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たなかかつみ【田中克己】散文集
【小説】 陳夫人 【南方徴用作家 参考資料】
「果樹園」昭和31年7月〜昭和31年9月 (6号〜8号) 連載
陳夫人 (小説)
1
僕の眼はもう前方を見ないのだ。昔のことばかり思ひ出す。賢い眼をして、もっと新しいことをと、未来ばかりまちのぞむ人のそしりは十分承知の上で一つ書いて見よう。
昭和十七年、僕はシンガポールにゐた。そこへ行くまでの船中の不愉怏や、この市での不愉快は一切すっとばして(※『悪夢』参照)、ともかく僕はこの市にもゐられなくなってしまった。
パレンバンへの転出命令といふのをもらってしまったのだ。この命令の出た理由は、これもはぶく。
ともかくインテリの僕は、さつそくパレンバンのことを本でしらべて、うんざりしてしまった。河の洲の上に発達した市で、暑くて海気が多くって云々と書いてある。
僕は久しぶりにまた死ぬ覚悟をした。
死ぬ覚悟をしたらどうなるか。ご存じない人にはまあ教へておく必要があるだらう。気前がよくなるのだ。
僕はもってゐた金を全部つかった。その頃はまだシンガポールの物価もさうたかくなく、僕は月俸四百円あまりを給せられてゐたのだ。貰ったばかりの月給を全部つかってまはった。
このころになって、雨後のたけのこのやうに建ちならんだカフェにゆきつづけてゐる中、フィリッピン人とスペイン人とのあいのこで皆からねらはれてゐる女の子を見つけた。
どうしたかって。どうもしやしないが、なるべく人の沢山ゐる時間にその店へ行って、その女の子をそばへ引きつけておくことにした。死ぬ気だものこはいことなんかありゃしないやね。
その中にみるみる日がたって、もう二三日で便船が出ることになった。僕の月俸もほとんど無くなったので、頃はよしと、僕は甚だロマンチックな別れを告げた。
「今日かぎり僕はこの店に来ない。お前が僕を忘れないために、記念にこれを」。
さういって僕はおもむろに右手にはめてゐた女持の時計をはずして、彼女にわたした。
右手はおかしいって、いかにもさうだが、左手には僕は男持の時計をしてゐたのだ。もともとこの時計は内地のかかあどのへと買ったのだが、送りやうもなかったし、死ぬ時、
女持の時計をもってゐたら恥かしいやね。ともかく彼女は感激した。一生忘れないといったが、本当かどうか。
そのあと宿舍にとじこもってゐるつもりだが、そんなわけには行かない。暑くてたまらない上、隣室には野蛮人どもがゐて、日が暮れ出すとさはぐのだ。 キンキン声で大東亜共栄圏の理念を議論し、最後はその障害をぶった斬れとわめくのだから、聞いてゐていやになる。お前は斬られる人間の中に数へられなかったのかって。 罪が軽いので、斬るかはりに、瘴煙の地パレンバンへ流罪といふことになったのだよ。
そこで僕はあと48時間といふ出発までの時間をまた人力車にのって、市中へ出かけた。今度は方面をかへて、なるべく刀をもった人間のゐない方面へ出かけて行った。
人力車夫には日本語も英語もマレー語も通じやしないから、いい加減の方向へ走らせて、暗くもなく明るくもない町へ来ると、足ぶみをする。うしろを向いたところで、
いいかげんの金を払って下り、歩き出すと、まだ何かいひながらついて来る。まだ足りない、といふのか、とこはい顔をしてふりむいたら、さうでもないやうだった。
大体はじめにいった通り、僕は死ぬ覚悟以来、けちなことなぞしたおぼえはないのだ。福建語か広東語か、車夫のいふことばは一向わからないが、手まねだけはわかる。
にやにや笑いながら小指を立ててゐるのだ。ふと僕はこの男の媒介に乗る気になった。
「さうだ」とうなづくと、彼はも一度車に乗れ、といひ、今度は別の方角へ、飛ぶやうに走り出した。
さて五分も走ったらうか、彼は「ここだ」といふ風にうなづいて、車の柄をおろし、それから前の家の扉を叩いた。
中で女の声ででも返事があったのだらう、しばらく問答があったあと、彼は
