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田中克己日記 1948

昭和23年 1月 1日〜昭和23年 7月22日

19.0cm×13.0cm 横掛ノートに縦書き

昭和23年   田中家系図


【昭和23年】

 愛知大学教授への招聘が、図書館事務課長だった板倉鞆音(昭和28年に館長)を介して打診されたのがこの年の1月。板倉氏はリンゲルナッツほか新即物主義の紹介で有名な独文学者であり、 「四季」「コギト」への常連寄稿者でもありました。それ故に声を掛けて下さったと思しいのですが、田中克己は早速現地を訪れ、すでに教授となってゐた丸山薫にも会ってきたものの、 結局この招聘を受けず、代りに同僚の服部正己が手を挙げて豊橋へ赴くこととなります。

 もしこの話を受けてゐたら、丸山薫を連盟の会長に戴いた中部日本詩壇でどのやうな活躍がみられたのか、岐阜在住の私ならでは夢想もふくらむところではあるのですが、 職場の待遇と雰囲気に嫌気がさしてゐた詩人はこのオファーに勇気づけられたのか、本格的な転職活動を、これ以降に始めることになります。

 詩人にしてみれば、中京地区には弟が伊勢に、妻の義兄が大垣にゐましたが、肝心の東洋史学界には知合ひがありません。父が手紙に書いてよこしてきたやうに「戦災で焼けなかった京都こそがこれから文化の中心になる」との思ひも、多くの師友が奉職する京都大学の権威を仰いでは、眩しく肯はれたでありましょう。さうして天理図書館にて懇ろになった同僚とも別れ別れにはなりたくない(苦笑。でもこれ、日記に付せられた歌を読んでゆくとわかるのですが結構深刻です。御長女依子さんも覚えておられる“流血の夫婦喧嘩”も原因はこれだったのかもしれません…)。

 板倉鞆音からは、ならば国会図書館へ行ったらどうかと手紙に書いてもらって悪い気はしません。しかしこの後、「生涯最悪」と呼ぶことになる雌伏の二年間が、 実にこの愛知大学からの招聘を断ったところから始まります。運命は皮肉です。

 恰好の話相手で、何くれと生活上の世話も焼いてくれてゐたコギトの盟友、服部正己の一家が天理から去ってしまったあと、詩人は同じく高校時代からの友人で、 京大の東洋史研究室にあった羽田明の家庭へと何かにつけて足を運ぶやうになります。その父君は京大総長を定年で退いた羽田亨。東洋史学界の泰斗であり、 当時は同じく京大にあった東方文化研究所の所長でありました。一方的な関係とはいへ羽田明に温かく迎へ入れられた田中克己の、コネクションにかける期待は絶大です。 同時に桑原武夫、野田又男、外山軍治、藤枝晃など、先輩友人に事欠かぬ京都大学で催される学界の集まりにも足繁く参加しては、なけなしの金で進進堂のコーヒーを飲み、語らひます。 それは当時の田中克己にとって、同僚の恋人と語らふ「詩人の生き甲斐」とならび、生活を忘れさせてくれる「学者の生き甲斐」として、大切なひとときであったに違ひありません。

 しかしながらその所為で、しわ寄せは家庭に表れ、家族が父親とともに団欒する様子などは(夫人が5人目を宿した身重の体であったことを別にしても)日記のどこを探してもみつかりません。 おとーちゃんは毎日一体どこでご飯をたべてくるのか(笑)、二、三日家を空けるのはざら、帰ってくれば機嫌の悪いこともこの時期は特に多かったに違ひなく、 昔の家庭ながらすぐに手が出る、茶碗が飛ぶ。却って浮気の相手が心配してやってきて子供らの世話をあれこれ焼いてくれる有様に、奥様の心労もって察すべきと申せましょう。 記述からは特に長男である史(ふびと)氏に対する、形で見える愛情が薄いやうに感じられます。使ひ走りにはゆかされるものの、男親らしい交感は感ぜられず、 (窮乏にあったとはいへ)家庭訪問の先生には高校大学にやるつもりの無いことを公言さへしてゐます。

 さて、幸か不幸かこの夏、新制大阪大学に助教授の口があるといふ話が、京大筋の友人から舞ひ込みました。恩師和田清ほか先生方の推薦をとりつけるのですが、 上司となるべき桑田六郎教授の反応は捗々しくありません。後から考へれば、公職追放の指定こそ受けなかったものの、唯一赤色パージをのがれた官立大学の世界では、 戦争詩人の肩書を持つ学者が収まるべきポストなどなかったのでありました。

 しかしいづれ京都大学ででもなんとかなると思ったのでしょうか、例の隔離病舎の借り住まひからは退去し、田中家は天理教桜井大教会の一室に移ってゐましたが、気が急くあまり、 詩人は転職先も決らぬまま、京都市は上京区、父の住む寓居近く、羽田明と同じ田尻町に借家をみつけてもらひ年末に引っ越してしまふのです。ここからがいよいよ求職苦の始まりとなりました。

 「生涯最悪」の二年間には文事の方でも不運が襲ひます。先づは好評を博した『李太白』の評伝に続いて書いた幻の『杜甫伝』のこと。 200字詰492枚を昭和21年の夏には脱稿したのですが、これを父の伝手で金尾文淵堂から出すつもりが社主種次郎氏の急逝(22年1月)によって頓挫、 ふたたび老舗の博多成象堂から刊行を期すも、校正を三校まで出しながらこれまた倒産によってならず。さらに預けた原稿が有耶無耶になってしまった一件です。

 田中克己の『杜甫伝』は後に昭和51年、講談社から刊行(253p)されますが、「あとがき」のなかでこの一件は「腹稿」として片づけられてしまってゐます。 そして「杜甫伝は戦後すぐの昭和21年9月英文学の泰斗齋藤勇先生が研究社からお出しになったのがある。」と「ついでに記して」あります。 日記にこの新刊について全く記録がないのは変であり、当時この既刊書についてはノーチェックで執筆がすすめられたのではないか、 そして刊行が不調に終わった後に400頁近い評伝本が、しかも畑違ひの学者から出されたことを知るに至り、原稿の書き直しを断念してしまったのではないか、私はそう思ってゐます。

 もし原稿が失はれず、これを出したがってゐた角川書店や弘文堂の手で刊行されてゐたら――。この年11月に無事に刊行された聊斎志異の訳書(『狐の詩情』)の方は、 世のの活字需要に応へ、他所の出版社からも別訳が出されてゐるのですから、「詩を作るときには李白より杜甫の方が参考になることが多かった」と述懐し「性格からいうと豪放磊落な李白よりは憂鬱悲観的な杜甫の方が好みに合って」いたといふ詩人の、 常に李白の専門家として続いたその後のオファーにも、あるひは影響を与へたかもしれません。

 それから前年の解説にも書きましたが、正式な戦死公報を受け、この年の3月に遺骨なき中島栄次郎の葬儀が営まれてゐます。京大同窓の野田又男と、 一番の親友だった田中克己が中心になって遺稿集の刊行を画策するも、本命の出版社であった養徳社の反応がにぶく(社員扱ひの用事を嫌ひ、企画に深入りできなかったことも一因でしょうか)、 結局刊行を見なかったのはさきに述べた通りですが、これもまた、3月に発表された保田與重郎の公職追放に絡み、彼の舞台だった「コギト」周辺にあった人たちが割を食った一例でもあったのかと、 私には思はれてなりません。天理教の真柱中山正善が保田與重郎の人物に魅せられ、創刊させた文芸雑誌「大和文学」も、編集部内部に彼を忌避する空気が生まれ、 この年に3号を出したきり立ち消えてしまひます。その結果、保田與重郎を信奉する同志が鳩合して、雑誌「祖国」の旗揚げへと向かふのは翌年の話です。

 これらはしかし「コギト」の経済的パトロンだった肥下恒夫が戦後「農地解放」に遭ひ、財産である田畑の殆どを没収されることなどなければ、 何の問題もなく解決せられた筈だったに違ひありません。田中克己にとっては親戚でもあり、金持ちのボンボンとして気兼ねなく寄りかかって居られた肥下恒夫ですが、 戦後はこれをもって窮乏の緒となし、大学を中退してゐた所為で確たる職に就くことができず、育ちの良さが裏目に出て、潔すぎる世過ぎの末、 たうとう昭和37年には農薬を呷って自殺してしまひます。

 この年の夏、田中克己は居易かった彼の家にふらりとやってきては、泊めてもらえなかったことを根にもち、しばらく足を遠ざけてゐるやうです。 近すぎる相手に対して構はない気風が、関西の旧制高校の同級生を母体とするコギト同人間に行はれてゐたとすれば、その中心で終始甘えてゐられたのは、 町屋出身で裕福な階級でもなかった最年少の田中克己でありましょう。素封家に生まれた肥下恒夫は、“癇性の詩人”を大人然と見守りこそすれ、 誰からも憐れまれることなど考へられなかった立場にゐた年長者です。それが一転、経済的余裕がなくなった途端、同じやうに接してくる友人が自分をぞんざいに見下してゐるもののやうに感じられてくる――。 雑誌「コギト」の刊行を実務的にも経済的にも支へたのは、偏へに彼の無償の共同の営為に掛かってゐました。友情に殉じた自負に罅が入り、「肥下さん」が自らの半生を「卑下」する境遇へと落ち込んでゆく悲劇が始まってゐました。 詳しくは評伝をご覧ください。

 保田與重郎に至っては、文名を成すに従ひ、第三者が入る場での田中克己との間には鹿爪らしい垣根を築かうとするやうになったのだといへます。 すでに早い時点で、雑誌「日本浪曼派」の同人に田中克己が呼ばれなかったことは、さうした節目に起きた「事件」とも呼べるでしよう。 「かぎろひ」時代以来の、二人の間だけで確認せられてゐる友情は複雑です。この時代の日記からは、困窮する田中家をおせっかいにならぬやう見守る保田家の姿が、 また詩人も保田家に頻繁に通ひ世話を焼かれ、父上や弟君と談笑する間柄にあったこと。さうして保田與重郎を貶める言説に対しては陰日向なく感情的に敵視し、加担する様が窺はれます。

 もしも中島栄次郎が生きてゐたら――。この関西日記に不在の影を大きく落としてゐるのは、やはり彼であるやうな気がしてなりません。(昭和24年につづく)


昭和23年

1月1日
二時半に起きて悠紀子炊事と裁縫、史も手伝ふ。われ寝そびりしまま眠れず。雑煮餅六つ食ひ5:30四人多良へゆく。教会の元旦会食を隣の室にきく。 午後会長宅へ挨拶の後、保田へゆき父君と保田と挨拶。御馳走になりて楽しからず。

1月2日
10:00図書館の柴田生来る。やめて大学へゆかんと。午後服部、吉岡武雄氏と来訪。保田へゆき18:30退去。胃わるし。

1月3日
文芸の稿料(500-75)来る。家居。もち茶漬食ふ。

1月4日(日)
誰も来らず。午後出、坂口允男にゆき米田清治を訪ねして汽車まち合せ、15:29の汽車にて丹波市。
服部にゆけば酒井先生(※酒井賢)あり。老年下宿の未亡人と恋愛と。吉岡君のところにゆけば夫人帰りゐる。双方にて夕食御馳走となり服部に泊る。
物さはにあるを見るて羨ましと思ふ、珍しきことかな。

1月5日
8:00の汽車にて帰来。妻子昨日帰りしと。大教会の教師の新年宴会、修養科生よりの利得につき正論出しも正月早々の問題たらずと立ち消え、吉田嬢より手紙。

1月6日
午後、肥下来る。ともに保田にゆきしも前川にゆきしと留守。帰りて酒二合振舞ふ。吉田嬢へハガキ、学問やめよと。

※〈一月六日 火 曇。午前九時松原町役場へ行キ、農地買収令書受取。午前十時桜井ヘ赴ク。午后零時半松田家ニ着ク。松田(※松田明=坪井明))留守。田中克己ヲ桜井大教会ニ訪フ。子供達ニ数年振リニテ会フ。午后三時田中ト共ニ保田ヲ訪フ。奈良ヘ出カケテ留守。再ビ田中ノ所ニ行キ酒ヲ馳走サル。午后六時松田ノ家ニカヘル。松田丁度帰ツタ所、共ニ雑談夜十二時ニ至ル。〉

※〈一月七日 水 曇。午前十時保田ヲ訪フ。子供達皆出テ来ル。午后三時田中ト共ニ保田ヲ訪フ。午前十一時松田方ニカヘリ昼食後、松田、セツ子(※妹)、悠紀子(※田中克己妻)ト共ニ電車ニテ瓜破ニ向フ。途中松田、岩木(※磐城)ニテ下車ス。松原帰着四時半、平野行バスナシ。止ムナク我ガ家ニセツ子、悠紀子泊ル。〉
肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 82p

1月7日
無為。聊斎志ちょっとやる。

1月8日
7:00の汽車でゆき、八木嬢に会ふ。日直、することなし。俸給+五日支給と電話。中村忠行君、台湾文学の新垣君つれ来る。
八木嬢にあとたのみて15:00出、養徳社へゆき玄想と大和文学もらひ、中島のトルストイ論托す。
けふ館に伊東の「反響」と「東洋史研究」10ノ1来りをり、家に沢田より年賀状。

1月9日
入浴せしのみ。沢田へハガキ。

1月10日
無為。大食。「志異」訳す。杉浦へハガキ。

1月11日(日)
神田信夫君より返信。藤井寺へ三児つれてゆく。米一斗と小豆のこと頼まる。久美子妊娠して結婚せし様子。
「司馬遷(岡崎文夫)」、佐野学「清朝社会史」「古代日本語」買ふ。71:50

1月12日
初出勤。山中嬢とゆき、佐野学「清朝社会史」福武直「中国村落の社会生活」買ふ。午前中職員会、午後掃除、すみて服部にゆき中川浪高教授と将棋。
伊東静雄、亀井昇よりハガキ。八日弘文堂来りし由。米田君、夜来る。

1月13日
出勤。歌一首。
とらへんとすればとび立つ鳥われとつれなくいひて笑まふをとめぞ
新年宴会投票の結果、やることとなる。矢野文庫整理二年かかると申出。橋本少年飴呉る。インク25、煙草50。伊東、大江へハガキ。小西氏の娘嫁入につき祝100。

1月14日
眠く9:08の汽車にてゆく。養徳社へゆき「雨窓歌枕集」もらふ。登館、須賀文庫大分片付く。歌二首。
とみ山の北のふもとにわがすみて東の方をおもふあさひる
ますらをののぞみをたちてをとめごとうたかはさむとおもふこのごろ
吉田ふじ子へハガキ。「学芸」十二月号買ふ。

1月15日
雪降る。鈴木氏にゆきお茶のみて登館、五ケ年計画なるものを承る。午後2400貰ふ。帰途文学堂にて「聊斎志異」「唐詩選」「小説戯曲新考」買ふ(225)。 時報社にて金沢庄三郎「茶」買ふ。
タバコ20(50)、和田先生よりハガキ。「東方史論叢会」のこと承知さる。

1月16日
雪降る。家居、新年会やめしなり。羽田へハガキ。

1月17日
出勤。歌二首。
山かげの小さき家にゐろり切りふたりすまへるゆめをひるみる
牧草にならびゐしときセニョーラと呼ばれしひとは忘られまじき
返し
あるときにしたふをとめもいくたりの君かとおもふさがもかなしき
職員の館長への要求事項協議、つまらず。養徳社へゆきしに田坂君のこと駄目と。服部にゆき将棋して帰る。「続日本記宣命」16.5

1月18日(日)
米つきしのみ。

1月19日
出勤。佐藤誠来る。昼、玉葱押へる。明日より9:00出勤と。鈴木に寄り小豆分け(5合75)、大麦たのまる。井上節子嬢来り、京大受験用に東洋史概説借りゆく。
帰途米田家に寄り、清治君に東洋史研究会費たのむ。

1月20日
出勤。けふより9:00開始。弓子風邪。

1月21日
出勤。伐木作業。典籍学会の相談。すみて後の汽車となり養徳社による。弓子なほる。

1月22日
出勤。中村忠行君「殉死」の校正もち来る。「大和文学」の会30日14時と。保田に寄り云ひ置く。
板倉鞆音より手紙、愛知大学図書館事務館長と。霞山公の文庫五万と小倉正恒の十二、三万点あり。月給四千円位と。

1月23日
寒●の●にて九時の汽車。ゆきて須賀文庫数へしにあと16冊。八木嬢と話し、畑見、午後何もせず。4:00出て58分の電車にて京都ゆき、
羽田家へつきしは19:30。夕食たうべ可否いへず、大学のこと(※愛知大学からの招聘?)博士に問ふべしと、22:30まで話し父の所にゆく。可否いへずと。

1月24日
7:00起き、9:30弘文堂へゆく。教養文庫に杜甫くれよ、世界文庫もほしと。羽田にゆけば12時。昼食よばれ博士のところに参る。可否いはれず、すぐ断ることもなからんと。帰宅17時。

1月25日(日)
朝、八木君来り、父に叱られしと。10:00帰る。午後硲君より「蒲寿庚、唐詩選下、中国社会史研究、支那地方自治発達史」もち来る。
水曜日14:30に講演に来れと。板倉氏に履歴書と手紙書く。

1月26日
日直出勤。天理教春季大祭なり。八木君来り、父にまた叱られしと。午後山中君来り、西田君来る。山中君朝の電車おそく一緒にゆけざるを怨む。杉浦よりハガキ。北大に決まりしと。

1月27日
出勤の途、靴底にて修理(300!)。寒くて何もせず。午後給料是正会議、中村君950、われ8.50なり。吉岡君来り、三好達治に会ひにゆかんかと。帰り二女史と高橋君に寄る。

1月28日
朝、夫婦喧嘩。茶碗にて叩き出血せしに驚き子等みな泣く。止血後藤井寺にゆけば久美子女子けさ出きしと。
小豆二升わたし昼食して大高にゆく途中、住中に伊東訪ねしに(※講演会に)来る予定なりしと。●台●高校の国文教授、犬養氏、来●。マライよりの帰りの講演ききしと。
米田巍君あり、学生時代より若くなりしと。今中後輩なり。講演旨くゆかず、夕食よばれ、300もらひて帰る。
伊東、空襲の時、手をつくねて家やきしと。原因、家主との不和と、面白し。夫婦相和すと。

