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田中克己日記 1971


【昭和46年】

 先年の三島由紀夫の自決(11月25日)を受け、「憂国忌」と名付けられた追悼の夕べが毎年命日に催され、恒例行事となるのはこの年から。 彼が師と仰ぐ蓮田善明の苛烈な生涯を詳述した唯一無比の伝記本『蓮田善明とその死(小高根二郎著・筑摩書房)』の刊行を受けてこの年、 蓮田が盟主だった国文学雑誌『文藝文化(1938-1944)』が雄松堂から復刻されました。
 また3年前に企画されたものの、一冊きりで頓挫した保田與重郎の著作選集も、大手出版社講談社に場を移し、あらためて全6巻の陣容で刊行が始まります。 彼および仲間達が拠った雑誌『日本浪曼派(1935-1938)』も、同じく雄松堂で復刻が行はれます。

 この時期、かうした出版が相次いだのは、印刷技術の向上と出版ブームとが背景にあるのはもちろんですが、 戦前戦中知識人の文業が大学における国文学の研究課題に上せられるやうになったといふ、文学史的存在として客観視され始めたことが大きいでしょう。 専門学術誌『國文学解釋と鑑賞』が初めて「昭和のロマン主義」を特輯でとりあげたのはこの年の11月号のことでした。

 しかしながら『日本浪曼派』は文献資料として雑誌がオフセット復刻されるだけでなく、『四季』と同様、 新たに「復刊」の計画が旧同人ら(浅野晃・田中忠雄・中谷孝雄・保田與重郎・林房雄・檀一雄)によってもち上がり、 その結果『浪曼』といふ雑誌が翌年創刊されることになります。

 これは、戦後文壇のホープのなかで唯一、ジャーナリズムから忌避されてゐた「日本浪曼派」を出自として公言して憚らなかった三島由紀夫、彼の存在抜きにしては考へられないことだったと思はれます。

 三島由紀夫がその死にざまをして国民に問ひ質しめたのは、敗戦の結果一般大衆にはもはや同意を得ることができなくなった皇国の大義を語る思想でした。 その思想を戦時中に純粋に突き詰めて、却って軍部から疎まれるやうになったのが日本浪曼派の文業だったのですが、 不思議なことにそれが、高度経済成長期の日本において物質文明を背景とする教養主義に反発する若い知識人の共感を得、 またその共感に呼応するやうに旧同人達の燃え尽きんとする命に火を点けたのでした。 思想的には反対にあるべき三島由紀夫と学生運動ですが、三島の死と運動の挫折とをめぐり、文学シーンの一角では極めてロマン主義的な「志を得ない知識人」同士の驚くべき親和が、若者世代と祖父世代との間で醸成されてゐたといふ訳です。

 詩の方面では伊東静雄が、昭和詩史の総括に際して、戦争讃美的傾向から切り離されて、口語抒情詩における指標的な高峰として認められるやうになりました。 故郷の諫早では詩碑が立ち、「菜の花忌」が恒例行事となったのはこの日記にも記されてゐます。
 左翼系の批評家詩人が牛耳る日本の戦後詩壇にあって、代表的な詩誌『ユリイカ』で伊東静雄の特輯が組まれ、同じく代表的な詩集出版社である思潮社からも、浩瀚な研究文献資料集『伊東静雄研究』が富士正治の編集により(中村真一郎による『立原道造研究』と同時に)この年に刊行されたのは記念碑的な出来事でした。
 伝統的抒情精神の爪痕を残す最後の機会に恵まれてゐた晩節の抒情詩人たちが集まる第4次『四季』も、丸山薫を擁してなほ継続中です。 いつのまにか潮流社と和解して再び寄稿できるやうになった田中克己ですが、彼はこの年いったいどうしてゐたでしょう。

 懇切な読解(阪本越郎)と解説(大岡信)を付して刊行されたアンソロジー、さきの中央公論社版『日本の詩歌』が売れに売れ、 『ハイネ恋愛詩集』の訳本も、3月に6千冊、9月に8千冊、12月に8千冊(新12版・通算37版)と増刷が決まってゐます。 李白、白楽天など中国詩人関係の著作ですでに一般大衆読者の耳目に親しい名前となってゐた田中克己は、まさに当時、詩人としても昭和詩史上、今なほ存命する一人として、詩ブームによる若い読者にとって目新しく映るさなかにあった詩人と考へられます。

 しかし日記を見ると、新たな出来事は起きてゐないやうです。 むしろ日本浪曼派再評価の流れに冷淡といふか嫉妬といふか、伊東静雄や保田與重郎をめぐっては、何かお義理的なものが日記の記述から感じられ、 「躁」も手伝ってか、先の2雑誌の復刻元である雄松堂からの電話取次で「先生」と呼ばれなかったことに癇癪を起こしてゐます。 さりとて旧友山本治雄の吹田市長選落選を「保田陣営の敗北」と記された朝日新聞の購読を中止するなど、アンビバレンツな心情を写してゐます。
 関係が続いてきた不二歌道会とも、機関誌『不二』が「キリスト教批判特集号」を出すにいたっては、この先「冷笑」で応へるだけで済むでしょうか。

 そして日本浪曼派に関しては、再評価の動きがあれば、当然それを叩き潰そうと批判する動きも起こります。 すでに単行本では、和泉あきによる『日本浪曼派批判(1968)』が出てゐましたが、 この年、知友森谷均亡き後の昭森社から、なんと田中克己を戦争詩人の代表として冒頭に据ゑ、詩人の戦争責任を糾弾する『太平洋戦争下の詩と思想』(鶴岡善久著)といふ一書が刊行されてゐます。 詩人がそれを知るのは一年後の古本屋の店頭、心穏やかで居られるのでしょうか。

 また日記を読んでゆくうち判ったのですが、詩人自らの発案による『わたしと田中克己』なる還暦記念誌が企画されていたことにも驚きました。 原稿依頼は年賀状に托され、歴代の教へ子たちから陸続原稿も集まったのに、ふたたび詩人の心変はりによって刊行中止になってしまったもので、本来ならこれがこの年の大きな出来事となった筈でした。そのコピーが6部ほど、教へ子に配られたことが記されてゐます(未見)。

 かつて文章にも書きましたが、田中克己は、目を掛け、また向ふからも慕ってくれた後輩詩人たち(増田晃・薬師寺衛・大垣国司)を早くに亡くし、自分について何か書かうとする同時代人には、悪罵を憎み惧れ常に牽掣の姿勢で対して執筆を敬遠せしめ、またライバルだった伊東静雄と異なり長生きしたために、結局当時のエピソードを書いてくれる者が居なくなってしまったこと、これが一番の不幸であったと私は思ってをります。

 しかし伊東静雄のやうな有力な発言者を教へ子にもつことがなかったにせよ、教育者として、ゼミ学生からはたいへんに愛された先生であったこと。 おそらく意に染まぬ原稿を目にしたか、改めて手前味噌に思ったのか、嫌気がさして取止めたのでありましょうが、この『わたしと田中克己』。 原稿だけでも残ってゐれば証左を示し得たことでしょう。
 理智に勝った強面・変人のイメージが固定されがちな田中克己の人となりですが、癇癖・躁鬱の面からだけでなく、人情に厚かった側面を、ユーモアを交へて語られることで、誤解に満ちた悪評を多少なりとも緩和する絶好の物的資料となる筈だっただけに残念でなりません。前年に麥書房より出版打診のあった「四季の人々」と「コギトの思い出」も結局実現してゐません。

 日記には、名物の学生泣かせのほか、五人の孫達を、何かと心配する好好爺の姿が髣髴して参ります。
 「躁」は、四〜五月ごろがひどかったらしく、肉屋と喧嘩、かかりつけの医者宅へ謡の稽古に行ったり、3ヶ月の台湾旅行計画を立てたり(これは縮小して3年後に実現します)、奥さんに再び浮気を勘繰られるほどの状態は、とうとうかかりつけ医から匙を投げられ元の斎藤病院に通院する羽目に・・・以下は本文をご覧ください。日記はさらに続きます。

 この年の出来事

1月1日 賀状328枚来、教へ子に「わたしと田中克己」(※自らの還暦記念文集)原稿依頼。
1月15日、16日 名古屋経由で下阪、クラス会に参加。
2月14日 前川佐美雄歓迎会。中谷孝雄、浅野晃2氏の外、芳賀檀来り、挨拶されるも受けず。
3月13日 「菜花忌(※伊東静雄忌)に」諫早上村肇より出席依頼。行かず。
4月2日 『文藝文化』復刻の栞執筆依頼。
4月15日 かかりつけ医の父、山住克己(山住閣下)に会ひ意気投合、謡を教はりにしばらく通ふこととなる。
4月16日 雄松堂の取次に怒鳴り、躁の甚だしきを自覚。山住邸の山住正己(息子)に会見申込めば居留守。
4月26日 山本治雄(※吹田市長選)落選、「保田陣営の敗北」と朝日夕刊にしるされ、朝日新聞購読中止す。
4月28日 嫁の姉に加勢して肉屋と喧嘩。
5月11日 翌年の台湾旅行を計画す。(※74年に実現)
5月12日 「わたしと田中克己」の出版とりやめる。
5月13日 妻に浮気を疑われ、かかりつけ医からも病気の亢進を疑はれる。
5月14日 かかりつけ医に入院勧められ、謡の練習中止、診察断られ、通院先を斎藤医院へ戻すことになる。
5月19日 2年ぶりに斎藤医院。院長斎藤茂太より「投薬多すぎる。病状なし」との診断。
5月22日 『四季』旧同人、塚山勇三の訃報。
6月28日 浅野晃より「『日本浪曼派』の復刊計画を知らされる。参加承知す。(翌年『浪曼』として創刊。)
7月29日 硲晃(戦時中に親しくした最初期の教へ子)逝去。
8月29日 家族で還暦祝。
9月11日 知念栄喜より「講談社より保田選集刊行をきき、栞の原稿依頼さる。
9月17日 『ユリイカ伊東静雄号』買ふ。
10月4日 名古屋経由で津の披露宴出席。
10月7日 角川書店より『中国の詩集』全10巻の李太白を、との依頼を断る(※1973年、藤原定訳で刊行となる)。
10月17日 宮崎智慧より伊藤佐喜雄の訃報を聞き、赴く。
11月15日 憂国忌発起人として日記に浅野晃、小高根二郎、影山正治、齋藤晌、林富士馬、保田與重郎の名を記し「平林たい子まで」名を連ねたるに驚く。
11月24日 『不二』の影山正治が中河与一と仲直りしたとの文に驚く。
12月30日 『不二』「キリスト教批判特集号」に「失笑」する。


昭和46年 1月 1日〜昭和46年12月31日
25.4cm×18.0cm 横掛ノートに横書き


1月1日
9:00起き雑煮くへば賀状328枚来てをり。(※省略)一般への返事かき了へ、学生生徒に4月末までに「わたしと田中克己」(※自らの還暦記念文集原稿)かけずやと書く。

1月2日
よべ2:00より宏一郎啼き、さむ。賀状の返事午后まで2回にてすむ。(※省略)坂生来り、史一家、善一郎君来る。

1月3日(日)
出たとたん小雨。夫婦して礼拝にゆくは久しぶり也。(※省略) 笠井女史の弟詩人、立教と。

1月4日
よべ雪。(※省略) 『果樹園179』来り、小高根君、三島に弔電打ちしと。

1月5日
雪つもる。午すぎ賀状数十枚来る。(※省略)

1月6日
雪つもる。賀状また来しもかき了る。(※省略) 森中先生昨年亡くなられしと也。

1月7日
晴。歯痛み、柏井に電話すれば「午后開く」と。賀状数十枚かき了へ、ゆきて歯ぬく。
入れ歯間に合はず大学休まうかと思ふ。夕方来りしは大学院の岐阜出の正木好宏生。(※省略)

1月8日
8:00さめ9:30柏井にゆく。(※省略) 川久保(※川久保悌郎)来てport-wineのまし、嘔吐し午たべしインスタントラーメンの中毒とユの診断。(※省略)

1月9日
9:00、ユに「けふの教授会病気欠席」と届けしむ。(※省略) 17:30泰つれて澄来り、夕食後、大と出てゆく。(※省略)

1月10日(日)
家居。ユ泰をつれて三鷹へゆく。(※省略) Dapper Note 9冊目となり365p(高雄に蘭艦来りをるらし)。(※省略) 

1月11日
柏井へゆき上歯はめてもらひ、幼稚園より帰りしユに昼食つくらせ(母来をり)、12:00出て準急にて13:00(成城大学に)着きし。
4時限すませ成城堂にて三島newsの最後の3冊買ひ、卒論2冊下げて帰宅。(※省略)

1月12日
卒論2冊見了り、これもちて登校。(※省略)14:20よりの教授会。(※学長選議論 省略)
坂本浩教授と新宿まで同車、三島のこといへば「ふれたくなし」と。帰れば『和漢朗詠集』見つかる。
立教の中川成夫氏より学習院出の永積昭、市川健二郎の2人を発起人に加へると。白鳥芳郎氏に電話し、(※省略)

1月13日
(※省略)竹内夫人(※竹内好夫人)1時間かかりて探せしと午食3人前もち来る。姪御の嫁入り口さがせと也。(※省略)
われ出て佐伯休みゆゑ、西友の書籍部にて大阪地図(100)と『南ヴェトナム戦争従軍記(150)』とを買ひ来る。(※省略)

1月14日
8:00(※省略)中川成夫氏より白鳥清先生のこと「20日16:30より2号館で」と。

1月15日
12:00すぎ出て佐伯にて『文藝春秋正月号』『日本の奇祭』など車中用に買ひ13:20の新幹線ひかりにて名古屋15:00すぎ着き、
依子にみちきき犬のオモチャ買ひ、地下鉄出口にゆけば澄まちをりしと。
つけば望笑ふ。すぐ暗くなり、望あやしつつ夕食にタンメン食ひ21:30電気ブトン内にて眠る。

1月16日
望の声して夫婦起きる。われ早くよりさめをり睡眠感なし。
9:00ごろ出て地下鉄にて澄と別れ近鉄にゆけば特急1時間に1本にて55分まちて10:30といふに乗る。
桜井の駅前に5階建てのbuil.建ちをり。耳成のふもとも住宅地となる。12:50ナンバにつき戎橋の出雲屋さがし(天牛に入りしも何もなし)、
肝すひ並にて450!十合前まで歩き書籍部にて『にっぽん語』帰りの車中用に買ひ、
クラス会場大成閣へゆかんとすれば、うしろより南隅夫人。会場には野崎、鍛冶、井上、奥村、今市など待ちをり。
16:00まへ椿下来て15人集まりしか。会場前にて写真とられ、タクシー呼びくれ大阪Royal Hotelへ。
一方通行にて!まはりしてゆき、うろうろと披露宴の控室さがし(※省略)、
20:00近くなり中座してtaxiひろひ20:30の切符買ひしも20:05のひかり発車前なるにより車掌に云ひ、これにのりて(※帰京)24:00入浴就寝。

1月17日(日)
寒し。8:00さめて礼拝にゆかず。(※省略)

1月18日
登校まへ弁当の電話かけしも文書課出しゆゑ、すし買ってゆく。堀川部長「大林氏を学長ときめし」と。(※省略)
帰れば17:00。(※省略)

1月19日
5:00さめ8:30登校。(※省略) 17:00短大よりの面接すまし山住先生へかけこめば扁桃腺はれをりと。早ねを命ぜらる。(※省略)
山本書店へ月令集のこときけば「もう現物来をり」と。「すぐ送れ。書類は6通」とたのむ。

1月20日
朝、熱36度以上あり面接午后にと電話かけ11:30出れば幼稚園より帰る泰とユに遭ふ。
午后わが見しを含め8人きき、挨拶して出、立教へゆく。
中川、宮本馨太郎、手塚隆義の3氏と相談する内、石橋君来り、結局手塚氏とわれとにて原稿つくることとなる。
19:00出てそばとbeer中川氏におごられ21:00帰宅。37度あり。(※省略) 『健康』2月号来り「体重」のす。(※省略)

1月21日
8:30出て10:00より卒論審査。16:00すみ優15人。(※省略)
『不二』の2月号、三島之命号にて浅野、保田かく。不快。
(※省略) けふ佐伯にて『白鳥全集』第3回(2250)、『馬来亜叢談(200)』。

1月22日
10:00雨の中をゆき(※省略)、大学院に出席の和泉、重久2生と喫茶し、新宿にてまた重久生と三島の分裂症を論ず。(※省略)
竹内夫人来て竹内のいとこの娘の縁談もち来しと。依子、望つれ来る。夜泣きまた始まりし故と也。

1月23日
朝、山住dr.へゆけば扁桃腺炎なほりをらずと薬かへ、月曜また来よと。タバコ止めずといへば「主人も」との仰せ。(※省略)

1月24日(日)
前田春枝夫人より御車代一万円。返却す。阿部生在京中と。ユ「18:00ごろ来よ」といふ。夕食頃来り。(※省略)

1月25日
(※省略) 母来り、風邪ひきをり。「三十五日(※五七日忌)に下阪」と。(※省略)

1月26日
柏井へ歯なほしにゆく。金曜できると也。15:00依子母子来る。望また賢くなりをり。(※省略)

1月27日
手塚隆義氏より白鳥清先生の原稿の写し方について問はる。(※省略) 特殊な語のみ作字させ、他は印刷屋に任さんとの意見かく。(※省略)

1月28日
(※省略) 母来り、あさって大と三十五日にゆくと。われけふ『果樹園』へ「1970年」送りし。(※省略)
関口八太郎君より「畠山博光の結婚披露に出し。再婚せしが相手は女医で某会社医務室勤務、本位田元気にて国電にて通勤しゐる」と。

1月29日
柏井へ歯の治療にゆく。(※省略)竹内夫人、昼弁当もちて再来、竹内の姪の世話せよと也。(※省略)
夜、東豊書店に『星槎勝覧校註』の有無をきく。値段150円位らし。
来年度講義要項。大学院博士課程「諸蕃者」、修士課程演習「星槎勝覧」。
3年は例年の如く倉石『中国文学史』。2年は「台湾の民俗print」、1年は17世紀のアジア(康熙時代やりたき也)。(※省略)
けふ写真焼付すみ、全然とりをれず、あやまり状かく。(※省略)

1月30日
講義要項もち10:00前出て成城大学。(※省略) 竹内夫人、近所の犬の仔もらひし人つれて返しに来り、美紀子よびてもち帰らす。
順一と望に泰、意地悪くあとにて大いに撲る。咳出て眠りし也。(※省略) 依子、遠くの友だちへゆきし也。
「Ein Märchen」のせし『愛の世界』来る。(※不二歌道会)鈴木正男氏より電話「小高根二郎のところしらせ」と。

1月31日(日)
朝方、不二歌道会森田先生のことなど夢うつつに見、睡眠感なく、8:00すぎ起され、礼拝やすむ。

2月1日
寒し。(※省略) けふ山住先生に扁桃腺切らる。12:00出て14:30よりの「東洋文化史」の試験監督す。(※省略)
佐伯にて見つけありし『高砂族伝説集』買ひにゆけば7千円にまけくれし。(※省略)
久しぶりに澄より電話あれば依子ポンポンと物云ふ。(※省略)

2月2日
煙草買ひに出しのみ(山住先生にのど吹きかけてもらふ)。小高根二郎氏より「受取った。文章書いてくれずや」と。

2月3日
晴。12:30散髪にゆき柏井へ歯直しにゆく。(※省略) 湯川秀樹『本の中の世界(80)』佐伯にて買ひてよむ。けふは望の誕生日と也。

2月4日
8:00起き9:00出て成城。002にて東洋史の試験100数名。すみて昼食。成城堂で『禁煙ゲーム』買ひ、(※省略)
17:30帰宅。山住先生にゆき「禁煙したし」と笑ふ。

2月5日
8:00起き、また002にて中国文学史の試験。12:30出て帰宅。途中眼鏡拭き買ひにゆけば呉る。
前川佐美雄氏歓迎会14日17:00より学士会館分館にてと。「出」と答ふ。『果樹園』180来る。きのふ白鳥先生の原稿来り、けふ了る。
(※省略)平凡社の渡辺春輔氏より「唐代詩集上1000部増刷」と電話ありしと。

2月6日
終日外出せず。〒なし。白鳥先生の原稿見了へ、平凡社へ訂正一カ所申込む。(※省略)

2月7日(日)
久しぶりにユと礼拝にゆく。和田賀代より11回目1.5受取りしと。鍛冶さんより「一度上京したし」と。
佐伯へ『書誌学』とかへてとたのめば諾して3.4万円にて引取り『唐令拾遺』『楽府詩集の研究』『中国学芸大辞典』『讀史総攬』にて3.56万円。
差額1600渡して済む。早速『楽府詩集』検せしも神田先生と近藤圭士氏のいふ「五雑俎」なる楽府なし。

2月8日
朝、柏井へゆき13:00出て成城大学。
庶民文化博士課程の審査に『骨』の鈴木尚氏らあす来り、新城・堀2博士(※新城常三・堀一郎)が大藤氏の輔佐として当ると。
考古学の山内博士の資料よそへゆくらしと。17:00になりてやっと解放さる。(※省略) けふ白川静『詩経』買ふ。新説多し。

2月9日
8:00起き10:00出勤。誤字訂正にわれ一人当り16:30より教授会。すみて人事の教授会。天丼出る。帰れば21:00。
依子、澄より「部屋かはる、3室となる」とのことに「金もなきに」とふくれをりと。

2月10日
けふも10:00登校。論文かき直しすむ。(※省略) 影山正治氏より歌集(戦後吟なり)。(※省略)
山住先生にゆけば「(※夫の)正己氏会ふ」と。禁煙の友とならんといひ、中国旅行の写真見せらる。
三島氏を団長とし毛沢東、郭沫若などに会ひしと。リストにのりし所以なり。(※省略)

2月11日(休)
歯齦いたみ外出せず。何もせず。(※省略)

2月12日
寒き中、歯ギン痛む故、柏井へゆけば千葉にゆきて休みと。(佐伯へ『南方全集』引取れ、平凡社の新刊採りくれとたのむ。)
外山軍治氏より『中国の書と人』たまふ。(※省略)  佐伯『南方全集』を5千円にて引取りゆく。37年に5,700で買ひし也。

