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たなかかつみ【田中克己】散文集

昭和17年 スマトラ日記帖(おぼえがき) 原文pdf

参考資料 陳夫人(小説) 

参考資料 北川冬彦「悪夢」抄  中島健蔵「参謀本部日記」抄


【回顧】 スマトラ記 昭和17年回想

                                                          「果樹園」昭和43年11月〜昭和46年11月 (153号〜189号) 連載

わたしはばかで、よく決死の覚悟をする。そのくせ妙に楽天的で、よい景色や人情のよいところでは、また来るという望みを抱いて、いいかげんにすましてしまふ。 スマ卜ラがその一つで、決死の覚悟でゆき、も一度ゆくつもりで帰って来た。しかし二十五年たったいま、わたしはもう老いて貧しく、そのうへ他にいろいろの用があって、 スマトラなどへは行けないことがわかったので、この記事を書かしてもらふこととした。

昭和17年5月25日、わたしはスマトラへゆくことにきまってゐて、決死の覚悟をしてゐた。証拠が今だにあって、一冊のノート(※未確認)の表紙裏に、
「わがスマトラにたたむ日に、この一巻を歌の友西沢大人に託す。わが帰らざる日は矢加部大人、こをふるさとに届けたまへかし」
と記してゐる。このノートはわたしのシンガポールの歌集で、最後の歌は

5月19日
鳳凰木の梢にのこる夕映えをアラブ童をつれつつぞ見る

といふのである。毎日新聞の支局に紙幣交換をたのみにいって、
「朔太郎先生、十一日逝去」の記事を見たのは、このあとのことであらう。朔太郎先生の訃報でわたしは決死の覚悟をさらに強めたことを覚えてゐる。

スマトラ行のボンボン蒸気に乗り込んだのは与謝野晶子さんの亡くなられた29日であったらうか。第十〇宇和島丸といふ船で、同行は朝日新聞記者だった三木上等兵と、これも新聞記者だった永田軍属の二人であった。 乗船の手続は三木君がしてくれ、その小さいのに驚いたが、あとの祭である。マラッカ海峡に敵潜水鑑が出没するといふので、出帆は日が暮れてからであった。 二十五年たったのでよく覚えてないが、一日半かかって無事にスマトラのブラワンデリー港に着いた。途中、永田とわたしには飯が出るが、三木君は兵なので飯上げといって、 自分で炊事室までとりにゆかねばならない。三木君は慶応英文科出身の兵隊なので、それを面倒がって飯の二回や三回は食はなくても、といふ顔で寝たままでゐる、 わたしは心配して船員に金をわたし特別に持って来てもらうことにした。わたしはこんな風に他人のことを構ふ悪いくせがあり、いつも人からうるさがられるのである。

港には日本軍の爆撃のあとがあり、わたしたちの船一隻が着いただけであったが、ふしぎなことには、もう出迎へのトラックが来てゐた。 宣伝班のメダン支部の車で、軍曹以下数人が乗ってゐた。わたしたちは挨拶もそこそこにしてこれに乗り、まっすぐに南に向った。道はよいが両側は林で何もない、 三十分も走ったらうか、やっと家が見え出し、シンガポールでなじみのまっ赤なブーゲンヴィレアの花の咲いた前庭をもつ建物を見ると、 メダンはサイゴンそっくりのきれいな市だと思った。やがて宣伝班支部のゐる小さい家に入り、支部長の中尉に挨拶したあと、うながされて、宮部隊本部へ申告にいくこととなった。

宮部隊といふのは近衛師団のことで、広島、久留米の二師団とともにマレー戦線を来て、北スマトラに移駐したのだといふことである。わたしは、 身分上はこの師団司令部に配属されたので、その挨拶をしにいくのである。三木上等兵は途中で、
「僕は兵隊だし、田中さんは将校待遇だから、申告はむつかしいことになるが、まあ僕がやりませう」
といって、その通りしてくれた。
「申告いたします、陸軍上等兵三木八郎、陸軍徴員田中克己、……」
という順にやることになったのである。その通りの申告を宮部隊の参謀長の大佐にしたら、大佐はいたって丁寧に
「応召前の職業は」
とたづねられた。三木君は「朝日新聞記者であります」といひ、永田も記者だったことをいった。わたしは
「文士であります」
と答へて、あとで三木上等兵に笑はれた。「わたしは文士」というほど有名でないといふのである。しかし詩人だの、研究所員だの答へる気がしなかったのは事実で、 わたしは軍部が手数をかけて徴用するほど有名な北川冬彦、大木惇夫、神保光太郎と同じくらゐ有名な詩人、すなはち文士だと思ってゐたのである。わたしはこの時、三十一歳で、 高慢で、空ゐばりだったと思う。

このあと参謀部の将校室にも申告した。事務をとってゐた若い将枚は、すでにわたしの履歴を読んでゐたと見て、わたしに質問した。
「田中さん、高等学校はどこですか」。
「大阪高校です」
と答へると、たたみこんで更に「何回ですか」と問ふ。
「七回です」と答へると、この将校は
「わたしは十一回です」といって、みるみる敬愛の情を示した。旧制では同じ高校といふのはふしぎな位の親愛力を示し、しかも上級の方が偉いのである。

 2

スマトラは世界で五番目の大きい島で、日本の本州の二倍に近い面積をもってゐる。わたしの着いたのはその東海岸州の首府メダンで、人口8万ほど、 スマトラではパレンバンに次ぐ町である。市街はオランダ人の住むところと中国人の町とに分れてゐて、わたしの部隊のあるのは、オランダ人の旧住家をとりあげた一画であり、 総督のゐた邸も近くにあって、そこには鹿が庭に放し飼ひされてゐる。シンガポールより住みよささうだと思ったのは、着いた直後のことだったが、わたしは早々に高熱を出した。 体温計ではかると41度を越えてゐた。デング熱かマラリアかとも思ったが、病名より高熱でうは言をいひはしないかと恐れた。これは正気でいったつもりだが、永田軍属に
「おれが死んだらカカアによろしく」
といったのは、自分でおぼえてゐる。永田はおどろいて、支部長の中尉に話し、中尉はすぐ平井忠治一等兵をつけて、軍病院に入院さしてくれた。軍医殿がすぐ注射をし、 平井一等兵が徹夜で看病してくれると、翌朝もう熱は35度台に下った。軍医殿(富久少尉といふ方だった)は下りすぎたと心配された様子だったが、これがわたしの平熱であることは、 わたし自身もそのころは知らなかった。

そんなわけで入院をつづけてゐる中に、面会に来た人がある。戦地で珍らしい背広で、気さくに自己紹介をして田中館秀三と仰しゃった。苗字が珍らしいので、わたしは学界の元老田中館愛橘傅士の後嗣とすぐ承知した。実はシンガポールで、ラッフルズ博物館へ図書を見たいと思って入館を申しこむと、田中館さんの指図で、軍命令により当分、軍人軍属の入館が禁止されてゐた。そんなわけでこの方がここに現はれたのは、別に意外とも思はなかったが、わたしが平熱でのうのうと入院してゐるのに気を悪くされたか、教授はわたしの目を見つめて
「田中さん、軍人軍属、ことに軍属がぼやっとしてゐてはいけませんよ。大洋丸は南方に必要な軍属を沢山のせて出港したが、軍属たちが行く先をもらしたので敵潜水艦に撃沈されましたよ。」 
と叱りおへると出てゆかれた。なに今から考へると、軍の暗号はぬすまれてゐるし、現にわたしの乗った緑丸といふ、図体ばかり大きいが速度ののろい船などは門司を出てから、ずっと潜水檻にあとをつけまはされ、わたしも内心、アメリカは中々やるなと思ってゐた。
不意打ち戦争のはじめの戦果に慢心したのだといふかもしれないが、わたしはもとより日本中、あまりにアメリカを知らなすぎたのだ。

さて田中館教授のお叱りを受けてちぢこまってゐるわたしに、院長命令が伝へられた。
「服装を正して出て来い」
ということである。わたしはシンガポール以来着用してゐる半袖、膝までのカーキ服で院長室へ行った。他にも将校、下士官、兵がゐて、用は恩賜の御菓の下達であった。わたしはこの御菓をいただいて病室に帰り、ベッドの頭にそれを供へたあと、廊下へ出て嗚咽した。ありがたさと自分の働きの足りないのに対する申しわけなさとがその理由であった。
そんなことで男が泣くのかといふ人は、オリンピックで勝って泣き、負けて泣く各国選手の気持もわからないだらう。しかしわたしはそのすぐあと退院を許されると、御菓をやはり室の棚にかざり、その一部を通訳のメナンカバウ人に与へて、ありがたさを説いた。
この通訳は支部長の気に入りで、賢い顔をし、英語が話せるといふので雇はれてゐる青年であるが、わたしに反問した。
「材料は何ですか」。
日本のハクセンコウをわたしは何と説明したか、彼は不思議さうな顔をしてまた聞いた。
「材料がそんなで、民間でも作れるものなら、ありがたいのはどういふわけですか。わたしは天皇陛下がお作りになったのならともかく、あまりありがたいとは思ひませんがね。」
わたしは与へた菓子をとりかへして、どうしたらこの異民族に教へられるだらうかと煩悶した。解決は南方にゐたあひだ、つひに出なかったが、 このごろ教会で聖餐式に加はってパンと葡萄酒とをいただいてゐるので、イスラム教徒にはあるひは教へやうがあったのではないかと思ふ。

追記すると田中館教授は帰還後、東北大教授をへて、法政大学教授におなりになって、昭和26年1月29日なくなられた。明治17年生まれで64才だったといふから、わたしの父とほぼ同じ年だったが、この時は四十歳代の若さに見えた。なお父上の愛橘博士はそのあと27年5月21日に亡くなられた。95歳だったといふから学徳ともにふさはしい長寿だったわけである。近ごろ田中楠弥太教授に承はると、
「秀三教授はご養子で、仲人は父(正平博士)がいたしました」とのことである。ふしぎな御緑があったのである。
メナンカバウ人といふのはあとでわかったことだが、スマトラの民族のうち最も人口の多い、イスラム教を信じる部族である。

 3

わたしの入院する前の宣伝班支部はメダンのケサワン通りが終り、黒く防空ぬりをしたアフロスと呼ばれるスマトラ東海岸州ゴム栽培協会の角を曲り、 その西側のフォール街といふのにあったが、林の中で暗くせまいからであらう、デリ川をわたり、メダン州理事官邸の西の大砲通(カノーネン)といふのに移った。 もとの持主はメダン市第一の本屋だった由である。支部長の中尉が一番いい室をとったのは当然だが、わたしは何となく入口の左側の小さい室を選んで、メダンにゐる間はここでとほした。

