「日記」(「夜光雲」改題) 第十一巻 その4

昭和13年2月1日 〜 昭和13年12月31日


昭和十三年

  二月一日
四川は古の屬漢の國
先主 劉備とその遣嘱を受けた孔明が
魏呉と鼎立して天下三分の形をなしたところ
山々は凡て此の盆地を囲繞し
そこから鴉[石+龍]江 岷江 嘉陵江 沱江の諸川が平行して降りて来る
岷江がその支流の西康省から流れてくる大渡河を
入れる地は宋代以来の名邑で昔の嘉定府 今は樂山縣といふ
西に聳つて峨眉山がある
一八九一年、彼[※ 郭沫若]はこの地に生まれたといふから今年は四十五才だらう
彼が中学に居つた時 辛亥革命が勃発し
就中 四川は鉄道國有問題から巡撫端方が殺され
革命の口火の切られた地であつた
民國三年 彼は日本の福岡医科大学に遊学して
解剖学や病理学を専心に学んだ
所以は民國の民生を救ふ爲に
遅れた西洋文明を民國に輸入しよう
中でも医学こそ最もそれに適切と考えたからである
民國五年に大学付属医院の看護婦 安[口+那](アンナ)と彼は恋に陥ち
後に共に家庭をもつたのがそのひとである
但し彼は 已に四川で当時の支那に普通な如く
少年にして結婚をしてゐたことは云ふまでもない
この恋愛が彼に与へたものは
彼をして文学を愛さすことを教へ
就中歌徳(ゲーテ)と雪莱(シエリイ)とを愛せしめた
ミユーズがヴイーナスと同盟を結んだ時に
常に人々が爲さしめらるヽと同じく
彼は浪曼的となり 浪漫主義を愛した
彼は歌徳の恋の歌を訳し 若き維特(ヴエルテル)の悩みを訳し
雪莱がネープルス湾畔で傷みて作つたスタンザを訳し
施篤漠(シユトルム)の茵夢湖(イムメンゼー[みずうみ])さへも訳した
私はこの小説を甚しくは好まない  [※ 未完]

  二月十五日

筒井薄郎と池田日呂志君。 帰宅、立原の手紙。

  詩
澗[たに]まに悲しい樂を聞いた
簫[ふえ]と篳篥[しちりき]とをまじへた嫋々たるものの音
新しい墳土は積まれたか?
ひとびとは掌で面を覆つて帰つて来た
涙は指の間から滴り墜ちてゐた
どんな悲しみかを考へたわたしは
その夜 宴で賑やかな笑声に驚かされた
×
夜更け目覚めて薄暗い室中を見廻はす
子供は唇を半ばあけて睡つてをり
妻は背を向けて鼻息もさせてない
深い静けさが近隣を占めてゐる
突如として昔 少年の時分に
悲しい時出て見た 冬海の青波に
舞つてゐた寒い鴎の姿が見える
頼られることのさびしさを知らなかつたものを──
僕は声をあげて慟哭さへしたくなる
  ×
あれは夢だつたらうか
ひどいガタガタ馬車だ
道の曲角ごとに 吊りラムプの光に
崖にクリーム色の花々が咲いて
その蘂の中にクリーム色の蛾たちが
聚つてゐたと見たことは──
わたしがさう語り出した時
若い友たちは目的地の計画を語り合ふのを止めて
気の毒さうに合図の目くばせをかはした
  ×
その日 誰にも見とられずに行かう
寒い暗い一本道を松の木の下へ
誰がついて行けようぞ 先祖の方々も
行つた道だ ひとりで面を覆うて
悲しみか怖れか──頼りない感じのみ
それを我々は寒さや暗に置き換へる
  ×
かつて桜井から奈良へゆく汽車で
三輪山に連なる布留や高圓の山脈を
わたしはさむしい思ひで見てゐた
それから六年 我が姿はいよいよ細く
山脈はけふ見ても寒々しく裸だ
萬葉人は何としてこんな山々を歌つたか
この冬のさびしさを夏に忘れたか
親しい人々を此の麓に埋めなんだか
奈良の停車場でわたしは身慄ひしてゐた

  三月十八日
けふぼくははじめて黒龍江を見た
河の水は黒く早く流れてゐた
堤には柳が芽吹いてゐた
裸の 枯芦だけを着た河中の三角洲で
(望遠鏡で眺めたとき)
金髪の兵隊が立て銃[つつ]や捧げ銃や
立ち射ちの構へをして遊んでゐた

遠くV市の空に一点黒いは
偵察機か戰鬪機か──
急降下したり上昇したりしてゐるのが見えた
お祭りの前の日やうに華やかな期待はありながら
悲しい気分にあふれ
歩哨に立ちながら 君たちのことも思ひ出す

お祖父様も曽祖父様もこヽでお生れになつた
高祖父様はこヽで菜種油を商つてらつしやつた
泥溝のやうな堀割の網の目の中に
黒い暗い家々がぎつしりと立ちならんでゐる
窓の数が少ないのは金貨が逃げぬ爲だ
詩を作るなんて──何と馬鹿げたことだ
取引所や銀行や帳場や電車の中で
せかせかと鼻音の夛い異國語がはなされてゐて
公園や街路の樹木は皆枯れてしまふ

詩を作るなんて──何と馬鹿げたことだ
曽祖父様は俳句をお作りになつたが
そのため紀州通ひの船貿易で大分損をなさつた
角帯をした番頭は少なくなつたかはり
人々は頭髪をきれいに手入し サンデー毎日や
競馬の雜誌を抱へて朝晝往来する
空は終日暗く 夕日のときだけ町はちよつと明るくなる
算盤の音が止み 人々はペンを耳にはさんで小さく欠伸する
しかし堀割から夕もやが立ち出すと 家々は戸を閉めて
一日の決算がひそやかに行はれる そして父が子にさとす
詩を作るなんて──何と馬鹿げたことだ

  Sのこと

彼と僕とが知合になつたのは、高等学校の野球部のことからである。体の弱い僕は勿論選手になれなかつたが、マネージヤーに任ぜられた。彼は僕の前々任のマネージヤーであつて、 第二投手を兼ねてゐたこともあつた。そこで大学へ入つてからも毎日練習を監督しに来てくれた。もう一人同期のキヤツチヤーをしてゐたKも毎日来て、此二人を我々は先輩として尊敬し同時に大に煙たがつた。 かうして二年経つて僕は東京の大学に入つた。彼はその後も一年程高等学校へ練習を見に行つてくれてゐたらしいが、僕は全く部から遠のいた。しかし休毎に帰ると殆ど例外なしに彼を訪れた。 彼は大学院へ通つて相変らず哲学を勉強し、かたはら禪学を修め、易を学び、碁を打ち──といふ風に夛方面な暢気なくらし方をしてゐた。こんなことが出来たのは、彼は両親はあつたが、 高校時代から家庭教師として入り込んでゐたT家といふのが一家そろつて善い人で、裕福な気前のいヽ生活をしてゐる処へ、彼の親切な正直な気持ちが理解されると、 教師としてでなく子供の兄として扱ふやうになつてゐたからであつた。彼は何時も書棚にレクラム文庫や一切経や哲学の部厚い書籍類を並べてゐたし、相談事には適切な忠告を与へてくれ、 場合に依つては親切に実際上の世話をしてくれるのだつた。僕は彼のゐるT家に宿つたことも幾度もあり、碁も並べ方丈は教はつた。大学を卒業する年、僕は休みに例の如く彼を訪れ、 卒業後の方針を問うた。といつてあれこれとすることがあつてどれをしようかと云ふやうな、贅沢ではなくつて卒業後どうなるかと聞いたのだつた。彼自身は三年間大学院でくらした後、 その年の九月頃からN中学に就職してゐた。但し哲学を学んだ因果とて、教員の口のあくまで書記をやらされてゐた。
彼は筮竹[ぜいちく]をとつて型通り卜つて云つた、
「きつと口があるから心配するな」。
僕は半心軽蔑し乍らもその卦には気を好くした。ところが三月卒業すると就職口はない、入社  ※試験には落第する、僕はすつかり意気沮喪した。 卒業論文の成績がいヽらしいから大学院におさまつて、末は大学教授をゆめ見てもいヽわけだつたが、これは父のやせ脛で到底出来ぬことであつた。

  四月四日〜六日 大江紀作と紀州旅行。 紀の國の日高の海岸をつたつて、皇子の御歌で有名ないくつかの浦曲や峠をすぎて南部(ミナベ)に着く。その町を出はづれると鹿島神社がある。老松の鬱蒼と茂つた神々しい社で、 その境内には表示があつて「鹿島は大神の神遊び給ふ地にして、就中東神山は千古斧鉞を入れぬ地なれば云々」と記されてゐる。 小手をかざして眺めると蒼靄模糊たる中に二つの神山が並んで見える。

夕陽は海いつぱいになつて沈んで行つた
島はもう霞んではつきりは見えぬが
あの木立は亜熱帯性の樟や椎や樫や
常緑蔦が密生して晝もなほ暗いのだらう
大海に面した側には桜や椿や藤が
海の青と対照した美しさをもつてゐるだらう
そこで火をともして神々が髯垂れて
遊び給ふ姿を神鹿たちが觀てゐるのだらう
宿について夜になると風のまにまに
波の音と笙篳篥[ひちりき]の音を聞いたと思つた

[※ 中皇命往于紀伊温泉之時御歌 他六首抄出。]

春の風景には夏の徴候がある
紀の國の金色の柑子は暖かい雨に濡れて光つてゐた
海は青く夢の中にまで輝いてゐた
──それほど明るい雨だつた
峠の村で蘇鉄の花を見た
浜木綿は村役場の前に植えられてゐた計り
西南に開いた灘に桜が散りかヽり
古い祠の扉に戦勝祈願の札を貼り
恐らく彼等は山畑を捨ててしまつたらう
妻を連れて来べき旅のさびしさは
夜 絃声湧くが如き田舎町に眠つてゐた

