「日記」(「夜光雲」改題) 第十一巻 その5

昭和14年1月1日 〜 昭和14年2月25日

田中克己 詩集「西康省」出版前後の頃


[昭和14年]

一月一日(日)
午後、小高根来り、ともに肥下、保田を年賀。中河氏より7.00円。

一月二日(月)
午後、小高根と中河与一氏を訪ねしに保田も来る。夜、小高根の家にて御馳走となる。

一月三日(火)
数男と玉をつく。夜、田中賢助氏と碁を囲む。

一月四日(水)
風邪。内閣總辞職。

一月五日(木)
風邪。川久保君来る。和田先生、「田中君は小説書きに来たのではないか」と云はれし由。平沼内閣成立。   ※

一月六日(金)
風邪。肥下、長野来る。中河氏より十円送らる。

一月七日(土)
村上菊一郎君来訪。共に小田嶽夫氏を訪ねしに、中村地平氏も来会。
本日「いのち」に「詩人の生涯」と題して郭沫若を歌ひし詩、数十行を送る。

一月八日(日)
紀之國屋に「文芸豆年鑽」を求めにゆき、川久保を訪ぬ。相見戦車隊長は伯父なれば、戦車行進を見にゆくとて共に出づ。
肥下を訪ねれば、山岸外史より「このごろ自分のもの載らぬわけを云へ」とのハガキ来たるを見る。

一月九日(月)
吉川美都雄氏を法政[中学]に訪ね、校長(水谷吉蔵)に紹介さる。後任に推薦されしなり。
鈴木俊氏を訪ね報告し、松本、肥下を訪ねしに皆、留守。

一月十日(火)
正午、就任の挨拶にゆき、午後、文庫に和田先生を訪ね、報告す。
駒込にも報告。本日「煕朝紀政」一帙を購ふ。

一月十一日(水)
はじめて授業。六時間ぶつ通して苦し。肥下を訪ねしに又留守。

一月十二日(木)
「文芸文化」三月号、「学芸展望」三月号の原稿依頼。

一月十三日(金)
けふ三時間目で今週授業終る。松本、肥下を訪ね閑談す。山崎、奈良に赴任のハガキ。

一月十四日(土)
四季の原稿送る。田中氏と碁を囲む、このごろ「物語東洋史」の仕事にて忙しく、しかも未だ百枚のみ(三五○枚の予定)

一月十五日(日)
夜、俣野、長野来る。肥下を訪ね、高円寺にてのむ。長野ユダヤ人問題について話す。

一月十六日(月)
肥下を訪ぬ、小高根も来る。

一月十七日(火)
家居。長尾良来り、玉を突く。

一月十八日(水)
学校。長野、夜来り、本を借りゆく。支那経済教科書を作る由。

一月十九日(木)
学校。

一月二十日(金)
三時間授業すませ、 田を歩き研究室にゆく。鈴木俊、山本達郎、青木富太郎、旗田巍氏等あり。
吉川君の辞令を託す。喫茶室にて池沢茂に会ふ。沢田直也、西川英夫二人とも留守。

一月二十一日(土)
家居。原稿書けず。

一月二十二日(日)
午前中、赤川草夫氏来訪、家庭教師の口。午後、赤川、肥下二家を訪問。夜、善見訪問。
野本憲志、陸士に入りし由。赤川氏の紹介にて某氏来る。                       ※

一月二十三日(月)
散髪。夜、松本善海を訪問。サラリー百十円の由。丹羽、実業界に転向といふ。「むらさき」、「いのち」の稿料来る。 ※

一月二十四日(火)
午後、市立療養所に立原道造を見舞ふ。やせて声出ず痛々し。
二十分ほどのあひだ痰を吐くこと幾度、回復覚束なきには非ずや。帰途、肥下宅に寄る。

一月二十五日(水)
学校。放課後、神田を歩き、王士禎の「池北偶談」を購ふ。
「三田文学」来る、吾を紹介して「日本浪曼派」同人といふ。

一月二十六日(木)
コギトの詩書き、学校へゆきがけに印刷屋にもち行く。放課後校正。肥、保、小高根、長の、長尾、池沢。賑やかなり。
長尾、池沢と新宿にて玉を突き、出しに中村地平、若林つや、横田文子に会ふ、川貢の満洲行送別会のあとの由。
帰宅、佐藤竹介より葉書。今、北支にありと。石中象治氏より詩集。

