(2015.07.29up / update)    Back

たなかかつみ【田中克己】散文集


【回顧】 半自敍伝 昭和21年回想 無条件降伏〜北京〜天津〜京都〜東京

                                                                「果樹園」 昭和36年1月〜昭和37年10月 (59号〜80号) 連載

 半自敍伝の序

半自敍伝なるものを書くにはわけがある。まづ半といふ理由から述べると、私の性格は一本気でなく、いつも顧みて他をいふのである。 これは長いつきあひの友人たちは勿論、現在わたしの教へてゐる学生諸君がよく知ってゐる。それで自敍伝と題したら、自分のことより他のことを述べる方が多く、 看板にいつはりありといふことにならう。それからもう一つの理由は、私は老来いくらか自主的にはなったが、もともと主義も主張もなく、周囲に動かされ易い。 まはりが動いたり、近くに強いしっかりした人がゐたりすると、必ずその感化を受けて同調追随する。この同調追随さしたもの、もしくは人はなにか、といふこともこのごろ書いてみたい。 さらに自叙伝として出生からはじめて青年時代を書くとすると、途中で終りになる可能性が多い。筆者の根気もさることながら、戴せる方も長くなると困ることがあるだらう。 果樹園はその点は大丈夫と信じてゐるが、書きたいところを、なるベく早く書いてしまひたい。私には青年よりも中年、中年よりも老年の愚痴を書きたいといふ誘惑が強いのである。

そんなわけで半生を書くとすれば、いつからはじめるか。この点では私は迷はずにきめることが出来る。昭和二十年八月十五日から始めるのである。 終戦――私はこの言葉はきらひである―――いな降服の日からである。この日はなんといっても私にとっては、記念すべき日である。だいたい戦後の祝祭日にこの日が入ってゐないのが、 私にはふしぎでならない。昔の中国には国恥記念日といふのがあって、敗戦その他を記念する日があり、それが青年たちを鼓舞し激励したのである。愛国者にはこの記念日があってよい。 また帰還してから聞いたのであるが、私の母校の、右翼で有名であつた某教授は、この日の翌日、自由主義者と目され、戦争中したがって不自由だつた某教授に会ふと、
「あなた方の世の中になりましたね」
と挨拶したさうである。従って自由主義者にとっても八月十五日は記憶すべき日であらう。よけいなことを附け加へると、この右翼教授はその後しばらくして、 自分の昭和二十年八月十五日以前の論文著書はみな取消すといふ声明をした。私は著書論文をそんなに簡単に取消せないことを知ってゐるし、取消すつもりもないが、 それにしてもいくらかの説明が必要だと思ふ。それにはその後の私を見てもらふのが早道と思ふ。

実は昭和二十年八月十五日以前のことは「老兵の記録と題して、保田与重郎君たちのやってゐた雑誌に連載した。だいぶ長くなったころ編輯の奥西保君が
「もうすこし飽きましたね」といった。
それで私はこの日に老兵が自殺することにして、筆をとめた。事実は老兵はまだこの通り生きてゐるのである。そして愚痴をきかす年齢になってゐるのである。 読者諸氏には御迷惑かもしれないが仕方のないことである。以上しるして序とする。

愚痴を書くといったが、うそだらう、といふ人があれば、知己の言だと思ふ。このごろ自分をよく省みると、途方もないうぬぼれに気づく。エリート意識――たぶんさうであらう。 しかしそれがなくて、どうして書け、発表できよう。ただそのうぬぼれが、私の場合は永続しない。あとに非常な後悔、いなむしろ恥辱感がともなふ。 これではあからさまな自己摘抉などできない。もとより他人の批判も社会相の曝露もできさうにない。しかも私は書きたいのである。書いてしまひたいのである。読者諸友にお願ひがある。 よんで、私のうぬぼれに気づいたら叱っていただきたい。まちがひを発見したら訂正していただきたい。おまへのことなど詳しくおぼえてゐるものか、との仰せであらう。 しかし私なら、他人のことはおぼえてゐるのである。

東京へ帰って来てわかったことが少くとも二つだけある。召集になる前、私はたきつけに困ってこれまで大切にしまってあった手紙類をもやしはじめた。 年賀状からはじめてもやしにもやし、これだけはといふ大切な手紙だけが残った。復員して私はそのとってあった大切な手紙のことを忘れてゐた。思ひ出した時には、 紛失してゐることだけがわかったのだが、いつ、どうしてはわからなかった。私が復員した時、出迎へた大垣国司、彼がどうかしたのだ、といふことがわかったのだ。 彼は、私宛ての朔太郎の手紙をもち歩いた。私宛ての保田與重郎の手紙をひとに見せた。そして私が復員して来たとき、私のいまだにおぼえてゐる、変におづおづした顔で出迎へて、 私に「保管してゐましたよ」といって返してくれなかった。返しそこねて、そのまま私にとって、この手紙類は喪はれてしまったのである。おかげで私は自敍伝の半分が書けなくなったやうに思ふ。

私の日記は、昭和二十一年の復員以後は、一日も欠かしてゐないが、それまではとびとびである。軍隊では隠してつけてゐたが、天津をたつとき、たぶん西川英夫にたのんで、 その知合の天津図書館長に預けた。そしてそのままである。しかも私の半自敍伝はこの箇所からはじまるのだ。どうか、気がついたら誤りを指摘して下さい。 私は低血圧のせいで――これを最近になって私は知ったのである――記億力が弱い。うぬぼれのせいで、過去を自分に都合よく記憶してゐるかもしれない。どうぞ叱って下さい。 以上を序にして、次からまあはじめます。

(信頼する服部三樹子さんの卦によれば、私の運は昭和三十六年から開けるさうである。それまでは何をしても、むだ骨折りだといふ。私が書いてゐるこの序は 三十五年の最後のものである。むだかもしれない。しかし半自敍伝はむだにしたくない。それがまだ書き始めない主な理由である。)

 無條件降服  1

昭和二十年八月十五日、私は北支派遣独立兵第四九大隊(宇田川部隊)の第四中隊(荒木隊)の二等兵であった。 河北省の唐県に駐屯するこの大隊の本部の情報室付を命じられて、ただ一人の二等兵として、情報室のあらゆる雑役と情報整理とをしてゐたが、この日のたぶん夕方、 無電班の一等兵が私を呼びに来た。珍しいことでもあり、拒むことも出来ないので、ゆくと、「無電で君が代を傍受したが何だらう」といふ質問である。私は即座に答へた。
「ソ連への宣戦布告だと思ひます」。

ソ連軍が満洲と内蒙古へどんどん入って来てゐる、といふことを、私は二等兵ながら知ってゐたのである。満洲には日本軍の精鋭がゐる。少くともここ北支よりは良い兵隊がゐる。 私はさう思ってゐた。といふのは、私たちの部隊は新しく編成された、各地からの寄せ集めであるが、満洲へと異動した部隊の補充として、 内地から召集された私を最年長とする昭和九年度の第二国民兵役といふ、おそろしく悪い体格の大阪人が、二等兵の全部だったからである。その満洲軍がなんらなすところなく、 ソ連軍の侵入を許してゐるのは、天皇の宣戦布告を待ってゐるからだ、といふのがこのころの私の考へであった。

無電班の兵隊たちは、私の判断に同意して解放してくれた。そしてこの私の判断は、すぐ隊内にひろまったと見える。小林俊文伍長が私のところへやって来ていった。
「田中、今夜、酒を飲まう。」
私は同意して、酒の肴として塩豚を買って来た(と思ふ。私はこの小林伍長と義兄弟の約束をし、彼から当時の金としては大金の五千円を預ってゐたのである)。
酒に弱い私はすぐ酔った。小林は独酌でやってゐたが、この頃、毎夜、敵がやるマイクでのアナウンスを聞くと、立ち上って、
「うるさい。止めて来る」
といった。私はねたまま、「止めて来い」といって、それからうとうとした。小林は河南省の開封から召集されて来た予備役の下士官で、年は私よりは若いが、 やはり三十歳を越えてゐたらう。見事なあごひげをはやし隊内で誰しらぬ者のない特異な存在である。開封で何をしてゐたかは知らないが、皆から畏敬されてゐる。 今夜の酒もそんなわけで、どこからか手に入れて来て、就寝時間後に、あかあかと燈をつけて飲んでゐたのである。

二人がかはした会話はおぼえてゐないが、ソ連への宣戦で「世界中を敵にまはしたな」と私がいふと、彼も「世界中を敵にまはした」と同意した。 そこへ中共軍からのアナウンスだったのである。これは域内の中国人に対するものか、或ひは私ども日本兵へのものか、私にはわからない。中国語の出来る小林にもわからなかったのだと思ふ。 毎夜ガアガアときこえるばかりなので、不審に思ってゐたのを、この夜は、止めにゆくことになったのである。

 無條件降服 2

小林伍長と私とがかはしあった「世界中を敵にしたな」の嘆声は、ソ連の裏切に対する怒といふより、むしろ落胆だった。日本とソ連とは一九四一年、 即ち昭和十六年の四月以来、中立条約を結んでをり、ソ連がドイツに攻められて苦しい最中にも、日本はこれを破らなかった。スターリングラードの攻防戦を関ヶ原として、 ソ連の形勢が良くなることなど、もとより愚かなわれわれには想像もつかなかったが、その愚かさの故にも裏切をしなかった、と思ふ。
この条約は五ヶ年間有効なので一九四六年までつづくわけだが、その一年前に存続するか、否かの意思表示をすることになってをり、 ソ連がその取りきめ通り一年前に「存続する意思なし」と通告して来たのが、丁度、私の兵になって半月目の四月五日のことだった。 この通告後まだ一年近く有効だった筈の条約を破った―私は憤慨すべきだったらう。しかしするとならまだもっと正当な理由がある。 中立国であるソ連はこの年の二月七日にヤルタで米英と会談し、カラフト、千島を取ることを条件にドイツ降服の二三ケ月後には対日戦に参加することを協定してゐるのである。
私たちは憤慨すべきだらうか。ヤルタ協定が明らかになってからすでに十五年であるが、理論的にはどうあらうと、これに抗議し憤慨した人間など、 私はいまだに見たことも聞いたこともないのである。

とまれうちひしがれた日本に、さらに手をふりあげてかかって来る、この強国の現実を、私は第三者の立場にゐたらともかく、日本人であり、兵であるからに、 身にひしひしと怖ろしく感じたのだと思ふ。酒はやけ酒であり、叫びは悲鳴だったのだ。しかもその底には私自身が若かったころ、 本気に信じた共産主義の真実が実は非常に甘かったのをこのとき身をもって感じたのた。
ブルジョア的なヒューマニズム、封建的な俠客趣味、そんなものはかけらもない。世界征覇―といって悪ければ世界共産化、のためには、最短距離をゆき最有効な手段を使用する。 それを体験した私は、宣戦どころか、戦意の喪失するのをおぼえ、酒をもとめた。あたかもまはりを囲んでゐるのは、 中共第八路軍の定唐支隊であって、それがいま、ラウドスピーカーでがなってゐるのである。

小林伍長はその呼びかけをとめるために出かけていった。叫び声はとまったか。私はそんなことも気にとめないほど酔ってゐたやうである。気がつくと人声がして、 小林伍長がかつがれて来た。情報室の長である斎藤中尉もやって来た。小林は「うるさいやめろ」とがなっている中、城壁から墜ちたといふのが、ついて来た歩哨の説明であった。

そのあとよくは覚えてないが(満十五年たったのである)、伍長は私と宴会してゐた下士官室にねさされ、私が枕許で看護することになったのだと思ふ。私は一人になると、 また義兄弟の兄のことばで、
「小林どうしてそんな無茶をしたのか」と叱った。小林のこの時の答は、
「もう面倒くさくなったんぢや」
といふのだった。たぶんこの記憶にまちがひはないと思ふ。小林は後でも話すが、信州の岡谷の人である。「面倒くさい」といふ関西弁をいったかどうかは、私も自信はないが、 この内容は私の創作でなければ、小林と私との親しさの証明にならう。場所は兵営である。戦斗のみを目的とする軍人が、 敵国と戦ふことを「面倒くさい」といったとすれば、普通ではないからである。

話はもとにもどるが、私もこの日えらいことをいったものだ。ラジオの君が代をとっさにソ連への宣戦布告と誤判し、とっさにそれをいってしまったことがそれである。 もし無条件降服と識り、さう答へたら、私は多分、半殺しになってゐたらう。私は愚かだったから、この時は助かったのだ。それが、何の自慢になるか。自慢でいってるのではない。 私がいま生きてゐるのには、こうした愚かささへも、助けをしてゐることを、真実を書かうと思へばいはねばならないのだ。これからも愚かでいるか、いやもっと愚かになるだらう。 損得を考へてではない。私はだんだん老いるのである。

小林を介抱したのは一晚だけだったやうである。下士官室には、も一人現地召集の老伍長がゐた。この晩は見なかったが、翌日からはただ一人ゐるところへ、 飯を運んだおぼえがある。ところで小林の負傷したのは足だったやうに思ふが、医務室に入院したのだったか、見舞ったことにもおぼえがない。 (唐県撤退のとき牛のひく車にのってゐたことだけおぼえてゐる。)風の便りに北海道にゐて、労組の役員だときいた。信州岡谷の小林俊文の住所をご存じの方があったら教へていただきたい。 この文章をより正確にするためにもかれが必要である。

 無條件降服 3

八月十八、九日ごろ、私は日課をすまして情報室にゐた。日課といふのは、「起床」の号令で起きて、寝具を揚げ、兵室の掃除をし、 朝の点呼に出てから下士官室の片附けをし、「飯上げ」の声で朝食をもらひにゆき、下士官室と兵室にくばり、自分も食ふ。そのあと飯の缶を炊事班に返納し、食器を洗ひ整頓して、 情報室にゆき、ここの掃除をしおへて椅子に坐るのである(私は情報室でただ一人の二等兵であったから、今はもう忘れかけてゐるが、毎日これをやってゐた筈である)。

午前中は情報も入らないので、私はいつもの通り、他の兵たちと一緒に室に坐ってゐるだけだったらう。他の兵たちといふのは、 学徒動員で上海の東亜同文書院大学から入営して来た荻納(おぎの)兵長、天理外語で中国語をやったといふ田中兵長、 この二人の青年と西尾古兵殿(と私は称しなければならなかった)とである。西尾一等兵は私と同い年で、半年早く召集を受けるまでは毎日新聞社の門司支局勤務だったとか聞いた。 この一等兵が私のことを識ってゐて、戦死した佐藤中尉に話し私は教育が了るとすぐ情報室勤務となった。当然、彼のやってゐた雑役は、みなこの無器用な二等兵にかかることになったのである。

佐藤中尉に代ってこの時の情報室主任だった斎藤中尉が顔を見せたのは、十時前でもあったらう。席についてしばらくすると
「君たちだけにいっておく、秘密だぞ」と前置きして
「日本は無条件降した」といった。
そのいひ方も重々しく、感慨をこめてゐたが、彼はそのあと、うしろの黒板に
「将校懲役十年、下士官同五年、兵同三年」
と書いて、すぐ消すと、どこかへ行ってしまった。私はこの間、一語も発しなかった。他の兵も同様である。
数日後、私にしては珍しいことだが、西尾古兵の日記をぬすみ見ると、この日の記事として「田中はこのしらせをきくと声をあげて泣いた」と書いてあったので私は非常にふしぎに思ったが、 もとより抗議を申しこんで訂正さすことも出来ないのでそのままになった。 (西尾古兵―名も忘れたのでその後、大毎へいってきいてみたがわからない。ご存じの方はお教へ願ひたい―は、なぜ私を「泣か」さねばならなかったのか。 ひょっとしたら自分もふくめて誰も泣かなかったのが、予想外でもあり、新聞記事的な文章からいへば不適当だと考へたのではなからうか)。

それでは私はなぜ泣かなかったか。――私は三十五才(満三十四才に二週間足りない)だったのである。この年齢が自信満々で、少しも泣かないことは、近ごろになって私も思ひ当る。 その年齢だった上に、私はもう涙が涸れてゐたのだ。昭和十八年九月に可愛盛りの次男を疫痢でなくして、私は人前をはばからず泣いた。みっともないほど泣いた。 これでもう悲しいからの涙は出なくなった。うれしい涙はもとよりある筈もない。

泣きはしなかったが、もとより大変な動揺を感じた。ひとはいろいろで、後で会ふ義弟の隊では、降服のしらせをきいた新兵は「記念撮影」をしたさうだ。 また河上肇博士は、「元来敗戦主義者で」「大喜びに喜ん」で
「あなうれしとにもかくにも生きのびて、戦やめるけふの日にあふ」
と歌った由である。私はちがった。兵であり、外地にをり、義弟の隊の新兵のやうに召集解除を受けて帰宅するなど考へられず、斎藤中尉の説では懲役となるのだ。

私はゆっくり考へるために皆の出勤のあと、空室になってゐる兵室へもどっていった。しばらくすると、西尾一等兵がやって来て、私を見つけると
「おい、水を汲んで来てくれ」
といった。兵室の入口には甕があって、そこへ水を汲んでおくのも私の仕事だった。ところが井戸は三百米ほど先にあって、石油缶二つるベで汲んで、運んで来るのが中々の大仕事なのである。 小林伍長がいつからか中国人の少年をやとってくれ、これともやひで運んで来る。他の班の兵たちはそれを笑止な顔で見てゐた。今日はまだその少年が来ないので甕はからっぽである。 西尾一等兵が水あびしようとして、私にいひつけたのは当然なのである。

私はしかし、むかむかとして突然「いやだ」と答へた。(もういやだといったかもしれない)。本当にもういやになったのだ。第一に私と同じ重大な秘密を聞きながら、 なぜ水あびしなければならないのだ。同い年で同じくインテリでありながら。内地に同じく生死不明の家族をもちながら。それはもう餓死してゐるか、 空襲で直撃弾を受けてゐるかもしれない。私の召集直前の本所深川の人のやうに焼け死んでゐるかもしれない。しかし日本は?それを考へてみようともしないで、おまへは水浴びして、 どこへ何しにゆくのだ。私は西尾一等兵とさへもゆっくり話したかったのだったらう。その期待を裏切られての答が「いやだ」の一言だった。

 無條件降服 4

西尾一等兵は私のこの返事をきくと、私にとって意外にもとびかかって来た。気がつくと、私は彼に組み伏せられてゐた。
意外にもといったが、本当か。本当なのだ。私は敗戦の報に動顛して、もう何をする元気もなく、何を考へる力もなかった。西尾が来て、敗戦二ついて語りあふならともかく、 まだ命令するなど思ひも寄らなかった。それと同じく、この命令に対する拒否が私的制裁に発展するなど、もとより予想もつかなかった。西尾はしばらく私を組み敷いてゐたが、またやさしい声で
「もうやめような」
といって起き上った。私も立ち上って、それから水運びに出かけた。
私はこのことを、ここ十何年間、いまいましく、恥かしいことに思ってゐる。たしかに西尾の方が冷静だったのだ。このあとはよくおぼえてないが、西尾は私が常よりもいやいやで、 従ってゆっくりと水を汲んで戻って来たあと、その水で体をきれいに拭ひ、それからたぶん、敗戦の事実をまだ知らない友人の兵と語るために出かけていったのである。 私はまたひとりぼっちになって、永い間、考へて、死なう、と決心した。

