬
御風のこと語らるるをききし。
7月15日
大塚覚より暑中見舞。今東光の『みみづく説法』を渋谷天外がradioでやるをきく。田中洋子君のこと考へ直す。田中順二郎君より砂糖。
午后の便にて浜谷弘子生より「10月4日挙式」と。夜、大野家。鈴木生来り120返す。
7月16日
10:00起きればアメリカ軍、レバノン上陸を新聞が報ず。『東方学16』布施より廻送。宮崎幸三氏より「村松氏のこと齋藤氏に報ぜよ。小室君に電話通ぜし」と。野村朝子より「17、18両日の中に来たし」と。
長尾良より「27日西武で会はん。この間busで見知らぬ人わがこと話せるをききし」と。
坂根千鶴子に電話すれば「明日にしてくれ」と。田中保子より「バレーの試合にて15日上京した」と。
入浴。大野家へゆく途中、田中保子に電話して「明日10:30の試合みにゆく」と云ひ、帰り野村生の宿へ電話して「なるべく明日に来よ」との伝言たのむ。
けふ手塚隆義氏に「立教の後期無給」をいひ、「22−24日の登校日を教へたまへ」と云ふ。
7月17日
9:00家を出て渋谷よりvolley-ball場へゆく(15)。日本体育女子短大といふに当り惨敗のあと、田中保子に会ひ、岡野英子氏指導のteam員と話す。敗者復活戦といふに国学院と戦ふときき、pão食ひて聖心女子大の試合見ながら待つ。辛勝して喜ぶを見て「明日再来」を約して帰宅。
山中タヅ子生より「この間上京した。『果樹園』よむ」との便りを見る。夕方、坂根千鶴子西瓜もちて来り、夕食して待てば野村朝子、西菊代をつれ来る。「NHKを受験する」と。いろいろ話す中22:00となり、「大和」に乗ることとなりて出てゆく。
野村、桃一箱を賜いひし。3生に連署して山本陽子へ見舞書く。
7月18日
朝、書留速達にて『石浜論叢』の「通訳グルマフン」の校正来る。10pにて抜刷1部20円の部数をしるせとあり。
田中保子に電話してきけば「13:00すぎに始まる」と。校正ほぼすまして12:00出て駒沢へ恵比須よりゆき、入場券また買ひ(70)、気がつけば後半はじまりゐし也。相手は共立女子大にて昨日に比べ帝塚山の意気壮んにして快かりしも2−0にて負く。彼等の記念写真に加はり、また入場せし連中に別れ告げずして帰り来る。
手塚教授、午后お越しあり「明日10:00再来」と云ひ給ひしと。武田豊君より「小林英俊氏小康」と。
7月19日
渡辺三七子、山中タヅ子2生へハガキ。
10:00手塚隆義氏来られ「部長会の決議にてわが後期なくなりし故、早朝に直訴す」と。わが意見をのべしもきかれず任せ、Parker『韃靼一千年史』洋和2冊を大学に寄贈し、bus停留所まで送る。
京都大宝印刷へ校正送る。史より「友達泊めよ、28日頃上京」と。「泊められず」と返事かく。
他に『詩人連邦』。前田光子より「帰郷したがそのうち家出しても上京す」と。鈴木敬子夫人より「来春mamaとなる」と。芳野清氏より久しぶりにハガキ。「しりうす読んで感動した」と。
けふ依子、鎌倉へ泊りがけでゆく。夕方雷雨、停電21:00まで。
7月20日(日)
雨つづく。山川京子氏より礼状。田中洋子より履歴書3通、うち2通は3月付なり。
夕方、雨やみし故、西川へ散歩にゆく。浅野建夫に電話せしに留守。大島学長となり、平野宣紀の故郷に水泳小屋でかせしと、pamphletに見ゆ。
7月21日
村松正俊氏、前田光子にハガキ。成城短大上岡昭子より暑中見舞。『日本歌人』の会27日13:00西武dept.にてと。夜、鈴木敬子、田中正平、上岡昭子、浜谷弘子、芳野清の諸氏へ暑中見舞。
7月22日
台風11号接近とて雨。東洋文庫にゆけず。西菊代より「無事帰阪」と。
夕方、雨やむまに大野氏へ往復す。鈴木生の母来り「北高校受ける」と!
京、24日に飯能へ一泊でゆくと喜ぶ。夜、齋藤晌氏へ村松教授のこと。
7月23日
9:00一時さめ、また眠る。台風とて東洋文庫へ行けざれば也。川久保悌郎君「21日上京、8月2日ごろまで滞京」と。小島樹氏「武田泰淳の『司馬遷』見つけし」と。山口玲子より「仕事面白し。十合不況」と。小島、山口2氏へハガキ。夜、大野家へゆく。
7月24日
12:00家を出て立教、手塚、海老沢2氏に会ふ。総長と会見の結果は未定らしく、14:00まで話し7月分もらひ、池袋駅にて思案し(劉麟生『中国文学入門(130)』『宇治拾遺物語(50)』)、成城へゆく。7月分salaryもらひ、池田図書館長と話して16:30となる。新宿にて下車。
『東亜外交史(20)』を買ひ、鰻丼くって帰宅。増田春恵、山本実子、鶴崎裕雄、岩田生、千川稚泉、梅田惠以子の諸氏より暑中見舞。
川久保悌郎に電話かけ「来週会はん」といふ。
7月25日
9:00大野家。知子嬢のみ。10:30王子中3生鈴木の母よびにやり、話せば「工高へやりたし」と。「29日(火)来させよ」といひ、4,300もらひて帰宅。
昼食すまして12:30東洋文庫。『八旗通志初集』写す。15:00出て帰宅。
大宝印刷より「Gûlumalûn」再校来をり、南村和子夫人より「去年の両国川開きに」云々。
村松教授より『詩人連邦』談話室に書けと。林璋子、本田晴光、川勝禧子の諸氏より暑中見舞。
7月26日
また雨。9:30東洋文庫へゆき、『八旗通志初集』の漢軍都統の部すむ。丁氏にて朝鮮の恩山出身のGûlumalûnを『八旗満洲氏族通譜』にて見出だす。
12:00帰宅。午后の便にて白鳥先生より15吋のWhite Shirt賜ふ! 写真2枚もあり。
丹羽千年、正平より暑中見舞。筑摩書房より『現代詩集』再版1,000部と!
夕方、依子を強ひ、悠紀子の顔にかまはずトロリーbusにて亀戸、高野勝美氏を訪ふ。parmanent-waveかけにゆきし明子夫人(※八木嬢妹)帰り来て、依子のsuits出来をり、beer2本御馳走となり、高野君の組合活動きく。「小川日大教授が、その友(36才)を八木嬢に世話せんとしゐるも、我は強ひず」と高野君。送られて亀戸駅東口にゆく。八木嬢へ礼状。
7月27日(日)
全家10:00朝食。麓保孝氏より「8乃至6時間もたぬか、遠洋航海に出るゆゑ早急に返事せよ」と。
齋藤晌氏より「東洋大学最後の悪あがき」と。三木和貴子、友井啓輔より暑中見舞。
散髪にゆき13:00busにて池袋の西武dept.の『日本歌人』の会にゆく。
14:00会はじまり、石川信夫、大伴道子など同人13,4名。長尾良君来り、16:00中座して我は鰻丼くひ、喫茶して別れしあと、腹痛み上厠。坂根生にもらひし扇子を落す。
青山定雄氏訪へば軽井沢と。栗山教授に会へば「図書館員のあきなし」と。われの専任も怪しきらしき口ぶりなりし。
青山邸へまたゆき夫人に話し、麓氏の手紙おき、「4時間のみ引受ける」と置手紙して退去。
帰れば高野夫妻、西瓜もちて立寄りしと。悠紀子風邪と。夜22:30史、帰来。
(前田光子より「ハガキ見て上京したしと父母に云ひし」と手紙。天理図書館より善本Series2冊)。
けふ祖師谷にて『太宰治の手紙(60)』買ふ。明日速達せんと麓氏に「4時間しかもち得ず」と書き、また夜半、吉田東洲氏に歌2首。
生けるひとにおもて向け得ず死せる友に説きにゆかんと思ふ日のあり。
この世をば奈落と思う日のありて輾転とする妻子眠るに。
7月28日
雨傘もちて9:00麓氏へ速達出してのち東洋文庫。岩井主事(※岩井大慧)に見つけられしに、郁郎君の詩集のこと云はる。『八旗通志初集』すすみ、面白けれど午となりしに帰宅。
京大より「4,500(前期授業料)を9月20日までに支払へ」と。野村朝子「帰阪」と。原田比富、杉浦源次、渡辺道夫、里井千寿子、八木嬢(富永館長へ決心話さんかと)、涌井千恵子(兼頭宅の茶席で父に会ひしと)、辻本禧紗子、鍛治初江、北野徳治、西野平造、向井順子、明渡淑江の諸氏より暑中見舞。
小高根二郎氏より『四季』の伊東の詩写せと。史の送りし鉄道便2箱着きをり。
午后岩崎昭弥、島稔の2氏より暑中見舞。八木さんより再び「決心につきて」と「忙し」と。
平野夫人、昨日分娩と。白鳥清先生へ受領。横田利平氏へ『宇宙祭』の同。
7月29日
弓子、早起きして千葉県岩井へ4泊5日の旅行にゆく。京はRadio体操。われ9:00大野家へゆく。王子中3年生の石原生来り、鈴木生よりは出来よし。
10:20すませ「次回は8月4日(月)9:00より月の半ばまで1週3回やらん」といふ。堀内節子、中千枝子、松下政己氏より暑中見舞。
13:00東洋文庫へゆけば川久保悌郎君来り、16:00ともに出て喫茶。きけば「弘前大の前は成城高校にて栗山氏らを識る」と。松本善海に電話すれば嬢出て「18:30頃まで帰らず」と。時に18:00なり。
大塚まで川久保と同車、駅にていま悪口いひし榎一雄居りたり。都電にて帰宅。
平野弁護士、悠紀子と話しをり「男児出生」と。
7月30日
9:00東洋文庫。川久保も来り、ひる、そば食ひ松本に電話して「17:30までに研究所へゆく」と云ひ、東京駅にて人と逢ふといふ川久保と別れ、14:30まで本見しのち一旦帰宅。
至文堂の女史来り、「明日午后再来」と。東北の旅より上野、山本実子2生。山本陽子、花井姉妹、羽畑桂子より暑中見舞。小高根二郎氏に伊東の詩写して送り、都電にて大塚をへて東洋文化研究所。
松本と話す中、17:30川久保来り18:00、3人にて池袋に出、夕食し川久保におごらる。そのあと喫茶おごり、別れて帰来。22:00入浴。
7月31日
暑し。9:00東洋文庫。青木富太郎氏来る。午、川久保と3人にてそば食ひ、氷のみして語る。「大安」にゆくといふ川久保と別れ14:00帰宅。
辻芙美子、藤原由子、東順子、井上幸子、小山正孝氏より暑中見舞。
至文堂水野和子氏再来、「20日まででよし」と。「明日原稿用紙と既刊2冊ともち来る。昭和女子大出で白雄を論文にかき天理図書館へゆきし」と。
午后の便にて森田智子より暑中見舞。青山定雄氏より「後任を推薦せよ」と。
8月1日
暑し。青山氏へ「心当りなし」と速達。高田かよ子、中島悦子より暑中見舞。博多より山下陽子、重谷秀子2生、植村武氏より歌集『凌霄』。
午后、東洋文庫へゆき『八旗通志』ほぼ終る。16:30閉館とともに川久保と出て氷水のみしあと家へ伴ふ。20:30まで話してゆく。植村武氏より送り状。堀内歴より暑中見舞。
8月2日
史の持帰りし箱とき『吉林外記』『黒竜江外記』をとり出し、文庫ゆき休む。
午後、八木さんより「20日すぎまで上京できず」と。『薔薇』来り、『東洋史講座1,2』来る。
鈴木幸太郎、佐藤智慧子、根木薫、中田富子より暑中見舞。小室栄一氏より同。西野平造君より村田幸三郎のアドレスしらせ「玉村の別会社につとめゐる」と。
18:00すぎ弓子帰り来る。悠紀子けふ内職の金1,800余もらひ来る!