1月29日
朝、吉岡君のところへゆき聞きしに三好氏昨日来る筈なりしと。京都へともにゆかんと云ひしを止め、養徳社に寄り「日本の古墳墓」貰ひ、 「学芸」正月号買ひて図書館にゆけば、八木君休み二日。
ややして電話、三好氏来りありと。吉岡君と旅館にゆき、ともに養徳社にゆき浅見篤氏(外語教授、淵の弟、三好氏同級)と石上神宮に参拝。図書館によらせて案内。
三好氏に庄野誠一氏、「田中氏この頃自棄的」と云ひしと。

1月30日
出勤。須賀文庫終り、14:00より養徳社にて大和文学の会。来会せし三好氏はすぐ退座。保田、前川、吉村正一郎、鈴木治氏、まとまらず、小説特輯とせんと。
17:00和楽館にゆく。中山真柱と森末義彰(史料編纂官)。森末氏、石瀬氏よりわれのこと聞きゐしと。飲み食ひして鈴木氏に泊る。

1月31日
鈴木氏に弁当作ってもらひ出勤。大掃除。すみて養徳社に寄り、聊斎志異わたし大和神社まで参拝。檪本(※中島栄次郎宅)へ引返す。中島の遺骨、中は木札と。三月頃葬儀せんと。
諸友の手紙を見、餅もらひて帰宅。教会長夫人に真柱二月六日来たしとの意伝ふ。のちほど呼ばれ準備の都合と教議員立候補のため辞退すと。腹立つ。

2月1日(日)
雨、夕方保田家にゆき中山管長を呼べといふ。保田不在。父君、(※管長を)呼ぶもよしと。豊橋(※愛知大学)ゆきにも賛成。帰りて聊斎。

2月2日
出勤。
ふたりしてゆめみる如く坐りゐし森かげのこととはにわすれじ
聊斎志異350枚(200字詰)。とはしがき8枚。15:00養徳社にゆけば酒井先生あり。ウォルデン訳され前金請求中。庄野氏一二日後にと。がっかりす。
高橋君にゆき鈴木氏と話す。帰れば父、板倉氏、平戸禎一氏よりたより。けふ管長に手紙、六日保田家へ来るならよしと。

2月3日
出勤。昨日の憂鬱の半ばは睡眠不足らし。本四冊整理、真柱より電話、保田へゆくと。土産何にせん、富永つれゆかんかと。 帰り養徳社へより庄野氏より「孟子字義」もらひ金、明日と。いくらときかれ2000と答ふ。
けふ和田先生へ手紙、保田へより父君に伝ふ。餅食はせたまふ。

2月4日
出勤。岡本和子と本四冊整理。午後寒くして怠業。養徳社へゆき二千円もらふ。末永「池の文化」、宮崎「アジア史概説」買ふ。服部へゆき金貸さんといひしに拒む。
豊橋行に反対せしは高橋君のみ。

2月5日
出勤。矢野文庫はじむ。午後職員組合規約委員会、不快。養徳社へ寄る。「文芸」来る。ゆき子保田へ酒一升(700)もちゆきしと。

2月6日
午前中、昨日会議の内容説明。真柱より電話、三時迎へに来よと。15:30ともに出、三輪の池田君を伴ひ16:00保田着。夕飯、真柱来月結婚と。20:30退去。 羽田よりハガキ。八日粉買ひに来ると。

2月7日
出勤。土曜とて服部に夕方ゆくことを約し高橋君にも来会を促し、奈良へ散歩す。前川、金井二先生と同車なりしにはおどろきし。
早春のかすがののべにわかなつむをとめをぐなと見られてましを
18:00ごろ帰丹。服部にゆき将棋さし高橋、吉岡二君と話し、十二時すぎ寝る。

2月8日(日)
朝飯よばれ10:00バスにて桜井に帰る。沢田よりハガキ。田村春雄一万円の慰謝料出し旧臘再婚と。米田君来り、羽田の講義に学生ひとりと。
保田の順三郎君来り、水菜賜はり史の頭刈り呉る。羽田来り、東方史論叢に六、七十頁書くべしと。夕食たうべ18:00帰去。一ヶ月以上ぶりにて銭湯にゆく。

2月9日
出勤。寒し。四冊ほど整理し昼となり、硲君来訪、上京とのことにて早引し、つれ立ちて養徳社にゆく。「こひうた九首」与へ、聊斎志異の題名考へよといはれ、
「古代の精神」「たみのあゆみ」買ひしのち桜井に帰り夕食。吉田君よりハガキ。怒り来る。

2月10日
出勤。寒し。「和蘭の第二朝貢」書かんとし、オギルビよむ。明日妻子来丹とて鈴木氏に寄る。養徳社に寄る。面白からず。

2月11日
紀元節。休日。建国祭と名かはりしと。子供ら式あらず。雪降り、丹波市へゆき子ゆけず。

2月12日
出勤。不快。論文のみやる。家より●●もちゆき研究室に●●●●。羽田よりハガキ。父よりハガキ。夜、米田君独乙語習ひに来る。羽田へ書托す。平戸禎一、 深井徳司に返信。
志野へゆき子ゆき五千円放棄し文句いはれて帰り来る。いやな奴との縁切りなれどもくやし。

2月13日
欠勤。元気なし。保田へゆく。豊橋へは一度しらべにゆけと。夜、「清蘭関係」書きはじむ。うまくゆかず。

2月14日
鈴木氏に寄りてゆく。昨日職員の申入れせしと。(後で金井(※寅之助)君に聞けば受け流されしのみと)。八木君と話し、アダム・シャール伝タイプにて打ちしのみにて出、養徳社に寄れば服部あり。
「聊斎志異」「狐の抒情」ともめしと。服部にゆき将棋さして帰る。吉田嬢よりハガキ。

2月15日(日)
史に留守を命じ、妻子と丹波市にゆく。八木さん駅に迎ふ。われ図書館にゆけば藤枝より「杜甫」の校正来をり、これをなす中、午後二時となり、服部にゆく途、八木さんに会ふ。
服部にて校正をなし終へ、妻子に一汽車おくれて帰る。堀内民一氏より手紙。夜、「杜甫」のあとがき書く。350字。

2月16日
出勤。論文うまくゆかず。大掃除。14:00すぎ出て養徳社に寄りて帰る。藤枝へハガキ。

2月17日
出勤。論文ちょっと書く。けふより春めきし。正午、佐藤誠氏夫人をつれて来る。天津なつかしきはふしぎなり。

2月18日
9:00の汽車。養徳社にゆき昨夜来し田村寅蔵博士の電報見せ二十日上洛の返打ちてもらふ。八木君22日見合ひにて図書館の高橋君の日直代りしと。をかし。 中村孝志君来り、論文たのみわれのは次に廻さんと決む。

2月19日
出勤。何もせず。養徳社上田嘉成君来り、「聊斎志異」に挿絵入れんと。反対す。井上節子嬢来り、友達を図書館に入れんと。
帰れば松本善海からハガキ。愛知大学に●井あり、経済的基礎なくいや気させりと。

2月20日
9:00の汽車にて丹波市。吉岡君と京都。喜田聿衛氏と同車。田村博士、羽田、外山、外二氏と「東方史論叢」の編輯会。中村孝志君の論文も入る。善海のハガキ見せ愛大を断らんと云ふ。
19:30帰宅。「不二」正月号、「四季」五号(終刊号)、「眞日本」の稿料240。

2月21日
出勤。雨となる。「身体呼称」拾ひとり宮田民雄より「無風帯」(※詩集)に手紙つけて来る。
八木君昨日見合ひし結果、良好なりしらし。靴下やぶれゐし大阪工学部出と。
帰り雨はげしく、鈴木氏に寄り傘借る。木下にて「東光」「東洋学報」「地理と古典文化」買ふ。
史、けふ藤井寺へ小豆一升もちゆき19:00頃帰る。大も来りしと。

2月22日(日)
午すぎ家を出、保田父子に愛大行やめしと云ふ。バスにて図書館。「三国史記」借出し、鈴木氏にゆき話きく。昨夜睡眠不足のためか退屈。
17:00の汽車待ちゐしに八木君来り、三輪まで同車。ふられしため行きたしと、呆れていやになる。
帰れば妻子曲馬見られ●●しと。けふ不二出版社鈴木君、角川源義、弘文堂、松本善海へハガキ。

2月23日
寒し。欠勤。かかあ殿、金なしとて御機嫌わるし。夜、米田君雑誌かくしに来るも上らず。

2月24日
汽車におくれ電車でゆけば西大寺まで下りれず9:20天理着。バカらし。
山崎、悪口云ひをりし由、服部にゆかんと思ひしもやめて帰る。

2月25日
出勤。三十冊ほどやり、帰り八木君と散歩。服部へゆきて泊る。
吉岡君来り、「東方史論叢」にネームヴァリューとて貝塚氏にたのみにゆくと。中村孝志君のは次号に廻すと。

2月26日
10:00服部よりゆく。干藷を弁当にす。欠勤多し。けふより春めく。八木嬢に饅頭山中嬢と賜はる。乾うどん一メ匁(40×10)もちて帰る。夕方風。
けふ身体呼称メラネシヤ、ポリネシヤ。夜、来迎寺の若様来訪。話、面白し。

2月27日
出勤。三十冊以上整理了。館長帰りて土産をくばる、珍し。
校友会より500円くれる。お寺へ本貸す(ルーテル伝)。堀内君へハガキ。

2月28日
奈良県教職員ゼネストに入るに付、態度決定の投票。賛成9否3、山崎いやらし。午後教祖の墓にゆく。御陵墓をまねたり。八木君の兄の墓に詣る。
檪本にゆき中島の葬儀のこと云ふ。三月十四日と大体きまる。吉田嬢より手紙。小高根二郎より「思春の期」。春めき雨降る。「字と文」「文久二年上海日記」買ふ。

2月29日(日)
家居。父来り、豊橋やめと云へば反対もせず。夜、入湯。

3月1日
けふはまた寒し。午後大掃除。帰り二嬢とともにし八木嬢より茶菓奢りを受く。ゼネストに天理参加せずと。可嗤。
小田嶽夫より徳●貸せと。育生社より原稿催促。

3月2日
小田嶽夫と吉田嬢へハガキ。出勤。午前中矢野文庫のリスト作り●月中七十九冊と。
酒井先生来られ転任の覚悟されしと。「ウォルデン」のよみやれと。養徳社へ寄り「大和文学」の相談受け、中島の葬儀に師友へ十枚の案内書書き、出づれば服部来る。 引返し夕食御馳走となる。母上より(※中島未亡人の)再婚先の御頼み、不快なり。
野田より「啓蒙思想とヒューマニズム」。文明社より三月二十日までに詩一篇。服部正雄よりハガキ。

3月3日
出勤。畑へ出る。八木嬢たばこ呉る。帰途、鈴木氏へ寄る。馬淵東一氏来る。岡正雄氏ナチス関係にて信州住まひと。

3月4日
9時の汽車にて養徳社、庄野氏来らず。11時登館、米田清治君に和辻「ポリス的人間(※ポリス的人間の倫理学)」借りてやる。15:00出て、養徳社にゆき、 酒井先生の「ウォルデン」につき聞き、聊斎の稿料月曜頃と。服部にゆき200借る。ゆき子も西窪夫人より200借りしと。タバコ配給。税金にて百姓米を売り出し、 奈良160、大阪120となりしと。

3月5日
出勤。午後伐木作業いやなり。昨日は「王立アジア協会マレイ支部報」、けふは「セイロン支部報」――効なし――「アジア・マヨール」。

3月6日
出勤。酒井先生の「ウォルデン」一寸見る。
このごろは楽しといひて杉林笹のみちをば去りしをとめは
酒井先生にゆき原稿お返し、養徳社に寄りしも事なし。(ゆきかけ高橋君にて矢野目源一もらふ)。

3月7日(日)
朝、保田にゆく。酒代500円渡さんとせし。定●として西窪夫人にかへし、昼寝。小森佐一来る。十七年ぶりか。スマトラにゐしと。弘文堂細川隆司君より「東光」二冊、夜、米田君。

3月8日
傘を酒井先生のところへ返し、館へゆけば中谷生あり。宿題やりくれと。風呂の返礼をせよと也。
14:00養徳社へゆけば金庫しまりしと。吉岡君の斡旋にてやっと二千円貰ふ。三好達治氏来るとのことに待ちしかど来ず。

3月9日
出勤。午後共同畑作業、いやなり。すみて玉葱に山中嬢と施肥。服部へゆけば母君来りをるに匆々帰る。「学芸」出来、弘文堂細川君より蘇東坡よりも「東洋の詩精神」をと。

3月10日
出勤。2,600円もらひ、ジャガ芋植ゑ、うどん食ひ、高橋君と養徳社にゆく。三好氏来らず。
「ハイネ随想録」(30)分けてもらふ。けふ書店にて「カーリダーサ」「カーマスートラ」「大同石仏芸術論」買ひ、新生50本を二人にて買ひ、林檎二百匁(90)買ひ、 凡そ400円費す。服部にゆきしに不在。吉岡君も不在。帰り京大生と話し、腹立つ(大外語より支那文と)。郡山にて乗りかへしに服部あり。

3月11日
出勤。午後吉岡君電話。三好氏会いたしと。郡山、四海亭にゆき話す。京都へ移住と。18:00頃帰る。この頃また停電はじまる。

3月12日
出勤。三好氏の質問への返答、養徳社に托す。

3月13日
出勤。雨。はれまに養徳社にゆき「嘘の行方」もらふ。
田中幸臣は松井君上田君と同級、操行不良と。意外。
はるさめの木の間にありてものいひしをとめの子らに老いのかなしも

3月14日(日)
9:00の汽車にて檪本(※中島栄次郎慰霊祭)。野田、肥下、坪井、伊東、服部、われ。保田は遂に来らず。死にしとの実感あり。16:00肥下らと丹波市、 服部宅にゆきわれのみ泊る。(立野保男発狂せしと。松下の甥三高生と)。

※〈三月十四日 日 雨午后霽ル。午前七時三十六分天王寺発ノ汽車ニテ大和櫟本ニ赴キ、全町極楽寺ニテノ中島栄次郎慰霊祭ニ列ス。田中克己、松田明(※坪井明)、伊東静雄、服部正己、野田又夫来ル。午后三時過ギ同寺ヲ辞シ、田中、松田ト共ニ丹波市ノ服部ノアパートニ寄ル。午后七時過ギ、松田ト二人ニテ服部方ヲ辞シ、電車ニテ橿原神宮駅ヲ経テ帰宅、午后十時。〉肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 86p

3月15日
出勤。事なし。厚生社より出版契約。気にいらず。

3月16日
高橋君に寄り、コーヒー御馳走となる。午後大掃除。三興社員来る。ハイネ校正は5月頃と。帰途、養徳社に寄る。雨。

3月17日
雨。鈴木氏に寄り、紅茶賜ふ。米ソ戦争近しと。午後三興の岡部克也君来り、ブランデス「ハイネ」もちゆく。校正4月末と。田村春雄の新夫人結婚翌日負傷せしと。 けふより語専の安南語卒来る。
吉田ふじ子、松本善海、辻(※辻研一「爐」発行者ペンネーム冬木康)より便。

3月18日
出勤。事なし。支那語科卒の語専生一人来る。吉田君、弘文堂へハガキ。丹波市桜井の逓信スト。夜、小説書く。

3月19日
出勤。春めく。給料2600貰ふ(税込3100)。帰途、「大和の垣内(40)」「吉野朝の悲歌(15)」「支那治外法権史(15)」買ふ。神田信夫、亀井昇よりハガキ。

3月20日
土曜、出勤。山中嬢とゆき、太宰「八十八夜」買ひ与へ「大友宗麟」「皇室ときりしたん」買ふ。鈴木氏により紅茶のむ。
山中嬢、山崎君再婚祝にたてあひ会より500もちゆく。おくれてゆけば年末のお説教。すみてわれ仙田氏に図書館法のことにつき念押しし館長には出勤と勉強のことを押す。 すみて掃除し、服部に会ふ。ハウフ訳すと。
とこしへにふたりはなれじかくいへばうべなひつつもたのしといひし
あす上洛。「官話古今奇観(10)」「露伴蝸牛庵聯話(60)」。山中嬢にギリシャ・ローマ神話与へし。

3月21日(日)
雨、上洛止め。一日臥床。夕方、服部正雄、末吉栄三、爐書房へハガキ書き、三島一氏に厚生社のこと相談、「おしゃべり」二十枚となる。

3月22日
7:31の汽車にて奈良まで保田順三郎、森本弟とゆく。同年兵なるもふしぎ。京都へ着き、弘文堂へゆきしも細川君不在。明日再訪を約し、羽田にゆく。昼飯食ひ17:00下総町。 宮川「諸葛孔明(25)」内田「日本国民生活の発達(20)」買ふ。

3月23日
小雨。大と出て今出川まで歩く。靴500にて入りさうなり。
彙文堂にゆき佐野学二冊と蘇詩補注(20)買ひ、タバコ買ひ、東方文化にゆく。駒正明([北]川正明)あり。三月末限り帰京と。夫人弁当もち来らる。天津の知合なり。 東京にては五反田の佐藤誠のあとへ入ると。
弘文堂に電話せしに来り、蘇東坡とマルチニと諾す。藤枝と出て学生書房へゆき「大陸遠望」と「神軍」と買ふ(15円づつ)。梅棹君と今西錦司博士に喫茶店で邂逅。 「大陸遠望」の「ツングース」と「神軍」の「テムジン」に梅棹君の植物学的批評痛かりし。丹波市に電車で17:00着。山中嬢に会ふ。
留守中、堀内民一氏来り「大和文学」にと文托せしと。大高「風車」より速達。

