2019.03.18up / 2022.04.05update Back

田中克己日記 1967


【昭和42年】

 前年の解説にも記しましたが、日記を書き写しながら、次々起こる出来事に、運気の正に円頂にさしかかったことを感じてゐます。
 これは田中克己個人においてだけでなく、時代は空前の出版ブームの最中にありました。それが詩の世界にも押し寄せてくるのです。

p1

 先づ、この年のエポックとして雑誌『四季』の復刊が挙げられましょう。
 当初より復刊計画に参じた詩人は、早速二つの座談会に参加します。復刊に併せて戦前の『四季』も日本近代文学館から復刻されることになり、詩人は所蔵する原本を提供して協力することになりました。

 そして中央公論社による一大詩歌叢書『日本の詩歌』全30巻の企画です。
 なかで田中克己はその一角に、近代詩を担った“最若手詩人”として、立原道造と共に名を冠することになるのです。
 第24巻に収められることになったのは「丸山薫・田中冬二・立原道造・田中克己・蔵原伸二郎」の5人。

 別に巻を立てられた「三好達治」「中原中也、伊東静雄」を措いて、「四季派」と「コギト派」と、等分にとの配慮が窺はれますが、座談会のなかで神保光太郎が不満げであるのはともかく、この度の復刊『四季』に於いて“遺臣団”の中心にあった丸山薫は、三好達治と合せて一巻にすべき詩人だったと思ひます。

 津村信夫や神保光太郎を押さへて田中克己が選ばれたのは、おそらくこの叢書を監修する編集委員の一人に井上靖があったからでしょう。長篇小説『楊貴妃伝』が完結した際、著書から裨益を蒙ったとして夫妻で食事に招かれたことは前述しました(昭和40年日記参照)。

 しかしながら同じく編集委員であり、復刊『四季』の同人としても名も連ねることになった日本近代文学館の館長、伊藤整を差し置いての抜擢であり、同人として詩歴の長ずる阪本越郎が「田中克己」篇に於ける解説を買って出てくれたことと共に、特段の運命が働いたと言はなくてはなりません。

 後に見る如く、阪本氏による各詩篇ごとの解説は、これまでとかく誤解されやすかった詩人をフォローして余りある配慮に満ち、詩人は生涯の恩誼に感じます。そして座談会で知遇を得た大岡信氏がまた、敵対する現代詩陣営の立場にありながら、歴史的見地から最大限の理解を示す解説を巻末に書いてくれました。

 敗戦を経て永らく黙殺されてきた戦前の詩業が社会的に認められたといふべく、伊藤整が座談会のなかで語った、所謂「一般の読者がわかる詩」最後の世代の代表詩人として、田中克己が文学史的に報はれたことのやうに、私には思はれるのです。

p2

 一方の東洋史の仕事はといふと、前年に集英社による『漢詩体系(全24巻)』叢書の一冊『白楽天(第12巻)』を任された詩人でしたが、今度は文芸春秋社が「社命を賭けて」臨んだといふ『大世界史(全26巻)』の一冊『大唐の春(第4巻)』を、斯界の先輩石田幹之助から指名を受けて共同執筆してゐます。

 ホテルにカンズメにされる経験も初めての事ながら、執筆にあたっては、周辺民族に対する研究業績を以て隋唐の対外関係史を、そして詩人として李白・楊貴妃の評伝あるを以て、敢へてドラマとして面白い玄宗皇帝の時代を割り振ってもらってをり、これまた特段の配慮といふべく、前年の『白楽天(この年再版4千部)』、改版『ハイネ恋愛詩集(角川文庫)(この年3版1万部)』、そして『中國古典文學大系』の一冊に結実する平凡社『唐代詩集(昭和44年)』と共に、これ以降「田中克己」の名は、戦時中の「ウルトラ右翼詩人」のイメージとは全く違った形で一般の耳目に触れることになります。

 10万部刷ったといふ『大唐の春』の印税は、阿佐谷の自宅取得に消えますが、先考西島喜代之助の7回忌法要も済ませ、豊橋に税務署長として栄転した長男史氏には娘が誕生し、さきに生れた初孫が「ぢいちゃん」と呼んでくれるのを手放しに喜ぶ好好爺の詩人にとって、この年の前半は、昨年に続き良いことばかりが並びます。

 祖父のいのり

四か月ぶりにまた孫に会った
せは変らないが手足はやせたやう
頭が大きいのも祖父ゆづりだらう
祖父は菓子をやったりくすぐったりして
できるかぎりのご機嫌をとった
最初に入れ歯をはづして見せると
孫は目を丸くして見つめた
はめるとまたはづせといひ
これを二、三回くりかへすと
自分の歯をもぬいてくれといふ
祖父にはそんな力はないが
おまへが入れ歯をするやうになるまで
世界が無事で平安なことを祈らう    (果樹園 140号)

 教育者としての田中克己には、「家にくる学生たちは必ず一度は泣いて帰ることになった」と夫人が述懐された通り、厳しい一面がありました。
 下心ある歳暮や付届けを断ってゐますが、同時に面倒見の篤さについては、卒論指導の様子がこと細かく記されてゐる日記に見られる通りです(一般人のプライバシーにもわたるため多く割愛しました)。

 ただ絶頂を極めた者に対して「亢竜悔いあり」といふ諺があるやうに、やがて年の後半に至って「躁」症状によるところか、多忙を極める詩人に彼ならではの圭角が顕れるやうになります。清濁合わせ飲むと言うことが絶対にできなかった人ですが、教育の場以外で癇性の爆発をみるやうになったのは、残念なことでした。

p3

 たとへば同じく『四季』同人となった小山正孝に(『新潮』11月号の一文に端を発して)“絶交”を言ひ渡してしまひます。
 また寄稿した各社に対して原稿の扱いをめぐりしばしば激昂してゐますが、前述文芸春秋社の、後に社長となる田中健五氏が詩人に気を遣ふ様子も日記には写されてゐます。
 小山氏は旧くからの知合ひであり、前年から平凡社の唐詩口語訳の叢書計画に関り何度も自宅へやって来てゐますが、決して夕飯を食べていってくれないと詩人が日記にこぼしてゐるのは、詩人に対する氏の処世訓だったでありましょう。

 詩人田中克己についての、「躁鬱で癇癖の激しい近寄りがたい詩人」といふイメージは、そして年末に至って潮流社と絶縁し、復刊したばかりの『四季』から創刊号だけで脱退してしまった「事件」によって、決定的に詩壇に広がり定着してしまひます。

 折角萩原朔太郎と堀辰雄との晩年に関係を持ちながら、そして『日本の詩歌』では昭和初期の代表的詩人の一人に選ばれながら、現代詩が評論と共に全盛時代を迎へた当時、「詩人の戦争責任」が問はれる際には必ず俎上に上ることとなった詩人です。月旦評が悪く作用し、喧伝されたことは想像に難くありません。

 さうして大手文芸誌から、かつての「四季の人々」のやうな扱ひで迎へられる事は次第になくなってゆきます。
 古巣である『果樹園』は昭和48年まで続きますが、この時期「中央の抒情詩壇」と呼んで差し支へなかった『四季』から早々に飛び出してしまったことで、「コギト派」のスポークスマンとしてひろく発信する機会も失ってしまひます。

 もっとも以前にも親友肥下恒夫に対する同様の振舞ひがあったことを記しましたが(昭和20年日記)、せっかちな“絶交”は一種の癖のやうなものであり、小山氏とはすぐに仲直りし、彼がもたらした平凡社の漢詩叢書の共同執筆計画が流れなかったのは幸ひでした。

 そして第4次『四季』の誌面に、すでに亡き木下夕爾と田中克己の作品がみられないのが私には残念でなりませんが、終刊号(丸山薫追悼号)に至るまで二度と寄稿しなかったものの、田中克己の名が「同人名簿」から外されることもありませんでした。
 (当時のことを『四季』の編集にあたられた故・八木憲爾氏にお訊ねしたところ、「詩人らしい純粋に満ち、さばさばした人柄ゆゑむしろ好きであった」と咎めもされず、懐かしんでおられるのを知って胸をなでおろしたことです。)

p5

 しかしそのやうなイメージがあったのはそれとして、運気上昇中にあり、さらに大きな「田中克己」像へのステップとなる筈だった正念場と呼ぶべき当時の文業に対し、(精神的に不安やストレスをかかへてゐたにせよ、)幾らか詰めの甘さはなかったかと不満、といって悪ければ望蜀の感も弟子である私は抱いてゐます。

 詩作の不調について、年齢相応のポエジーの枯渇がみられるならば、それは仕方ないことです。
 しかし文章については、これは石田幹之助氏の文章と読み比べると分かることですが、ホテルに缶詰めになって書いた為ばかりとは思えない、詩人独特の(歴史的教養を前提とした)簡略な説明や事項記述には、依然として学識とプライドの高さが顕れて、強面感を演出し、時に読む者を畏縮させます。

 詩ではそれが歯切れよい効果となり功を奏したのですが、戦後教育を受けた新しい読者層が育ちつつあった当時にあって、田中克己の文章は敷居が高く、次第に敬遠されていったのも故なきとしません。
 時代の趨勢に応じる身のこなしは持してゐますが、前述の一刻者のイメージと共に、時代におもねることのない文体に対する読後感もまた、出版ブームが終熄してのち、徐々にですが文壇メディアの仕事に影響していったのではなかったでしょうか。

 また詩人はこの時点で、『四季』に保田與重郎や芳賀檀が参加しなかったことを喜んでゐますが(彼らは一方で創刊された『浪曼』に拠りました)、成心といふより、畏友と黒歴史とを使ひ分ける保田氏に対する複雑な視線(嫉妬と呼んでもよい)については、忌避してゐる筈の彼を讃仰する『保田與重郎著作集』の月報文章を読むと興味深いものがあります。
 浅野晃の『天と海英霊に捧げる七十二章』朗読会の会場で、三島由紀夫にそっぽを向かれてしまったといふ逸話がありますが、さうした文脈で語られるものでありましょう。

 教育者としての信望とプライドの揺らぐことはなかった詩人自身は、そのことに気がついてゐなかった(気づかうとはしなかった)のでは、とも思ってゐます。

 この年には、続いて学研から単行本執筆依頼があったのですが、断ってしまったのは、やはりオーバーワークだったのでしょうか、(一度執筆を断ると縁遠くなり、)勿体ないことでありました。

 年末に至って、詩人には親戚に係り心労の事が加はります。しかしながら昨年の井上多喜三郎に続いて知友の不幸が重なるなか、詩人個人に於いては、運気はむしろ、更に上向きになりさうな気配を感じさせて翌年へと続きます。

(上記したやうに卒論指導の模様について多く割愛しましたが、それでも中々の分量になってしまひました。)

 この年の出来事を記します。

1月7日 丸ノ内ホテルにて『四季』の会。
      (丸山薫、田中冬二、竹中郁、神保光太郎、田中克己、阪本越郎、小山正孝、大木実、杉山平一、小高根二郎、堀多恵子、室生朝子、萩原葉子、八木憲爾)
2月17日神保光太郎、伊藤整、伊藤桂一、丸山薫、田中冬二、萩原葉子、八木憲爾と「これからの四季」につき座談会(『四季』創刊号に掲載)
      また当日あった編集会の後、阪本越郎より中央公論社『日本の詩歌』掲載を打診さる。
 4月 5日 日本生命日比谷ビル7階にて浅野晃『天と海 英霊に捧げる七十二章』の、三島由紀夫による朗読会。

p6

 4月 8日 丸山薫、黒田三郎、大岡信と「三好達治 人と作品」について座談会。(『四季』創刊号に掲載)
 4月29日 大高旧友の山本治雄、吹田市長に当選。
 5月 5日 白金台般若苑にて佐藤春夫の会。出席者70名。
 5月13日 文芸春秋社にて池島信平と則天武后について『婦人画報』の対談。
 5月27日 清水文雄の上京歓迎会を湯島にて、栗山理一、池田勉と。
 7月 9日 空き巣に入らる。
 7月24日〜27日 信濃追分にて卒論指導。
 7月29日〜30 文芸春秋社の指示によりニューオータニホテルで執筆。
 8月 4日 日本近代文学館へ『四季』79冊を復刻のため貸出。
 8月18日 田中健五と赤坂の石田幹之助宅へゆき対談
 8月19日〜21日 名古屋経由して下阪。亡父西島喜代助7回忌
 8月24日 豊橋税務署長に栄転の長男史氏に長女誕生。
 9月13日 文芸春秋社『大世界史』出来上がる。
 9月15日 台湾旅行で知遇を得た頼永承と再会。
 9月25日 蒲池歓一逝去。
10月17日 文芸春秋社にて池島信平と西太后について『婦人画報』の対談。
11月11日 帝大旧友、松本善海を川久保悌郎とともに自宅へ見舞。
11月14日 中山正善逝去。
11月22日 近代文学館『四季』復刻版2箱届く。
11月28日 小山正孝よりの電話に『唐詩選』やらず、『四季』もやめるといふ。
12月 7日 やってきた小山氏に皮肉を言って帰す。
12月11日 第4次『四季』3冊来る。
12月17日 潮流社へ『四季』脱退通知(ただし同人名簿からは削られることはなかった)。
12月25日 小山正孝へ電話。絶交申渡す。28日 小山氏来り、絶交とく。


昭和42年 1月 1日〜昭和42年 7月15日

25.0cm×17.9cm 横掛ノートに横書き

p7

1月1日(日)
7:00すぎさめ雑煮くひ、9:20阿佐谷駅へゆき9:50教会。竹森先生「日本の国」のこと云はる。かへり雨降り出す。
でがけに来し賀状見しに260枚。その整理と返事に疲る。20:00泰に電話して声きく。(『果樹園』来る。)

1月2日
晴。7:30起き賀状の返事すむ。31日出しの1枚来る。滝本生来り「泊る」とのことに散歩にゆく。
史夫婦20:00前来り、美紀子21:00まで話きき系図もち帰る。

1月3日
7:30起く。賀状98枚。(※省略) 16:00ごろ滝本生の去りしあと三治夫妻怪獣かきの子をつれて来る。われ疲れしも賀代嫗来ず。

1月4日
賀状了り、出し了へて一休みしてをれば53枚来る。午後賀代嫗3孫つれ来り、(※省略) 
年始に出てゆきしあと子らさはぎ明るくなりをり。夜、柏井、田中へ分宿すと出てゆく。けふ弓子訪問着きて行く。
船越章「専修大のマスコミで専任講師として放送学教へることとなりし」と。めでたし。

1月5日
晴。賀状41枚。(※省略) 午后ユ、足立明子へとゆき17:00まで帰り来らず、叱りて叩く。(※省略)

1月6日
8:00さむ。試験問題最後作り、頭痛す。賀状29枚。足立明子の見合の席きまる。日曜14:00と。京Arbeitすみ3,900もらひしと。

1月7日
8:00さむ。賀状28枚。12:00すぎ出て成城。給仕たち来をらず。
高校の樋口氏とうろうろし13:20松村、尾上氏とそろひ、うだうだと16:00すぎまですごす。
すみて「丸の内Hotel」へ直行(※『四季』の会)。竹中、小高根、杉山(竹中郁、小高根二郎、杉山平一)と大阪よりの3人来をり。
葉子君を最後に14人となる。(※?丸山薫、田中冬二、竹中郁、神保光太郎、田中克己、阪本越郎、小山正孝、大木実、杉山平一、小高根二郎、堀多恵子、室生朝子、萩原葉子) 
2月末締切、同人費1千円と。堀多恵子さんと地下鉄にて阿佐谷。帰りて眠剤のみしもねつき悪かりし。

1月8日(日)
聖餐式なれど休む。賀状19枚。ユ、足立明子の見合に新宿へゆく。佐伯へゆき『暦(600)』。賀状午后また15枚。
滝本女史「けふは行かず」と。澄「auto買った。泰、動物園にゆきlionを犬といひし」と。

1月9日
7:30さめる。寒く外出せず。喜多村生11:30Morozoffの飴もちて来る。昼食さす。けふ賀状来ず。滝本に電話せしも通ぜず。

1月10日
ユをしてクロちゃんに電話し弓子の縁談ことわらす。9:30出て斎藤dr.「鬱」と申上げれば昼の薬入れらる。
時間余るゆゑ帰りて昼食し13:00成城大学。問題を教務課へ出し了る。鈴木健司より賀状来あり(鎌田女史「今年結婚す」と知りをり)。
帰り樋口高校教諭と同車(成城堂で『印度古代史(600)』買ふ)。阿南君(※阿南惟敬)と大学院で同級たりしと。
太田夫人より「藤堂夫人に『文芸通信』まかせた」と。他に賀状数枚。喜多村生に風邪うつされ鼻汁出る。

1月11日
7:00前おこされ「改源」のみて登校。漢文やり出席者に5点ましをいふ。文化史は「朝鮮の年中行事」了り、これにて切ることとす。
昼食に天ぷらそば食ひ、帰る途、大藤氏に会ふ。16:00野口君より電話「面接26〜28の3日間とす」と也。

