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田中克己日記 1974


【昭和49年】

 昭和40年代の残りをまとめて記します。

 相変らず家族や教へ子に対する人当たりには、瞬間湯沸かし器と呼ばれた“癇性”が認められます。躁鬱の躁の時に顕著な現象で、子供ら全員が巣立ったあとも、妻を叩き、知人・同僚に絶交を言ひ渡しては取り下げを繰り返してゐます。些細な原因による一時の激情は、あとから思ひ返せばバツが悪いものばかりだった筈です。
 それを一々書き留めてゐるのはもちろん忘れぬためでしょうが、詩人にとってキリスト教への改宗と堅信とは、そのやうな自らを律することができない性分を以て、戦争に翻弄され、生き残っては不倫に惑ひ、精神的な寄る辺を失ひ通院するまでに至った不器用な自己救済といふ感じの強いものであり、他者への寛容の精神を養ふ修行の場ではなかったのかもしれません。
 それでも帰依の気持は一心であり、(後年、針金かトンボのやうな自分が長生きできるとは思へなかったと語ってゐた詩人ですが、)何度となくやって来るものみの塔(エホバの証人)やモルモン教の伝道者を門前払いせず、その都度論争して向ふから匙を投げさせるに至っては可笑しさを感じてしまひます。

 泣かされなかったゼミ生はなかったといふ怖い先生ですが、変りなく慕はれてをり、多くの教へ子が結婚式への出席を要請してゐます。学生に対する面倒見は、(今では難しくなりましたが、)大学から自宅にも場を移し、学業から私生活までの煩瑣にわたってをり、大半を省略しましたが、特に心を砕いてゐたのは大阪高校野球部OB親友、丸三郎の長男氏の就職についてです。私学高校の講師の口を得た後も専任になるまで温かく見守る様子がみられます。就職については自身が苦労しただけあって、他にも大学同窓の丹波鴻一郎(丹波哲郎実兄)や川久保悌郎について周旋してゐます。

 旧友の訃報については、長尾良や浅野建夫が亡くなってをり、回復の見込みのない松本善海のもとには近所でもあり4度も見舞に行ってゐます。
 また生まれてすぐの孫をなくし、幼い身内の不幸を再び経験した詩人は、戦時中2歳で死んだ次男の御霊とともに田中家の墓地を教会墓地の隣に求めることにしました。昭和48年のことで、現在も八王子市上川霊園に変はらずあります。

                       ★

 さて、先ほど記したうち、戦争協力についての悔悟ですが、前回の解説で記した、日本浪曼派の残党が活気づいて創刊された雑誌『浪曼』への態度に、明確に現れることとなります。

 すなはち、同じく戦争に翻弄されたといっていい『コギト』同人、伊東静雄について回顧するやう依頼された時には、自分を立てて話をしてくれる林富士馬・西垣脩の二人を指定して「鼎談」に応じたものの、三島由紀夫との縁を朗読レコードによって深めた浅野晃からの執筆慫慂は無視し、以後この雑誌にみなぎる「三島崇拝」の傾向を嫌ってゆきます。津村信夫の詩碑建立祭は不参加、行くつもりだった平林英子(中谷孝雄夫人)の出版記念会も「いよいよ右翼くさくなった」とドタキャンします。

 尤も『コギト』の仲間だった長尾良の遺稿集出版を発願した未亡人には、大高の旧友として協力するのですが、同じく長尾未亡人が序文を仰いだ保田與重郎とは一線を画し、彼と彼の取巻連との接点を事毎に避ける節が窺はれるやうになります。

 それまで戦没者鎮魂の趣旨に賛同して寄付を続けて来た不二歌道会との関係も、当然のことながら三島事件の際の騒動を契機にして疎遠になってゆきます。それまでも主宰者影山正治の発言には日記に不満を記してきた詩人でしたが、母体である大東塾の政治行動につき警察が影山氏との関係を訊ねに来たこと(昭和47年6月28日)を境に、こののち会談のオファーが再三にわたってあるものの、応じることなく接触を避けるやうになります。

 これらには昭和46年に刊行された『太平洋戦争下の詩と思想』といふ本のなかで、未知の評論家詩人である鶴岡善久から名指しで戦争責任を問はれたことが追い討ちになった可能性も指摘しておいた方がいいでしょう。
 一項を立てて論じられたその論文「自然と観念の乖離」において、鶴岡氏は田中克己のことを、

「彼は自己の魂の暗い過去へおりていってきびしく自己を問いつめることを回避している」と、

 そして戦時中に翼賛詩歌を書いたことに対して、

「戦後キリスト者に転身したような事実では、とうていぬぐい去ることはできないのだ。(中略) キリスト者になることなどよりも田中克己は自身やりかけた「哀歌」のような自己へのきびしい責任追求がなされねばならないのである。」

 と指弾してゐます。
 『日本の詩歌』の巻末で、初期作品群に対象を絞り、急速に翼賛圧力を強めてゆく時代のデスパレートな青春像を描いてみせた大岡信の解説とは異なり、鶴岡氏の一文は、その後の詩の生成方法が変化してゆく様子を、目に映るままの「自然」と要請されるままの「観念」とに疑問もなく乖離していったと斬り込む内容となってをり、著者の反体制的な姿勢も手伝って戦争責任をきびしく追及するものでした。

 昭和20年代を政治的圧力の薄い近畿圏の詩壇で暮らしたのち、上京してキリスト教に改宗、同人でもなかった日本浪曼派からはすっかり離脱したつもりで昭和30年代40年代を、大学教授として、中国詩人の伝記著述家としての肩書を得、いつのまにか「コギト派詩人」として詩史上の席も与へられた格好となった詩人です。すでに昭和42年に発表されてゐたこの論文の初出誌(『地球』44)はもとより、単行本の存在を1年近く周りの誰からも知らされず、自分の戦争詩が冒頭に引用されている現物の本を古本屋で手にとり初めて目にした時のショックはさぞかし大きなものだったに違ひありません。

 そんな中、小高根二郎がライフワークとして伊東静雄・蓮田善明の浩瀚な伝記を連載してきた雑誌『果樹園』が、昭和48年205号を以てたうとう終刊してしまひます。体裁を創刊から些かも変へることなく17年の長きに亘り発行を続けた、小高根二郎と田中克己とのホームグランドでした。

 保田與重郎抜きで立ち上げた『コギト』同窓会=Bさう呼んで差し支へない雑誌の性格は、小雑誌ながら近畿圏にあって非政治的精神を貫いたといふべき一孤塁でしたが、その最後を看取った創刊者であった田中克己の感想は日記に書きつけられた「勝手にしろ」といふところが本心だったやうであり、『コギト』終刊時に肥下恒夫に対して抱いた気持と同じく、まことにさびしいものでありました。

                       ★

 しかしながら職場での詩人はいたって意気軒ミです。
 所属する文芸学部文化史コースの主任をも務めるに至ります。ですが調子に乗った詩人には、昭和49年に台湾旅行を単独で決行したことが「精神病の再発」といふ大凶となって返ってまいります。

 旅行中、ホテルで騒がしい客とトラブルがあったやうですが、なにゆゑ悠紀子夫人を同行されなかったのか。全て一人で解決しなければならぬ心労が、帰還後にいちどきに吹き出した形で、9月10日に帰国してのちは日記を記すこと叶はず、9月28日入院前後のことは、夫人の覚書によって断片的に消息が窺はれますが、本人の手で日記が再開されるのは11月20日、退院後もひと月を経てからのことでした。


   この年の出来事

2月 幼なじみの懇意医師、浅野建夫死去。
4月 大学同窓、松本善海死去。『浪曼』と距離を置く。精神不安定となる。
7月 佐藤春夫の会。
9月 2日〜9日 台湾へ一週間の単独旅行、帰還後再び精神不安定となり
9月28日 斎藤病院に入院1ヶ月。年内休職。

昭和49年 1月 1日〜昭和49年 9月 1日
25.1cm×18.0cm 横掛ノートに横書き


昭和49年 1974年

1月1日
弓子の家のBell押せば父上出られ、弓子夫婦をおこす。二人ともねまきにて宏一郎、克次朗はさめをり。雑煮の仕度するを断り自動車も断って帰宅。
ユ途中まで出をり、弓子より「父酔ひゐる」と電話ありしと。
(※省略)

1月2日
(※省略)
山口書店に3日開店の時『詩集悲歌』買うふといひ、宮崎女史に書入れ大切ゆゑ残してくれといへば「承知」と。(※省略)
金子の相手進藤生とわかり、(※省略)
便秘四日目に気付き、灌腸ユにしてもらひ死ぬ思ひで脱糞。(※省略)

1月3日
(※省略)
探せばわが家に宮崎女史よりもらひし歌集あり。山口書店にては「売れてなし」、も一つの書店も同。(※省略)
わがいたむ腹をし笑ふ子を産みし痛さをれら知らざりしなり。
詩を作る心もあらず神祈る悩みもなくてありにし人よ。

1月4日
(※省略)
佐伯にゆき『母を訪ねて三千里』もらひ『恍惚の人(500)』買ふ。(※省略)
16:00史来りしゆゑNapoleon一杯飲み葡萄酒一本呉る。美紀子に『恍惚の人』やり、子らにと5千円渡し(※省略)、

1月5日
ユをつれて山住dr.。(※省略)
帰りてユを促し宮崎家へ歌集もちゆかせば12:00すぎ帰り「いらざりし」と。『悲歌』は返さすつもりと。(※省略)

1月6日(日)
(※省略)
和田夫人より電話かかりし故『悲歌』もちあす11:00来たれ。自筆の写しをやらんと云へば泣く。
(※省略)

1月7日
9:30柏井歯科へゆく。(※省略)
筒井護郎夫人代筆にて「肥下里子の婿候補を野上に頼みし」と。(※省略)

1月8日
(※省略)
佐伯へゆき雅子用に英語の本(1,300)と『現代神仏事典(200)』買ひ600枚の賀状了りとなりしをすます。
(※省略)
23:30に近く「中国の植物漫録」200×19にて了る。次は「竹」なり。

1月9日
(※省略)
三越本店に開店5分前につき7階の展覧会場に着けば伊勢母子まだ。われ「大江山」を描きし佐々木邦彦の画見に来たといひ名刺を受付に托すれば目録呉る。
隣の古書籍展にて春夫『FOU』2万円。『富永太郎詩集』同じく2万円。立原の手紙15万円とあるを見る。
急ぎ成城につきて、(※省略)

1月10日
柏井へゆき(※省略)成城へ11:00すぎ着き、成城堂にて『好色一代男』、『中国笑話集』、『アイヌ人物語』買ひ、(※省略)
宮崎智恵氏より保田典子夫人の歌集くれ『悲歌』のかきこみ写しくる。「返しいらず」と電話す。
(※省略)
(けふ中河与一氏に会ひ「今年喜寿」と。恰も渡辺家の門前にて也し。)

1月11日
9:30出て柏井、(※省略)出て成城大学成城(※省略)、

1月12日
10:30出て柏井歯科、(※省略)
帰りも歩き、西川満に会へば「台湾へゆけば楊雲萍を紹介せん」と。「その要なし」といひ古本屋三軒見、(※省略)
丸重俊来りし故「も少し親孝行しろ」といへば「父(※丸三郎)、伊豆のリハビリテーションセンターにをり」と。見舞書くこととす。 9:30出て柏井、(※省略)
(太宰施門博士焼死のこと東京新聞にのり84才なりしと。amen!)

