(2006.11.10up / 2006.11.24update)
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たなかかつみ【田中克己】『大陸遠望』1940


カバー

詩集『大陸遠望』

田中克己 第二詩集

昭和15年9月17日  子文書院刊
(文藝文化叢書 8)

21p 217.5cm 上製カバー \1.00 (1000部)

大陸遠望

平松幸彦装幀


詩集『大陸遠望』

見返し

  捧ぐることば 1 2 3 4

 これはわたしの第二詩集で「詩集西康省」につぐものである。わたしはこの拙きを中支なる蓮田善明氏にささげようと思ふ。それはかういふわけからである。 蓮田氏はわたしが「西康省」を出したと恰も時を同じうして昭和十二年の十月に応召された。これにも何かの因縁があるやうに思ふ。応召後しばらく氏は故郷の連隊に居られた。 大陸に出動の命を受けられたのが翌年の三月だつたか。この時、氏はコギトの発行所に速達でわたしの詩集を求められた。わたしはこれを伝へ聞いたとき大変感激した。 あの拙い詩集には先輩や知人のありがたい激励が多かつたが、そのどれよりもまして、 戦地に渡る前日のますらをがわたしの詩集のことを念頭にかけてゐられたといふこのことが嬉しかつた。
 そのうへ七月にはわたしば戦地の同。氏から便りをいただいた。それにはかういふ二篇の詩が入つてゐた。

  草

出征の日に、あなたの詩は、
遠征の彼方から私を呼んだ。
わたしはあなたの詩集を何処に置かうかと携へて来ただけ。
わたしは探険家が、その太古秘匿(かみかく)されたるたからを、
奇(あや)しい絵図そこに開きて索(さが)すやうに、
あなたの詩集を戦ひのにはで繙(ひら)く。

ここで私はただ石(いわ)を見た。
石の上には草が風に吹かれてゐた。
わたしはその処処で草を摘み、あなたの詩集にそつと挿んだ。

  押花

友の美しい詩集に、わたしは
時々、所々で摘みとつた草や花を挿んだ。
(ああ、こんな時、こんな所々!)

日経て、詩集を開く時、それら草花
其侭に押し花となりて、ひつたりと
やさしい姿を、眠つたまま残してゐた。

もはやあのやはらかさは無く涸れて
悲しい一つの形になり果ててはゐたが、
残し得た花の、草の見事さ。

その一つの花を、わたしは或る日見めでて、
破れぬやうにそつと指もて剥がして見たるに、
花に添へる葉の裏にも匿れて又花がしつかりとついてゐた。

 蓮田氏はまた文藝文化誌上でも古今集などと共にわたしの拙い詩集が陣中の慰めとなつてゐる由をいつてをられた。 蓮田氏の居られる戦線は全く膠着状態となつてゐて敵味方が近距離で睨みあつたまま対峙してゐる。絶えざる緊張が要求せられる箇所である。岩山の横穴の入口に蓆を吊してその奥に交代で寝るだけで、 夜昼を分たぬ見張りについてをられるとも聞いた。気まぐれやをどかしに支那兵の撃つ弾丸が何時でも飛んで来ると聞いた。果して蓮田氏が手に戦傷を負つて一時後送されたのはこの年の終り近くであつた。 わたしはそれを聞いて身のひきしまる思ひがした。
 心弱いわたしにはもちろん苦いことばよりも甘いことばの方がいい。しかしわたしにはまた同時にたとへ先輩知友のことばとてすなほに受取れぬひがみ心があり、 また喜びを素直にあらはせぬ知羞の情がある。しかし日々を生死の境においてゐられる蓮田氏のことばだけはそのわたしにも素直に戴くことが出来た。 従つてこれ以後わたしの作品は氏に向けて書きつづけられた。それが氏の応召後一年有余でこんなに溜つてしまつたのである。
 この詩集もまた蓮田氏によつて摘まれる大陸の美しい花々を挿むことが出来ればと切に思ふ。
   昭和十五年六月下浣
                                  田中克己

偶得   (昭和15年9月 文藝世紀 9月号)

ハリー彗星は一九一〇年に現はれ
(その翌年におれは生れたのだ)
その週期は七十六年と七日だから
一九八六年に再び見えるといふ
おれはこの書を読み心楽しまなかつた
多分おれは一度もこの星を見ないだらう
思ふに人間の相逢ふのもこれに等しいのだ
知己を一人得るはそれほど難く
恋人を一人得るもまた難いのだ
おれの知己はおれの死後に出て来るのだ
おれの恋人はおれの生れる前に死んだのだ

ツングース   (昭和15年6月 コギト 96号)

ここ落葉松(からまつ)と椴松(とどまつ)の林の中に彼は憩へり
嘗つて馴鹿(トナカイ)を飼ひ鹿の肉を啖ひしもの
野生の栗鼠と貂(てん)と狐とを猟し 熊と虎とに傍ひて眠りしものここに憩へり
母胎より出でし後の日を柳の枝と毛氈(フェルト)とより成りし
幕居(ウィグワム)の中に睡眠袋(スリーピングバッグ)に眠りしものここに眠れり
懸鉤果(きいちご)と榛(はん)の実とを啖ひしものその婚礼の
夏の夜を夜すがら輸踊(リングダンス)をどりしものここに憩へり
オレクマ河、アンガラ河、レナ河の流に沿ひ
ゼーヤ河、黒龍江、アムグン河の流に沿ひて住めるものの一人ここに憩へり
天に祈り七星に祈り地にもろもろの神を視
幕居に火の神を祭りし敬虔なるもの 恵まれしものここに眠れり
荒き熊の爪をのがれ乳哺(ふく)めゐし雌虎の牙をのがれしもの
ただ一発の小銃の痕を前額の骨にとどめて
ここ落葉松と椴松の林の中に永遠(とわ)に眠れり

わが誕生日   (昭和15年9月 コギト 99号)

八月三十一日 夏の尽きる日
早くからすべての物に漂つてゐた秋の気が
庭石や物干竿にまでもう一杯になつてゐる

僕の記憶の中ではまだこの日を彩つて
大正天皇の天長節の日の丸がひらめいた
夏休みの最後をいとこたちと悲しみながら
この日を自分の日ともつ一寸した誇りもあつた

僕にはもう夏休みもなくいとこたちもない
秋は物干竿の天つぺんに懸つてゐる子供たちのものに
満ち溢れてはたはたとはためいてゐる
最後の蝉が啼きしきる庭先で
長男がそれに聞き耳を立ててゐる
その顔は昔の僕そつくりだと妻がいふ

Ein Märchen   (昭和15年8月 むらさき 8月号)

芝生のまんなかに噴泉(ふきあげ)があつた
それに影映して楡(にれ)の樹があつた

そこで或日七人の少女が輪舞(ルンデ)を踊つた
踊り疲れて坐らうとしたら椅子が六つしかなかつた
一人が立たされて泣きさうになつた
空は青く雲は白く風の薫る日だつた

その七人は結婚した 幸せだつた
だけどあの一人だけは早く夫を失つた
そして輪舞の日を憶ひ出して諦めるのだつた
あの楽しかつた日にも不運だつた自分のことを思ふと
ふしぎと心が鎮まるのだつた

