2022.11.11up / 2023.07.11update Back
田中克己日記 1978
【昭和53年】
この年の日記は4分冊に別れてゐます。理由は、
6月28日斎藤病院に入院 → 8月6日退院。
10月9日塩入病院に再び入院 → 11月17日退院。
と、精神科病棟への二度の入院があった為です。晩年期に入り一番の危機を迎へたかと思はれる昭和53年(1978年)。
年の初めには、戦時中の徴用時に同じ釜の飯を食べた陸軍報道班の同僚から誘はれ、詩人の北川冬彦夫妻を囲んでの、会食の集ひがありました。
詩的にはまったく接点のない二人ですが、北川冬彦には昭和17年1月、快進撃を続ける日本から南方に向かふ船上で一緒だった田中克己・神保光太郎らを実名で登場させた暴露小説『悪夢』が
あります。その作中に田中克己は、戦時中の日本で威張ってゐた中島健蔵が、苦々しく疎んじる無鉄砲キャラとして面白く登場します。
また春には、卒業以来気に掛けてゐた、旧友丸三郎の子息重俊氏の教員正採用も決まります。
何事もなく過ぎていった半年でしたが、4月頃より「躁」がはじまります。折角再会したその陸軍報道班同僚の姪のお見合斡旋を失言でしくじり、よほど気に病んだのか、5月に発作を起こします。
6月に入ると、このまま勤め続けることは難しいとまで勝手に思いつめて、退職の意思を固め、学生には「これが最後の講義」と宣言してしまふのです。
そして旅行も最後と覚悟してのことでしょう、新幹線に飛び乗り下阪。帰還したところを斎藤医院から入院を命じられます。
病院にて全快しないまま退院。直後から、日記の文面には「遺書」ほか、意味不明の文脈が多くなり、やがて自ら書き続けることが出来なくなってからは、悠紀子夫人が代筆し、病状の悪化と入院とに至る様子を記し続けた一冊が『瘋癲日記』と自題されて遺されることとなります。
斎藤病院の診断書には「神経症」と記載されました。一旦寛解した後、再び謹飭な筆蹟で開始されるやうになる翌年の日記(1月4日)には、
「八月より九月の瘋癲記、ユの記せしをよみ、所々のみ覚えゐるに気づく。」
とあります。また最初の発狂の時の記憶として
「数日間、意識を失う前に見た幻影は神の下にいならぶクリスト、仏陀以下いくつかの人の影であった。(芥川龍之介全集月報8(1965.03))」
といふ回想もなされてをります。
しかしながら、本人の病苦、そしてその記憶が消えてゐるのはともかくとして、実害は躁鬱症状の「躁」状態において、もっぱら当時周辺にあった家族が被ったものでした。
すなはち、近くに嫁いでゐた二女弓子さん・三女京(みやこ)さんの一家、そして親戚の船越苑子さん(船越章息女)が足繁く通ひ、サポートに当たってゐますが、
日記には、四六時中そばにあって詩人を気遣ひながら、同時にその変調に心身を摺り減らされる悠紀子夫人の苦労が赤裸々に記されてゐます。
詩人は翌年も再発に悩まされるのですが、この後、中国詩人評伝シリーズ(李白・白楽天・杜甫)の掉尾を飾る『蘇東坡』の執筆に入るのですから、その後の回復・復調を思ふと、神の御加護か感慨深いものを感じずには居られません。
途中、単位を落すぞと学生をおどかして泣かせ、代議士の親から叱られたことを苦にしてゐます。さうした心労もストレスとして悪く働いたことでしょう。代議士は大物政治家の田村元だったやうです。(※文中にもう一人表れる「田村春雄」は大高旧友で別人です)
また同年には斎藤病院に通ってゐた俳優の田宮二郎が同じ病ひによる自殺を遂げてゐます。「詩人の生涯」といふ題でその生きざまを称へた郭沫若や、モダニズム時代の先輩北園克衛、在阪時代の旧友山崎実治、5年前に伊東静雄について語り合った西垣脩も亡くなってゐます。
「Mortarity」なる長詩を書き普段から「死んだ方がマシ」を皮肉の口癖にしてゐた詩人でしたが、病中これらの訃報はどのやうに作用したものか。極度の死の恐怖に苛まれてゐたことが『瘋癲日記』には記されてゐます。そして、
「もう自分のがまんも力つきた感じ。なにもかもつかれた。(10月3日)」
「もう恥もおどろきもきえてただなさけなくなってくる。(10月4日)」
と、悠紀子夫人が悲痛な叫びを記し、限界を迎へてのことでしょう。田中家かかりつけ医の山住医院と相談して二度目の入院となりました。今度は斎藤病院から満室と断られて自宅近所の塩入病院への入院でしたが、正解だったやうです。
けだし精神科のかかりつけ医だった斎藤病院は、院長茂太も弟の北杜夫も、自ら執筆に忙しい先生であり、著名を慕って来院する患者は多けれど、旅行好きのため休診がちで、保険の利かぬ入院だったといひます。
詩人としては最初の『詩集西康省』をほめてくれた恩人、斎藤茂吉病院の2代目といふことで、殊更親愛を抱いたものですが、患者として特別視はされず、当然ですが付け届け等も迷惑だったかもしれません。
田中克己の人付き合ひに対する思ひ入れが、多分に(好くのも、好かれるのも)一方通行であった、これもまた一例であったやうに、私には見受けられます。
この年の出来事です。
1月 4日 長部日出雄から保田與重郎との交際につき取材受く。以後も来訪あり『週刊文春』に書かれる。
1月22日 稲垣浩邦(※陸軍報道部カメラマン)、長内少尉(※同撮影班長)、北川冬彦と新宿にて会食。(その後3月6日に北川冬彦邸全焼す。)
4月 「躁」はじまる。
4月28日 『近代日本文学辞典』に田中克己の項目あるも、田中冬二と記述に混同あり。
5月10日 お見合斡旋時に冗談を言い顰蹙を買ひ、以後の心労の種となる。
5月14日、5月24日、5月31日 発作起る。
6月 1日 中島栄次郎、増田晃、薬師寺衛と、亡くなった詩友への詩を書く。
6月23日 昭和33より21年間在職の退職手当を計算、教室で「これが最後の講義」と宣言。そのまま「ひかり」に乗り西下し、帰還後の28日、斎藤病院にて入院を命じらる。
7月4日、7月6日 遺言かく。
8月 6日 斎藤病院を退院。
8月 8日 学生対応につき親の代議士より電話でクレーム、以後の心労の種となる。
8月11日 日記をつけること能はず、悠紀子夫人執筆による『瘋癲日記』始まる。
8月20日 老人を見るとしきりに上官だと云って敬礼。代議士へ手紙を書こうとするも能はず。
8月26日 外出後、場所が分からなくなり代々木警察に保護され、27日斎藤茂太院長より外出と電話を禁止さる(病棟は九月まで満員と聞く。)。
9月 4日 財布もたずタクシーで学校にゆき、再びタクシーで帰るもまた家を飛び出す。交番前で暴力をふるひ、家につれ帰される。
9月 5日 同僚、築島謙三氏来訪して諭す。
9月 6日 火の消えた風呂に幾度も入ろうとする。
9月26日 知人・学生の識別を時々混同するやうになる。
10月1日 斎藤病院より診断書「神経症の為3月末日まで加療休養を要す」。提出して3月まで休養。
10月3日 「おしゃべりつづく。もう自分のがまんも力つきた感じ。なにもかもつかれた。(※悠紀子夫人代筆)」
10月4日 斎藤茂太院長に相談するも、隣家を徘徊、トイレと風呂場をいったりきたり「もう恥もおどろきもきえてただなさけなくなってくる。(※悠紀子夫人代筆)」
10月5日 「うるさくて躁やまず。ますますでたらめ多くいつも夜になると死のおそれに目の色変る。(※悠紀子夫人代筆)」
10月8日 「死にそうだ」と山住医院を呼ぶ。相談して翌朝10月9日塩入病院入院。
11月12日 野口武徳氏来訪。「来学年は休講のままにしてくれるよう」提案あるも「学校にすまない」と恥じ入る。
11月17日 塩入病院を退院。
12月24日 日記再開す。
昭和53年 1月 1日〜昭和53年7月4日
25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き
1月1日(日)
8:00起され、ユ風邪とてひとり礼拝にゆき帰りて賀状を見、数百枚をよりわけ返事必要のもの数十枚かく。
あとはほぼ学生と帝塚山成城の卒業生。(※省略)
(大、午すぎ雨の中来り、母あす来る。11日ごろEspañaにゆくと也。)
1月2日
7:00さめ寒く、賀状の返事郵便局に出しにゆき帰りてまた書き、(※省略)。
母来り、つきあひ大切といひて帰る。あと疲れてRugbyの試合を見、何もできず。
夜、西山semiの2人(※の卒論原稿)見る。うすっぺら也。
1月3日
9:00ごろより賀状かき投函にゆき卒業生ほぼすむ。午后弓子夫婦孫、京夫婦と健太郎と来り、
やがて伊勢夫婦来りwhiskyのみ座をつとめらる。19:00みな帰り、(※省略)
1月4日
寒し。弓子また孫つれ来り餅平げゆく。長部日出雄氏来り、保田のこときき『R火10号』もち去る。
稲垣浩邦君(※陸軍報道部カメラマン)より3回電話「22日五反田あたりで(※徴用報道班の)会せん。長内少尉、北川冬彦と我々と」と也。
1月5日
9:00さめ賀状またかき現在生のみをのこす。(※省略) 稲垣君より北川・長内の会は22日17:00より中村屋と。(※省略)
1月6日
晴。賀状と日野忠夫氏『ピエタ』と来る。上田寿蔵博士、中島(※栄次郎)の死を悼み、相良徳三先生「ヂオット」の作ありと見ゆ。礼状かく。
寒く、佐伯へゆき『津田左右吉全集』6万円といふを学校へとたのむ。
夜、アメリカ、アイオワ州Lamoniの大学にゐる白水夫妻に手紙かく。
1月7日
9:30さめ寒し。(※省略) 川久保に電話し「午后ゆく」といふ。ゆけば悲観しをり「元気出せ」といひ、帰りて昼食。
(※省略) けふ『使徒のはたらき(200)岩波文庫』買ふ。新年はじめての本買ひなり。
1月8日(日)
8:00起され風邪気味ゆゑ、ユにもすすめて聖餐式休む。午后船越その子来り、高円寺の医者の家政婦とて旨くゆくと。
1月9日
9:30さむ。寒く手冷くて何も出来ず。図書館に「『津田左右吉全集』ありや」ときけば「なし」といひしあと「2部あり」と訂正さる。
(※省略) あすの予習ほどほどにやり入浴せず。(※省略)
1月10日
9:30さめ成城へ11:00着く(佐伯へ『津田左右吉全集』不要といふ)。
中央公論社に電話(※省略)、観世明夫(※観世暁夫)に『謡曲と元曲』貸す。(※省略)
1月11日
9:00さめ10:15斎藤dr.。待つ間、金沢夫人あらはれ、ついで嬢あらはれ外へゆかんとするを婦長さんら取押さふ。
躁らしく夫人のみ呼ばれviolinもちて見えずなる。
12:00直前(※斎藤茂太)先生に呼ばれ東京新聞の入歯なしで食べる話よみしといへば「私もやらうか」と也。
(※省略) 13:00帰宅すれば弓子2孫つれ来をり。川久保君来り、大いに悲観しをり。わけいはざればわれも問はず。
1月12日
9:00さめ10:30まで炬燵にあたり登校。オランダ語やらんとせしもダメ。semiにて「休み中来よ」といひ、
越部生より本返してもらひ教授会。(※省略) すみて築島博士(※築島謙三)を誘ひて同車、1月生との由とて我より定年早き也。(※省略)
21:00室(※室清)に電話すれば「14日13:00学士会館に集まる」と。
竹内夫人(※竹内好未亡人)に電話すれば「当日阿佐谷駅のplatformで待ってくれ」と。(※省略)
1月13日
8:00前さめて登校。(※省略) 中河与一氏より宋の眞宗の「書中自有顔如玉」につき問合せ。
阿佐谷ホームにゐれば竹内夫人、中村君と来て地下鉄に乗換。
1月14日
9:30さめ、中河与一氏に「書中自有顔如玉」の『聊斎志異』の「書痴」に引かれゐることをかき、11:30出て投函。
(※省略) 学士会館、中野、室、相野、加藤、後藤と2年下の退学処分受けしとで9人となり、17:00すぎまで録音され我殆ど話せず。
それより小川町の鰻屋にゆき20:30鰻食ひ会費9千円払ひ相野と出て(※省略)、帰宅21:30。
(竹内夫人、山本書店に(※蔵書売却)見積させれば主人と番頭と来て200万円といひしと。うそでなきや。)(※省略)
1月15日(日)
晴。7:45さめ夫婦にて礼拝にゆき帰途清水夫人らと東武dept.にて狐うどん食ひ、
阿佐谷につきガード下2階の本屋にゆけば「田中先生」と主人いふ。仕方なく常用漢字、送りがなの参考書買ふ(500)。
稲田哲夫に与へんと也。けふ3、4月の陽気と伊豆激震の報あり。東京にても微震しばしば。
船越苑子来り今の部屋あけて他に移れと横川夫人にいはると、(※省略)、
1月16日
9:00さむ。寒し。母昨日(※大の所属する)青年座見にゆき疲れて電話せず寝しと。
中村治光より(※受勲の)金沢の会の写真。卒論4冊よみて疲る。(※省略)
1月17日
9:30さめ寒きゆゑ卒論を炬燵で片づけPortugal辞典なきに困る。築島博士に厨川教授の逝去伝へれば留守。
苑子来り引越せとの大屋の申出に引き延ばせといふ。(※省略)
1月18日
よべ雪降り朝も止まず。西山(※松之助)semiの副査すまし終日家居。
萩原朔太郎『日本の詩』につき印税の送り場所問ひ来る。(※省略)
1月19日
10:00さめる。散髪2,100。晴。副査すます。(※省略)
1月20日
8:00起され10:00登校。(※省略) 12:00より「日本常民文化」の相談。(※省略)
築島博士と同行、小田急にて喫茶。帰宅すぐユ帰り来り、清瀬の一軒建1,500〜1,600万円と。(※省略)
1月21日
9:00起き10:30石塚・岡林2生来る。(※省略) 14:00野上弘来り、(※省略) 19:30越部卓より電話あり、(※省略)
1月22日(日)
10:00さめ、(※省略) 14:00地下鉄にて新宿(100×2)。16:30より北川冬彦氏、予定の室あけてもらひ、
17:00稲垣君(※稲垣浩邦)来り、17:20長内中尉(山一土地建物顧問)来り、(※戦時中の徴用軍属の会)
ひとまづbeerとice-cream食ひ、他はbeerのむ内19:00近くなり、稲垣君、北川宅に電話すれば「1時間半まて」と。
20:00過ぎ(※北川冬彦)夫妻来り、奥さんは詩人にて北川多紀とて仲町定子ではなかりし也。
21:00となり撮影し、北川夫妻と急行にて同車、中野で乗換へ帰宅22:00。
1月23日
9:30さむ。寒し。ユ、午后大宅の母へ1.5万円もちゆく。cardいやになりし。稲垣君より礼の電話。
1月24日
9:00ごろ覚めわがsemiの早川生の卒論に目を通し、10:30出て登校。午食すまし(※省略)
帰り佐伯によれば「あす迄東急展」と。陳舜臣『敦煌の旅(1,200)』買ひて帰宅。(※省略)
1月25日
7:30起され8:00起き9:00まへゆけば9:30からと。鎌田女史の質問長く17:00となる。
工藤、越部午后すみ、岡林、石塚午前中すむ。
1月26日
8:00起され9:00登校。殆ど発言せず、いつも乍らの誤字訂正。17:00ごろ解放されて帰宅。(※省略)
宮崎康平氏よりzamboa贈りしと。筑摩より竹内の魯迅の帯送り来る。
1月27日
8:00起され登校。12:30面接すみ、優はわがsemi越部のみとし、他は総ぶるまひせしあと (※省略)、
佐伯に寄り請求書のかき直したのみ3冊ほど追加す。
1月28日
9:30さめ11:30出て成城。國分直一氏の話と思ひしに馬渕東一氏にて「東南アジアの神霊」との題にて雑談。
終りてすぐ出、代々木まで乗り東豊書店。大学院と学部の分併せてみな使ふ。(※省略)
東豊にてお茶の水大学長市古君(※市古宙三)に会ふ。老いたり矣。
『慶元条法事類(4,500)』買ひ、川久保と共にと『中山八郎記念論集』とりよせたのむ。帰りて鼻汁出、咳出る。
1月29日(日)
風邪とて礼拝休み、ユゆく。(※省略) 鎌田女史より「考古学の講師云々」。ユ12:30帰り来る。
(※省略) 「改源」にて風邪よくなる。
1月30日
10:00坂内、宮川2生来りし故、くはしく話し、坂内の「華僑」のほか宮川に「民間信仰」とthema変へさせ、16:00帰りゆく。
母来り、大の土産のchocolateもち来る。(※省略) ハイネの改版22来る。8千冊刷りしと也。
1月31日
9:00さめ、採点(中国古典)すませ、午后宮崎女史来る前に船越苑子来りしにきけば高円寺の医院薄給と。
宮崎女史(※宮崎智慧)「クロワッサン」につとめ20万円もらひゐると。(※省略)
『日本詩歌歳時記』の4月22日にわが「花のたより(『南の星』にのす)」のせし校正送り来る。
宮崎康平氏より朱欒2ケ来り、1ケ宮崎女史に進呈。
2月1日
8:00さめ10:00すぎ斎藤先生に参れば閑散。11:00まへ薬少くしてもらひ成城へ11:25つき、
誤字訂正を16:20までやり岡林・石塚が最後となる。2人と地下喫茶にゆき三瓶生のこといへば知りをり。
佐伯へ寄れば『魯迅選集4(2,160)』来をり。寒く東洋史の採点すます。小山正孝より『杜甫詩選(1)』呉る。
2月2日
7:30起され9:20登校。修士4人の面接に12:00までかかり(※省略)、13:00よりの教授会。(※省略)
池田部長辞意表明。そのあと大学院の面談。17:20新宿につき東豊にゆきdoubleれる本をいひ別本と別請求とをいひ、
『中山八郎教授頌寿記念論叢(5,000)』借りて帰宅。20:00三瓶命史来り、登山部と厨川教授を悼む話し、(※省略)。
中河与一氏より礼状と『耽美の夜』2冊贈らる。中山八郎教授の思出話よむ。
2月3日
寒し。中島来り向ひの高野さんの世話にて見合すると也。
15:00石塚来り「経済の学生の社会科実習の落第の件につき口きけ」と。
断りて三倉生16:00来り、report置き飯くひゆく。
2月4日
採点すまし川久保に電話すれば「午后外出」と。
佐伯にゆき『青春抒情詩集(400)』買ひ『ボワソナアド(280)』、『律令制の虚実(390)』買ひ、寒さの中帰り来る。
中島生の見合また失敗らし。
2月5日(日)
7:30さむ。風邪とて礼拝にゆかず。ユ帰り来り、聖餐式にわが605番うたひしと。card作りゐし。(※省略)
2月6日
6:30起され8:10成城着。(※省略 東豊書店にて)『隋唐史論集(1,500)』買ひ18:00帰宅。
けふユ、苑子つれて宮崎智慧さんにゆきしと也。
2月7日
6:30起き登校。3時間監督すます。(※省略) 築島氏とまた小田急13階にゆき、おごられ歯科医教へてもらふ。
中野で下車。武田久吉『農村の年中行事(3,500)』と文庫本『裁判の書(500!)』買ひ、
『シルクロード(1,500)』他の店で買ひ、佐伯にて『文芸春秋1.2月号』買ひて帰宅。
中島しづ江生「大阪の姉のところにゆく」と挨拶に来しと。(※省略)
天理の高橋君より電話あり「(※熱海の別荘の)温泉に入りに来い」と。「東京へ来い」といひしもきかず。
2月8日
6:00さめcardやり、午まへ美紀子暁子つれ来り、柏井歯科すみ3,000円余払ひしと。13:00餅茶漬くひて帰りゆく。暁子愛嬌つきし。
中公事業より電話 (※省略 紀要の)校正きけば「あす渡す云々」。(※省略)
2月9日
8:00さむ。寒しとわれ。cardやる。『文芸春秋1.2月号』よむ。(※省略)
ユに佐伯に忘れし『シルクロードのすべて(1,300)』とりにゆかしむ。木村三千子氏へ俳句。
2月10日
8:00さむ。やや暖しとユ。郵便局へ三倉俊一の成績速達(250)しにゆきての話也。