実はこれよりまへから私は死ぬこと、ばかり考へてゐた。そのため他の兵より動じなかった、と思ふ。死を覚悟する理由は二つあって、一つは、昭和十八年九月の次男の死である。 疫痢であっといふ間に失ったこの愛児は、満二才で可愛ざかりであった。無邪気そのものでもあった。このころから日本の戦況の悪化は、インテリである私には疑ふべくもなかった。 私は国の亡びることも思った。国とともに死なう、さうすれ亦次男のゐるところに行ける。私はインテリのくせに、さう割り切って考へた。これが死ぬことを怖れずにねがふ理由だった。

しかしいま敗戦の事実を知って(私は日本は亡びたと思った)、私は生きてをり、水くみ飯上げその他の雑用に相変らず使役される。私は死ぬべきである。さう考へながら、 私は今や、この死は、愛児のところへゆくことにならないのに気づいてゐた。敗戦と同時に、私は大きな転機を迎へたのである。今度はいやな死である。 しかし生きてゐるのは毎日、なほつらくいやだったのである。

私と同じ気持だったと認められる者が隊に二人はゐた。一人は隊で最高の地位にあった宇田川中佐だった。この隊長は私室から一歩も姿を見せなくなった。その後も命令は出、 日朝、日夕の点呼の際に伝達されたが、誰が作製したものか、私にはわからない。もう一人は満洲の佳木斯(チャムス)あたりから召集されて来てゐた老中尉だった(その名を私は忘れた)。 私の中隊付で荒木中隊長が入院中は代理をつとめてゐた。その間も毎朝早くから、太鼓を叩いてお題目をとなへてゐたのを、私はおぼえてゐる。 荒木中尉がたぶん敗戦で原隊に帰って来ると、この老中尉は大隊本部付になって私たちの近くに室を与へられたが、もう太鼓を叩かなくなってゐるのに私は気がついてゐた。 ある日この中尉が私にいった。
「田中君(この中尉と斎藤中尉とは他の兵のゐないところでは、私をさう呼んだ)、内地はどうなってゐるだらうかね」
「焼け野原となってゐませうね。」
「君の妻子はどうしてゐるだらう。」
「疎開してゐると思ひますが、死んでるかもしれません。」
「生きてゐてアメリカ軍が上陸して来ればどうだらう。凌辱されはしないだらうか。」
「さうかもしれません。」
「その時は君はどうするかね。」
私は決然と答へた。
「ゆるしてやります。」
老中尉(今から考へれば私より二三才上でせいぜい四十前だったと思ふ)は、いかにも同感といふ風にうなづいた。
この中尉の心裏には、日本軍の占領地人民に対する暴行掠奪があったのだ。佳木斯を中心として多く建設された日本人村は、対ソ作戦の人的基地でもあった。 そこへ進入して来たソ連軍との対戦、婦女子の困苦は目にあまるものがあったらう。しかも今や無条件降服の大詔である。中尉はまざまざと妻子の運命を想像しつくしてゐたのである。

無条件降服のことは、私たち情報室勤務の兵以外にも数日後には知れたと思ふ。日朝、日夕の点呼でも通達されたおぼえは全然ないのがふしぎである。 分遣隊がつぎつぎと帰って来た。私が数日ゐた温家荘の分遣小隊も帰って来た。私と同時入営で仲の良かった徳島県人の青木二等兵も帰って来た様子であるが、一等兵を一人落して来た。 生死は確かめないが、手榴弾の音がしたから、自殺したのだらうといふ噂である。私はこのこと一つのためにも、営庭での体操のとき、私を突きとばした小隊長の下士官を憎らしく思った。 部下を落伍さしてよくぬけぬけと帰って来たな、といふのが、その理由であった。

ある日、私服(苦力のやうな恰好をしてゐた)で唐県のただ一つ商店のある通りにゐると、向ふからこの軍曹がやって来た。一人ではなく、みな白昼酔ってゐる。 私には気づかず(中国人と思ったにちがひない)、大声で
「斎藤の野郎、殺してやる」
とわめきながら通りすぎた。「斎藤」は、情報室主任の斎藤中尉なら、私の上官で、私は好きでもある。私は理由の何であるかを考へることもしないで、
「殺してみろ、おれが次にはお前を殺してやる」と、うしろ姿を睨みつけてゐた。

「皇軍」はもう解体してをり(はじめから、或ひは昭和になってからのことかも知れないが)、その証拠はこのやうに多くあるにも拘はらず、若い神経の強い兵隊たちは、 食欲も少しも減らない様子である。ある日、汁粉が出た。隊に残ってゐる砂糖をみな使ってしまふつもりだと気がつく。翌日も汁粉が出た。そのまへだったかと思ふが、 情報室の兵室の前で、いままで壁だと思ってゐたところが開かれて、その倉庫から色々な物がとり出されてゐる。見ると針や糸や布である。
私は指図してゐる上等兵にたのんで糸と針とを分けてもらった。雨外套が山のやうに積まれる。いつのまにか掘られてあった穴へもって行って焼却するといふのである。 私はまた頼んで一枚もらふ。これと同時に靴下やジュバン(シャツのことである)も新しく下給された。
主計室に交渉が出来たと見えて、情報室は全部集合さされ、一列にならんで袋を手渡しで運ぶ。三浦上等兵が塀の上に立ってこれを受取り、塀の外へ投げる。 そこには中国人がゐて受取ってゐる様子である。これが衛門を通過ささないで、隊の食料を運び出す方法であることは明瞭であるが、私は二等兵でもとより黙々として運ぶだけである。 いなその二等兵も同じことをした。

私の手伝ひに中国人の少年が来てゐたことは前述した。命令は出ないながら唐県撤退が近く、この少年とも別れと知れたので、私はそこら辺に捨てられている物を拾ってゐたのをこの少年に見せる。 金づち、布などひろげて見せて、これが欲しいか、あれが欲しいか、と訊ねたうへ、情報室の下士官室の外がはにこの少年をまはらせて、かけ声とともに一切、塀の外へほふり出した。 この時、欲しくないといってことはられたのは、私がこれまでかぶってゐて、いまは新品ととりか へられた軍帽である。田中先生のつけてゐたものといって持って行ってくれるかと思ったのに、と私のセンチメンタンタリズムは容赦なく拒絶された。
私は主計たちからも可愛がられてゐたのであらう、費ひきれなくなって捨てられる、と思った砂糖を飯盒に一杯もらった。かうして唐県撒退の準備は出来上った。

この間、私が心がけながら準備未完了となったことが一つだけある。私はいまもさうだが腸が弱く、よく下痢をした。そこで医務室ともなじみになってゐたが、 軍医どのや下士官よりも若い浅井衛生兵の方が親しかった。大阪の高槻の医専在学中に応召したのだとか聞いた。他の乙幹より好きな兵隊であったが、これにたのんで鹿棄する薬の中、 毒薬を一袋もらふつもりだったのが、とうとう言ひ出せなかったのである。捕虜になるとき、もしくは捕虜になって耐へられなくなったときの用意にとであるが、まだ機会はあるとも思った。

唐県で戦死した兵たちの遺骨は、「各班使役集合!」の号令で、情報室からは私がゆくと埋めることを命ぜられた。非力の私は掘るより埋める方に廻った。そんなわけで、 宇田川大隊の遺骨のありかは私が一番よく知ってゐる。ただし全部埋めずにごくわづかづつ戦友たちがそれぞれ持って帰って遺族に届けたかもしれない。 ともかくこのことをもとにして「骨」の昭和二九年五月号にのせた詩が出来た。

 戦友に

帰って来い帰って来い
昭和二十年八月某日
僕たちがシヤベルをもって
掘つた穴に埋めた戦友たちよ
帰って来い帰って来い
もういつまでも河北省の
山中などに寝てゐるな
自衛のための戦争
水爆相手の戦争に
もう一度おまへたちの手が必要なのだ
帰って来い帰って来い
骨だけになつた手で帰って来い。

 無條件降服 5

唐県撒退のことは二等兵の私にもありありとわかった。これは命令の出る直前だったと思ふが、私の撒退準備の一つとしてなしたことは、図書のことだった。 入営前に陸軍軍曹として、第一師団に勤めてゐた大垣国司が、
「軍隊では入隊前の身分を一応無視しながらそれによってまた差別します」
と教へ、入隊前の身分を証明する物をもってゆけとすすめた。そこで私は第三詩集「神軍」、第四詩集「南の星」と「李太白」(日本評論社刊)とをもって行った。 この三冊だけでも大きな嵩なのに、私はまた隊内を歩いて、ごみ捨て場にあった小杉放庵「唐詩及唐詩人」を拾って来てゐた。 それに佐藤中尉のかたみの「歩兵操典」など一包にすると、私は思案をきめて、営外の酒保に行った。この酒保は斎藤中尉の愛人(だったと思ふ)が経営し、 これを主計曹長の妻(だったと思ふ)が助け、三人の姑娘が雇はれてゐた。私はいつとはなしに、この酒保の女主人におぼえられてゐたので、本包を馬車に積んでくれないかといひ、 承諾してもらった。

撤退の日は午前三時起床だったかと思ふ。私は一時ごろまで眠れず、一時間ねたかと思ふと起された。炊事班へ朝食と辨当をとりにゆき兵には分配した。 そのあとすぐ出発でまだ眠ってゐる民家の間を、大隊は粛々と出発し、城門をくぐり、望都県へのバス道路をゆく。夜が明けてふりかへると蜿蜒たる大行軍である。 間に馬や牛の曳く車があって、酒保の姑娘や、負傷した小林伍長や保安隊の病人、家族'か乗ってゐた。保安隊が私どもと一緒に唐県から引揚げるのは、考へてみれば当然で、 いままで日本軍と協同してゐたものが、中共軍の入城で助かる筈もないからである。

バス道路は村落とは全然はなれた畑中を走ってゐる。十粁ほど来たかと思ふと、右手の村から銃撃した。負傷者も何もないが、銃砲隊は歩兵砲を据えた。このとき斎藤中尉は私を呼んだ。
「田中、伝令!」
その命令は何だったかおぼえないが、たぶん戦斗する隊にかまはず各隊前進をつづけよといふのでもあったらう。斎藤中尉は撤退の指揮を命じられてゐたやうである。 私は復誦し、駈足し、各隊に命令を伝へ、帰って来て復命した。これが睡眠不足の私にはこたへた。私は全装備をし、しかも飯盒の中には砂糖まで入れてゐるのである。 斎藤中尉の伝令にはもう一度つかはれた。私は怨めしげな顔もしないで、気合をかける(軍隊では元気をつける、はげますと同義語である)上官の命に服しなければならならなかった。

唐県を出て望都県の固現村のトーチカの辺りに来たころには、私はもう完全にへたばってゐた。しかものこりまだ二十二支那里ある(光緒、望都県新志による)。 私はもう何も考へず、喘ぎながら歩いた。他の班の二等兵で道ばたで叩かれてゐるのがある。へばった兵隊は叩かれたあとまた歩き出した。 私は斎藤中尉の命令もこの叩きだったかと合点しながら喘いだ。牛車に乗ってゐる保安隊の中尉に、背負袋の中から一包みをとり出して頼んだのは、この前後である。 私はなぜか顔見知りだったこの中尉が、男のくせに車に乗ってゐるのを見つけると、大喜びで頼みこみ、彼はうなづいて受け取って呉れた。この包の中には糸と針と布とのほか、 昭和十七年シンガポールで私が買ひあさる人たちにつられて買ったパーカーの万年筆も入ってゐた。かさも大したことはなく重さも大してないこの包みをさへ、 肩からとりのけねばならぬほど、参ってゐたのである。
望都県に着き県城を通りぬけ、こののち私のしばらくゐる京漢線の望都駅前の兵舎に着いたのは日ぐれ近くであったらう。私は県城の手前では畑の唐辛子をひきぬき、 その実をかみながらやっと辿り着いたのである。

万年筆の話のきりをつけることにする。私は望都での兵舎で落ち着くと、県城内の保安隊をたづねて、例の中尉をさがした。わからないでゐる中に、 道でばったり出合ふ。そこでいきごんで
「我的包?(おれのつつみ)」とたづねると、
「合作社に置いてある」といふ。合作社といふのは、もうはっきりしないが、配給所のやうなものだったかと思ふ、その返事で気をよくして、別れて合作社を探しまはり、たづねると、 「不知道(知りません)」といふ返事である。さういった中尉の返事が何だかあやしげだったと気づく。二三日また中尉を探し歩いて、見つからない中、私は忘れてしまふことにした。鴎外先生の
「袖口のこがねのぼたん、ひとつおとしつ、その扣鈕惜し」
を思ひうかベながら、私は信頼を裏切られた自分を口惜しく思ったばかりである。

望都の新しい兵舎は、兵の手ですぐきれいになった。兵の一人である私も働かされた。その一つは伍長の室の壁貼りである。以前斎藤中尉の室の壁のときは、 中国人の使役を督してやらせたのが、今度は荻納兵長と私とで貼った。ただしこの伍長は私を兄弟扱ひにした小林伍長ではなく、 現地除隊ときまった彼の後任として情報室に来た信州出身の若い伍長である。斎藤中尉も現地除隊ときまって、姿をあらはさない。(小林伍長は「お前をすぐ北京へ呼ぶ」といひ、 私は何だか信じなかったが、それはちょっとおくれて実現する。)

私のやった働きのもう一つは、京漢線の向ふ側に出来る酒保の手入れである。新築のあと、木屑や石きれをとりのぞき、きれいにしながら、 敗戦の軍隊に何の酒保がと私はふしぎに思ったが、これもやりをへる。

この間に、実はもっと大事なことが起ってゐた。望都県へ着くとすぐ、北京の日本新聞(東亜新報といったか)が部隊にも配られて、敗戦の経過がほぼわかった。 その晩のことだったか、爆音がして、皆が走ってゆき、やがて医務室に入室の軍曹の手榴弾自殺とわかった。原因不明の病気で入室してゐたが新聞を見たあと、自殺したのだとわかると、 私は同じ気持の人間のゐたことに快く感じた。さっそく浅井医務兵をたづねて、自殺当時の話をきくと、
「その直前あまり変った様子はなかったが急に皆どけと顔色をかへてどなり、手榴弾の栓をぬいた。腸は天井まで飛び、取りのけるのに困った」
と浅井は天井の血痕を指さし、それから声をひそめて
「蛔虫がいっぱい湧いとった。六七十匹ゐたかなあ」
といった。私はこの話をきいたとたん、手榴弾による自殺はもとより一切の自殺を否定する気持になった。死に恥はさらしたくない、といふのが、簡単にしたその理由である。 思へば私にもいろんな虫が湧いてゐさうである。入隊以来、肥えてやっと五三キロ、これが人生で最高の体重といへば、蛔虫や螩虫も山ほどゐるかもしれない。 浅井をはじめ皆にそれを見られるより、も少しましな死に方をと考へたのである。

死に方は山ほどある。私たちの現在ゐる前を走ってゐる京漢線は中国の鉄道の最も重要なものの一つで、日本軍降服後は北上する蔣介石軍(国府軍)を満載して走る。 これが中共軍に夜間爆破される。軍隊の派遣を妨げるためである。わが大隊もそれを阻止すべく、相変らず戦斗にゆき、また望楼に駐屯してゐて、一日平均一名ぐらゐづつ死傷が出る。 私は情報室勤務なので、戦斗にゆかないくせに、その情況を知ってゐる。原隊復帰を願ひ出て、戦斗に参加すべきであらうか。 否、である。私は中共と国府のこの戦ひを善いものとは考へてゐないのである。もとより中共に対して親しみなど持ってゐない。

この大隊はかやうに戦斗配備についてゐるので、軍規は敗戦後も厳格である。日朝、日夕の点呼でも軍規の厳正が命ぜられる。そのためもあらう階級による敬礼をはじめ、 上官への奉仕が依然として要求される。私の班の編成が変って、伍長が一人ふえた。この伍長に奉仕すべき二等兵は私と伝書鳩係の某と二人しかゐない。 この二等兵が私と同じく怠け者で伍長の世話をしなかったことが、目についたと見える。ある日、他の班の上等兵から呼ばれた。新潟出身の男である。
「おまへたちに物を教へてやる」といって、私に眼鏡をはづさせたあと、「気をつけ」といって、帯革に手をかけた。帯革ビンタといって、制裁の中でも痛いものの一つであらう。 私が覚悟して足に力を入れて待っていると、彼は急に声の調子を変へて
「おれは国を出る時、母親から下の者をいたはれ、といはれた。今まで誰も叩いたことがない。おまへたちがあまりひどいから止むを得ず叩かうと思ふが、 考へればおまへたちは二人とも年寄りだ。わかるだらう。おれのいふことをきいて今後班長どのの世話をよくするか」
といふ。もとより二人はをそろへて「ハイ」といひ、放免される。
その伍長は手にけがをして不自由をしてゐるのを、私たちが世話し足りなかった由である。荻納、田中の二兵長が情報室で西尾一等兵と話してゐるのを、室に入らうとして聞くと、
「あまりですぜ」、といふ荻納兵長のことばに西尾は「おれもさう思うが」といってあとは声が低くなった。私のことを云ってゐるのだと気づいて、私は後がへりした。 しかし何を私に対しておこってゐたかはわからなかった。
このことに関しても制裁は受けなかったが、私はつとめて気をつけるやうにしてゐる。しかしどうしてよいかわからないのである。 (帰国後、田中兵長は養徳社の松井君と同級だったときき、また私の檀那寺の住職と父君とが同僚の教師ときき、ついで勤め先といふ税務署へ訪ねてゆくと、 結核療養のため入院と病院もききながら、そのままになって、このとき二人がなぜおこったかはいまだにわからない)。

私に上官軽視の傾向があることは教育中にもすでに見やぶられてゐた。しかしこの時の直属上官たる若い美男子の伍長が、営門で負傷したときは早速とんで行った。 狙ひうちではなく逸れ弾で足に負傷したらしく、医務室での手当のあと、彼は私に背負はれて下士官室へ戻った。私はその後、彼の癒るまで、 毎日この美青年を背負って医務室へ通った。かういふ時、私はうれしいのである。

いやだったのは、朝食を運んで「田中、潰物もって来い」といはれた時である。私はこの上官の命に「はい」と答へて炊事場へ行った。 折悪しく頭を下げてたのむべき上等兵も誰もゐない。私はとっさに、地面におちてゐた菜っ葉をひろひ、手で揉んだ。私の汗でいくらか塩気がついたころ、 私はそれを刻んで美青年伍長の膳に置いた。この一分間速成の潰物がどんな味であったかは、私も知らない。軍規厳正を命令しなければならないのは、軍規の紊れるおそれがあるか、 紊れてゐる証拠かのどちらかである。ある日、
「弾薬をうってはいけない」
との達しがあった。打つな、とではなく、売るな、との達しである。私は呆れながらきいてゐたが、そのあと美青年伍長から随行を命じられた。京漢線の望都の次の駅、 清風店まで用があってゆく、ついて来いとのことである。私は120発の小銃弾を着けて随行した。用向きは何であったか。伍長は保安隊の衛所へ入ってゆく。 出迎へた保安隊の兵の顔に見覚えがある。考へると、だいぶまへ我が軍の誤射で負傷し、私が医務室へはこび、弾丸剔出のあひだ、手をにぎってやってゐた男である、 私はそれを思ひ出すと、伍長の入って行ったあと、この男に好意を表はすすベを考へた。何もない。いや、これがある。私は弾薬盒から五発の小銃弾をぬきとって与へた。 彼は喜んでこれを受けとり、やがて伍長が出て来ると(何も用はなかった様子である)、中華そばを二人前、出して来た。 伍長がそれの出された理由など考へないで食べるのを見ながら、私は「弾丸を売ったのかな」と自問しながら食べた。

