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田中克己日記 1945-1947 【参考資料】

「月に招かれた男」(抄) 芳野清 「果樹園」17,19,20,22号(1957.6−1957.11)所載より、

12 修羅曼荼羅

十七年暮、シンガポール街上で大垣は恩師の田中克己氏と会った事は前にも述ベたが、その真相は「感激の再会」などの一語で表はせるものでは決してなかつた事を後日、先生から親しく聞く機会を得た。内地にゐて詩にのみ没頭してゐた兵隊と、応徴詩人として南方最前線での占領政策をつぶさに体験しつつ、一早くその実相に気附いて憂慮してゐた、鋭い知識人で歴史家である先生との思想の食い違ひは、内地にあって戦勝に酔ってゐた私達の神がかり式観念論愛国主義との位相のづれをも示す意味で興味深いものがある。

大垣がシンガポールに派遣されたのは軍票護送の任務で、唯これだけの為めにれっきとした経理下士官が飛行機でついて来た事が先づ解せなかった。又それが有難くもない軍票であれば尚更であった。物資のない所へ軍票ばかり持ってきても物価が上るだけの話だった。それだったら靴下十足でも持ってきてくれた方がよかった。このやうに軍政に極めて批判的であった先生に大垣が最初に云った言葉は「今度の『四季』の何々の詩は……」と云った調子でがっかりさせられた。寧ろ先生が聞きたかったのは内地の銃後の生活や、身近い人々の消息、兵器生産状況や食糧事情等であった。

ところが彼の語ることは戦争や時局から全く離れた詩の話だけだった。先生は前線下士官の精悍機敏さから恐らく遠い、この軍服を着た文学青年の柔和な細い眼を憮然とした面持で眺め、しようことなしに煙草の煙をふかしてゐたのであらう。その前には乾杯したビールの泡のついたコップが置かれ、窓からは華僑の店の極彩色の看板が熱帯の陽に照らされてゐる…。私はその出会ひにふと「女誡扇綺譚」の中の作者と古風な詩人である世外民氏とのある会話を思ひ出す。戦争さなかの占領地と云ふ厳しい環境でなく、平和な南の島での邂逅であったら、きっとこれに似た一篇の物語も出来たらうにと、私は戦争に伴ふつれなさを、つくづくこの出会から思ったのである。

しかし、大垣自身は感激してゐて「シンガポールで田中さんにお会ひした」と会ふ度に自慢そうに語った。私は軍務の事は知らなかったので、無雑作にそんな遠い所まで行ける彼の身が少し羨ましかった。十七年は勝戦さだったが、ミッドウェー、ガダルカナルと死闘は続き、十八年に引続きソロモン沖海戦、マリアナ沖海戦と守勢は蔽ふベくもなく、いはば彼我攻防の岐れ目であった。十八年六月サイパンが陥ちてからのB29本土爆撃は、あらゆる兵器生産力の喉元を扼した形で窮乏と、荒廃は人心を一変させ、怪しげな迷信や、流言が本気に信じられたりした。もはや文学どころではなく、用紙の割当制はきびしくなり、十九年の東京爆撃では多くの印刷所が焼けた。大垣はその中でしぶとく文学に執してゐた。文学からとかく離れ勝ちの私に業を煮やして、自分一人でもやると、書きよこしたのもその頃である。

私の勤めてゐた飛行機工場では、十二、三才の学童まで狩り集めて、特攻機、月産500、戦闘機200を目標に昼夜をわかたぬ労働が続けられてゐた。ジュラルミンの原料不足から木製機の試作されたのもこの頃だが、合板張りの機体は重すぎて実戦に役立ず中止された。又マリアナ基地爆撃用の気密構造の亜成層圏長距離爆撃機も試作第一号が着々と秘密工場で作られてゐた。しかし、総合産業の悲しさ、飛行機だけが出来ても、それにつく計器やエンヂンなどが間に合はなかったりで、かう云った生産の跛行が実際に使用し得る機数を著しく制限した。特攻機は重い爆弾をかかへるだけで機関銃も計器盤もなく、玩具のやうに粗末だった。こんな飛行機に乗せられて死ぬためにだけに行く若者の身の上が重たく心にかぶさってきて、私は機体をいつまでも見てゐる事が出来なかった。

一方、大垣の勧めてゐた航空本部も当然忙がしく、日曜日でもゲートルを巻いて出勤してゐると云ふ事だった。しかし彼は新らしい詩が出来ると必ず書き送ってくれて、怠け者の私をびっくりさせた。十九年十月の「曼荼羅」創刊号後記を見ると、当時の状況とその中で文学を続ける事の悲壮なばかりの意気がまざまざと感じられる。少し抄録してみよう。

