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田中克己日記 1943-1945
昭和18年 1月 1日〜昭和19年12月31日 本冊画像PDF
21.1cm×16.5cm 横掛ノート(fairfield girls' school singapore exercise book)に縦書き
昭和17年1月、陸軍徴用員の第2陣として、田中克己は、北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと共に南方戦線の後方へ派遣され、丸一年をシンガポール、スマトラで過ごします。 (参考文献『悪夢』)
宣伝班の一人として、戦勝気分に湧き立つ現地で英字新聞の編集や映画撮影班に同行し、詩嚢を肥やして年末に帰還するのですが、 留守中に刊行された第三詩集『神軍』が版を重ねたこともあって、 帰国後は一躍戦時ジャーナリズムから原稿を依頼される「売れっ子詩人」として迎へられることになります。保田與重郎から、 帰還作家はみなお前みたいやと揶揄されたのは「南方呆け」と云ったらいいのか、神経衰弱に悩まされながら、このあと詩人はあくまでも東洋史学者として身を立てるつもりで居りました。 恩師和田清の伝手を頼り、研究機関(亜細亜研究所)に入って再び研究に没頭しようとするのですが、求められるまま時の詩人として、皇国史観にのっとった時事的な詩を書き、 新聞誌面や放送原稿に躍った活字の数々は、のちのち旧帝大の象牙の塔から排斥される理由となってしまひます。 ここに挿入された放送用原稿は以前「稀覯本の世界」管理人様が、私のために偶々古書店より入手して下さったもの。思ひがけなく手に入れた実証資料として掲げました。
詩人と東洋史学者との才覚を結合させた、のちに田中克己の文業の中心を彩ることになる中国の詩人評伝シリーズの最初の一冊『李太白』が企画されるのもこの年のことであり、戦後左翼詩人として名をなした赤木健介(赤羽尚志)がその出版を周旋し、 度々日記の中で会ってゐることなど、コギトのグループでは肥下恒夫は措いて、保田與重郎よりも竹内好と頻繁に交流を続けてゐることなどと共に、私には意外な一面でありました。
そんなさなかのことですが昭和18年9月、私生活では生涯の悲しみとなる、可愛い盛りの次男梓の突然の死が夫妻を見舞ひます。 発病の直前まで何も知ることのない日記の文字をたどりながら、ひきつけに驚いた朝から二日も経たずに子供を死に追ひやる疫痢の恐ろしさ、 いつ記されたのか後に『悲歌』に収められた詩篇「哀歌」のなかでも回想される後悔の言葉が書きつけられてゐますが、さしたる筆致の乱れはなく、 翌日以降の記録も坦々とつづられてをり、翌年夏には、今度は長女が疫痢かと入院騒ぎする一幕がありますが、何とも言へない気持にさせられたことでした。
日常生活で、銭湯、花札、散歩の連れとして頻出する筒井護郎は、戦後、住吉区長になり、長く住んだ吹田市に歴史関係の蔵書3900点が寄贈され、吹田市立図書館に筒井文庫としてまとめられてゐる人です。 詩人が神経衰弱の末に発作的に思ひ立つ旅行にも同行するほど気の置けなかった教へ子だったやうですが、やがて入営で去ります。
彼に代って頻繁に田中家に出入りするやうになるのは、南方で知り合った詩人の卵、大垣国司。彼も日記の最初から登場し、親しむに従ひ「大垣国司氏」「大垣国司君」「大垣君」「大垣」とやがて呼び捨てにされるほど詩人と近しく付き合ふ関係に至ります。実際、家族が疎開中の留守宅に彼が住んで守ったやうですが、 応召を控へて一旦は諦めた見合話が、内地勤務とわかり再度薦めるも破談した彼の出来事として、ここにはその原因か、はたまた結果としてなったのか、不吉な最初の発狂と入院のことが記されてゐます。
日記はいつ誰それとどこで会ったなどしか書いてないことが多いのですが、留意すべきはどんな呼称で認められる間柄であったのかといふことです。 呼び捨てにされてゐるのは、家族・親戚、教へ子のほかは高校時代からの気安い同年輩関係者に限られます。「コギト」同人では年嵩は先輩であるはずの伊東静雄が呼び捨てにされてゐるのですが、 一目置くライバルとして嫌な感じはしません。面白いのはさきにも記したやうに評価が変ってゆくことで、私生活に直結する身分のために「白鳥先生」が「白鳥所長」になる場合もあれば、 人柄に狎れた結果、あるひは人物評定に従って、たとへば中河與一の場合では「先生」から「中河与一氏」「中河さん」への変り様です。
この「文芸世紀」の主宰者については、戦後影山正治と対談した際にもオフレコで触れられたやうであり、影山氏が自著中に中河與一を批判する痛烈な一文を草してゐますが、 詩人が当初「天の夕顔」で抱いてゐた清廉なイメージを裏切られ、その人間性を毛嫌ひするに至ったことは私自身も直接お聞きしました。 (また戦後、そんな人間との対談に応じて本にする保田與重郎の気持がわからないとも。)日記では「文芸世紀」からの脱退を表明してゐますが、徴用中の中島健蔵に対する感情と同じく、 私生活において政治を弄する人物を嫌ったやうです。
反対には第二詩集『大陸遠望』を献じたところ叱責され、以後敬遠するやうになったといふ蓮田善明の皇国史観には、 自分のさらに上をゆく神がかりに惧れをなしたもののやうです。手紙としてではなく歌稿を彼に送り、「文芸文化」に「のるかのらぬか知らず。」などとわざわざなコメントを記したりしてゐるところに、 そんな消息が表れてゐます。
さて昭和19年に入ると、戦局は一向に好転せぬなか、箔付きの皇国詩人として相も変はらず原稿の依頼が舞ひ込む詩人には、 天狗にでもなったのか持ち前の「疳癖」が存分に発揮されることとなり、その苛立ちたるや日記を見る限りにおいて、もはや尋常ではありません。コギトの発行人で親戚筋でもある肥下恒夫や、 高校時代から東洋史学の志を同じくしてきた同僚の川久保悌郎といった、謂はば日頃一番気安く交はってきた旧友を見下すかのやうに、次々に絶交を言ひ渡し、 職場におけるスタッフ人事への不満と確執もあらわに、辞職を申し出、その研究所から壮大な叢書の出版を構想しては白鳥所長にあしらわれ、 ふたたび復職を願ったりと「躁状態」は深刻です。愛児を亡くし、千恵子を失った高村光太郎と同じく心の空ろを埋めるべく尽忠報国の没我状態に陥って行ったのかもしれません。 温厚な恩師である和田清から「田中は変った」と、周りに漏らされるだけでなく直接本人にも「君、右傾したね」と、卒業以来の変身のさまに溜息をつかれてゐる条りなどは印象的です。
もっともそれをそのまま日記に書き記してゐるといふ、客観性も同時に認められるわけであり、なかでも堀辰雄と「四季」文 化圏の存在は詩人にとって護るべき「オアシス」で在り続けてゐたやうです。先輩詩人では同じく戦争詩を書きまくってゐた三好達治から、従軍詩集『南の星』 の刊行を斡旋してもらったり、また日本歯科医学専門学校まで歯の治療に通ふついでには、当時「郷土詩」に専念中だった北園克衛を訪ねたりしてゐます。が、 その他に日記に登場するのはおしなべて若手の抒情詩人たちばかりで(薬師寺衛、小山正孝、新藤千恵子、堀口太平、塚山勇三、木村宙平、鈴木亨、山川弘 至…)、半ばは戦地にあった彼らとの交流は、所謂戦意高揚のジャーナリズムとは無縁であったやうに思はれます。堀辰雄邸で「四季」の終刊が裁定される現場 や、津村信夫の告別式に立ち会った様子は後年文章にされてゐますが、未完に終ったものの面識の無かった中原中也の選詩集の企画が青磁社であったことなどは 今回初めて知りました。
さて、この昭和19年に刊行されたのが、『李太白』の評伝と、従軍詩歌集『南の星』。
『李太白』については前年から編集に関ってきた赤羽尚志氏との縁が、刊行とともに突然切れてゆきます。 仕事として本が出来るまでは親しく付合っても、詩人赤木健介として戦時中も抵抗詩を書き続けてゐたわけですから、遠慮がなくなった時点で一旦意見の相違が表れたら蜜月から絶交に至るのは早い。 一緒に旅行に行かうと誘ってくれまでした人でしたが、思へばふしぎな邂逅です。詩人は戦後の『李太白』再版の際にも出版経緯に彼のことを書いてをり、 それは左翼抵抗詩人として生涯を貫きたかった彼にとっては、謝意といふより黒歴史の紹介になったかもしれません。この評伝はしかし類似書の未だ見当たらなかった当時、 日本評論社から19冊出された「東洋思想叢書」のなかでも武田泰淳の「司馬遷」と並んで出色の一冊であったらしく(古書肆山本書店主山本敬太郎氏談)売れゆきもよく、 戦時色もなければ戦後にも再版されることになり、後の中国詩人評伝評釈シリーズ(白居易、杜甫、蘇東坡)の雛形になりました。
(付記:戦争末期の叢書といへば、詩集では湯川弘文社からの「新詩叢書」が特筆に値しますが、田中克己は南方に派遣された神保光太郎などとともにラインナップには与ってゐません。 これを企画した紳士竹中郁からの手紙に呼び捨てで一言「いやらし」といふコメントを記してゐますが、どんな内容の手紙だったのでせう。そのうちの一冊、 律儀な田中冬二から寄贈された詩集「菽麦集」については、いつもの赤川草夫の古書肆へ売るのではなく旧友に送ってしまったことを考へ合はせるに、 やはり屈折した思ひが窺はれるのではないでせうか。)
一方の第四詩集となる『南の星』は、開戦前の作品が多くを占める第三詩集よりもむしろ『神軍』の名に相応しい内容であり、 前述したやうに三好達治の斡旋によって創元社から刊行されました。詩想の結晶度をいふなら、詩人にとってこの一冊こそ黒歴史だったに違ひありませんが、 装丁だけは色彩朗らかで愛らしく成功してゐるかと思ひます。それが編集に当った創元社社員柴野氏の長女の幼児絵であることが日記に記されてゐます。亡き次男を思ひやる感傷を、 装丁の上にそれとなく重ねたのは編集子の配慮であった可能性があります。
とまれこの『南の星』、大東亜共栄圏構想の只中にあって皇国史観を奉戴する詩人の偽りなき姿を、自身の解説をたっぷり付して戦争詩史に刻印した極め付きの一冊ですが、 その原稿をまとめるべく、開戦当初の戦捷気分・南方でのなつかしい軍属生活を偲ばうにも、すでにこの当時、日々戦地から届いてゐたのは、アメリカ軍の本格的な反攻のニュースであり、 生活を圧していたのも亡児のことだけでなく、増田晃の戦死広報、竹内好の出征といった知友をめぐる粛然たる緊迫ムードであったことが分ります。 やがて本土空襲に関する報道・警報も流れはじめ、共栄圏の成立を前提に関係諸民族の文献的研究にいそしんできた南北アジア研究所も、関係者のだれもかれもが応召しゆくなか、 もはや研究どころではなくなってゆくといふ有様でした。
前にも述べた研究所内での確執も、川久保悌郎など詩人の性格を知る旧友とは復縁も簡単だったやうですが、日記中に何度も取り沙汰される鎌田重雄や、
新人である村上正二に対する人物評が辛いのですが、当否はともかく村上氏が後年モンゴル史の碩学として大成したことを考へると、
後輩に厳しい融通の利かない皇国史観の先輩の先行きが、なんとなく暗示されるやうな気もいたします。
ともに南方に派遣された中村地平には『南の星』への序文を依頼するものの引き伸ばされ、
疎開先から送ったとの嘘に憤ってもゐますが、世故に長けた先輩作家たちが集まる文壇では当時、程度の差はあれウルトラ右翼の蓮田善明同様に敬遠されてゐた口だったかもしれません。
南方にも同じ軍属として従軍した井伏鱒二とも、その後長く阿佐ヶ谷にあって生涯縁がありませんでした。
小高根太郎と語らひ、旧友薄井敏夫のコネで(徴兵・徴用逃れのための?)工員の口を探さうとして、同じ旧友の羽田明からはたしなめられたりもしてゐます。
しかし結局肚を固めると、研究所のために資料の収集に奔走、最後まで東京に残ることを決意。町内ではただ一人残った壮丁として荻窪警防団副団長に任ぜられ、 昭和二十年の終末的な空襲生活へと突入してゆくのです。
古本資料の抱き合せ販売に怒り、和田先生に学報の出来をほめられたのにクサり、妻をしかりつけ、後輩をしかりつけ、 敷島特攻隊の出発に涙し、硫黄島の玉砕に悲憤し、中島栄次郎応召、肥下恒夫応召、堀辰雄氏また恢復困難の噂のなか、昭和20年、3月10日、 「満月の夜の如く明るい」大空襲を郊外から目撃・・・翌々日に恩師が愛弟子たちへ「あく迄生きのびよ」と宣った訓示を書きとめた条りが印象的です。 しかし帰宅した詩人にその日届いてゐたのは、召集を知らせる故郷からの一通の電報でした。
よもや35歳・体重40キロ・家族持ちで、軍属として遇せられた経歴も誇るインテリの自分に、一介の二等兵として召集令状がやって来ようとは。 このとき腸結核の疑ひのある病臥中の保田與重郎も同じく徴兵されてをり、軍事政権に批判的だった懲罰の意をこめたものと解されてゐますが、 果たして戦時中の詩人を指して亢竜と呼ぶに値するものだったかどうか。京都の両親に遺書に等しい書置き「お願ひ種々」を遺して出征。日記は3月16日を以て擱筆し、 その後、一ページの白紙をはさんで、無事帰還を果たした昭和21年2月の記事から再び書き継がれて参ります。
昭和18年
二千六百三年
1月1日
9:00ラヂオの指探いて宮城遥拝。17:00野本憲兵少尉来訪。観兵式には近騎の旗手たる予定と。「先生、南洋ぼけの徴候あり」と。19:00まで話して帰る。
この日、史、梓、依子(※長男、二男、長女)みな風邪。夜、ジャワなる田中一郎、昭南なる田代継男、スマトラなる本荘健男への三通の年賀状書く。
書信は池内宏、石浜純太郎二先生より帰還を祝すとの旨なり。(※文士徴用の第二陣として前年1月〜12月、南方戦線後方に派遣)
1月2日
10:00肥下恒夫を訪ね、14:00阿佐谷にて別る。帰途「宝庫スマトラ」と史への絵本購ふ。「宝庫スマトラ」は我がスマトラへゆく日、その地に関する唯一冊の日本書として携帯し、
いまはメダン朝日支局にある辻森民三「宝庫スマトラの全貌」の改訂本なり。この日父より来信。
男の子かへり女(め)の子とつぎてわが心傾けしことなりし安さよ
風はあれど晴れし朝かもみ祖らのみ墓掃ひてけふ年暮るる
家妹、昨冬十二月十日結婚。母二日間泣きつづけしとなり。
1月3日
朝、来信二通。一は齋藤茂吉先生より帰還を祝し、今後の仕事を励まさるる旨、一は我が征途、船中親しかりし鉄道省教師小谷秀三氏留守宅より。氏が帰還後、
八月再び比島、司令官として赴かれし由。氏が船中撮られし吾が写真(※)(口髭生やし居り)は好個の記念としていまだに掲げあり。
戦時相会ふことは難きかな。他に「文芸台湾」新春特別号、大東亜文学者大会特集なり。松風子解説の「わかれ」と題する詩、美し。午過ぎ速達にて平野義太郎先生より、
「太平洋」の昨年及び正月号、計十一冊を賜はる。この日、これを読みて二時まで眠ることを得ず。
1月4日
10:00起床。元気なし。午過ぎも松井保治君来訪。14:00頃帰去。折返し堀口太平君来訪、17:00頃退去。
本日[●]間保治君より来信。同君は昭南にて新聞協会にわがありし頃、世話になる。
1月5日
睡眠不足のため終日家居。夜、大阪中央放送局佐々木英之助氏より速達あり。
この日昼、昭南より回送の手紙。和田清先生、保田、[●]原の村田幸三郎、愛知県西尾なる石川住太郎君、及び小高根二郎の入隊挨拶なり。石川君はメダンにて上等兵として真面目なる兵なりし。
1月6日
終日家居。昼、飛行機多く飛ぶ。
1月7日
朝、大阪放送局へ朗読用の詩二篇を送る(※不詳)。けふコギトの会なれど到底出席し難きを以て、肥下宛断り状を家人に書かしむ。来信。堀口太平氏及び家父より。家父の歌。
戦捷の文字をことしも書き継がむ年のはじめのこの誓ひかも
い並びて誰者と祝ふ人の数ことしは足らず輪飾りの下
めでたしといひ交はしつつ何かしらわれはさびしゑ老いにけらしな
うれしきはわがうまざらし東よりはろばろ来とふ春のおとづれ
15:30肥下来り、17:00よりの上野翠松園なるコギトの会に出よとなり。「シンガポール攻略」の詩渡せしのみにて断る。神経衰弱(恐怖症)なること明らかなれば致方なし。
1月8日
終日家居。昼、陸軍始めのため飛行機数百台飛ぶ。昼頃、桑原武夫氏より隲蔵先生(※桑原隲蔵)の「考史遊記」を贈らる。夕方、筒井護郎(※浪花中学時代の教へ子)来る。
浪中の岡坂、吉村共に死せし由。19:30常会、いやらし。早々帰宅。筒井と24:00まで語る。
1月9日
昼過ぎ石神井に稲垣浩邦を訪ねしも不明。松本善海を訪ぬれば出勤。帰宅後、竹内好来訪。「賽金花」を持参。長尾良より来信。
1月10日
終日家居。15:00白鳥清先生来宅され、研究所をつづくべしとなり。本日来信、竹中郁より。いやらし(※おそらくは湯川弘文社にて竹中郁が企画中の新詩叢書についてか、詳細不明)
1月11日
終日家居。雨、来信JOBK。佐々木英之助氏より詩五篇(※→)を求むるなり。
1月12日
終日家居。午前中、柏井昇、満洲大石橋へ帰るとて挨拶に来る。平野先生に電話。十六日14:30太平洋協会で会。
1月13日
午前中家居、16:00川久保悌郎来り、今夜19:00学士会館にて第二百回東洋史読話会ありといふに、彼を誘ひてゆく。幣原坦先生の紅葉、漱石、子規の思ひ出話、面白かりし。
1月14日
午前中、小高根太郎来る。16:00頃までわが話聞きて帰る。
〒父より。夜、田代継男君の夫君より速達、妹君結婚に付き十八日以後に訪へとなり。十九日午後と決む。
1月15日
午後、山川弘至君来る(※最後の来訪)。〒
赤羽尚志氏(※赤木健介[伊豆公夫])。十九日午前中来訪との由。
夕、速達平野先生より。満鉄の会二十一日とのこと。「現代」より詩依頼あり。締切二月五日。〒父へ。田代覚一郎氏へ。
1月16日
久し振りに調髪。13:30大毎(※大阪毎日新聞)へゆき、篠原氏に相山氏撮影のガ[●]の写真託す。14:30太平洋協会へゆき「北スマトラの民族」の話をす。
平野義太郎先生、満鉄田中清次郎氏、幼方直吉、小野忍氏等、聴講中にあり。予の分すみて「ガダルカナルの民族」の話あり。この頃、野原四郎氏来る。
終了後夕飯いただき、野原、幼方氏らとお茶のみて帰る。この日、若林つや女史に会ふ。〒田中英男、杉森久英、二氏。
1月17日(日)
来訪者多し。小山正孝、鈴木亨、二君。稲垣浩邦君遂に来る。明日結婚式との由。堀口太平君詩集をおきて帰る。川久保夫妻、鷺宮の新居を見にの帰途立寄り、いまの家へ入らぬかと云ふ。
稲ちゃん最後まで残りの酒のみ、あす結婚といふ。
1月18日
13:00東中野日本閣での稲ちゃんの結婚式にゆく。ほんとの親戚のみ。義兄弟の約束履行されしことになるも耐らず乾杯の後退去。保田の新居を訪ふ。帰還作家すべて我のごとしとなり。
〒坂入充子氏、咲耶、藤田福夫 ―― 新谷太郎博士となりし由。
1月19日
風邪の為、田代氏へ電報打ちておことわりす。夜、報道部佐々木克己中佐のラヂオ講演を聞く。慄然。〒天川勇司より。
1月20日 午後、肥下を訪れ、即時帰宅。本日風邪やや良し。〒なし。珍し。
1月21日
朝、平野先生より電報。筒井来り、昼飯食ひて話す。17:00日比谷山翠楼の満鉄の会にゆく。わが歓迎会なり。平野先生、幼方、小野忍氏の外、信夫清三郎氏、松本、川久保。
すみて三人にてレモン茶のみ別る。けふ父より手紙。
1月22日
朝より「好逑伝」(佐藤春夫記)を読む。夜、塚山勇三君来る。風邪殆どよく、恐怖症もまた大分良し。〒なし。
1月23日
午前中、中尾光子氏へ手紙書き、桑原隲蔵先生の「考史遊記」読み、15:30浦和市別所東一ノ一三八五 田代覚一郎氏を訪問。次男なる継男君のこと話し、
17:00辞去。
〒谷川新之輔、中尾光子。JOBKへ断り。
1月24日(日)
15:00頃、野本憲兵来り、夕食後、本五六冊借りて帰る。軍内配給の菓子多く呉る。20:00頃筒井来り、22:00頃帰る。
〒速達ぐろりあ(※ぐろりあそさえて)より明日長尾良の会(※『地下の島』出版記念会)ある旨。昭南より廻送、田中三郎、父、美堂正義。この夜不眠。
1月25日
14:00肥下来る。長尾良の会への断りたのむ。船越章、出発まぎはには遺言めきしこと云ひし由。〒咲耶。
1月26日
終日家居。〒JOBK佐々木英之助、赤羽尚志。夜、筒井来る。〒赤羽尚志、咲耶。
1月27日
10:00稲垣浩邦を家に訪ひしに若松惣一郎氏を訪ねて不在。12:30肥下を訪ね、「スマトラにて」を渡す。帰途、「史記列伝」三冊を購ふ。〒西阪修の展覧会ある由。
夜、筒井、野上(※弘)と同伴し来る。佐々木英之助より電報。
1月28日
〒「新文化」「文芸世紀」より、ジョホールバールにありし江本義男氏より、今ハルピン近くにある趣。
12:30千草、子二人を連れて来る。14:00伊藤信吉氏来訪。萩原先生の全集のパンフレット原稿につきてなり。〒四季、赤木仁兵衛の会、ともに断る。
夜〒赤羽尚志氏より。三十日に来るとなり。
1月29日
終日家居。昼すぎ筒井、南京豆一缶を持来る。〒堀口太平、伊東静雄。〒伊東静雄[へ]。
1月30日
昼前、赤羽尚志氏(※赤木健介)来訪。李白伝(※日本評論社刊行)は延して貰ふ。
その著書「路程標」に野村として我のことあるを贈らる。〒新文化よりの詩依頼断る。
1月31日(日)
稲垣来る。明日富士スタヂオにて試写する由。約束す。
堀辰雄氏来訪。「橋と塔(※濱田青陵著)」贈られ、「食後の唄」返却さる。
2月1日
午後、豊島園の富士スタヂオにゆく。感光過[取]とフィルム古すぎるため映り悪し。ほぼ三分一を見終り、池袋にてしるこ、コーヒーを啜りしのち別る。夜、
筒井来る。この夜不眠。
〒田中冬二詩集(※「橡の黄葉」)。伊藤信吉氏より催促。
2月2日
昼すぎ肥下を訪ねんとゆくに途中にて長野に会ふ。大本営報道部のこと断る。赤川の店にて「暮春挿話(※佐藤春夫著)」買ふ。長野と別れんとするに丸の細君に会ふ。
十月来より肺にて臥床の由、見舞に行く。帰りて夜、筒井、餅と羽田亨「西域文明史概論」とを持参。この日より鎮静剤ブロームカリ飲む。〒赤羽氏より土岐善麿「高青邱」
2月3日 夜、降雪。昼になれば冷雨。午前中、萩原さんのこと書き、伊藤信吉に送りしのち「恋愛名歌集」に皇室関係のケ処あるを見、削除を勧告の速達出す。〒赤羽尚志。
2月4日
JOBKのために詩五篇(※シンガポール攻略→)送る。夜、筒井氏と野上弘と来り、22:00頃帰る。〒森亮。
2月5日
けふ来客多し。長野先づ来り、仏語辞典もちゆく。川久保来り、羽田上京中なる故、七日の日曜会せんと云ふ。その日午前中に我より連絡とることを約す。
日塔聡氏、明日の四季の会に出席をすすめに来るを断る。
2月6日
けふは肥下を訪ねしことはじめに、都合悪く、中河与一氏も留守。小高根を訪ね新細君を見、帰宅の途、夕食に窮し、出ざる筈なりし四季の会にゆく。新藤千恵子、門口まで来る。
けふの出席者。堀(※辰雄)、丸山(※薫)、阪本越(※郎)、呉(※茂一)、森亮、津村(※信夫)、沢西(※健)、神保(※光太郎)も来る。ブロームカリ飲みて眠る。
2月7日(日)
けふ川久保の処に時間をききにゆき、羽田の会にゆく筈なりしも、昨夜不眠の為、たまらず筒井を呼びて共に荻窪より乗車、塩山鉱泉にゆき安眠す。
2月8日
8:00塩山温泉を出、甲府着。市中見物の後、鱒飯を食ひ、見延線にて富士着。三島より修善寺行の軌道にのり、途中長岡下車。温泉に宿を求め安眠。
2月9日
筒井と10:00頃までに修善寺にゆき、頼家墓を見、ここより沼津までのバスにのる。一時間半かかる。15:00頃、筒井帰京。我は西下、18:00頃浜松にて下車、宿に入る。
2月10日
浜松にけふも居る筈なりしも午後天龍川まで散歩せし後、汽車に乗る。立ちつづけにてたまらず、途中下車。入館夕食。風呂、湯タンポにて熟睡。
2月11日(紀元節)
けさ目覚めてより聞きしにここは岐阜に非ずして大垣なりと苦笑。八時すぎの汽車にて12:00すぎ大阪着。田辺へゆく。夜まで父帰らず。林叔父(咲耶は17:00帰宅)、建、大と祝餐。
2月12日
午前中、大阪高校にゆき、桑原(※武夫)、五十嵐(※達六郎)、野田(※又男)の諸教授と会ひしも、全田、本庄二氏には会へず。住中にゆきて伊東(※静雄)氏を呼び出し、
立野継男君(立野利夫の兄?)の店に話し、それより北畠西一丁目の本荘健男少尉の家を訪ね、祖父君母君とスマトラのことを話す。16:00地下鉄戎橋北口にて三教授と会し、
堂島の料理屋にて飽食。
その後南地の芸妓屋にて話せし後帰る。
2月13日
けふJOBKに電話せしに五篇の詩十五日に放送せざるとわかり断ることと決心。午後咲耶の夫阿野岑夫君と初対面。五の日祖父の命日とて和尚来り看経。父は丹波篠山へゆき、
我と岑夫との聴経とは奇縁なり。夜、立野君のところにて中島(※栄次郎)、伊東(※静雄)、山田(※鷹夫)、立野(※立野利男:磯花左知男)の五人にてコギト大阪の会。松田明を呼ぶを忘れし。夜、不眠。
2月14日(日)
林叔父の所にゆき向ふの話。その後、全田の叔母来る。この夜も不眠。
