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たなかかつみ【田中克己】『詩集西康省』1938


詩集西康省

『詩集西康省』

田中克己 第一詩集

昭和13年10月1日  コギト發行所刊

95p 23.3cm 和綴 \1.50 250部

著者本 専用帙

著者本と専用帙(中河與一題簽 小高根太郎画)


詩集西康省    著者題簽本表紙

 この道を泣きつつ我の行きしこと

 我がわすれなばたれか知るらむ

公孫樹に寄す   (昭和13年5月 コギト72号)

我が家に一本(ひともと)ありて
五月 菁々(せいせい)としてその葉茂りたり
嘗て我が帝国大学生なりし時
その若葉 老いたる教授が金縁眼鏡に映り
我れ退屈しつつ我が青春を誇りしに
いま朝の微風梢より通ひ
燕(つばくら)どもは高らかに歌へども
我れ朝食(あさげ)の膳の乏しきを啣(ふく)み
妻子と黙(もだ)し坐して食(くら)ふとき
蒼く寂しき木蔭とはなれり

手紙   (昭和13年4月 コギト 71号)

けふ僕ははじめて黒龍江を見た
河の水は黒くて早く流れてゐたが

堤では揚樹(やなぎ)がもう芽を吹いてゐた
枯蘆だけが生えてゐる河中の三角洲で
(僕が望遠鏡で眺めたとき)
金髪(ブロンド)の哨兵が立て銃(つつ)や捧げ銃や
立ち射ちの構へをして遊んでゐた
遠くC市の空に一点黒いは
偵察機か戦闘機か 急降下したり
急に上昇したりしてゐるのが見える
お祭りの前日のやうに華やかな期待はありながら
何か悲しくて 退屈で――君たちのことも思ひ出す

仏蘭西にゐる友に   (昭和12年11月 コギト 66号)

君の送つてくれたアルプスの絵葉書では
山々も湖もこの上なく美しかつたが
僕は君たちがひどい目で見られないかと心配してゐる
君と見た友田恭助※は一週間前に討死し            ※築地小劇場新劇俳優
僕らの先輩で眼の凄かつたSも
装甲列車上で前額部を打抜かれた
ああ ああ ああ ああ
邯鄲 娘子関 禹城 殺虎口
毎日毎日が色彩多く お察し通り多忙に明け暮れしてゐる
雲崗の石仏もわが日の丸で保護されてゐるし
小学生たちも作文をしてゐる
 ――強い正しい日本の兵隊さん
そして訣れ際には生れたばかりだつた
僕の峻(たかし)も這ひ廻るやうになつて――
あつ インク瓶をひつくり覆した

秋の湖   (昭和12年12月 四季 32号)

僕たちは秋の半日を一緒に暮した
下り列車の三等席のきまりとて
膝つきあはせて親密に語つた
「北支は今はもう寒いことでせうね
私は筑波の北の麓の生れ
家には五人の子供があります
村人たちは旗立てて送つてくれました
東京には十日間とまつてゐました
あの畑に白いは蕎麦の花でせうか
なんと唐辛子が沢山植わつてますね
ここらは私のくによりずつと豊かなことですね」
汽車は轟々と鉄路を走り
ひるすぎて一条の鉄橋を渡る
秋の遠江(とおとうみ)の浜名の湖
日は昃り 船は帰る引佐(いなさ)の細江
山々はしづかに湖に影映し――
兵士はじつと眼をすゑて眺め
楽しげに云ひ出して僕を涙ぐます
「いくさのおかげで珍らしいところを見ました」

虎  1 2   (昭和12年9月 コギト 64号)

乾隆(けんりゅう)廿二年 帝 木蘭(ムーラン)に御狩したまひき
木蘭は満洲語哨鹿の意にして、此地鹿多きに由るなるべし。地は熱河の東北三百余里、
  榛、松樹多く、その果を啖ふため、此地の野雉、肉尤も美といふ。
一日 御狩を罷めて宴(うたげ)を賜ひ
蒙古王公居陳(なら)びてありし時
帝 科爾沁(コルチン)の土謝図(トシェット)親王と
達爾漢(タルハン)親王とが私語するを臠(みそな)はし
故を問ひ給ふに畏みて奏(もう)す
「奴等(われら)が営に白昼虎来りて
馬を搏ち殺すと申し来りしが故なり」と
茲に立(たちどこ)ろに宴をやめ
侍衛を率(い)てかれらが営に行き給ひしが
間(しばら)くにして虎の窩(あな)を探り得
窺へば小虎二隻のみゐたり
侍衛多爾齊(ドルチ)に入らしめ給ふに
小虎ながらも吼え且つ身構へぬ
時に多爾齊恐れて窩を奔り出でしかば
帝憤つてその冠の翎(はね)褫ひ給ふ
かくて皆々佇立してありしに
突として小蒙古巴図(バト) 窩に入り
左腋に一虎 右腋に一虎を挟みて出で来る
帝 大に御感あつてかの翎を与へましき
是時 父虎は遁れて已に遠く
乳虎のみ児を恋うて近く咆吼す
人々これを追へば絶澗に跳び下り
巉巌に躍り上つて大に啼く
これをも日暮に既に獲(え)つ
傷く者三人 右肩を裂かれしと
腰を噬はれしと肘折りしと
虎已に死したればこれを駱駝に載せ
御営に至れば日全く暮れぬ
虎の長八九尺 毛は浅紅色 蓋し虎中の最大なる者
燈火かかげて夜すがら宴したまひぬ
                     (清の趙翼の「簷曝雑記」に拠る)

丘の上、松の木蔭で   (昭和12年7月 四季 28号)