この八頁の編輯を終って肴町の印刷所に原稿をあづけに行った日、大垣君と本郷の古本屋を廻った。そして「未成年」二輯、「狼煙」を三冊買った。「未成年」には立原道造とそのお友達が書いてゐる。「狼煙」は増田晃の追悼号だった。それには遺稿の「日本新紀」が載せてあった。増田氏は出征される時「白鳥」といふ詩集を残して行かれた。僕はこの豪華な詩集に嫉妬などしなかった。それはあんなにすぐれた先輩と知友と豊饒な才能とにめぐまれた「白鳥」が吹きさらしのまま磨かれ更に耀いて格段に美しく、嫉妬深い僕も言葉を差しはさめなく、ただ「まほろば」の仲間と廻して誦した。六十四頁の曼荼羅(作者註:最初の企画による予定頁)には、大垣君がその感想を綴ったばかりだった。(作者註:この原稿は残ってゐない)。そして僕達二人は今度始めてその後の作品に接し得たのだった。宝玉の篋を求め得たやうに、この日はこの雑誌をはなせなくて、電車のなかで興奮し、歩きながら読み、人混みの中で誦し、遂に絶唱だ、などと云ってゐるうちに二人共泪ぐんで了ってゐた。

詩誌「骨」の田中先生の文を照すると、彼の発病は十八年の暮とあるので、すでに「曼荼羅」同人時代には病気の徴侯があったのであらう。しかし周囲の誰もそれに気附くこともなかった。奇矯な言動は詩人の仲間では寧ろ詩人らしさの証明でもあったし、詩を書くものの心のどこかに狂気がひそんでゐないとも云ひきれないからだ。むしろその言動は林医院(※林富士馬宅)の看護婦やら、詩人以外の人達の間で取沙汰された。それも風変りな詩人らしさと云ふ事で笑ひ草になっただけであったのだらう。

しかし恋人のK嬢だけは女性特有の敏感さで何か分けの分からぬ不安に悩まされてゐた。大垣はそんな事に頓着なくK嬢を伴ってさかんに知人訪問をしたらしい。今は有名な作家になった人でこれに悩まされたといふやうな話もある。しかし不思議に恋情をうたった詩がない。わづかにそれと察しられるものが一二篇あるが、それとてもイメーヂに蔽はれてはっきりしない。あれ程恋愛をしつこい程くり返し歌った彼に恋愛の詩がないと云ふのは、私の考へでは彼の恋情はうたになる前に直接こまやかな手紙となって燃えたのであらうと思はれるのである。K嬢の消息も分らぬ今となってはこれも隠測に過ぎぬが、多分彼らしい思ひやりのこもった便りであった事だらう。私がここで恋愛ロマンスを小説風に物語るつもりならば大垣宛の彼女の恋文の二三通を捏造する事は容易で、又この辺の筋書きが一番小説的な構想としては興味の湧く所だと思ふがそれは私の好む所ではない。かへって私は未知なものはそのままに残して置くことが死者への礼と思ふからである。恋愛詩は作らなかったが、その代りに友情だけは大いに歌ひ、彼の詩の著しい特色を示してゐる。彼はリルケの「名を呼ぶことは愛なり」の言葉そのまま、その詩の中で尽きない友情を歌ひ続けた。

二十年三月に大垣は天沼の田中さんの隣りの家に移った。彼はそこから鞄を下げて毎日航空本部の軍官庁に通ってゐた。その通知の葉書にはかう書いてある。

うららかなよい春日となりました。私は阿佐ヶ谷のこちらに移転、恩師の御世話になる事になりました(作者註:この家には先生のお姑さんが一人で住まってゐられた)。先生は此度御召しに預り、出征三月十八日(作者註:十日に下町方面の大空襲があった)、大阪の隊に入隊、みいくさもいよいよここまで来たかと感に打たれます。ただ林氏との「曼荼羅」に生涯をかけるつもりです……。

この友情に満ちた営為を私はどんなに曹ワしく思ったか知れない。これに答へた林氏の書簡も美しい。

僕達のこの小さな結びは確かに、何かではないでせうか。美しいものだと思ふのです。これは矢張り、この天地にほりつけてをきたい。誰れか静雄の手紙に拝するやうに、僕達の「志」を汲んで花を咲きつぐことを思ってもくれるのではないでせうか……。

戦禍の嵐吹き荒ぶ中でこの「曼荼羅」の営みは、咲きのこる小さな野花のやうに勁く美しかった。明日の身の分らぬ日常がかへって友情を固くした。やがて戦争末期になり、B29の都市爆撃は次第に中小都市に移り、宇都宮市も、終戦間近に灰燼に帰した。愛惜おく能はざる柳里恭三幅、荷風六巻、朔太郎、梶井、春夫等の著書も、その家諸共烏有に帰したのである。戦争の常として、彼は口には出さなかったが、内心では随分落胆したらしい。