「入れ」といふ合図をし、同時に天竺葵やべゴニヤを飾った窓のよこの扉があいた。僕はまた大枚の金をこの仲人にわたして、おもむろに入って行った。
パンパンを買ったのを、なんて大層ないひ方するのだと思はれるかもしれないが、当時、マレー派遣軍の軍規は極めて厳正で、帝国軍人としてあるまじいことと、
見つかれば処罰されるし見つからなくったって、あまり気持のいいことではないやね。僕はたった一人で、丸腰でこの方角もわからない町の一軒の家へ入ってゆくのだし、
鰐一匹分の皮が、なめした上で三十円といふ市で、懐中にはまだ三、四十円もってゐるのだからね。
しかし入って行った室には子供がゐた。おさげのかはいい少女で南方の子供の例にもれず、ひよわい感じなので、五つ六つに見えた。僕が英語で
「今晩は」と挨拶すると、彼女は僕の予想通り英語で答へられた。
次に僕は「マレー語話せるか」ときいて見た。
彼女は「シキ シキ サジヤ」と答へた。「ほんの少し」との答へである。
次に「中国語は」と問ふと、これもほんの少しと答へる。
その中に衣ずれの音がして女性が現はれた。子供の母親であることは、すぐ知れた。
彼女はその子より、なほ少しマレー語がわかるだけだったが、通訳には子供がなった。僕はかうして、北京官話、英語、マレー語の三ヶ国語の助けを借りて、十分この家のことを探り得た。
彼女はほっそりした体に、細い声をしてゐた。これはことわっておくが、僕の好きな型なのだ。髮は?眼は?もう忘れた。ともかく甚だしく日本人くさい顔をしてゐた。 たぶん南支出身の華僑か、それとマレー人とのあいの子かに相違ない。陳といふ姓がまたそれを証明してゐた。
私は子供の名をきき、年齢をきき、彼女の名をききした。妙貞(ペウチン)との答へを得たが、彼女の年はつひに聞き得なかった。失礼だと思ったのである。 僕の甚だしく紳士的であったことを察してもらひたい。
ただし紳士はまた嘘をつく。僕はこの家に夕やみの後、突然おとづれたことを鄭重にわびたあと、自分は日本軍の軍属だが、先祖は福建泉州府の安平の出で、 本姓は洪、いまは日本名を仮に大川と称する。もとをただせば貴姉と同じ血統の中国人だといつはったのである。
彼女の顔はみるみるかはった。さうして問はずがたりに語り出すのをきけば、彼女の夫は、華僑でも中流以上の生活をしてゐたのが、日本軍が迫るときいて義勇軍に投じ、 そのまま帰って来ないうへ、噂にきけば、シンガポール陥落後、日本軍の手にかかって殺された。あとにはこの子が残り、財産も全部戦争でなくなって、と涙声でいふ。 それで操をお売りになられたのか、ときかうとして僕はやめた。第一僕の中国語は大学で習ったのだから、「操を売る」なんて熟語は習ひはしなかったのだし、 子供に通訳させるわけにはゆかないだらうが―――。
僕は手持ぶさたにまはりを見廻し、蘭の花鉢のよこに置いてある本を一冊とりあげた。ルバイヤットの英訳だったのだ。
僕は偶然に開いたページを朗誦してから、睡さうな顔をしてゐる少女の頭をなで「記念のために」この本をくれといひ、代金といふやな形で十円札を少女に握らせた。
2
外へ出ると街路の大王揶子の梢の向ふで火花が散った。この間から路面電車が動いてゐるのでその火花だらう。その方向へ歩き出してすぐ大通りに出ると方角もわかった。
なに宿舎からさう通くはないのだ。僕はしつこく附きまとふ人力車をふりきって歩いて帰った。
宿舎について見ると、僕のあれほどきらった隣りの宴会は今晩はもう終ってしまったのか、ひつそりと物音もしない。いやそんな筈もない。場所をかへようといふので、
どこかへ連れ立って出かけたのだらう。
かうなると却って、物足りない。僕はまた表へ出て見た。道の向う側の判任官宿舎に燈がついてゐる。行って見ると将棋をさしてゐる。観戦してゐる中に、僕はさうさうと思ひついて、
町角の酒屋にゆき、ビールをもって来さし、会計係の下士官に、勝負のすんだところを見はからって、これを贈り、
「明日給与通報を下さいよ」
といった。給与通報って何だって、軍隊用語で、俸給関係の文書のことだ。下士官は
