(2006.12.18up / 2023.03.31update)
Back
たなかかつみ【田中克己】『南の星』拾遺詩篇1942-1945


昭和17年 徴用出発時、家族と。


『瀛涯日記 マレー・スマトラ従征歌日記』

昭和17年 自筆ノート (12.9Mb)

我がスマトラに立つ日に、この一巻を歌の友、西沢大人に託す。我が帰らざる日は矢加部大人、これをふるさとに届けたまへかし
於湘南島  田中克己
皇紀二千六百二年五月二十五日
帰りなむ日はこの巻に歌またあらたにあらんとす。


 十二月八日

その日以来天地が明るくなった
大詔を直立して承けたとき
何故と知らぬ涙を流して以来
天は朗々 地は潤々
日本といふ國の成長を
我等は生きてゐる身で感じたのだ
神代に来讀されぬわが国土は
神代以来、誇りの高い我が民族は、
その子弟が威武堂々と南に北に
進軍してゐる誇りに胸を張って
東京中が 日本中が歩き出した。
その日以来天地が明るくなった



 最後の行楽

われは忘れじ なれも忘るな
小春日の動物園の昼下がり
鶴は眠り 熊は物乞ひ
猿山に 猿は岩に攀づ
おのもおのも 子等喜ばし
汝と我と 笑み交はしゐたるひととき



 汝がすがた (二月四日於大阪)

ながすがた 光りかがやく
虎が棲む マレーの林
もの思ひ我が歩むとき

ながすがた 光りかがやく
獅子の島 シンガポールの
光る海 わが見るときに



 同穴の契 (二月四日於大阪)

なと吾と 家造りしは
いづみなる 高師の濱べ
住み古りて いく年か経し
けふ見れば 小皺寄りたり
ながおもて 吾もしからむ
死の床は 異にせんとも
おくつきは ひとつの窖(あな)ぞ



 佐藤春夫先生に (二月七日於大阪)

みんなみの軍(いくさ)うたへとうたびとの吾さへ徴(め)さる大みいくさに
よき人のひそみにならひ醜(しこ)われもうたの一巻のこさざらめや



 二月十三日 於大阪
おほきみのみこと畏こみますらをの旅に出づべきとき近づきぬ
愛(うつ)くしき妻子をおきて船に乗りますらたけをは劔を撫づる
椰子の葉の蔭におもはむながおもてこよひ愁ひを帯びてうつくし



 二月十七日 車中 於明石

おほちちのおくつきどころ来て見ねばただおろがみて過ぎゆく吾は



 二月十八日 宇品出帆

さらば稚子ら汝とながちちとなが母とそを守らんと出で立つわれぞ
軍港の春浅くして看護婦ら粛(しめ)やかにゆくが美しく見ゆ
島山の姿きびしくとり囲む港の水の冷くは見ゆ



 二月十九日 潜水艦警報あり

波高し 風強し
船艙 燈(ひ)暗く夜は闌(ふ)けたり
突如 緊急會報を傳ふ
敵潜水艦出現と
人々ガバとはね起きて
船中 凄気漲りぬ
波高し 風強し
二月の海の気は寒し
ここに死なんと呟くは
われが隣に寝ねし友
銃(つつ)執るも劔按ずるも術(すべ)知らぬ
宣傳隊にわれありて
眼(まなこ)つぶればけざやかに
大内山の緑見ゆ
死生 命(めい)あり 大君の 命(みこと)のままに――
枕引き 吾また眠りに陥りぬ。



 二月二十二日 洋上温州東百浬

春雨や哨戒艇を煙らせて

 二月二十二日 洋上

濛気深しわが船ゆめを多く載す



  二月二十四日 高雄港外

この日 われ 海の大杯より
潮風の鮮(あたら)しきを飲み干しぬ
かくして半日
夕(ゆふべ)となれば 岸の家々 燈(ひ)をともす
昼の壮快はすでになし
夕の哀愁が吾にヴェールをかけたれば
わが脳髄(なづき)に妻と吾子(あこ)と
明るき燈のもと 飯(いひ)食(を)しし
日常茶飯のかの宴(うたげ)
天上の宴のごとく浮び出づ
丹々大山の上はるか
積乱雲に夕映えのこり
高雄港外の蒸暑き
ふるさとならば 七月と
いはまほしかる夕(ゆふべ)のとき。