          ── 清徳保男のために ──

遠く国原を眺めると
波涛のやうに丘陵が起伏してゐて
雲はその地平に潜んでゐた
わたしは物憂く頬杖ついて
何思ふともなく亭(あずまや)にゐた
そのとき俄かにきみの死が悲しく
泪はきらきらと輝き出で
雲は吃然と身を起した
「もうわたしは友情など要らぬ齢だ
ひとの死を悲しむのも幾度目か」
眼をあげて答へを求めると
凄じい稲妻が一閃した

冬海のほとりに住む   (昭和11年5月 四季 17号)

夜更け目覚めてもう眠れない
海はまるで大きな紡績工場のやうだ
絶間ない轟音のあひまに
疳高い女工たちの鄙歌(ひなうた)や
テノールの監督の叱り声がまじり──
ややあつて終業の汽笛 微かに声長く
いやあれは十二時の最終航路
幾百の寝相の悪い夢たちを載せて

   (昭和11年3月 四季 16号)

悔恨とはほど遠いが
日の夕方には高みにくる
ここから見れば
すべての営みの何と小いこと
この楊桃(やまもも)の林をめぐる水は
三度めぐつて町へ流れ墜ちる

再会   (昭和12年3月 四季 25号)

蒲公英(たんぽぽ)が咲いてゐた 入学式であつた
彼は僕の肩に手を置いて「同じ名だね 仲好くしようね」と云つた
中学で彼は庭球の選手であつた
僕は仙人掌(サボテン)を植ゑてゐた
高等学校で彼は全裸体でストームをした
(僕はその写真を葬儀の日見た)
彼は肋膜炎で死んだ 遺骸は解剖された
僕はこの頃突厥(とっけつ)語の碑文を読んでゐて
突然さもしい気分になる時がある
そんな時彼との再会を考へる
(わけはない 大学の標本室へゆけはいい)
彼は骸骨の下顎をひろげて僕を迎へ
底まで見える眼窩に徹笑を湛へることだらう
その時骨と骨の継目から 半ば錆びた銀色の針金が見えるだらう――
粛然と坐り直して僕はペンをとり上げる

怠惰な時間   (昭和11年8月 四季20号)

教師 灰色の海から熱い風が来る
   生徒たちはやけに大きい声で斉唱(せいしょう)する
   それは蜂か否それは蜂でないそれは蝶である
   その声で最も大胆不敵な生徒(やつ)が
   寝息をたてて寝込んでしまふ

生徒 鈍い蜂の羽音で眠つてしまつた
   目が覚めるとあたりは暗澹としてゐる
   これで一日が終り、多分、殆ど確実に
   あすの朝はまた単調な一日が来る
   呟いておれは四辺をねめ廻はす

俺は悪魔を   (昭和11年12月  コギト 55号)

俺は悪魔を呼んだら 悪魔はやつて来た
顔色のわるい痩せた 眼尻に皺のある
気の弱さうな男なのに一寸驚かされた
俺を見るとお辞儀をして世間並の挨拶をし
俺の研究が旨く行つてるかどうかを訊ね
自分も近頃マルキシズムを卒業して
神皇正統記と古史徴(こしちょう)開題記を読んでゐる──
理由は外でもない テキストが安いからだ
小説や詩はつまらぬから君も読むなと忠告した
俺はじつと見つめて 此の男が
以前 大学で煽動演説をやつて
警官に逮捕された男なのを知つた
彼はこの時 最も悪魔的な方法で
そこを逃げ出したので一時有名だつた――

生者   (昭和11年7月  コギト 50号)

横臥してしづかに息づいてゐると
人々は影のやうにまはりを去来した
道は自分の左右で光のやうに屈折し
手をのばすと人々は養ひを
もつてゐる籠から掴み出してくれた
自分は心底から楽しくて立上り
臥てゐた場所を見ると色んな花が咲いてゐた

   (昭和11年3月 四季 16号)

俺はとぶ
日はすでに傾き風が強い
感情が昂ぶつて弧が旨く画けない
冷い虚空で
俺はひとり言をいひ
涙を流して――
獲物にまつすぐに墜ちかかる

催眠術   (昭和10年4月 海盤車 4巻18号)

銀の峯々 黄金(きん)の原
ドイツに青い一流れ
ザクセンの王 バイエルン王
カルルスブルクのハインリヒ
菩提樹(リンデン)咲けば猫歩む
裏町花売り 地下電車
二階に造花屋
三階医療器具商
四階美容室
五階囲碁倶楽部
六階以上は雲の中
ベルリン中が花ざかり
人に見られて散歩する
フリイドリヒ・ヴィルヘルム四世の銅像前まで

奇蹟   (昭和11年1月 四季 14号)

ある晴れた朝 発動機船第三住吉丸は
五色の幟をひるがへして最初の船出をした
(村中が浜に集つてゐた)
発動機の音は次第に小くなり やがて
倒れるほど傾いて 彼女は進路を北にとつたが
その時ゆくてに昼の星がきらきらと輝き出で
犬たちは奇妙な咆え声で啼きはじめた

ある日中島栄次郎に   (昭和10年9月 コギト40号)

   ── HorenやMusenalmanach※では随分時間を費した(ゲーテ)
                                  ※青年時代のゲーテが関係した同人雑誌

レッシングやシルレルも少年の日には
感傷を歌つたが年よつて固まつた
今年はミューズたちが遠くへ行つたので
薔薇や麦を見ても心を動かさない
遠い都会の轟々の音や
管楽器や絃楽器が時々耳を惹くが
泉の声は小さく 海の笛は大きすぎる

歴史   (昭和10年12月 コギト43号)

低い草だけから成つてゐる島々
荒天には煙つて見えなくなる
昔ここに和蘭(オランダ)人の館があつた
老人は龍王廟(ティエンクンミャオ)から骨董品を持出し
われに説明料を要求した

孤鹿   (昭和10年12月 コギト43号)