「はあ」と答へ、
「大川さん、いよいよお別れですね」
といった。
これで用もすんだので、僕はまた自分の宿舎にもどり、シャワーにかかったあとベッドに横になり、この室とも、もうお別れだなといくらか感慨をこめて見まはした。 寝室は四畳ほどのひろさで、南むき。洋服箪笥がそなへつけてあり、机と椅子二脚とで、全くせまいのだが、いっぱい置いてあった本を片付けたので、いくらか広い目になった。 本はシンガポール到着以来買ひ集めたもののほか、砲弾でこはれた往宅から拾ひあつめたものもまじってゐる。転出命令が出るとこの本が惜しいので、トランクに詰め、 死んだら内地の研究所へ送ってくれるやう友だちにも頼んである。語学と民族学の本ばかりだ。今晩もらってきたルバイヤットは、スマトラへもって行かう。
ここまで考へると僕はダッチワイフを抱いて眠ることとした。ダッチワイフといふのは熱帯で用ゐる睡眠時の抱き枕で、体温を吸収してくれる。 僕のは店から買って来たパンヤの入った袋だった。これも明日は誰かにやることにしなければなるまい。それにしても邦人軍属でダッチワイフをもってゐるのはさうあるまい。 こんなことがまた……一派から睨まれた理由なんだな、とこのころになって僕も気がついてゐた。
大体、僕がシンガポールへ来て驚いたことは、僕の属する機関のだらしないことだった。そのうちに、このだらしなさは、僕の機関に限らないことがわかった。
僕の機関の長はいい人だったが、毎晩接収したスコッチ•ウィスキーを飲んでゐる中に中風になった。軍政の最高顧問は、僕が会ふと、軍人に睨まれると大変だから何もしないでゐるといった。
シンガポールの市長に任命された高官は、僕が訪ねてゆくと、抱負は何も語らず、阿媽に漬けさした茄子の浅漬を自慢した。実際それはシンガポールで僕がたべた一番の御馳走だった。
軍司令官は、何をしてゐるかわからない。多分もとの総督官邸にゐるのだらうが、天長節の訓示が新聞にのって、その中で馬来の永久に日本領たることをのべてゐたが、
内地から叱られたといふ話だった。名高い某軍参謀は戦友の血であがなった土地を汚すなと訓示したあと、転住になったといふ話だった。
兵は?もうあの勇しかったあとをとどめず、日朝点呼、日夕点呼で叱られつづけで、おどおどして街を歩いてゐた。衛外酒保の前に列をなして、 一人一箱と割当の煙草「パイレート」を買ってゐたが、そのよこには華僑の少年たちが並び、十銭で買ったのをその場で一円五十銭で買ひとってゐた。 この一円五十銭は、慰安所と称せらる軍の施設のショートタイムの値段だったのだ。
海軍の兵隊は、金を沢山もってゐたが、海峡ドルの軍票にかへてもらへないので、商店街をまごまごしてゐた。そして何とかして手に入れた軍票で、
内地では手に入らない純綿純毛の反物や衣類を買取ると、また軍艦へいそいそと戻って行った。
軍艦はかうして内地への衣料運搬に使はれる筈だったが、今から想へば途中で命令が出て、また南太平洋へ行ったのではなからうか。そしてツラギの夜戦、
タラワ・マキンの戦闘でこれらの衣料はどうなったか。なに、もともと印刷費用だけの軍票で買ったものだ。そんなことは軍の知ったことではない。僕らも責任は負ふべきでなからう。
実際、僕はこれらの様子を見、聞きしながら、途方もない考へ方をしてゐた。これらのだらしない軍と軍政とにも拘らず、太陽は輝き、果実はみのり、
コーヒーはふんだんにのめる。この生活を与へられたことを先づ僕が感謝すベきだ。現地人は?現地人も感謝すべきだ、少くともみな殺しにされなかったのだから。
そして最後にかかるだらしなさにも拘はらず、びくともしないでは、それゆゑにこそ一掃世界無比と誇るべきだ。皮肉ではなく、本気で僕はさう考へてゐたのだから、
どうかしてゐたんだね。しかし僕だけぢやぁるまい。
一生懸命へたな英語の助けをかりて、馬来少年に日本語を教へてゐた某、某、馬来中の激戦の跡をスケッチしまはってゐた某画伯、撮影してまはってゐた某技師、
みな同じ程度の呆け方だったにちがひない。