夕日は華やかに沈んで行つた
飛石のやうに見えてゐた岩礁を潮がかくした
島はむらさきの霞が立ち罩めた
樟や椎や白橿や竹柏(なぎ)の木立の中の
常緑藤(キヅタ)や藤蘰(フジカヅラ)が茂く垂れ下つた地面で
大海に面した側には桜や椿や藤が
海の青と対照した美しさをもつてゐるだらう

篝を焚いて神々が遊びたまふ時と
若い神々は笛吹き篳篥を奏(かな)で
老いた神は髯撫でて何思ひたまふぞ
麋鹿[なれじか]は足を傍へに坐り聞いてをり 鳩たちは枝々に眼とぢてゐた

  五月十六日    A Mme.M.
どんなに愁しい時だつて
恋歌なんぞ歌ふまい
さう思つて十一年すごして来た

歌はだけどみんな恋歌だつた
僕の顔は黄ばんで
目尻に皺が寄つた

そしてけふ途中で人妻になつた
彼の女を見かけた

牛肉と葱をもつて
帰るところだつた

彼の女は僕を見
僕はその顔をみつめた

御丈夫ですか
旦那さんは立派な方ですか
犬や猫や小鳥を飼つておいでですか・・・

僕は色んな思ひをこめて
その顔をみつめた

それから行き過ぎて
煙草に火をつけて
妙に手がぶるぶるふるへるのを知つた

  五月二十日
五月来たれり
わが蒔きし諸々の花 開きたり
さなり わが蒔きしを忘れたる花さへ──
垣根には蔓薔薇
池に花菖蒲──
我が家は花やぎ 久々に
家ぬちに笑声起るごとき心地す
厨には金色の酒満てし瓶に

  七月十一日
夕頃、校長を訪問、辞意を告ぐ。快然として?承諾されき。我への反感の強さも露はなり。
尚ほ「どなたかと衝突されたのか」との質問あり。馬鹿にしてゐる。村田幸三郎を訪ね碁を打つ。三連勝。小宮豊隆「夏目漱石」をよむ。身にひき比べて興ふかし。

 俳句
夕立のすぎたるあとや青臭き
向日葵や家々毎に水を打つ   夏夕
蚊の声の燈消せば昂(たか)くなりしかな
百日紅まだ見ぬ夏や旅を恋ふ
猫の子の夜啼きや妻は眠りをり
四つ角に樂隊ゐたる暑さかな
田を植えしあと蛙らを聞くばかり
祭彼方此方 生徒(こ)らこの日頃遅刻がち
晝顔や夏を泳がぬ二三年
蜘蛛の巣にわが家わびしくなりにける
桐の花高く咲く道ありしかな   憶阿佐ケ谷

  七月十二日
放課後、本橋謙一氏を見舞ふ。省線を灘まで乗越し水の実況を偶見、澤井孝子郎氏に駅に  ※
て邂逅、帝大出そこにても憎まれるヽ由本山に引返し本橋邸に到る。会談半刻魂の触るヽものを感じたり。
芦屋に大江叔母を問ふ、不在。田辺の父宅に至る。夜、杉浦宅にて西鶴輪講会の送別会あり。
会者、岩渊悦太郎、岡本新太郎、吉永孝雄、川崎鉄太郎、島居清諸氏、杉浦、予。

 駄句(杉浦の言)
驟雨や蝶ども何の草の蔭
白蝶の翅もぐほどに風の吹く
ラムネなどの罎の数よむ残暑かな
青胡瓜朝の間の涼しさよ
厨べに飯饐ゑゐたる暑さかな
猫の子の四匹生れし暑さかな

  七月十三日
放課後、小川、島居二子来訪、小川子カフス釦を贈らる。
夜、防火演習。酒井賢先生に上京を告げ参らす。

  七月十四日
 石浜大壷先生訪問、上京を告げ参らす。原栄之助子の神経衰弱について憂慮さる。
他人よりトリツペル[※ 淋病]と思はれゐざるかといふことが強迫観念になりをる由。
君が逃げはせぬかとて方々口を探したがむだなりし由申さるる。
 興地実英、本庄実両先生に留訣申上ぐ。

別れ路や今年はじめの蝉を聞く
夕方の簾吹きゐし青田風
(吾加大壷)先生の眉いつまでも太かれと

  七月十五日
金截千生来る。雨月物語を留別の資に充つ。
「コギトに「始皇帝の末裔」二十七枚を送る。思へば一昨年の稿なり。
」 建[※ 弟]来る。海水浴場に行く間に村田幸三郎君来り本日不在の由名刺置きあり。
夜、田村春雄君を訪ふ。

  七月十六日
七時より橿原神宮外苑の勤労奉仕。皈途、大鉄にて片山寫眞館。
板井、金川三氏及び谷口君と会食。

ここ橿原の大宮居近く
炎天は熱の爲 曇りに近く
草の香却つて馨ばしかりき
三山は昔に変らねど
人の心うつろふまヽに
あらくさはら
荒れし地の雜草掃ひ
土均(なら)し 畚(もっこ)もちゆき
この世をば いかで昔にかへさむと
我思ふとき手に力無き
    松村一生[※ 生徒]曰く、 師は体裁に来とる

  七月十七日
日曜、父、大[ひろし※弟]来る。学校へ採点もち行く。高見氏を問ふ。帰宅して
中島が澤田君宅に居るを追ひゆき、夜九時まで話す。此間母も来る。

  七月十八日 朝、浪中の水練場を問はんとし、吉野氏と途中に会ふ。上原氏、母上危篤の爲本日の帰郷の由。午後亀井、荒井生来り算盤す。野球部生より辞職の話聞きし由、 松根の饒舌の故ならん。夜、野田又夫氏来訪、書籍を返却の爲。浜寺に卒業生式田の家あり。会つて石田義巳の死を聞く。

  七月十九日
肥下より来書、「始皇帝」愉快に読みし由。吉野氏を訪へる間に園克己氏来訪。
二十分許して帰るとの事。一時頃、園氏再訪。

七月二十日
登校、通知薄発送。全田家へ行く。夜、伊東氏と安西冬衛氏を訪ふ。   ※

  七月二十一日
○○会[ママ]の送別会。その前に職員生徒に別辞を述ぶ。校長の挨拶中々巧みなりし。
送別会前に長池クラブにて撞球十数次。
○○会員(欠席、上原、本橋二氏)松根、松井、金川、原、楠田、山本、小川、
     島居、今、吉野、横山の十一氏。

  七月二十二日
朝より荷物発送。午後コギトの会、矢倉ずしにて。伊東、中島、杉浦、坪井は奈良より会す。
会後、寄書の扇を貰ふ。 金鳳昊、島居氏此間来訪。

  七月二十三日
田辺に昨夜は泊り、清徳家、今井祖母、服部、杉浦を歴訪。服部は昨日二時間遅刻の爲会へず、夫人懐妊とのこと。夜金川君を訪ひ談話数時、外に出て池田勉氏(文芸文化同人、今宮中学)に会ふ。

  七月二十四日
朝、松下を石橋の病院に見舞ひ、令兄夫妻とも邂逅、小西君来合せゐたり。京都にて藤枝に会ふ。羽田博士邸を訪ひ明君母君に会ふ。今西春秋氏を泉湧寺内の家に訪ひしも不在。   ※
夜九時半、尼崎の婦宅を訪ひしゆき子、史と京都駅に会し一路東上。

  七月二十五日
七時半、東京着。阿佐ケ谷の祖母を見舞ふ。船越夫妻来合せゐたり。十時、肥下を訪ふ。
夜、天沼に入る。

  七月二十六日
午後、肥下を訪ひコギト八月号の校正をし、松本善海君を訪ひ、共に新宿へ出づ。
はじめて特保喫茶店なるものに入る。川久保君不在。

  七月二十七日
コギト校了。小高根、薄井二君も来る。銀座ニユートーキヨーにて夕飲。橋善にて飯を食ふ。

  七月二十八日
午前中、本の包を解く、退職挨拶書を印刷に附す。二時半東洋文庫に和田教授を訪ふ。
岩井主事にも面会。共に退職の無謀をたしなめらる。金沢良雄君は川久保君と同所(国際文化振興会)に勤めゐられ、同道して文庫に来る。松本、川久保二君と新宿に下車。 松本君宅にて「清鑑易知 」を受取りて帰宅。川久保君の恵与したまふ所也。
船越君より「陣中の竪琴」借し賜はる。
 先生に叱られゐたる暑さかな
 書(フミ)はみなかびてをりたる暑さかな

  七月二十九日
午後、東洋文庫にて「清朝寔録」、「康煕盛学通志」を見る。後者は同文庫地方志目録には康キ二十二年、初修のものの如く記しあれど、見るに続修(五十年)なり。
帰途駒込駅にて兵士の列車にて出征しゆくを見、手帛をふりたるは我のみなりき。
川久保君宅に寄り、「清史稿杜臻傳」を寫す。

  七月三十日
午後、肥下を訪ふ。コギト出来しをれり、伴ひて家に帰り来り薄井を待つ。程なく来つて
俄かに明日結婚する故二人を招待するとの由、二人呆然たり。夕食の後帰る。
本日中島より来書。
  三句中島へ
祇園会を旅にて見たる暑さかな
凌霽花 高く咲きたる暑さかな      ※
かなかなの降る程なくがわれの家

  七月盡日
薄井の結婚式に臨む。新婦は岸川氏政江嬢なり。媒酌は会社の若手の重役らしく、我々友人は上座に坐らされたるに恐縮す。席上薄井の無口を軽く非難する人あり。
生島某嬢祝婚歌を歌ふ、後に来りて我に挨拶す。長野、肥下と三人にて新宿に下車、長野漢口陥落後の國内騒擾の豫想を説く。肥下と赤川草夫氏の古書肆を訪ひ、
「西園寺公と湘南先生」を索め来る。些か開店祝賀の心算也。           ※
帰宅後、ゆき子前途を心細しとてか落涙す。

  八月一日
三好達治氏より葉書、勇ましとて賞め来らる。昨日今日にて退職挨拶状約百枚発送し畢る。
午後東洋文庫にて「吉林通志」(光緒十八年)を閲讀。夜、ゆき子、史と駒込叔父宅を訪ふ。