2月13日
9:30柏井に電話して歯直しにゆく。
ゆき帰りに『日本統治下の朝鮮(150)』、『精神科医三代(250)』、『馬来西亜(※マレーシア)華人史(300)』と新本・古本買ふ。(※省略)

2月14日(日)
8:00すぎ起き礼拝休むこととし、麝島の修士論文もちて新城教授宅をさがしまはり、ついで弓子宅探しまはる。
善一郎君をり、すしとりくれ、carにて阿佐谷まで送り呉る。
古本市にゆき佐伯の本『中国小説史料(500)』買ふ。帰宅して16:30出て新宿より地下鉄。
本郷三丁目の交叉点で早川、亀井両未亡人に会ひ、学士会館へ案内す。17:30近くして前川夫妻すでにあり。(※前川佐美雄歓迎会)
中谷孝雄、浅野晃2氏の外、芳賀檀来り、挨拶せしも受けず。歌会了りて立食会。豊田智慧子夫人「美智子まだ嫁にゆかず」と。「暖かくなればゆく」と前川翠夫人に挨拶し20:00前出て帰宅。(東博君に『戦後吟』呈せしも話すこと無し)。

2月15日
雪・雨となる。影山正治氏へ『日本と共に』の礼状。(※省略) 「原田運治君を励ます会」へ欠席通知。
依子、望をつれて明日帰名と。うそ泣きおぼえし也。

2月16日
晴。ユ、依子望を東京駅に送りにゆく。主婦と生活社より「Ein Märchen」掲載料2千円。(※省略)
田中万米(※賀集村[南淡町]元村長)氏より「田中甚四郎の正統なるゆゑ正平博士記念費に拠金を」と長々と便り来る。
1200万円中一族にて200万円出すと也。依子より「着いた」と電話ありしあと、美紀子3人つれて来り、翠姉も来しゆゑ正平碑の文わたす。
万米氏へは心ばかりの金出すと返事す。

2月17日
聖心の東洋史の会に出席と返事す。新城博士より文部省の金にて10万円づつ買ひてよしと。山本に電話すれば図書館へ送りしと。
図書館に電話すればわからずと。千川より中西博士心配いらずと。畠山博光君より結婚の挨拶。(※省略)

2月18日
晴。暖かし。ユ、泰を幼稚園へ送りしあと、母へチクワもちゆく。諏訪母上よりの贈物にて送り状をもつき、足わるしと也。
(※省略) けふ佐伯にて買ひし『タバコはやめられる(木々高太郎訳30)』をもち山住先生へゆき正己先生にわたす。ちょっと喫煙へりをり。
「スマトラ記」つづけることとす(200×10)。(※省略) 依子に電話すれば「望おたふく風邪」と。23:00すぎ京3日間の大和旅行より帰り来る。

2月19日
眠し。(※省略) 『塔影』といふが来り河井酔茗の弟子たちと。巻頭に小林政治(天眠)翁の女植田安也子女史の文のりをり。
『正倉院夜話(180)』買ひ来りよむ。天理の鈴木治氏、鞍の研究せしと也。白鳥清先生の原稿、中川成夫氏に送り、「スマトラ記10」果樹園社へ送る。

2月20日
7:30さめ10:00登校。浅賀副手来らず困る。(※省略) salaryもらひ(※省略)
東豊へゆき『明氏中国与馬来亜関係(400)』買ひ『星槎勝覧』4冊ほどとりのけたのむ。(※省略)
依田義賢氏より『京のおんな』賜りをる。(※省略)

2月21日(日)
7:30起き9:00出て礼拝当番。すみて斎藤齋先生久しぶりに見しに御挨拶。(※省略)

2月22日
歯茎の痛み止めに柏井へゆく。ユをして顕彰会へ1万円送らしむ。15:00帰り来る。鹿島宗二郎といふ国士舘教授、愛知大にて服部正己と知己と。

2月23日
家居。(※省略) 千川より中西胃癌!を悟りしと。(※省略)

2月24日
ユの幼稚園より帰り来るをまちて登校。(※省略) 常民文化の修士卒論面接。麝島生泣く。和泉生ともども9月再提出とせんと。
2生のところへゆき「もっとsemiの先生につけ」といふ。(※省略) 18:00澄来り、風邪と。

2月25日
澄、飯くふ間に泰幼稚園へゆく。9:30出て行きしあと成城へゆけば11:00かっきり。試験了り面接。麝島生来り「大藤先生に誤解された」と泣く。
教授会長くかかり大林学長挨拶に来る。18:00すみて(※省略) 帰れば雲仙の石田スミ氏より電話。(※省略)
津田侑生(※小倉脩三)より「わたしと田中克己」のNo.1来る。(※省略)

2月26日
朝、雪。のち雨となる。16:00散髪にゆく。東博氏より『戦後吟』の礼状。(※省略)

2月27日
6:30起き。新宿へゆけば準急あり。(※省略) 大学院の採点表出して泉井博士の『言語の世界(3500)』買ひて帰り、
東豊書店に寄り「5万700円の本あすもち来る」ときく。北大の中哲の助教授といふ佐藤震二氏に紹介さる。池田温氏京大の研究所へ来ると也。
佐伯に寄り『白鳥全集9(2,250)』来りをり。借りて帰る。

2月28日(日)
きのふと同じく6:30起き登校。(※省略) 3時間すぎて東豊書店より本つきゐしゆゑ浅賀君さがし請求書わたす。
帰れば無人。「わたしと田中克己」のNo.2、詩也。田中正平博士顕彰会より受取。(※省略) 天沼(※義母と西島大の宅)へゆきし泰、夕食までに帰り来ず、大送り来る。

3月1日
よべ夢みつづけか眠し。午后、果樹園社へ2,500、佐伯へ2,250払ひにゆき
『明治大正の翻訳史(130)』買ひ、横塚祥隆氏の論文2と訳4編をさらさら見る。ドイツの戦後文学の悲惨なるを知る。
宮川祥二郎氏より三島、山口二矢、保田直日を同志として追悼せる『奔馬のこころ』贈らる(※書誌不詳)。(※省略)
澄より電話「やどがへ昨日すませし」と。

3月2日
10:00出て成城大学教務課へ大学院常民文化修士入試の漢文とドイツ語の問題もちゆき、清書す。それより歩きて烏山へ出、上北沢下車。(※省略)
佐山栄太郎教授の蕃地しらべてゆけば不在。2部ありし抜刷と「ジェームズジョイスと現代」訳置き、京王線に乗り新宿に下車すれば、
偶然佐山教授に会ひ「甘くせん」といひて帰る。(※省略)

3月3日
雨。泰、熱あり雛祭(幼稚園)休む。澄より東団地5階に移りとの状と電話。(※省略)  横塚祥隆氏のためLeForeとLanggesser、2女史の伝記しらぶ。(※Gertrud von Le Fort (1876-1971)、Elisabeth Langgässer (1899-1950))

3月4日
8:00起され、9:00まへ出て成城。(※大学入試査定会議 省略) 大藤教授「大学院の主任を堀博士に」と、「考へおく」といひて帰る。(※省略)

3月5日
寒く外出せず。(※省略) 『骨』37に佐々木邦彦氏「徳之島守備隊を語る」。わが歌と「25年たちましたね」と。 (※省略)
泰、扁桃腺炎と。(角川よりHeine、6千増刷と。)

3月6日
寒し。泰、幼稚園へゆかず。(※省略) 佐伯にゆき『知里眞志保の伝(370)』買ひてよむ。

3月7日(日)
寒し。礼拝にゆく。信仰告白1、転会1なり。すみて長島氏に誘はれ茶のみ、ワリ勘とす。14:00すぎ塩崎・箕輪2生来り、(※省略)
小高根二郎君より「散文にて助かりし」云々。(※省略) 依子より「澄あす夕方」と。

3月8日
ユ、寺田家の婚礼とて柏井へ式服とりにゆき、京、午食の仕度し、泰をジュンちゃんの所へはふりこむ。あとにて本もらひ来る。
ユ17:00帰り、魚屋へゆきしまに澄来る。あすあさ泰つれ帰ると。(※省略)

3月9日
10:00泰きげんよく父と名古屋へ帰りゆく。(※省略) 母より「咲耶より電話にて康平叔父心臓マヒにて死す。葬儀はあさって。夜、電話せよ」 と。
4兄弟そろひ兄と弟とよく喧嘩せしも城平叔父悲しみゐるならん。(佐伯より『閩南采風録(50)』採る)
母よりまた「大と2人にて5千円と咲耶に云へ」と。花井(※タヅ子)夫人より「わたしと田中克己」につき質問。
沢田四郎作博士に『閩南采風録』の「石敢當」の項所説、貴著とあふとハガキ。夜、咲耶に電話すれば「弔電打て」と。

3月10日
よべ1:30さめまた睡る。10:00すぎ澄より「泰、元気にて幼稚園にゆきし」と。
電報にてきわ叔母へ「ゴゲンダツタオジサマノゴキュウセイオカナシミイカバカリカトオクヤミモウシアゲマス。カツミ」と打つ。(※省略)
17:00寒き中を出て渋谷の二葉亭にゆけば青山博士、狩野直禎助教授あり。(※聖心女子大の会)
ついで荒松雄講師来り、卒業生12人。20:30写真とりて散会。荒氏よりきけば(※東洋文化研究所)松本善海退職となると。(※省略)

3月11日
7:00さめ9:00前出て成城。浅賀副手監督しをり、立正大学卒業見込の1人。(※省略) 午食くひて帰宅。
『果樹園』181来り、宗左近の記事にわれ「朔太郎の伴をし16.2一高文芸部座談会に出し」とあり。(※省略)
20:30滝本来り、今東光大僧正となりしことを知りをり。(田中楠弥太氏より電話あり(※拠金の)礼いはる。)

3月12日
9:00まへ出て成城。(※省略) 「伊東静雄忌に来よ」と案内あり。(成城堂にて『耶馬台国研究総覧(2800-140)』買ふ。)(※省略)
けふ大藤教授、大学院の主任やめたしといふを皆反対す。「69才にてあと2年なればこれだけにてもやれと也」(※省略)

3月13日
寒さややゆるみ、午后散髪にゆき、佐伯へゆけば服部四郎『言語の系統と歴史(1,600)』あり借りて帰る。
けふ旧姓喜多村生より電話「かくべし」といふ。(※省略) 咲耶へ立替の1万円送る。「菜花忌(※伊東静雄忌)に出よ」と諫早上村肇氏より。
『不二』来り、伊沢修二の孫甲子麿と三島との関係を影山主宰かく。大木実氏より『冬の仕度』第10詩集と。
夕方、今井翠、雅子預かりて来り「還暦祝の文いつまでか」と。ユに泰の帰名とききて連れ帰りし(美紀子夫婦skiiにゆきしらし)。(※省略)

3月14日(日)
古田房子より上京、高松と連絡ありしと。「けふ帰るゆゑ会へず」云々。
久しぶりに2人して礼拝にゆき「柔和と謙遜」を説かる。note5冊(200)買ってもらひ佐伯に1,600払ひ14:00来し池田生18:00まで話す。(※省略)
滝本午食あと来り、ユのcoatの寸法とりて帰る。
夜、吉森生、電話かけ来る。思ひ出かいてくれとたのむ。秀才にて熱田神宮の剣を盗みし弟(東大生)死せしと也!
松本善海夫人に電話すれば「1月退職せし」と!

3月15日
7:00すぎ起き急ぎ登校。(※省略) 午食せずして帰宅。竹内『中国を知るために(2冊1200)』成城堂で買ひ、よみつつ帰宅。(※省略)

3月16日
(※省略) また速達にて「春夫偏論」来る。13pになりをり。校正すまし要再送り返す。(※省略) 
柏井へ歯(上)出来しをはめてもらひにゆく。高橋重臣氏よりすぐき賜ふ。わけわからず。

3月17日
6:30起され、眠がりつつ登校。(※試験監督)3時間あててあり。すみて烏山まで歩きて帰る。(※省略)

3月18日
(※省略) われ7:30出てまた3時間監督。すみて菓子くって帰宅。高橋重臣氏よりすぐきの送状。井上文夫氏日経本社地方部次長に陞任と。
(※省略) 立教宮本教授より「24日13:00立教6号館宮本研究室まで来れ」と。けふ『日本外史(100×5)』買ふ。(※省略)

3月19日
晴、暖し。(※省略) 田中きわ・大江艶両叔母にやっと(※康平叔父の)くやみ書く。(※省略)

3月20日
卒業式にゆき壇上にのぼらず。新学長ドイツ語でゲーテを引く。すみて記念撮影なくsemiの主任よりそれぞれ卒業証書わたす。
中庭でparty、(※省略) 2号館で4Dクラスの謝恩会、album箕輪生よりもらふ。(あとにてもらひしは我のみとわかる)。
albumに詩歌を書き、万年筆もらひ16:00、4生さそひて喫茶。(※省略)  箕輪生は成城の学長秘書候補と。
佐伯に寄り『キリシタン書・排耶書(1280)』買ひて帰る。京けふ結城泊り。松浦祖父危篤にて美紀子・翠姉妹見舞にゆく。孫預かれとの由。
(※省略) 南村夫人より「田鶴さん(※花井)の父上逝去と新聞にあり」と、見れば「山中直隆氏19日江古田病院にて死去」とあり73歳。

3月21日(日)
礼拝にゆく。(※省略) 午すぎ弓子より電話、善一郎君風邪なほりしと。

3月22日
春らしくなる。家居。松浦祖父亡くなられしとのことに今井翠へ御花代1万円ユもちゆく。孫は雅子武田家で預り淳一はつれゆくと也。(※省略)
前島信次『東西文化の交流の諸相』来る。

3月23日
7:00すぎ起き10:00登校。第二次入試決定会議。(※省略) 午食出されしあと高田瑞穂邸にNapoleonもちゆく。whiskyでなくliqueurなりし。
肴多く出され雨の中を駅まで送られ昆布もらふ。〒なし。(※省略)

3月24日
晴、あたたかし。(※省略) 午まへ母来り「6日の誕生日に下阪する」と。ユ帰らざるゆゑ留守番頼み13:10立教大学。
宮本馨太郎、手塚隆義2氏と協議、『日本、中国古代法研究』200pにする、発起人1口2,000とし、広く案内する、
印刷所の都合で4月組み出し、内容の大体をかき、発起人を立教、亜研、蒙研、学習院の諸氏にたのむなど決め、
西武dept.にて大塚光信『キリシタン版 エソポ物語(260)』買ひ来る。(※省略) 大江叔母より「城平叔父嘆きし」と。夜、滝本女史来る。

3月25日
(※省略) 『印度尼西亜采風録(180)』買ひ帰り、(※省略) 近森敏夫氏より中公新書『土佐の民謡』贈らる。(※省略)

3月26日
土佐の近森敏夫氏へ礼状。(※省略)

3月27日
『民間伝承』来り、宮本馨太郎氏より先日のとりきめ事項の印刷来る。発起人問題につき古郵便物をひらく。
「人間の星」社より「金について」とancateもとめ来る。よべ睡れず。22:00までmoskva攻撃見しためか。(※省略)

3月28日(日)
礼拝当番の最後とて9:10ゆき、拭き掃除手伝ふ。(※省略) 大高卒業40年の同窓会を8月14日15日長良川方面にてと。(※省略)
諏訪母上名古屋へ来り、望よき子と電話あり、あす澄来り泊ると。

3月29日
「スマトラ記」200×11かき果樹園社へ送り、(※省略) 午后松井保治君来り、思ひ出話し夕食すませし所へ澄来り、帰りゆく。
佐々木邦彦氏よりシルクスクリーン画3枚来る。美紀子2児つれて来し故1枚やらんといひしに持ち帰らず。

3月30日
雨気配。澄10:00出てゆく。われ家居14:00すぎ来りし山野井生に4月24日15:00夫婦にて披露宴に出、祝に座布団と決める。
宮本(大川)周子生より「(※父の山中直隆)突然の死にて却って悲しからず」と。
朝日新聞大阪本社広告統計月報4月号に「春旅」掲載を、と。諾の返事す。

3月31日
雨。澄10:30出てゆく。某社より電話「『文藝文化』の復刻す。保田與の推薦にて400×10を20日までに」と。「一考させよ」といひてすむ。
Dapperすすみ、あと2〜3日にて第2次遣使の部すみさうなり。

4月1日
ユ、三鷹へ出てゆく。太田夫人より「川久保令嬢の見合うまくゆかなかった」と。
あとにて川久保(※川久保悌郎)より電話あり「松本(※松本善海)にゆかん」といへば「日曜午后」となる。不在投票に区役所へゆきミノベ(※美濃部亮吉)に1票。
あと佐伯に寄れば『南方熊楠全集1(2,620)』来てをり。『危険な食品』買ひて帰れば野上夫人より電話ありしと。
山住dr.にゆけば青玉1つふやされ「ハタノ(※秦野章)票かと思った」と也。(※省略) 税務署より4.7万円返金ありし也。

4月2日
曇。雄松堂書店より(伊藤敏彦)、『文藝文化』の復刻のはさみこみ「三島と蓮田」400×10以下、4月30日しめ切り稿料税込1万円をと。
海老沢有道博士より『えぴすとら』。還暦祝すました由。弓子「赤ん坊の泣き声にまいりをり」と。
Dapper第2次回遣使すみ、あと訳にかかるつもり也。夜、滝本女史来る。

4月3日
曇。8:00起き10:00すぎ成城へゆき(※省略)、
東豊書店へゆき主人不在に『家常食譜(230)』買ひ『植物図鑑、福建通志、島夷誌略』を、と書いて帰れば『島夷誌略』なき様子の電話あり。
小倉脩三君より「わたしと田中克己」No.4来る。(※省略)

4月4日(日)
棕櫚の聖日に夫婦してゆく。今年度わが定例献金2,500ユはもとのまま1,000。帰り長島氏と荻窪まで話し佐伯にて『土佐日記(90)』買ふ。
小高根二郎君より漢詩(古詩)! 栗山博士(※栗山理一)名にて『文藝文化』復刻の挨拶。(※省略)  Dapperゆっくりよむ。

4月5日
11:00近く川久保来り、荻窪まはりのbusとて松本宅へつきしは12:00すぎ。夫人不在。
いふこと余りわからず『支那地方自治制度史』再版出、copy版も出るとのみわかりし。12:30出て荻窪。チャーシュー麺たべ『永楽帝(400)』買ふ。
東豊書店へゆくといふ川久保と別れ、15:00来る2生まつ内、母来り、(※省略)
草壁焔太氏より「この詩集500配本した云々」。(※省略)

4月6日
10:30ごろ集英社よりと「齋藤晌先生の奥様亡くなられ12:00葬儀」と。ユに半紙買ひにゆかせ3,000御花料と包み、11:00出てbusにて代田橋。
高幡不動へゆけば駅前一変して晌先生邸わからず、まはってたづねあてしに神主来ずとて13:30ごろまで待たされ、
集英社鈴木副社長、及川均(馘になりし)、薄井氏と3人のみ。榊進上を喪中といってせず。饅頭もちひ、代田橋で昼食して帰宅。(※省略)
八木沢生より電話あり「あすかけよ」といひしユを叱る。

4月7日
8:00起き10:00散髪にゆけば八木沢生来しとユ。西武dept.の前にまちゐるをつれ帰り「日本の年中行事をまづよめ」と2冊貸し、
『燕京歳時記』買へ、研究室の『太平御覧』と『古今図書集成』とを写せといふ。父母なく兄のところにをり駒込に住むと。
東洋文庫の地図かき与ふ。地下鉄にて大手町の銀鉤令嬢の茶本啓助と長沢美喜子の披露宴へ出、祝辞のぶ。(※省略)
帰れば末吉栄三の文来りをり。宮崎智慧女史来らる。

4月8日
電話で起き(8:30)聞けば松浦薫市長より香奠の礼。末吉に受取かく。午后橋本生来り、(※省略)
佐伯にて『奈良時代の特性(130)』、『インドシナの底流(100)』買ひ来る。(※省略)

4月9日
(※省略)小雨の中、齋藤章子「朝鮮の民俗」、柳川真名子「台湾の通過儀礼」のsemiとて来り、本貸しcardのとり方教ふ。
2生ともミノベ好きとなり。帰りがけ郵便函見れば「偶得」をthemaとせし須知徳平氏「星めぐりの歌」のせし『小説ジュニア』5月号。
(※省略) 夜「春夫偏論」の再校速達にて来る。けふ南村、花井2夫人に電話す。坂生11日午后ここにて見合ときまる。
西川(※西川英夫)に電話し宮崎女史の就職たのめば、ありさうな返事す。天野忠より「20年ぶりで定年退職」と、めでたし。22:00再校了る。

4月10日
よべ赤玉のまざりしためか4:00さめて眠れず。宮崎女史に電話して履歴書のこといへば「けふ19:00来る」と。
ユparmaかけにゆき10:00すぎ帰りしと座布団もちて2人にて地下鉄根津に下車。探しさがしして山野井医院。
dr.出て来られ「秀子留守なれど上れ」と。ことわりて地下鉄(※省略)南阿佐ヶ谷に出て帰宅。新学社より700余。
名古屋の沢田庭園研究所より白氏「懐仙歌」の原文をと。白氏全集目録見しもなく『佩文韻府』引きて李白の作とわかる。
『ハイネ恋愛詩集改訂10版』来る。計35版なり。宮崎女史19:30来り履歴書2通書く。山野井生に電話すれば「あとすぐ帰宅した」と!

