「日記」第十一巻 その1 (「夜光雲」改題)
20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(103ページ)
昭和10年2月4日 〜 昭和10年11月27日
Journal 4te Fev. 1935 Katumi Tanaka
三月四日
成都行 (杜甫)
翳々たり桑楡の日 我が征衣裳を照らす
我が行山川異り ※ 忽ち天の一方に在り
但だ新たなる人民に逢うて 未だ故郷を見ることを卜せず
大江東に流れ去り 游子去ること日長し
曽城華屋を埋め 季冬樹木蒼たり
喧然たり名都の会 簫を吹いて笙簧を間ゆ
信に美にして與に適くことなく 身を側てヽ川梁を望む
鳥雀夜各帰り 中原杳として茫々たり
初月出でて高からず 衆星尚ほ光を争ふ
古より羈旅あり 我れ何ぞ若だ哀傷せん ※
多島海
くろづるたちは またもお前の許へ帰つて来るか?
船たちは またもおまへの岸をめがけて航海して来るか?
人みなのまちこがれるそよ風は おまへの静かな波の上を吹くか?
海豚たちは 深海からおびきだされて新しい光に背を乾かすか?
イオニヤには花が咲いてゐるか 今はその時季か? 春立つごとに
生きとし生けるものの心臓が若がへり 人間の初恋と
黄金時代の追憶のよみがへるときに
わたしはおまへの所へゆき 静寂の中におまへに会釈するのだ
年老いたものよ
ああ 力強いものよ 恒につねにおまへは今もなほ生き存らへ
おまへの山々の蔭に憩ふ。青年の腕をもつて
おまへの愛らしい國をいだきしめる。しかもおまへの娘達
おまへの島々は ああ 父なるものよ
花咲く島々は少しも変りを見せぬ。
クレタはそびえ立ち ザラミスは緑に萌え 月桂樹にかすみ
光線に囲まれて 四面花咲き 成長の時季と
デロスはその感激した頭をもたげ テノスとヒイオスは
紫の果実をたわヽにつけ 酔ひ恍れた丘からは
チユプリアびとの飲物がわき出で カラウリアからは昔のまヽに
銀の小川が 父なるものヽ年古りた水に流れ墜ちる。
英雄の母たち 島々はことごとくいまも
年々歳々 花咲きながら生き存らへ 時としては
奈落から解き放たれた麗しいものヽひとり
夜の炎 下界の雷雨をひつとらへては
死にゆくものを おまへの胎にしづめはするが
ああ 神々しいものよ おまへは永遠に生きぬくのだ
おまへの暗い深淵には多くのものが浮かび また沈みしてしまつたが。
天なる神々 高きなる諸力 ひそやかなもの
遠くから 明るい晝と甘いまどろみと予感を
満ちみちた威(いづ)のうちから 感じ易い人間の頭へともたらすものさへも
昔の友どちも 変ることなくおまへとともに住み
しばしばたそがれどきの アジアの山々から聖嚴の月光が射し出で
諸星の光がおまへの波の上で会ふとき
おまへは天つ光に照らされて それらの彷徨ふにつれて
おまへの水も移り 天なる兄弟たちの歌が
その夜の歌が おまへの恋する胸にまたひヾくのだ。
それから遍照光 晝の太陽が
東洋の子 奇跡を行ふものが昇るとき
生命あるものはみな 朝毎にこの詩作者から
授けられる金色の夢の中で 営みをはじめ
悲しむ神であるおまへには 一層たのしい魔呪が授けられる。
しかもそのやさしい光でさへも 昔と同じくとことはに
汝をなつかしんで おまへの灰色のまき毛のまはりに
あみ出してくれる愛のしるしの花環ほどは美しくない。
また[シ+]気はおまへをとりまかぬか?
汝の使者 雲はまた彼のもとから
神々の贈物 稲妻をもつて高空からおまへの所へ帰つて来ぬか?
