「日記」第十巻

21cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(82ページ)

昭和9年2月13日〜昭和10年2月8日


(※神よ、我とわが恋人を) Hute meine Liebe und mich
(※飢えと寒さから守りたまえ) vor Hunger und Frost, o Gott!
(※愛はうつろいゆくもの) Liebe ist verg nglich.
(※飢えは永遠だ) Hunger sei ewig!

    TAGEBVCH     VOL.10.

13te FEBRVAR 1934
K.  TANAKA

仟玖佰參拾肆年貳月拾參日

せむ方なく愁しきこころを抱き
  て ん ま
外濠通ふ傳馬船を見
冷き水を見てゐしが
 おもひ
いつしか心は大いなる愛の上に移りにき

われは愛すべからぬひとを思ひ
ひとはわれをかなしくしぬ
われは飯を求めしが  ひとびと酷くこれを拒みたり
大いなる天より何ぞも降り来らむ その日々の飯

心と腹とひもじければ ひとびとにまじらひ
ふたつながら満すことを得ず
たヾひとりのひとによりて共に泣きしが
ちから
かれにさへ権力なかりき

たヾふたりして思ふらくは 地二つに割れ
われらを生きて埋めよと
 (さいろう)※酷薄強欲のたとえ。
あるひはわれら一双の豺狼となり
  よそびと (くら)
巷にありて他人を喫ひのまむことを

かくてわれらとげ得ぬのぞみに焦れ
 あなづ
われは男なれば外にありて侮られ
かれは女ゆゑ内にありて哭き
(まがつみ)
夜臥床に入りて人間の営みのみをつくしぬ  (禍津見抄)

貳月拾肆日  ★
ゆふぐれになると帰るひとびとの様に
わが魂はいつか性として汝の魂を索める

山腹に隠れた村々から挨拶が送られる
街は日食に忙しい
天文台へは臨時に電車が出
新聞社では新しい社員が叱られてゐる
わたしは山腹の家へ帰りたい
老いた父母を慰める方法を一も
学校生活では  てもらへなかつた
 ★
い花(一)  ゲルハルト・ハウプトマン
古い山の街は燦爛と好ましく彼方へ拡がつてゐて、鏘然と重々し
 こしかた
くそこから過去がひヾいて来る。そして微かにわがまはりには、ワルテルの歌ふ恋歌がたヾよつて来る。その時、かの高根の去年の雪
ゆふばえ
まで空間は拡げられ、夕の鐘の音の翼をつけられた魂は、かの晩映の名残の光とラウリンの薔薇咲く苑へ立去つてゆく。

貳月拾七日
蒼暮
鴉が啼くと風が止み
花キヤベツの閉ぢる音がする
ここ わたしの脚下に地軸は立ち
わたしを中心に日が傾けば月が騰つてくる

湖水
水の中に髪の毛
かはほねの花のやうに黄金色で
昔その歌が湖水を渡つた
絲杉のかげから夕もやが立ち
暗い水の中で髪の毛は閃いた

長い夜
わたしたちの歌が空に昇り
雲のきれつぱしから星が降りた
むかしむかしおぢいさんとおばあさんがあり
オルゴオルに倚つて死を想つてゐた

諾否
けふの日から芳香が立ち
柱をめぐつて鳩が飛ぶ
破瓦から草が芽ぶき
死んだ神々が賭博して
(ものがな)
そのさいころをふる音が愁しい

カリグラム
鳩やみさごの堕ちる石から
水は流れ出して
月夜は深い淵となる
少女達が游ぐ水では
シヤボンがとけながら
くなつて行つた

貳月拾玖日
ある麗かな朝から
羊に似た雲が躍り
地上では若草の間を魚達が下る
ピアノを彈く小鳥達に
木の實が約束され
市場では株が上がり お晝に一寸休憩がある

二月二十二日 池内教授よりほめらる。
方々で梅の花の咲く午後を散歩でくらす
何が私を悲しますのだらう
わたしは指を折つて見るが指は足りない
だけど結局は一つのことだつたと気がつくと
白い雲は馬のやうに丘の背中を蹴つて駆けて行つた

二月二十五日
梅の花の咲く苑にも
まだ枯枝のまヽの木々が入りまじり
髪の毛のやうに葉がひつかかつてゐる
お婆さんのやうな鶴が歩む
脚は奇妙に細い
冷い水に映る影を見るほどの気力もなく
彼女は天を仰いで嘆く

三月五日 詩「西康省」を書く。十枚、一九○行。
ゆき子、留守の間に来る。
三月十五日
もくげや辛夷の花の間に
老いた春はさまよひ
散つた花びらを踏む足がある

雨が過ぎた後では木々は背のびし
夏を呼ぶ歌がこだまする
山峽から鮎が落ちて来る

魚の卵が海藻にあつた
ロヂツクと云ふ字に似て心につヽかかり
綜々と流れる潮よ
わが春の愁をとヾめたまへ


おととひそれは香ばしい風で来
昨日は雪を以て中断した
黄色い小い花が咲き
鳥が来鳴く藪と繁茂し
雨の中にきらきらと耀ようた

わがクセニエンを聞いた人はない
口笛のあひだに咳がまじり
静かな屋敷町の晝から
ボンボン時計が拂はれる
ラムプや帆船の模型や
苔の花の中にクセニエンは育ち
梢から空に向つて堕ちこんで行く
われは殻を荷負つて
濕つぽい土にのたうつタニシの如くある

ゆきの名を負ふ少女に
われは幾夛の負債を得
蹌踉として深夜をゆき
生ぬるい風に嗚嘔し
溝ごとに唾を吐いてゐる
安らかに眠る少女と思つたが
いつかやせてゆくことをゆめみた

三月十七日
こんな気持ちである。
(肥下) (保田)
HのところへゆくとYが来てゐた。Yが話し手で、「Oさんが二円五十銭出したんや。そしたらみなで、もろとけもろとけ、出したものならもらつておけ、と云 ふ工合なことを云ふたんや。 Oさん苦笑しとおつたど」。それはYの科の謝恩会の時のことを云つてゐるのだが、Hはそれを「はあ、はあ」とほんとに可笑しさうに笑ひ声を立てながら聞い てゐた。 自分はその話し手と聽き手に怪訝さよりも怒りを感じてゐた。
「あんなことがほんとに可笑しいのだらうか?」
「何故、あヽした笑ひ方をするのだらうか?」
それにくつヽいて色んな批判が湧いて来た。結局その批判は皆自分に堕ちて来た。自分だつて外へゆけばあんな話に打ち興じてゐる自身を見つけるのではないか と気がつくのだ。
ちつとも物が書けなくなつた。ためしにむりに筆をとつて書いて見る。何がわたしを驚かせたのだらう
その多岐の入江に踏みまよひ
わたしは海月と海藻の間に神々を見た
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
書き畢ると直ぐパロデイの方が頭に来る。たとへばこんな風に。
何がわたしを苦しませるのだらう
わたしの胃酸過多症はもう癒つた筈なのに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界中で一番汚いことばが自分の筆先から生まれて来た。自分は少くとも筆で書けるだけ潔癖な魂を持つてゐると考へてゐたのに。
(それは笑ひ事かも知れぬが、自分たちの年頃では偽善をおし通すなどいふことはできぬのだから)
ものを書くことを止めることが一番いヽ。誰もかもがさう勧めてゐた。殊に群小同人誌の批評家たちが一番手ひどく思はれた。自分は田舎へ帰つて中学校の先生 をしようと考へた。 それと同時にけふ田舎の父から、当分口のありさうもないことを報じて来てゐるのを想ひ出してゐた。
お兄ちやんのヒステリー
お兄ちやんのキチガヒ
Sといふ女学校へ行つてゐる妹が歌ひ乍らやつて来る。そんな情景は美しい。しかし自分はそんな妹を持つてゐなかつた。
自分はむかしコオラスをやつたことがある。譜が中々讀めなかつた。第一テナーだつたが、高いところは生の声しか出なかつた。しかし快適なリズムを、自分は あれから愛し出した。
−<−<−−<−−<−<−−<−  ドイツ語の詩にはみなこのやうな強弱がある。自分は声を出してそれらを讀むのを好んだ。
ある日野原に出た。杉の木が冬の霜で赤茶けた葉をつけてゐた。
くぬぎや楢は新芽で煙つてゐた。ワツトオの画のやうだと自分の中で云つたが自分はワツトオを知らなかつた。
自分はこの頃、草花を再び愛しはじめてゐた。殊に桜草属の可憐な花たちが眼を惹いた。それらの色は皆割合に穏かで、決して気持をかきみだすことなしに引立 てヽくれるのを感じる。 そんな気持を友達等からも求めてゐたが得られなかつた。
自分には友情を云々する友達はゐたが、友情を感じさせる友達は一人しかゐなかつた。彼は田舎で画を書き乍ら、口頭文官試験の準備をしてゐた。彼に丈は椚や 楢の美しさが通じた。
自分はニイチエ的な孤独者ではなかつた。山に入る底のものよりも、常に求めて与へられぬ乞食のやうな卑しさをもつてゐた。そんな孤独は耐えやうがなかつ た。 そして皆が一人前のやうに一人歩きしてゐるのに鑑みて、自ら羞ぢ苛いなんだ。