小さい市で  1  2   (昭和15年8月 文藝文化 26号)

鈍色(にびいろ)の海が北をめぐり
低い松山が南を囲む小さい市(まち)に降りたとき
今しがた乗棄てた汽車はもう岬の向ふへ隠れた

駅前の広場から一條(ひとすぢ)走る大道には
旋風(つむじかぜ)が砂埃を捲上げてゐる
屋並の上に聳えてゐるのは
多分区裁判所と警察と市役所とだらう
時計を掲げた白い建物は中学か
交番では巡査が退屈し 辻では車夫が居眠りしてゐる
そのくせ流行遅れの柄を売る呉服店は女たちで満員だ
ラヂオだけはここでも都会の歌をうたつてゐる

ああ たとへ市長に選ばれることがあらうと
またたとへこの市一番の詩人と頌へられることがあらうと
一日も留まり難いやうな市
熱鬧の巷にあつて ただ一鉢の紅い天竺葵(ゼラニューム)を置いた
わが家よりなほ狭苦しく思はれるゆゑ

機械についての感想   (昭和15年5月 工業大學藏前新聞 5/27)

窓から射す朝日に或る部分はピカピカ輝き
ある部分は煤と油とで黒く汚れながら
みんな緊密に組合はされて一体となり
朝の始業を待つてゐる機械
どこにその力の主体が潜んでゐるかはわからぬながら
全体として雄々しい気魄を籠め
いつでも動き出す準備をしてどつしりと坐つてゐる奴
それを登校のたびに眺めながら通つた小学生の日
そのときの感じを時々思ひ起す
主として餓(ひも)じくもの倦い夏のときどきに

不吉な夕方   (昭和15年5月 帝大新聞 5/20)

上りの終発がたつて行つたあと
高原には驟(にわ)かに暮色が漂うた
しばらくはずつと下をゆく列車の喘ぎが聞えたが
いつもそこでそれが見えなくなるカーヴのあたりで
紅い尾燈(テールランプ)が一揺れすると
四辺(あたり)は静かになりホテルの厨房で
食器を扱ふ音が方々に谺した
子供たちは両親に、少女は恋人に寄り添うて
連山の夕日が沈んだあたりに立ちはじめた
奇怪な形の雲を不安げに見遣つてゐる
さてひとりのおれは立つて音楽室にはいり
葬送行進曲のレコードをかけた
それがおまへの死を聞いた夕方だつた

少年   (昭和15年5月 若草)

厦門(アモイ)へ僕が往つたのは十六歳の時だつた
南十字星(サザンクロス)やアルゴ座や紅い花咲く仏桑花(ぶっそうげ)
かほりの高い茉莉、素馨(そけい)――さうしたものが見たかつた
秦吉了(きゅうかんちょう)を飼つてゐる青衣少女が見たかつた

さて船暈(ふなよ)ひの足もともよろよろ陸に上つたが
迷路(ラビリンス)めく舗道(いしみち)でゆきあふ人の眼の凄さ
昼夜わかたぬ胡弓の音(ね)、かつと照る日のてりかへし
眩ゆく暑く苦しくて花など見るもいやだつた
夜空は星が多すぎてどれがどれとも知れなんだ
無性に家が恋ひしくて、柳齋志異の置いてある
わが家(や)の机がこひしくて僕は蹉陀(あしずり)したものだ

厦門へ僕が往つたのは十六歳の時だつた

期待者  1  2   (昭和15年4月 改造 4月号)

窓からは雪を戴いた連嶺と
まだ芽を吹かぬ落葉松の林とが見えた
その室に僕は長い時間 坐つてゐた
骨ばかりになつた友達は咳きながら
窓の外の風景を見つめてゐた
荒々しい風景──それが瀕死の人間に
一体なんと見えるものか
僕はこの残酷な質問がしたかつた
しかしさりげなくもう春の来ることを
ちつとも期待してないのにくどくどと語つた

病人はまたあの不快な咳をし終へてから
低い嗄れ声でかう云つた
「さうだ春が何もかもよくして呉れるのだ
その期待で厳しい季節はとても凌ぎやすかつた」──

いま木々は芽吹き 山々は青い
季節の期待はすべて満たされた!
しかしあの病人は? 期待した者は?
朝日のあたる窓には敷布(シーツ)が乾されてゐるが
それには屍臭がこびりついてゐるのだ。

少女  1  2   (昭和15年4月 新女苑 4月号)

         ──ゆめ──
その日はみんなが冷い素振りをするし
ママの言葉もすなほに聞けなかつたし
園には薔薇も石竹(カーネーション)も、いいえ青い芽一つなかつたし
そのくせ空だけが妙に晴れてゐたから
あたしは波止場に行つてみたんだわ
瑞典(スヱーデン)だか諾威(ノルウェー)だか、どこか寂しい国の
お船が一つだけひつそり泊つてゐたわ
それを見てちよつと気が鎮まつたの
それからシアトルから汽船がついて
沢山の乗客が賑やかに降りて来たわ
そして最後に出迎へが一人もゐなくなつたころ
小さい髷を結つたお婆さんが降りて来て
見ると眼を泣き腫してかう言つてるの
「おお、これがニツポン、五十年目のニツポン」
あたしはその時、歩み寄つて言つたの
「お婆さん、あなたの孫の駒木根ユキ子ですよ」

そのときあたしはとても幸幅だつたわ。

海浜ホテル   (昭和15年2月 文藝 2月号)

あすこに梅のひらくにはまだまだ遠いが
この芝原を横ぎつて
寝そべつた獅子に形が似た岬の方へ歩いてみよう

たまの休暇を楽しみにわれら親子は来たのだから
なぜか見てゐて危なげな恋人同志や
物欲しさうな給仕(ボーイ)らにもうかかはつてゐたくない
そのうへ水つぽいポターヂュや砂かむやうな皿々にも
太郎も次郎も満腹したやうだ

さあ冬の日の傾かぬうち
(そのやうに短い人生も大切だから)
景色のいい方へずんずん行かう
寝そべつた獅子に形が似た岬の方へ歩いてみよう

皇紀二千六百年の朝   (昭和15年1月 文藝世紀 1月号)

一番早い太陽の光線が
東経一五六度三二分 千島列島の占守(シュムシュ)島の絶巓をかすめたとき
この大いなる年の朝がはじまります
光の征矢がだんくと花綵(はなづな)列島を西進し
富士の頂を真紅に染めるころには
近衛歩兵第一聯隊の起床喇叭も鳴りひゞき
わが家に吾子が眼をひらきます
まだ西の方は眠つてゐますが その眠りは
みな深い期待の夢を見てゐながらです
そして北京、済南、太原、開封、安慶、南京、杭州、
 南昌、武昌、広東、南寧の十一の省城では
眠らぬ人として歩哨が朝を待つてゐます
蒙古高原では軍馬たちが
朔風に髭(たてがみ)を震はせながら高く斯きます。

曠野  1  2   (昭和14年12月 中央公論 12月号)

