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田中克己 和田清(恩師)の手紙


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【01】昭和21年3月20日消印
杉並区天沼3-794 田中克己様

先達は失礼致しました。その節申し上げました外務省調査
局の仕事につき、来る二十六日丸ノ内ホテルで会合があります。
外務省から直接御通知申し上げる筈ですが御住所を届けるの
を忘れましたので貴兄だけ残り、御通知漏れになるかと心配になり
特に御知らせします。二十六日火曜午後一時丸ノ内ホテルまで御出
張を御願ひします。
世田谷二−一四五五 和田清 三月二十日


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【02】昭和21年3月24日渋谷消印 速達
杉並区天沼3-794 田中克己様

先日申し上げました外務省調査局の会合三十日正午
丸ノ内ホテルと改まりましたから御知らせします。
世田谷二−一四五五  三月二十四日 和田清


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【03】昭和21年12月14日消印
奈良県桜井町来迎寺 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 和田清 十二月十四日

御離京依頼どうなされかといつも心にかけて居ります。帰還の川久
保君にも逢ひましたがまだ詳しい話をきく暇もありません。さて此度ハ
小生の微恙につき態々御見舞有難う存じました。実は平年秋は前から
工合が変で、医者に見せましたら大腸の潰瘍的のもので或は癌になるか
も知れぬと脅かされ悲観して居りましたが、その後どうやら宜いらしく昨
今は疼痛も出血もなくなりました。多分大丈夫だらうと存じます。御安心を
願ひます。東京の学会も漸く恢復して東洋学報も復刊し、別に
研究室から「東洋史学」といふ新雑誌も出ます。二三責任ある善い印刷
出版やを見つけましたから何か教養向き位の玉稿を頂けたら早
速出版させます。先づは御礼の意のみ。


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【04】昭和22年6月9日渋谷消印
奈良県丹波市町 天理図書館 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 和田清 六月九日

先日は硲君(※硲晃)が見え、また今度は羽田君(※羽田明)が見え、色々御噂を承り
ました。御注意の白香山集は前々から石田氏より注意を承つ
て居りましたので、今度の御教示により直ぐ写し取って置きました。
その中、東洋学報にでも出しませう。幸ひ東洋学報だけは第一号
が今月中に出で第二号も既に校正が出了り、第三号の原稿を渡す
ところになってゐます。併し他は皆駄目で、前に申しました御原稿
など今頂いても何ともなりません。軽薄な国民が急に西洋化し東
洋のことに興味を失って来たことは著しいものです。学生も東洋史
は殆ど無くなりつつあります。併し古い諸君が残ってゐますから悲観は
しません。


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【05】昭和23年1月10日消印
奈良県桜井町神ノ森 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 和田清 一月十日

あけましておめでたうございます。皆様御障りなく何よりに存じます。
京都の学会の方へお入れ下さる御芳志があれば勿論喜んで参加致
します。何卒宜しく御願ひします。養徳社の方を三村君がやめたことも
承りました。同君が状況の節、榎君を通じ田坂興道氏の「回教の研究」
を養徳社から出して貰へるとかいふ話になりましたが、その後どうなりましたでせ
うか。非常な大部のものですから一部でも宜しいですが心配して居ります。
田坂君は今でも田舎で病気療養中ですが万事は榎君が世話をしてゐます。
東京は一向不景気でよい事はありません。御承知のやうに東方文化は愈々
東洋文化(大学内)に合併することになりました。東洋文庫も議会図書館
と一所になるかも知れません。新学制にでもなったら何かよい事でもないかと思って
ゐます。


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【06】昭和23年8月28日消印
奈良県桜井局区内 神ノ森 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 和田清 八月二十七日