4月11日(日)
6:00起き、大に電話すれば「今出る」と。やがて来りしと8:00の新幹線にて大阪着(12:00)。きつねうどん探せしになくいなりうどんとて140。
食ひて天王寺(※河野家・吉塚家披露宴 省略)。
また母、大、咲耶(克己異母妹:河野家)とともに河野家へ帰り、大江叔母に電話すれば来て「嫁に苦労」と泣き、康平云々にて泣く。
正平記念会に負ひてゆかんといひ帰せしあと眠れず。

4月12日
6:00階下にて音するゆゑ起きて茶わかし、8:00出てふと梅本吉之助訪へば退職して次の職もつと。
東京の旧友の消息つたへ京橋よりtaxiにて関目団地へゆき、探しまはりて、きわ叔母に会ひ、くやみ云ひ、
キリスト教ゆゑ香奠でなく返しいらずといひ般若心経を10回誦むといふを聞き、録音テープにて清元の声きくうち午飯出されしも食へず、
バナナ2本平らげ、羊羹もらひて出る(康平叔父、喘息・疾疹・改心と、われと同じ也)。(※省略)
新大阪までtaxi。前の運転手は核軍備賛成、あとの運転手はミノベ当選をいふ。13:45の新幹線にのり(800)名古屋へ14:35着き、絵本1冊買ひ新団地へゆき泰に絵本与へしもダメ。望は下痢しをりと。(※省略) 澄18:00すぎ帰り来り、hyreそのまま呉る。
ミノベ当選を賀し19:13発のひかり(1,500)にて21:15東京着。(※省略) ユは「昨日坂泰子の見合失敗にて眠れざりし」と。

4月13日
ユ、坂生の縁談にて吉祥寺と三鷹へ出てゆく。滝本生呼び午食まで居らしめモーニングの裏の修繕たのむ。(※省略)
13:00来し小林洋子「台湾の衣食住」、子安好美「中国の食物」にsemi了へ、(※省略) 通りへ出て和歌森太郎『日本風俗史考(280)』 買ひ、
エビネ1株買ひて帰宅。(※省略) われ山住dr.に名古屋土産もちゆき躁といへば「青を2丸とせよ」となりし。(※省略)

4月14日
6:00さめ眠り足らず。(※省略) 西川に電話し、会ひたしといへば14:30と。(※省略)
宮崎女史に「13:00来たまへ」といひ、来しと話してのち13:30出て東京駅。
juiceのませ14:20となりしゆゑ(※東京建物)受付へゆけば西川常務(※西川英夫)なり。
会ひて就職たのみしに「女の子の監督は」ときかれ「男の子なら」といひガッカリす。業界紙の校正・編輯などいかにと。
すぐ電話してくれしもラチあかず「宜しく」とたのみ、大伴道子氏訪ねんと地下鉄にて広尾に出、土地勘なくイライラす。
邸へ入りゆけば先客あり。やがて宮崎女史を識る取次出てわが名刺もち内へ入り紅茶出し待たせ、つづいてまた一人来て「会へず」と。
疲れて欠伸しつつ帰宅。(※省略)
戸田謙介氏に電話して夕食中といふに20分後ゆき「堀博士よき人、早川氏は好色漢」ときき、毛沢東を非難して帰宅。(※省略)

4月15日
4:00さめ、(※省略) 『果樹園』182来り、これをよみし庄野英二氏よりスマトラのこといひ来る。
(山住克己氏(※山住正己父)に会ひにゆきしに、大蔵省より馬来の財政長官に派遣され無事帰りしと。
 南方での作詩見せられ「大鹿卓氏と同窓、似をり云々」気持ちよくして帰り来る。
 その前、山住dr.に躁いへば「斎藤先生(※以前通院の斎藤医院)の薬」に変へ玉ひし也)。
ユ、日曜に望迎へにゆく。スワ母上名古屋へ来て泰みたまふとなり。(※省略)

4月16日
(※省略) 雄松堂の取次の女史「田中克己様でございますね」に「田中克己先生だ、バカ」と電話切る。『文藝文化』復刻の書店なり。

4月17日
5:30さむ。雨降りをり。躁甚だし。山住dr.にゆきその旨云ひ、正己先生(※山住正己)に会見申込めば「外出する」と居留守くらはさる。
(※省略) 佐伯にゆき『華僑史論集(350)』借り来る。

4月18日(日)
礼拝にわれ一人ゆく。この世は寄留地と也。11:30すみしゆゑ三鷹までゆき10分のみといふ松村達雄に会へば嬢の結婚日と。
「東大より4,500万円もらった。大山とは路ちがふゆゑ、成城へは来る気なし」と。出て横山家探し12:20ゆきしにしまりをり、
(※省略) 杉浦家(※故杉浦正一郎)へゆき夫人のよき相となりをるを見、(※省略)16:00となりあはてて帰宅。
西保幸子の「先生とわたし」そのままにして池上カズヤの一周年記念会へゆく。聖歌集、礼拝、日本教団と異なり、(※省略)
すみて退出せんとせしも夫人に日本調査KK東京支社の40男のまへに坐らさる。「乾杯」の発言あり。
この男の「イエスキリストも大酒飲み」の一言に抑へし怒、発して神を汚せしを咎め、座を立ちて出しに、池上由紀枝夫人追ひ来り、
あやまりしもきかず「あなたと故人の昇天はたしか、しかしわが教会に移れ」といひて帰宅。
ユに電話すれば「望、発熱してあす帰れず」といひ、池上家のこといへば怒りて電話切る。
三浦女史呼び22:00滝本生帰りしを呼び、京帰りしあと滝本生と1:30まで話して就寝。

4月19日
5:00目ざむ。滝本生に11:00すし買ひにゆかす。岡美恵、花井たづ子2生より文。12:00ともに出て成城へ登校。(※省略)
成城堂で瀬川清子『食生活の歴史』買ひ、南新宿より東豊書店。『中国婚姻史』『鄭和遺事彙編』『中国90』買ひて18:40帰宅。
三浦女史呼びてすし食はせゐれば山住dr.、心配と薬3日分たまふ。ありがたし。
(東豊書店に中国語やる中大生をり「竹田教授健在」と。わが中国語の師なり)。ユよりたよりなく、(※省略)
けふ講義要項見しに博士課程、大藤、新城、堀、田中、築島、堀川の6教授にて上原君はづされをり。(※省略)

4月20日
8:00さめ眠くてたまらず。青玉のせい也。午食注文して登校。研究室にゐしsemiの2生叱り、(※省略)
追試に落ちし芝生?cunningとわかり、1年留年をいへば「1ヶ月の停学が内規、1罰に2罰なし」と。山田学生部長わが提案を感情的といふゆゑ、
「アメリカではいかに」といへば「答へる要なし」と。怒りゐれば大山博士欠点とし1年留年と。皆これに賛成せし様子。
あとくだくだしければ新城博士にことわりて帰宅。途中、山住dr.によればユも心配しゐると。「やはり青玉のみ安静を」と也。
ユにニセ予言者とそのさくらどもの話し、滝本に電話してユ、並びに山住dr.に告口せしを叱って切る。
佐伯にて『安禄山』他2冊買ひし。望来り、扁桃腺炎とてむづかし。

4月21日
よべ青玉のみしゆゑ21:00すぎより8:00までねて不快感なし。杉浦夫人より電話「手帖忘れありしを送る」と。
池上夫人より「貰ひ物に還暦の祝ひと手紙入りありし。あのあと自由な教団を皆で喜びあひし」と。「手紙送れ、自由のはきちがへめ」といふ。
(※省略) 佐伯にゆき『毛沢東著作選讀(100)』買ひ来る。下歯茎いたみし故、柏井dr.へゆきし也。

4月22日
よべ途中さめ時計みれば11:30。夜半放送生れてはじめてちょっと見、再び眠る。8:30出て(※省略)大学院へゆけば館野女生、新米なり。
重久と鈴木通大、館野みどり、松田精一郎の4生相手に『星槎勝覧』やることをいひ、了へてsalary(※省略)もらひ昼食。(※省略)
佐伯へゆき『茂吉随聞(3冊3,500)』買ひゐしに1女生あり。東邦医大の3年生にて山形県かみの山へ帰ると。つれ来て色々さとす。
箕輪生に似て吉田みち子と也。宮崎女史より「その中西川さんへ伺はうか」と。「伺へ」といふ。
母に電話して「大躁」といへど心配せず。

4月23日
8:00さめ爽快。望より風邪うつりしユを山住dr.にゆかせ、帰りしあと我も薬もらひにゆけば「父上あす朝、謡教へたまふ」と也。
天沼へゆき母より幸夫の結婚式の写真みせられ筍もらひ、往来とも小印刷屋にゆき、きけば1p7円にて製本代は50円と。
原稿用紙3冊(150)買ひ、芙蓉堂により『米の文化史(1,000)』、『奈良(150)』、『パリコミューン(150)』買へば、
店主『私の知っている人達(1,200)』呉れ、わが名をいへば知りをり。帰宅すれば竹内夫人、姪を連れ来り話しゐる。(※省略)
午后、ユを助けんと望の乳母車押して赤川家。夫人をられ「19:30ごろ主人(※赤川草夫)帰る」と。印刷のことで相談すといひ、
駅前の古本屋にて『肉眼恒星図(100)』買ひ『Heine全集』きけば独文のまだあり9千円と。予約し成城大学の世界地図とどけよといふ。
「もしや…言語学たまひし田中克己ならずや」と番頭いふ故、「それは服部正己」といひ、疲れて帰宅。
15:00滝本生morningの修理して来る。弓子、美紀子より電話あり。佐伯にて『使徒行伝(300)』買ふ。(※省略)
堀多恵さんに電話すれば「日曜午后来訪」と。麥書房の堀内達夫氏に電話し文学アルバム『堀辰雄』41pの立原道造のハガキのこといふ。(※省略)
23:00まで西部劇見て一日了る。

4月24日
8:00出て散歩し8:30あけし散髪屋に入り30分ですまさせ、家に帰りて羽織来て「鶴亀」習ふ。むつかし。『南の星』少し借りるとのことに帰宅。
ユより1万円もらひ『ハイネ詩集2冊(34.2.3に吉祥寺にて1,200で買ひし)』を見せれば番頭9千円のTempel verlag版8,800とす。
『松の芽(100)』、『竹内好著作ノート』『星の宗教』とにて500増して払ひ、成城へ『世界地図』と世界史もの2種とどけよといひて帰宅。
ユ午食せしめて弓子へ宏一郎の初節句祝に3万円もちゆく。美紀子もゆくと也。われ13:30出て滝本へゆけば三浦女史。(※省略)
坪井(※坪井明)より「金蘭短大教授となりし」と。(藤原)吉森夫人より「PTAにてかけず」と、罵倒して止む。
堀夫人に「あす15:00以後来たまへ」と留守番にたのむ。(※省略) 本荘健男(『セントヘレナ日記』没収されしと)に電話す。

4月25日(日)
(※省略) 礼拝にゆき総会にて13:30となる。(※省略) 帰れば留守中赤川氏来り、再訪と。(※省略)
堀夫人(※堀多恵子)15:10電話かけ来り、迎へに出れば赤川氏に遭ふ。A5版100p120部オフセット上質紙70kg製本並製にて10万円足らずと。
「原稿を白紙に黒インキでかけ」と也。赤川氏帰りしあとも堀夫人残り17:30ユ帰り来しあとも話してゆく。杉浦夫人より手帖返り来し。
けさ佐伯で『ツタンカーメン(40)』、『キリストと人生(200)』買ひし。夕方また佐伯へゆき本の注文す。(※省略)
21:00すぎ入浴中、早川敏一君より電話「ごきげんよろしいな」と也。

4月26日
6:00さむ。8:30出て成城。(※省略) 漢文の問題わたし印刷せしめprint切らんとせしに浅香副手来をらず、
大学院へゆき池田部長(※池田勉)に会ひ『文藝文化』のこといひ蓮田の発狂気づかざりしを云ひ、三島のことに及べば気を悪くせし様子。(※省略)
2Dの講義叱りつつ了へ、研究室に来し佐々木啓悟(※省略)今後のこと戒めて成城堂で『日本の薬学』買ひ、東豊書店にゆき4万円足らず買ふ。
そこへ来し国学院の女生教へて帰宅。集英社より詩掲載著作権料(3,000−300)来り、古田房子より文章来をり。(※省略)
山本治雄(※吹田市長選)落選を「保田陣営の敗北」と朝日夕刊にしるす。(榎原一夫といふ革新系新顔に46839〜45394にて敗れし也)。
夜、菜畑正見より電話「東京新聞につとめをり。台湾より来し元教員は花岡。われをやっつけよと手紙よこせしは室千松」と教へ呉る。「東京新聞も値上げしたが購買の手段とり呉る。」と也。(※省略)
23:00まで「天皇70年を見る。」

4月27日
6:00さめ8:30出て登校。(※省略) 12:30よりsemi。(※省略) 築島博士と松本善海、Malayの話す。
東豊書店より本来てありしが高円寺の都丸も本もち来り、書類作る。(※省略)
文化史の会、大藤氏の大学院主任を堀博士に代へ「7万円づつ本買ひてよし」ときまる。
帰途、佐伯に寄り350円の本買ひ帰宅。(※省略) けふ花井夫人来り、不平いひ、また文おきゆきしと。(※省略)

4月28日
6:00前さめ8:30望を乳母車にのせて郵便箱へ。(※省略) 11:00まへ佐伯へ。(※省略) 丸木直子より速達にて文章。松本一彦のことかく。
ユ、母と寿一(※西島寿一)見舞にと12:20午食せずして出てゆく。(※省略)
けふはnicotine含有量をtobacco屋にはりあるを見、echoやめepoch(100)とかふることとす。タバコ代1月1,500値上りしわけ也。(※省略)
角川より印税(ハイネ9版72480、現代詩人全集11版)66979三井銀行へ入金せしと。15:30までteleviの映画を見、
ハガキ投函かたがた今井翠にゆけば前半かき了へしと。幼稚園入口の肉屋と喧嘩しをり。
警察へゆくといふ故ついてゆけば保安係は優柔不断。交通係にもよれといはれ佐藤係長といふに会へばとりあげす。われ怒り翠も怒り、
外村家のまへ通りて別れ、幼稚園の前へゆきみれば「少しover」かと思ひ、帰宅せしにユ帰りゐて電話かかりしと。
翠と電話で話す中、望目を覚ます。寿一ガンならず結腸のふさがりゐしを切り、あす退院と(三浦義一の葬儀に出席せしと也!(※4月10日逝去))。
20:00すぎ「スマトラ記」200×10書き了ふ。

4月29日
天皇誕生日(70才)。(※省略)  「スマトラ記」速達しにゆきtelevi見んとしゐるところへ山住克己閣下より「謡の稽古に来よ」と。
「天皇70年」を12channelにてやりゐるといひ、ともに見ゐるところへユより電話。(※省略)『南の星』の批評もらひて帰宅。
11:00また山住邸へゆき「鶴亀」ちょっとやり「鉢の木」「羽衣」ききて帰宅。(※省略) 『不二』来り、終戦自殺教師出版社ありと(※不詳)。
ユ疲れて望われアヤせしに早くねる。日本対マレーシアのサッカー競技4-0で勝つを見るうち歓声をあげ、ユにどならる。(※省略)
3D井上育子生にCambridgeでの心得かく。麝島生より「婚約成った、式に出よ」と。「われ1人なら。2人で来てたのめば」と答ふ。(※省略)
名古屋に電話すれば諏訪母上出て「ご迷惑をおかけして」と。「反対なり」といへども疲れしユのHysterieに悩む。(※省略)

4月30日
晴。4:00さめ6:00タバコ買ひに駅へゆく。山住克己閣下、大鹿卓と東京府立一中の同窓とわかり追悼号もちゆく。(※省略)
佐伯に『切支丹史の研究(2500)』来りをり『中国名菜譜(180)』とともに借りる。
(※『文藝文化』復刻)雄松堂の伊藤編集長来り、わが躁に呆れて帰る。夜より「東京新聞」来る。(※省略)

5月1日
6:00さめ朝日新聞ことわる。(※省略) 望バンザイし、ウマウマ、バアチャンをいふ。
タバコ買ひかたがた幼稚園にゆき保母・園長と話し、出んとするところへ鳥✕のおかみ出しゆゑ話せば、
「咬んだでなく…」といふところへ若い衆出て無礼の言吐く「年寄に向って何ぞ」とて勝ち、今井へゆくみち翠に会へば「一緒にゆくとこわい云々」。
帰りて速達4通、(※還暦祝い原稿)合計55。礼状出しにゆきハガキ買ひ、謡曲のレコードをさがしまはって帰ればまた速達。
昼食買ひに出て西友dept.にまたゆき、祝物1,000を500予約払ひす。5日すぎになると。(※省略) 翠より電話「肉屋カンカン」と。
夜、「東京空襲を記録する会」に(※昭和20年3月の)日記10-16日分写す。

5月2日(日)
4:00さめ7:00速達受取。9:00すぎまでcoffeeのみてねばり礼拝にゆく。聖餐式あり。
すみて佐伯に寄れば『南方全集2』来をり、『浮生六記(150)』、『中国名菜譜3(150)』、『非行少年の心理(100)』買ふ。
(※省略)祝賀の文来る。(※省略) 14:00麝島・都留2生「6.18仲人となれ」と。「大藤教授にたのみ。断られたら」といふ。(※省略)

5月3日
2:00さめ8:00起きる。(※省略)12:00まへ小林母子来り「伊豆へゆく弓子母子預れ」と。「epoch」買ひにゆく。
佐伯へ『南方全集2』の払ひにゆき『日露戦争(100)』、『旧約各書の読み方(100)』買ひ、
『ノイローゼ(490)』新本屋にて買ひ、『大唐の春(380)』山住閣下へと買ふ。(※省略)
望と宏一郎と2孫をり、宏一郎大きな目をして笑ひ、望ややに邪気を生ずるも可笑し。還暦記念のprintす。(※省略)
名古屋より「依子退院したが通院のため望まだ引取れず」と。

5月4日
雨中9:00出て山住閣下に「梅花一両枝」とわが『大唐の春』もちゆく。桂信子の歌集もちゆく。10分上りて『天皇』と『不二追悼号』と返却受く。
このごろ急行に乗りうれし。会計へ行けば試験手当わづか1.6万円。semiにてみな叱り研究室に戻らせ(※省略)
佐伯へ寄り『南方熊楠全集』返せといへば7千円と。「あすもちゆく」と也。(※省略)
夜、山住閣下に電話すれば「梅花一両枝よし」と。「あす11:00鶴亀習ひにゆく」といふ。(※省略)

5月5日
2:00さめ、また眠り6:00さむ。10:00まへ佐伯へ『南方熊楠』と『安禄山』もちゆけば700と。
『論文レポートの書き方(130)』、『名ごりの夢(270)』、『言語学(200)』買ひ、西友へレコードのことききにゆけば未着と。
『林房雄・保田・亀井・蓮田集(720)』と『東京裁判 下』と買ひ来る。
11:00西友より祝謡のrecord着きしと電話、ユとりにゆき、われ山住閣下に3回目の稽古。大鹿卓の歌集もちをらる。
帰りて午食し、televiのchristian映画見てをれば宮崎女史来訪。伊藤佐喜雄の『日本浪曼派』の誤りいふ(癇たちてユを叱りし)。 (※省略)

5月6日
2:00さめ8:00さむ。すぐ出て成城。(※省略) 小倉君と話し雨中気持変り東豊書店へゆく。
『春夫細説(※春夫偏論)(本日『成城文芸60』出来し也)』店主に呈すれば「簡木桂(※店主名)」を「文桂」と誤植す。この間の40,330の外7万円近くたのみ、
(※省略) 丁韓良(※宣教師William Martin)買ひし高校教師「Christianか」といへば「然り」といひ竹森先生(※竹森満佐一)を知りをり。
電話、神田信夫君からかかり「いかが」といひてのち簡氏にとり次ぐ。
小高根二郎氏より「スマトラ記面白く、も少し長くてもよし」と。(※省略) けふ西川より電話かかり「山本(※山本治雄)来りをる」らしかりしと。
神田喜一郎・信夫御父子、牛山百合子氏に「春夫偏論(※『成城文芸60』抜刷)」包む。竹田竜児氏(※佐藤春夫甥)にも同。
牛島・渡辺両夫人より還暦祝!に赤いベレー帽贈らる。

5月7日
晴。6:00さめ9:00になりて、山住dr.に弛緩剤もらひ五十肩に注射打ってもらふ。「春夫偏論」の送料20✕4。
佐伯に寄り雑書2冊(150)買ひタバコ買ひて帰宅。
西川(※西川英夫)に電話すれば昨日山本来て「共産党に負けた!」と方々に電話せし由。山住閣下に電話かけ「13:00参る」といふ。
母来る。寿一に電話すれば寿賀子出て「草とりしをり」と。(※省略) われ山住閣下に「鶴亀」ならひ(4回目)30分して帰る。(※省略)

5月8日
6:00さめ、なす事なく(※これまでに届いた原稿)「わたしと田中克己」写す。Ball-pen買ひに出て、これだめといへば店主むっとして実演す(50)。
(※省略) 折しも来し都留の母、麝島母子迎へて当日仲人を夫婦にて承知す。「祝に何贈らん」ときけば「いらず」と。本棚にせんと思ふ。(※省略)

5月9日(日)
礼拝親子づれにてとのこと也しも休む。タバコ買ひに出、佐伯に寄り(小川眼鏡店で腹立て沢野眼鏡店であつらふ17,000)。
『修道者(30)』、『高青邱詩集(800)』買ふ。「わたしと田中克己」今井翠を写し殆どすむ。(※省略)
ユ、滝本に赤いヴェレーを黒にと高島屋へ交換にゆかせしと也。三浦女史に「まにあへばけふ持ち来るやうに」とたのむ。
20:30滝本生来り、800なりしと!