彼は焼野原になった故郷の街を一望して、幼い夢をはぐくんでくれた一切のものが滅んでしまった事を知って、胸をしめつけられたに違ひない。かくて終戦と、はりつめた心もくづれ、洞穴に落ちこむやうな暗い虚脱が訪れた。まもなく上京した彼は以前の会社に戻り、背広に軍靴姿で敗戦の荒廃した都心に通勤した。その頃の葉書に
「私の故郷も落魄と云ふ状態ですが、乱世にこれも美しい事と思ひます云々」
とあり、十一月には林氏を訪ねて象潟に旅してゐる。荒涼とした日本海の眺めは傷心の彼にはふさはしく、慰めに満ちたものであったのであらう。珍らしく一詩をものしてゐる。

象潟

ながらへて
また遇ふことのあらむとも
思はざりしを旅路来て
俱に遊びし象潟の町

百歳の
世々の移りに水涸れて
偲ぶすべなし田の中に
島の跡の小高くは見ゆ

時過ぎて
何をか云はむ
歌はむにわが歌古し
白波は遙かに湧き来て
この渚に今日も崩るる

酒なくて対へば友よ
憂れたくもわびしからずや
うそ寒き宿の表に月あれど
はやわが旅の倦んじ果てにき
(昭和二十年十一月「光耀」所載)

当時、鶴岡に疎開してゐた林富士馬氏は、早速書簡でその感想を書き送ってゐる。

あなたの象潟は大阪のS君からも噂さがとどいてゐました。さうしてあなたの御作品を久し振りに拝見致しました。例の「百歳」といふことばがあり、小生に下すってゐるので、すっかり恐縮致しました。とにかく久し振りの御作品なので有難くなつかしい。僕には「千鳥」以後と云っていいです。「再び逢ひしは」もありましたが。感想はかう云ふとき近くにゐて、おさけがあれば都合がよく、意をつくすこと手紙で難しいと思ひます。古風な、鉄幹調みたいなのを偲んだのは原稿用紙のせいかしら、余りに考へすぎてあることは長所であり且又一議論あるべきところならざるか! それからもう一つ。合歓花式の花への顧慮なきこと、「酒なくて対へば友よ」に僅かに花を偲んでも、あの月は華やかにした方がむしろ荒涼一化を語りはしませんか?右は例の友人間のこととて悪口の方ばかり強いて申しましたが、さすがに「象潟」は老巧に(然り!余りに老巧)描れてゐると思ひます。朔太郎の冬は感じます。等々々。

彼のかうした詩への情熱と新冊子の企画等、敗戦を契機としての心機一転の心構へはともすれば、内心の深い憂慮に搔き消されることが多く、彼の夜々は物さびしい木枯しの連続であった。彼はそのさびしさを別人のやうに私に訴へてゐる。今、その長い巻紙を繰ってゐると、彼の嘆きが煙のやうに立のぼってくるのを感ずる。煩を嫌はず書き写してみよう。

拝啓、其後如何に候也、御伺ひ申上げ候。はや秋も既に晩く十一月の風身に泌みて覚え候。加之今夜は小雨そぼ降って小生はざれ書きなどして遊んでゐるにて候。兄も一緒に遊びませんか、と全く独り身の嘆かひ嘆くにもあらず候。幼い小児が梅の花びらが散ってくるのをひろ前掛をひろげて受けてゐる。花びらはひらりと舞ひひらりと翻って幼いひとはもう胸ふたがれる思ひ。ああそろそろこれが詩人の姿に相違ないと花びらは何処にでも散って小児が胸を一ぱいにして受けて居る。さていろいろとたまらない事ばかり、先日も帰郷して私は父と共に宇都宮のがらんとした歌舞伎座にそれも一番前席に座って遠山金さん奉行名のお芝居を見てゐた。こんな晩は私も善人になって浪花節に耳をかたむけ、ざくろがよく実ななかへだの、何処のおばあさんはどうしたのと家の人と話をしてゐると思ふことは何日になつても詩人は悲しい存在であることにて候。このまま病重くてはこれより先々のこと如何か自ら案ぜらるるにて候、天よ、我々を涙の谷から救ひ出せ!とは西洋のショーぺンハウエルが言葉、はてはて如何にも困った事ばかりにて候。