  八月二日
午後、東洋文庫、昨日のつヾきを閲讀。和田先生、階上より莞爾として会釈せられたり。
帰途、川久保君を家に伴ふ。夜、肥下を訪ふ。詩集、杉田屋見積りにては二百五六十円とのこと也。本日立原氏より来書。室生犀星氏るす宅にて病臥中とのこと。
他に定野弟君、田中太一郎より来書。

  八月三日
ゆき子、川北病院を訪ふ。子宮外妊娠かと云ふ。

  八月四日
妊娠に非ずとの診断也。夜、肥下来る。百五十円位にて詩集出し得る由。本日午後、日華生命に坂本氏を訪ふ。就職の件なり。

  八月五日
薄井君を家に新婚祝ひの爲、訪ふ筈なりしに手違續出、果さず。
五時立原道造君と新宿に会ふ。堀辰雄氏昨夏、軽井沢に会ひし加藤氏[※ 加藤多恵氏]と結婚されし由。夜、肥下宅を訪問。ゆき子やはり妊娠にて流産せし也。

  八月六日
午後、文庫。上野図書館を訪ふ。 G.E.Harvey及び Phayreの「ビルマ史」閲讀。及び「日露戰史」。

  八月七日
日曜、午後中野映画劇場に「乙女の湖」と「ブルースを吸ふ女」を見る。前者にてエリツク病みて料理女の褥に眠る時、女のシユミーズ一つになる場面、慄ふほど扇情的なりき。

  八月八日
午後、日華生命に阪本氏[※ 阪本越郎?]と会ひ、大久保の帝国第一女学校の校長増田悟策氏を問ふ。仝校にては講師一時間一円にならず、専任も五六十銭の割なる由、驚き入る。

  八月九日
三越、青木陽生氏夛忙らしく働けるを見ゆ。丸善、○○会[ママ]の餞別なる切手にて記念品を購はんとせしがかなはず。フイルモン、薄井氏を訪ね、結婚祝ひを渡す。
三河屋にて晝食。京拓兒、長野氏を問ひ会談。日比谷図書館にて「日露戰爭実記」をよむ。

 鴎外と同じき八幡丸にて田山花袋、博文館の役軍記者として渡れり。 三等船艙にて汚穢  ※と臭気に悩みしを記す。
 長山列島にて三笠[※軍艦]よりランチ来りて奥司令官をのせゆきしとありて鴎外とそです。
敵襲ととりちがへし椿事の際は軍医部と共にゐたる筈なるに記さず。
 肖金山は金州東南の高さ三百米の独立高地なり。倒れし旗手は第一師団の第一連隊か、五人の旗手を代へたりき。
 南山の尖頭せしはわが第四師団の第八連隊なり。午後七時半に山頂に至りしも肖金山よりよく見えしなり。
 第四師団の悪評は日清戰役の際にはじまりし如し。その原因は不明なるも、出動の期おそく休戦となりて特功をあげ得ざりしにもよるならん。 此役師団の中堅将校悪評を取り返さんと殊死して戦ひし旨、同記に見えたり。

夜、肥下を一家にて訪問。赤川書店を訪れ、製本の相談を決む。
「欽定史記」(光緒図書集成本)を二円半にて購ひ帰る。此日、羽田ブリユージユより便りあり、青雲の志を捨る勿れ云々。

  八月十日
終日家にあり、漢文中の清語のカード二百枚を作成す。

  八月十一日
阿佐ケ谷の家を問ひ、履歴書一通を托す。文庫にて「八旗氏族通譜」を閲す。馬佳氏は満洲の名族なり。五時、池田春三氏と会ふ。
午後十一時汽車にて見送る。餞別を贈られ稍々迷惑をかけたり。昨日は野田又夫氏より「習慣論(ラヴエツクン)」を、本日は立野保男氏より、「戰爭と資本主義」を贈らる。
所謂福徳ありか。帰宅、本庄先生より、御餞別届きゐたり。

  八月十二日 終日家居。夜、肥下を訪ふ。

  八月十三日 終日家居。

  八月十五日 千草[※ 妹]を訪ふ。

  八月十八日
安田生命に三橋氏を訪ひ、就職を依頼す。丸善にて「井上支那語辞典」を、文求堂にて郭沫若「創造一○年」を購ふ。

  八月十九日 肥下を夜訪問。

  八月二十日 川久保氏を訪問。及川「満洲通志」借り来る。

  八月二十一日
小高根、薄井を肥下と共に訪ふ。夜、小高根、肥下三人にて月島へ涼みにゆく。

  八月二十二日
肥下来りて中島の入営を告ぐ。詩集の原稿出来。

  留別
 君のこり我がゆく夏の夜なりしに
 目に沁みて巷の秋の風のいろ
 秋草に旗たれゐたる門出かな
 この秋もさびしき秋と申すなり
先の日 立野保男(在菅 )に
 山路ゆけばたヾ桔梗の蒼からん
また立原道造に(在追分)
 秋草の早や蓬々と山の宿

  八月二十三日
肥下を訊ね、原稿もちて杉田屋に行く。午後東洋文庫、「八旗通志」及「満洲実録」をよむ。
鈴木俊、川久保悌郎二氏に会ふ。途中省線電車にて杉山元治郎、麻生久の二人を見る。
風采宜しき人々なり。

  八月二十四日 本郷東片町「一叡舎」[※ 印刷所]に詩集の原稿を渡す。長野、小高根、肥下と、中島に贈るべき日の丸に署名す。

  此の秋はゴビの沙漠に旗立てよ 肥下
  我が喚ばふ萬歳載せよ秋の風  僕
  すめろぎの の軍[いくさ]に海越えて遠征く君はまさきくありこそ 小高根

  八月二十五日 東洋文庫にて松本善海に会ふ。

  八月二十六日
目黒緑ケ丘の近藤信一氏を訪ふ、田中三郎氏の叔父なり。就職の件。津村信夫氏を訪ふ、留守なり。夜、大阪より佐渡旅行の途次東京に立寄りたる小川浩氏を案内す。

  八月二十七日
青木徳一郎氏の手引きにて東亜研究所の穂積永頼氏に面会。東洋(学科) 史よりはやはり三人入所しをる由なり。コギト校了、保田、詩集の広告を巧みに書きくれゐたり。

  八月二十八日
午前中三橋孝氏を訪問、海軍省山本次官に電話かけて貰ふことヽす。午後肥下宅を訪ひ、[※詩集]発送用状袋の表書きをなす。

  八月二十九日
夜、肥下を訪ふ、保田来り会ふ。肥下は明日、保田は明後日、中島を送る爲西下。此日コギト出来。

  八月三十日
夜、松隈医学博士を青木徳一郎氏と訪ふ。東亜研究所、池田大佐に紹介を頼む爲なり。  ※陸相秘書官赤松少佐の名刺を貰ふ。

  八月三十一日
午後、企畫院に池田大佐を訪ふ。偶々わが履歴書来る。大佐見て「学校の先生か!一度本人を呼んで詮衡することに致しませうか! 」
と、意味ありげに嗤ふ。何ぞ計らん、これわが履歴書なりしかば大喝して
「かう方々へ頼んでは駄目ぢやないか」
と。われも憤慨し応酬す。とも角詮衡の列に入るを得。
                       [※ 東亜研究所をめぐる人脈相関図有り]

  九月一日
文庫にて松本と会ひ共に丹波鴻一郎を訪ふ。新婦を見んが爲なり。

  九月二日
東京建物会社に西川を訪ひしも三度目の留守。隣の槇町ビルの平凡社に青木富太郎氏を訪ふ。

あはれわが秋こそ来つれ
この秋は何にすぎゆく秋なるぞ

  夏中蝉は啼いた 声のあるたけ樂しげに
  空は澄み 夏の花はすべて衰へた
  蝉は狼狽へた さうして眼を据ゑた
  ある夜 天来の智慧が囁いた
  身のなる果を 暗い夜の蔭を
  蝉はもう眼をとぢて木の根に蹲つた

おれのまはりに張りまはした此の縄を
とびこへる とびこえる 笑つてとびこえる
それは弱い それは低い
断るか とびこえるか
觸れるのはいやだ それは恥辱を齎すから
とびこへる とびこえる 笑つてとびこえる
       [※ 「星[※不詳]勝覧」より靈山を抄出。(漢文及漢詩十行)]

  九月三日
文庫にて和田教授に会ひ、東亜研究所の件をお話す。先生もしきりに大学の権威の陥ちしを嘆かる。此日、「蒙古源流」(漢文)と「[※不詳]珂支那通志」購ふ。

  九月四日(日)
 午前八時、杉浦より来電。十時阿佐ケ谷駅にて会ひ、西川英夫宅を訪ふに留守。
 それより伊藤松宇先生のお宅を訪問、地は小石川関口台の中腹にして旧芭蕉庵の跡なり。
先生钁鑠たること驚くに耐えたり。建部涼袋を愛し、夛くその作を集めらると云ふに所望してその「威振八紘図」等を覽る。
保田が涼袋論[※ 「戴冠詩人の御一人者」所収]をよみて感心 ※されをりし由。
それより御案内にて芭蕉庵の跡を見る。毎日、雉、数双の来り遊ぶとふ橋を渡り、
井泉の配置うるはしき俳句の季題にありとある野の花もて埋めつくしたる庭の有様面白し。先生の句碑もありて

「眞中に富士聳えたり春の園」

とよまる。先生感心癖あり。又、警句を連発さるヽも中に忘れざりしは、前日の颱風に折れし竹を見て夛くの中にこの竹の折れるのは運命かと嗟嘆されしこと也。
この庵もと田中光顕伯の邸地なりしも今は講談社長、野間清治の有に帰す。    ※
 野間氏、先生の俳句の書、万巻を購ひ、先生百年の後までは之は委託しをくとのためにこの宅を建てしとなり。田紳にしては珍しきことかな。
 杉浦と別れ、佐藤春雄先生を訪ひしにマスラオ、「お父さんの出発は十四日」とのことに面会を求むれば、先生出迎へらる。
「お忙しくなきや」と問へば「別に忙しくもなけれど先客なり」とのことに匆慌辞し去る。醜態自ら嗤ふべし。
 帰宅、肥下、中島より来信。中島の即日帰郷を報ず、当然事なり。午後十時、杉浦と再び新宿に遇ひ、共に國立の杉浦叔父別墅にゆき泊る。
この夜、杉浦の句、
 月清き大和島根を船出して
枕頭に漂ふ。夜半二時に目ざむる。本位田、丸を夢みたり。

  九月五日(月)
新宿にて杉浦と訣れ、目黒の近藤信一氏を訪ふ。それより田園調布の青木家を訪ひ、二時半、安形英雄と会ひ、家に伴ひ帰る。八時まで語る。
近藤翁の話に、松竹日活等にては大学出を一○円にて見習三ケ月の後必ず退社さす。浅草に殺人請負業あり、眠らすは六十円、半死半生は四十円、打毀しはルンペンによれば十銭なり。
又前東京商工会議所会頭、藤田謙一はモーニングのまヽ引くりかへるが得意の暴力団なりしと。日本よ如何なる!