三月十八日
梢たちは新芽で遠眼には打煙つて見える
屋根からは煙の立つ藁葺きの家
埃のやうな梅の花−−鶴はゐぬ
老翁たちが畑を打ち
自轉車が眼の角を曲る

林には幾夛の思惟があり
落葉たちは水溜りに沈んでゐた
鳥が音たてヽ歩き
所々に幽かに花が咲いた
その實を去年の冬にみたのだが
そして思惟たちはつながらなくなつた

林を渡つて鐘が行つた
降るとしもない雨が蕭條とけぶり
春は遠山の夕映にだけ見えてゐた
(たかむら)
夕方の風は篁に殘り
しめつぽく車が列をなして通つて行つた

愚な疑惑が水の面に書き記されてゐた
そこでは女は井守のやうに醜く
男は狡猾な蛙のやうであつた
またも不眠の夜を眠り
朝は更に濃いコオヒーの中で目覚めてゐた

彼等は凡て敵である。彼女と彼とを結びつけて呼ぶだけでも忌はしい。

三月二十日
鴉の啼く朝
廣重の松から飛び立つて
汽車のゆくことは音だけでわかり
瓦の屋根の波から
鍛冶の歌が起る
×八木あき子氏、北園克衞氏、衣巻省三氏、中村喜久夫氏。
青い腦髓の中に林檎の花が咲き
私の鼻は冷い 犬のやうに
チカチカと輝く五角の宝石よ
(めぐ)
廻つて流れる濃い色彩の水から
滴る水滴をもつ魚たちが掘り上げられる
×
暑い植物たちを通つて来た風は
炎々と燃える建物の大理石の柱に
その鼻先をくつヽけて冷さうとした
アカンサス属の植物をつぶすと
紫と赤の中間色の汁が滴り
私の更紗の着物を汚し
母の叱責のために準備が出来上つた

三月二十五日 大阪で
六月のバラがもう咲いた
帷を垂れた空の下で
ヨツトたちは浮んで雲のやう
坂を降りてゆくのは馬
裸か身に汗ばんでゐるのだ
★  ★
驛逓馬車の喇叭は遠い
(にじ)
森ではお祭り 水仙の花が踏み躪られる
歓喜の声がこヽまで聞え
蒼白な詩人たちの椅子が動く
松脂の香が一面に漂ふ
もうすぐ螢が灯をともす
★  ★
明るいイマアジユが浮かぶ
フロラとブランシユフロラの双生児
花よりも愛でにし児たち
蹄から火花 森から螢
 ニユムフ
川からは水精・・・・・
★  ★
アヅマヂノ  サヤノナカヤマ  ナカナカニ  アヒミシヒトノ
カゲゾコヒシキ  アヒミテノ  ノチノココニ  クラブレバ
ムカシハ  モノヲオモハザリケリ  フルサトノ  ヨベノフスマニ
トヒクルハ  アヒミシコロノ  サヤサヤノオト

三月三十一日  西川を送る。池田、中島、安田、かをる、八木
三月二十六日  西川、池田、安田。
三月二十七日  清 (浪中で)田村邸。
三月二十八日  全田、山本信雄氏、千川義雄、勢山索太郎氏、
三月三十日 久保光男。 藤村青一氏。

ああ 咽喉の奥まで見せつけて悪罵を放ちたい
この腐臭を放つ大都会なるもの
原色をもつて色彩るに妙を得た獸らと
あぶく
底土から湧き出すメタン瓦斯の泡たちに充ち
到る所で奇妙な言葉がかけまはつてゐる

★小間物屋の息子西田は三月一日死んだと云ふ。
★このノートは掘り出し物である。
Des fleurs s´envola un papillon gui me fr la le menton de ses
ailes, j´en eus telle frayeur gue j´ai cri .
Belle compagne Rlanchefleur, voulez-vons voin une freur gue vons
 aimerez beancoup, je le sais, lorsgue vons la verrez. Il  y a
pasdefleurs pareilles dans ce pays.
Venez-y, dit Clarisse, vons la conna trez certainement, car elle
est de votre pays i je vonsla dounerai si vons la vonlez.

(※・花から一疋の蝶が飛び立ち、羽で私の顎をくすぐった。私は吃驚して思わず声を上げた。
美しき友、ブランシュフルウルよ、その花を見たいと思う?
私には分かるが、その花を見たら君はきっと好きになるだろう、この国にこんな花はないのだから。
いらっしゃい、とクラリスが言った。この花は貴方の国のものだから
欲しければあげましょう、と。)

噴き上げは の若葉に埋れた
大理石のウヰーナスは無花果の藪のうしろ
黄金の陽の矢は果樹にとヾまり
馬車は坂路を駆け堕ちる
口笛がとほく林をゆるがせ
村々では燈火が足らない
そこから一年中の賣上が稼ぎ出される
泥の中に手足は委ねられ−−
お屋敷で古典的なマヅルカが舞はれてゐた

四月六日
奈良と松田明
タカマドの山は赤茶けてゐる
アセビの花も陰気くさい 鹿の子は見えぬ
寒風を含んだ雲が走る
おばあさん達が一列懐郷病にかヽり
女学生達は靴下をほころばす
イコマのヤマから夕ぐれが来
あつちは西だとセンセイが教へてゐた

彼の苑では白梅 紅梅 沈丁花 菜の花
彼の家にはめぐし児
それから口やかましい義母
その云ひなりの義父
気の利かぬお嬢さん上りの妻
一團りの義兄弟たち
彼の家の外を寒い風が吹く
彼は煙草を吹かす
家の内と外で
彼の頬から濃い髯が立ち上る

春寒や鹿の子に芝生くれかヽる
馬酔木咲く原起き伏しの目にしるく
寒ければこの手がしはも見ずに来ぬ
ばヾはな ひ む ろ
老嫗ひとり鼻汁うちかむも氷室社まへ

※・芭蕉「春の日」より八十二句抄出。
※・芭蕉「曠野」より六十六句抄出。

春寒や奈良坂路にくれかかる
埃にまがふ花のかなしも
シヽ
猪下り来る春日の奥に通ふみち
 ソダ
在所は麋に忙しげなる
羊歯の葉に包みてかへる小魚かな
翁の面をとりおとしけり
夜叉ひとつ天竺河を渡るとふ
(まさご)
砂子にまじる瑠璃ぞはかなき
くしげ
み匣に蚊のとび入りしゆふべかな
寢られぬまヽに歌仙寫しぬ
奈良坂やこの手がしはを教はりて
薬師はきのふ山に入りにし
御木伐るや丁々のこゑせせらぎに
短冊とれば硯もて来ぬ
苔の屏風に鞠を蹴りかくる
ヨシキ
淵瀬かはりし宜寸佐保川
一本の柳の下に店開き
 ウギ
茄卵子三つ蜜柑一籠
ザル
笊もつてゆがく野菜を買ひとりぬ
夕月の下(もと)畑に火を焚く

四月九日  芦屋ロツクガーデン、大江勉と。
探幽
櫻咲く溪谷をゆき
石ころの河原を見
果物を食み
鴬を藪に聞く
落葉樹は紫に芽吹き
常磐木は黒い
山角を曲れば瀬の音
崖から水が湧く
菫の葉は尖り
花は目立たない
嶮岨な小徑を攀ぢ
杉根を撫で
岩を傳つて流れを過り
崩れ落ちる砂をふんで
岩山に上る
露出した岩は風化し
海は和やかに皺より
帆は静かに滑つてゐる
少童は岩窪に立ち
予は岩秀に坐し
藥草生ふる絶壁に
佛菩薩の文字を讀んだ