3月24日
曇。「おしゃべり」了る、26枚。「風車」に返事。終業式、依子、佳良賞もらふ。浅古の尾西史郎の祝もちゆきしも受取らず。
保田へ堀内民一の原稿もちゆき父君に托し、15:30の汽車にて丹波市。高橋君にゆき服部にゆく。及落会議とて帰らず。吉岡君にて夕食。22:00頃帰りし服部と話して眠る。落第60人と。

3月25日
10:30朝食。図書館にゆき「杜甫」の校正疲る267頁。佐藤長氏より「東洋史研究」「アジア史概説」の書評をと。疲れて帰る。(時報社にて露伴「運命」買ふ。)  堀内民一氏よりハガキ。東京、硲君に一切托せしと。

3月26日
日直とて7:00の汽車。校正やりしのみ。佐藤誠君来り話す。帰途養徳社に寄りしも無人。
小田嶽夫より「西太后」受取りしと。文明社より詩の受取。

3月27日
松本善海と佐藤長へ返事。丹波市二十四時ストとて校正送れず。汽車にて上田一雄と会ふ。きのふ保田に泊りしと。長谷川幸男氏も。保田、彦根にゆきて不在。 29日再会合と。
養徳社にゆき杜甫の校正やりつつ金貰ふ(26×150‐税)。
高橋君に寄り、タバコ頒け図書館にて1900貰ひ(時報社にて英和辞典買ふ。)、山中嬢、八木嬢と帰るみち、服部に会ひタバコ50頒け、二嬢と本屋みしのみ。
鈴木氏にゆけば不在。タバコ50預け、うねび、八木にて笠井君。爐書房「南蛮更紗」「アジア問題講座11」「シベリアの自然と文化」とにて100円。帰れば21:30。

3月28日(日)
家居。夕方銭湯にゆく。博多へ校正おくらす。

3月29日
吉岡君来り、昼食をともにし保田にゆく。不快にて帰れば八木君来合はす。妻不在。18:00の汽車まへに帰り来る。発熱す。けふ三島一氏あとの手紙返り来る。

3月30日
臥床。「身体呼称」書く。

3月31日
同。坂口允男君来り、ジャガ芋呉る。「呼称」終る。13枚。大、夜来る。靴もち来る。(600わたす)

4月1日
大、正午去る。「呼称」藤枝にもちゆき呉る。三島一氏へいま一度手紙送る。二児始業式。中西先生退職と。桜咲く、しるこ食ふ。

4月2日
雨。北海道の中野博元よりハガキ。蘇東坡の旧稿看る。

4月3日
神武天皇祭。丹波市にゆく。雨。養徳社休み。散髪し八木家にゆき小豆二合差上ぐ。鈴木氏にゆき昼飯賜はる。郡山城址を見る。橿原にゆき神武御陵参拝。帰りて夕食後、 三輪の森本佐一を訪ね、話きく。中々良心的なり。宮田民雄君近日来訪と。けふ木下にて加藤先生「中国経済史の開拓」と「帰化動物」買ふ。

4月4日(日)
日直とて出勤。雨のため高橋君により傘借る。しることおはぎと賜ふ。齋藤忠「上代に於る大陸文化の影響」買ふ。杉村一よりハガキ。浪中の教子なり。

4月5日
出勤。「東洋語研究3」「和泉式部」買ふ。遡及分1920もらふ。養徳社にゆき服部によりしも留守。板倉鞆音より手紙。5000円位、独乙語の教師兼任をと。拒ることとせん。

4月6日
出勤の途、服部にゆき豊橋のこと云へば彼行くと。
デージー二株(30)買ひ、靴の半皮つけさし(352)て出勤。昼、デージー植う。帰途、服部来り履歴書受取り速達す。けふ田中甚●平来り、ざこ呉る。 服部独語にでも入れんと。阿郷書記長、組合にての仙田氏の不評云ふ。外語校長、堀越儀郎、教頭、女専校長たりし文教部長奥村と。 帰って歓迎会用の酒のことにて悠紀子岡本家にゆかしめしに五日程後なら750と。大毎にハイネ詩鈔の広告のり、定価100円となりゐしと。

4月7日
出勤せんとせしにカラー見付からず9:08の汽車にてゆく。三興出版部来り、挿絵の刷見す。保田のため故意におくらされし様子。すでに十部申込あり。他はなしと。帰り16時。
あけび咲くつつみをゆきてひとえだををりてわたせしをとめの子にや
服部にゆきしに不在。吉岡君にて夕食。服部に泊る。

4月8日
出勤。眠し。図書館法より資格審査なしとなりし。原案見る。前川氏の友にて天津よりの引揚岩田熊三氏を紹介される。服部に信書く。帰れば吉田ふじ子、厚生社、 堀内民一より手紙。父、芳野正よりハガキ。

4月9日
出勤前鈴木氏に寄る。昼、東方文化の連中来る。われ名を知らず顔知らぬ人ばかり。乗鞍山にて新入者歓迎会、われは甘党。服部にゆけば不在。夫人に前川氏の件たのみて帰る。 生駒藤雄氏追放。

4月10日
出勤。山中嬢と帰途文学堂にてエスカラ「支那」(35)、神谷「短篇小説(※支那短篇小説萃選)」(15)買ふ。平端まで井上嬢とゆき、京大止めて二階堂の新制中学教師となりしと、意外。
桃うつくしとながむるをとめうつくしとおのおのみればかすむやまやま
八木の笠井君訪ねティートフ返し「爐」にゆきて話して帰る。

4月11日(日)
午前中、坂口君に行き父君に将棋一番、勝つ。はじめてなり。帰れば硲君来をり桑原「考史遊記」、矢野「アロー戦記」「アヘン戦争」と東京よりの写真帖といけ呉る。 昼食、しるこ。「アジア問題講座11」贈る。
羽田、松本(18日頃上洛と)。文明社より退職「現代人」に「南」をと田宮虎彦。
板倉鞆音よりは服部よからん、われは議会図書館へゆかずやと。父、芳野正、田宮、吉田へハガキ。

4月12日
服部にゆききけば甚幸150点ありしと。ともに出て彼は幼稚園にゆき我は図書館。昼、三興来り、四五十頁分追加せよと(二十日までに)。
畑にゆきしのち仙田氏に図書館組合のこと云ひ、明日会すと決り、養徳社へゆけば日野月先生あり。浜田青陵「百済観音」二冊と「青木繁」とを買ひ、 原稿用紙もらひて帰るみち高橋氏により本渡せしため16:00にのり遅れ、17:21で帰る。
けふ山崎君一斗五升の米買ふといふ。

4月13日
出勤。図書館法のこと資格審査解決とわかり気ぬけす。よべ眠り足らず、眠し。羽田と板倉氏へハガキ。昼、ビブリアのこと、学芸三月号受取「思痛記」買ふ。

4月14日
出勤。ハイネ訳しゐたり。帰りの汽車にて養徳社の松井君とともになり傘忘失す。吉田氏よりハガキ、ハイネ訳す。甚幸通りしと服部云ひくれしにより電報打つ。

4月15日
悠紀子朝寝。忙して飯食ひ行き大掃除。すみて組合報告。委員改選執行委員にわれ9票。山崎君6票、代議員荒川氏6、金井氏6(われ又6)。支部長をも兼ぬと。 ハイネちょっとやり、八木君と帰り、鈴木氏により、養徳社に寄る。あすサラリー呉るとて無心せず。

4月16日
出勤。山中嬢休む。ハイネ訳す。サラリー本日支給は山崎君の錯覚とわかり落胆。けちなところなり。

4月17日
出勤。ハイネけふもやる。明日教祖誕生祭とて出勤せよと。
服部へと前川老よりお礼托さる。もちゆく途中服部に会ひ養徳社へゆき、ついでアパートへゆく。ダンスみなやりをると。可笑。
16:00の汽車にのりおくれ駅にて八木嬢に会へば金貸しくるるつもりなりし。高橋君にゆく。「東洋のデカメロン」といふが聊斎の訳としてまたありし。

4月18日(日)
家居。善海より電報、明朝羽田へと。羽田よりハガキ。向ふより来ると。入湯。ハイネ終る。

4月19日
代休日と也。6:50の汽車にて奈良−油阪−京都へ9:00、着けば市電ゼネスト、止むを得ず羽田まで歩けば登●、待ちゐれば善海もあらはれ(11:30)昼食して待ちゐれば羽田帰り、 いろいろ話す。村上正二結核と。東京の省線の混雑甚しと。
夕食いただき19:00出て大宮通りを南下、二条城につき当りてわかれ、三條に出ればやっと奈良近鉄の最終に間にあひし。
けふ今出川にて佐野学二冊と青木正児「抱樽酒話」とを買ひし。三島一氏よりハガキ。友達の鈴木●郎その他やめしため不快にて厚生社と手を切らん、君直接交渉せよと。

4月20日
出勤。俸給もらふ。5100円より税金960引かれ何のことなし。14:00より執行委員会。中座して帰る。育生社より手紙、三島氏縁切りしと。

4月21日
出勤。午前中のみにて午後いちれつ会と語専の創主記念会。すみて真柱の披露と。
文学堂にて矢野「ロシヤの東方政策(35)」買ひ、吉田嬢に「小島の春」買ひ、養徳社にて服部の「美しき魂」貰ひ、電車にて帰る。
芳野清より手紙、正君発狂せしと。

4月22日
育生社と吉田不二子氏にハガキ。育生社には「唐宋の詩人」拒絶せしなり。鈴木氏に寄り9:00出勤。三島一氏へハガキ。進駐軍来るとかにて16:00までゐのこる。 酒井先生に会ふ。帰丹の途なり。万年筆(110)、藤岡大英和(200)買ふ。

4月23日
鈴木氏に寄る。おくれてゆき作業手伝はず。高楠順次郎氏の本と。帰途「労働基準法」買ふ。東方学会員に推薦すと。田中きわ氏よりハガキの礼状。吉野清君にハガキ。

4月24日
出勤の途、鈴木氏に米二升もちゆく。神田先生ひるまへ来られ、ビブリアの相談。終りておもてなしせずして別る。お気の毒なり。高橋君、養徳社によりて帰る。

4月25日(日)
「アジア史概説」の批評書き出したれど成らず。ことわり状かき米田君に托しにゆく。
保田にゆきしに鳥見山へ子供つれてゆきしと。田宮虎彦よりハガキ。柏井尚子より女児惠と命名と(3月26日誕生)。

4月26日
出勤の途、鈴木氏にゆき養徳社にゆき1000もらひ本代払ふ。不快。登館。明日より館長上京と。外語にゆき服部と会ひダンス熱きく。服部委員長と話し、 帰りて昼食。富松いく子嬢と帰る。
大化歴史文庫3冊(73)、メガネのつる(80)、千草盗棒にあひ着物おほむね盗られしと、哀れ。
昭森社よりノヴァーリス「青い花」出したしと。

4月27日
出勤の途、散髪(40)。山中嬢に会ふ。10:30より執行委員会のため館員召集。杉浦来る。話しつつ女学校にゆく。教頭石崎氏は昭和8年国史卒と。 執行委員会長くなり鈴木氏に寄り夕食賜はる。帰途、松岡静雄「記紀論究」(25)買ひ、電車にて帰る。
悠紀子吐瀉。(庄野君養徳社学務ときまりしと。酒井先生、中田女史をやめ荒井女史に求婚せんと)

4月28日
9:00の汽車にて奈良三興へゆく。追加とりやめ写真四片増し、書なるべくよくし5月20日頃出さんと。4日校正とりに来り追加7500●たさんと。
館へ12:00にゆき(弁当まんぢう六ケ)、16:00退去。喫茶。服部来り「言語研究と文化史」呉る。帰れば悠紀子軽快。赤インク買ひハイネ校正すます。

4月29日
天長節。子ら式にゆく。八木、山中二嬢来る。二女をつれ五人にて鳥見山にゆく。吉田嬢によせ書。駅まで15:30の汽車に送りゆき保田の次弟、妹婿夫婦に会ひ、 みちにて養徳社の上田弥之助氏に会ひ、坂口允男に会ふ。坂口君と保田にゆき三興のこと云ふ。吉田、硲君よりハガキ。

4月30日
大掃除のため出勤。すみて組合の話。養徳社にゆきビブリアのこと、小牧、中村君の相談。滝井氏、時報社へ移ると。庄野氏専務に任じられ泣きしと。
ふたりして歩きゐしとき道にあひ われらみゐしひとを忘れじ。(某女の曰く)
畝傍のみほどは男性らしく思はれて落胆。

5月1日
出勤。坂口允男君を案内、クリスチナ・ロゼッティ研究発表のためと。12:00辻文教部長と会見。前の奥村よりきつしと。岡本久長課長とともに不快。 委員みな温和なり。鈴木氏にゆきしに不在。小幡君を訪ね、「イングリッシュ・ブレンド」もらひて帰る。
善海。「現代人」より。史学会大会は五月になしと。和田先生なほられしと。
硲君、昭森社にハガキ書く。昭森社へは「青い花」諾、「ザイスの子弟」はいかにと。

5月2日(日)
家居。昼寝。午後保田にゆけば奈良へ子供つれて遊びにゆきしと。順三郎氏と将棋す。松本善海へハガキ。

5月3日
新憲法発布とて休み。昨日よりサンマータイム、9:08の汽車にやっと間に合せ丹波市。庄野専務を訪ね、お祝ひのべ、大和文学やらぬかといはれ、 保田のことわりも云ひ、鈴木氏にやらせよと云ふ。東方史論叢は引きつづき出すと。クレオパトラ双書にて出すと。
アパートにゆき服部、金井。吉岡、中村孝志と歴訪、中村君によれば語専新校長堀越氏、宗教の自由ときしと。17:21帰る、雨。
夜、保田順三郎君来訪、安倍村の空家のこと調べてより栢木氏に云ひやらんと。弓子変調。

5月4日
サンマータイム出勤。6:54にのりゆけば新聞85銭になりてをりし。組合の報告せしかど手ごたへなし。午後組合に出て土曜の顔見せにつき相談。呆然。 邦正美舞踊会のこと責任負はさる。(三興来り校正もちゆく。金渡さず。いつ呉るかも不明、呆然。) 弓子発熱、はしかかと。

5月5日
9:08出勤。館長腎盂炎を押して出勤。五月分十三日支給と。午後作業、[団]体協約吾郷氏と改訂案。養徳社に外山軍治氏伝言もちゆく。
「大和文学」鈴木氏ときまりし模様。八木君駅に弓子へとりおひもちくる。
わがさがはかなしきさだめひとみなにあはれまれつつ老いゆくらしも
子ら明日遠足と喜ぶ。

5月6日
6:54の汽車にのりおくれ9:08まで待てず電車にてゆく。10:30より組合の報告す。反響なし。文化部長辞任のこと吾郷書記長にたのむ。
けふ電車にて井上女史と会ひ、吉田女史父君図書館に勤めたしと希望せるとなり。
吉川幸次郎「唐代の詩と散文」買ふ。いやらし。
わがをとめわれにすがりて生くるごとありと思ふ日思はざる日々。
帰途高橋君による。汽車にて養徳社松井君と会ふ。わがこひうたほむ。
けふ史、宇治へ。依子あやめヶ池へ遠足。

5月7日
9:08にて奈良三興社にゆき浅田部長より5000もらふ。(服部に1000、高橋君に100貸し、悠紀子に3500わたす)。汽車にて志野氏に会ひ、共同出資のこと云はれしも拒む。 奈良教組弱体と。谷川にゆきしに9:00−19:00まで出勤と。新村「外来語の話」(50)、「きりしたん大名(ラウレス)」、 「鐘の話」買ふ。八木君に林檎もちゆきしも山中嬢あらず、すぐ帰る。
火曜協約改定の会のとりきめす。中島駒次郎氏に会ひし(正午)。服部来り、靴(750)買はぬかと、頼みおく。富永その他幹部のかげ口ききて不快。 昭森社より「青い花」のこと「ザイスの学徒」のこと。

5月8日
出勤の途、坂口君とゆき、聞けば前に来し岸咸南知事夫人は従姉と。別れて小幡君に片栗粉もちゆき登館。館長変なり。文教部長との会見、金井君にたのみ、 出て服部執行委員長に文化部長辞任申出、小名子氏に会ひて承諾せしめ、天理時報社に瀧井氏訪ねて酒井先生の手紙(けさ貰ふ)見せて善処たのみ、電車にのれば知人多くあり。 やむなく西ノ京の佐藤誠君新居にゆきて宗教問題につき話し、(けふ薬師寺の花祭)、電車にのれば●嬢あり、ふしぎなることかな。 帰りて保田にゆき家のことだめなりしを云ふ。父君ともども共産党と認められ[ざ]れといふ、ふしぎなることかな。

5月9日(日)
板倉氏より手紙。独英語教授にと。家なしと。相野よりハガキ。13:00家を出て服部に知らせにゆきしに酒井先生来り、(※見合の為の?)写真とられゐる。 匆々辞去。16:14の汽車にて帰来。
けふ金井君にきけば昨日の文教部会見よかりしと。オプティミストとペシミストか。

5月10日
出勤の途次、鈴木氏により酒井先生「大和文学」の話。同氏も優柔不断なるにいらいらす。
登館、山崎君にきけば文教部会談よくもなしと。服部来り、愛大行に夫人反対と。十八日頃ゆくと。16:14にて帰宅。芳野清よりハガキ。昭森社森谷均、相野、外山軍治へハガキ。

5月11日
出勤。10:00より団体協約改定委員会。宗教教育を入れよといふ。12:30すみてすぐ執行委員会(吉岡君来り[ゐ]しを慰む)。三興の雑誌捌けてうなり。 16:00山中嬢と出て別れ、高橋氏にゆき燈籠を起し、夕食よばれ20:28天理を出しも八木にて名張行にのり名張までゆき駅長に証明をもらひて帰る(22:30)。 愛大より服部に電報、家みつかりしと。

5月12日
出勤の途中服部にゆく。けふ豊橋へゆくと。10:30より組合報告。団体協約改定案の起案。
谷川新之輔よりハガキ。帰りて本日貰ひしサラリー(3900)より3500かかあに渡す。留守中父来りしと、みじめなる姿せしと。かやの木君来り、家のこと心配しくれると。 (柳田國男「神道と民俗学」50)。