13

終戦と同時に私の勤めてゐた飛行機会社は忽ち肋れてしまひ、私は第二次整理であっさり馘になってしまった。それはふくれ過ぎた風船がしぼむやうなものだった。そのどさくさの中でも幹部階級はうまく立廻って私腹を肥してゐると云ふ噂さがしきりだったが、一般従業貝は雀の涙程の退職金であの混乱と窮乏の中へ投げ出されたのだった。私もその中の一人だったが、持前の暢気な性格でどうにかなるだらうとのんびり構へてゐたが、失業の暗く苦い期間は長く続いた。防空壕を堀り返へして薪にするやら、妻の着物を持って附近の農家へ芋を買ひに行くやら、雨漏り屋根の修繕やら、仕事は後から後からあったが、それはただその日暮らしの努力でしかなかった。空襲のなくなった冬空は再びその尊厳を取戻したかに思はれたが、それは余りにも悲し過ぎる空の色であった。私はやっとその冷酷さの中に生活の厳しさを知り始めてゐた。

かうして慌ただしく敗戦の年は暮れ、その間、私は誰にも会はなかった。時折、大垣へ手紙を出しては敗戦の荒廃と生活の難さをくどくと老婆のやうに書き綴った。私がその後彼に始めて会ったのは二十一年の一月で私が丸の内の官庁に新らしく勤めるやうになってからだった。仕事に慣れず冷たい周囲の空気の中で心細い想ひを噛んでゐた時、彼は人なつこい笑を浮べながら突然部屋に入って来た。昼休みだったので私達は連立って街へ出た。日本橋から銀座へかけてあてどなく歩いたが、道の両側には闇市が並び、異様な活気を呈してゐた。彼はポケットから金を出すと、パンやまんぢゅうやらを買ひ、私にも分けて、平気で歩き乍ら頬張った。私は一寸度胆を抜かれて、友の顔を盗み見た。いくらなんでも銀座通りをものを食ひ乍ら歩く気にはなれなかったが、まだ都心に勤めて間もない私はこれが敗戦の街の流儀なのだらうと思ひ、彼の真似をすることにした。しかし、今考へるとこれは少しおかしかったのではないか、そんな気もする。何を語ったか今は忘れてしまったが、慥か本当の文学はこれからだとか、もう文学青年を脱皮して大いに腕を振ふべき時が来たとか盛んに精神を鼓舞するやうな話だったが、恋人の話になると曖昧になり、K嬢とは別にVと云ふ人の妹で凄くきれいなひとが好きになったなどと云ったりした。私はこれも今までの大垣の誠実な性質と違ふなと思ひ、或ひは彼流の文学的な表現なのだらうと聞き流してしまったが、その頃K嬢は真剣に未来の伴侶としての彼を考へ、帰還したばかりの田中さんを訪れて相談してゐたのである。

大垣の会社は縮小されたとは云へ、大会社だけに分裂してしまふ事もなく、彼はもはやそこで経理事務に明るい中堅社員であった。寧ろ今やめられては会社側で困まる程で、彼の学校の先輩でもある課長は殊に彼の卒直と誠実さを愛してゐて幾分の我儘は大目に見て貰ってゐたのである。敗戦の混乱の中でこの境遇は恵まれてゐると云ってよかったし、結婚しても何ら煩はしい系類も持たなかった。二人の祝福を妨げる何物もないやうに思はれた。文学への熱情を通じて彼の誠実はよく分ってゐたし、剣道三段と云ふことからも、彼の健康は保証済みだし、結婚して幸福を築くことは出来ると云った話を伺ひ、K嬢はよろこんで天沼の家(※田中克己宅)を辞した。彼女の胸は新生活を夢見て明るくふくらんでゐたに違ひない。

だが、彼の精神は目に見えず内側から蝕ばまれてゐた。彼は自分の二階の部屋に友人を同居させ自炊してゐたが、燃料に困まると、欄干を折って焚物にしはじめた。或る時は、夜中に突然起き上って板を棒で突き上げた。その暗い隙間に戦死した友の顔が見えると云ふのである。嘗ってあれ程整頓秩序を愛した彼はどこへ行ってしまったのであらう。彼の生活の荒廃そのままに部屋は乱雑を極めてゐた。彼の留守に訪れた或る友が見たのは万年床の上に無慚に散らばった四つ切り大のY写真であり、又或る友は朔太郎遺影の前に燈明を捧げて何やらぶつぶつ云ってゐる彼の姿を見たりした。酒を呑むと彼の陰性は募りめそめそ泣き出す始末であった。会社では昼休み時間に外出しては長い間戻らなかった。その間、彼は新らしく知り合った女の子など誘っては映画など見てゐたのである。その後彼が故郷に帰ってから当時の廃頽を偲んで作ったと思はれる遺稿があるが、それは嘗っての端麗な筆跡も乱れてゐて、彼の精神の奈落が覗かれる凄惨な詩である。