ただこの夜、寝つくまへに、僕は陳妙貞のことを思ひ出して、へんに今までの安心感のゆらぐのを覚えた。それとともに死の覚悟も怪しくなった。
馬来の華僑は戦前、反日で有名であった。そして戦争とともに英軍と協力して日本軍に抵抗した。日本軍の全面的馬来占領の後、彼等はまた英軍とともに降伏した。
しかしいま半裸で市内で作業さされてゐる英軍とちがって、彼等は降伏したにも拘らず殺された。
殺し方は?銃弾の消粍をきらって――海に漬けて殺した。さう僕は聞いてゐる。しかし僕はその場面を見なかったし、そのうへ呆けてもゐたので、
それがいかに非道なことであるかについて、あまり考へても見なかった。いま陳夫人とその子とを見て、やっとこれに対して直ちに感ずべきだった感情の数十分の一が生じて来たのである。
僕はここへ来るまで東京の市内に住み、妻と平和なつつましい生活を送ってゐた一インテリであった。その平和なつつましい生活がどこかへ行ってしまふと同時に、勝利者、
征服者の驕慢は否み得ず身についた。
僕ひとりだけだらうか。これはここ馬来の何万の軍人軍属に共通のものではなからうか。いな外地に在る数百万の軍人軍属に共通のものなのではなからうか。
――僕はこれを考へてゐる中に眠ってしまった。
東側の窓から当る陽で目がさめた。僕はすぐ顔を洗って、路の向ふの食堂へ行った。いつもの通りの味噌汁と飯である。味咐は乾操して内地から送って来たものなので、 うまくない。早々にすまして、ただ一人同席した少尉とちょっと話して、自分の室へ引き上げるとき、隣を見ると表札がかかってゐる。おやと目をとめてみると、照子と富代とある。 さてはわかった、この自称愛国者ども、大東亜共栄圏の理念の中心どもは、昨夜僕ら非国民たちの追放の祝盃をあげに、近ごろ出来上った芸者家へ行って、 そこの部屋札をぶんどって来たのだ。稚気といふにはいやらしすぎる、
僕はちょっと顔をしかめてから部屋に帰り、服裝をととのへ、機関へゆくバスを待つことにした。何のため、申告にゆくためなのだ。申告とは軍隊用語で着任、
離任などの挨拶みたいなものだ。中風になった機関長の代理の若い大尉は、僕の申告をきくと、何だか気の毒さうな顔をして
「お体を大切にして元気でやって下さい」といった。
はなはだ軍隊的でない挨拶なので僕もありがたく受け取ってから、会計に行くと、僕がビールを贈った下士官はゐたが、給与通報は今は出ないといふ。
明日は、ときくと、それもわからない、といふ。理由はと聞くまでもなく、僕が
「それぢゃ月給の前借をさして下さい、向うへ行って困りますからね」といふと、
これは簡単に聞き届けられた。これで僕は甚だ満足して、
「それぢや給与通報はあとでなるべく早い便でとどけて下さい」
といふと、これも早速ききとどけてくれた。
ただしこの通報は僕のスマトラ在任中つひにとどかなかったのだが、武士に二言はないといった武士と軍人のちがひはこれでもわからあね。
なに、武士と軍人とは全然べつだって?その通り、ともかく僕は意気揚々と月俸を抱へこんで、もう二度と来ない心構へで、機関の建物を引き上げた。
ブーゲンヴィレアといふ赤い花の咲く公園に近い粗末な建物だった。
次は、また思ひつきで、あまり遠くない新聞社へ行って見る。ふしぎなことで、僕は軍命令で転属となったのに、その転成部隊は海の向ふで、そこへゆく便船、
その他の便宜はどうしたらよいのか一向に指示もない。
そこで一緒に転属する上等兵にたのむと、引き受けてくれる。彼はもと新聞記者で―――なに今も腹の中は新聞記者なのだか――旧同僚にたのみにゆき、さっそく便船がわかった。
民間の切符にあたる碇泊所司令部の許可といふのもとれて、それを僕は胴巻に入れてゐる。その礼をいはうといふのが一つ、もう一つの用件は内地の新聞が飛行便でここへ来てゐる、
それを読むのである。
支局長に礼をいったあと、僕は応接室に腰をおろして新聞を読みはじめた。……4月18日の空襲は少数機で大久保辺をやったらしい。
あの辺にあった僕のもとの勤め先にはおちなかったらうか。おちたらあの白髮の老理事長は?