支部長から師団本部の命令といふので、わたしにはうれしい任務が与へられた。すなはちスマトラの民族についての概況を書けといふことである。シンガポールを出る直前、わたしが民族研究所の岡正雄氏に会って、
「スマトラへゆくなら民族を研究しろ。参考書はロープとハイネゲルデルンの共著「スマトラの民族」をよみ、あとは実地で研究するんだね」
との仰せだったので、わたしがラッフルズ博物館へ行って入場閲覧をことわられたことは前述した。今度の宿舎は本屋だったといふので、裏の小屋に積み上げてある書類を全部ひっくりかへしたが、多くはオランダ語の料理や裁縫などの家庭向きの本と小説がちょっとで、わたしは失望落胆した。しかし命令にそむくことは許されないので、わたしはアフロスへ行って見た。偶然にもここには数人のオランダ人技師がゐて、留用されてゐた(大部分は男女別々の隔離所に入れられてゐたのである)。その一人(名は忘れた)は承知したといってわたしにコーヒーを飲まし、一週間したら英語で書いてわたすといふ。わたしは喜んで礼をいひ、あとは市中を散歩して時間をすごした。

めぬきの通りは前にのべたケサワン通りで市に入った時、すぐ目についたきれいな建物はホテル・ド・ブールである。わたしはここへ悠然と入って行って午食を注文した。将官の襟章をつけた軍人が一人ゐただけで、客は他にない。昼食何ギルダーだったか、わたしはボーイから丁重に扱はれて午食をすまし、チップを払ったあと、二度とゆかないことにした。オランダ風の料理が口に合はなかったせいもあるが、軍人軍属は軍規で指定の所以外では飲食してはならないのだが、お客のないのは「オフ・リミット(※立入禁止)」(これは戦後覚へたことばである)のせいではないかと恐れたからである。

原住民との接触も同じく軍規で禁止されてゐたのであらうが、ホテル・ド・ブールのすじ向ひには立派な邸があって、門には「瑪腰第」の額をかかげ、また「欽差考察南洋各島商務大臣」の傍額もある。
わたしはおそるおそる傍門を押して、内に入り、名刺を出して主人に面会を乞うた。主人は午寝中のやうだったがわたしは快くその私室に通された。張歩善、号を公善といふ老主人は、言葉の通じないわたしをにこやかに迎へて、勲三等の日本の勲章を見せた。明治天皇に謁して賜はったといふので、北清事変のあと杉山書記生虐殺のわびに清国が特使を派した時の随員だったのだらう。「瑪腰」といふのはオランダ語のマヨール、すなわち陸軍少佐、華僑の頭目に与へられた官位で、清国の官は郵伝部参議上行走広西試用道だった由である。大富豪としてこの官を買ったのに相違ない。あとで令息の張世良といふのに紹介されたが、これはオクスフォードに留学したとかで英語が通じた。わたしは非礼をわびて匆々に退去し、あとでシンガポールで買った本を二部持参し、どちらでも好きな方を、といふと、紀ホの「烏魯木斉(※ウルムチ)雑詩」を快く選びとってくれた。紀ホは進士に首席で及第したが、罪を獲えて新疆省に流されている間にこの詩集を出したのである。楊老人はそれを知ってゐたかどうか、も一つの本の名は忘れたが、詩集を選んだところでいよいよこの老人を好いたと覚えている。

さてオランダ人の「スマトラ民族略史」は出来上った。わたしは礼に何ギルダーかをわたし、それを翻訳して、師団本部に呈出した。スマトラの民族は十余り、うち通訳をしてゐるミナンカバウ人が最も多くて150万、次は支部でボーイに使ってゐるバタック人が100万。最も熱心なイスラム教徒でオランダ人の討伐をもしばしば退けた北部のアチェー人がこれについで65万人と、ロープの本にあるが、その通りに書いてあったと思ふ。ランポン人、ガヨ人、アラス人と東部の諸島の住民、それに少数のこってゐるヴェダ系の諸民族などものこらず書いた。あとはその実測がのこるだけとなった。(実はあとで気ついたが日常に接触するのはジャバからの移民と華僑とであるが、そのことは書かなかったと思ふ。)

大砲通りの隣家は同盟通信の支局、その隣りは毎日新聞支局、朝日の支局はちょっと離れたマンガラーンにあったと思ふが、わたしはどの支局の人たちにも親切にしてもらった中で、毎日新聞の篠原局長(故人)と桐山眞君の二人と妙にうまがあって、あとでアチェー族やガヨ族の住み家につれて行ってもらった。

 4

年末なんとなくせかせかした気でこれを書く。ふだんから飛躍のある筆だといふのが愚弟の批評であるが、一層ひどい文章になるだらうと思ふ。 前に書き落したが、支部移転の直後に大失敗をした。以前の建物にはあったかどうか、師団司令部の命令で、通信隊の兵隊が来て電話をつけてくれた。 わたしは永田軍属と二人でその作業を見てゐて、すんだあとも「ご苦労様」ともいはずにゐた。
やがて司令部の参課室から電話がかかった。支部長の中尉を呼び出してであるが、支部長の顔色はたちまち変った。通信兵の作業中によこにゐた軍属らしいのが、 冷笑し嘲罵をしたといふのである。わたしと永田(年末なんとなしに電話帳を繰ってゐると、25年間音信不通の彼も東京に住んでゐるといふことがわかった)のどちらかを指してゐるにちがひない。わたしは咄嗟に
「わたしが行きます」と言って師団本部へゆき、
「何かお気にさはることを言ったかもしれませんが、冷笑したり嘲ったりする気は毛頭ございませんでした」
と託びた。呼び出した参謀部の将校はわたしの後輩で、
「なんだあなただったのか」と勘弁してくれた。
わたしが文章や言語で他人を怒らしたり不愉快にするくせのあることは、日本やシンガポールでも承知してゐたが、またやったのである。このくせは今もわたしにあることを承知してゐる。 ただし救ひやうのない悪癖であることは、昭和20年に華北で兵になった時も、この「くち」のせいで撲られながら、いまだに癒らないことでわからう。 言はず書かねばよいことは知ってゐるのだが――。

スマトラの雑記帳には、先づスマトラの気候をどこかから写して来て、メダンの雨量は一、二、三月と六、七、八月とが少いことを記してゐる。 いはゆる乾期にそろそろ入ったのである。わたしは毎日、出歩いてゐる。サドと呼ばれる馬車に乗るか、歩いてで、6月20日の日付で
「このごろ昼はケサワンのチップトップへ、夜は大東亜の向ひの中国人の家へ散歩にゆくのが習ひ」だと書いてゐる。
ケサワンは前にも書いたオランダ人街の一番賑やかな通りだが、チップトップは喫茶店で、7月8日には閉店と記し、閉店のわけは主人に問ふと、
「お客はあなた一人だから」といふことであった。
将兵は軍規によって指定された店(昭和21年以後のオフ・リミットに当る)以外にゆくことを禁じられてゐるのをわたしは知らなかったのである。 大東亜といふのが、その指定の喫茶店でいつも兵で満ちてゐたが、わたしは却って行きづらかった。
将校用の偕行社といふクラブが開かれたのはも少しあとか、わたしは多分あの後輩の少尉にさそわれてその自転車のうしろに乗せてもらひ(わたしは自転車に乗れないのだ)、 行って玉を撞いた。35か40といふ最低の点であったが、撞いてゐる中に、イギリスの国歌が聞えた。わたしはすぐそれに気づいて少尉に云った時にはもう終ってゐた。 オーストラリアからのラジオ放送ででもあったらうか。
わたしはラジオの聞えた室へ行って、ジョンゴス(ボーイのこと)をなじったが、答は懸命で「そんなもの聞いたことはない」一点張りだったので、わたしが我を折るよりしかたなかった。 (わたしは今でも聞きぞこなひでないと思ってゐる)。役に立たない軍属であるが、わたしの属してゐる宣伝班といふのは、かういふたぐひの仕事をするのだと思ってゐた。

やはり六月の末にまた仕事があった。東海岸州の土侯を集めて、新聞記者が会見し、記事をとる。ついてはお前も行けといふことであった。 わたしは半袖半ズボンのカーキ服に軍刀を指して、朝日、毎日、時事通信の記者たちと東海岸州の知事官邸に行った。 定刻にあらはれたのは、スルタン、ラジャの称号をもつ東海岸州の土侯またはその子で、みな黄金の短刀を佩び、顔立ちも貴族的であった。土侯の地位や収入についての質問のあと
「大東亜戦争の意義についてどう考へるか」
といふ質問に、一等賢明な顔をした土侯が答へた。
「われわれはアジアがアジア人の手によって治められることを希望し、大東亜戦争の意義もそこにあると思ってゐる」
といふことであった。
「日本国民に訴へることがあるか」と聞かれると、デリーのスルタンの子が答へた。
「出来るだけ教育をして貰ひたいから、宜い教師を送ってもらひたい」。
わたしは日本で教師をしてゐた時の経験を思ひ出して嘆息した(今だにわたしは教育は苦手である)。

土侯たちは自分の領民の無智をいって、これはオランダ人が教育をしなかったからだといふのだった。蘭領印度には一つの大学もなく、オランダ語もなるベく教へず、 従って州の長官、分州の長官、警察署長などはみなオランダ人だったといふのである。
わたしはこの慣習が改まるのには時間がかかるだらうと嘆息した。この嘆息は日本が負けてインドネシアが独立国となる日を予知しなかったからに相違ない。 愚かなことはわたしの方がひどかったわけだが、インドネシア共和国でわたしの見たこの土侯たちがいまどうしてゐるのかは誰も教へてくれない。

 5

話は前後するが、わたしは宣伝班支部の軍属四人のうち、月給が最高であった。理由はわたしが多分、最年長の上、東京帝大を出てゐたからである。 東大紛争のまだすっきりしない今、このエリート意識と待遇とにはわたし自身も考へることが多い。いくら貰ってゐたかといふと、戦地加俸を合めて410円であった。 今のいくらになるか比較の方法もない。うろ覚えでは大尉より上、少佐より下のところだった。
支部の食卓にはじめて坐った時、最高の席についた支部長は下手な英語で現地人でただ一人この食卓につくことを許されてゐたメナンカバウの通訳にいった。
「月給では田中の方が上だが、わたしがここの長なのだよ」と。
なぜそんなことをいはねばならなかったか、わたしにはわからなかったが、わたしは「その通り」と神眇な顔をしてゐた。