暮れがた鹿は山頂に坐つてゐた
四足を折り曲げ 疲れた様子で
遠い空で稲光りがして
花苔やエイラン苔や岩角や
彼の蹄にはさまつた岩層などが
瞬間はつきりと輝いて見えた
鹿はかすかに躯を動かした

多島海  1 2   (昭和10年2月 コギト 33号)

何がわたしをおどろかせたのだらう
その多岐(たき)の入江にわたしは踏みまよひ
海月と海藻の間に神々を見た

夕月のやうに輝く朝をもつた少女たち
真紅の総になつてゐる舌を吐く
山茶花に似た唇の貝殻たち

太陽光のあまねく照らすやうに
たのしい色んな思ひ出がこの夕あかりに
凡てかへつて来る 古代の説話のやうだ

血にまみれた楯に似た島が
わたしの前面に暗く立ち塞がり
背後から太陽に照らされてゐる

わたしの立てる波がまだ彼の脚に及ばない
彼は様々の樹木をもつてゐて
それから露き出しの肩と顱頂(ろちょう)とをもつ

わたしを取巻いて黄昏がある
わたしのまはりはすべて波打ち
すべてが帰還のために忙がしい

わたしは出発する
その多岐の入江を身をくねらせながら
脂粉で粧はねばならぬほど蒼ざめて

古駅   (昭和10年10月 四季 11号)

紅葉の美しい谷へ街道は上つてゐる
毀れた水車や投げ出されてある車輪
ひつそりと山村は静まつてゐる
鴉が街道を歩いてゐる
休息に一軒の扉(と)を敲くと
白髪(しらが)の女が現はれて
入つてもいいと手真似でいふ
このあたりで言葉は尽きて了つたか

寒鳥   (昭和10年3月 四季 5号)

杳かに道を来てふりかへると
雲際をさまざまの旗たてて行列が逝つた
わしは山や谷に分けいり
懸崖に菊の花を見たが
菊は眼前に瞠(ひら)き 懸崖は
掌(て)の指のやうに裂けて見せた
わしは声を出してほうと喚び
一声のあとは幾声も出た

零落   (昭和10年1月 日本歌人1月号)

都会のまん中で榛の実を売る
友達は公爵や仲買人になつた
わしの作品はすべて子供の玩具(おもちゃ)
夕方わしは影を巻いて立上り
ふりかへるとみんな年老いたひとばかり

古典   (昭和10年1月 日本歌人1月号)

イオニヤの岸には海豚が游(うか)び
春にサラミス湾に董が咲く
希臘(ヘラス)の人々は青と黄色と
すべて澄達の色を好み
酒宴には手を叩き
葬儀には首垂(うなだ)れた

青春   (昭和10年1月  四季 3号)

ある日高い山にのぼつて俯瞰する
谿間に人や馬が群れてゐて
あのあたりに隠れて僧院があるのだ
寒い岩や紅葉(もみぢ)や石塊(いしころ)や
高原の隅々に歌があり
夕方まで暮して山を降りると
白雲の中に迷つてしまつた

   (昭和9年12月 コギト 31号)

おれは塵芥とともに川を下る
一つの島に上陸し
夕焼や暁のいろを見て
高い石段を登ると
海も陸も限りなく廣かつた

首途   (昭和9年12月 コギト 31号)

巍々たる峰に日輪は射す
朝は小川に
草は深い田舎
きりぎりすよ ばつたよ
旅嚢(リュック)はもう色んな画で一杯だが

蛇つかひ   (昭和9年12月 コギト 31号)

誰かがこの石の上で赤棟蛇(やまかがし)を殺したのだ
こほろぎが啼くすずしい
森で羊歯(しだ)が鳴つてゐる
日向の水で少女が髪を洗つてゐる

湖尻   (昭和9年12月 コギト 31号)

かすかに動く水の雲
ヘスペルス※輝くなべに            ※金星
湖岸には明るい窓々と
山とりかぶとの花
水が動くと
四辺合唱がこだまする

   (昭和9年12月 コギト 31号)

世界中に鐘が鳴りわたる
リンリンリリエンクロオオン――
蔦のからんだ塔よ 朝日のあたる石段よ
誰かが通りに手帛(ハンカチ)を落して行つてる

琴唄   (昭和9年9月 海盤車3巻15号)

おととひそれは香ばしい風で来て
昨日は雪でもつて中断された
黄色い小さい花が咲き
鳥が来鳴く薮と繁茂し
雨の中にきらきらと耀(かがよ)うた

諷詩   (昭和9年10月 コギト 29号)

流れよ 俺の思惟よ
詩について 生死について
神や霊や青い花や
魚(イヒティス)のために

彼女は啼く
獣のやうにだらしなく
流れよ 俺の思惟よ
魚のために

歌唱   (昭和9年6月 鷭 2号)

彼等が口をあけて歌ふとき
その口腔(のど)はうす紅い
――それを俺は永い間愛して来たものだ
芳ばしい微風(そよかぜ)が薄い雲をひく
その奥で歌だけがいつまでも残る
世界はその方がもつと美くしい

西康省 1 2  3  4  5  6  7    (昭和9年4月 コギト 23号)

