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田中克己日記 1946-1947

昭和21年 1月29日〜昭和22年 9月25日

21.3cm×16.5cm 横掛ノート(fairfield  girls' schoolsingapore exercise book)に縦書き   本冊画像PDF

p1   田中家系図

【参考資料】 詩人大垣国司について 芳野清 「月に招かれた男」抄(「果樹園」所載)

       『敗戦日本と浪曼派の態度』 澤村修治著、2015年ライトハウス開港社刊行

        半自敍伝 昭和21年回想 無条件降伏〜北京〜天津〜京都〜東京


【昭和21年】

 詩人は戦場の庭で何を見、何を感じ、どう変ったか。或ひは変らなかったのか。

 昭和20年3月10日の大空襲で東京の市街地が灰燼に帰したのを見届けた詩人、田中克己はその二日後、召集の電報に接し、急遽下阪して中部23部隊に入隊。 そのまま北支に派遣され、独立警備歩兵として情報室付任務に当たり、半年後の敗戦を河北省唐県の田家荘で迎へます。軍属待遇だった3年前の文士徴用とは様変はり、 此度は一介の二等兵。戦争が終結しても、その後内戦状態に移行した中国では軍規がものを云ひ、大隊本部情報室の雑役として使はれ続けます。 脱走を試みる前に現地除隊になったのが10月。身分を隠して北京へ逃れ、天津で歯科医を手伝ってゐた義弟の許にひと冬を寄寓して、 仄聞する日本荒廃の噂には一時、中国への在住も決意したと云ふことです。

 戦争中のできごとはのちに雑誌「祖国」に「老兵の記録」として、続いて「果樹園」に「半自叙伝:無条件降伏〜北京〜天津〜東京」として連載されてゐます。 昭和20年1月の時点で敗戦を悟り、現人神(あらひとがみ)の否定にも至った詩人ですが、自らの戦争責任や、信奉した皇国史観とは何だったのかといふ思想的総括が、詩や散文において綴られることはありませんでした。 この詩人が、不満を上下人心の荒廃と不正に対してぶつけることはあっても、それを社会のシステムに向けたり、況んや共産主義へ反転するルサンチマン(怨念)を抱く体質にはなかったといふことですが、 多くの庶民の心情と同じく、報国思想をもって「大東亜の開放と共存統一のために」戦争協力を行ってきた日本人全般に共通した感慨をもって生きてゐた証拠でもなかったかと思ひます。

 上記の回想連載中にも、「大東亜戦争を熱祷した」自著「神軍」の刊行経緯に触れ、「熱祷した戦争の結果が、どこまで自分に及ぶか見きはめようと思ってゐる(「半自叙伝16」)」と記し、 また未だに「愛国心と尊皇心をもってゐる」自分が世の中から取り残され、「わたしは今こそひとりなのだが、そのひとりのバカげた頑固さに、 早く転向しないと危ないぞと忠告する者はどこにもゐなかったし、もとより「やれやれ」とけしかける者もゐなかった。(同17)」と告白する詩人にとって、 日記は途絶したページから作意なく書き継がれるべきものでした。後日発表された文章を担保する原資料としてだけでなく、敗戦後の世のありさまが、 家庭人失格を自認する詩人の姿とともに正直に写されてゐるところに、資料として一貫した価値が認められると思ひます。

 戦後日記は、京都の父親の許で保管されてゐたノートの続きに、義弟一家と共に帰国を果たした記録から再び綴られてゐます。ときに昭和21年2月20日、 佐世保に入港。23日、京都着。3月6日に東京の焼けずに済んだ天沼の自宅へ帰還。子らは無事でしたが、夫人は岐阜県大垣に疎開中、十二指腸虫に侵されてダウン、 代って炊事に追はれることになった詩人は、今後の方途を恩師和田清に図ります。しかし穏健思想の持主であった師にあっても公職追放の嫌疑にかかる状況にあった東洋史学界で、 職をみつけるといふことは尋常でなく、その年の帝大入試でも東洋史学科は希望者はたった二人といふ有様。戦時中の“活躍”により公職追放は避けられぬことを悟った詩人は、 教師になることをあきらめ、斡旋された外務省の仕事や、出版各社からの依頼に応じて原稿を書きまくってゐます。これらの依頼はアプレゲールが未だ登場する前のシーンにおいて、 文字に飢えてゐた一般需要によるものであったと考へるべきでありませう。さうして実に多くの出版社が立ってはつぶれするなか、 抒情詩人たちも出版活動に係り活動してゐることが日記から知られます。小山正孝の「胡桃」は一冊で終りましたが、眞鍋呉夫や日塔聡、 そして国文学者であった角川源義が堀辰雄の後ろ盾になって「四季」が再刊されます。角川書店は御存知のやうに出版企業として生き残り大成長を遂げますが、 田中克己は学者として生きる志に変はるところなく、起業家として一旗あげることや、出版人としてサラリーマン生活を送ることなどもとより眼中になかったやうです。

 ただし詩に対しては、戦時中からこれに情勢的に取り組んできた“報ゐ”が、強面の思想が取り払はれたせゐで一層はっきりと顕れてきたやうな気がします。 ジャーナリズムとは縁が無く、生活者としては一介の教師としてあり続け、あくまで詩を本分として生きた伊東静雄と比べ、学者を本分と定めるも戦時中、 ジャーナリズムに持ち上げられ公的側面へと流され続けてきた田中克己の詩業の評価は、このさき大きく水をあけられることになるのです。三好達治と同様、 文語をあやつる分には美しい詩想も、新時代に語るべき口語表現に頼るとき、「個:孤独」に碇を下ろして詩作してこなかった抒情詩といふのは、 新しい民主主義の白昼光の下では一層面映く感じられてなりません。だったら中原中也や立原道造の詩なら相応しいかといったら、これは再刊「四季」が挫折した理由ともつながる、 四季派の抒情詩(もしくは詩人)と戦後世相・ジャーナリズムとの親炙性といふ、現代詩の問題として論はれることになるかもしれません。

 さて、日々の生活に追はれ、とりわけ物価の高騰に音を上げた詩人は、戦災に遭ふ事の無かった京都に住む父の意見や、戦前、 天理教の管長中山正善(大高卒業生)の許で貴重書コレクションの整理にあたった杉浦正一郎からの誘ひにより、東京を引き払って西下、 天理図書館の司書研究員となることを決意します。具体的な面倒は、同じくコギト同人で天理外語学校で教鞭を執ってゐた服部正己一家がみてくれ、 難渋した住居探しも保田與重郎の口利きにより、桜井町内に来迎寺の離れがみつかります。
 以後、詩人は服部・保田宅に頻繁に出入りし、物資窮乏のさなか、 日記に日常煩瑣なやりとりが物価とともに書き記されてゐるところが面白いですが、保田邸では本人より剛毅な父上と話が合ったやうで、 服部正己は気安さもあってか戦死した中島栄次郎亡きあとの将棋指しの対局相手にされてゐます(笑)。この地にありながら肥下恒夫のことが念頭にない訳がなく、 絶交以来全く話題にも上ってゐないことが異状なのですが、これは翌22年4月に詩人の方から復縁に訪ねます。

 絶交といへば精神を病み、萩原朔太郎からの書簡などを預ったまま紛失させてしまった大垣国司に対する怒りは、東京を去るに当りやうやく解かれたもののやうですが、 期待された結婚が発病によって破談となり、田舎の精神病院で不遇の(不審の)死を迎へる運命については、「果樹園」に連載された芳野清氏の散文「月に招かれた男」の抄出を掲げましたのでご覧いただければと思ひます。 彼については悠紀子奥様からも、詩人の出征中隣に住み込み、空襲警報が出ると押入れに飛び込んだまま出てこないだとか、 二階の手すりを伐って薪にしてしまったとかの逸話を仄聞しましたが、日記ではこの年八月に父の訃、十二月に「発狂した」と、本人より直接報告の手紙がもたらされ、 芳野氏の回想を裏書きしてゐます。

 大垣国司だけでなく、これまでに気安く交はってきた詩人たち(中島栄次郎、増田晃、薬師寺衛、山川弘至)のことごとくが戦死し、 教へ子にも文学畑へ進む者に恵まれなかったこともまた、田中克己の詩人気質を理解し、詩業を称揚する後輩が、伊東静雄のやうにはできず、 再評価にも影響したのではなかったかと思はれてなりません。

 さうして“都落ち”を決意までして始めた新生活ですが、以前に較べて暮らし向きはよくなったのでせうか。いえいえ、上司に対する第一印象からして辛口に過ぎ、 不遜ともいふべき人物評を日記に洩らさずにはゐられなかった詩人です。杉浦正一郎も早々に「嫌なら辞めても構はないから」と、呼んだことを内心後悔したかもしれません。 貴重な古典籍を誇る図書館こそありましたが、田舎といって食糧に困らぬのは農家のみ。火の車の家計は、 米から野菜・タバコに至るまでの細々とした購入明細を記さずにはゐられなかった日記形式の変貌に明らかですが、不満は物質的にだけでなく、 やはり閉鎖的な環境の中で情報と交流に乏しいことがじわじわと詩人を苦しめはじめます。

 目と鼻の先の近所には保田與重郎が泰然自若として構へ居るのでありますが、“田園の憂鬱”は如何ともしがたく、京都住まひの実家への帰省、 そして詩人の癇症とプライドとを承知の上で何くれと世話を焼いてくれる旧友や教へ子、とりわけ旧友である服部正己と羽田明の存在がなかったら、 さぞ孤立した精神生活を送ったのではないかと思ひやられます。

 詩人はやがてこちら関西圏に残ったあたらしい仲間たちと、あたらしく雑誌を興す活動に入ってゆくことになります。キーパーソンの詩人たちはまだ現れません。 むしろ注目すべきは無聊を喞つ私生活において同僚の後輩女史たちから、機知に富み風通しの良い話をする、都会からやってきたスマートなインテリゲンチャとして詩人が人気を集め、 正に“モテ期”に入るといふことではないでせうか(笑)。日記を読む限りはとんでもない風呂嫌ひであったやうにも受け取られるので、 不思議なことではありますが(この風呂嫌ひの件については御遺族から田中家の名誉に係はるとの疑義もあり(笑)。記述の遺漏、もしくは森鴎外式の清潔を心掛けてゐたのかもしれません。)、 忘年会の飲み会がきっかけとなって、同僚の娘たちとの関係は親密度を増して参ります。


昭和21年

1月29日
天津貨物廠ニ集結。

2月15日
荷物検査スミ。塘坫にて乗船LST899号。

2月20日
佐世保早岐着。南風崎旧海浜園に入る。

2月22日
午後南風崎発。

2月23日
18:00京都着。小山下総町の父の宅へゆけば父上上京中、母、大と今井叔母とあり。

2月24日(日)
三高、京大にゆきしも無人。羽田宅を訪れ日暇なりしことを知る。羽田高槻にゆきて不在。

2月25日
羽田より電話あり。16:00訪問、御馳走になり夜、羽田博士(※羽田亨)を訪ね、今西春秋、小野勝年、江實、佐藤長等の消息を伝ふ。

2月26日
京大研究室と東方文化(※東方文化研究所)にゆき、藤村[美]、外山軍治、内田吟風、水野清一、小川茂樹(旧姓貝塚)氏等と会ふ。

2月27日
新円旧円のことにて忙し。父帰らず。

2月28日−3月3日 忘

3月4日
父帰り来る。悠紀子十二指腸回虫のため痩すと。

3月5日
朝より荷物梱包と切符買ひ(三十四円)とにて忙し。16:00父の家を出、夜行に乗る。立詰めなれど話し相手あり。

3月6日
6:50東京着。家に帰り一休みせしのち隣他に挨拶。

3月7日
雨、家居。荷物整理。本みなあり。靴二足のみ売られしと(※妻子疎開中、一家族(森氏)入り居り、そのまましばらく同居してゐた由:「果樹園」4号より)。

3月8日
寒し。煙草と米の手続すませしのち、和田先生宅まで徒歩、途中川久保宅に寄りしに消息なしと。先生在室、鎌田のことなど話され、龍野四郎来り会し、 「歴史上より見たる中国文化と東亜及び日本文化との関係」「同じく思想」の課題与へらる。3、40−7、80枚、期日五月十一日(※外務省調査部の仕事。 「君ならなんでもすぐ書けるからね」の言葉あり:「果樹園」4号より)。

3月9日
寒し。夜、齋藤磯吉町会長を訪ね、北支満洲のこと話す。二児その地にあるが故也。

3月10日(日)
朝、近処の警防団仲間に挨拶し、丸三郎を訪ね、岡山幸伯母を訪ぬ。午後、健来る。大垣をまぜて話す。外套父へと託す。この日佐伯(※好郎)「マルコポーロ」 (2.00)「亜細亜ロシヤ民族誌」(18.00)購ふ。雪降る。「中国文学復刊号」来る。(※もと竹内好編集、未帰還中に復刊:「果樹園」4号より)

3月11日
朝、史湿疹治療のため南博士にゆく。西川英夫父より来信。(※長男は長野県への集団疎開より帰還:「果樹園」4号より)

3月12日
終日家居。父、羽田、時代社、中国文学研究会へハガキ。夜、雪積る。

3月13日
終日家居。小高根太郎、松本善海へハガキ。

3月14日
午前中、荻窪へゆき子の保険とりにゆく。十年一円づつ掛けて124.00円なり、直ちに貯金(※封鎖貯金)となる。父よりハガキ、全田忠蔵叔父、六日死すと。

3月15日
午後徒歩して目黒の白鳥先生宅にゆく。千葉へゆきて不在と。竹内好の留守宅を訪ねしに(※未帰還、母上は)浦和の妹の嫁ぎ先にありと。後に那須辰造その他入りたり。

3月16日
一日家居。夕方健来る。明日切符買ひ、福井県三方湖にて実習後帰洛と。

3月17日(日)
昨日雪降る。家居。夕、青木陽生来る。

3月18日
家居。大道妙子(※)、大より便りあり。(天津での知人の夫人。消息通知を頼まれた。:「果樹園」4号より)

3月19日
雨、家居。手塚、中野清見、佐藤誠の家、内田勉の家、大塚幸太郎、小林俊文(※戦友)へハガキ出す。

3月20日
家居。無為。

3月21日
家居。父より〒。加藤繁先生六日御逝去とお宅より。宇田川隊の深井兵長、別府に店(※運動具屋:「果樹園」4号より)出すと。
けふ春季皇霊祭なれど人来ず。和田甚吉氏死すとて香奠つつむ。

3月22日
久し振りに元気。朝、北京の岡田志紀氏一家帰省(義弟の嫁の実家。除隊後一ヶ月、北京新華門内の同家に寄宿。:「果樹園」4号より)。二月十二日に貨物廠に入りし也。午後久し振りに入浴。
深井、大道妙子、大にハガキ。豊島区千早町一ノ十八 伊福部隆氏よりパンフレット。

3月23日
家居。和田先生より二十六日13:00丸ノ内ホテルへと。三十日13:30大学にて原田淑人先生引退の談話会と。夕方小松京子氏(※大垣国司の恋人)来る。大より岩波文庫の「古事記」「日本書紀」来る。

3月24日(日)
快晴、齋藤町会長来られ外套下さると。煙草の自由販売に並ぶ。小高根太郎、手塚隆義氏よりハガキ。

3月25日
亀井昇より帰還せしと。午後大学へゆきしに和田先生教授会中、善海は殆ど出勤せずらし。護雅夫君にきけば明日の会三十日に延期の様子。
山本書店へゆききけば、岩村[忍]は内閣にて今次戦争のこと書く様と、不快。

3月26日
帰還挨拶状書く。白鳥(清)、三好(達治)、杉浦(正一郎)、前田直(直典)、保田留守宅、桑原(武夫)、野田(又夫)、薄井(敏夫)、本荘(実)、本位田(昇)、服部(正己)、伊東(静雄)の諸氏。
夜、南義一博士(※医師)を訪れ閑談、我(※昭和20年)一月敗戦を云ひゐしと。

3月27日
快晴、暖し。外務省、和田先生、父より信。文芸世紀来る、山川弘至戦死と。

3月28日
無為。

3月29日
無為、散髪す(3.40)。

3月30日
12:00より外務省の会とて丸ノ内ホテルへゆく。和田先生来られず。鈴木俊、野原四郎、龍野四郎、市古宙三あり。
平野義太郎氏より挨拶さる。この夜不快(※「こやつよくも帰ってきたな」の顔二三人ありし。:「果樹園」4号より)。

3月31日(日)
家居。〒父、大、白鳥清先生。夜、停電。寒し。

4月1日
家居。[〒]母、前田直典、大道妙子、竹内好の妹君。

4月2日
〒三好達治、保田留守宅、保田天津貨物廠にありと。午後永福町の青木へ芋もちゆく。

4月3日
(神武天皇祭)陽生一家肉もち来る。小高根太郎二郎来る。二郎中支より帰りし也。昼食をともにし、阿佐ヶ谷岡山(※幸伯母宅)へゆき、堀辰雄氏のこと尋ねしに五日まで滞京と。
夜、再訪、四季再刊と。(※「四季」を角川書店より再刊する、ぜひ詩を書けといはる。:「果樹園」4号より)

4月4日
無為。

4月5日
無為。悠紀子、体悪しとて不快。

4月6日
雨、14:30青磁社の小山君(※)等来る。堀氏より(※帰還を)聞きしと。〒大塚伍長。伊東へのハガキ返送、戦災に[遭]ひし也。(※青磁社勤務は小山弘一郎だが、ここは小山正孝か)

4月7日(日)
〒選挙場入場票。けふ夫婦はじめて五百円生活の内容談りあひ慄然。ゆき子十二指腸虫(※)の有無、前田博士も自信なしと。(※疎開先岐阜県大垣にて罹患。:「果樹園」4号より)
 北支那の棗林にわがいのち棄ててくべきをかへりこしはや
 ひとみなのくるしむなかにわがつまとわがつみおひていとどくるしむ
 つまこらをま[さ]めに見よとすめがみのかへらしまししこともくやしと

4月8日
依子入学式に10:00杉並第九へゆく。一年三組、担任志田女史。和田先生をお訪ねする途、永福町を通り千草宅による。先生御在宅にて就職のこと考慮せん。
土曜十時に元太平洋協会へ来れ。加藤(※繁)先生の幼時の絵など見せられ。二十四日追悼式ありと。
16:00小高根太郎を訪ね、夕食よばれ杜甫四冊(※「国訳漢文大成」:「果樹園」4号より)借りて帰る。〒桑原武夫。

4月9日
在宅。山内四郎(※天津時代の友人:「果樹園」4号より)、三月三十日帰国、九日頃より上京との〒。

4月10日
選挙にて学校会社休み。12:00杉並第五の投票場にゆき田辺忠男、小林元、佐々木俊雄の三氏に投ず。佐々木氏は齋藤町会長の推薦なり。みな人を知らず。

4月11日
小林俊文より〒、岡谷にあり来よと。返事かく。大塚幸太郎へもハガキ。常会に出席、女のみ。國分夫人帰京と。

4月12日
大より五月二三日頃上京と。室なき由返事す。國分節子花屋へ就職と。わが投票せし者みな落選らし。

4月13日
10:30より栄ビルへゆく。平野先生のみ。鈴木朝英、平田二君のマライ談なりしは奇縁。市古宙三も来ゐたり。会後、鈴木氏と山内四郎の所へゆきしにゐず。
山内秀三は印度独立軍裏切の責を負うて割腹と。(※山内四郎の兄の消息を鈴木氏より聞く:「果樹園」4号より)
帰りて入浴し、来りし山内と(※兄の死について)話す。東京に就職、夫人九日に分娩と。丸(※三郎宅)の二階如何と教ふ。〒中野清見、小山正孝、大道五郎。

4月14日(日)
小山正孝君、史に絵本もち来る。13:00まで話し、阿佐ヶ谷へゆき中川氏と話す。石瀬、三上氏らと同級と。加藤繁先生「始皇帝其他」買ふ。1.50。

4月15日
家居。松井盛君、帰り来る。(※天津の義弟宅「東海林歯科医院」の留守を預かった青年。:「果樹園」4号より) 悠紀子また体悪しとて不快。

4月16日
〒東洋史談話会より二十四日加藤先生の追悼会と。夕食の炊事をなす。聊斎志異訳しそむ。退屈しのぎよりうさ晴らし也。

4月17日
雨、炊事をやること前日に同じ。小高根二郎よりハガキ、宇治へゆく(※赴任)と。

4月18日
昼まで炊事。十四時頃帝大の東洋文化へゆく。善海と話せしのち鈴木俊、仁井田陞氏らの作らんとする会に出る、両頭欠席。三上次男、山本達郎、前田直典ら出席。 余、中支よりの某君と鈴木朝英氏の話の面白かりし。朝英氏にウィルキンソンの(※マレー語)辞典かし、前田に島夷志略かへす。前田、十二指腸の薬やらんと。 (今朝9:00前田幸雄博士来診、十二指腸虫検便の結果ありと。入院たのみしも返答曖昧、来診料30.葡萄糖注射20.薬代5)

4月19日
國分夫人挨拶による。國分氏は接収未了のため貨物廠にのこされしと。
〒小林俊文氏、来よ、共同通信の同志に委細きけと。本宮(※中野清見)、松本善海、芳野清。
午後買物、ハブ茶3.50、卵10.50(三ケ)、納豆二袋8.00。前田博士来らず。炊事巧みとなる。本日米27.30、十四キロ。野菜(カブ、白菜2.15)、鰤(六キレ6.30)と、配給多し。隣家の河田夫人、ホーレン草呉る。

4月20日
朝、三度前田博士を訪ひ、二三日中に空室出来の上、入ると。(※即入院できなかったのは支払い能力を疑はれたからであったことが後に判明。:「果樹園」4号より)
二女と散歩、飴(10.00)買ふ。阿佐ヶ谷にゆき古本屋和堂を探せしに見当らず。
〒大、富山房東洋史辞典中止と。服部正己、去年九月十二日復員と。

4月21日(日)
炊事巧みとなりたり。丸三郎(※東京地検検事)を弓子つれて訪へば山内に室貸すと。同情しくれしも処置なし。(※公職追放の可能性につき「大いにあり」と。:「果樹園」4号より)
共に高円寺を散歩、帰りて炊事。留守中阿佐ヶ谷より卵十ケと米一升もち来る。
〒渡辺上等兵、伊勢崎にありと。初年兵時に我に深切なりし。大、小林へハガキ。大へは笑談と思ふなと。(※不詳)
21:00山内来りて泊めてくれと。丸宅やめ荻窪の親類へゆく。米軍のドライバーとなり月給500なり、就職後二日目と。

4月22日
昼すぎ悠紀子不快を訴へ前田博士に赴きしに入院せよと。石原本家にてリヤカー借り、夕方数男(※義弟)と押しゆく。数男「誤解せぬやう」との前置にてパジャマのこと問ふ。この日看護入院。

4月23日
朝より輸血すべしとて和田経男(※悠紀子従弟 血液型О型)にたのみ12:00頃すみ、寒気ののち悠紀子やや元気となる。この日数男パジャマのことまた云ふ。 この度ははっきりと「他の物とり」となり。夜、また病院にて寝る。夕方経男与へし40.00返し来る。お幸伯母に叱られしと。

4月24日
昨日100瓦(※グラム)なりしゆゑ、いま一度すべしと云はれ柏井母と阿佐ヶ谷にゆきたのむ。
西田夫人、(※中学教師の)口あり、ゆかぬかと俊子姉に云ひしと。12:00再輸血100瓦。弓子けふより入院。

4月25日
朝、弓子の検便、虫ゐると。雨の中を子供ら飯もち来るがあはれ也。夜、千草来る。小山正孝、陽生よりハガキ。夜、悠紀子下剤かく。

4月26日
小雨、けふより又炊事もやることとす。日塔聰君来る。某書店、杜甫伝希望となり。悠紀子けふ虫下りたり。史、湿疹とて休校。

4月27日
小雨、史、湿疹ひどしとて阿佐ヶ谷井上医院へゆく。和田姉の紹介を得んとゆけば不在。(※船越)耐氏に頼む。(※夫の船越)章よりハガキ来ゐたり。
弓子本日下痢三日目、ややに衰弱するものの如し。本庄(※実)先生、小林俊文よりハガキ。聊斎訳す。

4月28日(日)
昨日、史の手当十四円と。弓子に下剤かく。絶食させしと薬のむこといやがるとのため大手数なり。赤川氏来る。高円寺三丁目にあり、肥下に会ひしと。けふ丸に会ひ我が帰りしを知ると。
昆布の佃煮呉る。隣組より見舞27.50貰ふ。聊斎つづけて訳す。

4月29日
天長節、国民学校にて君が代のみ。国旗かかげし家寥々。中村女史見舞20.00呉れしと。夜、大垣来る。病人食欲出づ。

4月30日
悠紀子また輸血すべしと。岡田一家人形もちて来る。薄井(※敏夫)来る。(※詩人の出征を知らず、帰還挨拶に驚く。:「果樹園」4号より)
父よりハガキ、百円もままならぬゆゑ(※金尾)文淵堂にでも話すべしと。入来院秀麿、松崎誠、みな天津の知合なり。

5月1日
悠紀子夕方下剤。お幸伯母見舞に来り、魚、卵呉る。千草来りまた愚痴云ふ、不快。

5月2日
昨日とけふと配給のパン少々盗まる。森の子供か、不快なり。父より手紙、文淵堂500、俊三郎(※叔父)1000円用立てくれ、健持参と。文淵堂は杜甫伝をと。悠紀子弓子ともに良好らし。

5月3日
朝、健来り、金もち来る。父にハガキ速達す(杜甫二ヶ月待て、聊斎わたすと)。店より青い花の再版斡旋をと。弓子二回目の施薬きかず。富くじ又三枚。

5月4日
小雨、悠紀子また下痢。弓子は下剤きかず。

5月5日(日)
大、田口君をつれて受験に来り泊す。永福町にゆきタバコ一箱もち帰る。赤川氏、林檎もちて見舞に来る。本売りのこと云ひ明後日と。

5月6日
永井荷風を買ひ(20円!)、茶(10)買ひタバコ紙(3)買ひ、大ににしん(10)、福神漬(5)買はしめ、聊斎志異終る。杉浦より手紙、五十嵐達六郎氏戦死、天理図書館にゆかぬかと。大ら即刻入学許すと。

5月7日
大をつれて市野氏と町会に転入の予備手続す。杉浦にたのむと速達。田口君夕方鳥取へ帰る。大22:00頃帰宅。赤川氏来らず。 けふ教師の放逐令出づ。大に聊斎志異(200×420)と金尾(※文淵堂)氏への手紙托す。けふより我家に寝る。

5月8日
堀辰雄氏原稿受取りしと。山内京都にてトランク受取しも運動靴とシーツとなかりしと。母盗りし也。大、5:30頃立つ。6:10にのり松本市外に一泊と。 買物ねぎ5.00鰯10.00葡萄糖15.00漬菜3.00。赤川氏来り、佐藤春夫外35冊もちゆく400円なり。けふより子ら家に寝しめ、炊事みなわが仕事たり。

5月9日
数男昨夜帰りしと、挨拶なきも不快。こんにゃく五ケ配給(2.25)、うなぎ蒲焼(2本10.00)、竹輪(2本9.00)買ふ。弓子堅き便するやうになりしと。

5月10日
雨、買物、乾鯡(10.00)、竹輪(2本11.00)、小松菜(7.00)、葱(10.00)、鯨の配給(5.00)。杜甫やる気になる。末吉(※栄三)、芳野、小山正孝君へハガキ。 亀井昇よりハガキ。山本剛濠北にて戦死らしと。大垣来りしに、出版関係へ転職よせと云ふ。

5月11日
買物、葡萄糖(10.00)、漬物(5.00)、鰯(6疋10.00)、竹輪(2本10.00)、配給ほうれん草(0.30)。岐阜より米着く(外套と換2升、机と2升)
〒大、父、二十五日までに詩一篇とはじめて依頼あり巌松堂。父へ、巌松堂へ。

5月12日(日)
松井保治君来る。村上菊一郎は三原の工業学校教頭と成田節男また外務省と。赤川店に佐藤春夫ありしため気付きしと。健来る。寮の生活苦しと。 病院に来し青木夫妻(永福町九四に転居)と買物に出、いわし(7本10.00)、重曹(10.00)、貝(7.50)買ひ、料理して大に食はしむ。