夜ふけ、八木、田中静子2氏に就職につき手紙。天理図書館へ受取。
8月3日(日)
悠紀子、京をつれて名主の滝へとゆく。依子はいつもの如く出てゆく。福地邦樹君より「8,9,10の3日間上京」と。
田中城平叔父、辻規子(政信氏女?)、古田房子、藤田幸子より暑中見舞。麓保孝氏より「青山氏と相談、人文教室主任阿部教授まで連絡せよ」と。
入浴。夕食後、訪ひ来りしは半田祐子。「商業美術展出品のため来りし」と。「離婚訴訟を新聞にかきたてられ、慰藉料25万円を男に払ふこととなりし。相手の弁護士社会党左派の辻本、沢井判事なりし」」と。
8月4日
約の如く大野家へゆきしに石原生のみ。知子、鈴木2生は避暑にゆきて帰らず。この次7日ときめてtowelもらひて帰る。
今井三郎叔父より「入院中、2-3,000円貸せ」と。関口淑子、亀井昇、篠田喜代、清水文子、田中康平、吉森安彦幸子夫妻、川上恭正より暑中見舞。川上生曰く「先生には何とも云へぬ魅力があると皆で話しあっております。先生はニヒルなのですか?ヒューマニストなのでしょうか。先生には秘密が多くあるような気がいたします」と。
午后『果樹園』30号と『東方学』の抜刷10冊と前田光子より玉ねぎとじゃが芋と来る。
夜、畑山家へゆきしも応答なく暑ければ『果樹園』はふり込みて帰る。
8月5日
王子税務署より「第1期分1,020を8月15日までに払へ」と来しのみ。この間からの暑中見舞の返事かく。
悠紀子に電話かけさせしに「大は7日まで志賀高原にあり」と。前田光子へ礼状と『悲歌』送る。
8月6日
9:00家を出て有楽町。晴海埠頭行といふbusのあるに気づき10:00埠頭へゆけば麓氏の乗る「あやなみ」は一番手前にあり。阿部鵬二教授に紹介され、「早く青山氏の後任を推薦する」ことを約す。11:20出航まで待つ。
佐々木邦彦、櫻田悟朗、田中保子、田中令子よりハガキ。あとにて田中保子の札幌より送りし菓子も着く。
16:30坂根千鶴子来り、「明日帰阪、豊島区池袋2-1053武村apartに1日移りし」と。夕食せしめ、誘ひて東中野の寺本和代訪ぬれば「国より上京の妹たち出迎へに夫君22:00まで帰らず」と。
21:00出て新宿松竹座に出演との曽根桂子訪はんとせしに十吾一座来をらざることわかり、引返す。
けふ田中洋子の母より「叔父にたのまん」と。
『バルカノン』来り、保田のわがこと云ひしに怪しげなる伝説(蔵原、伊東、宮沢の3人を昭和の3詩人といふ)、『コギト』再興運動せし云々との虚伝をのす。(※)
8月7日
9:00大野家、知子君と石原君とを教ふ。帰りがけ鈴木生の母来りをり「叔父の家へゆきしまま」と。
松井和佐子、井上睦子(恋すと)、井上律子より暑中見舞。八木氏より「20日すぎ東上」と。
太田常蔵君より『明末における愼緬境域の情勢について』抜刷。午后の便にて田中保子より「6日上野の旅館に宿泊。けふは終日遊覧」と。
川久保より「お会ひしてお話伺ふと何となく自分のペイスが乱れるような感じですが云々」
8月8日
暑中見舞の返事かき、田中保子に礼状かき、村松、池田2教授に『果樹園』送りしのち、満文1冊と和書4種もちて秋葉原より神田の山本書店へもちゆけば1,700と。『李太白年譜(60)』と『天津史(250)』買ひて蒲池君訪へば「夫人、筋腫にて臥床」と。雑誌2冊たまひ「一橋会館ならん」と教へられ、ゆき見れば演劇指導会議はたしてここなりし。受付の女性にたのみ、昼休みまで45分まてば福地君の同僚出で来り、「現在ここにはをらず」と。「今夕来られたし」との伝言たのみ、「揚子江」にて炒飯食ひ、都電にて新宿。中村屋でchocolate買ひ、青山教授訪へば全家留守。
仕方なくpostに手紙をおきて駅前にて『荷風全集(30)』買ひて帰宅。
悠紀子、変なるゆゑ叩きて指に負傷す。福地君(※福地邦樹)18:00夕食中に来り、いろいろ話し、悠紀子の怒りは『薔薇』の詩(※恋愛詩)を見しためとわかる。これまでなきしことにてふしぎ。(悠紀子曰く「今までもみなよんでますよ云々」)。
林dr.に電話して不在なることを知りしも20:30ゆけば夫妻ともに帰り、beerもてなし玉ふ。「林dr.にもわが初対面印象悪かりし」と。
22:00まで話し、池袋へ出ず、大塚まで送られ、神田まで送り紅茶おごらる。けふ新坂母子、羽倉裕景氏より暑中見舞。
8月9日
家居。白鳥きみ子夫人より「white-shirt受取りしや」と。藤野一雄、久保マナ子?、秋山健三昭子みつみ一家より暑中見舞。
渡辺三七子より「物贈った」と。白鳥夫人、太田常蔵君へ受取。
8月10日(日)
浅賀千里(成城大文化史専攻)、三野登美子より暑中見舞。夕食後、板橋区徳丸町の藤田幸子邸を訪ふ。2児夫君と駅まで送り呉る。
8月11日
晴。西村和子、楠戸規美子、兼頭淳子、藤井文子より暑中見舞。西宮一民君より「もうそろそろ先生(※大阪へ)バックされませんか?」と。池田勉氏より『果樹園』31号の受取。渡辺三七子より夏シャツ賜ふ。
夜、大野家へゆき鈴木少年に「毎日家へ来よ」といふ。
夜、『バルカノン』の記事の訂正について2項、『果樹園』32へ5枚かく。
8月12日
林満寿子夫人より暑中見舞。昨日史、電話かけしに「大4日間滞京」と。
13:00より16:00まで昼寐、珍しきこと也。東孝子、佐々木満嬉2生より暑中見舞。19:00より鈴木生教ふる筈なりしも来ず。
8月13日
悠紀子class会へと出てゆく。われ大野家へゆきしに知子君のみ。帰れば鈴木生、家へ来しと。
河出書房の吉武覚氏来り、「CaesarとCleopatra」60枚を少年のために書けと云ひしと。太田常蔵君より「川久保と訪ねよ」と。藤田幸子夫人より「お構いひせずに」との挨拶。今井三郎叔父より受取。上野姉妹、吉岡生より「富士伊豆へ来し」と。
八木嬢より「岡田氏の返事あり、上京の要なくなり、金もなし」と。
午后の便にて井上恵子生より「担任もたされず。物贈った」と。奈良漬一折賜はる。
小島樹氏問合せ。16:00吉武氏再来「9月15日ごろまでに書け。大人向き」と。金沢誠君の推薦と。大の友なり。
悠紀子、帰りおそく4人そばとる。(※削除)
8月14日
よべ不眠にて苦し。鈴木生来ず、助かる。悠紀子をして大に電話かけさし「来よ」と云ひしに「来られず」と。八重樫知子生より暑中見舞。村上新太郎氏より「9月5日までに詩を」と。文芸日本社より「16日(土)18:00より会する」とて出欠問ふ。
昼食して藤田亮策先生訪ひ参らせしに「25日まで御旅行」と。大野家へ寄れば無人。隣家の嫗に言伝たのみて帰宅。
昼ねせしに上田阿津子、林良子、服部紗智子の諸女より暑中見舞。川崎宏子より「松本一彦に御中元もちゆきし」と。大野の知子嬢来りしゆゑ鈴木生のこと云ふ。
夜、畑山家へ雨中ゆけば「けふ(※東洋大学)理事の推薦会」と。史、大を訪ね1,000もらひ、「明後日京都へ出発」と、突然の話なり。昨日けふ大手神社の夏祭。
8月15日
山内和子より「松本一彦の部に配属」と。『朝日年鑑』より名簿にと。昨日と今日と地図かくため方眼紙買ふ。
夕方大野家へゆき、鈴木生、明日より4日間、わが家へ午后1時来ることとなる。
8月16日
朝、畑山君訪ひしに来客すぐ来りて帰る。「3年後にでも東洋大学に復帰せよ!」と。
『詩人連邦』来しのみ。午後鈴木生教へ叱る。小高根君より「秋に東京転勤になるかもしれぬ」と。小畑信良閣下より豊中に帰住と。かはりに本荘健男君東京転任と。
史、数男(※悠紀子弟)にゆく。千草、夕食前に来り、史21:00まで帰らず『文芸日本』の会にゆきそこなふ。21:30史、出てゆく。けふ大文字焼と。
8月17日(日)
防衛大学教務部長安宅彦三郎氏より「10月10日より3月10日まで青山氏と4時間づつ担当の都合のよい曜日、時間を8月末までにしらせ」と。
13:20鈴木生来る。『東洋思想講座』書かず。
8月18日
白鳥きみ子夫人より郁郎君の「七夕の森」をニッポン放送の8月26日(火)17:30より放送と。
前川佐美雄氏より24日『日本歌人』の会にて会はんと。「雑誌9月より東京で発行」と。
鈴木生来ず。原稿書けず。夕方より下痢。
8月19日
至文堂の原稿、題だけ書きて畑山氏を訪へば「立教中学への斡旋たのむ」と。帰宅。
うだうだと時間つぶしゐれば15:30田中秀子来訪。「信州をへての一人旅、高松生にきけば依子の日生落第を松本一彦気にしてゐた」と。
7:00まへ送り出す。「日本歌人東京支社の会を24日(日)13:00西武dept.にて」と案内。
19:00大野家へゆく。石原生来られず、4人のところ3人になりしゆゑ云々と大野夫人云ひしゆゑ、畑山氏に云へといふ。
8月20日
よべ眠れず。前川佐美雄、山前実治氏へハガキかく。朝食後、ひるねしゐれば寺本和代夫人より、田中秀子のことしらせしハガキ来ありし。
午后、浜谷弘子、四方綾、住山重子の3生よりハガキ。井上京子、北海道よりコケシ贈り来る。15:00至文堂の水野女史に電話かければ「月末まででよし」と。バカらし。
8月21日
悠紀子、京をつれて和田賀代女史を清瀬に見舞にゆく。穴川裕代生より「父と対立」と。
13:00出て立教、手塚教授に会へば総長に話し、手当の件は部長へさし戻せしと。手当もらひて出、池袋の古本屋見てのちbusにて瀧野川。畑山博氏訪いひ、夫人に立教入学試験と大野schoolのこといひ、飛鳥山で野球応援の畑山校長つかまへ見物し、三沢先生上京との話きき、畑山家へ引返し、電話きけば畑山氏新宿へ呼出されし。
帰宅すれば坂根千鶴子、大阪の岩おこしもちて来る。夕食して大阪の話きかんとすれど、概ねわが愛情論となる。至文堂がためなり。(※依頼原稿タイトル「愛情とその表現の特徴」)
8月22日
田中秀子より「寺本夫人と共に再訪するやもしれず」との日光よりのハガキ。
堀口太平君の大阪廻送の暑中見舞を見、11:00家を出、池袋の西武dept.に寄り、早川智慧氏より『天魚』4冊借る。保田一つも変らず。
東中野の寺本夫人訪えへば無人。成城大学にゆき8月分salaryもらひ、図書館へゆきしに、一般書庫にはTagoreよりなし。下の鎌田女史に柳田文庫見せてもらひしも印度童謡のみ。加藤嬢に上野図書館の谷ケ崎浜子さんに紹介たのみ、「明日ゆく」と云ひ(大混雑)と、出て祖師谷大蔵。駅前にてラーメン食ひ、あられ買ひて青山邸へゆけば「定雄教授また軽井沢」と。[自]ままに日をきめると云ひ、夫人の話ききしのち経堂。小高根太郎君を訪ふ。『シャクンダラ』をよめと云はれ、二郎君の東京転任を教へて出る。帰れば田中秀子来ざりしと。青山夫人より賜はりし茶をわたす。小島樹氏の礼状。原田早苗、安子姉妹の北海道よりのヱハガキ見る。
8月23日
朝起きて6枚、ともかく書きはじむ。防衛大学校安宅彦三郎教務部長へ「木曜3〜6にして下され」とハガキ。白鳥君子夫人、寺本和代夫人へハガキ。
8:30出て本屋にてHeine1冊買ひしあと、向ひの王子図書館へはじめてゆき『世界文学事典』を見、すぐ出て上野図書館へ9:30着けば入館出来、貸出しへゆき谷ケ崎嬢呼んでもらひ加藤嬢よりたのみしといひ、Heine贈りしあと本の出るを待ちをれば座席なく『シャクンタラ』の梗概を立ちて写し、疲れて12:30出、鰻丼食ひ、池之端七軒町へ出て都電。東洋文庫にゆき、Macdonell『A Histry of
Sanskrit Literature』抄す。
けさの早起きの為、疲れて出れば雨。氷屋にて雨宿りして帰宅。
井上芙美より「信州で会ひし武居豊子来訪の予定」と。Michigan大学に留学の金子富美子氏より挨拶状。金門攻撃始まる。
8月24日(日)
浜谷弘子の叔父次氏より「成城中学部へ進学につき云々」と手紙。
12:30出て池袋西武dept.へゆけば(※『日本歌人』の会)長尾良君をり、ついで前川氏来る。「保田とはこのごろ会はず」と。『日本歌人』東京移転につき話きき、そのあと「雑務を手伝へ」とわれ演説す。芳賀檀氏も来り、話す。そのころ武居豊子より電話かかり、きけば悠紀子探しあてしと。「すぐ来よ」といひ待つ中、来り、coffeeのませtobaccoのませて話す。「ヒカリノクニ」にまだゐると。Beerのむ前川氏の席へつれゆく。山之口獏君来りなごやかなり。(古川政記氏に畑山博氏への紹介状の名刺かく)。
19:00出てすし食はせ、地下鉄まで送りて帰る。
脇本も家と古川氏宅まで同行せしと。けふ依子、池袋三越の屋上にをりしと。(獏さんにきけば平田内蔵吉、沖縄で戦死せしと)。夜半20枚。
8月25日
9:00王子中学へゆき図書館長山口先生に会ひ、研究社『世界文学事典』を借出す。「浦和高校にて興地先生教はりしと。保田與重郎の本も読みし」と。Heineを本屋で見付け1冊贈る。BaedekerのBelgium,Holland編ほしと也。弓子に托す。
帰れば青山定雄教授、軽井沢より「後任に河鰭君を推さん。26日又は28日連絡せよ」と。八木嬢より「28日までには上京するやもしれず。
いま『Biblia』の原稿作製中」と。
そこへ服部三樹子氏来訪。森房子、山川京子、中河幹子などの作歌女史の話す。浅野氏に会ひたしとのことゆゑ、電話せしもかからず、ゆけとすすめ、
昼食せしのち退去。王子権現に案内せしのみ。
8月26日
悠紀子9:00すぎ出てゆく。至文堂水野女史より「月末までには必ず」と。伝田雅子より某月某日『足音』の講演会する故西下せよと。
弓子、午すぎ帰り来り「事典9月10日の登校までそのままで宜しと山口先生」と。
よべ睡眠不足ながら日本文学に入りて41枚となりし。午すぎ大野知子君来りて、「姉のnote検すみしや」と。「出来ず」といひて帰らしむ。
午后の便にて高松生より「日生にて山内生、老嬢にいぢめられをる」と。
困憊せし上、貧にして、(12月以後の生計立たざるを悠紀子思ひゐるらし)、全く自由を失ひし感あり。西下やめんと午后決定。