昨日今日兵ら流せし血の如く
もののふの流血のいろと
佛桑花 紅く眞紅く咲きし岡の辺
木々は皆梢ゆれたり
これやこれ颱の跫跡
はらはらに雀鳥は枝移り
わが見たる眼路の末にし
帰り来 渡洋爆撃機
かの大佐猛き眼もちて
いく人の人を殺せし
わが胸の羊血ゆらぐ

  九月六日
本日は八方を馳せ廻りたり。これもわが心から。
一叡舎(九時)──文庫(九.三○)──美術研究所(十一.五○)──企畫院(○.三○)
──安田生命(一.三○)──日本フイルモン跡(二.○○)──小高根太郎(三.○○)
──薄井(五.○○)──川久保(七.三○)──松本(八.○○)
けふ「西康省」の初稿出ではじむ。企畫院で会ひし小西大佐は、先日池田大佐に履歴書取次ぎくれし蓬髪黒面肥満型の男なり。沼田鞆雄氏、東亜研究所に入りし由。

  九月七日
午前中平凡社の原稿を書く。正午肥下を訪ひしも未だ帰宅せず。
小高根を研究所に問ふて陸恢、鎭江派、曹霑につきて調ぶるも不明帝国図書館にて陸恢のみやヽ要を得たり。図書館入りの連中の貧相なのと、館員の横柄なのとに情無く感ず。

  九月八日(木)
文庫に行き松本とニユースを見る。五時半、来庫の立野保男を迎へ幸島、倉辻の二氏と歓迎宴を新宿にて。後、玉を突く。

  九月九日(金)

夜、立野を案内し、家に泊まらしむ。

  九月十日(土)
立野を帝大につれゆき、神田にて玉突き。三時東京駅に見送る。肥下来る。

  九月十一日(日)
退職手当来る、一五○円。○○会愈々解散の由、腑甲斐なきことかな。夜、肥下を訪ふて猥談す。

  九月十二日(月)
〒中島。本日より燈火管制。島居君、出征の由。肥下を訪ふ。妹節子嬢、僕の詩集所望の由。

  九月十三日(火)
〒伊東、松根、松井。肥下と印刷屋一叡舎に行く。詩集の内金四十円を渡す。武蔵野館にて  ※「舞踏会の手帖」を見る。

  九月十四日(水)
立原道造より昨夜速達あり。その指定に任せ四季社に行き、日下部雄一、津村信夫二氏と初めて対面す。立原は明日岩手へゆく由。
二氏と別れ、送別に中村屋にて支那鏝頭を食ふも可笑。留守中、沢田直也訪ね来りしに付き、電話して明日行くことを約す。

  九月十五日(木)
肥下と連れ立ちて保田の新居を訪ふ。堂々たる家なれど妻君居るや居らずや紹介せねば変なことなり。「戴冠詩人」を東京堂より出すとの由。
印刷屋にゆき校正の間に沢田を朝栄館に訪ふ。大学の入学試験の際わがゐし下宿なり。印刷屋に引きかへせば既に五時、
間もなく燈火管制にて乗物動かず、富士神社前まで来れば絶対に歩行を止めらる。抗議せし青年、警察へ引張られたるを見て動けず。
遂に二時間を立往生し満蒙研究会はゆけずなる。
この日詩集校了す。

  九月十六日(金)
クレオパトラ三十一枚にて一先づ今月分とす。肥下を訪へば留守赤川氏の店にて多和氏と待合せ、京橋の紙店にゆく。
思ひ設けし紺碧色[※ 詩集の表紙]なく、止むを得ず鉄色の鳥の子紙とす。一冊につき四銭の品なり。次で杉田屋にゆき広告の紙型とらしむ。
新宿にてニユース映画を見、川久保君を訪ね昨日の詫を云ふ。藤沢桓夫氏、わが上京を小説書く爲と猜し居られるとか。

遠雷の如く殷々と轟き
我友中尉小寺範輝の柩車来りぬ
死者に敬礼せよ
十月の初咲の菊の花だに萎れたり
・・・・・・・・・・・・・・
  ★
わが上に日々美しき空展け
鳥は飛び 君笑まふ
海原の微かなるとよめきの
朝に夕にわれ聞く

  九月十七日(土)
コギトの会開かんとす。定刻、肥下、長野来るも薄井、小高根来らず一時間して保田来る。
その間、萩原朔太郎氏颯々と眼下の道をゆくを見る。保田の話に、芳賀檀の家にさる人ゆき「四季」を借りたるに、神保の詩のみ直してありしと。
コギトの改組を保田云ふ。肥下は喜ばぬ様なりしが、新同人として名あがりしは大山定一、芳賀、立原、桑原、亀井、中谷などの諸氏。

  [※ 尖閣列島の話]
 彭佳嶼(ピエンカアスウ)──基隆港外の北東にありて三島嶼あり、一を彭──又は草莱嶼(ツアウライ)といひ、欧米人の所謂アジンコルト(Agincourt)島即ち是にして、
キールとの鼻頭角を去る三十浬三六、周囲一里三丁とす。
 一を棉鼻嶼(ビエヌホエ)又鳥嶼(チヤウ)といひ、欧米人の所謂クラグ(Crag)島にしして、鼻頭角を距る二十三浬二二、周囲二十町、
一を花瓶嶼(ポエパタ)といひ欧米人の所謂ピンナクル(Pinacle)島、 鼻頭角を距る一七浬一三、周囲六町。この島々につき最初に踏査したのは西暦一八六六年六月、
英国軍艦サアペントの支那海を回航する途次、棉花嶼の附近水深九尋の所に投錨し、艦長ブロツク少佐が三島の位置形勢を測定したるを最初とし、
アジンコルト・・・の名を附したるも此時にして、之を翌年刊行の英國海軍海図に記せり。
 彭佳嶼といふ所以は「此嶼、幽邃不泥俗塵、可以静養神気、如古昔老彭祖、住居佳景壽山」といひ、草莱嶼は「遍山皆草芥、如入無人之境、亦彷彿仙家蓬莱」といふ。
アジンコールトといふ名は、原と[もと]と佛國のパスデカライス地方に属する一村落の名にして、西暦一四一四年、英王ヘンリー五世の佛國と交戦せる時占領せる地に係る。
 第二嶼の棉花嶼といふは、日本水路誌に「鳥類は沖縄人の所謂白イソナ、黒イソナの類にして、その多数なる殆ど計算すべからず」といへる如く、夏秋の季節に至りて、
此の鳥群の渡来のために、島面を覆はれ、一斉に飛揚する状、恰も棉花の風に舞ふに似たるに因みたり。淡水廳志にも「海鳥育卵於此、南風恬時、土人駕小舟、往拾曰得数斗」といへり。
 クラグ島といふは巉岩[ざんがん]島の義なり。
 第三島の花瓶嶼といふは、孤立せる尖形の岩石より成れる形状に出で、ピンナクル島といへる名も尖閣島の義なり。

  九月十八日(日)
西川午前中来る。金鳳昊来る。松本を訪ね、赤川氏を訪ぬ。印刷出来しにより製本につき依頼の爲也。この日調べし結果、コギトの会の案内発送を忘れしと判明。
ゆき子本日青木宅訪問、千草[※ 妹]の見舞の爲。

  九月十九日(月)
詩集の印刷出来につき、印刷所、製本所、肥下宅を数次往復す。その出来に不満あり。

  九月二十日(火)
本日も肥下と詩集のことに拘[かかずら]ふ。印刷所本郷片町一叡舎を訪ね、難詰す。その難点次の如し。

1、紙ハ横紙ヲ使用セル事 [※ 紙目が横で皺がよる事]
2、紙ノ色合様々ナル事
3、厚キニスギテ不体裁ナリ
     コレラハ独断ニテ紙ヲキメシタメ
4、版ノ位置上スギ且ツ中ヘ寄リスギタリ
5、墨色ウスク、且ツ不揃ヒナリ
6、段チガヒ甚シ
7、二五○部ノ分シカ用意シアラズetc.
     種々弁明してきかず、物分れにて帰る。

  九月二十一日(水)
「漢文史料中に現れたる清語」半ピラ五十枚を書く。午後、阿佐ケ谷の祖母を見舞ふ。

  九月二十二日(木)
午前中、肥下と製本屋にゆく。午後、松本(※松本善海)と文庫に行き、和田先生(※和田清)に論文をわたす。留守中、大阪の池田日呂志君来訪。詩集(※『夜への歌』)置き行くとのことに明朝反対に訪れる旨電報す。
本日早朝東亜研究所の穂積氏を訪ねしに生命保険屋と出会ひの最中。その後、立話にて入所の件断らる。そのとき口中に飯を含みゐたるがいやなりしのみ。
昔、周公、哺を吐いて士を見しとは異なり、平将門飯を含んで田原秀卿に軽蔑されしたぐひか。       ※