5月13日
出勤。三興岡部君来り、天中長田氏と浪中山本重武に紹介状書く。改訂案書き了る。帰り前川老幼孫のおくやみにゆく。
をとめたちみたりそろひてかたるへやひとりおもへるわれがこころぞ
けふ山崎に聞けば、吉田君父君より履歴書はやく来ありしと。

5月14日
よべ少眠。9:08にてゆき外語にゆけば酒井先生、日大より話ありしと。三十日見会ひと。服部愛大へゆきしも駄目と。帰りて改訂案の原紙山崎八木君にやらし、眠し。
中島栄次郎夫人来り、大毎の井上氏より本出さんといひ来りしと。ニーチェの書きぬきを見す。
外山軍治、吉田不二子氏より手紙。山崎君よりズック靴250で買ふ。帰れば米田君来る。宮田民雄よりハガキ。

5月15日
出勤。大掃除。すみて館長の説教、バカらし。奈良へゆきセンチメンタル・ジャーニー見る。わが映画見るは何年目ぞ。帰り三輪の森本佐一に会ふ。昭森社よりハガキ。

5月16日(日)
雨、無為。保田の小坊主来し、史さんぱつにとゆきしがため也、のちほど二分刈にして帰る。

5月17日
出勤の途、鈴木氏により酒井先生のこと自らに担任し大和文学のこといへば激昂、不快。あとで仲直りを申し込まれたれどごまかしいやなり。弱き人か。
登館、団体協約改定案刷り、午後諸氏にはかる。宗教教育に反対となりしは意外。けふ八木嬢発熱とて欠勤。帰り「東光」(狩野君山先生追悼号)、「英語の歌」買ふ。

5月18日
「英語の歌」八木君に見舞にもちゆく。父母帰りしと。語専に東方文化の波多野氏来りしに会ふ。執行委員会にゆき、最後に団体協約改訂案、宗教教育を消すと。 服部にゆき金井君にゆき労働組合の講演駄目を云ふ。酒井先生見合の相手をつれて来られしに逃げる。中島●次郎氏に会ふ。

5月19日
出勤。山崎君と荒川氏と事務つれかはりと。けふ不快憂鬱、あすより上洛せんと思ふ。帰り米田清治君に寄る。帰りて早寝。

5月20日
出勤。電車ストやみしと。帰り山中氏と八木氏を見舞ふ。耳下腺炎なり。

5月21日
9:08の汽車にて京都行。11:34着。東方文化にゆきしに藤枝帰宅。大学にゆき佐藤長君に会へば「アジア史概説」の書評たのむと。東方文化に引返し藤枝に会ふ。 「杜甫」を博多出したしと。石浜先生10篇集まりしと。鈴木治氏のこと話し、外山氏にゆきモースの「太平天国」につき養徳社への伝言きき、「東光4」買ひ、 羽田へゆけば大学へゆきしと。野田又夫を新宅に訪ねしに結核らしく病臥と。天理のこと常識にてやむなからんと。羽田にゆき夕食。二十九日より史学会にゆかぬかと。 天理のこと問ひてみん。来年より京大へ来よと。下総町にゆき父母と話す。

5月22日
雨。藤枝へ傘もちゆく。鈴木氏の話「座右宝」のせしと。羽倉哲吉、濱野院三に会はんとせしもやめ、西の京の佐藤誠氏によりしに帰らず、服部にゆけば大学の会と。 夫人と話して帰る。外山氏より手紙。

5月23日(日)
晴。昼まで眠り、午後保田へゆき二弟と将棋。富永の手紙橋本もち来り、二十六日大和文学の会と。栢木君来りしゆゑ、家の礼いふ。保田、長谷より子をつれて帰る。 会のこと云ひ夕食をことはりて帰れば21:00。けふ硲君へ速達。マルチンマルチュ三田村君やり養徳社より出すとのこと。羽田の手紙、吉田氏のハガキ来る。

5月24日
出勤まへ鈴木氏に寄り京のこといふ。登館、ノヴァーリスやりそむ。李朝実録、佐藤誠君、京大言語学の川上君らを案内し来る。帰してより宗教教育の話。 快漢なれど頼りなきは何故ならん。図書館員に資格審査必要となりしと。15:30養徳社にゆき保田の追放とあはせて大和文学のこと森会計部長にいひ、中山正善後輩らしくなしといひしと。 庄野氏に外山氏のこといふ。杉浦よりハガキ。

5月25日
出勤。柴田よりひやかさる。11:00より執行委員会。天理教の悪口いへざるをみないふ。すみて館にかへり、服部にゆかんとせしがとり止む。帰りて保田にゆき明日のこと云ふ。 弟君にきけば追放となりしと。亀井もと。

5月26日
館長奈良へ社会教育にゆきしがわれ登館、13:00出て靴直し、養徳社へゆく。不快。前川、吉村、保田、16:00まへそろひ玄[閣]にて大和文学の会。 雑誌は養徳社まかせとなる。21:00帰宅。(けふ服部に1000借りし)。

5月27日
出勤。三興の子供、印紙もち来る。山本重武君より手紙。加賀山結婚せしと。文化会のことにて吾郷氏の許へ金井君つれゆく。檪本へゆき中島夫人に野田又夫へゆくべしといふ。 けふ偶然にも中島の戦死の日とて読経。夫人と二人にてききし。

5月28日
疲れて9:08に乗る。養徳社上田君来りて外山君のこといへば明答せよといふ。酒井先生来られしかばウォルデンのことまたいふ。養徳社日なり。ビブリカの広告状の宛名書く。 木村君われに(※女史らとの交友について?)直言す。帰途高橋君来よといひ、ゆけば豌豆呉る。
しこ名(※醜名)立ちわれはよけれどをとめらのゆくすゑおもふこのこころゆゑ
米田君来る。

5月29日
出勤。ビブリアの封筒書き了る。午後奈良へゆき三興にゆき浅田君に会ふ。支那小説をやりくれ、バルザックの「風流滑稽譚」の如きをと。帰り八木にゆき辻君に会ふ。 米田君の目方にて売りし平野「民族政治学の理論」もらふ。高木惣吉「終戦覚書」。

5月30日(日)
昼ね。午後、坂口君にgolden treasury返しにゆく。留守。帰れば硲君来る。恋愛解消せしと。八日(火)来ると。送り出して保田にゆけばみな留守。

5月31日
出勤。大掃除。すみて服部に会ひ借金のことわり云ふ。畝傍、八木の笠井君にゆけば不在。耳梨まで歩きて乗車。夜、米田君。けさ豌豆もぐ。二合半。

6月1日
出勤。10:00神田先生大谷大学の見学団をつれて来らる。中田勇次郎君あり。案内し、神田先生とビブリアの話。
昼すぎ語専にゆき佐藤君と話し、執行委員会(けふ凸凹の二級上り五ヶ月分と時間外手当とにて2202もらふ)。亀井昇よりハガキ。

6月2日
出勤。団体協約刷らさる。雨。養徳社により●の氏に酒井先生のウォルデンのこといふ。

6月3日
6:54の汽車にて京終へゆき木辻遊廓を通りぬけ谷川を訪ひ、次いで三興にゆく。稿料の中いくらかでも近日中にくれよといふ。新生(20円)を買ふ。帰りて協約を刷り、 執務規定の会。すみて養徳社。帰ればかかあどの米なしと。森本君を訪ねしに留守。坂口允男君を訪ねて話す。

6月4日
10:00出勤。ひる豌豆そら豆採り大豆蒔く。杉浦、亀井昇、昭森社へハガキ。午後団体協約のことで組合支部の会。帰り芝田義孝と。山中嬢とわれと怪しき由。

6月5日
出勤。六月分給料くり上支給のことで新井女史(※経理)不快。吾笑ふのみ。服部来り、養徳社ゲーテ再版2,000円もらひしと。畝傍にて万葉集巻十一よむ。 帰り笠井君によりしも帰らず。牧野径太郎より6月末までに詩一篇をと。
むぎみのる大和國原をとめ子とうたおもひゐるわれがさきはひ。

6月6日(日)
羽田と羽倉啓吉よりハガキ。時事通信に勤むと。午後麦刈りの手伝ひに保田の畑へゆく。

6月7日
出勤。三村啓吉、山本重武へハガキ。事なし。

6月8日
出勤(9:08の汽車)。午後執行委員会。五上位は不可能。三上位は無意味と判明。(※賃金の話)

6月9日
出勤。みな奈良の図書館講習にゆく。畑し大豆すこし蒔く。6月分給料先渡し、税金1400円には恐れ入る。芳野正よりハガキ。気犯へるふしあり。聊斎志異のこといふはふしぎ。 爐書房より感想をと。

6月10日
出勤。江幡清氏(大朝論説委員、昭和11年東大教育学出)正午来館。労組の話、資本攻勢はアメリカのさし金とて絶望的なり。

6月11日
出勤。昼、畑の玉葱とり終る。作業とてジャガ芋掘り、すみて組合の報告。

6月12日
出勤。午後養徳社へゆき服部へゆきしに京都へゆきて不在。(三興より貰ひし2500より1000服部夫人にかへす)。夫人結核初期らし。「美しき魂」3版出るらしと。 吉岡君と将棋して帰る。空梅雨にて暑し。

6月13日(日)
8:00の注文にて畝傍、藤井寺へ寄り、肥下にゆく。麦豊作なりしと。ジャガ芋とそら豆と賜りて帰る。藤井寺にて久美子の婿に会ふ。
木蔭にてきみとひもとく歌の本こひうたおおくしるしたりける。
いまさらに何をかいはむうちなびくこころよりにしこのひとときを。

吉田ふじ子君より手紙。

※〈六月十三日 午后三時田中克己来ル。午后七時カヘル。〉 肥下恒夫日記:『悲傷の追想』澤村修治著2012 90p

6月14日
出勤。事なし。夕方久しぶりに雨。

6月15日
出勤。大掃除。ビブリアの相談。吉田不二子へ山中、八木二嬢と手紙。午後文教部へゆき、就業規定受取り、代議員会にて団体協約。すめば19:00。山崎君にて夕食たまひ、帰れば22:20。

6月16日
京都行の用意して出勤。瀧井氏、吉岡君、服部に会ひ、ゆきて就業規則委員会の手筈し、奈女高師の生徒の案内し、団体協約すりてゐる中、服部現はれ、 愛大ゆきを決定、奥村教頭にいふと。ふしぎ。
吉岡君に引ずられてアパートにゆき夕食。服部と将棋さし、心境きけどわからず。憂鬱。(※中山)正善は考慮させよといひしと。24:00就寝。

6月17日
8:00起き、9:08の電車にて吉岡君と上洛。三高へゆきしに羽田あらず。東洋史研究室にてとらへ、法科へゆきしもだめ、三人にて田村博士を問ひ東方史論叢の相談。 すみてまた法科へゆき磯村助教授にきけば悪口いふは不可と。
羽田邸へゆき夕食よばれ、下総町へゆき30借りて帰る。大、中学をやめて印刷をやると。最終電車にて帰宅。

6月18日
参議院補欠選挙。ゆかず。9:08の汽車にてゆき、就業規則を富永らとやる。三田村氏の満文金瓶梅のこといひしに四千円ならばと。羽田へハガキ書く。
帰り高橋氏に寄り、外語の独乙語講師となれといふ。帰り養徳社の松井氏と会ひ、きけば羽田先生の還暦記念論叢を印刷にまはせし様子なしと。

6月19日
出勤。午後服務規定委員会。小高根太郎、和田先生へ照会をと。杉浦よりハガキ。不二6月号。終日雨。

6月20日(日)
日直出勤。雨。萬葉集よむ、たへがたし。昼、大町文衛氏、庄野氏らと来る。本草の部、見す。小高根太郎を和田先生へ紹介す、東洋文庫へゆきたしと也。 この間より評判となりゐし太宰治の死体発見と。享年四十才、やはり悲し。
つま子すて梅雨ににごれる上水にしづみし友をかなしとはいふ。

6月21日
出勤。「和泉式部」八木君に与ふ。前田直典にハガキ。
けふ育友会より1800もらふ。「就業規則」と「菎崙の玉」と買ふ。帰り金井君、われと山中嬢にアイスキャンデーおごり呉る。帰ればひるすぎ服部夫人来りしと。 服部の父母(※愛大転職を)大喜びと。

6月22日
出勤。昼休み大豆まく。午後図書館で執行委員会。25ベースの三上位丸のみにて図書館もめる。その後就業規則でももめる。帰り山崎君に夕飯御馳走となり、 電車にて帰る。

6月23日
出勤。昼休み、二嬢と大豆、小豆蒔く。馬鈴薯配給と。
けふ保田へゆきしとて吉岡君寄りしと。けふ矢野文庫にダッペル見出でうれし。

6月24日
9:00より文教部と就業規則。従業員側の態度、情なし。養徳社より26日大和文学の会と。新入者(佐藤、八木二氏)歓迎会。小牧建夫先生来られ、案内す。14:30出て高橋君にゆく。
(けふ服部来り、愛大東洋史へ来よと)。帰りに養徳社へ寄る。夜、米田君来り話す。

6月25日
出勤。暑し。帰り養徳社へゆき吉岡君に明日の会のことわり云ひしにきかず。
けふ出勤の途、桜井大教会長。教授会にて天理教と共産主義とに●なきを云ふはれて閉口せしと。
芳野清、末吉よりハガキ。

6月26日
午前雨。午後古今集と吉井勇よみてのち養徳社にゆく。保田、前川、吉村そろひしは四時すぎ。大和文学の会に座談会。 夕食後高橋君にゆくつもりなりしも今村嬢送りてゆきしは23:00。服部にゆけば豊橋にゆけりと。24:30隣室にねさしてもらふ。

6月27日(日)
9:00ごろ起き朝食し、11:00高橋君にゆく。保田つれ来よと。電話して和楽館にゆき15:00まで居り、管長宅にゆき挨拶後、養徳社に寄る。 帰れば羽田より三田村「満文金瓶梅」のこと承諾と。

6月28日
9:08にて出勤。館長に三田村氏のこと云へばもち来るべしと。羽田に速達書く。小高根太郎より和田先生に会ひしに東洋文庫はすすめられず中野好夫に紹介すと云はれ、 田宮覚悟と(※不詳)。
斎田昭吉より高橋君の同人諾と。東洋史研究10ノ2(15.30)。清水幾多郎来るに会ふ。高雄以来6年目なり。けふ文教部と会見。山崎君に任せて帰る。 保田に寄る。

6月29日
出勤。9:00より服務規定のため文教部にゆく。正午経り、午後は執行委員会。三上位きかれざりしとて返上せしむ。昨日の地震は福井と。 保田に日まはりメキシコ●産なること云ひにゆきしに不在。

6月30日
昨日の文教部との相談にて図書館みな三上位と。大掃除し、八木君の妹信子嬢の宿題の相談。すみて奈良へゆかんとせしも果さず。図書館講習聞きしに眠し。明日より汽車時間変更。

7月1日
けふより6:40の汽車にてゆく。9:00より文教部にて団体協約。辻部長私立学校と天理教の特殊性強調、不快なり。13:00館へ帰る。
けふ朝三興よりハイネ(※『ハイネ詩抄』)14冊来る。三四日前に出来しと。高橋、中村、八木、山中、富永、管長、庄野、図書館に一冊づつ。硲君よりハガキ。 養徳社によれば聊斎の再校。鈴木氏へ寄る。砂糖返却さる。

7月2日
よべ辻部長しゃくに障りて眠り少し。登館後、執行委員改選を説く。館でダンスけい古はじまる。二嬢と帰り、八木にゆき辻君に会ひ、ハイネ一冊置く。 あつくだるし。前田直典よりハガキ。聊斎校了。

7月3日
登館、神田先生来られて夏期大学の講演、調子低かりし。ビブリアの相談。ダンスことはりて退館。山中、八木二嬢と外人部隊見んとせしかどだめ。氷水のみ、 電車にのり平端二階堂まで歩く。服部にゆけば不在。送別会と。夫人に(※われも)豊橋ゆきのこと云ふ。18:29の汽車にて帰る。吉田君よりするめ二十、小豆一升。

7月4日(日)
朝寝だめ。ひるねす。午後岡本姉妹来る。ハイネ与ふ。
保田にゆく。「おまへは目的なきゆゑだめ、天理にゐよ。」と。羽田よりハガキ。三田村氏、地震のため帰郷らし。

7月5日
出勤。荒川氏、駅にまち伏せ、就業規則の捺印にて土曜困りしと。書きてすむ。昼にて退出。12:40の奈良行にのり、三興へゆき2000もらふ。 喫茶、湖南「新支那論(30)」買ひ、健礼門院右京太夫集与へ、ハイネ5冊もらひしを坪井と谷川にもちゆき、18:15京終より乗りて帰る。小高根二郎豊橋へ来よと。

7月6日
出勤。野間光辰氏に会ふ。10年目なり。また少年しぶくなったねと。午後執行委員会。図書館の委員改選を云ふ、みな駭然たり。
16:30服部へゆき豊橋のこといふ。二十日すぎともにゆかんと約す。帰れば羽田より電報、八日三田村氏と来ると。
けふ富松嬢に10円借りし礼とでハイネ。夕方来りし米田君にも一冊。

7月7日
出勤。事なし。委員改選やらんとせしも欠席多くてだめ。午後図書館講習。暑かりし。

大和文學第二集1948.07

7月8日
出勤。10:30より委員改選。中村、木村二氏当選。羽田、三田村氏と満文金瓶梅もち来る。図書館を案内し、養徳社へゆき、亀井「現代人の遍歴」とシラーもらひし。 二氏を送りて西ノ京までゆき、佐藤氏に寄り、東京でのことたのむ。帰り丹波市18:29に間に合ひし。(大和文学第二号出来)

7月9日
出勤。汽車におくれ電車にてゆく。中村、木村二氏に引きつぎ。12:50にて八木、山中二嬢をつれ帰り、しるこ食はしむ。15:00の汽車にて帰りしに(※悠紀子夫人)不機嫌となる。 三興より検閲のこと。