曠野の中央に一つの車隊が停止してゐた
季節は正に仲冬 刻は薄暮であつた
空には飢餓と疾病とを象徴する雲が垂れ罩めてゐた

一乗の車にゐた子路と呼ばれた男が
厳(いか)つい眉をしかめて独りごとを言つた
「どの王公も我等を容れようとはしなかつた
そして師はわが言の信じられないわけを
わが道の行はれないわけを考へて見ようともされない
わが仁、わが知に足りぬところはないか
おれは師の自信が怨めしくさへ思はれる」

他の車にゐた子貢と呼ばれた男が
聡明さうな眼を動かしながら独りごとを言つた
「どの王公もわれらを容れようとはしなかつた
師の道の至大なことを理性では知りながら
おれの世智はあの大きさをちよつとだけ縮めて
人に容れられるやうにするのはわけのないことだと
師を怨むときがあつてそれが悲しく思はれる」

また別の車にゐた顔淵と呼ばれた男が
その若白髪の頭をもたげて独りごとを言つた
「どの王公も我等を容れようとはしなかつた
そしてそれが今ではおれにとつて嬉しいのだ
なぜなら容れられないのが道であり君子であることが
日々に確信されてこの道と師を信じる心で
死ぬことの出来るのが一等幸せなからだ」

このとき中央の車にゐた老年のひとが
琴をかき鳴らして詩(うた)を唱ひはじめ
その声とその曲は曠野に凛々と響いた。

大陸遠望  1  2   (昭和14年12月 中央公論 12月号)

夕暮ごとに大海のほとりの丘に来て
西に向つて顧望するのが慣はしとなつた
いつも夕日の沈んだあとでは波が急に荒くなり
沢山の呟き声が聞え その中には
いやなぶつぶつ声がまじつてゐた
そしてその一つがかう云つた
「何のためにお前は何時もその方に向ふのだ
この海の彼方には鈍重な面貌をもち
五千年の譎詐(きっさ)と流血の歴史をもつた
黄色い民が村落を作り都会を建設し
そこで日々争ひ喧噪し蠢めき奔つてゐるだけだ
その他に何があつてお前は眺めてゐるのだ」
それに対し私は眉を揚げてかう答へた
「何ゆゑとか何のためとか問はないでくれよ
その問ひ方には賎しいものがまじつてゐるからな
しかし強いてお前に答へてやらう
わが祖(おや)たちが意志し 欲望したことで
なほ果されぬ大きな希ひごとがあつて
それがおれの血を騒がせて止まないからだ」
かう云つたとき夕暮の蒼靄の中から
数多の塔(パゴタ)、あまたの拱橋(アーチ)、あまたの城楼などが
簇立(そうりつ)し金色(こんじき)に輝くのが見えた。

われらの詩論

愛し理解しようとつとめるすべての人に愛され理解されるもの
文語と口語とから選び出された最も美しい日本語で綴られたもの
視覚には美を与へ聴覚にはリズムを与へるもの
現実からのフィクションでありフィクションから現実を感じさせるもの
これらをこそ詩と呼ぶ

千年   (昭和14年12月 鵲[大連] 30号)

わが書齋
金文字燦然たるEncyclopaedia Britannica(エンサイクロペディアブリタニカ)陳(なら)べたる書棚の上
鵞ペン、フラスコ、銀の文鎮、天秤とならびて
枯槁し尽せる千年の髑髏(されこうべ)あり
ある日ある時その眼窩より涙出で
顎なき口より低き眩き漏るるを聴けば
「かつてわれ生ける日に 誇らはしげに
 幾百の詩(うた)つくりしがそは今のわがごと
 実なく血なく情なき形骸(かたち)のみなりしを知らず
 ただ恋の詩(うた)ひとりの少女をも動かさず
 戦ひの詩(うた)ひとりの戦士の血潮をも滾らさざるを訝(あや)しみき
 さて昂然と言挙げすらく 知己を千年に求めんと
 いま千年 生ける日にも劣りて虚しき名だに留めたらず」
言(こと)果つれば涙たちまちに蛆と化りて絨緞の上を蠢き歩けり

海獣   (昭和14年9月 四季 50号)

海の時間では正午をわづか過ぎたころが最も長閑(のどか)である
万物に遍照する日は中天をやや傾いて歩み
巌はみな表情を帯びて入江をとりまいてゐる
波や海藻やプランクトンや魚の群も午睡する
わたしたち──父と母と──とは眼を明いて空を見てゐる
海と空との何たる相似
突然、子のわたしにはげしい恐怖が来る
昼の後には夜が来るだらう やがて潮汐(さしひき)がはじまるだらう
否、いまも生命のゆるやかに潮汐しながら流れるのを知る
そして最もしづかなこの時を写し記憶したわが脳髄が
荒々しいものの牙によつて寸断される瞬間を想ふ
わたしは父を呼び母を呼び
そのやさしい「何(ワス)?」に答へるのをためらふ

公園にて   (昭和14年10月 文藝文化 16号)

空は水いろ 月 浅黄
白鳥(スワン)のむれは水に浮き
首をのばして啼きかはす
(その浄らかのしあはせに
 声立てずしてゐられねば)

さてわれ吾子(あこ)と岸に佇(た)ち
Swan(スワン)ぞ彼(あ)れと教ふるに
小さき唇(くち)も繰りかへす
その声音のいかばかり
執拗(しつこ)き父が愛情を
さらに昂(たか)めてすぎゆきし

空は水いろ 月 浅黄
またひとしきり蹄く白鳥

行者   (昭和14年10月 コギト 88号)

二十分ほど谷川に沿つて登るまに
三つの湍(たぎ)つ瀬と一双の山鳥と無数の百合の花を見る
峠では涼しい風が吹き
二千二百二十米の瑞牆(みづかき)山が雲を帯びてゐる
見かへれば雲漏れ陽を受けたあの村が輝き
その小ささが我が身をふとふりかへらす
そしていまは山彦にさへおどろきを感じる
荘厳なるかな 山は 地は 天は 神は

夏草   (昭和14年8月 コギト 87号)

中央線の立川と八王子との間
夏草の中で軌道がカーヴするところ
そこに彼等は早くから待ち構へてゐた
日の丸と色んな懐ひとをもつて――
八時四十分松本行準急は疾駆する
カーヴでそれは一度速度を緩め
そのとき彼等は日に焦けた顔を見る
万歳々々
万歳は大君の上にこそあれ
日に焦けた顔はこれより
長い軍(いくさ)に 暑い黄土に
いまいくつの歳を迎へることだらう
きりぎりす鳴く夏草のカーヴのところ
翻りひるがへり見えなくなつた日の丸を
いくそたび思ひ返して征くことだらう

富士に寄せる恋歌  1  2   (昭和14年10月 新女苑 10月号)

夏の東京の市街はあの「望郷」のカスパの町のやうに
炎天にキラキラと反射して聳(た)つてゐた
旅に出よう 旅に出よう そこには緑の木々と
心を慰める風と鳥の歌がある

 私は旅に出たそしてすぐ眼のまへに
 緑の木々を見た 風と鳥の歌を聞いた
 しかも見よ 富士は 藍色のアフタヌーンを着た
 あのひとのやうに旅窓に立つてゐた

甲府を夕に発ち 韮崎まで来たとき
富士は夕映えに深紅になり やがて
紫になり 藍になつて暮れてしまつた
そのときあのひとの室の窓帷(カーテン)に似た
白い雲がうつすらとそれを覆ふのが見えた