秋成を売り酒を喰らひ
道造を売り女と遊ぶ
書籍ことごとく銭と替へ
我が欲を充たさむと欲す
されど我罪深く生れ
我欲のとどまる処を知らざれば
せんなしや
深更朔太郎遺影の前に座し
一詩にすがらむとす
師の名を呼べど応へなし
白米一升
納め給はず
うつむきて文字書き給ふ
師いたく瘦せ給へり
げに骨の骨
生き給へりや
死に給へりや
吾のあげたる鞭もはた誰をか打つべき

この詩からも錯乱の徴候を歴然と読み取ることが出来る。彼は自分の生活が荒廃するにつれ、隣りの恩師の目が恐くなってくる。しかも彼は敗戦の現実も素知らぬげに詩にだけ没頭してゐるのだ。

14

六月頃だったと思ふが、彼はふらりと私の職場へ現はれて「会社をやめなくてはならなくなったが、東京へ残って出版会社へでも勤めるか、故郷へ帰って商業学校の先生にならうか、どうかと迷ってゐるのだが君はどう思ふ?」と訊ねるのだった。どうして又会社をやめるのかと私は聞きたかったが、もうその時は病ひが進み日常の勤務が辛くなってゐたのではないだらうか。時々、発作的に起る奇矯な言動には彼を愛してゐたさすがの上司も眉をひそめ、体よく辞職を勧めたのであらう。彼にすれば平静に戻ればその行為が愧かしく自然と卑屈にならざるを得ない。こんな状態が重なるにつれて彼は己れの周囲になじめない冷たい垣の出来たのを感ずる、もはや職場は彼にとって北風の吹き荒ぶ異郷に感じられるに至ったのである。

私は彼の言に驚いて、即答出来ぬから今晩一晩考へてみようと云ひ、幸ひ土曜だったので彼を私の家に伴った。ここでも彼は今までの元気な饒舌を忘れたやうに無口になり縁側に腰を下ろしたまま頭を低く垂れてゐた。どんな事を思ってゐるか分らなかったが、その後姿にはうそ寒い影があった。私は結局彼が非常に疲れてゐるのだと思ひ、故郷へ帰る方がいいとすすめたが、ただ黙って肯くばかりだった。そのうち彼は口をひらいて「僕はもうすぐ結婚するつもりだが、本当は女などより何よりも詩が一番だ。文学こそ第一義で女など意味がない」と云ふのだった。今私は結婚しようとしてゐる彼からこんな言葉を聞くとは夢にも思ってゐなかったので、唖然として彼の顔を見守った。此頃から彼の魂は詩神に魅入られてゐたのだ。

「大垣さんてあんなひとだったかしら、何もお話しならないでお辞儀ばかりしてゐたわ」
前に彼を知つてゐる私の妻は彼の帰った後、不思議さうにさう云った。暫らく音沙汰がなかったが私は次の葉書を受け取った。

お葉書有難う。僕先生をやってゐます。元気です。英語と外国史と、君の嫌ひな簿記とソロバン。学校、黒板、教壇、生徒、すべて新鮮です。少女達が清潔な声で「グードモーニングトゥユゥ」の合唱をするのを聞き乍ら、涙が出て困りました。女子野球部の副部長でもあります。鞠の来ない方に走ってゐます。こんな書き方太宰式でいけないのです。論語から始めてゐます。
「孺悲、孔子に見えんと欲す。孔子辞するに疾を以てす。命を将(おこな)ふ者戸を出づ。瑟を取りて歌ひ之を聞かしむ」
会ってはくれないが病気と云ったのを本当にとり、心配してはならぬと瑟をひいて聞かせたのです。私達もよい詩をかき立派な人となって田中さんに会って頂きませうよ。
「詩人は淋しいものです!」と厳しい言蕖を覚えてゐます。私も今独り。便りとてなく。虫の声も星も澄んで来ました。……

私はこの便りを見て彼が昔の元気を取戻したと思ひ、田舎へ帰ってよかったのだとしみじみ思った。しかし、その幸福も束の間で父の死と云ふ大きなショックが彼を襲ったのである。彼はその時許婚のK嬢ならぬ女の子と映画館かどこかにゐて、父の死目に会ふことが出来なかった。彼の父は末子の彼を目に入れても痛くない程溺愛した。この不幸が一段と大垣の精神の崩壊を早めた事は察するに難くない。彼は授業中にも黒板の影に父の幻影を見た。彼はその幻影に向ってやさしく涙を流し乍ら詫びるのだった。しかし、まだ詩に対する熱情は消えず、学童詩集を編むのだなどと虹のやうな気焰を書き綴ったりした。