5月13日
雨、寒し。天候不順も甚し。俊子姉、昨夜帰りしに鯖と卵三ケもち来る。葡萄糖買ひしのみにて我出でず。弓子下剤三回目。

5月14日
戦犯裁判に清瀬博士、いはゆる戦犯の意味なきを痛論す。母、貯金より400円引出し来る。市野より干魚20.00買ひしと。 高円寺にゆき赤川に飴20.00礼にもちゆく、あとの話なし。漬物千枚漬3.50、タバコ1.60、タバコ紙3.00、「子不語」4.00買ふ。依子、遠足のため1.00もちゆく。 薪配給6.90、葡萄糖10.00、竹輪2本10.00。けふ一日にて80円費す。可怕。〒陽生。夜、大垣来る。糸配給21銭。

5月15日
阿佐ヶ谷へ漬物買ひにゆく(6.40)、岡山家へゆきしに船越章と入れちがひ也。葡萄糖10.00、葱5.00、船越の話にては越南王保大退位、共和国になりしと。 父より金尾に話にゆくと。咲耶。和田先生より二十九日外務省へ来よと。歯痛し。醤油配給三円(五合)。

5月16日
夕方歯痛どめにズルファミン二錠のみて眠りしに夜は気付かざりしも朝方より悪感、富くじ石鹸二ケ当たりし模様。
吉田茂に大命降下と。この頃共産党の人気下りし模様、実行力なければ也。主食欠配いつ来るやら不明。史、依子の遠足やめさし飴買ひて与ふ(10.00)。 魚配給3.00、夜、ズルファミン中毒収まりしにより病院にゆきて泊る。悠紀子四度目の施剤なり。

5月17日
タバコ1.62配給。杉浦より管長館長に手紙出せしと。父、保田帰り挨拶よこせしと。眞田雅男。配給魚5.00、野菜55。夜、慈恵医大学生某詩をもちて来る、意味なし。杉浦、父和田先生へハガキ。

5月18日
雨、昨夜不眠。ヘボ詩人河合峰夫のためなり。午後買物、蕪4.00、魚粉13.00、豆板10.00(三枚)。小林俊文より見舞状うれし。返事かく。教科書代二人にて1.40。 夜、乾パン配給5.90。

5月19日(日)
菓子(二袋20.00)買ひて船越を訪ひ話す。帰途、岩波新書「三民主義」二冊見付けて買ふ(20.00)。午後、大垣と高円寺にゆき赤川の店発見。鰯(10.00十三匹)買ひて帰る。 隣にもとゐし岡本氏来り、見舞として米少々、乾芋呉る。のり二帖返礼とす。柏井母、卵10ケ35.00にて買ひ来る。 ホッケ配給(三片5.00)、夏服二着(一は麻、一は綿、スマトラにて6.00にてこさへし)と誠太郎叔父の遺品のモーニング売却を母に托す。 けふ隣組常会にて米の配給今後なき故、買出に証明書与ふと云ひしとて衆議紛々。父の七日に出[せ]し手紙、検閲すみて着く。福岡の眞鍋呉夫より詩一篇50.00にて六月十日までにと。

5月20日
眞鍋に諾と。「芸苑」に詩「この頃」速達。眞田雅男、大、咲耶にハガキ。田口君来る。阿佐ヶ谷にて外食出来ざりしと。餅十六ケ呉る。 三食付185円の下宿(三畳に二人、他に米一升づつ提出、これは主人用と)。漬物(白菜二百匁7.00)、蕪(4.00八本)買ふ。夕方乾麺配給(五百匁5.00?)、蛤(2.25)。
森の娘、夜歌ひしを怒鳴り、柏井へゆけば大垣、狐鼡々々と逃れしゆゑ叱る。ともに狂気せしに非ず。

5月21日
買物、魚(十五匹10)、支那語文法(2.50)、茶(8.00)。野菜配給(1)。
外務省より速達、原稿いつかと。青磁社の鎌田来り、中也のこと云はず、出版とはならざりし、迢空と達治呉る。二百円払出の書類作る。父より山内に怒り来る。

5月22日
朝より一日中の炊事し、13:00東大にゆく途中野原四郎氏に会ふ。外務省まだと。和田先生の侏儒考聞く。先生もG項か否か論議中と(※公職追放のこと)。 本年度東洋史入学生二名、印哲の次と(下より)。仁井田(※陞)博士、守屋(※美都雄)氏と挨拶。榎君。和田久徳君。末松保和先生ならん、鈴木俊氏池内邸に写すと。 帰途省線を待つ間、万世橋にゆき石田君の家探せしも不明。支那料理(12.40)食ひて新聞二(0.30)よみて帰る。依子虱わきゐると、我も也。 この日三[屋]の三児入院。大垣、夜来りしも会はず。米とメリケン粉配給(二〇円?)。

5月23日
昨日吉田内閣成立。木村繁喜へハガキ。川久保留守宅へ、昨日ききし江上以下五名モスコーにありの放送伝へにゆく(石田幹之助氏よりと)、留守。 大垣米一升と○○(不明、あけて見ず)呉れし由、返却ときめて待つ。玉葱(10)、牡蠣(10)、魚(10)を買ふ。炊事巧となる。けふ悠紀子五回目の施剤。大垣に絶交申渡す。

5月24日
鰯一七匹(10)、葡萄糖(10)、味噌ありしかどとらず、漬物百二十匁(4.20)。池沢(※茂)よりハガキ「復員」と。夜、川久保宅へゆく、岡正雄氏松本在にと。モスコーのこと知りをる模様。 兄七十二大隊とかで順徳にゐしと。船越(※章)と一寸話し帰宅。けふ陛下食料につき放送されし、ききたてまつらず。三〇〇円引出す。塵紙(2.25)、野菜(0.85)配給。

5月25日
雨、池沢へハガキ。メリケン粉配給(5.50)、烏賊(2.25)、蕪(5.00)、鯖(7)、漬物(6)、葱(二把5.00)買ふ。富くじ(三本30.00)買ふ。夕方小松京子来り、タバコと卵六ケ呉れしと。

5月26日(日)
晴る。買物、葱2.50、折紙1.50(35枚)、竹輪9(二本)。
文化新聞来り随筆二十九日午前中にと諾す。法政中学[の]水谷吉蔵校長死せしと。熊谷孝大午田にありと。鰤配給(6.00)。服部(※正己)より手紙 「(天理図書館の給料)五〇〇位にていかが、家はいま無し」と。父より金尾「聊斎志異」諾と。あとたのむと。大。川崎市溝ノ口29小松京子へ礼。

5月27日
晴、買物竹輪二本(9)、こんにゃく(3)、配給醤油五合(3)。小山正孝よりハガキ。服部、父へハガキ。弓子元気となる。タバコ(2.25)。

5月28日
杉浦へハガキ。午後買物、竹輪二本(9)、鯖四匹(10)、玉葱(5)、漬物(7.35)。赤川氏を訪ねしに佐藤春夫多く残りゐる。文化新聞はその紹介らし。配給漬菜(2.25)。 高円寺にて古野清人「高砂族の祭儀生活」買ふ。新本なれば9.50珍し。母より米五合(285)、卵一〇ケ(35)買ふ。 後日は知らず、栄養失調この頃多しと也。夕方「北京の秋」二枚半書き了ふ。

5月29日
蕪(6)、煙草巻紙(3)買ふ。9け00船越来り話す中「文化新聞」り印南寛来り原稿もちゆく。14け00外務省にゆき、和田先生を中心に打合せ会。鈴木俊、増井(※経夫)、兵頭、●、 宮谷、市古(※宙三)、龍野(※四郎)、中村治兵衛、野原四郎、板野長八の諸氏。聞けば池内先生去年三回憲兵隊に引曳られしと。六月十一日再び会合と。帰途、市古と茶のむ20.00。 山内を訪ねしに腫物出来しと。佐々木六郎不在、毎日にゆけば桐山意外にも復員、台湾にありしと。今東中野に四畳半50にて借ると。魚粉配給2.60。夜、大垣わびに来しも不解。

5月30日
晴、山内四郎よりハガキ。缶詰配給(13.50)。こんにゃく(6)買ふ。この頃昼寝盛んにす。

5月31日
朝、大垣来りしも会はず。買物干魚(10十七枚)、漬物(7)。本屋に愚本並ぶを見る。前田医院の書生氏に「元禄快挙録」三冊贈る。〒小山正孝、芳野清、千草、松崎進「東京に来りし」と。 配給ホッケ(7.50)、野菜(2)。悠紀子と喧ふ。О型(※悠紀子血液型)をいとふ。

6月1日
朝再び大垣来る、会はず。昼より家にて食ふ。鯖(10)、葱(10)、高円寺にゆき「今昔物語」(50)、「青い鳥」(5.80)、史に買ひ与ふ。けふ大垣より便あり、 夏衣二(250づつ)、モーニング(500)売れる由。夜、大垣来り、高円寺の寮へ移ると。前に来し林不二馬(※富士馬)、稲葉健吉の便わたす。ともに出版のこと也。 けふ史の後援会費五円わたす。隣組にありし齋藤武夫復員して挨拶「南支にありし」と、「村上菊一郎、三原の図書館長と」。

6月2日(日)
健来る。六日より休暇と。買物烏賊(10)、蜜柑(10八ケ)、「乾魚闇市より姿消す(マチガヒ)」。町会長、必需品購入会切符呉る。

6月3日
朝「聊斎」、午後「杜甫」書く。買物、こんにゃく(6)、ぶり(二片10)、干魚(二五片10)、漬物(7)、だしぢゃこ(10)。配給野菜(2.75)。保田、大よりハガキ。大垣来り、別れに塩呉る。 萩原さんの「蕪村(※郷愁の詩人与謝蕪村)」与ふ。けふ悠紀子第六回の施剤。夕方より雨、入浴史とす。

6月4日
時代社よりハガキ。「青い花」止めて詩集と。健来り、明日帰洛または埼玉にゆき六日と。200円渡して主食たのむ。けふ久々に米配給ありしが二キロ半(5.88)のみ、 今月より一人三合五勺と。ゆであづき(2.50)配給。タバコ目当に富くじ買ふ。夕方より雨止む。「杜甫」書く。「聊斎」明日にて巻三終へんとす。健の話にては「河野岑夫帰来」と。

6月5日
昨夜半にて「聊斎」終ふ。大より手紙、六月八日より休ゆゑ業取止めと。雨間買物、漬物(7)、葱(10)、キャベツ(11)、あじ(十片10)、ぶり(二片10)。柏井母、 岡山伯母を通じ70円の米三升入手しくれしと。

6月6日
天理図書館富永(※牧太)氏より書簡、「月給450位、間は服部(※正己)世話す。一度来り話すべし」と。健来る、食料買へざりしと。「聊斎」と手紙を托す。 池沢来り話す。鄭州にありしと。旺文社へ復職と。立野弟(※立野利男=磯花左知男:戦死)まだ帰らず、比島と。飯食ひ泊る。タバコ二十日分配給(2.25)。魚(3.00)。母バター(半ポンド100)。

6月7日
池沢7:00帰る。「杜甫」に惹かる。買物キャベツ(10)、漬物(7)、ジャコ(15)。富永氏に返事速達す。和田先生に話してのち十三、四日頃ゆくと。 買物の留守に印南寛来り、文化新聞十一号おきゆく、「北京の秋」のる。詩、九日か十日にと。依子十二指腸わるき様子、史の疥癬はおほむね全快。

6月8日
山内四郎来る。服部に速達す。依子八回目の施剤。うるめ十一枚(10)。昼ね久し振りにす。米尽き金尽きかく。

6月9日(日)
来客なし。買物(うるめ十四枚10)、あじ干(二枚20)、ふくらし粉(12)、あめ(10)、甘柿末(二ケ4)、漬物(7)、母より卵(十ケ40)、配給野菜と梅干(2.40)、計100に近し、慄然。 外務省のことに係る。野田又夫よりハガキ、五十嵐氏、満洲国の金州(錦?)にて去年六月戦病死と。肺らし(※後記★馬に蹴られし也)。保田、野田、松崎、小山、杉浦へハガキ。

6月10日
堀辰雄氏よりハガキ。メリケン粉八キロ配給(14.35五日分と)。大垣来り米若干、タバコ呉る。印南寛来り、詩わたす「麦」。夜、阿佐ヶ谷へゆき船越こせん小母と話す。 ジャム二瓶井上医師への礼にと(30)。切符のことたのむ。十二日三井新館本社五階秘書宅へと。

6月11日
外務省の会とてあはてる。12:00ゆきしに和田先生あり、G項は免れたまひしと。野原氏より聞けば橋川氏の話にて周作人銭稲孫とらはると。
あじ(10)、漬物買ひて帰れば服部よりハガキ「富永館長、月末に上京」と。あはてて阿佐谷にことはりにゆく。井上医院へ149(中封[●]124)とジャム一瓶わたす。煙管買ふ。

6月12日
牧径太郎よりハガキ、未知の人なるに知れる如く記す、不審。夕方俣野博夫来る。ジャバにありしが降伏時スマトラ、ブキティンギなりしと。処女なくなりしと。けふ昼寝す。 夜、大垣来る。悠紀子けふはじめて入浴、計りしに九[貫]100匁と。退院近くなりしはよけれど金に困る。服部に速達、富永氏を東京にて待つ旨。魚配給(5)、サッカリン(3g1)。

6月13日
晴あつし。父へ速達、2000借用申込む。大垣より金来りし由。野菜配給大根四本(3.25)。悠紀子けふ駅まで買物にゆきしと。蚊帳吊りそむ。豆板(一ケ10)。

6月14日
悠紀子、弓子、便検査せしに虫ゐずと(悠三回、弓二回)。弓子笑ひ出したり。入浴。健より50送り返し来る。大より手紙。明日東洋史談話会と。夕方山田新之輔来る。用事で上京と。 奈良は食料に事欠かずと。入浴す。杜甫四十八歳。夜、大垣来り辞職申出でしと。

6月15日
昨夜眠り不足、大垣にて売りし1000中、米三升(210)、バター(100)、ビタカルス(20)、その他引き550のみ受取る。お加代(※賀代)女史にメリケン粉一貫(160)、重曹百匁(50)たのむ。 悠、検便四回虫見付からずと、弓子はあやしと。大の学友、田口君来り、国大の保証人を頼まる。

6月16日(日)
佐藤誠よりハガキ「天津より帰りし」と。配給、魚(4.35)。富くじ一本当る(10)。麦一升35にて母わけ呉ると。夕方より雨ふる。

6月17日
雨朝に止む。亀井昇より手紙、新井平治郎帰りしと。悠紀子弓子また施剤。菓子買ひて二児に頒つ(10)。夕方富永牧太氏より電報来り、来いと。 折柄来し船越章とつれ立ち阿佐ヶ谷へゆき賀代女史に切符たのむ。

6月18日
12:00三井本社にゆき賀代女史にきけば切符明日と。引返しの途、藤森逹夫詩を訪ひしもゐず。昭南にて同居せし元三井バタビヤ支店長。買物、燐寸スリ(四枚1.00)。暑し。 悠紀子、弓子けふ家で寝る。史、疥癬の治療費50.00請求されしもまだなほらず。計400。九州の眞鍋哲夫(※呉夫)より原稿依頼の電報。

6月19日
9:30三井本社にゆき和田一夫名義の証明書貰ひ、日本橋京橋銀座の焼跡を通りて日劇ビルの東亜交通公社にて丹波市(※たんばいち:現天理市)までの切符買ふ(往復74.00)。 一旦家に引返し20:00出、東京駅の地下道にて22:40まで待つ。知らずして最先端に入りたるため坐れ、北支にゐし衛生兵出身と話し握飯もらふ。

6月20日 
静岡浜松間のみ眠る、暑し。岐阜にて羊羹二本(10)買ふ。12:00京都着、父宅に入り丹波市に電報、羽田へ速達。父17:30帰り1000のみある模様。金尾にゆき話す。聊斎は駄目。500は杜甫のとなりと。

6月21日
9:00出発、11:00丹波市につき外語にゆき服部(※正己)に会ふ。笠井信夫あり。13:00富永館長に会ふ。「幹部会にてきまる故、履歴書出せ、結果は一週間後電報で」と。 赴任手当だしたくなしと。東京本部長への添書もらひ、書庫見る。清明両実録あり。矢野博士の書二十五万円で入りしと。服部の家にゆきアパートを見る。 その他に鈴木氏の借りし二階屋ありと。配給などなし。近在の農家で馬鈴薯野菜買ふと(一貫目馬鈴薯25-30)。不快。「中山管長好色なる非人なり。富永は俗小」。 怏々として22:00京都へかへる。(羽田より電話ありしと。外語長古野清人と養徳社へゆき庄野誠一に会ひしに「独逸」出すと。)

6月22日
天理へ履歴書、九州の眞鍋に詩「教訓」送る。10:30羽田を訪ね相談せしに「先づゆけ」と。昼飯馳走となる。石浜先生、本出せと。北京、今西春秋残りし。 (一昨夜市電にて動物学の梅棹君に会ひ、今西錦司、江実帰りしと聞きし) 佐藤長も帰り小野勝年も帰りしと。
15:00帰宅、夜、帰りし父にきけば1000もなしと(俊三郎叔父には会へず)。憤慨し落胆す。

6月23日(日)
父200くれ、母大みな10:00出てゆく、健のみ残る。13:00頃家を出、来合せし長岡行に乗り米原下車、浜松行にのり、元海軍将校と話す。いま引揚船に徴用と、相通ずるものあり。 大垣下車、駅前にて(二杯4)、寒天(1)、煙草(五本5)、羊羹(二本20)、茶屋の親父も十二指腸となりしと。19:30東京行に乗る。混み合ひて喧嘩、同席と話す、不眠。

6月24日
朝5:30東京着、帰れば田中三郎帰還。昼寝し、前田博士に酒贈り、薬の収支受く。万年筆買ふ(19.30)(5.00づつの分割払了承)。羽田より葉書来てゐる。行違となりし也。 夜、三郎の帰還祝、日本人の優秀性を云ふ。我と反対なれど今にかはらん。

6月25日
朝寝して起きれば昼飯。〒杉浦、俸給少きゆゑ如何にと。齋藤一夫より原稿依頼。
昼すぎ赤川店にゆけば本売れずと、我売りし十冊あり。タバコ金鵄闇市にて買ふ(11)。夜、和田賀代女史に礼として靴下もちゆく。船越と話し22:00帰る。

6月26日
赤川氏11:00帝大生二人つれ来る、同人雑誌出すとなり。ノート四冊と絵本呉る。米配給(二合五勺)。午後神田へレクラム文庫売りにゆきしに星五八にて初め160、次120、 止めて東亜海上に杉崎進君たづね茶のみ(10)別れ、本郷にゆけば50と。くさりて帰る。

6月27日
終日家居。杜甫整理す。健に「来い」と電報打つ。夜、大垣来り着物二枚托す。小松京子への礼も托す。

6月28日
終日家居。千草来る。健より電報「三〇日発つ」となり。杜甫書く。夜、山内来り、編上げとシーツともちゆく。

6月29日
羽田よりハガキ、藤枝天理を拒みしは帰らざりしがためと。前田博士退院すべしと。

6月30日(日)
朝、天理より電報来る。「即刻赴任すべし」と。和田先生をお訪ねし伺ひしに「ゆくも可」と。小高根太郎を訪ね、告げしに哲学書三冊売りて150餞別に呉る。

7月1日
朝、大来る。午後渋谷へゆき影山正治訪ね、保田の消息聞く。帰途赤川氏訪ね、全快祝に火鉢与ふこと云ひ、煙草ピース(17)買ひ(本日よりタバコ値上、ピース10、コロナ15)、 丸を訪ぬ。帰りて船越、岡山家へ挨拶す。明後日夜、和田[統]夫と三人淡路へゆくと。

7月2日
午前中、外務省書き二十枚となる。白鳥先生を訪ねしに留守。天理教東京大教会へゆきしに誰もゐず。毎日に桐山眞を訪ね、あと[借]すべしと云ひてかへれば駄目とわかる。 齋藤磯吉氏と南博士に挨拶す。

7月3日
午前中桐山君来り、平身低頭してあやまり鳥打帽与ふ。駅より健帰り、切符駄目とのことに、正平桐山君と出、外務省にゆき原稿(二十六枚)渡し、太平洋協会によりしに平野先生あらず。 ツーリストビューローにゆけば駄目。東京駅にて水産講習所嘱託として切符買ひ、疲れて帰宅。梱包二ケもちて阿佐ヶ谷駅へゆき手荷物扱ひたのみしに一ケ重過ぎ梱包し直す。
夕方桐山君夫婦連れにて来り、洋服箪笥約束す。稲垣浩邦無事かへりゐる由。

7月4日
赤川氏来り餞別に30円呉る。ひんがしの同志三人来り、影山氏よりの手紙と500呉り、家具と本一切委托ときまる。十日過ぎに取りに来る由。
午後、文化新聞来り、さきの文(三枚)の原稿料150呉れ、西太后のこと連載せよと。三枚明日までと。共に茶のみて別れ(途中で煙草15にて買ふ)、池内先生をお訪ねし、御元気なるを見、 天理へ「六日赴任」のウナ電(6)打ち、川久保孝雄氏に邂ひ挨拶し、煙草屋にて五十本(20)貰ひ、岡田志紀氏へ別れを告げ、原稿書き了ふ。

7月5日
不眠。4:00家を出、5:30発の大阪ゆきに乗る。向ひに寒川光太郎氏の弟、台湾霧社の佐塚警部の女なる歌手さわ子(※佐塚佐和子)あり、長浜へゆくと話しつつゆく。一時間延着して19:00京都着。

7月6日
天理にゆき、服部の所にゆけば五日、徳島へ帰郷せしと。奥さんと話し図書館にゆけば、館長宇治へ、新井とし女史と話せしのみにて、養徳社にて生駒氏と話し、 北京より帰りし田中治郎と会ひ、服部宅に帰り、手続群長にたのみ、管財課にゆきしにアパートも駄目と(住宅は田中治郎きまりしと)。帰洛の途、館長に会ひ、 管長の部屋にゆき群象と話し、要領を得ずして富田和一郎の子なる京大生と帰る。

7月7日(日)
朝、羽田を訪ねSchuyler「Turkistan」二冊わたし薬のこと頼み、帰宅後今井祖母に礼にゆき俊三郎叔父に会ふ。夜、岡本赳博士と話す、崇米論なり。

7月8日
戸迷ひして11:00出勤。亜細亜文化研究所との顔合せ。すみて屋探しせしも駄目。服部宅にて泊る。

7月9日
8:00富永氏と中山管長訪ねしも会へず。夕方ゆきて風呂と飯とふるまはれしが家は駄目と。服部宅にて泊る。

7月10日
8:00出勤。はじめて教祖に拝礼す。書庫を見廻りしのち布留にゆきしも家なし。午後、保田を訪ね、家たのむ。11:30帰洛。

7月11日
午前中「西太后」三枚書き、文化新聞に送る。依子にも[●]土産。午後煙草買ひに出て羽田を訪ね、薬のこときけば弟には通ぜじと。16:00帰り晩飯食ひ、 父に腹立て(食料のことにて世話出来ずと)、奈良へゆき坪井家に泊る。家、心がくと(※心掛けると)。

7月12日
坪井(※明)に紹介の名刺もらひ檪本(※いちのもと)、極楽寺なる中島(※栄次郎)の妻明子女史に会ひ、様子を聞けば未だ便りなしと。隊本部の通訳をすと。 マラリヤ入院中の便りありしが一回のみ(十九年十一月)、家のことたのみて服部に帰り、夕方富永氏を訪ね、書誌学の講義聞く。服部夫人馬鈴薯一メ目18円の五貫、 煙草7.50(十五日分)、米麦(13円にて十キロ足らず)など買ひ呉る。下駄15円、草履10円買ひ、富永氏へ飴10円。

7月13日
8:00出勤せしに大掃除。服部宅へ帰りしのち生駒藤雄に家ことはりにゆく。十五畳の大広間にして襖なく50円と。夕方、京へ帰り馬鈴薯二貫目与ふ。

7月14日(日)
京都をたち奈良へゆき前川佐美雄を訪ひしに吉村正一郎に会ふ。香橙短歌会に出席、ともに喋る。臼井喜之助、堀内民一あり。堀内は漢口にゐしと。 18:00出て谷川新之輔を訪ひしに大峰へゆきて不在。家たのみて帰れば服部帰宅しあり、22:00まで話す。

7月15日
けふより須賀文[帝]にかかりタイプ一枚のみ打つ。夕方散歩に出、うちわ買ひ、氷水のむ。夜、杜甫五枚かく。

7月16日
炎暑。けふはタイプ五枚うつ。保田を訪ぬるつもりを止む。悠紀子にハガキ。齋藤吉郎より手紙。

7月17日
炎暑。図書館に蒙疆がへりの人来る。タイプ六枚うつ。16:30の汽車にて桜井にゆき保田に畑で会ひ、家のことききしも駄目。 23:00帰ればゆき子より手紙、医療費2300円、文化新聞原稿とりに来ざりしと。金送れと。大垣国司来ざりし、桐山も来ずと。ALAS!