夜、柴田武司会の方言座談会ききゐれば、青山教授より速達にて「明日正午文庫に」と。
8月27日
昨夜にて52枚となりしも目ざめて書き直したくなりし。浜谷次氏へハガキ。
悠紀子、京都へ送金す。吉成和也生より暑中見舞。
王子中の山口広先生、丸善へゆきGoethe全集見たまひ「シャクンタラ―」写してたまふ。
10:30東洋文庫。吉田金一、佐口透の2氏あり。12:00までアラビア文学を見て青山教授に会ひ、河鰭君に賛成とといふ。
王子にて『千一夜 第21冊(角川文庫)』購ふ。よべまでの書き直しのみに了る。
8月28日
朝3枚かき55枚とし、午すぎ散歩かたがた高野家へゆき、いろいろ話す。帰れば16:00(うどん賜りし)。
服部三樹子氏より「浅野氏に会ひ堤夫人に紹介し、たのまんと云はれし」と。大野家へゆき教へ了れば4,000呉れし。けふ『千一夜19』を買ふ。
Hãfizのことのりし18とまちがへし也。
22:00、60枚にし、了ふ。不十分、浅薄なれどいたし方なし。
8月29日
朝7:00ごろ訪ふ声し、八木さん来訪。朝食ともにし、「のちに会はん」といひ、9:00帰りしあと10:00出て至文堂へゆき、1万円余の手取り9,000−1,100をもらひ、busにて山吹町、堀口太平君訪ふ。
大垣国司の発狂して死にしこともしらず、「堀内歴を識る」と。再会約して出、八木さんと会ひ話す。「東京転任をさほど急がず」と。急ぐかあきらめるかの境目なること旨くしへず。
一旦帰りて悠紀子に金わたし、史より「岩波文庫送った。羽田マサ子の家庭教師となりし」とのハガキ。
藤本時喜子、山口玲子、太田陽子のたよりを見、高野家へゆけば20:00。時計1時間おくれゐし。子供らにわびの贈り物し、勝美氏、会議とて帰らざるに21:30雨中をbus停留所まで送られて帰る。
けふ留守中、寺本和代来訪。Tobacco20箱をくれしと。
昭和33年8月30日〜昭和33年12月31日 「東京日記 4」 本冊画像PDF
25.5cm×18.0cm 横掛ノートに横書き
8月30日
雨。悠紀子も不機嫌なり。岩崎昭弥より「27日札幌にあり」と。
午后、細川清(元東洋大学助手)より「佼成女子高校に就職せし」と。
16:00 tobacco20ケもち亀井勝一郎へゆく(※名前抹消)。悲観をやめ楽観を唱ふべしと也。19:30別れて帰り来る。
夜半、「栗山氏を訪ひフランス語の教師にわれ羽田を推薦し、会ひてことわられしとて五百井仁を紹介せし」ところにてゆめさめし(3:00)。場所は大阪なりし、ふしぎなることかな、わがゆめみるは。
8月31日(日)
わが誕生日の第47回目なり。悠紀子、神経とがりをり、これを観察す。〒なし。古川政記氏訪はんと思ひしが、入浴のあと雨振り出して果さず。山口先生に礼かく。
9月1日
雨。9:30東洋文庫へゆき『吉林通志』『康熙奉天通志』をみる。地図『奉天通志』のみあるも駄目なり。『満洲学報』は1のみ。
12:00出て帰宅。大野昌子来りしと。佐々木邦彦君より「青龍展に2日、4日と会場にあり」と。
午后、武居豊子より「台風にトタン屋根とばされし」と。史より岩波文庫18冊つく。『遊仙窟』も『ガリア戦記』もなし。史へ受取「羽田明君へよろしくたのむ」と。大野昌子へnoteもちゆき、十条まで散歩せしも、はね上り、帰り来る。
夜、『詩人連邦』に2枚。『薔薇』に「誕生日」
9月2日
曇。服部三樹子氏より「小高根君のため『コギト』『四季』を写しに3日午后来訪」と。
13:00出て三越へ青龍展見にゆく。佐々木邦彦氏見つけてもらひ、山の画の越南とソ聯へゆきしをきく。青龍展の山の画の鼻祖なり。茶よばれ、龍子の風塵雷神見て都電にて赤門前下車。『Germania』と『ガリア戦記』探せしもなく、『千一夜物語17(50)』『シーザーとクレオパトラ(65)』『楊貴妃とクレオパトラ』買ひして帰宅。
前川佐美雄より『日本歌人』に書けと。夜、大野家へゆき「知子生、都合わるし、坂東生やめる」ときき、よろしと云ひ、来週より水、土ときめて帰り来る。
9月3日
午后、服部三樹子氏来り、『コギト』と『四季』しらべる。「もうすぐ失業保険きれる」と也。
青山定雄教授より「岡部長章君を防衛大学に推薦す」と。服部氏帰りしあと、京と十条にゆき、古川政記氏訪ねしも、夫妻とも不在。けふ『果樹園』32来る。またもや12pなり。
9月4日
曇。〒なし。家にて何もせず、夜、大野家へ教へにゆき、帰り来ればやがて坂根千鶴子、曽根桂子をつれ来る。十吾一座の東京公演に来りし也。23:30門限とてあはてて帰りゆく。
9月5日
曇。朝、丸より「小竹稔と会するゆゑ、6日15:00弁護士会館へ来い」と。
13:00東洋文庫へゆき、『奉天吉林黒竜江等処標注戦蹟輿図』と『明清人名引得』と借る。李之藻はなし。
15:00帰宅。八木嬢より「日比谷図書館は30才以上だめとわかりし」と。「富永牧太(※天理図書館館長)その論文を博士論文とほめし」と。
井上英美生より長き手紙、別に事なし。17:30大野知子生来り、英語教ふ。昌子も来り、noteおきゆく。土曜を日曜にふりかふ。畑山家へゆきしに博氏不在。夫人に「8月分4,000もらひし」を云ひ「今月以後3,000となりてよし」と云ふ。丸に電話かけ「明日ゆく」と云ふ。
9月6日
暑し。八木氏に「希望を失はざれ」と手紙かき、14:00出て第一弁護士会へゆき、丸に会ふ(午まへ河出書房の吉武寛氏来り「9日14:00より神田小川町資生堂会館に来よ」と。「必ずゆく」と答ふ)。
長男喘息なほり帰宅せしあと神経衰弱と。「近日、会にて話きかん」と云ふ。階下の食堂にをれば小竹稔氏来り、新宿歌舞伎町の焼鳥屋にゆきバカ話し。18:30別れて帰る。西瓜(100)買ひてもち帰る。
前川佐美雄氏より『日本歌人』の原稿のことのみしるせしハガキ来ありし。
9月7日(日)
晴。暑く昨日と同じく33.4度なり。9:00大野家へゆけば19:00と。帰りて〒、帝塚山学院同窓会誌を見る。「谷(寺本)信子退職」と。
夜、大野家へゆきしに鈴木生来ず。止めんとの気あり、母君出てわびいふ。
9月8日
悠紀子に丸家へ電話かけさせ、15:00ゆくと云ふ。『ラマンチャ月報』来り、大森君ぬけ、大野文吉(和歌山県人と)と石川氏とのこりしと。クソと思うふ。
14:00出て丸家へつきしは15:15。成城短大2年の中村生来り勉強しゐる。ユミ子君につき、きのふ丸呼出され「全治しをらぬ故、登校禁止つづくこととなりし」と。長男重俊呼びて「ぜひ受験せよ、予備校へゆけ」とすすめしもハカバカしき返事せず。19:00丸帰り来り、ともにすすめしあと20:00出て駅まで送られ、憂鬱となる。
「赤ちゃん」といふに寄り、赤川令嬢光世君にbeerのまされ、やがて来し母君に赤川草夫氏の在宅たしかめ21:00すぎ訪ぬ(途中『Germania(45)』みつけて買ふ)。「船越章ときどき来訪。もはや党員ではなきらしき」と。『青い花』2版(※田中克己訳、異装釘)もらひて20:15帰宅。
茶漬2杯くふ。けふ大野知子訪ね来て、きけば用なしと云ひしと。
9月9日
天牛書房に東博氏訪ひてきけば「編輯のことしらず」と。出て資生堂会館にゆけば山上正太郎、金沢誠2氏すでにあり。荒正人、三浦朱門、前島信次、など名を知る人々と高橋秀、橋口倫介君らも来る。浪花節的とすべきか、学術的とすべきか結論出ず。
16:00教授会後、古本屋街に『ガリア戦記』さがしに廻りしもだめ。水道橋より電話かけ、堀口太平氏訪ね、予備校きけば「神田の千代田予備校が宜しからん」と。
丸家に電話かけ重俊にいへば「さあ」とのみ。「入学案内とり来るゆゑ考へよ」と云ひ、電話きりしあと腹立つ。
堀口君と軍属の思ひ出話し、池袋行のbus教へてもらって帰宅。
石川喜久子「Spender夫人となりし」と。村上新太郎氏より詩の受取。
9月10日
晴。暑し。太田陽子夫人へ「石川君に同窓会名簿送ってくれ」と書く。
14:00出て神田駅前の千代田予備校へゆく。12日に綜合は締切と。
日比谷の第一弁護士会にゆきしも丸をらず、家へ電話すれば「けふは20:00ごろまで他出」とユミ子の返事。神保町まで都電。『ガリア戦記』みつからず。山本書店にて褚斌傑『白居易評伝(90)』買ひ、『李杜詩選』を教科書にせんと思ふ。
小山正孝氏を訪ね、『四季』の発行部数を問はれ500〜1,000と答へ、長話して18:00近くなりあはてて帰宅。
夕食して大野家へゆき鈴木生の出て来しを見る。Plutarchの『英雄伝9』を探せしも見当らず。
けふ「小林英俊の詩集出版記念会21日」との案内来る。詩も作りをり。
史より「授業料受取った。母、伊勢へゆく気になりし」と。夜、『日本歌人』のために「愛情の中国的表現」7枚をかく。朝は平凡社百科事典にと「李之藻」「李自成」ほぼ書き了へし。
9月11日
『日本歌人』と丸重俊とへ速達せしめ(78)、天野忠の詩集『単純な生活』受取る。Shaw『シーザーとクレオパトラ』よみ了へ、正午すぎPlutarchの『英雄伝11』買ひ来りよむ。
前川氏へ「前後切りてよし」とハガキ。夜、平凡社の清書す。
9月12日
雷雨の中を池袋へゆき西武dept.で『英雄伝9』買ひ、ほうじ茶買って帰宅。『果樹園』にと3枚かきしも旨くゆかず。平凡社より「9月20日まで」とハガキ。本荘健男君「阿佐ヶ谷に住む」と。
午后、小山正孝氏より速達にて『ガリア戦記』貸与され、『果樹園』に400字3枚の「東京通信」書き了へしあと「シーザーとクレオパトラ」200×26。
9月13日
成城大学へ登校。加藤嬢に会へば上野図書館の谷ケ崎嬢恐縮しゐる由。高田瑞穂、暉峻2氏と話せしあと、中国文学の時間むだ話し、『李杜詩選』を教科書に使ふこととす。
すみて新宿にてライスカレー食べて帰宅。夜、大野家にゆき、帰りて45枚とす。
9月14日(日)
終日家居。99枚まで書く。あす成城を休むことときめる。勤務評定にて不快。
9月15日
9:00成城大学高尾女に電話し「のちほどゆく」と云ひ、待てば16:00ごろ来り、挿画の参考として『楊貴妃とクレオパトラ』、野上氏『クレオパトラ』もちゆく。
夕食後、林富士馬氏訪ひ、池袋の「オルゴール」といふにつれゆかれ、beerおごらる。山之口獏氏は(※沖縄より)一時帰国と。けふ林氏のハガキのほか『日本歌人』より「21日西武dept.にて会す」と。時間の記入なし。丸に電話すれば「明日16:00高野階下で待合さん」と。
9月16日
12:00家を出て成城大学。話あひ手なく、教務へゆきてきけば「短大試験せよ」と。14:00より1時間と。
教科書として長沢規矩也『支那文芸史概説』を学生に頒つことたのむ。学部2年生来り19人と。山本書店に電話し『李杜詩選』のとりよせたのむ。
14:00より試験す。わりあひよく書く。class委員が辻参謀(※辻政信)の娘なりし。松村君より『ある日本人』の返却受け、池袋より通学の漢文好きといふ子と話しつつ新宿へ来て高野へゆけば16日は定休日。待つうち丸来り、酒と料理饗され「浅野に訊ねる」といひ、17:00別れて三鷹。きけば「喘息患者はみな自信喪失す」と。「何か特技見つけてやらすより外なし」と。家探したのみて19:30出、高円寺駅より丸に電話かけて帰宅。
けふ前川氏より原稿受取。名坂八千子氏より「21日の会13:00より」と。「加藤、弓場2生とともに川勝重子26日夕方東京着」と。『東洋史研究17-2』来り、残金420と。けふ平凡社へ原稿送る。
9月17日
豪雨。朝早く起き、昼ねす。『善人倶楽部』なるもの窪田雅章氏創刊、同人にわが名をつらぬ。
『桃』来り、保田夫妻(※岩崎昭弥の手引きで)岐阜へゆきしと、めでたし。川勝生へ「宿へ26日21:00電話す」と返事。
9月18日
台風21号のため2児休校。平凡社より原稿受取。終日家居。
9月19日
便所のことにて悠紀子に怒る。立教より「史学談話会を25日15:00より」と。無為にして家居。
9月20日
成城大学へゆく。高田、暉峻、宮崎の3氏をり話す。月給13:00出るとて、下北沢へゆき「ペンギン」喫茶店にゆき森本夫人呼んでもらひ、小説の構想ききて帰宅。
角川より「Heineの9版1,500を十月上旬に」と。午后の便にて佐々木邦彦画伯より『骨』同人に伝言つたへたと。
鍛治富子君より「10月4日挙式に来よ」との招待状。大野家へゆく。知子生「このごろ英語好きになりし」と。
9月21日(日)
朝食後ねてゐれば、堀口太平君来り、『果樹園』に参加すと。午食せしめて13:30となり、送り出して池袋へゆけば『日本歌人』の会まだはじまらず。若林つや氏来り挨拶す。17:00すみて青木文庫『東方諸国の新しい歴史 第一分冊(70)』買ひて帰宅。
八木さんより上野図書館の篠崎てる氏へ紹介状。高松直子より「23日上京」と。川勝重子より「来週金曜21:00に宿へ電話承知」と。浅野晃氏より『詩集箱船』。
9月22日
雨もようゆゑ傘もちて成城へゆき、高橋邦太郎氏に会ふ。午salaryもらひ、栗山部長より「服部女史、年末まで在京の決心」ときく。Que-sais-jeの『インド史(120)』買ひ、午后の文化史試験なしとすと云ひ、土曜、古楽府のこと新宿で待合せて野村生に教へること約し、雨の中出て村田生と同車。
下北沢に下車、「ペンギン」へゆけば休業なりしが、森本夫人母子にてcoffeeご馳走となり、村田生と別れて新宿より四ツ谷、山本書店にて『李杜詩選(240)』買ひ、小山正孝氏を訪ひ、しばらく別れて波木井書店にて塩谷温『支那文学概論(150)』買ひ、「終着駅」といふ喫茶店にて朝潮の負けるを見て別れ、帰れば高松生まちをり。坂根千鶴子より「22:00すぎ曽根桂子つれ来る」とのハガキ見て待たしむ。
岸明子より「10月5日挙式、横浜へ来る」と。高松生に電話かけさせ22:20まで待ちしあと駅へと送り出せば、途にて2人に会ひ、別れさせて家へつれ帰り、24:00近くなりtaxiにのせて帰す。「今夜曽根生、坂根の宿に泊る」と。