私は車窓に見てゐて 小さい声で呟いた
富士よ 富士よ おやすみ 私の富士よ

諏訪の宿で四時問遅れて卓上電燈(スタンド)を消すとき
私はも一度ちひさい声で呟いた
富士よ 富士よ おやすみか 私ももう眠るよ

諏訪湖の朝   (昭和14年10月 澁谷文學 10月号)

山々に囲まれた静かな湖水の方へ
なだらかに降りてゆく参道がある
夏祭の翌朝 町は疲れてまだ眠つてゐる
昨日の夜のあのreligiousな興奮はどこへ行つた
白い薄い雲の影が湖水をよぎり
日は桑畑と眠れる町にすばやい一瞥を投げかける

城址にて   (昭和14年7月 コギト 86号)

五月の嶮しい山へと登る
美しい空 美しい樹木そして美しい鶯の声
苦しく眩ゆい夢の中に生きてゐるやうな一刻(ひととき)

そして昔の城趾である頂上
一面にアネモネの花が咲き乱れ
藪をなした蔓薔薇が礎(いしずゑ)に纏ひついてゐるところ

臥(ね)よう しかし昔の人の名は数へまい それには
目もくらむほど悲しい思ひがする
また今経て来た黄青く拡がる平原のかたをも見やるまい

目を水平に保(も)てば そこに向ひ聳(た)つ
峰の「永遠」の雪が さりげなく
しかし皮肉な小皺を口もとに湛へてゐるのだから

花木に寄せて   (昭和14年7月 學藝展望 7月号)

柿の花が咲けば実になる日を思ひ
朝顔の黒い小さい種子を蒔いて花を待つ
夜には黎明(よあけ)を待ち 朝には夕を望む
「このこころ 積りて何になるやらむ」
「老さ、鏡を御覧なさい」

   (昭和14年8月 四季 48号)

紫陽花のかたはら 竹藪のかぶさつた泉水
そこに棲まはされてゐた大きい眼の持主
いまその肉を賞味する
酢と辛子と味喀の助けをかりて

やどりぎ   (昭和14年5月 學藝展望 5月号)

俺の勤先の窓のまへには
大きな榎の木があつていまは落葉してゐる
しかしその枝々に寄生木(やどりぎ)がついてゐてそれだけが青い
それが奇妙に思はれる日もあるのだ
木立の向ふの道をいろいろの人がゆく
ある日は柿色の服の囚人が行つた
毎日午後二時すぎには郵便自動車がゆく
こんな話で俺の勤務ぶりも想像出来るだらうね。

冬日感懐   (昭和14年5月 新潮 5月号)

吾子の熱高ければ縁に出て庭を見る
庭には花咲く木なく
赤松の二もと 蔓草の一叢(ひとむら)
冬を越すものみな強し
さびしき梢を風わたり颯々と鳴らせば
何もなきわが庭に瀧かかり蒼き潴(いけ)現(み)ゆ
吾子とわれと幾年をともに住む家ならん
あこよ 吾子よ

一日   (昭和14年5月 新潮 5月号)

風吹き尽して一日暮れんとす
黄塵 家にあまねく書帙をひらくに音して墜ちたり
畳の上に翅ある松の種子ありて
土におちなば一もとの大木(おおき)とならんもの
かかる感慨に暮るる日の多き

佳きひと   (昭和14年8月 文藝世紀 創刊号)

愛(かな)しき眼(まなこ) 動きたり 耳動かしぬ
華やかに角と斑(ふ)をもて飾りし身を羞づるごと
鹿の素振りの優しさや
見つめてあれば想ひ出(づ)るわが秘めごとは
語るまじ 鹿に比(たぐ)へてよきひとならねば
──されども見るにいや思ひ出る

凍る湖   (昭和14年5月 短歌研究 5月号)

わが友の葬(ほふ)りの日なり
いばら分け岡にのぼれば湖(うみ)見ゆる
美しいかな六月(みなづき)の太陽の下(もと)
みづうみの水はたちまち凍(い)てわたり
めぐれる山の青葉みなうなだれ萎み
咲く花は枝より墜ちてさながらの氷柱花なり
楽(がく)奏(かな)でゆく船のうへ
少女子(おとめご)はみな青ざめて男(おのこ)に凭(よ)りて死にゆきぬ──
凍れる湖に楽の音は凄愴として鳴りわたる
なみだ湛へしわが眼には
この世にあらぬ光景(さま)見ゆる

日本の春   (昭和14年3月 文藝文化 9号)

すなほなるこころには春がたのしき
庭隅にまだ薄氷(うすらい)の消えのこり
遠山の耀(かがよ)ふ雪は見えてあれども
去年(こぞ)の落葉をわがとりあつめ
妻と吾子と籍きて坐れば
土ちかく蕗の薹もえ、蘭も蕾(ふふ)みぬ
やがてやがて名知らぬ草も木も咲き出でむ
汝(な)と吾(あれ)と家をもちしは今なりき
吾子 汝の生(あ)れしもいまぞ
すなほなるこころには春がたのしき
梢より梅が馨(かお)れる、蹄くはなに
陽をよぎりちちと翔びたる

温室の会話   (昭和14年2月 むらさき 2月号)

はじめに白い花弁に紫や紅のふちとりのあるシネラリアの花がいひました
「わたしたちは世界を美しく彩るために生れて来たのよ」
次に白い花弁の底がちよつと黄色いフリージアの花がいひました
「いいえ、わたしたちの馨(かおり)でつつむためによ」
薄紅の西洋桜草(プリムラ)がそれにも抗議を申しこみました
「いいえ、わたしたちは春を告げに来たのよ」
緑色のバナナの木や不死鳥木(フェニックス)やゴムの木などが
駄つてこの会話に耳を傾けてゐました
僕はいい気持になつて室の外へ出ました
ピューツ、ああなんてひどい風だらう
一面の枯野原に北風が吹いてます
外套の襟を立てながら僕は眩きました
「世界が美しいだのかほりがあるだの春が来ただのいふことは
 この枯野原につつましい蒲公英(たんぽぽ)や
 菫が咲くまでは信じないことにしておかう」
云つてから温室のお嬢さんたちに一寸悪いやうな気がしました

詩人の生涯  1  2  3  4  5  6   (昭和14年2月 いのち 2月号)