 ── Dichtung und Wahrheit ※── ※詩と真実

鴉礱江とブラマプトラ河との間に挟まれ
海抜一万二千尺の高原
そこから二世紀にはきょう羌(きょう)族が降りて来
七世紀には吐谷渾(とよくこん)
十世紀から西夏の国が出来
帛(きぬ)と幣(たから)とが馬で送り入れられた
忽必烈(フビライ)は此の地を坊主に与へ
達頼喇嘛(ダライラマ)がそれ以後山や谷を領した。
これを造つたものは誰か
中生代の三畳紀には此処は海だつた。(白い雪の様な岩塩の層が現はれる)
ヒマラヤ山が手を延して大洋を截(た)つた。
巨大な蒸発皿(岩塩の層を見よ)
巨大なメスが切つた。地球の縦の皺──
金沙江、瀾滄江、怒江、薄蔵布河が岩を噛んで歯を剥き出してはがみして降る
山々の名を敷へよう。否、山は谷のお目こぼしにすぎない。
人が来た、寧武族、霍耳(ホール)古族、木克族、玀々(ララ)、白夷、猺(ヨウ)、苗(ミャオ)族、
西蔵(チベット)人が西から来て彼等を痛めつけ
漢人が東から来て商業を営んだ
文化の伝播? 彼等は何を知つたか
昔 首府を打箭爐(Ta-tschien-lu)と云つたが今は康定と呼ぶ
そこでは彼等は一妻多夫、一夫多妻を行ひ
嬰児 殊に女児を河に投げ捨てる
彼等の男子は多く喇嘛(ラマ)僧となり
毎平方里に二人しか人がゐぬ
彼等は壮年に百斤の荷を負つて百五十里を一日にゆき
七十歳を過ぎると四十里しかゆけぬ
騾馬(ラバ)や牛や馬は二百斤を背負ひ
騾馬は百五十里、牛は八十里を行く
康定から拉薩(ラサ)まで郵便は二十五日かかり
電信線が一本、電報を運ぶ
ここでは稲、稗、高梁(コーリャン)、小麦が熟り
蚕豆(そらまめ)や豌豆は毎茎に五六十粒、豇豆(ササゲ)は毎茎二十双を結ぶ
梅、桃、アンズ、李、枇杷、茘枝(レイシ)、棗、龍眼など小屋の背後に植ゑられる、
ここの地肌を覆ふ着物、天然林では杉と柏が優勢を占め、
桐、梧、扁柏(ひのき)、羅漢松、楠がまじり、
棕(シュロ)は建築材料や農工具に用ひられ
香櫞や棐、棫、紫荊、金弾子、花椒等は何と読むか御存じか※     ※(こうえん、かやのき、たら、すおう、不評、かしょう)
彼等は木材で以て曲物(まげもの)をつくり、籐や竹を編み漆の幹を割いて鉄の飯盒で受ける。
燧石(ひうちいし)が使はれ麻織、毛織がつづけられる
彼等は牛を飼ふが生れた時が二十斤、一年で百十斤になり、
水牛や馬やロバや騾馬や、此等は生きて運び 死んでも食べられる
猪(ぶた)は重さが四百斤を越える、彼は二年で衰老期に入る
綿羊は十ケ月で生熟して三仔を生み 一年に二度の生殖季をもつてゐる。
(黄牛(おうぎゅう)や騾馬は一度しかもたぬ)
猪は四度、犬は三度、猫は二度である。
彼等の財産を計ることを得るか?
英人韋爾氏は一九二一年これをなし
彼等の土地は一二九、七〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇億元
彼等の森林は一八〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇億元
就中大きいのは石油と金と鋼で
石油は七二〇二五(○を十七此の下にくつつける──億元)
金は二一五九〇(同右)、銅は三四五二〇(同右)
故に彼等は今は貧乏であるが
何時か金持になるに違ひない。
尤も今でもここには金持がゐて、土司、土官、又は喇嘛と呼ばれてゐるが
土司土官は税(収入の10%)租(15%)債(50%)を彼等から与へられ
その他に鴉牙(アヘン)を売て20%、土地を支那人に貸して5%を得る、(歳入二十万元)
そして雲南の大理府に遊び(旅費は十万元)妻子に綢緞(どんす)や白粉を買ふ
喇嘛の収入は祈祷から来るので、長寿祈祷で10%、幸福を祈つて10%、
失ひ物を当てるので15%、厄落しで同上・・・
これをラマ達は衣服で15%、装飾品で25%、酒で8%、煙草で2%、
贅沢な食物では20%を失ふ(それでも余りは15%位あるのだが)
貧乏な彼等も中華民匡の国民ゆゑ、
彼等の大部分は税金がかかる
民国五年には四十二万六千元
歳出は二百六万四十元の中 陸軍費が百六十二万四千元
(海軍が無いのがまだしも幸せだ)
彼等は十歳になると男女共に小刀を手挿み
十六で男は成丁となり、三人に一人が兵隊にとられる、
軍隊は武器として隻刀(刃長(はわたり)三尺−四尺)大刀(全長四尺五寸−五尺五寸)の他に
村田銃や車車砲や迫撃砲をもつてゐる。
兵士は頭に白又は黒や藍の布をまき、藍の袗(うわぎ)と褲(ズボン)とをつけてゐて、
腿に布をまき足に草鞋をつけ、肩に小さい皮袋を負つてゐる。
彼等は事があれば総動員されて
勇往邁進、敵の強弱を知らず
傷を受ければ復讐を思ひ、命を犠牲にしても惜まない
敵が逃げれば之を窮迫し
占領地域の婦女財産は破壊するを常とし
俘虜を惨殺し
十人が一人になつても退却を肯んじない
(凡て軍団の模範とするところ)