も一つ白状する。このころ下衣の点検が近い、といふうはさが立った。私は前にもいった通り情報室ただ一人の二等兵なので、下士官の下衣の洗濯をする。 (小林伍長はそれをささなかったが)。シャツを洗ったあと乾してゐる中にぬすまれた。
私は非常に困った。私自身のシャツを代りにすることを知らないわけではないが、それはすでにぬすまれ果して身につけてゐる一枚しかないのである。伍長に提供したら、 私は裸かでゐなければならないのである。私の困った様子を見、理由を聞いたあと、荻納か田中かどちらの兵長だったか忘れたが、ついて来いといって井戸のところに連れていった。 そこにシャツが一枚吊るされてゐた。忘れ物の様子である。兵長はあごでそれを示すと姿を消した。
私はあたりを見まはしたあと、人けのないのをたしかめると、それを持って逃げた。員数をつけたのである。ここまではよかったが、自分の室へ帰ってあらためると、 ポケットに五十円札が入ってゐた。私はこの札のおかげで非常に煩悶した。二等兵の月給の二ケ月分近い金を私は盗んだのである。これが私の生涯でただ一つの盗みである。

田中兵長のことでは、ある日、
「田中、小孩(シャオハイ)可哀そうと思はないか」
といふ。この小孩は子供一般を指してゐるのではなく、この時まだ使用してゐた情報提供の中国人たちが連絡に使用する少年のことである。朝晩はだ寒くなったのに、 この少年はわらの上に着ぐるみころがってねてゐるのである。私が同感の意を示すと、彼は毛布を一枚もって来て、これをやって呉れ、と投げ出した。私はこの命令を快く引き受けた。 部隊から物資をもち出すことは衛兵所を通っては不能である。しかし私には自信がある。私は素手でまづ衛兵所の前を、
「情報室勤務田中二等兵、情報拾集に外出いたします」
と断って通り、少年に会ってから、その待ってゐるあたりへ塀越しに毛布を投げ出した。しかし私の失望したことには、翌日、私が少年のところへ朝飯を運んで行くと、 毛布はもうあたりに見えず、彼はいつもの通り着ぐるみでねてゐた。私は落胆すると同時に、中国の少年の強さに舌を巻いた。

私はこの間に、一等兵に昇進した。小野勝年氏ら、私よりあとで入隊した二等兵たちはすべて現地召集で、小林伍長らとともに除隊したから、一等兵になっても下はない。 しかし襟章を星二つにつけ換へてから、私は城内にゐる原隊の荒木隊へ申告に行った。
「申告致します。陸軍二等兵田中克己は昭和二十年八月十五日付をもって、陸軍一等兵を命ぜられました。ここに謹んで申告いたします」
といふのを荒木中尉以下、将校のすべてとしかるべき下士官にいってまはるのである。私はこれをすましたあと、外泊を許されてゐるので、教育中の仲良しだった竹川一等兵と並んでねた。 竹川はタバコを違反してすったので私と並んで立たされたことがある。その時の教育班長だった大塚伍長が、今となって見ると、とてもやさしい人間とわかったことを彼はうれしさうにいった。
「さうだらう、教育者としてやむを得ずきつくしたんだな。」
私もうなづいたが、いまは望楼に行ってゐるとかで会へなかった。竹川はまた他の班長からも好かれて近く北京への連絡に同行するのだ、といった。私は急に起き上って、 北京へ行ったら、電々公社に勤めてゐる義弟の舅への連格をたのんだ。無事だといふことだけでも報してくれるやうに、電話でいいからと、くどくどと頼むと、竹川はこころよく引き受けてくれた。

 無条件降服 6

この原隊へ帰つた時のことでおぼえてゐるのは、同年兵の相馬実が炊事の係長をしてゐたことである。相馬は教育中に右手が上らなくなって、成績も悪かったが、 四条畷中学の書記といふ旧歴の上に、人格が認められたのであらう。炊事班といふ戦斗に適しない、出来の悪い兵のやらされるときまってゐる役に廻されたが、 たちまち長として古兵を使用してゐるのである。私はそれをうれしく思ひながら、部隊本部で相変らず古兵に抑へられてゐる自分の人格の非力を悟らざるを得なかった。

このころ私は脱走を本気で考へてゐた。情報室には古い地図が貼ってある。望都県から北京まで鉄道が通ってゐるが、鉄道でゆくのは危い。さう考へて、 私は歩いて義弟のゐる天津へゆくことにし、地図の上で最短距離を辿る。高陽、任邱、雄、覇と地図を見やり、直線距離300粁を何日で歩けるか計算して見る。 途中の食糧は?日本人と知れたら?さういふことにも、いつものくせながら一応の答は出る。いつ、どうしてここを出るかといふ問題が最も緊要だが、私はこれも割切って、 今度不寝番に立たされたときと決定する。不寝番は夜間一時間更替で、一人で巡視するのである。そのとき北側の棗林をくぐって出る。しばらく鉄道に沿ってゆき、そのあと右にそれる。 あとは運まかせ、といふのが粗雑な私の計画である。

脱走の理由は山ほどあるが、その第一は私が自殺を欲しなくなったことである。自殺が犬死とすれば、隊にゐて死ぬことは、すべて犬死である。 それでは脱走したら犬死でなくなるのか。然り。北京の新聞はこのごろ来なくなってゐたやうに思ふが、鉄道沿線のこととて、北京、天津の噂だけは伝はってゐた。 そしてその中で私の胸を最も強く打ったのは
「北京天津の邦人の娘は、おほむね淫売となった」とのしらせであった。
他に噂もあったらうに、かういふ形で敗戦後の在留邦人の生活が伝へられ、これがまた私のセンチメントを強く動かしたとは、今から考へれば可笑しいが、 私はシンガポール占領後の華橋を見ただけに、これを真実と考へ、五三キロになった体で一人でも二人でも泥沼から救ひ出さうと考へたのである。部隊長に除隊を願ひ出る、 願ひ出て許されるなどは考へても見なかった。

脱走の途中で死ぬ?それはなるべく考へないことにした。その上また部隊は北支軍の命令で、今後食糧の自給自足を命じられてゐた。部隊はまづ手持ちの玉蜀黍の製粉を考へた。 各班一名使役を命ぜられ、私は生れて初めて牛を使って玉蜀黍を挽いた。その作業中、通りかかった農婦が見かねたといふ風に、私に手伝ってくれ、 感激した私が手持ちの小鏡を与へた話はいつか書いたおぼえがある。しかしこのタウモロコシの粉は役に立たなかった。

十月十日に私はまだ脱走せずにゐた。その証拠として私はこの日のことをよくおぼえてゐる。私は青天白日旗のひるがへる城内へ昼間散歩に行った。 夕方、大同炭坑に働いてゐた人たちとその家族とをのせた一列車が駅に着いた。貨車の上で一月暮した。ここまで来る途中、毎日襲撃された。今夜のしづかなこと、 と私のさし出すタバコを旨さうにふかしたあと、酒が何とかならないかと相談する人があった。私は当惑してその場をはなれ、本当に何とかならないだらうかと考へて床に入ってゐると、 「非常!」の叫びとともに銃声がひびいた。

敵襲である。みな銃をとって走った。西尾一等兵も撃ってゐる。みるみる関帝廟が燃え上った。私はそこまで見とどけてから、鉄道の方へ行ってみた。貨車はひっそりして無人の様である。 私は「異常ありませんか」とたづね、返答のないのに失望する。私は命令を受けないで、戦場を離脱してゐるのではなからうか。 一応、全列車を見まはったあと、匆々と私は隊内に戻った。西尾は銃の手入れをしながら、「よく撃った」とほこらしげである。私は入隊以来、 一発も撃たない私の銃を銃架に置いて「つまらん」と独語して、いよいよ脱走の決意を深めた。
以上が私の十月十日、即ち中国の辛亥革命記念日の追憶の全部である。

 北京 1

私は脱走を考へて毎日を過してゐる。そのために情報収集と称して営外へ出てゆく。 営舎の外に貼りめぐらしてある蔣介石の「怨みに報いるに徳を以てせよ」といふビラはありがたく見てゐるが、私の歩いてゆく途は、中共軍の陣地で、雙十節の攻撃などから考へて、 無事に通れる自信はない。しかしこの隊にゐて死ぬよりましだと思ふことが多いのである。
京漢線の駅へゆくことも多いのだが、一日に何本かの汽車でゆくことを想像もしなかったのは、我ながらふしぎである。この鉄道が相変らず日本軍の管理下にあって、 途中で引きずり下されるとでも思ってゐたからであらう。

駅の構内に巡警の詰所があるのを知って、入ってゆく。別に警戒した風もなく二人の巡警は席をすすめてくれた。もう一人、得体の知れない人物がゐるが、 私は何となく次の意味のことを話した。
「永い間、日華両国民は不和であった。根本原因は何であれ、この数年間、日本軍は焚き、殺し、傷けた。この怨みはたとへ蔣主席が忘れよといっても忘れられまい。 しかし子孫にまで怨みは残してほしくない。」
勝手ないひ分であるが、私はさう望んでゐると、たどたどしく述べた。巡警でないもう一人は私の話の途中で、私に同意して、私のいひ足りないところを補足してくれた。 鮮人だったのである。そんなわけで、私はこの巡警たちと知合ひになる。

そのすぐあと、たぶん西尾一等兵からであらう、私は現地除隊許可の内報を得た。小林伍長たちが除隊前に、部隊長にたのんでくれたと見える。 西尾は新聞社の社員だから北京へゆけば支局で何とかしてくれよう、田中は餓死しないだらうかと部隊長が心配して中々うんといはなかった由である。ともかく私の脱走計画は不用となった。 原隊の隊長荒木中尉が会ひたがってゐるときき、申告かたがたゆくと、午飯をくはしてくれる。中尉も私の除隊後を心配してゐる様子である。礼をいって別れを告げ、 竹川に会ひにいって、
「この間、北京へ連絡にいった時、おれの方の連絡はどうだった」ときくと、
「なんぼ電話かけても通じなかった」といふ。そのいひ方が弱々しいので、忘れて連絡しなかったのだな、と思ったから問いただしもしない。なまじ連絡してもらって、 悲しいニュースを聞くよりはましだと思ったのである。

同時に除隊することになったのは、西尾のほか、部隊副官の黒田中尉ともう一人だったか、西尾と私とは呼び出されて、退職手当といふのか一千円ほど貰った。 私の月給は二十九円五十銭だったのである。この大枚な手当に心尽しが見られると思って私は感動した。
なほ下着類のほか、革長靴などいろいろ貨った。私はこれらを大部分、出発前にれいの知合の巡警に買はして、五百円を受取ったと思ふ。

出発の時は荒木中尉ら部隊の将校たちが駅、まで送りに来てくれてた。私はろくろく挨拶もしないで汽車に乗った。見棄ててゆくといふ気持も強かったが、 残ってゐればよけい厄介をかけて死ぬのではないかとも思ったので、何だか変な割切れないものを感じた。

さて北京に着いたのは、その日の夕方だった。その間、私たちはちやんと坐席についてをり(切符を買ったおぼえはない)、どこかで雞を買ってもらって食ったことをおぼえてゐる。
北京に着くと騷々しい。音楽を奏してゐる。線はちがふが同時にアメリ力軍が到着したのである。同じ出口からだといけないと、われを忘れた兵隊の落着き先へ歩いて行った。
ここで一晩泊めてもらったあと、私は北支電々会社の岡田氏を訪ねにゆく。竹川が度々電話をかけたのにだめだったといったのを半分信じてゐるので、直接会社へゆくことにしたのである。 会社は西長安街にあってすぐわかった。私は受附で訪ねる人の名前をいひながら思案してゐた。岡田氏は天津にゐる私の義弟(妻の弟)の舅である。 一年前に東京の飯田橋で結婚式をあげて義弟たちが天津にいったあとすぐ、近くにゐた岡田氏一家も北京に行ったとしか聞いてゐない。会ったのも式の時だけである。 その人を訪ねてどうするのか。私は実はあまり心配してゐなかった。――困ってゐたら助けるつもりだったのである。
岡田氏は私の顔を見ると、至って気さくに
「しばらくですね。先に家へ行って待っててくれませんか」といって自宅を教へてくれた。すぐ先の北新華街のどこそこと聞いて、私がゆくとすぐわかった。 ここでも心安く迎へられて、挨拶もそこそこに私は湯を沸かしてもらひ、隊で着てゐたものを一切ぬぎすてて熱湯に漬けた。ずいぶん虱をわかしてゐることは、承知してゐたのである。

 北京 2

岡田家は電々公社につとめてゐる主人のほか、夫人と三人の嬢から成ってゐた。長女は私の妻の弟と去年結婚したが、私はその披露宴の席に出たほか、 実は天津にゐる義弟にこの縁談がもって来られた時、花嫁候補の出身学校や勤め先への問合せは私がした。良いとなってから義弟の代りに義母義姉と本人を見に行ったといふ因縁もあるので、 厚かましく入りこんだのかもしれない。しかし私は実は何かの役に立つつもりで、男手の少いこの家に入りこんだのだ。それでは役に立つだらうか。 私がそれを自省してみるにはすこしひまがかかった。

私はまづ新華街を下って和平門をくぐり、たぶん広安門大街にあった露店市に行った。服装をととのへるためである。帽子と大掛児(タアコワル)と鞋(くつ)とが私の手持ちの金で買へた。 大掛児といふのは単衣の長い着物で、これから冬になるが、下に洋服を着てゐてもよいのである。持ち金が少いので、もとより古着である。

そのあと少くなった在り金の補充に、私は軍隊からはいて来た革の長靴と上衣やズボンを売った。かうして服装と小遣銭ができると、私は外へ出かけた。 まづ行ったのはこれから毎日の例となるが新聞の立ち見である。どこだか忘れたが、さう遠くないところに掲示場があって、そこへ行って主な記事を立ちよみすると帰って来て報告する。 日字新聞はたぶん東亜新報といふのがあって、毎日配達されてゐたかと思ふが、ひょっとしたらもう配達がとまってゐたのかも知れない。 ともかく市政府の管理下におかれてゐたことはまちがひなく、知りたいことは何も書いてなかった答である。それゆゑ私は岡田家へ北平日報、 新華報(といったと思ふ)などといふ中国新聞の報ずる日本関係のニュースを伝へた。
「広島には今後百年間草木が生へない。」
「日本天皇は皇太子に譲位することとなった。」
「日本は大凶作で人口の三分一は今年中に餓死する。」
これらの記事が麗々しく掲げてあったのを私はそのまま伝へたと思ふ。勤め先の接収が終って、終日家にゐるやうになった岡田氏をはじめ、一家は黙って私の伝へるニュースを聞いてゐた。

隊の時の上官である斎藤中尉と黒田中尉がそろって訪ねて呉れたのは、すぐだったと思ふ。主として斎藤中尉がもと陸軍少佐だった岡田氏に士官学校の後輩として敬意を表したが、 岡田氏もこれからは兄分として万事指導を仰ぐといはれた元二等兵の私も、ともども指導は重荷と感じる顔をしたので、二氏とも早々と引き上げた。 そのあと答礼に私が訪ねると斎藤中尉は麻雀の途中で、ほとんど話もできなかった。除隊後の職も仕事もないこの元中尉にとって、ひょっとしたら麻雀は生計の途だったのかもしれない。 ともかくせまい部屋と赤ん坊を抱いた奥さんとを見たあと、私も早々に引き上げ、そののち二十年近く会はない。

小林伍長は私の方から訪れて行ったのだと思ふ。東城の東総布胡同にゐたとおぼえてゐる。ずいぶん遠いところまで歩いてゆくと、喜んでくれて、 帰るとき同居してゐる中野君といふのに何か耳打ちすると、中野君はうなづいて五千元だかの紙幣を私に渡した。私が辞退すると、中野君は、
「出す物は取れ、出さぬ物は欲しがるな」と教へてくれた。
これはその後ながい間の私の処世訓となった。

小林、中野両氏の住居へはこれからも訪ねたが、ある日のこと二人は天津行の相談をしていた。常に危険だから慎重に、といふので相談してゐるのである。それでふと思ひついて、 私は天津にゐる義弟のところへ電話をかけてみたら、と岡田家にすすめた。通じるかしらと危ぶみながら、次女の節子嬢が市外通話を申しこむと、まもなくかかった。 家中かはるがはる受話器をとって楽しさうに話すのが、私のせいだと嬉しかった。近々に初孫が出来るはずだのに手伝ひにもゆけない、おしめも作ってあるのに、 となげくお母さんの話をきいてゐる中に私は決心がきまった。おしめをもって天津へ私がゆく、といふのである。
小林伍長らが心配してゐる位だから、もとより決死の覚悟である。

またかと思はれるから決死の覚悟の説明をすると、このころ北京の日本人はしばしば襲撃された。北京神社の神殿で神官の娘が凌辱されて自殺をした、といふのは噂話、 それも悲劇を好む日本人の創作かもしれない。しかし扉をしめた日本人の住宅へ開門を迫り、開門すれば制服制帽の軍人たちが乱入して金めのものを強奪する事件は頻々として起った。
私の隊に一寸の間入隊し、除隊を許されて帰るとき、眼鏡のつるが折れて紐にしている私にと、自分の眼鏡を置いて行った近代科学図書舘の副館長も襲はれてけがをしたと聞いてゐる。 小林のところへゆくみち北京飯店の前を通ると、ちゃうど行きあった丸腰の日本兵二人は非常な悪意をこめた嘲罵をあびせられた。 私は通りすがりに低声で「御苦労さまです」とささやいてから過ぎた。

私自身はさういふ眼にあはなかった。さきほど書いた眼鏡のつるがまた折れて眼鏡屋にゆく。「これをかへてくれ」と自分でも上手でない北京話でいふと、掌櫃的(ばんとう)はしばらく私をみつめてゐて、
「日本人だったのか」といってから、主人に説明し、ふたりで哄笑してつるをかへてくれた。
ただし汽車に乗り、天津へゆくとなると?悟がいる。天津関係の挿話として北京で伝へられてゐたことは、
「この間、日本租界で暴動があり、ずいぶん死傷者が出た」といふのである。
義弟のつつがなかったことは電話で証明されたとしても、北京よりまだ治安が悪いにちがひない。も一つの挿話はアメリカ兵に関するもので、
「天津で日本人の将校がみちでアメリカ兵に会った。アメリカ兵は顔に唾をはきかけ、それからなぐった。日本将校はしづかに唾をぬぐってから腰の刀をぬいてアメリカ兵を一刀に切り殺し、 おもむろにその場で切腹した」といふのである。
いまとなっては嘘のやうだが、私は半分本当にして聞いてゐるのである。