軍人では軍曹が一人ゐて、これがわたしのま向ひの席につく。この軍曹はわたしのメダン着任すぐ、わたしに
「兵隊で悪いやつがゐたらわたしにいって下さい、ヒドイめに会はせてやります」
と好意的にいってくれた。その兵隊は三木上等兵のほか、石川仁太郎上等兵と平井忠治一等兵、谷村泉一等兵であった。三木上等兵はちがふが、あとはなぜ宣伝班に廻されたかわけのわからない良い兵隊で、ひっそりとしてゐる。 二人の一等兵はおほむね炊事に廻ってゐたやうだが、その補助としてバタク族の青年が二人ゐて、一人だけはアブと名を覚えてゐる。そのほかにいつのまにかジャバ人の美人がゐて、 わたしはこれを支部長(口ひげをはやしてゐた)の専属だと察して、ろくに口もきかなかった。
もう一人、洗濯、掃除の女中が雇はれて来て、何族だったか。日本人の妻で子供を二人こさえたが、戦争直前に追放された夫の帰りを待ってゐるので雇ったといふことだった。
このお掃除さんにわたしはある日、大分上手になったインドネシア語で笑談をいった。自分を指して
「トヮン・チャンテー(美男の旦那)、トヮン・マニス(すばらしい且那)、トヮン・バグス(善良な旦那)」といったのである。
彼女はにっこりして、このことばをくりかへし、その後はわたしの室へやってくると、挨拶にこのことばをいうやうになった。 それはよかったが、いつからかわたしは彼女がわたしの室に花瓶をもって来て、毎朝、花を生けてくれてゐるのに気がついた。気がつくと、 わたしはすぐ、「花は好かない」と叱りつけ、彼女は悲しい顔をして、笑談をいはなくなり、次に気がつくと、軍曹の室へ花をもってゆくやうになった様子であった。
この好意はむくはれたか、わたしの埸合と同じくむくはれなかったか―。わたしは全然知ってゐない。(わたしが支部長になったころには、彼女はもうゐなくなってゐた)。

も一つ話す。支部の隣りは同盟支社でよく遊びに行ったが、さらによく遊びに行ったのはその隣りの毎日支局で、故篠原支局長と桐山眞さんの二人と妙に気が合ったからだが、 この支局に阿美といふかあいい華僑のお茶汲みがゐた。これが美人の上にとても賢い。わたしのインドネシア語で十分に意が通じるし、二氏の留守の時でも、お茶を飲ませてくれた。
この阿美がある日、わたしに女友達を紹介するからと日時を指定した。わたしは笑談かたがた「日本人を友だちにもちたい中国人のむすめさん」とデートした。 もとより阿美立会ひの上であるが、一目見てわたしは絶望した。阿美のやうに賢くなく、顔つきから見てインドネシアと華僑のあいの子で、わたしの好かないタイプだったからである。

先に述べたわたしの月給410円はシンガポールを出る直前、宣伝班の主計下士官にもみ手をして六月分を前借りしたが、その際たのんだ給与通報は一向に来ない。 近衛師団では、この書類が来なければ一文も払へないことになってゐるので、わたしはだんだん困って来たが、タバコ代だけはシンガポールへ帰るまで何とかしてゐた(毎日支局で30円借りたが返したかどうか)。 もとより金のかかる女友達どころではなかったのである。

ついでにも一つ話すと、六月から七月かに師団の慰安所が出来た。慰安所といふのは、外地へ行った兵隊ほとんどが知ってゐて話さない軍関係の設備である。 日清、日露、第一次世界大戦の時にあったかどうか、日中事変で現地人の女性を将兵が犯すのを防ぐために出来た売春施設である。 メダン市の東のはずれだったかに出来てゐるといふので、ある夜わたしは行って見た。浴衣を着た女性がゐたが、訊ねると半島の女性で、しかもわたしに偶然当った女はわたしを軍属と知ると、
「南方の軍関係の仕事をさすとの募集に応じて来て驚いた。わたしはちがふがこの中の二人は処女で、お国のためになり、お金がもうかると勇んで応募したのだ」
といふ。その「わたし」は学校へゆく子供があるが、こんな恥かしい仕事をしてゐるとはゆめにも云へないから、便りもしないといふ。わたしはその子の名と住所とを教へてもらって、
「あなたのお母さんは南方(スマトラとかメダンとか書いてはいけない)へ安着し、お国のために働いていらっしゃるから、坊やもしっかり勉強して下さい」
とハガキを書き、東京の妻へのハガキと同じく「投函」、といひたいが、実は軍曹の印をもらって、師団の郵便係りに廻した。
このハガキが着いたかどうか、わたしが二度と会ひにゆかなかったこの女性が子供と再会したかどうか、わたしにはわからない。 戦争は多くの罪を造るが、ここでもわたしに無力無恥卑怯といふ罪を犯させたのである。
つひでにいふと、この施設は午後三時?までは兵、そのあと下士官、夜は将校ならびに将校待遇に開放されてゐて、相手はかはるが女は同じ、ただし売春価格は兵が安く、 将校が高いことになってゐた。バカにもほどがあるではないか。

6

六月のおはりに毎日新聞の篠原さんから、アチェー州へ取材にゆくが同行しないか、との申し出があった。わたしは仕事がなくて困ってゐたうへ、 スマトラ民族のうち人口で三番目、熱心なイスラム教徒で、オランダ人と三十年間戦ったといふこの民族の実態が見られるといふので大喜びであった。 ただし支部長を経て近衛師団の許可がなければといふと篠原さんはさっそく渡りをつけてくれたと見え、支部長から出張命令が出た。

6月28日、わたしは刀を佩びて毎日支局の自動車に乗った。篠原、桐山二氏の護衛兼通訳といふのが交換条件で、わたしは役には立たないが、刀をもって出たのである。 出発は夕方だったか、メダンから22キロのビンジェイでは熱帯につきものの、あっといふ間の日暮となり、また22キロのパンガラン、ブランデン市を通った時はまっ暗であった。 しかし赤々と灯がついてゐるのは、石油工場で、鉄条網を張りめぐらし、歩哨がついてゐる。
ここから出る石油はそのままで自動車につかえ、航空機用にも役立つ純度の高いものだが、噴き出る量が多いのに、日本からの油槽船の来かたが少いので、海へ流してゐるといふ。 なるほど油槽もあまり見えなかった。ただしこの説明は誰から聞いたのか、篠原氏は記事にならないと早々にここを去って北へ向った。

わたしのノートにはこの夜、アチェー族の四酋長と篠原氏との会見があったことをしるし、これは記事になって内地の新聞にのり、 家族たちも「田中克己軍属が同席し」とある箇所で元気なのを知った由である。しかし場所はノートに記さず、会合した四酋長の名のみしるしている。
日本軍政下に郡長、村長の称を与へられた四酋長はみなトク、すなはちインドネシア語で「わがきみ」と呼ばれる東海岸州のラジャ(王)と匹敵する称号をもってゐた。 みな得々と日本協力を約し、特に日本軍の占領以前にオランダ人をつかまへてこれを日本軍に引き渡したことを誇る様子があった。
通訳はわたしに出来ずアチェー語の出来る軍属の人がしてくれた。終戦のころアチェー族は反乱を起し、近衛師団の討伐に先だって、この通訳は殺された由であるが、 散会のとき、アチェー族の自負の強すぎるのを愁へておいでだった。すでにこの頃から覚悟をきめておられたのだらうか。駒井通訳といひ、名は忘れたが、哀惜にたへない。

この夜の泊りは会見の行はれたロスマウエだったらう。こことシグリ、ビンジェー、バンビの四郡村の酋長が集まり、ロスマウエが丁度その中間になってゐるので、 かく推理するのだが、毎日新聞の古いのが見られれば確定する。わたしは宿屋(中国飯店)の主人にどなりつけて用意させ、ベッドに入ったがほとんど眠れなかった。 これは寝ぎはにどなったせいである。
しかし翌日わたしはいひつけてパンと卵焼きをもって来させ、自動車に乗り込んだ。咋日は夜なので気がつかなかったが、自動車の速度は時速100キロどころか、120、140となる。 平坦な舗装路だが危いと、わたしはショピール(ジャバ人?)にたびたび注意して100キロを守らせた。それでも速いので、目に見えるところ前方を横切るアチェー人はみなかけ足であった。

そんなわけですぐアチェー州の首府コタラジャに着いた。記者二人はウェ島のサバン軍港へ出かけたが、わたしは洋風のホテルで昼寝さしてもらった。 やがて二人は帰って来て軍港は紀事にならなかったといふ。元気づいたわたしは二人にたのんでアチェー族の民族学調査に同行してくれるやうにした。 案内にはコウラジャの郡長トク・ニャアレフの甥のトク・ハナフィアがついてくれた。トクは前にのベたやうに(ラジャ)なのである。

わたしのハナフィアへの注文はアチェー族の富豪と貧民それぞれの住宅に案内してくれといふことだった。この注文どほり、まづ金持の家へ案内された。 家の名を問ふと、ハナフィアはトク・ハッサンの父の家といひ、ついでハッサンの姉妹(シスター)の家といひなほした。あとの方が正しいので、アチェー族は結婚しても、 女子は両親の家にとどまって、子供もここで育て、夫は妻の家へ訪ねて来る。日本の平安時代と同じく通ひであって、かれらの厳しく守るイスラム教徒とは一致しないが、 かれらはこれだけは頑守してゐるのである。

この家のことをのべる前に、わたしは鴎外先生と同じ「発見」をした。ただし鼻糞ほじくりではない。わたしどもが自動車でゆく途中、尿意を催ほすと、 もとより車外に出て立小便をする。この風習は日本人の悪習で、スマトラにゐた間ももとより見たことがないが、路傍で向ふむきになって膝まづくやうな格好をしてゐる男たちを二、三見かけた。 そのあとが濡れてゐるのである。これはイスラム法で、はねがかかるといけないといふので、日本の女と同じ流儀でやる、といふのがショピールの説明であった。 このショピールはのちには尊敬する日本人のまねをして、立小便をして得意だったが、今どうしてゐるだらうか。
何日も命を預け、わたしのインドネシア語がよく通じたのでなつかしく思ふ。閑話休題、先をいそぐことにしよう。

 7

ハッサンの妹の家へ、ハナフィアの案内で入ってゆく。入口の門は石川五右衛門の隠れてゐた門そっくりで、南の右側に男専用のベランダがある。 みな正倉院と同じく高床式である。ベランダのすぐよこに設備があって便所である。芝生を南にゆくと突当りに建物があり、これがおも家。庇のベランダ(シラサ)には左右に階段があり(正面にはない)、 ハナフィアはつかつか登って、交渉をすましたらしく、「入ってよい」といひ案内して見せる。
ベランダにもべッドが一つあり、奥に東西に拡がったスラマと呼ばれる室は何だか使用法がわからなくて、また左隅にベッドが一つ、階段を登って寝室(ジュラヤ)に入る。 寝室は三つならんでゐて、それぞれ廊下で隔たっている。また階段を上るとスラモ・リクルといひ、女部屋だといふ。ここには何も見当たらない。
ここから廊下で連ってゐる別棟へ階段を下りてまた登ると、厨があり、その左は召使の室、右は物置だときいたが、厨にゐた主婦らしい人はわれわれ一行に目もくれず、物もいはない。 ハナフィアに合図してシラサに帰ると、ベッドに腰かけた男がゐて、トングー・イスカンダーといった。「アレクサンダーの君」といふ名をもつこの男に対し、わたしは甚だ狼狽した。
「留守に無断で」と思ったからであるが、この先ほどの主婦の夫は何ら動ぜず、コタラジャの電話局員であるといった。 勤めがおはったので「通って来た」のだと気がつくには大分かかった。ハナフィアが「女主人にとついで来た人だ」と説明したからである。 母方居住制は頭でわかってゐても、実際はわたしたち父方居住制には理解しにくいものなのである。