  九月二十三日(金)
宮崎丈二氏宅なる池田君を訪ふ。宮崎氏は春陽会の画を能くする人。美しい画夛く見せらる、江戸前の上品なる人なり。
それより▲池田氏を伴ひ製本屋にて詩集十部受取り、一部を▲宮崎氏にと託す。▲川久保君の留守宅を訪ひ、本日の例会欠席を断る旨の手紙と詩集一部とを託す。
[※ ▲ 詩集寄贈先の印し]
六時より四季の会。三好氏、宇野千代とあり、紹介せらる、美人なり。詩集を▲神西、▲津村、▲神保、▲丸山、▲阪本、▲日下部(※日下部雄一)、▲三好の七氏に渡す
(計十冊)。室生、萩原両先生も来会。
萩原さん、佐藤春雄、堀口、日夏の三氏は「怒りつぽの三すくみ」なる由、くだを巻く。
閉会後、三好氏につれられて新橋の久兵衛なる店にて河上徹太郎、佐藤信衛、文学界編輯X氏にあふ。佐藤氏、内藤湖南先生をほめゐたるは感心。

  九月二十四日(土)
秋季皇靈祭。午前、祖母を見舞ひ、肥下を訪ぬ。熱河なる眞田雅男氏より注文の爲替つきゐたり。
川久保を訪ね、帰宅、晝寝す。途上萩原先生夫妻来り、先生近よればそつぽ向く。

  九月二十五日(日)
「東洋史研究」へ書評25×10、八枚送る。夜、肥下と製本屋へゆき十八冊受取りて帰る。

  九月二十六日(月)
朝、詩集発送。▲中島(※中島栄次郎)、▲野田(※野田又夫)、▲本庄(※本庄実)、▲興地(※興地実英)、▲五十嵐(※五十嵐達六郎)、▲立野(※立野保男)、▲服部(※服部正己)、▲杉浦(※杉浦正一郎)、▲伊東(※伊東静雄)、▲松下(※松下武雄)。
肥下を訪ね、満州承徳の眞田雅男氏に詩集発送、この送料四十五銭なり。他に東京堂の注文一冊。
保田を訪ね▲詩集十冊を託す。「戴冠詩人の御一人者」を貰ひて帰る。
本日「新日本」の編輯会議の由。紙上出版記念会には保田より萩原、中河の二氏に頼みくるヽ由。僕よりは三好、津村、立原、神保、阪本、草野心 、百田宗治あたりに頼むが良からんと也。
▲中河、▲萩原、▲百田、▲室生、▲船越(※船越章)、▲相野(※相野忠雄)、▲坪井明、七冊。
▲赤川氏に手渡し一冊。合計二十八冊。 ▲小高根二郎▲安西冬衛

死者に敬礼せよ
殷々と遠雷の如く轟き
我友 歩兵中尉小寺範輝が柩車来れり
初咲の菊 遅咲きのダリアみな白くして愁ひたり

去年の夏 故里を立ち
山西は重畳たる山國

幾何(いくばく)の敵や打ちけん 雪や分けけん
閻錫山が作りしめし罌粟畑や見けん
一ひらの便りだに寄せず
五月青葉のひるさがり
山國の山西を出で河南省博愛縣の戰鬪に
尖兵の長にはありき
チエコ機銃 篁より火を吐くに突撃し
田の畦に倒る 二十七才なりき

初咲の菊 遅咲きのダリアみな白くして愁ひたり
我友 歩兵中尉小寺範輝が柩車去れり
殷々と遠雷の如く轟き
死者に敬礼せよ

  九月二十七日(火)
▲石浜先生、▲藤沢桓夫氏、▲小高根次郎君、三冊。計參拾壹冊。
コギトの校了に杉田屋にゆく。保田、小高根[※ 太郎]も来る。
「小高根太郎」中河与一氏の「天の夕顔」をよみ感激す。
第一書房訪ねしも春山氏留守。▲長谷川(※長谷川巳之吉)、▲春山(※春山行夫)。
史、午前二時頃目覚めて吐きし爲、睡眠不足。

  九月二十八日(水)
史、本日も病気。午後印刷屋にゆき検印押す。午前中、中央公論社の入社試験を神田YMCAにて受く。二百名近き志願者ありし中百名程の受験と見ゆ。試験問題中、詩あり、出塞行。

  春海長雲暗雪山 孤城遥望玉門関
  黄沙百戰穿金甲 不破樓蘭終不還
夜、肥下来りて 神田の井田書店より注文ありしとて代金を呉れる。

  九月二十九日(木)
午前中「詩集西康省あとがき」20×10、十三枚を書く。肥下宅にて寄贈の表書す。四九冊なり。製本代意外に高きに不快を感ず。
文庫にて松本に会ふ。夜、祖母危篤につき見舞ふ。
船越章、甲府より来る。十二時帰宅す。史、本日は回復。

  九月三十日(金)
阿佐ケ谷を見舞ひ、船越と肥下を訪ぬ。製本屋に二十三円八拾六銭支拂ふ。赤川氏[※草夫 古書店主]に本六円を賣る。
夜、川久保君を訪ね、満洲史研究会に行くつもりなりしをすつぽかされ些か憤慨す。

  十月一日(土)
阿佐ケ谷を見舞ひ、肥下を訪ぬ。▲松本善海に詩集を贈り、漢書借り来る。王昭君を書かんが爲。肥下の妹▲節子嬢に詩集贈る。

 前漢書巻九元帝紀、仝巻九十四匈奴傳、後漢書巻百十九南匈奴傳、
 西京雑記→歴代名画記、文選、李白楽府、唐物語、大鏡、和漢朗詠集

  十月二日(日)
中央公論社の筆記に通りし旨。阿佐ケ谷を見舞ふ。▲長野(※長野敏一)を訪ね、詩集を贈る。肥下を訪ね、詩集の礼状を受取る。
中に嬉しきは日夏耿之介氏。「寒鳥」「多島海」「植木屋」の三詩をほめ来らる。斎藤茂吉氏よりも礼状あり。

  十月三日(月)
酒井正平、▲加藤一、二氏に詩集贈る。共にマダム・ブランシユの盟友たりき。
▲草野心平氏を訪ひ詩集を贈り、▲鹿熊猛の分を託す。

 

  十月四日(火)
章君、甲府へ帰りし後、午後五時三十分、外祖母松田もと女(通称みね)死したまふ。行年八十七才。

  十月五日(水) 風邪気味なり。

  十月六日(木)
午前中に中央公論社に赴き人物試験を受く。試験委員我名を知りゐし爲第一次通り、体格検査を受く。体重四○.○瓩、胸囲六九.四cm、身長一六四.四cmなりき。
第二次は島中雄作[※ 中央公論社社長。]の親ら[みずから]行ふところ。体の悪しきを云ひて暗に不合格を諷す。
第一次のときコギトを止めるべき旨を暗々に諾せし如きことヽなり、何れにしても入社は不可能なり。この夜、通夜。

  十月七日(金)
葬儀。集りしもの、大体左の如し。
ゆき子の礼服大阪より来ず。章君の所謂「天沼氏」より大分ひどく云はる。
               [※ 家系図あり、船越章は田中悠紀子と従兄妹にあたる。]
夜、三上次男、川久保悌郎二氏と、目白の桜井芳明君の家にて「二十二史剳記」をよむ。
諸氏の漢文を讀む力の乏しきには一驚を喫す。これ我が徒らなる誇負に非ず。三上氏の如き、かヽる文にかヽるよみをなすかとの感ありき。

  十月八日(土)
午後、章君と肥下を訪ぬ。詩集一冊注文あり、これにて四冊。保田を三人にて訪ぬ。
中河与一氏、文化学院にて予の詩朗讀せしに、よめば[※音読すれば]却つて良くなかりしと云はるヽ由。

  十月九日(日)
午前中、祖母初七日法事、勇喜一氏及章君を見送り帰れば長尾良[ながおはじめ]来りし由。
安形次いで来り五時まで話ゆく。肥下を訪ひ、十六氏に発送の表書す。帰れば長尾また来りし由。次いで就床後、肥下来つて松下武雄の死を報ぜし服部よりの電報を示す。
連れ立つて保田宅へゆき、種々協議、肥下明朝下阪のことヽなる。     ※
  去りがてに別れ来ぬれどかくのみに早き命を思はざりけり

  十月十日(月)
午前中松下宅へ弔電打つ。照合電報は三分一割増なれどたしかなる由。
パリーの桑原氏に詩集贈る二十四銭。[※ 送料]逸見猶吉氏(大連)九銭。
午後、長尾良氏来る。卒業論文に徽宗皇帝を書く由、本三冊を貸す。東洋文庫にて佐藤龍児氏と話す、春雄先生明日帰京の由。
駒込の叔母に会ふ。沢田直也にあふ。君は好痛症なりと云ふに肯ふ。
けふ小高根に電ワ、薄井に速達にて松下の死報ぜしむ。長野は勤先よしたとてゐず半信半疑也。中島より来信、松下数日の中ならんとのハガキを九日に出してゐるのも哀れ也。

  十月十一日(火)
けふ長野より来信、昨日出にて雑誌の原稿催促なり。電話をかけし処やめしとは嘘なり。
文庫にて善海に会ふ。龍児氏けふ見えざりしは[※春夫を]出迎への爲ならん。和田先生に会ふに、「文庫」は日本中最も満洲語の文献多くその整理者必要なり、
君ほんとに出来るならばと仰せあり。小高根を訪ひ、保田の[※結婚]祝ひを三円づヽときめ、十六日五時新宿に集合と決めたり。
帰宅、千草男子安産の電報来ゐたれば見舞ひにゆく。途、駒込の叔父夫婦とつれになる。思ひの外に元気なり。
本日肥下るす宅を訪ひ、注文東京堂より二冊ありしと、夫婦喧嘩の話とをきく。

  十月十二日(水)
悠紀子、千草の見舞ひにゆく。近藤信一氏を訪ひ、先日の礼をのべ文庫にゆき善海に会ふ。

  十月十三日(木)
文庫にて和田先生に会ひ、満洲語文献整理係お願ひす。岩井主事に話しおかんとのこと。
五時二十分、悠紀子と母を東京駅に迎ふ。
青木氏夫妻も出迎へたり。四人にて病院にゆき、母は青木泊りと決む。帰宅の途、肥下留守宅を見舞ふ。詩集注文一冊あり。日本文学の会(文芸文化)より原稿依頼。