7月18日
タイプ次第に旨くなる。服部と杣ノ内へ家さがしにゆきしも駄目。帰れば大来り居り、レクラムの100もち来りしなり。馬鈴薯二貫わたし帰す。けふ管財部長来り、 トタンの家の堂かふにつき入れと。中島の舅、極楽寺の仲人せし人の二階など、家さがしに疲る。服部夫人の労、謝するに余あり。

7月19日
出勤すれば館長、今月は本俸の日割のみと。服部と管長の許ゆく筈なりしも行違ひとなる。22:30帰洛すれば悠紀子の衣1500に売れ、大、古本代の残り100渡す。一安心なり。 「龍宮」の齋藤へ詩[●]篇(梓哀歌)、龍善記(聊斎志異)送ると。小林俊文へ。

7月20日
1500電報為替(為替料35)悠紀子へ速達。自力で来れと。羽田を訪ひしに薬駄目と。馬鈴薯一貫与へ1100託さる。午後三條へゆき丸善、大学そろばんやへゆく、最後の返事よかりし。 チモール探しあて10瓦50、ナフタリンは多くあり5で百匁買ひし。ポターニン「西北蒙古誌」(17)、バター1/4ポンド(22)買ふ。疥癬の薬タペシリン(10)買ふ。

7月21日(日)
10:00家を出、坪井明を尋ねしに観劇と。前川を訪ね谷川新之輔を訪ふ。家さがしみな駄目。吉村正一郎来り会し、ともに話し喫茶店へゆき(荷鳳)、 20:30服部宅へ帰る。谷川は昨日服部宅へ来りし由、留守中保田に電話かけしに寺の部屋あきしと。

7月22日
午前中出勤、午後保田を訪れ、桜井九七六来迎寺、木村了慶氏の二部屋見にゆく。夜食保田父子、木村師とともにす。保田の父君(※板倉)槌三郎氏子に似て毅き人なり。22:30服部宅に帰る。

7月23日
服部夫人、昨夜より義弟中山勝治君のところに泊り、朝食炊事をなす。月給本俸のみ143.00と京都出張手当14を貰ふ。夕方谷川新之輔来る。桐山眞よりハガキ、 悠紀子洋服箪笥600と云ひ買はざりしと、赤面。電報二五ヒカヘルと打つ。

7月24日
出勤、はじめての日直勤めしのち、服部夫人に夕食せかし18:09の奈良行にのり京都行にのりかへ21:00帰洛。前川より会ひたしと。

7月25日
3:00起床、弁当もち父より100借り、徒歩にて京都駅着、5:22東京行に乗る。坐れたり。18:30東京着。帰宅。きけば桐山夫人はじめより断りしと。大垣国司、金もち来らず、外務省も未だと。

7月26日
午後荷造りし、駅へもち行かんとせしに大垣来り、500(衣物二枚)渡す。前田博士に500払ひ、弓子の分すみたり。洋服箪笥500にて引取りゆく。 夜、阿佐ヶ谷へゆきメリケン粉代払ひ米一升(70)買ひ受け来る。タバコ光15。

7月27日
下痢してだるし。午後齋藤吉郎のところへ聊斎の三篇(200×63)もちゆき、夜、赤川氏へ火鉢もちゆく。千草来りてまた不平云ふ。

7月28日(日)
齋藤吉郎来る。原稿多く集まる模様。(※青木)陽生メリケン粉買ひに来る。コーンビーフの配給あり(四人分にて24円)。本を小包にし郵便にて送らんとす。 筒井(※護郎)よりハガキ、帰還せしと、めでたし。角川書店より速達「四季」第3号のこと、杜甫を出したしと。堀辰雄氏病気と。午後赤川氏に別れにゆき麦酒のまさる。 丸宅へゆきしに留守、飴呉る。堀辰雄氏の義弟加藤俊彦を訪ひしに留守、船越と話し夕食御馳走となる。包紙39.50、組15.00にて本とノートの一部二十個に梱包す。

7月29日
朝、梱包の目方四キロ以下のもの十五個阿佐ヶ谷北通郵便局へもちゆく。本人出にては不可と云ふに書直して出す。一ケ4円、みなにて60円なり。 帰りて四キロ以上のもの梱包し直せば七ケとなる。三郎兄手伝ひてチヂキ二ケ造る。

7月30日
昨夜より朝にかけて悠紀子台所に置き忘れしハンドバックの中の千円盗まれ、赤飯にナフタリン入れあり、交番に届け出、調査に来る。8:00切符買ひのため点呼にゆき、 9:00悠紀子両児をつれて買ひ来る。隣嬢、歌うたふを叱る。隣の細君交番に呼ばれ内済にすべしと云はれしと。ガラクタ売りて320円、時計100円、姉より200円返済と別置の400円とにて900円になると。 杉並本局へゆき小包七ケ出す(28)。米軍検閲あればいつ着くや不明と。橋本氏にてリヤカー借り手荷物二ケ阿佐ヶ谷まで運ぶ(配達料8)。文化新聞の古賀君来り、西太后たのむと。 詩と(一)とのりしを置きゆく。荻窪署にゆき切符延期のことたのまんとせしに必要なしと。空室のことのみに拘はる。夜、丸三郎を訪ねて懇談、池田徹、細君に死なれしと、 [●]林にゆきしと。タバコ「コロナ」昨日あたりより自由販売となりし。三郎兄、今西春秋と中学同級と判明。

7月31日
朝梱包、11:00荻窪署の刑事二名来り、悠紀子より調書とる。丸あとより来る。「官場現形記」その他与ふ。あとにて近くの神田豊年邸に同日盗入り自転車盗みしに、 前日古城古物店来りしときき考へ変りしも、又のちにて考へれば我方はあとのこと也。訂正、手紙にかきて柏井に托す。荷物阿佐ヶ谷駅へもちゆきしに受取らず。 梱包不完全と也、憤慨して帰り、大野運送店に托す。計七ケとなる、90位となり。大垣国司手伝い呉る。大垣の絵二枚托す。18時すぎ家を出づ。角の[●]川のタバコ店のぞみ呉る。 俊子姉、尚子、母駅まで送る。三郎兄東京駅まで送り呉る。急行券ヤミにて買ひ(一枚30、三枚)、21:40のに乗る。満員にてトランク上に坐る。

8月1日
9:00京都着。荷物重く赤帽にたのみて10とらる。昼寝後めし食ひ夕方羽田を訪ふ。留守中チモール30g、ナフタリン10gとカプセルと呉れし礼にソーセージ一缶もちゆく。 羽田博士入浴に来られ、若城久治郎天理図書館にダメかと問はる。21:30辞去。

8月2日
10:00家を出、桜井にゆき保田家にゆき缶詰ソーセージお礼にす。父上と来迎寺に挨拶にゆきしに大黒(※住職夫人)出でず、荷物二ケ、本包十五ケすでにつきあり。 17:00服部留守宅にゆき夕食御馳走になり22:30帰宅。桜井も闇市すでになし。服部夫人玉葱買ひ呉れしのみ。

8月3日
雨、家居。昼寝す。留守中亀井昇と大塚幸太郎とより来し。はがき今日はじめて見る。夜、影山正治、亀井昇にハガキ。

8月4日(日)
母に叱らる。午後四人連れにて羽田を訪問、帰途、我のみウスヰ書房を訪ぬれば前川佐美雄あり。帰宅後のり瓶詰(9.51、6.04)、鯨干肉(100匁28)を買ふ。 タバコ出町にて「きんし」12円。

8月5日
5:30起床、奈良電にて天理にゆき服部夫人より配給の米(40%)と素麺(二束)と受取る。大麦50円にてある由なり。明日遊びに来よ迎へに来ると約束す。 10:00来迎寺にゆき昼食後梱包解く、本包み20ケのみ来ゐたり。健、15:00帰る。米一升二合程与ふ。保田宅へゆき茶一ケと糠と貰ふ。 夕立。富くじ買ひ、タバコ三本受く。大塚幸太郎、小高根二郎へハガキ書く。

8月6日
7:50の汽車にて丹波市にゆき富永牧太氏に挨拶、南瓜とかき餅もらひ、服部宅までに茄子二貫(26)、胡瓜一貫(13)買ひ、南瓜与へ茄子もらふこととす。 小麦一斗買ひあり(一升50)、100円渡し、子供病気とのことにて連れ来らず、留守中、悠紀子十三日までの主食配給受けし由、隣組長への挨拶もすみし様子。 保田宅へゆき電球と南瓜と釘もらふ。和田先生へハガキ。小林俊文より手紙。小林へハガキ。

8月7日
杉浦正一郎、堀辰雄、田中三郎、岡山幸、池沢茂、竹内好へハガキ書く。13:00の汽車にて図書館へゆきしに富永、中村とあり。 本借りず「八旗通志」見、服部宅へゆき麦と茄子受取り19:09の汽車に乗りて帰宅。留守中、大来り、二七五もち来し由。

8月8日
西太后(三)書く。羽田、本庄先生、坪井へハガキ。赤川徳三郎、石浜純太郎先生、三好達治、池内宏先生、小高根太郎へハガキ。13:00図書館へゆきハワースと漢文大系借る。 服部宅へゆき100円渡し小麦一斗背負ひて帰る、重し。保田来りて手紙渡す、福岡市渡辺通三丁目南風書房より十二月末までに鉄幹晶子伝250枚をと。 諾の返事出す。(けふ30円にてタバコ五十本買ふ。)

8月9日
桑原、野田、西川、小山、笹倉、松本、末吉、笠井、堀内民一に転居の挨拶。亀井昇よりハガキ、十一日朝来ると。粉挽きに小麦一斗もちゆく。三日後出来と。疲れて家居。 午後大垣国司よりハガキ、父死すと。影山正治へのハガキ宛先不完全のため回送さる。夜、お寺にて浴賜ふ。パイプ5円にて買ふ。齋藤吉郎へ「挽歌」送る。

8月10日
大垣国司へハガキ。7:50の汽車にて丹波市へゆき図書館へゆく。「満支八旗通志」見る。帰途、乾物野菜ともに売らず。服部夫人、足に腫物出来て医師に通ふ。 雑魚わけて貰ひ玉葱もちて帰る。保田宅へ夕方ゆきしも薪採りと。

8月11日(日)
中野清見、青木陽生、山内四郎、前田直典へハガキ。午前、大来り、三輪へゆき大麦五升もちゆく。亀井昇来り昼飯食ふ。帰りしあと服部正雄、荒井平治郎来る。 夕食後、保田の畑へゆく。野菜ルートと大麦挽きのことたのむ。

8月12日
白鳥先生、手塚隆義君へハガキ。小麦粉取りにゆく。13.5キロ挽きて4円なり。大麦も押すと。午すぎ汽車に乗り遅れ帰れば保田来る。野菜の補給路うべなふ。 四季三号へ「三十年」書きしも郵便局十六時にて終り。

8月13日
主食配給日。米麦併せて57円。盆の菓子配給、不味くて食へず。朝、悠紀子保田へゆきて野菜わけて貰ふ。午後京都へゆき米二升150にて売りて帰る。鰊12.00、マッチ2.00、富くじ10.00也。

8月14日
疲れて家居。夕方麦五升押して貰ひにゆく。明日来よと。三好達治氏よりハガキ。

8月15日
保田家より野菜と薪と分けて貰ふ。午後丹波市へゆき服部夫人にタバコの配給もらひ、帰れば羽田来をり、大麦四升もちゆく。300預けゆく。

8月16日
日直とて9:00出勤。服部宅に荷物着きしと伝言あり。帰宅後保田へゆき松薪一車わけて貰ひ曳きて帰る。池内先生、末吉、荒井、堀内民一よりハガキ、末吉、加賀山、荒井と十八日に来るとて留守の電打つ。

8月17日
杜甫よみ終る。悠紀子、保田の小作にゆきて唐辛子500匁わけて貰ふ。服部夫人子供連れにて2:30来る。まもなく荷物六ケ来り、解く。18:30退去、 夜、院生に挨拶す。笠井信夫よりハガキ。

8月18日(日)
朝、満員電車にて上洛、11:00頃、河野岑夫ら来る。夕食後羽田を訪ぬれば明日帝大病院へゆき清水博士に会へと。京都へ白鳥清先生よりハガキ来あり。

8月19日
朝、散髪。11:00大学病院へゆきチモールのかけ方など教はる。その後、検便せんと。帰途薬屋にて硫酸マグネシウム(6.75)、ムルチン(17.50)買ふ。16:00出発、17:30桜井着。 小高根二郎二十三日結婚とハガキ。

8月20日
服部宅へゆき光一箱もらひ12:30帰れば、健来りてパン種とりゆきしと。筒井(※護郎)待ち居り話し且つ聞く。衝陽作戦にゆきしと。坐摩神社の渡辺宮司中隊長たりしと。 藤根より葛粉作ること覚えしと。猪穽にてとり損ねしと。六尺の鯉揚子江にてとりし。350万元の金もちゐしと。面白し。いま肝臓マラリヤに罹ると。 19:00送りかへせしのち、保田に行き父君と話す。保田と散歩、キセル買ひし。

8月21日
7:50の汽車にて丹波市へゆき、タバコ配給もらひ、茄子わけてもらひ、図書館にゆきしも館長ゐず、●史一借りて館長宅へゆき将棋さし桜井住のこと了解とす。 養徳社により聞けば佐屋正雄氏かへりしと。16:47汽車にて帰り夕食後、院住と話す。小山正孝より手紙、「胡桃」に書けと。「海南島の蘇東坡」もしくは「李太白」書かんと返答。

8月22日
出勤せしも誤りと。明日の日直と代りて貰ひしに小高根太郎来る。明日の弟の結婚式のため来りしと。ともに桜井に来り、保田にゆけば山川弘至未亡人(※山川京子)と出口王仁三郎の女とあり。 小高根夕食後宇治へゆく。松本善海よりハガキ、月末ごろ上洛すと。亀井、齋藤吉郎より。

8月23日
依子けふ施剤。俊子姉より南風書房の60円同封、盗難問題音沙汰なしと。小包代120円と。池沢茂、依子の担任信太千賀子先生より書類送らる。 手塚隆義。10:00お寺の親類なる向ひの木村先生にゆき、依子診察を受く。一日横臥して書く。柏井母より悠紀子、史へハガキ、盗難のこと音沙汰なしと。

8月24日
川久保文子、竹川時雄へハガキ。小高根太郎と末吉のハガキ、いづれも検閲にて遅く来る。夜、まき割(35)と火鉢(5)と買ふ。米麦のわれの分配給とり来る。

8月25日(日)
一日杜甫書く。羽田へハガキ。夜、保田家へゆく。矢原礼三郎、荒井平治郎のハガキ。藝苑七八月号。高祖保ビルマにて戦死と。松枝茂夫「鏡花縁の話」買ふ。

8月26日
図書館へゆかんと思ひしが止め、杜甫かく。比嘉一夫、小山正孝より詩集。

8月27日
8:00富永館長を訪ねしに多用にて俸給明日と。服部帰りしとききてゆきて話す。支那語教授来りて話す。16:30帰宅。夜、保田来り、おそくまでゐて眠し。

8月28日
8:00の汽車にてゆき俸給616(税金47.46)貰ひ、島崎会計部長に家のことにて挨拶にゆきしも不在。養徳社へゆけば部長怒れると。森於菟「森鴎外」もらひて帰る。 汽車のりおくれ電車にて迂回す。羽田より大麦より他のものをと手紙。

8月29日
8:00汽車にて丹波市にゆき10:00まで島崎会計部長に会はんとせしも駄目。手紙を托し服部夫人より乾魚(10)分けてもらひ帰る。杜甫書き、明日にて終るところまで来る。 父より手紙。竹内よりハガキ。

8月30日
家居。末吉、岡山こう伯母、本庄實先生、前田直典、影山正治氏より来信。夕方鯖売りに来る。一匹24円と。

8月31日
杜甫書き了る。200字詰492枚。夜、保田へゆく。本朝現在書目に杜甫李白なきを知る。

9月1日(日)
9:00上洛、羽田宅へゆき昼飯馳走になり三合便覧、先生宅へゆきしもなし。父宅へゆき原稿わたし、20円借り、海苔瓶詰(15)、魚(10)、とろろこぶ(16円)買ふ。韓非子10円。 衣裁もちて帰る。

9月2日
登館、館長の訓示にて一日すごす、ばからし。夜、町会の常会、布施13.00分けらる。けふより二児登校。悠、衣類売る。(セビロ500、衣350)。

9月3日
登館、三十冊ほど●●す。高地大教会長ひどき奴と山崎忠君の話。ノート買へば20円。末吉、竹内、南風書房へ受取り。

9月4日
登館、雨、事なし。〒なし。夕方米五升買ふ(85×5)。

9月5日
小山正孝にハガキ。汽車のりおくれ電車にて9:30ゆく。畑の分配あり盗難芋にて大さわぎ。日和佐教会に寺島氏訪ねしも帰郷と。服部宅へゆき夕飯食ひタバコ(24.00)買ひ、 時計借り●●をして帰れば、留守中笠井信夫君二友来しと。坪井より速達、池沢のこと。

9月6日
昼、畑作りて漬菜の種子まく。帰れば笠井信夫来り、21:30まで話す。けふ東京より雑誌四種転送、中に四季再刊号あり。けふ館にて閲書録かきそむ。

9月7日
11:30文教部へ挨拶すべしとてゆく。養徳社へゆき羽田の●出すや否や問へば出すと。服部にゆき机、その他もちて帰り、夕飯後ともに保田を訪ねしに留守。19:55にて服部帰る。 末吉、明日来ると。齋藤吉郎「斑鳩」のこと、「新生」よりハガキ回答。

9月8日(日)
家居。依子施剤。「元朝秘史」を学ぶ。羽田、堀辰雄、「新生」へハガキ。

9月9日
登館すれば石浜純太郎先生来らる。藤沢桓夫より詩一篇をとの伝言。岩村忍、先月来って図書館へ就職せんとせしと。貴重書庫はじめて見、永楽大典は蘇の部、郎の部、 蔀の部なりしを知る。東●に●ありしかな。ともに中山管長を訪れしも博物館へゆきしと。笠井信夫君と坪井を訪ね、大手前の斡旋をし、前川佐美雄に会ひて帰る。

9月10日
登館、タバコきれかけて不快。帰りて闇市にて金鵄13円にて買ふ。保田を訪ひ芋蔓もらひて帰る。小高根太郎よりハガキ。

9月11日
登館、畑に葱植う。高橋君タバコの薬呉ると。池沢よりハガキ、断り来る、坪井へその旨書く。定期96円と。岩村忍「蒙古史雑考」借出す。また才人か。月見とて夜●るより餅と団子賜はる。

9月12日
登館、研究員会、年報係となる。「来て後悔なるや」と館長問ふ。小高根太郎へハガキ。「台湾文化史説」借出す。タバコ20.00買ひに闇市へ。大地書房よりの速達、東京より回送。

9月13日
雨、午後読書会。芋食ふ。時事通信社より「太平」へ詩をと。「藝苑」の稿料130円余。青木陽生、桑原武夫より便り。堀辰雄「曠野」借出す。

9月14日
朝、床の中で「僕の畑」を「太平」のため書く。雨のため約せし服部にゆけず。「胡桃」一号来る。ラウファーの「胡桃」考のこと書かんと思ふ。笠井信夫来る。睡かりしにねられず。 夜、トルストイ「セバストポリ、高架索の囚人」などよむ。

9月15日(日)
9:00起床、東京より藷と南瓜送り来る。10:00朝食。雨のため少し待ちて京都行に出しに途中ひまどり羽田家へは15:30着。小警務180円にて渡し、夕食よばれて帰る。松本より便なしと。 清水博士会ひしと。父に一寸会ひ、きけば「杜甫」十二月頃と。前金呉れずと。
衣類多くもちパン種もちて22:00すぎ帰る。戸しめのため門に立ちて苦しむ。

9月16日
草刈りにて午前中すみ、午後は大掃除、席かはる。笠井君一寸来る。富永館長、佐々木信綱博士の本買ひに明日上京と。夜、保田宅へゆく。山内四郎よりハガキ。延岡に勤めしと。 子供八月三十一日に生れしと。

9月17日
けふより富永館長居らず。午後藷掘る。赤蕪の種蒔く。高橋君藷くれ、パン種わけよと。笠井君工芸学校へ話しに行かんかと、すすむ。夕方お寺より栗と林檎と賜はる。 石浜先生へ富永仲基のことハガキで。トルストイ「イワンの馬鹿」その他。

9月18日
一日みなサボタージュ。雨夕方あがる。予はラオス辞典うつし、柳樽字せしもむだ(※不詳)。千草より悠紀子に手紙。

9月19日
三浦久雄より帰国後夫人死せしと。北平にても会はず。有能の上等兵なりし。帰れば大、来りをり、金尾氏より200円託され来る。夜、笠井君雞もちて来る。 部●長の長男死すとて弔みにゆく。

9月20日
服部と午後訪ねることを約束す。西島寿一、寿賀子夫妻挨拶に来る。桜井へ誘へどきかず、出納の加藤女史と天理高女の同窓と。服部宅にゆき将棋し帰る。 白鳥郁郎(清先生二男?)より「饗宴」へ詩を十月二十日まで。齋藤吉郎九月末か十月来ると。竹内好、ブランド(※Bland, John Otway Percy)ありやなしやと。

9月21日
けふ整理やり、畑に種子まき、午後金瓶梅よみて帰る。大垣国司より手紙、教師の方またさる、わが毒舌こはしと。夜、疥癬の薬買ひに出、 保田にゆけば岐阜県の山川弘至の葬式にゆきしと。父君と話して帰る。
中島の留守宅に入りし安田君、樟蔭女専に代るとて挨拶に来る。●八なり。

9月22日(日)
白鳥郁郎、比嘉秀樽、竹内好、杉浦にハガキ。「爐」へハガキ。夕方より汽車にて奈良にゆき孝橋「与謝野鉄幹」20.00買ひ、坪井を訪ねしに笠井君、四条畷中へ話すと。22:00ごろ帰る。

9月23日
出勤。畑を耕す。笠井君に連絡す。午後大地書房の渡辺君来り、養徳社へゆき新雑誌に十月二十日までに詩一篇をと。渡辺君と話しつつ京へゆき下総町(※父宅)にて夕飯食はしむ。

9月24日
(秋季皇霊祭)羽田を訪ねしに、けふは来ずとハガキせしと。高橋匡四郎死せしと。三合便覧借り呉る。学海七・八号もらひ一六匁づつ配給となりし砂糖紅茶のみて佐伯富「王安石」借りて帰れば全田叔母、 スミ子を連れて松本君(従兄と)と見合しゐる。昼飯後、電球30、うに10その他もちて帰り来る。「新風」八・九号来。留守中、浪中の山本君、加賀山前後して来りしと。

9月25日
雨、風邪にて発熱、欠勤。羽田のハガキけふ着く。「三合便覧」引合せしもだめ。

9月26日
午後登館、館長ら二十三日帰りしと、物云ふはず。風邪なほらず。服部正雄よりハガキ。午前中佐藤誠(天津にありし蒙古善隣協会副参事と)来りしと。山本重武にハガキ。 鏡検の結果、虫卵見えずと。服部正雄よりハガキ。

9月27日
(記事なし)

9月28日
雨、休む。三合便覧うつす。悠紀子不快、貧のためなり。

9月29日(日)
朝、雨、休む。昼寝す。時事通信社より詩の受取り。疥癬とび火、殆どよけれど苦し。笠井君よりハガキ。ツングース語辞典50円と。

9月30日
出勤。昼まで大掃除。休み中、堀内民一、寺島兄来りしと。午後、日和佐教会へゆきしにすでに帰りしと。服部を訪ね、将棋さし桜井へ連れて帰る。 大地書房の渡辺君より電報「聊斎」くれと。羽田より電話、明日来られず、土曜にと。

10月1日
出勤。畑に人参蒔く。退勤まぎは前川佐美雄の紹介にて奈良師範の新田君来り、「子供の国」に詩一篇、十日までにと。晶子のことけふより書く気となりし。 十八日に講演すべしと中村君より。六日に伊賀上野へ遠足と。夜、入浴。

10月2日
出勤。事なし。晶子書き始む。

10月3日
早朝より弓子腹痛と。疥癬かゆし。この頃だるくて耐らず。松本善海よりハガキ。九月一日入洛せしも多忙にて会はずと。夜、入浴。

10月4日
雨、登館、訓示あり、不快。日曜遠足を断る。

10月5日
晴、13:00羽田来る。館内を案内し、養徳社にゆき生駒氏に紹介せしに出版諾と。桜井に伴ひ米二升、藷一貫もちて帰らしむ。

10月6日(日)
京都へ13:00の汽車でゆき、16:00着。父母と夕食し、洋傘もちて帰る。金尾より聊斎志異とり来り、大地書房へ郵送のこと父に托す。土産にもちゆきし柿は父食へずと、老い矣。

10月7日
出勤、不快多し。帰れば某女より慰問品貰ひしと、引揚邦人援護金800円下付の手続せよと云はれしと。「子供の国」のため詩書く。

10月8日
「子供の国」へ詩送る。佐藤誠より手紙、十一月また来ると。服部の家へゆき原稿用紙300枚与へ、下駄貰ふ。

10月9日
蘇東坡を書かんと思ふ。神戸より詩の雑誌来る。中野繁雄生きてあり。
夜、東口の寺へゆき立正大学出の住職と話す。奥さん保田と同窓と。援護手続頼む。

10月10日
富永館長、殉死とは縁起悪し、題変へよと。角川書店より150、正月号に論文を、又ハイネをくれと。堀さんの指示なり。夜、保田家へゆき父君と話す。 保田帰りてのち奈良師範の教師来り、林房雄、亀井と天皇制につき座談会をと云へり。大地書房より電報。

10月11日
雨。タバコ8円に買ふ。明実録またぬき書す。「殉死」の準備ほぼ終る。角川書店より堀さんの本。中村地平より便り、杉浦に聞きし(※帰還を)と。九州の雑誌十一月十日までに詩一と。 川久保夫人より、(※川久保悌郎)新義州にゐしが信州へ帰りゐると、意外。長男なくせしと。大地書房渡辺君、九州書房へハガキかく。

 石の上(※いそのかみ)ふるきふみ読み老いなんと思ふこころもつきにけるかも
 朝夕に東おもへどかへらんとおもふこころのありとは云はず

10月12日
晴る。午飯用意せずゆきて途中の関東煮屋に入りしに33円と金足りず、荷物預け服部夫人に借る。金井君と話し服部帰らずして帰る。比嘉一夫、相山眞よりハガキ。「太平」の稿料131円ほど。

10月13日(日)
疲れし上下痢し一日床にあり。昼すぎ来客、名忘る。服部に就職依頼せし保田の知人。川久保夫人に手紙。堀さん角川書店へハガキ。

10月14日
下痢を昨夜よりして困る。ズルファミン服用のためか。四季九月号二冊来る(※掲載誌)。

10月15日
出勤。丹波市は石上神宮の祭とて午後休み。服部を訪ね20円返却。帰れば大地書房渡辺君よりまた電報。

10月16日
出勤。代々木書房篠原金一氏より手紙、300送り来る。今後毎月これ位送ると。書物の売行良しと。午後掃除。下痢まだ直らず。殉死書かずして寝る。
(父よりハガキ。歌二、録之
  どん底の生活(※たつき)をかこつ吾子(※あこ)きけば心晴しも堪へられなくに。
  まづしさを吾子の語れどたらちねの親に甲斐性なきがすべなく
  聊斎八日に送りしと。十月七日は母の命日と。)

10月17日
祭日なれど日直にて出勤。「殉死」の原稿書きしも終らず。帰れば父より手紙、母の命日の詩なり。(※リンク)

10月18日
図書館開館十六周年記念日。はじめてお手振を見、本殿に上る。茶会後、昼食。13:30より「殉死」の講演。大高の図書館勤務の硲晃君来り、正倉院へ明日ゆかぬかと。 断りて別る。明日15:30パーカー来る由、居残り命ぜらる。帰りに大島師、夕食後保田に展覧会図録わたす。二十三日保田見に来ると。大よりハガキ、本二冊送りしと。 三合便覧すむ。代々木書房の小為替五六日遅れると。

10月19日
売る本の整理さされ、午後居残りて15:30頃来る筈のパーカー待ちしも来らず。服部宅へより19:07の汽車にて帰る。古野清人、昨日の講演面白かりしと。「饗宴」へ詩「大和国原」送る。

10月20日(日)
9:00まで眠り、三食せしのみ。夜、笠井君来り、府立工芸へ話決定と。

10月21日
出勤。明日より土曜まで秋季大祭にて休みと。タイプと東京への売本の梱包。服部と駅まで帰り、京都へゆく。

10月22日
京都にて泊り、9:00散髪(6.00)し、羽田を訪ね、三合便覧返却、メリケン粉一貫匁与ふ。12:00退去、家へ寄りしのち四條へゆき彙文堂にてマルコポーロ支那訳(12)と三合便覧(50)とを買ふ。 バター半斤(50)、松茸百匁(30)、疥癬薬(5)とに月給半ばなくなる。電車延着にて帰れば17:00なり。齋藤吉郎よりハガキ。大地より電報。

10月23日
13:00の汽車にて保田と登館、展覧会と書庫見す。インキ一瓶(9)買ひ、代々木書房と大地書房へ送信。

10月24日
16:27の汽車にて服部を訪ねしに留守。蒲団とりて帰る。けふ保田家より野菜貰ふ。

10月25日
子ら運動会。走らず遊戯せすせと。昼すぎ服部夫人来る。服部金借りに実家へ帰りしと。16:20帰る。堀夫人より堀さん宜しと。大和通信書けと。(※手紙にリンク) 柏井母より悠紀子に外務省より500呉れしを、前田博士への払ひに充てしと。数男ら大垣へゆきしと。

10月26日
蘇東坡書きそむ。大へハガキ。13:00丹波市へゆき寺島氏に会ふ。帰途、檪本まで歩き、中島明子氏(※栄次郎夫人)に会ふ。18916部隊三坂隊なる中島より未だ便なく、 もと同隊に在りし人よりの書によれば中島は電波探知機の隊にあり。二十年一月ルソン島マニラより撤退、六月頃よりイバ山地にて食糧難とゲリラ戦とにて部隊概ね戦死と。 柿三ケ、蜜柑一ケ賜りて帰る。山内四郎より300円。妻子八幡にありと。

10月27日(日)
けふ聖林寺にて保田、亀井の講演ありとて行かんと思ひしも止む。悠紀子をつれて忍坂へゆき遅く帰る。

10月28日
出勤。京都の寺島兄氏来り会ひ、十一月九日、本見に出張ときまる。生駒氏より新雑誌に詩をと。羽田のハガキ来る。新風九月号来る。

10月29日
出勤。芋堀りしのみ。山崎忠君よりタバコ150本配給(90円)。服部家へゆき油のことわり云ふ。風邪ひきディルタイの稿料をたのみとす。19:30帰り入浴。 大より東方文化学院目録と支那文学史第二冊送り来る。羽田と石浜先生にハガキ。

10月30日
出勤。芋掘り終る。日和佐教会へ寺島氏訪ねしに会へず、兄に会ひ靴下わたして帰る。女真民族の社会構成なる話きく。研究所員なり、呆然。

10月31日
出勤。大掃除後、芋食ひ、雨にぬれて帰途、養徳社へゆき「夜半の寝覚」わたす。亀井と前川と昨日保田に倚りしと。明日生駒宅に亀井来ると。杉浦よりハガキ。

11月1日
けふより館長と山崎君と東京出張。分類やり、姉崎博士の講演聞かず。杉浦来る。三日桜井へ来ると。帰れば齋藤吉郎来りしと、保田宅へゆき伴ひ帰る。筒井よりハガキ。 大地書房より「聊斎」受取りしと速達。角川源義より「大和通信」かけと、十五日までと速達。

11月2日
日直とて齋藤を伴ひて登館、服部を呼ぶ。満洲引揚の先業某氏(山口氏)(奉天医大予科教授)来る。文部属来る。古野清人に川久保のこと云ふ。「人間」より詩十三日までにと。 「日本詩集」より十三篇を十日までにと。