9月23日
秋分の日。角川より印紙の受取来しのみ。石川喜久子へ航空便出しにゆけば、郵便局休みなりし。
八木さんへ「note送るな」と。散髪して入浴す。
9月24日
雨。鍛治富子生へ祝ひ状。初江生へ連絡同封。名坂八千子、岸明子氏へハガキ。小林英俊君より自筆表書きにて「黄昏の歌」。小林英俊君へ見舞状。
夜、大野家へゆき昌子生に成城受験すすむれば「むつかし」とてきかず。Dumas『Les Trois
Mousquetaires(※三銃士)』よむ。弓子が借り呉れし也。
9月25日
雨。13:30出て立教大へゆく。手塚君「学校側非をみとめ後期も手当支給」と。ありがたくもすまなきこと也。卒業論文の中間発表に出て別枝篤彦教授に挨拶す。手塚氏とともに出てMelon贈る。
けふ『李太白(60)』みつけ研究室へ寄付し、他に『第2次世界大戦史(20)』『古代への情熱(50)』買ふ。
帰りbusにて瀧野川下車。畑山夫妻に大野家のこと報告し、beerのまされ碁打ちて負ける。岩崎昭弥君より「保田、京都に家建てをり、わが『悲歌』を最も出来よしと云ひをり」と。成城大学より「4日(土)9:00、6日(月)14:10より試験監督せよ」と。
9月26日
雨ひどし。台風迫るときき『民間伝承』236受取り「田中みな子の式10月10日」との案内みて、「出席せず」と云へば悠紀子怒る。姉の非礼認めしめて渋谷。
大に電話し「けふ15:00すぎゆけずば、来週会はん」といふ。
聖心にゆきしに和田先生お越し、青山教授「岡部君につき返事なく不安」と。吾にもなきこと申し、各人の自由にと云ふに教室を出て、けふ講義中止を伝へる。和田先生は講義されしらし。
ずぶぬれとなりて渋谷へ出、東横百貨店にて昼食。鍛治富子君への祝品探せしも見当らず。大へゆくこと止めて帰宅。
依子、都電国電とまりしために16:00銀行を出しに帰宅せず。音無川の水溢る。停電。
22:00依子より電話「目蒲線の支店長代理に泊めてもらふ」と。
岩崎君に返事。渡辺三七子よりこのごろたよりなきに気がつきし。
9月27日
よべの出水にて近所ひどく、国鉄も不通らし。女子会館に電話すれば、川勝生来をり、「のちほどまたかける」と云ひて、都電に飛鳥山より乗りて、大塚へゆけば「池袋より向ふ不通」と。
成城大学に電話すれば「休業の速達出せし」と也。やがて国鉄動き出せしゆゑ、川勝らを迎へにゆくと云ひ、10:00に渋谷までゆき、地下鉄にて虎ノ門へ出、taxiにて女子会館へゆけば迎へに出てをりし。
芝より日比谷にゆき公園見せ、宮城前へゆき外苑の絵画館につれゆき(星野綾子のapartさがせしも不明)、閲覧せしのち昼食。ここよりtaxiにて新宿伊勢丹、tourist-bureauにききしに、日光まだ不通と。
新宿駅に出て中央線上り急行運転しゐるゆゑ、神田までつれゆきて別れ帰宅。
依子も帰り来り、「西小山の支店長代理宅に泊りし」と。
服部三樹子氏より「易をやる」と。「保田と怪しと長尾君が宮崎女史に云ひし」と。『桃』第一歌集来をり。
夜、大野家へゆけば昌子生「日本女子大の児童心理受ける」と。今月の手当くれずして帰せし。
深更、小高根二郎氏へ連絡事項(90円切手封入)。
9月28日(日)
依子出てゆく。浅野晃、服部三樹子氏へハガキ。午后、藤田亮策先生お訪ねすれば、夫人外出のお留守。『東洋学報』の「朝鮮の年号」の稿見せられ、『朝鮮の歴史』賜はる。14:30辞去。
9月29日
尾崎菊子より水害見舞。悠紀子を西武dept.にゆかせ、鍛治富子に祝送らしむ。夕方、千草来り、「日本生命の社員となりしも収入へりし」と。支部長と日々喧嘩すと也。
依子おそく帰りすぐ寝る。
9月30日
晴。9:00大に電話すれば「この間、健来り、父母の伊勢行ききまりし」と。借金4.5万と。金曜ゆく故、白鳥郁郎氏の「明智光秀(※脚本原稿)」返せと云ふ。
高松直子、兼頭淳子、涌井千恵子、八木の諸嬢より見舞。それぞれに「心配いらず」と返事。八木氏へはtypeの業務案内を同封。
午后、硲晃氏より見舞。名坂八千子氏より返事。けふ父よりも見舞。「史は金曜に羽田家へゆく」由。
10月1日
防衛大学校教務課中川事務官より「決定につき履歴書もう1部送れ」と速達。これを送りにゆきしあと、藤田幸子、大道裕子生より見舞。久礼田房子氏より『多羅』出版せしと。
石橋秀雄氏(元東大助手)より「鳩ヶ谷住宅に移りし」と。藤野一雄君より「小林英俊にてわがハガキ見し」と。
大江叔母より被害のありなしを往復ハガキにて問合せ。そこへ堀口太平君、見舞に現はれ「typist辞職せし故、後任を求む」と。八木氏に「1万円、即刻赴任ゆゑすすめられず」と速達。
午后、服部三樹子氏来訪。長山光文への紹介の手紙かきしところへ小高根二郎氏の手紙、「東京転任は見込薄、『果樹園』同人は現在14名が確実」と。
千川義雄、近藤久子、上田阿津子の3氏より見舞。
浅野晃氏へ電話せしに「九州旅行中にて今夜帰宅」と。夕食せるところへ大野昌子来り、「けふの課業を明日にしてくれ」と云ひ4,000忘れゐしと置きゆく。
畑山夫人に電話すれば博氏、疲れてゐると。話す中「(※大野家へのArbeitは)お断りになってよし」と。
依子、富士銀行改名10周年とかで2,000もらひ来る。
10月2日
藤田、近藤2夫人に礼状。「竹岡勝也氏逝去。阿部六郎氏が実弟」と新聞に見ゆ。
午、父よりまた見舞。昼寐せんとするに悠紀子と話合はず喧嘩するところへ正平来り、大江叔父機嫌わるく、昌三叔父神戸店勤務となりしなど話し「中学1年生の家庭教師さがせ」と。徳島のわかめ置き去る。
夕食せんとせしに大野夫人見え、礼2,300にし、試験本位にせよとの条件承知し、700もち去る。坂根千鶴子来り、夕食せしめ、喫茶店Bonaといふにつれゆきて21:00去らしむ。
10月3日
西武dept.より「鍛治富子君へ1日送った」と。12:00出て聖心女子大。青山教授に会へば「岡部君のこと未だ返事なし」と。和田先生と話し、教室へゆけば「試験問題云へ」と。教へてすむ。あと10日以後しばらく出ざるもよろしきらし。
大訪ね、「男3人(※兄弟)にて4.5万円を払ひ、そのあと大は5千円づつ送ることとせし」と。
帰れば大野昌子待ちをり、受験本位にやらんといひて帰らしむ。増田春恵より見舞。服部三樹子氏より「永山光文へは2、3日様子を見てからにせん」と。
悠紀子の見つけし本棚見にゆき950を900にしてもらひ、金払ひ来る。
10月4日
7:30家を出て成城大学へ8:30につき、教務にゆき高田瑞穂氏の介添なるを知り、中講堂で試験。短1Aは47人出席(欠は佐々木)、文2は15人出席。他に替玉あり。すみて4人時間まちがへしと来り、教務課長に話し追試さしてよしとなる。まっすぐに帰宅。
八木嬢より「堀口太平氏の(※就職)話ことはる」と速達。芳野清君より「その中会ひたし」とのハガキ。『Corbeau詩集1958』と俵青茅『秘色』来をり。
浅野晃氏より「詩集(※『箱船』)の出版記念会は放念せよ、このごろ午前中在宅」と。
出て東洋文庫。「朝鮮本翻刻展」見にゆく。長沢規矩也(けふ同氏の教科書献本受取りし)、中島敏、神田信夫の諸氏と会ひ、岩井主事と話す。
帰りて山本陽子より高師浜の写真入りの手紙。服部三樹子氏より「1万円の(※就職)口出来し」とのハガキ見て夕食せんとするところへ清水文子来訪。22:00まで話し(大野家へは「明日ゆく」と電話せしむ)、駅まで送りて別る。「東洋大学やめしを心配しゐる」と。
10月5日(日)
ハガキ8通書く。悠紀子、依子と買物にゆく。『果樹園33』『同合本第2』、森房子『多羅』来る。雨中、夜、大野家へ2女を教へにゆく。
10月6日
雨。京の運動会連延2日なり。服部紗智子氏より見舞。小高根二郎氏より「合本代100を送れ」と。村松正俊氏に『果樹園』2冊送る。
午后、曽根桂子より帰阪の挨拶。至文堂より校正もち来り、「明日とりに来る」と。12pなり。
(けふ11:00岩田生よりのCastilla1棹もちて原氏来訪。「忙し」とて殆ど話さず去る)。24:00まへ電報。「アスアサデンワタノム ヒロシ」。
10月7日
雨。至文堂来ず。12:30出て成城学園。講師室寒し。村松達雄君来しのち、監督にゆけばL3Aの中国文学史受験者は9名のみ。15:10までにすみ、栗山部長に会ひ、服部、久礼田2女史のこといひ、松村氏に駅前で茶おごられて帰る。
(けさ9:00大に電話かければ「あす三好達治氏に会ひに来ぬか」とのことなりし。「ゆけず」と答ふ)。
八木嬢「大原へゆきし」と。新坂康子生より見舞。
10月8日
晴、悠紀子、みな子の祝のことにて阿佐ヶ谷へゆく。京、運動会。われ留守し内職やる。すみて根木薫嬢より「帝塚山短大の副手となりし」と。涌井千恵子生より「16日(木)18:20上野水月旅館に入る」とのたより見、入浴。
悠紀子18:00帰り来り、「和田統夫転勤予定につき、あと借りよと姉弟いふ」と。夕食すませて大野家へゆく。
10月9日
晴、家居。午后東洋文庫より『華夷変態』2冊贈らる。うれし。
千草来りてくどくど云ふにどなりつけしも効果なく15:00去りゆく。夜、大野知子へ訂正の英作文を悠紀子にもちゆかしむ。
10月10日
晴。村松正俊教授より『果樹園』の受取。11:30出て聖心女子大。和田先生に『華夷変態』のお礼申上ぐれば「反対ありしも貧乏ゆゑ、と云ひし」と。岡部長章君防衛大学きまりしと。
14:40に講義やめ、渋谷より飯田橋。下車して支那そば食ひてゆけば、着換の時間なく、待合室で高沢伯母、柏井一族(※妻方眷族)に会ふ。和田總子、統夫の姉弟も来ゐたり。式すみ、披露宴にて挨拶ささる。新郎槙口昭次とて東平鍍金KKの社員(東京工学院?出と)。咸子はライオン歯磨に今後も勤めると。
18:30すみて帰宅。清水文子より礼状。
10月11日
杉本長夫氏にハガキ。13:00出て白木屋に「日南交流350年史展」見にゆきSieboldお稲に涙出し、安南語、Tagalog語、広東語そろへて売りに山本書店へゆけば1,500と。喜びて和田先生の「察哈爾部の変遷 上」のりし『東洋学報
41−1』買ひ、『唐詩概説(160)』買ひ『李太白』3冊みつけ(35×3)、大野昌子のため参考書2冊買ひ(100)、また白木屋ヘゆき案内書買ひて都電にて帰宅。
川勝重子父子より礼状と写真。俵青茅氏より「本送ったが着いたか、会社は昨年12月定年退職した」と。名坂八千子氏より『日本歌人』の会を19日にすると。夜、大野家へゆく。珍しく茶出せし。
けふ堀口太平君に電話してきけば『果樹園』に加入したと。
10月12日(日)
11:00まで眠り(ねざめせしゆゑ)、朝食せしのち林富士馬dr.に電話すれば「夜まで他出」と。畑山氏へゆけばくさや焼きて食ひをり。
Televiの野球1回半見て帰宅。
十条へ散歩し、新村博士『吉利支丹研究余録(60)』その他『東洋思潮』の3分冊(20×3)買ひて帰宅。
19:30林氏に電話すれば「疲れて眠る」と夫人の答なりし。
10月13日
原氏より「岩田生の食少し」と。11:30までに3冊の紹介かき、20号同人費500と製本代100同封、果樹園社へ速達し、林富士馬氏に電話せしも失礼といはず「同人会やるといひてすむ。」
17:00悠紀子、姉の家へとゆく。21:30帰り来り、古着多くもらひ来る。
10月14日
9:00浅野氏に電話し、「日曜『果樹園』の会を」といふ。手塚教授より「11月15日(土)の立教史学会に研究発表せよ」と。11:30立教大学へゆき、やることとなる。「清初八王、九王、十王考」やらん。「梗概を2枚20日までに」と。
聖心女子大へゆけば2名時間をまちがへしといふ子がありし。図書館に『李太白』寄附し、渋谷駅で白鳥先生に電話すれば「御夫妻とも他出」と。大塚で『文芸春秋』買ひ帰れば西村和子生より卒業の挨拶。
西宮一民君と向井順子(※帝塚山修学旅行先の)十和田ホテルより絵ハガキ。入浴。
けふ和田賀代女史より「統夫転任とならばどうぞ」との返事。退院は3月の予定と。
10月15日
晴。比留間一成氏より礼状。『詩人連邦32』4冊来る。午后、田中洋子より「つづけて勤めゐる」と。鍛治(武田)富子より礼状。『満蒙史料第13』。
夜、大野家へゆけば昌子参考書代100わたす。昨日弓子のとりくれし写真、実物そのままに写り、使へざることわかる。
10月16日
4:45おこされ、朝食して6:30家を出、7:00、taxiにて上野花園町水月旅館に着き、涌井生呼び、西宮君呼びして、朝食中のみなにお辞儀し、英文の講師(青山学院出と)、交通公社の佐々木君と会ひ、7:30宿を出て東急遊覧busにのり東京駅へ8:20着く。涌井生のほか向井順子生(拓殖銀行に就職せしと)、林生(秋田実氏の娘)、井上京子の妹、島浦放送局長の娘などをりし。9:00送出して西川に会ふ。あと疲れて帰宅。
久礼田夫人より「外出出来ざる故出版記念会は云々」と。東方学会より1,800−140研究費として来る。
午后雨やむ。夜、考へて「八王・九王・十王考」きまる。聖心女子大。東洋近世史Tの採点すむ。
10月17日
名坂八千子氏より「日本歌人の会へ来い」と。12:00昼食して立教大学へゆき、立教史学会の発表梗概とどけ、手塚氏に会ひてのち、及川『満洲通史(200)』買ひて渋谷。時間あるゆゑ宮益坂を上って『ルチチア2冊(50)』『朝鮮(80)』『帝国主義の没落(70)』買ひてのち青山学院前よりbusにてゆく。答案まだ整理出来をらず、待つまに青山氏に会ふ。16:00出て帰宅。
10月18日
雨。成城大学へゆけば山本書店より『李杜詩選』19冊とどきをり、2冊のみ220と。学生に頒け、角田女生に集金たのむ。
11:30出て下北沢。昼食し古本屋にて長沢『支那文学概観(100)』買ひ、まっすぐ帰宅。
聖心女子大より。「5日の50周年記念式典に出るか」と。