cardやり運動に高円寺へ歩き『法律雑学のたのしみ(1,000)』西村屋で買ひ、
都丸書店にて『Van Dale's Handwoordenboek der Nederlandse taal
(2,000)』買ひ、老番頭にまた服部(※服部正己)とまちがへらる。(※省略)
2月11日
よべ睡眠感なし。9:00起き、午后ユの人体dessinにゆきしあと佐伯にゆき『北方史入門』、『日本語の変遷』買ひ、
新本屋にて『帰化植物』、『中国人として育った私』、『中国神話伝説集』買ひて帰ればユも帰りをり。
夜、鎌田氏より電話「入試判定会議に出よ」と。「風邪」といひて断る。
2月12日(日)
傘もちて、われ久しぶりに礼拝にゆく。財布忘れ献金1,000をユよりもらふ。帰りてcardやりゐれば、
重久(※重久武志)より「来てよしや」と。来りしと話し、夕食くはさんとすれば逃げゆく(ユ、靴下やる)。
2月13日
6:00さめ8:00ユ起くるをまつ。cardやりユの向ひより借り来し『父萩原朔太郎』よむ。
風邪より急性肺炎となり17年5月11日逝去となり。
長尾夫人より3月19日の良君の7回忌14:15よりとなり「出席」の返事す。
散歩へ佐伯にゆき『山の辺の道(600)』売れ残りしを買ひ、『日本の神々』北口の2軒にて。
『鴎外 闘う家長』、『処刑』など買ひ、なるこ百合(200)2株買ひ来る。けふ久しぶりに日照り也。
2月14日
9:00さむ。寒し。(※省略) 川久保より電話ありし故「暖き日、『柳辺紀略』よみに来い」といふ。
2月15日
寒く小雪ちらつく。9:45斎藤dr.6人目也。先生早大にゆき500枚の答案受取り給ひしと。(※省略)
タバコやにてecho20ケ買へばいつもの如くmatch5箱賜ふ。
新開の喫茶店にてcoffeeのむ(250)。雪やみしも代々木まで国鉄(60)、東豊書店にゆき華僑関係をといへば、
『南洋華僑文物論集(840)』、『新加坡史話(780)』、『越南華僑史話(3,250)』、『華僑問題研究(720)』、『東南亜之華僑2冊(2,160)』、『美国華僑史(3,250)』、『海外排華百年史(800)』、『馬来亜華僑問題資料(1,600)』、『東南亜民族的中国結縁(700)』と多く出し来り、
『中国神話研究(240)』、『中国甲午戦争之外交背景(1,500)』にて5千円払ひ、7千円ほど借りる。(※省略)
2月16日
6:00さめ外出は11:30ハガキ出しにて佐伯にゆき『明治天皇の世紀(400)』買ひて帰る。寒し。
富永牧太氏(※天理図書館時代の上司)喜寿記念会より2通「発起人となれ」と。「諾」の返事す。
母来り「大に邪魔になる故一軒かりたし。伊勢へと勢利の為2ヶ月ゆく」と。「反対」といふ。(※省略)
2月17日
8:00さむ。寒きゆゑ外出せず。ユ、午后大宅へゆき母つれ帰る。
『四季』復刻版半分を誤りてやりしを返してくれと大にいはしむればOKと。
2月18日
8:00さむ。晴。午后散髪にゆく。(※省略) 今中19期生会より以前のトキコ仙石山荘にて4月9日同窓会と。
川久保来り『柳辺紀略』よみ、嬢の不婚をなげく故、皆不幸といひ金沢の話す。
(前回は金沢と同車にて仙石にゆきし也)。今中会甲州行を理由に欠席とかく。
2月19日(日)
8:00さめ母をのこして礼拝にゆく。帰り佐伯に寄りて「何もなし」といひ、
けさ速達入りをり「思想の科学」社より「竹内好のこと3月15日までに400×10かけ」と。「應」とハガキ投函。
14:30田村※※生来り「1時間探した」と紫のcineraria呉る。(※省略)
2月20日
8:00起き10:00の卒業生及落会に出る。(※省略) 17:00近くまっすぐ帰り来る。
けふユ、母をつれて西武の中国故物展見にゆき信濃町によりしと也。(※省略)
2月21日
寒く8:00さめcardやり、『杜甫詩選2』小山君より。『竹内好回想文集』受取る。
京、健太郎つれ、弓子、克次朗・孝行つれ来り、健太郎かわゆし。(※省略)
「竹内文集も1冊ほし」とかく。(※省略)
2月22日
寒きも晴とて地下鉄にて門前仲町へゆき(200)、長谷川歯科探せしも見つからず10:00帰宅。
氏自宅に電話すれば永代2-23-αと。(※省略) ユ『竹内文集』の現金2,500(350送料)送る。1,500は諏訪澄へと也。
母、大宅へゆき、忘れ物せしとて大、久しぶりに我家へ来り、
whiskyのみ、母のこと相談すみ夕食しbeer2杯のみて5月頃阿佐谷北へ転居きまりしといふ。
長部日出雄の名、思出しくれし(棟方志功研究と)。(※省略)
2月23日
(※記載なし。)
2月24日
寒し。よべ睡眠感なく8:00さむ。終日cardやる。ユ母とともに外出。〒なし。
俊子姉より電話「三郎(※義兄)入院。咸子も入院手術、近親として立会へ」と。
2月25日
寒し。ユ、画に。母、大宅へ泊ると出てゆく。みや通信社より茶呉る。cardとり竹内の日記よむ。(※省略)
2月26日(日)
だるく礼拝ユのみゆく。われcardかき昼食後card補充に外出せしのみ。竹内のため昭和18年の日記よむ。(※省略)
2月27日
晴。暖かけれど出ず。山田俊雄氏より『日本語と辞書』贈らる。礼状かき誤植いふ。
船越苑子来る。「法華経の説話を子供風にかく」と。「宮崎女史にみせよ」といふ。
2月28日
晴。8:00さむ。暖し。cardとり川久保に電話し「13:00ゆく」といふ。『柳辺紀略』やり16:00となる。
成城より来年度の時間割来る。みな午后なり。
20:00依子に電話すれば「(※仲人でもある)竹内の一周忌に1万円送りし」と。夕立。
3月1日
眠剤のむを忘れて2:00までねむれず。のみて8:00起き斎藤先生へ地下鉄にてゆき(120)10:30診察すみ、
歩きて東豊書店。7,950の借金払ひ、中山八郎氏来合せしと挨拶して帰宅。(※省略)
大宮信一郎氏より「諏訪に送った」と。午后より寒し。
3月2日
9:00まで眠る。暖きらしきも外出せずcard作る。諏訪の1万円現金封筒にて来り、
「泰、試験前高熱出せしも通りし」と也。
3月3日
8:00さむ。cardやり14:00竹内家へとゆく。(※省略)
御花料そなへ竹内夫人の、令姉、杉君などに挨拶しゐる中、ぼつぼつ弔客来りし故出て(※省略)、
母「留守に物もち来し」と笠原文恵生の署名見す。苺なりし。
夜、電話かかり「(※省略)10月名古屋で挙式、出るや」と。「夫婦して出る」といへば「夏、母と片付ける時来る」と也。(※省略)
3月4日
7:30さむ。9:30登校。(※省略) 午前中に修士(※面接)すまし最後は白鳥君の坊やにて(※省略)、庫吉、清、芳郎の4代目にて父祖のかきしものよまずと。
(※省略)午后は博士課程3人の中2人を及第とせしあと(※省略)。
(14:00長部氏来りしといふにちょっとぬけてゆけば『週刊文春』に棟方志功かき、保田、太宰、亀井などのことのせしを呉る。)
大学院会議にて及落判定すむ。(※省略)
帰れば母、大のもとへゆき4D代表より23日謝恩会の案内来をり。
丸重俊より「(※正職員)きまりし」と電話ありしと。めでたし。(※省略)
3月5日(日)
母、昨夜帰らず。8:00さめ教会へゆく。聖餐式あり。(※省略)
ユと別れ『華僑経済史(750)』買ひ、佐伯へ寄れば坊や『魯迅文集6(2,160)』渡す。
3月3日にまにあはせしと也。井上靖『風濤(300)』も買ひて帰宅。card作る。
母、帰らず。弓子、孝行つれて来る。あとは皆かぜと也。
3月6日
8:00さめ朝刊に北川冬彦邸全焼(日曜午)と見しところへ稲垣浩邦君より電話。
様子見にゆくことを引受け13:00ユをゆかしめ、
我も出て佐伯に寄りしのち地下鉄にて中野へ(※省略)長谷川歯科。
(※省略) 残りし歯根と2本抜かれ40分ほどかかりし。
保険ぬきにして永久的なものをといへどもききたまはず「明日10:30来よ」と初診料800とりたまひしのみ。
築島博士すぐすみ、喫茶さそひ、地下鉄にて別れ中野まで切符買ひ(140)、
十月書房にゆき『樹下美人(350)』買ひて帰宅。
ユ直前帰り、(※省略 北川冬彦)次男の家へ移りしと掲示(※省略)と。稲垣に電話せしむ。
丸三郎より電話「重俊ありがたう」とならん。
3月7日
8:00起き10:30まへ長谷川歯科。10:30呼ばれ洗はる。「うがいしろ」と也。
飯田橋まで地下鉄、国鉄、小田急と乗りつぎて成城大へ11:40着き、(※省略)
澄より電話「Mexicoより姉妹都市として物貰ふ。それにつき天理図書館へゆく云々」。
3月8日
7:00ユより早く起きcard作り10:00すぎ川久保に電話すれば来り『柳辺紀略』よむ。
12:00すみ(※省略)、京、健太郎をつれ来る。(※省略)
丸三郎に電話し、泪声にて重俊の本職傭ひなりし礼を云はれし。
原生来り、井上靖の『楊貴妃伝(200)』買ひてよめ、新旧両唐書、資治通鑑など写せといふ。
(※省略) 中山八郎氏の会、原田運治らの会、ことわる。
3月9日
7:00さめ9:00すぎ出て10:00成城大。(※省略)3時間目体育の女先生にまかせて1時間半すませ、築島博士、「骨」の先生と同車。
佐伯にて『高松塚壁画古墳(650)』買って帰宅。(※省略)
3月10日
3:00ごろさめ6:30起き成城へ8:00すぎ着き、(※省略)
帰り築島博士よりききし『日本人とドイツ人』をよみて帰宅。(※省略)
3月11日
8:30さめcard作り10:30出て11:30成城着。
(※省略)『常民文化紀要4』出来しを知る。74pにて52万円なり。
(※省略)すみて築島博士と同車、新宿にて別れ小田急dept.にてcard200枚(280×2)買ひて帰宅。
『続魯迅雑記』贈らる。(※省略)
3月12日(日)
8:00さめしも歯なく、礼拝やすみユに献金托す。母、大の家掃除にと出てゆく。
cardやり、長部氏より「あす14:00来る」と電話。ユ12:30帰り来り、
rugby日豪戦見、volley-ball日本一見たりして午后すまし『唐話辞書類集2』やっとすむ。
3月13日
8:00すぎ覚む。寒し。追試東洋史4人来る。(※省略)
14:30長部氏来る。(※省略) 16:40保田のことを主に話きいて帰りゆく。
竹内関係の日記かきぬき。昭和20年3月まで。
3月14日
6:40さめ7:30起き9:00前地下鉄にて門前仲町の長谷川歯科。(※省略)
13:00阿佐谷。佐伯へゆけば西山博士監修の叢書来てをり2,200✕0.9払ふ。
あと竹内のため引き続き日記よむこととし昭和23年の桜井より京へ転居。Heineの角川文庫に入ることとなり、京出産の2.29まで物価とsalaryとを書きあり。
「思想の科学」に電話すれば吉田貞子氏「土曜に(※追悼原稿)とりに来る」と。
3月15日
8:00さめ9:00出て9:40斎藤dr.。。11:00まへ御診察、総入歯となりしこといふ。
東豊へ電話して歩き教科書とり(『新華字典(450)』、『婚俗志(220)』、『孫中山先生伝(220)』払ひラーメン食ひ(140)払ふ)、
『國父孫中山先生伝(1,920)』、『古代漢語上下(1,600)』、『中国史稿1(500)』、『中華民国創立史(500)』、『中国地図冊(600)』借りる(計5,100)。
成城大学ジャーナリストクラブより礼状。日記(※読み返し)彦根時代なり(昭和25年)。
船越苑子来り、湊に地面、政一郎叔父売りしを登記いまだ云々との手紙見す。
ユともども感心し対策いかがすべきやききやらんといふ。
3月16日
8:00さめ成城へ休むの電話かく。鎌田女史より「主任教授野口君と決まりし。4月9,10の新入生歓迎partyわが番」と。「9日にせん」といふ。
(※省略) 昭和26年までの日記にて疲れる。(※省略)
3月17日
8:00さめ9:40ユ、母をつれて林へゆく。われ留守して日記よみ昭和29年ごろまで竹内関係のnoteとり、とてもダメとわかる。
ユ15:00帰り来る。(11:00吉祥寺の古屋女史来り、則天武后の図のりし郭沫若もちゆく。(※省略))
17:00林敏夫、母つれ来り、すぐ帰る。(※省略) けふユリイカより2,200稿料として小切手来る。
3月18日
暖し。越部卓、自作の版画もち来る。
思想の科学社吉田女史14:00駅より電話かけ来る。中野清見もかきし由。
21×200わたし取捨随意、題名もそちらにてと虎屋椿山にて汁粉食はせていひ、
長尾良のため散髪す。そのあと疲れをり。夕食後その旨いひてあすの七周忌欠席を(※長尾夫人に)電話せしむ。これにてすみcardやる。(※省略)
3月19日(日)
8:00起き傘もちて礼拝にゆく。棕櫚の週日なり。
東武にてわれはキツネ食ひ、上野の展覧会見にゆくユと別れ、
佐伯にて『Nomina anatomica (200)』買ひて帰宅。cardやる。
3月20日
家居。cardやりしのみ。明日、母芝増上寺へゆくとの事に、ユと上川霊園へ美紀子らを誘ふつもりなりしも復活祭の日に延ばす。
姉来り「三郎兄(※病状)よくなし」といふ。
3月21日
9:00さむ。母、増上寺へゆき京、健太郎つれ来る。いよいよ可愛くなれり。
15:00岡林正子、石塚真弓生つれ来る。(※省略)雨ひどくなりて帰りゆく。17:00過ぎ也。
3月22日
9:00さむ。card殆どせず。ユをして富永牧太氏喜寿祝(5,000)を送らしむ。
3月23日
7:45起き9:20成城着。(※省略) 卒業式Gaudeamus(日語)にて始まり乾杯の唄にて退席。
(※省略) われ成績を渡してすみ全員出席。工藤の父に挨拶受け登山に熱心にて就職の気なきを云ふ。
岡林・石塚と英文の女生、写真部の男生と喫茶。(※省略) 泰より「自転車買ふ」と礼状。
3月24日
寒さゆるむ。家居。card作りなり。(※省略)
3月25日
7:00さむ。(※省略) 川久保に電話すれば「羽田に会った」と。「午后『柳辺紀略』でゆく」といふ。
(※省略) 14:00ユ帰りしに史料多くもちて川久保にゆき16:00までやりて帰れば弓子の孫ら来ざりしと。あす上川霊園行もだめらし。
母、大に「いまさらうろちょろするな」といはれ喜びてゆきしと。
(※省略) 丸重俊来り「校長恩地氏」と。孝四郎画伯の息なり。
3月26日(日)
復活祭。ユと行きpartyの当番といふに別れて長島氏と出、東急前で別れ狐うどん(230)一人で食ひ、
古本屋見て八日市街道をへて西荻窪に出、文庫本買へばdoubleりをり。(※省略)
3月27日
9:00さむ。午、母来り、伊勢を引上げ大宅にて死ぬつもり也。
12:40出て民俗学研究所へゆく。主事に鎌田の代りに池辺なり、紀要の送り先、博士課程にただでやる、その他長々とやり16:00散会。
山田新文芸部長、わが『唐話辞書』申請の気あり。(曽良の『従行日記』重文となる)。
3月28日
9:30さめる。雨なり。午、弓子3孫つれ来り、悲観的なりと。
cardやり疲れしのみ。(※省略)
3月29日
8:00起され眠し。仕度して斎藤dr.。(※省略) echoいつもの所にて20箱買ひ、
代々木まで歩き東豊書店。八王子の先生とラーメン食ひ話し帰宅14:00。
『120回本水滸伝』と『封神演義』とにて2,500借る。長尾夫人より挨拶。
3月30日
7:30起く。11:00佐伯へゆき『藍洲公案(650)』、『東亜外交秘録(300)』買ふ。
「成城より金来し」と。
大と遭ひ、その内本とりに来てくれと佐伯にいひし。家まで来り母つれて下阪すと。(※省略)
3月31日
8:30さむ。寒し。終日家居。cardやる。(※省略)
角川よりHeine22版の印税8,000部(145,944-14,594)三井銀行に入れしと。
『日本詩歌歳時記』に収録の分1,035-104の送金ありし。
4月1日
card作り「はま」氏より「13:00ごろ伺ふ」と。駅南口にてまちたまへといふ。
(※省略) 東豊書店にて会ひし大東文化大卒の高校教師なること思出す。つれ帰り、
(※省略) 抜刷など渡してすみし。(※省略)
4月2日(日)
8:00起され礼拝にゆく。聖餐式なく284番うたはさる。礼拝欠席を久しぶりに竹森先生戒めらる。
佐伯に寄り『世界樹木辞彙(4,800✕0.9)』来てをり。帰りてcardかきをれば船越苑子来り、(※省略)
丸夫妻来て玄関に坐りこみ、煦美子の自動車で来り大通りにまちゐると。
丸夫人と探しにゆき例の入れ込みに置かせ父子3人にて話きく。
30分して帰るといふに通りまで送れば雨降り来る。(※省略)
成田飛行場、田中収賄など不快なること多し。
20:00ケ健吾氏の「敦煌実見」3channelにてやり中島健蔵陪席す。
4月3日
雨。10:30出て登校。(※省略) 山田部長司会にて2年の進級会議すみ(※省略)
寒がりつつ帰宅。(※省略) 稲垣浩邦君より電話ありしとてかけて土曜井の頭線吉祥寺出口にて会ふこととす(13:00)。北川冬彦氏火事見舞と也。
4月4日
9:00さむ。ユ三鷹の京の家へ子守にゆき16:00帰宅。(※省略)
長部氏より『週刊文春』来しゆゑ「棟方旧宅へ6日か7日案内す」といひ7日稲垣君と約束ありしを思出す。
4月5日
7:00さむ。(※省略) 16:00来りし工藤生に「経済学部の学士入学決定は18日の教授会にて」ときき、(※省略)帰りゆきしあと佐伯へゆけば
『堀辰雄全集5(4,800)』、『古典草木(4,800)』、『本草辞典(4,500)』を受取る。(※省略)
4月6日
8:00起され9:00哲夫来り9:30運送屋来るを待ち京の澳きしものをもち出す。
ユ三鷹へゆく。我、佐伯へ昨日の借り払ひにゆき星川清孝『楚辞入門(300)』買ひ来る。
母と留守しをれば雨ひどし。母86才の誕生日にて大と赤飯食ふと也。(※省略)
(富永館長の祝、東京でもすると中村幸彦が世話方代表とて黙殺することとす。)
長部氏より野方の棟方志功宅へ「明日いかに」と。明日は13:00出るとて「10日また電話」となる。
古屋女史より『則天武后』返却に明日朝来ると電話。
4月7日
8:00起き晴れをるを見る。古屋女史『則天武后』5月中に出来ると礼にwine1本もち来る。
11:30午飯食ひ12:35吉祥寺へゆけば長内氏すでにをり。稲垣君も来りし故、
café長内氏におごられ見舞5千円づつとcastella4,000とせんとなり、
国立下車14:00ごろ。田畔家みつけbell押ししも応答なく、
困りし所へ次男の夫人といふ美人帰り来り「冬彦はプレハブ建てて旧地に住みをり」と。
ゆく途教へんとし、ふと気がつき電話かけてくれれば不在らし。
お見舞わたしてわが家へ招待、18:30まで歓待す。(※省略)
4月8日
7:00さむ。cardやりユ画にゆきしあと川久保きたり『柳辺紀略』よむ。(※省略)
川久保に教はり『荊楚歳時記(東洋文庫1,100)』買ひ来る。(※省略)
4月9日(日)
6:00さめ8:00成城大学。日曜とて講師室あかず。30分まちてbus来り、ケ教授と同席。いろいろ話し『唐話辞書』のこといふ。
途中一回休憩。12:00山中湖畔の忍野富士急Hotelにつき201号室に入り(※省略)
15:30文芸学部の説明を行ふ。16:00より履修の相談。夕食時わが前につきし芸術学科のL1A新仏智子偶然!