1月13日(日)
ユを置いて礼拝にゆく途中、佐伯に寄り『日韓辞典』見つけ仮る(1,600)。(※省略)

1月14日
(※省略)国鉄にて斎藤dr.。(※省略)
東豊書店にゆけば青山博士来られ『中国地名要覧』の台湾版売らずにくれといはれしと。
(※省略) 個人研究費ゼロにするため『古今事物考』、『金元北曲語彙之研究』に30円追加して、6.9万円のこりゐる学生用の本注文し2.7万円のこす。(※省略)
柏井歯科、(※省略)『伊東静雄詩集 新潮文庫(50)』買ひ、また北口にて『カーマスートラ 角川文庫(60)』買ひ、(※省略)

1月15日
(※省略)佐伯へ『漫画読本』など60冊もってゆけば600円にて買ふと。
『道鏡と居酒屋』、『天平の甍』、『一日一生』と雑誌にてすみ帰宅。午食して山住邸、(※省略)
夜、依子に電話し「8.1〜10上京せざるや」といへば「す」と也。

1月16日
(※省略)柏井歯科、11:00登校。(※省略) 帰途、金子書店に寄り店主の無礼に腹立てつつも野上弥生子『ギリシア・ローマ神話2冊(200)』買ふ。(※省略)

1月17日
(※省略)11:00登校。(※省略)
帰りぎは今井教授より『海の聖母』複製もらひ、高田君より『朔太郎研究』もらふ。(※省略)

1月18日
(※省略)12:00すぎ成城大学につく。(※省略)
午休み古野清人博士に癌ノイローゼと、天理図書館での中村(※中村幸彦)の告口話し、(※省略)
望つれて依子来り、浮かぬ顔してをり。「マリリン・モンロー伝記」をteleviで見て入浴。
(※省略)

1月19日
(※省略)半蔵門Hotelにつく。(※教へ子披露宴)、(※省略)
川久保15:00来り、17:00すぎまで話して帰りゆく。「本多く買ひあるを見て猛然と民俗学やる気となりし」と。(※省略)

1月20日(日)
(※省略)礼拝にゆく。(※省略) ホテルオークラ別館まで寒き中をゆき(※教へ子披露宴)、(※省略)
阿佐谷にて『松竹梅』買へば奈良女子大の先生、大森志郎氏に協力す。支那の松竹梅行事はかかず。安心す。「けふも弓子ら来り3人の孫にて荒せし」 と也。

1月21日
(※省略)10:00まへ成城大学。(※省略)
佐伯に寄り『正倉院書帖』を予約し帰れば、井上書店より案内来をり『正倉院薬物』買はんと思ひ電話す。(※省略)

1月22日
雪つもる中を長靴はき、佐伯に井上書店の案内見せ『正倉院薬物』ほしいといひ登校。(※省略)
モルモン教また来り「ドイツ語できる」といふ新顔をり、煙にまかれて退散す。

1月23日
(※省略)成城につき、(※省略)崔吉城修士の誘ひにてcoffeeとわれはtea。崔君(「藤沢に住む」と)の払ふといふを叱り、(※省略)柏井歯科。(※省略)
松枝茂夫氏より『紅楼夢5』来りをり。

1月24日
14:00登校。(※省略) 成城堂にて『毛沢東語録』の訳と『倭の五王』、矢沢君の『中国とキリスト教』買ふ。(※省略) 大学院の常民文化より美術史の2教授抜ける件につき相談。(※省略)

1月25日
(※省略)午后、佐伯へ散歩にゆき『和刻漢籍第13巻(3,420)』とりて帰宅。(※省略)

1月26日
(※省略) Dapperよみ淮安を過ぎるところまで来る。

1月27日(日)
(※省略)ユを残して教会へゆく。(※省略) 佐伯へ寄れば『鴎外全集』と『日本語の語源』と来てをり。(※省略)
「14:00来る」といふ和田氏と田中正俊君とまてばかっきり来り、21:30まで話しゆく。(※省略)

1月28日
8:00起され、佐伯に払ひし、登校。(※省略) 柏井歯科、(※省略)
西川満氏よりわが評のせしパンフレット着く。

1月29日
8:30起され斎藤dr.。(※省略) 代々木の東豊書店へゆきしあと成城へ登校。(※省略)
城平叔父より「これん姉(※克己実母)の骨はどこにありや」と。「宝国寺にあり、詳しくはきかず」とハガキかく。

1月30日
(※省略)潮出版社より詩の校正来りし故なし了へ投函。13:00成城へつきし。(※省略)
3副手さそひて喫茶して帰宅。(※省略)

1月31日
(※省略)11:00成城にゆき (※省略) 魯迅未亡人の日本人迫害の日記、新書にて買ひよみ了る。

2月1日
9:30さめ11:00すぎ登校。(※省略) 柏井歯科、(※省略)
美堂君(※美堂正義)の来るを待てば18:00かっきりに来り、会社の一行と「湯島に宿りをり」と。
20:30通りまで送り出して帰る。(「われより1才下。次男東大仏文を出し。香港廈門にゆきし。」と也)
(※省略)

2月2日
(※省略) 小林政治氏の嬢より『晶子特輯』の雑誌賜り「石上露子の記事某所にあり」と挿紙。
母「咲耶の勘当せし孫のところへゆき憎まれし。岡山で死にたし。大の気持わからず」と。
建※に籍移し、大※に「早く別れよ」といひ(※ともに弟)、ともに出て(※省略)
白鳥清先生頌寿記念会(宮本教授)より「3月末解散」と。

2月3日(日)
(※省略)われ教会へ5分前につきし。(※省略)

2月4日
終日家居。(※省略)

2月5日
午后より雨。終日家居。(※省略)

2月6日
よべ雪となりしと。終日家居。(※省略) 14:00熊本、石川、加藤の3生来り、(※省略)
伊勢すみえ来り、(※省略)娘来り絵見す。(※省略)

2月7日
笠原文恵来り、(※省略) 14:00出て成城。(※省略)

2月8日
きのふの雪けふは止みしらし。(※省略) 14:00庄野、古宮2生来りwhiskyあまりのまず食ひに食ふ。(※省略)
Singaporeにてhy-jackせし一行旅立ちAdenにゆくらし。

2月9日
9:00起され斎藤dr.。(※省略) 森ミチ夫人来り、(※省略)

2月10日(日)
8:00起されわれのみ礼拝にゆく。(※省略) 桂信子より『新緑』といふ句集を贈らる。

2月11日
「けさ一番寒かりし」と。(※省略) 伊勢淳子15:00戸田夫人の許より来り、(※省略)
石油一罐もちて小林夫婦来る。伊勢スミエ来り夕食。(※省略)

2月12日
(※省略)出て成城一次入試の監督。(※省略) すみて『鴎外──家長としての(690)』(※『鴎外闘う家長』か?)成城堂で買ひ来り半分よむ。鴎外哀れなり。(※省略)
高橋重臣君より電話あり22:00来り22:30帰りゆく。

2月13日
よべ眠れ、また試験監督。すみて佐伯に寄れば主人まだ風邪ひきをり。(※省略)
けふ美堂正義君より礼状。高橋重臣君「しめ出されし」と電話し来り、すぐ「途で逢った」と泊らざることとなる。

2月14日
10:00近くまで眠り疲れとれしも試験の採点ちょっとやり、(※省略)
けふ丸重俊来り「入学試験の手伝ひ命じられた」と。クビでなき様子なり。

2月15日
家居。寒し。(※省略)

2月16日
(笠井)川島夫人より「日本近代文学館をやめた」との便りあり。
14:30出て成城の入学試験委員会に出席。(※省略) 夕食前に相談すみ、佐伯へ寄れば、(※省略)

2月17日(日)
目ざまし鳴らず8:30ユさめて起し、あはてて髭剃り登校。(※省略)

2月18日
暖し。野上卓志(実資改名)紀子夫妻より写真来る。(※省略)

2月19日
暖し。採点すまし14:00成城大学へゆく。(※省略)

2月20日
10:00に5分前登校。修士卒は土肥孝と矢口裕康の2人のみ。ともにわれ誤字訂正しをれば質問す。(※省略)

2月21日
8:00起され眠がりつつ登校。(※省略) 教授会。(※省略)
角川より「Heine16版160円とし2月下旬1万部刊行」、笠原夫人より「一度お越し」とのたより見る。(※省略)

2月22日
疲れて大学院の入試問題月曜に延ばすこととす。(※省略)

2月23日
11:00さむ。〒なく、夜「住吉」といふに23日には必ず集まるとて『骨』の会の木村三千子女史よりはじまり荒木君を最後に天野忠、山前、依田の諸氏より「会に来よ」と(※電話)。初めの同人の残り全部なり。

2月24日(日)
夫婦ともに礼拝休む。家居。夕方兼清より電話かかり「浅野建夫死せし」と。川崎よりの通報ならん。
金沢、西川(※金沢良雄・西川英夫)ともに不在。倭にいひて「あすお通夜にて会はん」といひ浅野家へ電話すれば「納棺中」と。室にも電話す。(※省略)
大正3年以来の友にして、わが発狂に最も心配しくれし也。(※省略)
 わが罪を許さむと神ののたまふといひしに笑ひし妻もちし友。
 まっ暗き辻にまちゐるわれ迎へ戦負けて帰りし話。
 われらみな若く望みも暗がりも知らずしてゐぬ五十年まへ。

2月25日
11:00さむ。新城博士より二度電話あり。(※省略)
われ浅野の通夜に出てゆき(御花料1万円)、金沢と並んで夫人に挨拶し、われ哭すれば夫人も泣きゐし。兼清来り、西川来りしも枕経の席にをらず、 われ先立てば中村治光、列奈河り呼び留む。
(※省略)
金沢22:00来りNapoleonいっぱいこぼし乍ら飲み「君あまり悲しげゆゑ心配で来た」と。「われ狂気することあり」といへば帰りゆく。 (※省略)

2月26日
10:00少しまへに登学。浅野のこと思ひ出しながら舟越君(※舟越清)と学生部長と組になり29人の高校生の文化史志望の面接やる。
東洋史に適せしが1人あり。(※省略)

2月27日
ユをして薬とりにゆかせ、問題(独・漢)作り、午食してのち登校。(※省略)

2月28日
寒し。外へ出ず。(※省略)あすより書くつもりの石田先生の大著紹介重荷となり来る。(※省略)

3月1日
寒し。伊勢の山本光男氏より香奠返し来り、Heineの16版来る。終日家居。(※省略)
京、25歳の誕生日なるも出勤、23:00やうやく帰り来る。
石田先生の論文集の紹介けふよりはじめるつもりなりしも手を焼く。(※省略)

3月2日
外、暖きも外出せず。(※省略)長尾夫人より「3月24日3回忌」と。欠席の返事す。鬱なり。

3月3日(日)
ユ、聖餐式とて8:00出てゆく。京、朝食してくれ、(※省略) 礼拝中、院殿居士となりし浅野建夫を切に思ふ。(※省略)

3月4日
9:00家を出10:00まへ大学院へゆきしも入試の試験室への案内などなく、50分遅れて始まる。(※省略)
昨日堕ちしトルコ機300人を超す死者にて日本人40人のりをりしと。(※省略)
湖東と松本健次郎の2医に浅野の通夜の感想したためる。

3月5日
8:00起せといひしつもりが7:00起され、髭剃りゆき、(※登校。) (※省略)
今中19期会より「思ひ出かけ」と。浅野建夫君の死去も知りをり。われ鬱とまらず始末に困る。

3月6日
雨。ユ10:00すぎ我に朝飯くはし南雪が谷の伊勢家へ3万円返しにゆく。
われダルくじっとしをり。依子、ユの出し直後電話かけ来りし故「夜かけよ」といふ。(※省略)
依子に電話すれば「矢野明子への花婿候補ふられて明子を姉紹介す」となり。