11月3日(日)
静安学社のため登館、10:00石浜先生、吉永(兄)関大教授ら十名来る。中村、杉浦と御案内。史学専攻の士なし。14:00退去。
杉浦、中村二君と話し、桜井に杉浦を伴ひ21:00の汽車を断念せしむ。服部来り夕食後帰る。保田家にゆき22:00帰宅、床にて話す。いやなら止めてもよしと。
(※詩人の苦にしない蚤に悩まされて一睡もできなかった由:「果樹園」13号より)

11月4日
登館、館長ら仙台へ村岡典嗣の本買ひにゆくと。杉浦昼までゐて急行券買ひ直し管長邸へゆく。「楊貴妃とクレオパトラ」托す。雨。混血(パプアと白人)女来り、 馬来語話せしに忘れゐたり。読書会八日と。高橋重臣君の詩稿預る。

11月5日
登館、新井女史より叱らる。中村君「伊藤仁斎」と「機関銃」賜はる。有能の士なり。午後文化会第一回。京都の新聞記者に館内を見せる。「座右宝」より二十日までに詩。 江口三五岐阜にて弁護士開業と。木村繁喜、新潟県づとめと。みな東京より回送なり。保田家より野菜賜はりしと。

11月6日
雨、正倉院へ行きしこととし、九州の書房へ「死者は怒るか」送る。「座右宝」へ諾の返事。悠紀子保田家にゆき米一升借る。

11月7日
米一升もって登館、整理数十冊す。末吉よりハガキ。伊丹の阪神商業へ就職と。夜、保田家へゆき影山正治その他二人に会ひ話し、聞く。22:30帰る。

11月8日
登館、汽車にて影山氏に会ふ。正倉院への途なり。文部事務官案内し上野に叱らる。あとで向ふあやまりてすみし。庄野君にきけば中村地平の女癩病なりしとデマす、井伏らし。 南風書房より「経過いかに」と。夕食後、弓子以外嘔吐、木村先生の診療を受く。

11月9日
9:00頃家を出、「人間」に「美しい言葉」送り、電車にて京都11:30着く。今井祖母来たまふ。寺島平八郎氏を訪ね、聞けばもと文教部にゐし湖南先生の弟子、岡崎文夫の友と。 乾吉氏(※湖南子息)いま京都図書館館長。郭沫若の子娘京大にありと。共に在支四十年の高橋氏を訪ね、聖書十五冊とリュック預りて帰る。 「百花図」は預からず。二十日過ぎ寺島氏と天理へ来ると。雨となりしも羽田を訪ね電球もらふ。池内先生の令息「はじめ」氏居られ、先生の近況話さる。21:30出去。健、帰りゐたり。

11月10日(日)
昨夜ねられず、だるし。煙草とハムと買ひにゆく。11:00頃、宝国寺住職を筆頭に全田叔母、りく叔母、丹羽みさ子来り、読経後北村叔母来る。宝国寺は昨年三月十三日焼け、 三島に住まる。茨木高女に勤む田中幸臣氏の父義臣氏を識ると。美味佳肴食ひしのちバイブル負ひて帰る。ハムお寺、医師、保田家に頒つ。 影山氏より預りし300円と鯨肉と野菜と保田くれ、九州へ河豚食ひに行くや否や、藤田徳太郎の本のこと頼むと。

11月11日
バイブル八冊もち登館、午後金田一博士の講演あれど聞かず。前川佐美雄より「香橙」に詩一篇十五日までにと。

11月12日
バイブル七冊もち登館、杉浦帰来、「楽我奇帖」書く。養徳社にゆき社員中村地平を知らぬに驚く。

11月13日
欠勤。東坡書く、二十枚位。保田家へゆく。

11月14日
出勤。14:30より服部を訪ね将棋久しぶりにてす。

11月15日
出勤。午後掃除。「柳樽」えらぶ。

11月16日
出勤。末摘花の輪講す。午後西田君と奈良へゆき、別れて前川佐美雄。二十日までよしと。中谷孝雄信州にありと。西田君呼び散髪す。「ザビエル伝」(10)買ふ。 明日お寺の後嗣三周忌と香典50。

11月17日(日)
朝よりお寺にて坊ちゃんの三回忌、午後●坊の得度式。すみて子供にと三膳賜ふ。柳樽終る。蘇東坡少しかきしのみ。

11月18日
欠勤。「海南島の蘇東坡」三十五枚ほどとなり、「座右宝」への詩とともに速達す。保田にゆき安全剃刀の刃五枚(6.80)買ひて帰る。お寺よりお供物賜はる。 夜、木村繁喜、末吉、江口三五へハガキ。

11月19日
出勤。「人間」森徳三氏より詩の受取。「子供の国」より礼状。バートン(※バートン版)にて「アラビヤンナイト」読む。

11月20日
出勤。米一升もちゆきしも仙田氏欠勤。クラウスの「Anthropophyteia」(※Dr. Freidrich S. Krauss編の民族文化史雑誌)写す。

11月21日
出勤。硲晃君来り、タバコ五十本呉る。二三日中に上京と。寺島兄氏来る。聖書三千円に負けろと富永氏の話。三村啓吉君来る。京都に住むと。和田先生病気、 後半年の命といはるると。亀井昇、齋藤吉郎より〒「香橙」一号来る。

11月22日
出勤。東伏見伯来観と、羊羹もらふ。天外(※天理外語学校)支那語三年佐々木生、奈良の安田君より雑誌ことづかり来る。和田先生へお見舞。俸給750円となる(+家族手当240円)。

11月23日
(新嘗祭)終日無為。

11月24日(日)
朝、忍坂へゆく。炭一俵80円、大根20円。帰れば引揚邦人の中谷君来り、生計調査票書けと。午後登館、A(※前記Anthropophyteia)訳し、帰りしのち志野氏宅へゆき、 中谷両従兄弟と引揚邦人の店の設計に加へらる。不快不安なれど詮なし。眠れず『オレンヂ(※『日本歌人』改称)』に「冬の夜」書く。(※同人として十月創刊号に名があるものの『オレンヂ』を通じて作品掲載は無かった)

11月25日
京都の寺島氏けふ来ると伝方ありしも見えず。稀書目録二冊、日本文化二十冊もらひ、下駄三足買ひ(12.00)、前川氏へ原稿、筒井へハガキ。帰れば角川氏より「物語と語り物」来をり。

11月26日
出勤。丹波市「厚生の家」へゆき訊ぬれば引揚者の店にあらず。館長に途にて会ひ京都へ明日ゆけと。バイブル十五冊3500ときまりしと。 養徳社の北浦女より「東亜の古代文化」わけてもらひ、日和佐教会へゆきしも会へず。図書館にて「楽我奇帖」に十篇追加す(計十三篇)。
夜、志野氏を訪ね、結果報告せしに中谷両従兄弟気が変りしと怒る。引揚者二名来り、いろいろ話す。けふは不快ならず。チャブ台分けてもらひて22:00帰る。

11月27日
出勤して買入のことにて会議あり。慶長勅版本「長恨歌」なり。未定、3500円もちて京都にゆき三條につきて煙草買へば20円、朝日支局に寄りしに吉村支局長旅行中と。 寺島氏を訪ね昼食し、共に高橋悟朗氏を訪ねて金わたし「清文彙書」と「補彙」と預り、東方文化へゆけば藤村井上二氏とも帰郷中、吉川幸次郎氏に会ふ。 ネルヴェーズなら明代の本買へと。桑原武夫氏来りしと。ウスヰ(※書房)に寄りしに旅行中、臨川(※書店)へゆき清文二冊いくらで売るかと問へば四五十円づつと。 慶長勅版本未定の旨つたへ、蘇洵「嘉祐集」6円買ひ、羽田へゆき回教書目わたし20円もらひ、夕飯よばれて帰る。桜井着22:00すぎなり。

11月28日
出勤。疲れてA十四五篇よみしのみ。南部銀行へ昼飯後ゆき745円もらふ。羽田のトルコ語バイブル250円位にて喜びて受取らる。八木女史に30円わたす。 下駄の鼻緒引揚者より十二本買ふ(12円)。帰りの汽車中にて郡山中学の秋永政孝氏より挨拶さる。歴史の先生にて先日の講演聞きしと。 柳本に住む。南風書房日本青年館事業部、堀さん、角川源義氏へハガキ。みな原稿のこと也。

11月29日
出勤。笠井君来りて話す。高田高女の堀内民一氏より信。朗読用の詩、十二月十日までにと。

11月30日
大掃除。午後、服部を訪ね将棋さす。疲れし。19:09の汽車にて帰宅。

12月1日(日)
無為。雨。飴と杓子(アルミ)無償配給。炭500匁(2.60)。

12月2日
通勤。昨日一日寝て食ひしため、胃悪し。

12月3日
通勤。午後文化会。新井とし「切支丹版の話」。南風書房より電報、蘇東坡承知とならん。不二出版、[私]より歌くれと速達(二十四日出)。

12月4日
朝の汽車にのり遅れ、13:00に乗る。仙田氏に小豆二升(160)もちゆきしのみ。安田章生氏、不二出版へハガキ。

12月5日
寒し。一昨日より冬外套。けふより手套。無為。木村繁喜よりハガキ。

12月6日
通勤。藤枝晃へ紹介状書く。養徳社より萩原先生の住所たづねに来る。前川佐美雄よりハガキ。高田高女用の詩書く。虫来ず。「太平」十一月号に「僕の畑」のれるを見る。

12月7日
出勤。アメリカ人来るとてバイブルの陳列せしめらる。服部帰郷中とて午後行場なし。米人二十名ほど来り、中山管長以下接待す。(朝、大島師の先輩の某師来り、 教●に紹介たのまれ前川氏にたのむ)。帰れば川崎菅雄より速達、明日クラス会と。原田志乃女史より不二出版社の女子供雑誌に原稿をと。保田をクラス会へ誘ひにゆきしも行かずと。

12月8日(日)
7:50の下りにて大阪へゆき10:30山本治雄宅へ着く。川崎菅雄夫妻と四人にての接待、山田鷹夫(大阪地方判事)、後藤孝夫(大朝政治部)、田村二郎(阪大理科事務員)、 鎌田正美(日銀大阪支店)等、次々に来る。本庄先生来、俣野博夫おくれて来る。牛肉をふんだんに食はせし。山本は至武部隊にて定●にありしと。16:00辞去、19:00帰宅。

12月9日
寒し。9:00頃出て高田にゆき高女の堀内氏を訪ねしに授業中、「大和の夜明け」(※未確認)托し、大鉄を経て天理にゆく。西より見し大和美し。図書館につきしは13:00。 その間、地誌目録の相談すみて中村君の説通りて大目録とすべしと。14:00より茶会。帰途、大島師に挨拶す。第四日曜に座談会すべしと。大より「スマトラ民族」なしと。

12月10日
大風、寒し。欠勤。忍坂へ悠紀子ゆき、醤油四合(16)、米一升(65)、豆一升(40)買ひ来る。一日家にゐて無為、金なし。

12月11日
出勤。新井とし女史に醤油四合届く。服部帰り来る。「不二」十二月号来る。原田寿乃女史へハガキ書く。

12月12日
出勤。館内異動。西田君司書室、山崎君事務室、前川老古義堂、山崎君怨む。日葡辞典よみあはせ会。

12月13日
出勤。元、天現中学教頭某氏の初出勤。義勇隊の教官たりしと。午後読書会。笠井君来りて薄給にて大阪につとむと。諌止す。夜、保田のところへ行き話す。池沢よりハガキ。

12月14日
出勤。土曜ゆゑ服部にゆき将棋ささんと思ひしも駄目。養徳社、大和タイムスともに留守。檪本の極楽寺へゆき、中島のこと訊ねしも消息なしと。餅もらひて帰る。 奈良の安田章生より「白珠」2。

12月15日(日)
マイルズ記「シャジラット・ウル・アトラク(※書誌不詳)」よむ。堀内民一より信。お幸伯母より小包。昨日来りし柏井母よりの信にては俊子姉人工流産と、可嗤。

12月16日
出勤。此間より甘藷のこと調ぶ。午後大掃除。●●●の代りに950円貰ふ。七月昇給以来の差額なり。春夫詩集「佐久の草笛」(8.00)買ふ。夜、入浴。

12月17日
曇、寒し。大根八貫(40)買ひしと。西川英夫よりハガキ。

12月18日
8:00の汽車にのり遅れ、14:00出勤。18:30より引揚者の会。木工の人たちに援護資金貸すこときまる。機関車賠償にとられ通勤に不便とならんと。慄然。「四部備要」の三蘇の部五十冊借出す。

12月19日
出勤。寒し。和田先生よりハガキ。潰瘍より癌になるかと心配されし由。大高同窓会より調査[表]。

12月20日
出勤途上、汽車一時間ほど停車。けふ仕事しまひ也。「クーリン 支那百科事彙(※書誌不詳)」借出す。不二出版社より「小泉八雲」書けと。志野氏に印鑑証明書届く。

12月21日
4:30強震。お寺の塀倒る。墓石倒る(※昭和南海地震)。東西●なりし。汽車にのりおくれ電車不通のため天理まで歩く。天気よくて散歩なり。三輪の茶屋の隣家全壊、 織田、巻向、柳本、朝和より丹波市、館長ゐず掃除少し手伝ひてすみ、俸給790円貰ひ、山口繁雄氏と話し、大和タイムズ社へゆき田中治郎編集局長にきけば正月号のための詩らし。 二十五日頃までにと。服部宅にゆきしに一家留守。それより引返すとき山口氏に再会、仮寓の撫養詰所にゆき話す。神保光太郎と同級と。16:00すぎ辞去。帰れば桜井にも全壊あり。 近くの三軒の内二軒お寺に入ると。

12月22日(日)
齋藤吉郎よりハガキ。九州旅行にてわが稿のこと知らず。忍坂にゆき子ゆき、大豆、そら豆買ひ来る(250)。大豆一升40円×5、そら豆40円。特価油二合(6×2)。客なし、無為。

12月23日
忘年会と。汽車にのり遅れ電車でゆく。車両制限にて大混雑なり。ゆけば中山管長のため夕刻から開会と。面白からず。帰らんとせしも高橋重臣の家にて昼食もらひ、 陳列館なるものを見るなどして待つ。牛肉のすき焼なり。八木、吉田等の女の子も酒のむに驚く。管長来たる中20:00まへ退去。けふ笠井君来り、大阪へ転職決定と。

12月24日
晴、悠紀子発熱。炊事をやり蘇東坡書きそむ、八枚。困窮●●の10円[據]出、可嗤。

12月25日
曇。大和タイムズの新年号の詩

大和元旦
やまの辺にうすあかりさし
松の木のこずゑあからむ
とのそとににはとりはなき
のどかなるはるぞ来れる
よものくにみなはらからと
あつまりてよろこぶとしも
けさよりとたかくうたへる

午後、丹波市へもちゆき田中治郎氏にわたし、服部にゆきしも夫婦とも留守。金井寅之助と前栽にゆき散髪せしに8円!引返して長柄まで歩き汽車にのる。 [ユロ](※不詳)30円(百匁)、ハガキ20枚買物す。

12月26日
悠紀子気分よしと思ひ干柿10ケ(20)とタバコ五十本(50)とをもちて京都へゆく。父の許へゆきしに母、悠紀子と同じく風邪にて六日病臥と。大、東京より200円預り来れり。 数男大垣にて好調と。森一家柏井の四畳半にありと。金尾文淵堂病臥、父に後事を托せしと。羽田を訪ねしに散髪にゆきしと。15:00すぎまで待ち会ふ。翻訳叢書の企画なすと。 17:00ごろまた父のところにゆけば大ゐず、炊事当番。17:30父かへり大と三人にて食事。東京より持帰りし矢野仁一、桑原隲蔵両先生の本九冊と「科挙」 (宮崎市定)をもち火鉢もらひて帰途につく。 八木以遠の切符売らず。乗継ぎたり。十万円の富くじ当りし男と同車。桜井に手代用うどん食へば10円と。夫婦にて酒とさしみに355円払ふありし。
東京より転送の鎌倉文庫よりの172円と杉森久英の「進路」への詩依頼、一月二十日までと。堀内民一の教子なる岡本和子なる女子あひたしと。

12月27日
雨、悠紀子病臥。夫婦喧嘩す。同志にはあらず詮なし。三度炊事す。いとこんにゃく10円(60匁)、かずの子六ケ(2.02)。悠紀子わが心配はインフレならんと云ふも当然か。 後世の史料に物価書きつづく日記も誤解あらんか。

12月28日
晴、風吹く。炊事相変らず。保田家にゆき一升瓶一本借る。大豆二升と引替への醤油粗悪ゆゑ農業会へゆき志野明氏にゆき、ともに役場へゆく。後にて18(規格20)の濃度と吏員来りて云ふ。 買物、昆布佃煮(14)、竹輪二本(20)、キャラメル一箱(10)。お寺より餅賜はる。杉森へ承諾のハガキ。岡本嬢に電話せしも不在。

12月29日(日)
曇、不二出版社へハガキ。172円の為替とり、お寺へ餅のお礼に飴15円。買物、こんにゃく三枚(10)、のり佃煮200匁(26)、はし十(3)、ポチ袋10枚(2)、配給もち米三升三合(18.02)、 たばこ正月特配(2.45)、つき屋にききしにもはや遅しと。餅なしの正月もよし。醤油一升とりかへてもち来る。志野明氏見舞とて来る。パンにとメリケン粉一貫300匁もちゆく。 四日の二時頃来よと。柿一棹(10)、もち粉精白代(50)、あめ(5.00)。炊事と一緒にて忙しかりし。夜、お寺へ歳暮のつもりにて100円と下駄一足もちゆく。

12月30日
悠紀子けふも悪し。保田へ餅のこと頼みにゆき明日舂けときき、帰りに障子紙十枚買ひ(10)、木村医院へ若先生の往診たのみ、帰りて買物に出、鯨肉100匁(35)、こんにゃく三枚(10)、 干柿一串(12)、酒五合配給(18)、菓子と昆布(2)。昼食後、保田家へまたゆき木村五平薬局で頓服買ひ(10)、木村医院へは明朝の診察たのみ、炊事し、障子張る。障子紙追加五枚(5)。
夜、服部来り、ディルタイの原書保田へ借りにゆくと。勝手なる男なり。

12月31日
朝、炊事後悠紀子木村先生へつれゆきしも異状みとめず注射二本と薬と賜はる。子らに柿買ひ保田へゆけば餅170ケすでに出来あり。子らにキャラメル二箱与へ保田と話して帰る。 服部天理外語の英語教師にわれゆかぬかと云ひをりし由、可嗤。市にて麩(12)、椎茸10匁(20)買ひ、百合根90匁(16.20)買ひ正月の用意ととのふ。味噌(2.15)と酢(2.60)の配給あり。
午食に餅食ひ、明日の雑煮の用意し、夜、和田先生へ「台湾島史」書きたしと返事申上ぐ。けふ「四季」来る。「三十年」のりをり。夕方より雨。


【昭和22年】

 年があらたまって昭和22年、外地からの引揚げも抑留者以外は概ね終了し、フィリピンから帰ってこない中島栄次郎の戦死を確信すると(正式な広報は年末に届くのですが)、 田中克己はじめ旧コギト同人たちは早速遺稿集の出版に動き出します。中島栄次郎は天理外国語専門学校の教授でしたから、天理教関係の出版社である養徳社から出されるべきでしたが、 この時は結局実現を見ませんでした。かたや山川京子による夫君、山川弘至の遺稿詩集『やまかは』はこの春にも届けられるといふ迅速ぶりですが、 中島栄次郎の業績は、京都大学での学友でもあった野田又男氏の宿願として半世紀を隔てて1993年に無事『中島栄次郎著作選』として編集・刊行されることになりました。

 またコギト同人関係では、天理図書館に勤める彼に、中山正善管長が母校の後輩でもある保田與重郎との面会斡旋を求め、 「会ひたいなら向ふからくればいいのに」と云はれて説得に苦労するさま、しびれをきらした管長が直接電話し、 さうまでして面会した彼にすっかり感服してしまふといふ不思議な一件にも触れられてゐます。保田與重郎は他にも進駐軍に戦犯容疑で呼び出された際、 羽織袴の正装で現れて、羽織紐で机を鷹揚にぽんぽん叩きながら「ノーノー」と応へる、 その人物が好感をもって受け取られ、「大和の貴族」として遇されたといふエピソードが有名ですが、詩人も頻繁に出入りした保田家ではもっぱら相対したのは父君や弟であり、 たまに話し込めばわざわざ「久々に與重郎先生と長く話す」と書き記される、それは嫌味でなく「R火」を共に編集した同級生だった彼のその後の成長に圧倒され、 照れを隠してゐるのだと私には思はれます。

 件の“田園の憂鬱”は、間借したお寺から追ひ出され、使はれなくなった隔離病舎に一時引っ越さざるを得なくなった春にはピークに達したかと思はれ、 日記の中では万事小心翼々たる館長が呼捨てにされるやうになり、当然それは挙措にも現れるのでせう、館長からは「仕事せず、勉強のみす、服装ルーズ」との注意を受け、 扱ひ辛い部下であるさまが日記からもよく感じられるやうになります。

 ことにも同僚の後輩女史たちと行動をともにすることが多くなり、彼女たちの雑談相手・相談相手になってゐるうち、扱ひ辛い部下を通り越し、 私生活において起こるべくして起こるのは夫婦喧嘩であります。家計が苦しいのに珊瑚の帯締なんてどうやって入手したんでせう、 一緒に欠勤すればどこかへ旅行にでもいったかと噂されるやうになれば、まあ弁解の余地はない訳で、そのうちの一人が退職して天理から去るにあたっては、 他人が読んでも分からぬやう漢詩や符牒を使ってまでして親愛の情を日記に書き残すほどの仲(?)になってしまひます。 当時、影山正治の雑誌「不二」の編集部とやりとりが記されてるのですが、読んでゆくうちに何だか“をかしな記述”が混ざってきて、 それはつまり彼女のファーストネームを指す符牒だった訳ですが、 こんなことが心労ともなり、悠紀子夫人が年末に流産してしまった一因となったのであれば、まことに罪深い所業でもありました。 直後記された「悠紀子流産怏りしか」(12/3)の「怏り」はなんと訓むのでありませうか。
 そのむかし田中先生宅に通ってゐた頃にこの日記を読んでゐれば!――とはいへ「果樹園」に連載された小説「陳夫人」を読んでロマンスの真偽を問ひ質すこともしなかったやうな朴念仁の私ですから、 おそらく読みすごしただらうとは思ひますが、ここでは田中先生が世間的な人情をとりもどして下さった証拠として、同じくこの春、 肥下恒夫との三年にわたる絶交が詩人の反省によって復され、久闊を叙するに至ったことを合せ記しておければと思ひます。

 とまれ今回、天理図書館時代の解説を書くにあたり、芹沢光治良の「神の微笑」を読み、天理教なる宗教について稍しばかりの知識を得たのですが、 日記によると女性は信者でないと関係施設に就職できなかったやうです。つまりそれまで教師として男子中学生しか相手にしてこなかった皇国史観の堅物詩人が、 新興宗教の信者の同僚、知識欲に富んだ純朴な地方の娘達を相手に憂さを晴らすべく自由に話すことで何を学んだかといへば、 良家の子女に対して教鞭を執ることとなる教師生活に役立つ自信を、テクニックとともに身に着けることになったのではないか、といふのが私の推察です。

 詩人の姿勢の“軟化”が文学におよぼした影響は、聊斎志異やハイネの初期抒情詩といった題材選択に端的に表れてゐると思ひますが、 児童文学の方向にはいざなはれることはなかったらしく、竹中郁とも引き続きよくありませんが、竹中郁と一緒に詩誌『詩人』を京都から発信した長江道太郎と接触があったのには意外でした。この時期、 かつてのライバルだった伊東静雄は自選詩集『反響』の編集をすすめてをり、戦後に到達した平明・明澄なる詩境の開陳を遂げてゐます。田中克己の戦後詩の結実も、 この都落ち関西暮らしの十年間の間に、戦争の影を色濃く落とすものとして書かれ、後年の第四詩集『悲歌』に収められることになります。

 哀歌

あの曲り角をまがると
おまへの家が見えて来る
小川のよこの木々にかこまれた家だ
もうそこにはゐないのに
おまへが写真でのやうに
今日もしづかにそこで笑つてゐるやうに思ふ
泣いてゐる写真か おこつてゐる写真
死ぬためにはそれらをのこすべきだ
僕はおまへのことを考へると
だまされたあとのやうにくやしくなる。


昭和22年

1月1日
すまし雑煮を炊き宮城、神宮、京、東京に挨拶せしめてのち子ら学校にゆく。我ひるね、東京より皮ジャンパー着く。筒井より明日来ると電報。昼間時々雨、事なし。 「大和タイムズ」見しに、詩のりをれど(※未確認)カナ遣ひ改む。

1月2日
曇、朝、木村先生にゆかんと云ひしにゆき子きかず、お寺より子供に10円づつお年玉賜はる。10:30筒井来り衣類呉る。大阪市役所につとめ1200円余貰ふと。 三木氏来りしに住宅係とて会ひ知らぬ顔せしと。東京より小包来り、座右宝その他の雑誌いれあり、つまらず。羽田よりハガキ。養徳社の双書にブランド入ると。 小林俊文より手紙「死かマルクスか」と。三沢師、塩山、中野氏、東京へ帰りゐると。筒井送りにゆきタバコ手捲き20本(28)、菓子(もなか一ケ10、他二ケ10)。 小林、西川、吉野弓亮(進駐軍の嘱託を仙台にてやりゐしが東京にかへりしと)へ返事す。川崎へ同窓会の返事たのむ。

1月3日
年始にゆかんとする中、正午となり悠紀子を促して木村先生にゆかしむれば病臥と。志野氏に5千円貸出しの印押す。会計係と記入しあり。保田にゆき仁徳御陵の室中写真見る。 副葬品の出しものいまボストン博物館にありと初耳。〒九州詩人。

1月4日
けふの昼より悠紀子に炊事やらしむ。久し振りの快晴、蜜柑(20)食ひゐる中、富永館長年末賞与375(俸給半月分)もち来る。昼食時、大、来り金尾より500円ことづかり来る。 ともに鳥彌神社(※等彌神社)に詣り、牛肉すき焼す(肉100匁55、水菜100匁10、昆布佃煮100匁10、こんにゃく10)、やみ市にて菓子二人前20、蜜柑300匁30。柳田国男与ふ。 母もややよろしと。十日転居と。健の東京よりもち来りし周藤吉之と「蒙古及蒙古人」の二冊。

1月5日(日)
雨、悠紀子よろしきらし。一日臥床して無為。午後増野●則来る。蜜柑、餅、菓子食はしむ。

1月6日
快晴、暖し。東坡よみしのみ。夜、電気故障を停電と誤りて無為。

1月7日
曇、時々雨。坊ちゃん電気なほし呉る。パン食ふのみ。

1月8日
曇、寒し。志野夫人来る。東坡書く。齋藤吉郎へ問合せ。午後保田にゆき芋貰ふ。汽車三本となる。朝7:51のみ。

1月9日
日直とて出勤。米軍よりライフ、エスクワイヤー等来あり。帰りの汽車17:23となりしに困る。安田章生より歌集、堀内民一より賀状。

1月10日
晴、朝の中、悠紀子、忍坂の表野へ買出しにゆく。炭一貫目25、里芋一貫目25、米五升250。われ炊事●守す(キャラメル10)。四季の原稿料来る(129)。 タバコ買ふ(二〇本24)。午後東坡書く。

1月11日
雨、日直出勤。「子供の国」より稿料100。奈良の菊岡義政なる詩人よりハガキ。16:00退出。服部にゆく、中島宅へゆかざりしと。比島の残留千名足らずとなりしと、絶望か。
帰れば杉浦より手紙、この間の地震にて戸外に出しと。亀井昇、安田章生よりハガキ。けふの買物、マッチ3.5。悠紀子闇市にて甘藷買ふ。1メ目35と。

1月12日(日)
よべ不眠。8:30より志野氏で会と。ゆき子ゆかしめしに事あかず、11:00われゆけば庶民金庫より人来る。課長に300円使ひしため願切なり。 いま一人入って35000はよけれど引揚証明書必要なりと。午後引揚者の会あるもゆかず。昼寝す。東坡書く。杉浦、新田左武郎、池沢茂へハガキ。進路へ「幸運児」書く。

1月13日
汽車にのり遅れ電車でゆく。午後早引し二階堂村役場へゆき引揚証明書再下付の件ほぼ判明。服部と将棋して帰り、志野氏に話し県庁出頭の件、中谷氏にたのむこととし、即預く。 天理大学となり古野清人総長になるつもりと、呵々。