午后、杉浦正一郎『芭蕉研究』来る。林檎1箱、涌井千恵子の浅虫より送りしが来る。夜、大野家へゆけば梨給ふ。聖心女子大。東洋近世史Uの採点了る。
10月19日(日)
悠紀子は京をつれて映画。弓子は模擬試験。依子日直出勤のあと、採点して留守す。太田陽子夫人より「自動車運転手証受験のため返事おくれし」と。
石川喜久子に夫君案内されしと。田中雅子「帰省してゐた。来月半ば上京して会ひたし」と。
防衛大学より「木曜講義(10:25〜15:05)」と。14:00悠紀子帰り来りしゆゑ昼食して和田賀代女史を清瀬の東京療養所に見舞にゆく。
来年4月退院むつかしさう也。
帰り桜台で下車、松本善海に電話してゆく。「11月3日京都へゆく」と。Brandy入りの紅茶のまされて出、池袋にて鰻丼食って帰宅。
防衛大学に「10月23日出勤すべきや否や。9:58のbusありやなしや」を問合せ。太田陽子、久礼田房子2夫人へのハガキと、涌井千恵子に「よみたき本いへ」とのハガキを、成城大学のnote作り了へてかく。杉浦美津子夫人へ(※『芭蕉研究』の)礼状。
10月20日
4:00一度起き、眠きも成城大学。教務へ採点提出せんとすればその「要なし」と、バカらし。短1Aに漢文の答案返し、中国文学史の教科書買ひゐるを知る。すませてrice-curry食ひ、臼井、富永、高橋の3氏と話す。高城助教授の細君創元社につとめ、昨日hysterieおこして校正やぶりしをことはりゐる電話きき、困りし。大に電話すれば「三好達治氏には電報でことはりし」と。
文化史教へ、高橋、富永(太郎25才で死にし弟と)2氏と駅にゆけば渋谷まで付合ふと。「columbin」にゆきcoffeeおごられ、『果樹園』贈る。
15:40別れて聖心女子大へ16:00ゆきしに教務不在。受付に採点わたし、急いで渋谷の住宅協会さがせば、もはや事務所打切りゐる。
帰りて史より「奨学金もらふこととなりし」とのハガキ。太田常蔵君より『東洋史(教養の歴史)』と一般教養に使へとのハガキ。松田亘代より「浜田姓となりし」と。涌井千恵子より「西宮君と喧嘩せし」との手紙。西宮君より「太田陽子夫人に電話かけし」とのハガキ。
大毎永井正三氏より「マナスル」の詩(※昭和28年3月大阪毎日新聞)を宝塚に使用させよとのたよりなど来をり。夕食了へしところへ坂根千鶴子来り、「近々芸術座の公演に女郎となりて出る」と。「無法松の一生」見にと池袋へゆきしに21:00にて中途とのことゆゑ西新井行最終のbusにのりて帰り来る。
林富士馬君に電話せしに、よべ不眠にて『文学界』にゆく日と。『果樹園』合本受取らずと。小高根二郎氏より受取り来をりし。
10月21日
大毎永井氏に「諾」と返事。松田亘子へ祝ひ状。防衛大学校中川事務官より「23日講義あり。Busは9:55馬堀発」と返事いれちがひに来る。浅野建夫君より博士号授与内定、丸の坊や来ず」と。修道社より『現代紀行文学全集』に「虹霓」(※リンク)のせよと。12:00『白楽天詩集』4冊もちて出、小高根家へ返却。
成城大学へゆき、途にて栗山部長に会ひ、salaryもらひて松村君と話してのち中国文学史。出席少く、けふより長沢規矩也『支那文芸史概説』用ふ。15:10すませて松村君と出、西鉄−巨人戦をteleviで見る。6−1で西鉄の3連勝きまりし。市ヶ谷より神田、山本書店に『李杜詩集』の立替払(4,520)し、『唐人十観(190)』『李白詩文繋年(140)』買ひ、神保町より都電。秋葉原より国鉄にて帰宅。
前川佐美雄氏より「『日本歌人』11月出る。次号の原稿を3日までに」と。
10月22日
雨。立教大学史学会より34年10月10日までに『史苑』のため5〜60枚かくやと。「かく」と答ふ。
中川事務官よりまた往復ハガキの返信。夜、大野家へゆけば松茸賜ふ。
けさ丸家に電話せしに「重俊君不眠症ゆるびしゆゑ浅野君にゆかず」と。Gogh展にゆかんとさそふ。
10月23日
7:00起きし。7:30出て品川にて8:20にのり、馬堀海岸で前のbusにのれ、教務課の中川明事務官に会ひてきけば「教務部長来ぬ日」と。給仕もかはり三田村女とて感じ宜しかりし。10:25まで待ちて2classづつの2組教へ、寒がりつつ帰宅。
丸より「重俊かまはぬこととす」と。菊地成子より「11月18日結婚」と。堀口太平氏より「堀内助三郎氏を同人にしてくれよ」と。鍛治富子より祝返しに靴下。
10月24日
曇。よべよく寐ね快し。正平より「今週中に来る」と。古田房子より「信州山田温泉へゆきし」と。
午后『biblia12号』八木君の統計のりをり。つまらず。南村和子より「一時帰国の夫に会ひに東京へ、29日〜1日滞在中にHotelTokyoへ電話くれよ」と。
10月25日
雨。成城大学へゆき、杜甫を教ふ。角田生、教科書代4,520集めくれし故、礼にと『李太白』与ふ。
出て下北沢下車。『キリシタン文化概説(30)』買ひ、rice-curry食へば、雨降り出す。
けふ〒なし。都税とりに来しと。(『斎藤茂吉歌集』買ふ)。夜、大野家へゆけば夫人謝礼のこと云ひ、明日11:30より会すといひて礼はくれざりし。
10月26日(日)
雨。10:00すぎ堀口太平君来訪。(和歌山の西保=梅田夫人より手紙。「第2歌集を我に献ず。12月か1月上京」と)。
大野家へ2度電話して「ゆけず」と云ふ。堀内氏の紹介は貴下自らもせよと云ふ。昼食して帰りゆく。散歩に夕方出てter-paper買ひ来る。けふは天理の秋祭ならん。
畝傍山の雌雄たしかめにわがゆきし 雌にてありけり雄にてありけり。
10月27日
晴。成城大学。漢文と文化史。帰り文化史courseの4生とともにし、帰れば『東洋思想講座』つきをり。東洋史談話会「11月9日(土)17:00より600」と。史学会大会この日あるらし。
よるふけて総身に汗を掻きてをり のぞみたちぬとさだかならぬに。3時まで眠れず。
10月28日
悠紀子感心に起き、朝食の仕度し出せしに、京阪旅行に5:00集合の弓子も起き、安心して眠る。
8:00速達、宝塚歌劇団芸能課上村健次氏より「マナスル登頂隊を讃える」の詩詞拝見したしと。倉敷レイヨンと大日本紡のためと也。「成功を祈る」の詩にして手許になしと返事。
岸明子「安田姓となり、横浜市神奈川区中丸に住む」と。服部三樹子氏より「保田の新宅の植樹の金あつめる」と。
また雨の中(京、大宮へ遠足にとゆきし。日教組の反対闘争なるらし)出て成城大学。いやな顔して坐りゐれば池田教授「土曜会ありて石田幹之助先生お越し」と(わが事云はれし?)。やがて電話かかり、米国大使館日語学校の相川氏とて未知の人、「台湾のX氏、楊貴妃のことききたく来る」とのことに「われより行く」といひ、講義すませて代々木八幡下車。
ゆけば意外にも相手は米人Haward Seymour
Levyとて美国外交学院華語学校長(駐台中)、日本語にて話し、わが「楊貴妃伝」を台湾にて李振華なる人訳し好評、自らも安禄山しらべたしと。『楊貴妃とクレオパトラ』見たしとのことに、1、2日中に持参すといひ、通報にのりし論文看すときき、再見約して辞去。
帰れば八木嬢よりたより。眞柱より何好きかときかれ「コーラスと短歌」と答へしと。自信なくしたらし。
眠くて18:00眠り、覚めれば21:30。この間、中野清見より速達「明29日15:00弁護士会館にて会はん」と。
10月29日
朝早くおき8:30舞芸に電話かければ「坂根生まだ来ず」と。中野清見に電話すれば「すでに出し」と。
10:30出て池袋。舞芸にゆき12:00すぎ来るといひ、立教大学の会計にゆきてきけば、「部長の達し通り10月よりなし」といひ、またしらべて「あり」と云ひ、10月分呉れる。
研究室にゆきしにけふに限り無人。『李白 下』買へば予想通り黄錫珪の『李詩編年』を見しのみ。舞芸にゆき坂根呼び、『楊貴妃とクレオパトラ』とりにゆかせ、うなぎ食べさして「けふ俳優座のextraとして初舞台」ときく。
池袋駅前で別れ、河出書房に再び電話し、『楊貴妃とクレオパトラ』のぐろりあ版260pときき、日語学校にゆきて受付にわたし、新宿よりbusにて横田門。
第一弁護士会にゆけば丸、出廷。中野15:30に来り、われ茶とbeerおごり不景気ときく。「その中に八戸へゆく」と云ひ、丸と落合ひtaxiにて上野。Barにて関係人待つと話し、17:30となりて帰宅。
酔ざましに茶漬食ひ、京叱る。堀内歴より「林富士馬氏なぜ書かぬか。堀口太平氏の入会喜ぶ」との手紙。涌井千恵子より「薄謝のみ、本いらず」と。
大野家へゆき知子京都旅行とて、昌子ひとりを教へ、2,300もらひて帰る。
10月30日
8:30品川発の急行にのりて馬堀海岸へゆけば大学のbus来る。教務課へゆけば「print出来てあり」と。三田村女にきけば「岡部君先週まで来ざりし」と。
辞令呉る。「非常勤講師(東洋史)を委嘱する。1時間手当600円を給する。期間は昭和33年10月23日から34年3月12日までとする。(発令日付10月23日) 校長 槙智雄」とあり。
午休み、麓氏に挨拶にゆけば「岡部君、東横学園への了解状不備のため欠」と。独語千疋氏と一緒に帰り、兼任を気の毒がらる。王子で岡部君に電話せしに「チガヒマス」との返答なりし。
渡辺三七子より「恋仲と解消した」と。父より「史が弓子に会ひにゆきし」と。弓場、加藤、川勝3生より「昆布贈りし」と。けふ河出より本2冊返しに来しと。成城大学より「至急採点報告せよ」と速達。
10月31日
弓子早朝帰宅。午すぎまで眠る。史に500、父に200もらひし由。午后入浴。成城大学の採点すます。
夕食後、林dr.にゆきしに「映画見に出し」と。
11月1日
曇。8:30家を出て成城大学。教務へ採点届出づ(採点表わすれ再びもらひし)。杜詩やり11:30となり、坂本浩氏に『果樹園』贈りて出、下北沢にて下車。rice-curry食ひ、新宿にて東京Hotelといふに電話かければ別にて、池袋下車。宮崎女史に会ひHotel
Tokyoにかければ南村夫人不在。『日本歌人』の原稿いそがずとよろし、名坂八千子夫人気にしゐると。
帰宅、安田明子夫人より「東横反町駅にて待ちて宜しき故、前日しらせ」と。
角川書店大村ととふより「立原の系図」返送し来り、「昭和13年の立原について書け」と。『果樹園』34号。夜、大野家へゆく。
11月2日(日)
依子いつものごとく出てゆく。角川の大村へことわりの速達(postへ)。渡辺三七子へ手紙。
森亮氏より「15日立教大学での日本比較文学会に上京」と(「その日会場へ訪ねる」と返事)。河出書房より校正。
11月3日(文化の日)
雨、依子、会社の運動会。林富士馬氏に電話かけ、「19:00頃訪ぬる」と決む。
河出書房に電話し、けふ休日と知り「校正明日届ける」といふ。林富士馬氏より「西垣氏に書けとすすめし」と。やめしにてはなかりし也。
西宮一民君より、この間東京駅で上畑芳一講師に撮ってもらひし写真2枚。井上恵子担任とならざる理由。村田温東京へ嫁ぎ来ると。
南村夫人よりことわり状。「石浜先生古稀記念会を16日(日)13:00行ふ」と(欠席と返事)。
18:00林dr.にゆけばwine出され、梨賜ふ。森亮氏のことにて西垣氏に電話すれば他出。16日午后『果樹園』の会行ふときめる。夜半までかかり借来の『ももんが』9冊看了る。
11月4日
9:00出てお茶の水下車。河出書房へゆけば佐藤、吉村2氏未出勤。受付の女史に伝言たのみて出、筑摩書房。「東博氏、北里病院に入院」と。竹西嬢もゐず、代りに来し女史に涌井千恵子へ『現代詩集』送ることたのむ。出て東京都民銀行。加藤君をり、「嬢は聖心の2年生」と。立教と成城に従兄弟伊達氏ありと。の
出て中教出版に小山正孝氏訪ね、角川に断りいひしこと告げ、けふ『日本歌人』に速達にて送りを云ふ。立原母堂系図をもちたまふと。「新宿にて16日会せん」といひ、波木井書店にて大川周明『大東亜秩序建設(10)』、『高青邱詩の鑑賞(30)』買ひお茶の水へ出てbusにて(※東京)大学。東洋史研究室にゆき、小山助手に自己紹介して『韃靼漂流記の研究』2週間借りる。警職法(※警察官職務執行法)反対とて学生大会しをり。
帰宅。久礼田夫人より不満げのハガキ。矢野峰人先生より久礼田氏と同級とのおたよりと来をり、ふしぎ。
午食し悠紀子、都営住宅の申込にゆきしに八木嬢より履歴書来る。「chorusを医師にとめられし」と。
11月5日
晴。警職法反対闘争とて騒しきらし。「八王、九王、十王考」を考へて日をすごす。浅野晃氏より礼状。
16:00慶応の勝ちしをききて散髪、自民党ひいきの声をきく。夜、大野家。
11月6日
晴。冬服を着て8:40品川へゆけば、特急おくれ心配せしもbusに間に会ひし。
(※防衛大学)阿部主任に挨拶にゆけば「東横学園にて岡部君の兼任認めざる故、青山氏と相談の上、われに引受けさす」と也(6時限すみてきけば明日聖心女子大にて相談とのことなり)。
午食ののち、けさ登校を見し保柳睦美教授に挨拶にゆき、東洋大学のこと話す。専任をさがしてやらんと也。
帰り、例の如く千疋助教授と同行、7:00品川発にのれば8:30の1限目にまにあふと也(けふ阿部教授より専任を置くつもりときく)。
山本達郎氏より転居通知来あり。夕方、川久保来り、「史学会に」と云ひしと。
11月7日
11:00聖心女子大へゆき図書館見しも『二十四史』のみ。青山教授に会ひ、安部主任の話どほりわが合併授業ときまる。海老沢部長より『吉利支丹心得書』賜はる。
和田先生お越しになり『東洋学報』刊行されしと。2時間教へ、先生待ちて渋谷までお伴す。ますます言語不便になられし御様子にて哀し。池内先生の7回忌近々ある様子と。われには案内なし。
渋谷郵便局探して阿部鵬二主任に速達し、中村書店まで歩き、「詩会によき場所を」といへば渋谷食堂教へらる。森亮氏『ルバイヤット(230)』ありし故買ひ(その前、途中にてBaedeker『Belgique et Hollande(20)』)、渋谷食堂へゆけば「16日満員」と。