一月二十七日(金)
学校。睡眠不足にて弱る。博物館にゆき、小高根に会ふ。図書館にて「煕朝新語」「漂流奇談集」をよむ。

一月二十八日(土)
文庫へゆき、川久保、松本と会し、丹羽の家にて晩餐をよばる。
フラウ七ケ月の身重の由。古河に入るため中央大学を止す。僕を後任に推す由。少しも有がたからねど友の情のみうれしき。

黄色く白く薔薇はいくたび花咲いたぞ
月射す園にうしろかげ見しまヽに別れしが
流るヽ雲と逝く水とむなしきものに面影かよひ

一月二十九日(日)
「学芸展望」の詩を作る、肥下を訪ぬ。

一月三十日(月)
「学生生活」のため詩を作る。赤川氏を訪ね、肥下よりコギト受取る。

一月三十一日(火)
「文芸文化」に詩を送り、長尾と玉を突く。けふより阿佐ケ谷へゆく。

二月一日(水)
学校。五十銭を落とせり。珍しきことなり。

二月二日(木)
学校。

二月三日(金)
俸給を受取り神田を歩く。ニユースを見る。

二月四日(土)
肥下を訪ね、保田の家へゆく。

二月五日(日)
善見勉及び陸士豫科なる野本憲志来る。明治神宮に詣り、帰途、川久保を訪ぬ。夜、雪ふる。

二月六日(月)
阿佐ケ谷に来る。三國干渉につき──「日本文化時報」に詩一篇。

二月七日(火)
肥下を訪ね、赤川書店にゆく。例の話こはれたり。

二月八日(水)
放課後、中原[中也]賞銓衡にゆく。立原にやらんとのこときまる。
三好、丸山、津村、神保とわれ。
われを推薦せし人、井伏、中河、萩原、安西、竹中、吉田一穂。

二月九日(木)
放課後、吉川美都夫氏を訪問。

二月十日(金)
帰宅。夜、松下のこととて肥下宅へ集る筈なりしが寒気きびしく止す。

二月十一日(土)
紀元節。夜、草野心 の「蛙」出版記念会にゆく。谷川徹三、土方定一、田村泰次郎、春山行夫、金子光晴等を見る。
会後、萩原さんを囲み、保田、山岸、高橋新吉と話す。

二月十二日(日)
風邪気味。長野来り、肥下を訪ね、川久保より「韃靼」を借り受け、松本を訪ねしに留守。

二月十三日(月)
夜、四季の中原中也賞の会にゆく。室生、竹村、堀、神保、阪本三好、外に賞金を出す人中垣氏夫妻あり。
妻氏は中原の元のフラウなる由。明日、立原を訪ねわたすこととなる。風邪甚し。

二月十四日(火)
発熱。夜には三十八度五分に上る。

二月十五日(水)
休講。

リビヤの王者 伯林[ベルリン]に来り
鬣ふるはせつヽ 綱渡る寫眞を
われ映画館に見しに
みなみな笑ひ われも笑ひつヽ
目に涙あふれしは何故ならん

おれは「人生」といふ乗合にのつてゐる
車体を黄色くぬつたゆれのひどいバスである
たえずぶつぶつ云つてゐた酔どれは引ずり降ろされ
田舎から来た青年は車に酔つて降りた
窓からの眺めはつまらない
古い街道で乾物屋のとなりに乾物屋がある
按摩按腹とそばやとが隣あつてゐる
このバスの女車掌でも美人だつたら──
おれは早くあいつらのやうに降りたくなつた
  ×
「東洋の平和のためぞ
汝が紅き血もて購ひたる
半島を清に還せ」と
馬車駆りて公使来りぬ
そのカフス その手袋は白かりき
畏くも龍顔(みおも)曇らせ おほみことのらせたまひぬ
「東洋の平和のためぞ 還し与へん」──
かくわれが談りしときに生徒らの眼は燃えぬ
口惜しと思ふなるべし さはあれど
美しきことばなるかな 「東洋の平和のためぞ」
※ なれどなが まなく出でゆき
※ わが父祖は出で征ちゆきぬ このことば
※ やがて汝等も大陸の戰(いくさ)の場(には)に
※ 大御名とともに称(とな)へむ ことばにあれば       [※推敲途中]

[※昭和十四年中の著作リスト。(省略)]

(第11巻終り)

「夜光雲」本文 畢


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