(2023.04.05up update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集



『蘇東坡』研文出版1983.3研文選書16 19.0cm,297p


「あとがき」

 山本敬太郎氏は古くからわたしの知己である。戦争の末期、『東洋思想叢書』というのを日本評論社で計画し、編集の一人には戦後、共産党と名乗りをあげ、党の幹部の一人であった筆名赤木健介氏がいて、この人が昭和十六年、陋居を訪れ、叢書の計画を説明して、わたしには李太白をというのであった。同氏の「杜甫なら書く人は山ほどあるが、李白はありません」という言葉にわたしはうまうまと乗せられたのである。

 当時わたしは三十歳はすぎたが、まだ働き盛りで、岩波文庫の漆山又四郎選『李太白詩集』久保天随『李太白詩集』上・中・下(続国訳漢文大成本)、森槐南『李詩講義』(文会堂刊)しかなく、これらは李白を愛せしめる書とは思えなかったので、宿題にしている内に文士徴用、わたしも詩人のはしくれということで、マラヤ軍に徴用されたが、皇軍の本領を見聞きして吃驚、そのことを述べようと帰還すると、情報部長談話で「このころ外地から帰り無用の実状と称する話をする者があるが云々」とラジオで報が入った。その前日、陸海軍の参謀(私服)二人のいるところで、わたしはマラヤ・スマトラの軍政について実況を話したばかりで、わたしは軍は軍部以外の意見を聞く耳をもたないと直感した。

 従って中国を知らすために全力をそそごうと李白研究には熱が入り、昭和十八年、島々の全滅つづく中を、大陸はまだと筆を執り、年末には完成、翌年四月には店頭に並べた。忽ち売切れとなった様子であるが、うれしかったのは、差入れを許された獄中の共産党の某氏が「この本は面白い」と愛読したことと、たまた店頭を訪れたわたしに「あの叢書では武田泰淳さんの『司馬遷』とあたなの『李太白』とが双璧ですね」と評された山本書店主山本敬太郎さんのかざりけないおことばとで、わたしはここに知己がいたかと喜んだ。

 長々とかいたが、同叢書の竹内好の『魯迅』は出征を覚悟しての早書きで未完のものだし、その他の老大家の御著作は、わたしは不遜にもこの非常時に何を考えての御仕事か、と首をかしげさす態の物が多かった。武田泰淳君とは竹内を通じての知りあいであったから、さもありなんと思った。

 その山本さんから「蘇東坡を書け」とのお話があったのは、三年前の夏休み直前だったか。わたしはこの保守反動と悪名高い詩人を、どうしてわたしにお書かしになるかと一応不審には思ったが、『祖国』という京都刊の地方雑誌に蘇東坡の伝記を三回にわたってかき(昭和28,19年)、ついで大阪の女子短大の学報に「海南島の蘇東坡」というつづきを載せ(昭和29年)、岩波書店の中国詩人選集の『蘇東坡』の挿みこみペーパーに「蘇東坡の妹」について書いたなどの前歴を思い出し、この際この詩人との関係に結着をつける決心をし、参考書を集め出した。一応、手に入る限りは集めたが、林語堂の評伝が一等面白かった。他の本はまあまあ。気になったのはやはり保守反動、王安石の富国強兵への新政策に反対し、国論を二つに分け、党争の結果が彼の死後すぐに徽宗・欽宗の二帝の東北への流謫という中国史上でも比類を見ぬ悲劇を来たした(明の崇禎帝の北京の煤山での自殺はやはり悲劇であるが、二帝の流謫と最後は時間的に長いだけ悲痛である。小説『宣和遺事』は従って読者をして読むにたえざらしめる)。

 王安石(東坡の文学と政治二方面での好敵手)の評判は宮崎市定先生をはじめ史学者で高く買う人が多いが、東坡に関しては、詩人としてはともかく、その主義主張は保守反動と感じる向きが多いかと思う。新旧両党の党争は主義よりも党争そのものと化し、遼金などへの対外策は全く軽視されたきらいはあるが、孔子・老子も兵法・法制・軍事行動など現実の面では全く無力だった点わたしは同感である。恕していただければというのが、華北派遣至武兵団元陸軍一等兵のわたしの願いである。そう腹がきまるまで、この伝記はなかなかに書きづらかった。そのため足かけ三年にわたった期間、黙って待って下さった研出版の御一同にも感謝して筆を擱く。


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