  十月十四日(金)
十二時半、丸ビルにて母より宮田美樹氏を紹介され関東商業学校の水野勝清氏を訪ふ。
就職を依頼す。神西清氏より来信。珍しき語学と教授の紹介あらばとのこと。

  十月十五日(土)
文庫にゆく。善海と会ふ。夜、冷雨の中を川久保氏と三上氏宅の研究会にゆく、三人のみ。
東中野の饒君の裏なり。豊かに美しく暮しゐらるヽに羨まし。高橋匡四郎、建国大学の助教授となりし由。

  十月十六日(日)
 保田の結婚披露宴。肥下のフラウを誘ひゆく。
来会者 佐藤春夫、萩原朔太郎、倉田百三、中河与一、仝幹子、川端康成、林房夫夫人、
    外村繁、亀井勝一郎夫妻、神保光太郎、木山捷平、蔵原伸二郎、平林英子、若林つや、
    藤田徳太郎、肥下夫人、小高根、薄井、長野。

  十月十七日(月)
午前中阿佐ケ谷にゆき、父母と会ふ。吹田の姉夫婦を見送る。風邪気味。

  十月十八日(火)
風邪の爲一日籠居。クレオパトラのつヾきを書く、十枚書きて十六枚となる。
夜、母来る。明夜帰阪の由。

まだしばらく骨は薔薇色に燃えてゐたが
まもなく冷えて白くなつた
これは肩胛骨 これは下顎骨
(長い木箸で)指さすと骨たちはめのまへで
幻のやうにくづれてしまつた
室ぢうがムンムン骨の臭ひがし
生きてゐる我々は咳をした

  十月十九日(水)
靖國神社臨時大祭。昨夜父来る。午前中、史をつれて肥下の宅へ原稿をとりにゆく。
午後保田を訪れ、コギトの編輯をなす。中河与一氏の詩集評あり、保田の評も親切なり。
松下の令嫂より、臨終数刻の模様をしるしたる手紙来りてゐる。松本善海を訪ふ。

  十月二十日(木)
原稿を杉田屋に持参す。時間半端なる爲、新宿にてニユースを見る。寒気せし爲帰宅。昨夜より史、吐瀉下痢をなす。

  十月二十一日(金)
午後、文庫へ行く。善海来てゐず。「綏乗」を見るに王昭君の墓と伝ふるもの二つありと。
日本にも鹿島社東、太平洋岸の砂丘に王昭君の墓あり、何の意ならん。本日午前中は暴風。広東陥落。

  清代奴隷考
1.奴隷の定義
  奴隷を表す語 奴婢 奴僕 世僕 諸申 哈々珠色等
2.奴隷の身分
  a.獲得   イ、明代よりの連続 ロ、軍事上の捕虜 ハ、刑罰 ニ、賣身
  b.離脱   イ、清初の科挙、その他 ロ、買身
3.奴隷の社会的地位
  刑罰の不公平、生活上の差別待遇、子孫の科挙に対する束縛。
  職務・軍事に用ゐられし例 控馬奴 Kutule? 嘯亭雑録
  農事 仝  家奴の諸用 仝
4.奴隷の解放

  十月二十二日(土)
午前中、肥下宅へゆく。中島、松田の記念文あり。立野の弟より詩集注文あり。青木へ御祝持ちゆき、父の荷物発送の手続済ませ、日銀[※ 父の勤務先。]へゆき切符を言付ける。
今夜帰阪の由。文庫にて善海に会ふ。
やはり僕より風邪を伝染されし由。今夜満洲史研究会なるも、冷雨ふりしきる爲さぼる。
田中氏宅の碁会にゆく、皆僕と良い勝負の下手。

  十月二十三日(日)
午後、酒井正平に新宿に会ふ。故西崎晋氏、「星座」に僕のことを書いた小説[※ 不詳。]のせてゐた由。
正 、今もまだ日大芸術科にありてシナリオ勉強す。留守中保田来て眞田の「雁」おきゆく。

  十月二十四日(月)
朝、肥下宅へゆく。注文二冊あり。津村信夫を訪ひて「軍艦茉莉」を借る。連立ちて丸山薫氏を訪ふ。萩原さん中野に轉居せし由。
保田を訪ふ。亀井勝一郎、林房雄を訪ひしとき、林、僕の「俺は悪魔を−」中の人物をやらねばならんと云ひゐし由。
[※保田氏を]池谷賞候補に河上、三好、林の三氏推薦するだらうとのこと。
夜、小高根と銀座で会ひ、熊谷法律事務所を訪ひチユーター[※ 家庭教師]の相談決む。相手は中大予科生、野附一郎君。

  十月二十五日(火)
文庫にゆくにだれもをらず。夕方二時間、御茶水文化アパートにてドイツ語教ふ。

  十月二十六日(水)
肥下宅を訪ふ。保田、立原に速達を出す。羽田より帰朝の挨拶あり。

  十月二十七日(木)
コギト校了、保田と小高根[※ 太郎]と立原と集る。百十頁となる。漢口陥落祝賀の爲、宮城前に至り、銀座にてビールのむ。

  十月二十八日(金)
朝、杉田屋へ扉の凸版もちゆき、夜は御茶水へドイツ語 へにゆく。

  十月二十九日(土)
午前中、文庫にて支那海の海賊につき調ぶ。晝食時沢田を訪ぬ。
午後、和田先生に会ふ。満洲語の件おくれる由。自分でたのめば早くなるかもしれぬとのこと也。
善海と六義園を見、肥下を訪ぬれば中島と共に本朝帰京、保田宅にある由、訪ねゆきて話す。松下の追悼号のこと也。
斉藤茂吉氏、アラヽギに僕の詩集の評のせゐらるヽ由、中河与一氏より報せ来らる。

  十月三十日(日)
中島訪ね来る。共に長野を訪ぬる途中、アララギを見しに、有明光太郎にも見られぬ詩ありとの過襃の辞あり。三人にて新宿に出、散歩して帰る。

  十月三十一日(月)
文庫にゆき、野附生を教へてのち、銀座資生堂にて保田、肥下、小高根、長の、薄井、俣野と集り、中島の歓迎会をミユンヘンにて行ふ。すべて麥酒一盃にて陶然たり。

  十一月一日(火)
午後、中島を阿佐ケ谷の家に伴ひゆき碁二盤打つ、一勝一敗也。新宿に出てニユース映画を見る。  ※

  十一月二日(水)
中島を案内して沢田、末永に会はしめし後文庫にて一時間讀書。
島稔より昨日来信、茂吉先生の文よみ詩集欲しとなり。松本善海より旗田巍氏、夫人喉頭結核のため死目に会ひに帰郷さると聞く、同情の念禁じ得ず。夕方ドイツ語教ふ
。 「東洋史研究四の一」届く。我がブツク・レヴヰウあり。

  一
いまぞアジアの朝あけて
朔風膚をつんざけど
東天紅を拝しては
一声高きいななきに
全軍の士気天を衝く
  二
名も拒馬河(がは)の夕まぐれ
すねを没する泥濘に
重き砲車を引きなづみ
手綱をとりしわが見れば
なれが眼(まなこ)も泣きゐたり
  三
南京城外ひともとの
柳色濃き下かげに
さばへ[蝿]を追ふと尾をふりつ
まなこをとぢし汝がゆめに
富士は故郷は入りにしや
  四
[※ 無し。]
  五
昨日負傷の我のせて
運びし馬も傷つきぬ
今はに何を望みけむ
至仁至愛の大君の
日本の國に生れ来て
  六
この幸得しを喜べと
我が撫づれば眼を瞑ぢぬ
青馬[あお]よ眠れよ汝が墓に
戦火の煙消えん暁(とき)
東洋平和の花植ゑん

  十一月三日(木)
肥下、中島と保田を訪ふ。小高根も来り会し、野附の十月分謝礼をことづかりをる。この日夜より憂鬱となる。

  十一月四日(金)
中島を案内して二重橋、明治神宮へゆき新宿にて夜食。本郷にゆき、八時半の汽車にて帰らす。
保田東京駅へ来ゐる。この日、終日不安なる心悸あり。

  今月の原稿左の如し。
1.コギト(二十日)十五枚。 十三枚スミ。 [※ 送付済の意]
2.四季(仝)。 スミ。
3.文芸文化(十日)三枚。 四枚スミ。
4.新日本(七日)三十枚。 三十二枚スミ。
5.文芸汎論(十五日)詩。 スミ
6.不確定性ペーパー(十日)十枚。六枚スミ。
7.あけぼの(十一日)六枚、随筆。 スミ。

  十一月五日(土) 野附生を教へにゆく。

  十一月六日(日)
松田祖母の五七日にて忌明く。午後、小高根と中河与一氏を訪問蔦美しき松一本あり。

  十一月七日(月)
「新日本」原稿を書上げ保田に渡し(「海賊の系譜」三十二枚)肥下より五冊分五.二五円受取る。
野附生を教へ、夜「天の夕顔」出版記念会に出席。

  十一月八日(火)
肥下を訪ね、長尾良君に会ひ玉を突く。二十の腕前なり。夜、松本と川久保を訪問。

  十一月九日(水)
疲れてゐたり。四季社に日下部氏を訪ふも不在。米式蹴球なるものをはじめて見る、面白し。
夜、野附生を教ふ。

  十一月十日(木)
中河与一氏より速達にて「あけぼの」なる雑誌の原稿を依頼さる。「ドイツの軍歌」六枚送る。
肥下を訪ねしに詩集七冊賣れゐたり(通計二十八冊)。十一冊分、十五円十銭受取る。

