(2000.10.05up / 2015.10.10 update)

「伊東静雄の端書」

「伊東靜雄全集」所載 書簡No.357

伊東静雄の端書

奈良県丹波市天理図書館 田中克己様
大阪府南河内郡(黒山局区内)黒山村北餘部 伊東静雄

その後御無沙汰しました。「狐の詩情」ありがたう
ございました。着々と、身についたお仕事が
出來、(ハイネといひ、聊斎志異といひ)、うらやましく
存じます。お仕事が、全体でいかにもあなたらしく
ていいです。この上の慾を言ふなら詩を見せ
ていただきたいものです。ひとの、よい詩を長くよまな
いやうな気がして、自分でも書くのが、段々
(※億劫に)なつて來ます。又、学校が私をこき使
ふのにも困ってゐます。、中島君の本出るの
たのしみにしてゐます。
(大和文学いつもありがたうございます)

 札幌の古書店「弘南堂」さんから、注文した伊東静雄の端書が到着しました。掲示板にも記しましたが、 一点が数十万円するやうな有名文人の筆跡など生涯自分には無縁と諦めてゐたところが、「破れ有り」といふことで、敬愛する詩人の、それも先師に宛てて出された葉書が、 斯くも破格にて手に入るとは信じられませんでした。

 さて現物を確認したところ、全集の誤植を発見しましたので示します。中央部分、「ひとの(、)よい詩を長くよまない(やう)な氣がして」が、 全集では「ひとのより詩を長くよまない」となってゐます。

「中島君の本」とは、戦死したコギト同人中島栄次郎の遺作集の企画のこと。このとき結局実現しませんでしたが、故人とは京都大学の学友であった野田又男氏の編輯で、 半世紀を隔て1993年に『中島栄次郎著作選』として刊行されてゐます。 また「ハイネといひ、聊齋志異といひ」とは、田中克己が戦後早々に刊行した『ハイネ詩抄』『狐の詩情』の訳業をさします。

 昭和23年11月の消印は、肺結核を発病する半年前のもので、以後、伊東静雄は五年にわたる長い晩年の闘病生活に入ります。 当時の詩人は、戦後の詩作を世に問うた詩集『反響』を刊行するも、実生活においては相変らず一介の中学校(新制高校)教員のままであり、 敗戦を経たそれら詩作にみられる、平明な、透明感ある歌ひ口にしても、戦前の詩境と比較されては賛否をこもごもにするやうな状態でした。

 当時の詩人を指して 「なにかががくりと折れたような感じがある」とは江藤淳氏の評言ですが、その詩篇「夏の終り」を、 蔵原伸二郎の「風の中で歌う空っぽの子守歌」とともに絶唱として取り上げ、喪失感溢るる醇乎たる詩情に称讃を惜しみませんでした。 私は同時に田中克己の詩集「悲歌」に収められた「哀歌」を、さらには淺野晃、伊福部隆彦、芳賀檀といった、 戦後になって本格的な詩作に入り、「鎮魂・述志」といった鬱屈の志を遣った人々の詩精神をも、同列に掲げ、称揚したいと思ってゐます。

 さてこの葉書、宛先となった誰彼に一言、心に中る言葉を何気なく必ず挟む詩人ならではの自恃、はにかみ、そしてサービス精神が、 この一葉にも見られると思ふのですが、いかがでせう。 やりとりに温かい含みが感ぜられ、機嫌良くとれば「図書館勤め、ええですねぇ」と聞え、また言外に「最近詩、だめになったと違ひますか」とも読み取れます。

 田中克己と伊東静雄とは、詩人として立った当初から一目置き合つたライバル詩人同士なのですが、甘えて来る相手を選び、 ときに冷や水をピシャリと浴びせ返すやうな癇性も持ち合はせてゐた年少の田中克己に対し、この文面にはそれでも親愛の表現が感じられます。 云ってみれば良きライバルならではの、長く会ふことがなくとも「含羞」のボケとツッコミが瞬時に成立する関係が何とはなしに窺はれるやうです。


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