役等は万人に一人の知識人をもち
それは大学や論語さへ読める──
彼等は天をラン、地をサと云ひ、父をバア母をマアと呼ぶ
彼等は紅教を信じては蓮花祖師を拝する
彼等は黄教を信じては釈迦牟尼を拝する
彼等は黒教を信じては丹巴喜饒を拝する
彼等は白教を信じては文殊菩薩を拝する
彼等は牛を拝し、棍々神を拝し、笆々神を信じ猪八戒を信じ
四元を拝し暗黒を怖れ生殖器を崇拝する
彼等を治める者は誰か、
嘗て劉成、劉湘、劉文輝等か督弁を称したがこの地を履まなかつた
彼等の地には寇盗(こうとう)が充ちてゐる
併し彼等に対しても法律がある
例へば殺人に封しては死刑や罰金や監禁の刑があり
 強盗には賠償や罰金の刑があり
 公文書毀棄には死刑や監禁刑があり
 公衆を煽動すれば監禁が与へられる
併し彼等は刑を受けることを恥辱とせぬ
彼等は十人の中九人が罪を犯し、一人で一年に五回の刑を受ける者がある。
彼等は恋愛や仲介や掠奪や売買によつて結婚する
彼等は四十歳位で死ぬ
彼等は屍体を土葬にし火葬にし水葬にし、
又は高地に曝し、禿鷹に食はせ、洞窟に置き、屍体を撒く
喇嘛が死ぬと火葬にし附近の公私事商業を七日間停止し
婦女の装飾や男子の着換へを一個月停止する
彼等は唱歌し飲酒し舞楽し、就中賭博をなすことを好む
彼等はマラリヤに罹りトラホームに罹り疥癬を病み花柳病や天然痘に罹る
狂水病や蛇咬症、鵞喉瘡、癩病をもしばしば病む
瘴癘(しょうれい)の気は林中に立つ、そこではまた虎や豹や麝(じゃこうじか)や獐(ノロ)が見られる

千九百三十・・・年 僕は二十二歳で南京の大学に居り
僕の思索は専ら感傷に妨げられた
その頃イギリスの帝国主義は西蔵を侵し
ソヴィエートの社会主義は蒙古や支那土耳基斯坦(チャイニーズトルキスタン)を侵してゐた
(西蔵の兵がイギリス士官指導の下に
西康を過つて四川に迫つたのは少し後である)
僕は孫中山先生の三民主義に由つて西康省を建設することを良心に命ぜられた
それは専ら両大国の侵入の防壁となるべきものであつた
僕は精密なる調査と人才の登庸に因り新しい省政府を組織する
その前提として西康省民の自覚と天然資源の開発とが考へられてゐた
その後 省に省長があり中央政府より任命される
彼は省民より成る省議曾の制約を受け
譲合は立法行政司法監察の四権を行使する
省の下に市と県があり県の下に村がある
市長県長村長は何れも議会の監督を受ける
夫々の自治体は教育部、地方財務部、保安部、農芸事務部、
工業管理部、娯楽部、社会事業部等より成り
例へば映画館や劇場等の自治体による直接管理や死刑の廃止や婦女の解放等が
僕の計画では下から持つて来られる筈であつた

その頃日本が満洲に出兵し
大学生達は軟弱外交を攻撃して蒋主席に抗議に出かけた
そして大学生達は髪の毛をもつてふりまはされ靴で踏みにじられた
彼等は戦地に輸送すると脅かされた
彼等の大部分は叫ぶことを止め
後の小部分は叫び方を変へた
僕の建設計画は愈々熟したが
それはもう遠い西康省よりも近い西康省に向けられたのだつた
自分達のまはりは凡てが西康省であるから

   一九二九年に書かれた陳重為氏の「西康問題」(上海中華書局発行、史地叢書)に負ふ所が多い。

小鳥たち   (昭和9年3月  コギト22号)

昼過ぎになると刈株の並んだ水田では
氷がひびわれはじめる
小鳥たちは枯葉いろの衣つけてその上を歩み
渡り終つてうしろをふりかへると
ああ もう氷が足跡を埋(うづ)めつくしてゐる

早春   (昭和9年3月  コギト 22号)

ズスヘンは籠に鳥を飼つてゐた
お天気の日にはそれは紡車のやうにぶんぶん唸り声を立てた
その日をかぎつて暖い気候が来
窓の外の樹木の枝が撓みはじめるあの日以来
ズスヘンはその鳥を干乾しにした

植木屋   (昭和9年2月 コギト 21号)

遠い海から波が来て
眠いひるすぎに山茶花を植ゑる
庭の芝は枯れ日蔭では土がくづれ
家中の留守をして
物みな変改すと 本を読むとき
声を出してよみ悲しく思ふ

挽歌   (昭和8年9月 コギト 16号)

黒い昼顔の咲き凋むところで
あれらの歌がぼくを慄へ上らせる

二度とうしろをふり向かない
夕焼空の下のあの影は

鳥たちの啼き止めた後を
あれらの歌がぼくを取巻くのだ

登山道路    1  2  3   (昭和9年1月 コギト 20号)

      ── 二水より日月潭※まで ──  ※台湾中部山岳地方

巨きく傾いた高原の傍を通つて
山脈の方に近づく鉄道は
小石が軌道に横はつてゐるので停車した
それは一匹の穿山甲(せんざんかう)にすぎなかつた
ツツガムシのひそむ蕗あるすすきの叢を
ひとびとは恐れながら車窓に指したが
既に濁水渓は清水渓と変じ
雲を頂いた高山たちも
裾の藍だけで十分巨きい
ああアナナス※の畑に立つ子らよ   ※パイナップル
わがキャラメルの空き箱をひろへ
それは弾丸のやうに
客車の背後へ飛び去つた
機関車は最後の熱い一息をマンゴオの樹に吐きかけた

険阻な山路を駆けるには
この自動車は老いぼれてる
桜の杖もつた暴力団が
その中で吐気をもよほし出した
バナナの傾斜を曲れば
蛇形の大河はもう銀色の一流れ
水牛が雲かかる巒大山(らんたいざん)をのぞんでゐる
その尾のむく方で谿の声
パパイア 檳榔樹(びんろうじゅ) バナナの花
蔓生植物の林にツマベニ蝶が消えた
水が見える耳環のやうにキラキラ光り──
そこから道は下る一方で
到頭一つの街に着く
トランク提げた学生は
さびしく暴力団に別れの挨拶し
ホテルのある高地まで石段をのぼる
湖の魚捕る歌が追つかける