ともかく覚悟がきまると、私は岡田夫人からおしめをもらひ、早朝、北京駅に出かけた。切符売場にならんでゐると、よこにゐる男が天津行の切符をもってゐて、 売ってくれた。日本のダフ屋といふのは、このまねをしたのか、それとも治安、経済状態が同じになればどこの国でも必ず起る現象なのか、私にはわからないが、 おかげで行列を解放された私はすぐ改札口を通って列車の方へ急いだ。するとどこからか警官が出て来て、「待て」といひ、私の包みを指さして、「あけて見せろ」といふ。 人相風采ともに怪しいと見たのである。私はすなほに包みをすぐ開けたが、ふと思ひついて、
「我是日本人(わしは日本人だ)」といった。
警官はこれをきくとしらべるの止めて「通れ」といった。

天津と北京の間は139キロあるのだが何時間かかったらう。この車中はほとんど物をいはず、ただ売りに来た弁当や甘栗を買ったほか、 湯気で曇った窓に隣席の少年が落書きした文字が「原子爆弾」の四字だったことをおぼえてゐる。

天津の地理は暗記して行った。総站(中央停車場)からは日本租界が遠いといふので、東站で下車し、市電に沿ってゆくと、いけない、 折から天津に来るといふ国民党の大官(何応欽?)を出迎へるため、小中学生が国旗をもって整列してゐる。私はその列のあとを無言で数キロくぐりぬけて、やっと日本租界に到着し、 宮島街の義弟の寓居に辿りついた。

義弟は元気で、終戦直前に召集されたが終戦とともに帰宅し、これまで勤めてゐた学校が休みとなったので、 これも終戦直前に満洲へ行ったまま院長が帰って来ない歯科医院を友人の松井君とやってゐるのである。日本人には一切の営業が禁止された中で医業だけは許されてをり、 しかも患者は日本人、中国人をあはせて千客萬来だといふ。

私はおしめを届けて臨月の義妹を見舞ったあと、中学以来の親友西川英夫君を訪ねた。西川君も元気で、奥さん子供とも食糧難の内地とちがひ、一向に苦労のない様子である。 ただ会社が接収されたので、中国人に引きつぎをしてゐるが、それがまた私利を主としてゐるので、非常に困るといふ話をきく。治安が悪いなぞうそだったと判ると、 私は用事がなくなったわけである。
も一人高等学校で野球部をいつしょにやった山内四郎君がゐると聞き訪ねると、上海で火薬会社の副社長をやってゐたのが、こっちへ来てゐる中に帰れなくなったのださうである。 同君の兄秀三氏と昭和十七年シンガポールで会ひ、インド人の仮政府の指導をしてるのを実見したことをいふと、がれはインパール作戦の失敗のあと自殺した、といふ。 暗然とすると同時に、自殺だけはしないときめてゐる自分が正しいかどうかを疑った。

ともかく生きてゆくなら仕事がある筈だ。それを見つけよう。天津で二日ほど過したあと私は北京に帰った。今度は大掛児をぬいで、満洲、 華北で戦時中に日本人の着た協和服といふのをつけ堂々と駅に乗りこむ。列を作ってゐるのを怪しんで見ると、警官がまづ訊問してゐる。仕方なく私も並ぶと、
「あなたは日本人でせう。」といふ。もとよりさうだと答へると、「すぐわかりますよ」と得意気で、
「旅行免状もってゐますか」ときく。「もってこない」といふと、
「通れませんよ」とあごで指示する。なるほどそこにはアメリカ兵がゐて検査してゐる。順番になると荷物をあけよといひ、あけて見せると、「これは何だ」ときく。 義妹から預って来た妹たちへの贈物の布である。私はとっさに、
「私の妻の布」と英語で答へた。
うそもあざやかなものである。アメリカ兵は、
「きみは英語話せるね」といって、パスさしてくれた。
私は喜んで握手を求め、向うがいやいや出した手を握るとすぐ改札をのり越えた。そこへ中国人が来て私の荷物を受取る。私はうかつにも渡してしまって、 あとでこれが赤帽とわかり大枚な費用を要求された。

それはともかく北京へ帰って岡田家に報告すると、たいへん喜ばれた。私も一仕事した気になったのだからえらいものである。義弟の長男が生れたのは、 一週間ほど後だったと思ふから、これが11月の初だったのである。

 北京 3

西川英夫君は北京にゐる高等学校の同窓の名簿を呉れた。私の北京の仕事はこのひとたちを見舞ってまはることときめてゐた。私はまづ日字新聞の東亜新報社を訪ね、 編集の田中治郎氏を訪ねた。氏は高校だけでなく、中学でも大先輩である。出て来た田中氏は見るからに憔悴した風で、中国人管理下の新聞記事のむつかしさを話したやうに思ふ。 私はそこそこにして退去した。これは助けやうがないからである。(田中氏はいま奈良の大和タイムスの社長である。私は昭和21年からたびたび会ふ機会をもったが、 双方とも北京については殆ど語らなかった。ふしぎなことである)。

次に訪ねたのは仁谷正雄氏で、これも大先輩である。もう勤めには出られない様子で、立派だが薄暗い南長街のお宅に招じ上げられて、 時間になると奧さんの手作りのじゃじゃ麺といふのを食べさしてもらった(と思ふ)。可愛い坊ちゃん嬢ちゃんがゐたが、この坊やがあとで「北京から北京へ」といふ本を出してほめられてゐるのを見た。
富士銀行のロンドン支店長を勤めたあと、本店の営業局長をしておいでの時、私は娘の就職を依頼にゆき、きいていただけたが、娘は受験者中もっとも細い体で パスし、いま勤めて四年目になる。仁谷氏はその間に重役になられ、今年は他の会社に栄転された様子である。その後お礼にも伺ってないが、 北京以来のおわびを一度ゆっくり申しあげたいものである。娘もそろそろ婚期である。退職さしたらかならずお伺ひするときめてゐる。

三番目に伺ったのは、一年先輩の袴谷太郎氏である。いまと同じくビクターに勤めておいでだったと思ふ。高校入学の時、剣道を指南していただいたのをおぼえてゐるので、 心易く話したが「覚えないな」といはれ、しかも帰りがけ、若干のお金を包んで渡されたのには弱った。自分がそんなに見すぼらしかったのを知ったわけである。 この機会にお礼とおわびを申し上げておく。

そんなわけで同窓の諸先輩は大体まあ異状ないとわかると、私の仕事はこの方面ではないわけであるが、これら先輩を訪ねるみちすがら、私のことだから色々見聞もしてゐる。
いまでもおぼえてゐるのは、紫禁城の見学である。私の寓居から遠くなくて、毎日のやうにその前の大通である長安街を歩いてゐるのだから、当然とはいへやうが、秋晴れのある日、 故宮博物院と称せられてゐるこのC朝の宮城へ入ってゆくことにする。午門と呼ばれる正門の左側に出札所があって、入場料はさう高くなかったと記億する。 入場すると見物人はちらほらで、もとより日本人らしいものは一人もゐない。私は太和殿の前の石階をのぼる。多少の感慨がないことはない。清朝三百年の間、 弁髪の官人が早朝参謁のため通った路だからである。

殿前の階をのぼり正面の玉座に近づく。まはりにいろいろな物が陳列してあるが、私は康熙帝や乾隆帝などのことを想起して感慨さらに深い。 ただし陳列物の中で一番に目をひいたのは、これらはるか十七、八世紀の遺物でなくて、日本軍の降服の調印に用ひられた机と椅子とである。 北支軍ではなくもとより支那派遣軍の総司令官と蔣介石代理との間で行はれた調印の時の物である。私はこのそまつな机と椅子をしばし目をすゑて見たあと、 日本の敗北は歴史にのこったなと歎息した。

これも長安街を歩いてゐた時のことだが、人だかりがするのでのぞいて見ると母子で、口から泡をはいて倒れてゐる母親、それにとりすがってゐる少年である。 とりまいて見てゐる人たちは手をかすでもなく、ただ黙って見てゐるだけである。少年は泣いてゐる。何だかうすら寒い日であったし、服装もぼろに近い私は黙って見てをれず、 ポケットをさぐって手にふれた金を全部少年にわたした。それから足早やにその場を立ち去った。ちっぽけな善行が恥かしかったからか、それもある。 しかし私の常識では、旧中国ではかういふ哀れな人に人前で同情を表はすことは、その不幸に責任のある人のすることなのである。私は日本人と知られやしないかをおそれたのである。

実際、私は物さへいはなければ、そしてただ歩いてゐるだけなら絶対に日本人とは見えなかった様子である。眼鏡屋の時もさうだったが、小林を訪問した時だったか、 まはり途して朝陽門大街を歩いた。ちやうど煙草がきれたので露店で買ふ。中国の煙草は専売でないので、どこでも売ってゐて種類も多いうへに、値段はまちまちなのである。 ものをいはないわけにはゆかない。
「この煙草いくらだ」。私は指さした。
露店商は商品をとりあげて、しばらくして聞いた。
「あなた日本人ですか。」私の中国語よりは旨い日本語である。仕方ない。「さうだ」と答へると、
「ものさへいはねば絶対わかりませんよ」とほめられた。相手は鮮人だったのである。

小林をたびたび訪ねながら、ほとんど話すことがなかった。ただどうしても話さねばならないのは、中野君と相談したあと、私を彼等の先生のところへつれて行ったことである。 先生のお宅は朝陽門大街の裏通で、三人はすぐなかへ通された。お部屋へゆくと、五六十歳の老人(と私は思った)と三十歳位の婦人とが向ひあって、西洋将棋をざしてゐる。 これが先生と夫人だったのだが、勝負が一番すむまでそこに坐ってゐて、私は感歎してゐた。敗戦国人として何たる泰然さと思ったのである。やがて小林は、
「田中と申し、在隊当時の友人ですが、仲間に入れていただきたいといふので連れて参りました」と私を紹介した。
先生は私が手みやげに持参した「神軍」「南の星」「李太白」の三冊をちょっとめくられ、
「どういふわけでこんなものを書いた」と訊ね、私をまごつかせたあと、出身学校をたづねられた。
「東大です」と返答すると
「東大といはず、帝大出はみな実行力がないのでね」
といはれ、しばらく考へておいでだったが、やがて、
「それぢや宿題を出しておかう。いいか。「お前は何か。」答へができたらまた会はう。」
宿題といふか、公案といふか、えらいものをあづけられたわけである。私はおもむろに一礼して退席した。

私は何だらう。馬鹿だ、卑劣漢だ、虚栄心の強い男だ、かういふ自己反省の結果を申し上ぐべきか。それとも、私は人間だ、父だし、日本人だ、 死すべきものだとのたぐひのお答で勘弁してもらへるだらうか。私はこの日以来いろいろ考へて、いまだに答が出ないのである。御返事にはならなかったが、 先生のこの宿題のおかげで、私は一つの方向に動き出した。

私は昭和六年、大学へ入学の学科を選ぶ際、東洋史学科といふ特殊学科を選んだ。入学志題者の数が多く、試験を受けて入学を許された。 この年九月満洲事変勃発などもいくらか関係があったのかもしれない。在学中は概ね遊惰であったが卒業論文を書くときになってはじめて勉強し、はじめて一生の目標を得たやうに思ふ。 しかし卒業の年、昭和九年は不況で、18人の卒業生中、就職したのはわずか三人、私は朝日新聞の入社試験を受け、千何百人の中、第一次合格六十人の一人とはなったが、 第二次に見事にふりおとされた(この時合格した三人の一人がいま欧州総局長の高垣金三郎である)。ついで毎日新聞社の入社試験を受けると、また第一次は千何百人中の二番、 今度は大丈夫かと思ったが、第二次では三十人も採用したのにその中に入れられなかった。すべて青く細く、風采態度の揚らなかったせいだと自分では思ってゐる。 そんなわけで大学院入学を申出たところへ、結核療養中の教師の補充として臨時講師に来ないかと、高校で野球部の先輩だった清徳保男氏にいはれた。 (この人はまれに見る清高な詩人肌の人だった。京大の哲学科を出、禅宗をやり詩歌を作ったが結核で昭和12年に歿した。遣稿ハンス・ドリーシュの「形而上学」の訳は私が清書し、 天野貞祐博士のおカぞへで岩波文庫となったが売れなかった、絶版となったままである。この書の跋を書いた親友五十嵐達六郎氏も昭和20年、満洲で戦死して会ふことがない)。
三ヶ月の期限で気楽につとめてゐる中、夏休みとなり上京すると、秋以後もつづけて勤めよとの手紙をもらひ、大分煩悶したのちこれに応じ、同級生の唯三人の就職者の一人となった。 しかしいやいや勤めてゐること四年にして、東京へ妻子をつれて上り、職のないのに困って「詩集西康省」を出し、そのあと先生先輩のお世話で東洋史関係の仕事をすることになり、 翻訳「北方ツングースの社会構成」といふのを出した。
勤め先のアジア文化研究所長白鳥庫吉博士は「卒業後十年までは何も書くな」との御意見だったので、安心して書かず読んでゐる中、太平洋戦争になると、とたんにマラヤ軍に徴用された。 報道任務といふことであったが、事実上はなんの仕事なく、南方の果実を十分くったあと帰還し、もとの研究所に勤めてゐた。

戦況日に日に悪く、東京に爆弾のおち出すころになると本もおちおち読めなかったが、 十年間の学問は日本軍の戦火に脅かされつづけた中国の同年輩よりいくらかましとの自信はある(そのころは私も自信が強かったことを読者は御記憶ありたい)。 日本の東洋学を中国に置いてゆかうと考へついたのである。
私はかう決心するとさつそく同志をもとめて北京市内を歩きまはった。

 北京 4

日本の東洋学といったが、これは今だに世界的な学問の一である。その生みの祖の一人である白鳥博士を所長とする研究所に勤めてゐたことは、兵隊となる前の私の誇りであった。 その誇りが甦って来たうへ、私は例の新聞の立読みで大発見をしてゐた。伯希和教授逝去の報である。漢名伯希和ではわかりにくからうが、 これがフランスの東洋学者ポール・ペリオのことなのは、その道の人なら知らないものはない。ドイツ占領下で苦労してであらう10月28日に67才かで亡くなられたのである。 フランスの東洋学は日本の東洋学と双璧で、グラネー、マスペロ、ペリオの三人がその三羽烏と教はってゐたが、ぺリオ教授を最後として、 みな鬼籍に入ったことを、私はかくして知り、同時に自分の東洋学者としての貴任をも重く考へたのだから、よほど自信が強かったと苦笑ものである。

序でながらいふと、食糧難の日本では、ぺリオ教授の逝去など問題にはならなかった。翌年二月末、帰国してペリオ教授と親しかった羽田亨博士の令息明君に会ひ、この話をすると、 博士が会ひたいと仰しゃる。会ってたしかに中国の新聞で見た旨を申上げると、先生は歎息された(博士ももう亡い!)。ただし近ごろの中国学界の論文では、 伯希和は中央アジアの考古学的探険をしたあと、その発掘物を中国にのこさず、フランスに盗み帰ったとして盗賊あつかひされてゐる。中共の東洋学もきびしい哉である。

も一つ、私の責任感をそそり立てたのは、恩師和田C博士が兵隊の私によこされたハガキである。しょっちゅぅ懐にいれて歩いてゐたから汚れてはゐたが、 私はこのハガキを隆福寺街の文殿閣へもって行って、掌櫃的(ばんとう)たちに見せた。
「班務御精励の由ご苦労様です。東京ではあなたの出征後、あなたのもとの勤め先が二つとも焼けました。原田淑人君も岩井大慧君も山本達郎君もやられました。私も今日か明日かと云々」
といふのだったと思ふ。(乗船前の検査では一切の文書の携帯は許されないので、天津へ置いて来た)。私は掌櫃的たちに東洋考古学の世界的権威原田傅士、東洋文庫主事岩井博士、 東大東洋史学科の主任教授山本博士らの名のところを示して、「都死了(みなしんだ)」といった。
「やられました」といふ和田先生の文章を、戦災で焚かれたと解釈できなかったのは、兵隊ボケのせいであらうが、一には出征前のアメリカ空軍の絨毯爆撃の戦果を見て来たための誤解もある。 戦前戦中、日本人と取引の多かった掌櫃的たちはみるみる悲しい顔をした。そして客の一人も来ない店となったことを嘆いたあと、私が「これを」といって、乏しい中から、 東洋学への回帰の第一歩としてとりあげた「柳辺紀略」をたしか五十元かで売ってくれたと思ふ。五十元はたしかマッチ一個の値段だったと思ふ。

私は焼けた東京、飢死のおそれある日本へ帰らない決心をすると、同志を求めて北京を歩きまはった。

神戸大学教授百瀕弘氏が同じく復員してゐるのを知り、訪ねてゆくと、日向で裸になってゐた。私が縷々と北京に残って東洋学をやる決心を述べると、百瀕氏は、
「僕は体を丈夫にしておくよ」
といって、また日光浴をつづけた。私は53キロ(現在は十二指腸潰瘍で37キロである)の体に十分自信があり、ないのは頭脳なのにと兵隊ボケを癒すことを誓ひながら引き下った。

旗田巍氏の住居は東城だったので、静かに住んでおいでなのを訪ねた。私がまた長々と東京の話をすると、整理しなければならない資料の多くあることを述べて、 北京に留まる様子を示された。同氏ははたして一般邦人より遅れて帰国され、満員となった学界にあいた場所がなく、しばらく定時制高校の教師をなすったあと、 都立大に移って朝鮮史概説を岩波全書で出された。私はこの本を見てほっとした。朝鮮史の第一人者の地位を確立されたと思ったのである。 小松川高校の韓国人生徒の暴行事件で新聞に名前が出ておいでなのは見たが、そのあとまだお会ひしてゐない。

宇田川部隊で、同じく二等兵ながら、私に古兵段と呼ばねばならなかった小野勝年氏とは、奇緑にも途で遭った。家主に追っ立てを食って移るといふので、 荷車の後を押してゐるところである。私は今度の住居をきいたあと伺ったら不在であった。夫人が出て、いまから買物にゆくとのことであった。 私は日本人の婦人のはるか離れた東四市場への買物を危ぶみながら、止められないで途中まで護衛(のつもり?だったのである)を買って出た。 汚い苦力と太々(おくさん)との同行こそ変なものだったらう。私の宿所である岡田家の次嬢節子君を西単市場に案内したのはこの前後で、私は北京城内を淑女と二度歩いたわけである。
ついでながら、奈良の国立博物館に小野氏が勤められてから、私は牛肉をもってお宅を訪問した。北京時代と変らず、不便きはまる奈良市外の仮寓へのお土産としての牛肉は喜ばれたが、 夫人は十年ぶりに見た私を「おやせになりましたね」と迎へて下さった。私の太ってゐたところの実見者として御紹介しておく。

小野氏とは北京に残ってともに学ばうとの提案をする機会をもたなかったのに、到頭ただ一人の同志が出来た。西城に住むY(さしさはりがあるので仮名にする)である。 彼は名だけ知りあってゐた私を快く迎へ、私の説明をきいたあと、全面的に賛成して、老北京(ラオペイジン)でとほる某先生への同行を提案した。中国人が学徳ともに尊敬し、 日本帝国主義とともに退去を求めてゐる北京在留日本人の例外として、残留を希望されてゐるこの先生を中心として同志を募らうといふのである。
私はもとよりこれに賛成して、例の苦力服で同行した。先生は令姨と二人だけのお住ひにしては広すぎる大邸宅に私たちを迎へ入れると、 二人のこもごも語る北京残留の志をただ黙って聞かれるのみで、賛否を表はされない。二人は戸外へ出て歎息した。
実は蔣介石政府の日僑対策はこのころ既にきまってゐて、一人の日本人の残留も許さずこれを西郊にまず集め、アメリカの提供する船舶によって日本に送還することになってゐたのである。