5月10日
12:00出て佐伯に本註文し13:00成城大学。(※省略) 増田に「姉に会ひたし」といへば家までつれてゆく。
紅茶と茶のみ姉に「少しきれいになったといひ」、carにて八芳園までのせてもらふ。
(成城堂で買ひし『村で病気と戦う(150)』、『魯迅詩話(300)』、『女百話(780)』、『イエスキリスト(320)』と『清史資料三輯 10冊(2万円)』とをもちて重かりしも助かる)
礼いひて下車。学生課次長の隣に坐り新任の諸氏に柏手(※省略) そのあと都留、箕輪、館野みどり3生と話しbusにのり帰れば20:00也。
躁にて楽し。けふ佐伯、本もち来り、都丸の本も図書館に入りし。

5月11日
9:00家を出、(※省略) 14:20より教授会。(※省略)
われ「昭和47年6月15日〜9月14日まで50万円の台湾旅行」の申請書を堀教授(委員長)に出す。(※省略)
佐伯へ寄り『金文の世界』、『月と不死(東洋文庫)』来りしを借り、『図説日本服飾史(400)』をも借りて帰宅。(※省略)
浪速学園同窓会報来り、(※省略) 『植物祭』発行所へユの脱会届かき、岸和田のかわばたようこなる歌人に「気持ちの悪い詩集」と評かく。
増田礼子に電話すれば留守。滝本生21:10に来り、22:30まで話きって帰る。

5月12日
7:00ごろ覚む。「わたしと田中克己」の出版とりやめときめて安心。(※省略) 柿崎生来しゆゑ出席といひ万年筆祝にとゆけば定休。
西友dept.へゆき『新版広辞苑(2,200)』買ひて送る。
帰り山住閣下に「午后1時に」といひ、昼食して伺ひ、橋本徳寿『素馨の花』借り来る。大洋丸にのりし軍属なり。
佐伯へ金払ひにゆけば『字源(2,000)』来てをり、また借金として帰り来る。
滝本生、望の乳母車押し、あとにてちょっと寄りて帰る。(※省略)

※別紙にて教へ子人名リストあり。日記中の到着便等記述は(※省略)した。

1津田侑
2林璋子
3中村左都子
4小倉脩三
5末吉栄三
6北山章子
7和田節子
8道下重子
9山脇英子
10山荘佳子
11西保幸子
12岡美恵
13花井たづ子
14田中靖子
15藤田幸子
16石田嘉子
17今市佐恵
18高山俊子
19長友康子
20谷信子
21藤井陽子
22河野弘子
23古田房子
24富山鈴子
25美濃隆子
26平井昌子
27大野由美子
28丸木直子
29原知子
30阪本和子
31浅田博子
32清水文子
33箕輪尚子
34井上恵子
35今井翠
36林崎栖子
37南隅美弥子
38牛島洋子
39渡辺靖子
40鈴木敬子
41鈴木正義
42池田茂都枝
43藤井美知子
44白水千鶴子
45鍛冶美和
46辻芙美子
47土肥雅枝
48塚本p子
49川上恭正
50庄田泰子
51平本規子
52戸山桂子
53森田宏子
54安田明子
55荒井平次
56小倉佳子
57兼頭淳子
58田中久子
59江沢敏
60野崎その
61増田(明渡)淑江
62涌井千恵子
63桝田紀子
64相良紀予子
65齋藤はるみ

5月13日
6:30さめ8:30出て成城。大学院「星槎勝覧」の演習(※省略) 東洋史「(※清の)太宗Hongtaiji」をゆっくりやる。帰り東豊書店に寄りまた本買ふ。
渡辺卓君と成城で別れしばかりなるにまたここで会ひし。西友dept.5階へゆき謡曲「鶴亀」と「楊貴妃」求めしも発行所しらべよと也。
楽器屋・書店みなこれを売らず、ふしぎ也。『展望』来をり。(※省略) 和田節子に還暦記念文集「わたしと田中克己」の出版とりやめを云ふ。
ユ、見合にて坂泰子に電話す。あす帰り来ると。われ(※明日)16:00より霞山会館の東方学会にゆくこととす。(※省略)
夜、ユまがほにて「滝本とわれと怪し。山住女医も病気を疑ひゐる」と也。失笑し、同時に滝本の精神状態を疑ふ。

5月14日
(※省略) 私鉄ストにて騒がし。麥書房に電話すれば夫人出て「夫、午前中はねてをり云々」便通あり。
山住dr.にゆけば「1週間入院せよ」と「バカいふな」と睨みて薬もらひ帰る。山住閣下夫人にエロ話せしとユの説なり。
麥書房堀内君起きて電話「笠井女史と小倉副手に(※自分より差上げた)道造の信あり」といふ。(※省略)
花井タヅ子に電話し「出版とりやめ」といへば「和田夫人よりききし」と。橋本生(※省略)13:00まで指導し、
帰りしあと出て霞関の霞山会館へと新橋より歩く。(※東方学会)
(※省略) coffeeのみて第3部にゆけばJoy Gluckなるアメリカ青年「Dashgai nomad of far」なる題にて話し聴衆数名。司会山本達郎氏なり。
すみて地図さしCaspi海かといへば「然り」と。Iranの少数民族の話なりし。また紅茶のみ、
John Whitney Hall(Yale大学日本史教授)の「Thirty years of Japanese studies in the United States」をきく。
隣は久松潜一名誉教授にて吉川幸次郎博士も来をり。話のあとお座なりの質問す。
荒木修、鈴木俊、青山定雄などの人々出席のことなりしも見当たらず。晩餐ただといふを断り出る。
(『東方学関係著書論文目録』を買ふ。Gluck青年の話中に詩一篇つくる。)(※省略)
帰れば松本健次郎より「漱石論」ぬき書2冊来をり。『動乱の中の王妃(300)』、『サラリーマンの漢方医学(150)』を金子書店で買ひ「高いぞ」といふ。
夕刊に大鵬31才で引退とあり。
(けふ講演の時、久松潜一教授「杉浦(※杉浦正一郎)はよく勉強しましたね」ときこゆる語発したまひし。人すでに罪を赦せし也。神は早くゆるし玉ひし)

われ異教徒にまじはり
日々呪咀と狂気の書を開く
わが妻はわれを信ぜず
われが神を信ずることをも信ぜず
異教徒は游牧の民ならず
米と兵器をつくり
営々として日々を営む
われその余りを享け
神に感謝すと日に一たびこふ
そは眠りに入る一瞬のまへにして
その眠りよりさめし時はおどろく
わが主にまだわれを異教徒の中に置きたまふや

5月15日
8:00まへさめ、ユと口論し、望つれて滝本へゆきしを見送る。薄井陽子夫人に電話し、文集印刷やめしをいふ。
母に電話し、ユのhys(※ヒステリー)をいひ、坂生より「見合ことわる(※省略)」との電話きき、
滝本より帰るユに会へば「三浦を誘惑するな」といひし云々。佐伯へゆきdouble本(1,000払ひしと)返し
『年齢考』、『幕末英人殺傷事件』、『俳句への道』、『地名地理辞典』、『日本女性史』、『佐藤春夫集(筑摩)』にて980となり、20円つりもらひて、
山住閣下に参り『歌日記』1冊もらってもらひ「楊貴妃」の謡きく。けふにてしばしとりやめとの事、了解さる。
佐伯『安達原』、『熊野』をくれし。夫人より「通茂」との落款の書のこときかれ中院通茂(寛永中死)と電話し、また佐伯へゆき『楊貴妃』と『鶴亀』註文し、『諸子百家(80)』、『日本語文法要綱(250)』買ひ来れば、母門口にをり「学生来りをり」といふに見れば南村裕子なり。(※省略)
16:00帰らしめタカノ花、清國に負くるを見てをれば、
麥書房堀内君来り、「立原の引きし詩はHeineなりや否や」と。われ「このソネットちがふ」といふ。
その間に山住dr.より電話「診察ことわる」と也。ユにいへば「斎藤先生にかへれ」と也。あかね書房より『世界名詩集』の印税1,272来る。

5月16日(日)
礼拝にと6:00起き8:00出て天沼へゆけば大、起きてをり、机を叩きて怒りしにおどろく(河野岑夫の葬式のこと也)。
busにて荻窪へ出、時間早きゆゑ喫茶すれば卵と昆布茶つきて100。(※礼拝)長島夫妻見えず竹森先生に会釈してのち、
阿佐谷へつき佐伯にて『聖書を中心とする教理研究(150)』買ふ。
大高より年会費払へと来る。(この間つきし報告には前田善太郎死にしと!けふのには能勢正元「山本治雄の市長選挙の応援せし」と見ゆ。)
青山博士より電話かかりしと云ふにかければ、昨日の東方学会のことと松本善海のことにて洋行は8月出発と。
televiの映画見、Davis Cupに複インドに負くるを見、タカノ花また負くるを見る。(※省略)
1-48田中克己あて徳島の樋井氏といふより小包来しゆゑ、間ちがひならんと受取らず。
19:00弓子に「ユ来しや」と問へば「来ず。一度赤ん坊見に来よ」と。(※省略)

5月17日
6:00まへ起き、望の乳母車押して散歩。和田賀代嫗より、またみにくき女(※見合の斡旋)たのむとユへ速達。『果樹園』183来る。
池田温氏より転任挨拶。四季より「隔月刊とす。6月末までに詩かけ」と。12:00昼食してゆき「楚辞」(※print)切る。(※省略)

5月18日
スト、国電と小田急をのぞき24時間と。9:30出てメガネ屋起きざる故、佐伯のぞけば『中国農村の家族と信仰(1250)』来をり、
(※省略) 登校。 (※省略) 疲れて帰宅。 (※省略) 賀代嫗より宝生流「鶴亀」来る。

5月19日
よべ9:00に眠り5:00さむ。美紀子と依子とに写真包む。8:30出、2信投函、ユ来らざるに電話すれば地下鉄と。斎藤dr.にゆけば門前にをり。
dr.(※斎藤茂太)「投薬多すぎる。病状なし」と2週間分投薬。初診料200のみ。2年ぶりと。(※省略)
帰りて饅頭くひ、涌井千恵子よりの電話きけば「徳島より椅子送らしめし」と。
この間の「桶井」とありしがそれにて「荻窪駅の小荷物におきあり、とりにゆけ」と也。
神田信夫氏より「抜刷みた」と抜刷2部来る。(※省略) 鎌田女史より電話「沢田四郎作博士逝去、下阪」と。御花料3千円の立替たのむ。(※省略)

5月20日
国鉄ストと。5:00起き8:00出てゆけば母に遭ふ(猫つれて見舞に来しと也)。登校9:00ごろ。研究室あきたらず(※省略)
立教の宮本教授に(※省略) 沢田四郎作博士の訃を語り、
電車に乗るまへ坂泰子のところへゆくこととし、(※省略) やがて立てば叔母さん眼鏡かけauto運転し佐伯の前まで送らる。
『千島小笠原島史(420)』、『馬来亜捜奇録2(150)』買ひ、傘かりて帰宅。安宅温より「古希を祝す」と(※還暦の誤り)。(※省略)

5月21日
5:00さむ。(※省略) 安宅、谷川2生へハガキ。散髪し佐伯へ傘返しにゆき『ゆたかな言語生活のために』その他買ひ、一旦帰宅。(※省略)
帰りて昼食し、ユが望つれて三鷹へゆくを見送り「魔女」といふtelevi見る(※「奥さまは魔女」再放送か)。面白く、
そのあと与謝野宇智子さん(※晶子5女)(明治44年生と)の『むらさきぐさ(荻窪岩森で200)』よみ了る。(※省略)
これにてスマトラ記のつづきに「父−小林政治−晶子」かくこととす。「前川佐美雄歌碑建つ、1口2千円」と手紙来る。

5月22日
よべ京11:00すぎ帰り、ちょっとねて11:30起きしにユ心配す。やむなく山住dr.の薬のみ6:00近くまで寝、
televiつければ中野清見、江刈酪農の話してをり。丸夫人に電話し(※省略)
「歴史地理学会昭和46年度会費納入せよ」とありしをみつけいやになる。涌井千恵子に受取。8:40白鳥芳郎氏より電話。(※省略)
佐伯へ「唐書買ひに来よ」といひにゆく途中、山住閣下に遭へば「楊貴妃来てをり。お大事に!」と也。
漢薬屋へ酸棗仁湯(※安定剤)買ひにゆけば「月曜来よ5日分1,500〜2,000」と。ユ怒りbanana買ひに出てゆく。
(けふ麝島への本棚1万円なりしと。今井翠に出版とりやめと云へば「史、喜びをり。(※原稿)一度みたし」と也。)
四季社より「塚山勇三君19日8:30心臓病にて死、23日(あす也)14:00自宅にて教会葬」と!
夜、飯くひて望つれて佐伯へ『唐書』もちゆくみち滝本に遭ひ「ヨウ」といひあとも見ず。
佐伯にては値段つかず、出て電話かけ来し眼鏡屋に1万円払ひ、望にアメ2本もらふ。帰りて(※滝本氏への応対ぶりを)話せばユ、呆然たり。

牧水の歌を刻んだ碑の向う
海に近くあなたは住んでゐた
わたしは一度訪ねて忘れない
わたしの勤め先へ一度来て
いとこ伊達信が死んだので悼みにゆくと
陸奥宗光の一族である
わたしは中途まで同道し 車代はあなたが払った
あなたは招かれ わたしは残り
まだつぶやきを止めず
たえず祈りたえずゆるされつづける
招かれる日はいつか あなたは知らされてゐたか
わたしはまだ知らされてゐない

20:30矢野に電話し「本宮(※中野清見)見たか、横山のこといったか」といへば「きき、金わたした」と。増子よりたしかに貰ひし也、呆けたりや!

5月23日(日)
6:00さめ、礼拝にゆかず、ユに許されて山住閣下に電話せしも不在。
運送屋のぢいさん(※郵便局留置きの)椅子もち来り、羊羹を(※運賃)120につけてやれば喜びて帰る。televi見ゐしも面白くなければ古本市にゆき、
『南方圏の体臭(100)』といふを買ひ、挨拶せし太田弘毅君、家へつれ帰り話せしあと
15:00ごろ佐伯へゆけば『新唐書』5,500と。「宜し」といひ『斎藤茂吉全歌集(4500)』、『杉田玄白(490)』、『東洋の名画(510)』買ひて帰り来る。
けふ神田喜一郎先生より「論文よろし。呉守礼氏に送れ」と。(※省略) 望ちゑつきし。美紀子より電話「来週来る」「来ずとよし」といふ。
神田先生へ「呉守礼氏に送る云々」。夕方これを包む。

5月24日
12:00出る。山住閣下にゆき「楊貴妃」いただき後半きき、『東京裁判』2冊お貸しす。(※省略)
東豊書店より『福建通志』来をり(3.2万)。浅賀副手に手続すれば「個人研究費丁度10万円となりし」と。(※省略)
東豊書店によれば『鄭和下西洋之宝船考(300)』来をり。(※省略) 帰れば安宅温よりハガキ。「古希」といひしをあやまり来し也。
漢方薬屋にて酸棗仁湯5日分(1800)買はさる。けふユ電話すれば依子「通院やめれば望ひきとる」となりしと。(※省略)
23:00眠れぬとて酸棗仁(サネブトナツメ)煮させ24:00のみて眠る。

5月25日
5:00さむ。9:00出て登校。『史記』70枚刷る(85人)。すみて教授会まで一休みしsemiの自己紹介さし、
早くすみし教授会に「星槎勝覧」の下調べ (※省略)

5月26日
6:00さめ、(※省略) 12:30披露宴と思ひ11:00出て佐伯へ寄り本来をるを見、桑原武夫『発展しつつある国々(50)』と『公教聖歌集(50)』と買ひ、
地下鉄にて悠々とゆけば花嫁花聟すでにあり。(※省略) 新婦の最後の恩師としてわれに祝辞と乾杯の音頭とりと当り
「混沌とせし地の創造神話かきし、天の造り主を知らず云々」を笑ひ声の中にすます。(※省略) 地下鉄にて帰り佐伯へ寄れば、
『アイヌの世界(6,000)』謡曲2冊(300×2)預けらる。『四季』より「塚山君の葬儀に花輪代、小山正孝氏立替550送れ」となり。
夕食までに「スマトラ記」10枚(200字)かき、父のことと晶子夫妻のこと記す。次はBattak族のこと也。(※省略)
けふ水野清一氏死去66才と見ゆ。上原君の成城に呼びたがりゐし人也。

5月27日
早くさめ9:00〒あくをまち、550を四季社に送る。(※省略)
成城へゆきいつもの如く月見そば註文、大学院にゆき重久来ゐしに、演習あてれば出来ず罵倒し(※省略)
16:30まで勤務の箕輪生さそひ喫茶、4万5千円もらひゐるといふにおどろく。丁度時間となり向ヶ丘の紀伊國屋にゆく。古野博士sentimentalとなり、われ男らしく歌ひ「来年度は日本民謡史をやれ」といふこととなる(堀博士提案)。
重久生結婚したしといふに嬉しくなり「Wein und der Wein」歌ひつつ下北沢まで同車。(※省略)
神田博士の初対面思出す。「五雑俎」の「古楽府」にあるを念入りに教へたまふに感激。
千川より「明治45年3月生れにて還暦に同感せず」の文見る。色々なる世の中かな。望、6月にもつれ帰らざる様子。(※省略)

5月28日
大江叔母より電話「女子医大の中山恒明先生に脱疽の手術受けたし、コネたのむ」と。高橋邦太郎氏に電話すれば「(※省略)マスコミ関係に頼め」と。
思案して今井翠に電話す。(※省略) 「スマトラ記」小高根氏へ速達し『イラン(100)』、『Indonesia(50)』買ひて帰宅。
また西友へゆき「鶴亀」のrecord!(900)とり来る。『不二』来り、保田とわれの文のす。(※省略)
今井翠より電話「中山先生死にて代りの先生紹介せん」と!艶叔母に「ナカヤマセンセイシンダ、カツミ」のウナ電打ち、母にもいひて笑ふ。
何事もをかしくてたまらず。(神田先生へ「御教示ありがたし、和田先生恋し」の手紙かく。) (※省略)
美紀子より「大江の叔母どうした」と。「大阪まかせにせし」とユ答ふ。

5月29日
雨。8:00床にゐる中、八木沢生駒込より来りsemi。12:00喜んで帰りゆく。午后佐伯へゆき■み本2冊買ひ、ユが望背負ひて天沼へゆくまteleviの映画見る。17:00ごろユ帰り来り、やがて賀代嫗来る。隣人と教へ子とのこといひ、ユ怒る。(※省略)

5月30日(日)
聖霊降臨祭日とて礼拝にゆけば1列目。五旬節なりしが名称かはりし也。すみて(※省略) 帰れば母来をり。
南村啓子来ると。礼拝サボりしといふを咎め漢文よませしに常識なし。歎息しつつ了へて「歌合掌しませう」となる。物怖じせざること感心なり。
帰りしあと佐伯へゆき退屈どめ2冊買ひ来る。

5月31日
6:00さめ9:00『元史』もちて佐伯へゆけば4,000と。『中国文学的故事』、『近古中国文学故事』、『日本神話論』にて2000買ひ登校。
(※省略) 東豊書店へゆき『明監國魯王壙誌之研究(200)』、『清営 譚()』買ひ、鄭和関係と北京大(※の)民俗学とを大学院にと購入たのみ、
代々木より乗車して阿佐谷。佐伯へゆき高すぎるといひ1,000置き『白居易研究(4,320)』借りて帰宅。(※省略)
大江叔母より「湖東博士女子医大に問合せ中山外科健在と。克己また(※たばかった)か」云々!今井に電話すれば中山「内科」死にし也と。
辻芙美子より「市大やめ立命大の夫のため京都に転居す云々」。20:00前入浴。大江叔母についで電話し、ユ出て話す。(※省略)

6月1日
7:00まで眠る(望も同じ)。覚めて用意し10:00登校。(※省略) semiやり小安生つく。「休み来よ」といひしに誰も返事せず。(※省略)
立教へ15:05に着き宮本研究室(※宮本馨太郎)にて手塚、中川2氏(※手塚隆義、中川成夫)と榎君(※榎一雄)のことなど話し、
(※白鳥清の喜寿記念出版)発起人酒井氏(学習院)を加へ5人とし会員200人にハガキ同封して出すこととなる。
「清先生やはり千葉出にて鈴木姓」とはじめてきく。18:00よりの講義とゆきしあと手塚さんと帰り誘はれてice-cream食べ、払へば困らる。
帰りて望相手に喜びゐるところへ佐藤達夫氏見え、「何事も本ならよむ。買ふ。48才」ときく。23:00羊羹おきて帰りゆかる。
けふ『植物祭』来り、宮崎さん格下げとなる。「隅の親石」のたとへ(※聖書)通り也。

6月2日
7:00さめ9:00出て斎藤神経科。薬そのままとなり『精神科医三代』にsignしていただき新宿まで歩き(cold coffee130)、佐伯に4320払ひ、
14:00来し古田房子迎へにゆき14:30まで話す。(※省略) 18:00電話新宿よりかけて来し浅賀、館野みどり2生にすし食はせ羊羹もちゆかす。
望昂奮して20:00までねず。(※省略)

6月3日
寝につきしは10:00すぎか(京の帰宅しらず)。夜中に望の泣くに目をさまし5:00起き望つれて犬見にゆきしもゐず。眠がりつつ登校。
大学院ウエズ生と重久とくひ下り気持よし(鈴木休む)。すみて栗山氏らと話し12:30となり、中国文学史「楽府」すまし、
身体検査にゆけば尿みられ「糖あり」と。dr.別に意見なし。(※省略)
大庭教授と同車、南新宿で別れつげ、東豊へゆけば我の借金少なくまた1万円余買ひて帰宅。
小高根二郎氏より『伊東静雄』来り、われとの出会ひを昭和8年と誤る。
糖尿とのことにバナナやめ飯少なくし菜くふ。うまし。ユによれば酸棗仁湯のせい也と。
小高根氏へ礼かね「昭和7年」といふ。
(※『コギト』創刊が昭和7年3月だが当時の日記紛失。昭和8年日記に「三月十八日には中島と伊東静雄氏を訪れたり」とあり。)(※省略)

6月4日
雨。7:00さめ、ねおき目まひす。小高根二郎氏へのハガキ投函に出、佐伯にて1,000足らず買ふ。主人も糖尿なれどかまはずと。
ユの留守、山住dr.に電話し(※省略)「あす食後3時間に再来せよ」と也。午食してのち佐伯に払ひにゆけば、主人ゐず。
『楊貴妃哀史(230)』、『三国人物論(270)』買ひ、
『失楽園(※ミルトン)』買ひに荻窪岩森にゆけば売れ、支店にゆき、コギト伊東知り池田勉の愛読者といふ男に会ふ。(『海原にありて歌へる3版(600)』買ふ。)
気味わるく哄笑してついて来、堀邸あたりにて[紙]買ひ、家へつけば大人しくなる。山際といふ製本屋の子と。15:00帰してtelevi見、
夕方また佐伯へゆき金払ひ『内村鑑三』買ふ。夜、坂女史に電話すれば「弟子の件2日待て」と。(※省略) ユすぐ竹下夫人に電話す。(※省略)