※同人誌
四月十五日 「鷭」来る。
安部忠三氏を訪ね、歌集「砕氷船」頂く。※・十八句抄出あり。
四月十六日  中島、藤村、西尾氏。
遠近法
葡萄酒のいろに空は染められ
鳥たちは汚点をなしてとびかふ
單檣船が入港して
碇泊のためにいかりをおろし
その時夕焼が少しばかりゆらいだ

四月二十七日
崖の下の感情
蛙は蛙の歌をうたひ
田螺の殻には櫻の花片がくつヽいてゐた
そして櫻の木では毛虫が育つてゐる
蝶にはまだ早い まだ早い

五月一日  松田明来る。中島。
五月二日

世界は いろで國中には旗や幟がひるがへつてゐる
瑠璃窗の中で酒を酌む男
顔色が蒼いと下婢が寄つて来る
蜘蛛の金の糸で体を縛られて
嶺から初雷と電光がやつて来る

※・芭蕉「ひさご」より五十句抄出。

五月四日 大毎でおちました。 ※・大阪毎日新聞
五月八日
私の の世界で 私は赤い 子を着る
色盲の検査にはいつも合格したが
暗がりに落ちてゐる花束の色は知らなんだ
螺状の道がそこにある
掘り取つた青い土から陶器をこさへ
空ゆく雲や鳥は水に影うつす
そこでは自棄など考へやうもない

此頃はノヴアーリスの翻譯で創作力が消失しました。

星は彼等の制服に
花は彼等のお顔のまん中
それは花ではありません
赤くて雄蕊があるけれど

おヽ  祟高な大山脈
峨々たる山襞
巍々たる峰々
これに比べてはわが胸の
肋骨の尖りなどまだまだだ

歌ひませう  踊りませう
ロンドがちぎれて蹄鉄の
形になるまでをどりませう
森は五月の若
 サツキバナ
地には若草五月花
をどり子たちが踏むならば
たのしい拍子でふむならば
いつそあきらめませうから

歌ひませう をどりましよ
アサギ
空は五月の淡青いろ
もつともいまは夜だから
その上森がふかいので
春の星さへ見えないが
もうぢき螢がひをともす
幸福なんてひる間には
どんな聖者も見つけない

歌ひませう 踊りませう
もうさつきから茂みでは
森の楽隊百千鳥
調律試演のおまちかね
歌はハイネが春の歌
あれは敗れた恋の歌
不吉な歌などよしませう
ただひとすぢにこころから
自分の歌をうたひませう

五月九日
私たちは最も正確な機械の一つとして時計を知つてゐるが、それも人が故意にすヽめたりおくらせたりするのを見た後からはもう信用することが出来ない。

エーテル
気がたちのぼる野中に
子供らといりまぢつてはねる
金貨のやうな小い花が
しづかに水に流れてゆく
魚や獸やの存在が明かでない

ノワーリス?  W・シユレーゲル  ヘルデルリーン  テイーク
シエリング
アイヘンドルフ  グリム兄弟  アルニム・アヒム  ブレンターノ
ハイネ  シユトルム  レナウ
北川冬彦 北園克衞 春山行夫 三好達治 阪本越郎 上田敏雄
安西冬衛 西脇順三郎
★  ニユムフのいざなひ
紫いろの水の中に
男は顔を浸してゐる
水には黄色い藻が咲いて
日は亭午
木の間から洩れる光が
芝生で豹の皮のやう
男は今だ顔をあげない
水も動かない

五月十日
うすい血の色の林のなかで
小鳥は啼きはヾたきしてゐる
雲は輕やかになるこゆりを動かし
時々口笛を吹く
自由な水が流れては
インクのいろに染まつてしまふ

カミノケ
聳える岩にまとひついた髪科の植物
去来する獵科の鳥

月の無い水から這ひ上つて
爬虫類は啼く  いたましく
おお  おれも知つてゐる挽歌のかずかずを
そして墓はいつも暗い
そして死に至らしめる非行が最も暗い
★天狗
夛分その背後に燦爛たる群星が在る
それは暗い発光せぬ天体だ
ハイエナのやうに髪をふりみだし
天空にくつヽいて遊行する
それのためにわが地球は若干暗くされてるのだ

うづくまつてゐるハイエナを知つてゐるか
彼等は爪に毒をもつてゐる
そして爪の毒が役立つより先に
弱い獲物は出血して死ぬ

彼等が口をあけて歌ふとき
その口腔はうす紅い
−−それを俺は永い間愛してきたものだ
芳ばしい微風が薄い雲をひく
その奥で歌だけがいつまでも残る
世界はその方がもつと美しい
★エロスにさヽぐる
無花果のさしかはした枝の間に
その茂つた葉のまへに
太陽に照らされた石竹と薔薇の花
朝露でぬらされて美しかつたが
子供たちが折る時さつと凋んだ
★鴬
上の道をゆくとき下の道で啼いた鳥
木々が花で茂つてたので
その黄緑いろの皮虜を見なかつたが
いまにして思へばしみじみと惜しい
また
年寄つて病床にきくとき
−−老いた人間は口笛を吹かぬから
その鳥は天使に変つて
窓の薔薇に巣くふだらう
室では石竹が馥郁と

五月十一日
の鸚鵡
堅しい岩の城でないわが心を
あの秘密な力強い感情が
攻め陷すのは易い
そのためわが姫は奴隷となり
敵國の王の閨房の一人となる
柘榴や巴旦杏咲く園で
捕虜の我と邂逅したとて
もはや彼女はわがものでない
そんな潔癖がわれら
貴族社会には免れ難いのだから

やはらかい樹木の葉の柔しい光に
わが五月は来
くた
卯の花腐しのすヽり泣きが
めぐ
一夜さわが床を廻つてゐた

そしてわたしの中で小鳥が一 死んでしまつた

逝つた全てのみ魂の時代を徒に
恋ひしたふまい
それは予定された変改の軌道通り
あすのくすんだ銀の時代を
おれはこれから夢みるのだ
その光が心臓には何といヽ沈静剤となることだらう
戸外では  さう心臓の外一杯に硫黄の香がする

灯はゆれる  歌につれて
悲しい聞きあきた歌だ
四辻では花が咲く
こめかみに彈丸の跡がある男
その人は俺にボンボンをくれた
俺は眠る
ゆれる灯にゆすられて
プレヒストリイ
★史前
鹿や羚羊や猪や
凡てハイエナの族を狩りした
入江では蘆の花がまつ白で
船から飛び降りるとき
貝殻で足のうらを切つた

渺茫たる水を先づ知り
銀色にけぶる無限の林を見た
赤系統の色を見ては獲
では休らひ
蒼で眠つた
時にわが手を噛む獸を馴したが
それの胴はわれのやうに細かつた

かくてわれは眠る
獸のやうに手足を折り曲げて

叫喚する我孫子のこゑ
わが憩ふ阿夫里まで聞ゆ
ハジカミ
薑を啖ふに慣れしものわれら
(ほろぼ)
ハイエナの族 北方の族を殲さむと

栗鼠が月の夜  鐘を鳴らした
木枯の中を院主はまた酔つて帰つて来た
翌朝早く起きた僕は
霜の上に点々の足跡を見た
獸か人かをだれが知るであらう
★佛×蘭×英戰爭
海から青銅の大砲が上つた
それは西暦一八二○年の鑄造になり
弗羅曼の名匠が手になつたものである−−
軍國は冷笑してそつぽを向いた
★分水嶺
痩せた陸の背中をゆく  その
脊椎骨を数へるのだ
一輪咲いた高根の花
霧たちがまた来て帷をひく
病室らしくクロロフオルムを匂はせて
★中島栄次郎に(二首)
五月雨に棕櫚さへ花の咲く頃や
葉にまぎれて青きはかなし柿の花
憂鬱のしげり通るや海のいろ

五月十二日
あの子はきつといふ
「あなたまだ信用してないの?」
または
「まあ!ひどいわ!」
だけどまるで答へを待つてたかのやうに
俺はたヽ一つの問ひに焦るのだ

Ich und du und du und du
Zweimal zwei ist viere.
Tragen Kr uze auf Kopf,
Kr uze aus Papiere.
Rechts herum und links herum,
R ck' und Z pfe fliegen,
Wenn wir alle schwindlig sind,
Fall'n wir um und liegen.
Purzelpatsch, wir liegen da,
Patschelpruz im Grase:
Wer die l ngeste Nase hat,
Der f llt auf die Nase・・・
Otto Julius Bierbaum
牧羊神の逃亡
どこもかしこも に茂り色さまざまに花が咲き
正午の太陽が照らしてゐる
島の藪の人の手のとヾかぬところで
パン
牧羊神は坐つて刻んでゐる

