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たなかかつみ【田中克己】『南の星』1944


南の星

『南の星』

田中克己 第四詩集 (従軍詩歌集)

昭和19年11月25日 創元社刊

128p 18.5cm 並製 ¥2.12

3000部


   中扉写真

序文 1 2 3 4 5

昭和十六年十二月八日の宣戦の御詔勅を拝するまでの欝屈の気持は国民すべてに共通であつたが、易い私にはとりわけ耐へ難いものであった。あの朝の感激、やがて真珠湾の奇襲、 またしばらくしてプリンス・オブ・ウエールズとレパルスの轟沈、欣喜雀躍とはこれらを聞いたときの国民すべての心持を云ふのであらう。

 しかし私の心はともすると挫けさうになつた。日本の国に男と生れ、筆のことにのみ携つてゐて果していいのか。銃を執るには耐へかねる弱い体ではあるが、 筆の力の弱さにも切歯の思ひが深かった。しかるに明けて昭和十七年の一月十六日、はからずもこの思ひを伸べる機会が与へられた。所謂白紙令状を受け、 既に戦地にある多くの先輩につづいての御奉公を命じられたのである。

 書きかけの原稿のことなども少しは気に懸つたが、遺書を認めて、家を出、十年の友たちの送別を受け、二重橋前に跪拝したとき、生死の覚悟は定まつた。 しかも幸ひにも命じられた集合地は偶然と故郷の市である。一月二十日の入隊を前に旧師旧友親戚の殆どすべてにも会ふことが出来た。

 入隊の日、私の最も虞れたのは体重四十キロの痩身である。しかし軍医殿は、ふだんからかうですね、と訊ねただけで身体検査も通過さして下すつた。 八十三歳になる祖母が餞けの日本刀の用意も成り、出船の時を日々待ち焦れてゐる中に、皇軍の戦果はまたたく中に揚り、シンガポールは陥落し、昭南と改称された。この間、 私の心は焦燥するばかりであつたが如何ともなし得ない。焦燥の理由は申すまでもない。戦闘の場を見ずして、何の従軍の詩ぞや、である。

 その後のことは詩歌と、巻末に記したその各々の解説とを見ていただけば宜い。ただ附加へねばならないことは、私が残念がった詩人が実戦の揚に臨み得ないなどといふことは、 それこそ大変な考へ違ひであって、大御稜威の発揚が拙き詩を待たずとも自ら明らかなことは疑ふべくもない。詩人の持参の筆のみか、日本刀の無用であつたことも、 残念がつて佐々木六郎上等兵に嗤はれた。詩人が刀を揮ふときは我軍に一兵をも残さずなつた時のみ。その刀を揮ふ時を望むは敵の優勢を望むに等しい、といふのが嗤ひを訝かつた私への答であつた。

 不敏なる私はまた生死の覚悟でも到らぬことが多々であつた。このことは帰還の輸送船中ではじめて悟つた。 傍に寝た兵隊さんの読みさしの雑誌を読むともなしに見てゐる中に、平出海軍大佐の文があって、今はうろ覚えであるが、少年航空兵のことを記し、彼等は入隊後一年にして、 「何時でも死ぬ」といふ気になり、二年目よりは「命を果して死ぬ」と変る。これをもつてはじめて真の航空兵となつたのだと記してあつたと思ふ。 読むことここに至つて私もハッと気がつき、いままでの何時でも死ぬぞといふ覚悟の未だ至らぬものであつたこと、それにも拘らずこの覚悟を内心誇りとしてゐたことの恥かしさに身の縮まる思ひをした。

 しかし私の徴用とともに受けた命は果して何であつたらう。もし国民の士気を鼓舞せよとか、皇軍の勇戦の状を伝へよとであつたなら、拙きのみでなく見たところもこれに副はぬ。 ただもし大御稜威、南島にあまねく、原住民の上に煌々と輝くこと、その夜空を照す星の如くであり、詩人が上にもまたみ光りあまねく、 拙き言葉を綴るの暇あらしめたまうた証しの一端とせよ、とのことであったならばといふ臆測に基づいてこの書を成すのである。

 帰還後、家父※また詩を示して家郷の遠征を思ふの情を明らかにした。心身ともに虚弱なる子のうへを憂ひず、またその詩その歌のことをも云はず、 ただ大御稜威の下、意気揚々と生くることを遥かに想ふ。事実に相当り、わが意にもかなふこと多いゆゑ、次に記して序詩に代へる。  ※西島喜代之助

海の彼方に

赤道直下 常夏の
真日はかがよふ昭南に
夜を短みふるさとを
夢みるまなき吾子ならむ

熱帯樹の葉 光る朝
馬来びとらにうち交り
軍靴高らか昂然と
舗装の路を踏みゆくや

ジョホール・バールにブキテマに
日の大み旗並み樹ちて
壮んなるかな復興の
街のいぶきの新鮮さ

教会堂の塔の影
きのふながらの人ゆけど
ちまたこぞりてその子らは
愛国行進曲うたふ

住まずなりける敵の家
荒れし庭べに紅き花
心もなしに咲く見つつ
ひとり立つらむ街角に

見放(さ)くる彼方縹渺と
波ぢはろけき太平洋
北に向ひて高知らす
日の大君を拝むらむ

わが大君は神ながら
あやに畏しおしなべて
海もくぬがも空もはた
しらず南のはてまでも

大き東亜の夜の明けを
神みいくさと相征(ゆ)きて
大き神わざうつしみの
うつつに見けむ吾子なれや

曙もたずほのぼのと
暮るる黄昏なき国の
椰子の梢に登る月
旅のこころは痛むらむ

四季あり雲に色ありて
さくら咲く日よ雪つむ日
聖天子ます神の匡
祖国日本のおもひでや

赤道直下 常夏の
真日はかがよふ昭南に
夜を短みふるさとの
夢みるまなき吾子ならむ

昭和十九年三月

           田中克己


目次 1 2 3


【出船まで】

佐藤春夫先生に

みんなみの軍(いくさ)うたへとうたびとの吾さへ徴(め)さる大みいくさに
美(よ)き人のひそみにならひ醜(しこ)われもうたの一巻のこさざらめや

同穴の契

なと吾と 家つくりしは
和泉(いづみ)なる 高師の浜べ
ともに住み いく年(とせ)か経(へ)し
けふ見れば 小皺寄りたり
ながおもて 吾もしからむ
死の床は 異にせむとも
奥津城は ひとつの窖(あな)ぞ。

出発近し
おほきみのみこと畏こみますらをの旅に出づべきとき近づきぬ

○○港 1 2
さらば稚子ら汝とながちちとなが母とそを守らんと出で立つわれぞ
軍港の春浅くして看護婦らしづかにゆくが美しく見ゆ
島山の姿きびしくとり囲むみなとの水は冷くは見ゆ