7月10日
新井女史より1000借る。二嬢と映画、16:00帰る。夜、米田君友達つれて来る。

7月11日(日)
よべ弓子発熱、心配して夜半診察のためゆきしが中途にて引返す。朝やや良し。午後東京より電報。柏井母脳溢血にて意識不明と。 ゆき子藤本氏に1000借り志野より400もらひて明日ゆくこととす。保田にゆきて帰れば三弟来り、信仰自由のこと、兄の天理との関係など話す。

7月12日
あさ雨。悠紀子出発の仕度す。7:00ともに家を出、7:40名張行にのる。西窪氏にジャガ芋もちゆく。図書館にゆき支那地志やり、 富永氏に電話して休暇ふりかはりと給料先払ひ了解。12:50にて帰り、ジャガ芋煮く。八木嬢来り、片付け呉る。服部家に泊る。

7月13日
出勤。東亜研究所の地誌を山崎君とやる。昼飯に八木さん卵賜ふ。会計より4000先払うけ、午後執行委員会。中村木村二新委員の紹介すみ、 中村君の硬論通りて弱音をいはぬこととす。15:00より文教部と団体協約の読合せ。大分うまくゆきし。服部家にて送別会、ゆき子より電報、「ハハオナジアトデンマツ」と来る。 吉岡、喜田二氏と食うべてのち吉岡家に泊る。

7月14日
9:00服部家を出、タバコ買ひしのち奈良へゆけば12:00。三興にゆきしに浅田君上京。ハイネまた3冊もらひ届る為まかし、前川氏を訪へば旅行中、 富くじ三本ひきてみな菓子。千円当る男を見たり。13:37にて関西本線名古屋行にのり、(奈良の古本屋で石原の乞師(※『明末清初日本乞師の研究』)買ふ。60.00)
16:19着。16:30の東京行にのりしも豊橋で下車、板倉氏を訪ふ。まへに一度会ひしと。藤井(※宏)の後任きまりしと。月給8月分までしかなしと。 服部気の毒なり。23:17の準急にのり、立ち通しにて寝られず。

7月15日
朝5:00東京着。柏井家に入る。母不定●ながらものいひ、倒れし時ビンにて頭より出血せしため経過やや良きらし。数男一家も来たり。昼寝して船越章に会ふ。 糖尿と結核なりと。川久保にゆけば在宅。夫人カリエスにて秋田に病臥と。雨の中帰る。お賀代さん来る。

7月16日
朝、角川へゆきしに不在。帰りて12:00、ゆき子弓子と、お幸伯母見舞にゆき、すきやき賜ふ。喘息にて苦しまれしと。出て山本書店に寄れば主人不在。 岩村忍来ると。本高し。昭森社にゆき森谷氏に会ふ。ノヴァーリス出すと。「ザイスの学徒」8月末までにと。「青い花」最終にすと。河出にゆき杉森久英に会ふ。 何か東洋文化につき書けよと。荒正人らの一派に邂ふ。「いもの話」の原稿返却を受け、和田先生をお訪ねせしに田舎へゆかれしと。神田信夫君と話す。 (※愛大の)藤井宏の後任は鈴木中正と。適材適所か。
大雨となり傘とレーンコートと貸したまはる。小高根(※太郎)にゆきて24:00まで話す。共産党と同感の様。大雨やまず泊めてもらふ。

7月17日
小田急切符売らず。神田氏にレーンコートなど返し、玉川電車にて渋谷。帰りて昼寝。赤川氏にゆきしに雨。「鴎外論校(※不詳)」「三行詩」(100)買ひ、 桃よばれ傘借りて丸(※三郎)にゆきしに弁護士開業、西川(※英夫)土建屋にて勢よく、菊坂に家建てし。本宮、村長となりし。本位田広島、本位田兄、 成城高校へ田中をといひたると。帰りて角川にゆきしもかへらず。

7月18日(日)
数男、朝5:05にのる。赤川君来り、鴎外即興詩人等にて400。他は預りてもらふ。加藤俊彦君を訪ねしに下痢にて臥床、高師教授と。堀さん発熱、 富士川英郎と話せしためと。帰り角川氏に寄りしにまだ帰らず。午飯食ひ14:00頃ゆけば在家。書斎に本多くてうれし。ハイネ伝のこと、大和だよりのこと、などうけがふ。 16:00頃柏井家を出、妻子お幸伯母さんに寄らしめ飯田橋で待ち、18:00より21:25の臨時京都行をまちて乗る。坐れたれど眠れず。

7月19日
10:30京都着。ハイネ抄もちて高桐書院の濱野氏を訪ねしも不在。13:18の奈良行にのり15:00すぎ奈良着。三興にゆき浅田部長に会ふ。16: 30の汽車にのりて桜井着。西窪夫人に寄りて重き本入り包預け、桜井大教会へ帰着。影山氏より歌集二冊、羽田より阪大へ運動せざるや。吉田不二子、田宮虎彦、伊東静雄より来信。

7月20日
9:00の汽車にて図書館へゆく。途に高橋君に寄る。岳父母瀧本にありと。給料のこりありさうとて明日来よと。館長九州へゆきしと。帰りまた高橋君に寄り午飯たまふ。
服部にゆけば愛大より家見つかったすぐ赴任せよとの電報来しと。18:00の汽車にて帰る。車中、三興の埜中君に挨拶さる。夜、米田君来る。
(けふ上田一雄に会ひて大正天皇御集のこときく)

7月21日
9:00の汽車にてゆき俸給の残り2200もらふ。税金7円となりし。12:58にのらんとせしに高橋君に誘はれてあんころ御馳走となる。八木にゆき爐書房にゆき、 小高根二郎「チカの告白」(30)買ふ。笠井君また不在。夕立ちにたびたび会ひし。
わが愛づるをとめひとびとこの山の花のごとくにふれんとはせず。
八木でライター(100)買ひてうれし。

7月22日
9:08の汽車、保田の小坊と妹婿と同車。島国通訳応援しくると也。奈良にて我のみ三條までゆき高桐濱野氏久闊を叙し、ゲーテ恋愛詩集、諾せしむ。 コーヒーまんぢう御馳走となる。京大東洋史研究室に佐藤長氏に会ひ、東方文化に神田、貝塚、外山、藤枝諸氏。羽田にゆき阪大(※就職口利き)たのむ。23:00帰宅。野田よりハガキ。


昭和23年 7月23日〜昭和23年12月31日

20.4cm×14.2cm 横掛ノートに縦書き

昭和23年

7月23日
財布忘れて家を出、養徳社に寄る。図書館にゆけば山中嬢あらず。八木嬢に100円借用。
上田嘉俊来り、聊斎の挿絵さがせしも見当らず。ゲーテ借りる。八木嬢に「ザイスの学徒」清書たのむ。谷川よりハガキ。
養徳社にまたゆき「玄想」もらひ、吉岡、上田二君と喫茶。服部にゆきしに上洛。吉岡君と将棋さし100円借りて帰る。芳野清より手紙。

7月24日
12:00家を出、坂口君に寄り、13:30王寺行14:46にのりかへ柏原より道明寺、玉手山にゆく。大雷雨。
玉手ばこあけて見んとは思へどもあけてののちのくやしさを知る。
大江の叔母、けふ誕生日と。御馳走のわけ前に与る。田中家書類をわたし、写真帖預けたり。鹿熊猛の実りし「楊貴妃とクレオパトラ」(80)見付け、 叔母に譲る。久松潜一「契沖(※契沖の生涯)」(13)。肥下にゆき泊めよといへど肯はず。22:00電車にのり八木より歩きて帰る。

7月25日(日)
10:00保田家へゆく。與重郎上高家へゆきて不在。父君と話す。そーめんとパンとを賜ふ。インク買ふ(28)。夕方笠井信夫君来訪。石浜先生、藤沢桓夫への伝言托す。雨となり傘貸す。

7月26日
登館、ゲーテの詩を年代順に分類す。養徳社へゆけば京都大学印刷火災。「狐の詩情」の組版安否不明と。支那語発音辞典もらふ。 高橋君に寄り大毎に「美しき魂の告白」のこと書けるを見せらる。ハイネ詩集も売れると。帰り木村君と氷小豆を食ひ、服部へゆき話す。
けふ小高根太郎より愛大の問合せ。夜、米田君来る。小高根へハガキ書く。

7月27日
坂口君と同車。登館、三冊貸す。ゲーテ詩分類のタイプ打つ。けふ団体協約の会と。帰り松井君と同車。きけば大日本印刷の「狐」の校正無事と。

7月28日
9:00登館、八木君、史のシャツとハンケチと呉る。中村君の話にては非信者を白眼視すと、同感。ゲーテのタイプ打ち午後、図書館講習。 大阪府立図書館の三木正太郎追放となりしと。帰り高橋君に寄る。けふ上田一雄、山中嬢にに恩賜のタバコ托せし。帰って保田にゆき煙草わたし、 朝、森本次男に話せし家に巡査入ることとなりしを云ふ。(神田喜一郎先生のビブリア創刊の辞、預る。)

7月29日
12:03の汽車、12:58にて引返し三輪山に登らんとせしも禁止と。暑し。17:30帰宅。ゲーテの準備。夜、尾西家にハイネもちゆき兄君と話す。
三輪山の木の間に置きし扇をば母にことわるをとめがかなし。
いかづちの雲は名張の谷にゆきここはしづけしなどおづるきみ。

7月30日
9:10の汽車にて図書館。富永氏ビブリアの後記まちゐし、その場で書きてわたす。労働組合殆ど禁止の如くなるらし。帰り高橋君に寄り、 デュンツェルのゲーテ詩解借出し呉れしをもち帰る。養徳社による。
昨日けふ田中純子●子のハガキ来り、母(※義母)やや良きらし。

7月31日
9:10の汽車にて奈良へゆく。三興、亀井、前川にはすでに払いしと。漸く3000わたされ電車にて佐藤誠にゆき、そうめん食ひ、図書館。山中嬢日直。八木嬢もあり。
15:30出て散髪。(明日より50円とならんと)。三人にて氷小豆食ひ、服部にゆく。明日豊橋へゆくと。(けふ印度性●二冊198買ふ。)
帰れば硲君あり、夕食後イブン・バッ[トゥ]ータわたし送り出す。上田一雄へ歌五首。

8月1日(日)
弓子よべより下痢。西川英夫よりハガキ。夕方坂口允男にゆきしも来客。ゲーテ訳しはじむ。

8月2日
この頃毎日夕立。炊事を昨日けふとやる。夜、尾西家へゆき、馬鈴薯六貫(45×6)、岡山幸伯母よりハガキ。ゲーテ訳す。西川、浅田広治へハガキ。

8月3日
杉森へ「大和文学」(8.00)。赤川より手紙。『支那歴史大辞典』1500、『蒙露日大辞典』400、『明清闘記』100、バチェラー『アイヌ語』 380、その他400計2780。市手数料139。赤川手数料541と。
米田へゆきしに京都。保田まだ起きず。ゲーテ大分すすむ。
帰れば吉岡君来る。西瓜もち来り、座談会の校正もち来る。保田へ選り出し、13:30の汽車にのり、高田下車。近鉄にのりかへ國分、玉手山。石浜先生へ着きしは18:30頃、 夕食いただく。アジア・ポリグロッタをビブリアにかかるる由。
藤沢桓夫、神経痛とて会はず。笠井君より伝言すみし様子。
全田へゆけば22:00。泊れといはれ、きけば純子の結婚問題。恋愛と結婚とあやしげなことなり。相手は教師の同僚及び阪大生、二人とも一つ下の24才と。24:00すぎ就寝。

8月4日
9:00出で、大丸の江商にゆけば村田不在。市役所にゆけば筒井(※護郎)あり。15:00野上来る予定ゆゑ、いま一度来よと。日銀にゆけば鎌田「庶務課長、米買ひに日曜来る」と。 朝日へゆけば谷川「十一日来る」と。毎日の井上靖氏不在。
父の勤先の名、忘れ、大阪ビルにてさがしあぐむ。沢田直也、調停裁判所にありと。ゆけば休暇。大丸へゆき村田に会ふ。昭和十三年より十年ぶりか。頭禿げたり。 兄君三日前死せしと。満洲より妻子かへり信太山の奥に住むと。
村山高氏よび「高石へゆかん夕飯食はん」といへど拒み、市役所へゆけば野上あらず。600万円の脱税と。16:00ともに出て氷菓食ひ、大阪駅へゆく途中、忘物と走りて帰らず。
近鉄にて帰れば19:00。懐中3.00をあますのみ。「猫と鼡」「子規俳句」買ふ。「五万分一大阪東南部」買ふ(11.30)。

8月5日
9:10の汽車にてゆき養徳社、吉岡君不在。高橋君にゆき図書館にゆき5206円もらふ。八木君にパン買ひゆかしめ(5ケ50)、 佐藤誠君持参の羽田博士「西域文化史」(300)買ひ、出て氷小豆(3杯75)。
「夜の女たち」といふシネマ見て不快となり、山中嬢に上田一雄への300托し、八木嬢に怒って鈴木氏。馬鈴薯の伊語タルトゥフォロを引き、 夕立ちの中を6:29の汽車で帰る。小高根太郎より「本位田重美に紹介を」と。

8月6日
朝、小高根二郎よりハガキ。兄と文通なき様子。羽田よりハガキ。26日桑田氏に会ひ話せば貝塚、三上、須藤氏など推薦されしが未定と。
18:00家を出、父の家により羽田を訪ふ。三氏みな断りしと。和田先生の推薦必要につき頼むべしと。22:30辞去、父の許にゆく。

8月7日
9:00家を出、野田又夫を訪ね、「哲学入門」もらふ。15日にデカルト借りに来ると。藤枝を訪ね『東京夢華録』の輪講に列し『いもの話』わたし、 能田忠亮氏?より『南方草木』にサツマイモ見ゆと聞く。ジャバ原産らし。下総町へ帰り、昼食して丹波氏に出(65)、養徳社によりしのち帰宅。

8月8日(日)
米一斗用意せしが約束の鎌田来らず。午後佐藤誠君来り、18:00頃帰る。送りて保田にゆき夕食よばる。

8月9日
坪井明より服部送別会につきハガキ。12:03にて奈良へゆき、二万五千分一桜井と郡山と(※地図)買ひ、三興にゆきしに浅田君休暇。岡部君よりきけば田春雄博士となりしと。 子供うまれしと。ハイネまた二冊もらひ「くれなゐ」にわが詩「冬の夜」のりしと。●セントラルにて「ラヴ・レター」見て、 16:00の汽車にていちのもと(※檪本)中島家へゆきしにトルストイ論、井上氏(※井上靖)大阪の出版社にて断られしと。15日図書館に来て野田氏に会へといふ。 夕食よばれ米一升もらひて帰る。芝君に道にて逢ひ話きく。神経衰弱なり。
わが愛すをとめはあれどつひのこと考へあぐみせむすべしらず。

8月10日
9:00ゆき子京都へゆく。われ児三人と残る。13:30八木嬢「ザイスの学徒」の清書とタバコともち来る。16:00辞去。ゆき子18:00帰宅。母怒りゐしと。
けふゲーテの詩六七篇訳してうれし。
あたらしきこひのうたをばつくらんと古きゲーテのうたをよみゐつ。
このをとめロッテに似しやわれ知らずヴェルテルのごと若からぬわれ。

8月11日
9:10にて丹波市、石上神宮にゆき図書館で昼食。中村幸孝君を訪ね、高橋君に寄り養徳社。
服部にゆきしに不在。17日全家出発と。16:48で松井君と帰り、そーめん食はしむ。夜、八木嬢の写せし「ザイスの学徒」の漢字を仮名にす。
いそのかみふるへてすがるをとめゆゑこのさかしきも耐へむとはいふ。

8月12日
9:10にて服部、夫人疲労して不機嫌。「コギト」とり12:30奈良、谷川に15日の送別会伝へんとすれば不在。三興へゆけば15日より20日までの間に印税わたさんと。 坪井にゆけば在宅、15日の送別会のこと云ひて帰る。保田14日より津山へゆくと。夜、米田君来る。

8月13日
12:06にて丹波市。依子を八木家につれゆき、あき子女史にプールへつれて行ってもらふ。われ豆畑の草とり16:00連れ帰る。西瓜御馳走になり、まくわもらふ。
みづみづし瓜のごとくにをとめらがたかまるむねをわれは知らずも。

8月14日
ひるすぎ八木にゆき笠井君訪ねしも留守。辻君訪ねしも留守。笠井君に貸しし傘とりて帰る。小高根太郎を本位田重美に紹介する手紙書く。昭森社に「ザイスの学徒」送る(40)。
夜、保田家へゆく。お盆とてもちとそーめんと賜る。労働組合全く無駄となる法令出る。

8月15日(日)
9:10にゆき高橋君の向ひの八百屋にて西瓜2ケ(300)買ひ登館、鈴木治氏来る。
13:00服部、坪井来りしのみ、谷川来らず、野田又夫来ず。
鈴木氏にきけば「狐の詩情」11月と。服部、移転旅費くれしと。中島夫人来る(15:00)。
16:00散会。残り惜しく坪井を桜井に伴ふ。留守中、鎌田来り米五升もちゆきしと。19:00坪井帰る。
けふ上田一雄より手紙。芳野正、鎌田、硲のハガキ。

8月16日
日直、6:40の汽車にのりおくれ電車でゆく(25)。金沢庄三郎『アジア研究書目(※亞細亞研究に關する文献)』買ふ。中村君来り、館長来り。よべ野田又夫、神田力来りしと。
まもなく日野月先生とともに野田君来る。中島のこと養徳社へ伝言たのむ。佐藤誠君来る。
16:00退館。養徳社へゆけば野田君帰りしあと(桑原武夫上洛と)。『玄想』もらひて帰る。
わがのぞみ成らぬさだめと知りしころ野に咲く花の日にやくる夏。
けふ和田先生へ(※大阪大学への口利き)お願いの手紙す。