1月12日
終日無為。(※省略) その他賀状まだ来り。
審美社より『回想の日本浪曼派』かけと。「学年末多忙」と断る。そのあと『日本浪曼派研究T』(※審美社)来る。
小野博士『燕京歳時記』も来る。夜、「文学散歩の会」にゆくつもりなりしもとり止む。

1月13日
9:00出て成城大学。大藤氏「大学院の準備に書目つくれ」と。矢野光子「式は24日」と。
2時限の中国文学史をすませて、これにてキルといひ、来学年のゼミの子ら呼び、妹尾生に「中国の童話はむり」といふ。
短大の『唐詩選』いやいやすませてすぐ帰宅。松浦薫氏より「旅行中」とヱハガキ。Argentinaの山野井秀子生より「新年おめでたう」。
突然小山正孝氏来訪。みやげ賜ひ「丸山薫氏68才」と。いつもの如く夕飯くはず帰りゆく。

1月14日
8:00起き太宗会にゆく。阿南、田川、松村、神田氏となりてわれ読み、岡田君おくれて来ってよむ。
池袋まで切符買ひ宮崎女史訪ひしに「欠勤」と。rice-curry(150)食ひて阿佐谷に帰り、この間より見し『白楽天(490)』買ひ、よみ了る。
澄より電話「20日上京ちょっと寄る」と。

1月15日(日)
9:00すぎ起き、弓子も出しとて夫婦ともに礼拝にゆかず。11:30滝本生より電話「17:00すぎなら居る」といひ、出て成城大学の民俗学会。
煖房なく寒きに皆外套をぬぐ。直江博士(※直江広治)の「中国民俗学の問題点」といふをきき絶望す。滝本生18:40来り宿す。

1月16日
寒く、行火に終日をる。滝本生『史記』よみ昼食して帰りがけ学士会館に写真の焼増したのみくれると。
京、帰りて寒がり心配せしも、本当に寒きらし(正午3℃と新聞に見ゆ)。

1月17日
寒く11:00出て斎藤dr.、「鬱」と申上げる。
帰れば畠山六栄門氏より手紙。「賀状(※番地)1-4-8とせしため戻りし。ノリ子ほぼきまりし」と。「式の日しらせ」とかく。
小野勝年氏へ礼かく。『帝塚山文芸通信』へ200×4書く(藤堂卓美夫人あて)。

1月18日
寒さややゆるむ。7:30出て登校。漢文教へて文化史切りあればすぐ帰り(『大漢和辞典5』成城堂で受取る)、午食す。
台北の梅さん(※林素梅:龍園大飯店店員)より「龍園大飯店にありて忘れず」との便り。山本治雄君より「丸(※病状)気がかり、4月新邸祝ひす。来い」と。(※省略)

1月19日
やや暖かく、タバコなくなりかけたれば散髪にゆき、佐伯にゆき『女性服装史(50)』買ふ。(※省略) 
角川より速達「20日までに古今集一首をゑらび400×2.5かけ」と。電話2度かけて石本氏呼びしにゐず、
あとにてかかりし故「なぜかかす」ときけば、「『戦後吟』2冊もちをり。24日ごろまででよし」と。首すくめ「かく」といふ。
けふ文学散歩の会会費2千円送り『通信5』くれとかく。賀状の抽籤に5等13枚当りをり、(※省略) の分なり。
夜、依子に電話かけしに「澄、明日上京、兄に泊る。ノリ子ちゃん縁談成立の顔しゐる」と。泰泣く。

1月20日
朝、西川より電話、丸の病状訊ね来る。「その中(※うち)しらべん」といふ。2時間目切り11:00登校。
大藤教授より「本代残った。買へ」とのことに3種ばかり雑誌を挙げる。矢野副手より高橋邦太郎氏『蜻蛉集考』もらひ、
『古今集』『金槐集』見て「短歌」のしらべすまし『唐詩選』了る。「恋愛詩なきはなぜか」の質問ありし。
帰り駅前の古本屋で伊藤生に声かけられ家へつれ帰る。原口君病気退職との事なり。(※省略) 20:00澄来り、泰の話してゆく。(※省略)

1月21日
よべ眠り浅く、東洋文庫松村研へ電話すれば神田氏出る。「来週も休む」といふ。
11:50出て成城大。成城堂で時間つぶし混みあふ中をsalaryもらふ(101,720−18,760=82,960)。成城堂に4,655の払ひすまし、しるこ食ひ(80)、
平馬副手?と同車、佐伯にてApollodoros『ギリシャ神話(20)』買ふ(成城堂にて『インド文明の曙』買ふ)。
滝本女史10分前よりまってをり『淮陰侯列伝』すませ帰りゆく。

1月22日(日)
久しぶりに礼拝にゆく。芝原生見えず。〒なし。賀代嫗より電話「文子より家ほしき旨云ひ来りし」と。

1月23日
終日家居。中野清見君より「むだと思ひ丸夫人に云はなかった」と。(※省略) 
『不二』来る。『朝日夕刊』を見れば「死んでもらはねば」と影山塾長云ひしとあり。不快(※記事不詳)。
船越章来り、賀代嫗の電話のこといひ、帰りがけユより3千円借りてゆく。
けさ平凡社の渡辺氏より電話かかり「来たし」とのことに「来週月曜在宅」といふ。
夜、丸に電話すれば出て来て「調停代理にて出る」と。西川に電話かけて云へば「角力にさそひしも断りし」と。

1月24日
10:00すぎ出て斎藤dr.。「鬱」といへば「さうでなき様に見える」との仰せ。新宿でcurried-rice(120)食ひ、13:00すぎ登学。
『古今図書集成(35万円)』買ってもらふこととなる。あと教授会。唄君「cunningせし子は不正入学につき責任なし」といひ、困る。
すみて(※省略)『成城文芸』の編集会。別に事なく、4月よりわが離任きまりしのみ。

1月25日
6:00さめ7:30出てゆく。漢文やりて、(※省略) 帰り佐伯に寄り『うき世絵ばなし(550)』借り来る。(※省略) 
夜、依子より電話「母、伊勢にて風邪らしき。東京へ直行す」と也。

1月26日
卒論の面接とて7:00すぎ起きる。集英社よりコンパクトブックス『白楽天』増刷につき誤り示せと速達。9:20登校。
日本史了り考古学了る。考古学に丸写し2人ありしは未曾有のこと也。山内講師の愚痴われのみきく。
帰り佐伯に寄れば昨日借りし本450で宜しと也。夜、伊勢より電話「母あす15:30東京着」と。

1月27日
よべ何度もさめしらしく眠りし感じなし。8:30出て登校。喜多村生面接すまして喜びて手紙呉る。
大藤教授「大学院の為、日本史専任に田中久夫氏にいひ九大の新城博士(※新城常三)に交渉中。池田君(※池田勉)にいふな云々」。
竹内博士来しゆゑ早々に逃げ帰る。けふ富士見療養所の楽恕人氏より『新日本雜事詩』贈られ『お雇い外国人(240)』買ふ。
母帰りをり、大より電話「月末転居、赤阪へ」と。大江久美子より「内緒で1〜3万円貸してくれ」と。「内緒で1万円やる」と返事せし。

1月28日
7:00さめ8:30出て午までに面接すむ(大藤、鎌田、野口とわれ)。(※省略) 『聊斎志異』5冊成城堂でとり帰宅。雨久しぶりに降りし。
『花影』1月号来て保田かきをり。『水滸後伝』のこと気になり『水滸伝』よむ。120回本はじめて也。

1月29日(日)
雨やみをり、礼拝にゆく。(※省略) 史夫婦久しぶりに来る。われ選挙にゆき、帰りしあと相撲すみしを見て2人帰りゆく。夜「梅さん」かく。

1月30日
選挙発表のtelevi22:00まで鳴りしゆゑ睡眠不足のところへ平凡社の酒井・渡辺両氏、小山正孝氏と来り、
「地図つけよ。年表・さしゑつけよ。注かけ、概説400×50かけ。原文つけよ」との注文にいやになり相手にせず。
その際『東洋文庫』に『続水滸伝』ありといふに、出て第3冊買ひ来り『成城文芸』にかくことまたいやになり「聊斎の神」でもかかんかと思ふ。
午后丸より電話「統夫に家渡すと云はすな、本日も文子欠席、来月22日で打ち切る」と也。
夜、賀代嫗より電話かかりし故それを伝ふ。足立生来り写真返す。「(※縁談話)せいぜい心掛けてくれ」と也。

1月31日
9:00ユを斎藤dr.に薬とりにゆかせ、10:00われ成城へ卒論の合否決定にゆく。喜多村生「優」となり12:00すみ「優」11人、3.31卒1人。
ちらし食ひて帰り来れば赤阪へ大移るとて、ニンジン((※俳優座の木島新一)その他荷物とりに来り、母もトラックにのりてゆく。
集英社より『日本の名詩』の印税(3,240−324)来をり。(※省略) 
けふ教授要項の用紙もらへば大学院の『中国文学と日本文学』当ててあり。母、夕飯もらはず帰り来て大の貧乏をいふ。

2月1日
7:00まへさめ、7:30出て8:30成城大学。漢文と東洋文化史の試験監督し、まちがへてうどん食って帰る。
(「大安」に電話して『蒲松齢集』きけば「売切れ」と。) 山本に電話して『蒲松齢集』明日とりにゆくといひ、明治書院、中央公論社に教科書ありやときく。(松枝茂夫氏の『中国の小説』に聊斎の悪口あるをよむ。

2月2日
10:30出て地下鉄にて九段下。山本にゆき『蒲松齢集』2冊(2,150)買ひ、
『東洋文庫朝鮮本目録(1,000)』、『満商招牌考(1,000)』買へば1,800にしてくれし故、登校。
個人研究費あまさず使ひしこととなる(わが台湾旅行をしりゐたり)。14:30まで待ちて試験監督。矢野光子来ゐたり。14:45すませ帰宅。
『薔薇』に西保恵以子と前川緑夫人とをならべて村上新太郎氏ほめをり。大江久美子より受取。「わが病気知らざりし」と。
松村潤氏より電話「太宗会に出よ。陳寅格貸せ」と也。

2月3日
曇。8:00さむ。〒なく佐伯へゆき寺田范三『論語(50)』買ひ来し。午前中、美紀子へ電話すれば「傘あす返す」と。
宮崎智慧氏へ電話し「あすゆく故本返せ」と。「野田宇太郎のみ1年間貸せ」と也。(※省略)

2月4日
8:00さめ9:10出て東洋文庫。松村氏のみ。われよみゐるうち岡田氏来り、11:45すませ、
西武dept.にゆき宮崎智慧氏に本返してもらひ、昼食おごる。「大伴氏と友人でなきことわかりし」と。
われ「人のたのむべからず神を信ず」といひ、新宿で雑踏に『戦後吟』おとせしを女学生ひろひ呉る。
帰りて角川の年末伝票見れば詩人集の金もらひしこととなりをり?
大、ニンジン氏と来り、母と出てゆく。賀代嫗より電話「調停に呼び出されし」と也。(※省略) 史夫婦来らず。「志異雑記」200×14かく。

2月5日(日)
晴。暖し。礼拝にゆく。聖餐式もあり。(※省略) 帰り佐伯に寄り『芭蕉と中国文学(300)』買ふ。
14:30滝本生来り『史記』よも了へしころ木野代議士の長男来る。医科1年生にて神経太きらし。けふ『東方学33』来る。(※省略)

2月6日
美紀子11:30来り、昼食くひ、本もたせられて買ってゆく。(※省略)  けふ「志異雑記」200×37にて了りとなりし故、引きのばすこととす。

2月7日
10:00すぎ出て斎藤dr.。満員にて12:00まで待てば家より「野口氏教授会ありといひ来し」と。診察受けて天ぷらうどん(60)食って登校。
教授会にては哲学の岩田君(※岩田靖夫)、北海道大学へ転任とのほか議題なく、しかも長く、
了れば入試問題の校正。これも長く18:00すみて帰宅。『不二』来り、紀元節(※建国記念の日制定)の苦心せしをしるす。(※省略)

2月8日
けふも暖し。「志異雑記」200×50に仕上げし、散髪にゆき散歩して帰り来る。
けふ小山正孝氏より『立原道造詩集(※弥生書房「世界の詩」)』賜はる。尾上氏より「10日14:30再校、刑務所行(※印刷)は15日」と電話ありし。

2月9日
雨。芝原敦子「結婚式に16:40来てくれ」と。『果樹園』来る。(※省略)

2月10日
さむれば雪。9:00出て成城。学科内容かき(教科書かへる)、池田教授へと原稿ことづけ11:30より中国文学史の試験監督。
すみて研究室に一杯ゐる訂正を見てやり、午后短大の漢文すませ、わが研究室にて入試の校正すませ(18:00)帰宅。
潮流社より同人名簿と1月7日の写真来をり。保田・芳賀はともに入りをらず。めでたし。

2月11日
雪。はじめての「建国記念日」。京、学校ありとて出てゆきしと。
雪の中を滝本生来り17:00までゐる。その間に史、一人来て母らとカルタして帰りゆく。

2月12日(日)
午前中、雪つづく。ユも礼拝にゆかず。短大と4年の採点せしのみ。

2月13日
雪とけず。梅田夫人より受取。筑摩より『展望』。けふは終日0℃以下にてタバコ買ひに出しのみ。

2月14日
寒し。斎藤dr.にゆく。薬かへたまはず。正午まへ帰れば母、大のところへと出てゆく。(※省略)

2月15日
よべ時々眠りさめし。6:00さめ7:30出て8:30成城大学。
喜多村生のゼミ85点とつけ4年と短2Aの成績呈出了り、9:30、taxi3台に分乗し13人にて府中刑務所。係員せかせしため尾上委員長もせかされ、
13:30すみtaxiまちて日本料理へゆき16:30またtaxi。一旦成城へ帰りあと野口君に阿佐谷まで送らる。
佐伯にて『日本史3冊(290)』とりて帰宅。けふ上野君のイギリス留学談面白かりし。(※省略) 母けふも大のapartと。
諏訪仁氏の電話きくため名古屋へ電話すれば「紀子ちゃんの式4.24」と。矢野光子と同じ日也。賀代嫗より23日に調停に出る由。

2月16日
よべも眠りにつくこと浅く7:00には早やさむ。10:00まへ昨日かかりしといふ潮流社よりの電話あり、
「丸山薫氏上京─池島文藝春秋社長祝と─ゆゑ神保・阪本・田中冬二・伊藤整?・萩原葉子にて座談会する故あす出よ」と。
午后また電話「潮流社へ来よ」と。
母帰り来て「大の顔色わるくやせをり」といふ。社会思想社より速達、安西均氏等編『詩歌でつづる女の一生』に「青春」採ると也。

2月17日
よべも眠り浅く5:00すぎに覚む。10:30出て潮流社へゆき、神保・丸山・伊藤桂一・田中冬二の5氏集まれるにゆく。
萩原葉子さん来り、伊藤整氏来りしに「城」といふ天ぷら屋へゆき座談会。伊藤整氏bon-sense、桂一氏も2sかくといひ(※不詳)、
14:00になり潮流社へ3編集人とわれゆき、阪本越郎氏来るをまち編集会。三好達治につき座談会すと也。
阪本越郎氏「用あり」といふに同行すれば中央公論社の『現代詩全集(※『日本の詩歌』)』にわれのす。履歴いへ、『悲歌』くれと也。
別れて東京建物に寄れば「西川常務16:00まで外出」と。空腹なりし事わかり、しるこ食ひ(100)地下鉄にて帰宅。
山田教授より「大学院、修士課程にて通りし」と。
坪井明君「上京、第一ホテルにとまりあす帰る。2月27日吹田市長に出る山本(※山本治雄)応援の同窓会す」と也。
本位田夫人に電話すれば「4.24の畠山のり子嬢のこと報せありし」と。
けふ小高根夫人にユ電話して、のり子嬢のこといへば、180cmの歯科医世話といはれしと。
松村氏に電話すれば「明日の太宗会出られず。神田氏に云へ」と。神田氏に欠席いひてすむ。
20:00すぎ岸和田より滝本生「月末までに帰郷」と。

2月18日
よべ0:00すぎまで眠れざりし。「あと咳せし」と母。5:00にさめ、苦しければ母の髪結に出しあと、ユを斎藤医院にゆかしむ。
母12:00帰り、ユ14:00帰り「風邪ひきをり」と寐る。弓子14:30帰り不機嫌なり。(京きのふ母より卒業祝5千円もらひしと)。
京16:00帰り弓子に叱らる。われ夕方近くになれば元気出る。
小高根二郎氏に「嬢いかに。『悲歌』の残り万に一あれば送りたまへ」とかく。(※省略)