1月14日
出勤。寒し。アントロポフィテイヤ(※前註「Anthropophyteia」)一冊なくなる。我不知道なれどいやなり。退館後養徳社にゆき庄野[生物]君と話せば三和君ここへ就職の話ありと。 古本屋へゆけば管長あり「春日神社興福寺」呉る。

1月15日
出勤。関書録かきつづく。「宋史通俗演義」借る。午後大掃除。すみて管長邸にゆく。柳沢保承伯来り、知事候補と。森岡二郎その他あり。 (※中山管長)われをヌルハチと呼び保田に会ひたがる。大和文学再刊の編輯同人と。保田、前川となり。三輪政会長が画策と。末吉より手紙。十二日来るつもりなりしと。 夜、田村春雄のゆめ見る。

1月16日
ゆきの汽車にて中谷君に会へば引揚証明書再下付中々むつかしと。丹波市の引揚者寮と来迎寺ととりかへせぬかと。可嗤。帰りに熊谷古書店へゆき●印のこと訊ぬ。 村田治郎「東洋の建築」買ふ(4.50)。帰りに志野氏にゆき印と天津在住証明書とを托す。

1月17日
出勤。午後読書会。すみて歌ガルタせんと。ことはりて変なりし。

1月18日
出勤。養徳社より人来りて伊東静雄のところ聞く。服部に寄りしにまだ帰らず(天外(※天理外語)の生徒、詩呉れと)。角川より堀さんの「風たちぬ」呉る。 堀内民一、末吉、不二出版より婦人雑誌●めと。小泉八雲急がすとよしと。前川より『オレンヂ』。

1月19日(日)
晴、午前中眠くて耐えず。悠紀子忍坂へゆき炭三メ目(25×3)買ひ来る。午後、岡本和子嬢来る。保田にゆき中山邸へ誘ふ。二月に行かんと。

1月20日
晴、昼まへ大高の神田力氏と硲君と来る。管長のところへゆくと。大高の名簿見る。本荘健男未帰還なり。帰りの汽車四十五分おくる。影山より不二、保田のことのす。 大垣よりハガキ、十二月に発狂せしと自ら記す。

1月21日
出勤。父死せし木村君、けふより出勤。俸給830とボーナス750ともらふ。小幡君と歩き靴直し115、茶7.50(百匁)、うどん10(二杯)、日本書紀古事記(岩波文庫)と「東大寺」とにて45。 小幡君うどんと計●おごり呉る。

1月22日
春画見にゆくこと取止めと。寒し。山崎君出勤。妻君重態とて出勤わからず。お寺演芸大会して宗教●の基金募集す。けふ旧正月也。

1月23日
出勤。この頃、八木、吉田両女史にリード教ふ。帰途中村君に寄り「覚後禅」借る。

1月24日
よべ雪降る。出勤。怠けて殆ど何もせず。(汽車にて東京に教組のスト代表としてゆく志野氏に会ふ)。杉森君よりハガキ。詩は二三月号にす。歴史物を一月末までにと。 「午前」来る。新選詩人叢書に「蘇東坡」となり居る。

1月25日
快晴、何もせず。午後歌●ひゐしに掃除命じらる。14:30服部にゆき将棋さす。留守中岡本女史来りし由。

1月26日(日)
雨、終日褥にあり。無事。

1月27日
寒し。欠勤。東坡一寸書く。

1月28日
出勤。寒し。夜、岡本女史来り、詩置きゆく。

1月29日
出勤。寒し。笠井信夫君退職の挨拶に来り、ともに古野氏に会ふ。月給一倍半となると。

1月30日
出勤。整理この二書大分やらさる。富永氏「大和文学」のことで相談す。一向はっきりせず。帰れば「子供の国」来をる。前に一度送りし由。

1月31日
大掃除。すみて宋元明本の講義館長より、次で図書館紀要のこと。小心翼々たり矣。
大和タイムズ社へゆき田中治郎に会ひしも忙しとて要領を得ず。服部にゆきしに留守。電車にのりて帰る。買出しの取締り厳し。昨日よりのゼネストと関係あるか。帰りて久し振りに入浴。 杉浦よりハガキ。五六日までに原稿欲しと。父より五十一番地に転居と。

2月1日
出勤。(マクアーサー指令にてゼネスト禁じられ汽車すきたり) 館長より保田に三日来丹いかにと管長云ひしと。昼食後高橋君につれられて瀧本の家へゆく。 舅姑(舅は元県令議員足達氏)にもてなされ、雉子もらひて帰る。丹波市より約一時間の行程。夜、保田にゆきしに保田、夫人の家(河内太田)へゆきて不在。 父君財産税の申告書かきゐる。しばらく話して帰る。齋藤吉郎よりハガキ。●鳩出ずと当然のこと也。大より東京着と。夜、あれこれ考へて眠りにくかりし。

2月2日(日)
寒し。保田よりの電話待ちゐしに来らず。15:00掛くればまだ帰らずと。管長の方へは断り云ふ。

2月3日
寒し。欠勤。東坡書かんと也。

2月4日
上高家の栢木君来る。保田の弟子にてもと橿原神宮につとむ。風強く仮病ほんものとなる。

2月5日
風寒し。欠勤三日目。保田まだ帰らず。天理へ電話かからず。大垣より手紙、発狂入院中のこと詩にす東坡あまり進まず。

2月6日
晴、久し振りに出勤。硲君一日かに来りしと。安田章生の使、批評くれるかくれぬかとうるさし。帰途養徳社による。三村啓吉つとめゐる由。大和文学のことも何だかいやなり。 帰れば父よりハガキ。金尾種次郎氏一月二十八日逝去と。(※書店の残務を)あと父やるとなり。保田帰りしと。

2月7日
晴、出勤の途、保田に寄りしに未だ起きず。ゆきて本整理やり、明日京都出張を命じらる。八木、吉田、二女史らに好かる。午後読書会。 中村君の「鶴の涙せる橋」と吉田女史の謝冰心朗読。三村君来りて挨拶す。いまの所翻訳の許可願中にて東洋叢書未定。「玄悲」のことやりをると。 帰途服部に寄り将棋さす。天理大学の企劃発表さる。付属図書館となる由。夜、保田へゆき父君と話す。志野氏復員軍人に叱られしと。保田十日か十二日天理へ来ると。

2月8日
京都出張。7:50発丹波市−平端−三條、東方文化(※京大)へつきしは十一時。吉川幸次郎氏に会ひ、井上以智為氏に会ひ、外山軍治、 藤枝晃と話し「橋●奴」もらひフ●クス「満文書籟聯合目録」借り、森[廉]三と話し、三村啓吉と百万遍にて別れ、一度父宅によりしに●雄に会ひ衣類盗まれしと。 羽田へゆきて話し、父宅に帰りて夕食。父帰り金尾の話きけば●なし。夜不眠。

2月9日(日)
9:00出発、彙文堂にゆき「清文啓蒙」20、「清語摘抄」10、「日海語集成」1.00買ひ、三條より上京。途中切符西大寺にて買ひ、つぎ八木にて降りしに買つぎ出来ず。 八木の書房にゆきてたのみ14:30帰宅、昼食す。天理にては十日午前中に保田来れと管長自ら電話にて云ひしと。保田家にゆき父君と話し夕食。けふより桜井のヤミ市消え失す。主食副食の価格統制のため也。 夜、志野氏にゆき話す。資金借れしと。東京より回送の文芸家名簿の問合、大地書房より聊斎返送すと。宮崎の文化広場より原稿料20(−1.80)。大毎より写真くれ。 子供の国より詩十日までにと。

2月10日
保田を誘ひにゆき切符なしにて歩いてゆく。富永館長に紹介。金井君に保井文庫の案内さし、10:00管長邸にゆく。生駒藤雄も来る。昼飯と酒のもてなしにて管長機嫌よかりし。揮毫す。
石の上ふるきふみどもよみゐしがわれが三十路はすぎにけらしも
石の上ふるきみちをばつたへつつ子らうまごらの代をし待たなむ
16:00辞去。養徳社に寄りて帰る。東京より雑誌類回送、「人間」「進路」「文化広場」「次原(※次元)」「海郷」「裸木」林房雄より「香妃の妹」亀井よりハガキ。茅野より手紙。
19:00より志野氏にゆき、引揚者の会、木工組合だめとなる。

2月11日
紀元節。学校にて式許可さる。保田にゆき父君に5000円の費途きく。封鎖と交換すれば二割の利息と。保田と話して帰り、午後岡本和子女史よぶ。雪もよひなり。

2月12日
出勤。管長、保田に感心せし様子、書目作れと。服部宅へゆき書く。図書館の青年組三月末総辞職と。「中国文化」より原稿依頼。

2月13日
出勤。事なし。帰りに養徳社による。子供の国へ「奈良より」送る。

2月14日
昨日けふと館長をらず。午後よりみぞれとなる。

2月15日
掃除日、10:30すむ。硲晃より電話。●●うけに上京と。養徳社へより会ふ。けふより開通の丹波市桜井間バスにのる(3.00)。中島明子へ。

2月16日(日)
朝ゆき子岡本家へゆき米三升借る。和子女史来る。忍坂にて芋40円(メ730匁)、大根三貫(15円)買ひ来る。われ無為。

2月17日
出勤。不快。

2月18日
出勤。無為。夕方雪降る。朝、汽車にて奈良へゆく保田父君に会ひし。

2月19日
朝、志野明に会ふ。御機嫌わるし。けふも夕方雪降る。

2月20日
出勤。夕方より雪となる。

2月21日
出勤。越冬資金二回目に750円貰ふ。木村繁喜、杉森久英、香川児童文化研究会よりハガキ。

2月22日
朝より作業ささる。養徳社にゆきしに「玄想(※雑誌)」まだ出来あがらず。服部にゆきしに帰郷と。バスにて帰ればハガキ多く来る。爐書房、硲晃、杉森、稲垣足穂。 今月月給税金13円と減る。

2月23日(日)
岡本和子来るといひて来ず。暖し。久しぶりにて入浴、吉田光邦へ華北吟二首書く。東坡一八〇(三分一也)枚。

2月24日
晴、漸く春らし。午後管長来り、タバコ一箱呉る。[今]日叔母より三月二日忠蔵叔父の一周忌との案内状来る。

2月25日
出勤。昨日けふと八木嬢の退職とめしもきかず?帰途日和佐教会へゆく。夜、志野宅にて五千円のこと。

2月26日
出勤。二日睡眠不足のため眠し。●上にて遊ぶ。午後富永氏のエンサイクロペジアの話つまらず。吉田嬢と話しながら帰る。群中の秋永氏(※秋永政孝)追放さるとて悲観す。 保田の先輩にして国史の教師なり。翼壮団長(※翼賛壮年団)のためと。夜、岡本嬢来る。

2月27日
欠勤。「進路」より詩の稿料300(−42)来る。大より国学院学部にゆくと。保田へゆき管長への本預る。大島師に会ひしも話さず。「進路」へ「芋の話」十四枚送る。 夜、志野氏にて五千円の話終る。

2月28日
出勤。駅にて井上嬢つれし吉田女史待ちゐる。三月十五日に来よといひやる。谷川新之輔来る。神保芳賀子供生れしと。明日よりの竹柏園叢書の講習すみ、谷川金井二君と帰る。 秋永氏に会ひ景行御陵のこと話す。
けふ女高師の生徒より礼状来る。一昨日案内せしを喜びし也。

3月1日
朝から何もせず午後吉田嬢と共に出、服部にゆき中村孝志兄弟と話し、台湾のこと聞く。「二十五絃」くれし松村教授東京にありと。楊雲萍参議となりしと。 日本語使用禁止に困りと女学生ストに「海行かば」唄ひしと。抜刷もらひて帰る。東印度会社「バタビヤ城日誌」の原本写をもち「アダト辞典」の稿大部分もつ。天理東洋学会の好き相棒なり。
藤枝より古本買はぬかと〒。「大和の芭蕉」不二に書く。400×11(※未確認)。

3月2日(日)
8:00電車にて大坂へゆき鶴橋−天王寺−阪和浅香山。全田に着きしは10:30。野田又男も来ず、次女の約婚の京大生と河村判事(今中、大高、京大)、大高生一名、 堺市役所の某氏と敦子の婿渡とのみ。法事すみて筒井来る。ともに出て上野芸の田村にゆけば進駐軍にもとの家とられ小さき家にうつり住む。安否知らざりゆゑうれし。 中支の海岸にありしと。出て野上弘を久米田に訪ね、夕飯馳走になり筒井と駅にて別れ乗かへして帰れば23:00なりし。末吉よりハガキ。藤枝春義も教師と。

3月3日
出勤。満文書目タイプにて打つ。八木嬢に大和資料をやらすこととす。塩一升配給(40)。大よりハガキ。東京にて内職さがせと。

3月4日
出勤。けふも満文書目打つ。八木氏やはり退職と。生駒藤雄ら「大和文学」の相談に来る。「東亜の衣と食」17.00買ふ。面白し。

3月5日
出勤。けふにて満文書目のタイプすむ。午後畑をやることとなりむくれる。八木吉田二嬢と散歩。夕食にはつ食べ吐瀉下痢。

3月6日
欠勤。胃臭し。雨、午後保田へゆき生駒、瀧井の二氏と大和文学の話。十一日前に女児生れしと。夜、岡本女史、芝召しつれて来り23:00頃までゐる。

3月7日
出勤。けふより漢籍の貴重書やらさる。西太后写しの「西香訳語」あり。藤枝へマルクス主義の本の断り出す。よべ不眠のため元気なし。高橋君より五万分一「奈良・桜井」貰ふ。 筒井、吉田光邦よりハガキ。

3月8日
出勤。貴重書一冊見しのみ。午後吉田君と二時間半明代小説よみ合せす。米人二名来る。管長も来る。管長夫人に久し振りに会ふ。 八木嬢退職の理由は増野君より仙田氏を介して求婚され断りしためと可笑。文化新聞より前の稿料300。筒井へハガキ。

3月9日(日)
午前中臥床、午後末吉来る。岡本姉妹来会す。安形戦死と。宮井佐久治、帝塚山に闇市たてしと。川西奎之祐新婚せしと。教師として中々巧者らし。19:00頃帰る。 お寺より食膳賜る。けふ150円一日に費ひし。

3月10日
下痢、欠勤。寒し。杉森久英より原稿受取、三月一日につきしと。

3月11日
出勤。何もせず。タバコ15円となりまだ上ると。菊芋の根十ケ入手。「午前」来る、いやらし。昨日けふと停電。志野組合より50円配給と。

3月12日
曇。八木嬢休む。帰途養徳社にゆき「玄想」創刊号とる。けふ九月十四日まで六ヶ月間の定期買ふ(120.00)。三割以上の値上なり。

3月13日
晴、八木嬢縁戚の不幸と、山崎忠君夫人死すと。服部正雄よりハガキ。七理ウラジオにありと。昼、笠井君来る。

3月14日
曇、暖し。午後読書会つまらず時間の無駄づかひ多き図書館なり。服部にゆき将棋二番さし負く。

3月15日
出勤。八木君来る。大掃除後吉田君と三人にて話す。橋本給仕に英語教へ吉田君と今古奇観よみともに帰る。けふ養徳社より稿料もらふ(税46円引254円)。煙草17円となる。 「愛知歌人」と「不二」二月号。「食後の唄」。

3月16日(日)
「子供の国」と稿料50来る。岡本嬢来る。引揚者の配給としてふる●と盆と。保田へ午後ゆきしに風邪。物価ますます高し。角川書店と羽田へハガキ書く。

3月17日
出勤前に大和農園へ保田の為、南瓜とまくわの種買ひにゆく。登館せしに館長機嫌わるし。レエブの書目写し打つ。八木吉田君と話し、帰途養徳社へ寄りしに三村君あり。 東京へゆくと。汽車に駆けゆき保田宅へ寄り種子わたす。稲垣足穂より礼状。

3月18日
出勤。貴重書三部やらされし。吉田八木二氏と話す。養徳社より富本憲吉氏のことと堀、神西両氏にと「大和文学」のこと電話。昨夜京都(※父宅)より電話ありしと。 鈴木朝英、小山正孝、前田直典へ本返せと。

3月19日
汽車におくれ電車でゆく。三村その他養徳社の連中に会ひ寄りゆきて堀さん神西さんへの手紙書く。けふ館長会議にて来ず。八木吉田二氏と話す。サッカリン2.5g分けてもらふ(65.00)。 荒井平次郎よりハガキ。

3月20日
出勤。館長二十四日より二十九日までの休みと恩きせがましく云ふ。下手な男なり。午後文化会に出ず。すみて碁、荒川氏と四番打つ。井目で三番勝つ。明日吉田八木氏来ると。夕方雨。

3月21日
(春季皇霊祭)9:00吉田八木二氏来る。雨、午後になりて晴る。三人にて家を出、われは京都へ。父の家へゆけば健、けふ岡山へゆきそれより上京と。就職農林本省または三重県と。 鞄売ることたのむ。金尾は駄目と。羽田の家へゆく、外山の代りに講師となり西域史講ずと。21:00頃まで話す。講和条約後出来る中国研究所へ入れん、三田村●雄考慮すと。父の家に泊る。

3月22日
朝、東方文化へゆけば藤村家へ朝飯食ひに、まもなく帰りて[輪]読。マルクス主義の本は石田英一郎の山本某店へ売れしと。平岡君より「支那学」の原稿のこと。吉川幸次郎氏来らず。 井上女史と一寸話し、藤村幼稚園ゆきの留守に帰る。
三條にてヤミ煙草きけばきんし35、コロナ40バカらし。京阪にのり天理に着きしは12:30。図書館にゆけばみなゐず、館長怒りゐしと。(途中電車で長女に会ふ女高師理科受けしと)
 吉田女史の詰所にゆきしにゐず、養徳社瀧井氏、吉村正一郎に会ひて(※館長が「大和文学」ではなく)大和文化とせよといはれしと。
金1円となりて歩き柳本にて草疲れ秋永正孝(※秋永政孝)氏を訪ぬ。藩家老の家なり。地震にて壁こはれしまま。柳本町史を見せらる。
●作なり。チェスターフィールド(※煙草)三本のみて帰りの汽車にのる。小荷物柳本親扱一日一ケと掲示あり、甚しきかな。帰れば入れちがひに羽田のハガキ来をる。

3月23日(日)
岡本女史一寸来り、午後詩稿見す。恋歌中々うまし。保田の畑にゆき葱もらひて帰る。途にて父君に会へば伝法のため今月末か来月初(※住居を)出よと。

3月24日
寒し。通知簿依子、史もらひて来る。二人ともに優は一、依子の方やや良し。池沢より新少年に原稿をと。父のハガキ。午後八木の笠井君訪ね、 シロコゴロフとティートフのツングース語彙みせてもらひ、ともに爐書房にゆきタバコ5.00買ひの世話してもらひ耳梨までともに歩く。雨細し。寒し。

3月25日
日直出勤せしが吉田嬢代り呉る。八木嬢も来り一日呆然。「今古奇観」よみ合す。ミカン30、タバコ20。恒清先生の「南都と西京」古本屋で見しが15円と。止む。爐書房よりハガキ。 二十八日同人来ると。

3月26日
休み、午後保田にゆきしに長尾良あり。「蘇東坡」出るや出ぬやわからずと杉浦にハガキ書く。家、父上に話せしに向ふの家貸すらし。夜、銭湯にて志野氏に会ひ話す。

3月27日
下痢、一日臥床。吉田嬢来るかと思ひしに来ず。小山正孝より杢太郎かへすと。父トランク革振りにて200円、今一つは30円とてとり止むと。昭南にて60円にて買ひし也。

3月28日
雨、下痢よし。朝、お寺に六日転居のこと云ふ。伝法すまばまた入りてもよきやうなる挨拶なりし。夜「爐」の冬木、右原二君来る。好き放題許し米とタバコと貰ふ。 「爐辺独語」わたす。「不二」来る。見れば(※執筆中止予定の)「小泉八雲」の予告あり断らん。

3月29日
曇のち晴。朝、町役場にゆき芝君に家たのみ、次いで大島氏にたのみにゆく。天理大教会にある由。「文化新聞」。 午後田原本の鏡作神社にゆきしに原正朝、吉野郡川上村西河の林業学校官舎にあり、去年五月北支より帰りしと。歩きて帰る。

3月30日(日)
出勤を命じられゐしがゆかず。昼すぎ岡本氏に立寄りしのち保田家にゆき父上と話す。隣の西島家にゆきしも息子ゐず、夕方お寺に挨拶す。あとまた来よと云はれず。 けふ嘔吐の気味あり不快。

3月31日
出勤。明日より汽車八時始業と。外高は二十一日までは休みゆゑそれに応じ十日間半日、但し午後開墾と。呆然。帰途家のことにて管長にゆきしにけふより上京と。
服部にゆき将棋二番負け、缶詰もらひ重て落第の井上嬢なぐさめにゆく吉田嬢と同車、桜井に下し、夕飯後ともに八木にゆき、 我は笠井君訪ねツングース語彙(テイトフとシロコゴロフ)借りて来る。けふ小山より「食後の唄」返却。堀内民一より六日二上山にゆかんと。
山川京子より弘至の遺稿集、齋藤より原稿返却、山田新之輔。

4月1日
出勤。タイプ打ちしのみ。午後作業バカらし。八木君来る。硲君、東京より東洋思潮五回分もち来る。青木●児一冊反し、怪訝。「爐」。

4月2日
出勤。午後また作業、吉田嬢とともに帰る。山川京子氏よりハガキ。「南北」、大島、保田二家へゆき空家なしとて帰りし留守に役場の芝君来り、隔離病舎へ入れと、面白し。

4月3日
(神武天皇祭)芝君来る。「青い花」一冊礼に贈る。月給300円と。志野、大島、保田、岡本諸家へゆく。「新少年」のため「海辺で」。
夜、和尚より呼ばれて説教受く。今後帰って来るを許す場合の注意なり。縁側にフトン干せしことその他。

4月4日
出勤。分類少しやる。午後の作業やめ養徳社によりしに三村君、伏見へ養子にゆくと。電車にての帰り(切符ツーリストビューローにて簡単に買へし)、 八木にて下り爐書房へゆき「大和神社神名考」10買ひ、葱多量に貰ふ。柏井母大垣へ来る故、ゆき子に来よと。夜、また電報「七日に来る」と。

4月5日
投票休み。午食まへ町役場にゆきしに学校と。隔離病室見にゆき悲観。投票、知事候補六人「六でなし六ぬすっとにならうとし」。
午後保田にゆき父君の云ひし小屋見る。呆然。池沢に「海辺で」送る。一日より封書一円二十銭(ハガキ五十銭)。

4月6日(日)
晴、予定通り桜井町隔離病舎へ一時転居、情なし。吉田八木二嬢手伝ひに来て呉る。可愛。昼食夕食をともにす。芳野清よりハガキ。電球四十ワット(35)。

4月7日
欠勤。よべ悠紀子と家計のこと語る。けふ忍坂へゆき大麦(70×3升)、里芋(100×2貫目)、ふすま(10×2升)、野菜(10)買ひ来る。吾呆然。 午後三輪の池田君に家たのみにゆきしも留守。知事社会党勝ち再選十五日と。
たえて来し心のいたみいえやらずわが身ひとりの米にこと欠く
明日のパン思ひわずらふことなくてイエスの如く貧しかれとや
ふみをのみよむにてとくてわたらひにかく愚かとはわれさへ知らず

4月8日
出勤。十五冊分類後、ツングース語辞典。八木嬢の送別会、われ禁煙。極楽寺の藤谷氏死去と。服部にゆき明日くやみに行かんと誘ふ。

4月9日
禁煙、小雨午後やみしも畑やめ服部誘ひにゆきしに止めんと。将棋さし、話し、その現実的なるに呆れたり。
帰途、三輪に下り池田栄太郎君に家のこと云ひしに天理教管長にたのむより外なしと、バカらし。

4月10日
禁煙、出勤。午後作業。これにて半日休みなしと、バカらし。吉田嬢と退出、八木にゆき「爐」の同人のこと諾し、コンサイス英和50にて買ってもらひ帰途岡本嬢と会ふ。 堀内民一君わが家へと

4月11日
禁煙第三日、大分楽となりし。吉田君徳島へゆく。服部大坂に借家ありゆかぬかと。

4月12日
起きぬけに夫婦喧嘩、悠紀子家出す。9:00三児をつれて上洛、母と健に会ひしに大、昨日寺へ来しに天理へゆきしといはれ影山より預りし600円もちて帰りしと残念。 三児を置き丹波市へ布六千円もちて引返し服部家に泊る。午後より禁煙止めヤミ屋とならんとす。

4月13日(日)
起きて服部夫人と二軒にゆきしも値段高きらし。笠井君にゆき話し、家に帰りしに悠紀子無言にて裁縫。200わたしお寺にゆき、 大垣よりの小包受取りヤミ市にて●物30とキャラメル10服部への礼に買ひ、保田にゆき、丹波市にゆき、服部に米二升借り、京都へ帰省20:00。 手数料5円でよかりしと。大、柏井より手紙類預り来る。健、日記帖もち帰り呉る。

4月14日
奈良電の切符買ひにひまどり怒りつつ10:30天理着。奥田氏にゆき話し、図書館へゆき富永氏に「浪速三十六景」見せ仕事一寸し、14:30出。 奥田氏に一ヤール127にてわたし63吾受取り服部へゆき、中村孝志君と東洋学会の話せしに汽車におくれ夕食たべて桜井へ21:30着。甘藷70にて二貫匁買ひしと。

4月15日
欠勤。悠紀子忍坂へゆき里芋(二メ五百120円)、菜(二メ30円)。菜一メ20円、里芋一メ65円にて売りしと。われタバコ(20)買ひ、 お寺にゆき「不二」受取り、不二とアルスへ返事(75銭)し、志野夫人と話し、米の世話たのみ、午后役場へゆき芝君に会ひ浦塩の兵隊へのハガキの宛名書かさる。 引揚者(奉天)の夫人と志野夫人と来り藷食はしむ。タバコ配給(14.29)。夜、芝君と岡本嬢来訪。

4月16日
出勤。整理二十冊。スンダ語辞典をよむ。吉田嬢帰来、菊芋植う。米二升と芋もちて京都へ着。金わたし十六ヤール受取る。夕食後大と羽田を訪ぬ。 けふ近畿詩人会より十九日13:00会すと。池沢より原稿見たしと。

4月17日
朝、大と天理へゆき、先に桜井へゆかし執務。服部にゆきしに留守、奥さんと話し養徳社の吉岡君と「大和文学」のこと話す中汽車のりおくれ電車で帰る。

4月18日
悠紀子ワイシャツ310にて売る。大に食物もたし、われ大坂へ。(八木下車笠井家へよる。)
石浜先生を訪ね夕食御馳走になる。高野保兄、全田家へよく。

4月19日
朝、出がけにタバコもらひ難波にゆき溝端清の古本屋ちかし兄にことづけて返事もらふこととし、市庁にゆき筒井に会ひ大毎へ来るるとたのみ、 日銀で鎌田(※正美)に会ひ、朝日にゆきしに谷川ゐず、ブラブラ散歩し古本の高きにおどろく。富くじ引き10円か20円となる。毎日にて昼飯、へや断られ憤慨しながら朝日にゆけば谷川をり、 ペニシリンを妻に打たし六千円とられしと。十三すぎ毎日にゆけば、伊東、中野繁雄、山本信雄、小野十三郎あり。 その他大勢バカらし。伊東と話す中、筒井来りしにより外へ出(六人分だけ夕飯用意しありしと)久米田の野上家にゆき三十六景わたせしに600円呉る。 百円坐ブトンの下に置き、するめ沢山もらひて帰る。途中田村家へゆき泊る。

4月20日(日)
朝、田村母堂よりきけば意外にも夫人春雄君出征後実家へ帰りしまま離婚訴訟中と。沢田直也のところへ共にゆき依頼す。山田鷹夫弁護士となりしと。 沢田の月給650円と。伊藤の家米兵相手の淫売家となりしと。八木にて笠井君により預けしものもち帰る。小高根二郎より岡崎に転任と。

4月21日
出勤。仙田氏を通じて富永氏に桜井大教会への紹介状かかす。吉田嬢に云はすればこちらの気持通じたりと。京都にゆけば三郎叔父あり、同情し呉る。

4月22日
大掃除の為、子供帰すと。先に出発し養徳社によれば大和文学の会延びし模様。けふも月給出ず。帰途養徳社にゆけば五月二十日会と。神西氏より承諾来りしと。 丹波市駅にて子たちに会ひ服部へゆき塩辛受取り、大と五人にて桜井着。夜、米田君来り話す。