一方、心の優しい兄夫婦は父の死に傷心し恋の煩悶に把はれてゐる弟の身を案じ、懸案の結婚問題解決を抑し進め、正式に仲人を立て、東京ののK嬢の家を訪れ、二十二年の一月下旬、挙式の日取りまで取決めるに至った。しかし、運命の神はあくまで彼には悲劇的であった。結婚を間近に控えた十二月十八日に彼はついに発狂してしまった。深夜、宇都宮市の端れにある進駐軍司令官邸の戸を叩いたのである。そこに何事か懸命に訴へてゐる異様な男を見出した異国の軍人は自分に危害を加へる者の侵入と誤認してボーイ達に命じて彼を縛り日本の警察に渡したのだった。かうして彼は一夜留置場にとまったが、精神錯乱と分り翌曰脳病院に移された。二週問程して平静を取戻した彼は大晦日に家に帰ることが出来たが、家中の驚きは非常なものであった。老母は彼の体にとりすがって「クニ、クニ、どうして又おめえはこんな病気になっただ?」と搔きくどいた。しかし発作が納まって平静になれば昔の彼と少しも変らないやさしい子供であった。彼はこの僅な落ち着きの中でその時の異常な経験を書き綴って未だ失はない精神の光輝を示した。

貴方の御手紙は大へん私を励ましてくれました。私は今寂しく、それに詩も書けず、やっと一篇お見せする次第です、詩の書けぬ時には何もするのも嫌になり困ります。貴方もどうぞどしどし書いて下さい。私は貴方の詩をよいと思ってゐます。続けることではないでせうか。何と云はれても本当の詩はこれからだと思います。貴方のカタイ線はいいです。この荒れた野に詩人が花を咲かせなければ、さう思ひませんか。年齢も本格的には三十過ぎてからです。今迄の文学青年の詩はつまらない。貴方も作品書いて下さい。僕も書きます。とにかく僕はFOUの小説みたいに美くしい夢見乍ら気が狂ったのです。恋しつつ、生活は荒寥と無為でしたが、「三十一日兄の迎へにより退院す、戸外に出づれば新星ほのかににほひ歳も数時間にして暮れんとす」朔太郎ばりですね。何しろ田舎で面白くないのです。今東京に行ったら僕など気がまたちがひそうでこわくて行けない……。

脳病院の雪景色
目は横に鼻は竪なり春の花
うたてやな桜を見れば咲にけり 鬼貫

鉄の格子の外には
今日も寂かに雪が降る
白くつめたくしとやかに
積っては消えまた積る
恋の乙女の手のやうに

わたしの歌は天にゆき
其処で日永を遊んでた
春の花散る樹の下で
幼児の頃の追懐詩
ああ もう一度とは思ふけど

あれはやっぱり雪の結晶
これはやっぱり田舍の病院
そして私の冷えた肢
わたしは此処でこのまま死ぬのか
恥をさらしてこのままに
そんな筈ではなかったが
この眼に景色が美しい
22.1.16

この手紙を見てもまだ私は彼の発狂と云ふ事実を信ずる事が出来なかった。FOUのやうにと云ふ言葉などから夢幻的なロマンチシズムを余けい感じてしまひ、又この詩でも審美的な情景を先に思ひ描いてしまったからであった。寧ろ私はそこに狂気の仮面を見たのだった。しかし、今、この詩を読み返してみればみる程恐ろしくなる。いはば彼の若い生涯はこの一詩に凝縮されてゐると云ってもいい。白くつめたく積ってゆく雪はひらひらひるがへって乙女の手のやうにも見え、それは彼の心象の中で妖気じみた詩への執念となってめらめらと炎えてゐたのである。小説「ヒュウペリオーン」の中でギリシャ的静謐と明澄を憧憬しながらも、陰惨な精神の暗黒の中に悲劇の一生を終へたドイツ浪漫派の詩人、ヘルデルリーンの次の一節も又、その傷つける魂の呻きは私達を慄然とさせずには置かない。

おんみいづくにありや、光よ?
心はまたも目ざめたり。されど心なく
力強き夜はわれをつねに引き行く……
(Chiron 第三節から)

 15 死とその前後

一時退院した彼はその後、薄寒い着流し姿で私の勤先に現はれた。たしか1月だった。家を無断で出て東京の知人を泊り歩いてゐる間中の事と後で分ったが、懐には後生大事と例の朔太郎の写真を入れてゐた。私に恋人のK嬢を紹介しようと云ひ、彼女の勤先である新橋駅前のビルまで一緒に歩いた。歩き乍らも彼は絶えず胸元からずり落ちさうになる写真をその度に奥へ押し込んでゐた。その動作だけが妙に今の私に記憶に残ってゐる。そしてビルの前まで来ると急に気が変ったらしく、
「僕は駅で彼女と待合はせることになってゐるからここで失礼しよう」と云った。私ははぐらかされたやうでいやな気がしたが、彼の気紛れには馴らされてゐたのでそのま、黙って別れてしまった。それきり大垣からの音信は途絶えてしまった。しかし私は病気が再発したものとは知らず、詩の幾編かを送ったりしたが、返事はなかった。しばらくしてやっと彼が再び入院したと云ふ家からの簡単な葉書を受け取った。