  十一月十一日(金)
野附生を教ふ。帰途、 神田を歩き、西川を訪ねしに不在。

  十一月十二日(土)
「不確定性ペーパー」に六枚。「天の夕顔」批評なり。肥下と保田を訪ひ、明日の打合せなす。

  十一月十三日(日)
 夕五時より西康省出版記念会
肥下と連立ちてゆく。定刻より長尾良、池沢茂、岩佐東一郎、亀井勝一郎、藏原伸二郎、佐藤春雄先生、岡本かの子女史、田中冬二、丸山薫、立原道造、
増田晃の諸氏来会せられしに、同人側より保田まだ来らず。座白け、佐藤先生忙しとてせかさるヽに身のちヾこまる思ひす。
 止むなく七時十分より開会。津村信夫、神保光太郎、若林つやの諸氏も来られ、次で宇野浩二氏来られ、最後に中河与一氏と共に保田来る。七時半なり。
 テーブルスピーチに佐藤先生「田中君の詩は脆弱なことばに剛き魂ある」旨、くはしくは覚えず。
岩佐東一郎曰く「もつと椅子にデーンとかけてゐる人かと思つた」、けだし適評也。
閉会後、長野来る。

  十一月十四日(月)
肥下をたづね、共に 神田へゆく。野附生を教ふ。

  十一月十五日(火)
夜、松本善海をたづね、快談数刻、夕方川久保君来り、会の流れしを報ぜらる。
中河与一氏より、「若草」などに推薦すべければ詩一二篇送りおかれよとのこと。

  十一月十六日(水)
午前中、赤川草夫氏を呼び、本八円を賣る。肥下来つて「文芸」の原稿依頼状をもち来る。
午後、立原、津村、神保、日下部の諸氏と、日動画廊にて四季の編輯会。野附生を教へし後、
赤坂清水公園にて「詩の会」発会式。草野心平の肝煎[きもいり]なり。
高橋新吉、山岸外史佐藤一英、菊岡久利、伊豆公夫の諸氏をはじめて見る。阪本、丸山の二氏も来り会す。

  十一月十七日(木)
肥下を訪問、越前三國女学校の城越健次郎氏より注文あり。残部僅かに四十八冊の由。
「文学界」十二月号に井伏、三好の二氏、ペシミツクなればとほめゐたり。午後、藤枝晃  ※を訪ひしも不在。夜、川久保来り、羽田の歓迎会の手筈決まる。
1.中河さん(若草?)
2.文芸 十一月末日、詩二頁。スミ。
3.四季 十二月十日、詩。
4.こおとろ 十一月末日、詩。スミ。

  十一月十八日(金)
肥下と保田を訪ぬ。座に藏原伸二郎氏あり、談数刻に及ぶ。
5.三田文学 三枚。保田の本の批評。二十一日迄。スミ。
野附生不在にて、沢田を訪ひ、七時半、新宿に松本、川久保と会し、羽田明の歓迎会をなす。
途にて羽田の母君、野谷君に会ふ。妹君(野谷君夫人)女子安産の由。羽田はフランス人の如くなりをる。口をつくは痛辣なる皮肉譏刺の語なれば我以外は当り難し。
東亜研究所に入ることヽ内定するも、東洋文庫の方が宜からんとすすめおきたり。十二時散会。

  十一月十九日(土)
歴史研究大会に出席、浦和より山崎清一君来りて会ふ。任官は年末、結婚せしも細君、人工流産にて帰国中とのこと。
鈴木俊氏、文芸春秋の池島信氏より僕の詩集のことを聞いた由、藤枝マルコ・ポーロの話す。

  十一月二十日(日)
肥下を訪ねゐる際、村上菊一郎氏あとを追ひ来る。共に井伏鱒二、青柳瑞穂氏宅を訪ねしも留守。日夏耿之介氏に会ひ、再び井伏鱒二氏を訪ねピノチオにて飲み、僕は別れて帰る。
身延講の仲間入りをして登山する話、最も面白かりし。

  十一月二十一日(月)
肥下、松本を訪ね新宿で映画を見、野附を教へ、帰途、川久保君を訪ぬ。神西氏より返書。
穂積氏に宜しく断りおくとのことなり。
大江、上京したるも宛名誤記の爲速達二日後につきたれば会へず。本日「三田文学」に三枚送る。

  十一月二十二日(火)
長尾と玉を突く。夜、川久保、松本と、故岩佐君の宅を訪ぬ。満三年の命日なり。

  十一月二十三日(水)
朝、コギトの原稿を肥下の許へ届けし(十三枚)。留守中に原栄之助氏来訪、急ぎ帰り、話をる中、長尾良、池沢茂二君来る。池沢君に宇野浩二氏のハガキを与ふ。
原氏を善隣協会に案内、次で神田銀座を歩きて別る。

  十一月二十四日(木)
九時、御茶水に原氏と待合せ、文求堂、大学を案内し、石田幹之助氏に会ふ。   ※
その後、原君、神経苛立ちて手に負へず博物館にゆきて別る、今夜帰阪の由。小高根と会ふ。
野附生を教へて帰宅。
6.日本歌人 十二月五日。
7.いのち ビルマに於ける明の永暦帝。(止め)
8.コギト クレオパトラ 一五日。 (完結)

  十一月二十五日(金)
肥下を訪ねしも留守。保田を訪ね、忘れし帽子をとりかへし、野附生を教ふ。

今年度著作目録(印刷月日による)
東洋史之部 [※ 略。]
文学の部  [※ 略。]

  十一月二十六日(土)
肥下を訪ね帰り来れば、村上菊一郎氏より本日差支へあり、日夏氏訪問を明日にせんといひ来る。杉田屋に松下の絶筆をもち行き、銅板をとらしめ校正をなす。
丸山薫氏を訪ねしに、座に稲垣足穂氏あり、吃りなれば物を急きこみて云ふくせあり。大阪生れの由。他に塚山勇三氏。

  十一月二十七日(日)
9.「セルパン」より原稿依頼スミ。「一年有半を歌ふ」と題して「アルバイト・デイーンスト※」と「渡洋爆撃」を送るべし。     ※勤労奉仕隊 掲載誌未確認
本日校正に杉田屋にゆく。薄井、肥下、保田会す。防空訓練の爲日没にて帰る。
10.日本詩壇より原稿依頼。スミ

  十一月二十八日(月)
本日も校正、肥下と二人のみ。校了して野附生を教ふ。○○○○ [※ 編者削除]君より問責状来る。
二十三日夜、遺精してザーメンの臭気をまとひたる我の憂鬱なるは当然なるに残酷なりしよ、と云ふ。神経衰弱の兆しや著し。

  十一月二十九日(火)
1.「三田文学」二月号に原稿エツセイ二十枚、締切十二月二十日、依頼し来る。王昭君説話をかくべし。
「日本詩壇」に小寺中尉哀歌再録を送る。第三節「五月青葉のひるさがり」を朝まだきと訂正す。拙けれど致し方なし。
亀井勝一郎氏を訪ふ。東京も仕事の大小できめず好悪できめるかと云ふに笑つて肯ふ。
保田は岡本かの子氏にも嫌はれゐる由。「文学界」にては小林秀雄に皆遠慮してゐる由。
鈴木俊氏を訪ひしも留守。

  十一月三十日(水)
肥下を訪ね、野附生を教ふ。本日「文芸」「こおとろ」の原稿を送る。

  十二月一日(木)
善福寺池へ散歩。夜、肥下、小高根来る。小高根、野附の謝礼を持参す。ピノチオに案内す。

  十二月二日(金)
肥下と新宿にて会ふ。野附生を教ふ。

山々には早い雪が見えてゐた
その日は寒い空の日だつた
その上ひどい風が吹いてゐた
桑の枝に 雀の羽に風が吹いてゐた
天幕をハタハタ風があふつて吹いてゐた
村長や知事代理や警察署長などの
演説はむなしく空に消えて行つた
その日はひどい風の日であつた

  十二月三日(土)
阿佐ケ谷の幸叔母を見舞ふ。肥下、赤川書店を訪問。

今年の菊の美しさ
澗に張つたる薄氷
年々同じしきたりと
思へど寒し年の暮れ
それに一入[ひとしお]飯櫃の
乏しき様が気にかヽる

鳥が棲むからか林は物音がする
猿や狐も下草に尿するか
葉落ち盡くして路あらはれたり

古い神殿の屋根に枯松葉が散りしいてゐた。
海の方に降る石段の両側に
鬱金桜が蒼く咲いてゐた
石段を登つて来る少女とすれちがうた
春は人をかなしうして歌つくらすか

  十二月四日(日)
正午、松本善海訪問し来る、五時まで話す。夜、中河与一氏を訪ねしに留守なり、幹子夫人と話す。「新日本」十二月号発行さる。帰宅。
2.「むらさき」二月号、十二月十五日、二枚まで。
他に立野君より来信。

  十二月五日(月)
午すぎに大江紀作と御茶の水に会し、浅草、向島、銀座を案内。
マルクスかぶれのデカダン的少年にして救ひがたし。

  十二月六日(火)
保田を訪ね、野附生を教ふ。十五日まで休みとなる。文化アパートのグリルで晩食を食べさしてくれたり。長尾良来り、炬燵より火事を出せしとて五円の借金を申込む。

  十二月七日(水)
肥下より詩集代金十八円六十四銭を受取る。夜、新宿ヱルテルに西川英夫、肥下と三人会し、「たる平」にて呑む。巴里の桑原武夫氏より詩集受取つた旨、来信。

  十二月八日(木)
宿酔気味。薬師寺衛君、松下聿好さんから来信。長尾良来り、金を返さうと云ふ。
夜、松本を訪ねしも留守。

   公園で
その片隅の一寸した動物園になつてゐるあたりには夜が迫つてゐた
さつきまで陽のあたり 子供たちの騒いでゐた築山は
もう蒼くなり誰もゐなくなつた
私は待ちくたびれて坐つてゐた

突然夕かげの檻の中から
鳥がケツケツケツケツと鳴き出した するとあちこちで呼びかはす
見上げると落ち葉した槐の梢に
夕月が眉のやうに細く白い

私は待ちくたびれて それでも坐つてゐた
わたしの上に霜がおくまで と
頑くなな決心をしながら坐つてゐた
夕月はまるでわたしの眉のやうに神経質に見えた

  十二月九日(金) 保田、透谷賞を貰ひし旨、新聞で見、肥下を訪ね祝日に行く。 途中赤川に会ひ、詩集の帙※出来上りしを受取る。   [※「詩集西康省」著者本用帙 中河与一題簽、小高根太郎挿画]

西康省  西康省

保田の家にて「蒙疆」と「新日本」十二月号とを受取る。それより浦和にゆき、山崎清一君を訪ね一泊す。
山崎、当時フラウを故郷に帰し大に淋しがりをる。人工流産のあと、肺浸潤を病まれゐる由。
玉を突き、うなぎを御馳走になる。

  十二月十日(土)
正午、山崎に別れ、神保光太郎の家を訪ねしも不在。黄塵大に起こるを以て、止めて帰宅。
長与善郎先生より来信。中島より松下追悼号の文誉め来る。

  十二月十一日(日)
肥下を訪ね、川久保を訪ねしに来客中。松本を訪ねしに不在。旗田さんのフラウついに逝去の由。
夜、さばの中毒にて苦し。    ※
村上菊一郎氏と日夏耿之介氏を訪問。紅樓夢を訳せよと勧めらる。

  十二月十二日(月) 終日臥床、四季の原稿を送る。

  十二月十三日(火) 臥床、コギトの原稿、クレオパトラ十五枚を書く。

  十二月十四日(水)
クレオパトラ三十二枚にて完結さす。肥下来る。中河さんより満洲の雑誌に詩を送れとの速達来る。(12.)