3月7日
雨。外出せず。呆然たり。夜、湖東より電話「ハガキみた。浅野建夫の死はまことか」と。「7人の孫でき酒やめてゐる」と。

3月8日
雨止む。弓子2孫をつれて来り克次朗「ヂイチャン」といへるやうになる。(※省略)
『大法輪』社より3月16日までに400×2をかけと。「観音」の男女につきかかんとて挿入の速達ハガキに「諾」と書く。(※省略)

3月9日
9:00起され10:00斎藤dr.へ地下鉄でゆく。代診女先生にて薬かへてもらふ。「悪ければすぐお越し」となり。(※省略)
佐藤美智世より「詩をくれ。北川冬彦の弟子」と。

3月10日(日)
ねすぎて夫婦とも礼拝にゆかず。(※省略)旧姓村上に北川冬彦のこと詩にして投函。(※省略)

3月11日
8:00すぎ起されて登校。(※省略)昨日けふと小野田少尉の投降で大騒ぎなり。
松本健次郎より「横浜の娘の産にいってゐた」。
「行きながら死人になりてなりはてて思ひのままに生きる楽しさ」と歌記し「いづれはたれかあとやさき」と心境をしるす。湖東とは異りをり。

3月12日
筑摩書房より『現代詩集』1,000部増刷と。八王子の上川霊園より無料バスの案内来る。
11:40柳川真名子生来り、(※省略)学士会館の披露宴に出よ、と。西友5階にゆけば万年筆売り場なくなりをり。(※省略)
よべ睡眠感なく、小野田少尉に加ふるにNobel賞の江崎博士の帰国、沖縄空港の300人乗り日航機乗っ取りとさはがしき日なり。

3月13日
6:00起こされ、7:30までtelevi見て登校。(※省略) 中西博士より返りし保田の『日本文学史』(中西博士「わからざりし」と)もちて帰宅。(※省略)

3月14日
6:30近くユ覚め急ぎて朝食。(※省略) けふ青山博士古稀記念宋代史論叢刊行会の「発起人名簿」来る。羽田の名あり川久保はなし。中河与一氏の袋書にて『Sujet』といふが来し。

3月15日
(※省略) 夕方「観音様の性」400×2書き了へ、あす大法輪社へ速達をユに命ず。(※省略)
夜、川久保より電話といふに出て見れば川村欽吾にて「東奥義塾につとめ出張中、月曜夕方戸田さんの弟のところへ来るつもり云々」。

3月16日
9:00まへさめればユ、不在。郵便局へ速達出しにゆきし也。(※省略)
午まへスミ子2児つれ来り、1児は幼稚園、この間調停裁判に出て「離婚の意思なしといひし」云々、哀れなり。ユと出てゆく。
(※省略)

3月17日(日)
ユに8:00起を命じ、日曜とて礼拝にゆくユを見送り、餅やき11:00。(※省略)
13:00より2次入学試験の査定会。(※省略) 帰りて川村欽吾君より「明日夕方必ず戸田部長宅で」と電話ありしときく。(※省略)

3月18日
(※省略) 戸田氏に来るといふ川村欽吾より音沙汰なく、ユをしてゆかしむれば、奧さん(謙介氏の)弟分なりと。
ややこしく昔話をきき、最後に「川久保の娘を」といへば川村君困りし。22:10帰り来る。
けふ新学社より印税500余り来し。

3月19日
10:00さめ杉本長夫夫人よりの一周忌の返し受け、(※省略)

3月20日
(※省略) 卒業式に出席。新学長の訓示あり。(※省略) 研究室にゐれば金子一郎、母と彼女とつれ来り挨拶す。(※省略)
帰宅。川久保の娘に20:00電話かかりしゆゑ川村欽吾のこといへば「ごぶさたしてをり」と迷惑げなる返事。「勝手にしろ」と也。

3月21日
(※省略) 「佐藤春夫先生の碑を三田に建てるに付き5,000以上を」と〒。

3月22日
(※省略) 高橋重臣君の来訪待てば14:30来り、会ありとてNapoleon忙しくのみて出てゆく。(※省略)

3月23日
9:00さむ。終日家居。来客もなし。(※省略) 石田先生の本にやっと入り「言語編」の紹介すむ。次は「宗教編」なり。

3月24日(日)
3週間ぶりに礼拝にゆく。(※省略)

3月25日
9:00さめ母より電話あり。「来させよ」といへば来て「いよいよ伊勢へ行く。荷物預れ、死なばユにやる」と也。14:30依子、望をつれて来る。(※省略)
けふ平林英子(中谷孝雄夫人)より『夜明けの風』『Biblia』56号貰ひ、(※省略)

3月26日
gene-st.の日なり。佐伯へゆけば主人不在。(※省略) 南隅夫人と2女を和田夫人案内し来り18:00近くまでゐて
「あす17:00学士会館へ和田夫人と来い」と。(※省略)

3月27日
雪降りをり8:00起き地下鉄にて斎藤dr.。先生「よくなりましたね」と。(※省略)
雪の中を学士会館へゆき17:00まへ和島岩吉ご夫妻、南隅母子とお越し、地下食堂にて400の定食!いただき紅茶いただく。(※省略)

3月28日
(※省略) 桃の会より4.28「二十周年の会す。会費4,000」と。『浪曼』より平林英子氏の『夜明けの風』の出版祝を4.9学士会館で3,500でと。ともに出席の返事することとす。(※省略)
岸辺成雄君より「某社の女性史に書け。東洋史の女性を60枚」と。「承知」と答ふ。(※省略)

3月29日
(※省略) 評論社より「中国の后妃」60×400を8月末までにと書類来る。
夕食後、石田先生(※石田幹之助)の本の紹介20枚書き了る

3月30日
晴。暖し。(※省略) 佐伯へ寄り『倭から日本へ』買ふ。上原利君、鈴木治氏の説を素知らぬ顔して引きをり。
(※省略) 望、けふ依子とパンダ見にゆき押されて駈け足なりしと。夜、澄より電話「skiiより帰った」と也。

3月31日(日)
8:00さめ、ゆるゆると望と依子を見て礼拝にゆく。
(※省略) ユややして帰り来り「11:00に乗りし」と。やがて泰より電話あり「14:30頃帰宅」と。(※省略)
その頃、史より電話あり「美紀子病院にゆく故あす留守番に」と。(※省略)
湿疹ひどくなり硫黄(※ムトウハップ)の行水2回す。(※省略)

4月1日
(※省略) 丸重俊来り「地学の先生より法政の日本史の講師いかにといはれし」と。「考古学やめて勉強にゆけ」とすすむ。

4月2日
暖し。家居。(※省略) 『民間伝承』来る。(※省略)

4月3日
暖かし。斎藤虎五郎翁より「木蓮の咲く庭に立ち心なごみ征塵よみし」と。(※省略)
京、帰りて「お祖母さん元気なし」と。ユをして見舞にゆかせ、(※省略) 大と別れて伊勢へゆくに悄然たり。(※省略)

4月4日
5,000もちて登校。山田俊雄君『新潮社辞典』の改版やる、と也。10:00より教授会。(※省略)
佐伯に寄りて帰宅。ユ不在。19:00ごろ帰り来れば「(※スケートで骨折)美紀子のギブスとその他にて遅くなりし。同室はみな腰痛の老嫗」と。 (※省略)

4月5日
(※省略) けふ金沢に電話して不在。浅野夫人よりハンカチを香奠返しに贈られふしぎに腹立ちし也。

4月6日
春やっと来る。(※省略) ほるぷ出版といふより「『日本詩集22』に貴詩を。選者は鶴岡善久先生!」と。
早速コトワリの速達出す。

4月7日(日)
8:30近くユ起き、あはてて礼拝にゆく。われ家居しゐしに12:00数男より電話「高沢の叔母さん死んだ」と。(※省略)

4月8日
(※省略) 『大法輪』わが書きし「観音の性」のせて来る。早し。

4月9日
(※省略) けふ平林英子(中谷孝雄夫人)の『夜明けの風』の出版記念会にゆくつもりなりしも『浪曼』来りいよいよ右翼くさければゆくを止む。
あす富士山麓へゆくと也。

4月10日
6:00起きて7:30駅へゆけば国電急行にのれて(※省略)8:30成城。(※省略)
定刻より少しおくれて出発。(※学科にて一泊旅行) (※省略)
12:00ちょっとすぎに河口湖上Mt.Fuji Hotelにつき昼食後、学長、学部長、学生部長の話あり。
ついで各教授の紹介と自己紹介。(※省略)

4月11日
築島教授のcurtainあくる音に目をさまし、あはてて髭そり食堂へ行けば、もはや皆着席しをり。(※省略)
10:00より塩川君をさそひBowlingにゆく。築島教授も来り、1度目われの全く忘れしに恥かく。塩川君は旨し。(※省略)
払ひすませて階下に下りればもはや出発用意しをり。第4車にのり新宿まで出、甲州街道口に下車。(※省略)

4月12日
5:00まへ覚む。炬燵こさへ10分ほど眠りしらしく、醒めて夜昼わからずなる。午めし前たばこ探しに出、(※省略)。

4月13日
よべこはがりて困る。9:30急に思ひつき山住閣下に電話すれば「散髪」と夫人。「1時間して参る」旨申上げしところへ母来る。(※省略)
ユをして薬王寺に電話せしむれば「美紀子退院しゐる」と也。ストやっと解決せしと。この間中の不愉快ひとまづ解消す。

4月14日(日)
また早くさめ、ユ最後の聖餐当番に出て行きしあと呆然とをり。(※省略)
井上和子15:00かっきり来り、(※省略)「5.11(土)12:00より東京会館にて披露」と。ユといろいろ話しをる間われ呆然としをり。
(※省略) 帰るといふにともに出てParker万年筆を贈る。またこはくなり「斎藤先生にゆけ」とユ。

4月15日
春となる。(※省略) 弓子2孫をつれて来る。(※省略) 北口で『日本の詩歌』みつけて築島博士に進呈することとす。

4月16日
よべ雨降る。(※省略) けふ真野喜惣治君より「浜寺へ転居」と。(※省略)今中19期生会の原稿かきそめしも旨くゆかず。

4月17日
5:00すぎさめ9:30出て成城大学。(※省略) 田中比佐夫氏と話す(田中氏「この間、西宮一民君に会ひわがことききし。滋賀県より来し」と也)。
(※省略) semi、8人の新来あり。(※省略) 澄けふ「21:00来る」と。(※省略)

4月18日
澄9:00電話かかりて覚む。「大蔵省へ行き課長代理の史と会ひし」と。(※省略)
われ出て金沢良雄宅へゆき無人ゆゑpostに「恩師のこと」さしこみ、佐伯に寄りて帰宅。(※省略)
登校。(※省略) 教授会。(※省略)

4月19日
8:00さめ眠きも早々に出て佐伯へゆき(※省略)出勤。帰宅。「アルク」より「万歩計やる故2,000字かけ」と。「疲労」をいひて断る。

4月20日
5:00まへさめ、8:30散髪にゆけば、(※省略) 一橋の学士会館にゆく。(※柳川真名子氏結婚披露宴出席 省略)

4月21日(日)
雨降る中礼拝にゆく。(※省略)