【途上吟】

船中
愛(うつ)くしき妻子をおきて船に乗りますらたけをはつるぎを撫づる

死生有命

波高し 風強し
船艙 燈暗く夜は闌(ふ)けたり
突如 緊急会報を伝ふ
敵潜水艦出没と
人々ガバとはね起きて
船中 凄気漲りぬ

波高し 風強し
二月の海の気は寒し

銃(つつ)執るも劔按ずるも術(すべ)知らぬ
報道隊にわれありて
眼(まなこ)つぶればあざやかに
大内山の緑見ゆ 死生 命(めい)あり
大君の 命(みこと)のままに――
枕引き 吾また眠りに陥りぬ。

洋上二句

春雨や哨戒艇を煙らせて
濛気深しわが船ゆめを多く載す

安南遠望

右手(めて)には荒涼たる台地
ところどころに塚形の小山
左手(ゆんで)には島二つ
岸辺を見れば そびえ立つ
何の木々ぞも
家の数いくつかあらむ
寂しげに望遠鏡(めがね)に映る
ああ 安南(アンナム)の最初のながめ
荒涼としてわが心痛む。

青き木の実

蒸暑きサイゴンの市(まち)の午後の二時
ひとみなの昼寝の時刻に
われひとり三輪車(シクロ)やとひて
友を訪ふ道すがら
幼(いと)けなきアンナムをとめ
われ呼ぶをかへり見たれば
青き木(こ)の実 呉るといふなり
名も知らず 益(よう)も知らねど
ふところに吾は牧めつ

ながくれし青き木の実は
そも何の象徴といふ
笑ふひとあるひはあらむ
ふところに吾は収めつ。

サイゴンの夜

夜は闌(ふ)けぬ 枕に近く啼く虫は
ふるさとの蟋蟀(こほろぎ)の音(ね)に似たれども
ほのかに匂ふイザリアの花めづらしみ
寝(い)ねんとすれど寝ねられず
窓を明くれば 傾くは南十字の四つの星
ああ この良夜を転々と寝がへりを打つ
わが耳に よすがらひびきて止まざるは
馬車の輪の音よ 轔々と
アンナムか支那人(シノア)か知らず
誰のせていづこへ走る馬車ならむ。

サイゴン市中

われが行く道の四つ辻とし老いしアンナムをみな欠伸(あくび)する見つ
道の辺のキャフェーに入れば侍童(ボーイ)らはフランス撃てとわれにいふなる
並木路を美くしとおもひ名を問へばアンナムびとは槐(グエイ)と答ふる

懐西貢 1 2

西貢(サイゴン)河を下りてより二時間
西貢は見れども見えず
ああ なんぢ東洋と西洋との混血児
なんぢの寵児フランスびとの
畏怖と憎悪をこめしまなざし
浴びて歩みしキャティナの道よ

はた市役所の前なる広場
わが行きしときイヴォンヌは
われに抱けよと走り寄り
クロード、アラン、ジャク、ジョゼフ
安南少年黄(ホワン)をまぜて
ともに語りし楽しきときよ

キャティナの大人はさもあらばあれ
子どもの澄めるまなこもて
欺瞞憎悪の消えんとき
われまたかしこを訪れん

西貢河を下りてより二時間
西貢は見れども見えず
泫然として涙くだる。

洋上

夜の明けに寺々の鐘鳴りわたるサイゴンおもへば夢のごとしも
吾子よ吾子よなれが欲(ほ)りする金米糖氷砂糖を食(た)うぶる父は
バナナをと手紙を呉れしわが子ゆゑバナナを食(は)めばそれを思ふも

ニューギネアに皇軍上陸の報あり

わだのはら八千島(やちしま)あれどことごとくみ旗うちたつときとはなりぬ
祖(おや)たちの生れつぎ来し三千年いまをおもへばながくもあらず
この日々を海に魚(いさな)の卵ながるわれがいのちも子らに通へる

【昭南島】

花の便り 1 2

ふるさとびとに告げやらむ
仮の宿とは思へども
鳳凰木(ほうおうぼく)はた仏桑花(ぶっそうげ)
血よりも赤く咲ける庭
芝にまじれる草合歓(くさねむ)の
撫づれば閉づるかはゆさを

ふるさとびとに問はまほし
わが植ゑおきし庭隅の
匂ひ菫に桜草
ことしの春も咲きにしや
年ごろ美(よ)しと見て来ぬる
阿佐ケ谷の桜花(はな)いろいかに

花の便りの聞きたさに
花の便りを聞かせぬる。

昭南島

昭らけき御代とぞおもふ南(みんなみ)の島にみはたの並み立つ見れば
朝戸出に南十字の星見ゆる鶏(くだかけ)の音(ね)はかはりなけれど
手長猿飼ふ兵あるをわが見しが時過ぎぬればあやしともせず

みんなみの大みいくさ

みんなみの大みいくさをうたはんと来りしわれぞ大みいくさを
とこなつのくににはあれど日の御旗はためくみればここもみつちぞ
うばたまの夜のすずしさに啼くとりをつぶさにきけばやもりにありける
おほみいつよもをなびかせつるぎたちとらぬわれらも安寝(や)すいしなせる

牟田口兵団        (放送原稿 原題「ブキテマの三叉路附近」昭和18年2月4 日消印大阪中 央放送局文芸課(佐々木英之助)宛速達)

ブキテマの三叉路附近
弾丸(たま)の雨 小止みなく降る
ここ攻めし牟田口兵団
兵団長すでに傷く
ひのもとのたけきつはもの
あたらあたら ここに傷き
そこに斃るを 伝令の
われは見たりき 開きたりき
いまはのことば
陛下万歳
兵団長われは戦死す
おつ母(かあ)よ おれは死ぬぞ と

ブキテマの三叉路見れば
わが耳にいまも聞ゆる
わが眼にはいまなほ見ゆる
その姿 その雄叫びは。

蛇つかひ

笛の音はヒイヤラ
ゴムの木の梢 風なし
蛇つかひ笛を吹けども
錦蛇 眼鏡蛇(コブラ)等ともども
ものうげにのたくれるのみ
赤き花おほく咲く庭
この時よりうたてと思ふこころつきにし。

ジョホール水道渡過直前 1 2        (放送原稿 原題「ジョホール渡過直前」昭和18年2月4日 消印大阪中央 放送局文芸課(佐々木英之助)宛速達)

シンゴラより コタバルより
パタニより来りし兵ら すべて集り
ジョホールの水道渡過の命は下りぬ
この日 兵ら面(おもて)かがやき
シンガポール取る日来れり
この日待ち この日あこがれ
われら来し かく言ひて笑む
手帳ひらき鉛筆なめて
書く見れば
天皇陛下万歳の六字
明日死なむその時いはず死なば惜し
それゆゑにいま書き置くと
事なげに語る兵かな
恩賜の煙草 けふのためぞと
残ししもいまは喫まんと
北のかたうち拝みつつ喫める兵あり
護謨林に星かがやけば
渡過せんと死ぬる兵らの
かがやける笑める面の
美しかりし二月八日を永久(とわ)に忘れじ。

敵降服         1  2         (放送原稿 昭和18年2月4日消印大阪中央放送局文芸課(佐々木英之助)宛速達

突撃の命令下り
戦車まづ準備を修め
歩兵その傍らに立つ
小隊長われ刀ぬきて
いまし行かん死なんとするに
なにゆゑぞ 背後ゆ伝ふ
突撃中止!