この時おまへは雲を陸に送る かくて
炎熱の岸辺では 雷雨に酔ひ恍れた森が
ざざなり おまへとともに波をうち まもなく父に
呼びもどされた放浪息子のやうに 数百の小川とともに
メアンデル河はその迷路を急ぎ 平野からはカイステル川
喜んでさそはれて来 長男のとしよつた
永い間かくれてゐた 莊嚴なナイルの川は
遠い連山から威風堂々と 剱の音の中のやうに
勝ちほこつていまやつて来 まちこがれた人の拡げた腕にとどくのだ。
それでもおまへは寂しげに見えるね 沈黙した夜に
巖はおまへの嘆きを聞き 翼をもつた波は天國へと
しばしばおまへから人間を憤つて逃れ去る。
かつておまへを崇め 美しい神殿と都市とをもつて ※
おまへの岸を装つた かの高貴の寵児たちが
おまへと共に生きてゐないので この神聖な元素(みづ)は
感じ易い人間の心臓を 常に求めながら与へられぬのを惜しみ
英雄たちが花環に對して感じたやうに無いのを悲しむ
云つてくれよ アテネはどこにあるのだ。 聖なる岸辺の
おまへの最も愛する都市(まち)は巨匠たちの骨壷(ウルネ)の上に
悲しむ神 ことごとく灰燼に帰したのか。
もしも船人が通るとき その名を呼び 偲ぶに足る
何かのしるしは残つてゐるか。
かしこでは円柱は聳え立ち 城塞の屋根より
神々のすがたが輝いたのではなかつたか
かしこではあらしのやうに動く民衆の声が
市場(アゴーラ)からざわめき来 たのしげな(市の)門からは
幸多い港へと 街路は急ぎ通じてゐたのでなかつたか
三月七日 木曜会[※ 関西コギトの会]ウス井、中島、松田、伊東さん)
ハイネ 独逸 (一)
悲しい十一月のことだつた
その日その日が益々暗澹となつていつた
風は木から葉を散らした
そのときわたしはドイツへと旅して行つた
国境まで来たとき
胸で常ならぬ烈しい鼓動が
するのを感じ その上両眼が
滴しだすやうな気さへした
ドイツ語の会話を聞いたとき
ふしぎな気持ちがした
まるで心臓から出血して死ぬのだが
それが全く気持ちよいといふのにそつくりな気がした
小さな竪琴ひきの少女が歌つてゐた
彼女は偽らぬ感情と偽りの声とで
歌つてゐたが しかもその曲に
わたしはひどく動かされた [※ 未完]
三月十一日
[※ 剪燈余話(趙鸞々)より、「雲鬟」「柳眉」「檀口」「酥乳」「纎指」「香鈎」の七言絶句六篇抄出。]
三月十六日 鹿熊猛君より来書。十時一年 の号を用ゆと。 ※それに対する返信
×
エルネステイイネは林檎が好き
園は石竹とバラの花盛り
月の出にはじめて蚊や蚋がとび
むしあつい南の風が雨をまじへて来
一夜あけると恋花ばかり
×
Horenや Musenalmanach ではずい分時間をつかつた(ゲエテ)
レツシングやシルレルも少年の日には
感傷を歌つたが 年よつて固まつた
ことしはミユーズたちが南へ行つてしまつたので
バラや麥を見ても心を動かされない
遠い都会の轟々の音や
クラリネツトやアコーデイオンが時々耳をひくが
泉の声は小さく 海の笛は大きすぎる
三月二十日 及落会議。猿芝居也。校長いやらし。
おれはしばしば白美木や
角斑岩のゆめを見た
炸裂する砲彈や
柘榴の實や
混乱した観念の世界で
原始の鳥は羽ばたき
巣をかけるのだが
琴とつてうたふ男は
友だちに似てゐないかもしれぬ
三月二十三日 高石へゆく。村田幸三郎。西角先生。
老公園
櫻の咲くひる 親子が来る
ZOOでは孔雀より蛇が可愛いヽ
猿や熊は人の森林で狩されて
ナンキンマメなど
鶴は啼き どぜうを食べ
正午 天丼を食べる
父は子に箸で食べさし
母は財布を出して見る
帰つてから疲れた子供は泣く
夫婦は寝てから欠伸をするなど
×
古い海は吼らぬ 松は