ハナフィアは次に約束どほり、最も貧しいアチェー人の家につれて行ってくれた。前の家が柱49本だったのに対し、これは16本でいふまでもなく小さい。 垣を入ってゆくと左側に水浴(マンデー)場があり、右側に便所があり、すぐよこを小川が流れてゐる。文字通リのカワヤである。
階段を上るとすぐ右は男の待合室、次は寝室(ベッドが一台ある)もとよりここは扉があるが、あいてゐたのでまる見えである。 左と奥で家の大部分を占める主婦(同時に主人)の用いる箇所には机があって、もとより勉強用ではなく(学齢の子どもはよそに寝泊まりする)食卓である。
左(北西隅)には炉があって、これでおしまひ、家具は何も見えない。わたしはよこにゐたコタラジャの「アチェー新聞」のイスマイル・ヤコブ君の署名をもらうと
「すんだ(インドネシヤ語「スダ」)」といって退去した。不十分であるがアチェー族の家は貧富を問はず三部に分れてゐるのを知ったからである。(図は略する)。

このあともうすることがないし、わたしは昼寝をしたので、篠原、桐山二君をさそってレストランへ行って見た。バンドが奏されてゐて最上席かどうか、 一等前の席が空いてゐる。隣りに白い服を着してゐるのはいふまでもなく、サバン軍港駐在の海軍将校である。
わたしは会釈もせず並んで坐った。これも面白くないと、曲が甚だよくない(ただしわたしは音痴である)。わたしはこの時までついて来てゐた新聞記者イスマイル.ヤクブ君に質問した。
「敵国アメリカ風の曲ばかり奏するがどうしてか」。
ヤクブ君はビクッとして答えた。
「これはわたしたちの同族ハワイの曲です」。
ハワイがアメリカの一州となるまへで、ウクレレではなく合奏曲なのだが、音痴のわたしはだまって席を立った。篠原、桐山二君も同時に席を立った。 そのあとわたしは何をしたか忘れたが詩が残ってゐて、行跡を証明する。「印度洋を見る」といふ題で、スリーマン高原にてと傍題がある。

ここより見れば静かに湛へたりな印度洋
そは若きスタンフォード・ラツフルズが
新嘉坡の建設のために船をゆかしめし海
――その市の昭南島と変らんとは夢にだも知らず
またダルプケルケの大艦隊、マラッカの市を取らんため
満帆に風をはらませて急ぎしは四三〇年の昔なりき

いま知るや この洋を自由自在に往来するは
わが艨艟、わが輸送船のみ
あだし船 なべて沈み、島蔭にひそみ隠れて
往来するたびに許されざるを――
右手には象、虎の棲むスラワ火山聳え立ち
コティヂの庭には仏桑花紅く、金鶏草黄なり
知らず吾が生きて再びここに来らんことありやなし
ただわが感慨の一端を述べて
家郷遠征を懐ふに答へんとす。(※『南の星』所載詩のバリアント)

 8

この詩は宣伝班に呈出して日本でどこかへ掲載された。その理由、その場所は記憶から逸した。ただ緒戦の戦果!!におこった軍属の気持がよく表はれてゐると思ふが、 この間わたしの詩の選をした福地邦樹君などきらって(或は下手クソと思って)採ってくれなかった。
日本が負け、わたしの二度とスマトラのスリーマン高原へゆけなくなるなど予想しなかった様子は実によく書けてゐると自讃する(これがわたしのいつも妻からたしなめられ、 主に乞ひいのる過失の最大のものである)。

スリーマン高原はもうアチェー族の住家でなく、ガヨ族の住地だったと思ふが、ここで偶然「アチェー語」といふわたしのノートが見つかったのでしるすと、 アチェー語では1はサトウでなく、2はインドネシア語と同じ、3はトル。4は、パート、5はリムンと少しづつちがふ。夫はラカイ、妻はビナイ、父はバ、母だけがインドネシア語と同じくマである。 ただし後の旅行でやった方言採集はこの時はせず、マースデンの「スマトラの歴史」からぬいてゐる。まだ民俗採集の用意が出来てゐなかったことが明らかである。

6月30日の泊りはタケグンのホテルである。師団参謀と同行したおかげで、駐在隊長(京都の撮影所長だった由)が現地人の楽隊を集めて歌をきかしてくれた。 その譜は「魚捕り」といふ歌で、インドネシア語だったことは写しがあって判明する。譜も略譜ながら写しとってあって、わたしのただ一つ採集したインドネシアの民謡である。 参謀と五葉か二葉か問答した松の木のことはガヨ語でダマルといふと、ただ一つ覚えたガヨ語である。

この夜の眠りは涼しくてよく眠れたが、わたしは眠る前に悪事をした。楽隊のよこにゐて通訳した青年にガヨ語の辞典があるかといひ、あすの朝もって来させる約束をした。
翌朝出発前に得々と持って来た青年にわたしはその価をきき、五円と聞いて、「オランダ人から盗んだくせに」と憤慨して(とっさによく憤る男である)、ぬけぬけと、
一、    金五円也、右正に借用仕り候
と英語で書きサインし、日付をいれた。この借用証はいまだにガヨ族の中に残ってゐると思ふ。ただし字引きの方はわたしがシンガポールを去るまへ、憲兵の検査で
「買った」といひ、「受取りは」と問はれ、
「無い」といへば、「もち帰り無用」との命で、憲兵隊に預りとなり、他の数十冊の字引きと共にその後、大本営かどこかの命令で日本に来、いま彦根の大学にあるとか聞いた。 1ページも開かなかったこのガヨ・オランダ語辞典を一度だけよんで見たいと思ふが、いまだにはたせない。

ガヨ語はも一つ記した。テロペといって女たちのかぶりもののことである。涼しいからか、それとも別の理由からか覚えはない。大原女のやうだったと思ふ。

午前中また篠原君らにたのんで民家を見せてもらった。アチェー族とちがって大家族制で、昔の飛騨の家々のやうに大きな造り、もとより高殿式で、床下にはタキギを積み、 これが多いほど金持だとのことだった。
アマン・ムハマッドの家はクケグンのブラー・ハキム村の61戸の密集した家屋の一つだが、中に入って見るとまん中が昼間の生活用、両側が寝室で、家長用の寝室以外はしきりがなく、 マットが五つ並び、奥には寒さよけのゐろりがある。マットの数からいふと十家族以土住めるやうになってゐたが、ここではいま六家族が住み、普通は八、九家族だとのことだった。 アパートの壁なしと思へばよい。ただし昼間用のところには12間のしきりがあった。

こんなことはその後、訳されたレープの「スマトラの民族」(上下巻とも昭和18年国立民族学研究所―今はない―の訳で出た)にも書いていないから、得意でしるす。 図入りだとはっきりするのだが、その必要もなからう。子どもたちや孫たちよ、わしは「来た、見た」とだけ記しておく。

家の背後には米庫が二、三棟あって蓋(ペルペ)をし、木の桶の中には精米してない籾がつまってゐた。一夫多妻婚はと聞けば、金持だけがするが、 回教徒とて四人以下との規定を守ってゐるとの答であった。
唐辛子を乾してゐるので聞くとロンボリと答へた。ゆふべの楽隊の演じた踊りはムナリといひ、表情をしてゐるが椅子を用ひて踊るタリ・クルシといふのもあり、 クルシは椅子のことだといった。
タケグン地区の人口2万9千人、内ガヨ族22,836人、インドネシア人5,384人、アラブインド人100人、華僑500人、郡長をラジャといふことアチェー地区と同じく、村長はケジランといった。
タワル湖は64平方キロ、深さ200メートルと記してゐるから、十和田湖より大きく、摩周湖より浅い。季節風テピクの吹く時には魚がとれるといふが、その魚の名をきかず、見もしなかった

 9

わたしはまたメダンに帰って来た。シンガポール(昭南市)の宣伝本部から映画が来て公_で映写されたのは七月の初めだったらうか。二本あって一本は東京の風景だった。 銀座や丸ノ内の風景が映されてゐて、わたしたちはなつかしがって見てゐたが、現地人の華僑やインドネシア人は感心した時にやる舌打ちをして東京の近代都市としての姿を見てゐた。
この日以後、「東京とメダンとはどちらが大きいか」といふたぐいの愚問には悩まされなくなったから宣伝効果は十分あったが、もっとうれしいのは、 内地からの手紙類が回送されて来たことだった。妻からのたよりも来てゐて、萩原明太郎先生のお葬式に参ったとのことも書いてあった。 伊東静雄さんの令弟が来てとっていただいたといふ写真も同封してあったと思ふ。

悲しみにたへなかったのは、シンガポールを立つまへ、毎日新聞支局で見て知ってゐた故朔太郎先生のおはがきが、今ごろになって着いたことであった。 文面は簡単で、家内がお好きな酒をもって参ったお礼と「近況お察しして曹オく存じます」とのおことばとがあった。万事自由な内地にこのスマトラの果物や酒をお届けするにも、 もう幽冥界を異にしてゐるので、何ともいたしかたないと残念でならなかった。ちょうどいただいた丸山薫氏への便りに、わたしは朔太郎先生の訃報きいたとして、
わが来しはふるさとの人つつがなくまさきくあれと念じつつ来し
との歌を記した。小高根太郎・二郎の両氏ならびに伊東静雄氏のたよりも同時に来た。伊東氏には
わが書棚にルバイヤットのある故に君が詩集を思ふことあり
のほか二首を記した。子文書房発行の「詩集夏花」の扉に森亮氏訳のルバイヤットの一節を記してあるのは、伊東さんの詩集を秘蔵してゐるひとならよく知ってゐることである。

この詩集と大山澄太氏の「日本の味」とわたしの文集「楊貴妃とクレオパトラ」とが第五回の透谷賞(この賞はこれが最後である)を受けたのはこの五月のことであって、 わたしは帰国後はじめてそれを知ったが、伊東さん大山さんと違ってわたしは従軍賞が加味されてゐると直感し、恥かしくてならなかった。 陶製の賞牌に附せられた推薦者には佐藤春夫・中河與一先生のほか、朔太郎の名も列記されてゐたかとおぼえてゐる。まことにありがたいことである。

出発前にとりまとめて肥下恒夫君に託した詩は「神軍」といふ題で、保田與重郎君の跋がつき天理時報社からやはりこの五月に出版され、スマトラへも十冊送られて来た。 受け取った日は記してないが、多分、八月頃だったらうと思ふ。
そのころのノー卜に、
「七月八日、この頃メダンに慣る。チップトップ閉店。ホテル・ド・ブール、偕行社、ホテル・グランド、アジアレストラン等あり。友に張世良、ノール、タリブ、阿美。南十字星、 宵早くすでに傾く」としるしてゐる。