この間、私はまだ小林のところへゆくこともあるが、いつも彼はゐないで、中野君だけである。その中野君も忙しげにしてゐる。ある日ゆくと、 応接の部屋の隣に若い女性がひとり寝てゐて、時も時に結核にかかり、食ふに困ってゐるのを引き取ってやったのだといふことである。ちがった意味の同志として中野君には敬意をあらたにした。
またある日、たぶんこれが最後だと思ふが訪ねてゆくと、立派な中国服を着て、
「いまから会に出かけます」といふ。
そのくせ帰れといはないので、私は彼が洋車(人力車)で出かけたあと、部屋に残ると、もう一人ゐたのが中国人で、彼が残して行った机の上の書き物をとり上げる。 よめたかよめなかった、もとへ戻したあと私もとりあげると、達筆で
「日本は今後、アメリカの植民地となる。享楽と追従とのみが行はれる。我らはこれにいかが処すべきか」
と記してある筒所が目にとまった。帰国後この予言どほりなのを見て、心を痛めたが私にはついに如何に処すべきかの結論は出なかった。

さて岡田家も隣組単位の集結命令がとどいた。何月何日までに家財を整理してどこそこに集合し、西郊の集結地で帰国を待つこととなったのである。 私は岡田家の一員に数へられてゐないから、この命令には服しなくてよいが、電々公社の公舎であるここからは立ちのかなければならない。
「どうなさいますか」といふ岡田氏に対し、私は、
「北京に残ります」と答へ、ついでYのところへ行ってみた。残留覚悟なのだから、当然の相談であるが、Yは事もなげに
「ここへいらつしやったら」といふ。
これで宿舎はきまった。私は岡田夫人が心もとながって(この人も今はもう亡い数に入った)、何かいるものはと問はれると、蒲団上下と毛布一答えて、その明日集結するといふ日、 門前から洋車に乗った。

Y宅にはすでに二人の学者がゐた。私をいれて三人は二階の一室を与へられた。一泊した翌日、私はふととんでもないことに思ひついた。Yの子ども二人が、 この院子にとぢこめられて所在なげなのが、同年衆の子どもを故国にのこし、今はその生死さへ確かめ得ない(実は私はとっくに死んだものとあきらめてゐた)ままに、 感傷をそそられたのである。
そのため私は二人に学校ごつこを申し出た。外出を禁止され、学校へゆけない二人は喜んで教科書をもって来た。風のあたらない日なたに、 私は机と椅子をならべ二人に国語の教科書を開かせ、次々に指名して読ませ、まちがひは正した。
この日はほかに何をしたかおぼえはない。翌朝、私はまた学校の始業べルを鳴らした。二人の生徒は出て来た。男生は昨日とちがって元気がなく、顔が二倍になるくらい腫れ上ってゐる。 さういへば昨日の授業中、父親が物かげで聞いてゐる気配がした。私は学校の休校を宣言すると同時に、私の死んだかもしれない子供は、ぜったいになぐらないことを決心した。 この決心は守れたかどうか。私の子供はこのころ悲観性の私の予想を裏切って、生きてゐて、学校どころではなかったのである。

 北京 5

Yの家には幾日ゐたか。その間、戦争中も北京に留まり、日本人とよかった周作人か銭稲孫を訪問しよう、とYから誘はれたが、私ははかばかしい返事をしなかった。 敗国日本人にも周作人は快く会ってくれるという話だったが、会って何になるかとも思ひ、ご迷惑かとも思ったのである。 周作人が縄をつけられ、「漢奸」の標識をつけられて北京の街を歩かされたことは、だいぶ後に風のたよりにきいた。
Yは建築技師といふふれこみで、蔣介石治下の北京市政府に留用の運動をするといふ。私も誘はれたが、そんな技術を申立てる勇気もない。はかばかしい返事をしないでゐるうち、 同宿の語学者たちは天津へゆくといふ。私はこれに同行を申出でた。

出発の前には大変だった。途中が危険なので、日本人と見られないやうにすること、もし見つかったらと、賄賂用の金を用意しておかう、私がこのまへ降りた東站は危険だから、 中央車站で下車し、旧城内を通って日本租界まで歩かう云々。私は当日Yに、
「帰って来ない時は、置いてある蒲団その他を差上る。」
といって子供たちに別れを告げ、門番の娘で肺病第三期と見られる、まっ青な顔をした姑娘を一瞥してから出発した。
途中の車内は何事もなかった。ただし私たち三人は一言も語りあはなかった。天津に着いた。中央車站で下車、何事もない。私たちは切符を渡して改札口を出た。 駅前の通をまっすぐ、無言で歩いた。二十分ぐらい歩いてから、私は人力車を呼びとめて、日本租界ゆきを命じた。もとより車代をきめてからである。

日本租界に着いた。松島街の角の歯科医院の前に来て、私はホッとして停車を命じ、車代を払って歩き出した。車夫が追かけて来てつかまへる。もっと出せ、といふのである。
私はいやだといった。はなさない、人が集まって来る、早口でまくしたてる車夫のことばは私にはわからない。巡警が来た。何だ、といふ。私は物入れから紙幣をとり出して、 巡警ににぎらせ、すばやく医院に入ってしまった。 (あとで気がついたが、巡警に握らせた金は、車夫の要求した追加額より多かった。しかし私は契約違反を申立る車夫の方を憎んだのである。)

 天津 1

義弟たちには甥が生れてゐ、産婦はまだ床上げしてゐない。私はちよっと当惑して西川のところに行ってみる。前には空いてゐた部屋に人が入ってゐる。 山内のところへ行って見た。空き室はここでも新婚夫婦に貸されてゐる。私はまた歯科医院へもどり、 診察室の隣の廊下風になったところに寝ることときめられた(ここが数月、私の居室となるのである)。

看護婦の陳さんといふのがゐる。朝やって来ると、私の寝室兼居間を通って、診察室へゆき、掃除その他をすますと入口を開く。かういふことになってゐるので、 陳さんに起されるのが日課になった。おはやうムいます、と日本語で挨拶する陳さんに何と答ふベきか。 
中国語での「おはよう」を私は知らない。私はそのうち笑談で、「我愛你」とことばをかけることにし、二日めに抗議された。それはいけない、といふのである。 娘らしいこの抗議に私は参ってその後はまじめに話した。中支出身のふっくらした娘さんであった。

何日目だったかに、私は義弟から手紙を見せられた。東京にゐる妻の母からの手紙で、もとより終戦以前のものである。そこには東京の様子がこまごましるされてゐる、
「まだ戦災にあってゐないが、田舎へゆかうと思ふ。悠紀子(私の家内)は克己さんが京都の西島へゆけといったので、さうするといってきかないが、西島は実行力がない、 口さきだけの人ですので云々」とある。
私はおやと思った。西島はことし八月に亡くなった私の父である。入営の日、京都駅で別れ、その後もたよりをよこしたが、戦に疲れきった様子もなく、町会長として活躍してゐる筈である。 実行力がなく、口さきだけとは、誤解ではなからうかと思ったのである。

この疑問はだんだんに解ける。親子の理解は他人よりもむつかしいものである。家内の母は、早く夫を失ひ、女手で男一人、女1一人の遺児を養った。実行力があるわけである。 しかるに私の出征まぎはに見た義母は、空襲警報が出ると、押入れに入り、「火たたきをもって庭に出、いざとなれば防空壕に入れ」といふ隣組の指示には絶対従はない。 平素はせっせと闇米闇物資を運んで自分も食ひ、隣に住まはしてゐる私の家族にも私に内緒で食はしてゐた。実行力があるわけである。それを私は実行力がないと、 空襲警報下の彼女の様子から判断してゐたのである。悪口をいはれる父の方は、町会長として配袷物資を公正かつ迅速に分け、 警報下ではいはれた通りのことを町内にいひ伝へ、ワーナー博士の配慮で焼かないことになってゐる京都市の一部を守り、 重要なと思はれる自分の歌(死ぬ前かぞへたら一万首あるといってゐた)と私の日記類とを岩倉に疎開させ、華北にゐる長男の私、スマトラにゐる娘婿などにせっせと便りを書き、 戦災にあった大阪の親類を、手ぶらでみまひなぞはするが、ヤミは一切やらない。やったらいけないといはれてゐるからである。

親子とはいへ、私にはよく似たものである。この実行力のない父のところへ家族をやることは、死なせにやることだが、私は実は日本中みな死ぬと思ひ、一緒に死ね、 と遺言したので、妻は七月ごろ苦心して汽車に乗り父の家に同居した。主食の配給はほとんど豆である。母は町会長の仕事に差支へがないやうに、豆の中から米粒を選んで父に食べさせる。 豆ばかり食べてゐる孫二人(当時六才と二才)と母とは不平にも思はなかったらうが、私の家内は心配して、東京の母に手紙を出し、やがてこれとともに大垣市外の中川村に疎開した。
危い旅で、着いた翌々日、駅から荷物を運んでもらったあと、大垣市は爆撃を受けて丸焼けとなった。終戦後もしばらくそこにゐて、彼らはヤミ米を食ったが、 バチが当って母子三人とも十二指腸虫をもらって帰京した。

 天津 2

それはさておき、天津で私は仕事ができた。北京のやうに集結命令はまだ出ないが、出るにきまってゐる。引揚げの時にもってゆく筈もないものの中、最も不要なものは書籍である。 これを中国側に寄附し、いくらかでもその歓心を得ようといふ狙ひであらう。日僑(在留邦人)に檄が飛び、みるみる集まったがその分類がいるというのである。
ある日、歯科医院に来客があって、私を訪ねて来たといふので、会ふと、戦争中、蒙古に調査に行ってゐた藤技晃で、以上のやうなことをのべ「手伝へ」といふ。藤枝は高校の友だちで、 大学は京都だが、同じく東洋史学科なので、お互ひによく識ってゐる。これに応じて小学校の教室だなに積み上げてある古本の包みを解き分類した。 十進分類法の中もっともRな〇門より十門までに分類するといふやり方などで、もとより素人でも出来る。私は分類してゐるうち、私の書いた本なども見つけ出した。

この仕事はほぼ一週間で終ったかと思ふが、梅掉忠夫氏夫妻と知合になったのはここでのことで、氏は新婚の見るからに少女らしい奥さん同伴で仕事を手伝ひ、 私の与へた「大陸遠望」といふ詩集をよんでくれて、その詩の中の植物学的誤謬を指摘した。「ツングース」といふ詩に出てくる植物の名に誤りがあるといふ。 も一冊「神軍」を見せると、ぺラペラめくって「少年テムジン」の中の植物に誤りがあるといふ。感心した。彼はいま大阪市立大学の教職よりも、ジャーナリストとして有名である。

仕事が了ると、藤枝の手から三千元だかを渡された。私が天津でもうけたたただ一回の金で、インフレのさなか、たちまちタバコ代に消えた筈である。
金儲けといへば、私はある日、賭け麻雀を思ひついた。ほとんどの会社は接収され、日僑はみな退屈して、これをやってゐるのである。高校以来ほとんどやらないが、麻雀は運である。 私は義弟から資本金をもらって出かけたが、たちまち負けて、悄々として引揚げた。それ以後、私は麻雀をやったことはない。

本のことでは、歯科医院の枕もとには、平凡社の百科辞典がならんでゐた。私は退屈まぎれにこれをよみ、カ行までは一項あまさず読んだ。 「いも」の項で「きくいも」に糖分の含有の多いことを知り、帰国したらこれを植えて砂糖を作らうと決心したことは「いもの話」といふ随筆に書いた。 実行したかどうかは、この随筆の収められてゐる「楊貴妃とクレオパトラ」(改訂版)をおよみの方にはわかる筈である。

しかし私はまだ帰国するつもりはなかった。12月末か1月初めに帰国する途中、天津に来た高校の同級生鎌田正美は、私に中華料理店でごち走してくれ、 北京で現地召集を受け、一選抜上等兵となったことをいひ、
「おれは帰って入行試験に立会ったら、軍隊で上等兵以上になったものはとらない」
と決心をのべた。私は自分でみた焼け野原の東京といふよりは、敗国日本に日本銀行なる国立銀行がまだ存在し、入社試験を行ふ日が来る、 といふのをふしぎに思って聞いてゐた(鎌田はいま日銀の文書局長をしてゐる。二年まへ息子の就職運肋に行ったら、今年はとらない、とのことで引きさがった)。
そのあと、「おれは帰らないから、家族にさう伝へてくれ」
と伝言をたのみ、この伝言は旧行員の父をへて、たしかに妻に伝はった。同種の伝言はだいぶしたが、鎌田以外のは伝はらなかった。この際お礼をいっておく。

賢明なる読者はわたしがまだ戦争ボケの直ってゐないことにとうに気づかれてゐると思ふ。わたしは天津でもまだをかしかった。北京の岡田家で仲良くした次女節子嬢は、 実は国分姓を名乗ってゐた。早くから親しい国分家の養女となり、養父母といつしょに幼時をオーストラリアで過したとかで、英語はわたしより巧みだった。 その節子嬢の養父母には年末かにお目にかかった。わたしはまた滔々と内地の食糧事情などをのべ、
「わたしは当分帰国いたしません。少くともわたしの食べる分だけ、内地の食糧を助けることなりますから」
と述べた。大倉組の華北の代表者だった国分氏は、いふだけいはしておいて、
「さういふ考へ方もあり得るね」とはいったが、賛成とはいはれなかった。
わたしはわたしで、この経済界のおえら方が、飢死するための故国帰還を内心みとめておゐでなのに吃驚した。しかもわたしは中国にのこる決心をし、 声明をする以外に何一つしてゐなかったのである。

似た者夫婦といふことわざがある。最近わたしは、終戦後、妻がその実家にゐた元陸軍軍曹大垣国司君あての、疎開先からのハガキを見つけ出した。 岐阜県安八郡中川村曽根××方からのもので

「お便り有難う存じました。国体の有難さに涙をしぼった日よりもう一月も経った心地が致します、東京の皆々様もどの様にお暮しでせうか。 この上は田舎に入り子供をしっかり育てて皇恩の万分の一にも御むくひ致したいことと存じて居ります。国内の軍人が続々帰還して参りますにつれ又、物々につかれた日本人が色々、 物をめぐり心をわざらはして居りますのはほんとうに残念なことと存じます。
早くほんとうの田舎に入り、生産の生活を出来ないながら致したいと存じます。貴男様も一日も早く京子様と新生活を御始めになります様、そしてよい子を沢山御育て下さる様御願ひ致します。 これは主人よりの言葉ですから、主人など生きてお目にかかる日はなきことと存じます」

このハガキは勿論、大垣君の手に入らなかった。妻は二銭のハガキに一銭の切手を追加してはったが出さないですましたからである(妻にはかういふ所があって、 それがわたしにとって永い間こごとの種だった)。
ともあれ出来ないながら農業の手伝ひでもしたいといふところに、夫婦同じことを考へてゐたとふしぎである。
(このあと妻は農業の手伝ひどころか、十二指腸虫を二人の子供ともども体内に入れたまま帰京する。入院して虫の駆除が出来ない中に院長から全快退院といはれ、 わたしが帰宅すると、また入院しなければ命がもたないほど極度の食血状態に陥ってゐた。)

わたしは天津で正月を迎へた。歯科医院の暗い茶の間で餅をよばれたあと、国分家、西川家など廻礼に行ったことだらうが、おぼえはない。 山内四郎君のところには満一歳になったばかりの可愛い坊やがゐて、これに菓子をもって行ったおぼえがある。そのあと山内君から相談をもちかけられた。それはかうである。
「かうして収入なしでじっとしてゐたら飢死なので、貸本屋をしたい。アメリカ軍から珍しい雑誌が手に入る。それを君の知合にも貸してもらへないか。本の方はとぎれないやうにする。 貸本料は一週間××円」
といふことであった。わたしは助力を承知した。ついでながらいっておくが、わたしはこの時、援助するだけで手数料は申出もなく、とる気もなかった。 山内君はそれほど困ってゐるのかとわたしをびつくりさせたのである。

わたしは山内君のもって来たアメリカ雑誌をさっそく国分家へもって行った。さうしていくらか説明をしたやうに思ふ。 「ライフ」だったかに沈没する日本の艦隊の写真がのってをり、その状況がしるされてゐる。わたしもはじめて見るものながら、嘘でない証拠と記事を訳して見たと思ふ。
おぼえてゐるのは、雑誌の一冊の読者欄の投稿に
「われわれはクリスチャンでありながら、日本に強力な原子爆弾を投じて、無辜の老人子供をも多数殺した。それでよいのだらうか」
といふ意味のものを見出したことである。戦争ボケしてゐるわたしも、かういふ投書をする人間がをり、それをのせる大衆雑誌の発行されるアメリカに負けた感じがした。
も一つおぼえてゐるのは、日本降伏、それによって永いあひだ世界中を覆ってゐた戦雲の収まったことで、中立国さへも喜びで湧きたってゐる有様を、それぞれ報じたあと、
「日本降伏をしらせると、涙をポロリとおとした」ドイツの老兵がゐたといふ記事である。これもさもありなんと感じた。

この貸本屋は永つづきしなかったやうに思ふ。またわたしの手で配本したのは、国分家と西川君のところぐらゐだったかと思ふ。わたしは朝起きると、 義弟に誘はれて豆腐汁を朝食がはりに食ひにゆき、昼間は何をしたかおぼえてもゐないが、零下十何度の天津を今年は例年より暖かいときいてゐるうちに、心境に変化を起した。

自発的にかどうかは、自分でもはっきりしない。ともかくこのごろになると、天津の在留日本人にも、集結の命令が下り、貨物廠あとに入れられて、 そのあと日本に退去をされることはうすうす知れてゐたのだと思ふ。実はこのころわたしはまちを歩いてゐて、望都県でわかれた部隊の伍長に遭った。 訊ねるとその貨物廠あとに皆来てゐるのだといふ。誰それと消息をきくこともなく、わたしは顔だけおぼえてゐたその伍長に、手にしてゐた百本入りのタバコの箱をわたして、 そそくさと別れた。戦友たちも入り、義弟たちも入る貨物廠あと、それから飢死するかもしれない祖国への帰還、それをわたしもやるべきではないだらうか。

 天津 3

義弟は姉であるわたしの妻などのことは念頭にない様子である。しかし母がゐる。また生れたばかりの子供と、それを抱く妻が目の前にゐる。それをつれて、 なんら計画もなく帰国することに疑ひを抱いてゐない。しかもその職業は、或ひは残留を許され、現在、多忙を極めてゐる歯科医である。それが何ら遅疑することなく帰国するといふ。 わたしは多分死んだ筈の妻子をもつ祖国、飢ゑてゐた祖国に未棟はないながら、ここにゐてはたして仕事(食のためでなく、 満足できる――と考へた)が出来るかどうかにやっと疑ひももち始めたのである。