わが詩「偶得」を話し、作者は我とあかし、書きしに向ふの方、正確なり。東洋史とれよといへばダメらし。
すみてアメ民の咄あり。わが最もきらひなるに全員傾聴アンコールせし。
後別懇談会にゆき船越君の紹介にてLorelai歌ふ。21:00教職員の懇談会。(※省略)
22:00近くなりて散会。(※省略)
4月10日
7:30食堂にゆきオートミール、toast紅茶注文。多くゐる不審なる人々に話しかければHawaiiよりの2世3世にて富士の晴れゐるを喜び我を入れて写真とり呉る。
(※省略) 9:00taxi呼びて富士Hotelに引返し川上氏の広告論をきく。(※省略)
10:00出発、2台目ケ君とのり5合目までゆき寒し。(※省略)16:00成城帰着。
成城堂にて『韓国の歴史(3,800)』、『日本大空襲2冊(380+280)』借りて17:00帰宅。
ユ、母を東京駅まで送りしと。まもなく「伊勢に着きし」と電話あり。
佐伯に寄り『辛亥革命見聞記(800)』、『海外旅行マナータブー集(300)』買ひ学校へと5万円ほど注文して帰宅。(※省略)
4月11日
よべ22:00眠り6:00さめ7:30出て斎藤dr.にゆけば患者多くをり(※省略)。
東豊書店3〜4日前に教科書運びしと。3月29日の借り返さず『Mathews' Chinese–English Dictionary
(2,100)』、『清史論叢3冊(18,900)』、『孤本元明雑劇10冊(15,000)』他2冊1,900買ひ借金4万円を超す。
佐伯に寄り『東アジアの古代文化(950)』受取り、この間の注文これもすでに運びしと。(※省略)
ふと思付きてケ健吾氏に電話すれば15:00すぎ来り『唐話辞書』のこと承知と。
『敦煌への道』賜ひwhiskyのみ、ユの出せし寿司とハモの皮食ひ、20:00送りかたがた阿佐谷の古本屋廻り佐伯と北側とにて2万円位買ひて帰りゆく。
矢沢君より「成城に口なきや」といふに「なし。東海大学あたりはいかに」といひてすむ。
4月12日
22:00就床6:00さめる。雨降りをり。正午弓子2児つれ来り、(※省略)
16:00散歩に出しも古本屋みな休み。朝鮮学校へ『韓国語の歴史』寄付にゆき「타나카(※たなか)」と書けば驚かれ電話番号きかる。
そのあと河北病院の前の本屋の夫人と話し娘の学部進学をきき『茂吉と医学(2,500)』あす午前中とりに来るといふ。
4月13日
7:30さめ睡眠不足とりかへす。8:00吉田正治君に電話すれば、柳瀬君の間違とわかり
「Mathewの華英辞典はもちをり」と。何の為に使ふやと問へば「神名」と「Wernerの辞典あり」と教ふ。
エフ書店へ10:20ゆけば未だ開かず(※省略) 帰りて辻副手より「大山学長夫人逝去。今夜自宅にてお通夜、あす14:00より密葬」と。
(※省略) 10:30よりのtelevi見て(エフ書店へ電話す)12:00すぎ『茂吉と医学』取り来る。
card少しやらんとせしに小雨の中、ユ出がけ北川冬彦の礼状わたす。
「長内、稲垣両君のところしらず。よろしく」とのことに長内邸に電話すれば夫人出て本日は帰り遅く(※省略) 稲垣君に電話すれば「けふ午前中来る」と。(※省略) 躁なり。(※省略)
尖閣列島にて日中間に問題起る。(※省略)
4月14日
また早くさめユと本棚作り、ねてゐし本、半分すむ(佐伯来り、本もちゆく)。
10:30稲垣君来り、夫人の姪の吊書もち来る。12:00まへうどん食ひ、
残りの本もちて佐伯に寄らんとせしに北川冬彦へのハガキ忘れしとて稲垣君とりにゆき、来る間に渋谷までの切符買ふ。(※省略)
ハチ公前へゆきアメリカ美人と話す。稲垣君は怪しげなる老人に捕まり話しゐる内、築島博士来り、
早しとて喫茶店へゆき紹介し、パーシヴァル・山下のyesかnoかの実況を稲垣君話す。
神風の関大尉出発の状況を稲垣君話す。次いで二子玉川行のbusに乗り稲垣君廻り道し、
(※故・大山学長夫人の)焼香すまして出棺まで待たんとする築島氏を止め、ともに中野まで同車。
佐伯に寄れば皆で5,000と『最後の楽園・伝説の旅』、『海外へ流出した秘宝』にて2,200払へば『老子王弼注』賜ふ。(※省略)
中共、尖閣列島周辺に漁船を集め領有権を主張す。
4月15日
7:30さむ。ユ銀行にゆき我散髪し、佐伯に残りもちゆけば500円と。(※省略)
12:00昼食して浜松町の竜園(※留園)にゆき盛毓度氏の秘書といふが出て「病気」と。
帝塚山学院の同窓会場にゆき南大人受付にゐるをたしかめ、来賓席につかんとし、(※省略)
何も食はず会費5,000わたして出んとすれば出口まで河野追ひ来る。
神保町行の地下鉄にのり山本書店にて竹内の本のこといへば番頭、見積りせしと。
礼いひて10万円近く注文し、Sanscritの本屋見しあと山口(※書店)へゆく途、3万円程注文し、
山口へゆき茶おごり110円残りしをもちて帰宅。(※省略)
4月16日(日)
2:00起き薬のみ直し5:30覚め、礼拝休むときめしあと仮睡しをれば、
けふ13:00墓地へともにゆく筈なりし美紀子にユ、すでに中止を電話せしと。電話かけ直し「9:30阿佐谷駅ホームへ来よ」といひ、
『あしながおじさん2冊(100)』と『3年生マンガ(100)』買ひてゆけば9:40来る。
『3年生』は雅子にやり売店にて買ひし漫画(150)を淳一にやり、(※省略)
(※上川霊園)墓前にて「めでにしものとやがて会ひなん」歌ひ、待合所で500の幕の内4つ分けて食ひ、(※省略)
15:00ごろ阿佐谷帰着。(※省略) 21:00睡眠不足とり返さんと眠る。
4月17日
6:00さむ。ユ歯にて柏井へゆく。河野夫人3,000円の会費返しと竜園(※留園)の菓子ともち来り、(※省略)
『浪速双書1-6』2部来しゆゑ名著出版に電話し川井氏にきけば「400部刷りしも160部しか売れず」と。(※省略)
河野夫人送りかたがた定期買はんとせば、(※省略) 昼ねできず、夜、船越姉妹呼び色々話せば喜ぶ。(※省略)
4月18日
よべ2:00さめ4:00さめ6:00朝食とり1時間午ね。10:30出て雨傘もちて登校。(※省略)
来客まつといふに講師室にゆけば長部君まちをり(※省略)、大雨の中、棟方志功の旧宅つひに見付く。
蓮尾邦弘氏とて星教育(※性教育?)相談室を開きをり。昭和9年生と。77才の母堂も出て長部君の質問に答へ茶菓饗さる。
失礼詫びて2人して出、早稲田通りに出て別れ、エフ書店『文藝春秋5月号(450)』買ひて帰宅。(※省略)
4月19日
8:00さめ山住正己氏に電話すれば「今起きたところ」との返事にて8:30お越し「成城芸術科に坊や受けさす。
われに家庭指導ささん」とのこととなりし様子にユのpermaにゆきし間に山住閣下(※父・山住克己)に会ひ「御了解をといへば」まあまあとのこと也。
(※省略)瀧川政次郎博士に電話すれば「来てよし」と。(※省略) 道尋ね尋ねしてゆけば(※省略)
やっと入れてもらひ色々話せば御元気にて「山住は一中にて一番なりしもある時は我が一番」と。
「高橋喬四郎は赤なりし故、ソ連軍来りし時喜びしもcholeraにて死に、稲葉博士と我とにて葬りし」とのことに「旧名城の発見」いへば然りとカンベンし賜ふ。
(※省略) 通り途の古本屋にゆきまた駄本4冊買ひ(2,000)帰りて、(※省略)。
4月20日
6:00まへさめ8:30ユの出てゆきしあと一寸ね。9:30目覚ましの鳴るまで眠り登校11:00。(※省略)
14:10より教授会。大山学長「学園長になりし」と。(※省略)
すみて2年生(新)3人の喫茶するを見て入りゆき冷たきcaféとteaとおごりて帰宅。
『出島蘭館日誌3冊(45,000)』来をり、もち帰る。(※省略)
山住dr.(※阿佐谷のかかりつけ医)、坊やつれて土日の何れかの夜、来ると也。
4月21日
3:00さめ、また1服のみ6:30覚む。ユを斎藤dr.にゆかし10:30出て11:30着く。
3時限3人出席 (※省略) (※給料支給額)少しも増へず。
築島氏さそひ(※田中正俊氏と)3人にて小田急dept.13階にゆき、教育大の攻勢説明し、(※省略)
4月22日
7:30さむ。坪井明に「浪速叢書」のことたのみ、
佐伯にゆき『内海水路誌(500)』買ひ『文芸春秋5月号』と『徳川3百藩血族総覧』とかへことし「月曜に本もちゆく」ときく。
(※省略) 山本書店の本みな我が買ふこととし、(※省略) 新本屋へゆき『帰化植物(430)』など買ひ、
帰りて内田博士の華僑問題の電話ききしうさ晴る。
松本善海の命日なるを思出し電話すれば嬢「母は出勤、あす一家にて参りにゆく」と。
川久保さそへどもきかず。遊び相手なし。
4月23日(日)
5:00さめ7:00ユ起く。(※省略)9:45教会につき(※省略)、帰宅。(※省略)
電話13:00かかり「田村、高橋2生阿佐谷にあり」と。14:00来る筈なりし也。「まあ来よ」といひ、
ユ帰るまでまづ田村生の父、田中派とのことに「角栄の国を誤りしことを知るや」といへば泣き出す。
伊藤は叱りしも平気なり。2生に本貸しブラ下ること承知せしめしは17:00なり。(※省略)
4月24日
8:00さめ9:30山住閣下にちょっといひ、瀧川博士のこと伝ふ。
東豊に電話し「ラーメン食ひにゆく」といひてゆき1万円もちてゆき、2,510+4,000払ひ、
『甲午戦争(1,500)』買ひて帰ればdoubleとわかる。(※省略) 川久保来るをまてば来りて、
「昨夜意識不明となり医師呼びし云々」。過労いましめ帰りしあと丸重俊に「夜、来れ」といひ、
16:00ごろ来りし宮川、坂内2生戒め、うどん食はせ帰りぎは丸重俊来り「高血圧」と「父とは家中話さず」といふに戒む。
「新校長は55才にて恩地氏とて恩地(※孝四郎)画伯の息子にてやはり画かく」と。(※省略)
北川冬彦氏より挨拶のprint来り、(※省略) 末吉栄三(※戦前の教へ子)に「浪速叢書」のことかき疲る。
4月25日
5:00前覚む。宮本正都君へ近況。9:30出て佐伯へ本売れば800にて買ひくれし故、
『漢書・後漢書・三国志列伝選(1,000)』と『文芸春秋と天皇(500)』とユに500の本買ひ帰宅。
ユの昨日買ひくれし本棚立て本積める。(※省略) 国・私鉄総ストとて登校せず。(※省略)
午后また出て600円もち高円寺まで歩き都丸書店でひまつぶし『世界の美女(400)』買ひ来る。
けふ9月発行の『堀辰雄全集』に我が「書翰4通のせてよきや」と問いひ来る。「よし」と答へ間違ひ訂正す。
4月26日
5:00さむ。国鉄ストつづき私鉄スト止みしも登校せず。
11:00川久保夫人来り「中央大(八王子)へゆきし」と。この間「高血圧による血行障害」と。「自重させろ」といへば「生活苦しく云々」。
午后小憩、16:00荻窪の古本屋見にゆきしに岩森のよき方の店とりこはし中。『日本の民間宗教(400)』、『キリストにならひて(200)』
買ひて、
帰り途、加藤俊彦氏を訪へば夫人「散歩に出し。恵姉も外出」と。少し待ちて出、
夜、堀夫人より「恩地母上の葬儀にゆきし」と。「美保子氏未婚、令弟明星学園高校長承知」と。
我れ「堀辰雄全集への書翰掲載承知」といひてすむ。(※省略)
4月27日
5:30さめ国鉄スト止みしときく。10:30出てsemiにゆけば(※省略)、14:10大学院会にて新任歓迎会云々、紀要200枚とし、(※省略)
南新宿下車。東豊にゆきdouble本返却、1,500もらひし故『先清法律思想與自然法(220)』、『中国近代史参考資料(1,200)』買ひ、
姪さそひ喫茶(500)、中国語の和訳を訂正してやる。大塚に住むと也。
4月28日
7:30さめ10:00出て登校。『近代日本文学辞典』(※自分の項目)見れば「本名吉之助」とあり(※田中冬二と混同)。
台湾関係の本調べ昼食食ひ12:30ゆきて無人の室にをり重久相手に講義すます。
(ゆきがけ鎌田女史に会ひしに紀要に「西山先生にはかなはないけれど努力する」ときく。哀れ也)。(※省略)
築島博士より電話「共に帰らん」と也。西山の悪人なるを云ひ、大学院の会をここにて開くこととなる。
高円寺で下車。『■俗辞典(12,500)』買ひて帰宅。
4月29日(休日)
6:30さめ9:30佐伯に寄り「けふ中野の文化centerの古本市にゆく」といひ斎藤dr.にゆけば満員。(※省略)
centerにゆけば満員にて良き本もなし。例の古本屋にゆき東洋文庫『熱河日記1.2』『アイヌの民俗』にて3,500払ひて帰宅。
battera(300)買ひ来って13:30昼食とし、午ねす。(※省略)
19:00山住dr.(※息子の)正夫君つれ来る(※家庭教師)。今年度2次の国語の問題わたし「1時間半にてやってみよ」といふ。
4月30日(日)
6:30さめ、雨の中、佐伯にゆき何も買ふものなしといひて北口(※の古本屋)にゆけば休み。帰りて午ねし、
14:30稲垣浩夫妻のつれ来し黒川ルミ子嬢を見分す。16:30帰りゆくまで物云はず。和田夫人方々に我が立腹!をいひふらすらし。
川久保に容態きけば、この間中央大(八王子)へゆけば休みなりしと。むりするな老人性鬱病といへどきかず土曜『柳辺紀略』やるとなり。
5月1日
9:20さめ朝の散歩にゆけば雨降り出し『中国の旅(870)』買ひて帰宅。午ねし16:00高円寺の古本屋見にゆきしも何もなし。
夜、田村春雄に電話すれば「癒った。来月学会にゆき逢ふ」と也。(※省略)
5月2日
7:30さむ。10:30家を出て登校。3時限東洋史、4時限中国古典ともに出席少なし。まっすぐ家に帰り無為。
5月3日
7:30さむ。斎藤先生へ10:00前つき鬱病多きに気づく。順番早めによばれしも、(※省略)
『中国とつきあう法 桑原武夫等(880)』買ひて帰り、13:00帰宅。佐伯で『日本の中の朝鮮文化(2,000)』買ふ。
5月4日
2:30まで眠れず7:30さむ。11:00登校。13:00よりのsemi教室、隣室の講義つつぬけにて教務にいひにゆきかへてもらふ。
教授会。(※省略) よべの睡眠不足にてまっすぐ帰宅。(※省略)
宝文館より『安西冬衛全集2』の推薦文(『四季』より転写)の印税5,000送り来る。
5月5日
5:30さめ7:30起く。9:20出て西国分寺にて10:17に乗りかへ新松戸行の国鉄に乗りかへ東所沢にて下車。
京の地図まちがひをり11:00すぎ所沢市松郷の新居探しあてしに健太郎(※孫)不機嫌。哲夫休みをり、
11:40ごろ持参のsandwich食ひ、遊びに来し男の子と女の子とにて健太郎の機嫌よくなりしも
13:30出て14:07発の下りにて西国分寺につき15:30帰宅。佐伯にて『日清日露戦争(600)』
5月6日
7:00さむ。寒く外出せず茫然たり。(※省略) 京より電話「きのふ無事に帰りしや」と。
5月7日(日)
よべ23:00ごろ寝に入り4:30覚む。東洋史の広き教室に学生どもうしろにかたまれるを怒りし夢を見て也。
炬燵に入りちょっと寝し由なれど覚えず。8:00出て斎藤dr.。「厚生大臣賞を10日受け賜ふにつき休診」と掲示あり。
4人目に入れば見覚えなきdr.にて「5月はいつも鬱」といひ薬10日分賜ふ。
午后、船越苑子来り「校正学校に一週2回通学、但し就職は保証されず」と。
5月8日
23:00薬のみ9:00さむ。一日ねむく、大来りし、(※省略) 北口歩きしあと別る(「母10日帰京」と。)。
夜、東豊簡氏より電話、3冊買いひに来しと。
5月9日
9:00さめ中国古典の予習をし11:00青木大乗展にゆくユとともに出て登校。(※省略)
『民俗学研究所紀要1』出来あり2冊もらふ。急ぎ書きし為説明不十分なり。(※省略)
(西川より電話「益子輝夫氏逝去」とありしと。)
5月10日
曇。15:10の母迎へにユ出しあと稲垣浩邦君あらはれ「姪の写真返せ」と。
わけきけばUrclaya(※不詳)のIslamの第何夫人になる気なきやとわが笑談いひしを娘怒り泣きゐると。
わびてユの帰りまち写真返す。京母子、母同時に来りやがて大、母をつれゆく。悪き笑談いふに懲りたり。
5月11日
雨9:00さむ。ユ教会の当番にてゆく。健太郎まだをり。semi3年3人(※省略) 成城堂に払ひすまして帰り来る。
夜、名著出版川井純夫氏に「14万で」とかき、我も払ふといふ。(※省略)
5月12日
9:00さむ。東洋文化史の下調べしnote忘れて登校。大学院重久と杉山博文の2人相手に1時間やり、
文化史のnoteこさへしに講義の時みつからず散々なり。(※省略)
『思想の科学』に竹内好研究と思ひ出とに分け、わが文、中野清見の次にのる。(※省略)
「稲垣問題」にて憂鬱のかず。
5月13日
夫婦ともさむれば10:00近し。『思想の科学』を(※諏訪)澄に送るため袋買ひにゆき、包みてのちまた駅前の局へ出、cutして茫然としをり。
13:00高橋重臣君来りしゆゑ、富永氏の会にゆけぬこといひ、井上正蔵氏は東独派ときく。
大浜イズヒコ君の死にしことを再びききたる如く、物忘れ多きをいふ。
「15:00より渋谷で会ふ人あり」と出てゆきしあと、また茫然たり。(※省略)
5月14日(日)
晴。8:00起され礼拝にゆく。新長老の就任式あり。
すみて佐伯に寄り「春本もういらず」といひ、画展にユのゆく前に散髪。(※省略)
(和田夫人より「子息来たし云々」に「止めてくれ」と叫んで電話切る。)
5月15日
鬱まだつづきしに稲垣浩邦君より「吊書返せ」の電話あり。
15:00宮川、坂内の2生来り、宮川は「シンガポールの華僑」、坂内は「関帝の信仰」ときめて、
帰らんとするところへ、古屋嫗あらはれ『則天武后』の新刊おき、ユにわが経歴話さし、帰りゆく。
『富永牧太先生論文集』来る。
5月16日
7:30さめ11:00ごろ登学。午飯のpão半分食ひて鄭先生を呼びとめ只1冊もてるドイツ語のTarfanなどを記せる本贈り、(※省略)
疲れて早くやめ帰宅の途、老女のゆくを見、追へば果たしてユなりし。(※省略)
歯をはめて夕食せしも苦悩して中途で止む。(※省略)
5月17日
7:00さめ8:30斎藤dr.にゆけば「来月初めまで茂太先生休診」、薬は前のまま10日分くれる。
帰宅し(※省略)、13:00清水和子の絵を見に行く。ものいへずユ画作の苦心話し、ヒマハリの種子送ってもらふこととなる。
(※省略)集英社の古山登氏より『白楽天』6版1,000部(2,700円と)6.30出版、印税は7.25支払と。
川久保来り「元気回復した。来週よりまた本よまんか」と。上がらず帰りゆき助かる。(※省略)
5月18日
よべ21:00すぎねて5:00さむ。ユ9:30出てゆきしあと10:00出て登学。(※省略) 教授会、学長候補選に(※省略)
雨にずぶぬれとなりて帰宅。
5月19日
8:30さめ10:00出て(※省略)、築島博士と16:00まちあはせして(※省略)、
ice-creamのみ築島博士が支払ひしを「この次は」にてすみ、帰宅。夜、澄より電話「追悼文集よくできをり」と。
トボ(※孫)はといへば泰出て来て「ハイ、ハイ」といふのみ。(※省略)
テレビで「岩淵悦太郎氏(72才)死」と。昭和13年大阪高校教授、杉浦宅で会ひしことあり。
5月20日
7:30さむ。ユsandwichおき10:00出てゆく(立教同窓会)。(※省略) 12:00パン食ってゆっくりゆけば既に6〜7人をり。
野口君ら来りて会議16:00まで。帰りに抜刷10部また貰ひ困る。17:00帰宅。(※省略)
5月21日(日)
夫婦にて礼拝にゆく。(※省略)
帰り佐伯に寄り田中正俊氏編の『中国近代史』われ払ふも学校買ひにといふ。『王安石論』と鴎外買って帰宅。
15:00ごろ寿一より電話「ゆきてもよきか」と。「来よ」といへば16:00すぎ来。(※省略)
成田第一便着き、日中条約再開ときまる。
5月22日
8:00さめ呆然としをりばユ、縁談旨くゆかざりし様子。
名著出版より「お言葉通り11万いただく云々」と。第7冊も来る。
13:00すぎ徳女史(※田中徳:城平叔父の本妻)より電話、ユ迎へにゆく。17:00までしゃべりつづけ「西永福の友の家へ」と出てゆく。
山田勝久氏より「北海道教育大学に赴任、釧路に住む」と。東豊書店で会ひし人か記憶なし。
ユに聞けば辞退せし金、封一万円と。
5月23日
8:00さめ呆然として登校。入金なくケさん「来年より外国語必修にする」と。
3時限4時限むちゅうにやり逃げつつ代々木の東豊にゆけば「追加注文多し」と喜びをり。
『中国航運史話(280)』買ひて出、佐伯に寄れば「何も来てなし」と。
帰りて「飯くはぬ」とユに叱られ、あと計算して226,270円と。弓子、泣く子をつれて来しと。
5月24日
7:00さむ。8:00出て斎藤dr.、(※省略) 水道橋、山本(※書店)まで遠きにおどろきつつ行き
『清代科挙(480)』、『唐宋考試制度史(1,540)』、『中国思想宗教文化関係目録1976(6,500)』、『十通分類総纂(66,000)』、『清季中日韓関係資料三十種総合分類目録(14,250)』、『清季中日関係資料(54,600)』計143,370払ひ、
誠心堂に行き『出島葡館日誌(45,000)』払ひ、水道橋より折好く来し三鷹行にのりて11:00阿佐谷着。
佐伯にゆけば何もなく帰宅。
(※省略) 『不二』来りめくりゐる内、天理図書館の新城氏のこと出「早く死んだ」とあり。
本棚より植村先生の本とり出し読まんとすれば内よりハガキ(昨年10月と!)出、恐縮してわび状したたむ。
21:30またまた発作起る。
5月25日
9:00さめユと斎藤dr.。11:30見知らぬ先生にて顔を見、ユの言葉きき「今の薬でよし」と。のど乾かせ13:00帰宅。
うどん食ひ、ユの出てゆきしあと母来り「大、仕事中」と。(※省略)
5月26日
6:00さめ朝食後、教務課に風邪の届し、午すぎに佐伯にゆけば「何も来ず」と。西武へゆき地下街へゆき、
つひに『漢字百話(440)』買へば内儀「先生、お宅では和服ですか」と。驚きて帰宅。
けふ辻副手、高田君の仲人にて4月結婚の通知、(※省略)
垣根ぞひ歩める猫を殺さむとひとときにらみ行きて喜ぶ
おろかなる人とは知らず物問はれただにもだしてすましけるかも
5月27日
ユ、黒田夫人に誘はれ絵に出しあと川久保に電話し「行く」といへば「30分まて」と。
うつぎ書房に寄り駄本とdouble本を1,000にて売り、川久保にゆけば「午食しをり」と。
わが発作話し「紀要を君にまづ」と渡し帰らんとするところに夫人「羽田さん(※羽田明)来る」と。
驚き喜び待ちをればまた電話し「外科の前にて待つ」と。川久保令嬢迎へにゆき現れしに真黒に焼けをり。
久しぶりと話し「17:00の汽車」とて起つを同行し地下鉄入口教へて別れ帰ればユ、画もちて帰りをり。
『草苑』100号とて部厚きが来をり。
やすらかにをれとのらしし医師の言葉守りてをれば発作おこらず。昨日と今日と暑し。(※省略)
5月28日(日)
6:00さめユ「教会へゆくな」と9:30和田賀代嫗の7回忌に出てゆく。
16:00まで茫然とし、偶々早慶戦みてをれば早稲田大勝してうれし。変らぬものなり。(※省略)
5月29日
8:30さめ、母来り、(※省略) 母去りをるを見、昼食。京、健太郎つれて来しに会ふ。
ヂイチャン云へずバアチャンのみいひしもバイバイといひ、ユとともに去る。
われ方々しめて高円寺へゆかんとせしもシンドク、家にこもりをれば電話。(※省略)
5月30日
〒教会より「寄附ふやせ」と。母来る前に大来りwhiskyのんでwineもち帰りしあと、意外にも美紀子よりと母来り、
長話し、大の愛人の名云ひて帰りゆく。夫婦にて笑ひ「あさって登校」ときめ、(※省略)
「長恨歌」見んとtelevi見をれば北京、上海、長安を語る工学博士の話。すみて入浴すませし直後、石塚より電話。
「televi見よ」といへば喜びて電話切れ、これにて安心。全快の如し(死に至る病)。
21:00咲耶より電話「大江喜代造叔父29日死にし。式30日」と。
5月31日
6:00さめユ7:00起き、わが泣きゐるを咎める。午まへ佐伯にゆき『江戸時代刑罰風俗細見(2,000)』借る。
(※省略) 18:00石塚、岡林2人あらはれ、喜び迎へ『則天武后』見せ、わが母の写真見ゐる内、発作。
ふるへをれば2生帰り、ユ、婦長さんに電話「土曜来い。それまで外出面接するな」と。
予定みなダメとなる。22:30追加のみて寝しと。
6月1日
7:00さめユのねてゐるをまたぎ茶のみゐればユ起き叱られしあとわからず。
長沖未亡人より「6月10日遺著出版」との便り見、ユ、垣を刈るをつつしみをり。
午食後、ユteleviつけ寝をり。長沖夫人に「買ふ」旨ハガキにてかく。今日は暑く日長し。
ユ16:30豆腐買ひに出、長沖夫人へのハガキもちゆく。われ終日自問自答す(鬱の証拠)。
エリ・エリ・レマ・サバクタニ。(※神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや)
夜、石塚生より電話、(※わが病気を)少しも知らず「お休み」といふ可憐!(※省略)
(中島・増田・松下+薬師寺) 薬師寺衛=梅原(※母方苗字。昭和28年日記参照。本名) 倉田啓之助
1. 中島栄次郎
もう皆は忘れたが よい詩かき
よい評論かいた
小さく醜くかったが人柄がよく
第二乙で三度目に召集され
フィリピンにゆきマニラから一度の便り
それを奥さんに見せてもらった
ついで探した遺稿はかき置で
奥さんに再婚自由をいひ置いてたのまれた
わたしはいやな顔したが伊東、坪井は
世話したらしいが成らなかった
わたしは本を売れてよりわけて
半分は当時のわたしの勤め先
あと半分は先輩のゐた名古屋大学と
いまも残ってゐるとわたしは信じる
暑い日に彼を追憶したわたしの詩は
藤沢桓夫にはほめられた
田辺哲学の彼の文は忘れられた
主よ この賢者を憐れみたまへ
2. 増田 晃
東京帝国大学文学部心理学科助教授が父だったが
彼は法学部を選び就職すると詩集『白鳥』を出した。
わたしとは朔太郎の会で遭ひ 静雄よりわたしを愛した。
出版記念会は伊福部氏が司会し
高村光太郎がその会に出た
せの高い立派なおぢいさんだった
彼はそのあと召集を受け
主計将校として中支で戦死した
(わたしの徴用中わが家を訪れ
結婚した旨わが妻に告げた
わたしの『李太白』ももって行ったさうな)
終戦後
奥さんの消息は不明だが
母上が命日には3回小詩集を出した
ある日ふと妻と母上を訪ねたが
番地を10番まちがへて会へなかった
良き母をもち良き風貌と詩才と兼ね備へながら
弱い主計隊の長として死んだ
主よ この弱き者をみ国に迎へ
強き若者といつくしみたまへ
主イエス・キリストのみ名によって祈る
6月2日
7:00前さめ、三高ボート部の歌うたふ。20℃。8:00出て佐伯夫人に長沖一氏の本注文し、
斎藤dr.に8:30入れば3人目。「袋もて来よ」と。9:30診察始まり若先生。薬に安定剤加へたまふ。
病状診断にと院長先生への植物考案し、薬待つユを残して東豊へ辿りゆく(待ちの間に近くの紅茶のむ280!)