6月5日
6:00さめパン2ケ食ふ(7:00)。(※省略) 10:00山住dr.にゆく。「糖なし。血とり検す。水曜朝食後2時間して来れ」と也。
ユ13:00まへ中野へ坂生の相手のことにてゆく。(※省略) 『大王と古墳』買ひ来る。方角にて王系きむる也。

6月6日(日)
7:00さめ雨中礼拝にゆく。(※省略) 佐伯へより1冊買ひて帰宅。
弓子より「来る」と。まちて宏一郎の写真とる。善一郎と19:00までをりcolortelevi見つく。(※省略) 望日々に智慧つき、しかも可笑し。
“As U will”「みこころのままにと祈るみちからの限り知られぬ大きさゆゑに」
前の空き家の庭にある花ムシトリナデシコと調べつく。

6月7日
5:00起き9:00出て佐伯にて『ヴァチカン市国(80)』、『現代人は愛しうるか(490)』買ひ『キリストの御後に』もらひて成城。(※省略)
成城堂で『死の壁の中から』、『5日でタバコをやめる本(325)』買ひ、山田氏とちょっと話し(佐藤氏のことなり)、
東洋文化史にゆき前の子の眠るを見て止め、(※省略) 東豊書店へゆき『小説詞語匯釈(1200)』買ふ。中共の某氏のドロボー版なりと。
堀博士へと道教本の広告もらひて出る。(※省略) 帰れば「けふ坂泰子18:00に来る」と。(※省略)
山際文雄君より礼状(Milton(※『失楽園』)さがすと也)。18:00坂生来り、金曜新宿御苑にて見合すと。(※省略)

6月8日
よべ早く寝て(22:00)5:00さむ。printせんと9:00出て登校。(※省略)鎌田女史『柳田国男集』索引編たまふ。14:00より16:30まで教授会。
すみて茶のみ帰る。(※省略) 20:30入浴中、中川氏より電話「金曜15:00宮本研究室へ聖心のしりあひもって来よ」と。(※省略)

6月9日
23:00ねて6:00さむ。9:00まへ郵便に入れゆくと出て、山住dr.に逢ひ「検査の結果よかりし」ときき、
「湿疹みて下さるや」ときき「よし」といはれ、散髪すみて山住閣下にゆき「楊貴妃」またきかせて戴く。
出てdr.「ジンマ疹」といひなほし薬たまふ。(※省略)

6月10日
23:00ねて5:00覚む。四季社へ「聖霊降臨日の前」包む。塚山勇三追悼なり。9:00出て10:00登校。
大学院ウエズ生休み重久相手に5分前までやり、すみて昼食。(※省略) 出れば3年の男生をり喫茶せんといへば女生2人つれ来る。(※省略)
下北沢まで同車。佐伯にて『動乱の昭和史(100)』、『滝田樗陰(100)』買ふ。20:00ユが依子に電話すれば「あす15:00ごろ来る」と。
望いよいよ賢くなる。(※省略)

6月11日
5:00さめ本よみ6本吸ひ12:20ユの飯して出てゆくを見る。(※省略)
14:00出て立教。宮本研究室しまりをり(※省略)「18日」とわかる。出て古本屋のぞき疲れてcoffee(120)16:00阿佐谷へ帰り、
佐伯にて『日本の歴史・年表・地図(500)』、『木山捷平わが半生記(550)』買ひ1万円にてつり貰ふ。ユの方、先帰り、依子・泰16:00つきしと。
望譏嫌よし。澄より電話に泰の喘息いふ。(※省略) 『果樹園』184来る。

6月12日
家居(5:00さむ)。〒なし。13:00南村来り、(※省略)15:00帰りゆく。20分ほどして都留・麝島来り、式次第と仲人の挨拶の原稿おく。(※省略)
ユ、三鷹へ泰・望つれゆき依子あとにてゆき望をユつれ14:00ごろ帰宅。(※省略) 荒本生「推薦状かけ」と、来いと云へば18:00ごろ来り、
(※省略)京阪より広島へゆく証明書とって送ってくれといひのこして出てゆく。
「無法者」なるauto-byの不良の終末笑ふを見了るまで不快がりつつ見る。依子あす午后2児つれて帰名となり。

6月13日(日)
6:00さめ礼拝休む。9:00望を抱くわれを京に撮らし、母来りしと11:00泰を入れてまた写真とり、ユの東京駅まで送るを見て、
12:00出て写真現像たのみ、雲呑たべ(100)、佐伯へゆき『火山(600)』、『樗牛全集5(250)』買ひて帰宅。(※省略) 望まだゐる如き感じあり。(※省略)

6月14日
6:00すぎ覚め10:00登校。「明史和蘭伝」切り図書館へゆき「四礼通考?」と「喪礼通考?」と探し出してもらふ。和本のガラス内に入りゐし也。
(※省略) 佐伯へ寄れば「きのふ本もちゆきし」と。ふしぎ也。探しまはり『ポンペイ展(300)』買ひて帰宅。〒なし。
「望、泰と仲良くし譏嫌よし」と澄より電話ありしと也。(※省略)

6月15日
よべ11:00までアメリカインディアンの善戦を見、7:00まで眠る。9:00出て成城、print切る。12:30よりsemi。(※省略)
帰り東豊書店へゆき『台湾家庭生活(360)』、『清初史料四種(1500)』買ひ『植物図鑑』の書名、発行所しらせて取り寄せたのむこととす。
佐伯へ寄り『イエスキリスト』100で売り『大阪(10)』、『杉浦明平(80)』にて10円もちて帰る。
矢野より「8.14(土)岐阜Grand Hotelに集り一泊、翌日17:00名古屋駅にて解散(※大高同窓会)」と。「不参」の返事す。(※省略)

6月16日
6:00さめ9:40出て三越へゆき「マクドナルド(5,000)」(※ウイスキー)みつけ「御中元」とかき斎藤先生。
組合証出し薬だけといひしも11:30近くまで待たさる。(※省略) 2週間分もらひ傘まちがへんとし、持主に注意され無事にすみし。
帰りどこへも寄らず12:00かっきりに帰宅。
山際文雄氏スペイン語出来ると見え、Santayanaといふ未知の著者の全著作より拾ひしといふ『思想のアトムズ』といふ本送り来る。
橋本由美子生来り「中華全国風俗志」のcardよます。(※省略)帰りゆきしあと、和田夫人の来るをまてば18:30来り、21:30まで話しゆく。
(※省略) 入れ違ひにて京、尾瀬より帰来。(※省略)

6月17日
7:00起き9:30出て成城。(※省略) 帰り急行にのりどこにも寄らず帰ればユ留守、京をり。(※省略)

6月18日
7:00すぎ起きユ10:00天沼へゆくを留守番す。(※省略)午食せしあと14:00出て立教。(※省略) 白鳥芳郎君来り、学習院の名簿作りをり。
われ先生の年譜作ることとなる。7月上旬にまた会すと。(※省略) 別れぎは芳郎君Burma土産の灰皿賜ふ。(※省略) 泰・望あて写真送る。

6月19日
7:00さめる。駅前郵便局にて1円切手買ひ、先着6人に(※未刊となった「わたしと田中克己」)原稿の写し送る。みな地方なり。
(※省略) 田中久夫教授より電話かかり来訪と。14:30ごろお越し、わが茶のまれ帰りゆかる。年よりとて同じこと話せしかと気がかりたり。
山際文雄氏より「『失楽園』山口(※山口書店)で見つけたが1500なりし故やめた。岩波文庫にある故さがす」と。(※省略)
けふ西川より電話「新宿の会社に宮崎さん世話した」と。「8月の会、われちょっと顔出す。泊らず」といふ。

6月20日(日)
曇。7:00すぎ覚め(※省略)、9:00すぎ出て久しぶりに2人にて礼拝に出る。(※省略) 帰り吉祥寺できつねうどん食ひ(130✕2)、
帰り佐伯に寄れば「成城払ひ1回ありし」と。televi映画見てをれば、川久保より「上京しをり。娘のこと報告に」と。
来りて「娘、心決まらず交際ちょっと休みをり」と。ユにきけば「相手他の女と見合し交際はじめし様子」と。「はやくことわれ」と暗にいひて帰す。
その間、宮崎女史来り「新宿の信越企画集団といふに見習にゆきをり。まだ月給きまらず」と也し。
『不二』三浦義一追悼号。73才にて1億円以上の遺産みな寄附といふことにして死にしと也。(けふ千葉県地図買ふ。150)

6月21日
雨。10:00すぎ出て靴屋さがし2,300の靴買ふ。そのまま渋谷へ日赤ゆきのbus探せしになしtaxiにて聖心女子大。玄関大いに変りをり。
まごついて受付でいへば西川事務長に会へ、海老沢博士に答へしもと、しらべて白鳥先生27年より32年まで大学院と学部の専任と。
ここやめて立教へゆきたまひし也。(※省略) 渋谷までbus、井の頭線で下北沢、古本屋へゆきしに休み。ギョウザ食べ(100)、成城。(※省略)
雨の中帰り来る。ユ、名古屋へ電話せしも望のことくはしくは云はず。

6月22日
曇。9:00出て学習院大学。図書館へゆき司書の人にいへば、末松保和先生に案内され、
先生電話したまひ書類まつ中10:30となり、女の人に案内され、教務へゆけば「きかず」と。(※省略) 先生(※白鳥清の履歴)書類で送ると。
目白通りあるき堀博士『民間信仰(250)』買ひ、代々木まで乗り東豊書店へゆき、ラーメンくるまで13:10となり、
堀江忠道に遭ひ『巴金年譜』作れば来ると也。教授会16:00すぎまでつづき、ついで大学院の会。(※省略)

6月23日
曇。8:00起く。佐伯へゆかんとせしに水曜にて休み。白鳥清先生年譜を作り、11:30白水、丸木両夫人来り、(※省略)
和田統夫より「離婚成立し6月4日美佐子入籍できた」と。

6月24日
曇。9:00まへ出て成城。大学院にて重久にきけば「縁談の世話いらず」と。恋人でもあるならん。午後も2時間やりすませて帰宅。
(※省略) 佐伯けふも休みゐる。末松先生より(※白鳥清の)履歴書つき、くはし。(※省略) 『南方熊楠(笠井清)』よむ。(※省略)

6月25日
よべ睡眠感なし。6:00起床。末松先生に礼状。(※省略) 『南方熊楠全集』よむ。75才で萎縮腎で亡くなりし也。母、午すぎ来り、われ散髪。
15:00よりユの着付けし16:00駅へゆき私学会館。coffeeとcakeにて110。17:00前、都留、麝島2家に挨拶し、
17:10すぎより式。盃事やめ両家の挨拶、都留重人教務は明治45年生れ。夫人は木戸孝允の孫と。55才なれど30代に見ゆると。
17:30よりわれ花婿花嫁の紹介し(※省略)20:00暑がりつつ帰宅。

6月26日
5:30さむ。9:00南村裕子来り(※省略)、午すぎ佐伯へ『二十五史』もちゆき写真帖3冊と代ふ。(※省略) 眠さこらへてtelevi映画見る。

6月27日(日)
夫婦とも礼拝休む。佐伯へゆき『世界地理風俗大系1満洲(500)』買ひ来る。ユ、午后縁談で出てゆき、
われteleviを見てをれば16:00ごろ都留・麝島2家の母上と新郎新婦来り、礼(あとで10万円とわかる)とカステラ置きゆく。
彦根の河村dr.(※河村純一)の『曲肱』よみ返し、苦労少なく佳作ならざるを知る。手紙かきしも投函やめとす。(※省略)
西島寿一に電話すれば寿賀子出て「首廻らずなり会社休み整形にかかりゐる」と。

6月28日
佐伯へ寄りdoubleし本100に売り長沢規矩也博士の汽車の乗り方かきし愚本買ひ(130)登校。(※省略) 疲れて帰宅。栗山博士より受取。
前川佐美雄記念会より「7月末までに」と。参議院選挙自民低調、社会党反自民の波に乗り下りとまりらし。
浅野晃氏より「『日本浪曼派』林富士馬氏と保田とにて復刊、昨日その会あり。貴君も参加勧めよといはれし云々」「承知」と答ふ。
恰も「スマトラ記13」書き了へしばかりなりし。

6月29日
9:30ユと出て新宿三越。本棚(8,500)買ひ、服地もちゆき仕立てたのむ。(※省略) 食堂へゆき飲物あつらへ、紀伊國屋見しあと昼食きしめん(130)。
成城へゆきsemiの子らに「休み中来よ」といふ。(※省略) カリキュラム委員会 (※省略)つまらざれど一般教養なくなる故やむを得ざる也。
18:00すぎすみ帰り来る。(※省略)

6月30日
8:00さめ9:30出て斎藤先生。4週間ぶりで診察受け、癬出来ゐること申し上ぐれば薬かへたまひ、保健医辞退のこといへば2週間は続くまじと。
(※省略) 帰り新宿まで歩き高野5階で紅茶のめば200! 昼食におじや食ひ了へしところへ白水夫人来る。帝塚山短大の同窓会すと。(※省略)
木村三千子氏より『骨』39号の原稿7月末日までにかけと。宮本氏より白鳥先生の論文目録来る(不完全なり)。
『福建通志Vol.20』のむ神ひろへば人的神多し。

7月1日
曇。5:00まへさめ睡眠不足の心配し乍ら白鳥先生の年譜了へ、また福建の神拾ひ、『骨』へ「体重」200×6書きユに郵便局へもちゆかす。
けふより保健医辞退、10日頃まで解決せざるらし。
12:00出て渋谷よりbus。14:02白鳥家に着き、研究所のこと、孫さんのことなど「のせて宜し」となりしなり。
奥様に白鳥博士夫人の逝去の日などきく中「けふは郁郎逝去の日」と。アッと驚き、令嬢のことなど聞きおき玉へといひ、
「白鳥先生受洗は一昨年、霊名Josefh」と承る。
帰り宮益坂に出、玄誠堂にて『When iron gates yield (230)』、Goodrich『A short history of the Chinese people (150)』と買ひ、
紅茶のます処なきに目くらみ、駅にて森永juiceのみて帰宅。(※詩歌古書店)中村書店主人亡くなりしも未亡人やりをり。不相変高価なり。
けふ畠中哲久といふ詩人より「仮名づかひにつき注意ありがたう」と。林富士馬、今井翠、東京新聞配達所などに電話す。躁?

7月2日
雨。8:00さむ。(※省略) 13:00松野生来り、14:00までやる中、米山まち子より「新宿にあり来る」と。松野生帰りそのあと和田夫人来る。
米山生「栃木へ帰る」と也。16:00ごろ帰りゆき和田夫人のこり、われ「立原を金の詩人」とかきし高校の先生来させよといひ、
帰りゆきしあと体悪し。けふ亀井斐子夫人より『亀井全集』送ると。きのふ講談社より田中克己の「己」のことユに聞きしと也。(※省略)
ことごとに望をおもふ一日ごと賢くなりし月日すごして

7月3日
曇。終日televi見てをりし故、ユに散歩にゆけといはる。新城博士より『庶民と旅の歴史』、野田又夫氏より『デカルトとその時代』賜はる。
小高根二郎氏より受取。(※省略) けふ佐伯で『日本の中の朝鮮文化(370)』買ひ、新本屋へゆけば野田博士の本とともに売りゐし。

7月4日(日)
8:00さめ夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) 長島氏と喫茶。「(※慶応義塾大学)工科日吉へ移転にて忙し」と。(※省略)
澄、依子ともに電話「望つれて来よ」と。ユ、あすより泊りがけでゆくこととなる。けふも『阪本越郎全詩集』『亀井勝一郎全集10』賜はり(※省略)

7月5日
ユ11:00出てゆく。(※省略)15:00まで内閣改造と(前田正男氏またダメなりし)。飛行機墜落とのtelevi(※ばんだい号墜落事故)。
15:00本棚の底板もち来しと電話あり。(※省略) 本棚見ゐる中、底板発見されあやまりてむりに500わたす。
増田生自動車にて来しにて17:30帰りゆく。われチャーシュー麺食ひ(150)『文藝春秋』買ひ来てよむ。20:30ユより電話「あす帰る」と也。
けふ坪井より「金蘭へ話しに来よ」と。松本健次郎より漱石論と大高なつかしと。

7月6日
8:00さめ9:30出て竹森先生(Calpisもちゆく)。30年記念に本出したまふと。末日思想はモルモン教と。30して出、
亀井斐子氏に電話すれば留守。帰り来り、缶詰の炒飯ののこり食へばユ「牛乳屋の前にあり」と。
迎へにゆき船越父子に遭ふ。望歩けるやうになり物分れども云へず。小便2度して20:00ごろ寝つく。けふ〒なし。
坪井、松本、亀井夫人に信かく。(※省略)

7月7日
台風の余波の雨風時々。母来り「咲耶あさって来る」とかいひて掃除す。
望慣る(※狎れる)。(※省略) 讃岐喜八氏「石巻鉱害事業団理事長となりし」と。

7月8日
姜生へ礼状。望いよいよ悪し。咲耶夕方電話「あす来る」と。あとにてまた電話「大江叔母、脱疽にて阪大入院、カンナ付添ふ。見舞の電話せよ」と。
電話すれば出て来て「元気で入(※ママ)る」と。(※省略)

7月9日
晴。この3日間暑し。11:30咲耶、母と来る。3児の祝返しもち来り折よく美紀子より「来る」との電話に帰りゆく。
けふ矢野より「Heidelbergへゆきし」と。中央公論社より「『日本の詩歌』再版2,000部の印税送った。」と。(※省略)

7月10日
暑し。下痢つづきだるく出ても仕方なしと思ひカリキュラム委員会欠席を教務課長にいふ。けふ〒なし。「台湾の神々」書けさう也。(※省略)

7月11日(日)
礼拝休み何もせず。亀井斐子氏より長い手紙。(※省略)
16:00小林夫婦来る。宏一郎大きな目をしてをり。すし食ひ20:00ごろ帰りゆく。父上退院と也。(※省略)

7月12日
暑し。疲れてをり、わけわからず終日ねてゐし。
亀井夫人より茶の湯の雑誌来り、見るに渡辺春輔氏、俳句の評をしをり。そんな話ひとつもしなかったとハガキかく。
石田嘉子生へ「祝返し何せんか」と問ふ。(※省略)

7月13日
少し涼し。白鳥奥様へ電話し(※省略) 14:00家を出、中野よりbusにのりて宮本研究室にゆけば中川、白鳥芳郎、手塚氏とそろひをり。
350pを越す故、発起人3,000、頒価3,500とせんとなる。わが「略歴稿」を芳郎氏にわたし校正見る。
発起人の表書われも手伝ふといひ、17:30出て手塚氏とice-creamのみて帰宅。山本治雄より弁護士やりゐると。(※省略)

7月14日
10:30斎藤先生にゆけば満員。cooler寒く廊下に出て(※省略)不眠症の若夫婦をり、はじめて来診と。話してやれば喜ばる。
先生「経過よろしいですね」とてすみし。(※省略) ユに電話しマカロニ(200)と紅茶(120途中にて)採り、古本屋にて『縄文人の入墨(450)』買ひ帰宅。
『果樹園』185来り、『立原道造全集1』来る。(※省略) けふ諏訪母上よりユ宛に来し「2万円は澄に渡すな」と。21:00澄来る。望、眠りをり。

7月15日
澄10:00出てゆき19:00すぎ坂泰子叔母とともに来り「縁談たのむ」とのこと也。咲耶より「(※省略) 大江叔母手術すみ麻酔中」と。(※省略)

7月16日
きのふけふ暑さややゆるむ。(※省略) 夕立し、望の体温計れば38℃、山住dr.にゆかせれば風邪と。

7月17日
9:00望の熱下らざる故、ユ山住dr.にゆき(※省略)、夕方、マッチ、タバコ、麦茶買ひにゆく。
けふ諏訪節子氏へ悠紀子、望の発症にて疲れしとわれ手紙かく。協会の長島氏より「あす来てよきや」と。「あす教へ子あつまる故他日に」と返事す。
(※省略)

7月18日(日)
望、熱下りしもわがまま日ましにはげし。10:30咲耶来しに大江叔母の見舞託し、散髪にゆき、午食をといへど咲耶帰りゆく。
12:40、谷川(高松)、丸木、立川(川崎)宏子、阪本(山内)の4人来り、ついで吉森(藤原)夫人来る。
還暦祝に万年筆くれし外、谷川生立替へて平岡、清水と3人にて清水焼呉る。すし代叱りてとらず夕立前に帰りゆく。
望、盛んに失尿す(この間より云へばする様になりゐしをユ疲れて失念せし也)。(※省略)

7月19日
タバコ買ひに出て、佐伯にゆけば、堀博士の本、来をり5千円と。
『モンゴル帝国史3(500)』買ひ来る。『草の葉 下』も出をり。(※省略)
望、困らすゆゑ山住dr.へ19:00ゆかせれば風邪なほらずと也。(※省略)

7月20日
望わりあひおそく起きる。けふも涼し。(※省略)
佐伯へゆき堀一郎『我が國民間信仰史の研究2冊(4,800)』買ひ、岩波文庫『草の葉 下(250)』も買ひ来る。(※省略)

7月21日
朝より下痢2回。元のLevirate(※レビラト婚)を『元典章』などより書かんとして自信なくなる。(※省略)
山住dr.へゆき3日分の下痢止め剤もらふ。望も咳どめの薬もらひにゆく。

7月22日
望、元気なれどくしゃみ盛んにす。林富士馬氏より『鴛鴦行』。
Levirate昭和18年殆ど書き了へしに気づく。また「台湾の神々」とすべきか。鬱なり。

7月23日
望もうすぐ全快せん。午まへ山住閣下に電話し、
坂家よりもらひしwhiskyもち、『素馨の花』借りにゆく。橋本徳寿氏が河村軍医大尉のおかげにてもち帰りし日誌なり。(※省略)