2月19日(日)
『バルカノン』来る。丸に電話して13:00ゆくといひ、13:05着き「調停第3次あさって」と聞き「宜しく」とたのみ、
重俊呼びてきけば父の見つけし「山梨はいや、教師には合はず」と也。懊々として出て赤川氏に寄れば外出(のちほど電話かかる)。
本位田に丸のこといへば「この間会った」と。矢野に電話すれば「20:00ごろ帰宅」と。(※省略)

2月20日
高橋重臣より電話「2〜3時来る」と。よべもよく眠れし故、これをこはされてはとふと思ひし。
林富士馬氏へ電話を13:00にかければ在宅。とり次には長息の奥さん出し。13:00林叔母来り、14:00高橋氏来る。長嬢慶応受験と。
『悲歌』のこといへば手帳にかく。堀辰雄の蔵書目録返礼とするといふ。(※省略)

2月21日
10:30出て斎藤dr.。眠剤のこといふ。徹夜採点の事もいへば先生(※斎藤茂太)心配げなりし。うどん食ひ(60)しるこたべ(70)紀伊國屋のぞきて登校。
Salaryもらひしに今年1年の納税額14万余。成城堂に払し、『金枝篇3』、『小福音書』上下とりて帰宅。
ユ、母と赤坂の大にゆき、やがてユのみ帰り来る。
(けふ梅が丘にて下車。麥書房に『本 三好達治特輯(90)』買ひにゆき『悲歌』見しもなき様なりし)。(※省略)

2月22日
暖し。昼間15℃になりけらし。花井夫人に電話すれば『悲歌』東京にもち来ありしと。
阪本越郎氏より『わが途上の花』もらひ外山軍治氏より『東洋の歴史』もらふ。外山氏には礼状かき、阪本氏に電話かけしに不在。
丸弁護士より電話「文子出しも調停不成立」と。近々礼いふこととす。(※省略)

2月23日
「おはなはん」見て登校。大学院の修士課程きまりしも経済不合格にて再審査には博士課程と。山田君怒る。
われに東洋史の一般教養当りしも不審。昼食すみて教授のみ集り、高城君や松村君の助教授審査。
松村君には立教松浦君にたのむこととなり「資料出せ」といひにゆく。
そのあと新宿より都電にて山本書店。1万円余の本買ひ、送ってくれと頼み、われには『李白研究論文集(480)』買ふ。
小高根二郎君より『悲歌』みつからずと。白蓮女史81才にて死にしと。新聞に見ゆ。

2月24日
雨。花井夫人より電話「今日来てよし」と。
12:30出てゆき(※『悲歌』譲られ)3児の賑やかなのを見て仲の子ノリ子ちゃん連れ帰る。飯くはず弱る。
阪本越郎氏に電話し「詩集送る」といへば、丸山・蔵原・X氏と4人で1冊と(けふ中央公論よりも電話ありしと)。
『果樹園』へと「初孫」作る。入浴後milkのみ床へ入るにノリ子ちゃん泣き、電話かければ祖父母上上京しゐると。
21:10駅前にて花井博士のautoにて引渡す。

2月25日
東洋文庫へゆく。松村君来ず、岡田、田川、神田の3氏のほか岡本君来会す。けふにて了り4月8日にまたと。
帰りて飯食ひ、中央公論社よりの電話きけば「挨拶に日曜14:00来る」と。けふ『悲歌』書留速達にて阪本氏へ送りし。(※省略)

2月26日(日)
7:00さめ久しぶりに礼拝にゆく。(※省略) 帰れば澄より電話ありしと。
赤川氏より電話ありし故「来たまへ」といふ。折しもユ、丸へ礼にゆきしあと也。船越の悪口いひおく。
採点漢文すませ(点まへよりきつくす)、ユは賀代嫗に電話し「不貞の事実あらば離婚容易」といひ、「また借金時効にかからず」をもいふ。
「不貞の証人出来さう」と賀代嫗の話也。澄に電話し泰の泣くをきく。「その中よこす」と也。
(東洋文庫の石田君より電話、前田勝太郎となつかしがりゐると。土曜に文庫にゐるといふ故「近々会ふ」と答ふ。)

2月27日
採点概ねすませしに中央公論社の近藤氏より「いまからゆく」と。15:30来り『日本の詩歌』の計画書見せらる。
第24巻に丸山、田中冬二、立原、蔵原とで解説を阪本越郎氏担当。伊藤整氏も阪本、神保、津村もなし。感謝す。
(編集委員は伊藤信吉、伊藤整、井上靖、山本健吉の4氏なり)

2月28日
9:30出て斎藤dr.。中央公論社の『日本の詩歌』のこと申上げればご存じなかりし。
12:30教務に採点提出、講師室へゆけば池田博士、ついで栗山博士、『バルカノン』の話し、図書館へ山本より来りし10,625の本もちゆく。
帰り佐伯に寄れば『漢和辞典』たのみありと。集英社より『日本の詩』、『世界の詩』の増刷通知来をり。小山正孝氏より電話ありしと。
散髪にゆき、夜、小山氏に電話すれば「来週来る」と。けふ船越章『ラジオテレビ放送研究必携』もち来り、5千円借りゆく。美紀子妊娠らし。

3月1日
6:40起き7:30出て8:30成城大学。(※省略) 11:00より試験監督。欠席あり女史の方多し。すみて昼食。
14:30まで待たされ採点18:00了り夕食し、20:00まで待ちて自動車にのれず帰宅。(※省略) 角川より56,440−5,644『Heine20版』として来る。
集英社より『白楽天』再版4千部を3月10にと。『地球』2号に小川和佑「津村と田中」をかく。
服部夫人より電話「高円寺泊り、あす来る」と。(母、大にゆき2泊と)。

3月2日
8:30起き「おはなはん」見しあと髭そり服部夫人(※服部正己夫人サノ子氏)を迎へにゆく。昨夜泊めし元■大教授送り来る。
つれ帰れば、大学書林より本出すにつきの苦心談話し(※『言語学の基本問題』昭和42年2月発行)、
昼食後、川崎の姉の家へゆき「夜帰る」とのことにユ、送りゆきしに帰らざる様子。
みな精神異常あり、可怪。

3月3日
6:50起き成城へ7:30着。前々日の手続をへ、監督了り採点し18:00にはすむ(500名以下)。
『邪馬台国(480)』ひまつぶしに買ふ。20:00早く出て帰宅。(※省略) 母「けふも大の処に泊る」と。
服部夫人「きのふ川崎の姉宅に泊りし」と電話ありしと。
宮崎智慧女史「あす来訪」と。松浦母上来り「美紀子妊娠まちがひなし、8月末出産」と。

3月4日
休み也。11:00弓子出てゆき新宿で京と落合ひ富士吉田へskatoにゆくと母に電話すれば7日まで帰らずと。
佐伯にゆき字引のこと云へば「けふ来る筈」と。芝原生より電話。
宮崎智慧氏より電話「前川佐美雄氏あす来る」と。「けふ伺ふつもりなりしも伺はざる方宜し。西武にはもうをらず」と。
「いつにてもお越し」といひしあと、佐伯氏『長沢漢和辞典(1,300)(※三省堂漢和辞典)』もち来り、1,000にて分け呉る。

3月5日(日)
礼拝にゆく。(※省略) 帰りの電車にて柳谷義君と会ひ、ともに佐伯にゆき、
『研幾小録(7,800)』と『日本近代文学と外国文学(230)』借りて帰り、昼食ともにす。来週香港より帰りし衛藤瀋吉氏の話ありと。
午后より雨となり(朝のうちは風)。(※省略)

3月6日
雨降り斎藤dr.にゆかず。午すぎ弓子、京帰り来り、風と雨にて宿にこもりゐしと。
山前実治君の紹介にて上田氏来り、教科書出版のこといふも「ゼロックスにて間にあふ」といひ、阪本、丸山2教授を紹介す。
小山正孝氏来り「西脇(※順三郎)一派は朔太郎の正統つぐ」といふ由。夕食すすめしもきかず帰りゆく。(※省略) 
母けふも帰れず。弓子の呉れしMisa音楽の切符つかはず。高橋重臣氏より『悲歌』来り「高知大へ出講の為おくれし。嬢同志社へ入りし」と。
川久保悌郎君より電話「卒業式の為来し。松本(※松本善海)を羽田(※羽田明)も見舞ひ、4月より出勤したしと云ひをる云々」。

3月7日
ユを斎藤dr.に薬とりにやらすことにし9:50成城大学。
275人−80人のうち150人+55人とることとし、縁故云はさず寄附だけにてすみしあと昼食し、栗山部長「任期満了(三期)後任を選挙せよ」と。
高田、堀川、池田の3人にて再投票、高田、堀川にて3度目の投票して過半数に達せしも高田承知せず。
考慮してもらふことにてすみ、(※省略) 14日の編入試験の問題作る。(※省略) ユにきけば母一度帰り来しと。

3月8日
弓子早番にて7:00出てゆく。服部さの子夫人より「まむし旨かりし」と。
小高根二郎氏より「原稿同人費受取し」と。今井翠生に電話し「湘南白百合2〜3人通りし」といひ「美紀子よこせ」といふ。
けふ佐伯へ『研幾小録(7,800)』の代払ひにゆけば200負けてくる。(※省略)

3月9日
雨。教会より12日壮年会の通知ありしのみ。
夜、ユをして依子に電話せしむれば「畠山ノリ子の婿は公務員にて東京住ひ、関口、本位田、われわれ夫婦呼ぶ」と也。
泰「ババ、ババ」と云ひし由。21:00すぎ松浦高嶺氏より松村赴君の業績批判の速達来る。

3月10日
曇。調布鵜ノ木町の松村赴君に「電話せよ」と電話電報す。
阪本越郎氏より電話「三好達治につき問合せたがわかった云々」、われも礼いふ。
10:00松浦氏より資料も返還受けしあと11:30松村君より電話ありし故、その旨云ひてすむ。(堀夫人に電話せしも不在らし)。
大より電話「8月の父7回忌10万円でやる。絶対に物貰はぬ事」と也。母帰り来りきげんよし。
阪本氏に『果樹園』数十冊を小包にして送る。京、高校の卒業証書もらひかへる。(※省略) 
夜、前田勝太郎氏に電話「あす雨止めば文庫へゆく。石田君にも伝へよ」といふ。

3月11日
晴。15:00出て東洋文庫。
石田君を総務部長室に訪ね、前田君来りしと出て駒込駅前でbeer3本、白鳥先生と敗戦後は合はず、鎌田にのせられしと。
帰宅の途『李賀(200)』買ふ。阪本氏より「彭沢令」の意味。(※省略)
朔太郎の会より「5月7日(日)前橋に来るや」と。けふ美紀子来り、元気さう也と。

3月12日(日)
ユ風邪とのことにて1人礼拝にゆき小室君と同車。「立教大学院修士了りし」と也。礼拝すみて3人の地方教会への送別。
ついで衛藤瀋吉氏の香港の話あり。すみて名店会館食堂込みゐるに出てゆけば衛藤氏に会ふ。
古本屋見て13:40教会に帰れば、ユ来る。14:00より田口祥子・長島昭氏の結婚式。披露宴立食にて疲れ17:00帰宅。
まもなく滝本生くる。ユ仕立て3着たのみし。けふ『友へ贈る山の詩集』といふが来り、わが詩2編のす。(※省略)

3月13日
晴。10:30出て斎藤dr.。「躁の方が仕事できる」との仰せ也。帰り12:30になりし故、家に電話し「美紀子またせよ」といひしに昼食しをり。
16:00ごろ迄話してゆく。悪阻その他全然なき様子。生垣直しすむ(2.9万)。(※省略) 史セビロ取りに寄る。
夜、澄より電話「4月1日頃、水戸出張の時、母子つれ来る」と。松村赴君の業績検討すむ。

3月14日
9:30登校。転入学の試験監督を11:30までやり面接し、(※省略) 。
教授会。高田瑞穂君、条件をいひ学部長を断る。(※省略)  教授のみの会。松村赴君の業績われ説明し、松浦暢君問題なく助教授。
高城楢秀君の精神につき我れ聞き苦しく「同病相憐む」といふ。結局3人とも認めしあと、
大学院設置のため今井富士雄、山内清男2講師を教授とせしこと問題となり今井教授成立す。
研究室に帰りて高田君を再び推すこととし被選挙者を教授にせんといふことになりし様子。朝香生をさそひて帰る(成城堂で『三好達治』買ふ)。
京「府中市役所へArbeitにゆく」と。(※省略)

3月15日
母、国立劇場へと一人にてゆく。あとにてきけば「今夜、大のところに泊る」と。
賀代嫗より電話「統夫、今月限り会社やめ九州へゆく」と。夕方下痢。Televiにて大阪場所見物の長沖一氏を見、こゑもきく。

3月16日
散髪にゆき帰れば美紀子来てをり「明日母迎へに来る」と。昼食まへ今井へゆく。15:30出て地下鉄にて竹橋、学士会館へゆく。
16:45まで待ち讃美歌うたふ。(※芝原敦子生結婚式 省略) 了りて1人hyreにのり新宿まで来る。

3月17日
ユをして名刺注文さす。「450円にして21日出来」と。(※省略) 18:00夕食すませし処へ水戸に梅見に林叔父・叔母とゆきし母、美紀子帰来。

3月18日
こぬか雨の中を佐伯へゆき木崎国嘉氏『女のあくび(150)』買って帰れば滝本女史の後ろ姿を見、20:30まで話してゆく。
けふ「成城大学大学院の教授会議を29日13:00より」との令状来る。文芸判定の日也。

3月19日(日)
礼拝にゆく。田口、芝原2嬢結婚と週報にしるす。「大安」来りしのみ。
けふ澄より電話「春闘にて上京未定。この間岐阜で影山正治、鈴木正男に会ひし」と。『果樹園133』来り、わが「梅さん」を文章とす!
夜、高橋重臣君「嬢、慶応大学入学、小山正孝氏の電話教へよ。『四季』にこの間の詩だめか」と。「だめ」と答ふ。

3月20日
8:30出て成城大学。卒業式新築母の館で行はれ、学長の辞短く、理事長の辞なく、卒業生名の列挙なくてよし。その上暖かなり。
記念写真写さず研究室に帰れば矢野光子結婚式の案内状呉る。4.24(月)17:30学士会館にて (※省略) salaryもらひ、
教授会にて学部長選挙規定承認の上「正教授会」高田13、池田3、臼井1、堀川1にて一般教授会となり、高田当選。
今井教授、松浦助教授、松村助教授の披露もありし。(式場にて『四季』にと「晩年」つくれし。)
喜多村生と約束せし故、Albumもち帝国ホテルの16:00よりのtea-partyに出席。筆箱もらひ18:00退出。
古本屋にて『印度美術史(500)』買ひて帰宅。賀代嫗より文芸2次受験生のこと頼まれしといふに「断る」と返事。
母けふも風邪なほらず「寿一の長男、千葉大受験して落ちし」と。

3月21日(春分の日)
斎藤dr.にゆき薬もらふ。「学校このごろいやでなし」と申上ぐ。帰り名刺(400)とり『文藝春秋』買ふ。(※省略) 
井上多喜三郎一周忌の案内。全田叔母より「キリスト教の誰かを教へよ」と。頭わるくなるほど日記よむ。

3月22日
雨。全田叔母へ佐治牧師のこと書く。多喜さん一周忌に「ゆけず」と返事。(※省略) 
平凡社より百科事典増版印税300! 『花影』は『紫珠』と改名、宮崎智慧氏はづさる!
堀夫人に電話すれば「四季の原稿かきゐる」と。潮流社へ詩「近況」かく。賀代嫗14:00来り、統夫と意思疎通せざる様子。
折から諏訪母上来たまひ(ユ駅へ迎へにゆく)、船越へとゆく。母上は孫の音楽会にて来たまひしらし。
潮流社より電話「三好座談会に大岡信、加へるゆゑ4月の17:30より(※日未定)」と。
(午まへ潮流社へ3千円と詩速達す。佐伯にて『啓禎野乗』2冊もらひ『印度、印度支那(50)』、『ドイツ文学史(70)』買ひし)。
夕方澄より電話「中部地方のintelli夫人教へよ」とのこと、秋山(徳永)昭子夫人いひ見る。

3月23日
6:00すぎ覚め7:45出て成城。第2次試験文芸・短大やり13:00すぎより採点(樋口、松村氏らと)。18:00には終りしも調整の為、再採点。
beerのみて22:00帰宅。畠山紀子(※敬子)嬢の式の案内来り「4月24日16:30ホテルオークラにて」と。(潮流社より受取の電話ありしと)。

3月24日
この頃日記よみ返す。(※省略) 角川より『短歌』の稿料(1,500−150)。
(※大東塾)鈴木正男氏より「宮中奉仕20周年につき第一次に西島大出しや否やしらべさせよ」と。電話教ふ。
美紀子、今井翠母子つれ来る。(※省略)

3月25日
8:40登校。ぶじすみ採点(大藤氏「29日の矢野君の送別会に出てくれ」と)。18:00夕食し、さっさと帰り来る。
(28日の入学試験委員会10:00からと。) 井上多喜三郎氏『曜(※遺稿詩集)』1口1千円と岩佐東一郎氏より。(※省略)