四川は古への蜀の国
漢祚をこの一系に繋いだ昭烈帝劉備と
その遺囑を受けた諸葛孔明が
魏呉と鼎立して天下三分の計をなしたところ
山々はこの盆地をきびしくとり囲み
そこから鴉礱江、眠江、嘉陵江、沱江が平行して降りて来る
岷江がその支流の、西康省から流れて来る大渡河を入れる地は
宋代以来の名邑で昔の嘉定府、今は楽山県といひ
西に聳(そばだ)つて峨眉山がある
(その山に登れば夏の日も
 雪を戴いた西域の山々が見える)
一八九二年彼はここに生れたといふから
今年は四十八歳であらう
彼が中学にゐた時 辛亥革命が勃発し
就中、四川は鉄道国有問題から総督趙爾豊が暗殺され
革命の口火が切られたところであつた
此時清朝から派遣された将軍端方は
首を斬られ、その首は西洋皿の上に盛られた
彼はその写真を見てサロメのやうだと思つた
一九一四年彼は日本に留学し
一高と六高とに学んで後、幅岡の医科大学に入つた
彼が解剖学や病理学を学んだ所以は
中国の民生を優れた西洋医学で以て救済しようとの心からであつた
一九一五年日本が廿一箇条を要求し
袁世凱がそれを口実に排日をはじめたとき
彼は直ちに乗船して上海に帰つた
そこでは人々は一向平常と変つた様子もなく
しかも彼自身と来ては宿の近辺の
路筋さへろくろくわからぬ位だつた
彼はそこで日本に舞戻り、翌一九ニハ年には附属病院の
日本人の看護婦安哪(アンナ)と恋をした
この恋愛は彼をして文学を愛せしめ
就中、歌徳(ゲーテ)と雪莱(シェリー)とを愛せしめた
ミューズがヴィーナスと同盟を結んだときに
常に人々がなさしめられる如く
彼は浪曼的になり浪曼主義を愛した
彼は歌徳の恋の歌を訳し、若き維特(ヱルテル)の悩みを訳し
雪莱のネープルス湾畔のスタンザを訳し
施篤護(シュトルム)の茵夢湖(インメンゼー)さへも訳した
(僕はこの小読をあまり好まないが)
一九一九年世界大戦が止むと
山東問題が起つて留日学生は
続々と帰国して五月四日には大反日示威(デモ)を敢行した
彼はこの間日本に留まつてゐたが、日本の新聞雑誌から
所謂支那侵略的な言論をぬきがきし
これを訳して本国の学校や新聞杜に送つてゐた
一九二三年には到底日本に居られなくなつて
上海に帰つて郁達夫や成仿吾たちと創造杜を起し
病理学や解剖学や薬物学を放棄して
文学雑誌「創造季刊」や「創造週報」やを発刊し
文学の力で中国の青年を心の底から揺り動かさうと考へた
当時中国は辛亥革命後既に十余年
議会は成立してゐたが代議士どもは
清代の土豪劣紳と何等異るところなく
革命軍は軍閥と何等えらぶところなく
軍閥は嘗ての弁髪の総督巡撫と変らなかつた
(要するに支那は古い支那のままだつた)
孫文だけが新しがりでいつも夢を見つづけて
共産党と手を握りボロヂンやガロンを
蘇聯から呼び寄せたが北京で客死した
彼もこの頃、浪曼派をやめ革命派になつて
革命文学を唱へ河上肇を訳し
蒋介石が黄埔軍官学校生徒軍を先頭に立てて
北伐を開始するやケ演達、テルニンと
武昌に来て革命軍の青年の戦死するを実見し
武昌城の遂に落城するのを見た
彼は武漢政府の総政治部秘書長となり
ケ演達が殺されると日本に逃れた
彼はその革命主義のため帰国すれば死刑の運命を持ち
またそのため中国のインテリの支持を得た
(一九二九年の北京大学の学生は
最も崇拝する文学者として魯迅に三十四票を
彼には三十一票を投じ、最も崇拝する政治家として
江兆銘には五十一票、ムッソリーニに二十七票
蒋介石には僅かに六票しか投じなかつた。)
彼はかくて歴史家となり「中国古代社会研究」を出し
殷代までの支那社会はまだ氏族社会であり
母権制の杜会であつたけれど
西周時代には奴隷杜会に進化し
秦の始皇帝のお蔭で封建社会に進化したといつた
(理論は斬新だつたが公式的すぎた)
彼はまた殷周の金文を研究し
その「金文叢考」は西園寺公さへも読んだ
彼は千葉の市外で静かに老いゆくかに見えたが
一九三七年七月七日、盧溝橋に日支事変が火蓋を切るや
彼の血はまた沸(たぎ)り、七月の或日
彼は浴衣がけのまま、子供たちにも黙つて
乗船して故国に帰つてしまつた
船中で詩を作り「婦に別れ雛を抛つて藕糸を断つ」と詠み
蒋介石に謁してその宣伝者となつた
彼はかくて焦土戦術を説き長期抗戦を呼号し
日々皇軍に逐はれて故国の四川に近づき
今は多分重慶にでもゐることだらう
彼の一生は愛国と熱血と、詩と涙と愛と学問と
すべて第一義の道ばかりであつたゆゑ
たとへその愛国の仕方が五里霧中であらうと
僕は彼を愛する、彼の生き方を愛する
しかし汝、郭沫若よ君はもう二度と
(断つた藕糸(はすのいと)がつながらないやうに)
愛する妻子を見ることはないだらう
そして雲南か四川の山奥でその身を横へるとも
英国にも行くな仏蘭西へ亡命するな
ハーヴァード大学の講師になぞなるな
詩人らしく悲劇的な最期を遂げよ
その時 僕は改めて君の伝記を書かう。
                                   詩中の今年は昭和十四年

   (昭和14年2月 四季 45号)

幾十度(いくそたび)の春の花を見たまひしや
御孫(みまご)なる吾子が桜ゑがきたる書(ふみ)もちゆきしに顧みたまはず
鴬は黄と緑の衣(きぬ)つけて古き曲うたふを
聞きて哭(な)きたまふかと見にゆかず
日影椽(たるき)に傾きてのち行き見れば眠りたまへり

冬夜箋記   (昭和14年3月 學藝展望 3月号)

冬のきびしさはたびたびひとの寝付をわるくする
硝子窓に霜の降るのを眺めながら
月光と流れる水と雲の影と
虚しいものばかりの夢を見るために
眠りを急ぐことが出来ようか
電燈をつけたり消したりしながら
僕は呟く
「黄色く白く薔薇はいくたび花咲いたぞ」

旧大学生の詩   (昭和14年1月 こおとろ)

最も怠惰だつたこのおれにさへ
本郷はまだ懐かしいところになつてゐる
しかし断じて江知勝※や白十字※のためではない        ※界隈の店名(すきやき、喫茶店)
先生はまだおゐでだし 友達は
男爵や田舎教師になつたが うしろ姿の
そつくりなのが本を読みながら通りを歩いてる
尤も春毎に咲くあの池ぎはの
マロニエの白い花にもいくらか心が惹かれる
図書館の豆電燈は眠るとき消せばよかつたし
研究室の本は借り出すのが億劫だつたが
それでも大学はときどき思ひ出す
そしてちよつと悪口をいつて親近の情を示す
こんなシニックな性格もお前さんの賜物(たまもの)さ

市井に虎あり   (昭和14年2月 四季 44号)

石蕗(つわ)や茶の花を何時から愛し出したらう
色彩からは黄や蒼を──
いつも目をつぶるたびに想ふのは
羊歯の葉の茂い山蔭
雲をまとうた連山の中の一軒家
市から、歩も出たことがないくせに
虎の如く暴(あら)い言葉で人を驚かす
そのおれがかうだと理解してくれよ

北に向つて   (昭和14年2月 コギト 81号)

このあたり土地は起き伏し高低きはまりなく
松の木は冬の色を湛へてあちこちにそびえ
川は蜘蛛手に流れ蜿蜒として静脈のやう
──北に向つて道がある
黄色い乗合自動車が遠くの街道を往来する
それは忙しげで、そのくせ妙にのろのろしてゐる
煙突の煙の高くあがる風のない日、そしてこの冷い空気
──北に向つて道がある