それから大分経った七月の始、私は宇都宮の駅に降り立った。戦災を受けた駅前には闇市が並び戦後のあの異様な喧噪に包まれてゐた。彼の入ってゐると云ふ病院は驚く程遠かった。着てゐた一丁羅の国民服は暑苦しく、バスが通る度に白い埃が舞った。場末のごみごみしたしめっぽい屋並が何時までも統き、不安な、いらいらした私の気持を一層重くした。私は誰に会ひに行くのだらう。一人の精神分裂病患者―そう考へると当惑しないわけにいかなかった。その病ひに対する私の知識は極めて少ないのだ。気狂ひ。松沢病院と芦原将軍(※有名な皇位僭称者)。それにずっと昔、私の少年の頃、故郷の街で見た狂女。その女はみるものやうな髪をして、風に裾を乱し股まであらはにして長いコンクリー卜の橋を渡ってゐた。しかも女の腹は妊って醜くふくれ上ってゐた。悪童達は意味も知らぬ卑猥な言葉を吐いては傍に寄ったが、その度に狂女は空を踏むやうな不安な足取りで、けたたましい叫声を上げながらよろよろと彼等に掴みかかった。少年の私は遠くから胸のつまる思ひでその暗い肉の谷間に目を注いでゐた。それはもはや人間でもなく動物でもなく、己れの不吉な罪の想ひそのものの姿であるやうに想はれた。そんな記憶が益々私の心を重くした。

ガードを超えて道は上り坂になり、視界はやっと明るく展けてきた。高等農林学校の樹木の多い清潔な敷地が長く続き、それが尽きると一望の麦畑であった。私は上着を脱いで肩にかけた。私の心の中ではこの道が何時までも続いてゐることの希ひと、早く終ってしまひたいと云ふ二つの矛盾した思ひが存在してゐた。しかし,既に病院らしい建物が麦畑の中に見えてゐた。個人経営になるその病院は如何にも古くさく、気狂ひ病院の名にふさはしいものだった。別棟になってゐる病舎は土蔵と呼ぶに近く、石積みの壁には一尺四方位の高窓が少しばかりあって、鉄の棒が嵌めてある。それは見たものの誰でも憂鬱にさせずには置かぬやうな、窓と云ふより盲人の目と云った、それあるが為にかへって暗さを深める、とも云ふべき正に閉ざされた魂の牢獄そのものを象徴してゐた。無愛想な看護婦に通された控室には、患者面会の注意が箇条書きになって貼ってあった。剃刀とか刃物類、マッチなどを患者に渡していけないとか月並な文字が書かれてあった。その中看護人と称する屈強な男が現はれて、私を病室の方へ案内した。頑丈な扉を開ける度にその男は大仰に鍵束をじゃらじゃら鳴らした。そして私が薄暗い廊下に入ると、再び鍵をかけた。私は密室の中に閉じこめられる不安を感じたが、今は寧ろ大垣に会ふと云ふ事の方が強く、二十帖程の畳敷きの部屋に導かれても落ち着かなかった。

広い湿った部屋は長椅子がたった一つ置かれてある奇妙な部屋であった。奥の入口から黒い着物の人影が現はれた。それはのろのろと私の方へ近づいてきた。大垣だった。夜具とも着物ともつかぬものを引ずってゐたが、帯がなく、前を両手で抻さへてゐた。私を見ると彼はかすかに笑ったが、その目はぼんやりと澱んでゐた。長くのびたまばらの鬚の中の顔は異様に青かった。病気の事を尋ねたが私はふとその愚かさに気付いてやめてしまった。彼はうれしさうに重い口をあけてぼつぼつ話し出した。彼の知人の消息など私の知ってる限りの話を伝へる間、彼は時々うなづいた。彼は退屈で困ると云ひ,彼の兄に本を買って持ってくるやうに伝言してくれと云ひ、もそもそ懐から皺くちゃになった五十銭札の幾枚かを取り出して私に渡した。彼の指の爪は長くのびて黒く、私の手に触れた時私は思はずぞっとした。当時は既にひどいインフレで五十銭札などでは雑誌一つさへ買へない事が分ってゐないのかと私は暗然とした。暫くすると先程の男が私達の間に入って来て、十分間の面会時間が終った事を無愛想に云ひ、彼の袖を取って連れ去ってしまった。部屋を出る時彼は一寸ふり返へった。寂しさうな目だった。(その姿が私に最後のものになってしまふとは夢にも思ってゐなかったが。)