鼻唄。
歌うたふ小鳥はトオキイのやう
色んな香りのする野菜
ヒアシンスと薔薇と
はねつるべ
こはれた噴水 破れた窓。
テラスは月夜ではない
鳥は黙す
星と星と慇懃に
女の子ははね
ぶらんこはわめき
シーソーは逆立つ
海に松の森が歩み
山から波の羽毛が散る。
三月盡日
ケープタウンではテーブルクロス
カイロでは灼熱した蒸気となり
ボルネオで椰子の實
セレベスでは驟雨
マカオでは戎克にふりかヽり
上海 柳の絮[わた]となり
東京ではおたまじやくしの粘々(ネバネバ)
シベリアやアラスカでは雪や氷
ロツキー山脈では樹氷となり
ポポカテペテルで夜の雨
ニユーヨークぢやホテルの風呂の水
ギリシアぢやアリストフアネスの劇となる
?(ママ)
トントントントン [※ スチームの入る音]
おれは二十番教室でギリシア語を聽き
十一番では東亜考古学
三十七番の大教室で眠つた
しよつちゆうスチームが通つてゐて
ゆりかごの歌が奏せられ
雲や風が戸外を疾走する
トントン
四月六日 胃悪く眠れず。
メトロポリス
おれが歌ふはギリシヤのむかし
青い地中海の岸々に小い植民市をもつた
小い母市(メトロポリス) アテネやテーベではなく
城郭嚴しく近衛兵等に護られた
ブランデンブルグ辺境伯の首府でもない
「これはこれ 觸手ある大都会」
毅然として天の一角にそヽり立つ大殿堂
四月十六日
わしはその荒々しい気候を愛した
アジアよ
その荒々しい土壌と岩石よ
わしは驃騎兵
わしは屍体を食ふ禿鷹
アジアよ
わしはその血肉を貪る──
わしは古い神々を
その神殿とともに覆がへし
愛せられたるものの
紅い小さな手をとる
この密雲の下の
いろんな小さい花々よ
鴿[はと]を見 麝[じゃこうじか]を見
いろんな詩を探り
雪と氷とに閉ぢられた
茫乎たる海洋に
わしは巡洋艦隊
あまたの鴎を率ゐて。
四月二十七日? 上京。ゆき子、肥下。
二十八日 丸、友眞、西川と早法、帝立戦。
二十九日 友眞とボントンへゆく。
三十日 夕、ゆき子、母と東京を立つ。
五月 一日 高師浜一二八○に転住。
二日 夜、田辺に。父母、母、城 叔父、ゆき子、正哉叔父、和田さん夫妻。 その後、新居に入る。
七月三日
雲と祭と金魚
雲は水平線で動かない
華やかな夕ぐれ
波と船との奏でる音楽
崩れる幻想──
×
短い華やかな多彩な夕ぐれ
多くの都市が埋もれる
崩れる雲の山
船の入る椰子林
弦楽器なしの音楽をもつ祭
珊瑚礁の組織──
×
形をなさない思考の群
遠く沙漠でのやうなオーボエ
石油タンク
蒸発するオアシス
駱駝の遺骸──船の龍骨のやう
羊歯
ほんとに羊にまがふ雲の出
×
金いろの巨大な魚の雲
西方に祭あり
巨人は一脚をもち
一手は義足
義眼がたの日は沈み
回教寺院の荘嚴な
悲愴な祭壇
没薬の香やくちなし
青い夕ぐれ
見えぬ海なつかしき
× 燕支黄葉落
秋は丘をめぐり 妾望白登台
高台に立てば 海上碧雲断
海辺に雲たなびき 單于秋色來
北から秋は来るか 胡兵沙塞合
兵のゆくのが見え 漢使玉関回
旅人は帰らぬ 征客無帰日
ことしもわれひとり 空悲惠草摧
七月七日
晝 大江へ犬を貰ひに行く。 村井勇司節子夫妻。
夜 コギト大阪例会。うす井、松下、中島、四人。
晝すぎ山には霧が降つた
おれは紋黄蝶と深山龍膽[みやまりんどう]とを採集した
こヽからは瀧はよく見えない
蛇骨と木の葉石とを黒人から買ひ
郵便局では切手がきれてゐたが
眠る客を起こすに日くれまで待つ
★
高原では青葉が空に映り
少女たちはみんな同じ服をつけ
オレンジとメロンの罐詰が
馬車でゆられてレツテルをとりかへ
テニスコートでポンカンが投げあはれ
黒ん坊たちは庭芝に撒水してゐる