チップ・トップは喫茶店で、軍指定でないので来客はわたしだけといふので閉店したのである。ホテル・ド・ブールは前にも記したメダン随一のホテル。 「グランド」や「アジア」などいふ名のホテルやレストランはもうわたしの記憶から消えてゐる。
張世良は前に述べた勲三等をもってゐるメダンの華僑の代表者張歩善の長男で、旧暦5月5日にはわたしにチマキを食ベさしてくれた。 そのあと彼がインドネシア人の愛人を連れて紹介したので、二度びっくりした。よく肥った、英語を話す好青年であったが、今どうしてゐるだらう。

ノールとタリブはともに同盟通信に雇はれてゐるインドネシア人で、わたしのインドネシア語はみるみる上達した。 市中を背広で歩き、喫茶店で同店の客と自在に話しあへるやうになったのである。同盟通信支局にはも一人華僑がゐて、その家へ遊びに行ったおぼえがあるが名は忘れた。 英語で話して「年はいくつ」と聞き、「ピッグの年だ」といふので一驚した。わたしと同じく猪の年(1911)生れだったのである。

今なほ毎日新聞に重役としておいでの枝松茂之氏が、為井さんといふ記者とシンガポールから来られ、篠原支局長と三人でさそって下さり、 ブラスタギといふ一千メートルの高原へつれて行っていただいたのは7月5日で、その夜は久しぶりに凉しいめにあった。
この高原をとりまく峯のうち、シバヤク山は活火山で、軽井沢を思はす土地だが、咲きみだれるコスモスや百日草は、戦前ここにゐた日本人の花屋さんから種子を貰った由である。
私はホテルの庭に造ってあるゴルフ・コースでクラブをふってゐて、近づいて来た日本人におどろかされた。よくおどろく男である。

 10

一昨年の11月号(165号)に書いて以来やめてゐたスマトラ記をつづけて書くことになった理由は二つある。誰も読んでくれてゐないと思ったこの記録を、 春夫先生の七回忌でお会ひした庄野英二さんに「昔のことよくおぼえてますね」といはれて、読んでもらってゐるのがわかったことが一つ、 もう一つは今年八月に迎へる還暦の翁の常として思ひ出話が楽しいのである。読まない「果樹園」の読者にはまことに気の毒ながら、 小高根さんが散文をも書けと仰せられたことをいいことにして書かしてもらはう。

ブラスタギといふメダン市の避暑地のホテルの庭で、わたしは平服でざん切り頭の男が近づいて来て、突然話しかけたことばにおどろいた。その男はわたしに、
「軍属さん、あなたの知ってゐる日本の軍艦はおほかた沈みましたよ」
といったあと、くはしく聞かうとするともう見えなくなってゐた。わたしはゴルフのクラブを握ったまま、しばらく考へて「気ちがひだらう」と結論して、またクラブを握った。

わたしの知ってゐる軍艦は陸奥、長門などの旧式戦艦だけで、それもはっきりとは知らないが、三月シンガポールへの航海中、 サイゴンへ寄る途で見たわが聯合艦隊の偉容はまだおぼえてゐる。それが殆んど沈んだとは信じられなかったのは当然である。
この軍人の伝へたがったのは、多分6月5日のミッドウェー海戦の大敗であらうが、この海戦のことは南方の軍属には伝へられず、もし伝へられたとしても、 失はれた航空母艦「加賀」「蒼竜」「赤城」「飛竜」はその存在も知らず、これとともに海中に沈んだ空軍の勇士たちの損失がその後の航空戦の不利を来すことなど、 想像もできなかったらう。
この一瞬だけわたしを驚かせた軍人は、たぶん味方の敗戦を知らぬげの軍属に憤慨して、軍の機密を漏らしかけ、その危険に気づいて早々に姿をかくしたのであらう。

わたしは暖い飲物を摂取したあと、毎日新聞の自動車でまた暑いメダンに帰って来た。
メダンの宣伝班の支部から軍人の引揚げが命ぜられたのはこの直後で、わたしは残った軍属四人中の最年長者として支部長を命じられた。 同じころ毎日新聞の支局も為井さん一人となり、篠原、桐山二氏もシンガポールに帰還することとなった。二君はわたしに別れを惜しんで、化粧鞄を賜はったが、 これは長くわが家にとどまって、昭和18年、報道業務中に亡くなられた篠原氏を忘れさせなくした。

わたしは仲良しを失った上、俄かに小人数になった宣伝班支部長として、大変な苦痛を感じた。シンガポールで1ヶ月間、120人の現地人の長としてゐたときにも感じたが、 わたしは人の上に立つ柄でないのである。
わたしの部下といふことになってゐる永田君は新聞記者、も一人の某君(姓名を全く忘れた)は台湾の教員、一番若い森武二郎君は同盟通信のカメラマンから徴用されたのである。 わたしは支部長として、すべての責任は負ふかはり、永田君はマスコミ関係、某君には現地人の日本語教育、森君には師団から一週に一回支給される主食副食の受取りをたのんで、 了承してもらった(と思った)。もとより三君が兵とともに従来行ってゐた日朝・日夕の遙拝点呼などはとりやめとし、支部長の中尉の用ゐてゐた室は永田君に与へた。 永田君はわたしに一番近いと思ったし、いまも信じてゐるが、相手がわたしのことをどう考へたかはわからない。
事務室(現地人の出入する)の奧には特別の椅子が置かれてゐたが、さて九時の執務時間になると、台湾から来た某君がデンとそこに坐った。 わたしは不審でもあり不快にも感じたが、「そこは支部長の席だよ」とは、いふもいまいましく、そのままにさせておいた。

不愉快な支部長の任務が何日続いたか、シンガポールから映画班が到着した。スマトラ紹介の映画をとるといって、これも徴用の映画技師、稲垣浩邦君が長、 カメラマンの田辺良男君とインド人を父とし日本人を母とした青年(日本姓を称してゐたがこれも姓名ともに忘れた)を通訳として、 戦闘をほとんどしないで日本領土となった(とわたしは思ってゐた)沃土スマトラを内地に紹介するためにわざわざ派遣されて来たのだった。

将兵がゐなくなったので、室は十分ある。どうぞどこでもいつまでも使っていただきたいといふと、稲垣君は早速三人で、メダン市中を撮影に出かけたが、帰って来ると、 ボーイ(ジョンゴス)に命じて米飯をたかせ、市場で買って来た魚や貝で握りずしを作った。見事なもので、まぐろ、えびなど日本そっくりのタネはおほむねそろったが、 シャコだけは見つからなかった由であった。わたしはシンガポール市長の大達茂雄閣下に潰物をいただいて以来、久しぶりに日本食を食べた。 おいしいことはまちがひなかったが、わたしはふしぎに現地食に慣れるたちなので、味よりは稲垣君らの腕の方に感心して食べた

 11

稲垣君にたのまれたかと思ふが、メダンのサルタンをとりに行くといふのでついていった。わたしのインドネシア語では敬語はないので、もとより通訳が交渉に当たり、 サルタンは承知して四人の妃と多くの子供たちを全部、中庭に集合させた。しかし撮影が手間どるとみるみる機嫌をわるくして、いい加減にしろ、とでもいった様子であった。

これがすむと稲垣君は駅へ行って木炭を焚いて走る汽車を撮影した。兵隊がゐないのは困ると考へたが、わたしをのせて車窓から首を出して手をふらせた。 この映画は昭和18年に東京で現像されたが、とれてゐたのはこのにせ兵隊と西海岸知事のセメント工場の視察の場面だけが、まあ写ってゐて、あとは熱帯の強い光線と、 押収したイギリスのフィルムの感度敏感とが加はって、みなまっ黒だった。稲垣君は会社の仕事だったら首だったと閉口気味だったが、それはあとの祭りで、 これから何十日か一行はスマトラを撮しに歩きまはるのである。

その第一は前に行ったブラスタギ高原へ行ってシバヤク火山の噴火を再び見て、ここのホテルに泊った。一行は運転手(ジャバ人であった)を含めて五人、 町をゆく女たちが大原女のやうにかぶり物をしてゐるので、たづねるとトゥドゥンといった。一行がここの踊りを撮影してゐる間、わたしは何となく懐郷の情に襲はれてゐた。 気候が涼しいのと、久々に日本からの便りを見、軽井沢あたりを思出してゐたのであらう。

翌日はシナブン山の裾の高原を通って、アチェー州のバンべルといふところで部隊がジャングルを開懇して稲田を作ってゐるといふのをとりにゆく。 途中サリネンバといふすすきのたぐひの風になびくところに墓標が七つ建ってゐるのを見た。これは近衛師団の北山捜索聯隊の岩崎隊がオランダ軍と戦闘して、 千名を降服させた時の戦死者の墓だったといふことだった。この墓はいまはどうなってゐるだらうか。隊長の岩崎中尉とはこの夜同宿して戦闘の様子を聞いた。

バムベルの手前に小川があって、一休みする。向ふに二人の男がゐる。わたしは近づいて一礼し、この辺りをアラス地方といふがアラス族といふのは、とたづねると、 年配の方がわたしがそのアラス族で総人口3万、二人のラジャに統治されてゐて、ブロナスとバムベルの二区に分れ、ブロナスの区長はシドゥン、 わたしはバムべルの区長ラジャ・マリブンと答へた。ラジャは前にもいった梵語系統の「王」である。
わたしは鄭重にアラス語を救へていただけないかといひ、金田一京助先生に教はったとほり、身体の各部の名を問うた。眼はマトウ、口はババ、頭はタカーと教へてくれる。 も一人の男にもいはせて少しちがったかと思ふが、二、三〇単語をひらった。
帰国後、スマトラなつかしくいろいろ本を読んだが、アラス語を一語も戴せたものはなかったので、わたしはアラス語と他のインドネシア諸語とを比較して、 「インドネシヤ諸語の身体呼称」といふ報告を書いた。生涯にただ一つのこる素人言語学である。

佐官の隊長の指揮する伐木作業を稲垣君らが撮影してゐる間に、わたしは下痢気味だったので、傍らのジャングルに入って行った。まっすぐに入って行って用をすまし、 廻れ右をしてまっすぐ帰ったつもりが、ジャングルから出られない。伐木の音も聞えないし、わたしは青くなった。 二、三〇〇メー卜ルしてやっと繁みから出られると、入ったところとは全く別の場所であった。従軍中、青くなったのはこれ一回で、 わたしが廻れ右の時ちょっと角度をちがへたのが原因だったろう。
この時の部隊の開拓地はどうなったらうか。三千メートルを越すバリサン、ウィルミナ両山脈の間を流れるラウ・アラスの谷にも一度ゆかなければわからない。 ラウはアラス語で正しくは(わたしの採集では)ラウエで「河」の意である。