きみの病む館はいづこ? この寒々とした聚落
一きは目立つ大きい教会、火の見櫓、みな白く塗られ
わが行手にも白い円錐形の姉妹火山
──北に向つて道をゆく

公園で   (昭和14年1月 四季 43号)

その片隅が一寸した動物園になつてゐる辺りには
既に夜が迫つてゐた さつきまで陽があたり
子供たちの騒いでゐた築山はもう蒼くなつて
急に背が高くなつたやうに思へた
わたしは待ちくたびれて坐つてゐた
夕蔭の檻のなかから烏がケッケッケッケッと啼きだし
するとあちこちでそれに応へて呼びかはす
わたしは霜が置くまでと頑なな決心をして
それでも待ちくたびれて坐つてゐた
落葉した槐(えんじゅ)の梢に夕月が白かつた
そのすがたはわたしの眉のやうに神経質に見えた
わたしは待ちくたびれて坐つてゐた

広東の塔  1  2   (昭和14年1月 ごぎやう )

 広東の市内には二つの塔があります。一つは花塔といつて六榕寺といふお寺の中にあります。 これは今を去る一千四百年前の梁の頃に蕭誉といふ人が建てたもので、その形は八角で九重になつてゐます。高さは二百七十尺で上に銅の柱があり、柱の先には金の宝珠がついてゐます。 塔の下に大工の神様である魯般の像がありますが、その像は片手をあげて目かげをしながら塔の或る個所を眺めてゐて、その視線の当るところだけがいつも雷に撃たれるのです。 数十回葺き代へたが同じことださうです。  もう一つの塔は光塔といつて懐聖寺にあります。この寺と塔とは唐代にアラビヤ人が建てたので塔の高さは百六十五尺あります。 内は螺旋状の階段を上つてゆくやうになつてゐて何重の塔といふわけには参りません。頂上にはもと金の鶏があつて風のまにまに廻つてゐましたが、 南宋の頃に盗賊がこつそり大風の日に登つて行つて、雨傘二つを翼にし、鶏の片足をふところに入れて飛び下りたことがあり、明の頃には大風で吹きおとされたものですから、 これから銅の鶏と換へら れてしまひました。唐の頃には五六月の時節になると南の方からアラビヤの貿易船の来るのを待ち望んで、 蕃人たちが午後二時になると頂上に登つて行つてアラーを呼び順風を祈りました。塔の下には榕樹が一株あつてそこに清代には白い鶴が棲んでをりました。  この二つの塔を前檣と後檣とに見たてて、広東の市を一つの大きな船と想像した支那人の考へ方が大変おもしろく、他に感心する人もがなと思つてここに記しました。

諷詩の如き   (昭和14年1月 日本歌人 1月号)

古い神殿の屋根には枯松葉が散りしいてゐた
海の方へくだる石段の両側に
桜がはなやかに咲き垂れてゐた
石段を登つて来る少女たちとすれちがつた
春はひとをかなしうして歌を作らすか

小祝典   (昭和14年1月 日本歌人 1月号)

その日は寒い空の日であつた
そのうへひどい風が吹いてゐた
山々には斑(はだ)らの雪が見えてゐた
桑の枝に雀の羽に風が吹いてゐた
天幕(テント)をはたはた風があふつて吹いてゐた
村長や知事代理や警察署長の
式辞は急いで空に飛んで行つた
その日はひどい風の日であつた

低い土地   (昭和14年1月 文藝 1月号)

そこは実に低い土地だつた
四方を低い山々がとりまき
その上には雲が垂れ罩めてゐた
烏や虫や蘆の花の世界であつた
それから動かぬ水があつた
そこは実にいやな土地だつた
方々からそこへ水が流れこんでゐた
そして動かぬ水があつた──

天馬海を渡る   (昭和14年1月 文藝汎論 1月号)

おれは眠つてゐる夢に見た
幾千万の馬の群がしづしづと月夜の大海を渡るのを
──彼等は蹄も濡らさず小波(さざなみ)も立てずに
キリストのやうに歩いて海を渡る
青馬(あお)がゐる桃花馬(つきげ)がゐる鹿毛がゐる栗毛や連銭盧毛(れんぜんあしげ)がゐる
月寒(つきさっぷ)の牧場から出て来たのがゐる上高井戸にゐた輓馬がゐる
子供の頃に見た住吉様の神馬までがゐる
(ふしぎなことには競馬の馬が一頭もゐない)
彼等が向岸に着いて身慄ひした時 髭(たてがみ)から一斉に散つた滴の美しさ
夢ながら覚めても忘れぬ美しさに筆を執るのだ

孝感の戦  1  2  3    (昭和14年1月 コギト 80号)

嘉慶の御宇の初めの夏なりき
われ罪を獲て西域より召し還されしに
折しも白蓮教の賊大いに起りて
将軍永保しばしば敗ると聞召し
われに代りて伐たしめ給ひぬ
われ湖広総督畢沅と陝西(せんせい)の総兵官徳光とに会し
辛うじて三千五百の兵を獲てしゆゑ
鼓励して楊鎮に至れば民すべて逃れ去り
街にも市にも人影だにあらざりき
広水橋を守りて鼓を打ち角(ふえ)吹き
賊を誘ひしに果して出で来るを
地の利によつて大いに破り 積屍目前に堆(たか)かりき
このとき賊中たがひに顧みて
「われら官軍と戦ふこと屡々なるに
 声を聞いて逃れざるはあらざりき
 こたびの将はそも誰なるぞ」
かくて我が名を聞き歔欷して云へり
「この老爺未だ恙(つつが)なかりしか
 われらが命はここに終らん」と
北山に営して堅く守りたるを
徳光われに攻めんことを乞ふ
われ危みつつ千人を与へしが
かれが行くたちまち銃声驟りに発し
殆ど全軍覆らんの状ありき
われ間道より救ひに赴きしに
畦間累々として朽ちたるはこれ
永将軍が敗卒の骸(むくろ)なり
黄金廟に至りし時 戦疲れし兵が
三々五々 兵糧喫しゐたるに出会ひ
この兵用ひ得べしと思びたれば
慰むるに善言を以てし わが名をいへば
みなみな勇躍して戦はんと乞ひ
旗を展げ笳(あしぶえ)を鳴らして奮つて進みぬ
賊中これを見 伏兵至るといひ
互ひに相践んでまさに潰えんとせしとき
賊中のひとりが「驚くなかれ
われに砲あり」といひ砲に弾丸(たま)こめし
その巾(きん)の紅かりしを今も忘れず
砲は発したれど砲身破れ裂けて
四辺に硝煙うづまく中を
我兵突いて撃ち 賊を追ひ殲(つく)しぬ
捷聞 上に至りて大いに御感(ぎょかん)に与(あづか)り
我に賜ふに爵を以てしたまひしが
これより永将軍に深き怨み結びぬ

孝感は湖北省の地名で漢口の北にあり今次事変で我海鷲の得猪治郎中佐機自爆のところである。 この詩中その名を聞いて敵も味方も知らぬものなきは乾隆時代の名将の一人明亮で康煕の名臣米思翰の曽孫にあたる。