おや、と僕はつまらない連想を中絶して、もう一つのニュースに目をとめた。
「詩人萩原朔太郎死去。」
僕は居たたまれなくなって、席を立った。海の見える東側の窓ぎはに出て、港をとりまく小島をながめながら、僕はひとりごとをいった。
「可哀想に、朔太郎は死んだ」
ふしぎに思ふかもしれないが、可哀想といふのが実感だった。突然はげしい嗚咽がおそって来て、僕はそれを止めるのに苦心した。発作はまもなくすんだ。僕はそしらぬ顔をして、
その室に来合せた副支局長と挨拶し、それから思ひついてたづねて見た。
「蘭印の軍票に交換をしていただけますか。」副支局長はたづねた。「いくら位です」
「なに三百円ほどで結構です」
「会計にきいて見ませう」
かうして僕は死ぬ覚悟をしながら、どんどん出発の用意が出来て行った。萩原さんはかうしたことも出来ない人だった。僕は若いせいばかりでなく、 俗務が出来ねばならないと教へられたので、それを止めようと思ひながら、今だに止められない。もつと詩人らしくしたいなあ。僕は心中呟きながら辞去した。
自分の室にもう一度帰って来たが、仕事もない。僕はまた出かけて、昼飯をたべようとし、シンガポールの最後の昼飯に誰を陪席さすべきか考へて見た。
誰もない。これは悲しいことだった。別れを告げるべき人間には皆もう別れを告げてしまったのである。
僕はまたひとりで街に出てゆき、昨日の通りの方へ足が向くのを止めることが出来なかった。
あの家はすぐわかった。家の前には昼ま見ると花壇があって、そこに女の子がゐた。あの子だ。名前は英玉(インユイ)とかいった。僕は呼んで見た。彼女はおぼえてゐて
「先生来了」といった。
この「先生」は、僕の一等きらいな職業である教師のことではなく、英諸のマスター、乃至ミスターに当るのである。僕は子供に手をのべて挨拶し、散歩をしよう、
母親の許可を得て来いといった。
3
英玉はまもなく着換をして出て来た。これが母親の許可の証明だったことは考へるまでもない。
僕は窓ごしに母親――陳夫人に挨拶をして、子供の手を引っぱって大通に出、電車にのると洋食と中華料理と、どちらがいいかとたづねた。子供はだいぶ考へたあと、
チャィニーズと答へた。今ではどこにあったか忘れたが、「皇后飯店」といふ名の大きな料理屋があった。「皇后」が不敬だといふので、このときもう名が変へられてゐたかとも思ふが、
僕はそこへ子供をつれて行った。メニューをとりよせて註文し、二人で同じ皿の料理をわけあふころ、僕はこの母親に似て青い細い女の子が、十分かあいくなってゐた。
国を出るとき懐胎してゐた僕の子は秋に出来るはずだったが、僕はその子にしてやれないことをよそでしてゐるのに、このときはなんら矛盾を感じなかった。
「君はよそにはいいんだね」って、いかにもその通りだ。
食べ終へたあと、僕は「映画を見るか」とたづね、彼女は「見てもいい」と答へた。
ふたたび洋画かそれとも中国映画かとききかけて、僕はとりやめた。中国映画は僕にはさっぱりわからないのだし、その上映場所の有無さへ知らないことに、気がついたからだ。
僕はまた電車にのり、これは今でもおぼえてゐるオーチャード路に、このごろ開かれた洋画館に子供をつれて行った。ここで上映するのは敵産を接收した中から、
軍の検閱にパスしたものばかりだが、現地人はほとんど入ってゐないで、客は軍人軍属ばかりだった。
入ってゆくと、「風とともに去りぬ」だった。僕はこの脚本のもととなった小説もよんでゐなかったので、戦火に荒れた場面の描写が、