一瞬のしじまのあとに
やがてやがて 大波のごと
万歳きこゆ 師団より
旅団、聯隊。聯隊ゆ
大隊、中隊。小隊に報あり
敵は降服すとぞ
おほみいつ極みなくして
敵(あだ)ここになべて降りぬ
頬つたふ涙のあるを
知りつつも恥ぢず

やがてまた命令来る
喫煙! と
ああ その煙草の旨かりしこと。

兵団司令部              (放送原稿 原題「シンガポール攻略」昭和18年2月4日消印大阪中央放送局文芸課(佐々木英之助)宛速達)

テンガーの飛行場近く
敵軍の間隙縫ひて
稜線に辿りつき
さらに突進せんとしたりし
わが目に見ゆる 前方の
窪地に天幕張れる一群
いぶかりてみはる眼(まなこ)に
日章旗見ゆ これぞわが
兵団司令部 兵団長もそこにゐたまふ
かくてこそ馬来戦線
電撃の戦果あげ得し

曹長のことば聞きつつ
わが眼には絵のごとく見ゆ
第一線と殆どひとしく
死地に入る兵団司令部。

英霊           (放送原稿 昭和18年2月4日消印大阪中央放送局文芸課(佐々木英之助)宛速達)

その姿光りかがやく
虎が棲む馬来の林
敵撃つとわれら征(ゆ)くとき

その姿光りかがやく
獅子の町シンガポールの
青き海われら見るとき。

散る花

いくさ神まつる庭べに桜花ちるとふしらせわれは聞きけり(岩佐小佐等九軍神の祭ありしと)
海原の千里を越えてたより来ぬわがふるさとに花散りぬると(白鳥庫吉(くらきち)博士の訃報)

山荘をおもふ

夜の明けにもろもろの鳥啼き
日くれには庭番の誦するコーランきこゆ
しづかなる館にあれど
綑包の命下りしに
見棄て来ぬ あはれあはれ。

アラブびと

こよひ隣れるアラブびとの
富みて巨(おお)いなる家ぬちに
人ごゑさはに 楽(がく)ひびく
なれアラブびとの喜びし
ルバイヤットは酒の歌
こよひ歌ふは何のうたぞも。

天長節

勝ちて来し兵ら佳き日をことほげる
青草や子らとむつびて兵坐る
杯あげて祝せば大いなる日暮る

歌三首

われに二目置かせし独立工兵はコレヒドールに血に塗(あ)へけむか(コレヒドール陥落)
屑米をより分けてゐし支那びとのむくろにあらむ哀れといはず(行斃れを見る)
鳳凰木の梢にのこる夕映えをアラブ童(わらわ)をつれつつぞ見る

柳重徳君戦死之地

ブキテマの三叉路近く
みちのべの草の茂りや
洫(いぢ)川の流に沿ひて
墓標(はかじるし)立つ

こここそはますらたけをが
そのかばね横へし土地
「天・・・・」とのみ 陛下万歳
言ひ終へず 息は絶えしか
来て見れば馬来びとらは
往き帰り 洫川の水は流るる

墓の辺の白き花摘み
言(こと)なくてわれは帰りぬ。

ジョホール・バール

瀬戸に沿ひ並木路ありゆきめぐりわがゐることもゆめの如しも
サルタンの王宮を過ぎわが友ら屯(たむろ)せる野に近づきにけり
海美し並木路よしと印度人のまなこくるめく子らと語れる

【スマトラにて】

野戦病院に入院

御紋菓一箱を賜はる
われを臣子(おみ)と思召すかや菊の花恩賜の御菓に涙流すも
病院にてマンゴーをはじめて食ふ
風薫る廊(わたどの)にゐしわが耳にひたと音して落ちし木の実ぞ

印度人村

こはれし籐椅子に倚り
あふげばうろこ雲
奏(かな)づるはアラビアの楽
楽の音(ね)のなどかさびしき
暮れやらぬ空の奥処(おくが)に
なれの眼に似しは月かも。

印度洋を見る 1 2

       スリーマン高原にて

ここより見れば巨(おほ)いなるかな
静かに湛へたりな なんぢ印度洋
そは若きスタンフォード・ラツフルズが
夢を抱きて航(ゆ)きし海――その築きし
シンガポールが百年後
昭南の市と変るとは露だも知らず――
またダルブケルケの艦隊が
東洋遠征の満帆に風孕ませてゆきし海

いま知るや 汝の上を自在に航くは
日の丸挿すわが艨艟 わが輸送船のみなるを
敵(あだ)の船 なべて沈みぬ 島蔭に隠れてゆくも許されず

左手(ゆんで)を見れば
象 虎の棲むスラワ火山そびえ立ち
山小屋の庭べには
仏桑花(ブガ・ラジヤ)赤く 金鶏草 黄なり
あ、印度洋 いつの日か 汝を見んと思ひきや
ああ スリーマン高原 われ生きてここに立たんといつか思ひし

万感 胸に溢れて語るとも尽きざらん
ただその一端を述べて
家郷の遠征を懐(おも)ふに答へんとす。

魚捕り

なににしよとて珈琲(コピー)売る
珈琲は売ればよく捌ける
毎日毎日 魚捕(と)る
魚を河の口で捕る
毎日 飯の種さがし
種にしよとて歌を売る
恋にこがれてすることよ
歌売り飯の種として
かぼそい命をつなぐのも。

高原

スマトラ富士の西麓をゆく
そが噴出せし火山灰は
一〇〇〇米の高原地帯をなし
ちがやが叢(むら)は白き穂を風に靡かす
起き伏しの丘 深く刻める谷
わがふるさとの山河に似たりや
「見よ! かの丘を!」
指ざされ眼(まなこ)をやれば
墓標(はかじるし)二つ三つ七つ
こは北山部隊岩崎隊
千名のオランダ軍と三日四晩の戦闘に
殪(たお)れし勇士の奥津城にこそあれ
ふるさとに似たる山河
ふるさとに似たる風吹き
蒼茫として墓標立つ
礼(いや)終へてわれらはゆきつ
蒼雲のなびく峠へ。

スルタンの別墅

シバヤクの山は火を噴き
スルタンの別墅(べっしょ)の庭は
金鶏草コスモスの花
しら菊もまじりて咲けり

刀(とう)吊りしわれにはあれど
ふと思ふ日本の秋 このこころ
なれは知らじな 庭番の黒き翁よ。
(プラスタギにて)