7月24日
『素馨の花』読みづらく(※省略)、宮崎さん、赤ラベルのwhiskyもちて(※就職斡旋の礼に)来らる。月給5.4万円と。

7月25日(日)
礼拝にゆく。長島氏来ず。まっすぐ新宿にゆき合セビロの仮ヌヒしてもらふ。31日届けると。まっすぐ帰りteleviの映画見、『素馨の花』読み了る。
河村博士の力なるもシブトク、皆より好かれる人なり。(※省略) 河村純一博士へsingaporeのこと書かん。

7月26日
ユ、風邪ひどくなる。スワへ電話し「依子早く来よ」といへば午后電話あり「泰病気にて来られず」と。母来り京休み、望喜ぶ。
われ外科へゆき注射按摩放射など治療受く。「鬱なり」と医師にいふ。〒なし。(※省略) 母より電話「大江叔母喜びをり、経過良好」と。
21:00すぎ福地君(※福地邦樹)より「8月3日20:00ごろ来る」と電話。

7月27日
外科へゆきまた治療受く。動かせとのこと也。望よくなり買物につれてゆく。ユもややよくなる。(※省略)
林富士馬氏より「癌かと思ひ手術受けし」と。(※省略) 川久保電話くれ「娘の縁談旨くゆかざりし」と。坂生より「ユいかに」と。
依子より「泰40℃の熱出てをり。30日澄来る」と。

7月28日
依子に電話し「泰大切にせよ」といひ10:00出て斎藤dr.。「鬱となりし」といふ。先生台湾へゆき玉ひしと也。
月見そば(170)食ひ(文藝春秋8月号買ひ、読みて待ち時間すごす)帰れば「間違ひし薬入りをり」と薬局より電話ありし也。(※省略)
21:00近く、中野清見より電話、盛岡からより也。

7月29日
8:00ごろか硲晃(※浪華中学在職時の教へ子)夫人より「主人死にし、胃潰瘍云々、先生にだけ」と。
云ふことなく、ただちに弔辞かき5千円同封して速達することとし、家庭教師してもらひし史にも知らす。
外科へゆき「大分よくなりし」といひ帰れば、(※省略)
川久保来り、わが頬のそげしを云ふ。あと3年位で定年と也。松本(※松本善海)夫人に電話しあさって13:00以後ゆくといふ。松本わるきらし。
(※省略)

7月30日
他出せず。鬱々としてをりしに澄18:00ごろ甲府より来り、夕食もせず名古屋へ帰ると也。望、後追ひて出る。
(泰、けふも熱高しと、気をつける様いふ。) (※省略) 山前実治君「山科に転居」と。この風邪しつこく癒らず。(※省略)

7月31日
ユ、体悪く母に電話すれば大、出る。大けふまた伊豆へゆくとて母来てくれ働きしも15:00まで飯食はさず。18:00猫に飯くはすとて帰りゆく。
(※省略) 帝塚山短大5回生より「8.24クラス会す」と。(※省略) 池田温氏より「集賢院」につき抜刷。杜甫その待制なりし也。(※省略)

8月1日(日)
礼拝、聖餐式とてゆく。帰り長島氏誘ひ氷宇治吃ひ、帰りて母に炒ソバ食はしてもらひ忽ち下痢す。夜、ユの粥にてすます。
きのふ母36キロわれ37キロなりし也。(※省略)

8月2日
朝、スープとパン自ら作り、下痢す。(※省略) 母来る。ユやや軽快。(※省略) 辻芙美子より暑中見舞。

8月3日
ひきつづき暑し。(※省略) 20:30福地君(※福地邦樹)より電話あり、迎へにゆき23:00ごろまで話す。「詩集を『果樹園』あるうちに出す」と也。

8月4日
6:00さめ6:30福地君も起き来る。9:00すぎ母来り、庭の草とり、よべ外泊せし京も10:00帰宅、手伝はさる。
福地君、本・草の話ききて参考書写し14:00ごろ去りゆく。(※省略) 夜、川久保訪ひて東洋史談話会名簿返却。夕食前にて早々に帰り来る。
松本夫人ほがらかなりしと。千川より「中西博士レントゲンの中毒にて指数本切りし」と。(※省略)

8月5日
semiの2生に電話すれば不在。今市佐恵夫人より刊行取り止め承知と。末吉栄三より9.26日に「浪中12期会す、来よ」と、断る。
帝塚山5回生の会、古田恭子へもことわり。(※省略) 望つれてゆけば佐伯へ『唐話辞書類集4(2700)』来をり。(※省略)

8月6日
9:00八木沢来り、冷たいもの飲み12:00ごろ『中華全国風俗志』すまし『太平御覧』もって帰る。タバコ買ひに出て帰れば塩崎生来り、
「市谷会館で9.2式」と。「大学休んで出る」といふ。(※省略) 望つれて万年筆(3000)買ひて贈り、佐伯へ2700払ひにゆく。
澄より電話「依子、泰つれて12頃来る」と。(※省略) 椿下生よりも「中西博士指切り元気」と。

8月7日
外食せず。ずっと30℃以上の暑さつづく。(※省略) 母に電話すれば元気と。けふ「台湾の民間信仰」2〜3枚かく。(※省略)

8月8日(日)
礼拝休む。連日30℃以上、けふは33℃と。小林生来り台湾のテーマつかめず迷信といふに匡して「衣食住」とせしむ。(※省略)
弓子来り、京家事やる。ユ、風邪またぶり返せしらし。(※省略) 最上ヤス子より5回生の会の出欠問ひ来る、欠といふ。

8月9日
けふも暑し。母来る。外出せざるも論文かけず。12:30八木沢生来り『太平御覧』返しに来しゆゑ『古歳時記の研究』貸す。(※省略)
望ものいひ吾儘なり。

8月10日
けふも30℃を越す。散髪し久しぶりに外科にゆく。マッサージしてもらふ。ついで注射。11:00すぎて帰宅。
(けふ富山、美濃2成城夫人に(※「わたしと田中克己」)写し送る。)『果樹園』186号と谷川真佐枝より写真来る。
弓子より還暦祝のwhite-shirt来る。

8月11日
9:00出て斎藤dr.。すいてゐしも薬もらひのみして千駄ヶ谷に出、代々木下車。東豊書店へゆけば店主簡文桂氏「渡辺卓氏1日に死にし」と。
6月末ここにて会ひ「成城やめたし」とか聞きし也。『民俗台湾』学校へと注文し、ラーメン食ひて13:30になりし故、南新宿へ出て祖師谷。
青山博士邸へゆけば夫人迎へられ、博士も42キロと。餞別おけばMelon賜ひ駅まで送らる。(※省略)
帰れば成城より前期考査の問合せ来てをり「3学科みなやらず」と答ふ。

8月12日
外出せず。暑し。澄より電話「依子、泰けふゆく」と。15:00ごろ来り、望とあそぶ。(※暑中見舞省略) 坪井明Düsseldorfより

8月13日
外出せず。暑し。ユ依子ら天沼へゆく。(※省略) 夜、電話あり「19:30来る」と山際文雄氏詩集(※『凍死と風』)の校正見す。
「naïveでよし」とほむ。英詩あり。ほめられしと。

8月14日
暑さつづく。午后、和田賀代、統夫、美佐子の3人来り、礼とて果物缶詰おきゆく。泰、皮膚科へ行き外出するなといはれしと。
『四季』来て次号塚山勇三追悼号と。わが詩あとになる。(※省略)

8月15日(日)
礼拝にゆかず。オランダ語よむ(夜までに大半よむ)大江叔父より「叔母退院、養生中、見舞金ありがたし」と。(※省略)
夕方、美紀子2児つれて来り、雅子「本買ってくれ」と。千円渡さす。ユのつくりしすし食って帰る。

8月16日
やうやく秋の日ざしなり。外出せず。「17世紀台湾の民間信仰」かけ出す。(※省略)
夜、速達にて「大自然(※社会スポーツセンター)」より「酒と私」400×4を8.31までにと。
南隅夫人より電話「クラス会は来年出席」といひ和田夫人の電話番号教へてすむ。

8月17日
涼し。ユ、依子泰望4人にて吉祥寺三鷹へ出てゆく。われ午食くひにゆくも休み多く、月見そば(80)食ひ、
佐伯へ寄れば『南方熊楠全集7(2,520)』、『イエズス会士中国書翰集2(540)』来てをり。(※省略)
吉祥寺教会より「長老、南出弘氏、心筋梗塞にて逝去。あす12:30葬儀」と。(※省略)

8月18日
けふも涼し。家居。論文42枚とし疲れしところへ小安生来り、2時間ほどsemi。「中国の主食」やることとす。
スミ子2児つれて来り、物云はぬ子どもなり。ユに1万円祝わたされ帰りゆく。
けふ硲夫人(寿子と)「膵嚢胞にて5月21日入院、1ヶ月目に手術せし。朝早くに電話し云々」と逝去の日かかず。(※省略)
沢田庭園研究所(名古屋市千種区)より白楽天につき教示あり。印刷になったら云々と。

8月19日
涼し。佐伯へ3,060もちゆき平凡社の本2冊また注文す。末松栄三より平石・園田氏とわれを招くつもり云々、級友名簿を同封す。(※省略)
依子あす帰ることとなり11:00の新幹線の切符買ひ来る。

8月20日
依子らの出発まへに外科へゆき注射2本とマッサージ、大分楽となる。ユ12:00帰り来り、13:30柳川生(北鎌倉と)台湾の冠婚葬祭のsemiに来る。
依子より望新幹線で眠らず帰名と。美紀子より「還暦祝いつか」と。「子孫は加へず」といひ、(※省略)
筑摩の東博氏より「あすの箱根の日本歌人の会にゆくや」と、「ゆけず。体重過少」を答ふ。(※省略)
角川より「ハイネ11版8,000を8月下旬に出す」と。

8月21日
よべ11:00ね4:00さむ。橋本生来り『太平御覧』よむ。昼食して帰る。あとtelevi見て鶴崎生17:00来る。関大の博士コース(※省略)夕食して帰る。
けふ母来り襦袢くれ、千草と仲直りしてほっとしたる様子也。
寿一・寿賀子夫妻29日の還暦祝に出席の様子とのことに夜、電話せしも不在。娘に伝言たのむ。

8月22日(日)
7:00さめ久しぶりに夫婦連れにて礼拝にゆく。南出長老の顔思ひ出せず。すみて帰り来りtelevi見をり。
桝田紀子より「(※「わたしと田中克己」印刷したら送れ)」と。あやまり書く。影山正治氏より『神話に学ぶ』。

8月23日
5:00にさめ8:00すぎ青山博士に「お別れに参れず、御元気にて」といふ。(※省略) 13:30橋本由美子生来り『太平御覧』の端午と三伏やりゆく。

8月24日
よべ雨。よく眠る。朝、外科へゆくマッサージ「毎日来れ」と也。(※省略) 和田夫人「クラスメート何か贈るといひしも反対せし」と。(※省略)
松野百合子来りて「支那風俗」よます。雅子より電話「ヂイチャンバアチャンの洋服買った、30日もちゆく」と。
澄より電話「泰、ノゾムにやきもちやく」と。馮應京の『月令広義』と『台北市歳時記』と合せれば祭日会ひゐるもの多し。
(昨日はメンドーサの『シナ大王国誌』見てDapperに引きゐるに気づく)。(※省略)

8月25日
涼し。斎藤dr.へゆき1月ぶりに診察受け「躁でも鬱でもなし」と申し上ぐ。11:00帰宅。昼食後、13:00外科へゆけば14:00やっとマッサージさる。
けふ相野より「岐阜の会」の出席者しらせ来り、大庭教授上信国境よりヱハガキ。澄より『唐代詩集 上』送れ、避暑にゆく云々。

8月26日
やや涼し。10:30川久保来り、悄々と弘前へ帰ると。嬢の吊書と写真とをおいてゆく。
佐伯へ『唐代詩集』のとりよせたのみ、『朝鮮歳時記(490)』かり来る。母来る。月手当とりに来し也。(※省略)
『不二』来り(※昭和二十年八月自決)十四士の最期をしるす。
けふにて還暦祝の返事すむ。14:00外科にてマッサージ。保田より『木丹木母集』来る。京、軽井沢の10日勤務了へて帰り来りヱハガキ呉る。

8月27日
10:00まへ外科へゆき12:00まで待たされマッサージのみにて帰り来る。(※省略) 近藤博子より印刷とりやめ云々。(※省略)
けふ寿賀子来り、祝にnecktie-pinとnecktieとくれ、出席できずと云ふ。

8月28日
晴。暑し。12:00葛山夫人と涌井生と来る。(※省略) 福地君より「妻の家にゆきをりし」と。(※省略)

8月29日(日)
晴。暑し。礼拝休みtelevi見てをり。論文かかずイライラす。ユ新宿三越へ買物にゆく途、偶然坂生に遭ひ「見合す」とききしと。
本田喜代治先生病気につき金集めると西寛治氏。高橋重臣君「また洋行」とパリより。(※省略)
17:30母と大と来り、champan(※シャンパン)とnecktie呉る。20:30帰るところへ京帰宅。わが還暦祝なり。

8月30日
10:00外科へゆきマッサージと注射。「風呂へ入るな」と若い医師。(※省略)
花井夫人より「時計、cameraいかに」と。問ひ返せば「祝に呉るつもり」と。「岸さんにことわれ」とたのむ。

8月31日
台風のおかげで雨風。8:00すぎより岸、吉原、疋田など帝塚山在京2回生に「還暦祝」の品やめてくれといひ、了解得し様子。
美紀子にも「けふはよせ」といふ。「酒と私(200×8)」書きて『大自然』に速達しにゆく。(※省略) 14:00雅子・淳一より祝電。(※省略)

9月1日
和田夫人より電話あり、岸生と吉川(星野)夫人らどうしても祝送りつけると也。(※省略)
午まへ東豊書店に電話し『封神演義(350)』ありとのことに代々木へ買ひにゆく。あまり役に立たず。ゴンザレスの記録の引きうつしとわかる。
これまたMartin de Radaの記よりとりしと也。どうやら書けさうとなりしに18:00すぎ、美紀子2孫とあらはれ、22:00近くまでをり。
雅子泊るといひ京と入湯せしあと帰ることとなる。史夫婦・諏訪夫婦と京にて冬のJamperと3,000呉れし。taxi代1,000わたし返しせずといふ。

9月2日
10月末の季候のせいか5:00まへ覚める。9:00すぎ散髪にゆけば700に上りをり。
夏のモーニング着て11:00すぎ出、市ヶ谷会館へゆけば式まだ始まらず。12:40より披露宴。成城大学よりわれ入れて9人となる。
休講にしてきたといへば柏手さる。(※省略) 川本父上よりも礼云はれて出、15:30とて東豊書店へゆけば簡氏不在。『東周列国演義』見つからず。
佐伯に寄れば『唐代詩集 上(1,350)』来てをり。論文かけずおちつかず。(※省略) けふユ、三鷹へゆき弓子4月に2番目出産と也。(※省略)

9月3日
寒し。他出せず。ユ、朝三鷹へゆき、田上dr.にゆけば痔の療法教はり「五十肩の治療するゆゑ日曜に来させよ」と云はれしと。(※省略)
和田夫人すし1人前と菓子、ユの肩掛けなどもち来り、(※省略) 20:00ごろ帰りゆく。

9月4日
(※省略) 14:30?兼頭生あらはれ「涌井も(※「わたしと田中克己」)印刷せぬことになったと怒りゐる云々」。
小使さんによろしくといひて17:30ごろ出てゆくを見送る。(※省略) まことに人を信ずるは悲しみのもとと知り得たり。(※省略)

9月5日(日)
よべねつき悪く、山住dr.の薬1ケ余分にのみ7:00さめ、早めに礼拝にゆく。ユ3:00まで不眠とてゆかず。長島氏ゐず一人にて狐うどん食ひ(130)、
三鷹へゆき氷coffeeのみ(80)、30分まちてユと田上dr.にゆき、飲物のまされてのち鍼うたれマッサージ(電気)受け14:00すみし。(※省略)
小林家へゆき弓子妊娠3ヶ月と。宏一郎大きな目をして可愛くなりをり。腹へりしと云へばすしとりくれ、(※省略) 自動車にて吉祥寺。
佐伯に寄り『中央公論 歴史と人物 創刊号(120)』買ひしあと帰宅。けふ〒なし。

9月6日
7:00さめ9:00出て登校。(※省略) 成城堂へゆき『47年度暦(95)』買ひ、本重がりて帰宅。
ユ、をらず『文藝春秋』よみをれば、菱川夫人より「ユ出し也」と電話。出て(佐伯にて『南蠻廣記2冊(1000)』買ふ。)、雲呑麺(180)食ひ、
焼き明礬(40)、蚊取線香(300)、『永生への願ひ(750)』買ひて帰宅。『果樹園』つき小高根氏の受取来り、「Heine11版8,000」との通知来る。(※省略)

9月7日
登校。田上dr.にゆく。古本屋2軒を見る。

9月8日
斎藤dr.にゆく。薬かへたまはず。coffee(120)飲みて帰宅。庄司陽子より10月4日16:00津市商工会議所で(※披露宴)と通知来りしのみ。
(※省略) 川久保夫人13:00来り「川久保と娘とで話こはす」と也。

9月9日
8:30さめ大急ぎで登校。3時間教へて疲れて帰り、ブドー酒飲みてのち田上dr.。すまして夕食。けふ鍛冶さんより「祝贈った」と。
(※省略) 夜、坂母子来り、またたのむと也。
史の結婚式の雇はれ仲人たりし村上孝太郎参議院議員逝去(52才)、野末陳平繰り上げ当選。

9月10日
ユ、class会で吉祥寺へゆく。3人電話かけ増田生13:00来ると。山住閣下に本返却にゆく。
午食雲呑(120)食ひ、13:00来りし増田教へ15:00帰りしあとtelevi。野崎その生より祝文印刷すと。ことわりの返事かく。

9月11日
9:00に覚む。南村ユウ子より11:00来ると。
来りてBruxellesよりの母の手紙わたし、London Parisにゆきしと色々話し、昼食のうどんうまがりて食ふ。Napoleon(Cognac)その他土産呉る。
televi見、18:30田上dr.にゆき胃下垂や否やレントゲンかけ大したことなしと。『文藝春秋』買ひ来てよむ。(※省略)
知念栄喜君より「講談社より保田の選集出す。はさみ込み今月中に4枚かけ」と。

9月12日(日)
ユ、礼拝にゆき長島夫人と話せしと。13:00まへ柳川真名子来り14:00まで「台湾の結婚」よます。今井翠、茶とりに来る。
鍛冶美和子生よりチョッキ賜ふ。夜、長島夫人より電話「夫君来られず」と。

9月13日
鍛冶さんに礼状かき10:30登校。print2枚切る。(※省略) 18:30田上dr.にゆく。薬かへ賜ふ。佐伯に寄りしも買ふ本なし。

9月14日
登校前に午食注文す。(※省略) semiすまし(※省略)教授会16:30すみて帰れば南隅夫人Amsterdamより。(※省略)

9月15日
老人の日。9:00八木沢生来り、重陽やる。午前中来るといふ都留夫妻12:00に2分前に来り結婚式の写真と、ドイツ語とおきゆく。
午后、母に老人の日の祝にゆく。帰れば和田夫人写真おきあり、弓子入りゐる。弓子に「万年筆を夫に」と托す。和田夫人再来、(※省略)
けふ『大自然』より6,000-600来り『万葉の草木花(450)』、『韓国文化史序説(100)』買ふ。涌井生より写真と「兼頭と絶交となり し」と。
(※省略) 知念栄喜君より「9月末日までに400×4」をと。note作りに23:00までかかる。

9月16日
疲れて登校。大学院「Java」で時間一杯やる。中国文学史「杜子春」よませればよめず。東洋史疲れてフラフラとすます。
どこへも寄らず帰れば京、留守番。ユ、帰り来り、(※省略) wineのみて田上dr.にゆく。『メレヨン島記(150)』買ひてよむ。

9月17日
朝、疲れとれず。ねどこで鶴夫人の為text一枚訳し、13:30松野生のsemi16:30までやる。(※省略) ユ疲れて早ねす。
夕方散歩に出、『ユリイカ伊東静雄号(390)』買ふ。

9月18日
疲れとれず9:00八木沢生来り、重陽と冬至すまし12:00帰る。佐伯にゆき『キャプテンキッド(90)』買ひ、帰れば南村ユー子来をり、
ともにtelevi見しあと漢文教へ疲る。17:00すぎ出て田上dr.にゆき斎藤dr.にかかりゐるを云ふ。左手大分楽になる。(※省略)
帰り荻窪で下車。『失楽園(500)』みつけ次の店にて『英蘭・蘭英辞典(1500)』買ふ。
けふ平凡社より『唐代詩集 上』1000部再版とて7.5万−7,500来し也。

9月19日(日)
ユと礼拝にゆく。(※省略) 帰りてtelevi見、夜、都留夫人のため翻訳せしも時間足らず(きのふのオランダ語辞典まにあふ)。(※省略)
泰、望、風邪とのことに電話すれば「よくなりし。澄22日来る」と依子。きのふより京、十和田湖へとゆく。本田先生に5,000贈ることとす。

9月20日
朝、松浦薫氏より電話「吊書と写真とをもってゆく」と。ユ、田上dr.にゆき満員とて帰り来る。
われ都留真理子のため訳し日本の瘤をあざと誤訳されゐるに気づく。(※登校。)ゆきて増田生ちょっとよみ、(※省略)
帰宅、相撲見てユと入れ違ひに田上dr.にゆき『泰緬鉄道(読売刊)』よみゐるときかさる。
けふ白水夫人より手紙。NHKより大岡信氏の「李白」の酒の詩2つ朗読と。

9月21日
駅にて野口君に会ひ「4日ゆくや」ときけば「3日まで学会とてゆかず」と。ダルく、増田生、橋本生など教へてsemi。(※省略)
成城堂で『月下の一群(155)』買ひて帰宅。野上夫人より「亀井全集に汝が名のりしを見し」云々。中山八郎氏より抜刷。
夜、庄司生より電話、「出席」と答ふ。