ホテルでは「いらつしやいませ」
つきあたりの欄間に蝶類の額
すべる廊下を怖れてゐるのは
先に着いた肥大症の老婦人と
黒眼鏡をかけたその夫の教授だが
湖は山々の足を洗ふ盥
タバコをふかすと犬が現はれる
お茶はなかなか来ない
パパイアの実がゆれてまだ青い
廊下で女中たちが押しあひしてる
「このお客様はなんて細いんだらう」
ホテルの昼食に十尾の魚が
無念に殺される
海抜は二千尺

島の中心は玄武岩の塔※だが    ※新高山(にいたかやま)
いまは雲の中で三角の山が並ぶ
湖をゆくボオトは白い
それはゆふぐれに土人の部落を訪問するのだが
向ふでは内地人を内心いやがつてる
鶏屠るお祭を
毎夜やらされるのはいやなものだ
唄に安来節をまじへたりする
こんな方法で一つの民族が亡ぼされる

象眼   (昭和8年9月 コギト 16号)

黒檀の匣(はこ)の外側に
宝石たちは窮屈におしこめられてゐる
中では少女たちが眠つてゐる
詰め綿や白い花などを
血の柘榴石(ガーネット)が象眼して

国境   (昭和8年9月 コギト 16号)

海から吹く風に
華やかな旗はみな山に靡いてゐる
馬車などは白墨の線で止められる
五大な差伸べられた腕である

愚者の智慧   (昭和8年10月 コギト17号)

わたしは知つてゐる
遠く虹色の陸地のやうに見える雲のうしろに虹色の陸地のかくされてあることを
この半球を充してゐる生命ある液体が凡て一様にほろ苦く鹹(しほから)いことを
わたしの船を追つて来る鮫や鱶(ふか)のたぐひが好んで赤児の脳髄を貪り食ふ残虐の徒であることを
ひねもす流れる海の草が紺色の水泡(あぶく)の下で船の進路を阻むことも得せず踏みくだかれてゆくことを
さうしていま檣(マスト)の上で鴎の金切声でもつて
「人が陥ちた(アン・ノンム・ア・ラ・メール)」と叫ぶこゑごゑが同じい海の蠱(あやか)しにすぎないことを
その時わたしたちの船はしづしつと船首をもとの港の方に向け変へるのだが

かはせみ   (昭和8年9月 コギト 16号)

谿(たに)に白いのはあれは百合
田舎ゆゑあのやうなボンネ※をかぶるひとはない     ※ボンネット帽子
蜩は啼く 高い梢で 燃え残りの雲の中で
谿で水をつかふ昔がする

視覚   (昭和8年7月 セルパン 29号)

坂のつき当りには薔薇の垂れ下る蔓に一杯のバラの花
茂みでフイロメエレ※がないてゐる            ※うぐいす
空が覗きこんでゐる
そこで饗宴がもたれてゐるから

悲劇   (昭和8年7月 セルパン 29号)

かぢりかけの幾片(いくひら)かのパンとソオセイヂ
食塩の瓶と並んでは石竹の花甕(はながめ)
くすんだ銅版画の中で魚釣るひとびと
すべては食卓より上にある

懸崖の上で   (昭和8年7月 セルパン29号)

海の揺する前庭での昼餐(ひるげ)
尾を振る犬とエプロンかけた子供らと
塩つぽい風とを皿に盛り
母はどこかへ行つてしまつた
肉汁(スープ)がさめてゐる、子供らの膝で

晩餐会   (昭和8年6月 コギト 13号)

先生は老来酒精分(アルコール)を節してゐられる
「君府(コンスタンチノーブル) ── 余(わたし)もあすこにゐた
さう千九百三、四年の頃」
(僕たちの父母がまだ結婚してゐなかつた頃なのだ)
僕たちはシネマの君府を思出してゐる
海峡を潮が河のやうに流れてゐた
歳月の潮が先生との間にも流れてゐる
(河のやうに渦巻いて)

   (昭和8年6月 文學 6号)

眠つてゐる私のまはりに
誰かか白墨で円を劃(か)いた
構はずに動くと漆喰(しっくい)の壁につきあたつた
引かへすと泥溝(どぶ)があつた
鵞鳥の啼いてゐるやうな──
眠つてゐる私に生ぬるい掌を感じた

春旅   (昭和8年5月 コギト 12号)

紙ナプキンに花びらが散り
ナイフの匁には峨々(がが)たる山脈が映つてる
蝶がこの食堂車に舞ひこんで来た

(ひょう)   (昭和8年2月 コギト10号)

烈しい風の中で
彼等はバンパンと空気銃をうつてゐた
鳥たちは撃たれたやうな恰好で
枯野に墜ちて逃げてしまふ
烈しい風の中で
パンパンと銃声がつづいてゐた

梅の花   (昭和8年2月 コギト 10号)

春ごとに公園の梅の花が咲き出すと
ばくの知つてゐる囚人が牽かれてゆく
「旦那もう少しだけ世の中を見さして下さい」
頬の汚れた子守女たちが彼の世界に来て坐る

   (昭和7年11月 コギト 7号)

彼の頭顱(とうろ)は雲辺に擢(ぬき)んで
彼の髪には一抹の霧がなびく
──懸崖の花にかかるやうに
彼の眼は爛々として炬(たいまつ)のごとく
彼の脚は崩れる後からあとから形成される

   (昭和7年10月 コギト 6号)

ソオダ水をよぎる雲
葡萄にゐる蟻
睫毛には陽のかげりの濃さが

オルフェエ   (昭和7年6月 コギト 4号)

オルフェエは羊腸たる路を辿る
わたしは谷一つこちらにゐて
あの路には紅い花がある 白い花が咲くと見てゐる
オルフェエは路角を曲つてもう見えない
紅い花白い花の路にわたしは入る

   (昭和7年6月 コギト 4号)