8月3日、もと来た道を通ってメダンの宿舍に帰り、師団司令部は大体の旅程を書いて出張命令を受けた。二十日位の予定であったので、わたしは内地へ便りを書いた。小高根二郎氏には、
山吹の咲き出る垣根いひおこす友ある身ゆゑなかなかにたぬし
と書いたが、この軍用郵便ハガキを二郎氏は今もおもちだらうか。伊東静雄さんに書いた
わが書棚にルバイヤットのあるゆゑに君が詩集を思ふことあり
といふ歌をかいたハガキは、堺市三国ヶ丘のお宅の焼けた時になくなったに相違ない。

翌8月4日、わたしたちは出発した。メダンの市はスマトラでタバコの栽培から発展したのである。八年から十年間の輪作で、休耕期間の最後の年にはミモザ(含羞草)を植えて地味を回復する。 このミモザをマレー語ではクチガン(猫の爪)といふ。とげがあるからだといふことだ。

このタバコ園を写したあと、一行は近衛師団が無血上陸?したタンジョン・ティラム(タンジョンは岬)に向った。無血上陸だのにとるものは何もない。 静かに打ち寄せるマラッカ海峡の波を見たあと、一行はテビン・ティンギの町を通ってシャンタルの部隊に一泊した。

一泊する前には部隊(野村聯隊といったと思ふ)の庶務に申告にゆかねばならない。その時になってわたしはあはてた。自動車の中にわたしの刀が無い。 申告には刀なしではゆけないからである。この刀はわたしが南方にゆくといって大阪のホテルに泊ってゐた時、軍から貸し与えられた長い剣が格好がわるいといふのて、 皆が刀を用意してゐると聞いて八十になる祖母が貰ってくれたのである。備前の新刀で値段はともかく祖母の情を思ってわたしは途方にくれた。

 12

刀をなくしたと知った時の心境はどこにも発表できなかったが、今だにわたしの手帳に残ってゐる。

おほははがたびしつるぎを
ゴム林のかたへに捨てつ
時へては探しもあへず
おほははのめぐみかなしく
わがさがのいきどほろしく
わがつるぎあたらと思へど
たれひとか佩びむつるぎぞ
われおきてしらむつるぎぞ
わがごとく愛でにめでつつ

鴎外先生が亡くされたのは黄金のボタン、わたしは武士の魂を失ったのである。文士であった証拠があきらかではないか。
通訳君に剣を借りてわたしは庶務班に申告にゆき、
「富部隊宣伝班某々以下四名映画撮影に参りました」といって、宿泊を許された。
宿泊の室へゆくみち暗やみで兵隊にあふと「歩調とれ」の号令のもと敬礼され、通りすぎたあと「なんだ軍属か」といふ自嘲の声が聞えた。この夜は宿室も悪く、ちょっと眠りがたかった。

翌朝は起床、点呼で起され、一行五名(自動車運転手を含む)は南に向った。途中、昼食時になると、稲垣君らは住民から雛を買ひ、簡単に首をねじり、羽をとり、焼いて副食物とした。 何もできないわたしは眼を丸くしてみてゐた。現住民が集って来たので、わたしは方言を採集した。この辺りはバタク族のトバ方言である。 地名をきくと、見取な字でウレラワン山U村と記したのは三十才位の男であった。山はドロクである。

まもなく大きな湖水が見えだした。スマトラ一(インドネシア一?)の大湖トバ湖で、面積は琵琶湖の二倍もあり、中央のサモシル島には、バタク族の生け垣をめぐらした村のほか、 人面を石に刻んだ王の墓があると聞いた。稲垣君はここへ渡るつもりで湖岸のパラパットに泊ったが、宿舎で夕食をすますと、スイス人の経営するホテルへ散歩に(もとより自動車で)でかけた。 ここでドイツ人のボンクと名乗る87歳の老人に会ふと、わたしは乏しい金をはたいてビールを命じて飲ませ、「ドイチュラント」とドイツの旧国歌をうたった。
ボンクはドイツ語も忘れかけ、この歌はわたしについて歌ったが、その最中に階段を降りて来る美人があった。わたしと目を見あはせるとまた階上にひき返して見えなくなった。
久しぶりに聞くドイツの歌に思はず降りて来て、歌ひ手が日本人と知ると姿を隠したわけはわたしにはわかってゐるが、ここには書かないことにしよう。

この夜、わたしたちの室をおとづれたのは沼8932部隊服部隊の鷲尾忠夫伍長で、東大の経済を出た、故郷は名古屋市熱田区森後町二ノ四と聞いたが、わたしは約束したかも知れない出征家族への連格をしなかった。
鷲尾伍長の出身地でわかるやうに、このあたりから近衛師団の駐屯地でなくなって、名古屋師団の駐屯地となる。 翌日トバ湖の東岸沿ひに車を走らせ59キロのバリゲに行く。ゆふベ話で聞いた通り、村のまはりに生け垣のあることは、大和の垣内と全く同じだなと思った。 キリスト教の教会堂があり、インドネシアがほぼイスラム教なのに、このバタクだけはキリスト教の布教が成功したのは、この山中にはイスラムが入ってゐなかったからで、 これは台湾の高山族(戦争中までは高砂族)が戦後80パーセントまでキリスト教になったのとよく似てゐる。

閑話休題、パラパットで丁度ラジャ・ブンタルの葬列に出会ったが稲垣君は簡単にカメラに収めただけで、また自動車を走らせた。
わたしはブンタルの死に感動して詩を作った。「南の星」といふ戦争中の詩集(昭和19年創元社刊)をお持ちの方には用はないが、この特集は見つかれば安いが、 発行後まもなく空襲で焼けて残存部数も少い。お見つけになれば買って下さればと思ふ。とまれその詩は

湖辺

湖(うみ)の辺のバリゲの村
着飾りしバタクびと
足早に歩むなり
華やかのよそほひなれば
よそめには祭のごとし
たづぬれば大人の
葬りにゆくと答ふなり
トバ郡の大酋ラジャ・ブンタル
死せしかばそれが葬りと
湖の辺の小高き丘に
人さはにつどひつどひて
よそめには祭のごとく
けふの日を葬るにありき
しづかなる湖のながめよ

といふので、伊東静雄の詩に似てゐるかとも思ふ。もすこし実景をいれればよかった。稲垣君のフィルムのだめだっただけに一層残念である。

 13

8月7日にわたしたちはバリゲを出発してタパヌリ州の州庁のあるシボルガに向った。どういうわけかまた途中に近衛師団の部隊名をとった「宮の湯」という温泉があった。 稲垣君らがここを撮影している間に、わたしはまたバタクの身体呼称をフタ・ボラフといふ男から採集した。ここの方言ではドイツ語のアハラク卜に近い「ハ」の音がきつく感じられ、 きのふ泊ったパラパットは「足」を意味するのだと教はった。
シボロンボロンといふ所へ来るとまた温泉が道ばたにあり、これは全く屋根なしで、「洗心湯」といふ立て札が立ってゐた。石灰の沈澱が見事で温泉丘を造ってゐる。 一行は撮影をすましてから一浴した。
「温泉をなんといふか」とのわたしの質問にアエル・ハーガトといふバタク語が教へられ、パイナップル(アナナス)をホナス、卵をビラーといふ。 バナナはどことも同じくピーサンであるが、ピサウ(山刀)をラウトと採集した。

この温泉からちょっと行ったところで道路工事をしてゐる一隊を見て、たづねるとここの郡長(ダマン)イスカンデル・タンプブルンの指揮するバタク人の一隊であった。 イスカンデルの名はマレイ人にも多く、アレクサンダーの訛りである。

ここまで書いてわたしは散歩に出て、いつものくせで古本屋をのぞくと、与謝野宇智子著「むらさきぐさ」といふのを買って来た。 昭和17年5月29日に亡くなられた母君晶子女史の思ひ出にと、昭和42年に出された本である。この5月29日は、前にも書いたようにわたしがスマトラ行の舟にのりこんだ日で、 朔太郎、佐藤惣之助(5月15日逝去)とつづいて亡くなられたことは、わたしは知ってゐたやうに思ふ。白秋の亡くなったのは11月2日、東洋学のうみの祖で、 わたしの勤め先の所長だった白鳥清先生の亡くなられたのは4月1日(嫡孫芳郎教授によれば、避去は3月30日で叙勲のため、発表が4月1日となった由である)であった。 白秋をのぞくこの訃報にわたしはいよいよ意気揚った。この方たちの亡きあと国のために働くのがますます必要と思ったのだ。わたしは若くて、うぬぼれてをり、 戦果も揚りつづけ(と知らされてゐた)てゐたのである。自分でも嘘のようであるが、事実として書いておく。

わたしの父は大阪生れで、日露戦争に参加した。南山の戦(鴎外先生の「歌日記」に見え、「およづれか弱しと聞きし浪速びと先がけするをまのあたり見つ」と「また負けたか八聯隊」の評語がいつはりだったかと目を丸くされたのである)に損失した兵の補充としてであって安治川口まで乗船の途、銃を戦友にもたしたと自ら記してゐる。 昭和20年3月18日の召集で向ひの三十七聯隊(中部二十三部隊と称した)に入営した満34歳のわたしは体重39キロだったが、大阪駅まで三八銃を重がらずに運んだと比べると、 父の方が弱かったのである。戦闘にも出ず歩哨勤務で怖がってゐる弱兵のさまは「征塵」と名づける歌文集が残ってゐて、よくわかる。 父の十三回忌には写真版にでもして頒つつもりである。

藤田福夫教授の指示によれば、明治16年2月11日生れの父は金尾文淵堂発行の「小天地」といふ維誌の第2巻1号(明治34年9月発行)に西島南峯と称して「片袖」と題してのせた凰晶子のあとに歌をのせられてゐる。 二十歳に達しないで歌を作ったのである。父の遺稿一万首の中には、ここにのせた歌はないやうである。鉄幹、晶子ご夫妻と金尾さんや小林政治さんを通じて交渉のあった証拠は、 わたしの幼い時に見た手箱の中のお二方のハガキ類で証明されるが、父がわたしに語ったお二方のことは「よく喧嘩してたよ」の一語だけで、わたしは聞きかへす勇気を失った。 金尾さんの妹との交渉は写真入りの文があり、小林さんとの交渉はいまだに証人がある。ともかくこの歌人はわたしが南方にゐる様を想像して「海の彼方に」といふ詩を作り、
「赤道直下常夏の、真日はかがよふ昭南に、夜を短かみふるさとの、夢みるまなき吾子ならむ」
と歌って歌ひおへてゐる。晶子女史の病臥、逝去に際しての作がないのは、わたしと同じく緒戦の戦果の昂奮いまださめやらなかったか、 桜花のごとく歌ったつはものの死に外をなげくことをはばかったかのどちらかであらう。