死者に敬礼せよ  1  2   (昭和13年10月 コギト 77号)

死者に敬礼せよ
殷々と遠雷(とほいかづち)の如く轟き
わが友 歩兵中尉小寺範輝の柩車来れり
初咲きの菊 遅咲きのダリアみな白くして愁ひたり
思へば去年(こぞ)の夏 故里を立ち
山西は重畳たる山の国
幾何(いくばく)の敵や打ちけん 雪や分けゝん
はた閻錫山の作らしめゐし罌粟畑や見けん
一片(ひとひら)の便りだに来ず

五月若葉の朝まだき
山国の山西を出で河南省博愛県の戦闘に
尖兵の長にはありき
チェコ機銃 篁より火を吐くに突撃し
田の畦に斃る 二十七歳なりき

初咲きの菊 遅咲きのダリヤみな白くして愁ひたり
わが友 歩兵中尉小寺範輝の柩車は去れり
殷々と遠雷の如く轟き――
死者に敬礼せよ

墓地   (昭和13年12月 四季 42号)

こは欅(けやき)の並木なり
こは春ならば梅咲かん藁家なり
かしこには大河のありて
嘗つてそこに布晒しけん少女(おとめ)はいづく

こは寂かなる墓地なり
大いなる墓は富者小なるは貧者
指しもて辿りゆけば一隅に
いと小さきぞわが友
胡砂吹く風分けけんむくろ
いまは眠りてはるかなり
脆きて墓石に土の上に
涙のあとあるを見出しぬ

目次  1  2  3

奥付

巻末広告  1  2


詩集「大陸遠望」覚書  コギト100号(昭和15年10月)76-79p

 この詩集は私の第二詩集であつて、昭和十三年十月に出した『詩集西康省』につぐものである。題名はこの詩集をいま大陸にある蓮田善明氏に捧げたと同じ理由による。 事実この数年間、私の作詩の刺戟となつたのは大陸であつた。私はそれを遠望しながら、いつもそれを意識に置きながら詩を作つた、 そして恐らくこの数年は私の生涯で一番詩の多く出来た浪曼的な時代であつたといふことになるだらう。
 装幀は友人平松幸彦氏が引受けて美しい表紙と見返しの図案とを描いてくれた。校正は肥下恒夫が見てくれて、恐らく唯一つの誤植もないことと思ふ。 用紙はこの不自由な中から探し出された模造紙である。
 詩の順序は前の詩集のときと同じく大体古いものほど後に掲載した。一等古いのが昭和十三年十月のコギトに掲載した「死者に敬礼せよ」といふ詩、 一等新しい詩がコギトの先月号の「わが誕生日」である。
 はじめの詩は「偶得」、捧ぐることばと矛盾する趣は詩人の感傷として宥されることと思ふ。
次の 「ツングース」は北満からシベリヤ東部にかけて住んでゐるTungus族を題材にしてゐる。ツングースは嘗つては渤海や金や清朝を興した民族であるが、今は全く衰へてゐる。 支那人とロシヤ人とに圧迫されて何れは亡ぶ民族である。私はいまその社会生活を細かに述叙したS・Mシロコゴロフの『北方ツングースの社会構成』なる書を友人と共訳中である。 これはいはばその副産物といふべきか。
 八月三十一日は事実私の「誕生日」である。この詩の中の襁褓がはたはたしてゐる場景は杉浦正一郎氏夫人からおほめに与つた。未婚の読者にはしかしこれが何う映ずることやら。
次は「Ein Marchen」これは子供のための童話ではない。
「小さい市で」 の小さい市は現実の平塚市でも酒田市でもない。あるひは都会中心の文化の讃歌ともとられるだらうかと思ふ。
「機械についての感想」「不吉な夕方」。この二つについては別にいふことがない。
「少年」に出て来る厦門は私は実は行つたことがなく、佐藤春夫先生の「南方紀行」を読んで行きたくなり、対岸の台南まで行つて到底行けないと知り引返したのが昭和八年、 私の二十三歳の時である。その頃の私の智能や意志力は十六歳程度だつたかも知れぬと、いまにして感ずることがある。アルゴ座は南方星座の一つであるが、 日本内地でも真冬にはその主星カノープスが時々見える由。
 「期待者」、結核患者は死期が近づくと不思議と一般に将来の希望を語りたがる。松浦悦郎、松下武雄、立原道造みなさうだつた。 松田道雄氏の「結核」(弘文堂文庫)にもそのやうな記載がある。しかしこの詩では一般に期待者や予言者と享受者との相違を語りたかつたのである。
「少女」はゆめである。
「海浜ホテル」は短い人生の一日を歌ふ。
「皇紀二千六百年の朝」中の現在皇軍の占領してゐる省城の数を『文藝世紀』にこの詩を発表した時には九つと間違つた。恥かしい申訳のない間違ひだが、 おかげで覚え切れぬほど沢山支那の省城を皇軍が占領してゐることに改めてうれしさを感じた。
「曠野」は陳蔡の野に於ける孔子とその弟子。この時孔子の想起した詩は「兇(じ)に匪(あら)ず、虎に匪ず、彼の曠野に率(したが)ふ」といふ詩篇であつた。
「大陸遠望」といふ詩は蓮田善明氏の文藝文化昭和十四年七月号にのせられた倭寇の詩の次韻のやうな気持である。
「千年」は自嘲を含む。
「海獣」、「公園にて」みな市民家庭の詩である。
「行者」中の瑞牆山は甲信境上に聳える金峰山の隣の山で、岩石露出し遠望したところ雄大神厳な感じを具へてゐる。
 「夏草」、万歳は本来天子に対してのみ唱へ諸侯には千歳、庶民は百歳と唱へるべき由である。「万歳は大君の上にこそあれ」といふ一句はその意味である。 古歌にも君に齢をゆづりてといふ意味の句が多い。
 「富士に寄せる恋歌」中の「望郷」といふのは映画の名。かういふきはものを詩中に使ふのは実はいけないので、何とかしようと思ひながらついそのままになつてしまつた。 「諏訪」へ行つた日の夜は丁度下社の夏祭の日で、深夜御船の町中を練るのを実見した。大変神秘的な行事であつた」
「城址にて」、「花木に寄せて」、「鯉」、「やどりぎ」、「冬日感懐」、「一日」、「佳きひと」、「凍る湖」、「
日本の春」「温室の会話」みな別に記すことがない。
郭沫若を歌つた「詩人の生涯」が篇中唯一の長篇である。私は現代の支那文学者ではふしぎに沫若のものだけを読んでゐる。「創造十年」なども訳の出るまへに読んだし、 「沫若詩集」は愛読した。「沫若訳詩集」といふのがあつて、その中でシュトルムの詩を私の嘗つて愛誦し訳したものと全く同じもののみ訳してゐるのは懐かしかつた。 沫若の帰国のとき作つた詩は竹内好氏の御教示によれば二篇で
「廿四、花信を伝へ、鳥あり香遷を志す。緩急、斟酌を労し、安危、斡旋を費す。身を託して泰岱を期し、首を翹げて堯天を望む。此意、鷹鶚を軽んず、群雛、 劇だ憐れむ可し。」といふ五言のと
「又当に筆を投じて纓を洗ふべきの時、婦に別れ雛を抛つて藕糸を断つ。国を去つて十年、涙血を余し、舟に登つて三宿、旌旗を見る。欣んで残骨を得て諸夏に埋めん、 哭いて精誠を吐いて此詩を賦す。四万々人斉しく蹈氏A同心何億一戎衣」
といふ七言律詩とであつた。降参して来る怪しげなのより抗戦を叫ぶ郁沫若の方が私には興味がある。これも余裕綽々たる聖戦いなればこそ云へることであるが。
「老」、「冬夜箋記」、「旧大学生の詩」、「市井に虎あり」、「北に向つて」、「公園で」、「広東の塔」
いつも気になることだが、広東といふのは実は省名で市は広州とか番禺とかいふ方が正しいのだから、こんな時に一寸困る。 広東の市を檣に見立てたのは『広東薪語』】の著者屈大均(翁山)である。
 「諷辞の如き」、「小祝典」、「低い土地」、「天馬海を渡る」、「孝感の戦」は清の礼親王昭[木+連]の『嘯亭雑録』より題材をとる。
「死者に敬礼せよ」の小寺範輝は大阪の出身、工藤部隊の小隊長として昭和十三年五月十九日戦死。河南省には民国になつてから自由、平等、博愛などといふ名の県が出来た。 その博愛県で中央軍直系の共産軍との戦闘で両胸部貫通銃創で倒れた。博愛といふ名が積に障るではない か。私はその慰霊祭に参列出来なかつたが、 祭式を辞で表はしたく前後の二聯に意を用ひた。家に新妻ありこれを初咲きの菊を以て表はす、慈母あり、遅咲きのダリヤを以て表はす。但し祭場を本物の菊とダリヤが飾つたことは疑ひない。 昭和十五年、功五級勲六等を賜はつた。
 「墓地」は「布晒しけん少女」といふ句で「多摩川に晒す手作りさらさらに」を思ひ、多摩墓地と合点されたい。墓の主は東洋史の同窓岩佐精一郎。 昭和十年白鳥庫吉博士に随行して熱河方面を主として北支満洲朝鮮を視察、帰国後発病して死す。墓碑銘に曰く「胡砂吹く野分」。
 序でにこれらの詩の掲載された雑誌新聞を心覚えにしるす。多少訂正加筆した箇所があり、その当否など考へていただければとも思ふ。