2月15日
10:00阪和府中より咲耶の嫁ぎ先、泉北郡北松尾村内田の河野家にゆき、15:30田辺着。16:00ここを立って京都にゆきしも羽田を訪ねられず、宿も取れず、大垣に下車せしも宿不快。
次の急行にて帰京と決め、終夜不眠。
2月16日
7:00東京着。荻窪よりトランク一ケ持ちて帰宅。昼寝、夜寝併せて十四時間位。
2月17日
13:00まではJOBKと月刊文章への断り状書きしのみ。肥下を訪ねしに演習とて二〇分の対話ののち赤川訪ねしに留守。筒井と阿佐ヶ谷を散歩して就寝。
留守中、野長瀬正夫氏来訪の由。
2月18日
坂上田村麻呂(二百五十枚)を書きしことを野長瀬氏と約す(11:00来訪)。13:00徒歩にて上石神井の稲垣君留守宅訪問、帰宅夕飯後、肥下を訪問。
21:30筒井と銭湯にゆく。本日丸山薫氏より「ヤシノミノタビ」、伊藤佐喜雄より「不知火日記」を貰ふ。保田、平田内蔵吉、辻森秀英へハガキ。朝日夕刊に松下紀久雄の二重橋結婚記あり。
2月19日
昨夜も寝にくかりし。午後荻窪へ散歩、佐藤春夫「杏の実をくれる娘」と岩村忍「蒙古の欧州遠征」を買ふ。けふはじめて昭南より便りあり、坂入喜之助君より也。
吉野弓亮も内地へ帰り居るらし。坂入君は南へゆくと也。ニューギネアでもかと。
2月20日
10:00赤羽尚志君「交響楽第九」を持ちて来る。ともに市内にゆき、先づ古田篤君の父母と話す。海苔五十枚をいただく。中央公論の藤原氏を訪ねしに留守。
毎日新聞の前で、若松惣一郎氏に会ふ。訪ねし桐山、藤原繁雄二氏ともに不在。ぐろりあにゆき「楊貴妃」二冊と「掬水譚(※佐藤春夫著)」一冊とを探る。
帰宅後伊藤佐喜雄「不知火日記」を読了。筒井と銭湯にゆく。
2月21日(日)
午前中、川久保君を訪ぬ。白鳥先生御病気との由。午後、大垣国司君来訪。松井保治君も来訪。大垣君とは昭南以来なり。バターを貰ふ。
2月22日
午前中、渡辺曠彦君来る。詩集を出せよとなり。午後、白鳥清先生(※白鳥庫吉婿)を御訪ねせしに風邪全快登[校]されしとなり。帰途回教圏研究所にゆき、
竹内(※好)、野原(※四郎)、鈴木朝英の三君と話す。ここにHurgronjeの「アチェ族(※The
Achehnese)」あり。17:00頃帰宅。
2月23日
10:00より史の小学入学前予備検査、判定、力のみB、身体検査で泪しとなり。留守中肥下来り保田の所へゆきしといふに追掛けて到りしも已に居らず。六国史三冊と東洋史説苑と取りて帰る。
2月24日
昼すぎ、肥下来り、全田叔父上京、学士会館にゐるとのことに、訪ねしも不在。17:00まで神田を散歩す。アトキンソン「キルギスよりアムールへ」と羽原又吉「アイヌ社会経済史」を購ふ。
本と喫茶、食事にインフレの兆濃し。17:00叔父と会食。20:00肥下の宅へ同行、明日小金井の寮へ入る由。
2月25日
午前中、堀口太平君来訪。午後南アジア研究所にゆく。「マレー語文法」と「マレー史」と「ラッフルズ図書館書目」とを寄附す。夜に亘り二十四史講読会。
和田先生に北アジア研究所への復職御願ひす。「南北アジア学報(※北亜細亜学報、南亜細亜学報)」貰ひ帰る。寒気してアスピリンのみて臥床。
2月26日
筒井と晩餐をともにせんと云ひしに食後来る。叱責す。西川満氏「赤嵌記」受贈。信夫清三郎氏より「ラッフルズ書目」につき来信。
2月27日
伊藤佐喜雄の池谷賞「春の鼓笛」贈らる。午後肥下を訪ね、阿佐谷に散歩。留守中筒井来り、「東邦近世史 下巻」を探し来りし由。風邪やや軽快。史の教科書買ひ求む。
夕食後、川久保来り明日昼食に招待すと也。筒井も来る。
2月28日
昨夜よく眠れず。昼食に招待を受けし川久保の所へゆく。鷺宮の仙蔵院あたりを遠望して懐ふことあり。14:00帰宅。留守中、渡辺曠彦、美堂正義二君来りし由。15:00浅野忠允君来訪。
けふ来信多く、中に村田幸三郎よりの文なつかしく憐れなり。
3月1日
昼すぎ、渡辺曠彦君来る。詩集のこと断る。夜、筒井来る。「あけぼの」より原稿依頼あり断る。
3月2日
昼前、建、受験のため上京。目黒に泊る。会はず。けふ悠紀子叱責。
3月3日
午過ぎ和田賢代来る。筒井と荻窪に散歩「更生記」購ふ。夜、建来る。
3月4日
午後、肥下を訪ひしも留守。小学館の稲葉健吉君来訪。十日までに「少国民の友」に詩三篇を書くことを約す。昭南よりラジオ放送、田代継男君の声を聞く。けふ「二都物語」再読。
3月5日
堀辰雄氏を午後訪問。発熱とて臥床中なりし。仏訳漢詩と海苔三十枚とを贈る。それより中野清見君宅を訪問。この間の来訪を謝す。
夜、中野君来訪、「山の樹」同人堀田君(※堀田善衛)とやら来合わせ、23:30まで対談。
3月6日
午後、筒井来り共に荻窪、阿佐谷に散歩、「無名菓子」と増淵佐平「南方の宝庫」とを買ふ。
3月7日(日)
昨夜比較的よく眠る。朝JOBKより150.00送付。13:00頃、野本来訪。三月一日付を以て中尉に陞進とのこと。日本刀持ち帰り貰ふ(※徴用佩刀の返却か)。
夜、川久保来り対満事務局の50.00届け呉る。
3月8日
終日外出せず。昭南より廻送のハガキ、伊東静雄とスマトラ西海岸洲司長官矢野兼三閣下のとなり。昨年八月末メダンより送りしウィスキーの礼を云ひ、
書きつづく南洋日記 守宮(※やもり)鳴くの句あり。遥かなるかな。
3月9日
13:30起床、全く夜昼反対となる。丸三郎の病気を見舞ひ、赤川草夫氏を訪ねビールを御馳走になり帰宅。筒井と21:00頃まで話す。「少国民の友」の稲葉君来りし由。
夜、そのために詩三篇作る。(高円寺にて「蘭印踏破行」渋川環樹著を購ふ。)
3月10日
陸軍記念日。14:30起床。全く夜昼反対となる。終日家に閉じこもりて無為。
3月11日
午後、肥下を訪ねしも留守。けふ民族学研究二号、鴛淵一「満洲碑記考」森潤三郎「森林太郎」を購ふ.。山本治雄に送信。
3月12日
午後、南アジア研究所にゆく。16:30白鳥先生来られる。ここに明実録あり。明日より毎日之を読みにゆくこととす。帰れば昭南の西沢繁夫君より来信、なつかしや。
3月13日
南アジア研究所へ13:00にゆき、「明実録」を万暦帝より読み出す。15:30前に疲労耐え難し。16:00過ぎ帰宅。留守中筒井来りて明日帰阪を云ひし由。
けふ佐藤春夫「大東亜戦争詩集」を購ふ.。面白からず。夕飯牛鍋珍しと云ふべし。
3月14日(日)
9:30起床。睡眠不足にも慣れたり。19:00肥下を訪ねしにコギト三月号出来しゐたり。けふ父より来信。建、水産講習所の第一次に合格。十八日頃再上京との由。
本日、十二月三十一日を以て徴用解除来る。
3月15日
午後調髪。池袋までの定期券を買ひ、研究所へゆく。来信、昭南の古田篤君、及び元大高の野球部マネージャー細川宗平より。夜、コギト四月号のために詩と文章を書く。
3月16日
午後研究所へゆく。帰途学習院に清水文雄氏を訪ねしも会へず。来信、山本治雄より。
3月17日
午後研究所、白鳥先生来られ「守宮につき」お話あり。帰宅すれば建来り居る。本日池袋の某女より来信。スマトラなる兄に「楊貴妃」買ひ求めたしと也。
3月18日
14:00研究所へゆく。17:00帰宅。スマトラの斎藤武二少尉より来信。夜、古田篤君と斎藤氏に返信。「文芸文化」二十八日までに詩一篇とのこと。
「文芸文化」の蓮田(※善明)氏に歌五首送る、のるかのらぬか知らず。多田等觀「チベット」購ふ.。
3月19日
昨夜不眠のためけふは研究所休む。昼、近くの本屋にて鷹部屋福平「アイヌの生活文化」購ふ。「即興詩人」再読、涙を催すことあり。
3月20日
雨、終日家居無為。
3月21日(日)
14:00中野清見来り、ともに丸三郎を見舞にゆく。18:30辞去。けふ令女界より「海軍報道現実の云々」なる文求む、断らざるを得ず。夜、文芸世紀のために「別れの宴」を書く。
留守中、川久保来りし由。
3月22日
終日家居。小雨。夕方大阪より電報あり。建、水産講習所に合格の由。
3月23日
10:00東洋文庫にゆき榎一雄君より「蒙訳元朝秘史」貰ふ。岩井大慧氏に挨拶。東方文化学院にゆき松本善海と小話。昼食後、南アジア研究所にゆき一人明実録を見る。
夜、川久保を訪れしも留守。
3月24日
13:00研究所にゆく。白鳥先生、四月一日より出勤せぬかと云はる。わが返答拙かりし故、何となりしや知らず。岩波文庫「毛詩抄二」を購入。
16:30帰宅、父より建の在学保証人頼み来る。
3月25日
9:00川久保来りしも会はず。10:00頃より「昭南従軍記」書きはじめ、14:00来りし肥下に十六枚を渡す。「婦人日本」の野村尚吾氏より詩四月二十日までとの手紙来る。
赤川氏、来週火曜来訪の由。
3月26日
13:30研究所へゆく。三十分程、明実録を見しのち、渡瀬君と話せしのみ。夜、川久保君、対満事務局の五〇円持参し呉る。昭南より本到着せし様子とのこと。
けふ「婦人日本」に詩「わが僕婢よ」を送付。
3月27日
けふ研究所休む。朝より防空演習なれど悠紀子の労多きのみ。「新潮」の楢崎勤氏より四月六日までに詩一篇をとのこと。夜「昭南従軍記」書く。計三十七枚。
四月初め頃まで書けし。
3月28日(日)
雨、終日家居。第一書房より「国民詩」(二)送り来るを見ればわが詩「高原」巻頭にあり。新潮にとスマトラより送りしもの也。けふ新潮の為「赤色標」を書く。
3月29日
午後一時間計り昼寝す。無為、絶食なり。14:00千葉来る。林敏夫静岡高校へ入れし由。
3月30日
11:00赤羽尚志氏来訪。共に阿佐谷へゆき昼食。肥下留守宅へゆき速達受取りしに一月二十九日付け「新指導者」よりの詩依頼なり。本位田昇より来信。「神軍」見度き由。北尾鐐之助「淀川」、国訳漢文大成「詩経」を購ふ。入湯。
3月31日
明日より四月といふに寒し。家居。14:00堀口太平君来訪。16:00頃帰る。本位田昇に詩集とハガキを送る。スマトラの陸原実君にハガキ書く。従軍記四〇枚。
4月1日
11:00より学士会館にて白鳥庫吉先生追悼会あり。会者二十八名、中に和田(※清)、羽田(※亨)、鳥山(※喜一)、津田(※左右吉)、原田(※淑人)
の諸先生あり。
清先生の追懐談に、乃木大将に礼楽のこと訊かれ、音楽即解散とり止めとなられし話面白し。我は速記に廻る。羽田先生に明君への御伝言御願ひす。「蘭印植物紀行」買ふ。
17:00帰宅。史、けふ入学。
4月2日
10:30研究所にゆく。12:30池袋の東京パンにて昼食。帰宅。本日和田清先生より新著「東洋史論叢」贈らる。
4月3日
神武天皇祭。戦地なる友、入営中の教へ子達に便り書く、七枚。昼、目加田誠「詩経」を赤羽氏より贈らる。三好達治氏より速達あり。近く創元社にて会ひたき由。
4月4日(日)
14:00肥下来り、校正見す。16:30建、来る。夜、警戒管制発令。
4月5日
終日家居。田村春雄より来信。昨日まで上京しゐたる由、我が帰郷も知らざりし也。警戒管制。夜、銭湯へゆく。
4月6日
午後研究所、16:00帰宅。本日も管制つづく。午前中、本[●]、筒井千尋「スマトラ」と「支那辺疆史 上」とを持ち来る。
4月7日
昨夜積雪。寒さの為けふも終日家居。石川仁太郎君より来信。結婚して製茶をゆり居る由、木村宙平君、横須賀へ転任の由。他に末吉(※栄三:教へ子)より来信。けふも警戒管制解けず。
4月8日
けふも警戒管制。11:00研究所へゆき浅野君に問ふに復籍のこと確からし。15:00帰宅、山路愛山「徳川家康」二冊、石田憲次「英国と英国人」を購ふ。
昭南より転送の倉田敬之助(薬師寺衛)の信あり。
4月9日
10:00より研究所。浅野君と民族研究所に関し話す。帰途、目白にて警報解除を告ぐる男ありし。16:30帰宅。留守中、千草来り昭南にゆく三越の人会ひたしと也。
建、外出許すは月に一日の由。丸よりハガキ、現在佐倉に帰郷療養中の由。
4月10日
10:00出勤。市古宙三君来る。午後三越へゆき、昭南にゆく人達に話す。夜、川久保を訪ね、22:00まで雑談。
4月11日(日)
昨夜就寝二時間、けふ昼寝。14:00大垣国司君来訪、16:30辞去。三好達治氏より来信、明日15:00創元社で会ひたき由。衛藤利夫「満洲夜話」購入。「民族学研究」第三号、同。
4月12日
10:00研究所。15:00創元社へゆきしも三好氏来ず、帰れば電報あり。明日に延せしと。
4月13日
10:30研究所。14:00神田にゆき江実「蒙古源流」「官場現形記 二」「荘廷鑨 明史稿」を買ふ。15:30創元社にゆき、三好氏に会ふ。
阿部知二来会、三好氏と銀座にゆき、夕飯奢らる。「神軍」推薦は三好氏なり。本位田昇より〒。
4月14日
10:30研究所にゆく。白鳥先生居らる。〒関口八太郎、企画院に帰りしこと。
4月15日
研究所を休む。〒濠北派遣といふに驚く坂入正之助氏、及び蒙古厚和の北川正明といふ人、「大陸遠望」の批評なり。
午後肥下を訪ねコギト四月号出来せるを持帰る。帰途松井保治君を伴ひ、雨となりて弱る。
4月16日
研究所にゆく。筒井、葡萄酒二瓶持ち来る。
4月17日
寒ければ休む。野長瀬正夫氏より原稿用紙送り来る。
4月18日(日)
11:00野本中尉来訪、建も来る。共に昼飯食ひて帰る。大掃除として少しく清掃。
4月19日
11:00研究所。雨。「南アジア政治交通図」を貰ひて帰る。
4月20日
11:00研究所。明実録万暦十年スミ、浅野、大原二君と目白の東京パンに寄り帰る。夜、筒井来り、阿佐谷に散歩。けふ万暦武功禄の俺答の所を読み合す。
4月21日
11:00研究所。鎌田君と話す。〒杉浦正一郎より五月二日上京の由。
4月22日
11:00研究所。16:30帰宅。帰途堀辰雄夫人に会ふ。堀氏全快の由。
4月23日
11:00研究所。スマトラの話する筈なりしも白鳥先生、病気の為取止めとなる。清国神社大祭。三郎君濠北派遣と変りし由。
4月24日
靖国神社御親拝の日。11:00肥下の許へ原稿もち行く。筒井と午後荻窪へ散歩。夜また風呂へ誘はれしも行かず。
4月25日(日)
11:00稲垣君の家へ酒もちゆく。13:00吉野清君来訪。建、来りて史を井の頭へ連れゆく。夜、筒井と銭湯へゆく。新藤千恵子より〒。会ひたき由。
4月26日
11:00研究所。14:00池袋より中野まで歩く。
4月27日
11:00研究所。14:30三越へ「マレー総攻撃」を見にゆきしも、陽生(※青木陽生)と話せしのみにて帰宅。土山夫人ありき。行きがけ省線にて和田先生とお会ひす。
赤面せしは何故なりしや、ハンティング(※帽子)のためか。〒田村春雄へ。
4月28日
11:00出勤。事なし。〒なし。
4月29日
天長節。訪人なし。筒井と阿佐ヶ谷散歩。芙蓉堂へ払ひ17.50円。「婦人日本」より三〇円送り来る。夜、筒井と銭湯へ。〒小高根二郎、蒙彊北川正明氏、
満洲江本義男氏へ。
4月30日
11:00出勤。佐口透来る。16:00より二十四史読合せ会。けふサラリ一〇〇円頂く。18:30過ぎ会終り、20:00夕飯。
5月1日
11:00研究所、電話開通「大塚二七八六」なり。「新潮」5月号来る。夜、亀井昇(※浪花中学時代の教へ子)と筒井と来る。阿佐ヶ谷散歩の後、筒井と入浴。
5月2日(日)
肥下12:00来る。13:00肥下来り校正もち来る。送り出せば山田新之輔来訪。家にて話し、エッケルマン「対話」(独文)与へ、燻製の魚貰ふ。共に高円寺にゆき、夕食にすしを食ひ、
保田を訪ねしに小高根太郎も来会しゐる。19:00共に外へ出、新宿にて保田と別れ、四谷にて喫茶店二件へゆく。山田今夜西下なり。
5月3日
9:00石田幹之助先生の御宅へ原稿依頼にゆく。ドイツ水兵に会ふ。16:30帰宅。夜、筒井と入湯、「かたくり」を食ふ。〒桑原武夫氏より「事実と創作」。
5月4日
10:30出勤。倦くてゼミナール止む。15:30退勤。新潮社より10.00、興地先生(※興地実英:大高時代恩師)より浦和高校で講演をとのこと。
5月5日
10:00出勤、昼すぎ山雅房の女来りて「野戦詩集」の原稿のこと、断る。17:00四谷見附の三河屋にて文芸世紀の会。中河先生、ジャワにゆく古沢安次郎氏、青山虎之助氏と我の四人のみ。
料理二人前を食ひ満腹。〒桑原、興地先生へ。民族学研究四号の「知母義地方の平埔族」興あり。
5月6日
11:00出勤。杉浦の宿所に電話かけしも居ず。夜、筒井を訪ぬ。けふ石浜先生より「東洋学の話」いただく。
5月7日
11:00出勤。13:00より「スマトラの民族」に就いて話す。16:30帰宅。杉浦より電報、明日電話かけよとのこと。夜、筒井と銭湯。
5月8日
杉浦に8:00電話かけしに15:00岩波小売部でとのこと。「日本外史 一、三」購ふ。午過ぎ文学報国会の巌谷氏等来り、詩の朗読せよとのことに関西訛りを云ひて断る。
肥下を誘ひしに留守。神田に出て、服部四郎氏「蒙古とその言語」買ふ。学士会館にゆき、竹内好と三人で話し、高円寺で購ひし「慈禧外紀」を竹内に与へ、夕食後、
同窓会に来りし杉森久英氏に挨拶し、竹内と帰る。阿佐ヶ谷にて肥下夫婦に会ひ、ノアムにて林檎食はしめて別る。けふ「小学生の友」より三〇円。
5月9日(日)
9:00川久保来り、史学会大会に羽田上原につき行くべとしいふ。そこへ大垣国司氏、葡萄酒一瓶持ち訪ねらる。11:00昼食後、大垣氏と御茶水にて別れ、
帝大へゆきしも昼憩時とて13:00まで待つ。市村(※瓚次郎)、和田(※清)、加藤(※繁)諸先生をはじめ、植村清二大先生も御越し、植村先生、新潟へ遊びに来よと云はる。
16:00頃より夕飯の場所探し結局四谷三河屋にて、羽田、川久保、松本と会食。別れて帰り、筒井を誘ひて入湯。一昨日中央公論の篠原氏より速達にて六月号に書くべき詩を考ふ。
5月10日
昨夜睡眠一時間のみ、9:00中央公論社に詩もちゆき、神田小川町の湯川弘文社に服部氏著(※「蒙古とその言語」)を取かへにゆき(落丁)、東亜研究所へゆき楊井克巳君と話し研究所。
15:00退所。19:30より眠る。
5月11日
11:00出所。13:00より浅野君と「万暦武功録」を読む。夜散髪入湯。〒赤羽尚志氏より。「書香」来る。
5月12日
欠勤。「昭南従軍記」のつづき五枚書きしのち、夜、肥下を訪ねしに留守。コギト五月号を取り、フラウより丸悪しと聞き、訪ねしに応答なし。赤川氏の店へ途中寄りしばらく話す。
丸のこと気になり、中野清見と訪ぬれば全快出勤の由。安心して長話しゐる中、警戒警報にあはてて帰宅。留守中、浦宮生、平川君、筒井来りし由。浦宮、土曜二時までに来れよと也。
5月13日
警報継続。けふも欠勤。昼寝し、防空壕少し掘る。夜、筒井と入湯。平川君に〒。
5月14日
出勤。岩村忍氏よりの信置きあり。本返せよと也。川久保に電話してきけばシロコゴロフの著作目録なる由、しかも三冊と。我不知焉。17:00帰宅「中国文学」最終号来る。
〒平野義太郎先生より二十五日には亜研究叢書にて「インドネシア慣習語辞典」出す相談する故来れと也。羽田よりも来信。夜、平川君再訪。ヘデイン「熱河」購ふ。
5月15日
アッツ島に敵上陸の由、不快。夜、川久保来る。岩村氏、貸したといふ由。これも不快。筒井砂糖もち来る。警報解除。文芸世紀より三円。
5月16日(日)
雨、午後、筒井来り、ぜんざい食べて帰る。終日家居。伊藤佐喜雄より〒。
5月17日
11:00出勤。16:00より二十四史の会。20:00帰宅。「婦人日本」終刊号来る。誤植三カ所。
5月18日
11:00出勤。14:00より興地先生を訪ねんとし、西荻窪に行きしに北町一郎夫妻に出会す。川邨氏邸で暫く待ち先生に断りしも漫談にてよしとのこと也。夜筒井来る。
5月19日
昨夜眠り足らず、欠勤。岩村氏に断り状。中河先生に五円同封の〒出す。夜、筒井と入湯。
5月20日
終日家居。無為。筒井と話せしのみ。
5月21日
欠勤。中河与一氏より〒。日曜に来れと。田辺東司君より近日帰還と。午後筒井と荻窪に散歩。内田吟風「古代の蒙古」再購入。筒井、日曜徴兵検査の為帰阪と。
5月22日
10:30出勤。山本五十六大将戦死の発表あり。14:30北浦和の浦和高校へゆき漫談を16:30までやり興地先生と共に帰る。夜、筒井一寸来る。
5月23日(日)
朝、川久保の家にゆきしに留守。13:30肥下来る。原稿をとりに也。「昭南従軍記」今月休むこととし、共に保田の許にゆき、萩原先生の遺影貰ひ、中河与一氏を訪ねしに留守。夜筒井来る。
5月24日
10:30出勤。点呼のこと話す中、心配多し(祖父へ問合せの〒書く。) 筒井来り明日に帰阪延ばせしと。外食券四十三枚呉れたり。〒坂入君より。
5月25日
昨夜少眠。朝悠紀子を在郷軍人分会にゆかしめしに無事。研究所より満鉄に電話し、インドネシヤadat(※慣習)研究会不参加を云ふ。午後白鳥先生来らる。第一書房より八円。
5月26日
10:00出勤。途中和田先生にお会いし共同研究をせよと云はる。16:00帰宅。月給日也。
5月27日
海軍記念日。川久保より電話。明日より秋田にゆく由。中河さんに電話せしに明日夜来るべしと也。
5月28日
9:30出勤。神経衰弱けふは宜し。昨夜夢で田中三郎に活を入れられし也。7:00大久保にて夕食。中河さんを訪ね、透谷賞牌(※)貰ふ。
小高根太郎、昭南での喧嘩のこと(※中島健蔵との確執)しゃべりし也。父より〒旅行届を出せし也、反対。
5月29日
10:30出勤。昼飯食ひ将棋指せしのみ。眼鏡こわれたり。
5月30日(日)
朝昼飯を兼しのち眼鏡のつるを代へにゆく。午後小山正孝君来訪。夕刻ラジオ、アッツ島我軍全滅を報ず。
5月31日
10:30出勤。16:00より二十四史読合せ会。川久保より電報にて不参の報知。19:00帰宅。
6月1日
10:30出勤。鎌田君二日欠勤、15:00帰宅。竹内より回教圏に書けと。
6月2日
11:00出勤。肥下より電話あり、赤川草夫氏の長男轢死せしを以て告別式に出よと也。一度帰宅、出席。肥下と会し15:00終了、後、肥下の家にゆき話す。
その後「回教圏」の原稿十二枚を書く。不眠。
6月3日
11:00出勤。「武功伝」を読み、回教圏を書き了ふ。川久保より電話。けさ父より〒、帰国届出し呉れし由。
6月4日
11:00出勤。13:00より渡瀬正忠君の「広州交州考」面白くなし。〒浦和の井上幸治君より中央公論を見て帰還を知りしと。
6月5日
欠勤。肥下よりコギトの会通知。引きつづいて取消。山本五十六元帥葬なり。
6月6日(日)
終日家居。伊藤の「花の宴」再読。夕方入湯。文学界七月号に掲載となりし由〒(※不詳)。
6月7日
9:30出勤。途中、新村出「南方記」スヱン・ヘディン「彷徨へる湖」購入。浅野君民族研へ大体きめし由。16:30帰宅。
6月8日
9:30出勤。15:00頃白鳥先生来る。けふより李白の続き書く気になり眠れず。
6月9日
11:00出勤。13:30退出、中野区まで歩きて疲る。
6月10日
11:00出勤。昨日竹内好より電話かかりし由。16:00退出。
6月11日
11:00出勤。浅野君明日より点呼予習の由。帰宅入湯。夜、筒井来り「切支丹家門史(※日本切支丹宗門史?)」上中持ち来る。竹内の電話は「回教圏」の挿絵につき。
6月12日
11:00出勤。昨夜不眠の為来るし。肥下宅へ寄りコギト六月号貰ひ来る。
6月13日(日)
11:00大垣国司氏来訪。まもなく建来る。大垣君と大塩君に寄書せしもソロモン方面にゆきしらしければ、あやなし(※不条理だ)。夜、筒井と入湯。荻窪に散歩。
「日本幽囚記」ゴロヴニンを筒井より貰ふ。対満の報告を出せよとの〒。
6月14日
11:00出勤。16:00より二十四史読合会。川久保と帰る。〒新藤千恵子。
6月15日
11:00出勤。新藤嬢に原稿掲載不可能の返事。夜、肥下のフラウ来る。
6月16日
11:00出勤。13:00川久保と白十字にて会ひ、文学部事務務室にゆく。研究室にゆきしに座読会に出さされ山本達郎氏と一寸、川久保と17:00阿佐ヶ谷まで共に帰る。
6月17日
欠勤。赤羽氏来訪。李白伝殆ど書き終る。夜、筒井と入湯。細川宗平東亜研究所へ入りしと〒。
6月18日
欠勤。夜、下痢。
6月19日
出勤11:30。14:00退勤。清水文雄氏を官舎に訪ぬ。夜、筒井と入湯。雑談。
6月20日(日)
朝、松井保治氏来訪、昨夜不眠にして苦し。午後筒井来り、15:00野本中尉来る。アッツ島を語り、大権侵犯を叱らる。17:00点呼予備通知来る、二十七日7:30杉並第五国民学校にて。
川久保来る。大東亜省への報告のこと。
6月21日
9:30出勤。17:00帰宅。太田七郎君の訃報昨日あり。告別式13:00までなりしも出席出来ざりしゆゑ弔問遅ればせにす。二月までとの診断が六月十九日13:50まで保ちし也。
二人の交をとりもちし高橋君はいま獄中なり。帰途、心うく亀井勝一郎氏を訪ふ。
6月22日
9:30出勤。大東亜省への届けの件にて文庫に和田先生を訪ねしも来られず、閲覧証たのみしも中々出来ず、石瀬君来りしゆゑともに本郷に出。話きくに南方での(※日本軍の)悪評ありと。