家信あり 1 2

この日ごろうれひなくして過し来つわがふるさとのふみ見し日より
わぎもこがわれをおもひて燈のもとに書きしふみゆゑみれどあかぬかも
わがともらわがうた読みてありといふうたよむべしと徴(め)されしわれを
わだのはらこぎいでてよりこのいのちいくさのにはに捨つと思ひき
いとど啼くメダンのよるの涼しさにひとときおもふわが庭のくま

日本へ歌信 1 2 3

小高根二郎に
山吹の咲きいづる垣根いひおこす友ある身ゆゑなかなかにたぬし
芭蕉葉に白飯盛りて食ひしことかへりてのちは忘れむずらむ
かく細き身にしあれどもなかなかに侮るものも市(まち)にはあらず

小高根太郎に
出羽のくに秋田の犬は強しとふきみがいかりもさこそありけめ
みんなみにありて思ふは友のことなれがたぐひはここにはあらず
わがこころ知るはたがひとわがしわざそれと悟りて笑むはたがひと

伊東静雄に
ひのもとのくににはあれどこのまちは夏花のみにほとほと倦んず
わが書棚にルバイヤットのあるゆゑに君が詩集を思ふことあり
大君のみやこはなれて遠ければ友のたよりはいや珍しゑ

丸山薫氏に
わが来しはふるさとのひと恙(つつが)なくまさきくあれと念じつつ来し(萩原朔太郎先生の訃報)

湖辺 1 2

湖(うみ)の辺のバリゲの村
着飾りしバタクびと
足早に歩むなり
華やかのよそほひなれば
よそめには祭のごとし

尋ぬれば大人の
葬りにゆくと答ふなり
トバ郡の大酋ラジャ・ブンタル
死せしかばそれが葬りと
湖の辺の小高き丘に
人さはにつどひつどひて
よそめには祭のごとく
けふの日を葬るにありき

しづかなる湖のながめよ!

赤道標 1 2

夜は時に虎の出るとふ
林道もいまは昼とて
蔦葛(つたかづら)まとふ梢に
小猿らの遊ぶ見しのみ

そこ過ぎて小(ち)さき村あり
道の辺に赤道標立ち
村の子らあまた出で来て
立ち並びバンザイ叫ぶ

答ふると挙手しつつこそ
われら入る南半球。

山の湖 1 2

自動車の一隊は
外輸山を越えて来て
もとの火口原に湛へた湖岸に下りる
静かな青い湖
マンゴーの木が蔭を映してゐる
夢のやうに美しい景色
子供たちが集つて来て
一隊をとり囲むと
日本の歌が湖水にこだまする
「ああ美くしや日本の旗は」

湖を眺め子供らを眺め
兵隊たちを眺めてゐると
いつか私の心も同じ調子でうたふ
「ああ美くしや……」

歌ひ終へ教へ終つた一隊が
自転車に乗つて去つたあと
黒い可愛い子供たちの心と口に
いつまでも残る歌を思ふと
夢のやうに美くしい景色だつた。
(マニンジヤウ湖にて)

セメント工場にて

海青し印度洋とは申すめり
石灰の山やたがねに風薫る
涼風や石衣を焼く室を出る
索道の果てながむれば白雲や
索道のハタリととまり白雲や
常夏を巨大攪拌器廻転す
海見ゆるヴェランダに喫す琥珀の茶
南緯下に故国を語る一座かな
眼(まなこ)碧(あお)き子らやリラ咲く坂降る
厨への廊や白猫眠るなり。

ドリアンの季節

ドリアンの季節となりて
夜のまちのにぎはしさはも
ひととせに再びみのる
果物のまへの季節は
わがいくさ馬来の土を
その血もて染めにしときぞ

いまいくさここは収まり
ドリアンを啖(くら)ふものみな
安けさに慣れしいろあり
見るわれもつるぎを帯びず
ただ告げん筆にことばに
すめろぎのみいつのゆゑぞ
安けさに慣るるは宜(よ)けど
そのことをゆめな忘れそ
バタクの子 ジャバ少女(おとめ)らよ。

戦がたり 1 2

たたかひは南にうつり
この島のよるはしづけし
タマリンドしげる庭べに
酌みかはす杯のうへ
夜気ながれ星はかがよふ

ジョホールの水道渡過に
中隊長小隊長は
すべて傷き 少尉われ
隊長代理 生き死には
さもあらばあれ ただ命の
ままにゆきしが 丘の上(へ)に
日章旗たて 命なし遂げぬ
それのみぞ語ることなし

言葉つき若き頬には
はぢらひの色はしる見ゆ
タマリンド梢のあたり
なま白くかがやく星は
みんなみの十字架星座
たたかひはそのかたにゆき
この島のよるはしづけし。

【昭南帰来】

昭南忠霊塔にて 1 2

昭南の空の青きに忠霊塔 粛然と聳(た)つ
参拝のあと眺むれば武威の山 万代の山 轟山
また渡過のジョホール水道 けふはみな静かなれども
思へこの一一〇〇粁の馬来の土は
わが将士その血潮もて湿ほして来しい戦(いくさ)の場(にわ)ぞ
み霊(たま)みなくにに還りて神として祭らるるけふ
村落(カンホン)は家のことごと日の丸かざし
子供らもみな日本の歌をうたへる
眼路(めじ)はるか航(ゆ)くわが船は
スマトラの石油 馬来のゴムと錫
ふるさとに積みてゆくらし
さらに積めこの美しき聖(きよ)き地の写真(うつしえ)と詩も。

歌三首

昭南の丘べの木々の名を問へば馬来びとらは木(カエ)と答ふる
おのづからことば通じて支那びとと笑みかはしゐる日もいくにちか
ガンヂーもボースもあらずひたすらに金恋ふ印度びとをにくめる

昭南訣別 1 2

乗船の命(めい)下りしに
乗りし船 銅鑼をならしてうごきそめ
昭南のまちとたちまち
はるかなる水をへだてぬ
甲板にわれらつどひて眺めやる

同船のつはもののとも
ブキテマに はたコタバルに
友うずめふるさとに去(い)ぬかなしさはさこそといはめ
ながからぬわれがいのちも
四月のみそこにすごせし
知らずなぞ別れのつらき
カセイビル見ゆるかぎりは
甲板に立ちふさがりて
見えず! とて船室に入る

埠頭まで来りしともの
別れぎは涙うかべし
まなここそとはに忘れじ
カセイビル、オーチャード路は
美しとわれはいはずも
知らず なぞ別れのつらき。

【帰還後】

わが従軍記 1 2

    スマトラの北部、一万尺近きバリサン、ウィルニヘ
    ルミナ両山脈に挟まれし谷に水田開発の行はれゐ
    るを見にゆきしことあり。指導に当りゐし軍びと
    みちすがらの珈琲園のことも記すべけれど。