4月22日
8:00さめ斎藤dr.。(※省略) 帰れば今さき「松本善海けさ死す」の電話ありしと。
松本家に電話すれば坊や出て「まこと」と。丹波鴻一郎、太田常蔵夫人、内村俊雄夫人に電話し、川久保に電話すれば夫人をり「26日嬢と弘前に帰る」となりし。(※省略)
丹波より電話あり「19:00桜台駅出口にて」と約束し、(※省略)
夫人も迎へに出られ、柩前に写真まだなく令息と孫女とに挨拶し、夫人にかかる電話の合間に話し、睡眠薬中毒にて震盪マヒとなりしとわかる。けさ急に心臓とまりしと也。
西本願寺より光明院釈善海との法名つきしをききて、丹波と退去(われの御花料1万円)、(※省略)
けふ櫻井歴史散歩の会の案内、山川京子氏より「29日話を」と。ともに断ることとす。

4月23日
松本のお通夜に関し電話あり「われはすませし」と断る。(※省略)
佐藤春夫詩碑に1万円送ることとす。5月3日の櫻井歴史散歩の会ことわりかく。

4月24日
(※省略) 春夫詩碑に1万円ユ送金せしと。

4月25日
(※省略)午前中、大の引越とて(※同居してゐた)母の荷物来り、大、伊勢の西島順と来る。(※省略)

4月26日
(※省略)帰りて夕食後、山川女史に「桃」の会出られずと電話す。佐藤春夫先生詩碑一万円の受取来をり。

4月27日
晴。佐伯へゆけば(※省略)。televiみてすごす。庭先の新宅の夫婦、菓子もちて挨拶に来る。珍し。弓子2孫をつれて来り(※省略)。

4月28日(日)
Schmidt先生送別会といふに礼拝に夫婦してゆき、すみてS.女牧師のこときけば、
「東京女子大定年にて帰国。昭和12年来日。北海道のミッション(※スクール)よりはじまり、
開戦20日前に比島にゆき日本人に捕へられ、バプテストの牧師たちの殺されしを見し。
終戦後すぐまた来日、明治学院より東女に移りし」と。(※省略)

4月29日
8:30さむ。晴。午后佐伯へ金払ひにゆき(※省略)。

4月30日
晴。よべよくねしも眠し。(※省略)藤田貢より横浜に転居とのたよりあり「浅野を悼み西川と酒のみし」と也。

5月1日
まちがへて2時間目にとゆき、(※省略) semiにゆき、すまして水津と七島、清水をさそひて喫茶し、(※省略)
けふ史学会より「石田先生の推薦ならず」と。

5月2日
(※省略)けふ牛尾三千夫氏より『田吹研究』たまふ。

5月3日


5月4日
(※省略)帰り佐伯によれば「高円寺の市」と。
『富永太郎詩集』5万円となりし書目(小田急にて展覧会しをると)呉る。

5月5日(日)
ユ風邪ゆゑ、われ一人にて礼拝にゆく。601番うたはせ玉ふ。(※省略) 母、疲れしと大の家に泊る。(※省略)

5月6日
母来り、忘れゐしところへ井上斌子、花井夫人と来り、花井夫人突然泣き出して弱る。(※省略)

5月7日
斎藤dr.に薬取りにゆき東豊書店にて3冊本買ひ、(※省略)
母「ユを迎へに来よ」といひ20:00すぎ来る。大も荷物運びWhiskyのみてゆく。

5月8日
尿たまり早くさめ、あと少しねしもダルし。10:03成城大学。(※省略) 津田生つれて帰ればユ不在。母に茶出させ、(※省略)

5月9日
ゆっくりして12:30家を出、(※省略) 早くすみ雨の中を帰り来る。(※省略)
金沢良雄より電話「一番街のVolgaといふに来い」と。
ゆけば流しをつかまへをり(※省略)23:30家まで送り来り雨の中を帰りゆく。

5月10日
(※省略)池田勉博士と話し堀博士の危険なることをいふ。

5月11日
(※井上和子氏結婚披露宴出席 省略)
高橋重臣君来り、Whiskyのみ酔払ふ。ドイツ語の訳教はり(※讃美歌)605の訳出来てうれし。

5月12日(日)
9:51高橋君に「Heine伝みよ」といひ礼拝。(※省略) 帰れば弓子2児つれ来をり。(※省略)

5月13日
(※省略)けふ『浪曼』来り、堀辰雄の話を神保らす。

5月14日
(※省略)中野書店へゆけば詩人賞をもらひしといふ人あり、自らなのりてきけば村上成実(草彦との名で国分寺に不二書房といふをしをり)氏と。 わがこと知りをり匆々と去る。

5月15日
雨。母9:00に出んとし、荷物の多きにあきれ(※省略) 10:30家を出、成城大学にゆけば、(※省略)

5月16日
午食して登校。(※省略) 教授会。(※省略) 日本常民文化の書籍費を我発案し50万円を、
堀川、築島2博士にて15万円、文化史、堀、佐藤、新城、我に7万円づつ、高田博士に7万円、(※省略)

5月17日
ユ、雅子の新宿御苑遠足の付添とて出て行きしあと9:00出て成城。(※省略)

5月18日
(※省略)この間、三鷹で遭ひし村上成実(草彦と改む)氏より『詩集』来り礼状かく。

5月19日(日)
ユと礼拝にゆく。笹淵博士作の602唱ふ。(※省略)
帰れば刺繍1冊と青木母より「梅若流の能に“葵の上”演ずる」と入場券来りをり。6.8 10:00開始にて葵上は最後なり。

5月20日
(※省略)丸夫人に電話すれば「重俊月給少なきも通勤」と。「一度来させよ」といふ。
(※省略)『縮冊日本文学全集10日本詩歌篇(100)』に阪本越郎氏わが詩選びゐるを知る。(※省略)

5月21日
(※省略)斎藤dr.。三番目なり。代診の若先生に「いつも躁」といひ薬もらひ、歩きてNewOtaniにゆけば10:45梅田夫婦(※梅田恵以子)もはや出口にをり。(※省略)
東京駅の新幹線入口まで送る。

5月22日
8:30出て9:00すぎ登校。salaryもらへば(※省略)。
津田小百合より「伺ひて宜しきや」と、「宜し」といへば七島、外丸、横江、菊池の5人にて、(※省略)
4人に父の『歌日記』やり、(※省略)17:30帰りゆく。(※省略)

5月23日
(※省略)築島博士とも会ひて話しゆく。築島氏に基本給24万円と話せば目を丸くさる。(※省略)
丸生、電話かけ来りしゆゑ見合承知せしむ。

5月24日
(※省略)夜、今井翠より電話「祖師ヶ谷大蔵の下駄屋の娘一人と母一人の家に丸いかに」といふに「一度会はせよ」といふ。

5月25日
(※省略)私学会館へ2:35着き、2階へ上がれば小沢氏電話かけをり。来年より専任にといへば「承知」「2週間Swissへゆく」と。(※省略)

5月26日(日)
ユ礼拝にゆき、(※省略)「川久保上京しゐる」とのことに「すぐ来たまへ」といひ、けふの「善海の35日にゆかん」とさそへば「きのふ参りし」(※省略)
いそぎ着かへてゆけば経はじまりをり。(※省略)
百瀬(※百瀬弘)、中島、米澤嘉圃、野原四郎などの諸先輩、池田温君が最も若く野原さんが最年長なり。増井さん来られて握手さる。
中村治兵衛「九州より東京へ帰り、われを松本の弟かと思ひし」と。(※省略)
婿と話せば6月嬢のリサイタルの切符もらふ。荒正人君にも渡せし也。
最後に来しは村上正二にて、われ殆どもの云はず。小便に立ち帰れば婿氏よりドイツ語で釦の空きゐるを注意され「よくやる」といひ、本富士・坂本署の話してわれ立てば皆出、「石田博士亡くなられし」と。(※省略)

5月27日
朝、金沢に電話して石田先生のこといふ。「朝日新聞に訃報のりをり」と。わが家の東京新聞にはなきゆゑ駅に買ひにゆく。
眠くて困りをり。午すぎ藤野一雄、小林和尚のあとつぎつれて来り、いろいろ話す(※省略)

5月28日
9:00堀多恵さんに電話し、辰雄忌のこといへば「来年23回忌をす」と。(※省略)
13:00家を出て信濃町の千日谷会堂へゆく。
古野博士、百瀬氏らと話し階上の告別の辞などきき14:00よりの献花行ふ。(※省略)
川久保家へゆけば南半によく建て直しをり。(※省略)「弘前引き揚げよ」といひ(※省略)

5月29日
(※省略)丸重俊に電話すれば20:00来て吊書かく。「あす来る」といふ翠に渡すこととなる。(※省略)
けふ渡辺家の前にて福永武彦夫人の見舞にゆくといふ堀多恵さんに遭ふ。きのふ電話せしばかりにてふしぎなりし。

5月30日
6:30さめ13:00に家を出、佐伯に払ひし、登校。(※省略)

5月31日
7:00さめ登校。午休みに「きぬた書房」にゆけば主人出て「明治34年生のもと詩人」と。(※永島不二男)
「成城の歴史を柳田先生にいはれてかきし」と。1冊は「堀博士に」と呉る。
(※省略)丸重俊の件、「方角と年まはり悪し」と断り来りしと也。

6月1日
晴。家居。〒なし。(※岩佐東一郎逝去の新聞記事貼付)

6月2日(日)
聖霊降臨日。夫婦にて聖餐式すませ、ユは賀代嫗の三回忌にゆく。(※省略)

6月3日
石田博士の文集紹介の校正了り、追悼の辞かき加へて史学会へ簡易書留速達す。(※省略)
早いがよしと百瀬氏に電話し「15:00参る」といひ高幡不動まで急行(京王dept.千疋屋で果物もちゆく)。
1階のmansionの居間に坐り川久保令嬢の縁つかざるわけいひ、百草駅前までの途送られ、(※省略)
近江詩人会より「23日の彦根行承知」と来をり。(※省略)

6月4日
ユ、斎藤dr.に行きくれ、午になりて弓子2孫をつれ来る。(※省略) 藤野一雄氏1泊して彦根へ帰着と。
『金瓶小札』半ば写し了る。夜 Pro-boxingに輪島13回knock-outとなるまで見て疲る。

6月5日
10:00ごろまでcard作り、雨中傘も持たずに登校。石川生傘さしかけてくる。
午后の東洋史002にてmyke使ふ。(※省略) 夜『禁じられた遊び』といふ名映画みる。退屈なるものなり。

6月6日
12:30出て登校。(※省略) まっすぐ帰るつもりが下北沢で降り、久しぶりに南側の古本屋見しも何もなし。(※省略)

6月7日
9:00登校。間のあきを経堂の古本屋にゆきしも何もなし。
(※省略)帰宅すれば高橋重臣氏まちをり。23:00入浴さして眠る。

6月8日
高橋君、神田へゆくを送り出して散髪。(※省略) 白水夫人とユと三人で東中野の宝生会館(※能楽見物 省略)
けふ『浪曼』来り「津村信夫の詩碑建立祭に来るや否や(否と答ふ。)」

6月9日(日)
礼拝休む。高円寺へゆき改造文庫の生田春月訳『ハイネ恋愛詩集(200)』見つける。
(※省略)

6月10日
雨少し降り家居。武田豊氏より「長浜に泊れ」と。
千葉の大沼功氏より「『コギト』大学に145冊あり、発行部数知らせ」と。
赤川草夫氏に電話すれば夫人出て「ガンにて豊島病院に入院、早期発見にて助かる。」と。