帰宅後昨年度の収入額査定三三〇円とのこと。夜、筒井と散歩。
6月23日
9:30出勤。白鳥先生来らる。12:00帝大。和田先生に大東亜省満洲事務局長今吉敏夫殿宅の届けの印頂く。先生、二十四史をも一度やらぬかと。川久保の代りなり、お断りする。
次には八月に満洲へ同行せぬかと、これもお断りする。研究所へ村上正二君入るときまりし様子、これも良くなし。川久保と文庫へゆき閲覧票もらひLoeb(※ローブ古典文庫)よむ。
17:00帰宅。メダンの齋藤少尉より来信。夜、筒井と入湯。
6月24日
9:30出勤。浅野君と将棋、帰宅後肥下を訪ねしに既に帰りゐる。従軍記つづき書く。十六枚。
6月25日
11:00出勤。白鳥先生来られ、和田先生「田中変った」と云ひをうれ(※憂ひ)し由。サラリー貰ふ。睡眠不足のため15:00帰宅。夜、筒井と入湯。
6月26日
9:30出勤。14:00帰宅。点呼の用意をす。
6月27日(日)
5:00防空演習。7:30杉並第五で点呼演習、敬礼、その他隣組の齋藤氏、川久保君の双生兄と一緒なり。17:00終了。入湯。夜、筒井来る。「文学界」七月号来る(※掲載作品不詳)。
堀口太平君糸を呉る。
6月28日
9:30出勤。15:00退出。クラス会は竹内に断りたのむ。父に点呼のことで速達出す。夜22:00まで演習、齋藤武夫氏、三原の人にして村上菊一郎君を知る由。
6月29日
10:00出勤。15:00退出。19:00より演習。中河与一氏より世紀の会報に刀のことかけと。
6月30日
欠勤。13:00肥下を訪ね、クラス会のこと聞く。19:00より演習。世紀の会報は一枚かく。
7月1日
けふより東京都となる。都長大達茂雄には昭南にて御馳走になりし事あり。
10:30出勤。17:00帰宅。留守中来りし北村旭君(昭南宣伝班撮影班)再び来り、写真画報に詩をとのこと。昭南の思ひ出話久しぶりにてたのしかりし。
夜、筒井と銭湯、けふは点呼演習休みなり。13:30弱震あり。鎌田君外へ飛び出したり。和田先生、浅野君にも田中変ったと云はれたる由。
7月2日
昨夜「文芸世紀」に「スマトラの初印象」八枚かき不眠。欠勤。夜、点呼訓話。
7月3日
11:00出勤。14:00退出。夜、筒井と入湯。
7月4日(日)
7:00より点呼査閲。分会の貯金をなす。雨はげしく寒し。夜、筒井来る。
7月5日
11:00出勤。15:30退出。夜、筒井と入湯。
7月6日
11:00出勤。北村君に電話かけしもゐず。「新亜細亜」十月号にスマトラの民族記事あり、良し。夜、「昭南忠霊塔」書く。
7月7日
11:00出勤。白鳥先生来あり、村上正二君入所のこと決定と不快。浅野君の民研行も決りしならん。夜、筒井と入湯。(二十四史の北狄の部も村上君引次ぐ由)。
「新女苑」二十日迄に詩一篇をと。陸軍美術協会に昨夜の詩贈る。
7月8日
10:00出勤。前田より電話あり、増田晃君戦死とのこと。17:00帰宅。
夕食後新聞見しに毎日新聞の篠原繁雄君(※新聞記事切貼)脳溢血にて死去とのこと。悪日なり。篠原君宅へ弔みにゆく。(16:00肥下宅へ寄りしに校了にゆきしと)
7月9日
10:00出勤。14:00篠原君父君宅へゆきしに霊柩車の出る直前なり。桐山君ら見えざるは如何なりしわけや。帰途民研へゆきしに江上君の報告中、待つことしばし川久保と話しゐる中に岡、
岩村二氏外出、腹立てども仕方なし。夜、筒井と入浴。
7月10日
9:30出勤。14:00帰宅。17:00赤川草夫氏、香典返しに茶もちて来訪。20:00亀井昇生、母と来る。靴下呉る。「李白伝」を急ぐこととす。小竹文夫「近世支那経済史研究」を購ふ。
7月11日(日)
朝、松井保治君来訪。夜、中野清見君来り話す。夜いねられず「李白伝」引用の詩の訳ほとんど完了。
7月12日
欠勤。午後ひるねす。夜、赤川草夫氏を訪ね長読。「鴎外水沫集」保田「風景と歴史」「車塵集」ハラ・ダワン「成吉思汗伝」「クレオパトラ」と交換に本五冊を持参す。
赤川夫人によれば中原中也未亡人シャンタルに居られし野村大佐に再婚せし様子。
7月13日
10:00出勤。浅野君六月末退職のこととなりし由、送別会のことを決定。北村君に電話、夜、入湯。筒井「エーネイス(※アェネーイス)」二冊呉る。
7月14日
10:00出勤。村上君来る。近くのすし屋(※浅野君送別会を)断りし由。十七日にのばすこととし未持参ならば如何と問はしむ。夜、肥下を訪ねしにコギト七月号未成。
父より祖母危篤の由〒。
7月15日
防空演習11:00出勤。14:30退出。夜、早く寝る。
7月16日
防空演習11:00出勤。12:00肥下より電話あり、立野利男君(※磯花左知男)上京に付き新宿駅に来よとなり。ゆきて高野フルーツパーラーへゆけば、兄立野保男は左翼とて検挙されしため仙台に取片付にゆきしと。
又おどろきしは丙種の利男応召。海軍とのこと也。15:00の汽車にのるとて東京駅まで送り、丸ビルにゐしに防空演習やらさる。16:00頃、肥下宅へゆきコギト七月号受取りて帰る。
夜。筒井と入浴。
7月17日
7:00祖母逝去の電報来る。十九日寺にて告別式と。帰阪せざることとす。15:00より研究所にて浅野君の送別会。大原、渡瀬君ビール、野菜、ハムなど持参、20:00済む。
7月18日(日)
来客なし。〒なし。夕方、筒井と荻窪に散歩。
7月19日
10:00出勤。桐山君より電話、結婚せし由。明後二十一日16:30に毎日社へゆくこととす。17:00帰宅。〒祖母葬儀本日15:30宝国寺にて。死去は十六日9:15なり。
小高根二郎、西川満。「文学界」十月号に詩一篇八月五日まで。夜、入浴。筒井来る。「新女苑」に「山の湖」書く。
7月20日
けふにて研究所夏休みと。但し白鳥先生御存じなきなり。桐山君より二十二日に会すべしと〒。家をもち結婚せしと。夜筒井「タガログ語会話」呉る。
7月21日
終日家居。筒井、大阪へ帰る。
7月22日
11:00研究所へゆきしに当番村上君ゐず、白鳥先生より電話あり。大原君の家へゆく。
それより中央公論の篠原君を訪ねしにゐず。毎日会館で映画見しのち16:30桐山君と喫茶、夕食、喫茶、観劇、篠原君追悼の会なり。保田の「皇臣伝」貰ふ、不快。
7月23日
一日家居。夕方、小学館の加毛女史来る。「日本少女」に印度独立の詩を書けと也、断る。
7月24日
終日家居。李太白は書けず「昭南従軍記」書く。芙蓉堂「スマトラの統治・人種と経済」もち来る。
7月25日(日)
13:00大垣君来訪。八月除隊となるらし。大汐君小高根二郎に便りせしはまことらし。肥下来り原稿もちゆく。長野来り仏和辞典返しソムハルト「ユダヤ人と資本主義」呉る。
夜、高円寺へ散歩。赤川氏と話し、松井君と茶のむ。徳川義親馬「来語四週間」買ふ。
7月26日
李白伝を書くことも進まず。この日ムッソリーニ退職。
7月27日
散髪す。夜、肥下を訪ね23:00まで話す。いやいやのおしゃべりなれど、あと眠れずして弱る。
7月28日
久しぶりにて出所。渡瀬、大原二君と話しをれば川久保来る。16:00共に阿佐ヶ谷まで同行。夜、入湯。
7月29日
12:00研究所へゆき、大東亜省のため「スマトラ、マライの民族」の大要書く。15:30上野図書館、李白のため也。「立原道造全集」第三冊芙蓉堂にて買ふ。今度より現金でと女房吐く。
7月30日
午後、北町一郎君を訪ねんと西荻窪へゆきしが「民研」七月号、岩村忍「耶律楚材」を購ひて引返し高円寺散歩、帰宅。中河与一氏より何とか会作ると賛否訊ね来る、不快。
7月31日
無為。李太白書き畢へたりと数へしに二百字詰五一七枚なり。
8月1日(日)
加毛女史より〒、萩原全集入手し呉れし由。11:00野本中尉来る。「今古奇観」よむのみ。ビルマ独立す。
8月2日
肥下来りて「コギト」八月号の「従軍記」の校正。保田の再販「後鳥羽院」と旺文社の「マライ語辞典」購入。
8月3日
一日「マライ語辞典」よみて暮す。夕方阿佐ヶ谷へゆき、立原の手紙とり来る。
8月4日
点呼礼状来る、二十四日八時浪中にての由、奇縁。夜、肥下を訪ぬ。
8月5日
研究所の当番代って貰はんとて行きしに渡瀬君不見。速達す。鎌田君当番。浅野君来会す。帰れば建来り居り、夕食後、史連れゆく、大阪へと也。
研究所の帰り電車にて荒木猛(釈十三郎)と遭ふ、三月上京、病気して高円寺にゐると也。馬来宣伝班員、同船にて帰り台北の宿屋で同室す。
8月6日
終日家居。李太白書き畢る。不十分なれど致し方なし。五一六枚(二百字詰)。
8月7日
終日家居。赤羽君来るかと思ひし也。
8月8日
朝、在郷軍人分会へゆき、仰貰ふ。赤羽君、火水二日の中選べと也。父より史来らずとて悲しむと。阿佐ヶ谷へ肥下よりの本もちゆき16.59預りて帰る。
夜、高円寺に散歩。
8月9日
10:00研究所へゆきしに誰もゐず、11:30鎌田君来り渡瀬君日直代りくれさうなれば、又ハガキかく。13:30日本評論社に赤羽氏を訪問、「李太白」を渡す。
刊行は年末か。喫茶の後、帰り18:00より寝に就く。けふ父より〒、史、大阪へつきしを喜ぶ也。
8月10日
渡瀬君より速達。当番代り呉るる由、20:00より隣組常会一時間半、バカらし。
8月11日
10:30研究所。けふより当番なり。鎌田君、渡瀬君と帰り赤川氏により、明日本売ることを約束。松井保治君と散歩。肥下宅へ寄りしもコギト未成。夜、書物整理。
〒史より。留守中小学館の加毛女史よりの使、萩原全集三冊をもち呉れし。
8月12日
11:00出勤の途、松井君に会ふ。12:00出勤。15:00まで用足し、満鉄弘報課「満洲宗教誌」を購ふ。夜、松井君来しが赤川君无来。けふ「新女苑」稿料30.00
8月13日
10:30出勤せしに大原君在り「昨日われ鍵を挿したるまま帰り」と。午過ぎ手塚(※手塚隆義)、村上(※村上正二)二君来る。15:30退去。夜、赤川氏来り本、六十二円に買ひゆく。大木惇夫「海原にありて」佳し。
8月14日
10:00出勤。亀井勝一郎君の紹介によりて昭森社。宮木喜久雄君来訪。ブランド・バックハウス「西太后」を訳し呉れよと。返答留保す。和田先生にもお会ひせし由。
午過ぎ回教圏にゆき、大久保孝次先生、野原四郎氏、竹内と話し、竹内と喫茶後、帰宅。夜、肥下宅へゆき「コギト」八月号取り来る。肥下十七日帰宅の由。
8月15日
朝、近くの本屋にありしを以て武田泰淳「司馬遷」購入。「民研」八月号購入。
8月16日(日)
11:00出勤。事なし。末吉けふ来る由なれど来らず。増田晃より〒、馬来よりの廻送なれど戦死は嘘にてはなきか。嘘なるを望む。「現代」より戦ひの心の詩欲しと、バカも休み休み云へ。
8月17日
9:30出勤。大原君既にあり、昼まで雑談。午后明実録少しよみ、松宮順「暹羅(※シャム)説苑」二冊貰ひ14:00退出。留守中、末吉来りしも午、中央線にて帰阪と。
夜、川久保来訪。眠りがたし。けふ電話、宮木君明日来訪と。
8月18日
10:00出勤。渡瀬君より電報あり。けふ来ずと。午すぎ宮木君(昭森社)「西太后」の原本持参、引受く。年末までとの約束なり。
15:30帰れば数男(※義弟)天津より帰りをり土産にパイレート、ルビー・クイーン(※煙草)
一箱づつ、子らに菓子。依子、目悪し。
8月19日
10:00出勤。中島敏氏来り「殿版二十四史旧五代史」一冊借出しゆく。午後渡瀬君に引きつぎし、東京駅へゆきしも急行券は十六時まで也。夜、昭森社宮木君より速達の仮翻訳届を送り来る。
8月20日
5:00起床、二食携行にて6:40普通姫路行にのる。茶なし弁当も買へざる様子也。20:00大阪着。24:00頃眠る。
8月21日
9:00大高へ著書二冊寄附、住吉区役所へゆき、兵事課で分会の所在を訊ね、村田幸三郎の令兄に会ふ。村田、後妻見つかりし様子、分会へゆきしに明日6:30住吉小学校へ来いと。
立野利男君の留守宅を見舞ひ、昼食後断髪、阪急別館へゆきしに一人のみ知れる子ゐたり。帰りて近くの青年より点呼の心得聞きたり。史、けふ建と生駒山へゆきし。
8月22日(日)
6:30より住吉国民学校にて点呼練習。点呼小さしと呼直し、藁人形突きもやり直し。三十キロの荷揚げ一回も出来ず、最強二三十回、普通八九回なり、恥しといふ。
けふ祖母の七七日なりしがゆけざり。点呼に今中の同窓岩永俊章あり。
8月23日
10:00より中部軍の中野繁夫准尉を訊ねしに既に除隊。大化奉公会に務めゐると。朝日新聞に山田新之輔君を訪ね、父の勤先にゆき心斎橋筋を歩きて15:30帰宅。
夜、点呼の準備。「文芸読物」九月号に窪川いね子、メダンの大毎支局のことを書く。
8月24日
6:00より住吉校集合、18:00終了。ありがたし。20:00睡眠。末吉、栄三より電話あり。逢ひたしと。
8月25日
10:00浪中へゆきしに小川君滋賀県の高女、今君北海道へ転任と。田村家へゆきしに春雄、開業、婚約も成立せしと。全田にゆきしに叔父庶務課長となりしと。敦子少しきれいとなりし。
難波にて末吉、栄三に会ひ、少し話し、大阪駅にゆき明朝9:40の急行券購ひ、十合へゆきしに大江叔父留守。昌三叔父は神戸へ転任と。有為転変多し。
田中城平叔父の勤先にゆきしに北浜の野田屋にて会合と。ゆきしに野田屋は廃業してなし。藤井寺にゆき叔母久美子と話し、梨子一貫匁購いて帰り居り。和子と三人にて話し、23:00帰る。
8月26日
9:40の列車(大阪発)に乗車、大と父と送りに来る。空席多きは意外なりし。19:40東京着。阿佐ヶ谷より人力車に史と荷物をのす。
8月27日
朝、筒井来る。14:00肥下を訪ぬ。原稿まだのる由。夜、筒井、史と入浴。〒佐々木六郎帰還、東朝社会部にゐると、うれし。「大日本青年」十月号に詩をと。
中河与一氏より正成と清麻呂をと。村上菊一郎君帰国と。東大より満洲事務局の補助金につき来よと。
8月28日
朝、川久保来り満洲事務局の一〇〇円持ち呉る。四〇円加毛女史に送る。昼すぎ肥下に昭南従軍記わたす。夜、筒井と散歩、吉田東伍「大日本地名辞書 関東、
東北、北海道、琉球、台湾」呉る。ありがたし。
8月29日(日)
朝、筒井来る。「文学界」九月号、末吉〒。アッツ勇士功賞。
8月30日
〒「文芸世紀」九月号。11:00出勤。俸給貰ひ昼食。開明堂に寄り、回教圏へゆき前田直典君に増田晃追悼の詩わたす。竹内はゐず。「清史稿」購ふ。
8月31日
「文芸」九月号来る。午後、筒井と高円寺に散歩。赤川氏より原稿用紙五百枚。夜、堀口太平君来訪。
9月1日
けふより出勤。大原、渡瀬、村上の三氏。竹内好に電話かけしに土曜に来る由。15:00中島敏氏来る。19:00警戒警報。南鳥島に敵機来りし故ならし。
9月2日
10:00出勤、大原氏のみ。倦怠感甚し。午後大雨。夜、早く寝ぬ。〒「文学界」一五円。「南方情勢」より随想を六七日ごろまでに。
9月3日
大雷雨。欠勤。夜、肥下を訪ね、読者への封筒書く。
9月4日
9:30出勤。和田君、鎌田君。13:00退出、回教圏へゆき竹内(※好)と話す。シュークリーム食ひたり。夜、筒井と入湯。
9月5日(日)
午後、筒井と善福寺池へ散歩。留守中、肥下コギト校正を持ち呉る。夜、訪ねしに行違ひとなる。スマトラ宮部隊の渡辺実定君より往復速達来る。
9月6日
11:00出勤13:00より歩いて中野まで来る。夜、早く寝る。「大日本青年」に詩を送る(※不詳)。
9月7日
欠勤。一日家居、無為。
9月8日
「南洋経済」の原稿遂に書かず。「李太白」の校正来る。出勤、13:00退出。
9月9日
欠勤。中河与一氏より原稿のこと。赤羽氏より十七日に信州へ行かぬかと。夜、筒井と散歩。この日伊太利無条件降伏。
9月10日
出勤。竹内より電話あり。明日10:00池袋駅で待ち合す。浅野君、朝鮮より帰りて来る。夜、肥下を訪ふ。
9月11日
9:00池袋着、古本屋をひやかし、ラティモア(※アメリカの中国学者)購ふ。竹内と所(※不詳)にゆき一時間程話したる後、喫茶、ブランド三版と「慈禧外紀」もち来り呉れし。
新大久保で下車、新宿まで歩き三福にて昼食。夜、筒井と入湯。けふ中河与一、赤羽二氏断り、昭森社宮木君には仮翻訳届けにつき問合す。
9月12日(日)
家居。午後、木村宙平君来る。大尉になりしと。夕食して帰る。薬師寺君より〒。「李太白」 一二〇頁まで初校出る。
9月13日
出勤。都会議員選挙なれど棄権。夜、筒井と入湯。清野博士のスマトラ借りてよむ。
9月14日
出勤。浅野君、午前中来合せたり。早く退出、夜、筒井散歩にと誘ふ。
9月15日
欠勤。午後肥下を訪ねしに留守。コギト九月号出来しをりたり。陸軍美術協会より三〇円。岐阜の本多喜久子氏より西洋梨一箱。筒井、明日退京と。
9月16日
出勤。午後陸軍美術協会にゆきしに北村旭君居らず。朝日にゆきしに佐々木六郎君裁判所へ通へりとて居らず。
9月17日
出勤。「西太后」訳しそむ。平松君と17:00新宿駅で会ふ約束をせしに高橋君も来合す。泰華楼で夕食。宮木君より〒。「李太白」初校出そろひ三百頁かつ[も]りなり。
9月18日
家居。〒小川浩君。昨日けふ数男(※義弟)見合ひ二回、我に何等話なく恚ると曰ふ。
9月19日(日)
9:00より防空訓練。午後松井保治君来訪、令兄応召の由。佐々木六郎を訪ねんと牛込若松町にゆきしも平田内蔵吉君を訪ねしのみにて了る。帰宅すれば建居る。
9月20日
10:00出勤。15:00村上君の母死せしとて大原君と悔みにゆく。この日より「西太后」の訳にかかる。悪文なり。竹内好訳「小学教師倪煥之」来る。
9月21日
10:00出勤。鎌田君、文理大の講師となりしとて白鳥先生に辞任申し出でしと。「樺太原始民族の生活」を購ふ。中沢金一郎の歌集「軍靴」(※書誌未詳)
送り来る。
9月22日
昨夜23:00産気づきしとて関産婆迎へゆき泊りもらひしも無事。朝、家政婦人会。油屋、瀬戸物屋にゆき帰れば、家政婦某女来りゐる。
10:00出勤、浅野君も後に来る。14:30帰宅すれば女児13:30出生せしと(※次女弓子氏)。体重八三〇匁(※3.100g)身長四八cmと。軽
かりし。
9月23日
11:00新宿駅で退避訓練やらさる。大原君に聞けば大東亜省のため「歴史より見たる満洲の民族性」を三上、島田正郎君とやらされる由。
13:00帝大にゆきしに大東亜省の金まだ来ずと也。松本善海と話と茶。夜、肥下来る。けふ第二回の人統制発表、文科大学の召集延期なくなる。
9月24日
7:30起され、(※次男)梓、ひきつけたりとて直ちに沢本女医にかけつけ、注射せしめしのち、ひまし油を飲ましむ。11:00頃下痢。17:00再び来り、河北病院に入院せしめよと云ふ。
但し病室はなし。この夜、ゆき子と徹夜して見守りしも手おくれとは知らざりし。
9月25日
10:30までに沢本女医二度往診。直ちに豊多磨病院に入院となり、12:00自動車にて入院。渡部秀子女医により葡萄糖、カンフルの注射。酸素吸入を行ひしも効なく23:25絶命。
柏井母とわれ枕辺にあり、涙のみ。元来二十三日に下痢、二十四日朝床中に下痢ありしは吾がゆき子にかはり寝しめしにて、寝冷えを起こせしは吾なり。
沢本女医と判断、迎へにゆきしも吾、河北病院その他への入院も吾あまりすすまざりし為、力を尽くさざりき。父としては生誕後四ヶ月にして従軍、ただ頬笑む顔を覚えゐしのみ。
帰還後は梓可愛くてならず「トウチャンバカ」を云はしめ、くすぐり、高い高いし、「ポッポノオウチ」「ギンギンギラギラ」を喜びてきくに歌ひやりし也。
ゆき子分娩後は吾世話し大小便を自ら云はしめるごとく教育せしも、それのみにて死す。屍室隣りにて眠る。
9月26日(日)
10:00一旦帰宅。葬儀屋に手続や手配たのみ、16:00枕経。16:30上落合火葬場の爐に入る。おつぎ叔母、和田女史、柏井母と吾の四人のみ侍す。
泪のみ。入棺前の死顔のかはゆさたぐひなし。明日8:30骨上げと。田辺父に知らす。
9月27日
8:30骨上げ、賀代女史と柏井母と。香奠来る。二度区役所にゆき戸籍の届と配給のことを手続す。夜、亀井昇くる。日大卒業と。21:30まで話してゆく。
9月28日
10:00病院にゆき死亡診断書一通を貰ひ、消毒済の衣服持ち帰る。午後出勤。茫然たりしのみ。立原の親戚某女より〒。日本評論社の届に印。「少女の友」
十一月号に詩依頼。
重原菊井女、以前に家政婦としてありし土屋喬雄家のこと話す。
死亡診断書
田中 梓
昭和十六年九月二十五日 (死亡者ノ生年月日)
病名 疫痢
発病ノ年月日 十八年九月二十三日
死亡ノ年月日 十八年九月二十五日午後十一時二十五分
死亡ノ場所 淀橋区柏木五−一二七九 東京市立豊多磨病院
右 証明候也
医師 渡部秀子
9月29日
「李白」再校出そむ。10:00出勤。14:30退出。昼飯時、池袋にて昭南にて宣伝班にありし秋岡博に会ふ。興南錬成塾に入りて六ヶ月後また南方にゆくと。森下は既にゆきしと。
石山五郎もゆくと也。
9月30日
出勤。桐山君より電話あり。出勤の途、万年筆こわれしを直さんとせしに直ちには不可と。大場弥平氏に会ふ。尾高少佐左遷は我がせしと也。中建参謀本部に働くと。
不快のことのみ。18:00帰宅。
10月1日
開明堂へ催促にゆき、神田の本屋を見、昼飯食ひて研究所にゆく。朝、区役所に呼ばる。消毒料のこと也。重原女十五日までゐる由。
14:30高円寺をうろつきしに松井氏に会ふ。「現代」30.00
10月2日
重原女下痢のため今日より帰会。9:30出勤。万年筆修理出来、青木陽生に洋傘たのむ〒。13:00帰宅。史、風邪気味。肥下を訪ねしも留守。
10月3日(日)
午前中大雨。甘藷の配給あり。午后肥下原稿を取りに来る。山田新之輔、藤田久一等応召と。小高根二郎父弟の死を悼む詩を作れり。
保田足止め(※外出禁止?)を命ぜらると聞き、ともに訪ねしもそのことなしと。李太白集三冊もちて帰る。「大日本青年」20.00
10月4日
欠勤。けふ体重半ヶ月振りの入湯にて計りしに十一貫(※41.25 kg)也。夜、数男天津に帰る。荻窪へ散歩、ループの「スマトラの民族」上購ふ。
10月5日
10:30出勤。14:00毎日社へゆき「大日本青年」十月号のこと聞きしに未刊と。相山君と一寸話し、朝日社へゆき佐々木六郎呼出せしに福永英二君にも会ふ。
「富」はブキテインギにと。田代継男まもなく帰るらしと。三島君は仙台支局へ転じたりと。
10月6日
けさより重原女また来る。12:00過ぎ出勤。15:00退出。赤羽君よりハガキ「李太白」学問的で良しと。
10月7日
出勤。無為。山本剛、南海より〒。
10月8日
欠勤。「大日本青年」来る。「文芸世紀」より10.00。午後、梓の保険金のことで荻窪局へ行きしも不成。宵より雨。
10月9日
雨、欠勤。けふより又「西太后」を訳す。秦(※タイ)の牧野忠雄より〒。
10月10日(日)
雨、終日家居。腹立ちて耐らず、また神経衰弱か。〒父より。田中家は真言宗なる由。
10月11日
10:00出勤。13:00大学の言語学研究室にゆき柴田孝助手、服部四郎氏と話し、善海を訪ね、日本橋の日本評論社にゆきしも赤羽氏不在。銀座を歩き、
新宿より高円寺に出、すしを食ひ、赤川を訪ねしに不在。木山捷平氏に会ひ喫茶中、小田嶽夫氏を見、また喫茶。2:00帰宅。重原女けふ断る。石原道博、台大へ就職と。
10月12日
11:00出勤。渡瀬氏と将棋三番。「西太后」二章了る。17:00退出。
10月13日
不快、欠勤。東京疎散案に東大文科系、東洋文化、民研あり。照宮結婚さる。昼すぎ下痢。夜、川久保悔みに来る。帝大仙台へ移転らしと。
10月14日
欠勤。悠紀子下痢。前田医師の往診を乞ふ。
10月15日
欠勤。。悠紀子臥床。「李白」再校了る。比島独立。
10月16日
靖国神社臨時大祭。午後、史、依子と阿佐ヶ谷散歩。
10月17日(日)
神嘗祭。11:00大垣国司君来る。大塩麟太郎戦死らしと。大垣この間一日発狂して留置されしと。共に「ぴのちお」にて昼飯。肥下を訪ねしに留守。帰ればコギト十月号もち呉る。
17:00二人退去。夕方、川久保、梓にりんごもち呉る。けふ神戸の田村ふさ(松田みね祖母の異母妹)氏来れり。七十六才。
10月18日
出勤、だるし。15:00近くまで西太后。大垣君結婚のことにて相談に来る。
10月19日
出勤。朝日仙台支局の三島英雄君より〒。序であらば来れと。氏はメダン自動車事故の責任者なり。夕、筒井来る。北海道にゆきゐしと。入湯後も話す。本棚呉る。
10月20日
出勤。〒父より。咲耶男子を産みしと。〒大垣君、九月に出せし也。
10月21日
出勤。夜、筒井の所へゆき「赤蝦夷草紙」吉田東伍「地名辞典」一冊貰ふ。机も呉ると也。下痢嘔吐の気あり。〒薬師寺君より。
10月22日
〒田代継男帰還の挨拶よこす。〒大垣君へ「信の路や甲斐路に私の雲を見ん、雞啼くと告げ来し友や烏賊を食ひ、南方を語るに倦みて初霜や、石蕗の花ほととぎす啼く庭にゐる」〒南支派遣軍ほどへ詩一つ。
10月23日
欠勤。大原君より野村正良氏の電話二回と。建来る。小湊へ実習にゆきゐしと。徴兵延期なくなりしと。夜、筒井と花(※花札)。
10月24日(日)