3月26日(日)
復活祭とて夫婦にて礼拝。すみて茶party(田口)長島夫人をり。(※省略) 帰りまた礼拝委員の一人と同車。
(けふ竹内令息のこと、ユ豊中にゐる足立生に速達す)。われきのふをとつひより日記よみ、をかし。
21:30よりのtelevi「大学批判」に出て来し桑原武夫博士、死人の如くやせて見えし。

3月27日
9:00まへ潮流社より電話「4月8日18:30座談会」と。原稿みな短きなり。ユ、三鷹へと出てゆき帰らず、母も大のapartへゆく。
16:00ユより電話「浅野dr.(※浅野建夫)邸にをり」と。帰り来り「浅野やせし」といふ。(※省略) 京、学習院にての西武dept.の講習にゆく。
名古屋へ電話せしに「泰、風邪とかで畠山家へ2日に祝にゆく」と。

3月28日
6:00さめ9:00出て成城堂に時間つぶしに入れば大藤氏来る。
会議の室わからず10:05ゆけば、池田、唄、戸口、佐久間と4専攻の代表来をり、山中氏のみ来ず。
部長の案きき295人位とるやもしれずとなる。(内寄附26人にて、まへの29人に合せても4千万円ほど也。但し点高く気持よし)。
(※省略) 昼食たべ研究室にゆけば鎌田女史あり!早々出て帰宅。(※省略) 
(けふ名古屋の畠山家へ1.5万円祝に送り、ユ斎藤dr.に薬とりにゆきし也)。
20:00よりteleviにて吉川(※幸次郎)、貝塚(※茂樹)、桑原3博士の説をきく。

3月29日
10:00より第2次入試及落判定会。例になくスッキリとゆき11:30すみ昼食まち、食ひしあと14:00よりの大学院会議といふを待つ。
わが大学院教授をふくめ8コンマとなり、大藤氏漢文講師いれんといふ。
宮崎氏と出て原宿の南国飯店、栗山部長、山田、大山、宮司、上原、岡本の5主任と宮崎、我の代理出席。矢野副手の結婚退職を祝して乾杯す。
(栗山博士、我の有名詩人なりしことを披露す)。山田氏のさそひ断り阿佐谷駅にて家に電話(21:00)、ユ未帰宅としり岡田家へゆく。(※省略)
21:30挨拶して帰宅すれば「澄より電話ありし」と。かければ「依子母子風邪にて腸こはしゐる」と。ユをゆかすこととす。

3月30日
朝起きれば頭痛く「宿酔」と母いふにwineのむ。「忙しい日」を『果樹園』にかき、同人費と速達し(125)、
佐伯にゆきて『支那美術史論(500)』、『古川柳艶句選(800)』もらひ、都民銀行にて2万円おろす。(※省略)
島居清氏より「天理図書館やめ神戸の女子大に移りし」旨しらせられし故、祝辞かく。
澄より電話に母「(※悠紀子夫人名古屋へ)もう着く筈」と答ふ。熱37℃台と也。(※省略)
多喜さんの『曜』に賛助費出せと山前氏よりも通知あり。(※省略) 咲耶より京に卒業祝来る。(※省略)
15:30山田俊雄教授来訪。貸せし本返し「来年度の大学院講義やめんか」と。
16:00和田賀代嫗来り、疲れに疲れをり。文子入院費とて2万円もちゆく。
17:00澄より電話「ユ着いた。依子・泰には心配いらず」と。(※省略)
大に午電話し辜鴻銘の閲歴よんできかす。「西洋文化を知り、しかも弁髪を切らざりし」と。孫娘来日を大が知りし故也。(※省略)

3月31日
家居。〒なし。暖かし。20:00澄宅へ電話すれば「病人心配いらず」と也。(※省略)

4月1日
9:00滝本生より電話「病院につとめゐる。18:00来る」と。(※省略) 堀内民一氏より「名城大学教授となりし」と。(※省略)
15:30京より電話「生活club所属となり、帰り18:30」と。喜多村生より電話「つとめひま也」と。
18:00すぎ滝本生来り、夕食し、漢文に疲れて帰りゆく。

4月2日(日)
礼拝にまいる。(※省略) 「寿一の坊や、埼玉大学に通りし」と!

4月3日
6:30覚む。昨夜来りし畠山六栄門氏より祝受取「本位田夫妻、関口娘夫妻出席」とのたより見る。
8:00まへ名古屋へ電話すれば澄出て「よべ帰りし」と。ユ出て「あす泰つれて帰る」と。(※省略) 
寿賀子に電話し「入学祝に字引贈る」と。(※省略) 午后、潮流社より電話「8日18:30西新橋の中国飯店にて」と。
けふより『金瓶梅』のcard作り、疲る。18:30名古屋より電話「ユと泰と14:22発のこだまに乗る。迎へたのむ」と也。

p8

4月4日
斎藤dr.へゆき「眠剤用ふるのみ異常」と申上ぐ。薬かへたまはず。
帰りて14:30澄より電話にて「14:22発17:05着こだま6号車」と也。待ち兼ねて東京駅にゆく。
泰いたって機嫌よし。けふ「うつぎ」にて『新々朝鮮語会話(100)』買ふ。

4月5日
(※省略) 北口の竹内家見にゆき、母、大へとゆく。泰ひるねの時間に眠らず。
けふ「朝日」に『日本の詩歌』9月発行の予告出る。堀夫人、軽井沢町追分より『蔵書目録』賜ふ。
(※省略) 堀夫人に礼状かき日生七階の浅野晃・三島由紀夫のPoemusica(※『天と海 英霊に捧げる七十二章』)ききにゆく。
中谷孝雄、富沢有為男、河盛好蔵、戸田謙介、田中冬二、神保光太郎、芳賀檀、佐藤春夫夫人(「竹田龍児氏帰朝」と)を見、
三島氏に挨拶し、安岡正篤の手紙、堤清二氏の挨拶にて退出。Juice 1盃、tobacco 2本のみしのみ。

4月6日
京、西武の休み、留守番さして矢野家へ祝にゆく。新郎は日石系の技術者29才と。
目出度し目出度しといひ泰荷物ゆゑすぐ出て甲州街道にてtaxiひろひ帰宅。京、吉祥寺公園へと出てゆく。(※省略)
村上新太郎氏よりわが詩歌ほめし『薔薇』来る。成城大学より大学の時間割来る。(※省略) 高橋重臣君に『堀辰雄蔵書目録』送る(30)。
『宋詩概説(150)』、『紅楼夢1(30)』買ふ。丸屋市川(※古本屋)つぶれしを知る。(※省略)

4月7日
ユ、泰と柏井。尚子にくやみ云ひ直し、卒中後2日半意識ありしときく。
30日賀代嫗、わが家へ来しあと入院ときく(夜、平田に電話し「今週にて退院」ときく)。(※省略)
『民間伝承』受取り菊池(芝原)敦子よりの挨拶見る。澄より電話「畠山一家満足す」と。母、夕方つくしもちて帰り来る。(※省略)

4月8日
6:00さめ9:00出て東洋文庫。コーヒー途中でのみをれば、田川博士の通る見え、
出て松村研にゆけば神田、松村、岡田3氏已に来りをり、岡本、阿南2氏も来る。
すみて阿佐谷。駅前の佐伯できけば「丸屋市川先月死にし」と。『ナチスの時代(70)』買ひて帰宅。
「けふ母の留守しゐる処へ山田教授、本返しに来玉ひし」と。
『三好達治』よみ14:30出て、西新橋(もと田村町)の中国飯店へ15:20つけば速記の女史のみ。(※『四季』座談会)
16:40に丸山氏を案内して八木氏(※八木憲爾)来り、ついで黒田三郎・大岡信の2氏来り、座談1時間余り。帰宅22:00かっきり也。
泰ユともに眠りをり。(※省略)

4月9日(日)
よべ0:00近く眠り6:00さむ。礼拝委員とて8:00出て吉祥寺駅前にてコーヒーのみ(80)、教会へ9:10着く。
はじめてのこととて疲れ壮年会には出ず。12:10帰宅。
畑山敬子(※のりこ)君より礼状。「私にすぎる婿」とかきあり。夕方、依子より電話。「13日夕方上京」と。

4月10日
疲れて8:00まで寝、あとも横臥。(※省略) 堀多恵さんより「書目もう1冊送らうか。軽井沢へまたゆく」と。
田代継男より「一度浦和へ来よ」と。ユ、泰をつれてタカ子のところへ遊びにゆきし也。(※省略)
澄より「依子13日14:00乗車」と。史来り、卒業免状もちゆく。

4月11日
雨。10:00出て斎藤dr.。「相変らず好調ですね」と薬かへ玉はず。12:30帰宅。ユ、今井翠宅へゆく。台北の梅さんより日本語の便り。
山本文雄氏より「産経やめ東海大学教授となりし」由。

4月12日
午すぎ1,000もちて佐伯へゆけば『紅楼夢(1,150)』とりのけあり。本売り『内外蒙古の横顔(650)』とともにもち帰る。(※省略)
夜、美堂正義氏より「むすこ東大文3に入りし」と電話。『果樹園134』恰も来りをり。

4月13日
曇。寒し。林素梅へ『果樹園』の切抜おくり「頼永承夫人によんでもらへ」とかく。服部夫人より『言語学の基本問題』贈らる。
依子、14:05のひかりにて上京。とたんに泰おとなしくなる。
その前ユ、俊子姉より帰り賀代嫗発狂ときき、統夫聡子に電話す。夜、鎌倉へ電話せしに統夫宅へゆきしらしく応答なし。

4月14日
9:00船越章来しゆゑ賀代嫗の病状いひ見舞にゆくこととなる(統夫にユ、電話にて住所きく)。
戸塚下車大船行のbusにて下倉田のapartにゆけば、みさ子と賀代嫗とあり。(※省略) 章と出て戸塚駅前で昼食し、別れて鎌倉。
藤沢行のbusにて鎌倉高校前下車。鈴木病院につき(※省略) 、統夫宅に帰り斎藤dr.にゆくこととし、電車にて(※賀代嫗)つれ帰る。(※省略)
統夫・聡子より抗議の電話あり。けふ「志異雑記」の校正出る。8p。鎌倉にて『支那の仏塔(150)』、『横浜地図(130)』買ふ。
村上新太郎氏より「何か書け」と。小野勝年氏より「奈良国立博物館を3月末退職」と。(※省略)
成城学園より「50周年記念会を5月5日10:30に開く、出欠を4月20までに」と。

4月15日
8:30出て地下鉄にて斎藤神経科。院長先生外出の処を望見、代診先生「お年ゆゑ回復するか否か不明」とのことにて火曜までの薬いただく。
「志異雑記」の校正送り、台北の林素梅小姐への手紙出して帰宅。平田聡子より「斎藤病院にゆきしも帰りしあと」と来ることを云ふ。
やがて来ていろいろ話きき、躁の症状あらは也。あとにて統夫より電話かかり母子喧嘩して了ふ。
折しも滝本生来り「癌患の看病しをりし」と。夕食くひ、宮崎智慧女史の来るを見て帰りゆく。
宮崎さん大宮八幡の婚礼所勤務。『日本歌人』続刊にて同人に加へられをりと。
仏滅の日休みとて近々しらべて参るといひ、帰り玉ひしあと、京「残業ゆゑ遅くなった」と電話。時に21:00。(※省略)

4月16日(日)
雨。よべ賀代嫗、便にたたんとして倒る。ユ、滝本女史を看護にと電話かけしも睡眠中。数男を呼ぶも眠りをりとて10:00再びかける。
賀代嫗入浴、ガスを大いに出す。服部夫人よへ礼状。宮崎智慧氏に「29日(仏滅)の都合いかにや」と問ふハガキかく。
数男、俊子の姉弟来り、わが話ききしあと賀代嫗と14:00まで話しゆく。亀井昇来り昼食す。永山光文を電話にて掴へ話さす。
「15:00の汽車にのる」とてこれも14:00出てゆく。間に滝本生起き、電話かけ来る。
集英社より『世界の詩』、『日本の詩』増版と。(※省略) 
中野清見より「丸重俊の就職むつかし」と。丸に電話かけその旨いへば「手紙にて承知した。本人がその気になるまで放置す」と也。
ミノベ都知事当選。(※省略) 母、大宅にて風邪ひきをり。(※省略)

4月17日
よべ23:00病人入浴とて眠りつきわるかりしも7:00前さむ。(※省略) ユ、経夫(※統夫)に電話すれば「あのまま家におけばよかった」と怨み、
「今夜来ず。明日斎藤神経科へ来るかもしれず」と。中野清見へ「途方にくれた」と返事。
11:30滝本生来てくれる。折からユ呼ばれて美容院にゆけば「統夫の為に100万円(2間)の家あり」と也。
母12:00すぎ突然帰り来り「諏訪仁氏のmassageにかかりし」と。
様子見て15:00までにと大への貯金下さんとせしも判みつからず3万円借りてゆく。
賀代嫗、約束手形を取り出しその他財産のありかを云ふ。この間、滝本女史、泰つれて出る。(※省略)

4月18日
6:00さめ滝本女史の起くるを待ちてたのみ、8:00出て地下鉄にて8:30斎藤神経科に着き、外の掃除する婦長さんに挨拶し、
no.1として9:20院長先生にお目にかかりたのむ。9:30すぎ外に出て待てば俊子、ユ、滝本生、病人をのせし車来り、その旨云ひてわれは帰らんとし、
駐車場さがす尚子に会ふ。一旦家に帰り茶漬食って登校。成城堂のマス子さん、夫大阪へ転勤とて曽根に住むと。
成績表とりに来る学生に暇なく14:10の教授会。大学院の案内くばられ20日入学試験と。
修学旅行の土産に飛騨半紙もらひ(定期の補助金もらふ)、早々帰ればユ、帰りをり。章も来り、患者のぞみ3週間と入院し、滝本生つきくれしと。
(※省略) 美紀子より電話「今井よりきいた。明日あさっての中に来る」と。(※省略) 澄より依子に「あす21:00ごろ来て兄の家に泊る」と。

4月19日
雨。9:00出て阿佐谷駅にて3ヶ月定期買ふ(5,400)。登校の途、田中滋生と同車。
副手をらず「東洋文化史」をやるにつき講義要項のべて11:00了り、昼食の天ぷらそば待てば坂出秋彦氏逝去。けふ告別式と掲示あり。
(※省略) 午后また中国文学の講義要項のべ(※省略) これも早く了り14:00に退出。帰ればユあらず。しばらくして帰り来り、(※省略) 
斎藤神経科にて聡子に遭ひ「何もかも田中に預けあり」と病人云ひしと。ついでユの外出せしまに滝本生より電話「西島大の家賃3万円も立替へし」と病人が聡子に云ひし旨。便とらしをり、雑巾ほし、雑誌ほしと也。
美紀子来るかと思ひしに来ず。川久保君より電話ありしとのことに17:00すぎかければ、
「羽田に江上波夫還暦祝にて会ひしに、田中に信とどかずと云ひをると。松本善海休職となりし」と。
行くか来るかといへば「あす来るつもり」と。澄21:00来り、兄の家へと40分にして出てゆく。(※省略)

4月20日
章来りし故、日曜の親族会議の議長となれといふ。川久保に電話すれば「11:00ごろ来る」と。
来りて松本のことくり返しいひ、羽田の名士となりゐるを云ふ(ユ、斎藤神経科へ入院料2万1千円を立替へにゆく)。
依子すし出し、美紀子の来りしを見て川久保を佐伯に案内し、神田へゆくと別れて登校。
山田教授に会へば大学院の本年度の講義免除されしと。池田大学院科長より辞令(4月1日付)をもらふ。
短大の『唐詩選』すまし研究室に帰れば、
古野清人博士(耳遠くなりをらる)、小川徹講師(東大地理学科を昭和13年卒と)おいでにて、古野博士より例の如く苦言を受く。
15:30出て帰宅。ユ帰りをり「昨日、経夫夫婦病人を見舞ひ、転居のため付添へずと滝本生にたのみゆきし」由。
美紀子、泰を今井姉につれゆき、依子あと追ひしといふに電話すれば「帰りし」と!
川久保、傘忘れしをとりに来りbeerのんでゆく。
けふ『文芸クラブ通信18』来り、(※省略) 22:00まへ澄来り疲れゐる。