6月11日
入梅と。武田豊氏へ「長浜泊はゆるせ」と手紙。
大沼氏へ「『コギト』はっきりせざるもはじめ300あと1000部か」と。一日家居。

6月12日
10:00家を出て成城大学。(※省略) 16:50栄華飯店にゆく。新城博士まもなく来り「入試時間を一様にせんか」と。(※省略)
築島、高田、堀川の3博士と古野、大藤2大人とにて会食。20:00まへ終り3博士街頭でPandaの玩具孫にと買ふを見捨てて駅。(※省略)

6月13日
note作り午食して登校まへ佐伯に寄れば『本草綱目4冊(17,820)』来ありと。「学校払ひにしてくれ」とたのみ登校。(※省略)

6月14日
9:00まへ出て出勤。2時間めすまし午食のあと鎌田女史「会ひたし」とのことに待てば来り、
「堀博士、森岡清美氏(大正12年生、今年より教育大教授)を宗教史の大学院ならびに学部の講師に」と。
「将来は専任にしたく小沢氏と欠員2人ある筈」とのこと也!
4時間めすませて帰宅すれば鎌田女史にききし如く猿渡祥子「新村博士の長男に嫁ぎし」と挨拶あり。(※省略)

6月15日
晴。石川生9:30来り、(※省略) ユ、午食させて「東京駅に見合ひに」と出てゆく。(※省略)

6月16日(日)
出がけ速達入りをり見れば「火曜大学院会議16:00」と也。我のみ礼拝にゆく。(※省略)
父の日とて京、財布買ってくれ、史夫婦、枇杷もちて来り、夕食すませしとてすぐ帰る。

6月17日
9:00ごろさめ朝の郵便見しに「千川義雄6.5.am6:00逝去」と。かなしくて耐らず倭、西川に電話す。(6月6日葬儀すみしと)。(※省略)

6月18日
新宿三越を10:00すぎ覗きしも「10:30開店」と也。(※省略)
14:00成城大学。(※省略) 「常民文化に堀博士のいふ2人いかに」と。(※省略)
井階房一より「写真送れ。藤田貢死亡」と。千川のことは知らざるやうなりし。

6月19日
家居。京休み。夜鎌田女史より「あす堀博士出られず」と。

6月20日
(※省略) 午食して登校。(※省略) 横山生より台湾旅行の話きく。「台湾弗が7円見当」と也。(※省略)
鎌田、新城2氏と話し結局「月曜堀邸にまいり真意きかん」となる。(※省略)

6月21日
(※省略)藤田貢夫人より「5.28不慮の事故にて死亡」との通知来しゆゑ、西川に電話すれば不在。夫人に出てもらひ、きけば投身自殺となり!
望より電話「おばあちゃんあす来るや」と、ユ出て依子に「あす午后ゆく」と返事す。

6月22日
(※省略)17:00に十分まにあひ名古屋駅より電話すれば澄出て「夕食あり」と。(※省略)

6月23日(日)
(※省略)出て10:35のこだまにのり米原11:14着、11:34の普通にのりかへ彦根に11:40着き、尾末町の旧公舎にゆき前にて写真とり神社前に出来し公営の食堂にて午食とればトボ食はず。
われ「城山へゆけ」といひて出、(※省略)河村医院あり、入りて夫人にdr.はときけば「在宅」と。「菊買ってくれ」と1,000わたし、まつ間(※河村純一と)いろいろ話す。
浅野建夫(※河村純一)少佐しりをり。そこへ武田豊、中川いつじ2君来り、花つくをまち雨中を河村dr.の車にて正法寺町円満寺へゆく。
(※小林英俊の)お墓薮の中とて仏壇にゆき花供へ「坂田山心中」3番うたひ、詩人学校にゆけば見覚えあるは宇田良子さんらのみ。藤野君の紹介のあとこの間の詩の批評し天野忠のことなど出る。武田君一心に演説する中に15:30となり故、小林2世の車にて詩碑(西条八十の字)にゆき、駅につけば望泣きをり。
鈴木寅蔵、藤野一雄(若森君来り詩の話になれば中坐せし)、小林2世の改札口にゐるに手ふり16:24発。(※省略)望ひとねむりして譏嫌直りし故、名古屋駅で別れ19:55東京着。(※省略)
けふ河村dr.の歌「酒のめぬ田中克己がふるさとを恋ひて泣きたる昭南思ほゆ」我かかることにては泣かぬなり。

6月24日
(※省略)河村dr.への礼状かき、春夫先生の会に「出る」と返事かき(※省略)

6月25日
京、出がけ「来月15日にて西武やめる」といひし由、めでたし。(※省略)

6月26日
(※省略) ユと「あすの音楽会(依田)に有楽町にて18:30待合せ」ときむ。(※省略)
千川未亡人にお花代5,000を包む。

6月27日
ユに千川へと、入矢・小川両教授退職記念会への五千円づつをたのみて登校。(※省略)
帝国劇場、ユと招待席に坐る。sopranoよくとほりてうれし。(※省略)

6月28日
登校前、成城堂のしまりをるを見、(※省略) 成城堂にゆき、(※省略)。
夜、松本善海夫人より礼いはれ「名簿つひでに送りたまへ」といふ。(※省略)

6月29日
河村純一dr.よ「この間の坂田山心中の高唱宜しかりし」とのハガキ。珍し。(※省略)

6月30日(日)
雨、よべより降る。われのみ礼拝にゆく。「東急dept.20日より開店せし」と。四辺一変しをり。(※省略)

7月1日
梅雨止みしも寒し。(※省略) けふ小林英信君(※小林英俊の息)より小包と手紙。(※省略)
「詩人学校」来り、わが「堂々の輸送船」うたひしをのす。

7月2日
9:30地下鉄にて斎藤dr.。(※省略)
すみて雨中、千駄ヶ谷駅に出、代々木会館の簡木桂氏に会ひ、台湾嬢との結婚の手続きく。(※省略)

7月3日
(※省略) 千川寿美夫人より「お花代の受取り。初七日に同級生たち来し」と。皆われとは親しからざる連中也。(※省略)

7月4日
(※省略)赤坂葵町のHotel大倉へゆけば4千円の会費払ひてすぐ(※佐藤春夫の会)開会。
浅野、中谷氏(※浅野晃・中谷孝雄)見えしも遠く、われ森本女史、井上靖、柴田錬三郎、尾崎秀樹のtableに坐る。井上、尾崎2氏われをおぼえをり。
井伏鱒二の音頭にて乾杯、進行係は長谷川氏、庄野潤三、池田弥三郎代理白井浩二、文春鷲尾洋三、新潮社は女史、河出の某君浅草のbarに先生をつれゆきし話に失笑す。
石坂洋次郎「先生を知らず」と也。吉田精一博士の辞、最低なりし。
「(※甥の)竹田竜児氏北海道へ養父の見舞、方哉君は滞米」と。
中谷氏、夫人に代りて謝辞のべて了る。
われ雨中坂を下りて帰る。万事皆真剣ならず。

7月5日
雨。寒し。9:30登校。(※省略) すみて午食時、池田博士にきのふの佐藤先生の会のこといひ、(※省略)

7月6日
(※省略)13:00すぎ小田急出口にゆけば佐々木氏(※佐々木邦彦)来り、会社の車またせあり、乗りて相模原市へ1時間ほど乗る。(※省略)

7月7日(日)
(※省略) (※第10回参議院議員通常選挙岐阜選挙区で社会党より立候補した)岩崎昭弥君落選と決まる。百姓ども皆自民に入れし。相手は財閥の長老藤井丙午なり。(※省略)

7月8日
よべよく眠れし。佐伯へ払ひにゆくといへば「嬢の世話する」とユ、いひし故、その旨いへば、
「29才にて」と、35才の婿にて宜しと也。写真と吊書わたし「よければ(※見合させたし)」といひと帰宅。
(※省略) 石川生来り、教ふる中、佐伯夫人写真もち来る。ユすぐ寺田家へもちゆく。(※省略)
川久保嬢をもせかすこととし電話かければ、のろき返事にユ、「あす20:00Albumもて来る」といはす。(※省略)

7月9日
9:30出て佐伯に寄り「嬢の書類届けた」といひ、(※省略)
けふ今中19期生会より「1万円送れ」と。今年中の死者4人、石割良英もと。相見ざること46年か。
藤田は徳島よりのフェリーより飛込みしと也。

7月10日
(※省略)  今中19期生会に送る写真のことにて金沢(※金沢良雄)、倭(※倭周蔵)、西原(※西原直廉)、万代(※万代千代蔵)、西川(※西川英夫)に電話せしもみな不在。西川夫人とユと長々と話す。(※省略)

7月11日
8:00西川に電話し準卒の写真のこといへば「送れ」と。(※省略)
帰宅20:00。けふ百瀬さんより「川久保嬢につき骨折る」と。
倭より電話ありし故「会ひたし」といへば「お前友達思ひ」といはる。(※省略)

7月12日
よべ疲れしも7時間眠り、さめれば元気恢復。けふも雨天にて涼しく登校。(※省略)

7月13日
けふも涼し。神田喜一郎先生あて抜刷り(※「中国の諺」『成城大学文藝学部短期大学部論文集(創立20周年記念号)』)送りまいらせ、(※省略)

7月14日(日)
礼拝にゆく。すみて竹森先生に伺へば「台湾の2教会へ紹介状すでにかき玉ひし」と。「8月末か9月」と申上げ帰宅。(※省略)

7月15日
曇。時々雨。京けふ西武最後の出勤。(※省略)
百瀬氏より「一度川久保の嬢見たし」とのことに「21日午後在宅」とたしかむ。(※省略)
夜、川久保に電話すれば(※省略)「土曜、道教へる故、同来したまへ」といふ。(※省略)

7月16日
7:00さめ、8:30千駄ヶ谷着。(※斎藤医院)10:00近くなって代診先生より薬もらひ、成城大学へゆき(※省略)
京、退職して家にをり。

7月17日
(※省略)八尋不二氏の会「7月30日18:00」「出席」と返事かく。(※省略)
けふ美紀子より「史、国税庁に転」と。

7月18日
家居。ユ三越にゆき、われ来客もなきに退屈す。(※省略)

7月19日
4:00さめ一寸cardやり、(※省略) 佐伯主人、本もち来りくれし故、忘れし「来週の土曜13:00ここにて見合」とのことユいふ。
頼惟勤氏より「諺苑のもち主喜ばん(※抜刷の感想か)」と。(※省略)

7月20日
(※省略)風邪ひきゐし京、出来上り急ぎし籠もちて久我山の先生宅へゆきしあと、田口といふ男性より電話かかる。

7月21日(日)
礼拝にゆく。(※省略) 昼食せしあと倭周蔵に電話かけ途きけば「荻窪よりのbusに乗れ」と。(※省略) 地図見つつ行けば3家族入りをり。 (※省略) 帰りふと思ひつき家に電話し山際文雄君の町番きき迷ひつつ辿りゆけば一人留守番しをり。「来月Sur-realismの話にParisへゆき2月ほど滞在」と。(※省略)

7月22日
(※省略) 都留夫妻バラ束もちて来る。(※省略)「丸重俊、明星にて評判よし」と也。(※省略)
けふ神田先生より「「中国の諺」よみ興味つくるところを知らず」との評賜はる。

7月23日
長野敏一より「熊本商大・同短大の学長に就任」と。西川に電話すれば「電報打つ」と。(※省略)
河出書房新社より「詩大系に現代詩を加へ文庫とす」と。文庫の時代となりし也。

7月24日
歯疼く。12:30出て柏井へ歩きてゆけば「下2本抜く。そのあと1か月して型とる」と。落胆す。(※省略)