8月17日
9:10にてゆく。財布忘る。12:00出て養徳社にゆき松井君に100借る。
服部きのふ野田に会ひしと。中島への認識改めしと。可嗤。
八木へゆけば笠井君あらず、ハガキくれしと。田原本へゆけば原君あらず。帰れば夜、岡本姉妹来る。
近づきがたくわれをおそるといふきみにいきどほろしもへだておもはず。
いつはりのこころなくしてこのこころいふにつたなきわれがさがかも。

8月18日
荒川氏の日直代る。山中嬢来る。八木嬢に15:00よりあとまかす。三浦女史に本二冊かす。佐藤春夫先生藝術院会員となられし。夕方暑くて散歩。

8月19日
9:00の汽車。三興来しと。ややして再来、5000呉る。あとはまたと。芝田あす来ると。
山中嬢より葡萄酒御馳走となり、関学大の伊東嬢と話し、15:00出て養徳社にゆき、
歴談会速記の件にて鈴木治氏に不快となり、奈良へゆき陸地測量部の地図8枚(92.50)買ひ、石浜『浪華儒林伝(20)』、大町『南朝史伝(20)』、 『康煕帝伝(50)』、『善隣国宝記(20)』、『山の辺の道(30)』など買ひ、18:08の汽車にて帰る。
小高根、笠井よりハガキ。『東洋史研究』10の3。

8月20日
13:30にて芝田、沢田来る。退屈なることなり。夕方岡本家へゆき『世界歌謡集』贈る。

8月21日
12:06にて奈良。外山『岳飛と秦檜(30)』買ひ、平城の神功皇后陵に詣でる。奈良に引返し『武田信玄(30)』、『近世探険史(10)』買ひ、参謀本部の地図2枚(24)買ひ、 18:08にて帰宅。けふ不快。

8月22日(日)
家居、鎌田来らず。夕方より保田家へゆき父君にこの間のつづきものとして特殊部落教はる。牧野より『日本短歌』の稿料400、 三橋とともに同人誌『サロン文芸』加入をすすめ来る。『文芸世紀』のあとつぎなり。

8月23日
12:06にて奈良へゆき三興に云へば『第二ハイネ詩抄』出すと。原稿置き、高桐へゆき濱野氏に会ひて『独逸』見せしに難色あり。熟考をたのみ、下総町。
夕食して羽田にゆき聞けば桑田六郎氏未帰国なれど教授に内定らし。助教授置くや否や知らずとの仰せに再び(※大阪大学への口利き)推薦をお願し呉れたりと。 友情感謝に余あり。地蔵盆とて踊り方々21:30下総町に泊る。

8月24日
9:00野田又夫にゆけば養徳社中島に乗気となり、15日までに作家論の原稿をと。桑原武夫京大へ帰ること確実。服部英次郎氏名大。宇都宮清吉同と。
東方文化へゆきて養徳社と話す中、貝塚氏来会せられ「中国古代史学の発展」再版いただく。
神田先生に会ひ、信夫君「オリエンタリカ」もち来たりしと。羽倉のフラウもと東方文化にゐしと。
養徳社の上田君来合せしにより石浜先生の還暦論叢のこといふ。「狐の詩情」は10月と。ともに出てしんしん堂(※進々堂)にて茶ふるまはれ、藤枝にもらひしパン食ふ。 (そのまへ野間三郎に会ふ。「時論」の編輯)
東洋史研究室にゆき佐藤長君に会ふ。月末までに紹介文かくを約す。昨日買ひし江漢「西遊日記(30)」、曾我部「支那政治習俗論攷(35)」、 「四夷考(50)」、岡田東寧「台湾歴史考(80)」よみつつ奈良着、三興へゆきて時間つぶし、16:00の汽車にのり櫟本。中島明子女史に野田君の話つたへ18:00汽車にて帰宅。

8月25日
休暇最終日。雨。無為。

8月26日
6:40にて出勤。富永氏を教育委員に推すとのこと也。昼食後スミソニアン研究所の寄贈書目を八木嬢に打たしめ16:48にて帰る。
服部よりハガキ。島稔より手紙(岩手県にありと)。

8月27日
6:40にのれず9:10でゆく。帰り高橋君にゆき上田一雄に会ふ。大正天皇御集の金23日托せし由。山口繁雄氏に高橋君のこといひにゆき18:29にて帰る。
けふ昭森社より受取。相野よりハガキ。吉田不二子好きな人出来しと。「不二」七月号。

8月28日
6:40で出勤。森良雄、捕虜生体解剖にて死刑と新聞。
二度教育委員に関し会合。富永十二分の色気あり乍ら本部の意向で断念と決定。可嗤。
帰れば三興の埜中君ブドー持ちて来訪、「出版部長みなにきらはる」と。夕食し夕立ちやむを待ちて帰る。史、藤井寺へゆかしめしに靴は訊ねて見ん。 写真と●図は正月にと。米田君来り、教練の書多く呉る。

8月29日(日)
神田信夫君よりハガキ。鎌田午すぎ来る。藤田久一安本にありと。駅まで送り、坂口君にハイネ『ハルツ紀行』借りる。 米田君に夕方佐藤長氏へのスミソニアン研究報告のこと少し托し、保田家へゆけば父子マーヂャン。

8月30日
悠紀子ねすごして6:40にのれず欠勤。12:06にて奈良、三興へゆけば「9月1日にもち来る」と。不快な顔してやる。「我らが生涯最良の年」見て、18:13京終より帰る。
二万五千分之一「名張」買ふ(11.50)。神田信夫、服部正己、相野、芳野兄弟へハガキ。

8月31日
登館すれば大掃除日、すみて昼食。富永、新井二氏そろはる。
酒井先生服部の悪口いひをらるる由。一宝を取りのケをると。唖然。
午後、八木嬢来り、誕生日の祝に財布呉る。ともに出て高橋君に寄り、山口氏より四時間とのことをききしを伝ふ。頴原退蔵先生急逝と。中村幸彦のこと思ひて哀れ。
帰れば和田先生よりハガキ。「教授にもとも思ひしも桑田六郎博士とせし」と。「助教授の話はなかりし」と。
よべ二時半より起き、貝塚氏ほぼ読了。

9月1日
登館、三興来ず。16:00高橋君へ寄りて帰る。カカアどの悲観す。博多久吉より杜甫校正送りしと。「大和地名考」見て六●ヶ所見つけたり。

9月2日
登館、三興けふも来ず。帰りて早寝。米田君ジャガ芋玉ねぎ賜ふ会はず。

9月3日
朝、三興に電話(ナラ3819)せしに(12円)、「とりに来よ」と。放送協会へ返事出し、養徳社により『唐詩研究』と漱石もらひ、三興にて五千円とり、 地図3枚(23)、散髪(55)、タバコ(140 朝日2×40、ハピー60)。
前川(※佐美雄)にゆけば『くれなゐ』の埜中君●●あり。匆々辞去して4:25の奈良発にのる。米田君によれば妹の英語家庭教師を坂口君にたのみたしと。 漱石与へて帰る。

9月4日
小幡信男に寄り、帰米の送別会を明日ときむ。12:58にのり、橿原、八木の辻君に寄り、「大和國神名帖」またもらふ。北川冬彦の「悪夢」なる小説借る。 われのことのりをり。
とつがれぬ身となることもうけがへるこのこころゆめかへたまふなと。

9月5日(日)
9:00小幡来る。昼飯食はしめしが粗末にて恥づ。15:30送り出して保田へゆき小坊と話し、一旦帰り、夕方坂口君にゆけば家庭教師だめと。米田君にゆき伝ふ。けふ末吉よりハガキと手紙。

9月6日
和田先生へやっと礼状。出勤。二嬢に英語教ふ。山崎『ツングース語研究小史』なるもの持ち来る。帰り岩波文庫『ペルリ遠征記』買ひしに110円にて取引高税1.1円の切手呉る。
鈴木氏に会ひしに『大和文学』の詩の選をと。

9月7日
登館、定期忘れてゆく。八木嬢より100円とり、英語教へんとせしに邪魔多し。
金井、山崎、吉岡、佐藤誠、沢田と次々来る。吉岡君『大和文学』の詩稿もち来る。

9月8日
出勤。よべ睡眠不足にてねむし。この頃二嬢に英語教へゲーテ一篇づつ『李朝実録抄』などを日課とす。「わが夢の記(佐藤春夫)」買ふ(6.60)。
このをとめあまたの引く手いなまずてわれの心をさかん(※裂かん)とはす。

9月9日
出勤。八木君より100返してもらふ。まだ100ありと。タバコ二ケ(ハピー30×2)買ひしのみ。上田君、神田先生より「オリエンタリカ」預り来る。 藤枝へハガキ。篠原全一氏より2800円(総計7990の中3600既に渡せしを清算と)。

9月10日
出勤。1600ベースの0.88(引税)とて1400円余もらふ。帰途、文学堂へゆき新文庫『南山踏雲録』買ふ。羽田のアラビア語辞典、館長ことはる。ハガキ書く。篠原全一へ受取。

9月11日
出勤。教育委員に幼稚園の松本君立候補と。12:58にて八木。新村「童心録」鴎外「北條霞亭」「李花集」買ふ。19日『爐』同人来ると。帰り米田により本なかりしこと云ふ。
山の辺にふたりならびてうたうたひ日のながかれと神にいのれる。
桑原武夫、京大教授と。

9月12日(日)
雨。家居。無為。神田信夫君に礼状と110円。昨日やぶりしズボン修繕せしむ。

9月13日
出勤。博多より「杜甫」再校来る。校正して疲る。

9月14日
出勤。「杜甫」校正終る。けふ疲る。「現代日本代表作詩集」よりハガキ。

9月15日
出勤。大掃除。月給5340もらふ。雨。文学堂にて『素朴主義の民族と文明主義の社会』『頼朝為朝』買ふ(100)。12:58にて帰る。島稔、末吉よりハガキ。

9月16日
出勤。暴風雨。二嬢と英語。14:00より通勤費で組合の小委員会とてゆきしに不参のため流会。養徳社により吉岡君に聞けば、詩評書けとは金くれるためと。断る。夕方雨止む。

9月17日
出勤。事なし。帰れば留守中埜中君来り、「南の星」返しのり二瓶呉れしと。
夜、依子弓子ふたり教会長家の月見に招かる。われ早寝。

9月18日
出勤。芝田呉服店落選。図書館やめねばならぬ由。小幡、西田と来り、別れの写真とる。二十日出発と。正午中村君東京より帰る。柳本まで歩きて帰る。
わがごとくをとめとゐたる時すぎてこの土のへに眠るひとはや。

9月19日(日)
羽田より来信。「和田先生助教授ならとのハガキよこされし」と。桑田部長のところへもちゆき呉れしと。二十四、五日来丹と。
全田叔母より相談あり来よ、石浜先生夫人重態と。10:00坂口允男に本とりかへしにゆく。
14:00爐同人、森本一三男、吉川、辻三君『年刊詩集』とカボチャともちて来る。17:00まで話し保田へ森本氏とゆき、碁二番。順三郎君を家へつれ来りてのち夕食。

9月20日
出勤。村田忠兵エよりハガキ。富永氏に石浜夫人見舞のため欠勤いふ。帰り雨。高橋君に傘借り養徳社に田村博士のこといふ。

9月21日
出勤。あす米軍の講演とて大掃除しゐる。午後貸本の催促にて組合委員会に出しに昔通りなり。足達家に本預けて帰る。汽車にて松井君に会ひ吉川君のこといふ。

9月22日
欠勤。11:00の汽車にて天王寺−地下鉄−博多久吉−村田(不在)−地下鉄、大江叔母に会ふ。−市役所(筒井不在)−日銀 鎌田−渡−朝日 谷川− 大毎 井上(不在)−西日本鎔接工組合 父−商工会議所 城平叔父−筒井、家承知した500円位と−沢田−沢井(不在)−地下鉄饗庭源吾に会ふ。南千通で敗戦、ナホトカにありしと。 喫茶店ごらる(150)−創元書房「測量船」(27.50)−石浜先生上洛、藤沢桓夫に五分間面会、還暦論叢のこといふ。−上野芝 田村春雄、夫人出産のため帰郷、男児と、博士論文執筆中−岡部克也、第二ハイネ詩抄出さず、ハイネ詩抄再版と−全田おりえ叔母来会す。某生に紹介さる。不快。2:00頃就寝。

9月23日
秋分の日。渡と一寸話し、無干渉をいひ、石浜先生。印度学会の件ことはる。藤井寺にゆき叔母と昼食。勉の縁談のこと聞く。
「仏教美術」買ひ電車賃足らずなり八木下車。笠井君と辻君にゆき辻君にて10円借り帰る。

9月24日
出勤。羽田来ず。二嬢と英語。米人接待用の菓子ふるまはる。服部より電話(※来訪)。養徳社へ高橋君、佐藤君とゆく。石浜先生論叢引受しはまこと。 高橋家にて話し、酒井先生にゆき服部をのこして帰る。月収8000位と。けふ博多へ「あとがき」送る。

9月25日
出勤。服部きのふ吉岡君に泊りしと。羽田13:00まで待ちしが来ず。大和神社にゆきて長柄より乗車。明日よりバク書(※曝書)は沢田とコンビ。
木犀のにほひゆかしくこの社を去りがてにしてわれはゐたるも

9月26日(日)
バク書(※曝書)とて出勤。不快。寺島弟氏に会ひしも兄来らず。米田君来りしと。

9月27日
出勤。八木嬢とバク書。京都寺島翁より返本。中野博之君よりハガキ。
わがをとめなよになよらにうちなびきひとにたよらむその日あらすな。

9月28日
出勤。バク書すみて異動、バカらし。「登呂遺跡(66)」買ふ。「金瓶梅」訳よむ。饗庭君へハガキ。

9月29日
異動。大掃除。すみて英語。14:00山中嬢をさそひ奈良。三興にて2000もらひ「ハイネ第二詩抄」返却を受け、埜中君(昨日辞表提出と)と喫茶。 「ヘプタメロン」「アテネ文庫」買ひて帰る。

9月30日
6:40にてゆき高橋君。養徳社へより木下へゆきしに店主メンソレータム二つ呉る。「西遊記」買ひ「ゲーテ恋愛詩集」約束し、9:07にて遠足、西ノ京下 車。薬師寺、唐招提寺。薬師寺の聖観音、唐招提寺の大日如来に見とれる。十五年ぶり也。五條山にゆき窯見、西ノ京に帰り窯見る。佐藤誠に会ひ話す。 帰り養徳社にゆき森君に「狐の詩情」早く出せといふ。

10月1日
日直のため出勤。芝田に午前中たのみのりくら山。午後山中嬢来らざりし為英語やめ、柿食ふ。帰り新生(※煙草)発売を見、三箱買ふ。
このこひは永くつづかむそのてだてまことよりほかありやなしやを。

10月2日
出勤。外語の川村氏来り、石浜先生論叢の交渉経過報告を受く。
中村君、奥村氏と会見。図書館教授の要求事項を考へよと。広田君英詩を訳さす。ひる山中嬢と退出、(寿岳文章の講演きかず) 八木にゆき辻君に寄りしに帰らず。
けふ神田信夫君より「旧唐書食貨志」郵送。青木富太郎「マルコポーロ」「古泉千樫歌集」買ふ。
あふ時はかならず雨降るこのゑにし泣けとはあらずみずみずし子ゆゑ

10月3日(日)
寺島●八郎氏よりハガキ。午後●崎の埜中君まで歩き千樫歌集贈る。入浴。

10月4日
出勤。木下にて「ゲーテ恋愛詩集」買ふ。藤沢桓夫へ手紙。佐藤君言語出身の桜井の人(原●君)つれ来る。小幡の送別写真出来。

10月5日
教育委員選挙とて共産党の青木康次に投票し、散髪し(45)て9:10にてゆく。展覧会の準備しをり。我に不関なるに不快。英語二冊すむ。帰途高橋君により新生三箱買ってもらふ。
けふ養徳社の上田君来り、カヴァーの図案考ふ。

10月6日
6:40の汽車にて奈良−油阪−京都(60)。彙文堂―ゆき『老乞大(100)』『奉天と遼陽(50)』買ひ波多野君に会ふ。
三高にゆき羽田と会ひ18:00を約し、谷友幸と話し、東方文化、外山軍治と話す。中村忠行君来会す。藤枝の室にゆけば佐藤誠君あり、ともに出てしんしん堂で喫茶。
羽田と会ひ田村博士にゆき話す。「阪大へ推薦すべし」と。羽田、フラウ妊娠と。同じやうなることかな。別れて野田君にゆき中島のこといひ、下総町にゆき母と会ふ。 大酒乱にてこの間、奈良にて留置されしと。
17:15の電車のり養徳社大畑君、岡本和子嬢と同車。雨。青木泰次落選らし。

10月7日
出勤。荒川氏欠勤三日。佐藤君来りて教職以外は二年を一年にして職●制にすとのことに憤慨。その後組合での話では大方減俸と。怪訝。
鈴木治氏来り、中島のこといふに憤慨。大高閥ゆゑ中々出ずとのことに腹立てし。
ビブリアの校正出てこの相談に●●しばらく。
埜中君よりハガキ。聡子よりハガキ。「岡山伯母喘息につき悠紀子十二日来よ」と也。

10月8日
職員組合報告。佐藤君来り「遼史索引」もち来る。「あす上京」と。
12:30より外語にて3791ベースの基準につき会合。すみて支那語字典のこと、図書館支部の会合のあひまにしらべささる。

10月9日
朝、館長より注意。すみてビブリアの校正。山中嬢と同車、奈良へゆき三興によりしも不在。博物館へ着任の小野勝年氏に会ひしに宿直室に一人ぐらし。家たのまれよわる。喫茶(100)。
18:08の汽車にて帰る。20:30大、来り、大手前に就職と。坪井に会ひしと奇縁。

10月10日(日)
雨。大、10:00帰る。神田信夫君より手紙。17円返し来る。15:30雨やむ。タバコ買ひに出、保田家へゆけば與重郎上高家へゆきしと。久しく会はず。 父君、順三郎君と話して帰る。野田又夫へハガキ。