堀口太平氏へ2度目の電話し、新宿よりbusにて(豊島園行)山吹町、ゆきて(※『果樹園』の)会席探してもらひ、通知たのむこととし、busにて池袋をへて帰宅。
すぐ電話して通知すべきaddressをいふ。立教大学より15日の史学会大会にわれ午前の部の最後となりをるを見る‼ 夜ふけて中野清見へ見舞(けさ北海道大地震)、南村和子、涌井千恵子2生へハガキ。久礼田房子、矢野峰人先生へ同。
11月8日
10:00立教大学へゆきしに無人。海老沢氏来しと話し、山田嘱託の来しにprintたのみ東洋文庫。川久保来をり、『清皇室四譜』借りしも『宗室王公功績表伝』なきことを知る。昼食し、池内先生7周忌は鈴木俊氏の主催。羽田の来否不明とわかる。14:00帰宅。
夜、大野家へゆき「来週より18:00はじめる」ときめる。鈴木生母子来り「またたのむ」と。「様子見ん」といふ。丸に電話し「Gogh展ゆけず」といふ。
11月9日(日)
眠りゐしに8:00山本嘉蔵氏来訪。「10:00まで藤田亮策先生の所にゐる」と。あと追ひてゆき、いろいろお話承る。「勧学院大学を角田文衛氏こさへし」と。「信江夫妻、紀州田辺へ転任」と。
帰れば防衛大学より「校外club宿泊を12日(水)に申込んであり」と。16:00家を出て雨中、本郷の学士会館にゆき、青木富太郎氏に会ひ、待つ中、17:00史学会了り諸氏来入。太田(※太田七郎)、川久保(※川久保悌郎)、松本(※松本善海)の3同級生と坐る。鈴木俊氏「千歳船橋に転居、一度来よ」と。平中苓次氏「東洋大学のことききし」と。中山久四郎、原田淑人、鳥山喜一、宮崎市定などお越し大盛会なり。隣に来られしは岩生成一博士にて、台湾のこと話す。
20:30和田先生のお話すむ。「田中克己もすすめし故」と仰せありしに落涙。あす池内先生追悼会に参ることとなる。
けふ岩生先生に承れば「頼永承君2年間アメリカ留学」と。防衛大学中川氏へ「校外club宿泊とりけし」を速達することとす。
11月10日
8:30出て靴みがかせて成城大学。池田教授(※池田勉)に『果樹園』贈り、高橋邦太郎・富永次郎2講師といつもの如く話せしも、なぜか憂鬱。
午后すませてお茶の水の中央大学にゆけば14:30。(※池内宏7回忌の集り)三島一氏の挨拶はじまりしところらしかりし。松本に注意されて池内一氏に挨拶す。中山八郎、百瀬弘、平中苓次、守屋美都雄、佐中壮の近畿同窓も来会。のちほど挨拶せし中に守屋のみ欠けし。川久保が立替へてくれし供物料500かへし、羽田に喫茶店にて寄書(夫人は6日帰洛と。羽田の立場苦しくなりゐるとは松本の話なりし)。水曜11:00松本に本見せてもらふこととし、堀口太平氏神田の「マイアミ」2階を16日のため見つけてくれ、しらせに来玉ひしと。電話かけてたのむ。
けふ成城大学へ前川佐美雄氏のハガキ来あり。『日本歌人』の刊行おくれると。八木、西宮、上畑3氏へ礼状(松本の話にては「昨日和田先生講演中、
歯より出血され、山本教授心配せし」と。我は気付かざりし)。
11月11日
10:30出て立教。けふは手塚教授に会へて「菅部長に挨拶せんか」といへば「その必要なし」と。
12:00出て池袋駅前でrice-curry食ひ、成城大学。教務部長に15日の休講といひ、今井富士雄氏に会へば「近々話さん」と。新城氏といふが日本史の講師に入りし也。
栗山部長見つけ、研究室へゆき防衛大学の話すれば「断れ、こちらへ迎へるつもり」と。謝して松村君と話し中国文学史。けふより出席とる。
15:00すませて、ふと大江へゆきて見る気となり、busにてゆけば房子をり「叔父叔母13日上京」と。17(月)18(火)なら都合よしと云ひ、「夕方ゆく太田夫人の姉谷口英子氏とは1年同級にて同窓会にても会ひし」と。ふしぎなり。渋谷をへて帰宅。
正平「帰阪しゐる」と。涌井千恵子に『現代詩集』つきしと。『日本歌人』の会16日(日)13:00と名坂夫人より御案内。
18:00家を出て都電にて小豆沢(あづさわ)下車。あやぶかりつつゆけば、谷口家見つかる。陽子「姑に怪しまれるゆゑ電話困りし。姉の家でもゆっくり出来ぬ。石川喜久子11月女児を生みし」などきき、19:30taxiよんでもらって帰宅。土産に昆布もらひし。
けふ『週刊明星』に「聖心女子大英文出の正田嬢、皇太子妃に内定」とアメリカよりのニュースをのす。
11月12日
雨やみし10:00すぎ、松本を研究所に訪ね、『瀧川博士還暦記念論文集』の鴛淵博士(※鴛淵一)の論文と橋川時雄博士『異国物語考釈』とを見せてもらふ。2博士ともに可怪。
午まへ礼云ひて出、大塚にてラーメン食ひて帰宅。岩崎昭弥より「詩集の原稿を点せよ。跋文かくならかけ」と。安田明子夫人へ「その中に」と。
けふより大野家、18:00よりとて忙し。19:50帰りて入浴、悠紀子めざまし買ひ来る(700)。
11月13日
悠紀子4:00起き、われ5:00に起き、6:00まへ家を出て6:40品川発の普通急行にのり8:20防衛大着。loud-speakerを中
川氏つけてくれをり、1時間おきにやる。麓教授来られし故、岡辺に代りて礼云ふ。図書館へゆきて書を検せしもなく、『東洋歴史史料』に神田信夫氏わがことをよく引くを知る。
16:00まへ7時間目をすませ、保柳教授とbusのところにて会ひ、我は横須賀線にて帰り来る。
悠紀子に姉より速達。「三鷹に2間の家あり、礼2万円毎月6千円」と。八木さんよりまた履歴書。山内生より「日生にての苦情に放念せよ」と。森亮氏より「立教にて会はん」と。帝塚山短大の同窓会より「23日国際見本市会館にて」と。
11月14日
9:00出て『果樹園』へ「東京通信」速達し、東洋文庫へゆき、『清史列伝』と『國朝耆獻類徴初編』借る。川久保来をり、けふ聖心女子大学へ和田先生お越しのこと云へば「参る」と。
11:20出て高田馬場で下車、そば食ひ、聖心女子大へゆく。和田先生13:10お越しになり、「(※チャハル)察哈爾部の変遷」の抜刷たまふ。
わが名を引き賜ふ。
15:00まへすませて先生待ち、受付できけば川久保来ず。石川喜久子の10月1日出せし航空便を「おそくなりて」と渡せる。先生、羽田の立場御存じにて「お父さんのあと継げない」の評ありと。わが一番の親友なることを申上ぐ。
渋谷にてお別れし、大塚をへて帰宅。
昨日につづき悠紀子、家のことにて姉と連絡するらし。
石川喜久子の手紙あけ見れば「夫君ユダヤ系にて同い年。Calif.大学でいま教会学の博士course。あと2、3年かかる。太田父君とは2、3時間話したのみ」と。親戚に『セールスマンの死』を書いたアーサー・ミラーありと。
11月15日
雨。8:50出て立教大学史学会に出る。わが前に菅部長の挨拶あり。やれば時間足らず説明不十分にて手応へなかりし。
すみて午食を海老沢氏とともに出てcurry店に案内さる。午后、中山久四郎博士来られず、桑田忠親博士の「天下一の号」をきく。その間1:30に比較文学会にて森亮氏を捉まえ、17:00と約しありし故、晩餐会を中途でぬけ出して会ひにゆき、原稿返却す。「明日の会に出る」と。
白鳥先生と来週木曜を申上げ、わが隣席に坐りし中屋健一氏と話す。18:00すぎ記念撮影し、白鳥先生と駅まで同行。「善隣の齋藤貢、東洋大学の理事となりし」と。「鮎川義介3千万円貸せし」と。
帰宅すれば坂根千鶴子より「火曜来る」と。川久保より「聖心女子大へ15:00すぎゆきし」と。浅野晃氏より「明日先約あって出られず」と。
大野知子来り、あす10:00はだめとの故18:30にと約束す。けふ悠紀子の見にゆきし三鷹の家は実は貸間なりしと。
11月16日(日)
晴。朝、堀口太平氏に電話して礼云ひ、3:00出て池袋西武dept.の『日本歌人』の会のぞき、東大生の詩も作るといふをたしなめ、名坂八千子夫人に挨拶して、都電にて水道橋。文芸春秋の蓑田胸喜のこと書けるを10にて求め、よみつつ神田駅に下りれば、堀口太平君待つ。
やがて西垣君来り、小山、林、芳野、主賓森氏と7人となる。服部三樹子女史、『日本歌人』には『果樹園』(※出席)を申立ておき乍ら来ざりしは何やらん。われのみ愉快となりて17:00まで坐り、散会。
帰りてすぐ大野家へゆく。
11月17日
朝、大江叔母より速達「今日は終日、世田谷にをり」と。9:00まへ出て成城大学。午后の文化史を113教室に変更。すみて講師室にをれば、土曜にも来しと早川敏一氏なる禿頭の人来り、話きけば大高9回、柔道部にて西川の紹介と。今宮にて博物学会なりしと。泰国より復員の大尉。予備校などやりゐて結核となり、現在無職。教師に世話せよと。家までゆき(成城町)、夫人と2児の幼きを見て惻隠と同時に困惑。
別れて大江へゆけば千草をり、大分腹立ちしが、叔母より3千円もらふを見、夕食よばれ、正平と3人にて帰る。
けふ父より20日夜「筑紫」にて上京、宿は大が世話すと。中野清見より沖釣りに出しと。
(けふ大江叔母にきけば「老夫婦は実の新宅に同居」と。来年祖父の50年祭にゆくを約す。)
11月18日
雨。12:00出て立教にゆけば手塚教授研究室に不在。待つ中、小林君来り、さりげなく話す。13:10となり、やむを得ず出て成城大学。松村達雄君に早川敏一君の話すれば「難し」と也。
15:20ともに出て話しながら下北沢にて別れ帰宅。田中忠雄氏より三水会に招かる。「あす短波放送会館6階池田事務所にて17:30より」と。鶴崎裕雄生「見習社員となりし」と。服部三樹子氏より「風邪なりし」と。村田温より「12月9日(火)18:30第一Hotelにてcoke-tail partyす」と。末吉栄三より「29日(土)18:30蜻蛉会す。トンボの為に出て下され」と、ふしぎ。
夜、坂根千鶴子来り「きのこ(※配役?)」になりし話す。
11月19日
晴。河野(浜谷)弘子のこと昨日心配して坂根と話せしに便あり「山本恭子離婚せし」と。
修道社より『コギト』につき速達にて問合せ。小山正孝氏より『四季』終刊号。
12:30出て大野家へことはり云ひ、東大東洋史研究室へ小山助手に『韃靼漂流記』返却にゆき、busにて池袋。
立教大学研究室にゆけば白鳥先生おいでにて、手塚教授をらず。立川生つかまへてきけば「すでに小林通雄君には告げし」と(英夫の息と)。ともかく論文返却し、白鳥先生に「郁郎君の原稿出版につき努力す」と申上げ、庫吉博士の雑録面白しと承り、その出版交渉も努力せんと申して16:00出、渋谷にて喫茶。
訊ねて短波放送ビルにゆき、齋藤晌、佐藤、田村、田中忠雄ら5氏と浅野晃氏の話きき、宏池会との袋入り3,000もらひて虎ノ門より地下鉄にて22:00帰宅。
11月20日
5:00起きパン食ひ6:26東京発の横須賀行にのり7:43着。7:52発のbusにてゆけば8:30に丁度なりし。
吉田氏より電話、「木金2日出勤の心得で」と。行事にて15:30了るまで研究室寒くてよはる。阿部教授には礼云ふ。「専任問題未定」と。
帰りは横須賀中央までbus(20)。『文芸春秋11月号(60)』買ひて帰宅。
森房子氏より歌集2冊。『民間伝承』11号。三浦久子氏より『ラマンチャ』19号、中に「萩原葉子さんと来たし」と。
石川信夫氏より「11月末までに2頁分かけ」と。林富士馬氏より「家庭に束縛される」と。菊地成子より「松島の帰り21日頃訪問し来る」と。
11月21日
曇。寒し。冬over-coat着て聖心女子大。和田先生に白鳥博士の随筆集のこときけば「まちがひだらけだよ」と。2時間すませ(卒業album用の写真とってもらふ)、講師室に帰れば和田先生まち給ふ。蒙古史の話して、先生のまちがひ「喜んでゐるね」とのお話なりし。
渋谷でお別れし古本屋を見、大塚で下車、また古本屋見て帰宅。気にせし菊池生来ざりしと。渡辺三七子より便り。村田温子・安宅隆氏より(※結婚)案内。
けふ年賀ハガキ200枚(×4)とport-wine(205)と買ふ。山田孝雄博士85才でなくなられ、俊雄助教授は3男と。
11月22日
成城大学へゆき久しぶりに杜甫やる。すみて高田瑞穂教授にさそはれslide「藤村」見る。了りて川上生に案内させ「七面鳥」といふに昼食しにゆき(salaryもらふ)、13:00よりといふ国文学会にあはてて引返せば14:00より開会。
池田、坂本教授ら8人と雑談、12月21日忘年会を「秋田」でとさそはる。山川京子氏より『日本語を愛する人に』といふを賜はる。
かへり目白で下車せしに古本屋休み。井上書店で矢田俊隆『3月革命』買ひ帰宅。
藤野一雄君より小林英俊氏に『果樹園』送れと。大河原倫夫より「阪神電鉄の重役となりし」と。
大野家へゆき『ビルマ戦記』買ひ来ってよむ。
11月23日(日)
大に電話かけさすれば「けふ夕方、父帰らん」と。上田隆一氏より速達「阿津子生学校をやめ演劇のため家出し、上京したしといふ、宜しくたのむ」と也。
午后、畑山博氏訪ねしに、夫妻とも結婚式にゆきしとて不在。帰りて大に電話かけさしてのち、19:00出てゆけばまだ父帰らず。やがて某女史をつれ帰る。25日帰阪の前来ると也。某女とtaxiにて渋谷に出て帰る。
11月24日
成城大学へゆき、寒がり乍ら漢文教へ、午食に高橋邦太郎氏よりHam頒けらる。そこへ今井富士雄氏来り、「午后の文化史の時間に学生を借りる」と也。きけば「日本の祭」なる映画見にゆくと。同行約す。(貴殿、専任をたのまれる筈ゆゑ、来年の学科につき日本史の新城氏と相談せよ云々)。
やがて電話かかり池田教授と3人にて学生10人とゆく。「東北の祭」なりし。すみてcoffeeのまんと誘ひしに2氏避け、相馬生ひとり掴へ「New Tokyo」の下にてのませ、東京駅にて別れて西川にゆけば、福島夏樹君とて同社員の息、日大芸術科生を大へ紹介ささる。日本橋を都電にてゆき本郷で下車。『北京年中行事(90)』買って帰る。岩田生より「来年3月(※不倫相手と)結婚するつもり」と!