  二月二十七日 洋上

浪華ばら咲きさかり
その香りそらにみちみつ
あたたかき五月の夕(ゆふべ)
砂浜の砂のさはりの
足に快(よ)きわがふるさとを
蒸暑きハッチにこもり
わが想ふ 何故とは知らず



  三月二日沸印の山々と村々と見えそむ

右手(めて)には荒涼たる台地
ところどころに塚形の小山
左手(ゆんで)には島二つ
岸辺を見れば そびえ立つ
何の木々ぞも
家の数いくつと知らず
寂しげに望遠鏡(めがね)に映る
ああ 安南(アンナム)の最初のながめ
荒涼としてわが心痛む。



  三月三日サンジャック港外假泊
               信州の人小谷秀三氏に

風涼しサンジャック港に船泊つる



  三月七日於サイゴン
               村上菊一郎君を訪ねて會ふを得ず

  青き木の實

蒸暑きサイゴンの市(まち)の午後の二時
ひとみなの晝寝の時に
われひとり三輪車(シクロ)やとひて
友を訪ふ道すがら
幼(いと)けなきアンナムをとめ
われ呼ぶをかへり見たれば
青き木の実 呉ると云ふなり
名も知らず 益(よう)も知らねど
ふところに吾は牧めつ
なが呉れし青き木の實は
そも何の象徴(シムボル)と云ふ
笑はば笑へ
ふところに吾は収めつ



  サイゴン市中

吾がゆく道の四辻 年老いしアンナム女あくびする見つ
道の辺のキャフェーに入ればガルソン(※ボーイ)ら仏蘭西撃てと吾に云ふなる
並木路を美しとおもひ名を問へばアンナムびとは槐(グエイ)と答ふる



  三月八日於サイゴン


夜は闌けぬ 枕に近く啼く虫は
ふるさとの蟋蟀(こほろぎ)の音に似たれども
ほのかに匂ふイザリアの花めづらしみ
寝ねんとすれど寝ねられず
窓を明くれば傾くは南十字の四つの星
ああこの良夜を轉々と寝がへりを打つ
わが耳に よすがらひびきて止まざるは
馬車の輪の音よ 轔々と
いかなる幸を擔ふひと
載せて走れる馬車ならむ



  市政府の前の廣場

別れ来し吾が子おもへばアンナムも支那人(シノア)も佛(フツ)も幼(※いと)けなきよし
賭博場のわれに隣りし安南の娼婦(たわやめ)ふとも寄り添ふごとし(ショロン※大市場)
ここにして家を憂ひず汝(な)が吾を懐(おも)ふにしかぬことを憂ふる



  三月十日サイゴン出帆

  懐西貢

西貢河を下りてより二時間
西貢は見れども見えず
ああ なんぢ東洋と西洋との混血児よ
なんぢの寵児フランスびとの
畏怖と憎悪をこめしまなざし
浴びて歩みしキャティナの通り

はた市役所の前なる廣場
わが行きしとき イヴォンヌは
われに抱けよと走り寄り
クロード、アラン、ジャク、ジョゼフ
安南少年黄(ホワン)をまぜて
ともに語りし楽しきときよ

キャティナの大人はさもあらばあれ
なれらが澄める眼(まなこ)もて
人類の愛を甦らしめ
欺瞞と憎悪の消えんとき
吾またかしこを訪れん
西貢河を下りてより二時間
西貢は見れども見えず
泫然として涙くだる



  三月十一日洋上

夜の明けに寺々の鐘鳴りわたるサイゴンおもへば夢の如しも



  三月十二日洋上

吾子よ吾子よなれが欲(ほ)りする金米糖 氷砂糖を食(た)うぶる父は
バナナをと手紙を呉れしわが史(ふびと)ゆゑバナナを食(は)めばなれを思ふも
夕まけてなれらむづかりその母に争ひ寄りて眠るとするか
戰ひはほとほと終りわが船は昭南島に近づくらしも



  三月十二日洋上、ニューギニアに敵前上陸の報あり

わだのはら八千島(やちしま)あれどことごとに日章旗(みはた)打ちたつときとはなりぬ
祖(おや)たちの生れつぎ来し三千年いまをおもへば永くもあらず
この日々を海にいさなの卵流るわれが生命(いのち)も子らに通へる