休火山の肩で日くれがちらつと覗いた
七月十二日
眠る海とゴオホの日まはりと
大戟科の植物とをゆめに見る
海は 或時はゆれて砂丘をよぢ
雲と慇懃に挨拶し
古新聞のやうに白い海鳥が
とび上らされ すひつけられ
日まはりにしばしば日が翳るんだ
八月五日
露ある園を歩み
多くの花を嗅いだ
色んな花の中で
一番平凡なのが気に入つた
Des Knaben Munderhorn
魔笛
駿馬に跨つた若者が
帝の御城へ馳せ向つた
駒は地に身を傾け
若者は雅やかにお辞儀をした
婦人たちには何とあでやかに 綺麗に
うるはしく見えたことぞ
彼は手に黄金の紐(バンド)の
入つた角笛をもつてゐた
金の中にちりばめてもあつた
美しい宝石が沢山と
眞珠や紅玉やらが
人々の眼をひきよせた
誰も見たことがないほど大きな
誰も見たことがない位美しい
象牙の角笛で
その上端には環が入つてゐた 銀のやうに輝いて
まじり気のない金から出来た百の鐘が
深い海から齎されてついてゐる
これは海の魔女の手から
帝の后に贈られたので
彼女の純潔さの誉として
また美しく賢しいために
美しい若者もいつた
「角笛の用ひ方と申しますと
あなたのお指でちよつとお抑へになれば
この鐘はみんな
いヽ鳴り音をたてヽ
どんな竪琴の音や
どんな女の歌でも
空で囀るどの鳥でも
海の少女たち以外には
こんな拍子はとれません」
さういつて若者は山のほうへ駆けてつた
皇后の手にはこの名高い
角笛が残された
その指が一寸抑へれば?
あヽ 澄んだ美しいそのひヾき
ズルタンの姫君と花づくり。(ケルンの古い一枚刷から) ※
希臘文学に於けるロマンテイシズムの曙光
★芸術に現はされた(オリユンポスの)これらの神々の形は、直ちに彼らの自然神としての正体を暗示した。
彼らは自然そのものヽ具体化された表現となつた。
河の神はその形の流動的な輪郭によつて知られる。
山や森のいぶきはデイオニユーソスやそのサテユロスの行列につきまとふ。
彼らの節と瘤のある筋肉や木の葉のやうな巻髪を以て。
海は鱗ある胴と波うつ髪をもつてゐる神々によつて、
魚を手に握つたネーレーデスによつて、
又は海豚やその他の海の動物によつて表はされてゐる。
波の生命と力とは、
翼ある海馬や疾走するネーレーデスによつて描かれる。
日の出の華やかさは、
人格化された「曙」によつて描かれてゐる。
その「曙」は翼ある馬と共に波から上つて来るのである。
馬の手綱は暗赤色で
「曙」の左右には星がある。(340P-341P)
★十字軍はアレキサンドロスの亜細亜遠征の結果に驚くべくよく似た結果を齎した。
遠い国々の戸が開かれた。
鳥や、
獸や、
爬虫類や、
又、植物の標本のあらゆる種類などが蒐集された。
それは自然研究者の時代であつた。
最古の動物園がパレルモに設立された・・・・。
十六世紀にはパドウア、ピサ、ボロニアはそれぞれ公立植物園をもつてゐた。(346P-347P)
★テオクリトスの描いた牧人は・・・・
その農人らしい競技に最もふさはしい場所について、
詩で議論する。
それは野生の橄欖の樹が生え、
冷い水が落ちるところであるか、
或は槲の木や松の木がより濃い影を投げ、
蜜蜂がその巣の周りに可愛いヽうなりを立てヽゐるところであるか。(356P)
★
「今や眠る、
山の頂も峽谷も、
岬も河床も、
黒い大地の養ふ、
あらゆる匍ふものヽ族も
小山に育つ野獸らも、
蜂の種族も、
暗い海の底の怪物も、
羽を拡げるあらゆる鳥の族も
すべて今は眠る」 アルクマン断片(373P)
★
「あヽ、あヽ、キユプリス、
と山々がすべて云つてゐる。
さうして槲の木が答へる。
あヽ、アドーニス。