7月25日
(※省略)この間、東豊書店で遭ひし藤木俊郎氏より『漢方』と『万葉植物考』の抜刷賜はる。

7月26日
(※省略) 午后、意を決して柏井(※義弟の歯科)へゆき光一より(※下の)2本抜かれ、尚子と一寸話して帰宅。
(佐伯へ寄りしも嬢(※見合より)いまだ帰らず。) (※省略)けふ1万円を今中19期生会に送り写真送りす。

7月27日
ユ三鷹の田上dr.にゆくといふに「佐伯令嬢帰宅せしや否やたしかめよ」といひ、(※省略)
赤川草夫氏来て胃2/3切取り職やめしと。(※省略)
12:00すぎユ帰り来り京もまた(「あす恋人来る」と也)。(※省略)

7月28日(日)
きのふの見合の相手「けふ14:00きのふの喫茶店で」と返事ありし故、ユ佐伯典子嬢に伝へ、われも礼拝にゆくとて家を出、(※省略)教会にては603番唄はれ(※省略)
帰りて「14:00来る」といふ、京の選びし西武の稲田哲雄君まてば丁度来り背高き好青年にて(※省略)
『歌日記』1冊わたし京と出てゆき夕食前に京帰宅。夕方佐伯典子嬢「合はず」と写真吊書返し来る。

7月29日
(※省略)川久保夫人より電話「夜学の方が宜しなどいひしため(※見合相手)娘不承知」と
「川久保くるまで返事まち、そのあとつきあへ」と我家の例あげて説教せしも効あるや否や不明。
(※省略)

7月30日
(※省略) 八尋不二氏の出版記念会にゆけばみな上衣着用。挨拶すみしあと八尋氏に自己紹介すれば『京の酒』と『時代映画と五十年』にsignし賜はる。 井沢淳君呼び寄せ賜ひし故、高垣のこときけば「(※朝日新聞)退職したらし」也。

7月31日
(※省略) 川久保、午すぎ来り「今より百瀬さんへゆく。」(※省略) 百瀬さんより電話「川久保、娘の結婚にのり気でなし。説教しろ」と。
(※省略) 川久保電話かけ来り「気乗りせぬがこの日曜に会はす」と。(※省略)

8月1日
(※省略)川久保にゆき夫妻に(※娘の見合につき)説教して12:00帰り来る。(※省略)
丹波道久より「娘、立原道造の研究しをり」と。(※省略)

8月2日
暑し。(※省略) 京の友2人、籐の稽古に来をり。ユ神経痛とて前沢外科へゆき手当してもらひ、(※省略)

8月3日
午すぎ佐伯へ4,950払ひにゆく。息子里帰りしをり。(※省略) 夕方、伊勢親子来り、夕食おそくとってゆく。

8月4日(日)
夫婦そろひて礼拝にゆく。久しぶり也。(※省略) 葉雅美に電話して「新竹へゆくゆゑ宜しく」とたのむ。

8月5日
(※省略) 午后来る美紀子を待てば16:00ごろあらはれ史の名刺を見す「国税庁直税部所得税課課長補佐」となり。(※省略)
夜、堀川博士へ紀要のお伺ひ立て「松」のところ書き直す。

8月6日
5:00電話、善一郎より「弓子5:00男児出産」と。(※省略) 「竹」の箇所かき了る。次は「梅」なり。

8月7日
(※省略) 渡辺芳紀より中島栄次郎についての質問。

8月8日
(※省略)14:00依子「泰と望」つれて来り、はじめ静かなりしも石川生のsemiすむころより騒ぎ出し、 林眞理子生来ればユと京と依子とにて4人の騒ぎ抑へ難くなる。
林生に鱒ずし食はし「すなほになれ」といへば泣く。(※省略)
主の愛をわれは信ずる幼な児もかく罪ありとわれにさとせり。
十字架をたのみにせよといひてのちすなほとなりしマリ子わがゼミ。(※省略)
中央公論社より『日本の詩歌』4版の印税30,240入金通知。(※省略)

8月9日
曇、涼し。依子「弓子の産褥見舞にゆく」と。(※台湾旅行を前に)ふと思ひつき西川満氏に電話すれば「来てよし」と。
12:00になりしに帰らんとすれば素麺出され、わが食はざるに呆れて薬食多くたまひ、楊雲萍氏に詩集2冊託さる。
われの星をふたご座のカストル、ユをポラックスと占はる。(※省略)
小林母上危篤つづきをるらしく「弓子、退院後わが家へ里帰りす」と。(※省略)

8月10日
朝、眠気さめざるうち鎌田女史より電話「堀一郎博士急逝(0:00)」と。(※省略)
「梅」少しかき茫然と孫たちの相手してのち12:30成城大学へゆけば野口君をり「ビザとれず未だにをりし」と。
14:00まへ出て堀川博士の母堂告別式にゆけば無宗教の献花のみにてすむ。(※省略)
そのあと新城博士と堀邸さがせしも見つからず、(※省略) 納棺すみをり線香立ちをり一礼して夫人と母堂にくやみのべれば「心臓弱くて急逝」と也。
(※省略) 疾風のごとく死の手のさらひゆくこの日々をひと思はずあらし。

8月11日(日)
礼拝にゆく。(※省略)

8月12日
暑し。「弓子けふ退院」と。(※省略) 堀家へゆけば新城博士すでにあり香奠取りをり。(※省略)  森岡清美氏に鎌田女史より紹介受け国学院大の平井直房教授に紹介受けなどしてのち受付に立ち監督す。(※省略)
別れて東豊書店。留守番の夫人と話しをれば小高根太郎と同僚といふ都立大山高校の浜久雄教諭より「でしょう」と。「です」といひ「宜しく」といふ。 簡木桂君、婁子匡氏に紹介の名刺呉る。(※省略)
毎日新聞社より「『堀辰雄と四季の人々』を9月にやる(西武dept.)。協力を」と。(※省略)
思ひし如く神田信夫君、「松村、岡田2君と4日より在台」と。ユ赤飯もちて帰り来り「7夜の祝もして来た」と。

8月13日


8月14日
(※省略) 新宿まで歩き、駅の京王観光出張所にて書類もらひ帰りて、(※省略)
4孫やかましく騒ぎしも「cardにさはらぬ」やう叱る。(※省略)

8月15日
(※省略) 伊勢丹5階にて渡航用の写真とる。(※省略)京王旅行案内所にゆき阿部健部長に会ひ、
「運賃77,800と印紙代3,000、visa料1,000、注射料1,000、手数料5,000とを用意せよ、園田千尋君が有楽町まで同行せん。
Cathay航空明きゐるは9月2日10:30の便にて、台北13:30、持参弗は1,500弗、三井銀行支店にてvisa見せれば両替し呉る。 云々。保険金1千万円につき4,366円」と也。(※省略)
依子、宏一郎つれて帰れば望噛みしと歯型見せしゆゑこっぴどく叩く。珍しきこと也。

8月16日
(※省略) 「うつぎ」に『神軍2版』のこりゐしゆゑ600に負けさしてもち帰る。

8月17日
(※省略) 夕方、善一郎来り「3男、孝行と名づけし」と。(※省略)
論説資料保存会よりわが「17世紀の台湾の神仏」掲載如何にと。「諾」の返事す。

8月18日(日)
母来る。われのみ礼拝にゆく。

8月19日
(※省略) busにて伊勢丹、10:30開店即時に入り写真とり京王観光にゆけば(※省略)、注射は天然痘のみ「今日明日飲酒入浴」を禁ぜらる。
(※省略) 丸重俊来り36枚どりのcolor-film代として3,000托す。(※省略) 20:50小林嫗絶命と。

8月20日
京、小林へ手伝にゆく。(※省略) だるきも18:30三鷹小林家。(※省略)

8月21日
だるきは種痘のためと判明。(※省略) 夜、丸重俊film買ひ来り、cameraの入れ方教へてくる。

8月22日
終日無為。母来りし故、上田稔翁の死告げ、(※省略) 60枚の『后妃伝』かく気にもならず。(※省略)

8月23日
暑し。(※省略) 京出てゆき22:00丹下氏に送られて帰宅。克、宏なつくにつけ望、泰あはれ也。

8月24日
10:00出て11:00有楽町の東京都庁出張所へゆき手続。中国側のみとなる。清算して2万円返却を受け、11:05なる故、西川の会社にゆけば、ゐて、ひまらし。
そのあと東豊書店に寄れば恰も方豪教授来訪と。やがて下の喫茶店で会ひ東京大飯店にて昼食。おごられしも何も食はず。
教授1910年浙江省生れと。「台北にて再見」といひて別れ帰宅。何もせず。

8月25日(日)
礼拝にゆく。帰り竹森先生に台湾旅行申上げれば「紹介状かき直す」と。(※省略)

8月26日
台風接近と。(※省略)
夜、川久保嬢に電話すれば「4回あった。結論まだ出ず」と。(※省略)

8月27日
(※省略)けふ渡部芳紀君より「中島栄次郎明治43.8.18生、大阪市天王寺区北河堀町96が本籍」と。(※省略)

8月28日
(※省略) (旧姓葉)柴崎雅美に電話し「新竹への紹介状父上にたのむ」といふ。『成城文芸65号』5冊つきたり。
夜、新竹、台北の寺庙写しゐしに高橋重臣君「金曜夜来てよきや」と。「よし」と答ふれば、ユ「困る」と也。

8月29日
8:30出て斎藤dr.。(※茂太)先生御自身の検診とて満員。11:00近くに番となり台湾旅行申上げ3週間分いただく。
慶応案内所へゆけば園田君ゐず旅券その他一切貰ひ、(※省略)
葉火炷邸訪へば「雅美perma」と母上。やがて帰りしより父上の新竹市北門街84大同医院、李敦仁先生と元市長鄭雅軒先生への紹介状もらふ。
既に話しある様子なり。(※省略)

8月30日
9:00すぎ克つれてユと三井銀行にゆき40万円卸し(※省略)306円が1弗と。39万円わたし travellers checkと現金とにして帰宅。(※省略)
三井重工爆破の騒ぎみてゐるうち21:00高橋重臣君来宅。(※省略)
高橋君「あす16:00小田急出口にて小高根君に見てもらふ鉄斎(※真蹟)あり」とて、われもそこに立ち会ふこととす。23:00まで話して高橋君眠る。(※省略)

8月31日
(※省略) 高橋君起き来り「国会図書館へ出てゆく」と。ともに出て、(※省略) 小高根太郎16:05来り、高橋君5分して来る。地上二階といひし故うろうろせしと也。
小田急9階食堂にて高橋君beer大ジョッキ、小高根太郎小ジョッキ、われコカコーラ高橋君のおごりにて飲み、別れを告ぐ。(※省略)

9月1日(日)
雨の中、礼拝にゆく。(※省略) 戸田健介氏を訪ひ(※省略) 関口、丸、本位田に電話す。(※省略)
堀川部長に万一の場合の手紙かき「川久保を後任」と推す。野崎勝己氏に礼いへば「旅館Orientを推薦するつもりなりし」と。
 みこころをためすにあらずわがよはひ朽ちざるまへとわれはゆくなり
 台風の上をはるかにとぶわが機40年のまへの船旅 (本位田、神戸港に見送りしをおぼえゐし)





58 昭和49年 9月 2日〜昭和49年 9月 9日 (副題 台湾紀行) PDF(8Mb)