9月22日
斎藤dr.へゆき薬もらひ、伊勢丹にて『泰緬鉄道(750)』みつけて買ひ、帰りてよむ。(※省略)
和田夫人に見合の場所のこといへば「帝国ホテル本館玄関ロビー」と。松浦家にも話してすむ。21:30澄来り「あす8:00起き」と。京けふも帰らず。

9月23日
8:00澄起き9:00出てゆく。われ散髪し帰ればユ、三鷹へゆきてをらず。出て地下鉄にて神田、山本書店へゆきしも何もなく、
高麗書林さがし「韓國의女俗(※韓國の女俗) (600)」買ひ、有楽町へゆき午食。帝国ホテル階下でちらしずし食へば850。
上りて一階ロビーで待ちをれば大月夫人ゆきよ嬢に見つけらる。そこへ和田夫人来り、(※見合 省略) 大月市用意のhyreに乗る。
薬王寺につけば和田夫人カンチガヒして松浦家まで来り、美紀子と2孫見て去る。われbusにて帰宅。疲れゐるに気づく。
(※省略) 澄早く帰り来る。

9月24日
30℃と暑し。(※省略) 澄、竹田家へと10:00出てゆく。
夕方散歩に出て買ふ本なし。佐伯にて大間知篤三氏編の愚本(※『愛情の周辺:日本人物語』か)買ふ。(※省略)

9月25日
八木沢生けふも来らず。和田夫人、黒田氏へと嫁の話もち来り、18:00までをり。田上dr.にゆけば「(※50肩に)danseせよ」と也。

9月26日(日)
礼拝にゆく途中、ユ、電気アイロン気がかりとて吉祥寺より引返す。長島夫人に遭ふ。夕方Dapperの第2部写しはじむ。(※省略)

9月27日
(※省略) 13:40橋本生来り「七夕」と「中元」すます。「あさって13:30来る」と。
17:30三鷹の田上dr.にゆけば不在。にて「明日再来」といひて帰宅。けふ天皇訪欧の旅に出発。16:00AlaskaにてNixon米大統領と会ふ。
『不二』来り、池田温氏より「講師承諾」と。夜、都留マリ子の独文訳し了ふ。

9月28日
9:30林叔父来り、還暦祝賜らんとするを「もうすぎた」と辞退す。火災保険増額には特別の書類必要と。
成城大学講師室に電話し午食に月見そばたのみ、10:30出て成城大学。
池田温氏の手紙もち山田国語主任探しまはり学生課で探しあててわたせば「そちらにもたよりあり、半年のみ」と。(※省略) 教授会
(※省略) 池田氏の講師の件通りて散会。(※省略) 羽倉啓吉氏より令嬢の展覧会の案内。和田夫人より「史の評判よし」と電話。(※省略)

9月29日
午前中「スマトラ記」かき、了りとす。橋本生来りsemiすまし田上dr.にゆく。再びレントゲンとらる。帰れば和田夫人来をり、大月家期待すと。
けふ染谷一夫氏より「『西康省』見に来たし」と。

9月30日
佐伯へ午まへゆき『文藝春秋』と桑原武夫氏の中公新書とかへ来る。けふsemiなく〒なし。知念君へ「2、3日おくれる」と電話伝言。
成城堂へ中国文学の教科書とりよせたのみ、池田氏にその旨かく。角川にハイネの印税のこと調べよと電話す。

10月1日
雨。13:00まへ松野生来り『太平御覧』よます。(※省略)われ雨中、田上dr.にゆき6日分の薬もらふ。

10月2日
8:00さめ9:00より八木沢生のsemi。11:00すぎ了りて帰る。(※省略)
林叔父より家産保険(※ママ)申込用紙。雪谷教会より新築落成につき24日祝賀の礼拝の案内。

10月3日(日)
6:00さめ「保田與重郎君の歌」200×8かき了へ郵便局にもちゆき(※講談社へ)速達す。
10:00出て11:20の光にのり名古屋。cake買ひ千種へゆく。望ことばおそく泰はおぼえをり。17:00あすの為散髪にゆく(750)。
ちらし食ひ、今夜の宿電話してもらひ、栄町の国際ホテルといふへゆく。地図わからずやっと探しあてbathに入り眠る。

10月4日
6:00さめ、出て(3000+x)また千種。朝食とり澄の出社せしあと泰の幼稚園へとゆく。われ退屈して10:30出て新栄町まで地下鉄、
あと散歩して津の地図買ひし(200)。名古屋駅地下にてやっときしめん見つけて食ひ(100)、『干支物語』といふを買ひ、
13:00まへ津新町下車。喫茶2回して雨中を歩き商工会議所。控室に田中久子ほか6〜7人来り。16:00より披露宴。(※省略)
津までhyreで送られ名古屋駅泊りといふ友人たちと別れ特急にのり名古屋で20:53の光にのり帰宅24:00まへ。入浴す。

10月5日
雨。ユ、田上先生へと出てゆく(※省略)。ユ12:30帰り、14:00出て文化史専攻で待ち、(※省略) 野口氏よりタバコ入れ貰ふ。
けふ成城堂で『森鴎外(2400)』、『唐詩新選』と借る。(※省略) 帰り浅見大学院講師室の少女と同行、喫茶せしむ。詩を作る子なり。

10月6日
曇。9:00さめ斎藤dr.にゆかず。池田温氏に教科書送るなど〒多く書く。佐伯にゆき『白鳥庫吉集10』近々出るときく。
柳川生鎌倉より13:00来り16:00ごろまでゐる。母来る。そのあと北口の本屋にゆき『末摘花3冊(2800)』また買ふ。〒なし。

10月7日
9:00さむ。雨。斎藤dr.へゆけば代診なるに満員。薬のみもらひ、千駄ヶ谷に出て代々木下車。
東豊書店へゆき方豪『中国天主教史人物伝2冊(1200)』買ひて帰る。午食すみしところへ和田夫人、ゆきの嬢つれて来る。
まもなくsemiに松野生来り、そのあと角川より『中国の詩集』全10巻の李太白をかけと。平凡社のこといひてことわる。
松野生帰りしあと和田夫人らしばらくゐる。(※省略)『大自然』11月号来り、知念氏より「原稿受取った」と。

10月8日
9:00宮崎女史来り『早川孝太郎全集1』賜はる。三鷹の田上dr.にゆき3日分の薬と湿疹の薬とをもらふ。
大月氏、松浦父上に会ひたしとのことに両方の都合きき18:00パレスホテルのロビーで会ふこととなる。
松浦父上20:00ごろ会ひしと美紀子より電話、ついで大月氏より同。そのあと和田夫人「3月挙式、学士会館で」ときまりし由。(※省略)
けふ午すぎ弓子母子来り、昼寐させしあと帰りゆく。

10月9日
9:00中央公論社より『写真集 日本の詩歌』に「冬海のほとりに住む」掲載許可せば5000と。八木沢生来りsemiやるうち松浦父上来り、われにカステラ、和田家へ菓子包み置く。今井翠同道、茶の袋(600)とりゆく。ユ、午まへ出、八木沢生帰りしあと、
角川の福田女史来り、ねばって筑摩の李白を採るならよしといへば泣く(※1973藤原定訳で刊行となる)。和田夫人より受取の電話。(※省略)

10月10日(日)
7:00さめ雨中、夫婦にて礼拝にゆく。(※省略) うどん食べ(130×2)、busにて早川家へゆく。寒く早々出てbus停で長島氏まち、
坊やに絵本、返しに衛藤利夫『乾隆御製盛京賦』もらひ、三鷹まで歩きて帰る。夕食まへ和田夫人来り、桂林作戦譚す。
その時、大月氏来らるとのことに『文藝春秋11月号』よみをれば21:30夫婦にて来られ、礼にと菓子賜はる。松浦家とよく合ふと夫婦して笑ふ。
疲れてすぐ寝る。(※省略)

10月11日
雨。疲れてぐったりしてをれば、ユsoupのまして出てゆく。(※省略) 早めに来いといひし松野生13:00来り、
しばらくして和田夫人来り、ユが帰るまでをり。(※省略) けふ4日払込みの角川の印税6万円余の通知来る。

10月12日
雨中9:00すぎ出て田上dr.。帰りて待てば12:00近く旧姓庄司、母とともに来り、松阪肉呉る。我の祝辞旨かりしと也。
13:00に乗るとて上がらずに帰りゆく。佐伯へゆけば鴎外全集2,500で30冊?出ると。(※省略) 『林則徐』買ひてゆるゆる成城大。
図書館にて白鳥先生の会の住所7人つかまへる。16:00より大本ほか1名の卒論審査。(※省略) 18:00散会。けふ小安生に遭ひ『詩経』貸す。

10月13日
八木沢生来り午食してゆく。立教宮本研究室へ速達(85)し、佐伯にて『東大紛争』買ひ来てよむ。(※省略)
吉祥寺教会より竹森先生(※竹森満佐一)『ハイデルベルク信仰問答講解説教(1200)』を11.23教会牧会30年記念として出版と。
今中19期生会より来年のクラス会のアンケート、「石川先生、越智威男君逝去」と。

10月14日
10:30出て田上dr.。寒く小雨。先生早々に片付けたまひ、阿佐谷に12:00つき昼食す。
金沢より電話かかりし故、かけ直せば「大阪の今中19期生会に出ぬか」と「出ず」と答ふ。来年大阪で午〜夕食までのクラス会やれと返事出せし所なり。
13:00柳川生来り、台湾の結婚と生育とよます。(※省略) 前川佐美雄歌碑に金200万円以上集りしと。保田と我とはともに5千円、堤操氏の拠出金見当らず。
18日間の旅了へ天皇帰国。ドイツでもHirohitlerと云はれしと。

10月15日
久しぶりに晴。13:30橋本生来り17:00すぎまでsemi。(※省略)

10月16日
晴。11:00田上dr.にゆけば待ち人あり11:30あきらめて帰宅。『四季』来る「塚山勇三追悼」なれど淋し。小安生来り「五穀考」よみ、本貸す。
その帰りゆきし(16:30)あと田上dr.にゆき。簡単に鍼すむ。『騎馬』といふ本について訊ねらる。新刊と也。(※省略)

10月17日(日)
7:00さめ1人で礼拝。竹森先生門司へゆかれしと也。まっすぐ帰り待てば13:00まへ、花井、桝田、道下、和田4夫人来り、
三治夫人途わからずユ、迎へにゆく。2児つれをり。15:30までゐて写真とり(南隅夫人へよせがき)帰りゆく。
その間、宮崎さんより伊藤佐喜雄死ときき、やがて中谷孝雄氏より「今夜自宅で通夜」ときき、
19:00三鷹駅で待合せと定め、3,000御花料につつみ、18:40北口でまてば宮崎さん来り、歩き乍ら20分ほどして見つかる。
夫人に挨拶し死顔見せらる。『潮』?への連載小説かき、保田に出版たのむと也。
一男あり、外にゐし自動車にのせてもらひ宮崎さんと吉祥寺まで同行せしもこれにて別れ帰宅。葬儀に国立の大宣寺で火曜13:00と也。

10月18日
(※省略) 西川より電話、伊藤佐喜雄のこといふ。午すぎ出るまへに大江叔母より「退院、100mほど歩けるやうになりし千草のところしらせ」と。
西寛治氏より「5,000の受取。70万円を本田先生に差上げし」と。1時間東洋文化史教へ疲れはなはだし。帰宅。一服して三鷹。
本屋見しあと田上dr.にゆき左手だいぶん上るやうになりしを喜ぶ。(※省略)

10月19日
登校。(※省略) print『諸羅縣志』の葬儀の箇所切る。semiすませ下書き見せよといひ来宅日定めさす。(※省略) 了りてまっすぐ帰宅。(※省略)

10月20日
斎藤dr.。先生外より帰らるところ見しも薬のみ貰ふ。帰り東豊書店へゆけば6月の大学院にと買ひし本未払ひ(5万円)と。
朝鮮民俗関係一そろひとも一つ注文し帰宅。ユ同窓会へゆき京、昼食さす。小安生来り、角川書店の福田女史来る。「1月までに鑑賞かけ」と也。
(※省略) 小安生すませれば17:00となる。(※省略)

10月21日
8:30出て登校。(※省略) 東豊書店より本来りょり。(※省略) 帰りて田上dr.。(※省略)
松浦父上より23、24のどちらかに大月家訪ねユキノ嬢に会ひたしと。和田夫人に電話せしも即答なし。

10月22日
晴。9:00起き、(※省略) 14:00増田生来り17:00まで「巳」のsemi。「太平広記」をよまさる。
ユ、痔手術の為入院ときめ、依子に電話し向ふもよろよろときく。(※省略)

10月23日
9:00斎藤生来りはじめて漢文よます。(※省略) 13:00斎藤生とともに出て雲呑くふ(150!)。帰りて待つ中、(※省略)
恰もユ帰り、火曜、痔の手術に入院のつもりと。浅野dr.(※浅野建夫)にゆけば森良雄、脳軟化症にて夫人よりほか見分けつかずなりゐると。
(※省略) けふ田中正平博士碑落成式を11月3日にと。出欠問ひ来る。麥書房より『八木重吉』来り、1000なり!

10月24日(日)
7:00さめ礼拝にゆかず。14:30よりの森田先生の雪ケ谷教会落成式にゆくつもりで(※省略) 疲れてゆけずなる。(※省略)

10月25日
登校は昼食後。箕輪生に遭ひしも笑ふのみ。(※省略) 帰りて増田生のため「太平広記」よむ。斎藤生19:00来るといひしとて急ぎて田上dr.。
電気鍼にてだいぶん左手あがるやうになりしと云ひ、帰りて夕食。ユ下剤きかず、斎藤生を21:00すぎ送り出し、22:00すぎ京帰る。(※省略)

10月26日
朝、雨。10:00までゐしもユ用意できず2万円もらひて登校。print切り昼食し、(※省略) 早く出て帰宅。
末吉より「11月2日浪中12期生の会す。田中先生への記念品料を」と(※印刷に)あるに気をわるくす。汝ら貪る勿れとなり。
小泉外科へゆけば母、柏井尚子来てくれをり。「今夜は母付添ふ。あすは京泊らせよ」と也。礼いひて出、雲呑(150)食べて帰宅。(※省略)

10月27日
9:00京とともに小泉外科。母を起さざりしと。婦長に2千円包み、京のこして帰り散髪。中村屋で買ひし焼売ひるめしとし、13:00まへ京帰りしも午食いらずといひしところへ松野生来り「中華全国風俗志」の昏姻よます。17:00帰りゆきしあと斎藤生に電話(※省略)。
京の夕食すませしところへ。斎藤生「けふは来ず」と。田上dr.へ19:00まへゆき鍼うっていただく。(※省略)
中野書店に寄れば『コギト』10号(1,000)あり。店主おぼえをり。大の『メドウサの首(50)』と『ラバウルの落日(200)』と買ひて帰れば京をり。
「泊り要らずと婦長いひし」と也。けふ大江叔母より「退院祝ひ諏訪へも送った」と。夜、電話すれば望泣きをり。

10月28日
7:00さめ京にsoup作ってもらひ、9:00前出て(※省略)9:30登校。大学院鐘のなるまでやり、昼食後、短大にゆけば富永次郎氏追悼文の〆切と。
(※省略) 帰りて桝田(疋田)夫人の見舞状と天野忠氏の詩抄「人嫌いの歌抄」と。(※省略) 小泉外科へゆく。(※省略)
大江叔母より史・弓子への退院祝返しと同封してわれあてのをあけ見れば西陣織に茶掛けの歌かきあり! 佐伯で『タイ族(1450)』買ふ。

10月29日
7:00さめ京にあとたのみ、登校。2時間目の史学研究法、50名中、出席者30名余。説教し、了へて昼食すれば2生よまし、
16:30池田温氏登学をまち、山田教授に案内たのみ、またよまされ、17:30となりて来りし山田氏と待つうち、池田氏帰り来りし故、案内してわが家。
小林夫婦来をり、ユを見舞ひしと。Napoleon出せしに池田氏は飲まず、すし出しAlexandria(※マスカット)出して21:00送り出す。母とまる。
Alexandriaは昨日笠原さんにもらひ、ユにもちゆかせしが帰り来し也。(山田氏Melon賜ふ。)

10月30日
母ゆふべ泊り9:00すぎ美紀子に電話かけ「冷たし」と。すぐ美紀子より電話「水曜に来る」とのこととなる。
9:30八木沢生来り、途中televi映画見17:00までゐる。田上dr.にゆき4日分の薬もらふ。
けふNHKより李白の朗読料(3,200−320)2,880来る。(※省略)
中村真一郎編の訳詩集(※あかね書房『世界名詩集』)来る。わがハイネの訳ちょっと採る。(※省略)

10月31日(日)
7:00さめ、友達の披露宴にと京出てゆきしあと、ねまきその他もち小泉外科へゆく。ユ経過宜しきらし。借りし蒲団返す。(※省略)
駅前にゆき佐伯で『性神探訪(300)』と『鴉片戦争の研究(1800)』と買ひ、雲呑(150)食べて14:00までtelevi見てゐれば斎藤生来り、美紀子来る。
京に道ききて小泉外科へゆきしあと、史、淳一をつれて来り、途うろおぼえにきき小泉外科へゆき、途わからずと電話し来りしも結局わからず。
高円寺で美紀子と待合せ帰りし也。。

11月1日
9:00橋本生来り、12:30までやり、共に雲呑(150)食ひにゆき、(山住閣下、玄関まで大鹿卓『松の実』もち来たまひ、そのまま帰らる)
帰りて14:00すぎに来りし小林生に「台湾の食物」のtextよむ。17:00了り、午買ひし蜜柑もちて小泉外科。隣の2児の母癌なりしと。
(松浦家へ電話すれば、きのふ史と病院玄関で遭ひ、ユの枕もとへゆきしと也。) 出て飯屋。(※省略)
帰りて山住閣下に電話すれば「入浴するゆゑ来るな」と。(※省略)

11月2日
晴。9:00すぎ八木沢生来りsemi。京休みとて昼飯出す。帰りしあと郵便局へ2,880とりにゆき、小安生来るをまち読みしも疲れしか旨くゆかず。
(※省略) 坂泰子生18:00すぎ来り「見合考へる」と。新入社員斡旋を学生課にたのむと也。京の作りしライスカレー食ふ。
ユの見舞に来し西島寿賀子、蜜柑食ひ、京の案内にて2人出てゆく。われ疲れをり。(※省略)

11月3日
斎藤dr.へゆけば休診。婦長さんより薬もらひ、高円寺で下車。都丸支店で『大陸遠望(2000)』を見せらる。
『支那の自然と文化(30)』、『ふるさとの祭(170)』を買ふ。小泉外科へゆけば「坂生、左官屋と交際」となり。母来ると聞き、帰りて(※省略)
13:00青山博士来られ各地のお土産と聖心の定年とをきく。14:00柳川生来しゆゑ、博士帰りたまひしあと17:00まで教へ、
北鎌倉まで帰るとのことに雲呑食はせ、帰れば19:00斎藤生来り、21:00まで朝鮮の婚礼すまし『喪礼備要』ちょっとよます。疲れたり。

11月4日
7:00起き、(※省略) 角川の福田女史より電話「来て相談きかん」と返答せしところへ増田生来り、(※省略) 福田女史来り、
「土曜あけおく」といひ、福田女史に案しめし12:05になりし故「新京」へゆき思ひ出話し別る。
佐伯へちょっと寄り『東西文明の交流2』出しときき、帰りて鈴木夫人「(※省略)還暦祝に何買はん」と。「ユ退院のあとお越し、祝はいらず」といふ。
そこへ来し松野生、右下りの汚き原稿見せしゆゑ叱り、父三菱商事の部長ときく。疲れて16:30帰ってもらひ、出て田上dr.。
坊ちゃんにも会ひ、方々に鍼打たれ、やや元気出て小泉外科。ユ「あす退院ならず。坂生より電話ありしや」と。「なし」といひ、
いつもの飯屋にていつもの飯くひ(190)帰りて(※省略)、やがて美紀子より電話かかり「退院の世話承知」と。(※省略)

11月5日
ごみ出し8:10家を出て阿佐谷駅前郵便局にゆけば、1人の老翁椅子もち出してかける。(※省略) 成城郵便局通れば20人ほど並びをり。
600枚7円の年賀はがき買ひ10:20より史学研究法の2時間目やる。われ乍ら毒舌多く躁なりと思ふ。すまして午食食ひ、print切り、
まっすぐ帰宅すれば三治夫人より礼状。(※省略)
(※同姓同名の)田中克己博士より「立野保男よりの便来りをり、心当たりありや」と、「あり」と答ふ。精神病なりしを云ふらし。
和田夫人より「雪野嬢、泰彦君に悩まされしときき笑ふ。『果樹園』189来り「スマトラ記」了る。
堀博士より「大学院の漢文・独語の試験問題を月曜にもち来れ」と。

11月6日
増田生来り(9:30)、字よくかけをり。斎藤かよ子3年生つれ来る。ザビエルと海老沢有道と貸し12:30増田生すむ。
14:00まへ母、美紀子、ユをつれ帰り来る。(きけば泰彦、毒舌にてふらると)。16:30までをり、夕食の仕度して帰りゆく。
古野博士古稀記念1口3,000と。(※省略)

11月7日(日)
8:00さめ礼拝に出、吉祥寺駅前でcoffeeのみてゆく。帰り途、竹内夫人に会ふ。伊藤佐喜雄の葬式に竹内出しらしかし。
帰りて大学院の試験問題、漢文はよけれどドイツ語に困る。20:30すます。(※省略)

11月8日
9:00大学院の試験問題もちて登校。(※省略)
山際文雄君の詩集(※『凍死と風』)来り、『日本浪曼派』のreprint、3.9万との広告くる。12月の気候にて田上dr.にゆかず。

11月9日
けふも寒し。semiに3人来り、(※省略) 教授会 (※省略) 帰宅。寒ければ田上dr.さぼり石油stoveいれて暖し。
旧かな新かなまじりし『骨』39来る。(※省略) 岩井大慧博士逝去と新聞。