いまさらではあるが、朔太郎への追悼は書いた。筆のつひでで申しわけないが、白鳥先生をはじめとする日本の頭脳や心臓の損失を、あらためて書かしていただいた。 「果樹園」以外にはさういふ場所もないので、いまにして、物に憑かれて、この雑誌の刊行を思ひ立ったことをありがたく思ふ。小高根さんとは同年、福地君もややに老いたかに思ふ。 はるかに編輯・校正・発送の労をこれまたついでにお礼申しあげる。(還暦の年5月26日記す)

 14

バタクは悪評高い民族である。據コ佐平「南方圏の体臭」(昭和16年10月、誠美書閣刊)といふ大東亜戦争を予期して書かれた?本ではバタ族といふ章があって、 マンデー(水浴)が嫌ひで垢まみれで、平気で豚を食ひ、さらに犬をも好んで食ふと記されてゐる。
イスラムのメナンカバウ族やアチェー族との比較でいはれてゐるのであらうが、豚や犬を食ふのは漢人でもこの土に多く来てゐる広東人も得意なことである。 わたしの宣伝班支部で炊事をやってゐた二人の少年がこのバタクであったが、わたしたちは誰一人、これを不潔だと感ぜず、その煮炊きする料理を食ってゐた。

増淵氏はさらに老婆を木にのぼらせ、ゆさぶって落ちれば食ひ、落ちねばまだ役立つとして食はれるのを免かれる、といふ食人肉の風習を記してゐる。 これなどもなんか無根の侮蔑の記事である。
わたしが前に近衛師団に堤出した民族誌では、もとよりそんなことは記さず、バタク族の総人口145万、カロ、トバ、マンダイリンなどに分れ、カロ、 バタクはマレー族が来るまでは海岸沿ひに住んでゐた。山地に退いた今もカロ、バタクは聡明で仕事欲があり、正義感が強い。農民で米を作り、ヨーロッパ人用の野菜やジャガイモを作る。 商業を華僑と対抗して行ふ唯一の民族である。ただし米作その他の農業はおほむね婦人が行ふ。四乃至八家族が大きな家に同居してゐる云云と記した。
いまタルトンから7キロのシポホロンといふ大地でイスカンデル、クンプブルンといふ郡長の指揮で路普請をしてゐる数十人の元気な姿を見てわたしはなぜだか感動してゐた。 怠け者ばかりと思ってゐた南方民族が自発的に勤労奉仕をしてゐるのである。わたしは稲垣君らが撮影してゐるのも喜んで見てゐた。

この日(8月7日)の泊りはタパヌリ州の首府シボルガのホテルで、インド洋の見える庭の椅子に腰かけてゐる将校の中に清田少尉といふのがゐて、 わたしは有名な水泳選手だと知ってゐた。名古屋師団とともにどこに転戦したか、今も御元気でスポーツ関係の仕事をしておいでと新聞で知ってゐる。

このホテルのことだったかと思ふが、「句会をしてゐるから来い」とのことでゆくと、上等兵の水田鐐太郎さんといふのが司会をして互選をしてゐた。 わたしは批評を乞はれたが何もいへなかった。消灯時刻にでもなったのであらう、句会が了ると、水田さんは内地の妻へと句集を托された。 わたしは昭和18年になってから名古屋の奥さんへ送ると、「夫は戦死しました」といふ手紙が来た。仄暗いあかりの下、しづかに句を按じてゐた将兵はおほむね死んだかと、 わたしは悲しみをとどめ得なかった。
勝敗の如何に係らず、理由の如何に係らず、戦争をやめてほしいといふのが今のわたしの悲願である。その理由の一端はかういふところにもある。

翌日はシボルガ発、88キロのパダンシディンパン、そこから110キロのフタノパンを経て十二山といふ名の奇山を見、116キロでギンジョルといふところに来ると赤道標があった。
ジャングルの中に石標が立ってゐて梢では猿が遊んでゐた。たうとう赤道を越えたかとわたしは変に感激した。稲垣君のおかげである。 彼に誘はれなかったら、わたしは相変らずつまらない顔をして、師団司令部参課付の本荘少尉と将校クラブで球を撞くぐらゐが唯一の楽しみであったらう。

この夜の泊りはブキ、ティンギ、もとのフォート・デ・コクである。高原のホテルはインド洋岸のシボルガとちがひ涼しかった。この夜訪ねて来た中尉は中村員重といひ、 ぺンネームを中室員重といふ詩人である。この人ももう亡いと承知してゐる。何を語りあったかはもとより覚えてゐない。

翌9日は36キロのマニンジャウ湖へゆく。火口湖か陥落湖かしらベても見なかったが、水の美しい小さい湖である。稲垣君らはこのあたりに住むメナンカバウ族の子供たちに日本の歌を教へる兵隊を撮影した。 わたしはその間にこのあたりの方言を採集してゐた。よそならマタ(目)といふのをマトといひ、力バラ(頭)といふのを力バロといひ、 耳をタリゴ、髭をシ・スグイといふ時、ゴ・グが鼻にかかった。わたしにこの単語を提供した男に名を問ふと、片仮名でダトマン・チコラドと書き、 その下手くそな字は今もわたしのノートに残ってゐるが、ダトマン君は日本の兵隊とちがってインドネシア国で元気に生きてゐると思ふ。
わたしも還暦に垂んとして生きてゐる。ありがたいかな、わたしは体重38キロとこの間の体格検査で検べられ記入されたのである。

 15

この日わたしはもう一ヶ所、ブト、ブサ村でもメナンカバウ語を拾ってゐる。提供者にラジャ(梵語の王)・ダト・ダンティコといふ男で、 チコラド君とちょっと違ってわたしは身体呼称ではなく太陽(マト・アリ)、月(ブラン)、里(ビンタン)、雲(アワン)、椰子の実(カランビク)といふ風な語を拾った。 たぶんマレー語でいって「ここのことばは?」といふ風に採集したのだと思ふ。メナンカバウ語が通用マレー語のもとになってゐるといふのが証拠立てられたやうで、 別に珍しいことばもなかった。
この日と翌日と、映画班は名古屋師団の演習を撮す。この師団は涼しいブキティンギ高原で、日本と同じ食糧で日本と同じ訓練を行ひ、次の戦闘に備へてゐるので、 その有様を内地に見てもらいたいといふので、稲垣君らも大変苦心したやうだが、後で試写を見ると一向にとれてゐなかった。 それにしても名古屋師団はスマトラからどこへ移ったのだらうか。わたしには調べもつかないが、この師団の移転したあと、ブキティンギの辺りには大阪師団が来て、 その将校としてここにゐた義弟は去年の12月に亡くなったが、一度もスマトラを語りあふことはなかった。

翌8月11日、わたしは48才になる小学校長からメナンカバウの民俗や歴史を聞いた。モハムマド・マクススといふ通訳がゐて、わかり易い語で話してくれるといふことだったが、 英語だったかと思ふ。スマトラの原住はバタク族で、メナンカバウはベトナム方面からあとで渡って来た。(メナンカバウといふ語の意義は三つある。)三人の兄弟から起り、 一人はトルコへゆき、一人は中国、日本へゆき、末子がメナンカバウの祖となった云々。
わたしはくはしくノートしながら、あるところでは信用しないでゐたから、今もこれを再説するにたへない。
次はメナンカバウの女系相続のことで、これは興味があったが、これまた果樹園の読渚の方には説く必要もあるまい。

8月14日には高原を下りて、インド作にのぞむパダン市の西海岸州の州庁にゆき、司政長官矢野兼三閣下に会った。元富山県知事で高校の友昌彦君の兄である。 わたしがそのことを申し上げると閣下は喜んでインダルンのセメント工場が復興してゐるからとって欲しいと云はれた。稲垣君にそのことを云ふと「撮影する」といって閣下について出てゆく。
工場の事務室にわたしは残って借りた書類を写し、それがすむと長官に倣って句を作った。長官は蓬矢と号し虚子門下なのである。撮影がすんだあと昼食をいただいたが、閣下はわたしに、
「田中君、ここにのこって教育部長にならないか。妻子も今に呼べるよ」
と仰しゃった。わたしはきっぱりお断りした。理由ははっきりしないが、異民族の土地で軍政下の居住は苦労が多くて、妻子にそれを味ははすなどは、といふのだったと思ふ。 
もとよりアメリカ潜水艦の跳梁する海路はるばる妻子が来ることもまじめには考へられなかったし、わたしはうすうす日本の敗戦を予感してゐたやうに思ふ。 予感しなかったのは矢野長官が戦後、市民抑留所での責任を問はれてスマトラのメダンで獄中生活を送り、幸ひに長官は日本へ帰されたが、 同獄の東海岸州の長官以下何十名かは死刑となった。これらのことは長官の「獄中記」(潮文社)にくはしい。
わたしは物にふれ激するたちである。教育部長などの人柄ではない。長官の言葉を聞いてゐたら、たぶん帰れなかったのではないかと思ふ。 ただしこの時の応酬は一分間で、長官の苦笑で終ったのである。わたしはホッとした。

翌日もわたしはパダンにゐて、日本人の奥さんを持つウスマン氏の家にゆき、メナンカバウ語を採集した。
翌8月17日にはウンビリン炭坑を撮しに行って途中ソロクといふところで、華人の店協昌盛といふのに寄った。この店の主人の妻は熊本の人で、在留三十年、 日本語を殆ど忘れたお婆さんであった。この夜ブキティンギのホテルに帰ると、「田中徴員に」といふ電話があった。聞けば近衛師団司令部の参課部将校本荘健男少尉の声で、
「命令を逹します。宮兵団附軍嵐田中克己は至急メダンに帰還すべし。」
といふので、電話はたちまち切れてしまった。稲垣君たちに相談したがどうしようもない。尤も稲垣君たちの撮影には一向用のないわたしである。 パレンバンまで行って仲好しの北町一郎、田代継男などに逢はうとのわたしの希望は消えてしまった。あとはメダンへ帰還の方法である。軍に便があるかどうか、あす訊いてみよう。 わたしはひとまづ眠ることにした。その晚また電話があって、毎日新聞の篠原、桐山二氏が迎へにゆくとのことであった。 これでわたしの心配はなくなり、わたしは安眠した(篠原、桐山二氏は早く別れたと書いたが8月20日すぎまではまだメダンにゐたのである。訂正しておく)。

 16

わたしは迎へに来た毎日新聞の篠原、桐山二氏の自動車に乗ってメダンへ帰った。来る時は長くかかった道も一日半で飛ばし、途中のことも何も覚えてゐない。 なぜメダン帰還を命ぜられたか二氏は語らなかったし、わたしも尋ねなかったが、近衛師団の管轄地をこれ以上遠く離れてパレンバンまで行くことが許されないのだと思ってゐた。 シャンタルの町まで来た時、わたしはふと思ひついて、両氏にたのみ警察に寄ってもらった。出発の時、書き忘れたが、ここのオランダ婦人の抑留地にゆき、 太っちょのおばあさんにまづ英語で、
「英語を話すか」と聞き、「ノー」と返事され、ついで
「ドイツ語話すか」と聞き、「ナイン」と返事され、
「フランス語話すか」と聞き、「ノン」とフランス語で返事され、話す気のないことがわかって、汚い小屋にとぢこめられ、 まはりを金網で張りめぐらされてゐるのをわたしは気の毒に思ふと同時に、負けるものではないと痛感したあと、近衛師団の上陸地の撮影にゆく途中、バナナを昼食とし、 人通りのない林の中の道で稲垣君とわたしは並んで小便した。
その時、刀を道傍に置いたのをふしぎに思ひ出したのである。ある筈はないと思ひながら、警察に寄り署長を呼び出して、
「刀無かったか」
と聞くと、すぐわたしの刀がとり出された。