4月21日
よべ23:00すぎ寝、6:00まへ起きて火おこし餅やきなどす。泰、依子8:00すぎ起き、われ9:00まへ出て成城大学。
1年の東洋史を出欠厳重にとるといひ、(※省略) semiまで休み1時間あり。大藤氏や新任の毛利氏(演劇)と話す。
その間、松浦高嶺氏への謝礼預り、8人のsemiそろひしにそれぞれ本貸す。そのあと貸すべき本を考へsalaryもらふ(※省略)。
手取りは9万円余にして成城堂に払ひし、益子さんに別れいふ。(中国文学史4時間目とて50人足らず也。)
疲れしも下北沢にてのりかへ駒場町の松浦邸たづねたづねしてゆけば夫人の妹出て来らる。
18:00依子より電話「泰わが家おぼえゐし。Cameraうっかり持ちゆきし」と也。けふ京とがり、帰りてもの云はず。
足立家へ電話かけ「家なし。写真返せ」といふ。けふ泰の汽車に新婚見送りに来ゐし由、哀れ!(※不詳)

4月22日
よべユ早くね、我も入浴後ねし。8:00松浦高嶺氏に電話すれば「ご丁寧に」と。「栗山理一氏に受取を」とたのむ。
9:00出て東洋文庫。阿南、岡本2氏来り、田川博士入院(成人病ホームへ)と。
すみて(松本善海「アジソン病」と)阿南氏と昼食にゆけば、松村、岡田2氏も来る。帰りて散髪。ユ、帰り来り「賀代嫗、滝本女史と入浴」と。

(※省略) 

4月23日(日)
6:00まへ目ざめ、ユのを礼拝にゆくを見送り、花井夫人に電話すれば「class会に出席する」と! 母に電話すれば「帰宅す」と。 
益子、沢田、小野勝年諸氏に返事かく。10:30出て新宿。駅にて新橋centre3号館ききゆけば金鶏菜館いまだ開かず。(※クラス会)
16:00になり喫茶代をわれ払はんとすれば星野夫人に突きのけらる。帰れば統夫より電話、入院費、家賃にて立替へてくれと也。
(※省略) 本位田より電話ありしといふにこちらよりかけて「明日モーニング着ず」といふ。(※省略) 
坪井明君より大手前高校長に変りしと。集英社より5千円余の印税。足立和子より吊書返却。

4月24日
よべ喘息おこりしらし。ユ眠れずといふ。章来りしも「ユ眠りをり」との事に柏井に電話してすみしらしく「あす斎藤神経科へつれゆけ」と。
横田俊一氏より転居通知。スワへ電話し「電報打つか」といへば「打ってくれ」となる。駅前郵便局にて電報(35)。
『武家法制(30)』買ひ来る。ユは祝着かりにゆきパーマかけにゆく。(※省略) 16:10ホテルニューオークラにつけば本位田夫妻と嬢とあり。
(※畠山敬子嬢の披露宴) 受付に博光重光と関口令嬢。席下につけられ話相手もなく、新郎癌研外科尾崎秀郎博士の挨拶ありし!
また四谷までtaxiにのりて帰る(140)。阿部、宮崎両女史より電話ありしと。(※省略)

4月25日
9:00前、章君さそひ斎藤神経科。10:45診察の番まはれば先生「和田賀代氏、近々退院できる。統夫即刻退院を云ひし」とのことに非礼謝し
「も少しおいて頂き小金井へ」といふ。われ喘息起りしをいふ。
病室にゆけば高々と話しをり、滝本生に「要るもの買ひし故いつまでにても」といふ。「けふみさ子来る筈」といひて出る。
成城阿部女史に電話すれば「校正出をり」と。(※省略) ユ、この間より熱あり医者にゆけば腎盂炎と。(※省略) 
滝本生来り、賀代嫗の命にて4月分月給26,600とり来り「欠勤届しをらぬことわかりし故、5月末まで欠勤とす」と。
「月給も渡せば和田夫婦にわたす恐れあり預れ」と数男に電話せしのち、預りの手紙かきてわたす。
夕食くはず金とらず19:00病院に帰りゆく。気の毒なり。
けふ西川英夫より電話あり「変りなきや」との事なりし。われも風邪にてあす出勤つらし。
20:00松浦薫氏より「あす15:30高島屋8階にて会ふ」と電話。(※省略) 京、初のsalary9,000もらひしと。(※省略)

4月26日
9:00登校し、阿部副手の来るを待ち、校正し了へ責了とす。
東洋文化史に朝鮮の信仰講じはじめ1pにて了り、昼休みの時間は図書館へ本とりにゆく。
ついで『論語』(室に満ち、後ろ向きの男生4人を「出ろ」といへば出てゆく)。(※省略) 
高島屋へ直行すれば15:35にて、武田明氏(民俗手拭などやりをり、大藤氏を知ると)に紹介され、
讃岐展を見、うどん6玉買ひ、方言手拭買ひして、うどんおごられ、紙鳶うちわと菓子ともらひ、美紀子つれて帰宅。
ユ、ねつ盛んにいひ18:30帰りゆく。 (※省略)

4月27日
ここしばらく晴つづく。10:00前、母、京を伴として東京駅へ、ユ近藤医院へ出てゆく。
11:30ユにうどん煮させ登校。(※省略) 14:00まへ学科の予算を大藤教授より示され「20万円の本をそれぞれ買ってよし」と。
短2Aをすませて研究室に戻ればArgentinaより山野井生帰りをり。「インカの遺跡も見し」と。167cmの大きさ也。
疲れて阿佐谷へ直行、佐伯へゆけば『独和辞典(700)』つきをり。『比律賓民族史(130)』買ひて帰宅。
集英社より『白楽天』4,000部の印税(80,000−8,000)届きをり。(けふ大藤・鎌田2氏に多度津の武田明氏のこといへばよく知りをり。)
賀代女史、ミサ子の付添にて熱出せしと、滝本生よりユに電話かかる。

4月28日
5:00すぎ起き、8:30登校前に小高根二郎氏へ「実況(詩にならず)」と同人費2,500速達す(125)。caramel買ひ(20)て登校。
東洋史は「清朝前期」すませ、semiにては増田和貴子生のみcardよみ教へ、中国文学史は『詩経』のprintやり、
「Rowhide(※ローハイド:テレビ番組)見るために」早くやめしあと、名箋をエンマ帳に貼り、恰もR.の時間に帰宅。(※省略)
集英社より『王維』来る。ユ、ややよく夕飯してくれ18:30出て洋缶詰(2,020)買ひ『独和辞典(700)』買ひ『叢書集成初篇日録(150)』買ひて乗車。
三鷹へ19:15つきしも迷ひて約束の20:00の5分前に早川家につけば知慧夫人(※宮崎智慧氏)帰りしところらしく、話し出せば止まず。
「堀内民一博士、前川師(※前川佐美雄)より破門となりし」ときき、失笑す。徳薄きことかな。
21:10すぎ出てbus教へられ三鷹駅に出、帰宅は22:00也。入浴(早川夫人より世界教養全集版『猪鹿狸』いただく)。

4月29日
天皇誕生日。雨。よべ眠れず。疲れたり。Televiにて「Vergiss-mein-nicht(※映画「忘れな草」1959)」見る。まへに見しとユの話なり。
7回坂口生より「5.20、class会する。大藤、鎌田の2氏も出席す」と電話。笠井夫人よりも「あす来る」と電話。
寿一の長男来しゆゑ入学(埼玉大学教育学部)祝に『独和辞典』贈る。京、残業とて遅し。山本治雄、吹田市長に当選。

4月30日(日)
ユ、腎盂炎の熱とれず、われのみ礼拝にゆく。帰りて笠井夫人に株券わたし、ユ病院へ電話すれば払ひ3万7千円。小遣ひなくなりしと。
そのあと文子より電話かかり「子どもゐなくなった」とのことに「訴訟して吾とは縁切れし筈」といひて切る。
26:00依子に電話かければ「畠山六栄門氏、(※披露宴での父の)不愛想を気にしてゐる」と。泰の入浴中なりし。

5月1日
8:30、8万円もって家を出、税務署へゆき26,150不足を払ひ、電話局へ電話料払ひbusにて四谷三丁目。斎藤先生へゆく途、滝本生に会ひ、1万円わたし10日分の払ひすれば「息子さん払ふとの事なりし」と婦長さんいふ。
滝本生と出て喫茶(子供とりしこと統夫いひ、平田へ賀代嫗手紙出せしと)、11:30帰宅。軍事史学大会への案内、阿南氏より。
よべも睡眠不足(2:00半服追加してのみし)にてだるし。ユ、近藤dr.へゆき「熱引かず」といへば「抗性菌ならん。困った」といはれしと。
弓子帰り「あす銀行休む」と也。
(買物にゆきし間に西川より「山本の(※当選)祝どうせう」とありしと。19:00かければ未帰宅。)

5月2日
9:30斎藤dr.に参れば「(※息子の)統夫の承諾なくば小金井(※病院)へは入れられず」と。
賀代嫗病室にゆけば元気にしてをり「鎌倉へ退院、滝本生には(※家庭教師生徒?)中学生2人つける」と。
「それ迄少し休め、6月より働け、小金井へ入るがよからん」といふ。
子供とられしあと文子病院へ電話せし様子なり。10:30出て三越にてサバズシ(80)買ひて登校。
大学院の及落会(国文)男1、女3とり男1人おとすこととなる。14:10よりの教授会にては何も問題なく、すみて田中滋生さそひて喫茶。
帰りてユにいへば柏井より統夫に電話せよと数男にたのみ、その通りなる。
田代継男に「ゆかん」といへば「明日」といひ、あとにて「明日は都合わるし」と。けふ弓子休みて家事やりくれし。

5月3日
家居。Televiのみ見てすごす。滝本生にユをして電話せしむれば「昨夜統夫5人にて訪ひ、平田母も見舞ひし」と。
斎藤先生には会へざりしらし。「入院につき協力せよ」と数男に云ふ。(※省略) 『曜(※井上多喜三郎遺稿集)』3冊、山前氏より来る。

5月4日
7:00さむ。弓子、朝食してくれる。9:00滝本生より電話「賀代嫗、府中へ移るにつき統夫の同意の為呼べといふ」と。
「日曜、姉弟会ふ由なればその時でよからん」といふ。アマドコロ・ナルコユリ咲く。
岩佐東一郎氏に礼のハガキかき、けふ定休の京に塩コブ買はし茶漬食って登校。『成城文芸46』出来をり(あとにて誤植多く見つく)。
大藤氏に伺ひ立て(『四部叢刊初集』買ひあるを検す)、『百衲本二十四史(8万円)』の予約を山本(※山本書店)にいふ。
自家買入の本も主任教授の印必要、家庭用の本買ふ人あれば」と大藤氏の話なり。(※省略) caramel食ひつつ帰宅。
賀代嫗を土曜に府中に移すと院長のお話ありし由なれど、統夫、聡子ともに転居先に連絡つかず。
柏井、俊子ともに手伝へず、ユがやることとなる(けふも熱あり)。
けふ大学へ折よく婦人画報?より電話「13日13:00ごろ池島信平氏と則天武后につき話せよ」と也、「諾」と答ふ!

5月5日
8:00前さめ9:30出て登校。栗山博士ら会場へゆくを見、研究室に荷物おき成城学園50周年祝賀会に出る。
妹尾理事長、人工ノドより声出して祝辞のべ沢柳博士のこといふ。
そのあと30年以上勤続者20年以上勤続者の表彰あり、佐野、臼井、阪本、池田、栗山諸氏その中にあり。
坂東三津五郎の三番叟といふに感心す。12:00より立食。(※省略)
記念品もらひて出、小高根太郎を訪ふ途、夫人と次女(女子体大に入学と)に遭ふ。14:30までゐて出、五反田よりtaxiにて般若苑。
(※佐藤春夫の会。) 神保、井伏2氏を写せしところにてcameraとまる(まきかへを知らず)。
竹田竜児、林富士馬、庄野潤三の諸氏に挨拶。(佐藤先生夫人、林dr.の診療にて血圧200とて欠)、
浅野晃氏隣席に坐り、富沢有為男の女の歌などきく。昨年は4月30日なりしも今後5月5日を定例とすと。
出席者70名(井上靖氏は欠)。帰りは歩き19:00帰宅。(※省略) 
中野清見氏より「山本治雄に電話せしに丸のこと援助すると云ひをり」と。丸に電話し「重俊の決意おくさんにきかしめよ」といふ。
ユ、統夫と連絡とれ「あすの府中転院承知」と。小高根二郎氏より「福地君、次女生れし『四季』おくれる」と。

5月6日
8:00おき9:10出て東洋文庫の太宗会。神田、松村、岡田の3氏とわれ(3氏ことしは台湾へゆかずと)。
『内閣本清実録』のprintたのみ『清鑑易知録』そろへてもち来ることとなる。
すぐ浦和。駅近くで天ぷらそば食ひ、公衆電話さがしつつ本太一丁目にゆき電話すれば、
田代(継男)氏「ここは仕事場、別所の自宅へゆかん」と出て来る。駅までbusにのりtaxiにて田代家。(※省略)
夫人出てもてなされ15:00出れば駅前の「つばき」といふ料理屋にて御馳走となり土産賜ふ。
われ「東京新聞に北白川宮3代をかけ」といふ。帰れば滝本女史をり「府中の病院より17:00ごろ帰り来し」と。
ユは疲れをり、滝本氏は泊る。(※省略)

5月7日(日)
9:36発の荻窪行にて礼拝にまにあふ。人の望むは「限りなき命と新しい命」とのお話、その間に「柳田国男先生」との詩の想を得たり。
帰り佐伯に寄り『未解放部落の研究(4,400)』、『漢魏詩の研究(4,000)』、『唐王朝の賤人制度(2,300)』、『支那史学史(2,500)』借る。
個人研究費よりと也。帰れば滝本生をり看護日誌わたす。午すぎ「あす来る」と帰りゆく。
清水文雄氏停年記念『河の音』賜ふ。(※省略)

5月8日
ユ、俊子姉に府中の見舞たのみ、林叔母に母のこと云へば「10日より大の留守番のための帰京」と!(※省略)
潮流社に電話せしもかからず。午后滝本なま来り『信陵君列伝』5pやりてくたくたとなりしと帰りゆく。その直後母帰宅。
大に電話せしもかからず。(※省略) 夜、小山正孝氏に電話すれば不在。
あとにてかかりし故、『四季』おくるると小高根二郎君の情報伝ふ。(※省略)
けふ俊子姉、府中に見舞にゆき「食事も結構、23日?に退院、克己宅へ泊り翌日滝本さんと鎌倉へ帰る」と病人(※賀代嫗)いひしと。

5月9日
6:30さめ、子ら出しあと斎藤dr.。賀代嫗のこと申し上ぐれば「けふ往きて診る」との仰せなりし。
婦長「奥さまお疲れでせう」といふ。母、大に「明日ゆく」と電話し、美紀子の京土産もち来ぬを咎むれどユと我わらふのみ。
潮流社に電話すれば、けふはかかり「『四季』発行遅れしは原稿集まらぬため。今一応神保氏にあり」と。
「詩一篇追加す」といふ。「柳田国男先生」かく。眠くてたまらず仮眠せんとせしところへ八木氏より電話、
「山岸外史氏の詩とessay問題となりし。河盛氏への催促たのむ」と。河盛氏に電話すれば「夕まで不在」と。
16:00すぎ美紀子より電話かかり、すぐ来て土産おき母の機嫌直る。(※省略)
17:00美紀子と出て新宿st.buil.7階の成城国文学の会にゆく。大藤氏をのぞき20人近く集り、
われ野田宇太郎氏と栗山博士との間に坐り、野田氏(白秋『思ひ出』復刻す)と高桑純夫氏の話きく。
帰り酒井森之助氏に「もはや宜しきや」ときかる。

5月10日
8:30出て成城大学。東洋文化史のnoteかき足し、『論語』しらべ14:00了りて帰宅。
散髪して銀座。東京会館の途わからずなり、おかげで『則天武后(200)』見付く。
本間厚子、高木幹雄(東大研究所助教授)披露宴に普通のcivil-suits着しはわれ一人。(※省略)
けふの会者200人、わが出し披露宴の最大なりし。帰れば小山氏より電話ありし。(※省略)

5月11日
雨、9:30登校。10:00よりの大学院入学式に列す。写真とりしあと小倉脩三夫人(旧姓尾山)研究室に来り、わが詩集2冊にsignし、
多喜さんの詩集贈る。この間対応せし弓子を美人とほむ。
昼食し中国文学史のprint切り(『楚辞』)短大の唐詩やる。すみて15:00なれば山田氏に倣ひて帰宅。(※省略)
夜、矢野に祝返しの受取いふ。「山本の吹田市長を知らざりし」と!(※省略)

5月12日
5:00まへ目覚む。よべは『東邦近世史』のnote作り了へ用なし。(※省略) 9:30登校。3時間やり疲る。(※省略)
帰れば婦人画報内田氏より「車迎へによこす」とありしと。「東洋文庫へ12:30来たまへ」といふ。
けふ『果樹園136』来る。「忙しき日」の詩をかきをり。夜、則天武后を通鑑にて見る。(※省略)