にはとこのき
接骨木からたくみに
笛を刻んでこさへ
にはとこのやうに細い
髯の上にのせる

上品に 低く吹き
そして彼はほヽえむ
これは夜なかに
湖の上で吹けば
夜中に
健気な詩人も悲しむだらう

これを晝なか甘く吹けば
ああ
彼等の詩人の嘆きをさませば
ああ
ああ ああ あはれな私 牧羊神に
おれのしたことはいけなかつた
俺の眠つてゐる間には
ほほえむことを
奴等は忘れてしまつたからな

低く彼は笛を吹く  それはひびく
まるでみづみづしい苔の間から
つるつるした大きな礫の上へ
明るい泉がとばしるやうだ
青い接骨木の匂りのやうに
この音曲は大空に漂ふ
一杯になごやかに

そして笛の音を一人の童女が聞いた
藪で花を摘んでゐたので
ひヾきが全く早く
つたはつて行つたので

ひとりでこヽで考へて見るには
たれかヾ笛を吹いてゐる
誰がこの笛を吹いてゐるのだらう
誰もいまヽで聞いた人は
こんな風には吹かなかつたし
ああ 彼女は音に全く混乱され
心臓ははやく動悸をうつ
きつとほんとにきれいな男が
それ故うまくふけるのだが
そして若い人にちがひない

そこで彼女は高い岩にのぼり
ひヾきをずつとつたはつて見る
藪や石や切株や
いヽや なんだ ふん
笛を吹いてゐるのは山羊だ

ああ 神様 何といふ格好です
茶色のかみのけ 太くてちヾれ
全く
それから鼻 それから脚
曲つてんだもの
ゆらゆらしつぽももつてゐる

怪つたいな二つの角
きものはだけど小い

それで彼女は笑つて笑つて笑つて
涙が出るほどわらふ

牧羊神は歌から覚め
そこから逃げ出す
しじ
いとどふかい静まにゆく
人からはなれた 人からとほい
(オツトオ ユリウス ビイルバウム)

※伊東静雄 ※絵
五月十三日 中島と伊東さん。 山中常磐を見る。
花が咲き、馬が嘶き、甲冑が鳴り、槍や刀がきらめく。
藍や青の土坡、 の松は美しい。
たヾ卑俗の慘酷さが、腐肉いろの赤となつてゐる。

星よ 堕ちて来い
レモンよ みのれ
北から吹く風で児が授かり
南風では黄金が来い

五月十四日
※・梁塵秘抄 巻二より十二行抄出。
五月十五日 丸に
棕櫚咲くやひとには遠き五月晴
卯の花の垣根に海のある家や

はで
棕櫚の花がなまじつかな華やかさで
わが館を金でふちとりすると
五月は溢れるさびしいいろとなる
外の畑では葱がはかない坊主頭を
並べてゐるのだらう
夕日の時以外には外出しないならはしである

もうし もうし 柳河ぢや
柳河ぢや
銅の鳥居を見やしやんせ
欄干橋を見やしやんせ
(馭者は喇叭の音をやめて
赤い夕日に手をかざす)−−白秋(柳河風俗誌)

ロルグネツト
教授は柄付眼鏡をとり出す
夕日の坂下で馬が倒れてゐる
アカシアよ
女の子たちが見上げて通る
石橋の下は川でない
遠くで眩い屋根がある

星辰をたヽき落とせ
プラトンが見た毒人参の杯は
ソクラテスの死後 彼の旅行につきまとふ

五月十八日 浪中の嘱託を命ぜられる ※浪速中学校
五月二十三日
かなしく穀物はみのり、丘陵は遠い。麥刈女たちは歌ふ。雲雀。
(ホトトギス)
室で時鳥の話をする。風が を光らす。土は眩い。
僕は哀れな黒 子をきて背中が曲つてゐる。
道がくねくねしてゐる。蚊が生れる。ああ、遠い丘陵を見る。
熱帯や少女がこひしいので 子にかくれる。
眞珠いろに山々が光る。ちかちかと眼の中に注ぐもの。
風の波、光の波、交互にやつて来て音叉のやうに鳴る。
僕のたましひはふるへる。午後だから。
鐘が鳴つて鐘が鳴つて、葬式は出ない。

六月一日
おれは遠く埃の噴水を見る
矢車草の色彩の混沌
野茨が白い花をつヾる藪かげ
白い道の上をよぎる蜥蜴の子
おれはこども等を愛し
南瓜の花を愛する
なぜかしらんが泣いてゐるといふ
おれは手紙を書く 腕が折れるまで
おれはあのあたりに家を建てようと

夏は柘榴のチユーブから押し出される
終日おれは噴泉を見る
そこここで啼く犬がゐて
晝はひと気がない
いぶ
おれが悒せくてゐると
掌がとほくでひるがへつてゐる
山が近い 禿げてゐて
あれを思ふと海が拡がつてくる
うねる波と輝く波とが

アトラスの苦悩を己はすでに愛した
すべての經験が己のなかで無に帰る
非有の原子を見る
神の種子が甦へると祝祭になる

六月五日 東郷元帥國葬といふ日
良寛詩集
富貴非吾事  金持ちや高官にはなりたくない
神仙不可期  神仙になれるとも思はない
満腹志願足  餓えさへせねばそれでいヽ
虚名用何爲  空しい名前なぞほしくない
一鉢到処携  どこへゆくにも鉢を一つ

(ふくろ)
布嚢也相宜  布の嚢には米を入れる
時来寺門側  時々寺門の側にやつて来て
會與自動期  子供たちと会つて遊んで見る
障害何所似  一生これ以上のたのしみはない
騰々且過時  ふらふらとしばらく時間をつぶす
    ○
青陽二月初  春は二月のはじめごろ
物色稍新鮮  草木の少しあをむころ
此時持鉢盂  鉢をもつて
得々游市廛  得意然と巷にゆくと
児童怱見哉  子供たちがおれを見つけ
欣然相將来  よろこんでさそつてやつて来て
要我寺門前  寺の門前でおれをとおせんぼ
携我歩遅々  おれにぶらさがるので歩けない
放盂白石上  そこで鉢を白い石の上に
掛嚢緑樹枝  ふくろを青い木にかけて
手此鬪百草  草ですまふをとらせたり
手此打毬子  手毬をついたり
我打渠且歌  おれがつくと子供らがうたひ
我歌彼打之  おれがうたつて彼らがつく
打去又打来  ついて  ついて  ついて
不知時刻移  時間のたつのもわからない
行人顧我咲  通行人がおれを見て苦笑して
因何其如斯  「何でまあ、そんなことをなさるのぢや」
低頭不応伊  おれはうなだれてこたへない
道得也何以  こんなことはくちでは旨く云へぬ
要値箇中意  わけを考へて見たところで
元来祇這是  もともとかうしたものなのだ

おれは思ふに一生自分の家は建ちつこない
そこでゆめ見ることにした
あの野茨のこヽかしこに咲いた
方二百坪ほどの地所がいヽ
あすこに南面の
日当りのいヽ家を建てる
児のためには子供べや
ぢよちうべや
妻の化粧室 婢室
はばかり
就中湯殿と便所をきれいにし
書斎兼應接間をひろくとり
まはり四面に書棚をくむ
そこへ英独佛蘭支の書を積み
おれはゆめのひまに讀む
おれはまた家のうしろに
花をつくる園をもちたい
家の前には香気のある
花咲く木々を植ゑておきたい
秋風春風のおとづれ毎に
それらが馨るのがうれしいのだ

芝草を食む牡牛の大さ
雲が彼の膚に去来してゐる
早い蝉が啼いてゐる
遠い木で
晝の星が山の上に淡い

みささぎのほりに水草の生ひしげりわがかなしみに夏は来りぬ

彼等は歌ふがいヽ
テラスについて
夫人について
転向した博士をものあはれげに
ギリシアの神をも嗤ふがいヽ

六月十日
サボテンめ
空の蝿をとらへをつた
(ひらた)
そのとげのある偏い手で
×
六月十一日
朝焼がすると晝すぎに降る
おれは東の方を見て決心し
西の方を向いて唾を吐いた
黄いろい瓜が實る
オーデコロンのにほひがする

六月十二日

海のまん中に裸の岩山がある
鴎が夜そこに集ると
波が 鞳と岩根をゆする
鴎たちは夢みる 虚空が彼等を脅かすと

潮風を吸つた時
海の薔薇園と
野菜畑を知つた−−
そこでキヤベツだけが育ち
藍色のうねになつてゐる
子供たちは歓声をあげ
青い 青いと呼ぶ
鴎が降りて来て 彼等の眼を啄いた