簡さん(※病気をきき)驚き、椅子探し来り「学生盛んに来る」と。37,900払ひ、書籍費をoverす。
台湾関係の本の内「台湾」にて始まるものもて来させ14万ほどとなり「送れ」といひ、ラーメン食はず帰り、13:00午食の狐うどん食ひ、何もせず。
(※省略) televi見ず20:20青ひとつ足し寝つきし由。
6月3日
けふも晴。6:00さむ。ユけふは先起きをり。9:00柏井歯科へゆく。
われ本棚の引出し見てをれば『神軍』3版(未出版)のあとがきあり『神軍』にはさむ。19年の作なり。
ユ11:00帰り銀行へゆく。(※省略)
午食のあと高円寺まで歩き都丸へゆけば番頭をり「古本市に『神軍』2,500であり」と。
共に兵の思ひ出話し、探せば神田先生の『墨林陂b(1,380)』2版見つけ有り金殆どはたいて電車にて帰宅。
(※省略) televiで「黒人警部ローガン」見畢る。坂内生より「先生2回お休みになった」「来週きっと出る」と答ふ。
6月4日(日)
雨。6:30さむ。9:10まで待ち礼拝にゆく。(※省略) 知合少くまっすぐ東急。狐うどん(230)われ食ひ、ユすうどん(170)食ふ。ケチの最低なり。ユ16:00展覧会に画とりにゆきし留守、
『南方草木状輯注』見れば、許雲樵「和田久徳教授の世界旅行に新加坡(※シンガポール)で会ひ教へられし」と。わが後任としてやはり第一とわかる。ありがたし。
入浴後、竹内栖鳳の話きく。太田陽子(※太田静子の誤記)久しぶりに出、桜桃忌近しとわかる。
6月5日
7:00さむ。よべ4:00ねごといひしと。9:30となり文房具屋見ればしまりをり。(※省略)
佐伯によれば『堀辰雄全集8』と愚本とにて6,300と。(※省略) 少しづつ路変へて帰り、ごみ箱もち帰る。
(※省略) 徳(※田中徳)より大江叔父の葬儀にまにあひ、これにて城平・艶との縁切れしと。同感。
15:00佐伯へ金払ひにゆき、〒にて和田久徳君への包み200。帰り途かへて帰る。(※省略)
6月6日
8:10さむ。9:30出て久しぶりに登校。(※省略) 会計で19万余もらふ。研究費その他となり。(※省略)
研究室に副手より紅茶もらひ野口君と話し、和田久徳君、野口君の属しゐる学会の副会長と。用心す。
まっすぐ帰り成城堂にてHeine26版買ふ。金曜がため也。
6月7日
8:00に起され、(※斎藤病院へ)急ぎ夫婦にてゆくこととせしもユ「先にゆけ」と。9:30つけば超満員。(※省略)
茂太先生お元気の様子にさういへば「疲れとれず」と。御外遊中の話なさらず「茂吉の医学」はほめをらる。
2週間分薬たまひ、久しぶりに新宿へ歩く。(※省略) ひもじくて三越にてユはsandwich、吾はひまかかるグラタンちょっと食ひ、帰りてpão食ふ。
神田喜一郎先生より「よみし。80才をすぎし」と。ありがたく存じ、川久保へゆけばベル3度押すも応答なくたたずみをれば窓より夫人「太田へゆきし」と。
開きゐし玄関に土産おきゆるゆる帰れば夫人より「まちがへし。太田は明日」と。
(※省略) 午后の便にて朝鮮大学より祭の通知。高校への本につき便りなかりしもそちらへゆきしか。
夕食前、佐伯へゆけば主人をらず『展望』やり『弘法大師・北京故宮博物館』とり上げれば内儀200と。
昭和48年の『太陽』にて新本の如く新し。(※省略)
けふ病院に帽子忘れ、ユ阿佐谷大通りの帽子屋につれゆき2,000の良き帽買ひ呉る。
入浴直後、田村春雄に電話すれば「5.31本出来しも皇太子来られし上、清徳保男氏妹急死にて云々、7月初に電話して来る。山の上ホテル」と。
「我家へ来て泊れ」といひしもきかず。
「丸は」といふに「ねたまま。但し息子月給23万、妻も決めをり」と答ふ。
6月8日
6:30さめ、(※省略) 10:30成城着。(※省略) (※成城)高校の前田先生に電話すればすぐ来らる。
若く熱心なるに感心し「わがあと次たまへ」と『常民文化紀要』呈し、(※省略)
ゆるゆると出て駅にゆけば田村、高橋、荻村雅子の3人と駅前で会ひ、(※省略) 高橋、荻村の2生と下北沢下車。
高橋の指する白百合といふ喫茶店にて2人はice-creamわれはpudding食ひ(840)、帰り本屋にてHeine買い与へsignすれば店主「先生ですか」と驚く。(※省略)
田村春雄より手紙果たして来あり、皇太子のことは書かず「院長未定にて今月末か来月初め上京」と。
丸にも知らせよと。(※省略) (荻村生は成城No.1の美人なり)。
6月9日
10:30登校。図書館にゆけば台湾関係の本まだ来ずと。(※省略) 老いし(71才)英人と話す。Sumatra全島を知りをり。
日本語・馬来語を話す。(※省略) bonus表渡さる。税引き100万円を超えたり。(※省略)
まっすぐ帰らんとせしに(※省略)、佐伯に寄れば2日半休みしと。田中正俊氏編の『講座中国近現代史2冊(4,200)』来をり。これと『斎藤茂吉集(100)』にて殆ど金なくなる。
ユにbonus表わたし、(※省略) 和田君より許雲樵の本は和田君の訳と。(※省略) 大伴道子氏『たれゆゑに』貰ふ。
6月10日
9:00さめ(※省略)、大伴夫人へ歌集の受取。和田君へ「成城の後任いかに」とハガキ出し、(※省略)
宮川生、折しも来り「関帝」をアジア歴史事典より写しをり、ともに読み誤字訂正、Fantaのみ富山の菓子食ふ。
この次書きはじめよといひ帰りがけあす「華僑」の坂内来ると。(※省略) 金子書店のぞけば内儀ゆゑ入りて見ゐる中、
田中元『古代日本人の世界』と雑本1,900買ひ10円のみとなりて帰宅。(※省略)
ユ三井銀行より30万5千円出し三菱銀行に入れし。教会改築の第2回献金なり。(※省略)
6月11日(日)
7:20さめ9:10夫婦して出、早き便にて吉祥寺。(※省略) お説教に泪流してユにつつかる。(※省略)
出て(※省略)狐うどん、けふは旨くみな食ひし。「我は飢ゑたり永久に(※朔太郎詩句)」をしきりに思ふ。
阿佐谷にて佐伯に寄り金なく本なし。帰りて昼食し13:30坂内生来り、(※省略) 帰りしあと(※本を)よみゐる内、
「最上川逆白波の立つまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」をユ、茂吉の近況として20年冬の新聞に見ておぼえゐたるをつひに見つく。
敗戦を悲しむ歌となり。我まだ帰還せざりし日を思ひ同感せしと。ふしぎなることかな。昭和21年の春のこと也。(※省略)
6月12日
6:30さむ。9:00堀、森廉三、松村潤、松枝茂夫の4氏に抜刷出す。(※省略) 帰り佐伯に寄り『龍姿蛇姿(100)』切手にて買ふ。
(※省略) 中平、池田、西宮3氏に抜刷包み、羽田には手渡しとしてこれにて了る。ユこれもち〒へゆく。
(※省略)13:00高橋生来り「科挙」につき『古今図書集成81,82』の該当箇所示し、(※省略)16:00帰りしあと、
田村春雄の『続たわごと』よみ了へ、礼かき「丸をも見舞ふにつき日中に来れ」と4枚の手紙に書く。
(※省略) 郵便出しにゆかんと用便中17:10大地震(東京震度4)、
すみて出、郵便出しにゆき老嫗に「こわくなかりしや」と問へば「坐りゐる老爺ゐなければ」云々。
6月13日
よべ21:30ねて7:00さむ。10:00出て鈍行11:05成城着。高田瑞穂肩を叩き、休みにて西下すと。
(※省略) ケ教授と地震の話す。2階が書斎ゆゑ圧死するかと思ひしと。(※省略)
佐伯にゆけば「何も来ず」と『生活と法律(300)』、『禁烟はつらくない(300)』、『ドガ・ロートレック(800)』買ひて出んとするところ、肩を叩かれ見れば松枝教授なり。
我家へ誘へば中国語学びにゆくと。我と同じ竹田亮老先生に習ひしに来月北京へ招かれ今より習ひにゆくと也。
帰ればユ「ドガあり」と。「とりかへにゆけ」といふ。(※省略) 郭沫若死し日本人の妻アンナ同居と。
この間、ケさん悪口いひゐし故、天命を感ず。
6月14日
よべ22:00眠る。(※省略)6:30さむ。8:00田村生に電話すればねてゐしらしく眠き声にて「2時来る」と。
(※省略) 昨日遭ひし松枝茂夫氏よりのハガキ「郭沫若のこと北海道新聞からたのまれた」と。(※省略)
14:00田村生来り17:00まで話し(※卒論テーマ)「日清戦争の原因」ときめる。
17:30川久保来りwhisky1杯のみ『柳辺紀略』の訳を吉田金一氏と共訳とす。注は我にまかせよといふに肯ふ。
あさって東方学会に出るゆゑ羽田つれ来るなど話せしあと「Espayna語の本かせ」と。『西和辞典』と『スペイン語四週間』を貸す。嬢のためなり。
須佐嘉橘旧蔵の『聖武記』2帙は自分用にともちゆく。(※省略)
6月15日
5:00尿で起きまた眠る。8:30再び起こさる。10:00すぎ出、(※省略)11:00すぎ成城着。田村生「あかふく」呉れ、(※省略)
教授会、(※省略) 18:00三井ビルの会ある故、皆坐りゐるかと思へば大学院の会、(※省略)
我、築島教授の隣に坐り歌作りつづく。
あさま山ゆきゆきてのちけぶり立ついただきにこそのぼりきはめむ
ヨコハマのナンキン街に子らとゆく定めとなりしこともられしも
来む年は鬼にぞならむ甘き師と嗤ふ子多き我の決心
われ死なば雑書ことごとよそびとにやらじと思ふ心定めと(高垣文庫設立と)
わが友ら高きにのぼりわれさらに高きのぞみをいましいだける(部会住友ビル53階)
信濃なる千曲の川の川中に戦ひしことわが学に入る(上杉文庫)
みな月の半ばをすぎてわが愛す友は長とし「なる」とききつる(高田或は堀川)
みな月におぼれて死にし津軽人三十年(みそとし)をへて知る人もなし
「我叫了(アイスクリームド※I screamed)」いまひとたび食はむとていらだつわれが心かなしも(築島博士留守中のこと)
欧米に去りにし美術くはしくもしらべし人の前に坐れる(田中比佐夫氏)
上原君、北京旅行団作るとのことにケ先生「美術しか見られぬ」と止める。ケ氏も自ら単独にてゆく也。
(※省略) 各駅停車、16:30小田急dept.14thの喫茶室にゆき、いつもの西側に坐らんとすればmanagerこちらへと陽のあたらぬ南側に坐らす。
ここにて我はice-cream、築島氏はice-coffeeのみ、(※省略) 阿佐谷着。
佐伯にて「ユ来しや」と問へば来しと。(『ユトリロ(800)』買ひしあと『甘えの構造(600)』買ひし也)
止む無く『西日・日英辞典(500)』、『続 悲しき戦記(文庫180)』買ひ、大学院の8万円を買はんといふ。
(この間遭ひしは松枝博士といへば驚く)(※省略) 松村君「抜刷受取りし。6月末台湾へ岡田・神田の3人でゆく」と。(※省略)
6月16日
20:00ねて8:00さむ。体重38kg。(※省略) 11:30学校へ着き(※省略)
まっすぐ家に帰れば「川久保より13:30電話あり、そのあと歯科にゆきし」とユ。
川久保待たせて19:30かかり「spain語、吉田金一氏、羽田氏」のこといひ、吉田氏との連絡引受く。
川久保「3人で」といひしも「我が加はれば(※折合が悪くなった)平凡社ダメ」といひのがれし也。
ユ『甘えの構造』よみ耽る。悔みと杭州のこと云ひ、我ねむくなり21:30眠る。
6月17日
7:30起き、(※省略) ユに吉田金一氏へのハガキ投函、佐伯へ寄れといへばしぶしぶ出てゆく。
(※省略) 丸家に電話すればクミ子出て(※旅行にゆく父、三郎を)けふ上野駅に送りこれが最後と喜びてゆきしと。「我も最後」といへば大いに笑ふ。
泊りがけの旅行にゆき婚約者みつかると予言すれば大いに笑ふ。重俊の候補者同級なるに知らずと。
ユ、佐伯にて長沖一遺著(1,400)買ひ来る。筑摩より『世界の歴史6』送ったと。(※省略)
増田晃追悼の詩を作る。長沖夫人に『上方笑芸見聞録』よみしと。(※省略)
川久保20:00ごろ電話し「君とならともかく吉田さんでは。勲三等もいや」と。「自然にまかせろ」といへば「さうする」と。
20:00すぎ速達来り、あけみれば中村愿君篇『竹内好を偲ぶ会座談会(速記)』にて、我には「日本浪曼派や保田との関係かけ」とあり。
よみゆく内「ボク人」といふを(※1年先輩の)野田又夫氏より譲り受け云々とあり、引っかかり、小高根太郎に電話かけしに留守だったので、
野田又夫の電話しらべに羽田呼出せば夫人出て「今便所」と。「お孫様は」ときけば「5人」と。こちらは6人といひ、
羽田出て来て、学会でゆかず、24日が学会と、黄檗山とのことに「ゆく」といひ、野田又夫の番号きけば教へてくれ、
野田氏に電話すれば(※保田に『R火』前誌として)『璞人』をゆづりしと。礼とて『白楽天』贈るなどいふ。
6月18日(日)
ユ、われに聖日の礼拝休ませ9:15出てゆく。(※省略) ユ12:00帰り来り母のところにゆく。
われ女のtelevi(volley 日中3-0)見、『家なき子』あるや見に佐伯へゆき大林太良氏に会ひ、話したくなりしも逃げらる。
『斎藤茂吉画集(1,800)』買ひ『白楽天』2冊を金曜までにとたのむ。
20:00泰に電話し「23日にゆく。地下鉄駅まで迎へたのむ」といひ切れば、泰より電話あり、「迎へにゆけぬ」と。
「よし、よし、依子に夕食いらぬといへ」とにてすむ。
6月19日
7:00さめ眠し。(※省略) 奥出健氏より保田研究に『璞人』のこときき来る。「野田又夫、江口三五に問合せよ」といふ。
10:00和田夫人より電話「すぐ来る」と。ついで美紀子より電話「京のところへ祖母とゆく」と。
「兵庫県へ転任」と予言すれば「それききて史、苦笑す」と。(※省略) ユの貯金癖に感心す。
14:00原建士来る前13:30和田夫人来り、一寸話し、原のcard直し、15:00談炉館へ招待状もちゆき、
冷房ゆゑ熱きcoffeeとtea無代であつらへ、冷房にをり。copy『両唐書』『資治通鑑』すまして出、(※省略)
川久保へゆき(※省略)、20:00近く帰宅。(※省略) 田村春雄に「24日夜泊めよ」と電話。(※省略)
6月20日
快晴。8:30さむ。(※省略) 池田温氏より『詩経の草木』の受取。正午30℃。五日連続30℃以上。
ユ11:00出てゆく。われ昼食し、televi見つづけ18:00ユ竹内邸より電話「15分して帰る」と也。
『浪速叢書8』2冊来る。久しぶりに『唐話辞書』1pageやる。(※省略)
6月21日
7:00に起き8:30斎藤dr.。(※省略) 東豊書店まで歩くみち喫茶店。快くcafé,cocoaとにて350払ひ東豊書店。
喜び話しゐる内、有り金はたき『倫敦所見中国小説書目(1,920)』買へば『中国通俗書目・日本東京所見中国小説書目』呉る。
成城へ12:00着き(※省略)、帰宅。高橋生5分前に来をり、
『新唐書』『旧唐書』のcopyを談炉館にたのみにゆき、飲物代われ払ひcopy代1,000近きを喜びて帰る。
丸重俊来り「あす見合」と相手の名いはず中学の美術の先生。(※省略)
(成城堂で付けにて『豊臣秀吉』買ひ丸生に前祝として与へ『魯迅雑記』買ひ竹内の著作みなそろふ。)
ユより明日の費用2万円借りる。(※省略)
船越苑子、ユの許に来り『浪速叢書』渡せば喜び「今通ふ校正学校、事務員の空きあり」といひしと也。
6月22日
7:00さむ。(※省略) 11:05ハチ公前に(※semi生)8人待ちをりあと一人と。(※省略)
東急にて石川町下車。中華街に入り、坂内の案内にて太平楼に入り10人一卓を囲みわれは2品と2汁とり、皆満腹し、
自由時間に宮川生と関帝廟に入り写真とり、香と蝋燭とを買ひ老嫗の指図にて天公に祈願して了る。
出ればみな買物しをり。我もつられて『中草薬学(1,440)』買ひ、(※省略)
坂内、宮川2生と氷川丸へゆかんとすれば、(※省略)船中くまなく見て退出すれば、(※省略)
帰り途教ふとてわかりしところにて去る。(※省略) 四谷にて下車。信濃町で公舎探し探ししてゆけば3孫、美紀子をり。
(※土産の)素麺わたし家に電話すればユ「すぐ帰れ」と。茶のみ了へて雅子の大人となりたる(42キロ)を見、
淳一の反抗期に入れるを見てのち美紀子、暁子をつれて駅まで送る。暁子も機嫌よく100入れて釣銭20与ふれば喜ぶ。
佐伯によらず帰ればユ、飯くはず待ちをり先づ入浴をと。風呂は体ふきしのみにてすまし、夕食くひ、
杉山博文の贈り来し菓子くひ、上田敏全集を予約せんときむ(1.4万✕10)。(※省略)
ユとびまはり帰り来り西下の用意す。
6月23日
よべ、薬師寺衛の詩を作り朗読せしあと眠る(23:00)。
ユ先出て克次朗つれて出しと。われ登校。(※省略) われの後任、一時重久講師とし、和田久徳を後任と決め、
総務はダメ会計もダメ庶務に54年3月31日退職するとして計算してもらひ、会計に旅費32,000もらふ。
庶務計算すみて昭和33.4.1〜54.3.31退職にて21年間在職にて退職手当8,188,600。和田久徳氏の来るまで重久博士を臨時講師と決む。
この間ユ電話3回せしとて美紀子と小田急で会ふといひ、中国古典cardくばり
「けふの出席はみな満点。これが最後の講義」といへば男生突然「仰げば尊し」の歌うたふ。
16:12の「ひかり」にのる。美紀子3ヶ月にて重き荷物みなもつ。
名古屋駅につき依子出て(※省略)、
中村口からtaxiにのり1,200にて団地前につき夕食くはしてもらひ、澄いつ帰るやわからずと。孫ら眠り(22:30)、われら23:00眠る。
6月24日
名古屋駅より近鉄にのり、宇治の黄檗山万福寺にゆけば外人の講演すむを腰かけて黄檗料理2汁一菜食ひ、
小野勝年、野間光辰らと挨拶す。東洋史の3奇人曽我部博士(羽田にきけば「悠々自適」と)。
これより各殿まはるとのことにわれ先に見て浄所に入りてのち版木殿の前にて待ち、人々の来るをまちしも来ず、
やがて門前にゆけば、(※省略)皆の出て来るを見る。
小野勝年親しげに話してゆく。電車まで羽田とゆき、三条の京阪終点につきtaxi拾ひ、羽田夫人と話してのち夕食前とて退出。
新阪急に乗り(220)千里線にのりかへ、雨中ぬれて山本治雄に電話する為喫茶店に入り3度電話せしもかからず。
梅田に出、循環線にて天王寺(60)、阪和線にのりかへ上野芝で下車。手土産に1,200と200の菓子買ひ
田村邸のbell押せば「まってました」と。春雄邸に皇太子の来しは菓子屋もしりをり。
(※省略) 春雄、わが本もち来り署名さす。『戦後吟』2通あり、一通に息への署名す。
沢田四郎作氏宅にわが案内し、清徳保男の画たのみしと。(※省略)
6月25日(日)
6:00さめ爽快。春雄邸にてpãoと紅茶よばれ10:00退出。(※省略)
中川にてのりかへ(14:15)ナゴヤにつき一旦出しあと待合室をさがしまはり、(※省略)
依子、望をつれ重き荷物もちひかりの最も早きを15:13ときき他の車のりすごしこれにのり、東京駅にてtoilet探しまはり、
雨中、佐伯へにゆき電話かけさせればかからず。やむなく駅へゆけば傘いらなくなり佐伯に傘返し、
あす本売るとの『ルノアール(200)』買ひ、帰宅。(※省略)
山本治雄に3回電話せし怨みいへば「碁会所へゆきをりし」と。
6月26日
8:30さむ。日記かき了り10:10佐伯へ(※省略)山田『アジア香料史考(1.2万)』など買ふ。(※省略)
川久保午后来りユ、whisky出せしあと帰りゆく。われ令嬢の結婚予言す。(※省略)
6月27日
8:00さむ。12:00登校。3時限4時限ともに出席とりしのみ。大を呼び佐伯に本見せれば5,500くれし(成城の支払はあとまはしとす)。
6月28日※【斎藤病院 入院】
7:00さめ朝食すまし南阿佐谷より地下鉄御苑前にて東口下車。斎藤dr.に会へば入院命じらる。
仕方なくユと別れ一眠りすればユと大東をり15:00二人の帰りしあと藤塚さん(藤塚さんといふ付添さんに1,000与ふ。
竹内の奥さんに少し似し女なり)と話し、持込の黒アメ開く。
6月29日
藤塚さんに起され5:50にて眠りより覚む。血を美人婦長より採らる。朝食後、体重はかれば38キロ。
ユ来るかと時計見ればまだ9:24なり。(※省略)
3. 薬師寺衛
本名は倉田啓之助
お母さんにつれ子として入り
京大薬学部を出て軍医となり
京都師団の守るレイテ島に米軍上陸のまへ
全滅の最後の将校になって立派になしとげた
わたしは母上にお目にかかって彼の写真と同じく
本当の京美人で半ば狂乱だったが
彼の詩集は東京の林富士馬に預け
戦災で失はれたとのことだったが
noteが残ってゐて わたしはこれを写し
わたしの発行した『果樹園』にのせた
めぐみなかりし彼は今は天国にゐる
あと数時間でわたしは彼に会ふ
「主よ 厚きおめぐみにてわたしたちに再会をあたへたまへ」
この祈りを主イエス・キリストによって捧げたてまつる アーメン
茂太先生来られ「よく眠ったか」と問はれ「ハイ」といひしあと、藤塚さんに食事のこときかれれば「よく食べます」と答へ、
そのあと一寸pãoとwine代りの茶のみてすむ。便意あれど尿のみ。amen!