5月13日
9:00出て駒込。紅茶のみて東洋文庫。田川博士検査の結果よかりしも出ず、岡本氏を加へて4人(print177p出来上る)。
『中国地方志目録』貰ひ、けふの座談会。植村先生のご推薦とわかる。そば屋へゆき帰りて12:30館外にてまてどもhyre来ず。
(※省略) 13:00来り、文芸春秋社(紀尾井町)へ13:30すぎ着き、池島社長他用とて少しまち、
1時間余りにて話題なくなり『歴史よもやま話』4冊もらひ礼20,000−2,000もらひ、hyreに送られて阿佐谷着。
佐伯で『東洋美術史研究(900)』買って帰れば、ユ、府中の病院へゆき、大掃除は滝本女史母の命でやりしと。
けさ河盛好蔵氏に『四季』の執筆たのめば「承知した」と。

5月14日(日)
9:10ごろ礼拝委員として教会。(※省略) 帰りて滝本生に『信陵君列伝』教へ、(※省略) 松枝茂夫教授に電話かければ不在。
『中国文物図説』役立たずと伝言たのむ。依子より泰の写真と「大分らくになった」とのたより。

5月15日
けさ8:00まで眠る。母、大の宅へ泊りにゆく。田代継男へ写真包んで礼かく。

5月16日
9:00すぎ出て斎藤先生。「賀代嫗、鬱になりし」といへば「さもあらん」と。ばってら買って登校。
直江博士『中国の民俗学』を成城堂に注文すれば、野口君これを出して「批評紹介せよ」と。14:00までまちて教授会。
(※省略) 15:00すみてまっ先に帰宅。
(けふゆきの小田急にて柳田生と同車、祖父君を詩に作りしと話す。アメリカ行らちあかず母よろこぶと。『歴史よもやま話』4冊貸与す。)

5月17日
8:30出て登校。2時間やりしあと八木(※省略)生の相談受ければneuroseなること明らか故、
困りしに「北杜夫氏の診察受けたし」といふゆゑ斎藤先生に紹介の名刺わたす。
帰れば横山薫二君より「定年退職、井之頭に転居」の通知来りをり。『則天武后』の対話の原稿来てをり挿絵もほしと。
これと『中国の民俗学』の書評とでいやになる。ユ「鬱なり」と診断す。羽倉君より「あす来る」との京都よりの電話あり。

5月18日
文芸春秋社田中氏より「伺ふ」と電話、16:00以降といふ。婦人画報社寄木氏に電話し「けふ16:00以后に来たまへ」といふ。
10:30さばずし(90)買って登校。(※省略) 齋藤清衛先生と話し、山田教授と時間変りし短大の講義了へ、print切り、
野口氏に直江博士の本の書評断る。そのあと池辺氏に会ひ『成城文芸』の原稿のこといへば「次号に」と!
15:30帰宅。「母帰宅あす」と。婦人画報社寄木氏より「今から伺ふ」旨電話。文芸春秋社田中氏「19:30伺ふ」と。
(※省略)  17:00婦人画報社の人来り、本2冊もちゆく。
「太平天国」のnote作りしところへ羽倉氏の電話あり青梅街道まで迎へにゆく。
帰りつきし直後、文芸春秋社の出版部次長田中氏来り、
「石田博士(※石田幹之助)にたのみある魏晋南北朝隋唐史400×400を7.15までに書いてくれ。植村先生並びに神田、松浦、岡田諸氏の推薦」と。
「石田博士にかきつづけさし、のこりを我かく」と云ひ、帰りしあと羽倉氏をまた地下鉄まで送りゆく。
八木生より電話「肝臓わるきことわかりし」と。野口君よりすでにききしことなり。

5月19日
9:00家を出、すし買へずハンバーグパン2ケ買ひ(35×2)て登校。東洋史に「洪秀全」の話はじめ、昼食にパン1ケ食ひ、
小倉夫人と「詩は何か」の話し13:00柳田文庫外にてゼミ写真とる。すみてゼミ。(※省略)
すまして漢の詩のprintの話すれば「詩はきらひ」と男生。「時代に逆行」といひてすむ。
林富士馬氏より写真の受取。(※省略)

5月20日
8:50家を出、東洋文庫へ9:30着。石田氏みれば未出勤。
松村研究室にゆき蒙古史2冊見せゐれば石田氏出勤の電話あり。「近々前田勝太郎氏と3人で飯くはん」と約束し、
岡田君と3人にて清実録のprint代7,500円余の代りに、先ほどの2冊と江實『蒙古源流』、『蒙古慣習法の研究』もち来ること約束し、
読み始めれば阿南氏来る。(岡田、松村2氏神田氏の明清史に協力、われはやはり植村先生の推薦なりし由)(※文藝春秋社の大世界史)。
阿南氏と11:30出て昼食し、別れて成城へ直行。
今日より超勤手当3,000つくこととなり、試験手当48,200もらひしも税ひかれ、手取り13万円ほどなりしらし。(※省略)
成城堂の払ひ『論語(150)』と『中国文明の伝統(380)』となりし。聯合出版中心東京支店といふを探せしに閉りをり、
水道橋に出て山本まで歩き、学校へ10冊ほど送らせ、
大安にて『北朝胡姓考』、『道教徒的詩人李白』、『五代十国』、『大支那大系(600)』とにて1,500ほど払ひ『新唐書』見つけ包ませ(8,500)、
山口書店に寄りしあと、駅内売店にてjuiceのみて帰宅。すぐ出て『王維(200)』を高木厚子にと買ひ、
佐伯にゆきてキリスト教の本7冊(30×7)と『隋の煬帝(300)』買ひ、『中国の美術』とりのけたのむ。
山田俊雄教授より電話ありしといいふに、かければ『東方学報』東大京大のそろひ75万円にて買ふゆゑの断りと。
南北社より『コギト』2冊見たしの電話あり「月曜午前に」といふ。
今宮高校より「著書しらせ」と。獣医より来診催促の電話あり。昨日と今日にて900+700払ひし也。

5月21日(日)
夫婦して礼拝にゆき、帰り長島夫人(礼拝委員)より忙しときく。佐伯にて『中国の美術(1300)』買ふ。夜、滝本生大阪より電話「24日夜帰京」と。

5月22日
牛尾三千夫氏より「上京中25、26、27の3日中ゑらべ」と。「電話かけられたし」と速達。(※省略)
午后、審美社の韮沢氏来り『コギト』の目次の欠補ひ、菓子たまふ。散歩に出て『十八史略講義(200)』買ふ。
文芸春秋社田中氏より「19:00来る」と。ユ、医者へゆき風邪と診断され、斎藤医院へゆき賀代嫗に会ひ「25日退院、柏井へゆく」ときく。
夜、20:00文芸春秋社田中氏再来「石田先生とは連絡なきも唐史をかけ、文化史4章はへらしてもよし」と也。
猫ロミ、夜に入りて死し、母涙をこぼす。(※省略)

5月23日
このごろ午すぎまでだるくてたまらず。13:30出て斎藤dr.。府中へゆきたまひ15:00まで帰られず、
16:00診察に出れば「この間文子電話かけ来て統夫の所ききし」と。お礼いひ、眠剤少しうすくしていただく。
文芸春秋の仕事いへば返答し玉はず。帰れば牛尾三千夫氏より電話「26日夕方阿佐谷まで来玉ふ」とありし由。(朝、ロミを庭に埋む)。

5月24日
よべの薬宜しくだるさへり9:00出て10:00まへ登校。図書館に『新唐書』返しにゆく。
山本の本来あり『戯曲叢譚(100)』、『鳳麟龜龍考釋(100)』、『中国伶人血縁的研究(200)』、『紅楼夢人物論(230)』、『宋金雑劇考(310)』、『唐史考弁(600)』、『支那劇と其名優(600)』、『中国方志所録方言匯編(1000×4)』、『道教(マスペロ)(1000)』、『支那文化論叢(1000)』、『雲崗P石仏群(2000)』。
午食のときに大藤主任教授の印もらふ。高田部長に呈出しおき、漢文14:00まへすませて帰宅。
西川より電話ありしといふに、こちらよりかければ不在。(※省略) 井伏鱒二氏より写真の受取。羽倉啓吉氏より礼状。
夜、西川より電話「丸のむすこのこといってくれ」といひ、丸家に電話し、重俊生に「吹田の就職たのんでよしか」ときく。
文芸春秋社より原稿用紙13冊とどきあり。矢野よりも山本の歓迎会いひ来る。21:30山本自ら代理と称して「明日あはん」といひ来る!

5月25日
丸に電話すれば「4:00より会あり、出席のつもりなれど…重俊のことたのむ」と也。矢野に電話して会費きけば「1500位ならん」と。
本位田に電話すれば「会議中にて連絡なかりし、会場は」と。ユ9:00出てゆく。(※省略)
よべ李樹桐『唐史考弁』よめば太宗のこと大分引き下げてあり。則天武后の尼寺入りも怪しと也。4枚ほどかきしをかき直すこととす。
ユ、教会にゆき、帰り賀代嫗退院さし柏井へつれゆくと出てゆく。京、休みにて母帰り来り、(※省略)
堀夫人に電話「いま神保より電話あり、(※『四季』)今月末原稿を印刷にまはす」との旨しらす。神保の電話は写真の受取なりし。
11:00出てすし食ひ、代々木までゆき台湾の地志注文し『中国道教史(300)』買ふ。学校へは12:30つき昼食し、(※省略)
taxiにて17:30紀伊國屋につき18:30白鳥芳郎氏来りてそろひし処にて中座、経済club訪ぬれば2次会をしてゐると。
うなぎやへゆけば山本を囲み十人をり20:00近く散会。われは会費1500他は4000〜5000なりし。
西川の社用車に竹内(※竹内好)とのり阿佐谷にて下してもらふ。(※省略) 小高根二郎氏より『四季』につき問合せ。
けふ高藤氏より「清水文雄氏上京、27日お茶の水会堂にて会す」と電話ありし。

5月26日
9:00出て成城へつき山本にて買ひし本のcard作り「太平天国」教ふれば3〜4人参考書借りに来し。(※省略)
すみて中国文学史、了へてすぐ帰り、まてば夕食にかかりしところへ牛尾三千夫氏来り(駅前交番にて待合せ)、20:30まで話ききてゆかる。
古本屋見て『わがひと(※わがひとに与ふる哀歌)』4万円なりしと。(※省略) けふ成城堂に『漢和大辞典7』来をりし。(※省略)
夜、丸に電話し「履歴書もちて重俊来る」となる。松村氏に電話すれば「本なんでも持ち来れ」と。

5月27日
9:00『蒙古社会制度史』、『金帳汗國史』と江實『蒙古源流』もちて東洋文庫(出る前「前田君と3人で飯くはん」との電話ありし)。
すぐ石田君に会ひ「昼食うなぎかすしか」ときかれ「すし」と答ふ。
久しぶりに神田氏出、岡本氏来り11:30すみて2氏と昼食。「そのうちアジア研究所の在京者集めん」と石田氏。
われ「7.15に原稿かき了へればおごる」といふ。石田君5,500万円あつめし由。
散髪し帰宅すれば賀代嫗、滝本君と来てをり17:00出て湯島聖堂。われ一番乗りにて、清水文雄氏最後に高藤武馬、栗山、池田諸氏と教へ子3人。
会費1,100円にて21:30中央線にのりて帰宅。けふ梅さんより英文にて「会ひたし」と。

5月28日(日)
けさ十数日目に小雨。夫婦とも礼拝にゆかず。滝本生9:00に出てゆくを見送り、母と3人臥床。(※省略)
滝本生に漢文教へ20:00帰りゆくに「気をつけよ」といふ。明日より鎌倉大町の賀代宅の留守居なり。(※省略) 原稿かけず気になる。

5月29日
朝『果樹園』へ「天職」送り、そのあと唐史15枚かきてフラフラとなる。庄野潤三氏より写真の受取。
丸重俊履歴書もち来しゆゑ、山本に「就職たのむ」と速達にして出す(よべもねられず、朝がた2時間のみと!)。
郵便局にて昔のヱハガキ規格にあはず15円はらはねばならぬと、バカらし。
滝本生より電話「鎌倉の電話とまりをらず。電気とまりゐる。」(※省略) けふ佐伯に『白楽天』2種と『安禄山』と注文す。

5月30日
televiみて10:00すぎ家を出、斎藤先生にゆけば満員。賀代嫗の薬もらひしも診断書必要につき13:00まで待ち、
成城へ「教授会欠席」の旨電話し、すぐ順番来りし故診断書(300)もらって、そば(150)食って帰宅。
「花は舞う長安の春」27枚とす。(※省略) 母、大のところへ泊りにゆく。(※省略)

5月31日
9:00家を出、2時間やる。きのふの教授会にては「入試1回を表向きとす」と也。
台湾聯合出版中心東京支店よりの49冊(9,800)つきをり。(※省略) Rawhide見しあと『唐の太宗(490)』、『玄奘三蔵(500)』買ひに出、
佐伯によれば『安禄山』来てをり(440)。けふ東京30℃を越し名古屋32℃を越せしゆゑ電話すれば澄「風邪ひきをり」と。
(※省略) 夜、植村清二先生より「君は一日20枚書ける由」と。とんでもない話なり。

6月1日
5:00ごろめざめ、また眠り8:30目覚む。ちょっと唐史かき11:00となり、さばずし(90)買って登校。
台湾地誌のdoubleとまちがひ知る。古野博士『原始文化ノート』に署名して賜ふ。明日の中国文学史にとprint陶淵明を切り、小倉生と話し、
田中生の竜よみ、疲れに疲れしも南新宿で下車。台湾本[■]にゆけば主人不在。夫人にその旨話し、中央線に代々木よりのりて帰り、
体中かゆきを云へば「また病気」とユ。強ひて硫黄(※ムトウハップ)買ひにやらし行水してすむ。
けふ集英社より『日本の名詩』3版(875)、『世界の名詩』6版(2,106)来り、母に300わたす。

6月2日
5:00ごろさめ8:00起き9:45家を出る。昼食に天丼くふ。小倉夫人に「日曜17:30来よ」といふ。ゼミすまし帰り『貞観政要』借出し、
清水常臣生見つけ『満洲看板考』貸す。
けふ羽田明君より「秋、祖父となる。部長となった。四天王寺大学に岡辺長章君せわせんと思ふが近況知るや」と。
「知らざるも世話してくれ」とたのむ。鍛冶美和さんより「司書講習受けんと思ふがいかが」と問合せ。
高垣金三郎君より東京転任の通知。依子より「泰、なぜ、どうしてとうるさし」と電話ありしと。

6月3日
9:00すぎ出て東洋文庫。『南漢山城の開城史』を研究会に呈し、文芸春秋のこといふ。11:30すみて帰宅。(佐伯に寄り『六国史』ほしくなる。)
13:30滝本女史来る。そのあと文芸春秋社田中健五氏より返電あり「石田博士にゆきてのち来る」と。
滝本女史19:00帰り、鍛冶美和生に「図書館に就職きめてのち講習受けよ」とかく。花井タヅ生より「奥さんしゃべりによこせ」と。
田中氏20:30三笠宮の本(※『大世界史 第1巻(ここに歴史はじまる)』)持ち来り、「石田博士にはわが事いひ、了承されし」とて原稿見す。
忙ぎ書きたまひ60枚+上元の行事也。「月曜、博士を訪はん」といふ。23:00田中氏より「月曜、14:30社に来れ」と電話。

6月4日(日)
礼拝にユ、ゆく。われ9:00にさめし為ゆかず。石田博士の原稿よむ。(※省略)
13:30出て西荻窪「こけし」へゆけばすでに大分来あり、能田多代子氏に挨拶し、のちほど「青森県五戸語彙」にsignしてもらふ。
山田俊雄教授、意外にも下宿しゐしとて来会。青木直記氏、大間知篤三、大森志郎、瀬川清子、橋浦時雄、戸田謙介、比嘉春潮の諸氏、名のみ知りし来会。
大藤雪子夫人に挨拶、あとにて牛尾三千夫氏を案内して大宮八幡へゆき俄雨のなか歩きて17:31帰宅。(※省略)
小倉夫妻、菓子もちて来り『果樹園』そろふだけもちてゆく。宮崎智慧さん挨拶に寄り、西武の居残り(土日)は事実と。

6月5日
8:00さめ、ユを斎藤dr.にゆかしめ佐伯にゆき『六国史』1600×4借りて来る。(※省略) 中野清見へ丸重俊のこと報告。
花井タヅ子夫人に鍛冶さんのこと云へば「大阪はなれられないのとちがふか」と。
ユ、斎藤dr.より2週間分の薬もちて帰宅。13:30出て新宿より都電。
coffeeのみて文芸春秋社へ14:30着き案内乞へば、田中健五氏の代りに松村氏出、やがて出版局長上林吾郎氏出「奥さんに」と包たまふ。
(帰りてあけて見れば携帯radioなりし。) 15:00すぎてhyreにて六本木のmanshionにゆく。
石田博士(※石田幹之助)迎へられ、先生にごぶさた謝すれば『長安の春(東洋文庫)』たまひ「六朝の文化」、「隋の煬帝」、「長安の荒廃」、「朝鮮関係」、「沢国の江山、戦図に入る」の5章かけよ、と。
もしそれですめばと云ひつつ、四谷駅前で下車。帰りて小山正孝氏に電話し「杜甫伝返したまへ」といへば「あすもち来り」玉ふ由。
(けふきけば『世界史』15万部刷る由、「社命を賭けたり」と云はん!)