六月十七日 僕は体が大変悪い。夜よく夢を見る。

山脈は藍青の裳をひろげ
雨雲の方に靴下を見せてゐる
煙は巨人の掌のやうに
ひろがつては死ににゆく
夕ぐれから物音が分離し
急行列車のやうに時が走る
墓地に緑いろの光が閃いて
両世界に橋を架けてゐる

黄いろい枇杷を叩きおとす
フランス菊は咲かない
印刷所の夕暮をおもふ
熱が微かに引く

蘭の花をぬひつける
流沙から立ち上る都市
死人の指を折る
(うまごやし)
苜蓿の香りの中で

心臓よ
血管の木を生けた花瓶
中学の卒業式を思出す
その木も弱つたか
眩暈の雲の中で
木々は指のやうに裂けて見せる
ひヾのいつた瓶よ
色がわるいね

流れよ 俺の思惟よ
詩について生死について
神や靈や青い花や
イヒテイス
魚のために
彼女は啼く
獣のやうに だらしなく

流れよ 俺の思惟よ
魚のために

六月二十三日

息子はア・デイアドムと呟いた。父は理由も知らず憤つて撲つた。
息子はまた、ア・デイアドムと呼んだ。父は怒つて彼を殺した。そ
れからア・デイアドムと呼んで泣いた。

歴史  1
くに
百合の花の土
赤児の掌のやうに
彼の中を水が流れ
彼の文學には獅子が住む
定期の氾濫のあと
パピロスの間の鳥の巣は見えなくなつてゐた

歴史  2
中間の海を潮がゆき
レバノンの杉は金のいろ
彼等は褐色に装ひ
カルタゴの土に下り立つため
故郷の都市を見捨てヽ去る
やせた女たちが後にのこり

六月二十五日 西川英夫帰つて来る。
Ich bin traurig; die Erute ist auf,Ich h re allt glich
deu Meeresgroll・・・・Licht und Blume.
俺は悲しい  収穫も済み
海鳴りを終日聞く
ママ
紫陽花や青きに雨の光をる
×
すばらしい便りをもつて来い
この鈍色の世代の子に
ああ  玻璃吹きとなり
灼熱の太陽界に至りたや
×
無明を破らうとし身がまへ
金色の太陽にならうとした
愛は消え 雲は走つた
たゆたふひまに俺は盡きる!
×三木老先生を見てゐると
老の坂手にふれてゐし花もある
×桂川先生も老いてゐる
かの眉やいつより光り消えうせむ
×
俺は悲しい 終日
俺の林をさまよふので
(おとしあな)
穽がある
季節毎に来て
滅却の小路を見ると
愛はもう見えぬ

歴史  3
(つ)
片眼をなくした人たちに会つた。労兵会では麺麭を堆んでゐた。
ヴエルダンで一個中隊が骨に化してゐて、ワオーモンでは一個師團
が魂になつたなど。街角で鈴が鳴り、カルタがくばられてゐた。ビ
ルデイング毎に憲兵が勲章の蔭に待ち伏せてゐた。このオリンピア
祭を俺は見送る。

歴史  4
ひそかにひとびとはアカンサスから立上る。影はこヽでは短い。
大理石像は皆新鮮な傷をもち、露地では盗賊が鬪つてゐる。夕焼け
の方から嶺が消えた。

歴史  5
※化石
剱歯虎を掘り出した。埃の黒い息子、痣のある娘に電話がかかる。
石炭山での逢引を思出すがよい。凡てに悪魔の翼が与へられ、皇帝
はオウステルリツツ橋で手帛を振られた。過去がぴくりと不動の姿
勢をとつた。

六月二十六日  コギト二十六
天稟
ひるの暑さ耐えがたきまヽ、百合の花手折らむと嶺に分け入りぬ。
幽邃の気の中に美女に遭ひ、花の精かと驚けば、楚々たる容姿のま
まに山気の怪を説く。話中の怪より怖ろしさなほ甚だし。

魔の山
此の館は潅木帯にあり
晝中兎が園に迷ひこむ
エイラン苔を採り 患者らの晝の散歩は終る

六月二十七日  西川上京。松田、(中島)安田等が送る。
歴史  6
低い草だけの生えてゐる列島
大きな骸骨をとヾめてゐる
波は彼等を洗つてゐるやう
荒天には煙つて見えぬ
昔そこに荷蘭人の館があつた
天公廟から老人が遺物をもち出し
われに説明料を要求した

歴史  7
帰仁侯はいづこへ行つた
帝は? 彼に位を授けたが
今 家を暴くと衣冠だけ
祁連山を尋ねようと
青年は出発し
白髪の人がその訃報をもたらした

六月二十八日
時間
蝋の流れおちるのを見た
おれは岩や玉やすべて不変のものを愛する
女の操など
おれと仲好くてゐる天地がある

反映
鴎は波から飛び上り
波を嘲らうとした
波は歯がみして彼を脅かし
鴎はおそれに をうちならした

七月九日  あと二十二日也。
ゆき子
雲には氷がある
それは反射して紅い
おれは渇えて夕を辿る
蝉は啼く
夏の蝶は青葉に舞ふ
★また
エトルリア人はアリアン人種でない
けふおまへに似たひとを見た
埃が立ち  音楽が遠い
革命をもう絶望し
己は中学の教師でおへる
人毎に一生さといひながら

七月十九日  畏怖
己は遺書をかヽねばならない
たとへばこの推測が虚妄のものである場合より外に逃げ途はない
ひとを怨むことは一もない
死を前にして凡て愛に帰する
最も責めに任ずべきは(ゆ)に對して
凡ゆる可能な領域の思惟は
後悔(ナハロイエ)に帰一する
死まで十日間を暮し−−

詩に
なるものは一つもない
世界は混乱し
この世界に革命が起るか
大洪水がまきおこるといふ
絶對絶命を信じねばならぬ
永遠の春をとヾめ
残骸には土をかぶせ
ひとびとよ もう顧みるな

七月二十一日
夏は猫の髄に食ひ入り
俺は腹が立つ
葉  花  莖
詩にならず

七月二十七日  本社實先生を訪問。  燈火管制。
なづきに食ひゐる虫のごとく
俺は俺の己を守るため
すべて抑制干渉をいとふ
口に出さぬ間は耐え
口外するととめどない
いつかこのため人命を失ふことがあらうと
×
雲や花や木々を歌ふまい
潅木帯が盡きると草本帯
カド
高峰は尖つた稜が多い
人情を俺は知らぬ
非人情の郷に生れたからに
×かもめ
夏は犬を狂はせ 水につきおとす
いまわれも青い水を見る
子供らが泳ぐ−−狂つてゐるやうに
われは羽搏き 水面をかすめ
ひとはわれを食を漁るといふであらう
×
おれの舌を見よ 妻よ
まだあれば 早晩俺は命を失ふだろ
留舌不留命 留命不留舌
(孫)
秦氏のうまごはいま報いを受ける
俺が皇帝ならよからうものを
×
※戦艦
艨艟なり  いま整々とすヽむは
父母なり  郷に泣けるは
飛機なり  轟然摧け墜つるは
死人なり  歯を啄き出し百穴より血を出せり
×
杏や李の木が後庭に育つてゐた
郁々として馨る花をつけ
村でそんな日に花嫁が来た
杏や李の木は老いて枯れて了つた
俺は流れを見  丘を見
破瓦を見て嘆く
俺の日の花嫁の来ぬ期にめぐりあはせたことを
×
彼はうたふ  何でもが種になる
八月の炎熱に汗を流して
筆とる指からも汗が出る
ひとびと彼を熱情の詩人と呼ぶ
×
おれは岩にゐて笛を吹く
「海豚よ来い  群れて」
おれは急いてはならぬと考へた
正午に
おれは羞かしいことに空腹になつた
おれはせむ方なく笛を止めた
一町むかふで海豚たちが叫んだ
『いまごろ止めるなんて』
おれは彼等に飽腹したら
反吐を食はせてやらうと思ふ

※深い疑惑の時間がくる。
dann kommt tiefe Zweifel

七月二十八日
青い川がさヾ波を立てて流れてゐる
社がある 村がある
わたしは何を見ても死人を考へる
雜草の中で蒸れ腐れてゐたのだ
大野の中に何も楽しいものはない
明るい花園で蝶が悲しく舞つてゐる
それを弟等は網でもつて追かける
止めよ 止めよ
おまへの不滅の標本箱のために
★  Ito Shizuo
僕のなす事はすべて喜劇に終る
幕がおはつても僕はまだ泣いてゐる
観客はもう笑はない
彼等は舞台のまはりを他のことを喋つて歩く