9:00より防空演習。ゆき子出る。下痢なほる。煙草またまた飢饉なり。筒井にもらふ。
10月25日
出勤。野村正良氏に電話せしも留守。16:30帰宅すれば筒井に教育召集来りしと。「ぴのちお」にて送別の会食。後始末のこと引受く。柏井昇も満洲より帰国かなはず婚礼延期と。
21:30筒井また来り第二補充兵に編入の礼状下付のことと判明、帰阪取止むと、バカらし。
10月26日
松田明(※コギト同人)、明日かあさって来訪の由。けふ研究所皆出席也。〒田代継男へ。散髪、夜、筒井と花。出勤の途、赤川に寄り「西和辞典」購ふ。
10月27日
朝だるくてたまらず欠勤。松田来らず、筒井と夜ハナ。
10月28日
出勤。大原君、研究所へMP(※憲兵)たづね来りし由、抗日文書に和田久誌君もその名のれりと、詳細不明。今月より昇給スラトス・ドア・プルとなる(※不詳)。松田電話。
17:00新宿にてあひ、すしを阿佐ヶ谷にて食ひしのち、肥下の家へゆく。コギト六〇ポンド、三二頁なら三〇〇部と。中河与一氏より(※文芸世紀と)合併如何と。
二十九日出発の内。桑原武夫東北大へ助教授と。夜、眠りがたし。
10月29日
11:00出勤。渡瀬君のみ。「北ア学報」初校二十三頁のみ出る。13:00新宿駅にて筒井を待ち、14:30の塩尻行にのり17:00塩山着。塩山ホテルに一泊。
10月30日
9:00塩山発、甲府にて食をとりしのち11:30の汽車にのり下諏訪丸屋旅館に一泊。
10月31日(日)
9:50の汽車にのり15:30帰宅。留守中、伊東の詩集「春のいそぎ」着。城大学報、帝大新聞より原稿依頼。帰途、荻窪にて江口三五に会ふ。
11月1日
9:30出勤。このごろ煙草キキンなり。白鳥先生と三四ヶ月振りにて会ふ。けふより女事務員松沢嬢来るがため也。民族の件の主任を命ぜらる。北亜学報三号の原稿も集めよと也。
赤羽君より電話、明日訪ねることとす。帰途、赤川氏に寄り「主婦の友」を入手。
11月2日
9:30出勤。15:30帝大にゆき言語学研究室より凌純声の本とり来る。赤羽氏を訪ね、喫茶。中河与一、亀井勝一郎など(※大東塾の野村辰夫らに)
撲られしと。
11月3日
明治節。史にコプラ菓子配給。村上嘉實「陶淵明」購ふ。楊井克己訳の「新疆紀遊」贈らる。岐阜の本多喜久子嬢より松茸一籠贈らる。
11月4日
9:30出勤。村上(※正二)君来りしゆゑ毎日出勤すべしと云ふ。千葉嬢より電話二三日中に訪ぬと也。石田幹之助氏よりも電話。史、扁桃腺炎。佐藤春夫「支那文学選」購ひ帰りしによまず。
11月5日
カワレスキー(※Kowalewski)の蒙古語辞典を研究所で購入。千葉嬢来る。周作の裔にして、立原道造の翠軒杏所の子孫なることは疑はしといひて系図贈る。
夜、筒井久しぶりに来り花。赤羽君より慰め。
11月6日
10:00出勤。研究所も防空準備すべしと。民研は国立の商大へと。本多嬢に「風立ちぬ」と「旅人椰子」を贈りて返礼とす。
11月7日(日)
無為。昇来りて連絡船の苦を云ふ。空家を伊藤に貸すやも知れずと。玉子女史の言。
11月8日
11:00出勤。眠し。三好達治氏に「陶淵明」贈る。新潮しめ切となりて断る。
11月9日
欠勤。文芸より今年中の傑作を問はれ大木惇夫を以て答ふ。夕方入湯。夜、筒井と花。
11月10日
欠勤。無為。本多喜久子氏より〒。
11月11日
羽田けふ上京。会ひたしと。夜、大垣君来訪。結婚談順調と。
11月12日
池内先生宅の羽田に電話せしに明日回教談話会のため上京と。研究所、構内のアメリカ研究所と交換を云はる。梓四十九日。佐藤春夫「山田長政」購入。夜、筒井とビールのむ。
11月13日
出勤。浅野君来り、北亜学報三号の原稿のこと話す。午後羽田と外務省にて会ふ。竹内の天方典麗の話きき、民研にゆき川久保と連絡。岩村、佐口(※透)と会ひしも具合悪し。
17:00円タクにて帝大にゆき松本と四人にて鉢の木に会食。20:00ごろ散会。石浜先生奥さんよりの話にて、田中神経衰弱らしと云はれをる由。帰宅
「李太白」出版延期とのこと。
11月14日(日)
15:00川久保の許へ香奠返しにフロシキもちゆき、帰宅すれば筒井来る。共に荻窪に散歩。田村春雄十月二十日結婚の由〒。五日以来四次に亘りブーゲンビル島航空戦。
11月15日
出勤。下痢の気味なり。二十四史の会あり。18:00玉子叔母、夕飯に招く。不承にてゆきたり。十八日去京と。新京へ一家移転なり。ゆき子呼びに来りて帰れば堀口太平君来訪しゐる。
静岡県富士宮より所要ありて帰京と。筒井来りて花、疲る。
11月16日
出勤の途、外村茂氏(※外村繁)に会ふ。中谷孝雄ニューギニア方面にある由。けふより研究所に三村君勤むることとなる。14:30白鳥先生来らる。
11月17日
出勤。夜、筒井来れど会はず。第五次ブーゲンビル島航空戦発表。
11月18日
白鳥芳郎君結婚披露、二十五日上野精養軒でと。大原君と祝物につき相談す。本多嬢より柿一箱来る。(※この日の写真あり。)
11月19日
白鳥家への祝物の件につき紛々。けふ増田晃君の公葬。研究室助手、泉康順君来ての話に前田直典君、松葉杖にて研究室へ来しと。
11月20日
白鳥家への祝物20.00を大原、渡瀬君に渡してたのむ、鎌田君止めたしと。午後三越にゆき(※青木)陽生に会へば、河野岑夫応召と(帰宅父より〒之を報ず。
長男の名登夫と)、子の出産祝の品25.00を調へたり。15.00と衣料切符四十五点負担のこととす。
11月21日(日)
〒なし。千草来りビール二本と金、衣料切符をもち帰る。丸山佶、漢日領事と。
11月22日
防空演習日。白鳥家への祝に漆器買ひしと。
11月23日
新嘗祭。終日家居。
11月24日
出勤。無為。竹内より電話、杉浦(※正一郎)上京につき明日16:00学士会館へと。肥下にも速達す。
11月25日
出勤。15:00より学士会館にゆき、16:30杉浦来る。竹内、肥下と四人にて夕食。我殆ど物言はず。田辺東司君、既に七月帰還。都廰に勤むと。
11月26日
防空演習休み、14:00より上野精養軒にゆき白鳥芳郎君と(建畠)房子氏との披露宴に列す。市村、池内、加藤、和田諸先生、跡見女史、北村西望氏など列席。
帰れば大崎實より電報来をり、会ひたしと。「蒙古法の根本原理」「北京案内記」購入。
11月27日
防空訓練。大崎に連絡せんと電話せしにゐず。〒父。「交通東亜」の北條誠氏(元月刊中山同人)より詩一を十二月十日までにと。
11月28日(日)
無為。大崎よりハガキ。十月帰国、東京詰めと。「少女の友」より20.00。
11月29日
大崎に連絡とりしに午来よと。白鳥和田二家何れも次男君出征とて餞別の話あり。台銀を訪ね、大崎君と丸ビルにて喫茶、昼食。交通東亜を訪ねしに北條君留守。
毎日に田代継男を訪ぬれば、長野県へ出張中と。帰途、赤川氏を訪ね夕食。夜、赤川氏来りてボロ本67.50で引取る。出勤の途、亀井勝一郎に会ひしに中谷、蓮田出征のこと実なり。
けふ見しニュース(※リンク)にケダー州の秦移譲、民泣き助川州長官も泣く。
11月30日
出勤。昨日、白鳥先生来られしと。柴田裕君より電話ありたりと。14:00和田先生邸へ御餞別もちゆく。帰途、稲葉岩吉「満洲発達史」「満洲国史通論」服部宇之吉「清国通考」二冊、
「本草和名」民研十一月号購ふ。依子、朝より発熱臥床。
12月1日
発熱臥床。南医師の来診乞ひしに扁桃腺炎と。丸三郎夫人来訪。十月応召、いま広東方面と。柿呉る。この日熱四〇度終日うとうとす。
12月2日
同じ。12月3日
下熱。
12月4日
無熱。けふは研究所の引越しなれど欠勤す。
12月5日(日)
無熱。中野清見を訪ね、帰れば大垣国司君来訪。疲れてだるし。ブーゲンビル第六次航空戦発表。
12月6日
定期を買ふ。五号館の新しき所にゆき整理にすごす。石田氏の校正未だ来らず。和田先生次男入営。白鳥先生二男は即日帰郷と。夜、筒井とハナ。マーシャル島航空戦発表。
12月7日
雨、欠勤。「西太后」訳す。
12月8日
出勤。中野駅にて防空訓練に会ふ。新所寒冷なればすぐ帰宅。
12月9日
出勤前「交通東亜」に詩を送る「南を懐ふ」。稲葉岩吉「光海君時代の満鮮関係」と鳥山喜一「支那・支那人」購ふ。午後、石田幹之助氏のところへ校正とりにゆく。
桑田六郎氏博士となる由。夜、筒井と花。
12月10日
13:00白鳥先生来られ「歴史上より見たる民族の特性」に対する大東亜省の希望、印刷物渡さる。今夜は筒井来ず。
12月11日
石田先生来られず。〒羽田明へ。東中野に下車、「満洲夜話」購ひしに重複なり。
12月12日(日)
松井保治氏来訪。川久保来り対満の二五〇円呉る。建来り二十五日に学校すむと帰阪と。野本憲兵来り、十五日地方へ出ると。夕食出して帰らす。河野岑夫より挨拶。
12月13日
出勤。石田先生風邪と。大東亜省の注意。三上、渡辺、手塚、島田雄次郎、市古の五君に送る辞令一月十日。大崎に電話す、今週末に会ふと。
12月14日
出勤。事なし。「少国民文化」二月号より依頼(二十日まで)。
12月15日
出勤。赤羽君より電話、明日共に長与善郎氏を訪はんと。
12月16日
出勤。校正一寸やりしのみ。15:00日本評論社にゆく。「李太白」は一月か三月と。総合雑誌にてのこるは公論、文芸春秋、改造と。長与氏を訪ねて話きく。蘇東坡書くと。
正月、露伴翁と李・杜・王維・芭蕉につき座談と。18:00辞去(甥岩永氏はクアラルンプールにをり、今年人心険悪なりしと)(先日石田先生と会あり、中
国文化協議会とか、
周作人文化部長はよけれど東京の代表者矢代奉雄。加藤繁先生の話あり)。帰宅。増田晃追悼の「狼煙」来る。伊東静雄より我の詩を愛せし也。
12月17日
出勤。用なし。13:00池袋にてラム「帖木児(※チムール)」岩波文庫「護持院原の敵討」買ひ、本郷にゆき文学部事務室の児玉氏に謝礼三〇円わたし、服
部四郎氏に北亜学報三号の原稿たのむ。
柴田君より「清朝実録」と「清文虚字指南編」返却を受く。我自らは忘れゐし也。佐口の仲言にて蒙古辞典中止となりゐる由。本郷を散歩。「台湾の蕃族」購ふ。
17:00より東洋史談話会。加藤先生のみ。和田君と帰る。(浅野君の話つまらず。)留守中、千草、筒井来りし由。駒込の叔母またまた狂乱と。
12月18日
出勤。月給貰ふ。来週より早出当番を決め、我は月曜。13:00本郷にゆき「瀋陽日記」、神田にゆき「大唐西域記」「二十年目睹之怪現状」「蒙古風俗志」
「蒙古人の友となりて」を内山にて、
「乾隆帝伝」「黒龍江述略」「清開国史料考」を山本にて購ふ。計四十円ほどなり。(留守中、筒井久し振りに来りし由。)電車にて関口啓太郎(大高六文甲)
に会ふ。
12月19日(日)
丸の家を訪ねんとせしも本屋休みのため手土産なしとて取止む。筒井来る。小山正孝、鈴木亨来訪。史、風邪にて臥床。
12月20日
当番なる為、急ぎしも9:30すぎゆけば大原君既にあり。10:30石田幹之助氏を訪ね校正取り来り、13:00開明堂にゆき校正わたす。小学館に加毛女史を訪ね萩原全集第五冊を受取る。
岩波祐則氏来合せたり。風邪のため早く帰宅。マキン・タワラの海軍部隊四五〇〇名全滅(うち軍属一五〇〇名)。
12月21日
風邪のため欠勤せしも13:00高円寺にゆき配給の麦、傘求め、丸の諸子へ贈物の本を探せしもなし。
赤川にゆき小山松吉「名判官物語」西本白川「康煕帝伝(※康煕大帝)」幣原坦「南方文化の建設へ」購ふ。
松井君はじめて梓の話せし由。
12月22日
出勤。国際文化振興会図書室にゆき、石田氏の校正のこと了。ボーナス貰ひ、神田にゆき「蒙露日辞典」「蒙古史記」「ブリヤート蒙古民族史」「パラワン語彙」「アミ語彙」
「満洲近代史」を購ふ。これに先立ち池袋にて佐藤春夫「霧社」「随縁小記」購ふ。この五日間に読書費一〇〇円。「少国民文化」より電報にて催告。
12月23日
昨夜不眠。「少国民文化」に断りの速達す。「文学界」二月号に詩、正月八日までにと。欠勤、無為。
12月24日
徴兵年齢二十歳に低下。13:00出勤。紙出処なしと。植村清二氏より来信。平松君に電話かけ播磨氏の原稿送る。「江南春」「蕪村句集」「北アジア諸言語」購ふ。
12月25日
大正天皇祭。10:30丸の留守宅を訪ねしも留守。高円寺阿佐ヶ谷にて石原「鄭成功」「魏晋南北朝通史」「欧米における東洋史学研究」購ふ。留守中肥下来りし由にて保田「南山踏雲録」持ち来る。
午後松井保治君、赤川の使として酒一升もちゆく。けふ正月の餅突き呉る。
12月26日(日)
無為、無客、無〒。
12月27日
出勤。浅野君来てゐる。村上と当直代り一月七・八・十となる。大崎に電話かけ明日17:00台銀を訪ぬることとす。本日、丸(光子)夫人よりハガキ、本の礼状。丸よりまだ便り来ずと。
本日よりタバコ価上、1.5倍となる、禁煙せん。
12月28日
14:00出て新大久保にゆきしも見つからざりし「蒙古語四週間」神田で偶然見つかる。17:00大崎實と東京会館にて会食。うまかりし。それより銀座一平にてまた食ひしもまづし。
山手線にのりしつもりが京浜線にて蒲田までゆきて引返す。
12月29日
休暇、無為。
12月30日
平野義太郎氏より「北支村落の基礎要素としての宗族及び村廟」抜刷いただく。「新潮」より二月号に雑記十枚(一月十日まで)と。午后散髪。
12月31日
凶年尽日。筒井より帰郷したりと。も一度上京の様子なり。夕方入湯。帰りに土屋智雄氏より帰宅の加藤君に会ひ、堀辰雄夫人病気なりしと聞く。
咲耶より河野岑夫スマトラへゆくにつき様子しらせよと云ひ来る。けふより禁煙やぶる。
昭和19年
1月1日
終日家居。「北アジア諸民族に於けるレヴィレート婚について」を書き改むることとす。 (※未亡人が亡夫の兄弟と再婚する習慣)
1月2日(日)
事無し。15:30荻窪にゆき岡田謙「未開社会における家族」買ふ。
1月3日
荻窪にゆきしも駄目。14:00加毛女史「萩原全集」二冊もち来る。15:00荻窪にゆき「高砂族調査報告」三冊購ふ。
1月4日
肥下を訪ひしも棟方志功を訪れしとて留守、奥さんに餅御馳走になりて帰る。途中、長野に会ひ、つれ帰る。17:00近く帰る。
1月5日
事なし。今年になりてまた不眠つづく。
1月6日
昨夜も不眠。連続五日間なり。雪降り積みゐたり。午後、健来る。今年徴兵検査と。河野よりのかき餅、陛下の葡萄酒二瓶もち呉る。
1月7日
昨夜は一時すぎより寝し模様。12:00研究所。三村、渡瀬二氏と話す。手塚君も来る。筒井、夜来り、二月ジャワへゆくと。〒中支の亀井昇より。
1月8日
昨夜は三時すぎに寝、7:30起床。研究所日直。校正多く来る。14:30阿佐ヶ谷にて参謀本部の地図買ひ帰る。羽田より「支那周辺史」下呉る。
1月9日(日)
11:00松井保治君、11:30村上菊一郎君来訪。12:45新宿にゆき、新藤千恵氏と会ひ、15:00山本元帥の義弟三橋君と会ひ、18:00帰宅。
留守中来りし大垣国司君、18:00再来。結婚話きまりしと。21:00帰る。
1月10日
9:30出勤。明日山一書房へゆく約束す。15:30帰宅。筒井18:00に来り、21:30の汽車で帰阪と。別杯のみ。
1月11日
〒末吉、楢崎勤。12:00出勤。13:00神田山一書房へゆき、あと神田散歩。「昭南スマトラ建設戦記」「黒龍江外記」「元史譯文証補」「樺太アイヌの住居」買ふ。
1月12日
欠勤。午後、肥下を訪ね、赤川にゆき、本三冊売り、史学雑誌二冊と「蒙古事情概要」を求めて帰る。
1月13日
〒羽田、彙文堂。後者へ送金す。12:00出勤。寒し。「日出づる國と日暮るる処」買ふ。
1月14日
欠勤。〒なし。暖かければ15:00入湯。新年はじめてなり。
1月15日
12:00出勤。村上の仙台土産ほし柿食ふ。西荻窪にゆき田代継男の家たづねあてしも留守。興地先生(※興地実英)にドイツ語聞き、中原稔生君来合はす。
1月16日(日)
〒父。山田廸孝氏。10:30川久保を訪ねしも鎌倉へゆきしと。寒し。
1月17日
9:00出勤。二十四史の会に来し渡辺氏、三上氏に民族のこと云ふ。三上氏二月末、渡辺氏一月末と。川久保、和田先生ににはとりもちゆかんと。
1月18日
12:00出勤。白鳥先生来らる。民族の方を急ぐと也。夜、柏井叔母の話におつぎ伯母けふ2:00死去、狭心症と。おこう伯母と二人、神戸の勇喜一氏宅へゆくと也。
1月19日
欠勤。昼、千草来る。他に事なし。寒し。
1月20日
「交通東亜」より20.00送ると〒。雑誌は来ず。ゆき子警察へ来をもらひにゆく。これで四回目とか(※不詳)。欠勤、無事。
1月21日
欠勤、無事。みかんの配給食ひしのみ。
1月22日
11:30出勤、無事。寒し。帰途、阿佐谷へゆき松田つぎ伯母の骨を拝む。船越こせん小母来りをり。
1月23日(日)
朝よりレヴィレート書く。16:00新藤(※千恵子)嬢来訪。夜、阿佐ヶ谷にてつぎ伯母の追夜に当たる会。すし食ひて帰る。靴ずれ痛し。
1月24日
日直ゆゑ9:30出勤。16:00退出。新藤嬢より電話あり。明日会ひたしと。
1月25日
雨、欠勤。足痛く外出できず。昨年来し「東洋史研究」見本もよみ了へ、無事。
1月26日
欠勤。「交通東亜」一月号来る。詩わるくなし。夜、木村宙平大尉来訪。南京豆呉る。
1月27日
和服にて出勤すれば大原利貞君応召と。同君は庶務のこと切り廻しゐしにより困る。明後日送別会ときまる。帰途、岩村「十三世紀東西交渉史序説」、
松田・小林「乾燥アジア文化史論」購入。
1月28日
出勤。池袋にて稲葉・瀬川「紅頭嶼」購ふ。鎌田、三村君来る。渡瀬君と大原家にゆき挨拶す。帰途、大原君に邂逅。新宿にて渡瀬君と別る。
〒赤羽君より「李太白」のカヴァーに照夜白の絵を用ゐしと。
1月29日
出勤。北亜学報の校正刷持参。12:00銀座柳小路「山茶寮」にゆく。大原君の送別会なり。同級生、研究所員浅野君と総勢十三名。大原君、軍人の子なれば何ともなしと。
「星槎勝覽」「瀛涯勝覧」の原稿預る。民族の特性の原稿も預る。14:00散会。新宿の某店で渡瀬、和田君らと喫茶。渡瀬君と阿佐ヶ谷まで同行。
21:30出発を送る筈なりしも不眠のため中止す。けふ銀座近藤にて瀧川政次郎「満支史説史話」、鳥山喜一「満鮮文化史観」購ひ、池袋にて「宝物集」購ひし。
1月30日(日)
小雨、終日家居。「交通東亜」より20.00来る。
1月31日
当番。松沢女史けふより出勤。大原君、土曜の出発まぎはに学報のこと心配し手段を考へたりと。三村君にやらし。予は出版会(※日本出版会)にゆきしも熊谷孝君ゐず、
小山正孝君に会へば「四季」廃刊の由。六日堀邸に集まると。帰途、新宿紀伊国屋にてウィルキンソン「マレー語英語辞典」購ふ。
出版会にて昭森社の宮木君に遭ひしが伊藤書店と合併、「西太后」は出す由。マーシャルに敵来艦と。
2月1日
出勤。出版会より電話あり学報送付の要なしと。寒き風吹く。早く帰宅。池袋にて太田正雄「日本切支丹史鈔」を買ふ。
2月2日
出勤、無為。夜、川久保来り、雞を和田先生へもちゆくと。「民研」のため6.00わたす。「新潮」二月号来る。「スマトラ雑記」わづか三頁となる。
2月3日
雪降る。欠勤。〒末吉より。林檎四十ケ買ふ。卵五ケ配給。マーシャルのこと未だ発表なし。
2月4日
雨。欠勤。豆腐、チリ紙の配給。
2月5日
出勤。校正をし、14:00退出。赤川君の所により、「支那回教史」「蒙古3 歌史」を買ひ、原稿用紙印刷のことをたのむ。肥下の家による。「コギト」廃止の達しは来ぬ由。
17:00帰宅。本日マーシャル諸島の敵上陸はじめて発表あり。クェゼリン、ルオットの2ケ所に上陸と。
2月6日(日)
堀辰雄氏を訪ぬ。塚山(※勇三)、鈴木(※亨)、小山(※正孝)の三君も来る。吉満義彦氏来会す。津村信夫、副腎の病気にて回復覚束なしと。塚山君来り、
17:00去る。けふ「四季なきくに」を四季終刊号のため渡す。
2月7日
出勤。13:00渡瀬君と出版界へ。熊谷孝君、山田準氏、曽木氏来会し、さながら法中時代の如し。開明堂へゆきしのち、出版会へ引返し熊谷、山田二氏と学士会館にて夕食。憂鬱のかず。
2月8日
けふは悒鬱少し。民族の予定をなす。熊谷君を日曜に招待するハガキ出す。
2月9日
11:30出勤。14:00東洋文庫へゆきしも寒し。浅野忠允君と一寸話せしのち帰る。矢野仁一「満洲国歴史」購ふ。「民研」十二月号来る。「改造」四月より時局雑誌となるとの挨拶状。
2月10日
出勤。熊谷君に電話せしに日曜来ずと。14:00文庫にゆき青木富太郎に会ひしに竹内好出征と。榎、白鳥芳郎、二君に民族の原稿たのむ。帰りの電車で前田直典君に会ひし。
平松奉老、善隣協会やめて海軍軍属になりしは青木浅野二君の言、合ふ。
2月11日
紀元節。来客なし。14:00肥下を訪ひしに外出。赤川氏を問ひしに旅行。肥下今さきここへ来りし由。丸の家へゆかんとせし途中にて奥さんに会ふ。上海南原より便あり。
広東へは近々出発らし。子供を思ふ。夜直を免ぜらると。帰りて配給の菓子食ふ。肉も配給なり。
2月12日
10:00出勤。石田、三村の二君のみ。両君帰りしのち一時間ほどして帰る。けふ回教圏に電話せしに竹内応召は事実なり。夕方、健来り、ノート二冊呉る。
大は大高を受くる由。「文学界」の立野女史より速達、詩は三月号にのる由。
2月13日(日)
来客なし。ほし柿、めりけん粉入る。久し振りにて入浴。
2月14日
出勤。民族の村上、鎌田、大原三君の原稿をみる。原稿用紙の紙とりに来りしを以てわたす。帰途、和田先生に会ふ。「大分元気になりし」と云へば「まだそんなか」と云はる。
帰宅の途、赤川により「日本研究」三冊もち帰る。
2月15日
出勤。14:00渡瀬、大原、村上、鎌田の四君の原稿もち開明堂にゆく途中、出版会により届書強要して受取らしむ。開明、三月中にやる由。実績になればと。
山本にゆき「ギリヤーク語」、小島武男「蒙古語辞典」購ふ。岩村忍あり、この頃お体はいかがと。帰途の電車にて楊井克巳君に会ふ。
2月16日
帝大にゆく途中、和田先生に会ふ。服部四郎氏の原稿はだめらし。善海ゐず、文庫にゆき「盧龍塞略」見る。雪ふり寒し。夜、常会、ゆき子出る。疎開は三郎留守宅のみと。
2月17日
出勤。十五日ガスつけぱなしにして危く失火の所と。14:00学習院に渡瀬氏と白鳥先生を訪ねしも欠勤。お宅へ伺ひ色々打合せす。帰途、竹内留守宅を訪ひ隊名を訊く。
中支にあり齋藤久雄君と同じと。原宿で下りしに宮坂長安君に会ふ。前田直典君を訪ね、北亜学報の原稿もらひ、民族のを頼む。
夕刊に南北アジア(※学報)合併のこと載す。齋藤裕夫入営中病死の便あり。本位田、広東に転勤。
2月18日
出勤。寒し。トラック諸島に敵来襲。竹内、本位田に〒。
2月19日
昨夜雪降る。11:00出勤。徴用の件、大東亜省嘱託と書きて宜しきらしと。14:00、石田君と文庫へ。川久保、渡瀬二君も来会。「南方の国めぐり」「南方熱帯の植物概観」購入。
2月20日(日)
〒羽田より締切延してくれと。15:00肥下来る。コギトの原稿ことはる。
2月21日
当番、早く出勤。13:00文庫に向ふ。「スマトラ」購入。「蒙古のシヴィレート」殆ど終る。〒田中三郎、小高根二郎より。
2月22日
出勤。出版会により又々届送り返し来る。前田直典君来る。四月末までに民族のことたのむ。文庫へ行く星斌夫に会ふ。〒藤森達夫氏より転居通知。
「洪牙利語(※ハンガリー語)小辞典」買ふ。
2月23日
出勤。東洋史談話会の鎌田君の話ゆかず。〒藤森達夫氏へ。
2月24日
欠勤。雨。論文の蒙古書き了へ、ツングース半ばまで。二〇〇枚位か。
2月25日
出勤。南北亜細亜学報、情報局にては廃刊と決定と。文庫、神田にゆき「世界の言葉」、パーカー「韃靼一千年史」「タガログ語語彙」「金帳汗国史」買ふ。
ルオット、クェゼリンにて軍人四千五百名、軍属二千名全滅。大尉音羽侯爵戦死さると発表(二月六日)。
2月26日
朝刊に決戦態勢のこと出づ。試合、高級演劇禁止。官庁外郭団体の事業停止と。13:00文庫にゆき渡瀬君と会へば山本達郎氏「星槎瀛涯」の校訂本出版を計画すと。
また研究所の決戦体制につき述ぶ。15:00神田にゆき山本にて「明元清系通紀」買ふ。25.00也。夜、林敏夫来り話す。
2月27日(日)
〒楢崎勤氏よりと新潮社より二十五円と同時着。桑原・野田共訳「デカルト」来る。14:00松井保治君来り話中、三月一日まで警戒管制と。高円寺へゆきしも本なし。
留守中大垣国司君来りし由、防空壕浅しと云はる。
2月28日
当番出勤。二十四史の会取止め。ラヂオでグァム島その他へ敵来襲の発表。父より〒、大、大高、皇學館、国学院受験と。国学院のため四、五、六上京と。
2月29日
昨夜咳甚しかりし。欠勤せんと思ひしが白鳥先生との連絡のためゆきしに、明日来よと。読売新聞の柳沢三郎氏より「国民の奮起を促す」詩呉れと電話あり断る。
松本徳治氏に電話せしに原稿用紙費二十五円位と。留守中、下坂禎一君来訪と。結核のため除隊なり。
3月1日
10:00下坂君来訪。咳し痩せゐたり。軍曹となりしと。12:00ゆきしに和田君のみ。松沢女史やがて来り南京豆呉る。14:00渡瀬君来り、ともに学習院に白鳥先生を訪ぬ。