幼い魂にはあまり楽しくなからうと考へて「出ようか」ともいったが、彼女はかぶりをふった。これがすんだあとにはミッキーマウスなどが出て、彼女の笑ふこゑをきくと、
僕の父性愛ははなはだしく満足した。
敵国人のこさへた作品をただで見せて、といふ反省もないではなかったが、この時の僕の心中にはいづれ日本の傑作もどしどしやって来るから、といふ安心感が十分にあったのだ。
「風とともに去りぬ」はずいぶん長い作品だった。僕の記憶はちがってゐるかしら。ともかく見をはって、すぐ外の喫茶店で、子供にバャリースオレンジかなんか飲まし、
そこの飾り窓にあった洋菓子を包ますと、もう夕暮ちかくなってゐた。子供は疲れた顔をしてゐた。僕は人力車を呼ぶと、子供を膝にのせて家の方角へ走らせた。
現地人との交際は禁じられてゐたが、子供を可愛がるのは大目に見られてゐるから、かまはないだらう。
僕は甚だ得意さうな顔をしてゐたらうと思ふ――父親を殺し片親にしたものの一味としてあるまじいことなのだが。
家の前まで来ると、僕は子供を抱へておろし、車夫に代を払ひ、土産の菓子をわたすと反対の方向へ歩いて行った。
どこへ行ったって。なに道の突当りに海が見えたので、なんとなしにそっちへ行ってみたのだ。河の出口で、ちょっとした港のやうに沢山の戎克がそこに浮んでゐた。
その波止場にこれまた沢山の人間がゐた。もちろんみな華僑だ。
それが一言もいはないで、海を見てゐる。表情はないが、どの顔も顔色がわるく、幸せな人間とは見えない。その沢山の人間が、僕のゐる間ぢう一言もいはない。
こんな群衆ってあり得るだらうか。もちろん僕の方をふり向かうともしない。
一体、彼らが海をみつめてゐるのは故国への郷愁からだらうか。それともここの沈められた同胞への追懐からだらうか、それに伴ふのは日本軍への憤りだらうか。
一体、彼らは何を職業としてゐるのだらうか。いや失業者にちがひない。さういへば戎克もみな空っぽだ。なんとかしなきゃ困る。それにしても彼らがなんにもいはないのは。
僕は気味わるくなってのみさしの煙草――このごろ一日五十本近く吸ふやうになってゐた――を捨てると、もとの方角へ引き返した。
さっきから待ちぶせてゐたのだらうか、人気のない辻まで来ると、英玉が出て来て、僕の手を引っぱった。
「ママが夕飯を食べに来てくれって、ぜひ来てくれって」
僕は空腹ではないが、「ぜひ」といはれるとことはれない男である。返礼をするつもりなんだらう、困ったなと思ひながらも、引かれるままについて行った。
英玉の案内したのは裏口だった。待ちかまへてゐたやうに、そこの扉があいて、僕は夫人に鄭重に導き入れられた。この家には、前日とほされた応援室をいれて、
たった三間しかないことも、おかげでわかった。その応接には若い男が一人ゐて、英玉は叔父(アンクル)いひ、陳夫人は弟といった。
この紹介のあとで彼――王といった――は早口で何かいった。一向にわからないので、へんな顔をすると、今度はゆっくりとしゃべったが、これまたわからない。
そこへ陳夫人が料理を運んで来ると、彼は恐ろしく早口で何かいった。それから英語で僕の方に向いて
「姉から承れば、あなたは中国人で福建省だとのことですが、アモイ方言を御理解ない御様子なのは、どうしてです。」
ははあ、姉に嘘ついたと怒ったのだなとわかったが、僕は困った。
「そのわけはあとで話します。僕は中国語は北京官話が少々話せるだけです。」
「英語はお逹者で?」