八月十五日
高きなる神の座を降り
青草の上へと臨めば
流青く 雲白く
夏の日は数夛の火花を
渾天に漲らせ
いま笛の音と溶けて
人性を懐はしむ

八月二十七日  悠と訣別す。
さからひ難くわれを誘ふものを求めたり
わが弱き心のゆゑにこれを外に求めたり
かの愛の青き流や
希望のほの紅き峰も
わが誘ひには弱かりき
いまにして朝明けの夢には知りぬ
内なるわれの呼び声の
朝睡のごとく不知不識われを引き入れ
魔呪のあやしき渦巻きと身をなして
ふしぎなる快さ 眩暈にわれは細く透き通りし
魂としてわが本体を見ぬ
(Imitatio--Novalis)
かくて尚 かの少女を愛す
よそびと
夢に見ぬ かの子他人と親しくもの云ふと
また死ぬと青く細りて
その度にわれ泪ながし こゑあげて泣きたりし
かの少女と別れむ日
夢にまた何を見るやらむ
楽しかりし日をか−−その日とて無かりしものを
×
かのだらしなき少女
かれ
彼女はその衣をまるめてころがしゐたり
かれはその身の薄き生毛の口ひげだに剃らざりき
かれは頭髪汗くさく總身汗と脂の臭ひしたり
かれの帯は破れ かれの 子ピンは飾玉なく
かれの歩くさまは外輪にひきずり
かれの平常着は汚点だらけなりき
かくてかれを愛せむとし
かれを叱らむか否かをわれは案じたりき
家庭持つ日
主婦としてかれは堪ふべきや
その紐かれの肌着くさくにほふや
主人のわれの襯衣まろめころがさるるや
幼児の襁褓洗はずして捨てをかるるや
鍋は?  釜は?  座敷は? 庭は?
新婚幾ケ月にして本性を現すや
またその日よりずるけるや
われ これを案じ しかもこのだらしなき子を
だらしなさ以外で愛したれば
責めむとして口ごもり 口ごもりつつ責めたり

朝明け山に登る
湯わかしに湯のにえかへるやうに
シヤンシヤンと啼く蝉の坂
百合はまだ居眠つて首をふつてゐる
森から冷い空気が来る
その時熱い太陽が昇る
あたりの空気を一変させて
もう空は一面  燃えて燃えて
黒焦げの鳥が一二  飛んでゐる

秋の気立つ
秋空や荷蘭語いまだ爲し畢へず
絲瓜の水とらぬにはやし秋の空
あはれ蚊にいねやらぬ夜や秋気入りぬ
へやにゐてながるるものを首に感ず
さびしければ岩木のごとき巨を愛す
旅ごころはてぬに夏休み終る教師
此の夏は柘榴みのるや妻孕むや
何事に送らむ秋ぞ薄穂出づ
寢相いぎたなし妻見しひるや秋立ちぬ

八月二十七日 千葉へ。 石山直一氏。ゆきこひしき。
(いけみ)
小い潴に波が立つ
輝くもの
小鳥たちは群れて去つてしまつた
赤い土の上に日があり
おれは影を見る
(腕)
長い細いかひなだと
×
けふ輝く青い海と
肉のある手を見た
植物がその上を覆つてゐる
熱帯の珊瑚よ
陸を造るものよ
輝くきらめく宝石のしたヽりよ
けふ青い海の流れるのを見た
×
忘れられたやうに
山でかぎられた峽間まで
海がふかく入込んでゐる
けふそこへ手紙を書き
掌の筋をかぞへて見た
×
たえず海の方へ走る汽車に
われ忘却の愛人を懷へり
海風や青き植物や
埃立て街道をバス走る見たり
旗たててひとのゆく
海沿ひの道よ
そこらの家に何の花咲くや
世界は色の豊富さに満溢し
おれの眼はきらきらと泪ながし
木かげの椅子が二脚
おれたちが坐らうためにと

はしけやし君津の海や青波の上はろばろにきみ坐ます見ゆ
かつしかのままの手児奈やをみな子をいとしみそめしころに生れましき
うなかみ
海上のうねうね小野は芋つくりながめて見ゐれば遠くつくれる
起伏の連なる小野やところどころ低きに田あり水はしる見ゆ
ひるすぎて海波やみし海原のいぶし銀いろに照りかへす見ゆ
楠の木の木蔭にありてもの云ひぬ背後の崖に虎杖生ひて
ももちだる千葉や上總や青海原めぐらす大野身も青むがに
鹿野山に雲ゐたなびき晝闌けぬひざしまばゆき坂を降るも
海波はひるすぎしづみうなはらにまばゆきひかりとどまりたるも

八月二十八日
おれは巨大な潟地の太陽を見た
それが地表に反射してゐるのを
二つの岐路に苦しみ
一つの目的を永久に見失つた
すべて己れの原罪である

夜ふけに蝉が啼く
不安は去らぬのであらうか
喇叭が遠い
それは却つて悲しくひびく
夏草よ
花もたぬに身は死ぬ

九月二日  誰にも會はず。
九月八日  午後五時五分、内田校長逝去。
九月十日  堺斎場にて密葬。
九月十四日  学校にて本葬。
九月十七日  ゆより手紙。
まだ自分には明確な形象が来ない
青い桔梗の花
鳴らす釣鐘草よ
その肌に自分は眠り
襞の多い夢を見る
夢−−そして夜明けに静かに死ぬ
×
巍々たる峰に日輪は射す
朝は山河に
草は深い田舎
きりぎりすよ  ばつたよ
旅嚢でパンが爆ぜくりかへる

九月二十一日※   ※・室戸颱風
Zyklon
この日頃うたてき空気学校にこもれるを感じくらしゐたりき
このあした大颱風あり学校の棟いくつ倒し馳け去りゆけり
みにくかる人の争この風に止まむと思ふには或るはしからざらむ
みにくき争ごともことごとく己れ生かさむとの深きより来る
(お)
いつまでも孤り高くて處らむとぞ思へるわれもあやふきにあり
自然のあらしもあれど人間の争の輪に巻き込まれむか
(しつこ)
ある朝たちまちにして来る嵐それより怖し執拗き争は

※・ステファン・ゲオルゲ、「同盟の星」 抄出。

十月一日
霧雨
木々の茂みから立ち昇り
小川に注ぐ黄金の光
朝は深い霧
それは大理石と斑岩のモザイク
刻まれたむかしの姿を
幾百の矢が攻める


橋のアーチを見にゆく
鳥がくヾる祭壇
風よ 吹きやぶれ
鐵と石との林立
街に乞食のゐる日がない

同盟市
亞米利加の田舎のやうな小都会
(す)
街角でオペラの切符を掏られた
しかし日はまだ通りをよぎらない
水に架つた橋からひとは自分の影を見ぬ
時計屋で静かに眼鏡のレンズがひらめき
椰子と薔薇で著名な市長が飾られた
その日以来 この町に犯罪は失くなつて

合唱
おお ミオソテイスの聨合よ
菫やオウリキユラは忘れられて
雨はこの上で粉末になる
風車をまはす道化役は晝食を立食せねばならぬ

叫喚  多忙
水族館でさへも三色旗がひるがへる
魚は晝寝
水は性急
滴る眼藥に秋の植物が見える
實らぬ水ヒアシンスなどの種子−−

クルツ・エル

落陽は建物に反射した
銀のサアーベルが閃いた
マグネシウム
それは撮影用の閃光
こヽで巨大な芝居がある
世紀がそれを現像する

十月三日
ナポレオン時代の終滅
世界中に鐘が鳴りわたる
リンリン リリエンクロン−−
葛のからんだ塔よ
昔馴染の月よ
馬車はしづかに動き去る
土橋のくづれた道へと
前途の心配もなげに

十月七日  伊東さん、松田、中島。
橋わたる車の遠いひびきにあらゆる星は堕ち
都会はすでに巨大なる輪轉印刷機
花賣ることに会意文字はある
傾く大廈 立直る高樓
小学校で犬を習ひ イヂメツコは画家となつた