東亜民族摘要を作る計画のぶ。けふ大原君留守宅より電話、岡山に疎開と。けふ千歳書房より十四円、名詩選集の稿料と。
3月2日
春めく。12:00出勤。和田久徳氏のみ居り、疎開を兼ねて茅ヶ崎に転居し研究所も止むと。手塚君来る。「ジャワ人種考」購ふ。人種学にして買損ねなり。
3月3日
出勤。村上、鎌田君二名不快なり。「ジャワ人種考」を研究所に渡し、松枝茂夫訳「模糊集」購ふ。同盟年鑑ぬすみ見しに詩人、名簿より除かる。
3月4日
出勤。和田、石田二君と松沢嬢、昨夜大東亜民族提要の案書くため睡眠不足なり。大原君留守宅へ本もちゆく。阿佐ヶ谷にて「蒙古提要」「大黄河」購入。
3月5日(日)
大雪。昨夜「北スマトラ諸族の身体呼称」二十七枚書き、眠りしは三時頃か。覚むれば十二時前なり。「文学界」三月号来る、マキン・タラワまでしか書きをらず、
時おそきと神保を大文字にせるを見て不快なり。14:00、大、来る。明日の国史にて試験終ると。17:30帰る。「歴史上より見たる満洲族の特性」書く。
田村治雄より〒、一月応召○○にゆくと。下関よりの便りらし。
よき友はみな兵となりたたかふを思ひていかる内地のやつに
3月6日
当番出勤。大雪積りゐる。17:00すぎ大みかん二十もち来る。「北スマトラの身体呼称」のため、タガログ、アミ、パラワン三語をしらぶ。所得税申告を三一六円とす。
3月7日
大、昨夜泊まる。12:00出勤。白鳥先生来られず。西亜とメラネシヤ等ふえしため人の割合に変更す。昨夜、従軍詩歌集「南の星」の原稿半ば書き、けふ大体終る。
3月8日
出勤。14:00和田先生をお訪ねす。大原君の還せし原稿のこと、学報のことなどいろいろ伺ひを立つ。師恩のありがたさを思ひ、夜おそくまで眠れず。「身体呼称」殆ど了。
3月9日
出勤。手塚君来り「民族の特性」の原稿呉る。和田先生の「侏儒考」渡瀬君に手交。松本に電話かけしに原稿用紙月曜出来と。宮木喜久雄より電話「西太后」の原稿見せてくれと。
明日十時まで来訪と。その後失念、明日十時までに出勤を約す。帰途、ベルナツィーク「大東亜の原住民族」購ふ。良き本らし。夜、宮木君への手紙。
詩集の原稿(解説のみ未完)を書き、「身体呼称」を了ふ。四十三枚けふ数十日振りに入浴し体重を計りしに三十九キロなり。我が生涯のレコード(※最軽量)
といふ。
3月10日
10:00に出勤。(※伊藤書店)宮木君より電話あり。原稿一週間貸せ、会議には通すとなり。服部四郎氏を帝大に訪ねしに閉鎖、善海に会ひ、民族の特性たのむ。
下落合の服部邸を訪ひしに、断りのハガキ出せしと。四月か五月に入りてなら出来る由。目白の本屋にブリタニカ九版あるを見、値を問へば本棚ともに二五〇円と。
山本實彦「満鮮」買ふ。
〒父、大より。大高第一次通り国学院は止めると也。「書香」十一・十二月号来る。布村一夫君、レヴィレートに非ずスナハーチェストヴォ(※早婚慣習)と、
誤りなり。
大垣国司君、求婚して断られしらし、良き詩書きて送り来れり。本日雨。先日来の大勝利はデマなることほぼ確実。
3月11日
11:00出勤。渡瀬君、三村君、松沢嬢のみ。手塚君の原稿を校し、16:00退出。「満洲族の特性」ほぼ成案を得たり。
3月12日(日)
11:00出勤。松井保治君来訪。詩集原稿了。赤川氏へ本売りにゆきしも留守、預け置く。肥下留守中来り、同人雑誌中、残るは「文芸世紀」と「文芸日本」
の二誌と。
コギトの世紀合併断ると。けふ松井君、春夫の「一吟双涙抄」見せびらかす。「詩集」の原稿了る。
3月13日
当番にて早く出勤。白鳥先生も来られず。二十四史の会とて和田先生見え「北亜学報」三号のトップをお頼みせしに諾さる、ありがたし。二十一日満洲へ飛行機で出発、
四月初、帰来さると。帰来、歯科医にゆき民族の原稿書きしも、いま五十枚。二十二時。
3月14日
昨夜小眠、けふだるし。13:00退出。創元社にゆき原稿わたし赤川君による、十六円余。辻善之助「人物論叢」購ひ、阿佐ヶ谷駅にて本多喜久子よりの野菜さげて帰る。
歯科医にゆきしに左奥歯の神経殺すとて痛く、22:00まで苦悶。原稿書けず。民研一月号来る、つまらず。
3月15日
欠勤。民族かきつづけ中間、肥下を訪ぬ。コギト文芸世紀合併ことわりやれるだけつづける由。帰来、水田、大垣、薬師寺の原稿送り、民族かく。
3月16日
午前中、民族了、一三三枚。研究所へゆく。石田君九十枚、編輯了へし頃、白鳥先生来らる。四月一日より女子学習院出の人来ると。他へたのむ原稿一頁五円にせよと。
手塚君の入所も決まりしらし。疲労困憊す。原稿用紙月曜に石田君とりゆき呉ると。
3月17日
けふは慰労休暇とす。「レヴィレート」明日一日にて終らん。他に事なし。〒三好達治氏へ。
3月18日
出勤。雨。和田久徳君応召と。文庫へゆきしも和田先生も来られず。14:30お宅へ伺ひ奥様に御挨拶申上ぐ。昨日村役場より通知、今朝入営と。筒井護郎、
肺炎のためジャバへゆけず、大阪商船の本社勤めと〒。「レヴィレート」すむ一八六枚。夕方より雪となる。〒薬師寺へ。
3月19日(日)
13:00木村繁喜君来り、14:30帰る。リルケの詩集三冊を与ふ。もち菓子呉れし礼なり。〒筒井へ。日本評論社より印紙五千枚来る。
3月20日
8:00出宅。原稿紙のため松本徳治君を訪ひ、当番出勤。鎌田来り変なり。石田君原稿用紙とり来る。15:00大原君のところへ私物もちゆき、帰宅。
けふ臨川(※京都古書店)より「大金国志」「岑嘉州集」来る(6.50、11.80)。遼海双書三六〇円と。
3月21日
春季皇霊祭。赤川草夫氏に本16.30売る。「東洋学叢論」買ふ。健、留守中に来りゐる。大、落ちたることほぼ確実。
3月22日
出勤11:00。鎌田外一名の原稿来了。研究室へゆきキャンベルを借る。バッデリーはなし。善海を訪ひ、五月十五日までに特性たのむ。文求堂へゆき、広東語、スペイン語、馬来語、
上海語の手引買ふ。夜、キャンベル三頁ほど訳しそむ。
3月23日
出勤12:00。昨夜キャンベル四頁訳し眠れずだるし。民族の出版企画届書く。赤羽君、明日17:00来ると。法政中学にて教へし生徒三名来り話す。
(けふ出勤途、熊谷君のもとへブドウ酒一瓶もちゆく。) 〒矢口力一、松井君「一吟双涙抄」くれると。赤羽君「李太白」四月中頃出来と。和田先生、飛行機の都合にて満洲行やめられしと。
3月24日
欠勤。依子昨日より発熱。10:00赤川君、梓への供物もち呉る。けふ近くの南博士、前田医師の診断を受く。キャムベル訳し、17:00来りし赤羽君と晩餐、
放談し「李太白」の見本一冊受取る。19:30依子、熱四〇度といふに赤羽君を送り出し前田医院にゆきしに不在、南博士を迎へ熱を計れば三六度余と。服薬せしむ。
3月25日
出勤11:00。赤羽君、昨日帽子忘れゆきしに電話して月曜もちゆくこととす。和田先生に電話せしに「開元の故地と毛憐」を書かると。企劃届書く。浅野君より電話あり。
北京へゆくと。原稿置きてゆかしむ。13:50手塚君、白鳥先生、月給貰ひ編輯手数料10.00いただく。四月より手塚、前田、河原、女子四人入所と。
16:00まで北アジアのワリ付し、開明堂へゆく。「民族の特性」三十日までに見本出来をたのむ。山本にゆきルブルク、内藤湖南「清朝史通論」「支那宗教史」買ふ。
帰途人形と本とを買ふ。依子ほとんど全快らし。〒小高根二郎。
3月26日(日)
10:00松井保治君来り、佐藤春夫「一吟双涙抄」ゆづる(3.80)。昼食ののち去る。〒⇔荒井平次郎。國民服五十円で出来る由。臨川に9.00送り、
遼海双書注文す。
3月27日
悠紀子叱る。13:00日本評論社にゆき三〇〇円受取り、神田巌松堂にゆき大喧嘩して蕃族調査報告書取る、一五〇円。研究所にゆき村上叱り、16:00お出での和田先生に原稿御願ひし、
高円寺にてバッチエーラー「アイヌ辞典」(15.60)、ピッタール「人種学 四冊」(7.00)購ふ。中村地平、田代、佐々木の三君に詩集の序文たのむ。
3月28日
雨、欠勤。スマトラの民族をしらぶ。田村よしの〒、春雄満洲へゆきし也。研究所を止むることを和田先生に申上げんと決意す。
3月29日
12:00出勤。渡瀬君に辞職のこと云ふ。田代継男序文のこと快諾す。
3月30日
当番、創元社に電話せしに柴野君出版のことにつき伺ひたしと。四月三日来よとハガキ。渡瀬君12:30来り、文庫へゆき和田先生に辞職申上ぐ。佐々木六郎を問ひしに新婚旅行中。
平田内蔵吉を訪ひ閉口せしむ。加藤先生「支那経済史概論」「イラク史」「東部ソ領の全貌」を購ふ。
3月31日
11:00出勤。〒田代君に速達、熊谷孝に本返せと。石田君原稿呉る。14:30開明堂に民族の見本出来せしを以て石田君とゆき、別れて白鳥先生宅を問ひ
辞意申上ぐ。了解されし模様なり。
〒父より大、皇學館入学と。中村地平君、序文考慮と。千草、小田嶽夫君貸せし本送ると。だんだん事滑らかにゆく。この日鎌田君われと同歳と判明、馬鹿らし。
4月1日
9:00出所。鎌田君を除く全員来り、新しき人として河原君来る。松沢嬢、手提鞄を盗まる。文庫へゆき前田君に会ふ。和田先生来られずお宅を訪ねしに行き違ひか。けふ村上正二を叱りたり。
4月2日(日)
雨、17:00大雨を侵し田代君の家にゆきしに留守、但し序文は明日妹君にもて来さすこととしをれり、とりて帰る。けさ俊子姉、撲りて説服せしむ。創元社の柴野より明日来れずとの速達。
4月3日
神武天皇祭。昨夜停電中なりしため未完の田代君の文書を改む。10:00大垣国司君来り、聞けば六ケ月にして再応召と。大垣君の画と手紙と自己の歌集とを預け置く。
共に肥下の家にゆき論じ、「うた日記」と伴信友全集4冊と交換。20:00伊藤と肥下来る。
4月4日
9:00出勤。原稿用紙二千枚入手と。佐々木六郎氏に電話せしもいまだ欠勤。川久保より電話あり、大東亜省の金受取りしと。13:30白鳥先生来られ、名誉研究員に任ぜらる。
佐々木女史けふより出勤と。前田君に蒙語三合便覧のこと説明、わが思ふこと殆ど成る。17:30肥下宅によりしに留守。「南方随筆」購ふ。比島の薬師寺君より〒。
川久保、夜来り二〇〇円もち呉る、脅かして帰らす。
4月5日
12:30出勤。「ツラン民族圏」購ふ。原稿用紙二千枚20.00、研究所の南北叢書として二十四冊を考ふ。大垣国司君の恋人小松京子氏より電話。
創元社にゆき柴野君と話し田代君の跋渡す。「桎梏の印度」購ふ。18:00小松氏来り、大垣君昨日家を訪ね、話解消を申込みしと。美くし。
(南)
瀛涯勝覧(全員)
東西洋考
星槎勝覧
ビサヤ語辞典 (※フィリピン)
諸蕃史(白鳥)
眞臘風土記 (※カンボジア)
蕃書(全)
蘭人治下の台湾(田中)
南紹野史
嶺外代答(河原)
広東新語
島夷志略
(北)
シベリヤ遊牧民族の慣習(村上)
吉林外記
柳辺紀略(田中)
三合便覧(前田)
異域録(カマ田)
松漠紀聞
西伯利(※シベリア)東偏紀要
瀋陽日記
(支)
五雑俎(三村)
清俗紀聞(三村)
4月6日
13:00出勤。途中、芙蓉堂にて「中央アジアの過去と現在」「陽高県漢墓」を購ふ。訳著のこと夫こにはなし。北アジア学報の企画届送る。松沢嬢に「マレイとマレイ群島」
「シンガポールの光」を佐々木嬢に一六二〇年日本語辞典のこと命ず。佐々木六郎に電話せしに書く由。田代継男より〒二。一には矢加部勝美スラバヤより送る砂糖にて会せんと。
ゆき子の腎盂炎大したことなからん。〒三好達治氏へ、創元社へ斡旋の礼(※「南の星」出版につき)。
4月7日
10:00出勤。三村君に五雑俎、村上君に慣習法、鎌田君に異域録借す。昨夜、三時間ほど寝しのみにて倦し。15:00和田先生をお訪ねし、亜細亜叢書の件お話す。
先生「君、右傾したね。」と。帰途、實藤(※惠秀)「明治日支文化交渉」購ふ。養徳社より「神軍」三版の〒。
地平氏より原稿承諾、二十日頃疎開と。俊子姉、岐阜より帰り来り、八日疎開と。
4月8日
9:30出勤。佐々木嬢に「西班牙語会話」貸し、ほぼ叢書の計画成る。手塚君点呼演習の為、月曜の当番代る。「スマトラの民族」未だ終らず。
4月9日(日)
雨、午前中三分刈りにす。大より「海原」送り来る。咲耶、五月節句に何かと。「南の星」に追加の二編書く。大垣へハガキ。
15:30肥下を訪ね、コギト同人脱退、絶交のこと申渡す。20:00肥下来りしも、語、塞がりて帰る。夜23:00馬来スマトラの民族提要了る。
4月10日
手塚君に代りて当番す。村上に熊谷、武田氏への紹介書く。和田先生より電話、御原稿出来し由。浅野君よりも原稿来る。「馬来スマトラの民族」渡す。四〇枚足らず也。
14:00退去。〒竹内母上、父。赤羽君、明日ビールのみに来ると。
4月11日
12:00出勤。楊井克巳君来訪。14:00より瀛涯勝覧の読合せ会、終りて北亜の割付。17:30赤羽君来りビールのます。川相常五郎先生より来信、浪中にて山本重武君と話合へる由。
岩切房吉、日向の青島にあって何か送らんと。けふは吉日?
4月12日
11:00出勤。佐々木六郎に電話せしに速達にて送ると。北亜の割付終り、開明堂へと渡瀬君に託す。早寝。
4月13日
雨、終日家居。民族書く。しるこ食ふ。臨川より遼海叢書前金でと。反駁のハガキ書く、可嗤。
4月14日
11:00出勤。本宮清見より電話、山形へ召集と。瀛涯勝覧、読合せしのち銀座松坂屋五階の産業営団へ別れにゆく、二十日入隊と。田代を訪ねしにゐず、桐山君と喫茶。
朝日で寺崎浩に会ひし。二十日より四日間、十九時より教育訓練実施と在郷分会より達しあり。
4月15日
11:00出勤まで民族書き、出勤後15:00了。白鳥先生昨日来られ出版のこと考へてをくとの由、バカらし。手塚、渡瀬二君に後事たのみ、荷物の整理了へて帰る。
和田賀代女史に道で会ひしゆゑ歯のこと伝言たのみおく。丸光子氏よりハガキ。けふ手塚君より聞けば松岡中尉帰還しゐると。〒松岡氏ハ丸光子氏。
4月16日(日)
赤羽氏より手紙と「ラッフルズ」、養徳社の喜田聿衛氏よりあとがきをと。十四枚書く。11:00松井保治氏来る。「奉公詩集」見しとのことに共に高円寺にゆく。
赤川氏に一寸寄り帰還。小葉田淳「日本と南支那」春夫「日本文学選」「奉公詩集」買ふ。〒赤羽氏へ礼。
4月17日
13:00日本歯科へゆく。林教授に見られ歯を磨かぬからと叱らる。山本へゆき「亜細亜横断記」「満洲国境問題」買ふ。神田にてオランダ語スペイン語「四週間」買ひ、
朝日にゆき佐々木六郎に跋文たのむ。大本営で検閲のためと。
4月18日
11:50研究所にゆき、昼飯後「瀛涯勝覧」を読む。「諸民族の特性」一出来。15:30白鳥先生来られ、鎌田君を嘱託に変ふと。17:00すぎまで居られ空腹耐へ難し。
けふ「馬来編年史」購入。出勤前堀辰雄氏の許へ見舞にミルク一缶もち行きたり。史、南博士に相談せしに休学の必要もなからんと。
〒羽田、肥下、佐々木六郎へ。「東洋史研究」八の五・六来る。
4月19日
雨、終日家居。父より大に祝として衣料切符呉れよと。馬来に移入せる文物を言語上より見んとの志起る。大塚訓導に史の鍛練こらへられたしとの手紙書き、明日より登校せしむることとす。
〒羽田へ。明実録抄の事たのむ。
4月20日
9:30赤川氏に本20.00売り、10:30日本歯科にゆき北園克衞に会ひ、林教授より施術、次回は二十五日十四時に来よと。小学館に賀毛(加毛)女史訪ねしに辞職と。
朔太郎全集一冊とり、開明堂に寄り中村地平君を訪ぬ。女子生まれ、弓子と名付けし由。跋文日向に帰りてのち送ると。神保は君の弁護してゐたと井伏云ひ居ると、ウソ吐け。
帰りに井の頭線にて榎君に会ひ、前田君を訪ね「島夷志略」借り、葡萄酒飲みて帰り、夕食後直ちに郷軍の訓練、22:00まで。松岡中尉より〒。スマトラ同じく恋しと也。
浅井中尉も帰れりと。
4月21日
〒浅井中尉、彙文堂、父へ。11:30研究所へゆく。「瀛涯勝覧」読合せ。山本にて「三雲籌俎考」を買ひ、他にて「蒙古土産」購ふ。夜、健来る。〒大より。
4月22日
〒加毛稲子氏へ。昼すぎ散歩にゆき阿佐ヶ谷の本屋で岩波文庫「日本書紀」見つけ買はんとせしに抱き合せと。叱りつけたれど買はず。
古本屋にてジョンストン「禁苑の黎明」買ふ。語訳だらけなり。船越耐をも説教す。左奥歯痛し。
4月23日(日)
〒歴史学研究へ脱会、前田直典、西島大へ。9:00散歩かたがた堀氏見舞にゆく、少し良き由なれど寝たきり也、加藤君奥さんと話す。午後、蓬つみにゆく。
岩切房吉より雑魚と干切送り来る。
4月24日
〒岩切へ礼、三好氏へ礼。9:00佐々木六郎を訪ね、跋たのむ。10:30左大臼歯とその隣と抜く。北園と話もす。午后荻窪にて春夫「マルコポーロと少年達」買ふ。
15:00柴野君来り「南の星」岩波型にて一三〇頁位と。田中健助の長女離縁と。20:00大垣国司君来り、意外にも内地勤務と。
小松京子嬢との結婚すすむ(※勧む)。赤川氏来り、雑誌と「志賀重昂全集」ともちゆき貰ふ。
4月25日
靖国神社御親拝の日、皇居外より拝む。(行く道にて赤川に寄り三五円受け取る。)携帯入替の後、洋服店にゆきしも留守。「棠陽比事」「東西交通史論叢」
「福建市舶提擧司志」「日本一鑑」「東印度地方の言語の実際」購ひ「清代通史」の中、予約す、三十五円と。開明堂にゆきしに校正四十八頁まで送りしと。〒
岩切、浅井中尉会ひたしと。
4月26日
9:30日歯にゆき待つこと長し。山本へゆき「清代通史」中と鴛淵「蒙和辞典」を購ひ研究所にゆく。石田、河原の二君のみ。学報発刊の命来ると。〒歴研より一円送れと。
〒倉橋君に脱会の理由書く。
4月27日
9;30家を出、本屋にて「日本書紀」中、下買ひ、佐々木六郎氏宅に寄りしに出勤後。歯科へゆけば大体良しと。月曜まで休みなり。国民服の寸法とり桐山君を訪ねしに出勤後。
東京師団にゆき浅井正男中尉にあふ。森岡少佐は墜死と。地下鉄の少女怒鳴り、前田君を訪ね、研究所にゆけば皆々会議中。「南方熱帯の植物景観」再購入。
「蘭領東印度詳図」購ひ三村君と帰る。熊谷君宅に寄り、保田の本四冊もち帰る。けふ白鳥先生、渡瀬君に「李太白」着きし様子なり。父より〒。
京都岩倉に疎開と。丸光子、前田直典より〒。
4月28日
雨、家居。〒和田先生より「李白」の誤り三ケ処指摘いただく。父、五月半京都に疎開と。〒父へ。19:00健来り、小湊の鰯もち来て泊る。「三朝遼事実録」着く。三〇円也。
4月29日
天長節、飛行機多く飛ぶ。荻窪に散歩し帰れば松井君在り。〒桑原武夫、田代継男、咲耶、桐山眞。
4月30日(日)
9:00堀辰雄氏を見舞にゆきしにまた悪しと。〒大より「姓氏録考証」の坂上氏の部の写し。東洋史は内田吟風らし。羽田、浅井中尉。昼、雷雨、来客なく退屈す。
5月1日
〒父、山田新之輔。けふより都電乗換なしとなる。14:00歯科医専へゆき右上臼歯抜かる。神田より日本評論社にゆきしに赤羽君ゐず。帰途森本忠氏に会ひ話す。
帰れば父より「みをつくし」「即興詩人」と従軍歌集着きゐる。けふ彙文へ三一円送る。
5月2日
〒五十嵐、谷川新之輔、本多喜久子、岩切房吉等。13:30歯専にゆき北園克衛より「風土」貰ふ。赤羽君に電話せしにけふもゐず。中河与一より〒、浅野晃らに執筆禁止と。
〒谷川、新藤千恵子、桐山眞。
5月3日
養徳社より「神軍」三版延期と。13:30歯専にゆく。外科はあと一二回
と。帰途研究所にゆきしに「南亜学報」三号はだめと。
赤羽君に電話す。17:00赤羽君来訪、ビールのます。「李太白」八冊来る。土岐善麿氏もほめをられし由。けふ往路「書きくだし続十八史略」買ふ。〒養徳社へ「神軍」絶版を申し出づ。
5月4日
8:30佐々木六郎氏を起し、跋文たのみ「李太白」一冊与ふ。矢加部勝美君帰還と。歯専にゆく、明日休み土曜一回にて外科終るらし。出版会にゆき武田泰淳氏呼出す。
小山正孝にも一寸会ひたり。泰淳先生相手に放談、驚かせ、「李太白」一冊与ふ。大学にゆきしに善海欠勤。三村君と研究所にて弁当食ひ文庫へゆけば村上正二来る。
和田先生来客多く16:00頃石田幹之助氏の来合せらしところをとらへ学報廃刊の由報告。帰途、丹波鴻一郎宅に寄り、フラウに挨拶、二児となりしと。〒三好達治、福井へ疎開と。
けふ研究所の「日西辞書」はロドリゲスの「日葡辞書」の訳のこと判定。「東朝実録」を抜書す。
5月5日
朝、雨。〒赤羽尚志より権威を借るなと、バカを云へと返信。岩切房吉へ地平さん紹介。地平、大に「李太白」送る。赤川を訪ねしに十日まで米食ひに田舎へと。
夕方森本忠氏を訪ねんとせしも家不明。みくに出版社の野長瀬正夫君に出版計画につき問合す。赤羽より長与善郎氏のハガキ回送、中央線に疎開と。
5月6日
8:30熊谷孝君を訪ね「李太白」贈る。出版会止めセレベスにゆかんと云ふに止む。歯専にゆく、外科終る。山本に寄り「李太白」聞きしに売切れらし。
東研(※東亜研究所)にゆき青木富太郎君に会ひバイブル返してもらひ、「洪秀全」貰ふ。楊井克巳この間の話にて田中・神保昂しと云ひをる由。12:30帰宅。
けふ〒佐々木六郎、ミス佐々木へ。創元社より「南の星」やはり四大と(※不詳)。企劃届用紙送り来る。他に小山正孝、善海。善海は弟死亡のため四日神戸へゆきしらし。
5月7日(日)
快晴。〒野田又夫より。〒松本善海へ。午後高円寺の松井保治君を訪ね「海原にありて」を返却、コーヒー御馳走になる。村上菊一郎君宅によりしも留守。
5月8日
9:30創元社にゆき柴野君に企劃届わたす。一三〇頁位と。けふより歯の清備。パン食ひて帰宅。〒赤羽、出版社の一店員なりと恨む。
養徳社より三版中止認め次の詩集をと、バカも休み休み云へ。昼寝。
5月9日
〒なし。柴野君に内容紹介文送る。12:00文庫へゆき李朝実録見る。15:00退出。19:30健来る、静岡県吉田にゆきゐしと。
5月10日
〒研究所の佐々木氏より。14:00文庫、「李朝実録」見、16:00よりの白鳥先生の話聞かず、石田君に聞けば研究所相変らずスローモーション。
5月11日
〒彙文堂より[●]円受取りたれど内金と。聞合せ書く。税務署へ315円の申告を再びす。野長瀬より「田村丸」一万部は取止めと。14:00文庫、和田先生と一寸お話し、帰途白鳥先生に会ふ。
帰れば桐山君より電報、写真出来と。
5月12日
伊東(※静雄)、弟ビルマより帰還と。大垣君、詩のことわかりしと。12:00すぎ家を出、和田先生を訪ね久徳君のタガログ語とスペイン語の本おことづけし、
研究所の出版のことにつきお願ひす。15:00お暇まし、毎日新聞へゆき桐山君よりスマトラの写真もらひ田代継男に会ふ。十五日またまた北支中支へゆくと。
桐山君におじや御馳走となり御茶の水にて別る。
5月13日
〒伊藤佐喜雄。文芸世紀より楠公を頌ふ詩と。12:00大学にゆきしも善海居らず、和田先生に研究室でお会ひし、バッデリー二冊一万六千円と聞く。文庫にゆけば高橋君来居り。
15:00大学へ引返し、加藤繁先生の仇英「清明上河図」についてのお話聞く。比島地図、和田先生に差し上げ帰る。〒伊藤と桐山君へ。
5月14日(日)
健来る。13:00大垣君来る。ともに外出。堀辰雄氏を見舞ひしに大分良しと。赤川の近くにて大垣君と別れ、赤川店にゆき大川周明「米英東亜侵略史」
「ジャバの生活文化」「東辺道」「龍江省」等買ふ。その前芙蓉堂にゆき岩波文庫「源平盛衰記」を買はんとせしに抱き合せよと、叱れども聞かず。村上菊一郎を訪ねしに留守。
外務省に非ず大東亜省と。岡山伯母(※かう)を訪ねて帰宅。
けふ桑原武夫「回想の山々」贈らる。〒桑原、前田へ。前田は白鳥先生より三合便覧のカード佐口より取返すこと田中にたのめと云はれし由にて、断り書く。
12:30宮城君来りて「西太后」の原稿返しテキストももちゆく。伊藤書店やめしと、詮方なし。
5月15日
〒山田廸孝。13:00大学へゆきキャムベル一応返してまた借出し善海に会って話す。帰途、岡田謙「未開社会の研究」買ひゐしに堀氏の義弟加藤君に会ひお茶水まで同行、
電車中にては松沢嬢と乗合す。帰りて〒伊東静雄。中河与一氏に文芸世紀脱退を届く。〒桑原武夫へ、本の礼状なり。
5月16日
〒大垣。肥下十八日コギトの会と。東研へゆき青木富太郎に満文の訳わたす。佐口、蒙研の「蒙古大観」の仕事すと。歯専へゆき林教授の手当受け、歯の美しくなりしに自ら驚く。
砂糖一斤をお贈りす。文庫にゆき三十分ほど「李朝実録」、前田直典と帰る。佐口の白鳥先生への不平は大原君を通じて三合便覧のこと断られしと、名を貰へぬことのためなりと。
川久保けふ来をりしも話さず。夜、早寝。
5月17日
堀口太平君、北支にありと、軍属か。時々雨のため文庫へゆかず。午后荻窪へ散歩し北町一郎を訪ねんとせしに千葉へ移りしと。
5月18日
〒手塚君。13:00研究所へ寄りしにピクニック、食ふ会のことのみ。大崎より電話、昭南へまた行くとのことに土曜の会食を約す。文庫へゆき榎君に会ひ和田先生とお話す、
「君、右傾したね」と。古野清人「東亜の宗教(※大東亜の宗教文化)」真淵「国意考」購ふ。
5月19日