6月30日
曇。5:00さめ8:30朝食となる。ユ電話、11:30ユ来り、昼食ののち帰りゆく。
ドリゴのセレナーデうたふ。ユは史の所にゆき帰りにここに寄る。20:20薬のむ。
7月1日
8:00朝食もて来しも食べず口にしたまま也。ユ「あす来れず」といひ遺言ききゆく(これに大の保証印あればよしと也)。
夏にノゾミ依子につき上京、方々見てまはるとともにわが遺言通り、望は
家は史夫婦の住居となり書庫たてます。喪主とてクリスチャンの送別式に招く人々はaddressの丸つきたり。
学園葬とてお花代払ひ、そのあと断りなしに西川来たり思出の会あり。参会者は皆われに怨ある人(高田と築島博士の弔問あり、懇切なり)、後悔して泣く。
病室の薄暗に藤原定子付添をユと思ひ違ひしたがやっとわかり、
(※以下妄語書き連ねあり。画像参照)
ユ、入院の結果を院長先生に伺ひ早速本館2号室に入り藤沢さん立合ひ診察了りたまふころユ来り、
「前より軽い。4日以上はおきません」ときき来る。
ユ12:50帰りぎは、藤沢さんと内緒話しばらくして帰りゆく。13:20
7月2日(日)
5:15さめる。尿にゆく。朝食昼食ケンタイ(※倦怠)となる。午食に辛きものくらひいまだ痛し(0:00)
7月3日
5:30さむ。昨夜大便にゆき付添さんに迷惑かける。
11:00 (※以下妄語書き連ねあり。画像参照)
7月4日
8:00(6:15中起)覚め9:00院長先生見え「風邪です」といひ「食後の薬のむな」と仰せらる。
遺言
1.史は父のあとを継ぎ、藤井寺などの田中とは縁を切られた
2.依子は神経病だから呼んで斎藤先生の診察を受けなさい。
3.弓子は億万長者となります。昨日あげる筈だった切手は世界中探してもないものです。念の為おゆきが帰宅(紙)をすてる時は気をつけて下さい。
4.京は幸福第一デスカラカツクンと同じく遺産をあげます。
喪主 史に
1. 密葬は今夜中に行ひ遺骨をもって帰宅、おつやには別によばなくても来る人は来ます。
その席で盗難事件がありますが犯人は先ほどの3人の中の一人で自白し送検されます。
2.
史の赴任は兵庫です。南淡町賀集へ一度ゆき、ひいぢいさんと諢名のあった人と会ひ、御本家田万には丁重に挨拶しなさい。
3. 私の大切な手紙類は別置してありますから、あなたが持ってゐなさい。何百万円のものばかりです。
4. 正葬は柳田国男(兵庫県一のねっかちもの)の建てた母の館でキリスト教式に行ない、
あと呼よせてある教へ子たちを使って一応もって帰り佐伯に売りなさい。彼とは義兄弟の関係です。
5.
会葬式の中、最もよく泣くのは例の千葉です。うるさいですから別室で休ませなさい。記念写真は京のとった絵よりも克クンの画の方が宜しい。
学校葬などは総務局長相談して行へば十分まにあひます(庶務課長承知)。
6. the end 心の貧しき者を主は選みたまう
7. 伊藤(徳)が身づから来ます。これは齋主です。
昭和53年 7月 5日〜昭和53年 8月11日
25.2cm×18.0cm 横掛ノートに横書き
7月5日 ※田中克己訳讃美歌605(詩篇第23篇)貼付け。
7:40洗顔、体温35.8、体重38kg。そのあと院長さん来室。何ともいひたまはず。後に田中看護婦来る。
ユ11:30来り、薬貰ひゆく。ユ13:00帰宅す。郵便は高田瑞穂より「春風既遠近 吹到野人家」をはさむ(漱石の作と)ハガキもらふ。又々学長になれなかったらし。
他に國弘浩人といふ名古屋の詩人より。夕食後、己のことを「バカ愚か」と呟く(今日の気温37.4℃とて史上最高)。
7月6日
6:30起き洗面7:20(入院後はじめての気持のよき朝なり。)
9:00すぎ先生お越しになり「もはや心配いらず。退院通学は体重みてのち」と。
追悼式はすでに了解ずみの母の館、お花料はとってよろし。御香奠は一切いらない旨申しすみました。
ユキ子よ
お前は雪よりも潔白で
他人の根性がわかりませんから
何事も一番の親友に相談しなさい
わたしの骨は分骨し、田中家の墓と
教会の墓とに埋め分けなさい
サンビ歌は284、285の二つで
先頭に600番、ついでいつもの通り行なはれます
cardsは山田俊雄君承知(わたしのcardsに依ったで宜しい)
全集はチクマの井上社長にたのみなさい(筑摩破産と7/13)
損を覚悟の国の生まれです(島崎藤村、立原道造の碑のよこにわたしの碑(歌このみちを彫る)を並べて立てなさい)地元は承知
遺産はあなたが1/3、他の1男3女には迷惑がる金持がゐますが無視しなさい
「旅の空から富士山見れば」は学生に教へましたから歌はせるとす
竹森先生司会の下に厳粛に行はれます
お花料の受取は史にやらし、お返しであまった分は日本キリスト教団吉祥寺教会の再建に寄付しなさい(定額30万5千円)。(※省略)
借金
佐伯に全集2つと本草綱目のつづき(学部への納本は完全にして下さい)
教会の墓地献金はあと3回とし305,000をなるべく早く納めて下さい
貸本
川久保君にあり。
私の葬式には泣く者が沢山ゐますが、あなたは伊藤とくを想像してはいけません
思へば大江の叔母はよくやってくれました
絶交
川久保悌郎君(他力本願すぎる)
江上波夫博士
羽田の奥さんのとりなしで羽田との絶交了りました
後任
後期の大学院は重久生にやらせ54年度よりは和田久徳君といふことにして下さい。
(前期の点はエンマ帖にかいてありその通りにして下さい)
恩師 みな亡くなられました
学園葬を断らないで受けなさい。(前例なく)キリスト教でもよく竹森マサカズ先生が司会をされます
一年後には築島博士、堀川博士と国文の栗山・池田・高田・山田の諸先生に案内して下さい(中西君は不遜ですから呼ばないで下さい)
讃美歌284番
祭壇の肖像画はあなたと戸田先生(※悠紀子夫人の絵の先生)とで画きなさい
実物以上に大切にされます
藤塚さんにはお世話になりましたので特別に他の看護婦の2倍さしあげて下さい。
平安なんぢにあれ アーメン
12:30ユ来り、原武夫氏(健次の父)の贈物マロン・グラッセ賜りしともち来る。
ユ「月曜に史の大阪国税局直税部長となりし」といふに「帰り美紀子に会へ」といふ。
午寝35分。骨は分骨し半分は教会の墓、のこる半分は田中家の新しい墓に埋めること。
全集の編集校訂選択は福地君(※福地邦樹)にまかせなさい。史は大阪にをりやりたくとも出来ません。
(出版社は悠紀任せ)
3. 薬師寺衛
米軍のPhilippina来襲ときき
すぐ君を思った
旧姓梅原、本姓倉田啓之助
お母さんのつれ子として梅原博士なきあとを
よくお育ちになり府立医科を出て応召
わたしの送った『李太白』をよみ了へたあと
軍医としてなすすべしらず逝かれました
白皙長身の美男子でしたが
papaya,mangostineを食べたでせうか
お母さんは残されてちょっと変になりましたが
わたしの忘れていった傘は長男にとりにゆかせました
あなたの詩の大部分は林富士馬宅の戦災でやけ
一部はわたしが写しました
主よ この罪咎をおゆるしになり
ともに天国に呼びよせたまへ
主イエス・キリストの名のもとに願ひ奉る アーメン
7月7日
朝7:00にさめteleviの申込す。午寝1時間45分す。19:45若先生お越し。退院ゆるされず。
ユ京の家へ留守番にゆきしと16:30ごろ缶詰2ケもち来る。(※省略)
ユの持ち来し『週刊文春』に長部氏(※長部日出雄)「保田と同日徴兵、3.19洗濯所で会ひ怪訝なる思ひせし」とかく。
19:15美人婦長さんお見えになり咽喉を洗って下さる由。
7月8日
よべ2:30付添さんのねごとで目をさまし便所へゆかんとすれば目をさまし薬いただく。ありがたし。6:00までねむりてさむ。7:20髭剃り了ふ。
春風 高田瑞穂氏に
きみが画のノウゼンカツラ春夫邸のテラスに咲きしことは忘れず
ユ、銀行、歯科にゆきしためか10:35に未現。
ひるがほの久しくなりぬ瘋癲の身はひたすらに治めんとせど
ユ、消息なく午后14:30となる。可怪。ユ16:10来る。舟山逸子氏より「詩送った」と。
ユわびて帰りゆき、わが不貞を知る。(※不詳)
19:30小林さんといふ看護婦さんに扁桃腺炎とて腔内を洗ってもらふ。
7月9日(日)
2:00さめ1服。4:00さめまた眠り6:00さむ。8:30朝食了へ新聞よみ了る。9:30院長回診。新宿御苑への外出許可さる。
ユ13:30シュークリームもって来る。高田君に感謝のハガキかく。ユ・藤塚貞子さんと新宿御苑にゆき南方を思出す。
地下鉄に乗るユと別れ16:05帰院。温室の花匂はざるを再験す。
憶 亡児梓
主はみ心もてわたしの子
最愛の子をお呼びになりました
生きてゐれば死んだ子の年齢をかぞへます
弓子が生まれて3日目にわたしは手を放し
当時満2歳の子をいまも呼びつづけます
主よ み心にかなふことなら
ヨブの如くわたしをなしたまへ
イエス・キリストのみ名により
この祈りを捧げます アーメン
田中看護婦さんに『ハイネ恋愛詩集』を約束す。
7月10日
よべ2服のまして貰ひしも眠れず参った。藤塚付添のこわいことよくわかり甘えた自分に腹が立ったのだと思ふ。
南方の草木を見るのはまだ早すぎたと思ふ。
9:30先生ご回診のあと藤塚さんと紀伊國屋へ散歩。ハイネ2冊買ひ一冊は藤塚さんに一冊は田中さんに買ふ。
cold teaのみて散歩了る。ユ13:00来りわが残飯くひ、史の(大阪)関西財務局(※ママ)への転任いひ、
怨みを晴らして16:00帰りゆく。けふ時々しぐれ降る(明日は来ずと也)。17:00夕食の飯みな食ふ。
7月11日
よべ眠りがたく婦長さんの一発にてバタンQとなる。起床7:30。昼食後、散歩に出、氷小豆(230×2)くひ、
四谷三丁目の本屋で『家庭の科学(1,450)』、『正論(450)』、『山草入門(430)』、『京都(580)』の4冊買ふ。
最後は婦長さんへと也。角力を新借のteleviで見る。夕食後、青田主任看護婦長に『京都』進呈。
7月12日
よべ2:30さめ1服呑まされ6:00覚む。(昨日よりtelevi見る)。7:30髭剃り了る。
食後1時間半散歩とて赤坂見附へ出、弁慶橋へゆく途中ドンボスコ社へ寄り2冊買ひ、teaのみて帰ればユ待ちをり。
着物、帯、下駄もち12:00来り、保険屋来ると出てゆく(『近代日本キリスト者文学論(2,000)』佐伯へ来しともち来る)。
7月13日
藤塚さんのとっておきの薬にてバタンキューと眠る。7:00前覚め洗面所へゆかんとして叱らる。
10:00散歩に出、市ヶ谷福久町にて耐え難くなり帰院11:30。
ユ来り「高田君のハガキは出さざりし」と。我の食ひ余しを一包にして帰りゆく。
夕食後、藤塚女とbusにて代々木。賑やかな喫茶店にてcoupleは2くみほど。ice teaのみ国鉄千駄ヶ谷へ廻り帰院18:15。
7月14日
よべ2:30さめ薬のまず再び寐、7:00前さめ洗顔。室内温度28℃。
増田晃君の霊前に捧げよと手紙を令妹中西すみえ様に送ることとす。ユ、共食しあすあさって自宅泊りと。
藤塚さんに有給休暇を、と願ひ出る。14:00ご回診。ユと東豊書店へゆき簡さんに辞職いふ。
(途中しるこ屋にて氷小豆食ふ。東豊書店借金なしと。わが退職を予言せしに夫婦して送りたまふ。)
『中国民間寓言(250)』と『中外交通小史(400)』買ふ。極度に吝となり可ト(※たのしむべし)。
ユ、夕食の残り食ひて去る。われテレビ見ず。婦長さんへの本「あすでよし」と也。
わが歌は古くしなれり新しき魂われに与へ賜へよ19:30
7月15日
3:00さむ。「ゆすらうめ書きし友死にわれ生きてたのしきゆめを朝夕に見つ」
総説
わたしの好き友はみな死に
あとは老残の好色者ばかりである
主はお咎めにならず これらをもお迎へに来られる
ジョゼフ、ジョン、ヴィヨンなど多くの姓名が
わたしのリストにものってゐる
偽善者たちばかりで
心中を三回試みた気違ひ太宰治だけが
愛されるのはどうしてだらう
恩地さんといふのは姉上を見たことがある
江間章子は夏が来れば思ひ出す
みな老醜であらう
わたしの写真がそれを証明してゐる
主よ 芸術哲学を訳しつづけた松下武雄を
一番にお呼び下さい
これらの祈りを主イエス・キリストによって
父なる神のみもとに捧げ奉る
増田晃の妹、中西すみ枝氏たずねたずねゆき般若心経読経し了り焼香して父御子みたまに彼の召天を祈る。
ユ、帰宅せしあと朝のdoctor.来たまひ「薬弱くした云々」。
午后中中西氏へ詩贈りにゆく(※不詳)〒に気がつかずまごまごす。夕食中、角力面白く、すみて田中看護婦にLorelei(※歌)教へ了る。
7月16日(日)
6:30さむ。一回も起きず爽快。腹へる。27℃とやや涼し。ひげ剃る。朝食旨かりしもpão一枚。ユ11:30来り、昼食平ぐ。
田村春雄より「少食心配」をいひ来る。わが間食を知らざる也。写真2枚やせてこわくうつりをり。
7月17日
4:00さめ5:00起き弱れども仕方なし。畑芳子氏よりの見舞もって来りしユ、疲労困憊す。
15:30共に手をとり16:00公舎につけば「おぢいちゃん」と見付けしは淳一。雅子も母のゐる方へ電話せしも不明。
4:30ごろ散髪から帰り来り美紀子平然たり!赤ん坊ヂイチャンといふに喜び、餞別(50,000)おきて自動車(450)。
4:55帰宅。(若先生「サアネ」とのみ。) 夕食二人にて食ひしあとアンパン買ひにやり、われ畑さんへ礼かきユ帰るに托す。
夕方前の本屋へゆけばハイネ着かず。とりけしよしとて『週刊文春』と『大法輪』買ひ帰室。藤塚さん本買ふ。
7月18日(※悠紀子夫人代筆)
朝9時30分頃、家に帰り藤塚さん地下鉄にて帰す。
食事を11時頃、晝食し川久保家へ電話して1時頃ゆく。
帰りて二回電話にて返事し田村、宮川、坂内生に電話。
佐伯に行こうとしたがしんどくなってゆかず。夕食、鯛の塩焼き、スープ、しじみ汁を食した後、佐伯にゆき100円にて『中国出土品』の雑誌買ひ、
帰宅後和田久徳氏に電話すればまだ五年程先があるとのことで又考へることにして8時半ねむる。
(午後一時頃、長部氏来り、電話でしかられたことに、来ってしきりにあやまり、早々に帰る)
(『日本の詩歌24(480)』を買ふ。)
7月19日
5:00すぎ覚む。散歩5分(戸田氏訪へど返事なし。) 朝食不足、7:00また間食。
card作り田村生に電話かかり「勉強してかけ」といひ、
山田教授に辞職申し出づれば「月末話しあはん」と。(※省略) 佐伯に「本とりに来い」といへば(※省略)6,000に買ひ、
(※省略) 電気屋来り「あさって冷房す」と也。田中於莵弥氏、東海大学教授にして仏教学者らしきに喜ぶ。
15:00出て小田急大食堂にてユはcurry、われはsandwichとり(350)半々ならんとしてユの方大食せし。
16:00病院に帰れば藤塚女、手仕事しをり。(※省略) ユ帰りしあと藤塚女の態度気に入らず大荒れに荒れ20:00院長お越し、注射2回にて収まる。
7月20日
6:00起き8:30院長回診。おわびし回診つづけられるに平坐して拝む。主における感謝なり。
午すぎ眠り目覚むれば、16:00ユ、来りし也。昼食残りしを2人して食ひ、外出。
渋谷の大書店にて『愛誦歌集(950)』と『足ながおじさん(180)』買ひ、あすの小使ひにて喫茶、(※省略) 17:00帰院。
7月21日
荒れ、20:00までせしことよくおぼえず。藤塚氏と常に旁らにゐてをかし。16:30ユ帰る。
よべ8:00に寝、薬山ほどのまさる。(※省略) 8:00さむ。体不自由にて外出とめらる。別れの歌うたひ退院間ぢかし也。
8:30朝食、旨くなし。(※省略) 13:00回診。若き先生にて「むりするな」と也。
藤塚嫗に100円の飲物買ひにやらす。風邪とて外出許されざる也。15:45ユ来る(昼食の余り食ふ)。ユ帰りしあと眠る。
7月22日
ユ15:30来る。けふは静かなり。築島博士よりオレンジ2ケ賜ひしと。televiしばらく見、小林婦長に小林軍曹の話きけば「知らず」と。
風邪気味とて外出許されずtelevi見、20:00小林看護婦の見舞あり、有耶無耶、歌をうたはす。
7月23日(日)
聖日なり。9:00回診(院長先生に会はず)。
院長に会はせろとさわぎ(※ 走り書き読めず省略) 外出せず。藤塚を断り、人の付添を止める。
藤塚女史を解雇し武藤女史替りとなる。藤塚女史「沢山の患者の中、手こずったは汝一人」と。(※省略) 田村春雄より「少食心配」と。
7月24日
(※ この日の前後、走り書きにて読めず。)
7月25日
ユ9:00より来り12:00覚めしと。史宅へゆくとのことに代りにゆかせ、はっと気がつき電話すれば、すでに他人(※新しい付添?)が入ってゐた。
7月26日
ユ、史宅へゆきしと。電話すればすでに他人が入りをり。苦笑しつつ病室に帰り体温計れば35.6℃。フルート吹く男子見つけ「来よ」といへど来ず。
朝7:00さめ歌うたひに便所にゆく。もとより小便のみ。帰案すれば先生お越し、古希の祝には呼ぶと也。
憂ならざれど外出止め他室との会話も許されず(10:00)とのこと我は覚えず。12:00の昼食のあと付添に有給休暇を与へ、
われは『世界の歌唱歌(※不詳、『世界の歌曲集』?)』をよみうたふ。1服して東棟にゆけば音楽をやる青年あり。しばらくききて「来よ」といへど来ず。
14:00前、付添武藤女帰り来る。武藤女、歌すきにてまあまあ也。
ユよりの電話「晩来る」と。グズめ。「武藤さんゐるか」と大婦長、恰も出しあと也。行先もおぼえず。
長くねて10:00さむ。ユより電話「けふ晩飯食ってから」と。愚図愚図す。昼食後、ユに電話すれば前と同じ。
付添の武藤女、あまりせかせかとせず。ユ16:00までをり。地代の検査は昨日せしと。(ユの話にては「大阪の熱40℃となりし」と也)。
武藤女、冷■にて却って喜び最後の払ひもすませしあとグズグスゐる故、夕食出しをへし後に追帰す。明日病院の払ひと来る由。
今日は手紙類ゴチャゴチャ来りし故、婦長にやりしあと始末をしらず。いよいよ『唐話辞[彙]』の決心す。築島博士より見舞。
相野忠雄より蒲郡に集まりし。38名位かと。西川への申し込みの半分にて気の毒なり。
7月27日
4:30快く覚む。体温7:00に35.7℃。洗面、髭そりのあと歌ひ、歌の本は田中看護婦に渡せしと武藤女史の言。(※とりあげられたか。)
但し退院の日にもらふと也。築島博士へ見舞の礼状かく。ご回診なく、10:00相野忠雄に返事かく。猛暑34℃(室内29℃)
14:00見知らぬdr.お越し。わが語学の論に(※不詳)ゆき玉ひ、夕方の外出も許さる。
夕食後、武藤静子と御苑沿ひに探せしも古本屋見つからず。
(ユ「あすは来られぬ」と。聞けば4畳半つぶし書庫にする。植木のことも本多地主に交渉云々。)
7月28日
6:30さむ。十分ね足りたり。7:00まで洗面できずと。7:05顔を剃りしに1ヶ所切る。9:30bus停留所で待ち、10分ほどして来りしに乗り、渋谷終点。
大盛堂をマゴマゴしてのち見つけ6階にて『ハイネ恋愛詩集』、『世界名歌集(2版49年)』を探しあて、あと4階にて武藤女史のお伴をし、彼女は買はず。
『川上澄生の世界(1,800)』買ひ、早大正門行のbusにて帰院。入湯快適なり。昼食欲あれど食へず、はもの皮のこし残念なり。(※省略)
夕食すみて散歩し信濃町の古本屋見んとすれば休みをり。近くの新本屋にて『宮沢賢治詩集(300)』と『西條八十詩集5版(260)』買ひ、
もう金なしとの武藤女史の言に早足にて帰院。pm6:00
7月29日
6:30さむ。快眠にて朝涼。7:20茶のむ。8:15やっと飯出る。かかる空腹はおぼえなし。ユ夕食後来ると也。
南棟1号の青年と話し、やや通ずるものあり。午食12:00に了る。ユ持参の海丹が美味なりし。12:30代診先生お越し、われに引きずられ苦笑のみ。
夕の散歩許さる。16:00歌うたひ了る。ユはいつもの如く遅からんと腹も立たず。今日は33℃(屋内)。16:30ユ来り、武藤女史と3人で出、ユ四谷三丁目よりsubwayにて帰宅。
われまた昨日の本屋にて『文学界8月号(460)』、『中国故事物語(950)』、『日本語の文法を考える』など買ひ、武藤女史の呟くをききすて、慶応病院の裏口をぬけて19:10頃帰室。
大婦長「お帰り云々」。けふ川村欽吾のハガキ受手、北園克衛の死を知りたり!(※6月6日逝去)
7月30日(日)
6:20さむ。渡辺登美子・藤田幸子様に返事。笠原文恵・西阪修・川村欽吾への返事。
散歩、紅茶のあと11:57なり。(※省略) ユ16:30より夕食を二人で食ひしあと千駄木駅の売店にてハガキ20枚、エコー10袋買ひ、ユに本もたせ返す。
(竹森先生「Koreansのマルコ伝再入手」と) 感謝々々。
7月31日
よべよくね、2:00ごろ尿にゆきしあと眠る。ユに電話して10:00代々木会館前でときめ、代々木駅前のtoiletにて快便、茶のみて開館前に10:00つき、
10:10来しユと2人で東豊書店へゆき『台湾[書]店4冊(16,800)』、『新約全書(800)』、『中国風俗史(280)』買ひ、大学院向きの本とともに大学へ送らすこととす。
簡さん喜び、ラーメンはだめなれど云々にことわり切手沢山もらひて電車(80)にて千駄谷駅下車。
重き本もさほど事なくすませ入湯し、昼食出しを二人で食す。寡哉仁なり。(※巧言令色?)