偶得 文藝世紀15年9月
ツングース コギト15年6月
わが誕生日 コギト15年9月
Ein Märchen むらさき15年8月
小さい市で 文藝文化15年8月
機械についての感想 工業大学蔵前新聞15年5月27日
不吉な夕方 帝大新聞15年5月20日
少年 若草15年5月
期待者 改造15年4月
少女 新女苑15年4月
海浜ホテル 文藝15年2月
皇紀二千六百年の朝 文藝世紀15年1月
曠野 中央公論14年12月
大陸遠望 中央公論14年12月
千年 鵲(大連)第30号
海獣 四季14年11月
公園にて 文藝文化14年11月
行者 コギト14年10月
夏草 コギト14年8月
富士に寄せる恋歌 新女苑14年10月
諏訪湖の朝 渋谷文学14年10月
城址にて コギト14年7月
花木に寄せて 学藝展望14年7月
鯉 四季14年8月
やどりぎ 学藝展望14年5月
冬日感懐 新潮14年5月
一日 新潮14年5月
佳きひと 文藝世紀14年9月
凍る湖 短歌研究14年5月
日本の春 文藝文化14年3月
温室の会話 むらさき十四・ニ
詩人の生涯  いのち14年2月
老 四季14年3月
冬夜箋記 学藝展望14年3月
旧大学生の詩 学生生活第2巻3号
市井に虎あり 四季14年2月
北に向つて コギト14年2月
公園で 四季14年1月
広東の塔 ごぎやう14年1月
諷詩の如き 日本歌人14年1月
小祝典 日本歌人14年1月
低い土地 文藝14年1月
天馬海を渡る 文藝汎論14年1月
孝感の戦 コギト14年1月
死者に敬礼せよ コギト13年10月
墓地 四季13年12月

 なほ最後になつてしまつて恐縮の至りとは思ふけれど、この詩集を文藝文化叢書に加へて下すつた日本文学の会の同人諸氏の御好意に厚く御礼申上げる。 就中清水文雄氏には種々御配慮を煩はした。この叢書からは先に伊東静雄の『詩集夏花』が出てゐて、それと対になれたことをとりわけうれしく思ふ。
 この詩集中の詩はすペて前述の如く僅々二年足らずの中に出来上つたのだが、日本の遭遇してゐる刺戟に富んだこの時代以外に諸先生諸知友の激励がなければ、 こんな多くの詩は生れなかつたに相違ない。それほど『詩集西康省』に対して賜つた種々の御好意はありがたいものであつた。蓮田善明氏の戦地からのはげましには、 この詩集を捧げることによつて感謝の一端を表はし得たが、他の方々にはこの機会に厚く御礼申上げたく思ふ。
 この詩集が前の詩集から何か違つた方向へ進んでゐることを認めてもらへれば私には大変嬉しいことなのだが、しかしここも永住の地ではない。 この次にはもつと違つた詩を書きたく思ふ。その方向の指示などもいただければと切に願ふのである。


【参考】

 蓮田善明 「通信紙随筆」  文藝文化 昭和14年7月号

(前略)私は幾日か江を遡りながら、ふと倭寇のことを想うたことがある。同行のM少尉は東亜同文書院出身で、東朝記者として上海にも在つた人なので倭寇のことにくはしく、 いろいろ語つてくれた。私はふしぎな彼らの行動を思つた。それは勿論今日の遠征と政治的意味は如何であつたか、私はとりあへず次のやうに書きとめておいた。 遠征者の気持は相通ずるものがあるやうである。

彼らは拗ねたる、倭の民なりき
彼らは涯り無き綿津海の彼方と
大いなる空と陸とを望み見て、
情堪へがたかりければ
「八幡大菩薩」の旗書き立て、
語(ことば)通ぜぬ国々へ遠く征(い)で行きぬ。
彼らは“心もの”の慾にかかづらはざりしかば
宝を供へてめで迎ふる者を礼まひいつくしみ、
財を吝しみて抗ふ者を憤りて伐ちたりき。
彼ら、不可思議なる徒(やから)は、かくて 大陸を、西に南に掠めめぐり、
或は古昔(むかし)仏陀坐(い)まして、花島の色声異(あや)しき天竺を襲ひ、
或は長江を遡りて、老仙天翔る崑崙を探りしに
大明国愕然(おどろき)騒ぎて、防ぎあへず
日本将軍に請ひて之を討滅せんとし、
不逞なる尊称を奉り、貢物山と積みたりしも、
遂に将軍之を鎮め得しことを聞かず――
唯いつとなく彼ら自(おの)れと水に死に行きき……
ひとり山田長政といへる強者(つはもの)、
シャム国に、王者の勢ひをほしいままにし、
毒を盛られてはかなき最期をとげたりと、
青史にその遠征を措しまれぬ。

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