桜桃みのるを見出で
よぢのぼりわれが採るとき
木の下(もと)に集りし子ら
日本の子らに似たれば
一つづつ投げてやりしを
拾ひ食ふ。手のとどく限りはとりつ
了(を)へぬとて下(お)りしわれには
「多謝多謝(トリマ・カシ・バニヤ)」かまびすし
この宵に傾き見えし
南十字のいろの清けさ
砲音(つつおと)はつひに開かざる
わが従軍記播くもかゝることのみ。

南方を懐ふ 1 2

去年(こぞ)のけふいづくにゐけむ
いまは覚えず 暑かりし南の国や
昭南にわがゆきしとき
塀ごとにいかだかつらの赤き花咲き
スマトラにわがゐしときは
窓の外マンゴーの熟(みの)る木ありて
子供らの攀(よ)づるを見しか
サイゴンの市役所前の
芝生にて遊ぶ子供ら ともに見し
少尉のひとはわが帖にその名署(しる)して
いまいづく 戦ひのはげしきと聞く
ソロモンか濠北の島 征衣やぶれて
雄叫(おたけ)びの日夜すごさん

みんなみの赤き花々
みんなみの美(うま)し木(こ)の果は
いま説かず ますらをの友をおもひて
妻子らと寝(い)ぬる我が家の
しづけさに慊(あきた)らはずと
さ夜ふけておもふも幾夜
みいくさにはむかふ敵の
すべてほろびて戦ひを
船路のことを 花はた木の実
語る夜のはやも来れと
いのりつつけふぞ迎ふる
みいくさのふためぐりの日。
(大東亜戦争二周年の夜)


解説

これは昭和十七年一月から十二月までの従軍の間に手帖のはしに書きとめ、内地への便りにしるし、もしくは陣中新聞に発表した詩歌の大部分から成る。 題を「南の星」としたわげは、北回帰線をすぎるころから内地では見られない星が見えはじめる。支那人の云ふ老人星(アルゴ座カノープス)が恒星中、光度が最も強い天狼星(大犬座のシリウス)の下に、これと劣らぬ位、煌々と輝いてゐるのを見た翌々日だつたか、暁方近く甲板に出ると左舷寄りに殆ど直立した南十字星が見え、 その左手にはケンタウルス座のα、βの二星が見えた。これらの星は浪曼的な私の少年の頃から憧れの的であつたし、我々の祖先が慶長元和の頃の南進の時に望み見たものである。 大東亜戦争によつて国威の八紘に輝くのを見るとき、これら南の星も感慨無量に違ひないといふことが一つ。いま一つ、軍属である私さへも被つた戦闘帽には星章が鮮かにつけられてゐた。 軍属たちの仕事などは云ふに足りない。しかしこの集が星章帽を被る将士の功業の一瑞をいささかなりとも伝へるよすがにならば、との念願からもこの題名を選んだのである。

佐藤春夫先生に

二首の歌を待機中にさし上げて、古くからの欽慕の意を表したく思つたのは、もとより生きて帰らぬ覚悟のなすわざであつた。 ただし死ぬときには鴎外先生の「歌日記」春夫先生の「戦線詩集」に及ばぬまでも、歌の一巻を残したいと念じた。この歌に対しては思ひがけずも春夫先生より御返しとして、 ありがたいことには高村光太郎先生の描かれた先生の絵のわきに

われわかくしてあめつちををとめこころをうたひしがまたときありて
まゆをあげくにをうれひのうたありき
と記され、また他の個所には
みんなみのおほみいくさのひとまきをいへづとにせむきみぞともしき
みんなみのおほみいくさをうたはんずますら男の子を友とせり身は
ますらをのうたびとなればこころして君死にたまふことなかれかし

の三首が記された絵葉書を賜つた。死ぬなとの仰せは必ず死ぬ覚悟の私には一きはありがたく感じられた。シンガポール陥落に先立つこと十日、 皇軍はすでに馬来半島を席捲したが、ジョホール水道渡過のため満を持して居り、百年不落と敵が誇つたシンガポールがもとよりあのやうに早く陥ち、戦火全く収まり、 昭南島と名の改まつたそこへ、私ごときがのこのこと上陸することなど予想もつかなかつた。しかも乗船するまで行先は爪哇か緬甸かニューギネアか、指示なきままに種々空想をめぐらすより外なかつたのである。

待機中、同時に徴用となつた連中とは、ともに訓練を受けたが、その間に語りあふことも多かつた。中でも故平野真実君は応徴前、大陸新報の記者として中支に従軍し、 その間の見聞をことこまかに、話術も巧みに話してくれ、その一二は私の詩となつた。次に録する。

西住戦車隊 1 2

攻撃準備の命くだり
戦車の手入れ終へしころ
豪雨来りぬ 蒼き雨
車軸を流し兵濡れぬ
あたりは菊の花畑
濡れつつ兵のなすことを
わが見守るを知る知らず
兵らは折れり菊の花
戦車にかざす菊の花
御紋を播し突撃し
戦史に残る戦車隊。

江上歌合戦

揚子江をば遡る
艦と代りて降る船
手旗信号あざやかに
「桜咲く故国へ帰るあとたのむ」
艦長われを顧みて
小憎き風流なす船ぞ
われも一句を酬ゆべし
筆とるわざの君たのむ
たのむと云はれ拒まんは
男の業にあらざれば
やがて成りたるわが一句
手旗に返す歌合戦
「春雨や四百余州を煙らせて」。

同穴の契

支那人が最大の幸幅とした借老同穴はみ国のため生きて帰らぬ覚悟の身には、むしろ嗤ふべきことと思はれた。ただ遺骨の処置などのこともあり戦死の時は妻にと小高根二郎に託した。 高師の浜は旧百人一首で「音にきく」と歌はれた歌枕の地である。

死生有命

これも支那人のよく云ふ語であるが、命を運命と考へるは誤りで、日本人の命とは天子様の命のみとの意を記す。束京出発の時、拝した大内山の緑は南方でも屡々思ひ出し、 地上で最も荘厳、最も美しい景色と信じられた。

濛気深し

船中、話題の中心となつたのは共栄圏建設の理想と実際。一座の中心となってゐたのは故平野直実君である。消燈の命を受け、連中がいびきを立てだすと、 夢にも建設のことは現はれるのではないかと思はれた。

青き木の実

青い実は食へないと教へたのはイソップであつたか。少女の呉れた木の実は後で訊ねればパパイヤの未熟のもので、食ふことは出来なかつたが、 うれしくてアリガトウといふと、 アリガトウを繰り返して少女も喜んだ。サイゴンの大使府にゐた村上菊一郎君を訪ねた時の話である。