  神保(※神保光太郎)眠るのみなり

船旅の疲れしるしも眼(まなこ)くぼみ眠れる友のすがたに見れば



  三月十七日昭南島に上陸、ナッシム路の宿舎に入る

  花の便り

ふるさとびとに告げやらむ
假の宿とは思へども
鳳凰木はた仏桑花(ぶっそうげ)
血よりも紅く咲ける庭
芝にまじれる草ねむの
撫づれば閉づるかはゆさを

ふるさとびとに問はまほし
わが植ゑおきし庭隅の
匂ひ菫にプリムウラ
今年の春も咲きにしや
年頃よしと見て来ぬる
阿佐ケ谷の花いろいかに
花の便りの聞きたさに
花の便りを聞かせぬる



  三月十八日於昭南島

昭(あき)らけき御代とぞおもふ南(みんなみ)の島にみはたの並み立つ見れば
朝戸出に南十字の星見ゆるくだかけの音(ね)はかはりなけれど
手長猿飼ふ兵あるをわが見しが時過ぎぬれば訝(あや)しともせず
草ねむはわがふるる時葉を閉づるそをかなしみて幾分かゐし



  三月十九日於昭南島

  戰がたり

ブキテマの三叉路附近
弾丸(たま)の雨 小止みなく降る
ここ攻めし牟田口兵団
兵団長すでに傷く
隼人の血受けしつはもの
あたらあたら ここに傷き
ここに斃るを 傳令の
吾は見たりき 開きたりき
いまはのことば
「陛下萬歳」
「師団長われは戦死す」
「おつ母(かあ)よ おれは死ぬぞ」と
ブキテマの三叉路見れば
わが耳にいまも聞ゆる
わが眼にはいまなほ見ゆる
そのすがた そのをたけびは。



  三月二十二日於昭南島

  蛇つかひ

笛の音はヒイヤラ
ゴムの木の梢風なし
蛇つかひ笛を吹けども
錦蛇 コプラともども
ものうげにのたくれるのみ
紅き花多く咲く庭
この時ゆ うたてと思ふ
こころつきにし。



  三月二十四日於昭南島

  休戦

突撃の命令下り
戦車先づ準備を修め
歩兵その傍らに立つ
小隊長われ刀抜きて
いまし行かん死なんとするに
何故ぞ 背後ゆ傳ふ
突撃中止!
一瞬のしじまのあとに
やがてやがて大波のごと
萬歳きこゆ 師團より
旅團、聯隊、聯隊ゆ
大隊、中隊、小隊に報(ほう)あり
敵は降服すとぞ
おほみいつ極みなくして
あだここになべて降りぬ
頬つたふ涙のあるを
知りつつも恥ぢず

やがてまた命令来る
喫煙! と
ああ その煙草の旨かりしこと。



  三月二十五日於昭南島

テンガーの飛行場近く
敵軍の間隙縫ひて
稜線に辿りつき
突隙に移らんとせし
わが眼に見ゆる 前方の
窪地に天幕張れる一群
いぶかりて瞶(みは)るまなこに
日章旗見ゆ これぞわが
兵團司令部 團長も
そこに居たまふ
かくてこそマレー戦線
電撃の戦果あげ得し

曹長のことば聞きつつ
わが眼には繪の如く見ゆ
一線より更に深くも
死地に入る兵團司令部。



  四月三日於昭南島

昭南島は大いなる坩堝(るつぼ)なるかな
ここに成りし銀と銅との化合物
至上の神は何とみそなはすや
われは見たり中央郵政局の
大き柱の蔭に事務とる
ユーラシアンの少女の眼
東洋の憂愁と西洋の情熱とに
あやしく輝き
また直ちに俯せたるを