10月11日
出勤。吐気す。ビブリアの校正すみ、その相談。鈴木俊氏よりビブリア呉れ、大毎より出版文化賞の問合せ。羽田博士『西域文化史』と野間光辰『西鶴新攷』とを以て答ふ。
帰り柳本にゆかんとし中西女史に会ふ。ハイネみなに見せしに「むつかし」と。
荒川氏を見舞ひしに銭湯にゆく。胃痙攣。明日出勤と。歩きて帰る。田宮虎彦氏より詩の稿料500円。但し『現代人』廃刊と。富くじ買ふ。

10月12日
出勤。杉浦より速達「十七、八日頃来る」と。八木君、弓子の虫下し呉る。夜、富田純君来る。『婦人タイムス』創刊と。

10月13日
出勤。英語やらず。執行委員改選、金井、山崎、代議員に高橋君。桜井より電話、帰りに保田にてきけば牧野径太郎と。

10月14日
出勤。ビブリアの相談、つまらず。吉岡君、京都へゆきしと。八木君また虫下し呉る。『芭蕉名句集』。昨日より朝鮮語。二十日サラリーと。

10月15日
けさ早く胃悪く9:10でゆきしに大掃除すみ、養徳社により「祇園物語」もらひし。
帰りて夕食後、尾西家へゆき話す。四郎君里帰りしゐし。冬木よりハガキ。
永遠をちかふこころにいつはりはなけれどかなしたはやすからず。

10月16日
出勤。上田君より電話。帯の文案月曜にと。瀧井氏より電話。「明日接待役に来よ」と。
中村孝志氏来り、学術会議のこと。ひるすぎ山中嬢と出て帰る。けふ鳥見神社の夜宮。

10月17日(日)
隣の癌翁よべ死せしと。11:00家を出、三輪の森本佐一をさそひにゆきしも不在。大高会に和楽館にゆけば三、四十名。知れる者少なし。五十嵐の兄、熊野啓五郎氏に挨拶せし。 16:48かへる。(葬儀すみしと)。北海道の中野氏よりハガキ。

10月18日
創立記念日(18周年と)とて9:10にてゆく。11:00より茶会、中山管長来る。やがて生島遼一、大山定一来り、二人ともわれを覚えゐたり。杉浦来り、佐藤誠来り、吉岡来り、忙し。
杉浦「阪大へ運動すべし」とすすむ。武田泰淳、北大をやめ上京せしと。夜の宴に招かれず高橋君によりて18:29にて帰来。
吉川幸次郎博士『李太白』呉れと。『不二』。弘文堂より『蘇東坡』二三月頃と。

10月19日
休日となりしが6:40にて丹波市へゆき、小幡君の家にゆき母上と話し、「安着」の手紙見る。
中村君にゆき杉浦泊りしと話し、出て別れ、養徳社にゆき上田君のため「狐の詩情」の帯書く。杉浦来りしを天理駅に送り(11:58)、12:58に乗り三輪−長谷。長谷は秋祭なりし。
田原本へゆき原正明君を訪れ、夕食御馳走受け、秋田生れの夫人を初めて紹介さる。20:30帰宅。

10月20日
出勤。組合の支部会。「●教職員以上を要求せん」と。嗤ふ。
中村孝志氏来り、本の値段きく。山本書店より書目来り、小説類注文す。尾西氏、父兄会とて来り、話し案内す。帰途、岩波文庫『平家物語 下』『東洋学報』買ふ。 弘文堂へハガキ。末吉よりハガキ。筒井より手紙、家の申込書同封す。

10月21日
筒井へたのみの手紙速達す。上野君面詰せしに泣きしと。芝田の言出しは中村君と。帰り養徳社へよりし。

10月22日
富永館長わが室へ来り、「芝田やめささん」と。職務出来ぬとのこと。中言するものありと憤慨。とも角、即時馘首に反対す。佐藤君に「遼史索引」の金(400)わたす。

10月23日
出勤。上野結局わからずと也。芝田に因果ふくめる。
午後、柳本にゆき秋永氏に神話大系とどけ、小学校に森本一三を訪ね、汽車にのりて奈良へゆき坪井を訪ねしに不帰、夫人に大のこときけど知らず。 11月末大阪へ移るとのことに小野勝年たのむ。
けふ藤枝より手紙。「博多三万円かけ(※欠け)たり、出してもよし、ゆづりてもよし」と也。
にくからずおもひし乙女とつぎさりたかまる胸しあるくに会ひたし

10月24日(日)
教会の秋季大祭とて二児つれて登館(9:10)、大豆をもぐ。四貫目となる。八木山中二嬢あり。芝田、沢田あり。

10月25日
6:40にのりおくれ9:10にてゆく。『ビブリア』の校正出る。大和文学3出しとて吉岡君より電話、鈴木氏へゆかんと。断る。
松井君帰りしにより杉浦よりの伝言す。

10月26日
雨。天理教秋季大祭とてゆかず。八木の辻君にて夕食。保田へゆき珍しくゐ合せし保田と話し、帰り来し父君と話し、20:30帰宅。
りんどうの咲きゐしみちをのぼりゆきわれらひとつとなりし一時。

10月27日
出勤。『ビブリア』再校終。日和佐へゆきしも寺島氏不在。佐藤君の本代550円受取る。鞄切れ八木氏になほしてもらふ。松井君と帰る。

10月28日
出勤。板沢武雄氏売立の本、整理す。東北大教授古田氏来館、案内す。佐藤君に150わたし、タバコもらふ。

10月29日
出勤。台北で会ひし松村一雄氏来らるとて待ちしかどだめ。芳野清よりハガキ。

10月30日
出勤。9:10の汽車でゆく。午後両嬢と英語。高橋君にゆき上田一雄氏より山羊の乳、保田へことづかりもちゆく。帰りて夕飯後ゆき将棋さす。前川より手紙。11月14日のこと。

10月31日(日)
終日床にあり。くもりて不快。前川芳郎へハガキ。

11月1日
けふより7:11と汽車時間変更。大掃除し、新井女史より1000借用。

11月2日
出勤。近々ボーナスとして溯及くれ21日に月俸わたすと。7日東洋史の会京都であると通知。和田先生を寄贈者より削除することいひに養徳社にゆく。 酒井先生の「ウォルデン」出来たり。山中嬢、小豆くる。明日8:08にて八木嬢と来ると。辻君よりハガキ。吉川君ハイネ出すと。西島君と同車せし。

11月3日
文化の日とて休業。8:30八木山中二嬢来る。山中嬢の小豆にてお萩つくり鳥見山へゆき松茸飯す。15:35にて帰る。昨日奈良市役所焼け文化祭とり止めと。夕方入浴、雨降る。

11月4日
出勤。事なし。和田先生より阪大助教授ほぼきまりしが京大に備へ羽田をたのむべしと。
けふ依子、奈良へ遠足。

11月5日
出勤。職員会中石浜先生来られ、正倉院ゆき駄目となる。高楠文庫見せ、印度学会21日ときまる。養徳社へ案内。16:48お帰り。われも汽車。八木爐書房へハガキ。

11月6日
7:10に奈良−三條、三高へゆき京大東洋史研究室へゆきしも羽田ゐず、東方文化の人文科学講演にゆけば野田君すみし処、ついで須田画伯の話あり。
休みに野田君に中島のこといふ。鈴木氏より同じく(※遺稿集刊行について)弱気の言葉ありしと。
泉井、小林[美]夫二氏の話聞き昼食。神田信夫君に会計。金井君と一緒に飯食ひ藤枝と話してのち退出。佐藤長に会ひ、羽田にゆけばをらず、 一旦父の家へゆきしのち羽田へゆき21:00まで話して帰る。
けふ小野忍氏に会ひし。大、8日より大手前に勤務と。「ハイネ」(60)。

11月7日(日)
9:00家を出て東方文化にゆき東洋史談話会の話きく。北野丈夫と羽田と面白かりし。三田村春助、田村実造、内田吟風と挨拶。
大淵君岡山より来り、玉野なる大原利貞と会ふと。硲晃来り、中村孝志来る。すみてしんしん堂にて喫茶後、硲と出て帰る。東京にて小野文夫氏と一緒の慶松君と会ひしと。 けふ管長の所へ泊ると。

11月8日
出勤の途アパートへゆき中村氏より「バタヴィヤ城日記」二冊借り、吉岡見しもゐず。
9:00小竹文夫氏来り、案内する中、貴重書庫金庫のキー動かし開けなくす。お蔭にて永楽大典の四冊をはじめて見し。
12:00正倉院へゆく。慶松君の酒徒にして中々のものおぢせぬことこの二日にて知りし。
午後大学所属の際の相談、富永教授の案立てて可嗤。
けふおきの汽車にた保田の小ボこ(※坊)と一緒になりし。石浜先生より手紙と原稿。夜、富田君来り、「女性タイムス」の巻頭言と。吉村正一郎にゆ●し●谷川への紹介文かく。

11月9日
出勤。「台湾の古地図」書く中、神田信夫君来り案内す。16:00までもてなし、帰り八木嬢より80.00借りしも中村忠行君奢りくれて困なかりし。 汽車に富田君あり保田の代りに新村出に書かすと。石浜先生へ受取。

11月10日
出勤。附属図書館対策。研究所を造る由にてその研究員となり、司書を兼ねんと。三児来り(10:30)、豆採る。6189円(税金1200、借金2000 引)貰ひ、パン買ひ小遣ひ与へ13:30行かしむ。
吉岡君来り、田村博士の伝言つたふ。帰途、養徳社へ寄り、鈴木氏より保田への伝言たのまれ不快にて断はる。吉岡君「大和文学」の詩の選料として500円渡さんとするを受けず。 無礼なる奴らばかりなり。

11月11日
出勤。大学審査委員来るとて朝から大掃除。14:00頃現はれ早々去りし。
けふより四五日、慶松君上洛。高橋君にゆかんとせしに養徳社より「狐の詩情」出来しと。十五冊もらひて帰り、高橋君で喫茶。一冊与へ木下にて鴎外「妄想」買ひ、 19:18にて京終下車、パン買ひ、坪井にゆき泊る。

11月12日
坪井とともに出る。家を小野勝年に貸すやもしれずと。博物館に小野氏を訪ねしに正倉院展終りしため帰省。散髪(50)、「ペルリ遠征記」買ひ三興へゆき「狐」一冊与ふ。 ハイネ考慮と。10:30の汽車にて宇治、16:35奈良へ帰り近鉄にのり西の京に下車せしに佐藤誠不在。 天理へつきうどん食ひ「源平盛衰記」(30)「日本古代史と神道(40)」買ひ、柿買ひ(20)、タバコ新生5ケ買ひして帰る。(宇治での喫茶128)。
けふ東京裁判の判決。東條、土肥原、広田、板垣、木村、松井、武藤の七人の絞首刑と。みな無言。

11月13日
休暇。9:30の汽車でゆき養徳社で「狐」20冊受取り、東京へゆく編輯局長に和田先生に会ふこといひ登館、14:00まで山本達郎まちしが来らず。二嬢に「狐」与へたり。
16:48にて畝傍、辻君に吉川君の出版にと中村君の「雨月物語」、高橋君のアイヘンドルフいふ。明日爐の集りと。
帰れば吉川君より使、服部よりハガキ。出版うまく行かずと、をかし。けふ「現代詩代表作詩集」そのもの来る。

11月14日(日)
午前中ひるね、午後保田にゆき「狐」与へ汽車にのり庄野誠一に会ふ。中島の許へゆくといへば桑原の後[地]で出すと。よき土産なり。中島未亡人に会ふ。 伊東恋愛をすすめしと。夕食す。古本中島の姉が売れといふと。
丹波市まで歩き、ダンスより帰りし高橋夫妻に会ひ、「狐」預け置きしをとり、木下にて「洛陽三怪記」買ひ18:29にて帰る。留守中、岡本和子来り、本返せしと。和田先生へ手紙。

11月15日
駅にて岡本姉妹に会ふ。けふより冬服。ゆけば大掃除と。中村忠行君、山本達郎氏に会ひ明日来るとの伝言。岡崎精郎なる男(京大東洋史、浪高卒)大阪図書館にあり、 進駐軍に投書し三木らを追放させしが、阪大助教授ときまりしを云ひをると。
12時出て養徳社にゆき、悪き本とりかへてもらひ天理駅にて三興の岡部君らに会ふ。八木にゆき辻君問ひしも不在。
その日より忘れずなりぬその日よりはなれずなりぬきみがおもわは。

11月16日
雨。9:00ごろ山本達郎氏来り、本熱心に見てくれしにうれし。「聊斎」一冊進呈。中村孝志君も来り話しゆく。佐藤誠「時報社中国分省新図」呉る。羽田、野田又夫へハガキ。

11月17日
晴。二嬢休暇。校正しアルバンス読む。帰途、校正もちゆき上田君に山中嬢の見合承諾せしめ、吉岡松井二君と喫茶。「大和文学」の選料500もらふ。 安藤治正君上京は月末と。松井君に吉川君への伝言たのむ。
けふ東京斎田祐吉への詩「冬」を一分間で作る。

11月18日
曇のち雨。吉田富士子嬢より手紙。和田先生と杉浦へハガキ。
養徳社へビブリアの校正のことにてゆく。上田君と山中嬢むすばんとして面倒なるにおどろく。
帰り尾西嬢に傘借り「狐」一冊与ふ。村田忠兵エ氏より21日の会の案内。「陶淵明集(49.50)」買ふ。

11月19日
雨。慶松君帰り来る。外山軍治氏よりまた養徳社へ「太平天国時代(モース)」のことよろしく頼むと。けふ「台湾の古地図」大分すすみうれし。

11月20日
晴、秋永氏来訪。月給とて7100もらふ。昼までにて奈良へゆき映画見しのち小野勝年訪へばまだ帰らず。帰りてゆき子に5500わたし風呂へゆく。
学術体制刷新委員に和田、山本両先生立候補されをる。小幡信男より手紙。大23:30来る。

11月21日(日)
大とともに9:00家を出る。史、学友と奈良図書館へゆく。11:00まへ石浜先生の一行来る、6人。昼食後、高楠文庫見す。6:10送り出す、しんどきことかな。 入谷義高氏より「狐」の礼。
会へばまし別るれば増すこひごころつもりていかにならんとすらん。
山のもり下りくる町にきみおもひたたずみゐればかなしむがごと。

11月22日
出勤。石田幹之助先生に速達して詫び状かく。午後史電報もち来り、柏井母死すと。一週間の忌引もらひ、家に帰り羽田と父へハガキし、 保田にゆき、18:55にのり丹波市へ降り、阿部八木二女史に送られて乗車。

11月23日
10:30阿佐ヶ谷着。小光母の顔見て哀れなり。やや良くなり冗談もいひ●●用ふる様になりゐしと。
昼寝後みなと会ふ。船越章、柏井昇、松田氏らと会ふ。

11月24日
よべ三時にいね、六時起き10:00より葬式。数男つひにかへらず。11:00堀の内の焼場へゆき骨上げ一時間後。俊子姉、三郎兄とわれ以外まにあはず。 雨の中帰り夕食後、角川氏を訪ひしも明後日まで不在。
ゆき子長尾良へハガキ。21:00数男着。
よべ大●に出しも急行券自由販売知らざりしと、あはれ。

11月25日
朝飯9:30ごろ食べ荻窪より八王子、早川氏訪ねしに出でしばかりと。留守居の娘さん電話かけ呉れしも駄目、下條(※下条康麿)文相の秘書いはれしも拒みをると。 娘さんわれの名知りゐし。明日の再訪を約し、吉祥寺より帝電(※井の頭線)にて永福町青木(※妹一家)にゆき昼飯食ひ、小高根(※太郎)を訪ぬれば夫人お産にて入院と。 「平福百穂」出せしと一冊呉る。
和田先生を訪ね奉ればをらる。阪大の件話さる。少し怪しき口ぶり也。土曜談話会での再会約し奉り西島寿一の家たづねまはりしに移転のあと。青木に帰り家主なる坂井君と話す。
商大出の青山学院の教師、学問好きなるまじめの青年。わが名知りゐたり。陽生22:30帰来、24:00まで話し臥床。

11月26日
千草の家を出、早川須佐雄を9:30に訪ね、待ちくれゐしと。色々話し昼飯よばれ15:30ともに出、飯田橋へゆき、お幸伯母に会ふ。案外元気にて子らに1000賜ふ。 聡子に200与へて出、山本書店にて図書館の本1350買ひわれに200。お茶の水より乗車、赤川を訪ね本110買ひ、昇の家を訪ね、玉子小母見舞ひ、 丸にゆきしに帰らず。赤川によりてのち船越にゆき、23:00まで話して帰る。
早川氏、(P.)のこと安心せよと下條氏のため云々保田に云へと。

11月27日
9:00家を出、角川氏を訪ねしにすでに出勤と。お茶の水に出、中国研究所にゆきしも誰もゐず。
昭森社に森谷氏を訪ね、土方定一もらひ、聞けば坂本越郎の原稿未だ出来ずと。近古奇観の風流篇引受く。風俗篇は入矢氏にたのみくれよと。
河出にゆき杉森久英に話すに小説のこといひ又一度作って見せよと。折柄来りし中村光男を中野好夫とまちがへ恥かく。
市電(6.00)にて大手町にて下り歩きて東京建物にゆけば、西川、丸夫人、池田徹、川崎あり。後刻を約して日本評論社に急ぎゆき編輯の某君に会ふ。甚だ不快。水曜に返事せんと。
ここより市電にて御徒町にゆき芳野弓亮を訪へば、去年11月24日心臓病で急死せしと。夫人子供パン製造す。哀れ。100子供に与へ、パンもらひて出、
東大にゆき和田久徳君、河原正博と会ひ、久徳君その中天理に来ると。松本に会ひて後刻を約し、東洋史談話会に中島敏氏の話きき、すみて森尾美都雄に養徳社のこといふ。 青山氏、白鳥長男氏、須藤氏などあり。善海と白十字にゆき茶おごられ、
別れて西川の家を訪ねまはり17:00頃帰り来りしを見れば一人。丸は野球より帰宅せし模様。22:00まで話し、土産もらひ本郷三丁目まで送らる。帰れば23:30。