サイゴンの夜

サイゴンは私の行つた眼りに於いて、南方で一番蒸し暑い土地、訪ねた季節がまた最も悪いときであつた。

懐西貢

サイゴンの市には、どこへ行つても勤労(トラヴアイユ)・家庭(ファミーユ)・祖国(パトリー)の標語と、ペタン元帥の像を描いたポスターに記した「唯一人の元首(アン・スール・シェフ)、 ペタン。唯一つの務め(アン・スール・ドゥヴォワール)、服従(オベイール)。唯一つの銘句(アン・スール・ドゥヴィーズ)、奉仕(セルヴィール)。」の標語が目立つばかりで、 いまは知らず、大東亜戦争当初のその頃には共栄への努力が未だしく感じられた。ただ市役所前(ロテル・ドゥ・ヴィーユ)の広場は美くしく、そこに遊んでゐた子供たちだけは可愛かつた。

昭らけき

任地の昭南島であることを佐藤春夫先生におしらせするため、ちよっと術を使ったが、内容は実感のままである

牟田口兵団

伝令は隊の橋本光曹長。曹長はインテリであるが、隊内でもまた最も勇敢だつたとわきから聞いた。ブキテマの三叉路の戦闘のことは云ふまでもあるまい。

敵降服

詩人中村員重中尉の体験を、人づてに聞いて作つた。

兵団司令部

これも橋本光曹長の話による。第一線より深くと思はれるぼど勇敢だつたのは牟田口兵団司令部。牟田口閣下の負傷はこの直後のことであった。

散る花

陣中新聞「建設戦」の仕事をやってゐたので、内地のニュースはすべて入る。真珠湾に散つた九軍神を渇仰すると同時に、日本男児と生まれての本懐を最高に遂げられたことを羨ましく思つた。 白鳥庫吉先生は従軍前の勤め先なる北亜細亜文化研究所長、わが国東洋学の生みの祖でゐますが、海原とほく隔つて弔意を表し得ぬことを残念に思つた。

アラブびと

三度目に移転した宿舎の隣家は、サイド・モハムマド・アルカフといふアラビヤ人の富豪で、その二子アリ、アルウィーの二人とは夕方には必ず遊んだ。

天長節

昭南で迎へた天長節のありがたさ。北の空を伏し拝むのみ、詩も歌も成らず、この三句のみである。

われに二目

独立工兵はいま船舶兵といふのがそれであらう。敵前上陸には一番活躍するのである。輸送船に同船した軍曹のひとは、二目を置かせた私との碁の勝負がすむとまもなく下船して比島に向つた。

柳重徳君戦死之地

ブキテマの三叉路附近、数多く立つ墓標のなかに、わが隊の柳重徳氏のもまじつて立つてゐる。文字は入隊前、毎日新聞での同僚だつた田代継男君の筆に成る。 この詩は後に内地の新聞にのり、一友が切抜いて送つてくれた。その時、一緒にゐた浅井中尉が偶然にも柳氏の中学以来の同窓で、よく書いてくれたと喜ばれた。 「柳は軍属でありながら、天とだけでもよくいつてくれた。即死に近かつたのだから、苦しかつたらうに」と、云つて、将兵はみな息がつづくかぎり唱へたがるが、 砲弾で戦死のときなどその望みもかなへられない。手帖に書いてをいて、その場合の用意をするものもあるとの話であつた。

われを臣子と

スマトラヘ転じたのち、四十度六分の高熱を発して入院した。熱に弱い私はもう死ぬと思ひ、病気で死ぬことを残念がつた。心配して附添つてくれた同郷の平井忠治一等兵が一夜中、 眠らずに氷枕をとりかへてくれたことは一生忘れまいと思ふ。おかげで熱は下つたが、まだ退院を許されすにゐる中に、またまたありがたいことがあつた。衛生兵の人が、 服装を整へて来いとの命令伝達で、行くと院長殿から恩賜の御紋菓の伝達式があつた。私は将校待遇ゆゑ一折賜ひ、病室の枕のところに安置したあと、たまらなくなり、 廊下に出て鳴咽した。辱けなさ、いままでの働きの無さ、不甲斐なさと万感胸に迫つて慟哭せざるを得なかつたのである。従軍中の作品はこの歌一首だけを留めることを得たら後は失せてもよい。

風薫る

スマトラに来てから、マンゴーを、はじめて食つた。有名ではあるが青臭くてさう旨くはない。好きだつたのはマンゴスチンとランブータン、飽かないのはパパイヤである。

印度人村

市の西郊にカンポン・クーリンといふのがある。印度人村といふことである。皇軍の恩威並び行はれて、私のやうな弱虫もただ一人で夕方から散歩する。特にこの村が好きで、 カルカッタ通、セイロン通などいふ道の名も全部覚えてゐる。特に暮れてからアーク燈の下で、ギターを引く青年がをり、その周りに子供たちが集つて歌を唄ひ踊る。 きれいな眺めである。その子どもたちの中には荒城の月を歌ふのがゐた。驚いてわけを問ふと戦前この村にゐた日木人一家の子供に習つたといふ。この美しい景色は、 写真の森武二郎君に話すと、撮すと云つて夜、マグネシウムも焚かないで撮つた。結果はどうだつたか、どこへ行つたか知らない。この詩はその村のアジャといふ名の喫茶店のこと。 客は印度人、インドネシヤ人ばかり。給仕は男女ともにインドネシヤ人だった。

印度洋を見る

六月の終りに毎日新聞の篠原繁雄、桐山眞の二君とコタラジャ方面へ旅行した。私は護衛と通訳とを買つて出たのである。もとより詩人の長刀、役に立つはずもなければ、 治安の完全なスマトラに要るはずもない。習ひ立ての馬来語も役に立たなかつたが、同行三人、気の合つたものばかりでこんな楽しい旅はないと桐山君から礼を云はれた。 私もおかげでこの詩を得た。篠原君は私より先に内地へ帰り、昨年急死し、このしは従って君の思ひ出を誘ふものと変じた。

魚捕り

ガヨ族の住地タキグンといふところで、夕方青年たちが四重奏団(クワルテット)で聞かしてくれた。従軍中ただ一つだけ知り得た歌である。最後の三行以外は大体忠実に訳した。 左に原語を掲げてをく。

Mendjala ikan
Boeat apa mendjoewil kopi ?
Kopi didjoewal lakoe setalis
Hari hari mendjala ikan
Mendjala ikan dari moeara,
Hari hari mentjari makan
Mentjari makan djoewal soewara
Oleh si O sajang nge,
Rasa sajang nge
Mentjari makan djoewal soewara
Oleh ra

ここは海披一一〇〇米、朝夕涼しく、活火山がそびえ、タワル湖といふ湖があり、近くには温泉もあつて日本を思はせる絶好の避暑地であるが、 アラビヤ珈琲、松脂などの産地としても有名である。