「いやこれも、オンリー・ア・リットルです」
実際、英語も王英の方が旨かったらう。そんないきさつで、英語で一切の会話をする。ときどき姉に広東語でとりついてくれたが、いらぬお世話だった。
彼は二十歳になったかならぬかだらうが、みるからに賢こさうな男だったが、その話が全部不愉快だった。話といふよりは詰間の連続と聞えた。
「シンガポールの華僑60万はいま非常に困ってゐるが、ご存じか。」
「僕は着いてまだ二、三ヶ月なのでよく知らない。」
「それぢゃ話すが、ほとんどすベて失業した。」
「天長節には献金をして協力を約束したが」
「あれは脅迫されてやったのだ。もっとも金はもってゐるが、仕事がなぃ。」
ビール工場は再開してゐるし、ごらんの通り料理屋、バー、喫茶店は続々と開かれるぢゃないか、といひたいが、黙ってゐると
「僕の通ってゐたハイスクールは先生は戦死が半分、のこりもまだ学校が閉ぢたままなので困ってゐる。」
「それは近々開かれると思ふ。」
と答へると、
「僕はもう学問する意思などないので、車夫にならうかと思ったが、あまりに弱すぎる」これで思ひついた。僕を案内した車夫は誰だ、とたづねると
「マイ・アンクル」
と答へた。いづれこれも二三代まへの先祖をともにする薄い血縁の叔父なのだらう。それにしても義理の姪に売春さすため、客を引っぱるとはと不審に思ってゐると、青年は
「彼は近ごろ南方へ来たので、五十歳だが非常に強い。しかし僕は弱い。姉も弱い。」
と陳夫人を指ざした。南方では五十才は非常な老人なのである。陳夫人の年齢は、実は喫茶店で英玉からもう聞いてあった。二十二才だといふ。しかし僕には二十七八に見えた。
「米やメリケン粉は配給になって、その量が少いので、ヤミ値がどんどん揚ってゐる。」
「その米のヤミは誰がやるか。」
「天皇のバースデーに金を出した連中だ。悪い奴ばかりだ。それらの家では毎晩、日本軍人の宴会がある。」
「本当か。」
「本当だとも、僕はうそをつかない。」
「少々の不足は戦争中だから仕方があるまい。マレーのゴム林を切って、米田を開いてゐるから、いまに米は沢山出来るよ。」
「それよりシャムの米、ビルマの米を買ふ方が早いぢゃないか。」
「鉄道や船は軍の輸送で一杯だ。もう少し待て。」
「一体いつまで待つのか。」
「僕にはわからない。しかしさう長くはあるまい。五年位だらう。」
「ゴムは五年たってもいらないのか。」
「それも知らない。しかしマレーのゴムは多すぎるのだ。石油や鉄はいくらあっても、多すぎることはないが。」
「それが日本軍のプランか。マレーはゴムと錫しかないから、だめだといふことになるのか。」
「いや、ゴムや錫以外に、ここには人間があ。勤勉で賢い華僑がゐる。これを適当な方に用ひれば、昭南といふ名の示す通り、南方の明るい中心となる。」
「そのときまで、僕らは姉妹を売って待たねばならないのか。」
この軍政の弱点をぴたりといひあてた詰問にもうたまらなくなった。食ふに困らせれば女はみなパンパンになる。
「お前の働き先は見付けてやる。弱いの、なんのといはないで、働け。姉妹にはそんなことさすな。」
ええ、序でだ。
「僕は実は洪先生ではない。純粹の日本人だ。昨日は生れてはじめて嘘をっいた。しかし今日いったことには責任をもつ。君も陳夫人にもきっと職を見つけてやる。
ただし僕は明日コーランポーへ赴き、しばらく向ふに滞する。帰って来るまで、これをやるから、待ってゐろ。」