11月10日
11:00出て田上dr.。朝食食べらるとて待ち、注射もしていただく。けふは暖し。12:00すぎ佐伯へ寄れば『白鳥庫吉全集10(2,700)』来てをり。
次は20日発売の『鴎外全集』なり。13:45小安生来り、ユの心配する中を18:30までゐる。
弓子あさ京に迎へに来さし、宏一郎大きな眼をし「ウマウマ」を云ひ、笑ふ。
坂生来り、ユと話し夕食のあと話してゆく(ユ、話ききて世話やめしと也)。
善一郎迎へに来しは21:30、入れ違ひに澄来り、望もの云ふやうになりしと。(※省略)

11月11日
9:00出て登校。よべ睡眠感なけれど大学院入試とて仕方なし。堀博士とかはるがはる監督す。12:20すみて採点。(※省略)
15:00となりて退去。帰りみちにて旧姓山野井に追い付かる。
澄10:30までをり。午后来ると思ひユ、外出せざりしと。「ゆっくりせよ」といひのこし田上dr.。脳天に鍼ささる。
帰れば山野井生帰るとのことにユ、色々物やり送りゆく。
田中克己博士より転送されしは(※東大阪)上小坂の精神病院にゐるといふ立野保男の論文集(※『社会科学方法論研究』)にて、
弟利夫(※ペンネーム磯花佐知男)は呉で戦死と。(※治安維持法で検挙服役の後、)終戦後復職し再発病せしと也。(※省略)

11月12日
9:00出て佐伯に『白鳥全集』の払(2700)すまし登校。2時限の史学研究法すませれば女生ばかりsemiをと来る。
午食のあと来よといへば9人来り、初めて来し白仁よう子「中国の舞踊」やりたしといふに断れば泣く。(※省略)
「中国の医薬」なら引受るといへばまた泣く。(※省略)帰宅。斎藤生19:00来り21:00まで漢籍の韓の民俗写させ訳す。(※省略)
佐伯にて『唐話辞書類集(2700)』、『天工開物(650×9)』、『香港台湾いい店うまい店(200)』買ふ。

11月13日
9:30斎藤生来り12:30までsemi。ユ三鷹より帰り昼食中、松野生来り、下書の写しのみなるをいへば泣く。
16:30までゆり帰りしあと、田上dr.へゆけば閉めあり小林へゆき自動車にのせてもらひ帰宅。(※省略)

11月14日(日)
8:00すぎ覚め夫婦とも礼拝にゆかず。午后和田夫人来るといふに川久保来り、令嬢話なしとて悄然としたり。東洋史談話会へとゆく。
その間、和田夫人来りユと永き話しゆく。疲れたり。立野保男へたよりかく。あす見舞金(2,000)いれて出すこととす。
けふ渋谷あたりでdemo、(※省略)

11月15日
8:00さめ9:00まへ田上dr.に(※省略)。土曜は「トインビーの会」に出たまひしと也。10:00すぎ帰れば斎藤生来り12:00までsemi。
13:20登校。東洋文化史教へ、17:00との約束に急ぎ帰れば八木沢来り、下書き直してまたtextよむ。20:00帰りゆく。
週刊誌買へば三島由紀夫記念祭。発起人に浅野、小高根、影山、齋藤晌、林富士馬、保田の名あり。平林たい子まで名を連ねをり。(※省略)

11月16日
10:00登校。(※省略) カリキュラム委員会に出、「semiを各教員にもたせよ」といふに「基礎学科をしっかりやらせろ、漢文特に必要」といふ。
16:30すみて帰宅。大月夫妻見えて雪野嬢「とてもついてゆけぬ」といふゆゑ解消をと。(※省略)
川久保、丁度電話かけて来しゆゑ、ゆきて「土日休みに家へお越し」と嬢にいふ。

11月17日
9:00まへ出て地下鉄にて斎藤dr.。久しぶりに(※斎藤茂太院長に)お目にかかり「五十肩は」ときかる。
千駄ヶ谷に出て三鷹に直行。13:00まへに田上dr.にゆき鍼してもらひ尻の腫物に薬つけていただく。
14:20柳川生来り、直ししtextよむ。16:00帰りゆく。けふ「23日竹森先生の出版記念会」と吉祥寺教会より。

11月18日
9:00まへ出て登校。3時間すまし斎藤生に遭ふ。「日曜午后来る」と也。(※省略)
帰りて夕食すまさぬ中、小林洋子生来り、下書きさせtext21:00すぎまでよます。(※省略)

11月19日
9:00まへ出て成城。史学研究法すまし成績わたす。堀、新城semi多く民俗学少きらし。われに男子二人来ると也。
自動車で来し松野生待たし月曜のprint切る。(※省略) 松野生、環七に出て家へ来り15:00までに直しよんでやり章節作ってやる。
夕食して田上dr.、4日分薬たまふ。すみて浅野建夫にゆき、奧さんより椎茸と柿ともらひ帰宅。

11月20日
晴。寒し。ユと2人、西友百貨店にゆき3万円の冬服三つ揃ひの修理たのむ。13:30小安生来り、(※省略)17:00帰りゆく。
けふ三治夫人よりDjakartaへ帰ると挨拶ありし。田中克己博士に礼状かき、出さず。

11月21日(日)
ユ、礼拝にゆく。われ床上げねてをらず。川久保令嬢より「来る」と。林叔父来り箱根の土産など賜ふ。川久保令嬢来り16:00まで話してゆく。
われ切手買ひに出て帰り、夕食せしあと19:00斎藤生来り、直しを正しなどして20:30帰りゆく。(※省略)

11月22日
9:30小林生来り11:30までsemi、母来りしをおきて出、print切る。(※省略)
帰らんとすれば高橋邦太郎氏に遭ふ。73才になりたまひしと。『成城文芸』の掲載誌とりに来たまひしと。(※省略)
帰れば母「大の貧乏に、この家へ来りたし」と也しと。(※省略) 駒井和愛博士逝去66才と。冬服出来上る(3万円)。

11月23日
角川の福田女史よりの速達にて起さる(中国詩集編集方針きまらずと)。11:00すぎまでtelevi映画見て散髪。すみて帰宅。
佐伯へ寄り、新調の服着て教会、30周年(竹森先生の教会) の感謝なり。すみて竹森先生、森田先生に挨拶して帰宅。(※省略)
松本健次郎より「漱石は狂人ならず」と。けふ頒けられし本3冊は竹森門下の記念論文集なりし(1200×3)。

11月24日
晴。9:30までに来ざる橋本生に電話すれば「今からゆくと」。11:00来しに書き方教へ、
母来て、ユに「大と別れず、庭向かひの小家かりたし」といひしと。その帰りしあと柏井へ歯直しにゆく。(※省略)帰りみち尚子に逢ふ。
けふ『日本浪曼派』『文藝文化』の復刻せし雄松堂の榊原氏より挨拶状来る。
『不二』に中河与一氏と仲直りしたきらし(※影山正治の)文のる! (※省略)

11月25日
大学院で慶応の気賀経済学部長(※気賀健三)と会ふ。40分早くすませ昼食。栗山氏「三島忌にゆかず」と。
どうやら来年もsemi6〜7人らし。ただし男生2人あり。「中国文学史」「東洋史」すませ帰り、佐伯に寄れば『鴎外全集1(2,000)』来てをり。
(※省略) けふ山野井生26才の嬢つれて和田夫人にたのみにゆきしと。下書き多くもち帰り21:30までよむ。(※省略)

11月26日
登校。L2Dで出席とり、semi問へば堀semi多く10人以上、次がわがsemiにて男2女5?、大藤、鎌田、野口、新城の4氏少くなりたり。
3人に本貸し、(※省略) けふ駒井和愛博士の葬儀に大藤、鎌田、堀の3氏ゆくとなり。東豊書店により『台日大辞典(7000)』借り一旦帰宅。、
(※省略) 荻窪までbus、田上dr.に17:00かっきりにゆけば先客あり。子供来り先に診察させ、
18:30そこそこに帰りて夕食するところへ小林生来り『台日大辞典』ひきてよくわかりしも忽ち21:00すぎし故帰宅せしむ。(※省略)

11月27日
家居。8:00さめ9:30橋本生来り、すすまず「2〜4月とせん」と。午の映画見しあと斎藤生来り、下調べすむ(誤字脱字は山ほどするも恬然たり)。
ついでtelevi見しあと松野生の誤字だらけの大部の下書、大半直し腹立つ。あす、お幸伯母の21回忌を寺でやり、そのあと会食と也。

11月28日(日)
ユ、礼拝にゆく。われ下書の直しをしてすごす。『果樹園』にと「老齢」かく。
11:30松浦夫妻、美紀子と2孫つれて来り、ユ帰るまでをり。あすHawaiiへゆくと。(※省略) 小林生へ電話かけ「18:00来よ」といひ、
佐伯へ『鴎外全集(チクマ版)』8冊もちゆき古本市ときく。13:30根津会館にゆけば皆をり。勇喜一夫人と娘夫婦とをり。
88才の老教授と71才の日歯事務嫗と話す。北園克衛(※日本歯科大学に)まだゐる。林教授はなくなられしと也。
16:00ちかくすみ、古本市を見、佐伯、青木の2氏と挨拶。(※省略)
小林生来しに雑煮食ひ『台日大辞典』よりindex作りしを与ふ。「あす17:00来る」と也。

11月29日
田上dr.にゆき、よべ眠れざりしを云ふ。帰りて生垣を切り疲る。1万円もちて出(下書の直しすまし)成城にて『果樹園』に送り、(※省略)
あはてて帰りしに小林生まだ来ず。(※省略) 小林生来り、下よみすむ。「檨」はマンゴーと教ふ。

11月30日
下書の直しして昼食後、教授会のため登校。すみて野口、新城、鎌田と4人にて「semi3年よりやる」ことときまる。
帰りて斎藤生呼び下書の不正確咎めしに案の通り泣き出し18:30より22:00すぎまで居る。
けふ立野保男君より「物贈った。利夫の婦(池沢(※池沢茂)の妹)再婚」と。(※省略)

12月1日
よべ、たびたび目ざめ山住dr.の薬2回のむ。10:00ごろ柳川生来り16:00までよませ、ネをあげて「土曜を」といふ。
佐伯に寄れば『南方全集』4回来りをり。田上dr.にゆけば待合室に夫人、おはぎ賜はる。すみて帰り(※省略)

12月2日
元気なく登校。大学院を30分早くすませ昼食の時、中河与一論、栗山博士す。(※省略)
帰ればユをらず、火をおこし17:00まへユ帰りしにすぐ斎藤生来る。(※省略)

12月3日
よべも眠れず。ふらふらとゆきL3Dに史学研究法の講義ほどほどにすまし、昼食の時、専攻の会すといふに、
12:30野口君を除く5人集まり、民俗学大藤氏はじめ反対してsemi3年よりの案もちこしとなる。
浅賀副手「今年で辞職」と。新城主任に申出で、鎌田氏にきけば「意中の人あり40才」と。
ふらふらと帰り、17:00まへ田上dr.にゆく。(※省略) 八木沢来り22:30よみすみし。「水曜18:00再来」といひて帰る。(※省略)

12月4日
24:00眠り5:00まへ覚む。10:00すぎ柳川生来り16:00すぎ帰る。柏井へゆけば16:00までと。直してくれ「水曜来よ」と。
夜、鈴木敬子夫人より「あす14:00三人で来る」と。久しぶりにゲーリークーパー見る。休まんが為なり。

12月5日(日)
礼拝に夫婦でゆく。televi見てをれば鈴木(山本)敬子、増田(明渡)淑江、小松崎(油谷)歯科医夫人3人にて果物もち来り、(※省略)
斎藤生来り『四礼備要』の著者きく。(※省略)

12月6日
小林生10:00ごろ来り11:30まで直さす。生あくびたびたび出る。12:00すぎ出て印刷屋にて賀状570枚(3500)受取り、登校。
麝島、増田2生教へL2Dの東洋文化史すます。(※省略) 佐伯にて『英西・西英辞典(200)』買ふ。(※省略)
小高根二郎氏より「元市夫人癌にて入院」とのハガキ見る。(※省略)
朔太郎の会報見れば萩原家は阿波の出とあり。(ユ、本多家へゆきて聞けば庭向ふの空き家かさずと。早速母に云へば「家探せ」と也。)(※省略)

12月7日
起きて10:00ごろ田上dr.。帰りて昼食、登校。(※省略) 箕輪生を学長室に訪ね、美しくなりをるを見る。(※省略) カリキュラム委員会
(※省略) 名古屋より電話「泰、(※脱腸の)手術すみし」と也。(※省略)

12月8日
柏井へゆく。月曜、入歯出来ると。佐伯も休みにてnote4冊買って帰宅。(※省略) 白鳥先生の発起人64名と。
宮本教授に電話すれば「学習院の名簿古かりし」と。「年末会して相談せん」といふ。八木沢来り、下書すむ。

12月9日
9:30登校。(※省略)小林生来り下書直させし也。(※省略) 佐伯にて『江戸小咄集2冊(1100)』。けさ寒く冬over着はじむ。

12月10日
寒し。きのふより冬外套きる。(※省略)東豊書店へゆき『台日大辞典』の代払はんとせしに、
平凡社の池田氏(※池田敏雄)をり、黄氏鳳姿の夫にてわが家にも来しと。
『水滸伝120回本』、『北平風俗類徴(2000)』、『常用中草药(薬)手冊(1200)』買ひて帰宅。(※省略)
『不二』来り、来年度援助を、と。(母来り、大も関西放送と打ち合わせの為、西下と。) 田上dr.にゆき(※省略)帰宅。
佐伯に寄り『陽気なニッポン人(120)』買ふ。中央公論社より『日本の詩歌』増版にて29376三井銀行に入れしと。
酒屋にてJohny Walkerの赤(5000)を注文す。(※省略)

12月11日
一度さめ9:00さめ橋本生来りし時、朝食中。
福田女史より電話、11:00来り「(※角川『中国の詩集』)註なしにする。いまより鈴木亨にゆく。訳者みな詩人」と。
午食してゆく。橋本生も一度来て「4月の行事」かくと也。

12月12日(日)
夫婦にて礼拝にゆく。帰り佐伯にて『テモテ前後書・テトス書(100)』買ふ。(※省略) Emil Jannings,「嘆きの天使(※1930年独映画)」の再映見る。

12月13日
10:00出て成城。都留夫人に漢文よまさる。増田生あとがき見せ批評す。(※省略) (けふ不二歌道会へ3千円贈り、古野博士記念会に6千円出す)
(※省略) 帰りて柏井へゆき下の入歯新しく出来しをはめ、busにて荻窪。田上dr.にゆく。帰れば弓子夫婦帰りしあと。(※省略)
下歯1本ぬけまたやり直しとなる。鈴木夫人留守に来しとおきがきありし故、電話すれば還暦祝にtransister radio買ひしと也!
けふ頼永祥氏よりChristmas-card。角川より羊羹!(※省略) 八尋不二氏より『京の酒』。佐伯にて『騎馬民族史1(540)』と金いること多し。

12月14日
斎藤生9:00来りニコニコして帰りゆく。11:00柳川生来り13:00ともに出る。学校でまた増田生らにつかまり教授会に14:20ゆけば(※省略)
職員規定46年より65才。ただし大学院の専任は70才と。(※省略) 帰り駅前にて橋本生に会ふ。(※省略)
けふ鈴木敬子けふ自転車にてtransister radio還暦祝にもち来り、山本陽子、谷端慶子、辻芙美子、家治阿津子、松本由子、増田(明渡)、赤松真千子、小松崎(油谷)と鈴木敬子の9人の贈物なりと。電話で礼いふ。。

12月15日
whiskyもちて斎藤dr.。「7月に少し鬱なりし」と記されをり。4週間分の薬いただき帰りて13:00に来し橋本生教ふ。(※省略)
16:00田上dr.に「チェリー20箱」もちゆく。患者ややにふえる様子なり。帰れば角川よりHeine新12版8,000部と。
福田女史に電話すれば欠勤と。けふ賀状アイウ書く。(※省略) けふ澄より電話「泰、退院、休園さす。望スワ母上になつく」と。

12月16日
9:30登校。大学院教へ、reportのこといひ、午食し、3〜4時間すませば八木、大庭2氏をり語学漫談す。(※省略)

12月17日
9:30登校。L2Dに「わが家(町)の歴史」を課す。(※省略)
折から角川の次長、福田氏と来り、訳見本を見す。誤訳指摘し「あとまはしならやる」といひて帰らす。(※省略)
帰りて母に会ひ、河野への5千円お花代と渡し、京の母へのbonus3千円もわたし、よい機嫌なりし。(※省略)
夜、4Dの田中康来り、田中久夫氏の古文書よます。

12月18日
暖し。賀状かく。13:00すぎ小林生来り、結論かく間に散髪。代金もちゆくを忘れ、帰れば美紀子、和田夫人来をり。(※省略)
帰りゆきしあとまた賀状かく。亀岡の山田静雄といふ人より保田蓮田コギト日本浪曼派ののこりあらば譲れと。「なし」と答ふ。
夜、戸田謙介氏へwhiskyもちゆく。あす駒井博士邸へゆき中川君と追悼号の相談すと也。

12月19日(日)
7:30起き9:40教会。Christmas礼拝とてうしろ立つを知る。小児洗礼1人、受洗3名。齋藤齋氏、麻布学園の騒動にて憤慨す。(※省略)
(献金6000)、帰りてtelevi見、賀状ほぼすみし。

12月20日
10:00登校。みな提出せし。13:00校門にてsemi写真。別れて14:30まで待ち、われ8冊、大藤氏6冊など副査わける。
帰りて田村春雄の『たわごと』受取る。帰れば笠原氏の令息来り蟹たまふ。ゆっくり話せといへば「自動車またせをり」と帰りゆく。(※省略)

12月21日
11:00田上dr.にゆく。4日分の薬たまふ。帰り佐伯のぞきしも『鴎外全集』その他なにも来てをらず。
14:00まへ立教宮本研究室へゆき180枚案内せしに応64枚、返答なし100枚と。も一度催促せんか。発起人再募せんかとなり、後者となる。
中川教授おくれて来り殆ど発言せず。手塚氏と出れば中川君「のみませんか」と「busにのる」といひて逃げる。(※省略)

12月22日
午前中に賀状すみ、白鳥先生奥様へ「15:00参る」と申上げ、12:30夫婦にて出、西武渋谷店の京の職場のぞき毛布(5000)買ひてお宅へ参れば、
先生ややよくなりをらる。石田博士、桑田博士などの見舞ありしらし。(※省略) 帰り新宿までbus、ユと別れ高円寺の古本屋見て帰る。(※省略)

12月23日
午前中、駅前郵便局へ切手買ひにゆき、佐伯へ寄れば『鴎外全集』未着。住所録(400)とインク(40)と買ひて帰宅。栗山博士より受取。(※省略)
まさこ・じゅんいちよりChristmas-card。

12月24日
寒し。午后佐伯へゆきしも『鴎外全集2』まだ来らずと。(※省略) Eveの礼拝にゆくつもりなりしも歯痛みやめとすれば小倉夫人来ると電話。
ユ、道教へて教会へゆく。20:30までをり詩集とリンゴ1ケもちて帰る。伊藤佐喜雄未亡人より会葬の礼来をり。

12月25日
歯痛み5:00さむ。9:00出て柏井へゆき治療受け、茶をもち帰る。(※省略) 『東洋学報』来り、1600会費未納と。

12月26日(日)
礼拝夫婦ともゆかず。televi見て日を送る。(※省略) 不二歌道会より受取来る。

12月27日
10:00すぎ出て田上dr.、2日分の薬たまふ。佐伯に寄りしも『鴎外全集2』未着。帰りて昼食すませれば雨降り来り、
花井たづ子、姉をつれて来り『日本浪曼派研究(1000)』賜ふ。その直前『保田選集2(われ挿み込みに書く)』来り、浪曼派classといひ夕食せしむ。
習志野市に住むと也。(※省略) 角川よりハイネ新12版8,000部の検印証来る。

12月28日
北風吹きて寒し。busにのりて柏井へゆき「あとは来年」と。歩きて帰り佐伯に寄れば『鴎外全集2(2000×0.9)』来をり。
無為にてゐるうち、昨日外泊せし京帰り22:00近く松浦父より電話「泰彦(※省略)婚約ととのひ1月7日結納入れる。媒妁つとめよ」と。
今井翠に電話し「神式仏式ならダメとの伝言を」といふ。

12月29日
朝、また松浦薫氏より電話(※省略)、翠よりの伝言にて式のことも承知と。10:30出て田上dr.、今年最後とて6日分の薬たまふ。
佐伯に『鴎外全集』の金払ひ、宮崎音弥『天才(80)』買ふ。われは概ね躁の天才なるらし。(※省略)

12月30日
朝、「年末感慨」をかき果樹園社に送る。佐伯へ寄れば「今年中、本来ず」と。午后televi。
池上未亡人来り、われ公平参謀夫人とまちがへて昇天を祝す。(※省略) 『不二』来り「キリスト教批判特集号」なり。失笑。
(朝、埜中清市氏の歌集速達にて来りしに覚む。『くれなゐ』発行してわれに書かし、いま『白珠』同人「特輯号に1月まで6枚かけ」と也。)
小倉夫人21:00すぎオセチもち来る。八木生「井上生とあす13:00来る」と。

12月31日
やや暖し。(※省略) 13:00井上生より電話かかりし故、迎へにゆけば北口に八木生とをり。つれ帰り聞けば、井上生は双葉より短大に入りしと。
(※省略) 八木生は小野勝利「燕京歳時記」もちゐると。岩波文庫と『北平風俗類徴』と貸し、16:00ごろcake置きて帰りゆく。
(けふ葉雅美生に電話せしに母出て不在と。姉片付きしと也。李錦順生に電話すればアメリカより帰りをり「つとめてゐる。5日午后来てハングルよんで呉る」と也。)
夜、依子に電話すれば2孫とも元気と。「10日ごろ澄について来よ」といひやる。年越しそばにとろろ入れて食へば旨し。



付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。


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