わたしは恥かしくて礼もそこそこ刀を掘んで警察を飛び出した。自動車の中で刀を握りしめながら、わたしは考へてゐた。 皇軍の恩威はこの異民族の地に「道ニ落チタルヲ拾フナシ」まで行はれたと、いい気なものだが、わたしの気持は恥かしさから、ありがたさの方に変って行った。

宿舍に着くと、永田軍属がゐた。わたしの顔を見ると、
「自動車運転の練習をして三日目に上等兵をはねた。さした怪俄でなかったが謹慎を申し渡された」といった。
わたしは部下の監督不行届の為に呼び戻されたのである。わたしはすぐ師団本部へゆき、監督不行届のおわびをいひ、参謀から「今後気をつけるやう」と注意されてすんだ。 永田君の謹慎の間、わたしは事務室に坐ってゐた。わたしの居ない間に永田君はロハニといふ十二、三才の少女をお茶汲みに傭ってゐた。わたしのマレー語は上達して笑淡もいへる。
「ロハニ、もしもだよ、ここの役所で結婚するとなら、誰と結婚するか」、
「トアン、あなたです」。「わたしがだめなら」。
「トアン永田」。「永田がだめなら。」
「トァン小泉(台湾から来た軍属)」。それがだめなら森武二郎軍属だといふ。
わたしは吃驚した。彼女は待遇順(もしくは地位の順)にちゃんと合った答へをしてゐるのである。この少女にしてただちにそれがわかるとは。わたしはこれを植民地気質かと納得した。

永田君の役割であらうが、この宣伝班支部の仕事の一つに東海岸州の出版印刷の許可のことがある。華僑の楊さんといふ老人が甥というのをつれてやって来た。 要件は日本紀元のカレンダーを出したいので許可してくれ、といふのだった。
「まだ8月だぜ、秋にでもなってから原稿もって来い、許可する」とわたしは答へ、楊さんは納得して帰って行った。

内地で五月末に発行された「神軍」といふわたしの第三詩集が十冊送られて来た。跋文は保田與重郎が書いてゐて「大衆亜戦争を熱祷した新時代の詩集」と書いてある。 満洲事変につづく支那事変と、兄弟相ひせめぐのには反対だったが、米英との戦争は愉快だと思ったのは緒戦の大戦果のあとで、軍部がそこまでやるとは、実のところわたしは知らず、 11月8日の正午ごろ朝寝を親友に起されて戦争勃発とのことにびつくりしたのである。
これが熱祷だったらうか。しかし出発間際に集めた詩稿をたのむと、校正から出版所から皆やってくれた肥下恒夫と保田に感謝しつつ、 わたしはこの詩集を新聞社支局と近衛師団の参課部とに駆けまはった。一冊を呈した東大法科出身の本荘健男少尉は真顔で訊ねた。
「詩はなぜ行わけになってゐるのですか。」わたしは「知らない、慣習なのだ」と面倒くさがって簡単に答へた。(行わけの理由を福地君あたり明確に答へて下さればよいと思ふ)。
とまれこの詩集(題名も大東亜戦争後、わたしの作った詩の題から保田によって採られた。)がわたしの戦争加担者の一証である。

これもある日わたしと小泉と二人だけがゐるところへ面会者があった。若い少尉である。宣伝班の小泉といって訊ね、小泉が「わたしだ」と名乗ると、 本を二冊とり出してつめ寄った。この二冊の中、一冊は少尉の著したマレー語教科書、他の一冊は小泉著で、内容は全く同じなのである。これを剽窃といひ、出版法ではどうか、 著者としてはあるまじいことなのである。小泉はこの日あるを知ってか、わたしには云はず、著者も他の名としてゐたのを、少尉は調べあげて対決しに来たのである。
「あやまりなさい。それでも日本人か」。少尉は声を高めたが、小泉は終始答へない。
わたしは代って部下の監督不行届のわびをいひ、今後絶版させるといって引きあげてもらった。これまで支部長の席に坐ってゐた小泉は、これ以後はそこに座るのを止めたが、 礼もいはれなかったし、わびもしなかった。わたしも不行届で発行所にゆき絶版にするやう手続もとらなかった。南洋ぼけといって何でもルーズになるのである。もう八月も終りであった。 わたしの南洋住ひも半年にならうとしてゐたのである。

 17

プアサはアラビア語のラマザンでイスラム教徒は日中は飲食しない。この一ヶ月つづいてゐたのであるが、わたしたちはあまり気がつかなかった。 宣伝班支部のイスラム教徒が通訳と女給仕のロハニの二人だけだったからかもしれない。しかし8月29日にこのロハニがジャバ料理をもって来て、けふはブカ・プアサ(お正月)だといった。 わたしは礼をいってこの御馳走をちょっと食べたあと、お祝に金をやったやうに思ふ。

その夜はメダン駅前の公園で催しがあるといふので行ってみた。インドネシア人も華僑もみな来てゐて、露店が出てゐる。例の華僑の富豪の息子張世良はインドネシア人の女をつれてゐて、 わたしにこれを恋人だと紹介した。そのあと前に述べたカレンダーのことで役所に来た楊老人がぜひお祝にといって、わたしにビール一ダースを渡した。
わたしはけちな華僑のこのしぐさに吃驚して受取り、そこらにゐた知合に配ったあと、自分もちょっと飲んだ。そのあと空腹なのに気づいて、近くにゐた新聞社の支局長に
「ビンジェイへ焼きそば(ミー・ゴリン)を食べにゆきませうや」と誘った。
支局長はたちまち賛成して車の方へ歩いた。ビンジェイはメダンから22キロ離れた町で、ここも今夜は賑ってゐるであらう。わたしのあとには支部の写真技師森武二郎君がつづき、 助手席には支局のボーイが坐った。
車は平坦な道路を時速120キロで走ってゐた。窓から入る風が快く、わたしはたちまち眠ってしまった。

目をあくと、わたしの前に三木上等兵と漫画家の松下紀久雄君とがゐた。シンガポールから来たのださうである。わたしは大喜びして
「メダンの市中を案内しよう」と松下君に申し出た。
松下君は三木上等兵と顔を見あはせ「まあまあ」といって、忽々と立ち去った。

見まはすとわたしはベッドにねてをり、枕許にはま新しいパンツが一枚おいてある(25年たって、当時のメダン軍病院の看護兵を探し出し、訊ねると、 わたしには数へ切れないほど見舞客があって、その置いて行った見舞品をわたしはみな看護の衛生兵にくばって歩いたさうである)。
わたしかパンツをはきかへると、丁度すがたを現はした宣伝班支部のジョンコス(ボーイ)のアブに
「一緒に出よう」といひ、そのまま百メー卜ルほどある芝生を横ぎって通りをゆく馬車を呼ひとめ、南にゆくことを命じ、ベラワン通りから東にある華僑の町にゆき、馬車から降り、 アブと一緒に焼きそばを食べた。熱帯の日は暮れ易くもうまっ暗になってゐた。わたしはまた馬車を呼びとめ、宣伝班支部に帰った。そこには各新聞社の人がみな集まってゐた。 わたしはふしぎに思ったが、わけがわからないので、何かいって自分の室へ入らうとすると、同盟通信社の田浦支局長が
「田中さん、病院で心配してゐるから、一度帰ったらどうですか」といった。
わたしは素直に「なるほど」といひ、たぶん田浦支局長の車に乗せられて病院へ帰った。

それが何日のことだったか、わたしにはわからない。わたしはビンジェイの手前で自動車が河原に転落し、森君と二人、入院したが外傷はなかったが、 家族のことを問はれて妻の姓名をデタラメに答へ、おかしいといふことで入院さされたのださうである。
それから数日(わたしの31回めの誕生日がその中に入ってゐる)わたしの言動は全く記憶がない。この時、診察に当られた久米軍医が三鷹市に開業しておいでのことを知って、わたしは妻と訪ねて行ったが、軍医は二十数年前の患者のことは全く忘れておいでだった。
わたしの記憶はこのあとしっかりしてゐて、わたしの病室の北側の扉が閉じられ、南側に並んだ二室に入院してゐた浅井中尉と松岡中尉とがわたしとよく話してくれるやうになった。院長の命令でわたしの看視をしてゐられるとは少しも気がつかなかった。
浅井中尉は慶応出身の将校で、ブキテマで戦死した毎日新聞記者の柳重徳氏を弔ったわたしの詩を見て、同級生だったといって喜ばれた。

さてかうして日をすごす内、9月15日にやっと退院の命令が出た。あとで聞いた話では、相変らず言動がかはってゐるとの軍医さんの意見に対し、
「いつもさうですよ」と田浦さんがいってくれて退院が許されたのださうである。この意見具申がなければわたしはいつまでも精神異常として入院したままになったらう。 ともかくわたしは早速、師団司令部へ行って参課長に退院の申告をした。

しかし実はわたしはまだ異常だった。宣伝班支局の椅子に坐って通訳と話すとき、英語が旨く出ない。通訳に
「わかるか」と訊ねると彼は「わかりません」と答へた。
それはまだよいが夜になると怖くてたまらず、室の鍵をしめ、軍刀を枕許に立ててやっと眠った。
三木上等兵に内緒でそのことをいふと、
「あんたはいま恐怖症ですよ。怖い人の前ではちゃんとしてゐるぢゃないですか」
と教へてくれた。なるほどと感心して、その夜から怖くなくなった。しかしわたしの異常はシンガポールまですぐ伝はったやうである。 北川冬彦さんの小説「悪夢」にはちゃんと、田中は「気の毒に自動車事故で頭を打ち気が変になった」と書かれてゐる。 いまでもわたしの言動は変ってゐるさうである。自動車事故のせいならよいが――。

わたしのスマトラ滞在は10月12日べラワン港乗船で柊り、同時に仕事はなにも与へられなかった。スマトラでのことで忘れてゐたことを教へてくれたのは草下英明氏で、 その昔「星座手帖」(昭和44年、社会思想社刊)に「南を思ふ」といふわたしの詩が載ってゐる。

印度洋のぞみし夜の
空ゆくは老人星(カノープス)
南十字の四つの星
ケンタウルス座
星映せし海によすがら
こだませし珈排摘む唄

といふのはまちがひなく、スマトラの唄である。しかしいつ作り、どこへ発表したものやらご存じの方はお教へ願ひたい。(了)


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