僕は紙入れを取出して、中にあった海峡弗の軍票を投げ出した。百弗である。残り数弗だが、明日だけだから困ることもなからう。
僕が日本人だといふと、王青年はふるへ上った。軍政批判だけでも兵隊につき出されていたし方がないことはよくわかってゐた。
英玉はもう隣の室へ寝に行ってゐたからよかった。起きてゐたら、これもやさしい小父さんの真実を知って、泣き出したことだらう。
まづくなった料理も終りに近くなってゐた。青年はしばらくすると、僕の投げ出した紙幣はそのままにしてどこかへ姿を隠してしまった。僕も引き揚げる時が来た様だ。
通訳を二人とも失った僕は、陳夫人に一番通じるらしいマレー語で話した。
「今ヤ我ハ家ニ帰ル。弟君ニイッタガ、僕ハ明日コーランポヘ去ル。コノ金ヲヤルカラ日本人トハモウ会フナ。ワカッタカ。」
マレー語の敬語法などもとより知らないから、乱暴なやうだが、いひ方は十分やさしくしたつもりである。彼女はうなづいてたづねた。
「イツカヘル。」
「シンガポールへカ。」
「然リ。」
困った。軍命令で帰任を命ぜられるのはいつだらう。それよりも生きてかへれるだらうか。任地パレンバンをコーランポとしたと同じく、また嘘をつかねばならない。
「二ヶ月後。」
「ホントカ。」
「ホントダ。」
僕は今度こそはふはふの態で逃げ出したくなった。時間ももう九時すぎである。僕はただ一つ官給の戦闘帽をとり上げると、出口の方へ向った。
陳夫人はたぶんかけてあった懸金をはづすつもりだったのだらう、戸口まで先立ったが、顔色を変へて戻って来て、僕に抱きついた。
ふるへてゐる。僕はすぐ目についたスイッチをひねって電燈を消した。我ながらすばやかった。しかし扉の向ふをうかがふまでもなく、それをわれるほどひどく叩く音がした。
二人とも黙ってゐると、扉のよこの窓にはひ上り出した。見ると、長い剣をさしてゐる。
将校だな、何たる醜態、僕は出来るだけ感情を殺して、物影に呼びかけた。
「何だ。この時間に何だ。」
この日本語が意外だったのだらう、相手は「ハッ」と答へて、ずるずるすべり落ちた。
やがて靴音は遠のいて行った。憲兵ではなかったらしい。それぢゃ陳夫人をパンパンと知っての訪問か。僕は甚しく不快になった。そのあひだ陳夫人は僕の胸もとでふるへつづけてゐた。
「君は」だって?僕がそんなことでふるへるものか。ただ非常に不快だったのだ。
僕は陳夫人を突きはなすと、ふたたび扉口の方へゆかうとした。彼女は痩せた腕には不思議な位の力を出して僕を引っぱった。さうして泣きながら
「帰ルナ、帰ルナ」と叫びつづけた。
「コワイノカ?」と僕が問ふと、うなづいた。
「明日カラハ我サへモ居ナイ、毎夜、日本人ガ来ルゾ」
といふと、いよいよ激しく泣いた。
僕は身近かにこのやうに泣きつづける女をもった経験はない。相談に乗ってやらねばなるまい。あかりのついてゐる次の間へ、ついてゆくと、彼女の居間兼寝室だった。
英玉のものらしい人形や本などがおいてある。あの子のためにも、母親を何とかしなければならない。
僕が眺めてゐると、陳夫人は急に笑ひ出した。これはあとにも先にも彼女からただ一度聞いた笑ひだった。ふしんげな僕に彼女は、
「汝ハ帰レナイ、モウ帰レナイ」
といって、僕の胸を指ざした。よく見ると、僕の胸は彼女が抱きついたときについたと見える頰紅と口紅のあとが方々についてゐた。
彼女がこれを拭ってくれてゐる間、僕はシャツ姿で、彼女の救済策を色々考へてゐた。さうして、いつのまにか、パレンバンでは絶対死なない決心をしてゐる自分に気がついてゐた。(了)