4月23日
けふ給料の一部として千円渡さる。藤沢桓夫来るとて管長室に問合せしも来ず。服部にゆき将棋一番、勝つ。帰りて富永館長の紹介状もち桜井大教会長富松氏に会ひしに室なしと。 生野中学卒業の明治四十五年生なり。

4月24日
役場に芝君に会ひにゆきしに京都行、悠紀子にきけば岡本嬢も京都行と。忍ざかにて綿二貫匁の話出来、布120にて五ヤールともち米二升(140)と麦三升(80)と芋一貫匁と交換せり。
午後吉田嬢来り、杜十娘よみ、夜、米田清治君来り、火木土にルーゲよまんと。ヴァンデ・ヴェルデ買ふ40。

4月25日
衆議院議員選挙とて休み、電車にて八木にゆき辻君(※辻研一「爐」発行者ペンネーム冬木康)に報告と礼と云い、河内松原にて肥下を訪ひ、絶交を戻し昼飯食ふ。家建て百姓すと。朝鮮全南井邑にありしと。 藤井寺にゆき三叔母と話し笑はるのみ。鹿熊鉄満洲に残り、猛(※鹿熊猛)、助●●。夕食くひて帰る。綿と米三升とにて二貫匁ゆ●し由。

※〈午前十時半田中克己来訪、 別レタ以後ノ話ヲスル、 天理図書館ニ勤メテヰルト。午后二時前帰ル。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 92pより

4月26日
久し振にて出勤。相変らず不快。午後文化会なりしが羽田博士来られしとて本もちて迎賓館にゆき吉川幸次郎、谷義孝?(独文)らの一座に会ひ、この頃いかにと云はれ返答に困る。 管長に東洋学の会と家のこと一寸話す。帰れば米田君来りて、けふの読み合せ断りしと。薮田義雄、溝端よりハガキ。二十八日一時浅香山にてと。

4月27日(日)
朝、岡本嬢と芝君宅へ行く途中会ひ、大教会の件後押したのみ、保田へゆく。午後岡本嬢来りローレライ教へ、15:30発、北畠の池沢へゆき米一升120預け夕飯御馳走になる。 辰野弟戦死と。帝塚山より電車●●車にて南野へゆき兄弟無事ときき阪堺線にて全田にゆき泊る。 

4月28日
雨、13:00溝端清来り、本1200にて買ふ。大豆九合90にて頒け、溝端と同車、ナンバにゆき昌三叔父訪ねしも欠勤。地下鉄にて天王寺にゆき●●発車の汽車にて桜井帰着。

4月29日
天長節、式小学校にてあり。校長、御聖●を話せしと。朝、岡本姉妹来り、芝君来る。双思らし。夜、米田君来り、話よみ合せす。 けふ天理桜井二教会より婦人来り、室のことはり云ふ。をかし。「新憲法の話」よむ。をかし。

4月30日
志野明を町会議員に投票後、バスにて出勤すれば掃除すみ句会。富永の講評可笑し。五月豆蒔き月給残り500円もらひ(約1500四月より)、服部にゆき将棋さし、 中村君と天理東洋学の会則作り、駅にて保田に会ふ。家の近くにて宇田川隊福西隊の尾西一等兵と会ふ。天理外語を卒業せしと。中華日報に詩二編「車中」「紫禁城」書く(※未確認不詳)。

5月1日
出勤。午後草取り。秋永氏来りて雑誌見る。服部へ米二升吉田嬢に托す。夜、米田君来る、志野明当選(221票)と、祝ひ云ひに寄る。

5月2日
出勤。八木嬢久し振りに来る。名古屋の「女性短歌」の専務来り、原稿十五日までにと。午後養徳社にゆき前川、保田、生駒、[清ひ]井、富永と「大和文学」の相談。 管長より名刺貰ふ。大和国原いやいやなり。23:00帰宅。原正朝よりハガキ。

5月3日
6:56の汽車で丹波市にゆき、吉田嬢と京都へ。彙文堂にゆき「松漠紀聞」(3)、臨川にて稲葉君山「前満洲の開国と日本」(10)。吉田嬢は「白香山詩集」(50)五冊買ふ、羨し。 大、羽田の世話にて洛南中学へ800円にて就職と。羽田へ行き菊芋もらふ。帰りて咲耶夫妻と夕食。早く眠る。けふ寒し。

5月4日(日)
銀閣寺前の今井祖母宅へゆきしに俊三郎叔父不在。祖母110呉る、悲し。三條にて富くじ引き10円当る。タバコ(20)買ひ、八木へ寄り井上嬢の父母に家たのみ、 爐書房へよれば辻君居り、「爐」の原稿のこと話し耳梨より電車にて帰る。昨日、筒井と野上と来しと残念。岡本嬢来る。

5月5日
出勤。中村弟君天理東洋学の会の規約もち来る。羽田の菊芋頒つ。筒井、野上へ手紙。伊東へハガキ。帰途服部に寄る。「スカンヂナヰ゛ヤの古宗教」与ふ。

5月6日
出勤。吉田嬢より「白香山詩集」四冊(50)嬢受く。ティートフの写しと分類とやる。寺島兄氏来り話す。寿賀子いま天理へ帰りをると。寿一カリエスにて重態と。 夜、米田君来り話す。「森本二三男に小学校にて習ひし」と。けふ遠足にて依子は三輪、史は長谷へゆきしと。

5月7日
雨、出勤前ゆき子不逞、家出せしにより、子らに昼飯食はしてのちバスにて丹波市にゆき、一寸登館せしのち日和佐にゆきしに寺島一家あらず。バカらし。電車にて帰る。

5月8日
晴となる。暑し。出勤。ティートフ打ち「隆慶実録」写せしのみ。天理東洋学の会のことにて中村兄弟と話す。中村幸彦君より「春日物語」貰ふ。80円と。可驚。筒井よりハガキ。

5月9日
晴、寒し。仕事昨日に同じ。吉田嬢も面白からず。どこかへゆきたし。帰りて桜井大教会長富松夫人に家のこといひしも「駄目」と。

5月10日
出勤。吉田嬢休みて手紙よこす。日和佐寺島夫人、寿賀子をつれて来る。「寿一承知の上で修養科へ来させし」と。父の許へ伴ふこととし710円(ボーナス)もらひてのち吉田君訪ね、 服部にゆき吉田君をまた訪ねて●意寺へ。寺島母子と四人にて京へゆく。三條にて別れ父の所につけば父風邪。大、歓迎会なりしと。

5月11日(日)
9:00寺島母子来りて父と話す。寺島氏に50円托し、市電停留所にて分れ、彙文堂にゆき「東文」20、「最新支那通史」10、「チャモロ語の研究」10など買ひ、 他の本屋にて「猶太建国運動史」8買ひ、宝くじ20のタバコ五本買ひて帰る。桜井大教会にゆけば「二十三四日すぎてのち一室何とかせん」と。

5月12日
出勤。昨日より腹痛下痢。職員組合出来、仙田、山崎執行委員、荒川、中村代議員に当選。田口●彦より国大専門部卒業の挨拶。三十日に満文書籍の解題講義。 二十五日に八木、吉田二君と京都へ遠足のこと決めたり。帰りの汽車にて富松氏と一緒に成る。「漢口に居り、かの地北京官話はなせし」と。「女性短歌」へ詩「ねがひ」送る(※未確認)。 買物コロ十一ケ30、白水社露和35、ノート18。

5月13日
朝より忙し。先づ堀内民一来り、寺島喜八郎来り、外語の某教授来り、みな話しゆく。昼すぎ奈良県図書館会員来りて案内。次いで養徳社の鈴木治氏来り、 17:00すみて八木吉田二嬢と話し、帰りて米田君とルーゲ読む。けふも下痢。帰りの汽車にて話せし五條中学の坂口允男は桜井に住めり。大高九回文甲出身なり。

5月14日
出勤。けふにてわが整理せし洋書の日の寄進すむ。三村啓吉来り、羽倉啓吉となりしと。帰途中村君のもとにゆき東洋学の会のこと相談す。富永研究所長も兼ねる由、可笑。 中国の係二名位ふやせよと云ふ。馘首にはせぬと。夜、西島君の家へゆき、保田家へゆく。

5月15日
頼まれし肉もちて(100匁110円)、鈴木治のところへ寄り、ゆけば大掃除。すみて畑、ついで俳句会、不快なり。広田君と話し吉田嬢と杜十娘よみ、高橋君にゆき帰途、菜もらふ。 米田君来り葱呉る。昨日より子ら兎飼ふ。

5月16日
明日遠足と。我行かずときむ。帰途服部にゆき教員組合執行委員長服部氏へ同行、きけば「図書館への反感強くて加盟断りし」と。夕食し、寿賀子の宿所訪ねしも不明。 三村啓吉「富岡鉄斎」呉る。筒井よりハガキ「野上の名は弘」と。

5月17日
遠足にゆかず昼寝。午後志野明町会議員当選の礼に来り、「堀内女史(応援演説せしに)を党より除名、来迎寺わが家にてこりしとて後、室を貸さずと云ひし」と。
藤井寺へ袴もちゆき100円借る。23:00帰宅。

5月18日(日)
日曜なれど子ら登校、午後依子の受持中西先生家庭訪問。柳本にて天理女学家政科出なり。送り出して坂口允男を訪ね話す。

5月19日
出勤。修養科生の運動会とて西島寿賀子来り語る。午後草引。仙田、山崎二執行委員に組合の一部始終を云ふ。吉田、八木二女史に申渡す。吉田女史泣きて困る。

5月20日
出勤。吉田君、途に待伏せして機嫌好し。組合けふ総会を開くと。昼すぎ給料1540円中封領840円(四月分の封領なかりしゆゑ今月すと)。他に730円。帰れば健、来をり、金尾への400円わたす。 中国文化協会より150円。不二出版社より300円。けふ中に2700円入りたり。米田君来り、「ルーゲ止めランケやらん」と。諾す。

5月21日
出勤。組合加入を許せしと。寿賀子来る。「寿一よし。一興叔父目下東京にあり」と。田中甚幸に会ひに天理中学へゆけば中島氏(大高野球部コーチャー)あり、奇遇なり。 午後甚幸来りしかば、二三日中に桜井へ呼ぶことを云ふ。帰りに石鹸買ひ35、それもちて史の担任高橋先生の外山の宅へ訪ぬ。二先生とも美しき若きお嬢さんなり。帰途保田に寄り父君と話し、玉葱もらひて帰る。

5月22日
出勤前木下に寄り茂吉「朝の蛍」20買ふ。吉田嬢に八木嬢呼びにゆかせしが来ず。わが整理せし本大分入る。東洋学の会の広告書く。 寿賀子の話ききしとて修養科生三浦君他一人来りしかば、わが神のこと云ふ。帰途敷島詰所なる田中甚幸に会ひにゆきしも駄目。明日迎へにゆくと伝ふ。夜、米田君とランケ。

5月23日
出勤。富永より組合についての注意、可嗤。それすみて懇切丁寧にやれと云ひ中村君と対立。仙田氏より富永の気持きかされ、われ笑ふのみ。 午後またお手伝ひのことにて注意。又反駁しおく。前川氏より「桜井へ管長来し時御伺ひせよ」と云はる、親切ありがたし。帰途敷島詰所へゆきしも甚幸遠足にて帰らず。 帰りて夕食後、上より呼びに来り、ゆきて話し、保田家へゆき、帰ればすし呉れたり。
けふ杉森よりハガキと「進路」。「原稿しばし預けよ」と。和田先生へ白楽天の「送州民(※別州民?)」のこと。杉森へ諾の返事。

5月24日
出勤。八木嬢来り、誘ひしも京へゆけずと。居残りて出納手伝ふ。小幡より館長の書籍代の鞘の確証掘る(※不詳)。満文書籍の書目、 吉田君にかかし中村君のところへゆかんとせしも時間なくて途で会ふ。富永古野二氏と話せしと。

5月25日(日)
朝起きて米二升もちて京にゆき、父の家へおきしのち羽田に行けば水曜より一家上京と。研究所の方いまのところ不明と。東京の話、 先生への伝言たのみ四條にて分れ、八木にゆき笠井君に話し、爐にゆき「南洋風物誌」10買ひ、夕食よばれ、肥下にゆき、ともに瓜破の竹川にゆき、 濁酒のみて思出話し100円置きタバコ貰ひて肥下宅へゆき泊る。2時まで話す。

※〈午后六時田中来ル、共ニ瓜破村竹川ヲ訪フ( 田中ノ戦友、 全田女中ノ弟)濁酒ノ馳走ニナル 午后十一時マデ話ス 田中ト共ニ松原ニカヘリ田中泊ル 午前三時頃マデ話ス。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 93p

5月26日
6:00目覚め、粥よばれて8:00出発、藤井寺へゆき大に叔父に途で会ひ諸叔母に挨拶し、図書館へ11:30着。富永に本のこと問はれて答へ、謄写版刷り見しのみ。 加賀山来りしかば桜井へつれゆくこととし、寺島会長に会ひ寿賀子と歩き、加賀山を連れ帰宅。けふ進路社より「芋のはなし」の稿料357円(税63円ぬき)、 矢代書店より中島の「詩の論理」のこと。うれし。杉浦より新進詩人双書につき、図書館のこといつも問合せ、よべ睡眠不足にて加賀山と寝床で話す。 21:30加賀山わが話に将来のめどつきしと起きて帰る。うれし。

※〈田中ト共ニ朝食後共ニ出 駅附近ニテ別ル。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 93pより

5月27日
出勤。手鏡18買ふ。仕事少しやり畑少しやり吉田君を促して満文「今古奇観」代に100円わたし買ひにやらすこととす。加賀山の戦友は名東寮長なるらし。 中村教授とともに帰り、櫟本の極楽寺にゆき中島夫人と話す。書きしもの何もなし。矢代書店へ返事。夜、米田君来り、金とキャベツと呉る。金を返す。桑原武夫よむ。

5月28日
出勤。途中わら半紙買へば百枚40円。赤彦「十年」25、煙草20円。
吉田君「今古奇観」買ひにゆきて休み。白の寄進けふにて断る。山中女史われになつく。帰途養徳社にゆき鈴木氏と話し同社の某女と駅にて話す。
「四季」第四号来る。神西清の編輯にて45円。夕方大教会にゆきしも会へず。桑原武夫、前田直典、小高根二郎へハガキ。

5月29日
出勤。東洋学の会に申込、村尾君、吉田山中二嬢、午後陳列をなし、帰途、外山「太平天国と上海」33買ひ「蒙文今古奇観」もち吉田嬢の所に寄りて帰る。 夕食後に大教会にゆき十畳の間見、六月一日移転ときめて来る。米田君来り、「明日図書館へ来ると。車貸し給はる」と。

5月30日
出勤。東洋学会に申込、信●一、崎山嬢、教授一名。米田君来る。書庫見す。三村(羽倉)君来る。「鉄斎」の礼云ふ。15:00より満文書籍の解題。疲る。 八木嬢、明後日来ると。「中華日報」に「紫禁城」のす(※未確認不詳)。香川児童文化協会より十五日までに「新中学」に詩をと(※未確認不詳)。伊東静雄より「爐」のこと諾と。

5月31日
出勤。大掃除。俳句会に出ず。管長より東洋学の会のことにて電話かかる。中村孝志に相談せしに苦労人なり、バカらし。午後服部にゆき将棋さす。 ボーナス五日にわたせと交渉中と。けふ前川老家賃のこと交渉してやると。健、東京へゆくに付き米をと大、来り一升もちゆきしと。

6月1日(日)
曇。8:00の汽車にて八木吉田二嬢来る。その前に米田君、車もち呉る。移転始めに夫婦喧嘩、折柄来し岡本嬢も立会。昼すぎ移転終り教会長への挨拶もすみ、煙草19買ひかたがた、 お寺、志野(122円受取)、八尾諸家へ挨拶。米田君の母ただの礼を云ふ。15:00押入のふとん運び、早夕たべ、三嬢とともに町に出、妙要寺、西島、保田の諸家へ挨拶。 保田の弟、玉葱呉る。「影山正治、伊勢まで来る」と。柏井母より悠紀子へハガキ。

6月2日
出勤前に鈴木治氏の許に寄り東洋学の会のこと相談し、開会延期とす。「中山管長は会長好きなり」と。大和文学に「東大寺炎上」三十枚書け、吉村を中心にせんと。吾反対す。 吉田嬢にけふも主張す。富永大阪へ出張を命ず。タバコ買ひにゆかん、明日より旅行と。八木嬢来り、詰所一日十一円位にてすと。展覧会取片附く。小畑君新井氏ともに豌豆呉る。

6月3日
出勤。中村、服部両教授と連絡とる。三村来り、富岡家へ羽倉より養子ゆかずと。鴎外「知恵袋」貰ふこととし値をきけば32円。羽仁「ミケランジェロ」買ふ、28円。 けふも大豆蒔く。養徳社より瀧井氏来り、大和文学に「東大寺炎上」十枚位と。中村幸彦、高橋重臣紹介す。夜、米田君来り大根呉る。

6月4日
大阪出張。汽車にてうねび下車、辻君にゆけば「爐」西島君に渡せしと。藤井寺にて米二升170、1000円預り、戎橋書房へゆき飛田の自宅にてロシヤ書見る。160冊にて二十万円と。 石浜先生鳥取へゆかれ留守、藤沢桓夫のところへゆけば池沢あり、「杜甫」某書店へ世話せんと。池沢とともに出、難波の十合にて昌三、 大江両叔父に会ひしのち、河内松原にゆき肥下宅で昼食。瓜破へゆく途、肥下に会ふ。竹川宅へゆき煙草100本180、帰れば9時。
けふ買ひし品、ピース40、露伴「平将門」25、「白楽天と日本文学」65、ハム30、牛肉煮25。

※〈 午后二時半瓜破ヘ行キ、 苗代ニ水ヲ入レルタメノ板ヲコシラヘル。【中略】自転車ニテ帰途田中克己ニ阿保附近ニテ逢フ、田中留守中松原へ来訪、 瓜破ノ竹川ヲ訪フ途中。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 93pより

6月5日
出勤。出張旅費15円20銭貰ひ、羽仁五郎の28円払ひ、「白楽天」買はす。昨日職員組合の報告ありしと。前川氏に土曜に来てもらふこととす。 寿賀子より電話「一興叔父帰郷して発熱」と。夜、来りし米田君に羽田への手紙托す。西島君昼来りて「爐」もち呉れしと。

6月6日
出勤。けふは金使はず。松井保治君より「母君死にし」と。帰りに八木嬢の所へ寄り月曜よりのこと頼む。(鈴木治氏より大和文学について相談)。 珊瑚の帯じめ呈上。帰りて入洛。帰途、保田家へゆき話中「影山正治明日来る」と。(寿賀子けふ来館、秋永氏来館)。

6月7日
欠勤。朝、前川老迎へにゆき中西先生に会ひ、依子の岐阜ゆき託す。前川氏と小西氏の家へ赴き、会長宅にゆき室賃50円と一品、畑少しつかひてよしときまる。 会長、尊大を装ふ。昼食たべてもらひ送り出してのち檪本にゆくつもりなりしも昼寝。構内の天外語生二人来る。夜、保田家へゆき影山氏と話す。23:00帰宅。

6月8日(日)
けふ日直。一日早く詰所へゆくこととし米二升、200円と日用品ともちて出発。昼すぎ岡本和子嬢来館。駅の近くまで送りて東詰所に入る。 八木家にて晩餐いただき十一畳の室に入り、吉田嬢と鼎坐、騒ぎやめば蚊出で来って眠れず。

6月9日
東詰所より出勤。服部、安田章生来館。帰途鈴木治に会ひしに「大和文学のしめ切月末」と。夜、前川梅造老来らる。教祖の親戚にて瀧川政次郎、 芹沢光治良と知人と。夜、蚊帳つりて熟睡。この三四日、陛下西下。新聞記事に涙催す。

6月10日
東詰所より出勤。中山管長昨夜帰りしとて電話して東洋学の会発会式十二日ときむ。帰りに海苔瓶詰買ひ、石田「欧人の支那研究」35、「中国物理雑識」15買ふ。 この日710もらひし也。夕方より雨、隣室の青年、八木あき子嬢来り話す。(養徳社「大和文学」の締切十四日と。将棋さす)。

6月11日
八木、父君は池野(※岐阜県揖斐郡池田町)の人にて今西龍博士(※今西春秋父君)と同郷、奇縁なり。この頃朝夕話し天理教の大体を識る。登館すれば昨日姉崎(※正治)博士脳溢血にてたふれしとて大騒ぎ也。 三日休館となりしが来館の中山管長にきけば東洋学の会やるべしとて忙し。夕方服部、中村孝志のところへゆき相談。吉田嬢より「東洋思潮」とりかへる。

6月12日
登館、日直。東洋学必携書のプリント作る。午後の発会式に外語教授四名、学生一名、吉田、崎山、山中三嬢とかつがつ十名。管長熱心に発会の辞のぶ。18:00帰り、 来し吉田嬢と八木嬢とにて話す。和田先生よりハガキ。「東洋学関係の出版ダメ」と。小高根太郎「富岡鉄斎送る」と。

6月13日
登館前に本屋にゆき、「奈良朝時代の東大寺」23買ひ、吉田君と会ひてともにゆく。「姉崎博士、午後分家へ移らる。経過良好」と。八木家で送別宴、吉田君も同行。 八木嬢の細心感謝に耐へたり。帰途、天外生に会ひ「東洋思潮」貸し、外語の幸島教授に会ふ。東洋学会に入会申込を吉田君になせしと。 明子君をまじへ四人にて蜜豆40食ひ、タバコ(きんし20本57)買ひて帰る。多良の月収二三千円、数男帰郷の意ありと。岡田家隣組のことなどきこゆ。「不二」送り来る。

6月14日
久し振にて汽車にて登館、大掃除。茶の会。15:30吉田嬢と連立ちて名東詰所へゆき元木寮長への手紙托す。養徳社より「大和文学」の催促、「中華日報」より稿料100。 吉田君、教会長より縁談世話され帰郷と定む。七月六日よりA班休み、八月二十日までなり。帰りて熟睡。
みしはせのくににかへるとをとめ子のこころをききてわれはうべなふ

6月15日(日)
筒井、野上、八木明子など来る筈なりしも来らず。午後、岩井、中谷二生来る。岩井君英語の試験とて訊ねしに困る。細雨。

6月16日
欠勤。京都へゆく。市電1円となると。父の家へゆけば橋本叔母来る。十年振りなり。父そっくりと云ふ。三高、大学へ羽田訪ねしにあらず。 東方文化へゆき藤村に会ふ。羽田へゆき東京の話きく。池内先生元気。鈴木俊氏転居。家賃4.50と。善海、江上、三上みな夫人を働かす。三上夫婦喧嘩。 仁井田博士のみ元気。川久保のこと人話さず。きくも忘れしと。15:30辞去、帰れば19:00。けふ彙文堂より教養文庫など買ふ。

6月17日
出勤。茫然として「東大寺炎上」の史料見しのみ。帰れば角川書店より「ハイネ伝」の進行問合せ。羽田よりの葉書。ひたすらに恋をおもひてゐし年はかくくるしまずわれはありしを。

6月18日
出勤前散髪15円。館長訓示す。可笑。藷苗植う。

6月19日
出勤。山崎君、諸費組合の如き尽力す。支那錫19円一つ注文。吉田君の日記見る。
さまざまのをのこ恋していたづらにをとめの年をすごしけるはや。
帰りてハイネ書く気となる。けふ角川書店にハイネ八月末までにとハガキす。

6月20日
欠勤。悠紀子、忍坂へと思ひ弓子と行きしにあらず。三食粥、金なくて困る。麦、収穫終り馬鈴薯掘り、田植はじまる。子ら一昨日まで学校農繁期の休み。けふは職員畑の為一時間のみ。

6月21日
出勤。吉田嬢、昨日けふと休み、われとどこかへ行きしかと人云ふ。午後、高橋君の畑手伝ひ。豌豆とそら豆の取入れ。 15:00止め八木家へゆく途中服部に会ひ訪ねると云ひ、伊藤佐喜雄買ひて(23)、八木家へゆきジャガ芋御馳走になり、服部へゆけず、駅までゆけば吉田君あり、 井上嬢の家へゆきしと。三輪まで同車、帰って悠紀子に1400円渡し、忍坂へゆく留守に子ら三人つれて岡本和子氏の家へゆき話す。

6月22日(日)
午前中、西島君「炉」もち呉る。午後、吉田君来るも誘はれて岩井家で碁二番打つ。吉田君20:00帰る。けふ来迎寺の若様、毛布配給券もち来る。筒井病気にて来れざりしと。

6月23日
出勤、事多し。午後、金尾の某翁、父の名刺もちて来る。三村啓吉君来る。帰りて米二升もちて藤井寺にゆく。勉と話し、帰れば十一事半。

6月24日
桜井大教会の例祭。家賃として50と魚と●もちゆく。汽車にのりおくれ、7:52の下りにて八木にゆき炉書房で「ポナペ島」30、「パタン戦記」5買ひ、 ジャガ芋貰ひて天理にゆき、日和佐にゆきしに明日来ると。帰途、吉田嬢よりみつ豆と氷おごらる。夜、米田君来りジャガ芋、玉ねぎ呉る。岩井家へゆき老人と碁。黒にて二勝一敗。 さまざまのこと語らんと思へどもいとまなくしてひとめも恐づる。

6月25日
出勤。雑役に使はる。すみて服部にゆき将棋さし夕飯たべて帰る。組合の要求に共倒れ説ありと。意気地なし。鈴木治よりハガキ。

6月26日
欠勤。7:52の汽車にて八木下車。8:30まで待たされ京へゆき、三高にて羽田と会ひ、きけば田村博士あらずと。昼食後、佐藤長に会ひきけば、 今西のシンちゃん帰郷後一ケ月にして死せりと。哀れ。旗田氏帰国の事情もわかる。やせしと云はれし。東文にゆき貝塚、森、藤枝、外山その他の諸氏と坐談。 羽田と烏丸にてわかれ父の家にゆき、夕食後帰宅。田原本で一時下され、帰りしは二十四時前なりし。

6月27日
出勤。午前中、西島寿賀子来り色々云ふ。午後、東洋学の会の為プリント書き刷る。館長大高関係とて管長に色々頼むなと注意。 硲君、滝井氏の許へ「東洋思潮」もち来しと言づけ。雨降る。田植雨と喜ぶ者多し。

6月28日
出勤。富永に東洋学の会のこと云ふ。金一封を出せと。養徳社の吉岡君来り「大和文学」のこと、富永のこと云って断る。「東洋思潮」と「幻想」もち呉る。 午後東洋学の会、中村兄弟の外八名。「諸蕃志」やらんと。すみて吉田嬢と八木家にゆく。兄君戦死の広報あり(昭和二十年三月十日リサル州モンタルバンにてと)。 明日よしあき姉妹にて来ると。夜、岡本譲来る。岩井家に碁によばる。

6月29日(日)
8:00の汽車にて八木姉妹、吉田嬢来訪。吉田君の送別会として粗餐、午後岡本和子嬢来る。向井君の父にパーカーのペンシル修理たのみて成る。夜、外語生二名来る。

6月30日
出勤。大掃除。吉田嬢の母君よりよろしくと。パーカーペンシル吉田嬢に詩とともに餞別として贈呈。藤枝よりの伝言、守屋教授もち来る。野田又男より「近代精神素描」贈らる。 支那錫の配給あり(3ケ×19)。
出版関係の追放発表あり。官庁業者のみ。三村君来る。田中甚孝来る。吉田君と雨にぬれて帰れば駅に八木君あり、忘れしパイプと依子への衣もち来る。夜、向井、岡本、保田家をまはる。 保田「大和文学」に原稿かくと。

7月1日
出勤。職員組合の話あり。強硬に要求せよと云ふ。帰途、養徳社により保田の伝言つたふ。高橋君の呉れしササゲやる。畝傍にゆき神宮参拝。山のふもとにてアザミの花つむ。
むらさきのひともとつみてかざしにすいつの日またも会はんをとめぞ。
帰れば米田君来り休むと云ひしと。西川満より手紙。

7月2日
出勤。「武備志」抄す。帰途、名東大教会により元木寮長に加賀山のこと云ふ。けふ下り丹波市駅直前にて機関車テンプクす。死傷なし。臨時列車にて帰る。

7月3日
朝、兎二疋、狐にくはれしを知る。四月より三月にしてやや大きくなり可愛くなりし、哀れ。尾西家にゆき町会議員の兄と話し、ジャガ芋四貫(55づつ)分けて貰ふ。 ジャガ芋を昼食にし、畝傍にゆき終電にて帰る。