十月八日  隅田先生、岩鼻先生。

で思案する
このあたりは木の花が多い
いろの鳥が一面にゐて
遠くは山が据つてゐる気配

甕には薄赤い花がさされてある
ほのかな光が上品に
今年の菊は荒らされて
娘たちは色が蒼ざめてゐる
戰爭よ 錦魚のゐぬ屋敷
にはたづみに陶器の鶴がある

十月十七日  ※・バッカス祭
Bacchanal
高原を去来する雲に比へよう
この家鴨たちの大艦隊
水兵の吹き鳴らす嚠叭に
街では方々で火薬が爆ぜる
親類で一人の少女が
無辜の懷胎を告白した
×
とヾまれよ この街に薄明
菊賣る店の香−−午前五時
白い霜の早く消える街角
朝日は藏ひ忘れられた國旗に

十月二十日
ゆふぐれ この都会の上に
雲がしばらく止まる
そこに地図が描かれてある
アジアは青く
ヨーロツパは紅い
そこから稲妻が来る
陸橋を遠雷のやうに
のろのろと市内電車が横切る
×      ×
おれは芥と共に川を下る
一つの島に上陸する
夕焼や暁のいろを見て
高い石の階段を登ると
海も陸も限りなく広かつた
×      ×
おれは家族を持つてゐる
一つの家系
ママ
その特兆として梅花形の痣を
背中に持つてゐるものたち
金貨に共通の祖先の形が彫まれてあり
それを  匣の底に見出した
×      ×
塔は都市の上に手を拡げてゐる
見えない糸が夕方手繰り寄せられる
蠢めく無数の青い蜘蛛たち
微風が通ふ河川の上で
凡ゆる影が入りまじつてゐる
死者が現れて呪ひをこめるとき
再びこの都市は廃墟となるであらうか
×      ×
此の都市で劇場の入場券と
(だかん)
中央銀行の兌換券とが相似してゐた
奇妙な類似が支配者と被支配者の間にもある
飯を食ることと 生きてゐることと

十月二十五日
航路
ミモザの生えた島を右に見
左には泥臭い洲がある中を
薄い煙を立てヽわが船はゆく
驚かされた鳥たちが羽ばたき
その悲鳴の中に白い花が散るのを見た

フアタ・モルガナ
多くの女体柱の聳える島
哄笑が晴れた大空からひヾく
松林では小鳥と蝉
ヴエール
その上にうつすらと棚びく面紗

十月二十七日
わしは都会の眞中で榛の實を賣つてゐた
友達は公爵や仲買人になつた
榛の實では子供たちの玩具が多く出来る
そしていつしかわしの影は老いて行つた

皇帝がヴオーモンで云はれたことは事実となつた
彼は元帥を得  片脚を失つたまヽでゐた
彼の息は唖  彼の娘は美人
彼の孫に色盲が一人  血友病が一人  他は健康だつた
彼は瞑目する時    に恩惠を謝した
事実  彼の館ではコリー種の犬の外に不幸なものはゐなかつた
それは当時ヂステンバに悩んでゐた
彼の館は今のR公園だ
そしてわしは朝夕の散歩を彼の銅像の前まで行ふ

卵に毛あり、鷄は三足。(荘子天地篇)※安西 衛の詩「物」の出典。

十月二十八日  新築地の「タルチユフ」を觀る。
北の海に魚がゐる。その名は鯤と呼ばれてゐるが、その大きさは
幾千里かわからない。変じて鳥になると、その名を鵬と名付ける。
鵬の背は幾千里かわからない。怒つて飛ぶときにはその翼はまるで
天一面の雲のやうである。この鳥は海の上をわたつて南の海にゆか
うとしてゐる。南の海とは天地のことである。
  斉諧といふ怪異な事ばかり記した本がある。その諧に云つて曰ふ
には鵬が南の海に徒るときには、水三千里を撃つて、そのあふりに
よつて九万里の高さに上る、そして六ケ月たつて漸く南の海に徒り
終へて休むものだといふのである。
※第一書房より出版される「青い花」のこと。

十一月一日 長谷川氏よりオフテルデインゲン出版のハガキ来る。
ゆき子より便りなし。

十一月二日  松田と興地先生を訪問。
帰来、増田忠氏結婚の通知あり、うれし。
地上には祝祭、天には新たな祭典。
たましづめ
この饗宴は同時に聖い鎭魂の歌げ

十一月四日  まだ
湖尻
かすかに動く水の雲
ヘスペルス輝くなべに
ヴイラ
湖岸では明るい別荘と
山とりかぶとの花
水の香ひがして四辺に合唱がひヾきわたる


やまかがし
夏の気配をゆめ見つヽ この石の上に赤棟蛇は冷くなつた
こほろぎが啼くすヾしい空
森で羊歯が鳴つてゐる
髪を洗つてゐる女が日向の水辺にゐる

流沙
ここではヘルペルスの輝く空が暑い
夕方遠くに雲のひそまるのを見送る
鳴らない風
  と白の砂丘に
例へやうのない惨酷な生き方をして
獸たちが埋められる日が来る

少女について
疑ひ出すときりがない。そんなに頭を費すに價しないと知り乍ら
日々を送る。俺はひとりで鬼をこさへ、影を追ふものだ、自分の尻
尾を呑む蛇だ。しかし知ることに何の解決があらう。一の信さへも
ない己。菊咲く頃はいつもかうか。仙藏院の十一月は寒く、大阪で
暑い寝床にねてゐる。ガブリエル・フオーレ。太田黒元雄。

わがをとめよもそむかじとおもへどもうたがひ夛きさがなるわれは
わがをとめひとめひかじとおもへどもねたみつらみの夛きこのごろ
わがをとめふみよこさざる二十日まり一月ちかくみは痩せに痩す
わがをとめわがしるごとくをろかにてあやまちせじといひきれぬがに
身はとほくへなたりたれば疑へり共にある日は疑はざりき

ber der Verlsehr mit Johanna Kaschiwaiina
昭和六年三月十五日頃、東京帝大文学部入学試験終了後、はじめ
てその家に到り相見る。顔色わるき、されど眼あげてわれを見し少
女なりき。その眼、神経的なりしと思ひたり。
昭和七年一月頃より、漸次相親しむ。その以前には共に朝夕通学
す。われ、この少女を得むと思はざりしにはあらねど、手に入れ得
むとは思はず。この頃よりやヽに相依るものあり。

※集会参加に係わる拘置事件。
昭和七年二月十一日、われ不慮のことあり。そのときわれを思ひ
慮りゐし旨をきヽて喜びたり。
同年三月頃より漸次交渉すヽむ。帰郷中はじめて来診あり、兄と
呼び来れり。
同年七月幾日、帰郷。その以前、小母より数回皮肉を受く。
同年九月以来、母と吾との間に立ち、泣く事夛かりき。
(かわ)
十一月、ついに吾、その家を去る。寺に入りて文をやるに渝りなきことを誓ひ来る。多摩川にゆきしもこの頃なり。妙正寺池、堀の内方面にしばしば遊歩。
八年三月、立教高女を卒業す。
八年四月、上京の際、迎へに来る。青く汚し。
五月頃、この頃しばしば家へ来るとて小母より禁足さる。

六月二十五日、はじめてKorperliche Verkehrをもつ。
夏休み中より、新宿伊セ丹の店員となる。
九月より九年三月にかけ、日曜の休日に下宿にくること夛し。
思ひ出の町として、中野、東中野、新宿、阿佐ケ谷。
九年三月二十一日、帰阪。以後八月一日まで会へず。正に四ケ月と十日なり。
八月中頃、伊セ丹をやめ、某会社に移る。
八月二十七日、決別。以後十月六日の手紙まで一月と二週足らずの文通。

十一月七日  来信。
十一月九日  丸三郎 来る。
十一月十八日  誠太郎叔父いよいよ悪し。
葡萄揉みの歌は聞こえぬか
窓を開けると寒い ヘスペルス−−
お嬢さんのシーツ それは霜だ
おれの紅い血 それは山々の紅葉
★★日本古典派のために。
ギリシア人は「事物の正鵠を失したるもの、均整を失ひたる」もカイロスのを見て不快に感じた。「此の正鵠均整の感じ」「いはゆるκαιρστの感じが彼等 の文学、 芸術に於ける中心的な特徴となつてゐる。」
「就中、彼等は文藝に於ける明瞭性を尊重した。不適当な装飾にも増して晦渋を厭ふた。彼等の表現法は即物的である。」 「ゲーテが古典の特徴として挙げた純一性(アインハイト)と明瞭性(クラールハイト)とは、正に此のギリシア文学の二大特性である。」

イオニアの海には海豚が游び
春にサラミスの海岸には菫が咲く
ヘラスの人々は青と菫色と
すべてのいろの澄んだものを好む。
神に凡ての美を  凡ての美に神を觀
酒宴には手を叩き
葬儀には首をうな垂れた