雨、家居。〒大、堀口太平。大、脚気にて帰阪しをりしと。内田吟風に教はれるらし。堀口太平は詩を作りどこかへのせて呉れと也。〒大へのみ。
5月20日
〒父より。衣料切符一一〇点欲しと。北村英雄叔父五月一日死、全田鶴枝氏も逝去と。二十八日京へ疎開と。大よりやはり内田吟風に習ふと。松岡正二氏。
12:00文庫へ赴き、川久保来り会せしを以て絶交申渡す。三越へゆきスマトラの地図二枚買ふ。大崎に会ひ美川きよの南方見聞記(※「南ノ旅カラ」)やり、聞けばアンボイナ行と。
別れて帰れば警戒警報発令。
5月21日(日)
細雨。〒坪井より「大和案内記」。天川勇司、満洲より中支へ転進。信州の某君より「大陸遠望」に署名をと。
夫々にハガキ書く。午后雨やむ。けふも警報続行。
5月22日
晴、〒なし。午后散歩にゆき荻窪にて「泰語」「アンナン語」徳富蘆花「聖地巡礼」買ひ、堀辰雄氏を見舞ふ、大分宜しき模様。15:00頃、警報解除。
一昨日と昨日と米機南鳥島に来りしゆゑ也。食後、阿佐ヶ谷にゆく、礼二〇円位が宜しからんと。井上紅梅「西門慶」買ふ。けふ弓子、南博士の診断では扁桃腺炎と
5月23日
〒小高根二郎「李太白」受取りし由、桐山眞君応召と。14:00歯科にゆき二〇円渡す。まだ抜くべきもの一本ありと。15:30赤坂見附にゆき桐山君を訪ねしに毎日社へと。
家で待ち16:00頃帰りしと話す。武生連隊に入る。三ヶ月らしと。六月一日入隊と。二十六日夕に別れにゆくを約す。ともに家を出、有楽町にて別れ帰れば父来をり、年寄りの愚痴。
京に疎開はよけれど大阪へ通勤すと也。大の病気は食物不足からと。三合の酒に酔ひて眠れり。健、来りしを以て話す。
5月24日
創元社より〒初校出そろふと。父10:00去る。朔太郎全集二冊来り完結。13:00創元社にゆく前に佐々木六三郎の家へ一寸寄り、同社にゆきしに無人。
明日13:00再訪を云ひおく。開明堂によりしに学報南北とも明后日位に出来と。民族3の原稿昨日出しと。文庫にゆき15:00退出。数男より電報、岡田某女の写真気に入りし様子。
5月25日
〒中村地平跋文の拒絶。信州の西沢君より謝り状。11:00千草来りしは酒二合貰ひにらし。12:30家を出、創元社にて校正もらひ、山本にゆき満洲地図買ひ、
外務省にゆきしに稲垣太郎氏永く欠勤と。朝日にゆきしに佐々木六三郎居留守をつかふ。福永英ヱ門を呼出し外務省への紹介たのむ。帰途、赤川氏に寄り「蕃
族」「中央アジア史」
「蒙古の理想」借りる、九円と。明後日来てくれる由。夜、本の整理をなす。
5月26日
〒なし。14:00文庫へゆき、15:30京橋から銀座へ歩く、「ソ聯地図」買ふ。17:00桐山眞(たかし)君の歓送会にゆき18:30退出。帰宅すれば隣組の齋藤武夫君も応召と。
挨拶にゆきしに佐賀へ来月二十日すぎに入隊と。
5月27日
雨、外出せず。創元社へ校正とあとがき送る。〒父、大、末吉、信州の某君、本着きしと。
5月28日(日)
〒なし。9:30赤川氏来り、本60.00にて買ふ。差し引き51.00なり。つづいて松井保治氏来り、ともに阿佐ヶ谷、高円寺の本屋にゆき愚本を六七冊買ふ、計10.00。
14:30村上菊一郎君を訪ひ外務省への紹介状貰ふ。映画配給社へ代り成田節男と同席と。
5月29日
9:00和田賀代女史来り、某女専の英語教師とて履歴書かかさる。室拍子(※不詳)のこと也。14:00研究所にゆき南北学報もらひて帰る。和田久徳君横浜にて待期中と。
帰途「北支のシャーマニズム」「十訓抄」「明治の御宇」購ふ。
5月30日
11:00家を出。銀座三越にゆき「大東亜地図帳」買はんとせしも好くなければ止め、村田治郎「満洲の史蹟」「南蒙の樹木図説」「満洲地名考」購ふ。
外務省にゆき村上君の紹介にて足立君に会ひ、そのまた紹介にて電信課第二室へゆき岡田尚子嬢のこと聞く。良なり。歯専にゆき昼飯ぬきにて困憊して帰る。
5月31日
〒父。二十八日に予定通り京都へ転居と。大垣君、神田佐久間町に大垣君の親戚(歯科医と)を見付けたりと。13:00研究所へゆきしも校正来り居らず、文庫へゆけば白鳥令息応召と。
けふまた本買ふ「南方民族の生態」「満洲史話」。
6月1日
〒父より、本籍移転は待てと。召集通報人を住吉区墨江中一ノ八三 柏原まん氏と決めし由。3:30文庫にゆきしに石田君、羽田の校正もち来りし。
和田先生に一寸お会ひして聞けば、久徳君まだこちらにありと。学報2号ほめられしにクサりて早々帰宅。
6月2日
〒昭南の宣伝班にゐし木下忍君(撮影班)、石川県よりまたビルマへゆくゆゑ手紙ことづけよと、西沢繁夫君へのハガキたのむ。丸三郎より。日本詩なる雑誌、
宝文館より出るらし。
第一号に詩を、と、拒む。13:30文庫へゆく。帰りに開明堂へ羽田校正もちゆく。「奉天と遼陽」買ふ、愚著。
「カバトン(※東印度諸島誌)」30.00「台湾文化志」12.50見て欲しと思ひし。プールジャー(※歴史学者・不詳)一五〇円也。
6月3日
〒富山房の東洋史辞典より原稿依頼、返事書く。13:00文庫、石田来りしも何も云はず。柴田君とらへ三合便覧のこと聞きしに佐口のカードもとれし模様。
丹波君の家へ寄れば某会社の社長らし。第二第四の土曜が休みと。研究所の移転地として狙はれしは丹波の家らし、可嗤。帰途新宿駅にてカバトンの訳売りゐるを見、
赤川氏に寄りて地平の「マライの人たち」売りとりにゆく。赤川氏徴用来しと。帰りて父と中野清見留守宅とにハガキ書く。柏井母来りて明日の数男のための見合のこと云ふ。
6月4日(日)
8:00赤羽家にて岡田尚子嬢、同母上との見合、こちらより母、俊子姉とわれ出席。数男に勿体なき娘なり。10:30小高根(※太郎)を問ふ、厳父去年夏逝去と。
軍属志願のこと話し「富岡鉄斎の研究」もらひ「金瓶梅」借りて帰る。けふ日本評論社より「李太白」の印刷残り八三五円余送り来る。
6月5日
〒スマトラを撮影にゆきし松本(旧田辺)良男会ひたしと、すぐ来いと返事。「日本詩」より詩いやなら支那詩の話をと、承諾す。研究所へゆき北亜学報一冊買ひ羽田に送る(4.50+〒0.48)。
村上と文庫にゆき帰りて散歩かたがた堀辰雄氏を訪ねしに元気回復、折よく東京新聞にのりし「李太白」の桑原武夫評もらひ(※日記貼付)、江口三五を訪ね、
ガクガクと話せしに致方なしと。室清、四月一日左翼関係にて検挙さると。22:00頃帰宅。
6月6日
〒木下忍君より昭南の写真など送り来る。創元社の柴野君より組のことにて(※「南の星」の版)。木下君には返事。12:00家を出、柴野君を訪ねしも外出。
歯専にゆく前、本屋を歩き「台湾文化志 上」「史学雑誌索引」「支那近世史」買ふ。「范忠貞公集」欲しかりし。歯専にてはせいてもこふ(※急いても乞ふ)こととす、
来週水曜一〇時また抜歯と。帰途、矢野長官を訪ねて忌憚なく話す。けふ山本で聞けば武田泰淳上海にゆきし由。夜、隣組常会、[●]野なる男のいやらしさに22:00となる。
6月7日
〒五十嵐達六郎氏よりベルグソンとプロクロス(※「アリストテレスの場所論」「形而上學」)。羽田、二十三日より勤務と。その中に南方へ行くやもしれず南亜学報呉れよと也。
筒井護郎、四日入隊「李太白」もちてゆくと。文庫にゆき帰れば隣組、市野に対して囂々と。夜、スマトラより帰りし田辺良男君来訪、明日13:00日映(※日本映画社)にゆくこととす。
スマトラ写真帖のこと、その後の話などす。22:00別る。稲垣浩邦ニューブリテンまで行きしと。
6月8日
〒日本詩より十二日までにと、天川より。12:00研究所へゆき南亜学報買ひしが途中「和蘭の東印度経略概史」買ふ、良き本なり。
13:30池袋駅にて田辺(松本)良男君と豊島園の日映にゆきしに田中部長すでに本社と、新橋の本社へゆき伊東すゑ男(※伊東静雄弟)を聞けば出張中、田中氏に直接当り十三日すぎに試写し見ると。
帰途、桐山君を訪ねしに留守。もの事何もかものろし。
6月9日
13:00東日(※東京日日新聞)に矢加部勝美を訪ねしに十六日頃より出社と。金沢喜雄君を訪ね、スマトラ写真帖のこと話す。その間、満鉄を訪ね、農商省に前田福太郎を訪ね、忙しかりし。
14:00平野先生を太平洋協会に訪ねしに出征の人ありて待たさる。15:50帰宅。隣組の齋藤君に送別のブドー酒としるこのませ色々述べしが聞かれず。
けふ〒岩切より、中村地平に会ひし由。
6月10日
〒牧野正雄。壮行会は主張者の細君達の反対にて取止めとなりしと。10:00家を出、太平洋協会にゆき平野氏(※平野義太郎)に会へば、清野博士(※清野謙次)に紹介するゆゑ13:00来よと。
仕方なく散歩中、松井保治君の勤務先を見付け、ともに昼飯、別れて協会に清野博士に会ふに話少し合はず落胆す。写真預け文庫にゆき帰途、丹波宅によりしに、
電話にて連絡とりをきしにゐず、入営の弟に面会にゆきしと、帰る。夜、建来り泊る。
6月11日(日)
建、演習とて早朝出づ。〒木下忍君、大垣国司君。10:00松井保治君来る。葡萄酒飲ましむ。12:30大垣君と小松嬢来る。大垣君未だ健在らし。14:00ともに出て別れ稲垣浩邦の留守宅にゆく。
ラバウルにありしも今はヒリッピンと。妹君の写真もちて帰り、夕食後松井保治君を訪ね見せ、十四日までに返事をと云ふ。村上君を訪ねしに留守、帰途、森本忠氏に会ふ。
6月12日
〒木下忍、甘利進へ。13:30より白鳥芳郎君の送別会にゆく。おはぎと赤飯となり。国際地学協会の[●]木君に電話かけしに已に止めしと。地図帖のこと聞きしに売切、今月中旬再版と。
18:00帰れば岡田嬢、養子を考慮すと。けふ民族の特性第二輯見本もらひて帰る。誤植だらけ也。
6月13日
〒父より、村田幸三郎応召しゐる由。13:00歯専にゆきしに駄目。神田にゆき「吾妻鏡 五」買ひ、白鳥芳郎君に砲兵操典買ひ、中目黒までもちゆき竹内好宅へよりし。
写真を見しに甚しく肥えたり。帰途、石田君に会ひしに和田久徳君除隊と。松井君来り見合承諾。夜、阿佐ヶ谷へゆく。碁盤一〇〇円にて頒つと。けふは齋藤武夫君出発なれど送らず。
6月14日
〒羽田、矢野昌彦、中野清見――満洲に着く。筒井の母。小高根、羽田、村田、昭南の牧野忠雄にハガキ書く。13:00太平洋教会にゆけば講演14:00からと。
日映にゆき赤羽氏に紹介され、たのむ、今より豊島園にゆき急がすと也。伊東すゑ夫未だ千葉より帰らずと。14:00サゴ椰子の話聞く、話者は馬来語大辞典の著者武富正一氏。
南方呆けの標本也。我も慄然。15:30頃ぬけ出して帰る。
6月15日
中野清見にハガキ書き、13:00文庫へゆく。前田直典来合す。13:30和田先生に久徳君除隊の挨拶申上げしにいろいろ叱らる、論文書かぬと、多方面すぎると也。
17:00稲垣家を日曜の見合ひ承諾せしむ。折柄警戒警報発令。帰れば羽田より速達あり。六月一杯勤労奉仕、七月初め来よと、好都合なり。
6月16日
9:00ラヂオにて北九州空襲さると。防空服装にて歯専にゆき四枚目の抜歯をなし、研究所にゆきしに民族の特性未だ出来ずと。
16:30松井君の家にゆき母君に日曜のこと云ひ「与謝野晶子集」買ひて帰る。サイパンに敵上陸、小笠原に来襲と。けふ〒中村地平、(※跋文のこつ)来ぬかと御挨拶なり。
6月17日
〒羽田より速達、二十三日より奉仕と。平野義太郎氏より御挨拶、難波かず子北沢に移りしと。11:00歯専にゆきしに待たさる。12:00帰宅、13:00稲垣家にゆきしに次の日曜にしてくれと。
17:00松井君を訪ねその旨云ふ。けふも警報つづく。夜より雨。〒大崎より速達、近々南方へゆく、米詩訳してくれと。可嗤事多々。平野氏へ返事書く。
6月18日(日)
〒なし。昼寝一時間。4:00散髪にゆき堀辰雄氏を訪ぬ。近日軽井沢へ疎開すと。この間警報解除。けふ中野清見に「李太白」送る。夜21:00またまた警報。
6月19日
〒彙文堂より遼海叢書五六〇円と、断り状出す。11:00歯専、関看護婦泣きゐる。研究所にゆけばこの間の会費6.70と。大原君「李太白」見たしと。夕方警報解除。
6月20日
「呉楚春秋」に何かと窪川鶴次郎氏より、多忙を口実に断る。14:00歯専にゆく。この頃校内に紛糾あるか、不機嫌にて困る。夜、雨。カロリン群島にて海戦実戦ありしと発表。
「満洲族に於ける殉死」の材料ほぼ得たり。ただ書きてもつまらぬと思ふ。
6月21日
〒木下忍、出発と。丸三郎。草野心平より「太白道」。11:00歯専にゆく。けふにて外科すみ。研究所により先日の会費わたす。「満洲の今昔」買ふ。文庫13:30−15:30まで。
夜、赤川へゆき本売り、阿佐ヶ谷にゆき「ゴビ砂漠横断記」買ひて帰れば健、来をり、ノート三冊もち来りし成り。
6月22日
〒なし、10:30歯専にゆき最後の治療了。昼飯食ふに所なく帰宅13:00、昼食。夕方阿佐ヶ谷にゆき、幸伯母に林氏への謝礼三〇円渡す。帰途松井君に会ひ家に帰りて話す。
本夜常会なれど出席せず。
6月23日
〒大、東洋史談話会二十八日、中山八郎氏の話と。桐山眞入隊の挨拶。12:00文庫へゆき清実録と李朝実録。この二日程悒せし。けふマーシャル海戦(十九、二十日)の発表あり。
6月24日
〒日本評論社より送本の代価支払へと。こはすでに天引きされしもの也。12:00家を出、文庫にゆき帰途、丹波鴻一郎を訪ひ、夕飯馳走さる。20:30帰宅。防空訓練中なり。
けふ18:00稲垣君の父来り、美津子氏化粧品にて顔腫れ明日の見合不能と。
6月25日(日)
8:00すぎ松井君を訪ね、見合延期のこと云ひ、阿佐ヶ谷にて満洲国の地図二枚買ひて帰る。〒末吉と北支の堀口太平とより。食欲多くものうし。
6月26日
〒窪川鶴次郎氏より。堀口太平へ。13:00文庫にゆき15:30退出。けふより「女眞満洲族に於ける殉死の風習」書きはじむ。
6月27日
〒田辺良男君、桐山美代子。13:00文庫、和田先生けふ満洲へ飛行機で行かれし由。16:00矢野閣下をお訪ねせしもお留守。佐々木六郎の家を訪ふ。
6月28日
〒服部正雄、水戸航空隊より、瀧川慶次郎北支で戦死と。文庫へゆきしのち東洋史談話会で中山八郎氏「清朝八旗」の話聞く、つまらず。和田久徳君に会ひし。
善海と池袋まで同行、川久保には本のことで怨むと云ひし由。帰宅夕食後川久保宅にゆき心情語る。帰れば津村秀夫氏より信夫二十七日二時五分死、三十日十四時葬儀と。
6月29日
8:30堀辰雄氏を津村信夫葬儀のことで訪ねしに二十一日より軽井沢と。矢野閣下を訪ね映画のことを報告し、昌彦東部十部隊に七日入隊と聞く。池袋へゆき扇買ひ、
民族の特性五部づつ貰ひ、昼飯食ひて文庫にゆく。デューアルドの地図写すことをもはじむ。和田先生見えしにレヴィレートのこと訊ねらる、戦局悲観論を行ふ。前田君と帰る。
〒江口三五、転居のこと、父、文芸世紀来しが脱退のこと記さず。
6月30日
〒日本詩の花村君より七月五日までにと。11:00文庫、昼食時、星斌夫と話し、13:16東京駅発の横須賀行に乗り北鎌倉下車、津村信夫の告別式に赴く。
室生、川端、茅野蕭々、佐藤信衛、丸山薫等会葬者少数。秀夫君夫妻信夫君夫人に挨拶、遺児は弥生といふらし。17:20頃別れ、雪ノ下の松岡正二君を訪ひ、
会談一時間、17:16(※不詳)の電車にて帰る。
7月1日
〒牧野忠雄君より。文芸世紀と牧野君に〒出す。13:00文庫へゆく。白鳥先生よりボーナス80石田君ことづかる。榎君に五体清文鑑のこと訊ねしに四十八部のみ刷りしと。
15:30神田へゆき連雅堂「台湾通史」湖南「支那古代史」矢野仁一「清朝末史研究」瀧川政次郎・某君「水師営史考」「范忠宣公集」購ふ、計五十五円。
帰れば日映より三日九時にネリマへと電報。田辺良男に電報打ちにゆき局員を叱る。
7月2日(日)
9:00松井君来る。話中、依子急変あっと前田医師につれゆきしに疫痢らしと。驚き豊多磨病院を頼む。昼頃より下熱。健来り、様子見ゐる中、甘利進君来りマレースマトラの話つづく、
病院車来らず。
7月3日
7:30甘利君と高円寺にて待合せ、9:00ネリマ日映にゆきしに田辺君の義父といま一人の人来り、待てども本社の人来らず。豊島園にて昼食後13:00より映写しそむ。
北三分一と南三分一にややうつり良き部分あるのみ。帰宅すれば依子10:00河北病院に入院と。柏井母、夜直。創元社柴野君より「南の星」再校送りしと。
7月4日
9:00警戒警報発令。折柄ゆき子と入れ代り病院に詰めをりし。午後「南の星」の校正をなし、夜、泊る。同室の赤痢患者ひどし。依子元気にて大腸カタルにすぎざるらし。
7月5日
河北病院と家との間を往復す。依子殆ど好しと。夕方警戒警報解除。夜、病院に泊る。
7月6日
昨夕食はせすぎらしく3:00より便通五回、、熱三八度五分となりしに驚く。〒大垣国司、夕方より六号室に移る、経過良好なる模様。けふ区役所にゆき帰途、京都に打電す。
サイパンの状況ますます悪き様子。
7月7日
朝、村上菊一郎のフラウ来りしに逢ふ。依子益々好し。〒「四季」終刊号(八十一号なり)。布村一夫君。東研の青木富太郎に電話し、明日午前中にゆくを約す。
「カラコルム」「蒙古近世史」購ふ。手塚君に電話し、校正送りくるるやうたのむ。但し状況悪く返事不明。
7月8日
けふ午前二時北九州に空襲ありしと。お蔭で防空演習なし。9:00東研にゆき青木富太郎に満文の訳わたす。依子いよいよ好し。〒保田。小高根二郎、中野清見へ。
米国日本人を二千万乃至三千万にすと放言。
7月9日(日)
午前中に帰宅。〒保田より自費出版「祝詞」来る。来客なし。16:00よりまた病院にゆく。布村一夫氏に「満洲族の特性」送る。
7月10日
八日分40:00病院に支払ふ。〒なし。本山桂川間「宮林藏大陸紀行」購ふ。夜、柏井母に宿直たのむ。帰宅すれば大垣国司君来合せをり21:00まで話す。この日疲る。
7月11日
朝より下痢、胃のためなり。〒矢野長官、昌彦君無事入隊と。父ごちゃごちゃと。午後笠原某氏の嬢と同室となり看護婦を共通とすることとし帰宅。
7月12日
〒民研二冊。暑きため外出せず。15:30赤川氏にゆき、本10.00売り、宮武正道「馬日辞典(※コンサイス馬來語新辞典)」「海南島」ストュテルヘイム「回教と蘭印群島」購ふ。
帰途病院によりしに依子元気。
7月13日
11:00家を出、研究所にゆきしに河原君のみ。渡瀬君肋膜の由。帰らんとせしに白鳥先生来らる。15:00松沢嬢来る、惰け明矣。和田先生満洲行きやめられしと。病院に寄る。
依子便(一)なりし由。夜、松井君来る。
7月14日
熱し。〒大より。依子午後退院。夕方阿佐ヶ谷へ礼に醤油一升もちゆく。帰り「南支紀行」買ふ。白井(松本善海の下宿せし)母子に会ふ。経理学校にゐる由。
依子の入院費用約百円。
7月15日
熱し。13:00稲垣氏へゆき、来週日曜見合と定む。16:00矢野長官を訪ねしに17:00頃帰らると。時間待ちに平田内蔵吉を訪ぬれば本日応召せしと。
17:00長官にお会ひしきけば昌彦既に朝鮮にありと。帰宅20:00、江口三五を訪ね「李太白」贈る。けふ牛込で「山家集」購ひし。
7月16日(日)
熱し。午後驟雨、夕飯後松井君の家にゆき見合のこと云ふ。山本守「満洲の珠」買ふ、拙し。
7月17日
9:00家を出、文庫にゆく。暑し。シベリヤ百科辞典を見しにWまでなり。夜、防空訓練とて高円寺にゆく。〒なし。
7月18日
9:00家を出、日歯にゆき金山洋服店にて国民服出来せしを取る、73.40(税共)。衣料切符40点なり。12:00より文庫。17:00サイパン全滅公表、ラヂオ演芸なし。この四日〒なし。
7月19日
〒マライ宣伝班の長沢君、北方の曹長より詩預り来りしとて送り来る。けふ文庫へゆかず。暑し。夜、荻窪へ散歩。
7月20日
ラヂオ東條内閣辞職を告ぐ。文庫9:30−15:00疲る。和田先生にお会ひせしに来年四月より開始の西洋文化の支那への影響をやれと十人の予定。
@政治軍事、A思想、B技術、C経済社会に分つと。〒大垣君二十四日頃来ると。
7月21日
〒丸三郎、錦州辺りの病院より。台南より本田茂光。研究所よりレヴィレートの校正半ば(二十頁)。すまして持ちゆきしにベラルデ文庫疎開と。南北アジア学報一冊づつもらひて帰る。
途中、野原四郎氏に会ひ学報贈る、鈴木朝英昭南と。武者小路「狂言集」買ひ丸に送る用意し、夕飯後丸の家を見舞いにゆく。総理大臣小磯國昭。米内光政との合作。
7月22日
〒「東洋史研究」つづくと。10:00文庫、小磯内閣の発表、大達茂雄内相と。雹降る。七月の雹は天変の申(※甲申?)ならん。けふ浅野忠允、川久保に会ふ。牧野賢を見たり。
谷崎潤一郎「文章読本」買ふ。留守中稲垣の父君来り、メンスのため見合出来ずと。夜、松井君に一応解消を云ひにゆく。喜べる気配あり。大宮島(グァム)に敵上陸と。
この日寒き位なり。「日鮮文新玉篇」すむ。
7月23日(日)
大垣君11:30来る。けふ京子氏の家へゆくと。ともに家を出、別れて赤川君を訪ね本三冊売り、正親町男爵「露西亜遊記」買ひ、「萩原全集」売ることを云ふ。
15:00小高根太郎を訪ね種々話せしに意見全く同じ、電波兵器工たらんと云ふ。17:30薄井(※敏夫)を訪ねしにすぐ帰るとのことに待つ。帰来種々話し工員の口見つけんと云ふ。
けふ聞けば肥下徴用になるやもしれずと。
7月24日
10:00文庫へゆく。「露西亜遊記」よみ終る。革命のロシヤを実見せし人なり。「新東亜建設と史観」「遼律の研究」「蜻蛉日記」買ふ。夜、赤川氏来る。
コギト八頁のパンフレットとして出たり。「萩原全集」十冊32.00にて買ひ呉る。
7月25日
9:00まへ荻窪へゆきしに本やまだ開かず。文庫へゆき12:30退出、研究所へゆきしにベラルデ文庫荷造すみたり、可嗤。川久保に電話せしが岡氏不在と。
帰途また荻窪へゆきしに小倉進平氏の著はじめより扱はずと、不審。岡田巧「近世支那社会経済史」買ひて帰る。ものうし不快。夜、齋藤武夫君夫人疎開中とて挨拶に来る。
7月26日
9:30文庫へゆく。星君ゐて大学の研究所化を云ふ。14:00文学部事務室にゆきしに不在、研究室にて待つ中、和田先生来らる。松本に会ひしに夕飯のため話せず。
けふ小倉進平「朝鮮語方言の研究」買ひ得てうれし。夕方川久保を訪ね報告の打合せし、岡氏への面会の断りたのむ。
7月27日
10:00文庫。和田先生待ちしに来られず。文学部事務室にゆきしに一〇〇円はまだ残りゐたり。土曜日に書付出すこととし、松本に夕食奢りて貰ひ帰る。
日本評論社より又々送本代請求書来る。詰問状出す。
7月28日
午前中「西太后」訳す。13:00新宿駅にて長野敏一に会ひ、聞けば情報局止めて熊本県に疎開、百姓をし将来の計を立つると。二宮尊徳を読むとなり。
池袋までゆきしに李朝実録の紙挟み忘れしに気付き研究所にゆく。手塚、鎌田、石田の三君、話わからざれば詮なし。帰りてまた「西太后」。
7月29日
文学にゆく。午後和田先生来られ印いただき川久保と大学にゆきしも事務の人ゐず、預けて帰る。帰れば北亜学報の校正来ゐたり。
けふ和田先生に「西太后」(※出版斡旋)のことお願ひ[●]ぬ。牧野巽氏と雑談す。
7月30日(日)
雨、涼し。11:00大垣国司と吉野君来訪。朝、小学生全集「明治大帝」よみ感涙を催す。恰も崩御の日なり。
7月31日
日本評論社より謝り状。13:00文庫にゆく。帰りに小学生全集二冊買ふ。
8月1日
朝より文庫、八旗通志を見ることとす。15:00帝大文学部へゆき100.00貰ふ。松本と一寸話し、山本書店へゆけば主人海軍へ応召と。「ルブルグ訳書」「満洲学報第八・九」を買ふ。
開明堂へ校正持参。〒塚山勇三、海軍へ応召。満洲布村一夫氏より「民族の特性」受取りしと。夜、川久保に五〇円持参。グァム、テニヤン殆ど絶望と発表。
8月2日
10:30文庫、午後中島敏氏来りし。けふ14:00創元社の柴野氏「南の星」の三校持参、殆ど直すべき箇所なし。亜研へ校正のこと〒。
8月3日
10:00文庫。午後川久保来りし。15:30創元社へ校正持ちゆく途中、電車にて健に会ふ。〒小山正孝結婚せしと。亜研より渡瀬君母上死せしと。夜、小高根太郎来る。
8月4日
10:30文庫、村上正二、川久保来る。〒北亜の再校。吉野清。夜、警戒警報発令。「日本詩」より読物をと速達。
8月5日
けふ警報続行中につき外出せず。15:00頃解除。共同防空壕を夕食後掘り了る。無駄なること多し。
8月6日(日)
〒本位田、服部正雄、天津の池田。「日本語」二冊。15:00散髪後、小高根を訪ね囲碁二番。夕食後薄井を訪ね、工員をききしに労務手帳渡され辞職困難と。再考すべし。
8月7日
文庫へゆく途中、研究所へ寄りしに防空演習とて出られず16:00までゐたり。南北学報一冊づつ。渡瀬君より返し来りし「バタ族の社会と生活」もちて帰る。本日雨つづく。
8月8日
10:00文庫、浅野、前田二君来る。小磯首相の初演説内容なし。赤川君に寄りしも来客ありて話せず。「蒙古」に植村清二先生の文のりたるを三冊買ひて帰る。
8月9日
10:30文庫、川久保来りをる。泉井久之助氏この頃毎日来りをらる。14:00華中交通に窪川鶴次郎氏に会ひにゆきしも不在。〒渡瀬君。