11月25日
11:30出て立教大学。手塚氏に会へば用なし。海老沢氏「あさってTeleviにて皇太子について語る」と。
手当もらひ、この間見かけし古本屋にて青木富太郎『マルコ・ポーロ旅行記(120)』買ひ、rice-curryたべて成城大学。
松村君Gogh展見にゆくといふと連立ちて下北沢。『ゲエテ詩集(30)』、西村真治『人類性文化史(60)』買ひ、「Penguin」にて紅茶のみ、森本女史にことづけたのみて帰宅。
父15:30より来をりしと。史に本送らせよといふ。富士鋼業は早くやめをり、大岡、会計課長などもやめさされしと。依子帰らず20:00出てゆく。
萩原葉子氏より『青い花3』。けふ受取りし手紙に「12月祖父50年祭云々」と。
11月26日
聖心女子大学より追試験を書留にて。午すぎ散髪し、東十条へ散歩。『白居易 下(150)』『中アジアの風雲(60)』その他に英語入試用2冊買ひて帰り来る。
岩崎昭弥より「多忙、よろしくたのむ」と。夜、大野家へゆけば「中学2年も1人世話してくれぬか」と。ことはりてすみ、3,300もらひ、
Burma戦記また1冊買ひ来る(50)。岩崎昭弥が為なり。
11月27日
5:50家を出て横須賀線。(※防衛大学)1時限マイクまにあはず、すみて平田俊春氏の在室に気づき早川敏一君のこと云へば「友だちに心配かけて9,000の家賃払ひ、皇室中心主義を今も云ふ云々」と。我には『歴史教育』にまた書けと。
図書館にて『文芸春秋』よみてすごし、すませて横須賀中央までbus。うなぎ食ひ「正田美智子嬢皇太子妃に決定」の記事を『週刊朝日』でよみつつ帰宅。『東方学17』。「蜻蛉会を12月13日に延ばせし」と末吉栄三より。
11月28日
晴。聖心女子大の追試3枚採点し、和田先生の「察哈爾部の変遷」の固有名詞のtranscriptの私案写し、note不全のまま出勤。先生にお渡しすれば喜ばれし様子。
2時間すまし大喜多喜久子生より「マルコ・ポーロが伝える元の大都」見てくれと渡され、和田先生といつもの如く渋谷まで同行。先生、歯の治療をなさりをる。
古本屋見しも何もなく、魚の目痛くてたまらず。帰れば小高根二郎君より「受取った」と。
11月29日
成城大学へ登校。短大のbazarと文芸学部の文化祭と。川上生、登校の途「Kent」1箱くれ「麗人行」一つもわからずといふ。すまして丸煦美子の食券売場にゐるを誘ひて卵雑煮くひ、坂本浩氏と宮本学長の話す場にゆきしに挨拶なかりし。出て経堂、目白の古本屋見しあと帰宅。
魚の目いたく、入浴して薬つける。『石浜先生古稀記念東洋学論叢』と抜刷18部(20×18=360)と来をり。南村和子夫人より、ホテル東京に12月8日までゐるらしき便り。
大野家へゆけば「昌子、知子2人とも明日わが家へ来る」と。帰りてすぐね、南村夫人のゆめ見て4時目覚む。
11月30日(日)
大野姉妹来り、雨となる。大東幸子夫人より「噂きいてゐる」と。午后みな出てゆきしあと岩田生へ手紙。
12月1日
晴。一日臥床。齋藤晌先生より『雅友38号』。涌井千恵子生より「就職したし」と。100円切手。けふは文化祭の休日なり。
12月2日
新聞に「田中保子volley-ballの試合に14、15上京」と見ゆ。三浦久子より「萩原葉子さんと9日頃来る」と。森良雄より「長唄ききに来よ」と。
13:00出て成城大学。辻参謀の嬢ちゃんに『ビルマ戦記』きけば『ガダルカナル戦記』ならんと。
栗山部長、来週火曜にわが専任を議したまふと。
松村達雄氏と吉祥寺へゆきしに、招じられて夕食たまふ。日本レーヨンは父君常務たりしと。18:45出て杉浦家へゆく(途中、資文堂にて『中国国民党史(50)』買ふ)。未亡人他出と長女。菓子おき痛む足ひきずり竹内好を訪へば「都大の評議員会より未帰」と。
西荻窪へbusにて出、高円寺下車。都丸(※都丸書店)で『李太白(50)』『中国と私(70)』『俄華字彙(30)』買ひ、「赤ちゃん」(※居酒屋)へ寄り1本のみ(90)、『李太白』草夫氏(※赤川草夫)に托し、帰れば坂根氏来し、田村春雄博士来し、と。
小島館へ電話し、「明朝訪ふ」といふ。田中正平、万美子姉弟より便り来あり、ふしぎ。
12月3日
10:00小島館の田村春雄君訪ね、雞眼(※魚の目)の治療きき、丸の子のこといひ、ともに出て大松亮一氏に遭ふ。西郷銅像の前に出てより喫茶(丸に電話し12:30ゆくときまる)。
有楽町より第一弁護士会にゆき丸の用すむを待ちて松本亭でlunchおごられ、丸の金たらずなり困る。
新開通の霞関より地下鉄、大手町で下車。春雄君と別れ、産経に田中順二郎氏を訪ねしに外出。また地下鉄にて新大塚。大塚より都電にて帰宅。
下野(菊池)恭代より「姑、小姑と同居」と。立教大学史学科より11月15日の写真来をり。
魚の目にて跛ひきつつ大野家へゆき20:00帰り来れば筒井護郎(※今宮中学教へ子)来をり、「消防会議にて上京、宴会の隙見て来たり」と。21:00帰りゆく。防大のnote作る。
12月4日
いつもの如く5:50家を出、横須賀線にてゆき、マイクなしにて1時間目すまし、下野(菊池)、渡辺2生にハガキかき、阿部教授に礼いひにゆく。
「専任だめらし」と。通年講師を設け玉へとすすむ。
麓館長に抜刷2冊もちゆき、使丁に泥足を咎めらる。
帰り三田村女よりcoffee饗せられ、新開氏とともに横須賀に出る。Busにて保柳教授に話しかけらる。
中島悦子より「5日上京、2、3日ゐる故会ひたし」と。岩田生より生活の設計。
河出書房の吉武實氏『西洋史物語T』もち来たまひしと。史より本5箱送り来り、「1,300の送料なりし」と、うれし。
12月5日
朝、あはててnote作り、西川英夫より「21日16:30より今中19期生会」の案内。住宅公団より「残念でした」の通知。
八木嬢より図書館26日より6日まで休みとの通知見て、聖心女子大へゆけば、和田先生、海老沢氏とともに手塚氏待たれ、「立教大学院、来年度聴講なければ学校の方針に従ふ」と。青山氏に「防大の専任だめらし」と云ひて講義。
大喜多生に卒業論文返し、和田先生待ちて同行すれば魚の目みとがめらる。帰れば西宮一民君より「朝鮮語『剣』何といふや」と。Cardの整理す。(大伴道子氏より『歌集明窓』)。
悠紀子に魚の目削ってもらふ。
12月6日
魚の目はなはだ楽となれり。今井富士雄氏に会へば「16日(火)文化史専攻の会す」と。坂本浩氏にきけば「13日国文学会」と。辻参謀の嬢『十五対一』を月曜に貸してくれると。
11:30やめて講師室にかへれば、いま中島生より電話ありし直後と。やがてまたかかり来て「ハガキ入れちがひに出した。歌舞伎座にあり、明日11:00ごろ来訪」と。東洋大学の三浦久子氏に電話して「火曜だめ」といへば「月曜来る」と。新宿でrice-curryたべて帰宅。
中島生のハガキと田中保子の「6日より在京」とのハガキ来あり。大野家へゆく前後、書籍cardsの整理す。
12月7日(日)
cardsの整理了へし11:00すぎ、中島生のハガキ来る。「幼児の時、大連にありし」と。「山本恭子のこと知る」と。いろいろ話して昼食せしのち飛鳥山へつれゆき、16:00まへ悠紀子と新宿につれ立ってゆく。羅紗屋とて服地くれしと。
12月8日
(※成城大学)登校。栗山部長にと履歴書おく。(年賀葉書270枚印刷たのみしに「16日校正出ると350なり」と)。
富永次郎氏、「金子光晴の長男(早大仏文出)を講師にと佐藤輝夫教授より推薦ありし」と。
10:00ごろより雨となる。すみて帰り途、ひどく降る。
(西宮一民君に剣・刀の鮮、満、Dahur(※達斡爾)、蒙古語をしらす)。
19:30萩原葉子氏を三浦久子氏つれ来る。葉子氏の「父の思ひ出」を筑摩出すといひをると。三浦氏のこと『週刊明星』にのり林富士馬君恐縮しゐると。
田中保子より「入れちがひにわがハガキつきし」と。
12月9日
朝の便にて名坂八千子氏より「日本歌人の会を14日(日)13:00より」と。坪井明より「上京、東京駅前にゐる」と。
成城大学に登校。小高根二郎氏に『果樹園』着かずと問合せかく。やがて教授会はじまり、われ中国文学史の講義にゆけば、辻参謀の嬢『十五対一』を貸し呉る。すまして講師室に入れば、高尾嬢「教授会にて田中の著書に『楊貴妃とクレオパトラ』と出しところへ茶もてゆきし」と。松村達雄君と出て一旦帰宅。
(西川より電話かかりし故、かけ返してきけば坪井の宿舎の電話番号教へてくれし)。西川より電報ありしと。
河野弘子(浜谷)夫人より「成城へゆく故、都合しらせ」と。速達来り、立教より「来年度の時間割の問合せ」(20日までに答へよと)。
17:30出て新橋、坪井に電話かければ他出と。第一Hotelにゆき19:00まで待たされ(※村田嬢の結婚披露)式場へ出てcock-tailのみて媒酌の話きけば「新郎は安宅産業の一族にて関学出」と。やがて山本実子、井上和子、とXの来ゐるが挨拶に来る。新婦の友人代表は白百合の子なりし。
20:00出て坪井を訪ふ。「服部の長女、天理大のロシア語科に入りし」と。「福地邦樹に「大阪へ帰るや」と問合せしに断りし」と。
21:30出て、茶よばれて帰宅。井上和子に『悲歌』包む。
12月10日
晴。寒し。成城大学へ栗山部長に会ひにゆかんと思ひしが止めて家居。太田陽子夫人より「怒ってゐはせぬや」と。
『果樹園』やっと来る。夜、大野家へ教へにゆく。昌子生、全く出来ず、ふしぎ。
12月11日
曇。5:50家を出て防衛大学。昼食の場で小泉女に会ふ。阿部教授より礼云はる。
岩崎昭弥に今度の『果樹園』の詩、剽窃と注意す。「来週より3回を第一講堂にてmikeなしで」と教務より申し入れ。村上新太郎氏より「詩を年末までに」と。
12月12日
晴。11:30出て聖心女子大学。和田先生の「蒙古史」の載る論叢出来あり。先生お越しになり、学士院へゆかると。けふ早めに12月分のsalaryくれしゆゑ、広尾の通にて『或る小倉日記伝(50)』『人間詩話(70)』買ひ、大塚にてラーメン食って帰宅。
倭周蔵より「三井精機の常務となりし」と。田中保子より「12日夜行にて上京」と。入浴。
12月13日
早朝めざめ、大伴道子氏への手紙かき、『果樹園』へ「東京通信」の最後を書き、登校前速達して成城大学にゆけば、高田瑞穂氏より「(※専任採用)問題なく通りし」ときく。
13:30といふ国文学会のため、外へrice-curry食ひにゆき、早川敏一君訪ねしに留守。夫人に「月、火のいづれかに成城大学へ来られよ」とたのみ、引返して短大。14:30まで待ち、内田暁郎氏の万葉学きく(川上生ら「太宰治」をスライドにすとて相談に来る)。
16:10中座して池袋に下車、宮崎智慧女史に大伴夫人への便り托し、林富士馬氏に直接『文芸日本』の会へゆくと云ひ、帰宅。夕食。
成城大学より「火曜10:00に体格検査す」との通知来あり。
19:00『文芸日本』の会。三浦、公平2女史の外、芳野清君来をり、大森倖二君はよけれど大野教務課長をり。富沢有為男氏「坊や防衛大学3年生」と。のちほど挨拶に来らる。隣の女史はまた防衛大学の阿部教授の妹と。尾崎秀眞翁の次男に遺蹟わたす。「翁、昭和24年なくなられし」と。
19:00すみて「Orgol」といふへ2女史と芳野君とゆき、林君来るを待ちしに、あとにて随想社長来り、2女史喜ぶ。23:45帰宅。
(けふ中野剛宣君来しと、ふしぎ。悠紀子の話にては昨夜Radio-Dramaにて「苦い乳」とてイカリ村のこととして江刈牧場のことやりしと也)。
12月14日(日)
11:00出て畑山氏に寄れば無人。池袋をへて日本体育館の東西volley-ball大会にゆく。田中保子の出場たしかめるためprogram買ふ。背番号6にてforwardのrightなりし。3回目接戦なりしが3−0で負けしあと面会呼出せしに来ず、案内してもらってゆき菓子贈る。祖父君、4年制にゆきvolleyをつづけよと云ふ由。
別れて松平Hotelの日本歌人の会にゆく。そっ気なき連中ばかりにて古川夫人は見え、古川君は来ず。『日本歌人』の着くをまち、1冊もらひて帰宅。
坪井より「堀多恵子さんの文に君の名あり」と教へ来る。「石浜論文集を貴校に買はせよと刊行会」より。
夕食1杯のみ大野家。次を木曜の20:00よりときめる。鈴木生やや出来るやうになりし。coffeeふるまはる、珍し。
(ゆきに眼鏡のつるこはれ、預けゆきてとりかへてもらひし350)
12月15日
新宿へゆけば9:45の準急。これにいつも乗るといふ高橋邦太郎氏より新聞見せられてゆき、成城学園駅にて富永氏にも会ひ、昼食成城園ですることとなる。漢文成績の悪かりし子、休学と。
ゆきてすまし、昼食まてば富永氏に来客。2人にて出んとせしところへ早川敏一氏。歩き乍ら「大阪へはゆかぬか」と問へば「行かず」と。
高垣金三郎、欧州総局長となりてゆきしと。別れて高橋氏とたべ(駅前にて朝、高橋氏に挨拶せしは中河幹子夫人なりしと)。
本屋見て、講師室に帰れば中沢女生。2人ゆゑ講義いかがなさると。相馬生と3人となりしを講師室に呼び来り話せしあと、図書館鎌田女史に『石浜論叢』のことたのみ、まっすぐに帰宅。
井上京子より「自動車の免許とり、死にかけし」とのハガキ見て入浴。(下の風呂休みゆゑ上へゆく)。
帰りて18:00となれば坂根生来り、22:00まで話してゆく。
12月16日
「10:00までに登校せよ」との教務部長よりの達しに10:10にゆけばすでに3人あり。10:30、Health-centerといふにゆき
診察受く。体重41kg、身長164.7、坐位88.0その他なりし。
教務部長にまた会ひて(本俸2,97万+家族手当)×1.2と。「立教大学へは火曜以外は返答してよし」と。そのまま講師室にゐて栗山部長に会ひ、話し礼云ふ。