さうして河々はアプロデイーテーの悲しみを嘆き、
泉は山々の上でアドーニスを泣く」 ビオーン、アドーニス哀歌(383P)
★
「泣け、
泣くのを聞かせてくれ、
汝、森の中の空地よ、
さうして汝、ドーリアの水よ、
泣け、
河の流れよ、
愛すべきビオーンのために。
いざ、
汝ら、 なるすべてのものよ。
嘆け。
いざ汝ら、森林よ。
彼を悲しめ、
いざ汝ら、花よ。
悲しき叢の中に萎み去れ」 モスコス、ビオーン哀歌(383P)
高い建物にのぼり
四方を眺望する
こヽは夕には雲が集まり
朝は鳥たちの家となる
山川は一目で
平原は茫々としてゐる。
むかし功名を求める士が
こヽで争つた
百年の後の今は
皆 野辺の土となり
その塚の松柏さへも人に伐られ
塚の土は低くなつてしまひ
跡をとぶらふ人もない
魂たちはどこへ行つたか
栄華は誠に願はしいが
あはれなものでもあるのだな(陶潛、迢々百尺楼)
嶮しい山は登りにくく
山頂にゐても星はとれない
あヽ 輝く斑点よ
天の蟋蟀よ
その心臓から涼風は来た
☆
人情だの義理だのは忘れたが
浮世には節季やかけとりがあり
(西鶴の頃だつてあつたものだ)
詩人や学者をも用捨しない
江洲採白蘋
日暖江南春 夕なぎさ犬ゐて海に向ひけり
洞庭有帰客 子供らが砂城越すや夕の波
瀟湘逢故人 砂浜や名も無き草に風吹きぬ
故人何不返 夕凪やキヤンプの子等も外に出
春花復應晩 夕凪や動かぬ船の沖にあり
不道新知樂 夕凪や島いろいろに暮れかヽる
祇言行路遠 夕凪や 戸とろとろとくれかヽる
(柳ツ江南曲)
窓の外に多くの花がある
眠い蜂の羽音がする
正午すぎると悲しくなつた
一日がかうして暮れ また他の一日が来る
湖畔の町 (シユテフアン・ツワイク)
コンスタンツ
蒼暮の時の一層増した美しさで
遠くドイツの町のはつきりした線が
これはまたやさしい色調の雲に
たヾ六月の夕にだけある様子で映つてゐる
湖岸の公園では暗い木の茂みから音楽
歌 「昔のうたをまだ覚えてゐるかい?」
たわヽに実つた葡萄の房の液のやうに
うれしい かなしい歌が波間をしづかに流れる
その時まるで懷郷病にかヽつたやうに汝(ソナタ)の心は鳴りひヾき
この町もはじめて いまあせた月光に
まどろみながら凭れてゐるおのが黒い
シルエツトを見るのだ
幸せな一刻(ヒトトキ) (フーゴー・フオン・ホフマンシユタール)
こヽに臥せてゐると まるで世界の頂上にゐるやうな気がするのだ
こヽには別に家ももたず 天幕ももつてゐないのだが
人のゆきかふ路はぼくのまはりにあり
上は山々の方へ 下は海へと下つてゆく
彼等はおもひ思ひの荷をもつて来る
みんな僕の生活(クラシ)を支(タス)けてるなどとはゆめにも思はないで
彼等は燈心草と草とから出来た箕(ミ)の中に
永い間食べなかつた果物を入れて来る つづく
八月二十日 小高根二郎、伊東静雄、山村酉之助諸氏。
日が入つてから私は不幸せだ
垣根に花が咲いてる木には
もう実がなつてゐる
あらゆる声々が呼び立てるのは
私の収穫を促してだが
もう世辞なぞ聞きたくない
シムバルほど喧しくてやり切れない
日は再び昇つて垣根の上に そこで
私は満足して眠るのだが
いろんな噂がゆめに迄も現れる
牛や馬の形を仮りて
×××
波に映つて雲は形をかへる
鴎は帰る舟のやうに翼を張つて
海底に沈んだ魚を探(モト)める
止めよ 止めよ 汝の菩提のために
それは雲だ しかも虚妄のものだ
×××
『蘇鉄』といふ小説を書くべし。
月夜 (ヰルヘルム・アレント)
しづかな青い森の夜に
白鳥の背にのつてゐる月桂樹の葉を見た
ああ 心もそぞろになるばかりのうましい純らかな光景──
巨匠の手に神業のごと造られたか!