御来診を待つ(ハガキ10枚買ふ)。丹波千年死にしと(7.24)。
14:20御回診の直前、ユ銀行へと去る。副院長先生お越し。おおぼら吹きて苦笑しゆかる。16:40夕食来る。15分にて半分食ふ。旨けれどあとはくちつけず。
楊雲萍教授にお祝かく。夜、石川看護婦来る。けふ我が67回目の誕生日なるも忘れをりし。(※誕生日は8月31日)
8月1日
7:00すぎ覚む。珍し(よべ睡眠薬のまず)。9:00前院長2看護婦つれて来室。「いつまでもお置き下され」に苦笑したまふ。
武藤女に楊雲萍への栄休を祝する手紙かき、9:05もちゆかす。(※省略)
ユ10:30来り、坂内と宮川の論文もたす。宮川生の関帝信仰の前書マアマア也。正午すぎ気温29℃とやや涼し。
雨止むを見て茶のみ散歩。(※省略) 夕食後、10号室の患者を教訓し18:40帰宿。
8月2日
よべ8:00に寐、6:00さむ。10時間熟睡せしなり。朝食旨し。
7:10家に電話しユに「けふ帰宅」といへば武藤女、電話とり「けふ来い」と。ユに誠に相済まず12:00過ぎ忙しき中を来ると也。
梅雨晴にて一瞬一天無雲を見る。院長先生御回診に「8月6日退院」と申上ればゆるさる。
「若い者どもをはげませ」とのことにのろき晩餐(※ママ)すませし二青年と歌ひて疲る(10:15)。
10:30外出。近くの「琴」にて喫茶(650)。引返して新本屋にて『江戸雑記帳(320)』、『シルクロードのことばと言語(500)』、
『読書こぼればなし(280)』買ひて気すむ。
あとは午后5:00頃ユの来るのをまつのみ。ユ12:00来り、残飯食ひ西垣脩君の逝去を伝ふ。新聞に出てゐしと也。
庄野龍也君より「8.12来たし」と。(※暑中見舞 省略) 『花神風11号』来り「夏休みによめ」と。トンでもない話也。
13:45〜14:00までひるね、珍し。富山で39.4℃、戦後第一となりしとtelevi。夕食後四谷見附まで散歩(喫茶代500)。
8月3日
6:20覚む。よべ20:00就寝ゆゑ8.20寝し也。
暑さつづき今日も30℃より始まる。冷房はよけれどユに電話「迎へに来よ」といへば「すぐ来る」と。
ユ11:10来り、院長に退院願ひにゆく。われも小林看護と話し笑はせてすむ。
工藤克彦千葉県の採用試験のため8.8上京と。
ユ、院長さんに会ひ8月6日退院許されしと也。8.6退院ときまりしと。
地下鉄にて南阿佐谷着、川久保家に赴き15:10帰宅。彼をはげましてのち忘れ物せし事をユ、承知。
川久保置きて早々帰りしと也。電話して礼いふ。山田、築島両教授とも夕刻帰るとのことなりし。
佐伯書店17:30来り、3.8万にて佐藤春夫の本、引き取ってくれる。
築島博士よは電話くれ「近々高田の慰問会やらん」といへば賛成。高田君は電話かからず。
「丸重俊、台湾見物してまだ帰らず」といふが丸(※三郎)の返事なりし。
8月4日
高田君に電話すれば高山へゆきあさって帰宅と。築島博士に高田君の返事まちといへば「7、8日宜し」と。
船越苑子に電話すれば「すぐ来る」と。山住閣下に参れば朝食前と。白髪のひげ剃り玉はず。
中川さん9:00来り、改造してくれる。観世英夫(※観世暁夫?)より電話、欠課なくせ、私の中国文芸史は100点やると約束す。
(石田)堀口嘉子女史より「晩婚いやたのし」と便り入りしpudingひと箱賜ふ。これにて斎藤病院の看護婦への土産出来し也。
17:30看護婦長回診、あさってが院長先生の日と。
8月5日
20:30就寝。5:30覚め雪隠へゆく。小のみ。朝食少したべ、アメヤ横丁
武藤女に誘はれてアメヤ横丁(9:20-11:35)「寮(つかさ)」で喫茶。武藤女の贈物考へしに「皆不好」と。
11:35帰院。墨岡先生お越し、わが漢方を説き(※判読不能省略)
19:40浅香看護長お越しいただき、やさしく訓示さる。
ユ意外に早く来り、ともなひて新本屋にて『岩波国語辞典(1,200)』付添女史に買ひ、かくすつもりが、あけて見出し喜ばる。
夕方みな留守となり20:00すぎねて6:00ごろ覚む。
8月6日(日) ※【斎藤病院 退院】
(※ただしこの日の日記以降、意味不明個所多し。)
朝涼しく、快適なり。9:00出て日曜休店の中、ただ一つ開けるタローにゆき珈琲久しぶりに飲む。旨し。
すぐ向ひの丸正で武藤女史に買物ありと。われガマンして20分して帰院。あとユの来るを待つのみ。
12:40ユ着き、昼食平げ、13:30薬剤103,000払ひ、佃煮のコブ巻き上げ、お礼院長へ5万円、
薬剤ならびに看護婦(5万円)、付添5日分にて4万910払ひてすみ。
院長先生に婦長よりsign望めば許され3冊すむ。小看護田中氏に『世界民謡』差上げ、
飯ののこりをユが食べしあと、婦長さんのsenciで院長先生御得心。(※不詳)
(その前3冊の著書に、竹森先生へと著者のsignあるを返却、師喜びてsignもなさらなかった。(※意味不明)
田村※※に電話すれば中々かからず。ややして彼女の方より電話あり「書いてゐます」との事なり。
8月7日
6:30さめ竹内未亡人へ電話にて礼。 (13:00ごろ)
築島さんを地下鉄へユにゆかし、我30待てども来ぬゆゑ帰宅すれば駅にて待ちわぶと也。
我9:00〜9:30まで待ちしといへば、もはや大丈夫にて、「待て」といふ内、9:50ゆけば「駅下のbenchにをりし」となり。
(※不詳)駅の前にて[立]ちゐし。電話かかりしとて駅前にて待てどくらせど来ぬをいひ、我詫まって鰻汁にて昼食し、きれいな話して(※意味不明)
2人とも微酔にて14:00帰りゆかる。
丸重俊シンガポールよりたより。のろまめ!
8月8日
よべ21:00より眠り6時さむ。母の神経痛みぎ。
10:00〜11:00宮川叔子のためcopyやにつれゆき(例の名刺する家)、田村※※生に来ねばおとすと脅し、午食(このごろ4食) なり。
16:00工藤生来り、土産として田舎菓子くれる。
山住の坊や(※家庭教師に)18:20に来り、遅刻いましめれば「先生は母に10:00〜11:00ときし」神経病なり。(※不詳) 気をとりも
どせといひ、早寝する。
千葉県の田村代議士(三重一区松坂出身 ※三重2区の誤り、田村元。)夜、電話かけ来り、ガンガン叱られ一向わからず、謝りしも聞かず。
こちらより電話すれば、自ら「先生のsemiたりぬが也」と。「ハイハイ」といひ、すむ。教試受けると。よせともいへず、落ちることたしかなり。
8月9日
斎藤先生へゆき叱られ、大学教務より辞職願の届け書見本を呉れといへば、
総務部長に会はんとせしもその要なく見本2通を呉れ、ユとともに図書館にゐる管理人に会ひて礼いひ、
昼食を少しとり2,800払ひ、成城の和定食殆ど食へず。
ユに「待て」といひ、成城堂4,550、母上はと云へば亡くなられしと。アイヤといひてすまし、
帰れば高田(※電話で)さすがに「そんなこと(※不詳)通るか」と断言。
(※高田瑞穂宅へ)お土産beerと刺身(2,000余)もち、赤電話にて「今ゆく途わからず迎へに来い」といひて南口で待てば、
なるほどわかりにくく、田村代議士のこといへば「問題にもならず」と大様なり。うれし。
北口にてtaxi拾ひ、道、ユ教へ、阿佐谷駅南口に着きtaxi1,500払ってもらひ、佐伯に寄れば水曜休み。
入りて奧さんに聞けば(※ツケ)大した額でもなく、
戸田謙介氏にあひ「開亭主人のペンネームにてかきたし」といへば「よからう2pageにても良し」云々。
警妻会作らんといへば「わしはこわくない」といひ二日酔いとて昨日届けしことも忘れをり。
奥様には話通じ、喜び、丸重俊20:00来り『台湾地図』とknifeと長寿牌2ケを土産に呉る。
20分して帰りゆきうれしや、入浴し21:00臥床。22:00眠りし由、ユに教はる。
8月10日
7:00起き快便をし、(※以下空白)
昭和53年 8月8日〜昭和53年12月 3日 副題 原爆をとりこわせ『瘋癲日記(ユ執筆)』
25.2cm×18.0cm 横掛ノートに横書き
8月8日
田村※※の父代議士より※※怒りをり云々、次の電話にて本人出てわが「笑談」をまにうけてきかず。
例の如く悪きくせ。関西弁と関東弁の違ひ高田君に云って去りがけを旨くせんとす。Ahmen!
8月9日
佐伯書店にゆき4,500の払ひをし、11:00国鉄。11:30教務課と総務課の間をせき(※急き?)、併合鍵で研究室あけて貰ひ、講師室畑女史留守となり。
教務課に礼云ひ、総務課に退職願2通ただで貰ひ、成城堂はねるを見て定食(600×2)ちょっととり、
高田君に(※保護者からのクレームにつき)助け求むれば「そんなこと気にするな」と。
持ちゆきしbeer(900×6)刺身(1,200)をもち、駅南口でまっているとのことに、彼現れる間10分の永かりしこと。
Lemon(※不詳)のお返しにゆき帰りはtaxi(1,500)にて阿佐谷駅につき、佐伯の休とて返事きけず。
8月10日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆)
今日はむし暑くいやな日なり。朝、水やくのめどもちっともねむくなく便意あれども出ず、風呂と便所の間を六度もいったりきたり少しづつ出たが、
長谷川先生(歯科)に行くとだだをこねるので、築島先生にお電話すれば、先生風邪でお休みで、奥様が日曜日はやっておりませんがとのことで納得す。
川久保家に電話すると明日11時頃なら行くと云われたのを午前中待ち、来ないのを、承知だと云って夕方、重い袋さげ川久保家に行くと云うので、
ついて行き10分ばかりするともう一人で帰ったとのことで、奥様と話をしていた。私はかけ足で家に帰ると五分程遅れて、おもいおもいと帰ってきた。
留守中、京がきたと手紙と土産があった。(※省略)
水やくはききめなく、よく怒ったが、夕方食事後ねむり(7時−9時)、その後最後の薬のみ、朝5時半まで眠る。
だんだん静かになってゆくらしい。食事もわりと食べた。
8月10日
7:00、9時間の眠りよりさめ、きのふ戸田家留守なりしこと、鎌田、大藤のこといへば答へず
「そんなこと俺は某女よりききし」と。「ペンネーム承知。明日もて来い」と。
1.500の月々お礼するときめ、宿酔の戸田大人(※戸田謙介)そら返事せし。
わが[病]も「後刻一診ののち可■哉」と也。(※不詳) 「カカア殿下会長となれ」
といひしも「風呂へ入れ」と、水よりぬるゆに変へて入り、
水ブロ入り爽快なりと也。
8月11日(※前ノート)
(※悠紀子夫人代筆)
朝9時、家を出て病院に薬取りにゆく。弓子は10時頃来てくれた。朝早くおきたので食事2時間位ねていたらしい。病院は休診日なり。
水曜日にゆくこととし、もとの薬なり。晝食事土産のサンドイッチわりにたべ、又弓子が帰るとねる。(1時半位)
8月11日
ユの眼明かぬ内、南1丁目1にあり。花籠部屋探せしにわからず参ったことに(※以下空白)
8月11日
5:00さめユ起るを待ち、1時間の散歩(5:30〜6:30)し了へ爽快。西川に電話し、夕方夫婦でゆくと云へば夫人喜ばる。
8:30壁塗りとて中川さんみえらる。母に電話すれば神経痛の手当してもらひ、以後我家に来ると。
大来り「母来る」と。なるほど母ねてをり。時々我がいふことに肯く。
ユ、篠田博士(※篠田統)の「10日肺癌で逝去」と可惜。但し78歳と。喜ぶべきか否かわからず。
ユ喜びに、よし関係なしと。「前沢外科(1週に1回)一寸きいた」と。
8月12日
5:00ユの眠る間に脱去、朝鮮学校閉ぢ、大、西川満(※の家)ともにわからず、柏井に行けば、尚子をり。「お兄さん」といふに気まぐれ。
タバコありマッチなしといふにすぐもらひ、7:30帰宅。朝食くひしは午后、きけば「戸田さん原稿を投げ」(※繙読不明)夫婦して呆然とするのみ。
『民間伝承』をしらべれば(※以下繙読不明)
8月13日(日)
ユを礼拝に追出したあと佐伯来り、端本と借金とで2,000呉る。喜びて飛び廻るをやめ、来し大と、神経痛といふ母の甘えたに2人とも困りゐる処へユ礼拝より帰り、
喜びで大を「談炉館Petit Palais」にゆき「田中克己のこと書く」時のために役立つといひ西島家のことはわからず給仕たちに(※以下繙
読不明)
10:30大来り、12:10ユの止むるをきかず、複写させ、ユに「よろしくと伝へよ」といひ、これが常識といへばうなづいて、
本多家にて「わかったわかった」と逃げゆく。時に13:40也。(※以下繙読不明)
八月二〇をすぎるとダメ。来る時はいい店「談炉館」で来れば(※以下繙読不明)
8月14日
朝5:00にさむ。丸家にゆき意外にも(※療養中の丸三郎)元気でともに喜び、カカア共の悪口云ひ霊山の翁草の礼云ひ「重俊呼べ」といへば出て来る。
叱り乍ら、途案内どころか色々教師のあり方おしへ、そのあと「また来い」といへば「ハイ」と答へ帰りゆく。(※以下不詳)
(※悠紀子夫人代筆)
午後より川久保家にゆき丹波(※鴻一郎)と三人で土曜日に会をしたいと思ったが丹波の都合であとにのばす。四時半帰る。
8月15日(※悠紀子夫人代筆)
朝8時半家を出て病院に行く。相変らず口数多くにぎやかで歌をうたう。先生が今の薬をもう一週間くださる(高いのをおさえる)。
東豊にゆけば簡さんと(※以下不詳)
8月16日(※悠紀子夫人代筆)
起き、方々に電話してもかからず、大に電話すれば「至って元気」(※省略)10:00宮川来り、素麺食はし下書預かる。
13:00彼女クルクル舞して帰り15時ごろ三治夫人より子供自慢の電話。
夜、ユ顔色かへてドナリ、夜の散歩やめ8:30薬のみ、9:00にはいびきかきし由。ふしぎにもありがたし。
8月17日
6:00さめユのゐるところの(※以下不詳)
8月18日(※悠紀子夫人代筆)
今日は川久保10時に来り、おこって帰った。1時間ひるね。
手紙も葉書も支離滅裂で心配なり。日記も書けぬに弱り、佐伯にゆき、オヤオヤと思ひしは(※以下不詳)
『上田敏全集(12,000)』あと2巻で終りとしてくれとたのむ。
21:00より6:00まで眠り、2:30〜3:30までユの眠り妨げ、6:30覚めユを叩き(※以下不詳)
8月19日
24:00にねて2:30さめ、ユに叱られながら6:30朝食とり、ユに叱責愛情のあらはれ、
ユにいはすれば「利己主義(自己中心で他人かまはず)不可思過去」と叱られ、hysterieかと心配せしも、佐伯で1,800をかりて帰る。
(※以下、悠紀子夫人代筆)
西川英夫、自動車で13:30頃来てカステラ一箱土産に一時間程してコーヒー館に案内して帰る。
16時より一時間半ひるねする。夜は22時にねて、夕方からはたいてい少しづつおちつく。
今日で中川さんも畳屋さんも終り、月曜に荷物かたづけに来ることになる。
8月20日(日)
(※悠紀子夫人代筆)礼拝をやすみ、八時半頃、家を出て佐伯書店前にゆけば閉店なり。国鉄にて病院に行けば相変らず躁にしてさわがし。
先生にもの忘れと知力低下とを云えども、ただ考え込むばかりで「来週の日曜日に来い」と。
さわぎながら「ジャックと豆の木」でコーヒーのむのをガソリンスタンドの蔭で待って、東豊に行くと千駄谷駅を経て歩く。暑い日なり。
途中、老人を見るとしきりに上官だとわけのわからぬことを云ってケイレイをするので相手はただわけわからぬ如し。東豊は休み。
阿佐谷の佐伯書店で1,800返し又530買ふ。花屋でキンカン1,000、ねむり草100買ふ。風呂に入り晝食後13:50にひるね。
午前中はまだまだ躁が多い。これで躁4ヶ月つづく。いつになったら落ち着くのだろう。もうつかれた。
[といひ13:00ユの命令にねしも駄目(※ここのみ本人筆蹟)] (※悠紀子夫人代筆)なり。
いけないと云ってもだいぢなcoffeeだと云ってcoffee屋にゆき、
ずい分おそいので眼鏡屋にはしってゆき、注文した眼鏡受取る。5,500也(ふちだけ)。一番古い形はこれしかない。
19時にpetit palaisより帰り又々借金。1,700もって返しにゆき夕食むりに一膳たべた。
それから田村先生に手紙を出すと便箋2枚に書けどめちゃめちゃにて体をなさず。あきらめて22:00ねる。
8月21日(※悠紀子夫人代筆)
朝6時起きる。電話の声にびっくりして飛び起きると主人が山住さんのお老人(※「山住閣下」)に掛けていた。
奥様が「まだ主人はねていますのでいづれあとで」と電話きれた。まちきれず佐伯書店に行く。
中川左官屋さん三人みえて荷物をかたづけてくれる。急いで太陽銀行に行き金を出し、中川さんに330,500、畳屋さんに45,000をはらう。
佐伯さんのかり1,200、コピー屋のコピーと茶代合計3,700なり。いくら云ってもわからないので、はらもたち泣きたいくらい。
丸夫人13時すぎ見えてうにと肉のつくだにいただく。御主人(※丸三郎)の事こぼし、これから気ばらしに娘さんの所へにげてゆくとのこと、同じ気持にしみじみ同情する。
家中、本でかたづかないが、あまりせくとつかれもひどい。そのまま早く(20時)ねかせる。
8月22日(※悠紀子夫人代筆)
午前2時におこされたので朝の薬をのませるとそのままねて5時頃おこされる。その後、洋服きて畑さんの学校出勤にあわせて九時すぎ家を出る。
心配でたまらず、ついて行こうとしたが一人でためしてみたいと行ってしまった。
電話10時にかけるとまだ見えない。中田さんがさがしてくださった。すぐ電話あり元気そうだった。
タクシーで真っすぐ、より道せず帰るよう頼んだが、タクシーで家まで来ず、
小田急口の前でとめて、金がないとて(家からは4千円もって出たのに)、もってこいと云ふが、