11月28日(日)
8:00角川君を訪ぬ。ビーダーマンとリルケと賜ふ。四季コギト預ると。ハイネ3月末までに、李太白、杜甫考慮する様子。 堀辰雄氏のところに在りしに野村少年の訃報来り、堀氏泣きしと。足細かりしと。驚きて加藤俊策氏にゆきて聞けば、楽観的。川久保より岡氏の新築中の家を見、岩村忍のこといひ喫茶後、 別れ、田宮虎彦を訪へば夫人、堀夫人と同級生と。初対面とは思へずとの挨拶を受け、西川満にゆかず。
帰りて法事(初七日)すみて高沢叔母より柏井家は井上子爵の妾腹との確証得、15:30帰りしあと角川君のコギト四季預け、姉弟と相談、 葬儀費の四分の一(5000)分担ときめ、岡田二妹らと喫茶(遺骨分譲)。21:30就寝。

11月29日
8:00四季コギトの残りしを角川氏に届け、別れの挨拶し、リュックと風呂敷に本つめて出発、西川満を訪ね、本一冊もらひて別れ、 東京駅より12:20豊橋行にのり20:40豊橋着。
服部家にゆき板倉鞆音と将棋さす。服部夫妻眠りたがらず3時まで話ささる。

11月30日
5時半目ざめ、8:00すき焼。新聞にて丸山薫のゐることに気付き、服部家を出て東田東雲町71-1小林方に訪ぬ。夫妻ともに歓待。
10:53にのり名古屋下車(70)、近鉄にのりて(160)帰れば嚢中無一文。手紙多く来りをる、小高根二郎、羽田明、和田先生、吉川仁、山本達郎。 夜、富田君来る。明朝来よといひやる。

12月1日
富田君10:00来る。ともに出て保田にゆけばまだ帰らず。12:06にて天理、養徳社に寄り庄野君にいろいろ云ひ、登館すれば職員会。館長にいひ、 山本書店のことほぼ承諾せしめ、カードの点検やり、石田幹之助氏に返事かき、二嬢と帰りにしるこ食ひて帰り、夕食後、富田君に原稿出来たてをわたし、 保田よりの電話にゆきて早川氏の伝言つたへる。
ハガキ石浜先生。芳野清より手紙。伊東静雄(※リンク「狐の詩情」への礼状と近況)

12月2日
7:10の汽車にのりおくれ米田清治、富田君(きのふの原稿でよしと)を訪れしのち一旦帰宅、出直して養徳社により登館、現文リスト校正やり、午、八木嬢を怒らして英語やらず。 午後雨もやう。上田嘉俊来り、月額三千円にてはいかがと。五千円は5日すぎと。山中嬢との話やや本節に入る。
PTAより2,000円もらひ、前川、中村、山崎、高橋四氏より香奠もらふ。
保田、管長を訪ふとのことにて電話往来しきり。二嬢と喫茶すまし6:48にて帰り、米田家で傘借り保田へゆけば[酒に]と在宅。せかしてゆかしめんとして帰宅。 下條氏のこと吾が名を出さんと。吾不知道。夜学●体制委員に和田、山本、服部、安倍氏をしるす。角川中のへハガキ。

12月3日
出勤。久しぶりに整理す。●よりわび状。午後中村君に奥村氏へ紹介され資格審査用紙もらふ。養徳社より2000もらふ。昨夜保田ゆきしもやう、二階堂●の某君来りて話す。 帰り上田、吉岡二君をおごり、アパートにゆき18:29の汽車にて帰る。

12月4日
出勤。44冊半日にて整理。佐藤誠に日曜夕ゆくことを約し、奈良へゆき三興へよりしも無為。小野勝年を坪井に紹介せしも、小野不快らしかりし。
京都へゆき20:00頃、羽田へ着。夕飯よばれ種々話し明日12:00再会を約し、家たたみ、22:00父の家へゆく。葬儀代5000に母怒り、千草、咲 耶(異母妹)の確執に怒る。夜、眠りがたし。内藤湖南「目睹書譚」とどきありし。

12月5日(日)
目ざめ食事せしところへ大、帰り、ややしばらくして三郎叔父現はる。叔母河中へ顛落臥床と。健、帰来、大と見舞にゆきお見舞200.
野田にゆき放談。帰途、「奉天三十年(40)」「万葉集(170)」「ソロン族の社会(70)」と買ふ。早川須佐雄氏へハガキ。午まで待ちしが羽田来らずと思ひ田村博士家を探せしも見付からず。 羽田を三高に訪ぬれば我と入れちがひに来しと。家のこと重ねてたのみ、 彙文堂へゆき「東光6」買ひ電車故障などにて17:30西ノ京、佐藤君にゆき夕食よばれ、書類の書き方教はり「ソロン族」贈りて帰れば22:00。西島君「爐」の原稿とりに来しと。

12月6日
出勤途上松井君と同車。一昨日今日にて百冊の語学書整理すみ。午後より雨。高橋君に傘借りて帰る。石浜先生よりモザイック誌の有無問合せ、なしと御返事。

12月7日
出勤の途、高橋君に傘返す。二嬢との英語3冊すむ。服部の夫人へハガキ書く。

12月8日
米大審院、反対とり上げ処刑延ぶ。けふ9:30にて登館、途次、養徳社による。
午後、長尾良の弟、上田一雄君と来訪。去月26日ソ聯より帰りしと。兄と異なりまじめなる青年。歯科医と。ソ聯話おもしろし。保田に案内し、 きけば管長S氏のこと承り、ただ呼ぶに現●なしと。羽田へハガキ。家のこと重ねて依頼す。丸山、青木、小高根太郎へハガキ。

12月9日
出勤。慶松君和歌山へゆきしと2日来らず。丹波市の玉井(?)青年来る(保田の弟子)。
桜井南小学校生徒の参観を案内す。不二出版社より300の受取と●の依頼。
けふ暖かかりし。弓子風邪発熱。きのふハイネ「浪曼派」買ふ。

12月10日
弓子の風邪に臆し12:10にてゆく。雨この頃止む。小野勝年氏来り、坪井の家へ入らんと。養徳社にゆき中谷治宇二郎「日本石器時代提要」頒けしむ。 「狐」の五千円二十日すぎと。けふ資格審査概ね書き了る。

12月11日
審査書書き了へ事務室にもちゆけば一括提出すと。玉井青年けふも来る。養徳社へゆけば五千円呉る。八木へゆき辻君に会ひ日高●●女史に紹介さる。
帰れば20:00牧野径太郎より新現実同人になれと。

12月12日(日)
9:39にて奈良へゆく。中島少年に会ひ早川氏の速達托す。坪井にゆけばひっこし最中、手伝へば小野氏のこと一応ことわると。昼食よばれ前川氏を訪ね、保田のこと話し合ひ、
小野氏を訪ね、200受取り、林[檎]屋、服部四郎「蒙古語の話(40)」「北京年中行事記(10)」「道教と中国社会」買ひ、西の京の佐藤君訪ねしに京都。 電車にて喜多聿衛女史の夫君永井君ん会ひ、きけば小野氏と田中治郎と知人と。
丹波市より16:48にて帰れば丸山薫のハガキ。羽田より家承諾せしと。15日来よと。

12月13日
出勤。羽田へ15日ゆくの電報打つ。ボーナス一ヶ月分6170(税1604引)貰ふ。佐藤君に役所の手紙のことたのむ。
帰り養徳社により編輯長にいへば、16日京都でのことやっと承知。和田先生には会へざりしと。(富永館長よそへゆくや否やさぐり入れし)。
帰途、吉岡君によばれ夕食、泊めらる。永井君も来り、よふけまで眠らしめず。

12月14日
9:00吉岡君をのこして出、うどん二杯を朝食とし(50)、パン4ケを弁当に買ひ(60)登館、分類少しやる。明日ゆくつもりなりし上田、けふゆくつもりなりし山中家、 ともにことわりいふ。(傘買ふ。60)。帰宅すればゆき子陽性、妊婦手帖もらひしと。

12月15日
いつも通り7:10にのり散髪(50)後、登館、大掃除。すまして東上の中村君に双書の指定をし(中山管長買はんといふと。)養徳社にゆき上田君にことわり云ひ、 「狐」一冊借り11:58にのり丹波橋、桓武天皇御陵に詣る。「蕪村の俳句(60.50)」買ひ与へ喫茶(170)。みよ京阪にまちがへてのりゆく。
京都着、羽田宅へ入り西田邸にゆく。炊事場なけれどいたし方なし。今夜きまらんと。夜、遅くまで話す。

12月16日
9:00起き朝食よばれ、10:00出、淀野隆三を訪ぬれば不在。弘文堂にゆき細川君にも「狐」与へ、東方文化へゆくみち、しんしん堂にてケーキとミルク(50)。
藤枝を訪ね「東洋学報」買ひ、入矢君に近古奇観のこといひ、大学にゆき佐藤長君と話し、14:30田村先生の室へゆく。
15:30ごろ養徳社安藤君と吉岡君との現はれるまへ井上智勇氏と話す。
安藤君二号は四五月に出す。三号の締切は九月にせよと。予想外なり。
17:00頃退去。家へ帰れば21:00(家のこと決らず。手金に渡せし2000も返さる)。

12月17日
出勤。午後電話かかり服部来しと。佐藤誠君とゆき会ふ。一万五千円もらひしと。帰り寄れといふ。
けふ山中嬢、依子の服作りくれ、明日父母君に会ひたしといひやる。上田君には26日約束し、西川満、西川英夫への送本たのむ。宇陀には21日にゆかんといふ。 羽田、和田先生、不二出版へハガキ。

12月18日
雪島社へ二十日ゆくとハガキ。けふ起きられず9:30にてゆく。
ひるまで金井君と話し、ひる高橋君にたてあひ会の事(※不詳)にて説教、激昂せしはふしぎなり。すみて高校に山中父君を訪ね、仲人役を承認してもらふ。
養徳社へゆけば13:00、保田すでにあり14:00玄関間にゆき管長にあふ。S氏(※下条康麿 文部大臣)よりの返事まだ来らず。15:00吉村、前川来り、東井代議士、庄野、 古野、鈴木氏と夕食。管長洲本[撫]養へゆく。[●度]前日に暴れるはをかし。20:00われ早退。
高橋君にゆき小幡母君の歳暮みかん一箱受取る。われ去りしあと中村君帰り、金井君らと相談せしと。神田信夫君よりハガキ。大、来りをる。

12月19日(日)
尾西家へもち米買ひにゆかんと思ひ、大、去りしあと寝ゐしにハガキ田村春雄より。母君心臓病とのことに見舞にゆく。身体むくみたり。夕食よばれしのち藤井寺にゆき大江に泊る。
けふ桜井駅売店にて飯塚浩二「世界史における東洋社会」買ふ。面白し。

12月20日
大江を9:00出て松原の肥下によりしに不在。一度来よといふ。博多にゆきしに不在、午後来るといひ、筒井に会ふ。家引きうけたとのこと也。
大毎にゆきしに井上(※靖)氏東京転任、大朝にゆけば谷川不在、父のところへゆきしに腹立つ。再び博多にゆきしに未だ帰らず。 (※預けた『杜甫』原稿)出すか出さぬかとの置手紙し、日本一より上六へ出、丹波市。
養徳社に松井君ゐず、図書館へゆき高橋君の原稿とり養徳社へゆき「雞」と「童話」買ひ高橋君にゆきて1000借り、16:48の汽車。 榛原(15)バス大宇陀(30)ゆけば吉川仁不在。松井君を訪へば貧乏、吉川仁、夫人の実家へゆきしことわかりゐるに電話せぬ兄に腹立てて帰宅。(最終バス19:30)

12月21日
雨。9:39にてゆき養徳社に寄れば吉永氏あり。再会を約して登館、会議中のところにゆくに、たてあひ会問題は後にまはし、忘年会やらんと。われ肯んぜず、 金井、前川氏などに止められゐる中、中村孝志君に会ひ「東方史論叢」のこといひ、原稿一先づ返却となる。
それより出でて養徳社にゆき藤枝、外語川村氏らの石浜論叢会のすむを待ち、ともに図書館にゆき上野君を罵倒してのち両氏を案内、古野家にゆく。 佐藤君と会して18:00天理駅に藤枝らを見送る。

12月22日
7:10にて本リュックに背負ひてゆく。封筒(5枚20)買ひ、小幡信男に手紙書き高橋君と同封。9:30八木家にリュック預け、 かな●●(3枚126)もちて小幡母君に歳暮の返しとなし、富永にゆき(最中10、100)、荷物とりかへし安達家に満中陰志(※香奠返し)(きざみ2ケ)もちゆき、養徳社にゆき2冊の代金(2割34)払ひ、 アパートの中村孝志氏に「バタビヤ城日記」と原稿返し、12:58にのりて桜井。
保田にゆけば東京より便りなしと。帰りて昼寝、夕方尾西氏もち米一斗もち呉る。堀内民一より詩一篇をと。神田信夫より「近代中国研究」。

12月23日
日直とてゆくに弓子つれ、先づ八木家へゆけば八木嬢風邪。弓子預け前川老へ満中陰志としてきざみ2ケ。八木家へゆきしに八木嬢、弓子つれゆくと。先に登館、 館長より昨日の返礼にみかん十ケ。八木嬢饅頭10ケ、われの堅パン、まもなく来りし山中嬢のパンとにて忘年会。
12:00ともに出て養徳社により山中嬢より親類書と写真と預りしこと上田君にいふ。上田君の父君自殺せしと。山中嬢駅にまち受け歌誌二冊買ひ呉る。人形買ひ与へ(45)て帰宅。
昼食、昼寝、羽田より電報「イヘハナシデキタ」と、うれし。雪島社より原稿の受取。
けふ朝0時東條ら七名処刑と発表。

12月24日
7:10にてゆき中村幸彦君に香奠返し(茶100)淡路へ帰りしとて留守。山崎君にゆき(きざみ2ケ70×2)、養徳社にゆき「狐」また5冊もらひ高橋君に寄り、 きのふの雪島社のハガキ見せ山中嬢にゆき三姉の職業きき、西大寺にゆけば八木君の妹信子、佐藤誠などに会ふ。京都着16:00。
西田家へゆき2,000円と大豆、「狐」わたし話きまる。夕食もらひて最終にて帰宅。

12月25日
12:06にてゆかんとし保田に寄りしにS氏より便りなしと。京都移転のこといふ(ゆき子あとで香奠返し、たばこ2ケ)。養徳社にゆけば不快。ボーナス出かりゐし。 図書館にゆき館長に会ひ、高橋君によりしに時報社のトラック利用するなら手蔓ありと。山中家にて親類のこときき、田原本下車。 川東村大安寺の上田嘉俊にゆきて泊る。この夜一晩停電。

12月26日(日)
よべ5:00まで眠れず。朝9:30に起き、また話し田原本駅まで送らしめて乗車。天理にゆき日和佐の寺島氏に会ひ借間のこと承諾せしめ庄野氏と話し、 (中村幸彦氏に会ふ。)前栽下車、山中嬢父君に会ひ、帰りて眠らんとせしに富田君来り、婦人タイムズ出来上りしを見す。もち米一斗もち来しを借用。 けふ藤枝、末吉よりのハガキ見る。

12月27日
雨模様。8:00家を出、妙要寺大島師に「狐」と童話とお礼にもちゆき移転をいひ、坂口君に寄り「ハルツ紀行」返し、図書館にゆき新井女史よりボーナス(半月分3500)もらひ、 八木嬢にあす山中嬢と来よと命じ、高橋君にゆきトラックのこと頼み(明後日返事もらひゆくを)傘借りて帰る。
古本屋で岡崎文夫「支那史概説 上(80)」と小竹「現代支那史(20)」と買ふ。けふ餅出来、岡本まさ子来る。三郎兄へハガキ。

12月28日
朝、尾西家へゆき米一斗(1700)、二女よめ入り先きまりしと。帰途供出帰りの實氏に会ふ。米田君にゆき「狐」与へ京都行云ふ。リヤカー借るがためなり。 岡本家にゆきしも和子不在。政子いも不要と。
午すぎ大来り、一興叔父危篤と。八木山中二嬢来り、羽子板羽毛リボン二女に呉る。
16:00ともに出、丹波市にゆき高橋君に問へばトラックだめ。一月分給与五日支給は賛成者なかりしと。
帰途八木下車。辻君にゆく途、どぶに陥りハンティング失ふ。辻君四日頃いはば5000会社にて都合せんと。吉川君のことも考慮中と。 マッチにて探してくれ鳥打見つかる。けふ角川氏よりハガキ。

12月29日
よべ美代を思ひていとほし。
9:00起床、髭剃りてのち出発。藤井寺にもち米二升もちゆけば大江勉の祝と。可笑。
博多にゆけば養子「杜甫」出したしと。久吉翁もこの返事かき一月十日頃来よとのハガキ書きゐし。前借申込めば六日来よと。
市庁休暇になりゐるに回生病院へゆく。三階七号室に一興叔父臥し、手をにぎり喜べるが悲し。肺壊疽とはいかなる病気ならん。父、叔母、寿一あり、 ややして林叔父来る。よべ妻のこと告白し、けふ絶縁状書く。叔母われを立派といひしはいかが。叔父に握手し神に祈らんといひて帰る。林敏夫と喫茶(180)。 葉巻買ふ(75)。帰りて入浴。トラック駄目と。手荷物送りとし、六、七日頃出発と決める。

ゆき子裁縫に西窪夫人のもとへゆく。

12月30日
朝食後、下痢。終日臥床。ゆき子に説教。志野明より事業打切、二年間の利子2600余と、可嗤。俊子姉より受取、中野博之より旅行中なりしと。
けふゆき子教会に移転のこといふ。

12月31日
朝、西窪氏へ箱とりにゆき、帰りて昼ね、米田君来り、箱1ケ呉る。年越そば食ひ保田へゆけば森本一三君に会ふ。(爐新年号郵送) 神田信夫君へ手紙。


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