高原

別の時、稲垣浩郎君等と一行四名、スマトラの紹介映画をとりにゆく途中、東海岸州のサリネンバといふところで勇士の墓を見る。同乗の中尉のひとが戦闘の状況を説明してくれた。 その夜、夕食をともにした岩崎中尉は勇戦の士とは嘘のやうな優しい人で、手柄話などは勿論語らなかつた。

スルタンの別墅

スマトラで有名なブラスタギの避暑地。スルタンはスマトラ一の土侯なるデリーのスルタン。花が日本の花園と変らないで尋ねると、 種子は戦前町にゐた日本人の花屋さんから買つてゐたといふ。この夜、毛布を四枚かぶつて寒がりながら寝た。

来信あり

はじめて内地から便りが来たのは七月の初。女々しいと思はれると困るから、説明すると、私は自分の出発後の愚妻の振舞ひが人の笑草にならないかとそればかり虞れた。 の杞憂も晴れて楽しい。長男からの便りも同封されてゐて、「ヨリコ(妹)ハオ父チャンオ父チャントイヒマスガ、ボクハ何トモアリマセン」とある。これも嬉しかつた。

日本へ歌信

また旅行に出ることになつた間際にどつさり友達の便りがつく。今は入れ換りに出征してゐる小高根二郎の便りで、はじめてさうさう山吹といふ花があつたわいと思ひ出す。 日本を思つても帰りたいなどとは思はない。ただ美くしい土地、師友の多くゐて頼もしいところと安心し、いろいろのことを思出す。 四季ない常夏の国ではとりわけ冬とか秋とか草木のことが書いてあると楽しい。

二郎の兄太郎は怒ることがあって、お前の怒りつぽいのに呆れてゐたが、今度はその気持がわかつたと云つて来た。しばらく笑ふ。

伊東静雄の「夏花」が私の本と一緒に透谷貨になったのは恰もこの頃のことだが、偶然の一致と云はうか。「夏花」の巻頭にはルバイヤットの一節が引いてある。

萩原朔太郎先生の御逝去を聞いたときの悲しさはもう他にも書いた。先生が二月に書かれたお便りがついたのはこの前後のことである。

湖遊

トバ湖は海抜九〇〇米のところにある淡水湖。大きさは琵琶湖の丁度二倍。

赤道標

至るところの村で子供たちが出て来てバンザイを叫ぶ。ただ一個所バカヤローを叫ぶところがあつたので、おやと思つてふり向いたが、 これもただ一つ覚えた日本語で歓迎の意を表してゐるとわかつたので大笑ひ。西海岸州のボンジョルといふところで赤道を越えて南半球に入る。ここには赤道標が立つてゐて、 子供たちがバンザイを云つてくれた。序でながら私の挙手は訓練中に習ひ、常に端正かつ精神をこめてなしたが、この時の挙手はまた一段とうれしがつてした。

山の湖

この湖は西海岸州のブキティンギ市から三十六粁の火口湖マニンジャウ。日本の歌を教へる兵隊さんを見ながら、私はラジャと称する男から、メナンカバウ語を習つてゐた。

セメントエ場にて

西海岸州インダルンのセメント工場は戦前の日蘭関係の上からも有名である。ここの復興全く成つたのを見に行つたとき、 来合せられた西海岸州長官矢野兼三閣下はわが友矢野昌彦の令兄である。賢兄愚弟の文字通り、治績のことは云ふまでもないが、また虚子門下として句をよくせられる。 そのせいで長官巡視の間、事務室に残つてゐた私は句を作る気になつた。後、第一句を長官にお送りしたところ、御返句は昭南を経て帰還した内地に届いた。左に録したてまつる。

  書きつづく南洋日記守宮(やもり)啼く

ドリアンの季節

 パダン市で稲垣君らと別れてメダン市に引返すと、夜市(パッサル・マラム)がはじまつてゐて、夜の賑はしさは大変なものである。とりわけ一年に二度熟するドリアンの季節となつて、 アセチレン・ガスを灯して売つてゐる。ドリアンは私はパダンで一口だけ食つて好きにはなれなかったが、原住民の安きを喜ぶとともにその安易を戒めたい気持 も多い。 ソロモン方面に敵が反攻を漸く開始しようとした頃のことである。

昭南忠城塔にて

ブキテマ三叉路の左手の高地に建つた忠霊塔へ、靖国神社の秋季例祭の日、月原橙一郎君と参拝した

昭南の丘辺

馬来人には英人・蘭人ともに教育を施さず、従つて知識もない。木の名を問へば必がカユ、花の名を問へばプガ、くはしく問へば赤い花(プガ・メラ)、 白い花(プガ・プテー)と答へるより能がなかつた。

おのづから

昭南の華僑は出身地から云へは広東、福建が主であるが、言語は広東語、厦門(アモイ)語、客家(ハツカ)語、海南語、潮州語の五種位知つてゐないと駄目である。 北京官話などは通じないし、英語の出来る者も少い。所謂ババ、即ち海峡生れの華僑のみがババ馬来語を話す。この複雑困難なところで、私は要領極めてよかつたせいか、 多くの友を得、日用にも事欠かなかつた。

昭南訣別

詩集を一覧すると、私の性質か一月半月の在地でも別れを惜しむ歌が多い。しかしこれは私に限らなかつたと見え、昭南の市を甲板から遠望したものは多かつた。 泣いてくれた友の外一二人を残して他の友だちがおほむね帰還したいまは昭南懐かしの心は薄くなつた。カセイビルは昭南で一等高い十六階の建物。 オーチャード路は鳳凰木の花が美しかつた。

 跋 1 2 3 4

自分は嘗つて馬来派遣軍宣伝班に在り、眉を揚げ風を望み、馬来を征き、蘇門答臘(スマトラ)を征つた。身分こそ低かつたが、詔勅ょ奉戴し志は恒に千里に在つた。既にして陣中、 新聞発刊の命が降つた。命を奉じて起つた者は軍曹、伍長、兵長、上等兵各一名と自分であつたが、自分は二等兵であつたから席末に加はつたに過ぎない。 しかし志の固さは豈に人後に落ちやう。仍ち銃に代ふるに矢立を以てし、揚々として筆陣を張つた。

この時、痩身の一青年が現はれた、纏ふに奏任軍属の戎衣を以てし、挿むに日本刀を以てしてはゐたが、或は兵馬倥偬の間に処して為す有る無きやの疑を抱かしめた。 しかるに一日命あり、この青年も自分等の戦列に加はり、忽ち毫を揮つて紙に落した。

 おほきみの詔(みこと)畏み船に乗りますらたけをが来り見し国士(くに)

更に文章を徴すると、詩魂横溢文彩流離であつた。応徴詩人田中克己である。時に厨房には海南島産の一厨夫がゐて、時には送君送別百花亭などと低唱し、 専ら鶏頭を捻り猪肢を斬つてゐたが、自分は窺かに彼に命じて、必ず珍味一品を詩人の皿に盛ることとした。