9月2日
3:00起床8:30ユと別る。10:30出発。
手荷物checkにしないで2個もちこもうとし、おかげにて13:30着後最後となる。
東龍大飯店の迎へ来てをり、喜びて入館。
楊雲萍さんに電話しようとして苦心惨澹ふと思ひつき東方大飯店にゆかんとし雨中boyにtaxiひろってもらふ。
8円とのことなりしも400元と。100元叩きつけ帰国せんと決心したが、
眼鏡店廖文雄氏「向ひですよ」「どこにでも悪い奴はゐる。カンベンしなさい」
東方大飯店太太より主人にたのむべきとのこと。
名刺に野崎勝己氏の紹介とかき、土産物差出せば、フロント呉守禮氏に電話かけ、子息出て「滞米中なれど楊雲萍君の番号350081」とわかり、
かければ奥様出、楊さん出、coffee2杯飲むまにいらいらし、また電話してもらひ、
遇へば譏嫌直り、贈物と西川満氏の話などにて20:00。
東方大飯店に帰れば「主人夫妻、他の客と宴会。他日」と。
楊夫妻と夕食。少食信じてもらへず。21:00退出。眠剤のみしも眠れず。
22:00電話すれば「あす龍山寺へ」と。「あとは本屋へ」とたのみてすむ。
冷房寒く眠れないかと心配す。

9月3日
さめればam3:00。舌打ちしつつ先ず野崎そのへ「弟のおかげ」と(※ハガキ)かき、ユにも一筆。
髭そればまた出血、切れる。歯、旧のと交換。
10:00廖眼鏡公司開門を待ち小輩に云へば「主人没来」と「寸心」と作文す。
(待つ間、隣人に聞けば「雙」は吉、「奇」は不吉と。)
楊さん来る前に筋向ひの銀行にゆけば支店長会ふ必要なきやうなこととなる。
帰れば楊さん来り、支配人のケ栄鐘さんと話しくれる。
楊さん、北園(克衛)、松枝(茂夫)、西川満君に合書するところをNo.1No.2とフラッシュ焚いてとる。
No.3.4.吃麺「小吃店」Y.中華書局Y.&T.No.7-8。(※不詳)
楊先生より300元借用!No.9-10「中山堂」。14:30Y.先生より借用の300元と新竹行の為30弗を1,137NTD(※台湾ドル)とし、Y.先生に300元返却。 「広禄死にし」とY.
Y先生「20:30再来」と。時に15:00也。(但しわがつぎし茶のみ16:00近くなる!)
Y.先生曰く「外出禁止」。「安平門」は非常口とY.に教わる。
ケ先生に失礼を云はんとすれば外出と。16:00。筆談にて太太より筆6本買ふ(180NTD.)。西瓜(8元)。 帰りてケ支配人の「不在、不知道他的所在」との受付の話にて弥々心配し、玄関、横の喫茶室(わが求めし茉莉茶なし。 靴ベラとこれとを百貨店にて見つけん)二階の餐館などにて待ちに待ち21:00やっと楊先生来しに「ケ先生の面子傷つけた。もはやここへは帰れず」といへば「知らぬ顔してここに留まる方が良し」と。少しも気持変らず「君は我よりまだ小心」と嗤はれ、部屋へ帰り、先生の持ち来しbanana3本のうち1本食ひて待てば21:30近く廖さん来り、階下に下りて彼呼びしtaxiにて梅子餐館といふにつれゆかる。「松竹梅」書きし後ゆゑふしぎ。
湯とり麺吃ひ海老くはず。「柔いよ」といはれしも蝦子=假子と食はず。
23:30になり両先生促して出、果物一個(7NTD)外にて買ひ、taxiに乗り廖先生に室へつれゆかんとすれば受付の男「これ忘れてあった。 幸ひ。返したよ」と、札束その他の入りしNETテレビの札入れ返却を受く。
中の名刺にて大倉商事の許興雄(日本語旨く日本人と思ひし)君の卓にて共食勧められ断りて接待生の来りしを機に起ちし時、落とせしか。(※省略)
2先生のおかげで客待ちの接待生(日本人が相手か)巣なることはじめて判明。老年の徴候著し。
同乗のelevatorにて話しかけし人に「失礼お名前は」といへば「昨日話し合ったでせう」と也。
ともあれ廖さんboyにいひ室内暖くなり、あす10:00「楊さん太太の来るを待つ」となる。
楊さんに返却せんといひし岸辺君の訳もよき土産となるやもしれず。
bath暖くし毛布一枚多くかけて眠る。

9月4日
目が覚めれば6:00にて8:00起床の鈴時計また不用となる。廖さんに太太へと渡せしは京小物たくみの風呂敷なりし。楊先生には買物袋にて不要となりし和紙の西川君より預りの手さげ袋を強請してもちゆかす。
汝「小心翼翼」を知れりやと楊さんにききをきし。嗚呼われPaoloの雄気なく、イスカリオテのユダではなきも娼なりしMariaに最も良く似たり!
(よべ梅さんのこといへば「よくある話」と一笑に付せられし。)
8:30楊さんに電話すれば「300元しか残ってゐない筈。礼いらない。」と。
10:00に人とあひ明きをれば粥注文し、歯を外して吃ひ、バナナ1本食ひしも蕃石榴(※バンジロウ:グァバ)(昨日廖さん買ひ呉る)、香のみ残りしも皮の硬きを知る。
永遠に没食汲飲有唱の国に招かれん。
12:45蔡先生に紹介受く。(※省略)
14:30龍山寺着。20枚とり了へまきとりに皆ダメとなる。但しヱハガキ(40元)によくとれをり。「買へばよし」とわかる。
15:00観音、向かって右普賢、左文殊。(※省略) taxi
呉濁流先生訪ねしに不在。令息夫人に名刺わたす。そのあと頼みて懐かしの龍園大飯店に寄りしも知る人もなく「林素梅は心配いらず。令嬢も忘れしならん」と。
鬱々として帰れば11日Cathayの航空券とれしと。
また両替してあすの12:00発の急行にて新竹にゆくこと決り、蔡先生、元市長の鄭先生に電話すれば令息出て待つと(18:25)。
蔡先生より本日下午の費用精算書2通賜り恐縮。きびしき人なり。われよりも若き為のみならじ。傘、靴ベラ共に買へてうれし。

9月5日
目覚めしは3:00!昨日約束せし楊夫人に7:00電話し徒歩にて今より訪問といへば一時間かかる故車にて迎へにゆくと。我歩くと主張、双方妥協せしは総督府前。
憲兵にきけばここにて喫煙不可と。女子中高前にて坐りゐれば通りかかりの人、あちらの四つ辻にLady下車せしと。ゆけば楊夫人をり。東方大飯店へ往復したまひしと。
楊家にゆき午食たまひ明日より新竹へゆかんといへば通訳探すと也。

9月6日
曇。6:00目覚む。昨夜喧しかりしは冷房装置と判明。
ふらふらと駅にゆき「中国時報」買へば昨日の包公像の写真のりをり。
「火車時間表」「幸福家庭」「女性週間」買ひ7:45発台北行見送る。
李大夫の仰せ通り一寸フラフラ。(蔡先生の五指山撮影、曇にて不可)。
「女性95」買ひコカコーラ飲みしあと、フラフラと交通安全広告牌、
「新竹県上週発生車禍統計」「発生10件受傷8人死亡3人」写し了れば8:00の時報鳴る。
わが見しは林森路と判明、中正路前公園にて「新竹県上月…発生18件受傷24人死亡8人」と再写、躁なり。李大夫の云はれし通り。 李大夫に参り血圧98。御注射受く。
(※省略)
夜間騒がしく、日人、台湾人の客つれ来る。接待と。
あとにて話つけるとのことに駅の憲兵詰所まで跣足でかけつけるも無人。
黒板に「助けて!」とかき来りし可悪通訳に「あの星」を見よと、さししも航空探知灯なりし。
宿に帰ればもはや暴漢見えず。また飲みに出しらし。

9月7日
6:00起床、by bus with Mrs.Yang,(she came at 9:00 oclock) very much interesting. then before came his Highness and uncle Yang葉. 葉的令息来、2人相抱きて撮影すみ、駅へとのことに新竹書店にゆけば落とせし金、本の下から出て来しと。 280元買ひ、駅にゆけば既に昨日の憲兵への訴文は抹消しあり。
葉さんと別れ、迎へに来たまひし楊雲萍夫人と台北行のbusに乗り、3時間程して東方大飯店に帰着。あす教会の礼拝を約す。

9月8日(日)

老兵残身是天佑
休憩一時榕樹下
大人令陪賜温顔
却怨ヘ我哀容痩

老兵、身の残るは是れ天佑にして
休憩す、一時、榕樹の下
大人、(※われを)陪せしめて温顔を賜ふも
却って我をして容(かたち)痩せることを哀しますを怨む。

9月9日
楊雲萍夫人来り、華服の寸法とりたまふ。

(※以下 ノート記載なし。)

【貼付】※婁子匡書翰(台北市中國民俗學會書籤使用)
田中克己教授著席:久仰
光斗,恨未識
荊。月前東京東豊書店簡木桂先生来函稱
文旆莅台。嗣得楊雲萍教授電告
尊寓東方飯店,當須趨前拜謁,適以
駕往新竹,未遇爲悵。兹定本月十五日中午敝
会餮饕餐飲研究中心挙行中秋傳統飲食發
表会,拟請
閣下届時撥冗参加,請予
指教是幸。附贈最新出版「礼俗半月刊」
一冊,敬禮哂納是幸。專肅並頌
旅安  婁子匡 拝上  (※1974)九.九

田中克己教授著席:
久しく光斗(※星のやうな貴殿)を仰ぐも未だ識荊(※お近づき)せざるを恨む。
月前、東京東豊書店の簡木桂先生、函(※書簡)を来して文旆(※有名文人)の莅台(※台湾来訪)を稱す。
嗣いで楊雲萍教授の電告を得る。東方飯店に尊寓と。
當に須らく趨前(※おもむいて)拜謁すべきも、適(たまた)ま新竹(※県名)に駕往するを以て未だ遇はず、悵みと爲す。
兹に本月十五日の中午を定め敝会餮饕餐飲研究中心、中秋の傳統飲食發表会を挙行、
閣下を擬請(※招待)せん。届時撥冗(御多忙中)参加され、予、指教を請ふれば、是れ幸ひなり。
附するに最新出版「礼俗半月刊」一冊を贈らん。敬禮、哂納いただければ是れ幸ひなり。
專粛(※ご自愛)並びに旅安(※ご無事)を頌します。
  婁子匡 拝上  (※1974)九.九




(※以下●は悠紀子夫人の覚書に基づいて当人が後より
『帰国日記』 1975年6月20日の後に書き添へた記述。)

9月10日
●羽田着。帰宅。山住邸へ筆と墨とどける。

9月11日
●佐伯休。葉山家へ電話し写真もちゆく。阿佐谷までhyre、父上運転。母上とともに送らる。

9月12日
●佐伯、西川満(但し留守)。斎藤先生よりお叱り受く。柏井歯科休み也。





【帰国日記】
昭和49年 9月13日〜昭和50年 6月20日 (副題 帰国日記)

9月13日
よべ先生の薬のみ10:45床に入りしばらくして眠る。起床8:45。
9:01ユ、糖の検査もちて山住医科へとんでゆく。柏井より電話9:20 (※省略)
●閉門。