計画
1.女真満洲族に於ける殉死 八月三十一日スミ
2.「西太后治下の支那」(訳)
3.「蘭人治下の台湾」(訳)
4.清の太祖奴児哈赤(※ヌルハチ)の民族政策
5.杜臻の見たる台湾地図
6.シュイラー「トルキスタン」(訳)
7.シュミット「蒙古源流」(訳)
8.満洲語文法
9. 嘯亭雑録・柳辺紀略(訳)
8月10日
10:30文庫、和田先生に南亜学報よりの伝言なし。帰りて夕食後、渡瀬君を訪ねしにゐず。堀辰雄の義弟加藤俊彦君と長話す。(※稲垣太郎の訃報新聞記事切抜貼付)
8月11日
文庫、李朝実録殆どすむ。昼休み帝大にゆき善海に会ふ。朝倉純孝「蘭日辞典」買ふ。けさ南朝鮮、佐世保、八幡、山陰に敵機来ると。
8月12日
文庫、和田先生より「矮人考」預る。「八旗」写す。〒丸三郎、本着きし由。
8月13日(日)
〒台湾軍より恩賞の調査。服部(※服部正己)より「ニーベルンゲン(※ニベルンク族の厄難)」。レヴィレート校正。10:00松井君来訪、驟雨。渡瀬君より速達。
けふは終日ゐると。夜、「粤漢線南下」六枚書きしも成らず。
8月14日
文庫行の途中、新宿のプラットホームにて三島秀雄君に会ふ。軍へゆく途中と奇遇なり。小畑少将(※小畑信良)はビルマより満洲へ(※更迭)と。池袋にて下車し研究所へ寄り、
11:00文庫へゆけば渡瀬君ゐたり、話せども合はず。16:00帰宅。夜、「粤漢線南下」終る、半ビラ二十五枚。けふ塚山勇三君より〒、即日帰郷らし。
8月15日
文庫へゆく、疲れたり。15:00華中鉄道へゆきしが窪川氏ゐず。〒硲君より近日来ると。
8月16日
文庫、李朝実録、八旗満洲氏族通譜終る、定期も終る。思ひがけず和田先生も見え、帰途同車。赤川店へ寄りキング付録「明治大帝」買ふ。夜、大垣国司君来り小豆呉る。
8月17日
〒台湾文芸。昨日赤川氏へ財布忘れたらしく不快にてけふ薄井を訪ねず。ガダルカナル島に我軍残れること発表。夜、赤川氏へゆきしに果して財布ありし。
丸宅へ本六冊もちゆく。遼寧にゐると。
8月18日
〒小高根二郎、石田正憲。12:00薄井の工場へゆかんとせしに急行にのりて多摩川を越え喜多見、狛江の間を歩くこと一時間半、帰る。
8月19日
〒本位田、服部正雄、小高根二郎、薄井、田村よしの、筒井静へ。この頃食欲旺盛。仕事せず。ガダルカナルに残留部隊ありと発表。
8月20日(日)
羽田より勤労奉仕すみ病気せしと。本日中部軍に空襲ありしらし。
8月21日
昨日の空襲は関西方面、けさ10:00また空襲と。警防団員のことにて呼出しあり。夜、硲君来る。
8月22日
薄井より〒、小田急の東側なりし。二十七日三時ごろ行くとハガキ書く。夜、警防団員引受く。
8月23日
夕方赤川氏にゆきシチェグロフ「シベリア年代記」借る、11.25。薄井への発信。
8月24日
〒羽田、女子供に出来ることをやるなと工員のこと戒め来る。大。楢崎勤氏より新潮のため九月八日までに「支那詩人のこと」十五枚と。羽田と楢崎氏に〒。けふ驟雨しばしば。
8月25日
11:00甘利進君来訪。昼食後吉野弓亮を訪ねんがために世田谷、上野を歩き廻り、奥さんに会へば東北に旅行中と。21:00甘利くん泊る。
8月26日
11:00甘利君去る。長話にて疲る。その言を聞くに時局感なきに驚く。善悪を我云ふ能はず。〒筒井母、部隊名未だ分らずと。大垣国司君。けふも驟雨模様。〒大と大垣君へ。パリにて戦争。
8月27日(日)
〒服部正己、石田君。12:00家を出、喜多見の湘南製作所に薄井を訪ね、断り云ひ、小高根太郎を訪ねしに留守。けさ4:00より空襲の演習、初動訓練と。
こりて夕方より松本善海の許へ逃れんとせしに西武電車18:30まで切符売らずと。諦めて帰り、荻窪にゆき映画館に入り一〇分エノケン見て20:00帰宅。愚民に悪政、敗戦すとも当然。
8月28日
〒田村の小母さん、春雄(※治雄)中支にありと。9:00までに「日本語」十月号の原稿書く。春雄と田村へ〒。けさ隣組のオビ博士出征、残れるは予のみ。
8月29日
朝より昼すぎまでかかりて「女真満洲族に於ける殉死の風習」三十五枚書く。ふらふらとなり夕方赤川君を訪ね、借金払ひ本三冊売り、四季の見本二冊と四書集註もらひて帰る。
松井君も来合せ話せしなり。
8月30日
〒なし。無為。昨夜寝つき遅く、けさ11:00まで寝たり。「殉死」送る。
8月31日
誕生日、赤飯炊く。〒台湾本田茂光、樺太菊池正、羽田書店、大垣国司、みな暢気なること。漸く秋づく。
9月1日
〒甘利君、詩人は悲観的と。俗人の勝つことを望む。けふ東洋歴史辞典の原稿書き了ふ。「阿敏、伊桑阿、ウデヘ、エヴェンキ、オロチ(※民族名)」十一枚なり。
菊池正、羽田書店へ返信。
9月2日
〒村田幸三郎、村山高の中隊長をなす隊と、なつかしく両社に返信。「民族の特性」原稿受取り。富山房へ原稿送る。他に事なし。
9月3日(日)
〒村田の第一信、本ほしき由。午前中松井君来る。書翰の整理をなして夕方までかかる。
9月4日
羽田書店より〒。夜、小高根太郎来訪。昔より悲観的なる由。書翰の整理すみ、唐代の従軍詩人十三枚書く。
9月5日
村田幸三郎より〒。船[●]光博士になりしと。村田貞二死すと。昨夜眠り足らず。
9月6日
〒文芸世紀終刊号。津村信夫の記念冊子作ると。
けふ一日悲観す。夕、赤川氏へビール二本もちゆく、長女疎開と。
9月7日
11:00亜研へゆく。河原、石田二君と話し、昼飯後、手塚君来る。二君に復職依頼す。「民族の特性」の稿料70.00貰ふ。ローブ「スマトラの民族 下」小倉進平「国語及朝鮮語のため」
「城大史学論叢2(※京城帝国大学)」買ふ。文庫へゆき和田先生にも復職御願ひす。けふ電話してみんと。汪精衛(※汪兆銘)死せしらし。議会始め、小磯首相印度の独立を持す。
帰れば平野義太郎氏「民族政治の基本問題」、田中冬二「菽麦集」貰ひあり。日本語読本を書けと北條誠君の姉君より。
9月8日
雨、〒なし、事なし。〒田中冬二氏へ礼状。夜、大垣国司君来り、佐藤春夫「観無量寿経」「明治天皇御集」呉る。交換に「ルバイヤット」と「珊瑚集」わたす。
羽田書房より速達、来週来ると。
9月9日
〒楢崎勤氏より原稿受取、「李太白」よみしと。13:00文庫へゆく途中和田先生にお会ひす。鎌田と喧嘩せずやと白鳥先生案じゐくれる由。川久保と帰る。
妻君秋田に帰りしと。幼児体力検査に弓子体重九一六キロ位と。
9月10日(日)
服部正雄より〒。けふだるし。夜、川久保来る。必勝の念あり。
9月11日
昨夜眠れず。昼すぎ赤川氏を訪ね、ビールの空瓶とり来る。夜、雨ふる。〒平野先生へ礼状、北條静氏に問合せ。
9月12日
〒大より十五日から勤労奉仕と。雨。昨日より女真満洲族のエグゾガミー(※近親婚禁忌)の資料蒐め、けふ金代すみ。
9月13日
〒本位田より、丸、広島まで帰りしに会ひしと、鳥取へ転任と。午後、荻窪へゆき石原道博「東亜諸民族の盛衰」買ふ。つまらず、丸、留守宅へゆき帰る。ゆき子風邪。
9月14日
朝、松井君来訪。羽田書店の舟越氏来訪。十六日昼、三好氏と相談せよと。
9月15日
昨夜数男帰りたり、けさ来り話す。午、高円寺へ散歩。赤川、松井二氏を訪ひ帰る。夜、柏井にて数男の見合ひ、大体良きらし。〒木山捷平「和気清麻呂」。
9月16日
けさ岡田氏より(※結婚)承諾の返事。12:00羽田書店にゆき三好達治氏に会ひ、昼食後創元社にゆく。阿部知二来合せ上海へゆく由。雨路につき帰る。
明日結納入ると。甘利進より〒、明日来ると。
9月17日(日)
午後甘利進、塩坂保雄君を同伴し来る。南京へ行く由。村上君を訪ねランボー「酩酊船」贈る、数男結納すみし故也。二十六日挙式の予定と。
9月18日
〒大垣君より大塩麟太郎君ラバウルにて健在と。11:00創元社の柴野君来り、表紙の図、同君長女の幼児の絵をと、三十部刷る。
紙は極上質と。昼食後、赤川氏を訪ねしに二ケ年間の徴用と。「明治の御宇」上製本を買ふ。松井保治君と帰宅。
9月19日
〒満洲の布村一夫氏より。14:00警戒警報、17:3解除。夜、防空演習。
9月20日
事なし。この頃無為。
9月21日
〒大より工場へゆきしと。昼すぎ瓦斯会社来りて、一孔塞ぐ。百姓、今に東京の奴みな裸にすると云ひをると。文芸春秋より速達、戦意高揚の詩をと。
9月22日
〒大垣国司、薬師寺衛「李太白」着きしと。赤川君へ徴用の挨拶にゆく。夜、数男の婦一家(岡田志紀氏)と会食。
9月23日
秋季皇霊祭。昨日比島に大空襲ありしと。〒父より哀れなることども。甘利進よりこの間塩坂君喜びしと。15:00渡瀬君来り、復職せよ、白鳥先生、
鎌田君との衝突心配は手塚君にも云ひをらると。
荻窪近くまで送る。不快なること多し。
9月24日(日)
事なし。羽田書店と〒、二十七日女店員よこせと云ひやる。
9月25日
研究所へゆき見んと駅までゆきしに金入忘れしと判明、帰る。夜、数男に祝三十円。けふ村田幸三郎に田中冬二「菽麦集」送る。
9月26日
数男結婚式。14:00より飯田橋大松閣にて。17:00すみ、数男の友、川島君と話しつつ帰る。尚子、ワイシャツ呉る。小雨。
9月27日
〒荒井平次郎より。10:30羽田書店の阿部女史来り、詩を写す。15:00東洋史談話会にゆき周藤君(※周藤吉之)の話聞く、つまらず。善海と帰る。けふ佐口、
三上二君よりお体如何の問を受け、反撃して閉口せしむ。昨日また満洲鞍山に空襲。
9月28日
阿部女史来る。研究所へゆき石田君と白鳥邸へゆく。途中浅野君に会ひたり。復職依頼して帰る。
9月29日
阿部女史来り居る時、松井保治君来り、退職せしと。14:30研究所へゆきしにしばらくして白鳥所長来、前田直典も来る。夜、岡田家にての夜食に招かる。
9月30日
三日間少眠。〒末吉。午後文庫へゆき「盧龍塞略」よみつつ和田先生をお待ちし16:30復職の事と同時に今後のこと申上ぐ。たのみは先生のみ。
大宮(※グァム島)、テニヤンの全滅発表、大軍の指揮官は小畑英良中将と。スマトラにて世話となりし信良大佐の令兄なり。
10月1日(日)
〒薬師寺より二通。昼すぎ赤川氏を訪ねしに外出許されしと。夜、健来る。
10月2日
9:30出勤。鎌田君来り、連襟(※親戚)戦死確定と。大宮島軍属の一人なり。阿部女史来り、大垣君よりの資料見す。〒父より二通。
10月3日
9:00出勤。「瀛涯勝覧」をよみし。〒丸夫人、丸は名古屋にて止まりしらし。窪川より78.00、中支へ1ケ月ほどゆくと。興地先生と同車す。
10月4日
9:30出勤。雨、「五体清文鑑」見る。夜、松井君来り、令兄保雄君三月十九日ニューギニネアにて戦死の報ありしと。映画配給社に就職の保証人となる。
10月5日
雨、10:00出勤。無為。新潮社より44.00(−6.00)来る。速達にて「日本語」よりの催促。
10月6日
出勤前、松井君来り、契約書印紙に印求む。出勤せしも一日悒せし。帰れば大垣君より大塩麟太郎君戦死の公報ありしと。孤児にして不遇、画学生として才ありしも描かず。
兵となること二度、ラバウルにて敵爆に死せしと覚ゆ。
10月7日
豪雨一日。昨夜苦吟せし「誓ひ」を退勤後、文芸春秋社にもちゆく。不快。
10月8日(日)
母、尚子に怒る。大陸生れのため礼を知らざるによる。父より電報、健、十日豊橋の予科士校に入ると。三郎ハルク島にありと。夜、意外にも小山正孝君来り、
戦争詩集の材料なしと。
10月9日
10:00出勤。11:30文庫へゆき山本達郎氏より明字本「瀛涯勝覧」の返却を受け、善海の室に玄覧堂叢書あるを見る。子供の本三冊買って帰る。
「文芸」河出書房に移り、十一月五日までに詩一篇をと。
10月10日
〒丸と「文芸」へ。白鳥先生、昨日来られ、本買へと云はれし由。
10月11日
出勤。渡瀬君来る。帰途、「朝鮮語方言の研究 下」と「マテオリッチ」買ふ。昨日、琉球に四百機来りしと。
10月12日
午後、東洋文化研究所へゆき玄覧堂叢書の「開原図説」見る。服部宇之吉博士の嫡を見る。けふ七時より十五時まで台湾へ大空襲、十三時まで百機撃墜と。
10月13日
渡瀬君と帰る。高円寺にて「樺太アイヌ叢話」買ふ。「新潮」十月号(※「唐代の従軍詩人」所載)来る。
10月14日
風邪気味のため文庫にゆかず。「東洋史研究 一」来る。「カムチャツカの歴史」買ふ。
10月15日(日)
風邪気味のため就寝。朝、松井君来る。台湾東の海にて敵航母七撃沈と。
10月16日
当番のため風邪を押して出勤。「瀛涯勝覧」はじむ。早退。空母十一隻撃沈と。
10月17日
神嘗祭。〒中野清見夫人、中野九月末南方へ行きしらし。数男送別会とて夕食に二族会合。台湾東方戦闘継続す。
10月18日
昨夜眠り足らず。朝、散髪、また伸ばすこととす。日課やりしのみにてだるし。帰途、玉井是博「支那社会経済史研究」購ふ。風邪やや宜し。阿部女史に明後日来よと電話す。
〒保田、竹内にも李太白着きしと。大垣わび状の如し。「書香」来る。今西春秋休み。
10月19日
雨、防訓とのことにて在家。〒父、小山正孝君。防訓とり止め、雨もやみしに出勤。夜、台湾島沖航空戦の総合戦果発表、我機三五〇を失ふ。航母十九(沈十一)、戦艦二を沈めし。
米軍レイテ湾に攻撃開始。薬師寺のゐる処なり。東京新聞より二十三日までに感[●]を一枚と。
10月20日
10:00出勤、玉井と大川周明「回教概説」とを研究所にゆづる。阿部女史来る。〒丸、余病併発と。山田廸孝、三好達治。スマトラ、カーニコバルにて航母一隻撃沈と。
10月21日
数男夫妻、朝、天津へ出発。帰途、目白にて高砂族調査報告一冊買ふ7.00。〒父より。日本語十月号。けさ日本語読本の原稿五枚送る。
警視庁より十月一日付にて荻窪警防団副団長に任ぜらる。
10月22日(日)
朝、松井君来る。防火群分隊長をたのまる。午後和田先生を訪れ、小高根を訪ねしも留守。丸留守宅にて聞けば脳溢血の由。赤川留守宅にては未だ帰らずと。留守中、千葉来りしと。
10月23日
当番にて出勤せしも頭痛して中引。東京新聞に原稿もちゆく。矛盾。帰途、東亜人文学報二‐二買ふ。硲君来りて話しゆく。〒布村一夫氏。
10月24日
防空演習の日。警防団の呼出ありしも行かず、一日臥床の態なり。〒富山房より10.60。
10月25日
出勤。渡瀬君来る。〒大より。
10月26日 (※東京新聞切抜「敵に詩心なし」貼付)
出勤。将棋を石田君として二回勝つ。比島にて海戦しきり也。江間章子より娘の第一師範入学のことにて問合せ来る、可嗤。
10月27日
雨、〒小高根二郎。青木陽生、三越を止め軍需会社にかはりし。夕方比島沖海空戦の総合戦果発表。
10月28日
帰途、本買ふ。「東亜民族名彙」「台大史学研究年報 5」「甘粛西蔵辺彊地帯の民族」「西洋文化の支那侵略史」「日本諸学研究報告17」。
けふ文春の鷲尾君よりこの間の詩は掲載止めた、十二月号に一篇をと、承知と答ふ(十一月八日まで)。
10月29日(日)
〒丸三郎、阿部章子氏。レーテ島に激戦つづく。夜、大垣国司君来る。金鵄(※煙草)十箱呉る。ビールのむ。
10月30日
雨、数男の登山靴穿きてゆく。二十四史外国伝の会にて十九時帰宅。
10月31日
国民登録呈出、阿部女史来る。〒住吉区役所兵事課より在郷軍への状況申告書、江間章子より。
11月1日
阿部女史来りて、するめ呉る。12:30出所、13:00空襲警報にて池袋駅にゆけば省電止まりゐる。歩行して高円寺に来れば解除。帰りて警防団の本部にゆき警防手帳もらひ、団服もらひ来る。
空襲警報の時出だすと。けふB29一機飛来せしと。〒哈爾濱(※ハルピン)南崗博物館富田良作氏よりパンフレット、大阪市住吉区役所兵事課に申告書発送。
11月2日
防空服装にて出勤。10:00警報解除。15:00退出。入湯。半月ぶりなり。
11月3日
明治節、雨。〒父。立原道造の手紙送り返し来る。
11月4日
出勤。馮承鈞「支那南洋交通史」の訳買ふ、めちゃめちゃなり。赤川君に寄りしに通勤となりしと。〒水産講習所より健の休学許す。文芸に「ますらを還る」、
文芸春秋に「我は忘れず」を書く(※未確認不詳)。
11月5日(日)
9:55警戒警報発令、防護団本部にゆく。11:00解除。〒村上成実、「盟邦評論」より詩を十一日までにと。
11月6日
当番として9:30出勤。10:00警戒警報、味方機誤認のためと。北亜学報届きしため池袋駅にゆきて研究所に届くることを頼む。〒父より、〒保田へ。
11月7日
池袋の本屋にて見付けをきし英支辞典を買ひにゆきしに売切れ、昼前北亜学報3到着。四部貰ふ。午すぎ空襲警報、15:00すぎ帰宅。二機偵察に来ると。これにて四回警報なり。
11月8日
浅野君に電話し北亜学報とりに来て貰ふ。夜、雨降り出す。〒末吉、文芸より受取。スターリンの演説に日本を挑戦国と。
11月9日
和田先生に学報もちゆく、御留守。14:30太平洋協会へゆきしも平野先生旅行中と。〒創元社より印紙3100、支払ひは翌々月五日と。文学部事務室より
「満鮮地理歴史研究報告16」取りにこよと。
11月10日
創元社へ印紙もちゆき寄贈たのむ(二十部)。他に五〇部家へと。山本にゆき「樺太土人の生活」買ひ、研究所。山本より学報買ひに来る。〒大、思想問題。
「学習日本語」より日曜の会の案内。
11月11日
帰途、赤川氏に寄り、夜の案内をなし「西洋文化の支那への影響」を貰ひ、丸屋にて「聊斎志異」買ふ。夕方、青磁社の鎌田氏来り、中原中也詩集のことを云ふ、承諾、
二〇〇頁一万部一月末まで。夜、赤川氏来りビールのむ。
11月12日(日)
落花生を掘る。「民研六月号」布村一夫氏より〒。松井君、朝来りしも会はず。汪兆銘の死発表。
11月13日
当番、9:00出勤。15:00白鳥所長来。15:30より二十四史、17:00すぎ終りて阿部女史を訪ね、三好達治への伝言たのむ。今迄の選びし詩よくなし。大家連のを集めて出すと(※不詳)。
〒健より。
11月14日
帝大へゆき善海に学報与へ「満鮮地理歴史研究報告16」を事務室で貰ひ、研究室へよりて研究所へゆく。午後「瀛涯勝覧」よみゐれば、三村、泉の二君来る。
三村君明日頃和歌山へ帰ると。川久保宅へ本もちゆき帰宅の途会ふ。けふ区役所にて聞けば転籍には謄本二部入用(一部六〇銭と)。史学雑誌に山下正太郎君
「李太白」の評載す。
11月15日
〒健へ。石田、手塚、我の三人のみ出所。郵便局へ学報発送にゆき、窓口に財布置忘れしも取りにゆけばありき。「清国時文輯要」池袋にて買ひ、阿佐ヶ谷にて「パイワン族の芸術」買ふ。
けふ研究所に「満蒙樹木図説」を引取らせし也。「東京新聞」10.00「日本語」28.00(税共)を受取る。応召せし小川浩、北支の村山高の二氏よりハガキ。
小川は中支にあり、村山隊に村田少尉あり。
11月16日
〒盟邦同志会より原稿いつでも良しと。雨の中を学報発送にゆく。「侯方域集」買ふ。
11月17日
昨日今日渡瀬君来所。満洲の布村一夫氏に学報送る。帝大にゆき護君への送本たのみ、善海の許へゆきしにゐず。けふ貸本やにて文庫本「大学集」買ふ。帝大の帰途、
御茶水の村上書店にゆき月原橙一郎の住所聞く。〒「日本語」の原稿料50.00来りしのみ。
11月18日
雨、帰途、新村出「外来語」金城「那覇方言」「外蒙共和国」「守屋世界地図」買ふ。〒吉野、詩集二冊くれと、4.00封入。善海より夜食に招待。いやいやゆく、
川久保と鼎坐なり。20:30辞去。
11月19日(日)
午後、松井保治君来る。阿佐ヶ谷にゆき「マレイシアの農業地理」買ふ。夜、銭湯へゆく。
11月20日
晴、当番。午後落合長崎局へ学報発送にゆく。二十四史の会、17:00前にすむ。この日暖し。
11月21日
雨、〒なし。13:00出勤。勝覧読合せしのみ。
11月22日
〒前田直典より、満和辞典借りたしと。14:00回教圏へ学報もちゆき宮坂好安氏と話す。高橋勝之、軍需工場へゆくと。
11月23日
新嘗祭。11:00大垣君ビールもちて来る。11:30丸夫人来り、丸の様子話す。14:00大垣君と荻窪へ散歩して別る。
11月24日
当番出勤。11:00白鳥先生コールライト(※不詳)積置のため来所。まもなく警報、コールライト積卸中に敵帰来往。15:00頃帰宅。警防団本部にゆきしも無人。
神学校その他に被弾、地鳴りせし由。この日七十機来りしと。〒大。
11月25日
11:00頃また警報。帰宅せしも事なし。〒羽田より。赤川氏にゆき夜、招く。セーリス「日本渡航記」「支那学雑草」楊廣咸「安南史」等買ふ。
11月26日(日)
9:30硲晃君来訪。煙草一二箱呉る。五十嵐達六郎応召せしと。12:00警報、一機来しと。支那語の親族呼称拾ふ。
11月27日
当番出勤。茶碗五ケこはせし。12:00空襲警報、5:30解除。石田君わが欠きし茶碗にて手を切り不快。
11月28日
久し振にて警報なし。14:30前田直典の家へ抜刷と満和辞典もちゆきしに一〇〇米先に焼けし家あり。高円寺都丸にて通航一覧八冊買ふ。60.00〒北支の堀口太平より。
11月29日
池袋にて加藤繁「絶対の忠誠」ジャイルズ「支那史」を買ふ。養徳社より「神軍」一
万部を空襲時のため出せと、断る。〒父、三村、阿部女史。
11月30日
咲耶11:30より警報、警防団本部に駈付けしも無為。雨降り寒し。神田(錦町・美土代町)日本橋茅場町方面に火災。12:00頃解除。帰りしに4:00
また来襲。
5:00解除、10:00頃まで寝、13:00出所せしに手塚、河原二君のみ。〒難波香寿より見舞。
12月1日
雨、10:00出勤。所長明日来らるる由。石田君の家の三百米まで燃えし由。焼夷弾は消止め得るらしと。〒警防団より明後日召集状。
12月2日
10:00出勤すれば白鳥先生既にあり。娘婿の疎開先を見付けるため早々退出さる。遅れて前田勝太郎君初出勤。聞けば北支にありし幼方直吉氏、入獄すと。
野原四郎、平野義太郎氏なども怪し?13:00神田にゆき、青磁社にゆけば中也詩集は延期と。企画届十日頃欲しと。「神軍」は第一期に決定しをりと。
他に保田の「日本語録」三好達治「花筐」等あり、不快。内山にゆき東亜人文学報一ノ四を見付けてうれし。他に「燕山外史」、矢野仁一「大東亜史の構想」等を買ふ。
妹母子、明後日疎開と。〒文芸春秋十二月号の30.00
12月3日(日)
〒父より、今井清一、十月二十六日頃台湾方面で戦死と、海員なり。中野富美氏、長浜准尉、硲君。12:30警防団召集にてゆきしに取止めと。重曹一袋貰ひて帰る。
岐阜県へ疎開の姪たちに玩具買ひゐる中、13:30警報発令、分団にゆき書記のことやる。区域内に死者八名。夜、隣組常会。
12月4日
4:30頃より起床。隣の疎開を見送る。当番にて出勤せんとし、財布の失くなりしに気付く。現金6.00の外、研究所の鍵と認印となり。行きしに石田君来居りて助かる。
12:00退出、分団にゆきて探せしも見付からず大踏切の交通整理仰せつかりしも失敬して帰宅。隣組へ岐阜の実家より来し銀杏食ふ。昨日二十一機撃墜と。わが見しは体当たりなりし。
12月5日
12:00出勤。前田勝太郎と話す。帰途、赤川君を見舞ふ。昨日三鷹方面に煙を見し故なり。
12月6日
〒大垣国司より。中野清見夫人と服部正雄、堀口亨(太平)へ。12:00出勤せんとせしに目白駅下車後警戒警報発令に帰宅。一機のみとて空襲警報とはならざりし。
12月7日
〒千草、柏井母、「台湾文芸」九月号。10:30出勤、14:30退出。目白にて「満洲要覧」七〇銭にて買ふ。時価一〇円の本なり。17:30警報、一二機来りしと。
12月8日
2:30警報に出動す。茨城地区に来りしと。4:00帰宅。9:30出勤の途、目白にて「朝鮮語学史」「北京誌」買ふ。12:00警戒警報、帰宅せしも事なし。
阿佐ヶ谷を見舞ひ、帰途「那珂東洋小史」2.00にて買ふ。昨日の地震(※東南海地震)は駿遠に被害あり、東海道線不通と。
12月9日
9:30出勤の途、警戒警報となりしため一時引返せしも一機のみとて再出。〒河出より「文芸」の詩30.00送りしと。(今朝3:30警戒警報に一時起床せり)。
12月10日(日)
朝、松井君来る。〒父、田中咸子。午後赤川留守宅を訪ね、帰れば硲晃君、ノートとタバコ呉る。勤労十五日にてすむと。高円寺にて「北支那の戦争地理」「南方原住民の歌謡」買ふ。
20:00敵機来襲、焼夷弾投下。
12月11日
朝、当番出勤前に齋藤町会長に会ひ昨日のいきさつ云ふ。15:00より二十四史の読合せ。今後は13:00よりとす。和田先生と話しながら帰る。夜、大垣君来りたばこ呉る。
1:00警戒警報、出ず。
12月12日
5:00また警戒警報ありし由。一家眠りしに知らず。〒丸夫人、山内四郎、硲晃、青磁社、文芸より原稿料。12:00出勤。13:00より「女真満洲族の殉死」を話し、終りて前田君の歓迎会。
大垣君より貰ひし葡萄酒に陶然たり。夜、7:30、10:00二回空襲。
12月13日
4:30来襲、昨夜来出動せず。雪降る。11:00出勤。13:00警報に帰る。三鷹方面なり。敵機の一機煙吐くを中野にて見し。
12月14日