私は身に山椒の臭ひを帯びた蛇(くちなは)である
私の鱗は日を受けると金色(こんじき)に光る
それは闇では濃い緑いろとなる
私の腹には紅い縞が二條(ふたすじ)とほつてゐる
私は私の洞(あな)に天南星(てんなんしょう)を植ゑてゐる
その花は私の洞をほの明るくする
その根を私は食物にする
私は四五日来(このかた)嬰々(インイン)をおもつてゐる
嬰々はあの窓の中にねむつてゐる
私はその紅い小さい履(くつ)を見た
それは私が雀の卵をとりに戸樋をつたつた時である
昨日は嬰々の婢(こしもと)に棒切れで擲たれた
私は鱗を一部剥がれてゐる
私は復仇を誓つてゐる
天南星の根を噛んでである

天上有事   (昭和7年5月 コギト 3号)

     一

南ノ空ノ参宿※ニ彗星ガ留マツタトイフ号外ノ印刷デ階下ハ忙シイ  ※オリオン座
昨夜ハ交州ノ節度使カラ老人星(カノープス)発見ノ飛報ガアツタノダガ──
閑ヲ偸ンデ測天台ニ登レバ霜ガ雪ヨリ白イ
渾天儀(こんてんぎ)ニ蔦ノ葉ガヒツカカツテ枯レタ音ヲ立テテヰル
号外輸送ノタメノ馬車ガ今門ヲ出ヨウトシテリンリント車輪ヲ鳴ラシタ

     二

蘇−盗星※ヲ見キヤ                      ※不詳
張−嘗テ盗柘※ヲ見ント欲セリ 而シテ未ダ天ヲ見ルヲ欲セズ   ※中国の大盗族
蘇−天狼星※ヲ知レリヤ                    ※シリウス
張−乱世虎狼ノ輩多シ 何ゾ天ヲ仰グヲ要セン
蘇−招揺※ノイヅクニアルヲ聞ケリヤ               ※北斗七星
張−公僕我ヲ招キ白馬門前ニ待ツ マタ天ヲ聞クノ遑(いとま)ナシ
蘇−鳴呼而シテ尚蒼穹ノ在ルハ何ゾヤ 群星ノ陳(なら)ベルハ何ゾヤ

支那   (昭和7年4月 コギト 2号)

暗い窖(あなぐら)の工房にわたしは日日をくらさねばならぬ。さて懸命に彫るは何であらう。
堆く積まれて青白く光るは亀甲兇角(じかく)牛骨麋角(びかく)。わたしは輝く小刀をもち日に日に殷代象形文字をその上に彫る。
貞衆(ていしゃう)有災九月魚 彫れば骨粉はわが膝につもり その幽かな匂ひにもいまは慣れてしまつた。
さて或日わたし昼の北平(ペーピン)の街衢をゆき、ふとゆきずりに見た般墟甲骨文字の拓本まぎれもなくわが小刀の跡なれど
その魚の字や獣の字が尊くて涕涙流れて止まなんだ。わたしは明日も亀甲兇角を彫るであらう。

目次   1  2  3

奥付

奥付

奥付

裏表紙


詩集西康省出版記念会  昭和13年11月13日 於丸の内マーブル   自筆詩集『田中克己遺稿集』  1932-1938


詩集西康省あとがき  コギト昭和13年11月号 107-109p

 この詩集は昭和七年から今年まで七年間の僕の詩の三分の一ばかりを集めたものである。詩の数56、頁は百頁ほど、本文には土佐の手漉の紙、 表紙には鉄色の越前鳥の子紙を用ひ、和綴ぢの体裁を採つた。何うせ革表紙はをろか、天金も金文字も使へないし、 大して凝つた装幀も考へ出せさうもないので漢詩集以外には余り例を見ない和本にしたが、そのためこれを受取られた方の中には保存に苦しまれる方もあらうか。

 この詩集にのせた詩は前途の如く56篇、中にもコギトにのせたもの36篇、四季にのせたもの11篇と最も多いのは、両誌に僕が同人であるせいで、 その他には「催眠術」と「琴唄」が静岡県富士町の加藤一氏の出してをられる海盤車に、「零落」「古駅」が日本歌人に、「歌唱」が鷭に、「視覚」「悲劇」「懸崖の上で」がセルパンに、 「掌」が季刊文学に載せたものである。コギトの詩は総計100篇以上ある中から選んだが自分では勿論作の善悪などわからないうへ、実は二度と見るのもいやなものばかりであつたが、 強ひて何かの意味で自分の思ひ出を誘ふやうなものを採つた。従つて概ね自分個人の事情がその製作に伴つてゐる。それの中いくらかをしるしてをくのも良いかと思ふ。

 先づ題名であるが、これはお気付きの如くこの集中、最も長い詩の題をとつたので、これも物臭さな僕に似つかはしいことだと思つてゐる。
 はじめの歌は実は高等学校三年のころの作であるが、保田がいまだに覚えてゐてくれて全篇の序のやうなものではないか、と云ふので載せた。 詩はすべて製作年代の新しい順に並べたので一番新しい詩である「公孫樹に寄す」の、公孫樹は僕の家には無いので、小石川関口町の以前の三好達治氏の庭にあつたのを借りた。 しかし詩境は他所の家庭のことではない。
 「手紙」を見た友人の一人は蘇満国境にはCの頭字をもつた市などないといつて来た。
 「仏蘭西」にゐた友の一人は最近帰朝したので桑原武夫氏だけとなつた。
 「虎」のもとになつた簷曝雑記の作者趙翼は清朝第一の史学者で、その著「二十二史箚記」「皇朝武功紀盛」等有名であるが、この雑記も中々面白い。 詩中の固有名詞などは概ね僕がこさへた。侍衛は日本でいへば侍従武官である。乳虎とは哺乳期の雌虎で最も暴々しいのである。