9月14日
髭そり風呂に入り(※省略) 8:30ユ、(※斎藤精神科の)婦長さんに電話すれば「12:00前に来よ」と。
10:04に乗って紀伊國屋にcard買ひにゆけば書名用cardしかなく、京王観光に阿部部長に礼云はんとすれば引き留められ、(※省略)  わが話「面白く、も少しゐよ」といひしに、ユとの「11:00病院で」との約束思出しtaxi(220)。病院につき婦長さんに「ユあとで来る」といひ、交叉点で待てば来る。
順番あとらしきゆゑ喫茶にゆきcafe noirのみ、店名にちなみMerci!といへば変な顔す。
隣の嫗13年かかって治らず、若様の番なら2〜3人待てばとかこつ(※喞つ)故、ユと代り『諸君』の昭南のことよめば意外のことばかり。 盛に節(横線)つけ山住克己閣下(昨日偶然花屋の前でお遇ひし (※以下尻切れ記述なし。)
●斎藤dr.。夫婦とも叱られ「贈物(老酒)一時預かる」と也。佐伯より2冊本とりてはうはう帰宅。

9月15日(日)
●礼拝休。10時間眠り10:00さむ。大を呼ぶ。新本4,500、佐伯より5,000借11,900
『諸君』を山住閣下にもちゆく。
戸田氏を訪ひしに酔ひをり「浅野晃と絶交」といへどきかぬふりする。(※戸田謙介(1903-1984)『民間伝承:六人社』編集)

9月16日
●山住閣下へゆく。熊本生のsemi断り、佐伯へ雑本1,600売る。河村先生へ1万円托す。

9月17日
●朝日の井沢淳に電話す。山住閣下に伺はんといへば「他用」と断らる。
佐伯にて2,250買ひ学部へ3万買ふ。

9月18日
●ユ、山住dr.へ。われ山住正己氏に台湾小学唱歌につき質問す。
石川生semiに来る。13:30新城先生来らる。帰られしあと東豊書店にゆき、竹内の中国文学の会にゆきしも不在。また東豊書店に帰る。(※省略)

9月19日
●10:00起床。(※省略) 11:30熊本去りしあと加藤来り。(※省略)
竹内好に「日曜に来よ」と電話す。

9月20日
●10時間眠り10:00さむ。10:30熊本生来り、12:00昼食。田中ユカリ12:30来り、(※省略)
駅にゐる竹内つれ帰りwhiskyのませ諌めて22:00帰す。
「あす14:00(井上)和子5か月の腹抱へて夫婦来訪」と。

9月21日
●8:00起床。9:00斎藤dr.に横から入り御診察受け5日間の閉門を命ぜらる。
京王touristに寄り、井上和子夫妻の来りしと話す。18:00公園にてドイツ人父子に会ふ。

9月22日(日)
●8:15起床。礼拝。ユ気分悪く駅より帰宅。聖書朗読にて哭く。
先生に(※台湾の)士林教会の書類お渡しし「讃美歌600-603」を士林へ送る為もらふ。(※省略)
けふ49日と赤ん坊入れて写真とる。(※省略)
20:30ユ、楊夫人に電話すれぱ「楊雲萍あれから礼拝にゆかず」と也。(※省略)

9月23日
●8:00起き9:00出てユと駅で待合せ。
10:00竜胆の花もつユと会ひ『やせる法(590)』買ひ、
11:00八王子へゆく途、米人と話せば「お前の英語なってないぞ」といふ男あり。
地団太踏んで怒り、ユ怒らせ帰らせしあと、交番にて1,000借り、写真とり、
11:06のバスに乗り上川霊園着(240)。
1区教会墓地に車のりすてあり、苦心惨澹、田中家の墓見つけ、
アザミと唐辛子と供へ、交番で礼いひ16:30佐伯へ寄る。カメラ屋「29日出来る」と。
戸田家へゆき「浅野晃のこといはずにくれ」とたのむ。
ユ追出せば数男つれ来り、21:30数男帰りゆく。
「野田武徳君24日帰京」とBorneo Sarawakの美人のヱハガキよこし「24日帰京」と也。

9月24日
●7:00起き9:00出発、登校。車中空きゐるに、抱きあひゐる若き男女たしなめしに日大生あと追ひ来り「皆憤慨してゐる」と也。
校門にて「入れ」といへば逃げ去る。
教務に「明日よりの欠勤」届け、講師室の畑女史の写真とる。
滝川先生より礼状来をり。(※省略)
熊本らと新宿で別れ、荻田生のsemi14:00-16:30(※省略)。
荻田生を送り佐伯に寄る。琳琅閣に電話し「あす午后来い」65万円をユ用意すと也。
神田信夫氏「京にをり、母やや宜し。(※喜一郎)先生はお元気」と。

9月25日(※この日、悠紀子夫人の代筆。)
●8:00起床。銀行で65万円(三井)出す。朝、小高根太郎に電話。
石川10時。南口古本屋から2,800円買ひ、家に連れ帰りくれば大もゐる。
本を見せて3,5000といふので止め、大帰り、石川サンドイッチを午飯として出す。
そこへ本屋(琳琅閣)来り、65万円を渡す。
『大越史記全書』1万円、『明清史料・戊編巳編辛編』3千円、『安南史研究1』5万円、『辞海』『佩文韻府』2万円、『和漢朗詠集』『あさぢが露』7千円を合計9万円にて売る。
外丸、家によれば留守。丸家にて4千円借り、家に帰り小高根太郎に酒をのまし8:30頃帰る。
途中にてコーヒー飲む。K女史より電話にて秋の会は心配なしと。
丸重俊来り、叱りて途中まで送る。
(太郎の話)堀一郎先生の式の時、池田博士が成城精神をのべたのであきれたと。
松村緑先生より電話「父(※西島喜代助)の日記みな送る」と。
本日楳垣先生より『Taboo Words in English』いただく。

9月26日

9月27日(※この日、悠紀子夫人の代筆。)
●8:15起床。われフラフラして目も明かずこまる。
9時10分前、山住先生の所へ行き、のどの手当をしていただく。
大が来る。文芸学部長堀川博士より電話、3時頃来宅。
「是非入院して早く丈夫になって」と約束する。
大と本屋にゆき千円買ひコーヒー店に入る。
学生も卒業生も一人も来ず。夜、外丸に電話かけ「遊びに来い」といふ。

9月28日
●斎藤病院に入院。

9月29日(日)  ※以下記述なし。
9月30日
10月1日
10月2日
10月3日
10月4日
10月5日
10月6日(日)
10月7日
10月8日
10月9日
10月10日
10月11日
10月12日
10月13日(日)
10月14日
10月15日
10月16日
10月17日
10月18日
10月19日
10月20日(日)
10月21日
10月22日
10月23日
10月24日
10月25日
10月26日 (※この日斎藤精神科から退院か。)
10月27日(日)
10月28日
10月29日
10月30日
10月31日
11月1日
11月2日
11月3日(日)
11月4日
11月5日
11月6日
11月7日
11月8日
11月9日
11月10日(日)
11月11日
11月12日
11月13日
11月14日
11月15日
11月16日
11月17日(日)
11月18日
11月19日

11月20日(水)
斎藤先生、田中看護婦、ゼミ(田中、荻田、熊本)、江頭彦造、林まり子にハガキかく。澄より電話(けさ大に電話してことわりし)(※不詳)

11月21日
昨晩より薬が変ったためか欝となる。ユと散歩。和田より2回電話。救世軍にユ50円やりしを感心す。

11月22日
ウツやや軽し。田中生来り卒論原稿おきゆく。(※省略) 大江満雄?より「会ひたし。浅野晃氏にもやっと会へし」と也。

11月23日(休日)
弓子2孫をつれ来る。(※省略) 自己判断ではウツ最低。ユ「さうでなし」と断言す。
願はくは狂ひしままにわれ死なん心に主イエスの救け信じて。
Amen!といひて終らんわがねがひかなふやいなやわれは知らずも。
(※省略)
「教壇に死なん」といべば「迷惑」と妻のことばにしたがひにけり。

11月24日(日)
9:00覚め、礼拝にゆけざるなりしユと11:00散歩。
14:00ごろ白鳥君より電話「semiの学生みな軌道にのってゐる。心配するな」と。
わけわからずといふユに同感。
静かなる聖日とこそ思ひしにふしぎといひて眉をひそむる。
わが瘉えん日に喜びはありとこそ思へど神にまかせまつりぬ。
大江満雄?にヱハガキかく。(※省略)

11月25日
睡眠感なきも8:00さめ、ゆるゆると9:00朝食。(※省略)
大江満雄に返事「会はぬがよし」と出す。
日ごと日ごと最低と思ふ わが神に祈るは眠り賜へとのみぞ。
近江詩人会が『天野忠詩集』くれしと也(大野出、報)。(※省略)

11月26日
睡眠感なし。(※省略) いつもの如く散歩。阿佐谷の変りゆくに夫婦とも感心す。
飯はまむ心なくして紅葉見て驚く妻にわれもうなづく。(※省略)
「今日が(※退院?)1月め」とユいふ。

11月27日
斎藤先生へ夫婦でゆく。先生にこにこしたまひ薬かへず1週間分。(※省略)
ストゆゑ往復とも地下鉄。(※省略) 三省堂破産と。

11月28日
京帰り来てあと眠り10:30ユと出て三鷹田上dr.。鍼に代りおどろく。
向ひの古本屋焼けしと。恐縮しながらお茶のまされ菓子いただきて弓子。
少しやつれをり。宏弱虫、克わるく、それぞれ可愛し。(※省略)
『旧版白楽天』京に発病前とりしと。旧版の箱のみのこりをり!
ユ買物に出、永きにあきれる。いつものごとく時計とにらめっこす。

11月29日
よべ「主の祈り」いへなくなり吃驚。京帰りしあと眠り、さめ、10:30より1時間ほどいつもの散歩をし、日々是新の感をいだく。頼永承氏より Christmas-card「中村忠行氏と会ひし。Mass. (※マサシューセッツ州)Arlingtonにあり」と也。(※省略)

11月30日
(※省略) 堀川邸に電話すれば「部長外出」。(※成城大学に電話し)部長に出てもらひ(学部長室)いへば、
「12月末まで(※休職)承知、既に印押した。新年(新学年?)よりは元気で」と也。(※省略)
ユ冷淡な様して郵便局と税務事務所へと出てゆく。京をり苦笑するのみ。(※省略)
「人の悪を思ふな」とユ。18:00発作、ユ電話かけ、われ驚く。

12月1日(日)  ※以下記述なし。
12月2日
12月3日
12月4日
12月5日
12月6日
12月7日
12月8日(日)
12月9日
12月10日
12月11日
12月12日
12月13日
12月14日
12月15日(日)
12月16日
12月17日
12月18日
12月19日
12月20日

12月21日
ゆき子 さよなら ありがたう アーメン
骨もなく身もなくなりしXmasわが生涯の最好の時
 主わが声を奪ひ給ふ Xmas前日1974.12.21

12月22日(日)
礼拝にゆく。声出ず。
わが歌ふ讃美の聲は大空に昇りて消ゆる風の如しも。
昼食駅ビル麺屋ひとり、新城博士訪問中止。佐伯へ990円払ふ。

12月23日
8:30河北病院にゆき喉頭炎の治療受く。新城博士、意外にも飯塚副手と同行してこられ卒論6冊、日本史1人を増加す。
(※省略) お土産もらひて恐縮。原田淑人先生89才にて逝去。28日青山斎場でと。(※省略)

12月24日

12月25日
斎藤先生にゆく。薬そのままとして「31日にも一度来よ」と。(※省略)
河北病院へゆく。「28日まであり」と。老飯島dr.忙しく1時間またさる。

12月26日
河北病院へ9:00ゆき12:00まで待たされる。帰りて午食。ユに診察票とってもらひ、年賀ハガキに「謹賀新年」を駅前郵便局にて押してもらふ。

12月27日 ※以下1975年1月18日まで記述なし。
12月28日
12月29日(日)
12月30日
12月31日


付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開(台湾紀行ノートのみ公開)です。


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