タクシーで家まで来るをこちらではらうと云へど、さっぱり帰ってこない。ぢいーとして家出ることも出来ず。
その内12時前、電話で「お宅にこう云う人はいますか」と運転手の声なり。2,500返してほしいと云って区役所まで来てほしいとのこと。
あわてて1萬円をくずし飛んで出て廷から入れるようにして、いそぎ帰れば(タクシー1時間待ちの金もこみ3,000円運転手に礼をする)、
(※省略)晝食は3時なり。風呂に入り相変らずぶつぶつとする。まだまだ思い込みと希望的な思い込みがなほらない。
学校で築島先生に電話した。小田急14階でお待ちかね、一緒にスープをのむ。タクシーはまたしたままわすれた。
小田急で1月分の定期(新宿-成城)を買ったつもりだが帰ればなかった。明日探す。定期券、手帖の内より拝見1ヶ月3,000也。
夜、方々に電話するがちぐはぐなり。20時ねる。
8月23日(※悠紀子夫人代筆)
明方4時半おきてごちゃごちゃ云うので朝食後の薬をのませると5時半頃またねる。6時半頃おきて一度、佐伯が休みだというのに行く。
それから11時、寿一さんが来るまで家にいる。寿一さんに葡萄とラムネいただく。ソーメンを一緒に食べ1時間半位するとつかれて落着かず。
coffee屋にゆく。花屋にて花二鉢買って帰る。寿一ちゃんは自転車で帰る。その後風呂に入り、ひるねもできず、夕食す。
19:40頃、母の家にゆき30分して出て五叉路まで来て河北の所の道を私はゆき、違う道をさっさとゆく。9時前帰宅。
主人は23時ねむるが4時頃めざめ朝の薬のむ。
8月24日(※悠紀子夫人代筆)
朝6時おき散歩に出る。
帰って「旅行(近鉄)の申し込みした」とい云ふので「まだだめ」と云うと「先生の顔をつぶす」と怒り出し暴力を振るう。
後、河北のそばの本屋に2千円もってゆく。午後弓子きたり話相手がありたすかる。夕方より元気なし。鬱か。
この様子、二三日前よりあり。今日便通なしとて大あれせるがやっとあった。やれやれ。
その後は気持落着く。散歩などして学生まつが来ず。
弓子下の子を連れて来る。本かたづけしてもらうがすぐ「休め」と云っておしゃべりがたのしいらしい。
夕方5時すぎ帰る。夕方よりやや声ちいさく軽い鬱の様子。
夕食後、ねむくなり9時やすみ、明方四時頃一時目ざむ。又そのまま2時間程ねて朝七時半おきる。
8月25日(※悠紀子夫人代筆)
朝、ねむりたりて調子よく、9時半ごろ川久保さんのところにゆく。2冊買う。
10時家より電話かけて書原(区役所の前)で逢ひ、又4千円渡し(朝の薬はのませず)体重ハカリを買う。2,450円也。主人体重36キロ。
晝食後、小岩の歯科に行くとて総武線にのる。やはり歌が出るので小さい声でとたのむ。
駅に下りても蕃地もわからず名を思い出せず。やっと14:30にみつかる。3時からと云ふので私一人門前に待ち、
主人近所のそば屋に行き、3時に開き、急いでむかいに行くとまだなめこそば箸つけたばかりで600はらいてゆく。
待合所でお客と盛んに話し歌を唱うので「(※ここを紹介してくれた)築島博士の顔をつぶすな」と云うとおこる。
自分の番になりおとなしくなるが、部屋から出てくるとむりに私をおし込んで「歯をぬいてもらへ」と云ふので、
先生に「今度」とたのんで、駅まで来ると「この辺は土地が安いからここへこよう」と云ってきかないので、1人でさっさとキップを買う。
彼も100で買い、同じ電車に乗ったが阿佐谷でさがしてもいないので先に家についた。主人は丸家による為、中野で下車。
古本屋にて5,000の本たのみ、丸家わからず電話して重俊さんにむかえにきてもらひ、夕食いただきおくってもらう。
入湯して9時半ねむり薬のむ。今日は夕方も躁なり。曉方3時おきて4時薬のむ。
8月26日(※悠紀子夫人代筆)
7時半おきて静かなり。朝、太陽銀行にゆき金を出し印刷屋に名刺代2,700払へば「変な暑中見舞主人にたのまれた」と原稿をみせる。
今度からはすべて私に電話するとのことにして家に急ぎ帰れば佐伯さん来ていて古本5,000也で売る。
今日はわりに静かに晝まですごす。3時すぎ中野の十月書房に昨日の借金15,000をはらひにゆき帰ると、
「田中於菟弥さんに電話したらすぐ来い」とのことで、ゆくと出てゆくので小遣2,000もたす。
幡ヶ谷3丁目を探したが「わからない」と電話があったので「自動車ですぐ帰れば杉並区役所前でまつ」と云ったが、
耳に入らないとみえていくらまってもこないので20:30頃、田中様に電話すると
「近くのメイゾンと云う食堂より電話あったがそんな人はしらないと断ったら代々木警察に保護してある」
と云うので、急いで阿佐谷駅前の交番で場所をきいている所に大さんもきてくれて二人で自動車で行く。
躁心の主人をつれて帰りしみじみ話すと「わかった、わかった明日から気をつける」と。ねるともう24:00す
8月27日(日) (※悠紀子夫人代筆)
(この日より煙草やめ) 暁方5時前よりおきてごちょごちょ1時間位話し、朝食後の薬をのみ8時半おきて急いで病院にゆく。
五六人待ち、やはりにぎやかなので婦長さんに早く入れてもらい、
(※斎藤茂太)先生にこまったことをお話すると「外出禁止、電話かけぬ」と約束させられ得心して入院せず帰る。
アイスクリームをたべ、真っすぐ帰る。その後静かなれど和田夫人見舞に来るや突然おこりだす。
「わざとおこったふりをするのだ」と云うがいつもの通りだと思う。
佐伯さんにことわりを云う。家に静かにしていれば早く良くなると思う。
8月28日 (※悠紀子夫人代筆)
朝7時半から散歩。1時間して帰る。切手と葉書買い10円もないとて他人にかり100円返すと相変らずおしゃべりやまず。
午後1時「川久保宅に行く」とて近所の鈴木さんに寄り話し、川久保さんについたのは3時頃。
電話をかけるとすぐ帰ってきたが途中で「川久保さんをなにかおこらしてなぐられた」とか云うが「思い込み」と相手にせず。
自分で電話をかけてひどく奥様にどなる。川久保さんに2,000お借りしたらしくお返しする。(※省略)
ふらふらするので山住先生に行けば血圧170.大変心配されて、帰り主人に明日から外出せぬ約束させる。
まもられたら再入院せずにすむか最後の望みを托す。夜九時半ねる。
8月29日(※悠紀子夫人代筆)
4時起き風呂に入り又2時間ねむる。今日は約束よくまもりおだやか。食事もせいだしてたべる。
晝からも出ず、風呂に入っている時、山田先生より電話あり。T学生(※田村生)とのトラブルの話を御ききになったので、
ざっと(※今般の病状悪化につき)説明して後、主人電話口に出る。「大したことなし」とのことで安心したらしい。
カードはいづれ休み中にとのこと。御自身熱があるとのこと御大事にと電話を切る。
今日はやはり夕方より口かずも少しへる。夕飯は少々なり。
8月30日(※悠紀子夫人代筆)
保険の集金人に午前どなるので病院にたづねて「もう少し[(※薬を)強?]くしてほしい」と云うと
「入院するほうがよい。府中に行ってきいてみろ」と云うので電話すると「明日こい」とのことで、
電話して弓子に午前中の留守たのみ1日中やはり調子悪し。
歯科にゆくつもりで丸家に忘れた歯の薬もらひにゆき、駅近くで餃子3人前買い、たどりついたら12時すぎ。
晝たべて血圧高いので(私)やめて又レストランの前を通るとすぐ「はらへった」と云って中に入ったので、
表で待っている内に家の火元が気になって先に帰ると1時間程して電話あり。
高円寺のガードの都丸まで来いとのことで、はあはあしながらゆけども姿なし。
帰りに佐伯さんに寄っておばさんにたのんで家に帰る。
8月31日(※悠紀子夫人代筆)
今日は主人の誕生日。朝から弓子、子供二人を連れてきてくれる。
五分程して寿一ちゃんもきてくれたので、急いで府中の病院に行くと相談料1,200円也。
先生は息子さんだった。なんの助けにもならず「病院は九月まで満員」とのことで、
こんなでは主人はどうしても家で自分が守らねばならないと今さらながら決心する。
家に帰ればわりあいなごやか。やはり寿一ちゃんのおかげ。夕方佐伯さんに行くと大さんに逢い同行してくれる。
夜、コピー屋さんの御主人、本を持って家まで来て安心して帰る。夜9時すぎねる。
夜中2時頃、朝の薬を1袋のむ。トイレでとんとんと音がするのでおきてゆくと目をつむったままトイレの中でとんとんと壁をたたいているのでつれて帰ってねかす。朝の8時半おきる。
9月1日(※悠紀子夫人代筆)
朝、出かけると云うのにかぎを入れたさいふがないので夕べのcoffee屋にさがしにゆくとやはりあった。
阿佐谷駅よりタクシーで成城大学までゆく(2,400)。畑さんには逢えず1時頃八木美枝子さん来る。
お子さん二人連れて卒論を返す。駅からタクシーで重い本を成城堂で買い、東豊でラーメンを一つとってもらい、
少々のしるとめんをたべ残りは私が食べる。電話、京の声をたしかめ家に先に帰れば健ちゃん元気。
その後佐伯より電話かかり「主人今から帰る」とて安心する。やれやれ。
風呂に入りいつもの通りねむくなり、夕食はいつもの通りいやいや少食なり。
今日は秋らしいさわやかな日で大変ありがたし。丹羽家より仏事の返しあり。すぐ主人電話すると「9月24日の父の米寿の祝に上京する」と。
9月2日(※悠紀子夫人代筆)
朝食もスープとバナナだけで相変らず少なく、砂かむ様だと云う。午後、坂内生来る。本かす。
その内小林家四人見舞に来る。ぶどうと菓子土産に・・・。
小林さん心配して駅まで一緒にゆけば、一人で佐伯さんにより鉢の花とダルマスイレンと買い、すたすたと背を伸ばして帰ってきた。
宮田家具店より主人の買ったものとどく。夜は九時半ねる。ねむいらしい。
9月3日(日) (※悠紀子夫人代筆)
朝おそく、朝晝も急いで国電で病院に。相変らず先生の前ではおとなしいが待合室ではにぎやかで、早くしていただく。
「鬱になったらすぐしらせる様に」とのことだが、なかなか待ち遠い。
タクシーで成城に行き、急ぎ大さんに電話で、佐伯さんを学校前まで来るようたのむ。
(風月堂でココアとサンドイッチを取ったが二口たべて学校へ)
日曜のこととてどこもあかず女の用務員さんに(※研究室を)あけてもらう。
1時、佐伯さん来る。息子さんと二人で(※売却本を)かついで国電で帰るとのことで、駅まで行こうと出たが、
途中、道でへたばったのでタクシーで家まで、区役所前でおり、又、川久保家へ。家から電話して迎えに行く。
「書原」で本買って借金支払い明日ゆかねばと思い、帰ると四時。ねむいねむいとそのままねてしまう。
おきたのは12時半。夜食たべさせまたねかす。
9月4日(※悠紀子夫人代筆)
朝6時。朝から3度も佐伯さんにゆき、今日は寒いのでウールの着物きせる。
佐伯さんに又学校に行こうと云ってことわられ、さいふももたずタクシーで学校にゆき会計で金かせと云ふと電話あり。
そのタクシーで帰るようにたのんだがなかなか帰らず、渡辺家に寄りおなかすいたとすいみつなどいただいて又学校へ。
島野事務長より電話あったのでタクシーで帰していただく様たのむ。
主人に渡すとつかってしまうので、佐伯書店より50,000私が受取る。40分に駅前交番につく。2,010渡し、佐伯さんで水もらい薬のます。
その前に病院にたのみ、もう少し外出しない様、水薬を大さんにとって来てもらっていたのを、家に帰り水と一緒にのます。
一日二回1ccづつなり。
それでも又学校へと家を飛び出すので、大さんにしらせ、交番前でやっとつかまえたが、
どうしてもタクシーにのると云ってきかないので、運転手に手まねで後からことわると、おこって交番の前でなぐったので、
巡査さんにたのんで中に入れてもらい、その内、大さんも来ていやがるのを家につれて帰る。
水薬もう一回のます。おじやをスプーンで口に入れてやり、おいもを半分位たべ、くず湯のみ、ねむいとて七時半頃ねて、
2時おき最後の薬のみねむる。鬱になってきたらしく泣きながら話す。夕方はきすてた薬を素直に「のましてくれ」と云う。
9月5日(※悠紀子夫人代筆)
朝8時おきる。築島先生に電話して主人を出す。「午後きてくださる」とおっしゃるのに、朝の内だと云って1冊の本を持って佐伯で1,500に売り、10枚の暑中見舞をはらってくる。
酒屋で5,000のウィスキー「先生の土産に」と取って帰る。弓子11時すぎ来てくれる。
花井たづ子さん、なにもしらずに来てくれ自家製の梅漬いただく。一緒に素麺いただくとめずらしく沢山たべてくれるが薬はいやだとのまず水薬のむ。
築島先生にこんこんと外出せぬことをいっていただき歯科は長谷川先生と教えていただく。
主人、感謝して先生をお帰しして弓子も帰りひるね1時間する。夕食時の薬ものまず八時に夜の薬のみ8時半やすむ。
いつも今日の様であることを神に祈り感謝する。
9月6日(※悠紀子夫人代筆)
朝6時すぎ起床。7時すぎ朝食おじや半杯と豆腐1/4、鯛と三葉の煮物、もも1個。声ひくく鬱にうつったと思ふ。
退院後1ヶ月なり。よくしゃべるので(泣き笑ふ)、病院に電話入れると、やはり食後の薬をちゃんと飲む様に云われる。
風呂に入り(※省略)ガスの元に水が入ったとみえてつかず、それでも水の中に入ったままなので、風邪ひきになっては大変と、けんかしながら出す。
それでも、わかぬ風呂に又入ろうとする。水薬のせいか、変なことをするのでとめるとおこる。
とうとう風呂の火口まで水が入ったのかゴボンゴボンと音がして炎が高く上がるのでやめさせて、
(※再び斎藤病院に)電話をかけると「明日朝行く」というのに、又水風呂に二度も入ろうとするのでやっととめて、
その後は、うとうとした所へ京が健ちゃんを連れてきたが、ねていたので買物をたのんで帰ってきた所へおきてきて、
三十分もすると、もううるさくなったとみえて「早く帰れ」と云ふので、八百屋の角まで送る。
風呂屋は(※修理費)55,000、20回払ひ。今日はテレビをよく見た。八時半ねる。
9月7日(※悠紀子夫人代筆)
朝6時半起床。朝食スープのみ国電にて「しんどい、しんどい」と云ひながら病院。章二先生(※現斎藤病院長)なり。
「今は落ち着く境い目だから急にはね上がることもあるので気をつける様に」とのこと。
学校にゆきたくなったのを止めていただいて東豊により本三冊買ひ、ラーメン少々たべてはらたてながら家に帰りおじやをたべる。
やはり外出するのはよくないらしい。すこしおこり、後は七時半からねむり夜の薬は9時にのむ。朝6時おき。
9月8日(※悠紀子夫人代筆)
昨日副院長先生にもうしばらく水薬のませ、との事にて朝1回にする。
便所に五,六回通ひ風呂に1分も入らず四回程出入りするので、はしって北口までゆき浣腸薬買ひ、するがあまり出ず。
十時のおやつと晝食わりによくたべ、朝の内1時間半程ねておき「戸田先生にゆけゆけ」と云ふ。
1時半頃出て3時に帰ればおきていて食後の薬のませそれからよくね込む。外出はせず。
9月9日(※悠紀子夫人代筆)
今日は朝食もそこそこに国電にて千駄ヶ谷下車。
おなかすいたと駅の立食いそば屋にてうどん一つたのみ二口ほどたべて病院に行くと八人位であまりおしゃべりもせず。
傘が傘立てにあり、つえにして若先生に「外出せぬ様、今が一番大切な時だ」と云はれ、
学校に行きたいのをがまんして東豊だけにより、ラーメン少し食べ家に帰る。
佐伯さんにより本500買う。あるき方もとぼとぼした感じ。ねむい様子なり。
9月10日(日) (※悠紀子夫人代筆)
よくねむる様になる。
9月11日 ※記述なし。
9月12日(※悠紀子夫人代筆)
朝、電話をかけると「水薬を取りに来い」との病院の話で、弓子に電話して12時頃来てもらう。
11時頃、姑、前沢病院の帰りとて雨の中をたずねて来る。主人ねむそうな声でつっかかるので皆、洋部屋にゆかせ、
その内、弓子3人が来たので(※留守番を任せ)、忙いで国電で四谷へ行くと1時すぎなれど20人位待っていた。
薬のみいただき、老人の日に来ることにする。「段々薬もきいてきたのでもう少しの辛抱なり、けがをさせぬ様に」
と云はれるが、どんな薬のんでも足はしっかりしている。
食事ごとに1時間半はねる様になるが、いつも食堂からうごかないのでこまる。
だんだん口かずも少なくなる様だが時々大きな声を出す。
夜は八時からねて10時におきスープをのんで最後の薬のみ朝6時までねる。
9月13日(※悠紀子夫人代筆)
食後1時間半づつねる。水薬のせいか外出もせず。今日も雨なり。秋が急にきて冬物の用意に気がせく。
無口だがときどきつっかかる様でまだいらいらがあるらしい。テレビ新聞もよく見る様になった。
「おなかすいた、すいた」と云うわりにはたべないが、一日五回位にしておやつはくだもののみ。
9月14日(※悠紀子夫人代筆)
今日も雨。無口。時々わけのわからない事をきく。よくねてよくテレビ見る。
今日はつかれて夕方から私がただねむくてねていたが、一人でテレビ見て夜10時ねる。朝は7時起床。おばあさんの敬老金取りに原田様にゆきいただく。
9月15日(※悠紀子夫人代筆)
朝8時半地下鉄で病院にゆく。道もはっきりしないらしい。8人程だった。先生が
「だいぶ静かだから水薬はやめて食事の薬も1つへらし、夜は玉1個にする様に」とのこと。
帰りは渋谷へ行きたそうだったがやめる様に話すと国電で帰ることにする。花屋で球根買いそうになるがやめて帰り、
ひるねをして夜は一人で11時頃まで茶の間にいてねむくなり、玉1個にてよくねむられる。ありがたし。
9月16日(※悠紀子夫人代筆)
朝8時半おきる。おきぬけは多少おかしいことが多い。
病院に昨日行った事はすっかりわすれ幾度も「行こう、行こう」とうるさく云う。昨日の事がわからない?