7月4日
出勤。三村君来る。昼まへ神田喜一郎、羽田明二客来館。管長館長ともにあらず、外語古野校長招●す。午後館内案内、汽車にのれず西大寺まで送りて帰る。 台大予科の松村先生、彦根高商の校長となられしと。

7月5日
神田先生引つづき古義堂文庫参観、館長帰りしかど冷遇なり。昼より加藤女史送別宴、吉田女史の送別を兼ぬると知る者われのみ。八木女史来り、 大教会の意見にて図書館にかへると。われ賛成。16:30まで出納やり服部にゆく。夫人、塩とタバコのブローカーとなりしと。吉田女史来りて単独かへることとなり、 明日出発せずと。宅へ来よと云ふ。22:00ごろ帰宅。東京、多良より小包と手紙。

7月6日(日)
客なく信なし。夜、入浴。保田家へゆき服部夫人の塩の話す。700俵と。

7月7日
塩のことにて天理にゆかんとせしに、けふより車貨3.5倍、天理まで8円(旧2.1円)となる。保田家へ金借りにゆき七夕の餅賜る。服部への途、 吉田嬢に井上節子嬢の日誌返すことを名東詰所にたのむ。まだ二三日ゐる模様。帰りて昼寝。夜、来迎寺の弁天の祭りと妻子ゆく。服部ら要求事項三項目拒絶されしとて寄合ゐし。

7月8日
史、誕生日。吉田女史八木女史さそひて来る。同車にて服部夫人来り、農業会。保田家へゆきて午まへ帰る。二嬢夕方までゐたりとて、かかあどの御機嫌わるし。 米田君来り、図書借出しの保証人の印押す。

7月9日
朝の汽車にて出、藤井寺にゆき肥下に寄りて帰る。
うねびやま南の尾根のふたもとのひの木となりてわれらをらまし
きたうみのうしほのごとくすさまじくとどろくむねはわれのみぞ知る
けふ買ひし品、ピース40、露伴「平将門」25、「白楽天と日本文学」65、ハム30、牛肉煮25。

※〈夕食後田中克己来ル。 保田ノ田モ田植終ツタ由。 田中ト共ニ出、 藤井寺駅ニテ別レ、農具ヤニテ金属製ノ除草機ヲ買ツテカヘル。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 93pより

7月10日
図書館にゆく。明版「輟耕録」見しが四部叢刊の方よく、これを借出す。他に西洋●史地図、ハイネ全集二冊借る。高橋君の胡麻間引手伝ひ、 姉崎博士の看護をせる寿賀子に会ひて、明日寺島氏訪ぬることとし、八木家にゆけば兄君の遺骨二十五日帰還と。ジャガ芋ふるまはれ駅にゆけば吉田女史あり「長安の春抄」与へ三輪まで同車。
けふ西川如見の「華夷通商考」(6)買ひ、金鵄三十本(75)買ひたり。夜、岩井家にて囲碁。
けふ行きがけ新井女史の令弟スマトラ中尉の処により話きき面白かりし。アンボン人威張りしを殺せし、東海岸州、 シャク州のスルタンラヂャ(※酋長)概ね共産軍に殺されし。アチェー叛乱せしなど。

7月11日
寺島氏に会ひ、寿賀子に会ひしのち、デュッセルドルフのこと一寸調べしのち富永館長にキャンベルとシュミットを売ること●●(180)、新井女史(※経理)より月給前借(1000)。 午、高橋重臣君と出、養徳社により「大和文学」のこと断念せしめ、将棋一番。瀧本にゆきアメリカよりのココアのみ、16:00出、駅にゆけば吉田君あり。 蜜豆食ひしのち煙草もらひ詰所の手伝ひにゆき、小包一ケ作り夕飯御馳走になる。職員アパートへゆけば服部一寸あらず、吉田君、中村孝志君と話し、 瀧本の筍支へ(※不詳)、服部にて泊る。

7月12日
服部昨日より下痢と。朝起きて小学校へゆく。みな子つれてゆけば吉田君あとより来る。ともに八木家へゆき香奠供へ、9:58の天理発と約して、 八木嬢とゆけば発車まぎはに来り財布わすれしこと西大寺にて気がつき、われ引返せば某嬢届けし模様。八木家にてのジャガ芋のみにて帰宅。 吉田君よりの澱粉にてパンこしらへさせ一寸昼ね。羽田よりハガキ。風邪にて寝しと。昨日米田君来りしと。
夕方、米田君とランケ久方ぶりによみ、保田家へゆけば服部夫人あり。塩660となりしと。促して帰らしめ肥下のこと云ひて帰る。

7月13日(日)
8:00の汽車にて木幡君来り、吉田嬢無事急行にのりしと。煙草買ひに出、パンとイチゴ水奢らる(100)。昼食後、西島君来り、教科書の詩のことたづねられて困る。大食し熟睡す。

7月14日
朝、紀王堂の粉搗屋へ小麦と米(五升―500、三升―570)もちゆく。馬鈴薯より澱粉つくること覚ゆ(100匁より7,8匁のみ)。野田又男と西川英夫へハガキ。

7月15日
朝食後、昼ね。澱粉作り昼食。タバコ配給(手捲きのみにて12.10)。原正明へハガキ。眞日本社へ「勝者と敗者」(6枚)送り、つり銭なしとてハガキ買ひて帰る。

7月16日
登館、財布忘れしとて下駄屋にて気がつく。新井姉弟あらず、聞けば弟戦死にて高松へゆきしと。大掃除手伝はさる。杉浦昨日来ていま富田林にありと。八木家へゆき、 にしん受取り、下駄買ひ、服部へゆけば長女病気、服部も食快せず夫婦喧嘩す。中村孝志氏に卒業論文わたしてのち帰る。原正明の手紙もちて某氏来り、 赤川氏の紹介にて去年来しとふ塩野芳夫よりハガキ。夜、保田家へゆき聞けば塩の話打切りとわかる。

7月17日
昨日借りし金返しに登館、米田君と会ひてゆけば野田又男来る。京都に間借すと。阿部家の当主鉄太郎、三露家はぢぢばばまだ元気と。管長よりの迎への自動車にて帰りゆく。 八木家へふろしき返し、養徳社へよりソ聯より引揚げの某氏の話きき、服部にゆき昼食せしのち帰る(金井君の長男、疫痢にて入院と)。八木の爐書房によりたり。 夜、米田君来りランケ。けふ神田先生より礼状。

7月18日
家居、無為。夕方芳野清より大垣の病状報じ来る。京都吉田君へ「中国文化」送れとハガキ。米田清治君の家へゆき西瓜食ふ。
うれひつつ去りにし子ゆゑにこの日ごろわれもかなしくいひは食めども

7月19日
雨。午後にしん持ちて秋永氏へ答礼にゆきしに留守。荒川氏もあらず。柳本駅で一時間半ほど待ちて帰る。芳野兄弟へハガキ。

7月20日(日)
時々雨。郵便直接来るやうになり、「饗宴」の稿料(255)もらふ。吉野弓亮より松下、倉金、西沢みな帰りしと。吉田女史、札幌よりハガキ。すらすらゆけしと。
「火の木生ふるくにをさかりて鳥海に雪まだのこる北にゆきけり」
昼まへ高橋重臣、木幡の二君来る。何をはなせしやら。15:00頃、送り出してより雨。けふ悠紀子、保田家へゆきジャガ芋二メ匁借り来る。

7月21日
出勤の途、服部に寄り将棋四番。養徳社により「大和文学」の詩の選たのまる。高橋重臣の詩はのせずと。出勤すれば草とり終り皆一寸怒る。杉浦来しも京都へゆきしと。 俸給四千円余り貰ひしも税900、前借1000引かる、アラス。
13:00出、散髪(15)、木幡君の室へゆき加藤女史に「欧米人との交際」与ふ。寺島へ詰所のことたのむ。寿賀子哀れなり。
けふ買ひし書、矢野目「恋人におくる」(13)、「ハイネ詩集」(23)、「染色の話」(12)、「日出づる国と日くるるところ」(12)。レミントンのタイプリボン代(3本150)預かる。 吉野弓亮へハガキ。小高根太郎より「鉄斎」(高橋君に与ふ)。

7月22日
8:00汽車にて柏原(11)―藤井寺(2)。米わたす。田中の久美子来る由。大阪に出(地下鉄1.50)、筒井訪ねしに地下ホテルへ転勤と。父の勤先を大阪ビルに訪ね、 寿賀子のこと訊ねしも処置なしと。朝日に谷川新之輔訪ねしもあらず、再び市役所にて渡と松田●治郎と話し、裁判所にゆきかけてやめ、 鎌田(※正美)と一寸話し、真田本社へゆきしも無人。古本二冊もらひ溝端の本屋にて白水社ロワとミケランゼロ(羽仁)二冊にて70もらひ、田中昌三と一寸話し、 阿部野橋に出、中島の旧宅訪ね令妹と話し(姪たち成人す!)、歩きて阿部野橋に出、近鉄にて帰れば杉浦まち受けゐたり。夕食後ともに保田家にゆき23:00帰りて眠る(藤井寺にて「浮生六記」、 寺田町にて「雑草の話」(20)買ふ。)。

7月23日
杉浦と共に図書館にゆき、ティートフ久し振りにて打つ。14:30杉浦とわかれ寿賀子のところにゆきて父の言告げ、養徳社にゆき詩のことたのまれ、 16:18の汽車にて檪本の極楽寺にゆき中島朋子氏に話す。トマト賜る。吉田女史より三●十八日帰宅と。
「人これに送りてあれどただ一人見ぬ淋しさは何にいやさん」
原正明より二十三、四日頃来と。

7月24日
家居。教会の月並祭とて家賃もちゆかしむ。眞日本社の保坂不二夫より原稿受取。夜、坂口允男がりゆく。沢田直也、小高根太郎へハガキ。

7月25日
家居。「大和文学」の詩の選評と詩と書く筈なりしも駄目。筒井護郎へハガキ。大江より米三升とりゆく。

7月26日
当番登館のみち米田君と伴ふ。養徳社へ原稿わたす。職員組合より連絡あり。中村君にたのむ。午後吉岡君来り、選詩に注文つく。服部帰郷せしと。 小高根太郎の友なる中根君(天理時報社工務局長)に初めて会ふ。帰れば依子発熱して悠紀子あはてて森先生にゆけば赤痢の疑ありと。怪し。筒井へハガキ。夜、火事。

7月27日(日)
依子下熱。来客なし。無為。夜、依子また下痢発熱。

7月28日
当番出勤。日本印刷文化会とて休館。寿賀子より電話あり、上京しばらく延ばすと。生ぶし二本呉る。中村君に東京出張の意ありと云ふ。

7月29日
家居。夜、笠井信夫君来訪。水蜜桃多く呉る。依子下痢やや可。

7月30日
朝、父よりハガキ。杜甫、金尾よりとりて来しと。吉田女史より原稿。当直にてゆく。寿賀子来る。16:30帰るころ、筒井、前田直典よりハガキ。
けふ竹中郁の紹介にて高城なる詩人来る。不快なり。帰りて森ドクトルより賜りしまくわ食ふ。山田鷹夫より弁護士開業の挨拶状。

7月31日
雨。山田、伊東、父、羽田へハガキ書く。沢田直也より手紙、田村の訴訟六月一日に第一回ありしと。佐賀高校ことわり来る。 午後、藤井寺へメリケン粉五百匁と衣類もちて千三百円借りにゆく。久美子帝大出の先生ほめたり。

 火木山

我們立誓了 ――永遠記着不忘!
在一個丘陵的火木樹陰児
那個小姐離去在遠国、
那個丘陵聳立、黙然的、感傷的、
那個火木樹揺動、焼山野田園一陣雨裡、
我看那個光景、連想
那個小姐的含着涙満々的眼晴。

8月1日
暑し。けふ洋服地配給とて悠紀子忙し。1188円にて買ひ来る。志野夫人いやらし。タバコ30円にて買ひ来る。夕方タバコ配給あり。 夜、保田家へゆき久々に與重郎先生と長く話す。ジャガ芋二貫目ほど呉る。タバコいま引きどきなりと。吉田女史へ手紙送る。

8月2日
朝の汽車にて檪本へゆく(乗越し出来るやうになる)。中島夫人に雑誌原稿見せてもらひ一部借る。西田君(檪枝在)の家へゆき昼飯御馳走となる。 宮城へ勤労奉仕にゆき一二、三日頃桜井に来ると。服部家にゆきコギトその他より中島の作のリスト作り、未完にて帰宅。不二へ日記送る。

8月3日(日)
来客なし。来信なし。夜、岡本家へジャガ芋返し、保田へ「琉球神道記」「神名考」「染色の話」贈り、百合の花もらひ弟君と碁六番打ちて帰る。

8月4日
原正明君より電話、ついで来る。昭和十四年より八年目なり。山西省の南にゐしと。言論自由を喜ぶ。畑作りてサラリーにてやれると。夜、保田家へゆき碁打つ。

8月5日
あすより図書館休みとて朝に汽車にてゆきハイネ全集と久美子用の本二冊借出す。養徳社に寄り、庄野君に中島の論文集のこと云ふ。東洋学双書のこときかる。 13:00電車にて帰る。夜、米田君来る。伊東より手紙、創元社より詩集出すと(※「反響」のこと)。父より「杜甫」寺島喜八郎氏の世話にて大八洲書房(※大八洲出版)へわたせばいかにと。

8月6日
朝の汽車にて服部令夫人の妹(中山勝治夫人)来り、家のことにて訴訟と。山田鷹夫に紹介状書く。引揚者に衣料その他配給。ハイネ伝二枚書く。羽田より手紙。 十日過ぎ在宅と。旗田(※巍)氏帰国せしは誤伝と。夜、保田へ油瓶もちゆく。

8月7日
朝、仕度してみな多良へゆく。われ留守番。夕、米田君来る。丸茄子500匁(15)買ふ。〒なし。

8月8日
炊事し南村輟耕録写せしのみ。服部よりハガキ。辻君来り「爐」年刊詩集の原稿もちゆく。

8月9日
炊事同じ。タバコキザミ(70)買ふ。夜、保田家へゆき碁、三弟と軍隊生活の話す。次弟東京より帰り野菜●と。帰れば妻子帰宅。借りて来し「旋風二十年」朝四時までかかりてよむ。

8月10日(日)
朝の汽車にてゆき坂口君と会ふ。けふより増発、上り12:00と下り3:30と出来たり。寿賀子に父のハガキのこと云ひ中村君にゆきしに留守。小幡君にゆけば高橋君帰来と。 加藤嬢けふ出発とのことにて待ちて挨拶し登館、1800もらひ、帰途小竹文夫「支那の自然と文化」(20)、キセル二本(7.60)買ひ、バスにて柳本にゆき荒川氏にボーナスのこと云ひ、 秋永家へゆけばジャガ芋呉る。帰りに桜井駅前にて三角くじ、金鵄10本当る。吉田氏より手紙、小学校の先生となると。 前田直典より「満和辞典」返却。中華日報より原稿料100。硲君来訪、「東洋思潮」もちくれ(そろひ)、同窓会名簿持参。夕食後保田家へゆき将棋、碁、漫談。

8月11日
硲君と8:00すぎ家を出、切符買ひて与へ京都着。羽田家につきしは11:30。麦二升とバレイショ一メとを渡し13:30頃出、野田又夫のところへゆけば叡山へゆきて留守。 東方文化にゆき藤枝(※晃)を少し待ち、村上成実氏と三人で叢書のこと、博多成象堂より出すと。「杜甫」第一次と。古本屋を歩きまはり、 「庚申外史」(10)、「三浦按針」(15)、「韃靼漂流記」(18)、「ドイツ二千年史」(20)、「大奈翁日記」(20)、「小麦の祖先」(16.5)と本買ひ、 父の家にゆけば寺島氏よりききしとて館長の不満二点、仕事せず、勉強のみす、服装ルーズと。意外なり。野田家へゆき夕食また御馳走になり、中島のことたのむ。 出てノート買へば28円。23:00帰宅。油一升460にて受取りしと。

8月12日
12:00まで寝、起きて依子つれて藤井寺にゆく。田中の叔母、大江叔母、久美子ともに依子初対面なり。帰りは門外まで見送る。肥下にゆき六反作れる様見、夕食御馳走になり帰れば21:00。

※〈午后五時頃草苅中、田中及依子来訪。草苅ヲ止メテ家ニカヘル。中島ノ本出版ノコトニツキ長尾ヘ手紙出スコト依頼サル。午后七時田中カヘル。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 94pより

8月13日
昼ねし、午後米田君とランケよみ、夜、保田家にゆく。森本一三男の詩、大和文学に話せよと。中島の本のことも不服なり、不快。

8月14日
午後「ランケ」。終りて夕食後タバコ買ひしに配給ありしと。志野氏にゆけば酔眠。悠紀子に説教す。効ありや否や。

8月15日
朝、不二書房より600、あと1200と。大、羽田、野田、不二へハガキ。羽田より松本西下と。不二よりハガキ。鯨肉より油とる(百匁60円の肉より一合余)。 夜、尾西家へ行き町会議員の兄、四郎君と話す。盆踊り各宅にてす。

8月16日
無為、〒なし。

8月17日(日)
芳野清より手紙。夕、入浴。保田へゆけば上洛。妹婿二人、中一人は(※大高)八回理甲勝田義文。

8月18日
坂口允男来訪。12:39(十日より増発の汽車にて丹波市にゆき養徳社にて「クレオパトラ」生駒氏に呈し、庄野君より「東方史論叢」(180!))もらひ、 森本一三男の詩のこと瀧井氏に話し、服部にゆきハイネ聞く。夫人一度も顔を見せず、夫婦喧嘩のためか?帰れば坂口君再訪。ハイネ「独乙浪曼派」と「ハルツ紀行」貸し賜る。 西田君より十五日に来られざる断り。

8月19日
このごろハイネ「歌の本」訳す。夜、保田家へゆき碁。

8月20日
登館、米田君とともにある。「学燈」五月号買ふ。図書館には不二の手紙来あり。八日付にて辞表出し、小学校教師となりしと。学を業とする人をともかせぎせんと。 前田直典「オリエンタリカ」創刊と。矢代書店長に道太郎(※長江道太郎)、中島の本出したしと。三上次男、俳本のこときき合せ「川久保日大三中の教師となりし」と。
八木君けふより復職。ともに吉田君に寄書。羽田へ川久保のこと。帰りぎは藤枝のハガキ、井上節子嬢の世話にて来る、「杜甫」受取りしと。極楽寺へゆき一部始終話し、米一升賜る。

8月21日
出勤。月給と家族手当ともらふ。十五級俸(1800)なりと。寿賀子呼びて注意与ふ。八木姉妹にパン賜る。帰途、茄子一メ匁(15)と飴買ふ。キザミ(75)一ケ買ふ。

8月22日
出勤。日直なり。夜、米田君来る。石川君よりキザミ頒けてもらふ(63)。藤枝、三上次男、井上節子、長江道太郎へハガキ。

8月23日
出勤。半ば休業なり。ズボンに火こげこさふ。養徳社へよる。「楊貴妃とクレオパトラ」会議に上りしと。定期おとす。散髪(35)。夜、保田家へゆく、不在。

8月24日(日)
桜井例祭。前川梅造●来訪、桜井駅に定期券拾得の掲示ありしと。17:00史、依子つれて藤井寺へゆく。依子の箸の持方われと同じことを認めたり。 杉浦、杉森久英より「文芸」編輯に代りしと。両氏へ返事。

8月25日
定期券駅にて返却受く。婦人ひろひくれしと。帰途茄子一メ買ひて帰る。弓子皮膚病。

8月26日
出勤。職員組合。天理大学の件にて会合。帰りて吉田君と大の便り見る。三上次男氏にハガキ。吉田君へハガキ。

8月27日
出勤。無為。夕立。機械南葛にす。「三輪山に金の夕立する代かな」。

8月28日
出勤。アンダマン島語を写す。高橋重臣君来る、小幡退職せんと。夕方夕立。夜、米田君来り南瓜呉る。

8月29日
出勤。無為。荒川氏と碁打つ。七目にて二敗一勝。鴎外「諸国物語」よむ。

8月30日
出勤。一旦帰りしのち、藤井寺にゆく。袴300。悠紀子の着物は2500(五分手数料)にて高島屋に預けしと。千円借りて帰る。尾西四郎に会ふ。

8月31日(日)
わが誕生日、来信なし。来客なし。昼には飯炊く。

9月1日
出勤せんとせしに眩暈。朝食もとれず。浅古の中井氏、種子と南瓜売りに来る。みなにて150円以上。不二より日記。夜、保田へゆく。肥下降雨まで来ずと。

9月2日
出勤の途、だるければ鈴木氏に寄りてゆく。吉岡君来り「爐」同人の詩もちゆく。上田一夫君来りしと。鯨油480円と。中村教授来る。 弟氏東京にて竹内好、市古宙三に会ひしと。三上次男、中村治光よりハガキ。

9月3日
出勤の汽車にのりおくれ電車にてゆく。通勤時間の制限解除、館内不快いつもの如し。服部にハイネ聞きにゆく。時間後、畑三十分やり、山中晴子女史とともに帰る。中村治光にハガキ。

9月4日
出勤。朝の打合せで相変らず不快。畑三十分。八木君と帰り、文学堂にて「アッタ・トロル(20)」買ふ。夜、米田君来り「ランケ」終了。

9月5日
出勤。畑三十分。八木山中二嬢と帰る。須賀文庫おほむね終了。この頃旱天のため概ね停電。これも不快。ハイネのこと角川氏に問ふ。

9月6日
秋空となり、稲穂出そむ。停電の為、水汲み作業。みな不平。八木家にゆき父上と話す。天理教には忠君愛国なく孝のみなりしと。服部にゆく。弟、外専を退校せしと。吉田氏よりハガキ。

9月7日(日)
無為、旱天三十日と。

9月8日
出勤。事なし。畑やる。「不二」七月号。不二へハガキ。

9月9日
出勤。堀内民一氏来り、石井千鶴子君の就職のこと。寿賀子より電話、東京より電報あり。帰ると。

9月10日
館長われを呼び、女子は信者ならずば採用せずと。八木君令兄の五十日祭と。
父よりハガキ、村田幸三郎来りしと。丸亀より詩一篇をと。高橋君の畑手伝ひさつまいも賜る。

9月11日
八木君より果物返しに賜る。丸亀へ詩「このごろ」送る。

9月12日
畑に種子(大根と大阪白菜)まき、高橋君へゆきしに雨。茄子一メ(35)買ひて帰る。米田君来訪(けふ新井氏令弟に東洋学の会の話頼む)。

9月13日
出勤。「大阪日日」に小野十三郎「西康省」の詩人として我をかきゐしと山中嬢の話。定期買ふ(三ヶ月170、以前は六ヶ月120)。夜、坂口允男君さそひ保田家にゆく。 昨日けふにてレマルク「凱旋門」よむ。昭南にありし同盟支局長井上勇氏の訳なり。

9月14日(日)
無為、雨降る。不二をおもふ。

9月15日
雨、朝の中つづく。相変らず悒鬱なり。相野忠雄よりハガキ、●し。

9月16日
昨日より停電なくなる。汽車にのりおくれ前栽まで電車でゆき上田一雄君のところへゆかんとせしに途で逢ふ。話しながらゆき養徳社に寄る。角川書店危しと。 図書館相変らず不快。畑に大根芽吹く。谷川来る。八木君と帰る。不●の心云ひしと。相野へハガキ。

9月17日
出勤。八木君と二人へ不二より手紙。大掃除。研究会。

9月18日
出勤。東大東洋史の学生来る。中国革命やると。16:00ともにアパートにゆき服部夫人に聞けば鯨油と上田君とともに不評。 帰りて保田家にゆき話せば上田君を信用すべしと。さつま芋もらふ.。西島君、教科書の詩の説明を求めタバコ賜ふ。角川より「歌の本」500頁は厚すぎると。

9月19日
出勤。新井秀雄氏に会ひ、あすのことたのみ、来りし上田君に油のこと云ひしのち、木村君にきけば信用しゐると。怪訝。みな浮世絵見にゆく。われ「諸蕃志」を刷る。

9月20日
出勤。午後、東洋学の会を開く。出席者外語学生七名と教授二名、山中、八木二嬢、可厭となる。講師新井秀雄氏と中平氏、むともにスマトラの見聞を話す。 中平氏は比島、泰にもありしとて有責なる話なれどもよしなし。中山管長に久しぶりに会ふ。月給2,199円60銭もらふ。瀧口春男君より原稿受取り「学芸」幸田露伴追悼号と泉井「言語学」買ふ。

9月21日(日)
日直出勤。山中嬢の介添へ、中女学生の応接に痩る。「東洋史研究」来る。父よりハガキ。村田、西野のこと、丸坊主となる。

9月22日
出勤の途、小路へゆき上田一雄君に油のことたのみ、後にて来りしに、外語へ頒つ。二升四合五勺借りしこととなる。午後、八木山中二嬢と奈良博物館の浮世絵展へ春信を見にゆく。 すみて喫茶。前川にゆく。保田に出版承知させしと。筒井よりハガキ。

9月23日
出勤。堀内民一氏より手紙。文献学会のことにて中村君と二人、富永より相談。石浜、和田両先生をいふ。帰途、八木嬢より昨日の返礼に羊[羹]二本と葡萄ともらふ。 高橋君より藷一メ五百、唐辛子、カボチャ頒け賜る。羽田より東洋史会に来よと。吉田君より五百円封入、本買ひてくれよと。駅にて保田に会ふ。奈良の出版屋へゆくらしき。夜、米田君。

9月24日
秋季皇霊祭。一日家居。床をはなれず、ツルゲーネフよみニヒリストに近きを知る(人かわれか知らず)。羽田、吉田、角川、堀内、筒井、前田純敬(※1953年版「凱旋門」訳者)へハガキ。

9月25日
出勤。高橋君にお礼としてバター半斤、油のせわ、その他事なし。


昭和22年 9月26日〜昭和22年12月31日

19.0cm×13.0cm 横掛ノートに縦書き

ノート

9月26日
出勤。高橋君岳父危篤とて休み。天理大学図書館の件にて協議。長江道太郎より風邪と。けふ出勤途上、湖南「支那中世史」(22)買ひ、鈴木氏に寄る。 吉田君に送ること八木嬢にたのむ。昨日は梓の命日なりし。
くさぐさのむかしおもへばたのしまずかかる日われはよはいに生くる。

9月27日
土曜、出勤。ひる東洋史の後輩、野崎君来る。ともに14:50の汽車にて帰宅。竹内好への紹介状かき、夕食し、送りてのち保田にゆく。明日より一週間十津川へゆくと。 吉田氏へハガキ。(矢野仁一博士に会ひしに景善日記などよめと云ひしと。バカらし。和田、山本二先生、学生に評判悪しと。佐野学を演習に使用すと。バカらし。)
(寺島●●に大八島洲と武田長兵●図書館へ紹介すべしと。寿賀子寿一にて家もちゐる様子と。)

9月28日(日)
史、依子つれて鳥見山へ栗拾ひにゆく。吉田嬢より手紙、漸次教師になりゆく様子。童話集送れと。堀内民一氏より五日までに詩をと。

9月29日
朝小雨。出勤。カード挿入す。田中康平の長女、田中富美子来る。甚幸の父兄會に来しと。久美子二十四日に結婚せしと。相手は商大予科出の山本の社員。二階に住むと。 眼丸く下ぶくれの21才の娘なり。石川君近く退職と。熱なく方なき青年なり。
来月五日に安西冬衛の出版記念会と。竹内好よりブランド外一冊返せと。

9月30日
途次高橋君を見舞ふ。安達隆之助氏輸血すと。午前中カード挿入、午後大掃除。すみて石川君の送別会。「大和文学」の校正来る。畑の大根消ゆ。布留へゆきしも不明。 汽車にて尾西四朗君の兄と話しつつ帰る。前田純敬よりハガキ。檀一雄来る様子。

10月1日
カード挿入。けふより8:30はじまり。帰途、酒井賢先生にあふ。外語の教授として着任。豊田の某家に下宿と。ゆう子嬢、[日ケ市]へ嫁ぎしと。西田君来る。 話すこともなし。父よりハガキ。久美子の結婚知りしと。柏井母、正月岐阜へ来ると。

10月2日
出勤。ひるまへ日野月先生来られ、ダンテ神曲記すと本見らる。酒井先生来会、生駒、管長来り会し、接待役として管長宅へゆきすき焼き食ふ中、帰れなくなる。 (※天理)時報の上野常務と話す。和楽館にて両先生と寝、酒井先生原爆を受けし話さる。奥さん毛布を投げて即死されしと。二時頃までねられず。