水は夢みごこちの深い沈黙にくちづけし
童話のやうな暗さの潮にはそよとの風もせず
月影は花咲く枝々から滴り
紅玉の色で森を染めてゐる
鹿の声 (フエルデイナント・アヱナリウス)
月夜は
山森(ベルクハルト)をこめて。
霧の中を
細い雨がしぶき
風は瀕死人の
息のやうに吹く。
突然 呻く──。
あれは鹿が啼いてゐるんだ──。
熱情をこめて呻き
叫ぶのだ。
この時すべての懸崖で木魅になつて
暗の方々で無生物たちが目を覚まし
急に
立ち上り 夜に向つて
訊ね
嘆き
元気を失ふ。
正午 (パウル・バルシユ)
闃[げき]として そよ風もない 谷は
目眩(まぶ)しい正午の日の炎に照らされてゐる
草や花や 潅木や樹は
息もせぬ夢につヽまれてゐる
その時 ものうい花の野原から
急に蛇が頭をもたげる
彼は無感動に遠くをみつめる
何か向ふでこつそり動いてるかのやうに
だけどそれは虚妄(まやかし)だつた 蛇は
また深く頭を垂れ 正午は黙す
美しい色の野原で夢は卵をかへす
それは依然として平和なのだ
少女の夢 (ハンス・ベンツマン)
彼女は坐つて忙しく刺繍しつヾけ
王様の死の悲しい唄をうたひ
散つてしまつた百合の花を唄ひ
盛りをすぎた恋の炎を唄ひ
遠く夜と風とをおかす船人を唄ひ
捨てられた少女の唄をうたふ
彼女は唄ふ──夜が来るまで・・・・
野性の楊桃の樹が生え
冷い水の墜ちるところで
耳をすませば 都会はいろんな音樂と
いろんな木々とを持つてゐる
金色に光る夏蜜柑 赤い夾竹桃など
夕日が昃り出すと
鳥がみなそれらから飛び出して
この峠まで帰つて来る
九月四日
果樹園
重い雲が疾走する
園の中央で鋏が光り
美しい香気が傾斜を下る
そこで取引が行はれる
九月二十四日
城ある湖のほとり
ほこ杉は朝日にぬれて輝き
梅の花は古代めいた花つけ
青い貝を二つ三つ拾つた
窓を開けると灰色の並木道
のろい 生ぬるい塩風(ママ)がくる
子供たちは一斉によむ
「それは蜂か それは蜂ではない それは蛾である」
ほんとに窓の間には蜂がはさまつて唸つてゐる
九月二十七日
ある晴れた秋の朝
発動機船第三住吉丸は
五色の幟をひるがへして
初めての船出をした 村中が浜に集まつてゐた
さわがしい機関の音は
次第に小くなり
やがて船は倒れるほど傾いて
進路を北の方へ変へて了つた
十月二十七日
鹿は山頂に坐つてゐた
四足を折り曲げて 疲れた様子で
遠い山で稲光りがして
花苔やエイラン苔や岩角や また
彼の蹄の間にはさまつてゐる岩屑が
瞬間 しかもはつきりと輝いて見えた
△
ふたりで山頂に立つてゐた
僕たちの後影は黒く見えたらう
夕やけのする空を間もなく雲がかくし
烈しい稲妻が起つて
山々や谷々を照らし出した
僕は妻に僕の故郷を指示することが出来た
十一月二十七日
玩具風景
眼鏡橋の上から男が覗いてゐる
水の中へ落つこちさうな姿勢だが
日はまだ通りをよぎらない
地方法院の塔から郭公が飛び出し
十二度啼くとまた入つた
兵隊が河岸を徘徊してゐて
星章が遠くからも輝いて見える
エプロンで手をふきふき下女が出て来る
鈍く砲声がして家並の上に雲が見えた
(つづく)