午後ひるね1時間半。あとテレビ見て外出せず。雨のせい。
笠原様より結婚の招待状来る。10月22日也。佐伯さんに行くがなにも本きていなかった。しいたけ上げる。。
(※絵の先生の)戸田先生をやすむ。主人しきりに本をよんでいる。口数ほとんどなし。
黒田さんより電話(※省略) 夜、主人11時ねる。
9月17日(日) (※悠紀子夫人代筆)
朝8時半おきる。朝から例の通り風呂とトイレ8回。今日は1日中本とテレビ。京と健ちゃん3時頃来る。
京には落ち着いているが私には口が出にくい時がある。食事も前よりは「すいた、すいた」と云わないのは鬱のせいか。
教会にはまだまだむりと思う。夜はテレビ22:30まで見てねる。(※省略)
9月18日(※悠紀子夫人代筆)
雨。よき便あり。弓子子供連れて晝きてくれる。1日家で本、テレビ。
9月19日(※悠紀子夫人代筆)
床屋へ行けどもどうしてか休みなり。本見ながら時々「まいった、まいった」と云う。晴天なれど散歩もせず。
食事わりに進む。母、晝病院の帰りによる。夜10時にねる。
9月20日(※悠紀子夫人代筆)
朝7時起床。「病院には行かない」と云うので1人で病院に行き院長に薬をへらす様にしていただく。
帰ると11時すぎ、床屋に行きて帰らず。だんだん忘れることも少なくなる。
夕方、小林さんより電話あり、急いで中村屋にて菓子買う。明日は婦人会に出席できそうなり。もう少しのがまんがまん。
高橋生より電話「金曜の午後来宅する」とのことなり。
9月21日(※悠紀子夫人代筆)
朝、弓子に電話して来てもらうことにして婦人会に行く。12時帰ると姑もきていて皆で支那まんじゅうたべる。
留守中、山田部長先生より電話あって「3月までゆっくり休んでよい」とのこと。野原四郎先生よりお見舞の電話、
「中国にゆかれる」とのこと。又筑摩より原稿の事で電話あれどことわる。
日増しに元気になってくる様子。今日からなんとなく煙草ほしくてのむ。(この日より煙草のむ。) (※省略)
9月22日(※悠紀子夫人代筆)
変った事なし。なんとなく卒論の下書き直しをして、ひるねをする。つかれたらしい。
9月23日(※悠紀子夫人代筆)
晝から(※自分が)戸田先生の所へ(※絵を習いに)。京に20,000貸す。雨。佐伯で本買ってくると晝、
野原先生の電話を少し変な風に話すのでやはりまだまだだと心配する。
夜は10時半までねず。。
9月24日(日) (※悠紀子夫人代筆)
雨がひどいので林家に祝いに行くのをやめて、朝、弓子をたのみ教会にゆく。帰る頃には良い天気になる。
3時頃、築島先生がわざわざ訪ねてくださってはげましてくださり、
「ゼミは家でしてもよい」とのこと。心配だが主人はよろこぶ。
夜は遅くまでおきて11時にねる。調子が良いとよろこんだ。
9月25日(※悠紀子夫人代筆)
朝から散歩に出た。少々調子がよすぎるほど朝からにこにこしていた。10時すぎ柏井に歯をみてもらいにゆき姑の家により、
晝帰ると弓子が子供連れて晝食をたべさせていた。
調子が高いので食事の薬のませるが、ますます高いので3時のおやつのあと二つにしてのませる。夜はまた2つにして食後のませる。
合計5つぶになる。あすは先生の所に行き相談するつもり。
山住先生に行き血圧はかると165で、やはり急におどろいたので高い。胃もおかしいので薬いただく。
9月26日(※悠紀子夫人代筆)
朝9時すぎ病院にゆく。ずい分まって先生に昨日少し高くなった事を申し上げたけれど
「いつもの通り朝夕一錠づつでよい。あの薬はなるべくへらすつもり」とおっしゃる。
忘れることもだんだん少なくなるのは大変よいこととおっしゃる。夕方、昨年の卒業生の早川さんが梨をもってお見舞に。
福井の笠原さんと時々混同するので話がおかしくなる。
9月27日(※悠紀子夫人代筆)
午後1時すぎ坂内さんと宮川さんが来る。まずまずの調子だが時々二人を混同する。
帰るとやはり少々調子が高くてよくしゃべる。夜も10時半までおきている。1錠半のましてねる。
9月28日(※悠紀子夫人代筆)
※記述なし。
9月29日(※悠紀子夫人代筆)
野口先生と山田先生よりお電話「病院の診断書を出して今年一杯ゆっくり休む様に」とのことで、日曜に(※診断書)たのむことにする。
夕方、松浦の母上が松茸をとどけてぶどうを見舞にいただく。一日中どちらかと云うとしづかに食事すすむ。
夕方からねむく九時すぎやすむ。((※自分が)柏井にて歯をぬき赤ちゃんをみせてもらう)
9月30日(※悠紀子夫人代筆)
朝より口数多し。松茸すしを作りすだちを持って銀行にゆき、佐伯さんにすだちあげ姑に寿司とすだち渡し、柿を買い、
急ぎ帰り、京が来たので健ちゃんつれて戸田先生にゆく。
1時間程してねてしまった健ちゃんをつれて家に帰れば、京がおしゃべりの相手をしてくれて、四時すぎに松茸ごはんを持って帰る。
今日は晝も薬をのませたせいか時々こんらんする。食事は多し。9時半薬のます。明日は院長に証明書を作ってもらうこと。
10月1日(日) (※悠紀子夫人代筆)
「神経症の為3月末日まで加療休養を要す」
だんだん躁が強くなる。病院にゆけばしゃべりつづけ人まちがいをし、帰ってからもしゃべりつづけて夜はますますはげしい。
食事もあまりたべず、でたらめが多いので心配だ。先生は「老化もなく大丈夫だ」とおっしゃる。
夜は2錠のませてまたかかえて床につれてゆく。
10月2日(※悠紀子夫人代筆)
朝は6時半におきる。8時間半はねむった。朝からにぎやか。水薬のませようかと迷うがやめた。
食事もあまり進まず又また死の話(※癌の恐怖か)ばかり。又入院前にもどった様子。新聞もテレビもあまりみず夜は一錠半にて10時半にねむる。
10月3日(※悠紀子夫人代筆)
やはりおしゃべりつづく。もう自分のがまんも力つきた感じ。なにもかもつかれた。
夜は五時間半ほどしかねむらず。病院に電話すると「明日薬をとりにきて」とのことなり。
10月4日(※悠紀子夫人代筆)
朝、弓子に電話してたのみ、大さんにも電話する。病院にゆけば10時半。院長先生の日なので30人位まつ。
おしゃべりと思い込み、人違いなど話すと、
今度入院の時は総合病院の内科ででなければだめで、それにはもっと良くならなければと云われ、
それでは入院することもないとあきらめ、水薬もらって帰ると弓子も主人も留守。
十分程して主人帰り、戸田先生の所にすぐ行けと云われ、かけてゆけば黒田さんもいる。
お茶いただき土曜に絵をもってゆくことにして帰ると、となりの奥様が表に主人がいてこまるからつれて帰ってくれと云われ、
おどろきつれにゆくとなぐりかかるので、家に帰るとけろっとして帰ってくる。
もう恥もおどろきもきえてただなさけなくなってくる。すぐ薬のまし、夜ももう一度のませたがきかず。ねたのは12時半すぎ。
一晩中うとうとしておきると6時半。主人はトイレと風呂場をいったりきたり、下着だけでも四組程よごす。一日中雨。
10月5日(※悠紀子夫人代筆)
雨で洗たく物山積みするがなにもするなとうるさくて躁やまず。ますますでたらめ多くいつも夜になると死のおそれに目の色変る。
食事もおちおちせず。築島先生に電話して、ただのやすみをとったことを、明日御自身でいっていただくことにする。
大さん午前中1時間程きてもらう。
10月6日(※悠紀子夫人代筆)
朝、苑ちゃんに電話してきてもらう。あめもらう。12時すぎ京きたがねている為、公園に行ってあそぶ。
10月7日(※悠紀子夫人代筆)
ますますはげしく躁になり食事もあまりせず死のおそれあり。夜はことにひどい。
10月8日(日) (※悠紀子夫人代筆)
家からあまり出ず、1日中茶の間に座して、その前にすわらねば承知せず。家中なにも出来ず、風呂に四度も入らされ、
「苑ちゃんを迎えにゆけ」と云うので本多さんまでゆき、帰ると「死にそうだ」と云って山住先生を呼び、先生はおどろき、
私がいないので弓子に電話して10時半頃自動車で二人きてくれ、やっと12時すぎねかして帰る。
次の日に入院さす様、相談して、次の日、朝9時きてくれる。
10月9日(※悠紀子夫人代筆) ※【塩入病院 入院】
九時すぎ四人で斎藤先生にゆき水薬をもらい、のましたが変らず。山住先生の御世話でやっと塩入先生の所に3時すぎ入院できた。
新田さんと云うとてもよい人がついてくれて安心した。夜はとまった。
10月9日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆)
とても私の手にはあまるので昨晩の相談のように朝9時、小林家の自動車で斎藤病院にゆき若先生にたのんだが、
やはり院長外国旅行などの為(※入院を)ことわられ、山住先生が八方手をつくして下さった上、塩入先生のところに入院出来たのは三時すぎ。
晝食もたべず皆へとへとになった。いやだと云う電話で又急ぎバスで行くが落ち着くらしいので家に帰った。七時すぎだった。
付添は新田さんと云って山形の人でとてもよい人だった。病院ものんびりとしてよい病院だったので安心した。
どうしても、もう一度健康を取り戻してほしいと祈った。
10月10日(※悠紀子夫人代筆)
午前中に家に帰ってすこしねむった。やっと安心したが電話がこないか心配した。あとできくと「帰りたい」と云ってきかないので注射したよし。
10月10日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆)
まだ帰りたいとだだをこねているが、どうやら新田さんが上手にしてくれるので助かる。四日間は泊り込みにした。
10月11日(※悠紀子夫人代筆)
もう帰りたがることもなくねている時間が長いが食事をあまりしないので心配。
10月11日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆)
病院にとまる。食事も薬もなかなかのまず。院長さんまできてくださってのます。
10月12日(※悠紀子夫人代筆)
この日も夜はとまる。
10月12日(※前ノート) (※悠紀子夫人代筆)
今日からとまらなくてもよいとのこと。なるべく顔をみせぬ様とのことでやめる。
10月13日(※悠紀子夫人代筆)
院長先生がこちらのつき添にまかして、あまり顔を見せない様に云われて、この日よりなるべく家にいる様にする。
10月14日(※悠紀子夫人代筆)
弓子がきて色々かたづけてくれる。
10月15日(日) (※悠紀子夫人代筆)
教会。和田さんの家により、病院による。
10月16日
10月17日 ※記述なし。
10月18日
10月19日(※悠紀子夫人代筆)
京、きてくれる。
10月20日(※悠紀子夫人代筆)
弓子、きてくれる。
10月21日(※悠紀子夫人代筆)
病院にゆき会計をたのむ。
10月22日(日) (※悠紀子夫人代筆)
教会にゆき病院にゆく。「少々鬱がつよくなったので薬をかえる」とのこと。
10月23日(※悠紀子夫人代筆)
病院に会計をする。149,040円77,044円、新田さんにチョッキをあげる4,500円。
10月24日(※悠紀子夫人代筆)
越部長より「声がききたい」との電話あり。
10月25日(※悠紀子夫人代筆)
坂内生から電話で「11月でもよいか?写真を家でとる」とのこと。
10月26日(※悠紀子夫人代筆)
朝から下着を謨ってこうとしたが、京が健ちゃんと来ると云うので午後にしようと思っていた。
京から私に五千円、主人に1,000もらったので主人のはきものを買う。駅まで行ったがお金を忘れたので明日の事にして、
母宛の葉書を渡しに行って5時半に帰った。6時頃新田さんから電話「とても調子がよく明日まて」とのこと「早くゆく」と云う。
10月27日
10月28日
10月29日(日)
10月30日
10月31日
11月1日 ※記述なし。
11月2日
11月3日
11月4日
11月5日(日)
11月6日
11月7日
11月8日(※悠紀子夫人代筆)
1日帰宅。調子よし。
11月9日 ※記述なし。
11月10日(※悠紀子夫人代筆)
原生きて1時間半卒論をやる。4時帰り急いで病院に帰る道でころび眼鏡で顔を切る。
若い女性達が親切にしてくれ病院にタクシーで行き、院長先生にみていただく。たいしたことなくてよかった。
11月11日(※悠紀子夫人代筆)
病院で野口先生待ったが電話なく4時すぎ御宅に電話すれば「都合悪く明日にする」とのことで3時私宅にする。
11月12日(日) (※悠紀子夫人代筆)
2時頃主人帰宅。3時野口先生こられる。「来学年は休講のままにしてくれるように」先生の方でたのまれるが、
「学校にすまない」と主人は云う。和田先生の為にもその方がよしとの御意見なり。果物をいただく。
重久生きた。しいたけいただく。
11月13日(※悠紀子夫人代筆)
朝、便通なくいらいらしてはこまるので10時に帰院。池田先生より果物いただく(小田急より)。
11月14日(※悠紀子夫人代筆)
1日雨。風邪にて神経痛出てねている。(※本人?)
11月15日(※悠紀子夫人代筆)
主人より電話で「帰宅する」とのことで銀行により70万おろし200円のおかし2個買い、午前中病院に行き、院長先生に御目にかかれば、
「2日外泊の上、よかったら退院してもよろしい」とのことで、
午後歩いて母の家にて少しやすましてもらい(女客あり)、2時帰宅。つかれたらしい。
11月16日(※悠紀子夫人代筆)
午後、高円寺まで散歩する。あまりつかれぬ。
11月17日※【塩入病院 退院】
朝から雨なので早くタクシーで病院に行き院長先生にいろいろおききして退院する。
雨もやんだので荷物を残して歩いて帰る。これで四十日の入院はすんだがこれからが大事だと心をひきしめる。
本当によい人達だったと感謝する。金にはかえられぬ気持。九時にねる。
11月18日(※悠紀子夫人代筆)
午前中、主人散髪。2,300也。午後戸田先生に行き人形かきかけの時、主人迎えに来て新田さん荷物とどけてくれる。夜は9時すぎやすむ。
11月19日(日) (※悠紀子夫人代筆)
朝から本を少しかたづけて午後1時より散歩をする。荻窪までゆき甘酒のんで帰る。3時なり。夕食前に風呂に入り、9時すぎねる。
買物色々する。電話「坂内宮川生21日来宅する」と。食事はわりにすすむ。
11月20日(※悠紀子夫人代筆)
朝、起床7時。山住先生に胃の薬をもらう。午後散歩、風が強い。電話昭山秋子さんから。9時ねる。
11月21日(※悠紀子夫人代筆)
朝、起床7時すぎ。本のかたづけをしていたら10時半頃、坂内宮川生くる。晝食うどん。1時帰る。
その後母の家に散歩。1時間半して帰宅。ひるね少々。
11月22日(※悠紀子夫人代筆)
6時半起床。この頃食事3時間するとむねやけ胃のいたみを感じるので山住先生に胃の薬いただく。散歩中野までよく歩く。
11月23日(※悠紀子夫人代筆)
今日はめまいたちくらみを感じ荻窪まで歩くのにつかれる。
11月24日(※悠紀子夫人代筆)
塩入先生に朝九時半タクシーで行く。今日は外来午後とのことだったが11時に先生みえて、血圧が低いのでめまいとのこと。
体力をつけたらよくなるとのことだがカロリーの高いものは胃の力が弱いのでこまる。
帰り母の家で晝食。今日は大さんの誕生日だそうでごちそうもいただき(主人はつかれたとてほとんどたべず)家まで歩いて帰る。
11月25日(※悠紀子夫人代筆)
わりに元気。胃は相変らず。朝9時半家を出て東大前の山本に行き本代すませラーメンをたべて、地下鉄で主人のみ東豊に行く。
菓子1,250もって行く。帰って2時。つかれたらしい。
11月26日(日) (※悠紀子夫人代筆)
教会に一人でゆく。12時半帰る。学生「今日は来ず」との電話。
11月27日(※悠紀子夫人代筆)
朝6時半。やはり胃はいたい。大阪より電話、みかんと柿送るとのことをことわる。雨で散歩できず。ひるね。
午後5時、山住先生のところへ行き血圧をはかっていただく(88-50)。胃の薬十日分いただく。9時ねる。
11月28日(※悠紀子夫人代筆)
朝5時30分起床。朝食は7時。食後1時間ねる。晝食後佐伯さんまで散歩。あたたかい日。やはり胃がいたむので食事を気をつけることにする。
晩は大根人参のにつけに干魚やき、スープとほうれん草にする。佐伯さんに本売った。6,000。絵の本700買う。
年賀状500枚たのむ(6,000)。12月5日出来上りと。
11月29日(※悠紀子夫人代筆)
3年生が4人ゼミに午後から来た。
11月30日(※悠紀子夫人代筆)
午後よりゼミの写真を撮りにきた。岡林、石塚生もきて、そのあとコーヒー館にゆく。野口先生より電話あり。
今日はねにくく、風呂に10時頃入る。
12月1日(※悠紀子夫人代筆)
原生来る。散歩いやいやする。
12月2日(※悠紀子夫人代筆)
散歩に出にくく、いやいやしている所へ大さんがきて高円寺方面までつれていってくれる。この頃食事も少なく食後によくねている。
夜はいつもの様に9時から6時半頃まで。
12月3日(日) (※悠紀子夫人代筆)
朝11時にいやいや荻窪までゆく。帰って食事。そのあと丸夫人、花バチをもってきてくれる。2時坂内生来る。4時帰る。
朝、野口先生に電話、山田先生留守。夕、川久保さんに電話。『浪速叢書』3冊来る。
12月4日
12月5日
12月6日
12月7日
12月8日
12月9日
12月10日(日)
12月11日
12月12日
12月13日
12月14日 ※記述なし。
12月15日
12月16日
12月17日(日)
12月18日
12月19日
12月20日
12月21日
12月22日
12月23日
昭和53年12月24日〜昭和53年12月31日
21.6cm×15.5cm 原稿用紙掛「博文館 文芸日記」に縦書き
12月24日(日)
八時起き九時出て三鷹の武蔵野郵便局に年賀郵便出し成城大学前の五日市街道をゆき、ユと九時四〇分会ふ。
衛藤瀋吉(※教会長老)夫妻来られ、ユに夫人「立教女学館卒(※悠紀子夫人も)」と挨拶さる。新受洗者、男2、女6、
11:30すみて菊池夫人に会ふ。長島氏とイヴに再会といひ、東急にて狐うどん(260×2)食ひ、武蔵小金井駅へゆき清瀬発所沢行のバスに乗り安松下車。
稲田家(※三女嫁ぎ先)へゆけば哲夫居り、健太郎二階へ案内して呉る。17:00前出て東所沢駅まで送られ17:23に乗り、ユと吉祥寺駅で別れ、再度イヴに出席。
(古本屋歩き『ハイネ』40で見つけしを長島氏の父上へと贈り、すぐ出て帰宅)。
坂内より返本(中に登録せぬ二冊、内一冊は和田久徳君の著書の訳なる許雲樵『康泰呉時外國傳輯註』ありて安心)。
22:30夕食入浴して就寝。17:00
12月25日
8:00さめ、母来しと讃岐うどん(依子より送り来し)食ひ、ユの外出、帰来をまち川久保にゆけば「此間は好好爺たりし」と。夫人帰りしに歯のこといひ、16:00帰宅。
弓子、克次朗、孝行2孫つれ来りをり。
成城大学より後期試験来りをり。1月16,18の二日に我が監督と。
『旧約聖書』創世記の映画テレビにて22:40まで見る。
12月26日
8:30さめ、賀状一月一日配達ダメときまりし故、駅前局で出すこととし、東豊書店に電話すればよそへかかる。自宅へ電話すれば奥さん出て「店やってます」と也。
10:00出て駅前郵便局にて年賀ハガキ投函。11:00東豊書店にゆけば店主ひとり
『中葯(※薬)大辞典(15,400)』、『抱影隔簾録(1,200)』、『漢宮春色(1,600)』、『浪史奇観(1,200)』、『株林野史(1,600)』、『濃情快史(1,700)』、『巧像艶史(1,000)』と計24,000借用、学校へと『睡虎地秦墓竹簡1-7』
11万円として貰ひしも、我買ふこととならん。
13:30駅ビルにて『言語学の誕生(320)』見つけて帰宅。
(山住閣下に遭ひ「お見舞もせで」といはれる。)
ユ16:00帰宅。三鷹の隠居に肴もちゆきし也。
12月27日
7:00過ぎ覚む。賀状かきつづけ、午まへ宏一郎、克次朗来り、京も健太郎つれ来る。
ユ郵便局へ賀状と依子への金出しにゆき帰来、午飯。三鷹の二児つれ京帰るまへ賀状かき了る。
夜、戦犯裁判のテレビ見る。大東亜共栄圏を語りゐし人はおほむね忘れはてたり。(大、正月の買物とりに来りビール小瓶一本のみゆく)。
寿賀子、母の許へ寄ると也。
12月28日
8:00覚む。外出せず。『元史』書きぬく。『浪速叢書』第12冊ダブりをり。来年返却と定む。
(ユ、母をつれて田上dr.へ鍼にゆき13:00帰宅。)
餅1,700お節まだ来ず。酒屋3,280。本多さんに酒2本届けしめしと。
12月29日
尿意のため3回目に起床。7:30。田宮二郎43才自殺。斎藤病院にかかりゐしと。躁鬱症、躁の時にらし。
10:00『元史』刑法志「刑法三・姦非」すむ。次は『新元史』なり。
14:00散歩。久米邦武『米欧回覧実記2(400)』買ふ。
16:00伊勢夫人、次女をつれ来り、夕食の炒飯食ふ。
けふ午后育英社といふより人来り、『現代大阪の百人』にかけと。ユ、居留守をつかふ。(統夫よりかずのこ。)
12月30日
7:20覚む。煉丹はこび9:30中野清見より正月二日高円寺駅で待合せ丸宅へゆくこととなる。
『新元史』ちょっとやり、『東洋学報60』の1ね2合併号受取る(1,660支払へと也)。
12月31日(日)
よべ眠剤きかず。0:00放尿、9:00さめる。寒くユも礼拝休み。
京、健太郎つれ来り、今夜稲田宅泊りと。14:00二人出てゆく。
角川より「ハイネ23版の印税109,188✕0.9=98,270を25日三井に入れし」と。
付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。
Back