  四月五日於昭南島

なれと見しシンガポールの稲妻はいつの日誰を照らすあかりぞ

たまゆらを光る稲妻爆撃のあといちじるき家並を見す



  四月九日於昭南島

  野田又夫に

はたた神鳴りはためくをマラヤびとわが皇軍(みいくさ)のみいつとまどふ

  岩佐軍神らの祭東京にてありしときく

いくさ神まつる庭べに桜花ちるとふしらせ我は聞きけり

おほみいつかがやくなべに臣われらきのもけふも安寝(い)しなせる

  白鳥庫吉先生の訃報をききて加藤繁先生に

海(わた)のはら千星をこえてたより来ぬわがふるさとに花散りぬると



  四月十三日於昭南島

みちなかにひたとまなこをあはせつつ避けむともせぬ支那びとのあり



  四月十四日於昭南島

  山荘をおもふ
       三月十七日より約一か月、吾は報道小隊にあり。その宿舎はナッシム路のもと米人ピルグラムの家なり。

夜の明けにもろもろの鳥啼き
日くれには庭番の誦するコーランきこゆ
しづかなる館にあれど
綑包の命下りしに
見棄て来ぬ あはれあはれ。



  四月二十一日於昭南島
       わが宿舎はロイド路五三号地にして隣家の主はサイド・モハムマド・アルカフとて富人なり。その二子アリ、アルビーわれに懐くこと限りなし。

こよひ隣れるアラブびとの
富みて巨いなる家ぬちに
人ごゑさはに 楽(がく)ひびく
なれアラブびとの喜べる
ルバイヤットは酒の歌
こよひ酒ほがひ
酔ひて歌ふは何のうたぞも。



  四月廿九日於昭南島

  天長節

生きのこり兵らこの日をことほげる
青草や子らと睦びて兵坐る
杯あげて祝せば大いなる日暮る



  四月廿九日於昭南島
       一昨日はコレヒドール、アキャブの陥落、昨日は珊瑚海々戦

われに二目置かせし独立工兵はコレヒドールに血に塗(あ)へけむか
みんなみの珊瑚の海に敵の艦(ふね)沈むしらせをわれは聞きけり



  五月十一日於昭南島
       昭南タイムズに出社の途次、日本街(ジャパンストリート)に行斃れを見る

屑米をより分けてゐし支那びとのむくろにあらむ哀れともいはず



  五月十七日於昭南島
       僅か一ケ月なれども昭南タイムズの記者、わが地位を去ることを惜むこと深し。一席を設けて別宴を張る。印度人マニ、彼のノートに書きやりしわが歌を語る。左の如し。

おほきみのみこと畏こみ船に乗りますらたけをが来り見し國土(くに)



  五月十八日
       車を駆りてブキテマに至る。栗原信、藤田嗣治、宮本三郎の三画伯に便乗せしなり。柳重徳君の墓あり。宣傳隊随一の人格者としていまに慕はる。標は同僚田代継男一等兵が筆なり。

ブキテマの三叉路近く
みちのべの草の茂りや
洫(いぢ)川の流に沿ひて
墓標(はかじるし)立つ
こここそはますらたけをが
そのかばね横へし土地
「天・・・・」とのみ 陛下萬歳
言ひ果てず 息は絶ゑしか
来て見ればマレーびとらは
往き歸り 洫川の水は流るる
墓の辺の白き花摘み
言(こと)なくてわれは帰りぬ。



  ジョホール・バール

瀬戸に沿ひ並木路ありゆきめぐりわがゐることもゆめの如しも
サルタンの王宮を過ぎ吾が友ら屯ろせる野に近づきにけり
 (上林部隊田辺東司上等兵、鈴木進太郎少尉に会ふ)
海美し並木路よしと印度人のまなこくるめく子ろと語れる

  日本娘子軍あり

海渡り大和撫子このつちになじまぬ見ればあはれといふも



  五月十九日於昭南島

鳳凰木の梢にのこる夕映えをアラブ童をつれつつぞ見る





『南の星』拾遺詩篇

自昭和18年 〜 至昭和20年


 別れの宴    (昭和18年5月 文藝世紀 5月号)

さらに征くひとを送ると
わが設けし宴は貧し
一本のビールにあれど
この島に産せぬものぞ
いざ乾してゆきませといふ
征くひとはコップ挙げつつ
事なげにただ笑まふのみ
外面(とのも)には闇のせまりて
かがやくは国にゐしとき
見ざりし星 名をさへ知らず
この星の傾くまへに
新しき戦場(いくさば)に発つ
ひとよ また会ふ日はいつか
靖国の桜見ん日は
われとても生きてありとは
思はぬものを いざコップ
乾してゆきませ 別るるまへに。
             (スマトラにて)


 増田晃君    (昭和18年11月 狼煙13号 増田晃追悼号)