十一月二十三日
青春
高い山に登つて俯瞰する
谷に人や馬が群つて
岩や石塊が寒い眺め
夕暮まで暮らして道を下りるに
白雲の中に迷つて了つた

建物の肩から寒い山が見え
橋を渡れば冬の風が来た
この橋や町には馴染んでゐて
何処にも花など咲かぬと思ふに
日に日に愛憐の情断ち難い
黄色い絹の手帛を人に贈るために
この商品券を利用しよう

十一月二十六日
悔恨
紅葉の美しい谿を見ると
俺の心には消し難い衝動がある
やがて山々には雪が来るだらう
ひつそりと山村は静まつてゐる
烏が街道を歩いてゐる
神秘な嚮導者
俺は休息をとるのために一軒の扉を叩く
白髪の嫗が現はれて
手眞似で入つていヽと云ふ
こヽに言語の終焉はあるか

十二月四日 午後三時五十五分 誠太郎叔父死す。
首を鳳翔縣に囘らせば、旌旗晩(クレ)に明滅す。前みて寒山の重なれる
に登り、屡々飲馬窟を得たり。邠郊地底に入り、水中に蕩潏す。
猛虎我が前に立ち、蒼崖吼えて時に裂く。菊は今秋の花を垂れ、石
は古車の轍を戴く。(北征)
日色孤戌隠れ、烏啼いて城頭に満つ。中宵車を駆つて去り、馬に
飲(ミヅカ)ふ寒塘の流れ。磊落として星月高く、蒼茫として雲霧浮かぶ。大
なる哉、乾坤の内、吾が道長く悠々たり。(発秦州)
林迴にして峽角より来り、天窄くして壁面削れり。[石奚]西王里の石、
奮怒して我れに向つて落つ。仰いで日車の傾くを看、俯しては坤軸
の弱からんことを恐る。(青陽峽)
季冬日已長、山晩半天赤、屬道多草花、江間饒奇石。(石櫃閣)
温蚊蚋集、人遠鳧鴨乱、登頓生曾陰、欹傾出高岸。(通泉駅南)

朝  花咲く村道を辿り
夕方  ピアノ彈くを聞いた
蛙らが生まれ  草木が匂ひ
石がすべて赤く  白い
傾いた地塊−−日の車は
そこをまつしぐらに駆け降り
わが苑の日まはりの花に留まつた

十二月十三日  午後六時四十分  祖父死す。享年八十四才。
十二月二十三日  着京、わが家に入る。
十二月二十八日  小母と話す。確執あり。
十二月三十一日  父、上京。

(新年を)
十年 一月一日 肥下の宅にて迎ふ。ゆと新歌舞伎。
一月五日 出京。
一月十六日 中島来る。

ヴエネチア
昔  褐色の夜に
橋辺にわれ佇んでゐた
遠くから歌が来た
黄金色の滴が
ふるへる水面にしたたり落ちた
ゴンドラ  燈火  音楽
恍惚と薄ら明りに漂び出た

わが心  絃曲は
目に見えねど感動して
ゴンドラの歌を秘かに歌ひ出た
色あやな幸福にふるへながら
−−たれかそれに耳を傾けただらうか・・・ (ニイチエ)

黄金虫の歌 (ヘツセン民謡)
とべとべ黄金虫
お父は戰爭で
おつ母は火薬島で
火薬島は燃えちやつたぞ (子供らの魔笛)

てんとうむしの歌 (民謡)
てんとう虫 お坐り
僕の手の上に 僕の手の上に
何ともないんだよ
何にもしやしないよ
おまへのきれいな  をみて
きれいな  見るだけなんだよ

てんとう虫とんでけ
子供がどえらく泣いてるよ

てんとう虫とんでゆけ
となりの子供へとんでゆけ
何ともないんだよ
何にもしやしないだよ
きれいな  を見るんだよ
ふたつの  に挨拶するんだよ

家が焼けてる 子供が泣いてる
どえらい どえらい 泣いてるよ
わるい蜘蛛がつかまへてる
てんとう虫 とびこめよ

一月十七日

俺はとぶ
日は已に傾き  風が強い
感情が昂ぶり  弧が旨く画けぬ
冷い虚空で
俺は独り言をいひ
俺は巣をみ失ふ

一月二十日  祖父誠太郎叔父満中陰。
俺は多くの半島を知つてゐる
就中  禿山と松の實の多い半島を

二月三日
遠く家々が沈み
桃咲く園や  小波の渡しや
松風は白い

沖から人々を呼ぶ
空間ははがみし  犬は吠え
大理石の噴水池で

今見る少女は
喪服を脱がず

二月二日
橋の上で
俺はあまたの影を見る。
雨の中で川波はゆらぎ
花は咲かぬ日より

二月三日
遥かな道を来てふりかへると雲の中で
赤や  の旗を立てヽ行列が行つた
わしは山や谷に分け入り  懸崖に菊を見
菊はわしの眼の前で開き  懸崖は手の指のやうに裂けて見せた
突然夕星が見え  わしは思はずほうと啼いた
一声啼くとあとはつヾいていく声も出た

月明かりに花花は貝殻のやう
土人たちは眠く歌つてゐる
いたるところ  黄の鳥を見る
神は来てはまた往かれる

※・以下、田中家所蔵の古文書より抄出。(□・空白、※・不詳)

二月十九日朝、天満與力町大塩平八郎屋敷ニおいて、鉄砲の音ホ
ンホンいたし、其門玉□□建国寺庭へ飛来り大に驚き、御屋敷へ其
趣の答ニ成候処、如何にしても不審の事成、早速加藤莊三郎殿大塩
屋敷へ罷越、今朝より鉄砲の音いたし如何の事に候哉と取次を以申
入候処、大塩よりの答に窮民救の爲に放火□□併御官へ對し□□□
不敬の儀不致、間此段御安心被下、貴殿にも此方の味方に御付相成
□□□□□無之□□□申事故、宗三郎殿大ニ驚き早く屋敷ニ立帰り
一統評議なし、和田山府申し事故、堂島弥田方へ申来□□付、早速
弥田御官へ馳行、此店へも申来り馳付候処、最早東西の与力町中へ
鉄砲大筒等打込、大火と相成、夫より大筒弐つ車にのせ、与力町よ
り引出し、壹つの車ハ天満橋南へ越へ、一つの車ハ天満中大家の□
打込、市の側西へ行。堂嶋不残焼捨、夫よりかじ又かじ、東へ打登
りて申積りの処、難波橋迄来り候処、尼ケ崎御屋敷御門前、夫々厳
重にかため候。西へ行□□かたがた、夫故難波橋南へ渡り、能つけ
※に嶋善へ打込、嶋庄同所夫より岩城三ツ井へ打込、東堀へ渡り米
  へ打込、その外、道すがら爰ト思ふ処ハ打込打込いたし、其上風
もはげしく候故、誠ニ天満上町、船場とも一時の火ト相成、恐しき
事に候。安濱川のはし迄相片付、在所ニ親類有るものは家門在所へ
にげ、或ハ堺へ行、兵庫西の宮、播州辺迄も逃行。誠ニ前代未聞の
事難※筆紙御座候。

二月七日
Ich liede an Tn.
二月八日
銀の峰々  黄金の原
ドイツは青い流れに浮び
サクリニヤの王  バイエルンの公
カルルスブルグのハインリヒ
リンデン咲けば猫歩む
裏町  花束  地下電車
二階で造花屋
三階  洋服屋
四階  マネキンクラブ
五階で夫婦喧嘩
六階以上は雲の中
ベルリン中が花ざかり
途にカフエを立ち飲み
人に見られて散歩する
フリイドリヒ  ウイルヘルム三世の銅像前まで

二月十五日  薄井敏夫君。

八月、東京での予定。
1  訪問−−ゆき子、肥下、松本、西川、川久保、岩佐、池内先生、
岡田氏、丸、?春山、?百田、?酒井、?饒、?北園、
?あき氏、
会ふ人−−橋本、丹波、薄井、和田先生、保田、
2  松浦悦郎遺稿集の件
3  ヲランダ語
4  東洋文庫 ※大塚。

知人録       ※住所略。

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島稔・
式守富司・
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佐藤義美・
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吉田金一・
吉川則比古・
和田清・
八木あき子・
直野栄・
池田榮一・
原田重雄・
梅本吉之助・
川崎菅雄・
田村二郎・
俣野博夫・
横山薫二・

(第10巻終り)


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