たとへばわたくしのゐる歯科眩院の一郭の中に、出征軍人の妻がゐる。生れてまだ乳離れしてゐない赤ん坊をかかへてゐる。そこへこのごろアメリカ兵が通ひ出した。 さういうことがあってから、この女性の存在に気づいたといふのも迂闊だが、さてアメリカ兵が来はじめ、これと出入りの度に顔をあはせるやうになると、 わたしはおそろしく自信をなくしはじめた。わたしはこの一郭ではもう一人しかゐない女性である義妹に気をつけるやうにといったが、いろいろと変るらしいアメリ力兵の一人がまちがへて、 歯科医院へ入って来ないかと心配でたまらない。そんな場合どうしたらよいか、判断がつかないでいらいらしてゐるうち、集結の世話役が来て、義弟夫婦とともに、わたしの名前を控へて、 これでやっときまった。わたしは天津の在留日本人の一人として、日本に送還されることになったのである。

ちやうどこのころ中野C見君から妻あてのハガキが来てゐる。同君は昭和十九年に応召して、沖繩県の八重山群島にゐて、骨と皮に痩せて帰還し、挨拶をよこしたのに、 妻はわたしの出征未帰還をしらせたのである。同君は二、三年まへ「ある日本人」といふ二冊よりなる半自敍伝を書き好評であった。詩人として醇乎たるとともに、 意外にも実行力のある人柄がこの二冊にはくはしく記されてゐて、わたしなど呆れるほどうらやましさに耐えなかった。このわたしの半自敍伝なども、 中野君にずいぶん刺戟されてゐるのである。同君の友情と予感に富んだハガキを写してみる。

「御ていねいな御返事有難うございました。田中君が応召してゐるとは夢想もしなかったことです。随分苦労されたことと思ひますがとにかく無事でゐてくれれば此以上のことはありません。 他の一切は失っても命をとりとめたといふことで満足せねばなりますまい。生きてさへゐれば軈て笑へる日も来るでせう。 北支からも近頃ぼつぼつ帰還してゐる様ですから近く現はれるでせう。私も早く元気になって、春には上京御面談し度いと思ひます。
東京の生活は並大ていではないでせうけれど暫らくの間元気を出して頃張って下さい。子供さん達の病気が一番恐しいですから御大切に願ひます。 (岩手県九戸郡江刈村、21年1月29日消印)」

子供たちと自分は病気してをり、収入は皆無である。貯金封鎖と新円開始を目前に控へて、わたしの華北残留を鎌田正美君から報されたのもこのころであらう。 わたしはよい時に気がついたものである。

内地送還となった日本租界の人々はみな忙しい。わたしは手伝ひにゆく。高等学校で一年上だったが、学友会の理事をしてゐたのでよくおぼえていた木本晃さんの家へゆくと荷造りをしなければならないといふ。 奥さんはお産とかで、わたしは一生懸命に手伝った。軍隊生活のおかげでわたしの方がちょっとだけ、荷造りが上手で喜ばれたと思ふ。

西川英夫君に会って何か助けになることはないかと尋ねると、これをとたのまれた。冬の背広上下をもって帰ってくれといふのである。 日本租界の人々にとっての第一の関心は何をもって帰るかといふ問題である。財産の如何に拘らず、現金は一千円、荷物はもてるだけ、ただし貴金属、書類は許さない。 財産を全部宝石に代へることも不可なのである。

そんなわけで着のみ着のままになるところを、西川君は背広二着をもって帰ることにしてわたしに着せた。同じ智慧は山内四郎君も出して、これはわたしに外套を着せた。
わたしの用意がかうしてそろったあと、義弟たちの松島街の集結の日が来た。わたしはまたまめまめしく荷造を主になってやり、嬰児を背負った義妹と三人で歯科医院を出た。 松井君と技工師の某君とは残留組となって見送ってくれた。集合地は松島街を上って行って左側の小学校だったか。そんなに遠くはないが、人力車を呼んでわたしたちは荷物をのせた。 着いて約束通り払ひながら、一緒に着いた見るからに粋な姐さんが車夫に払ふのを見るとたいへんな金額で、しかも足りないといって問答をしてゐる。 金儲けの最後の機会でもあり、戦争中の仇討も兼ねてぼられてゐるのである。わたしはわたし達の乗って来た車夫に心から礼をいひ、我一定再来といって別れの挨拶とした。 礼をいひに中国を訪問するつもりだったのである。

定刻となってわれわれは卜ラックに積まれた。行先は集結地の旧貨物廠である。市街とかけはなれた。白河の向ふ側の集結地までだいぶ距離があり二月初の風はつめたい。 しかし冷い風よりももっとつらかったのは、トラックのゆく途で会ふ悪童たちが拾って投げる瓦礫である。わたしは先ほどの車夫たちの態度とも考へあはせて、感慨無量であった。

貨物廠とは軍の倉庫であって、広々とした地面の所々にバラックが建ってゐる。わたしたちは入口からだいぶ入った一棟に指定された宿所に入る。 寒々としたバラックの中に兵舎式の寝所が設けられてゐて、義弟夫婦と赤ん坊とわたしとで疊一枚か一枚半位が割当である。また軍隊かとわたしはゾッとしたが、事実、 千人のこの引揚者は大隊と呼ばれ、隊長以下班長まである。飯上げ、掃除みな当番がある。男女(女の方が多かった)で、家族が多いのが軍隊とのちがひであるが、 独身者は当番を買って出なければならない。わたしは軍隊でもしなかった便所の汲取りもやった。義弟が、
「あんたよそのことはよくやるね」とあとでいったが、この評語はその後も永くわたしの生活にあてはまった(五十になったわたしはやっと自分のことをしなければならないのに気がついたのである。)

貨物廠にゐた期間はずいぶん永かった。毎日の当番のうち、食事当番でまた飯つけ、すなはち飯の分配をしていると、子供づれの婦人が来、飯が足りないといふ。 わたしはすばやくこげを握って子供に与へた。これは軍隊でわたし自身が炊事当番からしてもらったことである。

出発はいつともわからないが、皆の退屈をまぎらせるかのよぅに、呼出しが監視している中国軍から来た。わたしの班でも同姓の瀬戸物屋の店員に来た。 この田中青年は不安な顔を出して出てゆき、夕方ちかく帰って来た。戦犯容疑で呼ばれたが、同姓といふだけで、本人でないとわかって帰された。ただ取調ベは非常に不快だったといふ。 他の班でも田中は呼ばれ、女性まで呼ばれた。わたしも覚悟して待っていたが、列頭呼び出されなかった。
今から思へば職業を文化研究所員としたのが、呼ばれなかった、即ち戦犯容疑とならなかった理由だったらしい。

 天津 4

いま日記帖をとり出して見たら集結地へ入ったのは一月二十九日のことで、二月十五日に「荷物検査スミ、塘沽にて乗船LST899号」と書いてある。 一切の書き物をとりあげられたあと、紙一枚ももたなかった筈なので、一、二日の違ひがあるかもしれないが、二週間以上、貨物廠にゐたわけである。

乗船の日は早起きし、各人持ち物を検査場まで運ぶ。わたしは何ももたないのに重かった記億があるから、義弟たちの荷物を手伝ったのであらう。検査場ではそれぞれ離されて運ぶ。 わたしは何も持たないながら、内地への土産にと砂糖と共に持ってゐた石鹸の中で中国製のものは返されたが、日本製のものを皆とり上げられた。もとより禁止でないものを、 このやうにとり上げられ、軽くなった荷物をもって、鉄道のわきまで歩かされたあと、わたしたちと同時に検査された鮮人の一隊も出て来た。

力の強い、男の多い彼等が検査場へ入るとき、その「各人ノ携行シ得ル限リノ日常必需品」の量の大きいのに目を丸くしたわたしは、 今度は彼等のいま携行してゐる包みの小さくなったのに再び目を丸くした。国府軍の検査は日本人に対するより、戦争中は日本人、 戦後たちまち韓国独立を祝って北京中を練り歩いた朝鮮人に対して苛酷だったのである。
塘沽までの汽車はもとり汽車で、わたしたちは荷物の上に腰かけてゐた。下車して見た渤海はうすら寒く濁ってゐた。 そこに浮ぶわたしたちを故国に運ぶLSTは戦争中アメリカ軍が敵前上陸に使った舟艇であるが、日本のとは違って一千トンを越す大きなものである。

故国に運ぶといったが、わたしはまだ疑ってゐた。先に帰国した人々の便りもないし、ニューギニアの開拓にでも使はれるのではないか、など考へてゐたのである。

出帆したのは一夜明けてからであったか。わたしは通訳班に選び出されたが、別に用はなく、「通訳さん、通訳さん」の呼び声におどろいて行ってみると、 ごみはごみ箱へとの掲示を書けとのことだった。、しかし同じく通訳だったわたしたちの班長、入来院(いりきん)秀磨氏(珍らしい苗字なので、いまもおぼえてゐる)は、 兵隊に女を世話しろといはれて、佐世保へ着けば山ほどいるぢゃないか、と答へると、
「さうだ、さうだ」と簡単に引下ってくれた、と話した。わたしなら、さうは旨く云へなかったにちがひない。しかしこの入来院氏の夫人が夜、甲板の便所へゆくと、 兵隊に近よられた。夫人はどきっとしたが、即座に
「わたしは人妻だ」といふと、すぐ離してくれた。
そろって肝のすはったいい御夫婦である。もとよりこのあと夜間は婦人は便所にゆかないやう、ゆく時はかたまってゆくやうにとの注意がふれまはされた。

アメリカの兵隊が船室――といふより甲板下の広間に数百人が寝てゐるのである――へ来るやうになった。わたしはその中の一人と話した。
「ここへ来る前はどこにゐたのか」
「リュゥキュウだ」
「勇しかったらうね」
「いや僕は戦斗には参加しなかった」
「僕の家族は東京に置いて来たが、生きてゐるかどうか」
彼はこのとき気の毒さうな顔をして出てゆき、やがて戻って来ると、チョコレートを一囲りくれた。なぜくれる気になったのか、わたしにはふしぎでならなかった。

とまれ五日目かには、左手に島が見え、五島列島と教へられた。その翌日、日記によれば二月二十日、船は佐世保の早岐に着いた。大きな航空母艦とおぼしい船が、 そびえるやうにつながれてゐる。わたしたちは上陸して南風崎(はえのさき)の旧海兵団まで歩いた。
この前後に消毒薬を吹きかけられたほか、荷物の検査があった。わたしの数少い荷物はなんのことなく通過したが、検査に当った二組のアメリカ兵は、 わたしが天津から持って来たマッチをとりあげて、それでタバコに火をつけた。わたしはマッチにさへ不自由してゐる日本へと持って来たのにとムカムカしたが何もいはなかった。

検査がすんだ一団の中で騒ぎがおこった。行ってみると同じ班の瀬戸物屋さんである。きけば検査済の包みが紛失したのである。内地まで持って来てなくなったのだから、 といふのが、見つからなくなったあと、そのあきらめのことばであった。

海兵団で一晩寝たあと、各人一千円づつ渡された。わたしは受取ると何枚かのするめを買った。何十円かで安いと思ったのである。 何を買っても何百元の天津との比較でたしかにさう思ったのである。こんなわけでわたしの持ち金は×百何十円となった。家にはいくらあるか、家はあるのか、家族は生きてゐるのか、 それはわたしの考へてみたくなかったことであった。

早岐から南風崎までの感想は堀辰雄氏にいはれて書いた詩になってゐる。作ったのは二、三ヶ月あとのことである。

 私は生きて
早春の暖い日
南風の吹く入海に
私たちを載せた船は着いた
上陸してしばらく歩く
頂上まで雑木の茂つたなだらかな山
閉め切つた紙障子
蜜柑の皮の乾してある縁側
そんな風景の一つ一つを
私はたんねんに眺めながら
思ふことはただひとつ
ああ 私は 生きて 還つて来た!
                   (四季再刊2号)

 京都 1

佐世保に二泊して2月22日午后、南風崎から特別仕立の引揚列車で出発した。もとより妻子の生きてゐることには確信ないながら、ひとまづ東京へと向ったのである。 ま夜中に広島を通る時は、一同そとをすかして見たが、何も見える筈もない。岡山か姫路で夜が明けて、わたしはまた思案した。最後にもらった妻の手紙は、京都へゆくとあった。 東京へ直行するよりも、京都でまづ訊ねてみる方が宜い。そこで義弟たちにその旨ことわって下車した。

ガランとした京都駅は、しかしもとのままである。わたしは構外へ出て、市電の乗場にゆく。行列であるが動いてゐると見える。何分待ったか、わたしは烏丸線に乗った。 父の住む町は?忘れてゐる。わたしは御所の西北角で下りた。ここより北に違ひないことはたしかだとおぼえてゐた。しかしそのあとの遠かったこと、鞍馬口まで来てやっと思ひ出した。 西へ入る。これまで見た町町と同じく、一つも焼けてゐない。わたしは父の家に入る。感動もなく、生きてかへらぬつもりで出た父の家に帰り着いたのである。

母と祖母とがゐる。末弟の大(ひろし)もゐる。みなさして感動もせず、迎へてくれた。父は東京へ行ってゐるといふ。東京へは悠紀子たちがまた引揚げて行ってゐる。
「自分の母親のところの方がよいといって、岐阜へゆきなさり、また東京へ帰りなはったのや」
といまは亡き祖母がいったといって、わたしはその後、帰宅して妻を責めたさうである。

ともかく安心したわたしは、天津の集結以来のばしてゐた髭を剃った。疎開してくれといって置いて行ったわたしの包みをとりもどしてあけた。「詩集西康省」以下の詩集や日記類にまじって、 大阪の隊から送り帰した「詩集神軍」もあって、箱には送り返しの時、人目をしのんで書いた「神軍は満洲へ行くとぞ、寒し」といふ文句もそのままである。 新しい衣服をもらひ、荷物の送り返しを命ぜられた時すぐに伝はった噂さを、すばやく書いたのである。

 京都 2

日記の最後には、20年の3月17日夜、書いた遺書もはさまれてゐた。遺書はその後も書くが、これほど情ない遺書もないと今でも恥しいが、一応の記録として写してみよう。 (けさとり出したところ、もうインクがほとんど消えてゐて、もうすぐ読めなくなりさうである)。

「お願ひ種々
天沼の四人宜しく願ひます、子供は勿論、悠紀子も不平を云はぬたちゆゑ仰せに従ひますが、父上母上の老後のみとり女として御使ひ下されば幸甚と申しをりました。 何卒農家の手伝などさしても宜しきゆゑ、も少し安全な処へ揃ってお移りの程悃願いたします、ここでは天沼よりひどく、老人女子供だけではカーチス・ルメーの毒手のよき餌てす、 お隣り近所の如く家財道具のみに汲々たる連中はいざの場合はそのため命を落すこともあり、決してよき隣組として、 よき町会員としての救け手をする余裕などもたぬことは警防団員の保証するところです。小生けふは大分弱気を申しましたが、外で聞くとは大違ひ、中では又いろいろと面白 く愉快な生活があるかもしれぬとも期待してをります。ただ敵伐って死ぬることは覚悟いたしましたが、隊でも二三見聞した小姑の手で死ぬのは絶対いやとて情ないぐちをお聞かせしました。 入隊後は見聞したこと申せませぬし、云はうとも思ひませぬ。ただ犬死だけはさして下さるな、と小生のことのみでなく訴へたい気分がもやもやでこの二三日暗い顔をしてをりましたが云ってすっとしました、笑って入りませう
入隊前夜  克己
父上様
母上様まゐる

追伸
拙著詩集と「楊貴妃とクレオパトラ」「李太白(校訂ずみの分)」、歴史の論文、少年時代よりの日記お預けして参ります。史に見せてやっていただければと存じます。 万一の節は梓の骨とともに京都へ埋めていただければと存じます。梓の骨は小生不覚にも忘れ来りしため、悠紀子に持参せしめるやう御便りいただければと存じます、 嵩が大きすぎるなら一部でも結構ですが。
咲耶、建、大に会へずに行ってしまふのでしたら残念です、面会許されたとて呼寄せはむつかしいと存じます、くれぐも元気でと御伝言願上ます。
京都へ敵爆のあることは必至ですゆゑくれぐれもお体第一に、恩師は東大文学部和田博士、知己は小高根太郎、羽田明の二人です、他はみな出征して頼むに由なく、何ぞの節はこの人たちに御相談願ひます
昭和二十年三月十七日夜

三伸 持参の国旗は「大阪市西区北堀江通ニノ一二 硲晃君(大高、東大後輩のものです焼失した家かと存じますが届けていただければ幸甚です。」

以上が遺書の全文である。はじめに妻子を東京から京都へ呼んで、ともに田舎へ疎開することをたのみ、父が町会長をしてゐる町会の頼みにならないことをいってゐるのは、 三月十日の東京大爆撃(カーチス・ルメーはその時の指揮官ときいた)以後の恐怖を説いてゐる。わたしは召集まで東京の荻建警防団員だったのである。
二伸には、遣稿類の保管をたのみ、史(長男)に見せるやうたのんでゐる。この長男は十年後、京都大学で羽田教授に歴史を習ひ、
「父の書く物は感心しません」といった由、教授は
「だいぶ反感もってゐるやうだね」と注意して下さった。
次には次男の遣骨の処置をたのみ、京都に墓を造るやうたのんでゐる。もとより今となってはその気もないし、墓地など買へるとも思ってゐない。
ついでに当時、大阪、京都にゐた一妹二弟が隊へ面会に来るかもしれないことをいひ、最後に恩師知己のうち後事を托すべき和田先生と小高根、羽田の二氏のみをあげてゐる。
文学の友、史学の友それぞれ一人をあげたわけであるが、小高根とはもとよりこの時すでに兵として中国にゐた二郎氏ではなく、富岡鉄斎研究では日本一、 詩歌文章なにをとはず才能を示した元コギト同人(※三浦常夫)太郎氏である。
三伸として、東京からもって行った日の丸の処置をたのんでゐる。三月初に近く入隊するとて、先生方の署名をと頼まれた。ちゃうど三月十日すぎに会があるので、そこでと引受けたのが、 大空襲のあとで和田清、山本達郎、三上次男の三先生しか署名がもらへなかった。しかもそのすぐあと大阪も大空襲を受け、渡すに由ないので、父に頼んだのである。

ともあれ、生きて帰ったばかりか、家族も無事と聞いて安心したわたしは、父と行きちがひになることをおそれ、京都に留まった。もとよりわたしの京都までの消息は、 妻の弟たちが帰京してただちに伝へる筈である。

翌日は羽田教授に会ひに三高、京大へゆくと無人。お宅を訪れてはじめて日曜と知ったといふボケかた。教授はまた不在で、翌日やっと電話があって会へた。 夜、前にも書いたとほり、父博士を訪ひまゐらせて華北の教へ子たちの消息を伝へ、ペリオ博士の訃も申上げた。

翌二月二十六日(十六年前の今日)には京大の研究室と研究所を訪れ、外山軍治、内田吟風、水野清一、貝塚茂樹の諸先輩に会った。みないまも東洋学界をになっておいでの方々である。 日本の東洋学を北京でのこさうなどなんと愚かな計画だったか、たちまち思ひ知ったわけである。