4:30警報。〒硲君へ。13:00山内四郎より電話。兄秀三は死せしと。近日会ふ約束。青磁社へゆき企劃届(中原中也選集)を渡し、創元社へゆきしに柴野君辞職、帰国すと。
紙型とらざる中に崩せしため組直し、二十日以後出来と。〒江口三五、大分へ転任と。
12月15日
3:50警報、東部へ被弾と。警防団にて謄写版刷らさる。9:30まで寝、12:00出勤。この頃三合便覧を写す。
12月16日
昨夜は久し振りにて空襲なし。昨夜読みし富塚博士の文にて悲観す。帰途、阿佐ヶ谷の本屋に寄りしに昨日見し松下紀久雄「南を見てくれ」なし。〒村田幸三郎。
12月17日(日)
〒悠紀子へ母より。養老にて虐待され大垣にゐる由。10:30山内四郎来る。十三年振りなり。上海火薬会社にゐる由。昼食し話せしのち本田喜代治先生を訪ぬ。帰途阿佐ヶ谷に寄る。
19:00大垣国司君来る。十五日より敵ミンドロ島に上陸と。
12月18日
当番にて出勤。12:00警報。帰りしも名古屋阪神方面と。赤川、阿佐ヶ谷を訪ねて帰宅。〒大垣の母より、内容前便に同じ。昨日白鳥所長、宿直をなすべしと命ありしと。23:00警戒警報。
12月19日
11:00出勤。無事。俸給渡さる。
12月20日
0:50敵機来襲。11:00出勤、まもなく警報。白鳥所長来られ賞与100.00。〒大垣より。
12月21日
出勤。松本安雄氏来り、地図のことにつき話す。その前、学習院にゆき所長に会ひ学内に工場あるを見たり。ベルクマン「カムチャツカ紀行」松下紀久雄「南をみてくれ」
新村出「典籍雑考」太平洋協会「ニコバル島とその住民」を買ふ。夜、二回来襲。21:00のは敵機照空燈に捕はる。〒布村一夫、少国民文化
12月22日
4:00警報。10:00出勤。11:00警報。名古屋に百機来りしと。帰途「タガログ語」「新しき南方の姿マライスマトラ」買ふ。
12月23日
4:00警報。10:00出勤。けふにて休暇となりし由なり。神田にゆき「清代学術概論」「支那の家族制」千田万三「満洲文化史点描」吉川幸次郎「支那人の古典とその生活」買ふ。
和田久徳君、泉康順君に会ふ。帰途赤川氏によれば明日来る由。21:00敵一機来。〒政界往来、東京新聞、山田廸孝。
12月24日(日)
3:00−5:00敵二機来。昼、阿佐ヶ谷へゆき〒東京新聞へ速達。お幸伯母に海苔たのむ。筑紫二郎「スマトラ紀行」買ふ。松井保治君来、映画配給社へ勤め昭南係と。
夜、赤川君来り、本合計16.00、ビール一本のみゆく。
12月25日
(大正天皇祭) 3:00−5:00敵二機来。この頃空襲警報とならざるゆゑ警防団に出動せず。炬燵で待機也。昼間事なし。
12月26日
当番出勤。石田、手塚、松沢三氏出。〒大、「南の星」一
冊来る。夜、少国民文化のために詩一篇。
昨日今日我機のサイパン襲撃のためならん敵襲なし。
12月27日
当番出勤。石田君病気と一人ありしに警報。五十機来る。手塚氏と警戒せしも事なし。夜、21:00少数機来るとて町会にゆきしも事なし。
阿佐ヶ谷にて「中央アジアのトルコ語」「大東亜の教育」「日蒙会話」「東亜ソ連地誌」「タガログ語」買ふ。少国民文化に「元旦の計画」送る。
12月28日
石田君の代りに出勤。渡辺末吾、村上正二、前田勝太郎と次々に来る。15:30空襲警報。途中歩きて東京新聞に「年頭の誓ひ」届く。一機来りしを味方機誤
認のための大騒ぎなり。
〒北條誠、盟邦同志会より一月二十五日までに文十五枚をと。夜、23:12まで一、二機来る。
12月29日
白鳥所長の許へお歳暮もちゆく。研究所へゆき手塚氏と話し、帰途目白にて別技篤彦「蘭領印度」買ふ。けふ研究所より三合便覧と英馬字典とを借出す。
21:00一、二機来りて警報、町会に出動す。
12月30日
1:00、5:00と二回敵機来りしが出動せず。家中みな風邪なり。〒父より。午後散髪、三合便覧写す。
12月31日(日)
今朝、久し振りに敵機東京になし。〒山田廸孝。10:00赤川君来る。三合便覧、日すむ。岡田正紀一家、明日北京へ発すと暇乞に来る。21:30一機来。
昭和20年 1月 1日〜昭和20年 3月15日
21.3cm×16.5cm 横掛ノート(fairfield girls' schoolsingapore exercise book)に縦書き 本冊画像PDF
【参考資料】 詩人大垣国司について 芳野清氏「月に招かれた男」抄(「果樹園」所載)
半自敍伝 昭和21年回想 無条件降伏〜北京〜天津〜京都〜東京
昭和20年
1月1日
敵機来週に明け初む(0:00)。5:00また来。14:00大垣国司来る。林富士馬大村に入隊と。18:00頃帰る。三合便覧を写す。けふ来りし和田統夫に松下(※松下紀久雄)の「南を見てくれ」与ふ。
1月2日
〒石田正善。三十日に全快と。事なし。
1月3日
午後阿佐谷にゆく途中、子どもにお年玉買ひやり「南方植物記」買ふ。「南の星」店頭にあり。三合便覧EIOU[U]終る。昨日大阪に初空襲ありしと。
1月4日
家居。17:00より警防団の会、明日より五日に一度宿直と。中途警報ありしも来ず。
1月5日
〒坂口安吾。黄河のこと教はりたしと。16:00創元社の柴野君来訪、日本新聞会へかはりしと。夜、警防団の当番にて町会に宿直。21:00 一機。
1月6日
5:00 一機。6:00宿直を解除。11:00まで眠る。20:00 二機来る。
1月7日(日)
5:00 一機。敵、呂宋島西方にも游動と。〒長沼静人、千島より信州へ帰還と。
1月8日
11:00創元社へゆき「万里の長城」一冊「南の星」三冊を受取る。12:00研究所、手塚、石田、鎌田、松沢、前田の諸君に一冊づつ渡す。
15:00浦和にゆき田代継男夫人を訪ねしもゐず、西荻窪へゆきしに会へず、合計三冊渡す。田代一夫漢口にありと。
1月9日
〒大垣より。父と大に一冊づつ送る。12:00(※亜細亜文化研究所を)出所。13:00手塚氏と出版会へゆく途、神田にて敵機三・八・二を見る。小山正孝に一冊を托し、
朝日にゆきしも佐々木六郎ゐず一冊托し、桐山留守宅を訪ねしに滋賀県高島町へ疎開と。桐山は高雄にありて入院中と。一冊わたし、新藤千恵子に会ひ一冊やる。口惜し、この頃悒せし。
1月10日
〒なし。12:00出所。白鳥芳郎氏に一冊わたす。浅井中尉、柳氏、大垣、芳野2、薄井に郵送。15:00白鳥所長見ゆ。比島いよいよ悪し。夜宿直、21:00 一機。
1月11日
1:00 一機。3:00 一機。12:00出勤。丹波、田辺[東]司、三島秀雄に一冊づつ。21:30 一機。
1月12日
1:50,3:00に一機づつ来し由なれど眠りて知らず。創元社にゆき三十冊受取る。寄贈二十冊は送りしと。秋山氏の話にては社持ちは売切れし由。11:00坂口安吾氏来り黄河のこと書く参考書をと。
「南の星」信州の長沼、広島の山田廸孝に一冊づつ。〒西川英夫、石田正憲。
1月13日
10:00出勤。帰途長野(※敏一)を訪ねしも留守。赤川(※草夫)君を訪ね一冊渡す。夜、常会。けふ東中野にて敷島特攻隊関中尉ら出発の[景]を見、泪流し、春山行夫氏に邂逅せり。
〒矢野[兼]三。
1月14日(日)
朝、柏井母帰京。暢気なり。〒なし。事なし。
1月15日
昨日、外宮を爆撃し奉ると。13:00より二十四史。佐々木女史、理研に勤むと。「南の星」本荘建男、和田(※清)先生、川久保(※悌郎)。長野より電話。近々熊本へ移ると。
芳野清より煙草。警防団当直。当直に警報なかりしは初めて也。〒芳野。
1月16日
10:30東大久保にて警報、阿佐谷に引返せしも解除されしを以て田浦義光君留守宅にゆきしに疎開(熊本)と。「ソ連より見たる西南アジア」「ビーハン 外郭アジアの民族と文化」買ふ。
後著は良著らし。
1月17日
5:00 一機。9:00当番出勤。無事。〒村上菊一郎、白鳥芳郎「南の星」の礼。山田廸孝、堀口亨の二兵士。11 2:00一機来。
1月18日
欠勤。〒桑原武夫、長野敏一、浅井正雄中尉。寒し。郷軍より二十三日8:00査閲召集状来る。
1月19日
京阪に敵機来と。村田幸三郎に一冊。石田君早引。13:00警報に帰りしも無用。夜「大鵬」二月号に「スマトラにて」七枚書く。〒「書香」村田。
1月20日
11:30出勤。「大鵬」原稿送る。赤川夫人乾芋もち来りしと。夜、分団宿直。無事。
1月21日(日)
〒和田先生、信州長沼氏、満洲布村一夫。無事。
1月22日
11:30出勤。14:00「蝦夷島奇觀補註」買ひ、大学へゆき和田久徳君の坊やのこと聞きしも、先生出勤の内なれば無事か。(※松本)善海に会へば明日位、家族近江長浜へ疎開と。
別れの挨拶にゆき、徒歩にて帰宅。善海に「南の星」一冊与ふ。20:00一機関東南部へ来。
1月23日
0:30一機伊豆へ来。11:00出勤。佐々木六郎に電話せしに阿野隊長いまも赤十字にありと。午前中立教大学顧問安倍賢治なる翁来り話ゆく。帰途「唐詩評註読本」買ふ。〒父。
1月24日
当番。9:00出勤。事なし。ガラクタ本売り、「狩谷棭齋」と「御堂関白記」買ふ。
1月25日
〒野田又夫。12:30より銀座「盟邦同志会」にゆきしに無人。赤十字にゆきしに阿野中佐、若松町と、そこへゆけば箱根と。佐々木六郎留守宅に寄り怨みのべ、
高円寺にて倉石武四郎「支那語発音」買ふ。夜当直。寒し。(一マイナス)六度と。
1月26日
〒堀口亨の年賀状。12:00出勤、俸給貰ふ。15:00目白にて「台湾風俗志」買ふ。22:00一機。
1月27日
0:30一機。2:00二機。10:00出勤。12:30警報に帰り、阿佐谷にて空襲警報。16:00までに七十機来る。〒中島(※栄次郎)応召せしと。三島秀雄、丹波鴻一郎、芳野。
千草(※妹)子供をつれて酒とりに来りし。23:30また一機来。
1月28日(日)
10:00、11:00一機づつ。午後荻窪にゆき「アイヌの住居」「満洲城市考」「鉄砲伝来記」買ふ。寒し。20:00大垣君来訪、保田腸結核らしと。日比谷山水楼に(※爆弾)落ちしと。22:00一機来。
1月29日
0:30一機。2:30一機。4:00警報(八丈島へと)。10:30保田を訪ねしが割合元気。2:30神田にゆきしも創元社へゆけず。
1月30日
昨日駒込千駄木町へ落ち、鴎外の旧宅焼けし模様。「清朝末路秘史」買ふ。柳重徳氏母堂より「南の星」受取りしと。夜警防団当直。
1月31日
当番出勤、14:00より白鳥所長の講演。鎌田また不快。昨日よりゆき子とのことにて禁煙、不快なり。日本評論社より「李太白」再版三千と。
2月1日
欠勤。〒父より。事なし。雪降る。
2月2日
欠勤。0:30一機。〒竹内好「魯迅」面白くなし。午後散髪1.27。寒し。20:00一機。
2月3日
欠勤。午後保田に見舞物もちゆく。夜、小山正孝君来訪。堀辰雄氏恢復困難の噂ありと。〒水田鐐太郎夫人へ。
2月4日(日)
寒し。午後堀氏のこと訊ねに加藤俊策君を訪ねしに大したことなし。軽井沢町信濃追分にありと。
2月5日
〒大(※弟)、服部正雄大分にありと。二十四史の会、和田先生来られず。川久保語らず。18:30田代継男夫人来訪。タバコ三箱呉る。夜、警防宿直、団員三名来会。昨日神戸に八十五機来と。
2月6日
11:00まで、かへりて警防団出勤記入をす。昨年中警報八十八回、今年一月は二十五回なり。12:00出勤。万年筆忘れて駄弁りしのみ。帰宅「やまと心」買ふ。
ドイツはオーデル河畔に戦ひ、比島はマニラに敵突入と。
2月7日
8:30警報。町会に出勤、二機来ると。11:00前出勤。当番当りしに手塚氏代りくれゐたりし。〒山田廸孝、硲君より「学海」一月号、「鄭和印度洋航海記」の予告あり。
2月8日
昨夜雪ふる。欠勤。三合便覧写せしのみ。
2月9日
〒丸三郎。警防団の表つけ、11:00出勤。13:15一機来と。帰途盟邦同盟会さがせしも見つからず。井出季和太「南洋と華僑」買ふ。定期買ふ。三ヶ月17.10(阿佐谷−池袋間)。
2月10日
9:00二機来。丸に「南の星」一冊。警報解除、11:00出勤して昼食。池袋駅にてまた警報。帰りて町会に詰む。九十機来り、関東北部に被弾と。水田鐐太郎上等兵夫人道子氏より〒。
昨年メダン病院にて病死と。哀れなり。21:30、23:00一機づつ。
2月11日
紀元節。2:00一機。松井保治君朝来訪。11:00一機。午後荻窪にゆき久保天随「支那文学史」「ポルトガル語」買ふ。夜、当番宿直。
2月12日
8:00一機。牛込の松本安雄氏の家へ地図の催促に行く。留守。創元社へゆき印税のことを問ふ。13:30出勤。〒小山正孝、読書新聞の紹介は同君の筆と
(※→)。スマトラの牧野忠雄より速達にて宣伝班へ紹介をと。19:00一機。水田道子氏へ書簡にて句集。
2月13日
当番9:30出勤。寒し。板澤武雄「天壤無窮史觀」よむ。
2月14日
3:00一機。〒荒井平次郎、高円寺の中学生。10:00二機来。11:30出勤。白鳥所長来らるとて不来。
2月15日
寒。保田にバター四半斤もち行く。創元社へゆかんとせしも13:30警報、二三機来りしらし。帰りて町会に詰む。
2月16日
7:30警報発令、一日町会に詰む。本部に来よとのことなれば行きて話す。空襲警報四度。艦載機一千機来と。わが見しは十機ほど。落つるをも見し。硫黄島に上陸企図と。〒中野富美、長野敏一。
2月17日
7:00警報。けふも、一日町会に詰む。五百機来しと。西方にヘルダイヴする二十数機を見し。町会内に硝子による負傷女ありし。夜、当直。20:45、23:25、B29一機づつ来。
2月18日(日)
2:40、B29一機来。6:00当直より帰る。午後鈴木虎雄「賦史大要」よむ、わからず。入湯。十七日の戦果発表。撃墜一〇一機、破二八機と。十六日は撃墜二七機を増し、
二日間二七五墜、七八破と。十数隻の母艦来り、機一一〇〇−一二〇〇と。その中母艦一のみ破りしなり。
2月19日
10:00神田創元社へゆき「南の星」の稿料413.58貰ふ。神田にて「高砂族調査書第五巻」汪炳焜「李太白伝」「中臣祓講義」「アイヌ関係」五冊買ふ。
13:30出勤。14:38警報、B29一〇〇機来りしなり。帰途目白にて「朝鮮史五−一」買ふ。高円寺に下車せしも無為。〒村田幸三郎、芳野清、父。
2月20日
8:00警戒警報出ず。11:00出勤、15:30所長来。語らず。昨日敵硫黄島に上陸開始。
2月21日
5:00一機。9:30当番出勤。13:00より三機来りしとて帰宅。警報解除されしため阿佐谷にて五冊買ふ。〒硲晃、平野義太郎先生より「北支の村落社会」。19:00一機。警報なし。
2月22日
雪。欠勤。硫黄島に来襲の敵艦船六百隻と。我が方如何ともなし得ざるらし。悲憤やる方なし。11:30一機来。雪積ること一尺。
2月23日
雪のため省線故障なりと。欠勤。夜警防当直。〒北町一郎、大。
2月24日
4:00一機来る。8:00警防団より出頭命令来しに行けば勤労奉仕、荻窪駅前の一軒をとりこわす。手拭一本を報酬とて貰ふ。21:00一機。
2月25日(日)
0:30一機。また雪降り出しに艦載機数百機来とて、町会に詰む。昼前一度警戒警報となり、一休みせしに午後はB29百数十機来。雪曇の上より旧市内をやりし。20:00一機来。22:00一機来。
2月26日
1:00頃一機来。7:00機動部隊来さうなりとて警報出しも解除。雪掻きし、10:30より出勤。着きしは12:00まへ、誰もゐず、12:30村上来り、石田君心配とて御茶水まで行きしに警報(こは間違ひらしと)。
「日本語発音の話」読む。本日また聞きその他にて昨日は艦載機六〇〇機、B29一三〇機被害は神田、日本橋、牛込など六区、大宮御所に落ちしと。19:00一機。23:00一機。
2月27日
10:00二機。町会へゆく。御徒町焼けしとて、午後ゆきしに吉野弓亮の家焼けゐたり。弓亮は六日前より白石に疎開しゐたりと。下谷区、神田区、半ば廃墟となりたり。
夜、大垣国司来り、佐藤春夫先生「南の星」を見、田中賢すぎると云はれしと。柏井二階へ来ると。〒水田道子より句集つきしと。
2月28日
当番。9:30出勤。午後俸給貰ひて神田にゆき「支那哺乳動物誌」「大東亜言語論」「皇朝経済文編」「禹域戦乱詩解」「朝鮮役」「明季遼事叢刊」と40.00ほど買ふ。
3月1日
昨夜大垣来りらし。13:00出勤。夜警防団当直。高山宇一来りて話す。大垣も来て泊る。副分団長淵芳雄応召と。
3月2日
雪道と昨夜の疲れのため欠勤。高山と石原本家より野菜購求。柏井母、大垣へお峯伯母と疎開決心。
3月3日
10:00出勤。帰途、赤川、船越に寄りしも無為。〒堀辰雄。東京新聞より正月の稿料35.00
3月4日(日)
8:30より空襲。百五十機のB29来り、天沼三丁目西町町会にも数発落とす。直ちに調査にゆきしも要領を得ず、負傷者一名を衛生病院に護送す。旧市内に火災起きしと。
柏井母いよいよ疎開を決心。
3月5日
0:30より十数機、一機づつ来り寝しめず。9:00石田君に代りて当番出勤。けふ穴埋めに出勤を命されしも断りし也。佐々木女史スペイン語字典返却を受く。研究所との縁は切れたり。
〒本荘正(健男父君)より詩集の受取。健男今もメダンにありと。池袋にて「支那人」買ふ。夜、赤川君見舞をかねて来り葡萄酒のむ。19:00一機来に匆々帰去。
3月6日
朝、雨。欠勤。12:00一機来。
3月7日
0:30より数機彷徨。8:00齋藤町会長来り、警防団出動を命さる。9:00より1:20まで天沼三丁目六〇〇番地の小学教員判事の家の取片付。不快なり。12:00一機、14:30出勤。
帰途松岡静雄「太平洋民族誌」、中屋健弌「フィリッピン」買ふ。後者面白し。18:00硲晃君来る。三月末入営の予定と。タバコ呉る。
(けふ留守中、青磁社来り、中也選集の原稿用紙置きゆきし、末日までと。)「南の星」与へ、歌 わが友らわが弟ら兵となり海に陸路にたたかふときぞを記す。
日の丸一旒預けゆく。明日帰阪と。夜警防当直。
3月8日
9:45三機来。12:00出勤。帰途目白の古本屋にて高橋勇次「孫文」買ふ。聞けば清朝実録は和田清先生に話し研究室に入りしと。
3月9日
12:00出勤。無為。16:00高田馬場より東中野まで散歩す。高山宇一の家へ漢和字典もちゆく。大根の礼なり。
3月10日
0:10より警報はじめ、大事なしと思ひしに、間もなく急に空襲となり、百三十機来ると。満月の夜の如く明るく、大火となる。3:30解除。一機高射砲に墜さるを見し。
石田君心許なければ9:00出勤。前田勝太郎に電話し呼ぶ。10:00一機見に来る。駒込曙町も焼けしと。石田君12:00来りて焼けずと。本日判明?せしは司法省、大東亜省、第一師団、
佐藤高女、外神田、吉原等、広範囲。正午頃までまだ燃えゐたり。お峯伯母の日歯、柏井母の日華生命ともに焼けしと。火傷の被害者あり。空襲の害、これまでになく大なり。
〒父。朝鮮の「大陸遠望」の読者。帰途、阿佐谷にて「西ニューギニアの民族」買ふ。9:30警報。
3月11日(日)
4:00警報。浅草区の避難者を引受くるとて、11:00より蚕業試験場に詰め、七十八名の収容終りしは21:00なり。途中12:50空襲警報出しが事なし。
3月12日
11:00出勤。13:00和田先生来られ、つづいて榎、三上二氏のみ。けふ省線公務以外の切符うらざりしためなり。よみ合せをやめ、主として和田先生のお話うかがふ。
あく迄生きのびよとの仰せ也。硲君へのよせ書もすみ、うれしかりし。帰れば我に召集来りをる。住吉区長の電報
三ツキ一八ヒ一三ヂ チユブ二三ブタイリンヂシヨウシユ ハイレ レイゼウ ハヤシマサヤ ワタシ クヤクシヨニテ ウンチンアトバラヒシヨウ アテタテ イツツクカ スグヘンセヨ スミヨシクチヨウ
柏井母、大垣へゆき子つれゆかんとし、我反対せしに怒る。夜大垣と話す。20:00一機来。
3月13日
9:00区役所へゆき日の丸貰はんとせしに駄目。旅費後払証貰ひしのみ。郵便局にて住吉区長、父、林叔父へ電報打つ。研究所へゆき告げ、手塚、鎌田、石田の三君に会ふ。
大学へゆかんとせしも駄目。帰りて阿佐谷へ挨拶にゆき、丸刈りにし、警防分団本部に挨拶し、預品返却し、在郷分会にゆき、同班長に挨拶し、大垣と話す。川久保22:00頃来る。
折柄大編隊北上の情報あり。24:00頃帰る。
3月14日
昨日の大編隊は大阪をやりしと。けふは阿佐谷駅にて切符買ひ、大学へゆき「蘭人治下の台湾」返却、松本善海には会へず。西洋史研究室にて金沢俊雄副手と話す。
井上幸治病気、山上正太郎帰郷と。本郷の焼跡を見る。文求堂残りしのみ。文庫へゆき白鳥芳郎君に会ひ、学習院にゆきて白鳥所長に会ふ。梅ヶ丘の和田先生を訪ねしに御留守。
小高根太郎に会ひしに悲しむ。昼食を15:00に御馳走になり、帰れば千草夫婦あり。松井保治来り、赤川君、保田宅にて聞きしに肥下も召集(八日)と。19:00より警防団の送別会。
齋藤磯吉町会長よき人なり。赤川君待ち受け、ややしばらく話す。大垣国司君も話し、23:00頃か。明日7:00隣組の送行会、携帯品半ばのみすみ。
3月15日
6:00起き、携帯品の準備をし、朝御飯食ふ中、隣組来る。壮行の挨拶、西田卯八組長、齋藤磯吉町会長、左座藤三郎警防団長の順にすみ、7:30家を出る。
隣組の岡田謙二、若林、石原本家、送り呉れ、大垣国司君とゆく中、警報。東京駅にて改札に話し、急行[春なし]にて鹿児島行8:30に乗る。梓の骨忘れしこと思出し残念なり。
静岡地方、震害殆ど見当たらず、浜松、名古屋の爆害見ゆ。車中不愉快あり。特に軍人多く帰還、現役ともに種々語る。17:30京都着。父あたかも迎へ呉る。
急行券のこと車掌に話せしに改札口にてと。改札嬢に話し、問答の後不要となる。市電にて烏丸行にのり、上京区小山下総町四五の隠宅に入る。
史(※長男)の疎開のことは母の病気のためと判明、悠紀子以下そろひてならば可能と分り安心。全田の叔父も経過良好。十一日敦子結婚とめでたし。大阪の爆害は繁華街と。
身許調べは父してくれ、通訳官と記入されし由。
3月16日
朝、隣組の岡本赳博士の電話借り、羽田と連絡とり三高にて会ふこととし、行きしに会へず。京大研究室に行けば村上成実氏のみ。石浜先生は講師を止められしらし。
徒歩して羽田教授宅へゆけば時野谷君夫人(羽田妹)あり、電話にて羽田、父の所へ赴きしとて、夫人(池内教授令嬢)に挨拶そこそこ引返せば道にて会ふ。内藤戊申氏は五件目の隣なり。
永々と話し、15:30頃別れ、17:30頃また訪る。二女一男生ゐる。22:30まで話し、駅歩にて帰る。
3月17日 (後年書き写された便箋より)
お願ひ種々
天沼の四人(編注:悠紀子夫人と子供たち依子、史、弓子)宜しく願ひます。
子供は勿論悠紀子も不平を云はぬたちゆゑ仰せに従ひますが、父上母上の老後のみとり女として御使ひ下されば幸甚と申しをりました。何卒農家の手伝ひなどとしても宜しきゆゑ、
も少し安全な処へ揃ってお移りのほど悃願いたします。ここでは天沼よりひどく老人女子供だけではカーチス・ルメーの毒手(※日本焦土化作戦)のよき餌です。
お隣近所の如く家財道具のみに汲々たる連中はいざの場合はそのため命を隕すこともあり、決してよき隣組として、
よき町会員としての救け手をする余裕などもたぬことは警防団員(二月以来三月十日荻窪警防団副部長として江東の大火に夕刊を夜目に見えゐただけです)の保証するところです。
小生けふは大分弱気を申しましたが、外で聞くとは大違ひ、マレー派遣軍とは大違ひで、中では又いろいろと面白く愉快な生活があるかもしれぬと期待してをります。
ただ敵伐って死ぬることは覚悟いたしましたがマレーでも二三見聞しました小姑の手で死ぬのは絶対いや(戦争中勇敢に戦ひ死亡との通知あり勲六等となることあり)とて情けないぐちをおきかせしました。
入隊後は見聞したことは申せませぬし、云はうとも思ひませぬ。ただ犬死だけはさして下さるな、小生のことのみでなく訴へたく気分がもやもやでこの二三日暗い顔をしてゐましたが、
云って気分がすっとしました。笑って入ります。
入隊前夜
父上様
母上様 まいる
追伸
拙著詩集と楊
貴妃とクレオパトラ、李太白(校訂ずみ)、歴史の論文、少年時代よりの日記はお預けして参ります。
史(※長男)に見せてやっていただければと存じます。
万一の時は「梓(※次男)の骨」とともに京都へ埋めていただければと存じます。梓の骨は小生不覚にも忘れ来りしため、悠紀子に持参せしめるやうお便りいただければと存じます。
嵩が大きすぎるなら一部でも結構ですが。咲耶、建、大(※異母弟妹)に会へずに行ってしまふのでしたら残念です。
面会許されたときも呼寄せはむつかしいと存じます。くれぐれも元気でと伝言願上ます。
京都へ敵襲あることは必至ですゆゑくれぐれもお体第一に。
恩師は東大文学部和田清博士。
知己は小高根太郎、羽田明の二人です。他は皆出征して頼むに由なく、もし何ぞの節にはこの人たちに相談願ひます。
昭和二十年三月十七日夜
三伸
持参の国旗は西区堀江通二−一二 硲晃君(太古東大後輩)のもので、もう焼失した家かと存じますが届けていただければ幸甚です。