その後私は病院を訪れようともしなかった。私は確かに不実な友であった。私は友の病ひに対して完全に無力だったし、それを戦後の意外な生活の苦しさの故にして私は次第に病ひの友を忘れていった。然し通勤電車の中とか、歩道の真中などで不意に彼の面影が鮮やかに蘇へって来たりした。すると私の心に冷たい風が吹き通り洞穴がぽっかり開いたやうな気がするのだった。その後彼の家からは何の知らせもなかったし、私も又一通の手紙も出さなかった。一年以内に治らなければこの病気は荒廃の一路を辿って全き痴呆に化すと云ふ話など聞くにつれ、絶望が先に立ち、彼は次第に生きながら私の思ひ出の人になっていった。

入院してから七年目の、二十八年の秋、私は所用で大阪に寄ったがその時郊外の田中先生をお訪ねした。早速口をひらいて訊ねられたのは彼の事であった。その時私は何も答へられず口籠ってしまったのを記えてゐる。きっと先生は友の病状がどうなのか、いや、その生死さへも知らない私の不実さを責めてゐられたに違ひない。先生は寂しさうに
「もう死んでしまったかもしれないね」と低い声で云はれた。

晩秋の一日、私は再び宇都宮を訪れた。死んだのだらうかと云ふ不安は繁華街に近い彼の家に近づくにつれて高まるばかりだった。生きてさへゐたらどんな状態でも会はうと心に決めながらも不吉な想ひの方が先になり、見舞ふこともなかった七年間の空白が、彼の死と云ふ一事が私に蘇へって来るのだと思ふと、その苦しさは堪え難かった。来意を告げると、奥から出て来た彼の母は少し腰が曲ってゐたが大変な元気で嘗って商家を切り盛りしてゐた若い日の才気を偲ばせる歯切れのよい口調で末子の傷ましい過去について語り出すのであった。

不吉な予想通り彼は既に不帰の客になってゐた。それも二年前の二十六年三月五日春浅く、彼は誰の看取りもなく人知れず死んでいったのだ。病院からの報らせに彼の兄が駆けつけた時はもう死んでゐて、その死因さへ判然としないと云ふ。病院側の話によれば前夜一晩中家に帰りたい一心で窓格子を壊してゐたが、朝になり飯も食べず下を向いたままでその後死んでしまったと云ふのであった。彼の母はしかしそれを信じないで本当は格子を壊した事から看護人か、同室の患者からでもひどく殴られ、それで死んだに違ひないと言葉を強めた。又言葉を変へて彼の老母は再度の発狂の日に戦死した大塩の柘榴の絵や、本やら、写真など風呂にくべて燃してしまったと云ひ、今は何も遺ってゐないけれどと、私の前に小さなボール箱を置いた。その中には一時退院した時に書いたと思はれる、恩師や友人に宛てた未投函の手紙が一杯入ってゐた。開けるとどの手紙の中にも「脳病院の雪景色」の詩が書いてあった。「……そんな筈ではなかったが悩みに悩んで死んでゆく」と結んだその詩の言葉そのままの最後が目に浮び、急に私の目は熱くなった。私は下を向いて涙を見せまいとした。しかし涙は意外にも溢れてきて彼の遺墨の上を濡らしてゆくのだった。

私は帰途の汽車の中で発狂した彼と会ふことなく去ってしまつた彼の恋人についてしきりに思ってゐた。女の非情は責められなかった。寧ろそのやうな無残な別離こそ夢を食って生きてゐる詩人に訪れる運命のやうに思はれた。現実と妥協しようとしない者に、現実はいつも復讐の刃を研いでゐるのだから。喀血した血を自分で吐く事も出来ず誰もゐない未明の病室で苦悶の窒息死を遂げた立原道造の死や、白蛇の幻に脅かされて狂ひ死んだ中原中也の死など、美神に魅せられた者に対する死神の見事な復習。私はふとコクトオの「オルフェ」と云ふ映画の中の死神を思ひ浮べた。それは白いドレスに胸乳豊かなハイヒールを穿いた美女の形をしてゐたが…。

彼にやっと訪れた死が彼の魂の救ひであったかどうかは知らない。私はたった一人の友を失ったと云ふ事だけだ。車窓には晩秋の黄昏の風景が映ってゐた。葉の少ない桐の枝に烏が群れて、黒い森の背後には、火のやうに一時燃えた夕映えの名残りが次第に光を奪はれてゆくのが見えた。ふとそれが友の生涯のやうに思はれた。一つの詩が私の中で轍の音ともつかず言葉になってゆくのを、私はほのかに感じ始めた。彼の挽歌としては余りにも拙なかったが、私はひたすらにその言葉を小さな手帳に書き記してゐた。(※ 詩 省略)
彼が死んでもう七年になる。三十一才で死んだ彼は日々の生活の重圧にひしがれ乍らあくせく働いてゐる私を草葉の蔭からどんな気持で眺めてゐるだらうか。


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