6月6日
せっかくの休みなるに6:00まへさめ、だるくて何もせず。小山正孝氏15:00来り玉ひ、送りて駅までゆきしのみ。

6月7日
9:00出て登校。(※省略) 14:00すみて2時間あり『全唐書』と『隋書』をさがしてもち来り、史料みなそろひたれど持帰れず。
新入生歓迎会といふのを17:30までやり、すみて庄田、田中、柿崎3生と同車。
夜、滝本生に電話すれば「母子4人にて逃げ、近所の人も同情せし」と。柏井へその旨を報告。
やがて植村先生よりお電話「石田さん半分ゆずりしか」と「1/3のみ」と申上ぐ。母、大へとゆく。

6月8日
朝ちょっとかき、佐伯へゆき『白楽天』大・小2冊(1,300)とり、またかきて200×17とす。「杜甫」のことのみ也。これにて昼食。
出て川本静江生に郵送(70)。大学にてprint切り、宮崎生の知らぬ字よみやり(大分きく様になりし)、(※省略) 16:30出る。
大藤主任教授に台湾地志の購入の印もらひ、庄田生に東洋文庫への紹介かく。
けふも母、大どまり。夜「太平天国」のnoteのみ。Parisの陳祚竜博士より「著書くれ」と抜刷。
『不二』より「『全国行脚20周年』の原稿くれ」と。大高野球部より「松江と試合して勝ちし」と。(※省略)

6月9日
雨。9:00出て成城大学。(※省略) 4時間すませて帰れば母帰宅しをり。
滝本女史「あす15:00来る」と。「文子を強制入院せしめよ」と賀代嫗、電話にていふ。

6月10日
朝のうち書きて12:00すぎ出て成城大学。bonus199,100もらふ。成城堂にて『大和朝廷』、『教養としての中国史』買ふ。
佐伯にて『六国史』の払ひすれば6,000に負けてくれる。『中国の笑話(600)』、『アラビア科学の話(100)』、『北魏洛陽の社会と文化(1,000)』買ふ。
帰宅すれば滝本生来てをり、この間の子とられの話す。われ決死の覚悟なかりしを云へば「わかりし」と。
文芸春秋社よりまた三笠宮の本来てをり、滝本生に与へ、漢文教へ、夕食せしむ。
「隣のライスカレー屋の息子40才にして滝本生に話に来る」と。(※省略)
文芸春秋社の田中健五氏よりも電話「印刷所に火曜まで入りをり」と。

6月11日(日)
礼拝に出る。衛藤氏の長老就任式となり。帰り佐伯に寄り『概説支那仏教史(750)』買ふ。
午后雨となり夜、ユ帰り来しゆゑ原稿かき第11章了る(61×200)。けふ田中章博より「今後も本はやくくれ」と。

6月12日
家居。中山八郎氏より『八大山人の出自と名号』来る。
午すぎ出て『日本社会史(50)』、『鴎外の子供たち(100)』と写真のcorner(50)買ひ来り、台湾の写真貼り了る。
夜「武宗の排仏」までかき第14章20枚を越す。
夜、松浦薫氏より電話「村上局長に会ひしに(※史氏を)豊橋よりこっちの税務署長に7月1日付にてする」と。
美紀子に電話すれば「仙台へ出張の土産の桜桃もち来る」と。

6月13日
朝、赤川氏来る。われ昂してをり失礼なりし。そのあと美紀子桜桃もち来る。(※省略)
12:30出て成城大学。『アラビア科学』doubleゐし故、宮崎教授に呈す。教授会に議事なし。
帰途、柿崎生に会へば「土曜午后庄田・田中生と来る」と。図書館で書画の本探す。

6月14日
9:30登校。東洋文化史の時間に代返を認めて叱る。あと昼食する鎌田女史にいへば「月給とりに来てゐるといはれれば反感もつ」由なりし。
13:00まで待ち体格検査。血圧110、体重39キロなりし。けふ母、大のapartへゆく。
〒なく、『志異雑記(※成城文芸46号抜刷)』を松枝茂夫、中山八郎2教授に贈る(25×2)。佐伯で岩波文庫『保元物語(40)』、『平治物語(40)』買ふ。
依子に電話し「8月、金出す。大阪へゆくか」といへば「ゆく」と也。

6月15日
12:00家を出て(『大世界史』2章かき了ふ)、台湾の頼永承、楊雲萍教授に『志異雑記』を送る(260)。print「子夜歌」など切り、(※省略)
短大教へて阿佐谷につけば大雷雨。Gold街で電話して待ち30分してユに遭ふ。京も出し也。夜「太平天国」かき「朝鮮史」14枚かく。
けふ田中健五氏より「石田先生、大分かかれ土曜に見せる」と電話ありしと。

6月16日
9:00出て成城大学。「太平天国」すませ、午飯くひ堀川教授より「失礼ですが」と体重問はる。
鎌田女史より柳田先生『郷土生活の研究(360)』借りる。小倉夫人に『果樹園』わたす。(※省略) 中国文学史はやくすませて帰宅。
牛尾三千夫氏よりの礼状を見る。昨夜滝本女史より「カレー屋へ就職、来られず」の電話あり。母帰宅。
夜「新羅の大外交家、金庾信」29枚となる。

6月17日
散髪すまし、またかき40枚とせし頃、柿崎、庄田、田中久子の3生来る。論文の書き方教へるうち美紀子来り、茶もちて出る。
15:00ごろ3生帰らんとする所へ田中健五氏来り「石田先生順調」と、神田君(※神田喜一郎長男神田信夫)よりと『中国書法の二大潮流』もち来り、わが60枚もちゆく。
われ気ぬけし、佐伯へ散歩にゆき、帰りて仕事せぬ事とす。けふ弓子「軽井沢の寮へ」と出てゆく。けふ海老沢博士より復刊の『えびすとら』来る。

6月18日(日)
礼拝委員ゆゑ8:40家を出、11:30すまして帰宅。堀敏一氏転宅と。角川より「『Heine』(※改版)3版8,000部を6月下旬に」と。
植村清二先生より玉関の詩の作者をきかれ「王之煥と岑参」としらべてお答へす。「わが原稿検したまふや」ときけば「そんなことせず」と。
朝鮮関係に勃海つけ突厥つけんかと思ふ。夜、喜多村鈴子に電話し機械のこときく「血行よくなりて熱し」と也。値段1,600と、安心。

6月19日
9:00田中健五氏に所感を問へば「これからゼロックスにとって午后いふ」と。佐伯にゆき『大和絵史論(800)』、『肉蒲団(300)』借り来る。
大阪の能勢正元より電話『大高50年史』に書けといふに、日記さがせしも見つからずソラにてかき、帰る途中「高田一」を思ひ出す。
(※省略) 15:00ごろ田中健五氏「杜甫のところ見しも結構なり」と。弓子霧ケ峰へ2泊3日ゆき、ヱハガキと松虫草とをもちて帰宅。

6月20日
3週間ぶりにて斎藤dr.。三越で買ひしscotch whisky(4380)もちゆけば「最好」といはる。2週間分の眠剤いただく。
帰りcoffee(70)のみ佐伯に1,100の借り返しにゆき帰宅すれば、ユ「友達へ」と。
先ほど佐伯で見し『隋唐仏教史の研究(2300)』ほしくなり買ひにゆく。
松枝教授より誤り2ケ処教へられ、田上由美子生より「本よめず」のたより見る。(※省略)

6月21日
5:00起きて東洋文化史のnoteかく。昨夜まちがへて「太平天国」やりし也。
睡眠不足なれど仕方なく登校。東洋文化史の時間「不平あらば云へ」といふに云はず。
午后の論語早くすまし俸給もらひしに都税9,000に近し。成城堂の払ひ6,000あまりし、
小田急にのれば萩原葉子女史、経堂にて我を見つけより来る。成城に仕事室おく。税金80万円なりしと。
新宿にてともに氷くひ帰れば母、赤坂へ泊りにゆきし(水・木ゆくこととなりをり)と。
16:00妹尾、岡田、増田ビワもちて来る。史、夕食時来り、ビワもち帰る。

6月22日
昼食くひて登校。野口君「税金5,000」といふ。われ15,000也。短大すませて帰宅。雨ふり来る。(※省略)
夜「国際見本市の開祖」20枚とし、依子に電話すれば「泰ふろより出て牛乳のみをり」と。

6月23日
モーニング着て9:00登校。ゼミに岡田、増田休み、(※省略)
森谷均氏(昭森社)来しゆゑ、20年前にわたせし原稿(※昭和23年『ザイスの学徒(ノヴァーリス)』)いへば「忘れし」と。
小倉夫人に弓子のこといへば「母に云はん」と。大藤、鎌田2氏も川本静江に呼ばれゐることわかり安心す。
4時限すましてゆけば丁度よき時間なりし。池辺君も呼ばれをり、郷右近、西沢2旧生来りゐし。
21:00すみて同車せし川本母の叔母とやらは矢崎美盛先生の妹にて「兄16〜17年前、癌にて56才にて亡くなりし」と。
さういへば長男(成城小学部)われ叱りし也。弓子、美紀子と芝居にゆきて帰らず。鍛冶生「就職むつかしければ図書館講習止める」と。(※省略)

6月24日
家居。朝、歌6首を作り『不二』にと速達す。それより第7章かき夕方50枚となる。
滝本生来り、仕立物もち来る。そこへ母帰り来り「芝居見に便利ゆゑ赤坂へ来て泊れ」と滝本生つれゆく。
夜、文藝春秋の田中氏より電話「月曜連絡に来る」と也。

6月25日(日)
礼拝にまいらず。眠くて夕まで無為。夜、第7章61枚とす。けふ森源太郎氏より退職挨拶。成城高等部の講師なりし。京salary2.2万円と。

6月26日
タバコ買ひにゆきしのみにて第6章かき五胡十六国の表つくり了へしに白幡、小西2生、桃1箱もちて来る。(※省略)
佐伯へ散歩(文学散歩社より柳川版『思ひ出(※北原白秋)』来る)、
文藝春秋の田中氏来りし故、2章60枚わたせしに「石田先生短きゆゑゲラ出るまで待つ必要あり」とて「水曜再来まで書く要なし」と。
televiの世界放送見て21:30となる。(※省略) 『果樹園』へと「計算」かく。

6月27日
ユ、母に電話すれば(※省略) 果樹園社へ同人費と原稿速達(135)、文学散歩友の会へ800(25)。
13:00登校。(※省略) 日本民俗学会に260欠を払ふ。教授会事無く、夜の親交会欠席いひあり帰宅。母けふも帰らず。
けふ講談社の齋藤、垣内2氏来り、台北の『中国文物図報』もちゆきしと。

6月28日
9:00出て登校。2時間教ふ(※省略)。すみて帰り(※省略) 田中健五氏より「石田先生には明日会の約束なりし」と。(※省略)

6月29日
史、豊橋税務署長ときまりし由。「送別歓迎の酒のみすぎるなと云へ」と美紀子にいふ。
登校(11:45家を出る)して短大教へprint切り、かへり田中久子に会ふ。田代継男氏に電話すれば「日航の課長にけふ会ひにゆきしも会へず」と。
母帰り来り「(※夫喜代助の)7回忌を小さくする」といふ。ユによれば大も「金なし」と云ひしらし。哀れなり。
夕方、田中健五氏より電話「石田先生の締切5日までのばした。仏教かきてよし」と也。「太平天国」のノート作りしあと5枚(200字)かく。

6月30日
最後の講義にゆき、小倉夫人に贈物咎めれば云々(大藤氏大学院の件につき鎌田女史と2人呼ぶ)。semiに軽井沢の白樺荘のこといへば、
3人ゆくかゆかぬかはつもりせず。学生課へ云ひにゆけば「10日締切なりし」由、庶務へゆけば「満員」と。
24〜29日都合してくれしあと、学生はっきりせず、まかしてすます。小高根二郎氏より受取。牛尾三千夫氏より「鴎外記念送った」と。
夜、滝本生より「日曜午后来る」と午電話。けふ『能狂言(3×200)』買ふ。

7月1日
よべよりチクチク痛みし歯を午電話し、柏井にゆき神経ぬいてもらふ。
帰り佐伯にゆき雑本買ひ、歩きて帰り古本見る。(※省略) けさ美紀子膀胱炎とかにてユのみお花の師匠にたのみにゆきし也。
「仏教史」夜まで25✕200かきし。(※省略) けふ牛尾氏より小泉八雲、西周、森鴎外の旧居の報告来り。(※省略)
能勢より「原稿受取った。康平と連絡あり。娘22才」といひ来る。丸に電話し「能勢にたのまうか」といひ、「よし」といふにハガキかく。
(※省略) 美紀子に電話すれば「発熱、母泊る」と。「あす午后見舞にゆく」といひ、賀代嫗に電話すれば「滝本、木野泊り」と。
名古屋へ電話し「史、転任、ユゆく」といひ、松本善海に電話すれば嬢出て「父、4月より入院。いま大塚分院」と。(※省略)

7月2日(日)
礼拝にゆく。帰り雨ふり出しさうにて急ぎ小金井駅へゆき、busにて公務員宿舎前で下車。
すぐ前の4階の室にゆけば松浦母上をり、いろいろ気をつかって下さる。1時間して傘借りて出、taxi(110)にて駅前、昼食して帰宅。14:30。
16:00ごろ滝本女史来り、漢文やらず泊ることとなる。夜、松浦父上より電話「移転は日通にまかす」と。

7月3日
滝本生7:30出てゆく。ユ、小金井へ電話すれば「松浦母上けふもゐたまふ」と。午后、林素梅へ航空便出し(35)、
柏井歯科へゆけば俊子姉をり、統夫・賀代嫗母子のこと伝ふ。(※省略) 「仏教」36×200となる。

7月4日
9:00ごろ出て斎藤dr.、11:30まで待たさる。出て都電にて新宿。二幸にてすし食ひ、
成城大学庶務課に「24日13:00〜29日11:00白樺荘」の申込すれば600×5。山本書店より送り状。
成城堂にて『大化改新』、『古代殷王朝のなぞ(250)』買ひ、氷宇治、新宿にて食ひて帰宅。
ユ、小金井へゆきをり、夕方帰り「豊橋に公舎なく(※史氏夫妻)市営住宅に入る」と。
井上靖氏より詩集『運河』来をり。(※省略)

7月5日
(※省略) 佐伯へ『奈良朝』見にゆけば店あかず。新本屋も休みなり。のちほど佐伯へ電話すればここも休みなりし。
能勢正元より「昭和13年11月生れの船員のむすこに弓子いかに」と。(※省略) 午になりても田中氏来ぬゆゑ電話すれば「今から」と。
散髪にゆき帰りて、来たまひしに「仏教」わたす。「植村先生の校了11日、わが方は20日までに(※共訳者)石田先生の出る」と也。
帰りゆき玉ひしあと柏井へゆき、入歯の型とらる。帰り北口にて『三省堂年表(150)』、『日本文化史(100)』買ひて来る。
夜、真野喜惣治氏より「講習にて上京中」と電話ありし。依子に移転の手続につきユ、電話し、われ松村氏に東洋文庫本の挿絵たのむ。

7月6日
雨。母、赤坂の大へと出てゆく。永山光文より「満洲での上司、いま安宅産業に顧問、長男の嫁に弓子いかが」と。「吊書送る」と答ふ。
ユ、小金井に電話すれば「美紀子微熱とれず、史あす豊橋へゆく」と也。「六朝の文化」12×200。

7月7日
朝よりまちて午、松浦家に電話すれば「美紀子病院より帰らず」と。
「六朝の文化」30×200とし、柏井歯科へゆき、帰り『朝鮮通史 上(50 諺文)』買ひ、televi見てゐれば羽田(※羽田明)より電話「上京中」と。
新宿で待合すこととし、ゆきて「松本を9月に見舞ふ」20:00の汽車に池内先生夫人と来るとてtaxiひらひて乗す。
『奈良時代の文化(250)』買ひて帰れば、滝本女史をり、ユ「日曜小金井の荷物出しにゆき、日曜スワ夫婦と受取ることとなりし」と。
賀代嫗に家の売買損といへとのことになり、23:00過ぐ。(夜、松本夫人に電話し「9月羽田上京の時、見舞にゆく」といふ。)

7月8日
雨にて終日外出せず。弓子休みとてタバコも買って来てくる。(※省略) 何もせず。
田中健五氏、夜来り、石田先生「各国との人物交流をかかすべし」といはれしと。承知してbeerのませて帰す。