10月3日
朝食しをへしころと生駒氏と土木課の奥村●造((※大高)七回理甲)と来る。管長来り、大阪へゆくと。日野月先生を案内して分家たる姉崎先生に伴ひてのち登館、 昼弁当なしにてすまし●●かる。高橋君に寄り、明日芋くると。岳父やや良しと。帰れば吉田嬢と小林俊文よりハガキ。

10月4日
土曜とて八木君さそひ高橋君へ寄りしのち帰宅。配給の砂糖にてしるこ御馳走す。帰りてのち不二出版の鈴木正男君(※大東塾)来り、 夕食中米田君来り芋呉る。ともに保田家へゆきしもまだ帰らず。父上と話し帰宅。就寝まへに心うちあく。浅野晃、長谷川氏会ひしときヒがみゐし由。 降伏を肯んぜずビラまきしはこのひとびと也。(600受取る)。

10月5日(日)
鈴木君送り出してのち昼寝。小高根二郎より本。小高根、竹内、吉田、父、小林へハガキ書く。
久しぶりに一家入浴。風呂代あがりてより初めて也(3.50大人、2.00子)

10月6日
出勤。富永館長、書誌学会に意外に熱心にて神田、内藤乾吉両先生に会ひしと。来週日曜、神田先生を招くと。この前来られし時と思ひ合せて笑止なり。
酒井先生来館、辞書二冊お貸しするに苦労す、いやなところ也。帰り高橋君に寄り芋もらふ。帰れば留守に保田来り養徳社へ稿料の催促せよと。それもいやなり。 教会にて婚礼ありしとて親子残肴もらひて満腹。

10月7日
出勤まへ鈴木治氏と養徳社へ寄る。保田の前借、諾と。閲覧休み。帰り菠薐草まく。寿賀子よりハガキ、寿一出勤しゐると。

10月8日
休日(理由不明)。高田へゆき堀内民一氏に会ふ。爐書房へゆき辻君に会ふ。帰りて昼食、鳥見山へ依子つれて栗拾ひにゆき、忍坂へ出る。

10月9日
出勤。帰途、高橋君に寄り帳簿もらふ。柿やや安くなる。●300にて売りしと。

10月10日
汽車にのりおくれ電車にてゆく。貴重書庫に本棚入るとて作業。荒川氏、水菜の苗賜る。研究費その他570円もらふ。芋パーティー、 三村君来り、養徳社やめると。山本達郎、学位論文かきしと。川久保に会ひしと。帰途、八木家に傘借る。瀧口春男より詩の稿料100。

10月11日
出勤前八木家へ傘かへしにゆく。書庫に書棚入れるとておほむね作業。酒井先生と服部にゆき中村忠行君と話して帰る。石川利範、堀内民一よりハガキ。 ゆふべシロコゴルフの辞典うつしてねむれず。

10月12日(日)
昨日より停電緩和。妻子小学校へ映画見にゆく。われ神田(※喜一郎)先生迎へにゆき、書誌学会の相談を富永、中村、生駒と五人にてす。 石浜先生に館長悪感情をもつ様、実行委員七人きまり来月中旬、京都にて会と。管長宅へゆき茶のみしのみにて退去。6:28の電車にて帰らる。不快。吉田君より手紙。

10月13日
出勤。疲れてゐねむりせしのみ。新井女史不快。吉田君へハガキ。枝豆ぬきて帰る。早く寝る。

10月14日
出勤。貴重書庫の整理とて富永ヒステリーとなる。15:30よりパーティー、悋(※けち)にていやなり。枝豆多くとる。

10月15日
出勤。鈴木治氏に寄り、柿食べて話す。午前中古野氏の所へ東亜文化の板野(ばんの)正高君来り、矢野文庫の案内す。昭和十七年の法学出、(※松本)善海のこと話せし。 帰らんとせしに石上の祭とて高橋君の日直かはりていつもの汽車。

10月16日
雨、出勤。午後大掃除。二嬢と書庫、女に愛される男となりし。終りて八木君に誘はれしかどゆけず、養徳社に立寄れば亀井勝一郎来あり。柿食はせらる。 昨日まで三日間、保田と奈良にゐ、けふ桜井より来しと。中村地平、宮崎図書館長となりしと。太宰治死にかけて湯河原にありと。生駒宅の晩餐に呼ばれしが行かず。 「別るるや柿食ひながら坂の上」は中島の句なりしか。
「大和文学」の校正見せられ、稿料明後日とのことにて帰る。夜半、日記の写し不二のため書く。

※〈午后一時瓜破へ行キコギト整理。 梱包解キ終ル。 中島原稿掲載ノ頁ヲ集メ、修三、明日桜井訪問ニ託シテ保田ヲ経テ田中ニ渡シテモラフコトニス。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 94pより

10月17日
(神嘗祭)八木君来る。昨夜眠れざれどたのし。秋祭の鳥見神社へ子らつれてゆく。昼飯御馳走す。依子の冬着作りくれ、15:50の汽車にて帰る。われ久しぶりに入浴。 夜、保田の三郎来り、誘はれてゆく。餅賜り将棋さす。保田「ハイネ」を世話すべしと。

10月18日
いやいや出発。保田家へ牧野忠雄のこと教へにゆき、気がかはり山辺道歩き景行・山守神陵に参拝、丹波市へ10:00すぎ着。所長、館長の創立記念講演すみゐし。 (※この日記念写真撮影あり)
柿食ひ昼食すませし頃、江上波夫氏現はる。西下の人みなわれを憐れむ色あるか?
山崎君とツングース語文法よみ、16:00養徳社にゆき「大和文学」稿料500金もらひ、吉岡君とアパートにゆき服部家で夕食。あす上洛を中村忠行君と約し21:00ごろ帰宅。
杉森久英氏より「文芸」一月号の詩を月末までにと。

10月19日(日)
8:00ごろ出発。米田君に寄り11:00ごろ京都着。下総町にゆけば父母あらず、祖母留守番。岡山の三郎叔父長女結婚式にゆきしと。祖母子らにパン賜ふ。 東方文化にゆき吉川幸次郎博士と羽田博士の講演きく。天津にありしとき訃報ききしペリオの追悼なり。藤枝の部屋にいこひ、佐藤長君と話す。 今西春秋より若城久治郎に便ありしと。外山氏より「中国史学入門」を頒けてもらふ(90)。(臨川にて「柳辺紀略」30、「苗荒小紀」10)。 羽田と出、喫茶。家にゆく。雨降り出す。亨先生とバス一緒なり。夕食し語りしのち下総町にゆけば大、帰りあり。祖母吐瀉。

10月20日
大とともに出、10:00桜井着。無為。雨。夕方より止む。

10月21日
欠勤。仕事もせず。吉田嬢より手紙。八木君と手紙交換せしを怒ると。ハガキ書く。「輟耕録」抄済む。
日野月先生、山本信雄よりハガキ。「鳶」朗読すと。

10月22日
出勤。殆ど仕事せず。給料貰ひ(2200+600)、靴修繕(120)、タバコ(25)、のち大高同窓会に出、瀧井氏と帰る(会費200)。北平にありし中野氏よりハガキ。

10月23日
出勤。弁当八木君もち呉る。中野氏へハガキ。枝豆とる。高橋氏に寄り藷わけてもらひ、柿もらふ。

10月24日
出勤。高橋君欠勤。午後藷掘り、吉田君より手紙。富松氏に中山管長のこと云ふ。

10月25日
出勤。畑の吉田君の豆とり終る。八木君の紹介にて阿倍女史来り、詩のこと云ふ。吾、相手にせず。新京引揚のこと云ひてはじめて相手にす。いつもの汽車にて帰る。 育生社より三島一氏の紹介にて「唐宋時代の詩人」三百枚二、三月までにと。

10月26日(日)
天理の秋季大祭。はじめ全員出勤と云ひしかど取消しとなり、われ元よりゆかず。米田君来りランケよむ。その後無事。

10月27日
昨日参拝ありしと。「未刊本」第一冊もらひ、きけば印税なしと。村田幸三郎へハガキ。曝書の相談。小雨。明日休みと急にふれあり。可嗤。

10月28日
晴、朝「マルクスか死か」を「文芸」に送る。育生社へ「唐宋の詩人」諾の返事。三島氏へ礼状。13:40の汽車にてゆかんとし、 中谷君に会へば50本85円の煙草頒けらる。駅にゆけば一時間あり。保田家へゆき父君にとタバコ托し、天理にゆき、そら豆蒔く。帰らんとすれば三村君来る。 枝豆与へともに養徳社にゆき服部家へゆき将棋さして帰る。(十一月一日より上り7:22、下り16:17との掲示)
服部にて浜田敦「古代日本語」借りてよむ。

10月29日
出勤。十一月一日より汽車時間変更、八木君お多福風邪にてすぐ帰る。本のいれかへはじまり、二号室へ矢野博士の洋書ゆく。山内四郎よりハガキ、家さがせと。

10月30日
出勤。本移動にて疲る。帰途、高橋君の小豆採り手伝ふ。山内へ返事。桜井駅で保田に会ふ。一昨日帰りしと。ハイネのこと云々。

10月31日
出勤。本移動。14:50の汽車にて帰り、久し振りにて入浴。米田君来りて大根呉る。

11月1日
けふより汽車時間変り7:22。本移動、明日欠勤のこと云ふ。八木君出勤。高橋君の畑手伝ひ柿と葱賜る。

11月2日(日)
曝書出勤と云へど来客を口実に休む。米田君来り「世界」貸し呉る。石田幹之助、オリーブは橄欖にあらず斉墩なりと。午後、岡本和子嬢来る、勤先いやなりと。

11月3日
明治節。在家無為。午後、保田にゆきしも橿原にゆき不在。

11月4日
出勤。移動やる。硲君来り、最近上京と。独仏字典のこと頼む。酒井先生来られ俸給二千円足らずで辞職せんと。養徳社へゆき瀧井氏にたのむ。書誌学会十五日京都でやると。

11月5日
けふより検書。われ中島少年と組になり歴史の部当る。酒井先生来られ本貸す。すみて八木家にゆき豆あげ柿たまひ、 高橋家にゆき畑少しやり寺尾にて岡田謙「民族学」(25)、平野「民族政治」(20)買ふ。けふ溯及分1300円もらひし。子ら遠足とて兄は信貴山、妹は柳本の長岳寺へゆきし。 吉田君より手紙。八木嬢兄とはあはずと。

11月6日
検書、わが部終る。中村君と会はず。古参ぶるが故なり。帰途、鈴木氏にゆき豆与へ、酒井先生のこと云ひしに、野田又夫に頼まんかと。意気地なし。

11月7日
昨日約束せしにより八木、山中二嬢と正倉院見にゆかんとせしに学童の日らしければ、柳本に下り秋永氏訪ねしに不在。丹波市まで歩き、 高橋君誘ひ一駅にゆけば、二嬢の外、町田君あり。五人にてゆき高橋君の尽力にて飛島園のとりなしにて裏より入場。ゆっくり見たり。戸籍帳、弾弓、借金証文など面白かりし。 ついで喫茶(五人にて125)。三月堂にゆき(100)、大仏殿に入り、高橋君と別れ昼食。春日神社参拝。15:50の汽車にて帰る。足痛し。

11月8日
閲書終りの日。鈴木氏によれば酒井先生の話未だ。服部、昼来りて聞けばあと三十円の所までこぎつけしと。 高橋君のため十日十一日耕作せんとせしに二人とも日直当りゐる。山中八木二嬢に代りてもらひ、ともに出て養徳社に寄り、中島の(※遺稿集の)話せしに諾と。
叢書外国篇八冊もらひて帰る(けふ、十三日石浜先生へ出張せよと)。
保田に寄れば明日より信州にゆくと。ハイネのこと諾されしと。

11月9日(日)
大掃除出勤とのことにて出でしも七時の汽車におくれ、米田清治君を訪ね、「モンテーニュ」やり、 坂口允男君訪ね「楊貴妃」返してもらひ九時の汽車にのりゆけば掃除すみ、薪分配を受け会食。小幡君来り、きけば兄、ホノルルを出てのち投身自殺と。 帰途、高橋君のところにゆきニヒリストといふ小幡君を説教す。 けふ職員の要求通り、来週一杯農祭休暇。

11月10日
七時の汽車にて丹波市。鈴木氏に米二升もちゆき、八木家へゆき高橋君の畑へゆく。藷掘りと牛蒡掘り。帰途、富永の家前にて瀧井氏に会ひ保田のこといふ。 ごぼう貰ひて八木家へゆき夕食。詰所に泊りしも合客ありて眠れず。

11月11日
朝、八木家を出、高橋君とまた山畑へ藷、大豆、里芋、鯉もちて帰る。また牛蒡もらふ。帰れば杉森氏よりハガキ。郵便おくれ詩二月号にならんと。 (養徳社より十五日の会のこと、石浜先生に伝へにゆくことを云ふ。)

11月12日
九時の汽車にて丹波氏にゆき、山崎君とカストレンよみ、昼食芋粥賜りてのち図書館にゆく。山中女史かはゆし。酒井先生来られ再婚のこと、 奈良の書房の太田女史来る。二十四日再び来よといひ、ともに出て富永宅、養徳社により、上り15:51にて檪本にゆき中島夫人に養徳社の(※遺稿集出版計画の)こと云ふ。
帰り、岡本和子氏に堀内君への伝言たのむ。吉田君よりハガキ。

11月13日
大阪出張とて9:00出発。上●より徒歩、大丸へゆき村田幸三郎を訪ねしに一月半北海道に出張と。梅田の地下ホテルに筒井を訪ねしに市役所と。 歩きてゆき会議中とて待たされ13:00やっと会ひともに昼飯、喫茶。養子にゆかんと思へど五万円いると。正月桜井へ来んと。 地下鉄にのりナンバにてのりかへ住吉より石浜邸を問へば神田先生より昨日連絡ありしと。三十分ほどにて辞去。河内松原の肥下を問へば麦まき。中島の原稿保田へ送りしと。 帰れば20時。無駄足多き日なりき。

11月14日
家居。煙草配給。夜、米田家へゆき保田家へゆく。保田まだ帰らず。肥下よりのコギト抜萃も来らず。父君と話して帰る。けふひる「東亜の殉死の慣習」書き了ふ。

11月15日
9:00の汽車にて出発。円町まはりの電車にてゆく。養徳社の連中と一緒になり、きけば三村君辞表呈出と。父の家にて昼食、河原町大教会にゆき14:00頃より開会。 矢野峰人博士、泉井博士、神田先生、頴原退蔵先生の外、石浜、赤松俊定二先生おくれてお越し。養徳社よりは上村六郎氏、館より富永、中村の外に新井女史炊事に来れるも可笑。 頴原、矢野先生われを知らる。楊雲萍無事と。停電の中、杉浦と出、野田又夫にゆき中島のこと頼み、下総町につれ帰りて泊める。

11月16日(日)
杉浦と家を出、野田家へ中島遺稿もちゆき羽田明を訪ねしに、速達して昨日早く田村博士の許へ来よと云ひしと。 東方史論叢の委員を養徳社より云ひしと。可怪。11時出、さがしあぐみて伏見稲荷へゆき羽倉啓吉を訪ね、茶菓ふるまはれ、子らへの土産もらひて帰り、丹波市へ出、服部を訪ね匆々帰宅。羽田速達けふ着きしと。

11月17日
出勤。研究室へ一切運びしに館長近日中にかはれと。その後許されて二号室勤務。亀井、末吉、藤枝よりハガキ。育生社より原稿用紙来る。20分早引して帰る。杉浦ゆふべ服部に泊りしと。

11月18日
矢野文庫に印捺せと、柴田、中瀬古に少年にやらす。藤枝へ原稿を井手口女史にと山中嬢にたのむ。服部来る。退館まぎは館長来りて不機嫌なり。吉田氏へ手紙。高橋君により芋もらふ。

11月19日
登館、朝から整理大分すすむ。昼、畑に豌豆まく。二女史お手伝ひ。相野忠雄来り、ともに出、養徳社により別る。 「勝者と敗者」をのせた「新日本(※眞日本)」来る。羽田より速達、二十七日来よと。

11月20日
登館、杉浦帰る。汽車にのりおくれ山中嬢と八木家へ寄る。けふ十三、十五両日の旅費(200)もらふ。

11月21日
登館、昨日より風邪。酒井先生、広師校長連れ来らる。京大哲学科の学生、野田君との連絡に来る。コギト未だ来ず。吉田君、堀内民一氏よりハガキ。 俸給貰ひしも当座にも足らず。玉葱植う(100本20円)。

11月22日
欠勤。時々小雨。ハイネ清書。父よりハガキ。
世に生くるよわきわが性わが涙かなしく吾子にわれは伝へし

11月23日(日)
山崎君来り、柿くれツングース語文法よみ終る。硲君正午来り、辞典と湖南、和田先生もち来り、パンとタバコ呉る。ありがたく気の毒なり。 ハイネ清書し終る。不満なれどいたし方なし。明日[屋●]註つけ解説書きて渡さん。

11月24日
出勤の途、鈴木氏に寄る。荒川氏玉葱苗賜ふ。午まへ典籍学会のこと、三興出版社来る。金は月末渡さんと。帰り、玉葱植え、八木嬢と話す。厚生社より手紙。 印税一割二分と。一興叔父よりハガキ。珍し。

11月25日
出勤。事なし。ハイネ注つけ終る。一興叔父へハガキ。

11月26日
出勤。山中嬢かはゆし、八木嬢にくしと思ひそむ。高橋君舅君胃癌にて医者見放せしと。(鈴木氏へ寄りてゆく)。典籍学会の披露文書く。外仕事せず。 帰りてハイネあとがき十五枚、●●にて書く。

11月27日
七時の汽車にて奈良へゆき三興へゆけば稿料一口に渡さんと。不快。
京大へゆき佐藤長君と話し喫茶にゆけばウメザオ君(※梅棹忠夫)あり。田村博士と話し、羽田来り、養徳社の吉岡君も来る。すみて東方文化へゆく。 「中国史学入門」の祝賀会なり。田村博士の推薦にて東方史論双編輯委員となりし。杜甫、博多久吉より受取あり。石浜先生の還暦記念論集の依頼状受取る。ゆき子流産。

11月28日
出勤。捺印すみたり。文化会にてソ聯の話あり、面白かりし。

11月29日
出勤。南側の部屋に代る。八木嬢を促して玉葱二百本(30)植え、同家にゆき小喫、養徳社にゆき「聊斎志異」のこと庄野君に云ふ。一月末もとこよと。 「キーツ」「呉舩録」もらふ。「長安の春抄」また買ふ。

11月30日(日)
終日無為。ただ久し振りに入浴せしのみ。厚生社と亀井末吉にハガキ。

12月1日
出勤せんとし汽車におくれ電車にてゆく。欠勤五名、なかに八木嬢あり。畑のこと靴下のことにて山崎君に怒る。三興来らず、 こちらより行かんとし大掃除すみて出れば途にて会ふ。7500受取り誓約書にはん押し、喫茶後別る。高橋君に寄りしに女児出産と不在。養徳社にゆき吉岡君と話し帰る。保田に寄り礼云ふ。 肥下より中島のヌキ刷来ずと。
けふ「中国史学入門」80円にてみつけ買ふ。安全剃刀の刃5枚15円、タバコ25円。岡本和子、某君に会ふ。往き電車にては米田君に会ひし。

12月2日
出勤。語専の芝居に明日行っても欠勤とせずと、可嗤。三村啓吉来り、退職手当3000貰ひしと。ともに出、喫茶して別る。

12月3日
出勤まへ八木嬢見舞ふ。荒川氏より飴貰ふ。「学芸」11月号買ふ。羽田と吉田ふじ子にハガキ。悠紀子流産怏りしか。

12月4日
出勤。不快。八木さん出勤、玉葱二百本植う。柿20円買ふ。

12月5日
出勤。高橋君に頼まれ柿拾ひ。すみて服部家にゆき夕食。将棋打つ。酒井先生のこと未だきまらずと。(月給と凹修綻とにて2800もらふ。)
朝の会にて富永つまらぬこと云ひ、木村、金井、仙田、中村、われより倚中改●くらふ。午後一時まで将棋さし吉岡英雄君の室にねる。(吉村正一郎、大和文学同人ことはりしと)

12月6日
朝食、服部にて食ひ、吉岡君怒る。食ひ直して苦し。9:00ともに出、養徳社により10:00出勤。午後山中嬢と玉葱植え、そら豆、えん豆蒔く。 ともに帰り小路に行きしに上田君不在。丹波市へ帰り高橋君手伝ひ、ハイネ「冬物語」買ひ(30)帰る。桜井駅にて駅夫に怒り、駅長室へゆきすみし。「不二」十一月号来る。

12月7日(日)
服部と橿原神宮にて待合せ、約束せしも来ず。肥下の新宅にゆき昼食、新米二杯食ふ。反当り供出2石6斗5升にて実収2石5斗と。 瓜破にゆき父兄に会ひコギトぬきて来る。そろはざりしは残念。
平野に出で天王寺、桃谷を経て硲君の下宿にゆき「唐詩選 上」のみもち帰る。藷一貫匁与へ、干魚もらひし。19:00帰宅。

※〈正午過ギ田中克己来訪、コギト中島掲載原稿郵送セシモノ未着トノコト。田中ニ瓜破へ行ツテコギトヲ探シテモラフ。〉肥下恒夫日記:『敗戦日本と浪曼派の態度』澤村修治著2015 94pより

12月8日
出勤。養徳社にコギト届け、三好、伊東に便かかされ、典籍学会のことにて明日京都出張を命じらる。服部「シロコゴロフ」浅見氏より譲受けくる(200)。 聞けば昨日大鉄終点で待ちしと。まもなく中島夫人来り公報ありしと。五月イポ山地で戦死と。暗然。寺島と北八郎翁来り、きけば69才と。父よりハガキ。 帰途保田に寄る。けふ乾電池注文す。

12月9日
京都出張。7時の汽車にて丹波市、10時頃三高へゆきしに●●休みにて羽田ゐず、田村博士に会ひて「東方史論叢」のこと云ひ、野田又夫訪ねしに不在、 東方文化への途、「日本永代蔵(15)」買ひ、神田先生に会ふ。中山管長の所在●つもりせよと。明日来丹のつもりなりしか。藤枝、外山不在。 野田氏を再び訪ね、中島のこと云ひ、弁当食ひ、かぎ屋にて喫茶。臨川にて「高適与岑参(15)」、「唐五代詞選(15)」「海潮音再版(40)」買ひ羽田にゆく。 三月インフレ悪化と。●物を早くせよと。4時頃出て帰宅。雨となる。吉田君よりハガキ。

12月10日
雨、出勤。昨日の報告す。神田先生昼まへ来られ、養徳社の庄野、小牧君と相談、むつかしきことなり。八木君に「海潮音」貸す。17:21の汽車にて帰宅。

12月11日
疲れて欠勤。冬の風吹く、一日臥床。

12月12日
出勤。職員会あり、館長への要求事項きめたり、面白し。17:21の汽車となり散髪(30)。父、中野英雄よりハガキ。

12月13日
出勤。昨日よりリストのタイプ打つ。服部と極楽寺へゆき中島の通知、表書かく28枚。
公報「5月27日リサール州イポにて頭部砲弾破片創にて戦死」と。夕食いただき帰れば汽車に保田あり。父よりハガキ。

12月14日(日)
父来ず。寒し。終日臥床。無為。

12月15日
出勤。鈴木治氏へゆき話す。けふより年末の司書室あと始末とてタイプとのり付け。すみて高橋君にゆき夕食よばれ、電車にて帰る。米田君にみちで逢ひ、つれ帰り英語教ふ。 谷川、芳野、角川書店より手紙。「淀川」「醍醐宇治」買ふ。15

12月16日
出勤。司書室勤務。午後雨、東京より小包来り「饗宴」あり。

12月17日
よべ雪、三輪山うつくし。出勤。帰り17:21の汽車となり山中嬢に芥川「支那游記」20買ひて贈る。

12月18日
睡眠不足にて(同盟年鑑よみしため)遅刻。汽車にて岡本嬢に会ひしも語らず。三輪の池田君に管長のところへゆくに会ふ。遅く帰り「印度史概観30」買ひ、煙草買ひ、柿買ふ。
加茂儀一「家畜文化史」すむ。芳野、谷川へハガキ。

12月19日
出勤のまへ鈴木氏により大豆頒ち石鹸賜はる。出勤してしばらくして会議。来年早々一万円位もらへるらし。馘首の時は二ケ月前に云ひ、9ケ月−6ケ月分呉ると。
京都出張を命ぜられて神田先生のもとへゆく。藤枝に会へば世界文庫に紹介すと。杜甫やらんかと。入谷氏の案内にて神田先生のお宅へ伺ひ一万円を渡す。 帰り本屋をあるき湖南「先哲の学問」、高橋「北方諸言語概説(18)」、「町人」、「中国民衆の生活と文化」、「唐宋伝奇集」など買ひ、 四條−丹波橋−新田辺−西大寺−郡山−八木、帰宅21:00。柿食ひて寒かりし。

12月20日
出勤。大掃除すみて13:00より忘年会。酒のみて寒く伏し、ボーナス貰ひしを遺失。高橋君の茶室に泊る。風呂もらひし。

12月21日(日)
高橋君にて朝食。安達氏を見舞ひしに案外元気。高橋君図書館へゆきくれしも無しと。われゆきて給仕たちに聞きしも知らずと。館長来り、 木村君に昨日の言咎めしが無事すみし。山崎君に会ひ近々一ヶ月分出ると。八木君にゆきうどん頂く。ボーナスの件、秘密にせんと云ふ。電車にて14:30帰る。途にて父に会ふ。 今井俊三郎叔父不況千円かへすべしと。保田家へゆき父の土産わたし、茂吉「短歌写生の説」置く。影山氏、末吉よりハガキ。

12月22日
休暇、一日床にあり。保田の雑誌にと「海南島の東坡」見直す。

大和文學第一集1947.12

12月23日
7:30出発、保田にゆき父君に飛島学園のこときき、保田より養徳社への注文きき、9:00の汽車。養徳社鈴木氏を経て図書館。八木嬢に歌一首。
うれひつついにし子よりもあさゆふにえまふこの子のかなしきいまは(※憂ひつつ去にし子[吉田女史]よりも朝夕に笑まふこの子[八木女史]の愛しき今は)
昼食後出て日和佐へ寺島喜八郎氏への手紙托し、服部にゆきしも不在。中村兄弟も不在。高橋氏も不在。前川老を訪ね、みかんせんべつ賜ふ。方々で好かれしかな。 「大和文学」見しに保田われの詩を引く。(※「炉辺独語」)

12月24日
汽車におくれ電車でゆき、養徳社に依り、高橋君誘ひ鈴木氏。登館すれば中村夫人逝去と。ボーナス2300もらひて悔みにゆく。明日葬式の予定。鈴木氏に又寄りて帰る。

12月25日
中村おかず夫人葬儀とてゆき対応。管長500円の香奠、富永100円にてわれと同じ。式まへ少女かへり来りて「お母ちゃんは」といふに泪催ほす。16:00帰宅。父、前田純敬より〒。

12月26日
9:00汽車にてゆき服部で昼食。中村孝志氏より論文返却。図書館にゆき19.50もらひ菊芋掘り二女史に会ひ、小島悠馬「古代支那研究」(70)、 榊「弘法大師」買ひ電車にて八木。爐書房にて「伝教大師(25)」、長沢「時文字典」(20)買ひ、「神軍」あるを見とりて帰る。三好達治よりハガキ。坂口允男来りて柿、大豆くれしと。

12月27日
けふも暖かし。午後坂口君を訪れしも留守。保田も留守。

12月28日(日)
家居。米搗きしかど二分搗位か。12日に出し吉田君の手紙着く。

12月29日
家居。寒し。霙降る。中野博之、神田信夫、前田純敬へ返信。

12月30日
朝より餅搗。八木へゆき笠井君にシロコゴロフ返却。井上節子嬢、榛原の材木商へ嫁ぐと。吉田君思ひて哀れ。爐書房へ寄りしも辻君留守。石浜先生の本(50)買ふ。 「神軍」呉れしと。米田君来り、野菜呉る。餅、教会の人と搗き呉る。和田先生へ手紙。

12月31日
午後、西窪氏へ薪とりにゆき、やまのいも(百匁20)、柿(百匁13×3)買ふ。大掃除す。妻子多良ゆきの仕度す。教会へお歳暮。


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