この翌日ぐらゐから、わたしは自分で心配しなければならない問題に気がついた様子である。それは新円問題で、 お忘れないと思ふが「戦時中累積されていたインフレの要因が終戦を境として急激に表面化し」たので、政府は21年2月16日「金融緊急措置令」(毎日年鑑昭和24年版)を出し、 「三月七日を期限として旧紙幣に代り、いわゆる新円が発行され」、また物価水準は「おおむね中日事変前に比して十倍程度」とする新価格体系を定めた。
定めたのは政府であるが、これを定めるベく要路の大官に進言した一人は、西原直廉といって時にチャキチャキの大蔵省の秀才だったことは、のちに文芸春秋かで読んだ。 西原君は天津で苦労をともにした西川君と同じくわたしの中学の同窓で、稀に見る秀才だった。四年生の時、高校入学が定まったあと、読み耽ってゐる本を見ると、 ユーゴーやデュマの英訳本だったかなので舌を捲いた。わたしなど英語は読本さへも怪しく、しかも毎日一冊づつよみをへてゆくのに更に驚かされた。この秀才の献言通り、 わたしどもが華北で体験したインフレはつひに見られなかったが、ヤミ値、売惜みとともに、給与収入の方がつりあはなかったので、新円の恨みはないでもなかったらう。 しかもその痛手を最もひどく蒙った(とわたしは思った)安月袷取りにわたしはまもなくなるのである。

わたしには今もってわからないから、デタラメだらうが、わたしは父を待たないで、何よりも先に東京の自宅に帰るべきだった。 そして本その他をありあまってゐる旧円に売りついで、米布その他の値上り必至の物資に換へるべきだったと思ふ。もとよりそんなことのわかるわたしでもない。 わたしは悠々とまではゆかないが京都で待ち、三月六日、旧円最後の日に東京に帰り着いた。

 東京 1

わたしが三月四日帰浴した父から聞いたのは、妻が大分わるくて痩せてゐる、とのことだったが、六日の朝六時五〇分東京駅に着き、帰りついたわたしを迎へた妻は、 しかし元気さうに見えた。わたしの出征の時は疎開してゐたが、戦争が了ると帰ってゐた義姉は反対にわたしを「ゑくぼができたわね」との一言で迎へてくれた。 帰還した時まだ肥えてゐた証拠として記しておく。
出征の時のこした物はみなそのままで、ただ靴二足だけが売られていたが、夫婦とも呆けてゐた証拠に、靴よりも机の引出しにしまっておいた朔太郎、茂吉、かの子、 辰雄などの書翰類がなくなってゐたことは、一年ほど気がつかなかった。この後事を託した故大垣国司君との挨拶はいつで何だったかは、日記にも記してない。

三間しかない小さい家に、伯母の知合の一家が入ってゐることは、すぐ気がついたが、疎開の時、留守をたのんだのだといふ。もとよりここへも挨拶した。
妻はしばらくすると、朝日新聞の切抜を示した。わたしが勤め先のことを尋ねたからだと思ふ。出征後も俸給をもらってゐたが、終戦のすぐあと潰れた。退職手当もいただいた。 ただ所長先生はこの投書でお困りになった御様子だといふのである。文の内容は、くはしくは覚えてゐないが
「戦争中は軍部と協力して、戦争がすむと知らぬ顔をしてゐる人がゐる云々、その協力した某研究所のことだが、勤めた連中のなかでも一番困ってゐるのは、出征した某君の遺家族である。 所長先生はそしらぬ顔をしてゐる云々」
といふのであったと思ふ。

わたしはこれをよむと、ムカムカし、同時に困ったことになったと思った。投書者の名がはつきり書いてあって、出征前の同僚である。同僚ながらわたしは大嫌ひであった。 研究所へ来ても研究はしないで世間話をする。おほむねその頃の話題であった食糧の話である。いやな顔をするわたしにかまはず毎日その話をする。 そのくせ所長先生がお越しになると、椅子を引いておかけしていただき、と愛想がよいのである。
わたしがシンガポールから帰って、ひどいノイローゼになって、斫究所の辞任を申出ると、所長先生は、この男と喧嘩したためかと心配された。それほど、わたしのきらった同僚が、 わたしの出征したあとの家族のことを心配して新聞に投書してくれてゐるのである。 
わたしは妻にむかって、きつい目をして訊ねた。
「おまへ、困ってゐると話したのか」。
「いいえ、留守中に来なさるはずもないし、わたしどものことはご存じないはずですよ」。フーンといったあと、わたしはこの男の平常から考へて、 所長先生とわたしと一石二鳥の政治的な発言と気がついた。

何にしても先生におわびして来よう。わたしは靴をはいてすぐ恩師のところへ出かける仕度をした。恩師はわたしをこの研究所へ御紹介下さったので、もし不平不満があれば、 妻といへども、この先生を通じてでなければ申上げない筈だ。帰還の御挨拶をかねて、ご心配かけたおわびをしなければと思ったのである。
今でも覚えてゐるが、このとき杉並の阿佐谷の北から、恩師のお宅のある世田谷の梅が丘まで歩いて行った。歩兵になって以来、歩くのは平気であるが、どうして電車に乗らなかったのか、 今ではもうわけがわからない。阿佐谷の南側に親友の家がある。寄ると嫂さんが出て、終戦前、満洲へ調査にゆき、まだ帰国しない、といふ。 ソ連の占領した満洲へよりによって終戦直前にゆくとは、とわたしは歎息した。

住宅地域なのに、ところどころ焼けた家があって、心配しながらゆくと恩師のお宅は焼けず、しかも御在宅であった。同学の某君も来てゐたが、先生は喜んでお迎へになった。

わたしが研究所のことをいふと、どの研究所もつぶれたと弟子たちのことを心配する御様子を示されたあと、そんなわけで東洋学の仕事はなくなったが、
「君なら何でも出来るね」と仰しゃって、
「歴史上より見たる中国文化と東亜及び日本文化との関係」といふのと、同じく「思想の関係」といふのをやってみるかねと御しゃった。五月十一日までに書け、 中国関係との交渉に参考になるのだと御しゃる。わたしは喜んでお受けし、また歩いて帰宅した。先生はこんな風に、わたしをよくおだてて使って下さった。本当にありがたいことだと思ふ。

先生がすむと、わたしは近所まはりをした。町会長は、わたしの出征の時、送別会をしょうとまでいってくれた人である。 二人の令息を華北と満洲とに出して、まだ帰還してゐないといふ。わたしはとりわけ満洲の危険なことを話さないわけにはゆかなかった。

三月十日になった。わたしは大垣君と話し、華中から戦病で帰り、終戦の時は名古屋近所の病院にゐたといふ親友丸三郎を訪ねなどした。 その途中佐伯博士のマルコポーロといふパンフレットを買ひ、亜細亜ロシア民族誌を買ひなどしてゐる。後者は18円で、今の金に直せば千円ぐらゐになったらう。 一向、本気になってゐないのである。

長野県の和田峠の北麓の村に疎開してゐた国民学校三年の長男は、帰宅してゐたが、ひどい湿疹にかかり、春暖とともにボリボリ掻く。近所の婦人科の医師につれてゆくと、 薬を塗っていただいた。帰還を祝されたあと、
「仰しやった通りになりましたね」とほめられた。
「何をいひましたか」と尋ねると「日本は負けだ」と早くからいってゐたさうである。覚えのないことであった。

ともかく、いまこそわたしは負けたと痛感した。わたしは公職追放令が一日から発令されてゐることは知らなかった。戦争の責任が追求されてゐることも知らなかった。 しかしみづから追放者であり責任を感ぜざるを得なかった。妻が目まひを訴へ、まへにかかった医者の往診を乞ふと、やって来て、家中を見まはし、注射をし、投薬をして帰って行ったが、 その費用は55円で、それを払ひに行って入院をたのんでもはかばかしい返事がなかった。わたしは妻を癒す能力もない人間と見られたのである。 疎開地に十二指腸虫のゐるところを選んだのは妻の責任かもしれないが、疎開せざるを得ないまけいくさとしたのはわたしの貴任だと思ったのである。 可愛い盛りの次女をわたしは駅前のヤミ市へつれて行った。葡萄糖の飴二三本で10円といふのを買ってやって喜ぶ顔を見たが、この子は帰りみちでは、夏の犬のやうに舌を出して喘いだ。 貧血してゐるので、同じく虫をもってゐるのだった。

妻の貧血がひどくなって、起きてゐられなくなると、わたしはまた医師にたのみに行った。わたしの顔色を見て、
「それぢゃつれていらつしやい」と、しぶしぶながらの返答をきくと、わたしは喜んで、近所でリヤカーを借り、妻をそれにのせて、医院へ運んだ。病室はほとんどガランドウで、 支払能力を疑はれたのがはっきりした。
支払能力はあったのだらうか。幾日の入院になるか、医師にわたしは訊ねもしなかったし、入院料を含めての医療費が、一日当りいくらになるかの計算もしなかったやうに思ふ。 しかもわたしの貯金通帖には、わたしの出征中、妻が入れた千円あまりがあるだけで、わたしが佐世保で受取った千円はもうなくなってゐた。

わたしが何にも知らなかづた例として、あとで聞いてびつくりしたことだが、華中から帰還した小高根二郎氏が令兄と同伴で御挨拶に見えた日、妹夫婦が来て、牛肉を一包くれた。 御兄弟のお越しになった時、わたしはよいもてなしができ、びつくりされ、喜ばれ、その後も、わたしは妹夫婦にすまながったが、珍しい牛肉を沢山もって来てくれたことに対してでなく、 くれたことによってであったことがわかると、妻は教へてくれた。あのころは見つけてもらふ以上は親類にだってしてもらふわけには行かないので、もとよりお礼をいってお金を払ったのだと。
十年かけた一円貯金が満期になって呼出しを受け、元利とも134円を受取りに、はるばる遠方の局へ行って、封鎖貯金になった通帖をもらって来たのもこのころである。

念のために、このころの物価をわたしの買物帖によって書いておかう。妻の入院のあとわたしは買物にゆき、炊事し、自分や子供の食ったあと、入院中の妻のところへはこび、 そのあと家計簿をつけたのである。収入ゼロで支出だけの家計簿であった。
四月十九日 ハブ茶3円50銭、卵3個10円50錢、納豆2袋8円、米14キロ27円30銭、カブ白菜2円15銭、ぶり6切6円30銭
五月六日 永井荷風20円、茶10円、タバコ紙3円、にしん10円、福神漬5円
五月八日 ねぎ5円、いわし10円、葡萄あめ15円、漬菜3円

収入はやっとあった。詩人の赤川草夫氏が高円寺駅前に古本屋を開いてゐるのを見つけ、たのんで大切にもってゐた文学書(わたしの蔵書のなかでは稀だった)を35冊もって行ってもらった。 400円に買ってもらってたいへんありがたかった。

五月九日 こんにゃく5個2円25銭、うなぎ蒲焼2本10円、ちくわ2本9円
十日 ほしにしん10円、ちくわ2本11円、こまつ菜7円、ねぎ10円、くじら5円
十一日 ぶどうあめ10円、潰物5円、いわし6尾10円、ちくわ2本10円、
この日、岐阜からヤミ米が四升着いた。外套と紫檀の卓の代りである。

 東京 2

わたしは何のために帰って来たか。北京や天津にゐられなくなって帰って来たのだが、さうは思はなかった。向うでも用があったのだといふ気持が強かった。 帰国してみると、意外な用があって、よく考へれば、帰らなければ大変だったのだが、わたしは当時はまだそれに気がついてゐなかった。それで帰って来たからにはと、 いろいろ考へたやうである。六月六日に池沢茂君が訪ねて来た。彼は大学を出て、旺文社に勤めてゐる中、応召して数年間、支那にゐた。姫路師団で強い兵隊ばかりだったが、 相手の蔣介石軍にアメリカの兵器が入り、全滅になるところを終戦となり、無事帰国した。旺文社ではひきつづき勤めよといふが、やめて大阪へ帰るといふ。 わたしはこの陸軍軍曹までつとめ上げた、まじめな後輩の話をきいてゐるうち、自分の本心をうちあけたくなった。
「僕は生きて帰って来たが、アメリカに仇を討っためだよ。」
池沢君はこのことばに対して、かう答へた。
「それには、同志をつのって秘密な組織を作るんですね。」
わたしは池沢君のかほを見なほしたが、そこには何の表情も見られなかった。少くとも池沢君自身がその組織を作らうとか、それに入らうとかいふ気持のないことは明瞭だった。 この夜、泊った池沢君は翌朝早く出て行って、十年目かに、この日のことを語って、わたしを驚かせた。
「あの時、あんたとこの蒲団きたなかったですぜ。」
わたしの仇討説は忘れてゐるやうだった。汚い蒲団のことは、あとにゆづる。わたしの仇討の決心の理由は、池沢君にもくはしくは話さなかったやうに思ふ。 も少しくくはしく書かねばなるまい。

わたしは戦争反対だった。少くとも支那との戦争は反対だった。軍部がそれをなだめるかのやうに支部事変ととなへて、戦争といはなかった戦争に反対だった。 この戦争が永びくにつれて佐藤竹介、小寺範輝などの友だちが死んで行った。わたしはそのたびに悼歌を書いた。
満洲国といふのが出来て、多くの日本人が渡って行った。昭和9年ごろの不景気と人口過剰はみるみる救はれて行った。わたし自身もそれに便乗して東京で住居を得、東京で職を得たが、 それにも拘らず内心では、この戦争に反対だった。しかし大東亜戦争ととなへられた対米戦争には反対でなかった。 支那と日本と両方に武器を売ってゐたアメリ力の戦争製造者たちと縁が切れると思ったのだ。
そのうへこの戦争の初期にわたしは徴用で南方へ行った。そこでわたしはアメリカ、イギリスの帝国主義の罪悪をまのあたり見たと思った。わたしは書物でよんでゐたことを、実見したと思った。
かうして徹底的にアメリカぎらひになったあと、日本はアメリカに負けたのだ。しかもわたしは一度、征服者として、異民族の地にゐたことがある。征服者の心理や行状は、 わたしは白分の経験から推量することが出来た。
わたしは新間をよみ、ラジオをきくやうになると、その裏をよんでゐた。極端なる愛国者の追放、ふん、アメリ力の差金だな。ヤミ米を食べないで××判事の餓死、 アメリカ人は腹一杯食ってゐるくせに。「朕ハタラフク食ッテイル」宮城前への食糧デモがこのプラカードを掲げた時、 わたしはたしかに腹一杯食ってゐるアメリカ人に対して憤慨した。
わたしの住んでゐる杉並区にはまだ畑地が残ってゐて、野菜泥棒を防ぐため電線を張った。大根半分、 葉っぱ一枚の配給しかないわたしの一家にとってこれは非常な侮辱だとわたしは思ひ、アメリカの軍政に憤慨した。

わたしは日本人は同士?をすベきでないと思った。汪兆銘が蔣介石に対して行ったこと、毛沢東が蔣介石に行ったこと、 蔣介石が毛沢東に対して行ったことを恥だと思った。A項はアメリカ人やロシヤ人の摘発としてもG項(その他の軍国主義者及び極端な国家主義者)は日本人の自発的な申出によるべきだと思ったが、 共産主義者たちが占領軍にリストを呈出したといふ。これははなはだ女性的なやり方ではないか、卑怯な裏切りではないか、とわたしの中の虫がさういった。 しかもわたしは日本の共産主義者を憎むよりこの同朋相食ましめる占領軍、すなはちマッカーサーを首魁とするアメリカ人を憎むことに傾いた。
わたしが出征の時、見送ってくれた隣組の消防手の内儀はだんだん顔色がわるくなって行った。子供(私の末娘の遊び相手)と亭主に配給をみな与へて栄養失調になってゐるのだとわたしは推量した。 わたしは、この配給制度をはじめた戦時下での日本官憲を憎むより、戦後の占領軍の無為を憎んだ。わたしの憤慨は、 近くの奥さんが朝早く野菜をぬすみに行って畑主に撲り殺されたといふ新聞記事を見て極度となった。憤慨といふよりも、うちの女房がそれをし、さういふ目にあはないかと心配したのである。

6月10日にメリケン粉の配給が8キロあった。14円35銭である。これでわたしの五人家族の五日分であった。15日には岐阜県から、前に売った衣類一千円の代として米三升が来た。 その代金は210円、残りは危険だから金で渡された。わたしは判事でもなく、消防夫でもなくて、かうしてヤミ米を食ってゐるが、これがいつまでつづくことか。 わたしはアメリカへの仇討のためにも、何か考へねばならないのだ。実はこのころわたしは就職の話が起ってゐた。

帰って何日めだったかに、わたしは旧友たちに帰還の報告をハガキで書いた。その返事はみなこれを祝してくれたが、中で二つおぼえてゐるのは、 亡くなった薄井敏夫がやって来て、
「君、出征してゐたのか」といふ。
家を訪ねたら、ここだといふので、入院してゐる妻の病床へ来ての話だったが、わたしは出征の挨拶をぬかしたことをあやまらねばならなかった。薄井は元気で、 戦争中の軍需会社が平和産業にかへり、相変らず人事課長をやってゐるとか伝へたあと、ニコニコして――それがくせであった――別れを告げた。 (これが彼との最後で、そのあと発病して死亡、二児をのこされた奧さんは健気に働いておいでだったが、最近、夫君と同じ病気で入院中である。一刻も早く御全快されんことを祈ってゐる)。
伊東静雄あての一枚は戦災行方不明の付箋がついて戻って来た。堺の三国ヶ丘で御陵の近くの閑静な所だったのに、と驚きはしたが、まあ死んではゐないだらうと思ふ。 杉浦正一郎が佐賀からたよりをよこして、その旧の勤め先の天理図書館で、東洋学関係の司書を探してゐるが、君行かないかとあるのにわたしはすぐ返事を出し、 勤め先の解散したことや、東京の食糧事情をのべて、ゆく気のあることをいったのであらう。親切な杉浦はすぐ先方に連絡して、話がはじまったのである。

杉浦にたのんだ理由は、彼には書かなかったが、もう一つあって、前掲G項にわたしは自ら該当すると思ってゐた。復員帰宅以来ブラブラしてゐるわたしのことを心配してくれた人は、 実は他にもあって、隣組のN夫人などは、その夫君の勤め先の中学(旧制)へ話してみようかといってくれた由であるが、わたしはG項にも当るし、教職追放にも当ると自ら観念してゐた。 その理由は二つあって、一つは恩師が、
「君は追放だね」とこのころ仰しゃったのを、自らも肯定してゐた。
といふのはこの恩師御自身が、,大学新聞などで追放の中に入れられてゐた上、開戦と同時かその前に敗戦を予言なさって、その通りとなったことをわたしはよく覚えてゐて、 その仰しゃることには間違ひないと信ぜざるを得なかったのである。第二は、教職適格委員会といふのが出来て、私立の学校といへどもこの委員会で適格判定を受けねばならない。 そのためには著書その他を呈出する。わたしの著書の中には、詩集で「神軍」といふのと「南の星」といふのがあって、いづれも愛国的な色彩が甚だ強いうへ、 「神軍」はわたしがマラヤで軍属をしてゐる間に、親友保田與重郎と肥下恒夫が編輯して出してくれ、しかも保田の跋文には、
「「神軍」は大東亜戦争を熱祷した新時代の詩集である。」
の一句がある。わたしはこの一句をおぼえてもゐたし、親友の誤解といひ消すとも考へてゐない。熱祷した戦争の結果が、どこまで自分に及ぶか見きはめようと思ってゐるのである。