 陣中忽忙の激しさは、明窓淨几に文を行るを詩人に許さず、田中克己は幾何もなくして英字紙「昭南タイムズ」の編輯長に転じ、また幾何もなくして軍宣伝班棉蘭(メダン)支部に転じた。 棉蘭は蘇門答臘の首府であつたから、此度は遠く海を航(わた)るのであるが、この海こそ既往数世紀、東洋と西洋の慌しく交叉した馬拉加(マラッカ)海である。 自分等は田中克己の文運を祝し印度旗亭に筵席を張つた。行文偶々茲に至るや自分は切に当時を追懐するの念に勝(た)へない。鳴呼、中華人、印度人、 混血人の良き部下に囲まれた応徴詩人のその日の顔の何たる光、遠き旅路のまだ見ぬ山河を懐ふその日の顔の何たる輝き、とでも形容しようか。

田中克己は棉蘭の起居で一中華老人と交遊を得たやうである。彼が筐底深く蔵する写真は、老人一族の団欒を写したものであつて、裏面には老人の自署があり、 その枯淡な筆勢はこれを以て能くその卓識を窺はしめるに足る。曰く

 這個三不主義的家庭

 三不主義是不貪財不作官不犯法

自分は固よりこの交遊を審かにしないが、東洋史を専攻し詩文に長ずる田中克己の、一中華老人との厚誼に思ひ到ると、唇頭自ら一片の微笑を禁じ難い。惟ふに棉蘭郊外一蛍の燈下、 互に古東洋の精神を説き、談じ来り談じ去つたのであらう。

 未だ半歳を経ない中に田中克己は昭南に帰還した。自分は記憶してゐる、身辺に絶えずこの詩人を感じることが、如何に自分等新聞班員にとつて強い激励であつたかを。更に又、詩魂に盛るに史実を以てする田中克己の雄渾なる詩文が、いかに全軍将兵を鼓舞したかを。珊瑚海海戦の折のことであつた。深夜に至つて大戦果の報に接し、自分等は号外発行のため相携へて陣中新聞編輯局に赴いた。夜半刷上げを了し宿舎へ戻ると、机上に麦酒が林立するを見、傍に三首を添へてあつた。

 みんなみの珊瑚の海に敵の艦(ふね)沈むしらせをわれは聞きけり

 友らみな号外刷ると出で行きし空しき部屋を守れるわれは

 陸に海につはものあれば痩身われの昨日も今日も安寝(やすい)しなせる

自分は咄嗟に諒解した。大戦果に感激し、兵隊達を慰労しようと、街角の支那人の舗から逢けくも詩人が購ひ来つたのだと、幾度かこの歌を誦し、 孤影仄暗い階段を降りて行つた詩人の跫音を聴く思ひで自分等は杯を傾けたのである。

馬来軍政の進行とともに日刊邦字紙「昭南新聞」が創刊され、同時に昭和十七年十二月八日を以て陣中新聞「建設戦」は廃刊となつた。作戦開始以来一年、凡ゆる困苦に耐へ、 陣中新聞発行を継続し来つた関係将兵の感慨は洵に胸を衝くものがあつた。この時、詩人は「陣中新聞ここに終る」の詩を寄せた。

炸裂する砲弾のもと
疲努困憊の身にむち打つて
三人の兵が
おそれおののく印度人の
マニアム、カンダイヤをはげまし
或時はなぐりつけて手伝はせ
摺つて出したのが
陣中新聞「建設戦」のはじまりだ

将兵は小休止にこれを読む
さうしてその直後
また戦闘にと出発する
いま読んだ故国のニュースには
愛国の情を一層とかき立てられ
それから他の戦線のニュースには
それに劣つてはならぬと
歯をくひしばり

それから二ケ月
シンガポールは陥落し
それから一ケ月
「建設戦」は活字版となり
それから八ケ月「建設戦」は廃刊となり
建設戦は軌道に乗つた。

「建設戦」が血潮の文字であつたやうに
マライ、スマトラの建設戦は
熱血でもつて実行されるのだ
それを文字と実行とで教へて来た
陣中新聞「建設戦」!

 詩魂と共に士魂を以て、詩人が戦列に参加したのは今次大東亜戦争にはじまるといつてよい。蓋し豪壮宏大なる歴史の展開は、 詩人の詞藻を俟つて愈々その絢爛の趣を添へると謂へよう。馬来蘇門答臘に従軍した應徴詩人田中克己は常に兵隊と倶にあり、常に兵隊と倶に歌つた。その歌は深く史眼に徹し、 その調は豊かに詩藻に匂ふ。まことに大東亜戦争を歌ふに世界史的構想を以てしたといふべきであらう。

  昭和十九年四月二日                   田代継男

あとがき 1 2

 従単後、一年有年に近くなつて、漸く詩稿の整理を終へて上梓出来るやうになつた。もとより心身ともにか弱い詩人に似つかはしいことでもあらう。 このか弱い徴員を温顔もて指導賜つた阿野信、大久保弘一の両隊長殿、配属部隊の小畑信良大佐、鈴木中佐、故森岡少佐、日隈少佐の諸上官にはとりわけお礼申上げる。 なほ二度の入院に治療を賜つた富久、久米、梅原の三軍医殿、諸部隊の浅井正雄中尉、松岡正二中尉、中村員重中尉、斎藤武二少尉、本荘健男少尉、鈴木進太郎少尉、井上平八郎少尉、橋本光曹長、達原実軍曹、矢加部勝美兵長、佐々木六郎上等兵、田辺東司上等兵、石川仁太郎上等兵、平井忠治一等兵、谷村泉一等兵、田代継男一等兵の諸軍人、藤森達夫、中村地平、 北町一郎、月原橙一郎、吉野弓亮、松下紀久雄、大崎実、石山五郎、稲垣浩邦、吹野彦一、甘利進、田辺良男、西澤繁夫、古田篤の諸軍属のことは或ひはこの詩集中にも歌ひ、 もしくは解読に名を表はしてゐるが、賜った懇情はひとしく忘れ難い。また新聞社通信社の故篠原繁准、桐山眞、田浦義光、三島秀雄、幅永英右衛門の諸氏にも一方ならぬお世話をかけた。 書の末にしるして感謝の一端とする。

     昭和十九年五月二十七日                     田中克己

奥付

奥付


『瀛涯日記 マレー・スマトラ従征歌日記』
昭和17年 自筆ノート



出征前夜から昭南島(シンガポール)を発つまでのことを歌ひ、既刊の詩歌集『南の星』の前半部の元となったもの。
さらに南方へと向かふことになった際に、半ばは遺書めいた感慨を以て、和綴にして表紙を付し同僚軍属に托された一冊である(田中家蔵)。

【南方徴用作家 参考資料】


北川冬彦著 『悪夢(小説集)』


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