辻生に『十五対一』返却。「中国文学史」にて明代の文学すます。図書館にゆき「沖ノ島」見てのち15:40、駅へ出、向ヶ丘遊園入口の紀伊国屋といふにゆく。文化史専攻の会と思ひしも、学生には他の者も来り、新城、池辺弥、今井の3氏のみ成城卒なり。他に鎌田女史。
20:00となり、われ先出、鈴木生駅まで送る。
西宮君より礼状。小高根君より「1月号しめ切は10日なりし」と。(けふ山田俊雄氏より「『成城文芸』に30〜40枚かけ」と)。
12月17日
田中保子より「岩おこし」来る。12:00立教に電話すれば手塚教授講義中と。年賀はがき270枚(350)取り来り、ゆけば13:30。木曜5〜6を第一志望、金曜3〜4を第2志望とし、講義内容を、清初史を民族史的にやると届け、佐々木喜市教授夫人の葬儀けふ13:00よりとの掲示見て、一旦帰宅。
井上和子より『悲歌』の礼状。山本夏津子より蜜柑の送り状。大宝印刷より360の受取見てのち、短波放送の三水会にゆく。
田村氏とて戦中満洲にありし人の主催。佐藤氏のtaboe(※タブー:禁忌)の話いろいろと考へさしたり。すむ頃、齋藤氏(※齋藤晌)来られ、東洋大との裁判順調と。
地下にて水炊きよばれ満腹。虎ノ門へ出てクセジュ文庫『中国文学史』買ひて帰宅。
けふ田中俊子姉より「千住に3,000のapart。権利金5万円ゆゑ入れ」と速達と電話。
12月18日
5:50家を出て横須賀線。けふより(※防衛大学)3時間目本館講堂にて故、話してすませしなど元気なし。
阿部教授に成城のほぼきまりしを云ひ、令妹のこと云へば「山室軍平の子息の後妻、芹沢光治良の弟子」と。
けふより入りしstoveにあたりゐれば、入り来し学生の胸札に富沢とあり。問へば果して有為男の令息なりし。ふしぎと云ふべし。
昼、中野清見君に旅行のこといひ、井上京子、田中保子2生にハガキかく。疲れて横須賀中央までbus。京浜急行にて帰宅。正平来り、山本嘉蔵氏来訪(夫人急逝されしと)。山本夏津子より蜜柑一箱贈られし。
けふ悠紀子、千住の住宅見にゆき、ことはると逆手に出る。小山正孝氏より『果樹園』を脱退すと通告。理由分からず。末吉栄三より蜻蛉会の報告とよせ書。
弓子の中学の図書館長、山口氏わが稿の批評賜ふ。20:00大野家へゆけば19:30のつもりにて3生まちゐしと。22:00近くまで教へ(鈴木生よくなりし)、歳暮にtobaccoと油もらひて帰宅。
12月19日
田中保子の母静子より礼状。『明代満蒙史料14』来をり。11:30出て聖心女子大。海老沢氏のところへゆき、論叢もう1冊もらふ。和田先生お越しになり、国際キリスト教大学のDayan汗(※ダヤン・ハーン)の部分は海老沢氏に云へと也。
2時間とも話し、Christmas-cardもらひ(先生待たれ、わが顔色わるしと心配さる)、渋谷にて別れぎはまた「お大事に」と。
池袋で下車。Busにて畠山茂氏訪ひ、久しぶりに会ひて転居のこと云ひ、正月来るといひて帰宅。
悠紀子をして新居の番地などきかしむ。
村松正俊氏へ『果樹園』包む。けふ小山正孝君へ(※『果樹園』脱退)残念とハガキ。
12月20日
成城大学へ東京、中国文学無人にてすごすごと帰り、浅沼、臼井の2氏と話す。臼井毅教授は東北大出身、岩手の人にて宮沢賢治やりたしといふ学生によき紹介せんと云ふ。われのことを「話術に巧み」といはれし。
図書館にて新城氏と今井氏待ち、来年の学科構成を相談す。新城氏、中々ねばり強く、結局われ来年は史学研究法を講ずることとなりし。
手当もらひ、小高根太郎にゆかんと経堂にて下車すれば、太郎君乗車せんと来り、ともに田端まで来る。
この2、3日悠紀子のこと念頭を離れざりしに、八木君仮名にてよこせし手紙を見せよと云ひ、われ拒みしとて一悶着。
大野家へ教へにゆき、鰻くひて帰り、また相撲ち話(※相討ち話)きく。(※離婚するなら)10年待て、公々然とやれ、先方へ問合せ出すとのことなりし。八木君1,000を同封、詩一篇を入りをりし。その詩かなしかりし。
井上多喜三郎氏より「小林君小康」と。山本嘉蔵氏よりの贈物、わが家見つからずもち返りしと。
けふ西川に2度電話せしに不在。井辺太郎と話せし。
(栗山部長、わが体格検査異常なく、金子光晴の令息森君ひっかかりゐると云はれし)。ふしぎなる日なりし。(転居通知を賀状に兼ねささんとゴム印あつらへし‼)
12月21日(日)
9:00悠紀子来り、(※八木氏への)手紙の代筆せしむ。文意をなさず中途で止めしも出すといふに、着換へて出て飛鳥山にて散髪。西川にゆききけば「公団住宅の転貸は認められず。やめるが宜しからん。礼金は権利金と同じく転出の際有効」と。「西原直廉また渡米、高垣(※高垣金三郎)はLondonにあり」と。
午となり、すし注文されしも中々来ず、ともに出しは14:00か。正門前にてtaxiひろひお茶の水につき、わが払はんとするを西川とめて払ひ、国鉄の代また払ひくれ、platformにて気がつけば紙入なし。ふしぎなることかな。
高円寺で下車。丸にゆけば在宅。中野剛宣君のaddressきけばしらず。岩波教育映画とりに房州にある筈と。2,000借りて出、本位田昇君によれば在宅。「兄君(※本位田重美)この間上京したりし」と。
17:15出て新宿「秋田」にゆきてきけば、「成城国文学会(※予約)きかず。臨時には満員にて不可能」と。
池袋へ出て鰻食ひ、『燕台識餘(40)』、『高村光太郎像(70)』買ひて帰宅すれば、悠紀子、京をつれて出しと。2女飯こさへ、内職手伝ふ。
硲晃氏、大東夫人、山本嘉蔵氏よりの贈物つきをり。われ入浴して2女と話せしあと就床。
何事もなく20年すごし来し友と妻とを吾はうらやまじ。
石神井の川に流るる追憶の美しかりしそも幾日ぞ。
12月22日
小春日和ずっとつづく。10:00ごろ人の出てゆく気配に起き、茶の間へゆけば「克己様」との(※妻の)手紙おきあり、母の墓へゆき田中順二郎にゆくと。
田中正平より浜松にありと。昼食何とかし、14:30また便り来しをあはれみ、簡易保険払ひ、帰り来し京にきけば「きのふ阿佐谷へゆきし」と。
京に焼芋買はせて食ひ、弓子帰る前、悠紀子帰り来り、みかん持つ。その後、子らの夕食の仕度し、わが分は弓子してくれし。けふ簡易保険払ふ。
あなあはれ、静かに流る川の面としづかにくづる炭のおきとを。
悠紀子、依子の夕食の仕度をしてえづく。
夜、中野清見、山本夏津子2氏へハガキかく。夜半めざめ、王子中学山口氏へ礼状かく。野田又夫『デカルトとその時代』を弓子に托せん。(松本清張の『断碑』は森本六爾伝。われ弟の名を思ひ出せず)。3時『薔薇』へと「小春日和」かく。
賀状親類へ10枚(昨年と見計ひ)父、城平・大江叔父叔母、林(※叔母)、肥下(※肥下恒夫)、和田賀代、大江勉、丹羽千年、難波逸夫、西島寿一。
12月23日
そのまま寝ず7:30起きて朝食し、依子に郵便たのみ、またねてゐれば10:00悠紀子起し、話きけと。「京都へゆき八木さんに会ふ」と云ふに、呼べといひ、会ひての話ごちごちと云ふ。10年待てとなり。
すみて譏嫌直り、和田先生へゆけと云ふに(河野弘子夫人より物送ったと)、まづ藤田亮策先生に参れば無人。隣家に『通訳Gûlumalûn』と海苔と預け、池袋の立教大学へゆき、12月分手当受取り、東武dept.で鰻食ひ(松好貞夫『太閤と百姓(80)』)、栗山部長訪ねしにお留守。服地おき礼を伝へたまへと夫人に云ふ。日曜の会場変更となりしと。
ついで青山教授訪えへば在宅。麓氏、わが成城行を知りたまひゐしと。後任に岡部君推さんと云ひ、靴下おきて出、下北沢下車。古本屋にて『現代詩人集2(100)』買ひ、辻政信『十五対一(30)』、『亜細亜の共感(30)』、クローン『民俗学方法論(30)』買ひ、「Penguin」に寄りhighballのみ(60)、森本夫人呼びて『詩人集』贈呈、若き女流作家のねる話きき、coffee(60)のみて帰り、ゴム印出来上りしを引取る(80)。
防大より1.6万円来しと。夜、田中順二郎氏より「転居少し待て」と速達。畠山六右衛門氏よりお歳暮。
和田先生、岡田先生、隅田先生、西角先生、沢田、松本、倭、西川、千川、浅野へ賀状。
12月24日
古田房子、河野弘子2氏の贈物つく。俊子姉、apartの値段勝手にきめよと云ひしと。山本嘉蔵氏へ悼み状と「Gûlumalûn」。硲晃氏へ礼状と抜刷。悠紀子をして手塚氏へ歳暮贈らしむ。
われ賀状、鍛治初江、末吉、荒井、野上、関口、大河原、長屋、池沢、小高根太郎、湖東、丸、村山、硲、江口、石浜先生、坪井、田村、中野清見。
また手塚、原田先生、岩井博士、神田博士、神田信夫、川久保、松本、羽田、鈴木、白鳥先生、和田久徳、植村清二、青山、阿部鵬二、海老沢有道の諸
Prof.。
A荒木、赤川、浅野、秋山夫妻、天野隆一。
F麓、藤田2教授。
H服部三樹子、堀口太平、堀ノ内、本位田重美、本荘健男、堀多恵子、本位田昇、畠山、服部教授、林dr.、平田俊春、畑山。
I石山、井上、岩崎、池田勉、今井富士雄。
K久礼田房子、河村dr.、小林英俊、小山正孝、栗山、金沢誠。
M前川、前田隆一、森良雄、森亮、三苫益子、森中先生、村松、宮崎幸三、松村達雄、村上菊一郎。
弓子、山口先生よりの手紙と貸与の『天壇』とをもち来る。大野家へ夜ゆき27日で切ることとす。
N長沖一、中河与一、西垣脩、西宮一民、野田宇太郎、野尻貞雄。
O大東dr.夫妻、太田常蔵、奥戸。
12月25日
古田、河野2生へ礼状。
S坂口、佐々木邦彦、齋藤晌、沢田四郎作、杉本長夫、須原、阪本泉、坂本浩。
T田中順二郎、高橋、武田、俵、田中勤、筒井信義、田村敏雄(三水会)、高田瑞穂、高橋邦太郎、富永次郎。
U梅本、楳垣、臼井毅、山本治雄、八木、山川京子、依田、山根忠雄、矢野閣下、吉田東洲、山本達郎、山上正太郎、矢本貞幹。計135枚書き了る。
11:30林富士馬dr.訪へば知念栄喜君来てをり、悠紀子のhysterie症状いひて、プロバリンその他もらひ、屠蘇剤もらひ、池袋にて中華さば食ひて和田先生を訪ひまゐらせ、成城大学きまりしを云ふ。
原田先生心配しておいでの由。「石田幹之助先生、板橋の日大病院に入られし」。わが『東方学』の論文掲載に窪徳忠反対せしと。青山定雄氏怨みゐるならんと云はるる故「然らず、明大教授に推し玉へ」と申上げ、歯科医に出られると同行して出、お別れ告げて大塚をへて帰宅。
立教の『史苑』来をり。やがて寺本夫人、蜜柑もちて来訪。その直前、成城大学事務局長篠原雅雄氏より「校医採用可といひし故、4月1日付発令す」と。並びに「研究日を記入提出せよ」と。
石浜先生古稀記念会より「誤植訂正せよ」と。寺本夫人、板橋区向原の公団住宅に入ることとなりしと。
悠紀子も田中順二郎君に公団住宅斡旋をたのむこととし、千住を断ることときめし也。
八木嬢より音沙汰なし。京、4の数へりしと(通知簿の)意気消沈。弓子はみな3。渡辺三七子よりジャンパー贈らる。気の毒なり。
12月26日
悠紀子催眠剤のまざりしと。弓子補習にとゆく。畠山六右衛門氏に礼状。渡辺三七子より送り状。硲晃氏より同。村松教授より『果樹園』の受取。
八木嬢より音沙汰なく、怪しみゐしに16:30電報「カゼナオリシダイユク」と。
15:00小島樹来訪。明治書院の教科書に今度も『李太白』とりしと。葡萄酒1瓶おきゆく。悠紀子入浴、けふ花井彩よりCristmas-card。
12月27日
晴。史より「帰省せず。大、上洛か。父母伊勢行にきまりし」と。小高根二郎氏より「福地君来年帰阪、1月8日東西産経合併」と。
悠紀子、姉に電話せしに「千住の住宅入れることとなりし」と。18:00大野家へゆき1月7日まで休み、元宵父母に会ふときめ、靴下とtowelともらふ。富永次郎『失われた季節』買ふ。京大美術史出にて1909生とあり。弓子をつれて千住にゆきし悠紀子帰り来り、まだ入れることとならず、5万円の権利金は創作と。けふ渡辺三七子よりセーター贈らる。
12月28日(日)
晴。午后京つれて十条。『観潮楼付近(100)』、『芋の葉(20)』、『四季の名詩(100)(※村上菊一郎著)』、『支那の幌子と風習(80)』われ買ひ、帰りて夕食せるところへ訪ふ声して八木嬢。
1:00までわれと悠紀子と争ひ、出ておでん屋台にゆき240の焼鳥と酒。日経より日刊sportsに移りしといふ横田なる男と話し、1,000おきtobaccoもらひ、怪しげなる宿に1,000おきて泊めてもらふ。ふるへて困り6:00起きて帰れば、悠紀子、八木さんともに眠らざりしと。
坂根君より蜜柑1箱。悠紀子、依子をつれて西川へ挨拶。
12月29日
八木さん送りにゆき、帰れば悠紀子泣きてあやまる。哀れなり。昼寝してさめれば18:00。
『薔薇』より缶詰類。井上恵子よりそばbolo贈らる。中島悦子より礼状。池内一氏より法事の返しすると。夜、入浴。
12月30日
晴。室井幸太郎氏より大源味噌贈られし外、〒なし。午前中、書斎の本はたき積み直す。午后、悠紀子と京と十条へ買物にゆく。
昨日より「魚の目」の薬を塗る。午后われはcardの整理す。
夜、室井、井上恵子、渡辺三七子、村上新太郎の諸氏へお歳暮の礼状かく。依子、石鹸もらひて帰宅。
12月31日
成城大学事務局長へ研究日を木金と返答。中島悦子、太田陽子へハガキ。本多和子生より喪中欠礼。
田中順二郎君へ家のこと報告。岩田生へ(※結婚に)「反対」の手紙。大江久美子より手紙。何もかいてなし。
八木さんへ礼状かきて今年すむ(悠紀子、食卓と鏡台買ふ)。
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