御書拝見致しました。羽田君よりも再々御督促あり御希望の
次第諒承致しました。それでなくとも此際どこかよい所をと存
じて居りましたので阪大の話の時も勿論考慮致しました。併し今度
は教授だけといふことなので二三考へました末、台北大学の桑田博士
を推薦致しました。学部長が兄さんではやり憎いだらうとは思ひました
が重大な位置であり京大の方との釣合も考へ六郎博士にした訳
です。羽田君の説だと芳蔵博士(※桑田芳蔵、六郎の兄)が曖昧なことを言はれたやうですが
これはほぼ確定したことだと思ひます。随ってその後助教授といふ
やうな話が出れば兎も角、教授の方は推薦の余地はありません。
御考はよく解りましたから今後ともよく考へて置きます。


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【07】[昭和23年11月]消印不明
奈良県桜井局区内 神ノ森 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 和田清 十一月一日

大分御寒くなりました。愈々御元気で何よりです。
この度は又々学藝一部を御恵贈、誠に有難う存じます。
「いもの話」は大変面白く読みました。御礼申し上げます。
羽田君から御聞取りのことと存じますが同君の尽力に
より阪大は桑田教授、大兄助教授といふやうになりさうな形
勢です。桑田君が帰国したら第一に談じ込まうと思つてゐます。
当方はほぼ成算がありますが何しろ京都方は腕がよいので或は
他に競争者が現れるかと心配して居ります。その点では羽田君を唯一た
よりにしてゐるのですからその旨羽田君にお伝へ下さい。


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【08】昭和23年11月23日消印
奈良県桜井局区内 神ノ森 田中克己様

御手紙度々有難う存じました。なほ御近著「狐の詩情」一部
御恵送誠に有難う存じます。小生も聊斎は時々読み、柴田天馬氏
の名訳も大抵目を通して居りましたが、先日松枝茂夫氏の「支那の
小説」で聊斎が散々にこき下されゐるのを見てまた感心しました。
大兄の御努力でまた聊斎を見直すかも知れません。
守屋氏(※守屋美都雄)の本は荊楚歳時記訳注で二百字詰七百枚ばかりの力作です。
養徳社の叢書に通してゐるかと思つてお願ひしました。何分宜しく。
東京世田谷二−一四五五 和田清 十一月二十二日


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【09】昭和25年1月1日消印
京都市上京区大宮田尻町32 西田様方 田中克己様

謹賀新年
その後御無沙汰をして居ります。
桑田君は凡て心得てゐる筈ですが
天理外語と滋賀の短大も凡て通って
居ります。
東京世田谷二−一四五五 庚寅元旦 和田清


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【10】[昭和25年1月]消印
京都市上京区大宮田尻町32 西田様方 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 正月二十三日 和田清

阪大も国史は藤 直幹氏、西洋史は村田数之亮氏と
決りました。先日桑田君が帰って来ましたので同君にも懇
願して行って貰ふことに決めました。貴兄のことも十二分に
頼んで置きました。併し京都は辣腕で既に先輩の潮田
富貴蔵君も前期の教授助教授とも逐はれたさうですから
更に一番の緊褌を要す[事]と存じます。羽田君にもその旨よく
御話し置きを願ひます。志田(※志田不動麿)百瀬(※百瀬弘)両君が神戸大学へ行く
筈です。石原君(※石原道博)が茨城、星君(※星斌夫)が山形、山田君(※山田信夫)が静岡等々
は決りました。先づは俗用のみ。


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【11】昭和25年2月25日世田谷消印
京都市上京区大宮田尻町32 西田様方 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 二月二十五日 和田清

その後愈々御元気のことと何よりに存じます。この度は御苦心の御新
著「ハイネ恋愛詩集」一部特に御恵送、誠に有難う存じます。小生
よりも子供達が喜んで読んで居ります。先達、羽田君等約十名の会合があり
寄せ書きを頂き悦びましたが大兄の名がその中に無いので寂しく存じました。
なほ先日の羽田君よりの手紙によれば大兄の阪大の方の話が駄目になったと
いふやうな口調でしたがそんな事はありません。教授の桑田君さへつひ最近に
辞令が出たやうな始末でまだ助教授までは手が伸びないだけだと存じます。
官庁の仕事は非常に緩慢なので凡てこれからだと存じます。その事は桑田
君もよく承知の筈ですからこの際手を緩めずにも一度羽田君あたりから桑
田氏に御催促願ひます。当方からもなほ桑田氏上京の際に話して置きます。
詩人に対して俗談のみで恐縮致します。