         八月十六日増田君より便りあり、昭南より廻送されしなり

いつの年いつの日なりし
壮行の会を見しをば
かぎりとす うたをのみかたりしことを
くやしとはわれはいはずも

けふ海をわたりて着きし
みふみにもいくさばにあり
うたを読みうたをつくると
また隊の長となりしと

をのこやもみやびのみかは
あだ伐つもたけくありけむ
いくそたび指揮刀ふるひ
あだの地にさきがけしけむ

そのことひとつもいはず
をさなづまさらにかたらず
いくさばにうたよむとのみ
しるしける心たかしと
ほむるわがうたうけたまへ


 南をおもふ    (昭和19年3月 文學界 3月号)

磯べには紅樹の林
左手(ゆんで)にはニッパ椰子の木
しげるみち一日ゆきて
寝ねし夜の宿をめぐりて
ささ鳴りし木麻黄(もくまおう)の木
ふるさとの松に似たりし

印度洋のぞみし夜の
空ゆくは老人星(カノープス)
南十字の四つの星
ケンタウルス座
星映す潮(うみ)によすがら
こだませし珈琲摘む唄

みんなみの星と草木に
そこおもふ夜もありしかど
ソロモンやタラワ・マキンや
たたかひのたけなはゆゑに
みんなみをおもふ夜おほし
庭隅の松のこずゑの
冬の星あかきこの夜も。



 四季なきくに    (昭和19年6月 四季(終刊号)81号)

ひととせを南にすごし
わが見しは勝ちに勝ち来て
さらになほよるひる分かぬ
つはもののまもりのかたさ

たたかひに四季なきことは
われも知る常夏のくに
紅き花凋むことなく
咲きつづく眺めに倦みぬ

友ありて便りをつたへ
ふるさとに山吹咲くと
色渋くしづけき庭に
なほ咲くと懐へばたぬし

いまわれも安けき家に
ひととせすごしおもふこと
とこなつのくににたたかふ
友どちに四季の便りを

       スマトラにゐた七月末、山吹の咲く垣根のことを云つて
       来たのは、いまは兵として前線にある小高根二郎である。



 ますらを還る    (昭和19年12月 文藝)

ちちははの国は紅葉し
篠原に霰たばしる時ちかづきぬ
たよりあり、功(いさを)し立てて
つはものはそのふるさとに神とし還る──

はじめての召しにゆきしは
北支那の紅葉するくに
かへり来て紅葉を見つつ
いひしことわれは忘れず
大陸の空いや青くその紅葉さらに紅しと

ふたたびを召されてゆきし
濠北はマダン、メラウケ、アイタベか
さだかに知らず──常夏の国にありける
紅葉なく青き空には
敵機のみ日がな舞ひたり

ますらをやいさを語らず
飛機のみか弾丸(たま)も送らぬ
ふるさとに恨みも云はず
三年経しけふたよりあり
──ふるさとに神とし還る。




 誓ひ    (昭和20年3月 文藝春秋)

建国以来わづかに百六十有余年
その歴史は厚顔無恥の記録でうづたかい
父祖の買取つたアフリカの黒人奴隷たちを
開放してコールタールを塗り焚き殺した奴等
フィリピン人には約束した独立の代りに
電気蓄音機と冷蔵庫とミシンを売付けた奴等
入国を禁止した支那人に対しては
武器弾薬を豊富に高価に供給した奴等
世界平和のためと称して国際聯盟を首唱し
自らはこれが加入を拒絶した奴等
ワシントン、ロンドンに軍縮会議を首唱して
その後割当量まで艦船を造つた奴等
真珠湾の敗戦のあとワシントンに咲き盛る
日本の桜の並木を伐り倒した奴等
いまこれらを得々と記した歴史の本の頁を
我が勇士の聖骨のナイフを用ゐて切る奴等
労を厭ひ逸を好み恫喝宣伝を事とし
最善(ベスト)を尽くして捕虜となる奴等が
人種的優越感と物量とのみを恃み
いま神州の前面に傲然と立ち塞がつた
撃滅の時は来た いまこそその時だ
一機一船あまさず討ちつくすべき時が来た
全力を尽くさう 他の事は語るまい
靖国の神々天降(あも)りてこの誓ひ享けませ


Back