しかも北京天津以来、予測し覚悟したはずの餓死が目前に迫った時、主食配給のある奈良県の、本のよめる場所への就職をすすめられたのである。 わたしが「よろしくたのむ.」と返事したのは当然であらう。先生はわたしが話の進行してゐる旨を御報告すると、お止めにならなかった。そのまへにはね
「君どうするかね。僕は国に畑があるが、君一家の分までは米が出来ないのだよ」
と甚だしく弟子おもひの,、しかも甚しく憂慮すべき事態をお教へいただいた。わたしは、先生を心配させないですむだけでも東京を逃げ出したくなってゐた。

東京にゐれば、知識階級とつきあへるといふのが、戦前のとりえであったが、三好達治氏は越前の三国から帰還を祝するハガキをくれたし、春夫先生は信州である。 東京関係では、東洋文庫といふ秘籍を何万巻蔵した図書館は東北に疎開したままであり、東大の図書館は司書以下食糧欠配のため休館状態である。わたしは以上のやうな理由から、 戦争中はやらなかった疎開をすることとなった。何を大げさなといふ人もあらうが、都落ちにはこれほどの理由を要するほど、わたしは田舎者のくせに東京が好きだったのである。

 東京 3

休みになって、仕事々々と思ひながら、何も出来ない。仕方なくてミッチェルの「風と共に去りぬ」をよむ。これは今から二十年前、 シンガポールで押収したフィルムを映画館でただで見たきり、いままで読まなかったのである。国内戦でありながら、同じキリスト教徒でありながら、大義のためと双方で唱へながら、 いろいろいやな事件が起る。しかし何よりも作者が強調して描いてゐるのは、女性であって、その点をたいへんいい勉強さしてもらったと思ふ。 不勉強のいひわけはこれくらゐにしておいて、昭和21年のことを書かねばなるまい。なぜ「ねばならない」かがわからないので、それゆゑいやいやながら書くのではあるが、 この間、堀之内君から読んでゐることをしらせてもらったし、去年は森亮さんが読んでゐると仰しゃった。このお二人のためだけにでも、書かしてもらふことにする。

近所に栄養失調の人たちが出て来てをり、東京または日本が餓ゑるのはま近かと思はれたが、占領軍当局ならびに傀儡政府はともにその対策を考へてゐない、とわたしは考へた。 
マックアーサーは敗戦の罰として賠償指令を発し、官公私の大工場の機械のとりはづしに懸命であり、またアメリカ、イギリス、 ソ連などから派遣された判検事をもって構成された戦犯法廷は5月3日以後、東条元首相をはじめ28人のいはゆるA級戦犯の審埋に熱中してゐる。 清瀬弁護人などの弁護には殆ど耳がかたむけられない。わたしは4月22日以来6月末まで入院してゐる妻の看護をしながら、結構、退屈しないわけである。

これらA級以外の戦犯審理も行はれてゐるはずであるが、そのほかに前述の栄養失調などの形での戦争責任の追求が行はれてゐる、とわたしは考へた。

3月6日に叔父全田忠蔵が死んだことは、筆まめな父から14日しらせられた。葬式のことも香奠のことも書いてなく、病気のことも簡単だったと思ふ。この叔父は実は父の末妹の夫で、 わたしにとっては義理の叔父であるが、わたしの母校大阪高校で英語を教へてゐたので、不勉強なわたしの教育については父のよき忠言者であった。わたしが大阪高校を受験した時は、 答案の採点に当り、「五点ひいといた」とあとでわたしに話してくれた。
それにもかかはらずわたしが入学したあとは、目にかけてくれてゐる様子がなかったが、わたしが三年の時、ストライキが起り、その首謀クラスと目されたのがわたしのクラス文三乙で、 二日のストのあと、自発的にストを止めることとして、生徒監(生徒主事といったかもしれない)に全級で会見を申しこみ、「ストをやめるかはり云々」の申入れを行ったとき、 この叔父もその場にゐあはせたが、佐々木喜市生徒監につっかかるやうに申入れるクラスメー卜たちにまじって、わたしも一言しようと、口をひらくと、ひどい勢で横腹をつくものがある。 びつくりしてふりむくと、それがこの叔父で
「あの時、発言するものはス卜の主謀者として処分することになってゐた」
といふことを、あとでわたしに話してくれた。ただしこのストは全員無処分でおはったので、この叔父の親切は報はれなかったわけである。

大学に入学してからも、卒業後、教師をしてゐる時もいろいろ教へを受けた。思ひがけず中学教師となったあと、生徒の私語に困るといふと、
「教室へ無雑作に入って行ってはだめだ。扉をあけて、生徒が話しやめてから、入って行って教壇に上る。話すものがまたあると答礼をしない。皆の顔を、 とりわけ話してゐるものの方を黙ってみつめてゐる。それが話しやめると答礼する。」
以後も同じ要領だといふのである。その通りやると、昭和9年の悪中学生どもは私語しなくなったかはり、わたしのことを、こはい嫌な教師と思ふやうになった。
叔父は大阪の八尾中学から一高にすすみ、芥川竜之介の一級下だった。そんなわけで、いつか小説を書くといって、原稿用紙を机の上においてゐた。カン症といって、机の置き場所、 机の上の文房具など、みな1センチもかへたことがなかった。死んでから、その小説用の原稿用紙は、たぶん一番上の一枚がすこし汚れてゐるだけで、一枚もかかれずに残ってゐた、 のだと思ふ。あるひは、そのことを叔母にたずねて、さう答へられたかとも思ふ。

この叔父のおかげで、わたしは肥下恒夫と親しくなったのだと思ふ。肥下はこの叔父の兄の子であって、まがひもなく甥だったし、わたしはまた叔母の実の甥だったのである。
その肥下恒夫がわたしより一月ほど早く召集され、朝鮮にゆき、戦後わたしより早く、十二月には復員し、大阪にゐることを教へてくれたのは赤川草夫氏であるが、 他のところで書いたやうに、わたしは19年以来、肥下とは絶交してゐるのである。わたしはくやみも書かなかったやうに思ふ。

叔父が死んだ翌日である3月7日に、恩師加藤繁博士が伊豆の疎開先でなくなられたことは、21日に通知を受け、4月初、和田清先生へ伺った折にもおしらせいただいた、 和田先生は加藤先生の親筆の絵をたくさんおもちになって、いろいろ追憶談をなさった。わたしは24日の追悼会に出る決心もつかず、 はじめて承はる加藤先生の余技にもさして吃驚しないでゐたやうに思ふ。(独立美術の加藤陽画伯が先生の御長男で、先生のこの御才能は完全に生かされてゐるわけである)。

わたしの知ってゐる加藤先生は、東大の東洋史の三先生(池内、和田、加藤と三教授ならばれ、学生数20名内外といふ昭和10年ごろが、学科の最盛期であったらう。 和田先生は、昭和21年は志願者2名でね、と暗い顔をしておいでだった)のどなたにも共通な、東洋的な風格の中で、島根県の松江の士族といふ点からも、最もこはかった。 そのうへ卒業後は、先生がみづから開拓された中国経済史といふ御専攻とも疎遠で、ほとんど弟子の礼をとらなかったやうに思ふ。 しかし先生がわたしを弟子と思っていただいてゐる証拠は、昭和14年に証明された。わたしが大学の先輩(学科のではない)某氏に学問以外のことで話し、その勤め先へ訪ねて行って、 詰問し、弁解を要求し、きかれないと顔色を変へ、拳をふり上げて迫り、謝罪に近いやうな言を得たと思って、意気揚々と帰宅したあと、先生からすぐ来いとおたよりをいただき、 不審がってお訪ねすると、先生は即座に先輩に対する非礼をおとがめになった。わたしはぬけぬけと、非礼に到った事情を申上げて帰宅し、「告口しやがって」と舌打した。
そのあとわたしはまた喧嘩した。今度の相手は勒め先の善隣協会の理事長とだったが、先生が、
「田中の今度の喧嘩はよろしい」と仰しゃってゐる旨は、これまたどこからか伝はって来た。

わたしはそんなわけで加藤先生の御逝去には悲しみひとしほだった。悲しみだけではなかった。 わたしは先生が昭和18年にお出しになった「絶対の忠誠」(丁字屋発行)といふ本の愛読者だった。さうして中国人の忠が君臣間の相対的な信用をもととしてゐるのに対し、 日本人の忠は絶対的だといふ御意見にこれまた絶対的に同感し、わたし自身もさうすべきだと信じてゐた。復員後、わたしの忠の対象たる天皇が「人間宣言」を発せられ、 また5月19日の宮城前の食糧メーデーに20万人が押しかけたあと、24日には、
「乏しい中から分けあへ」との放送をなすったのも聞いた。
加藤先生の御逝去はその前ではあるが、生きてゐる甲斐がないほど憤慨されたのだと思ったのである。(榎一雄教授の先生の伝――「中国経済史の開拓」所収――は、 弟子としてこれ以上あるまいとの名文であろが、先生の憤慨は占領軍の検閲を考慮してであらう、記してゐない。)

わたしの帰国は二月の終りで、三月の初めには、このやうなことがつづき、しかもわたしは病気の家族を抱へてゐる。皆さうだったといふ人があらう。しかし内地にゐた人は、 八月十五日以来、数ヶ月の冷却期間をもってゐた。わたしは日本へ帰れると思はないのに帰れ、死んでゐる筈の家族がそろって無事なのを見、しかもこれがいつ死ぬかと心配さされ、 ごていねいにもまだ猛烈な愛国心、尊皇心をもってゐるのである。
この猛烈な愛国心はいったい何の作用だらう。保田與重郎の感化か。いな保田をはじめとする思想家はどこかへゆき、世をあげて民主主義を歌ってゐるのである。 わたしは今こそひとりなのだが、そのひとりのバカげた頑固さに、早く転向しないと危いぞと忠告する者はどこにもゐなかったし、もとより「やれやれ」とけしかける者もゐなかった。 (病気で苦しげな妻や子供は、わたしを鎭めるよりは昂奮させる方に効力があった。)

軍隊で兄弟の約束をした小林俊文は、わたしの帰還の便りにすぐ返事をよこし、岡谷で道場を開いてゐるから協力しに来い、といって来た。わたしは随分、気持が動いたが、 家族の病気ですぐにはゆけない、と返事するとまた折返し、
「来られねば××××の同志に会へ」といって来た。
妻が入院する直前である。わたしはいつでも行けると思って安心してゐたが、彼はそのあと「マルクスか死か」といふ激越な調子の手紙をよこして、行方しれずになった。 わたしは小林のところへ行かないでよかったのだ。マルクスも死もわたしはきらひである。しかしこれを見きはめるまで、わたしは十年かかるしその理由は今でも旨くいへないのである。

 東京 4

今日は8月29日で、あと二日すればわたしは満五十一才となる。よくもぬけぬけと生きて来たものである。この半自敍伝も二年近く書きつづけて、昭和20年の8月から、 やっと一年しか書けず、書きたいことはあとに山ほどありながら、このスピードではいけないとも思ふ。けさは久しぶりに伊東静雄全集を開いて見ていろいろ感じたが、 なかんづく何をするにしても彼は一生懸命だったと思った。そんなわけでこの半自敍伝ももう少し一生懸命になれるまで休むことにする。 それにつけても、この機会に校正・編輯・発送に労をかけた小高根、堀之内、福地の三友にお礼申し上げねばならない。

天理図書館との交渉は、六月の初から具体化した。
「月収は450円位。借間の件は服部氏が世話してくれる。一度来談せよ」
といふのが第一信である。服部といふのは、高校以来の親友、中古ドイツ語の権威、大阪市大教授服部正己博士である。当時、天理語学専門学校の教授だったのである。 わたしはすぐ速達して西下する旨返事した。服部にも速達して住宅事情、食粗事情のことをたづねた。
服部からは早速、返事が来て、図書館長が六月半に上京する故、その時会って話きけ、とのことであった。わたしは安心して、仕事にかかった。 聊斎志異の抄訳をすまして金尾文淵堂へとことづけたのが六月初で、そのあと杜甫伝をかきたく思ひながら、先生から命ぜられた日華文化の交流について書かねばならなかったのである。

六月半に天理から電報が来て、館長の上京は中止となったからやはり来談しろ、との旨である。わたしは早速、知人のところへゆき、社用証明書といふのを貰った。 忘れもしない、このころ鉄道の輸送を緩和するため、公用・社用以外では長途の切符を売らなかったのである。早速といふが、この証明を入手するのに三日かかったとおぼえてゐる。 そのあといまの日劇にあった交通公社へ行って、奈良県郡山まで金魚購入にゆく某社の社員といふ証明で往復切符を質った。74円であった。そのあと駅の地下道にならんでゐる人の中へ、 偶然まぎれこみ、それがいつのまにか、最先頭になってゐて、汽車では坐れた。向ひに坐ったのが華北で衛生兵をやってゐたといふ若い男で、握飯をくれた。

さて京都へ着き、父の家へゆき、金尾文淵堂へ連れて行ってもらひ、先に届けた聊斉志異のことをいふと、種次郎翁は「やはり杜甫にしていただきたい」とはつきりいふ。 それぢゃ書きます、と約束する。父とは永い友達なので、親類にでも話してゐるやうな気持であった。

翌日が天理行で、服部に会ふと、横にアンナン語の権威である笠井信夫君がゐて、古い知合である。語専の校長は古野C人先生で、これも知合である。 のちほどともに養徳社といふ出版社にゆくと、編集長は作家として存じ上げてゐた人で、向ふもわたしを識ってゐて、
「あなたのお訳しになったハイネの冬物語を出したいと思ってゐた」といふ。
東京より賑やかなやうに思ふ。図書館にはわたしの勉強に必要な本がそろってゐて、未整理の数十万冊のうち、東洋外交史の某権威の蔵書が25万円かでみな入ってゐる。 これを整理するのが、わたしに期待されてゐる由である。本をよむことが仕事とはありがたいと、東京とくらべて思ふ。ただ楽しみにした食糧の加配などはありはしない、 と服部がさっそく教へてくれた。それにしては450円の袷料は安すぎると思ったが、くはしくはきかなかったやうに思ふ。最も心配した、 宗教団体の機関だから入信しなければ摩擦があるのではないかとの疑問は、言語学ひとすじの服部を見て、訊ねる必要もなくなったと思った。

親友の中の親友(と思ってゐた)中島栄次郎が比島に行ったままのことも確かめ得なかったが、わたしは履歴書を出せば、会譲にかけるとの宿題を貰ったまま京都に引き揚げた。

翌日は気持がきまらないまま履歴書をかいて郵送した。(汚い字だと会議でも評判だったことは、あとで聞いた。)そのあと父に汽車賃を借り、 駅にとまってゐた長浜行といふのに乗り、米原で下車、しばらく待って浜松行に乗り、大垣下車、ヤミ市で蜜豆を二杯食ったりなどしてから、東京行に乗った。 こみあって喧嘩などしてゐるが、夜汽車なので下りやうもなく、そのまま東京まで乗った。留守にはアムボイナから妻の姉婿が帰還して来てゐて、夜はその祝だった。
中尉だった姉婿は日本人の優秀だったことを力説した。わたしは汽車の中の日本人や華北の兵隊などを思ひ出して変な顔をしてゐたと思ふ。

六月三十日に電報が来た。「ソクコクフニンセョ」といふのであった。先生に相談とではなく、報告のやうに申し上げて、とめられなかったことは前述した。帰途、 小高根太郎君を訪ねると、目の前で哲学の原書を売って、その代金を餞別に呉れた。いまも太郎氏に会ふたびにそれを思出しながら、重ねて礼をいふ機会もないので、ここにしるしておく。

わたしは愉快ではなかった。都落ちのせいか。そればかりではない。東京の食糧危機をこはがっての逃亡の気味があったからなのである。 7月4日に恩師池内宏先生をお訪ねしたのも、純粋な学者である先生がどんなにお困りか見ておいて、といふ気持からであったと思ふ。先生はしかし意外にも御元気で、 丁度この日完成した原稿の山をお見せになり、この論文がもとで終戦直前、憲兵隊へ引致された事をお話しになった。神功皇后の三韓征伐が史実でないのを講義したといって、 説明を求められた。事実でない、説話だといっても、神典である記紀の否定だといって了解してくれなかった、と今となっては嘘のやうな話を先生がなさるのを、 わたしは当惑して聞いてゐた。子供のころから聞かされてゐた話が、史実でなかったといふ一代の碩学のお話がわからなくて困ってゐたと思ふ。
(先生のこの本は翌22年になって「日本上代史の一研究」といふ、なんとも売れやうのない表題の一冊となって出た。
拝読するとツシマのワニの津から順風に送られて皇后の船は国の半ばまで入って行った。シラギ王はたちまち降服して毎年の貢物を誓った。皇后はご自分の杖を王城の門に立てて凱旋され、 応神天皇をお生みになった、といふのが説話である。シラギの王は誰だったか。バサシムキムとかウルスフリチカンとか記してあるが、シムキムが王といふ語であり、 バサはシラギの第五代の王とされる婆娑尼師今であるが、これは実在の人物でない。ウ何とかいふのも王の名ではない。とまれ日本が西紀370年ごろシラギに兵を出したことは事実であるが、 記紀の神功紀の紀年より200年以上あとで、これが紀年延長によって、丁度、皇后の治世に当るとしても、皇后親征があったことを証明する史料は何もない。以上のやうなことが、 先生の細密な論理でのベてあって、わたしの如き弱虫にも、女のくせに、といふ神功皇后への感情は一掃されたのである。)

先生はまた序文をよんでおきかせになったが、その一節にミマナ日本府の撤退後、三十年して推古朝の法隆寺建立などの花やかな時代が来るとの箇所があり、 三十年といふくだりで先生はわたしをごらんになった。
わたしは三十年どころか、日本の復興は百年たっても、もうないのではないかと考へてゐたので、困った顔をしてゐた。このことはのち「四季」にのせた詩に作ったが、 先生の御本を手にしてみると、序文では三十年云々は削除されてゐた。占領軍の検閲で削られたのだと思ふ。

ともあれわたしは赴任しなければならないので、「六日マイル」のウナ電を打った。そのまへわたしはただ一つの財産である書籍の整理をおへていた。 わたしの末弟はこのころ廃校となった皇学館大学の予科を了へて、国学院大学に移って来てゐたが、わたしが関西へゆくことをいふと、委托販売をたのんだらといって一枚の紙を見せた。 影山正治氏の不二歌道会で書籍その他の委托販売をやってくれるといふ意味の刷り物だった。

日本敗北、米軍進駐のころ、出征中の影山氏の留守をしてゐた父君以下十四烈士が代々木で自刃した話も、わたしは弟から聞いてゐたやうに思ふ。 そしてそれこそわたしがなすべくしてなし得なかったことだと思ってゐた。わたしが訪ねてゆくと影山氏はしづかに迎へて、わたしのいふことを、
「承知しました」と引き受けて下さった。同志三氏が拙宅に来て、十日ごろ本を引取るとの影山氏の手紙を見せ、それには五百円が同封してあった。わたしはありがたくこれを受けて、 その夜は不眠、4時家を出、5時20分発の大阪行に乗った。さすがに坐れて、むかひに乗ってゐる人は、寒川光太郎氏の弟と、佐塚さわ子?さんといふ女歌手だと知った。 佐塚さんは台湾の霧社で殺された警部さんの令嬢だとわたしは知ってゐた。ふしぎなことを知ってゐたものである。
わたしの十年余の関西生活はこれからはじまるのである。 (了)


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