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【12】昭和26年1月2日世田谷消印
彦根市池洲町 県立短期大学内 田中克己様

恭賀新禧
滋賀短期大学に御勤務のことは前から伺って居りましたが
先達、羽倉君(※羽倉啓吉)や入院中の羽田博士御夫妻などから色々御噂を伺
ひました。折角の英才を誠にその地に置かずして申訳ありませんが、
も少し御辛抱を願ひます。そして御計画の通り業績でもどしどし
御発表になれば、またよいことがあるかと存じます。
東京世田谷二−一四五五 昭和辛卯元旦 和田清


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【13】昭和26年1月14日新宿消印
彦根市尾末町33(短大教授) 田中克己様

その後お元気のことと存じます。
この度は御高著「ハイネ詩集」特に御恵投
誠に有難う存じました。小生も「中国史概説」といふ
変なもの書きましたので月末に上下巻揃ったところ
で御送り致します。御笑納下さい。
またまた御奥様はじめ皆様に宜しく。
東京世田谷二−一四五五 昭和辛卯正月十五日 和田清


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【14】昭和26年7月23日世田谷消印
大阪府布施町西堤町607 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 [四]月二十三日 和田清

暑中御見舞申し上げます。
この度は玉稿御掲載の新誌、滋賀短大新誌一部
御恵贈有難う存じました。その後愈々御健勝[賀]し
上げます。
阪大の方へは池田博士の推薦で、今度愈々守屋美都雄氏が参
ることになり、最近御赴任の筈です。東京でも皆張切ってやって
ゐますが、世評で見ると京大の方が概して高評で、東大は圧倒
されさうです。西澤でもこの頃大分東洋学者が出で、中でも正当の歴
史家でなく社会学や経済学の畑から出たGranet、Wittfogel、Lattimore、
Eberhard※などいふ人の方が理論が華々しく高評です。しかし内容をよく
読んでみると案外インチキでやはり正統派の方がよささうです。
(※Marcel Granet、Karl August Wittfogel、Owen Lattimore、Zangger,Eberhard)


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【15】昭和26年8月4日世田谷消印
大阪市外布施市西堤町607 田中克己様

暑中御見舞申し上げます。
先達、青木富太郎氏が見え御噂を
承りました。阪大へは池田先生の推
薦で守屋美都雄氏が参り最早
御地へ行ってゐる筈です。
八月四日 東京世田谷二−一四五五 和田清
松本善海氏は研究所の助教授になり川久保氏の
弘大教授も決りました。


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【16】昭和27年1月4日世田谷消印
大阪市外布施市西堤町607 田中克己様

謹賀新年
昨年は論文集のため玉稿を頂き誠に有り
難う存じます。御元気何よりに存じます。桑田
君や守屋君にも宜しく。
東京世田谷二−一四五五 壬辰元旦 和田清


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【17】昭和27年8月2日世田谷消印
大阪市外布施市西堤町607 田中克己様
東京世田谷二−一四五五 八月二日 和田清

暑中御見舞申し上げます。
真熱の折から皆様愈々御元気のことと存じます。
この秋には名古屋に歴史学部会があり、引続いて私は名
大で講義をする筈ですし、冬には別府に学術会議の部会
があり、それには出たいと思って居りますが、東方学会の京都
の大会には出ないことに決めて居ります。
またその中御目に掛る日を楽しみにして居ります。
岩波から出る人類遺伝学は貴台の御翻訳ですか(※同姓同名の学者)。


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