 「丘の上」の詩を献じた清徳保男は僕の高等学校の先輩で京都の哲学を出て先日まで僕のゐた学校の同僚であつたが昨年四月死んだ。僕は個人的に色々な世話になり、 性格的にまで影響を受けてゐる。禅宗に帰依して乙丘保雄の僧号をもつてゐた。遺稿にハンス・ドリーシユの「形而上学」訳と詩集若干巻がある、 共に未刊である。 「冬海」は僕の住んでゐた高師浜を御存じの方にはわかることゝ思ふ。
 「再会」は小学中学を共にした塚口克巳の記念である。同君の父君利三郎博士も先年逝去されて同じく大学へ遺骸を寄贈されたと聞いてゐる。
 「怠惰な時間」はこの八月まで僕の働いてゐたN中学に献ずる。教師も生徒も時間中退屈し切つてゐる、形骸だけの教育機関である。
 「俺は悪魔を−」の詩のモデルは断つてをくが高山茂ではない、と云つて保田が叱つて来たやうに自嘲でもない。第一僕には眼尻に皺などないからね。 しかし誰かこれにあてはまる人間がそこらに沢山ゐるやうに思ふ。
 「催眠術」中、カルルスブルクのハインリヒとは云ふまでもなくマイヤーヘルステルの「思ひ出(アルトハイデルベルク)」の主人公、青い一流れはライン川、 F・W・四世は1840年から72年までのプロシア王であるが、勿論その銅像がウンタア・デン・リンデンのはづれにあるか何うかは僕の知つたことではない。

 「ある日中島栄次郎に」の中のHorenとMusenalmanachとはゲーテやシルレルの出してゐた同人雑誌の名、この頃僕も詩を止めようと思つてゐた。 「孤鹿」中のエイラン苔といふのは僕も知らない。苔の名で、多分寒い処に生える苔だらう。その積りで作つたのである。
 「古駅」は人跡尽き人声の聞こえなくなる渓谷の一歩手前を歌つたものである。
 「寒鳥」大体この詩集には鳥が多い。僕自身、鳥に化して飛行してゐるゆめをよく見る。
 「湖尻」のへスペルスは金星、「朝」の鐘の音に入りこんでゐるLiliencronはドイツの軍人出の詩人。明るい愉快な詩をつくつた。 この朝はドイツのどこかの小市──彼の生れたキールならよろしいが──の朝のつもり。
 「琴唄」のそれといふ語は謎々のやうであるが、春のことをかくして歌つた。
 「諷詩」の中の魚はブランデスの『独逸浪曼派』の中に「青い花は魚(イヒティス)などと同じくある至上の者の象徴」といふやうな句があつたと思ふ。 イヒティスとはイエス・キリスト・何とかのかへ字なのである。

 「西康省」は支那の四川省と西蔵との間に介在する省。はじめは野蛮蒙昧な西康省を歌ひ、後にこの省の開発を基礎として支那の富強を考へてゐる空想的な支那青年を歌つた。 陳重為先生が大体さうした人であるらしい。日支事変などもこんな青年を基盤として起つてゐるのだらう。
 「早春」は「春の目覚め」を歌ふ。
 「登山道路」は昭和八年の実感、玄武岩の塔とは新高山を指したつもり。
 「視覚」のフィロメエレは妙音鳥と訳するも、常識では鶯。

 「晩餐会」の先生は我国東洋学界の泰斗白鳥庫吉先生、いつかの宴会で遅れて行つて白鳥先生、 それから鴎外と水沫集の訳を共にされた市村讃次郎先生の前に坐らされて全く照れたことがある。その時白鳥先生はトルコ人の留学生モハメッド某君と大体あんな会話をしてをられた。 市村先生を歌つた詩はコギトに一緒にのせたが詩集からは省いた。
 「オルフェエ」は希臘の楽人オルフォイス、わが先達の詩人を呼ぶ代りとした。
 「履」中の嬰々は女の名であるが、この名によれば堅気の娘さんではない。

 「天上有事」の第一は唐代、アルゴ座のカノオプス星を老人星(寿星)と呼び、それが見えるとお祝ひをした事実にもとづく。 交州は今の仏領印度支那のハノイ辺であるから年中見えるのだらうが。第二の盗拓は孔子の頃の大盗。盗星、天狼星(大犬座のシリウスのこと)招揺(一に破軍星といふ)みな星の名。 僕少年の日、大仏次郎先生の令兄野尻抱影先生の愛読者であつた。
 「支那」は、今より四十年前の1898、9年の交、河南省安陽県の殷の都跡と呼ばれてゐた地から農夫が多数の獣骨亀甲を掘り出し検すると文字があつた。 これが殷墟文字の発見で次第にその価値が認められるにつれ遂には贋作のものまでが出だした。この詩はそれを本として、 その職人が自が作つた文字を己れの手をはなれて見て却つて崇敬の気を起すと云ふモティフ、実は詩人と詩との関係を歌つた。この詩が集中最も古く、我が廿二歳の作である。

 この詩集を出すについては、今夏先づ中島栄次郎に諮つた処賛成してくれ、次に肥下恒夫に相談するとこれも賛成、 保田は日光から賛意を寄せ、 その他の同人みなおなじかと思ひ、わが身の上の変化もあり、かたがた決心をして詩の大体の選択をはじめとして色々な点で肥下の手を煩はし漸くに成つた。詩の出来たのも、 詩人たることを決意したのもすべてコギトのおかげであるが、今また処女詩集完成も友情に拠るを得た、記して厚く謝する。

 尚ほ特に記すべきことは、盟友松下武雄はこの詩集発行後旬日ならずして逝いた。彼の鞭撻と好学とは僕の詩作に影響した処が多い。 家人の方の報ぜらるる処では僕のこの拙い著もなほ病床数刻の慰めとなつた由、これのみをせめてもの心遣りとする。

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