  十二月十五日(木)
   温室の会話
はじめに白い花辨に紫や紅のふちどりのあるシネラリアがいひました。
「わたしたちは世界を美しくいろどるために生れて来たのよ」
次に白い花辨の底がちよつと黄色いフリージアの花がいひました。
「いヽえ、わたしたちのかほりで包むためによ」
うす紅色の西洋桜草がまたも抗議を申込みました。
「いヽえ、わたしたちは春を告げに来たのよ」
色のバナナの木やフエニツクスやゴムの木が、黙つてこの会話に耳を傾けてゐました。
僕はいい気持で室の外へ出ました。
ピユーツ、ああ、何てひどい風でせう。一面の枯野原に北風が吹いてます。
外套の襟を立てながら僕は呟きました。
「世界が美しいだの、かほりが良いだの、春が来ただのは、この枯野原につヽましい蒲公英や
菫が咲くまで信じないことにしよう」
いつてから温室のお嬢さんたちにちよつと悪いやうな気がしました。

   コンドル機の教訓 (12.)[※ 掲載誌未確認 拾遺詩篇]
ベルリンを発してから翼を張りつヾけてそれは飛んで来た
地中海の青い波の上を ダマスクスの廃墟の上を
その翼の影は一瞬にして飛び去つた
獅子のゐるイランの沙漠 虎の吼える印度の叢林をこえ
ハノイから支那海を渡り 美しい台湾島を左手に見て
飛石のやうに連なる琉球列島の上をとび移り
二つの晝と一つの夜の後 また一つの夜に出会して
尾燈と翼燈をつけて翔けて来た
ゲルマンの知性と意志とが アジアに日本に一つの教訓を齎した
それから親しげな明るい表情と 大きな手の握手とをもつて
日本に友情をもたらし その返報に
人形や刀剱や 美しいキモノやを贈られ
再び大きな翼を張つて出発したとき
誰が豫感したらう カヴイテ海岸の遭難を
人形や着物は波に打たれて駄目になつたらう
人々は声をのんで云はないが 心の中にさらに大きな教訓をもつた
人間の業は最高の知性と意志とを以てしても 明日を いな次の瞬間を知らない と

   孝感の戦
嘉慶の帝の御代の初 丙辰の夏なりき
われ罪被りて烏魯木斎より召し還されしに
湖北に白蓮教匪多く起りて 官軍しばしば敗れしと聞召し
命ずるに代りて伐つを以てしたまふ
われ感激して湖北に赴き 当陽に湖広総督畢[シ+元]と会せしに
兵わづかに五百人に足らざりき
幸ひに陜西の總兵官徳光が 三千人を率ゐて来り会するにあひ
鼓励してゆくこと数日 楊鎭に至りしが民すべて逃れ去つて
街市空闃(げき)なりき 廣水橋を守りつヽ 鼓を鳴し角を吹いて誘へば
果して賊 蜂湧して攻め来り
われが地の険を擁して守りしに会ひ 殺傷多くして逃れ去りき
この時 賊互ひに顧みて云ふ
われら官軍と戦ふことしばしばなるに 未だ声を聞いて逃れざる者あらざりき
此の番の将はこれ誰なるぞ
嗣いで予が名を聞いて歔欷して云ふ
「此の老爺果して恙[つつが]なくありしよ われが命はこヽに蹇まらん」と
次日 賊道上の北山に據る 徳光我に戦ひ請ひて休まず 我れ危みつヽ千人を与へしに
  賊の火鎗驟かに発して進むことを得ず
我れ間道板に赴きしに畦間に累々と朽ちたるはこれ 保将軍の敗卒の骸なり
たまたま黄金廟側に 二百人の兵が戦疲れて三々五々兵糧喫しゐたるを見出しかば
これを呼集めて慰めるに善言を以てし
戦はんと云ふに すべて予が名を聞くや踴躍して戦はんと乞ひ
旗を展げ笳を鳴らして以てすヽむ 賊互ひに相践(ふ)んで伏兵至るといひ
まさに潰れんとせしとき賊中の紅巾の者 大声あげて驚く勿れと云ひ
大砲を以て防がんといふ
これを聞いて我軍 披靡の気配ありしかば我れ誑りて云ふ
おそるヽことなし 砲は炸れてすでに用に立たぬものを と
我兵煙を突いて撃ちすヽみ 敵の営を奪ひ火を放ちしかば
火光燎々と陣を照らしたりき                    ※
賊これより恐れて城門を守りて出でず これをも一日
大風霾(つちふ) らす日に風上より火を放ち陥し入れぬ         ※
  この火三日まで止まざりしが焦骨中より賊首及骸尸を取り出でぬ
捷聞 上に至りしかば大に御感あり 軽車部尉の爵を賜りしが
これより将軍 永保に永き怨みをむすびぬ

  十二月十六日(金)
長尾良来り、共に玉を突く。夕方阿佐ケ谷へ行く。

  十二月十七日(土)
午後文庫にゆき川久保、松本に会ふ。鈴木俊氏より月曜に履歴書持参し来るべき由ことづけあり。松本は東亜研究所の手にて、
東方文化嘱託として月俸百二十円以上にて二年間研究のことヽ決定。他に三上、須藤、石瀬、村上の四君も同じといふ。
羨しといふ気以外なる自己嫌悪を感ず。小高根、留守中二回来訪の由、明日「いのち」の編輯者に紹介しくれる爲なり。
夜肥下を訪ひ、二十二円受取る。六十六冊、うれし也。石丸某君来会。

  十二月十八日(日)
午前中「王昭君の悲劇」を書くこと七枚半。午後阿佐ケ谷に船越章君を誘ひ肥下を訪ね、新宿にて「いのち」の編輯者瀧氏に小高根より紹介さる。長野も共なり。
津田左右吉批判を書けとの旨なり。
七時よりヱルテルに「学芸展望」誌の同人諸氏と会ふ、皆むだなることばかり。

  十二月十九日(月)
履歴書を持参して研究室に鈴木俊氏を訪ね、吉川美都雄君に紹介さる。君は帝國書院社長守屋荒美雄氏の四男、昭和十年入学の東洋史学士なり、
今度副手となるため法政中学を止  ※すにつき後登に推されし也。同君の案内にて令兄新社長に会ひにゆく。
夜、松本、川久保を訪問。

  十二月二十日(火)
午前中「王昭君」を書き了り、「ごぎやう」誌に二枚の散文詩「広東の塔」を書く。
肥下を訪ねてのち、山崎清一に新宿であひ、共に食事。日比谷劇場でキネマを見、すしを食ひ、松本、川久保と会してギンザのフエザーにゆく。
3.学芸展望 十二月二十三日 詩
4.いのち 一月七日 詩 郭沫若を書きたし。

  十二月二十一日(水)
阿佐ケ谷へゆき、夜、三上氏を訪ねしに風邪にて会はず、今日の会の中止は速達にて報ぜしとのこと、冷雨中を帰る。川久保も留守中報せに来てくれし由。

  十二月二十二日(木)
雨、後、晴れしゆゑに肥下を訪ね、高円寺を散歩す。夜、肥下来りて校正を持参。

  十二月二十三日(金)
午前中「学芸展望」に詩を送る。肥下を訪ひコギトの詩の原稿をわたし、阿佐ケ谷にゆき、夕方より鈴木俊氏を訪ひしに留守。夜、田中氏と囲碁。

  十二月二十四日(土)
コギトの校正、肥下、小高根、保田。保田、このごろ僕を「気がつくやうになつた」と云つてゐる由。
七時すぎ四季の忘年会に至りしに予期になし、丸山、竹村、神保、津村、日下部の五氏のみ。
帰宅せしに平田内藏吉氏[※「歴程」編集]より稿料一円来り居る。

  十二月二十五日(日)
夜、鈴木俊氏を訪ねしに、東洋史の連中(横田、赤木、吉川、阿部、中村他一氏)来り、
会の最中、横、赤二氏入営の送別の由、近角氏の葬式明日の由。吉川君よりの注意にて   ※
「文芸春秋」見しに百田氏、[※詩集西康省を]良書とて推薦されをる。松本を訪ねれば「物語東洋史」清の部、引き受けよとのこと、羽田、京都に留まるらし。
文芸(¥4.00)、文芸文化(¥5.00) 来る。

  十二月二十六日(月) 川久保と近角文常氏の葬儀にゆく。

  十二月二十七日(火) 肥下を訪ぬ。

  十二月二十八日(水)
コギト正月号出来、保田を訪ぬ、増田晃君も来会。保田の次弟入営の由。
夜、長尾良来り球突をなす。立原道造重態の由。

  十二月二十九日(木)
松本を訪ね「物語東洋史」の仕事もらひ来る。川久保にバスで会ふ。
和田先生を訪ねて後、帰郷とのこと。

  十二月三十日(金) 一日家にて仕事す。

  十二月三十一日(土)
夕方肥下を訪ね、帰りしに、留守中松本来りて二日に帰郷の由。

(つづく)


11巻 (その5)へ

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