7月9日(日)
雨なれど栗田に森克己『遣唐使』あるゆゑ10:00ゆきてみればしめをり、佐伯にゆきて云へば電話かけくれ「14:00ごろあける」とのことなり。
礼に『中国文学入門(240)』買ひて帰る。けさ弓子と母と小金井へゆき、母のみ「帰れ」といはれしと帰り来る。
電話かけ「史、別れに来させ」といひしに、19:00雨の中を来る。
松村赴氏、台湾の物価聞きに来し故、ユと二人して話し、栗田へともにゆき『遣唐使(350)』買ふ。「夜おそき故、おそくあける」と店主の話なりし。
送別の飯くひゐる中、音して史ら気付きゆけば、6畳の窓あき、弓子のhandbagなど2つとられをり、木戸あきゐる。
警察に電話し、史帰りしあと依子に電話し、豊橋の官舎に泊りくれることとなりし。
警察の若きが来り、「変態の仕業か」といふ。盗難届われかき、帰りしあと文子の時の盗みDと同じとわかる。
けふ「書聖と画聖」53×200で了りとし、第9章「各国との人物交流」21×200とす。

p9

7月10日
8:00さめてユ、外見まはれば立派な洋傘に弓子の下着まきつけておいてあり。風呂場も少しあけあり。
痴漢の疑ひ濃くなりしとて、ユ警察にとどけにゆく。10:00まへユ出てゆき、われ31✕200とし、
午后柏井へゆき「あさって又来よ」といふに佐伯へゆき『宇治拾遺物語(80)』と、週刊雑誌買ひ、
よみゐる中、福永英右衛門(58)の妻英子(49)1億4千万円の寸借詐欺せしと出あり。朝日の上役の娘らし。
本位田に電話すれば「北海道」と。小山正孝夫人に「おめでたう」といひ「御心配かけて」といはる。
名古屋へ2度電話し、ユ14:30には着き泰、チエ熱とわかる。松浦家よりも夕方「小金井の立ちのきすみし」旨。
けふ頼永承氏より「渡米の帰り9.18もしくは21夕に」とたよりあり。「待つ」旨書く。

7月11日
母、赤坂の留守にゆくとて、われタバコ買ひにゆきしに、午前ねむく困りゐれば今井翠「アリちゃん」つれて写真もち来る。
折返しユより「豊橋の官舎とまれず、たのんで来た。あす帰る」と電話。その旨松浦家にゐる美紀子にもいふ。
15:00ごろ文芸春秋田中氏へ「かき了へし」の電話す。(夜、齋藤禎氏といふがとりに来し。200✕47+200✕53なりし)。
西川(※西川英夫)けふ面接しゐしに電話し、夕方かけ来しゆゑ「福永英子1億4千万円」の話きく。

7月12日
母に電話せしに出てをり、やがて帰り来る。柏井へゆく前、永山光文の家に電話し、夫人に砂糖の礼いひ、弓子のこといへば「けふ先方の父に会ふ筈」と。会社に電話すれば同じ返事なりし。柏井へゆき上歯いれかへれば痛く昼飯くへず。
(佐伯に『朝日年鑑』2度に4冊(400)買ふ。) ユ、7:00帰り来り泰の賢き事いふ。
(けふ陳祚龍博士に『ハイネ3版(28版なり)』送らんとせしに開き封にせざれば1,000以上と。)
丸に電話すれば「歩けずなりし」と也! (※省略)

7月13日
10:00出て丸にゆく途中、赤川家へ桃もちゆき夫人と話し、丸家へゆけば夫婦出て丸、元気なりし(重俊まだダメと)。
帰り赤川家に寄らんとすれば(※赤川草夫)法華経誦しをり。(昨日入れし歯になじまず物云へず食へず困る)。
文芸春秋に電話し田中氏に原稿受取りしやときけば「留守、わからず」と。ムッとして植村先生に「ともかく仕事了りし」と云ひしあと、
田中氏より電話「来る」との事に、「植村先生に会ってのち来よ」と云ふ。
17:00来り、「むりを承知でたのむ」との事に機嫌直して「よし」と云ふ。(※省略)
けふ能勢より「むすこ帰れば見す。丸の白髪おどろかず」と。

7月14日
朝beer1打、増田家より来り、また電話して礼云ふ。(※省略) 松浦母上、美紀子と来り、「日曜に西下の予定」と。滝本生「明日10:00来る」と。
25×200「玄宗」をかき、止めて柏井歯科へゆけば「上の歯に馴れる迄、下入れられず。来週来い」と也。

7月15日
曇。終日家にをり、午ごろ文芸春秋社に電話し、やがて田中氏の印刷所よりの電話に「出来た。日曜来られたし」といふ。
『日本の詩歌』予告来り、1回藤村、2回啄木と。『山の樹』2冊。集英社より『世界の詩』11版7千部と。
阿南氏より「Artai学会にて植村先生より噂ききし」と。
滝本生、午来り漢文教へ、去りしあと賀代嫗来り、24万円余の前家賃の受取り認めてゆく。戸田謙介氏へWhiskyもちゆく。


昭和42年 7月16日〜昭和42年12月31日

25.2cm×17.8cm 横掛ノートに横書き

p10

7月16日(日)
昨日32℃をこえてね苦しく、朝また暑きゆゑ礼拝休む。「玄宗」かき了へて65枚とす。(※暑中見舞 省略)
夕方散歩に出てタバコと長野県地図買ひ来る。22:00田中健五氏より「あす午前中来る」と。

7月17日
暑し。田中健五氏11:00ごろ来り原稿もちゆく。熱海へゆきたしと云ふに午后電話かけ「金土なら熱海、その前なら湯河原と」面倒となり断る。
けふは増田晃君の25周忌とて、母上の出したまひし『断章』。
(※暑中見舞 省略) 京、映画見にゆきおそし。美紀子より弓子に礼とてジャンパーくれし。

7月18日
斎藤dr.にゆき、こみゐる故、診察受けず薬のみもらひ、佐伯にて『文芸春秋』買ひ、よみ了る。
夕食せんとする処へ(中馬生)「吉野夫人、道下方にあり」と電話「すぐゆく」と云ひ、新宿に出れば小田急混雑す。落雷にて不通となりしと也。
長くかかりて喜多見下車。(※省略)

7月19日
暑し。(※暑中見舞 省略) 何もせずをり夕方柏井へゆく。滝本生より「統夫の2男児来し」と。「1万円をこの間賀代嫗に貸せし」と。
下歯出来、上歯直され、話せ食へるやうになりし。京、八ヶ岳へと出てゆく。
夜、また滝本生より電話「汚く飢えて旋風機とりに来し」と云ふに「湯に入れ飯くはせ、旋風機渡さず帰らせし」と也。
潮流社より『四季』発刊9月とせしと。

7月20日
近代文学館の笠井女史より電話「『四季』複写につき来たし」と。
散髪し昼食して待ち、14:00来りしに『四季』見すれば44号2冊あり、これと『コギト』1冊とを贈り(立教大学院国文出と)、
日大芸術科と昭和女子大とに(※『四季』の)そろひあるをきく。『有島武郎画集』といふを貰ひし。(※省略)
依子より電話あり「豊橋、蚊帳吊る」と。夜、澄よりも電話「史の家に電話つきし」と。
田中健五氏より電話「石田博士やっとすみしらし。追分へ来週木曜ごろ来る。熱海へも行かん」と也。

7月21日
田中城平叔父より暑中見舞。(※暑中見舞 省略) 澄より「豊橋にて母上帰り、美紀子発熱」と電話ありしと。
(salaryもらひゆき『織田信長』買ふ。山田、大藤、野口、古野の諸氏と会ひし。)
こちらよりも電話かけしに澄より「いまからゆく」と。滝本生来りをり。高藤武馬氏(南蛮寺万造)『馬の柵』賜はる。
史より電話あり「入院させよ」といへば、松浦母上より「熱37℃に下った。入院の必要なし」と。

7月22日
家居。滝本生12:00出てゆく。われ参考書目つくる。依子より入れ違ひに泰のこと。(※省略)
15:00和田統夫来り、賀代嫗16:00来りて「この家を船越よりはづし即金100万円にて」と。

7月23日(日)
礼拝委員として8:00家を出、1時間半あるに気づき困る。すみて帰宅。
山本治雄に返信はがき入りの手紙かく。小山正孝氏に電話し「月末会はん」といふ。

7月24日
7:30起き「旅路」(※NHK連続テレビ小説)見て、山本治雄への速達、悠紀子にたのみ、9:30出て羊羹2棹(150×2)駅前で買ひ10:20上野駅。
丁度坐れし。[12]:36信濃追分着。
途きき2度して白樺荘着。すぐ来し4生text1冊ももたざる故、夜あらためて来させることとし、すぐ出て追分宿の堀家、探し当てる。
夫人「昨日は東京」と。「丁度30年になります」といひ、いろいろ思ひ起し「物覚えよし」と云はる。
16:00白樺荘に帰り風呂に一番に入れてもらふ。『紅楼夢』一心に読めど中々埒明かず。(※省略)
4生19:00来り、階上の室にて15分づつやる。(妹尾、岡田、白幡、増田)

7月25日
7:00さめ10:00まで待てば4生来る。午すみ15:00再来。17:00すみ帰りゆく。(※省略)
夕食に堀川直義教授夫妻あり。(※成城)小学校の菊池先生と長く話し別館へかへりゆく。菊池先生、柳田文庫を成城へもち来し話さる。(※省略)

7月26日
7:00さめ朝食せしあと、妹尾の姉君より「昼食、万平Hotelの中国料理を」と。
9:00すぎ4生来り、12:00まへすまし、岡田生の運転するautoにて「つる屋」より廻りて万平Hotel。四川料理とて旨からず。
妹尾姉君来り、みな食はざるに恥づかし。出て剃刀の歯かひ、喫茶せしあとtaxiひろひ、その気になりて油屋までゆく(530)。
堀家を外側より写真とり、寄ることできず。途中にて喫茶し、帰り来る。(※省略)
家へ電話せしに「美紀子、予定日8月初め」と。「金曜帰宅」といふ(84円)。

7月27日
よべねつき悪く、4生9:30に来てあくびする故「けふ帰郷」といへば喜び、16:00別れのpartyと云ひ午、帰りゆく。(※省略)
「田中さんより電話」と呼びに来る。田中健五氏にして「連絡の要あり」といふに「明日午前中来宅あれ」といひ、
午食に堀川教授に帰宅いへば「原稿用紙分けよ」と也。妹尾生に電話し「15:00すぎ迎へに来よ」といひ、15:15来しと喫茶。
中軽井沢駅へ16:10着けば並びをり。座席指定券買はんとせしに「売切れ」と。のりこめば坐れし。19:00高崎にて夕食す。(※省略)
20:00すぎ赤羽、池袋をへて帰宅。(※省略)  田中健五氏より「あす午后」と電話ありしと。

7月28日
ハガキ5枚かき「四季の会」『果樹園』に速達しにゆき、Heine1冊を買ひ、佐伯にて『中国回教史』の記(600)、買ひて帰宅。
14:00田中健五氏、初校の大部分もちて来られ、色々要求されしにより「明日より3月間NewOtaniにカンヅメ承知」といふ。
野田氏の文学散歩改造のしらせ来り、平凡社の中国文学全集『水滸伝』を10月にと。
けふ母、西武へゆきしに京、なかなかしっかりしをる由、ふしぎ也。

7月29日
母、出て赤阪へとゆく(田中健五氏より「12:00文芸春秋へ来い」と電話)。11:00出て妹尾生にHeine送る(35)。(※暑中見舞 省略)
文芸春秋社へと四谷よりtaxi(100)、丁度12:00なりし。「午食まだ」といひ天ぷらおごってもらひ、NewOtaniまで歩く(池内先生のお宅見えし)。
14:00となり、田中氏出てゆき16:00ごろ天地晦冥となり豪雨。
このころ仕事やめて入浴、葉巻買ひ(200)などせしあと、televi見てゐれば田中氏より電話「すぐ来玉へ」と云ひしに19:00来り、
打合せして、すしご馳走となりゐれば井上光貞氏来合せ、17年卒と。
「阿南大将の息と同級」云々「上田勤教授は上田敏先生の子にして」と。すみて帰宅21:00。
写真20枚ほどとれ、集英社より印税1,053。けふ目痛く、文芸春秋にて薬買ってもらひしに、ユによればものもらひと也。

7月30日(日)
礼拝にとゆく。(※省略)
帰りて支那饅頭くはんとする処へ田中健五氏より電話「13:00 NewOtaniへゆく」といひ、その通りゆき16:00までに了へて帰る。
(※暑中見舞 省略) 吹田の秘書課長より「受験させよ」の手紙来あり、丸に電話し「重俊よこせ」といふ。(※省略)
豊橋に電話せしに「美紀子あさって帰京、あと史なんとかする」と也。
(けふ『中国の法と社会と歴史(680)』を佐伯で買ひ『白楽天』を新本屋で買ふ。)

7月31日
8:00まへさめてねむし。母11:00赤阪より帰り来る。(※暑中見舞 省略) 岡田生に『白楽天』と写真と送る。堀川教授と矢崎生にも写真送る。
依子より伊良湖豊橋の写真来る。田中健五氏より電話「けふは仕事なし」と。あとにて2度正誤の電話かかる。
小山正孝氏より「近々午前中に来訪」と。19:00まへまた田中健五氏より「石勒は石虎ならずや」と。資治通鑑しらべ「その通り」と訂正す。
(けふ丸重俊に書類わたし「父より山本市長に電話せよ」といひやる。(※省略))

8月1日
丸に電話し、きのふしらべし山本の電話番号教へ「一度かけよ」といふ。母9:30出てゆく。月末まで帰らざる也。(※暑中見舞 省略)
田中健五氏より電話「昨日徹夜した。けふ石田先生へゆく」と也し。
梅田ゑい夫人(※梅田惠以子)より電話「上京中。この間、保田に会ひ男児(※三男直日氏:6月20日)死にしとききし」と。

8月2日
10:00斎藤dr.(※齋藤茂太)4週ぶりにお会ひし「前向きですね」といはる。帰りて大に電話し「一度来い」と云ふ。
田中健五氏より「関西へゆく。諸民族の交流はとりやめ」と!腹も立たず。
(けふ帰途「うつぎ」にて『水滸伝2冊(100)抄訳』買ふ。)
中央公論社の鈴木みゆき氏来り、『伊東静雄』と『哀歌』とを阪本越郎氏にともちゆく。夜、美紀子と松浦母上より「帰京」と挨拶。

8月3日
(※省略) 午ねしをれば、平凡社の渡辺氏来り「9月中に」と。近代文学館伊藤整氏より「『四季』の複製」きまったと。佐伯に散歩にゆきしのみ。

8月4日
暑し。近代文学館の笠井女史より電話あり「早く来れ」といふ。(※暑中見舞 省略) 
12:00かっきりに笠井女史とも1人来て『四季』79冊、9月末迄ともちゆく。滝本生、木野長男つれ来り、ゆるゆるゐる故「暑し」と帰す。
小山正孝氏より「明日15:00」と。美紀子に「あすユゆかす」と電話す。
田中健五氏帰京「漢の長安の図を」と。「もはややる気なし」といひしあと、家に電話し「あす電話くれ」といふ。
「ヤルタ会談」といふ映画見て23:00近くなる。

8月5日
暑し(34℃と夕方発表)。小山正孝氏来りし故、『唐詩選』やるといふ。沖縄より柿崎、田中、庄田の3生。『果樹園』来る。
夕方、ユ松浦家へ出てゆき19:00田中健五氏、校正もち来り、挿絵、地図の相談す。ユ22:30帰り「史の俸給5万円」と。

8月6日(日)
礼拝にゆかず、校正100pやり止める。(※暑中見舞 省略) 夜、ユ史に電話し「美紀子に小遣ひ与へる」ことを云ふ。

8月7日
7:30覚む。ユ、よべ吐くこと4回と。すすめて山住医院にゆかしめしに、すぐ寒気訴へしにより来診乞ふ。17:00再来、マイシンのますと(800)。
田中健五氏来り、初校ずみの分もちゆき「あす再来」といひて帰る。みればわが稿きれぎれになりをり。石田先生むりして書き加へたまふ。

8月8日
午前中校正すまし、午pao食ふ。咲耶へ弓子の写真と吊書送り(85)、佐伯など見て帰る。(田中氏より「けふも夜」と。)
夜、齋藤氏来り、地図見せ、校正おきゆく。(澄より電話「あす上京」と。)

8月9日
齋藤氏11:00来り、校正もちゆく(数カ所訂正さす)。(※省略) 統夫より「兔も角150万円くれ」と!
けふ京「吉祥寺に泊る」と出てゆき、弓子より「おそくなる」の電話あり。澄、上京の筈なれど音沙汰なし。
(竹内夫人来訪。シン一郎君のみやげとて鮭くれ「弓子の縁談を」といへばあざ笑ひて去りし)。

8月10日
朝、台湾の頼教授、羽田より電話「14:00アメリカへゆく。9月20日すぎに来訪」と。
悠紀子「大阪へゆけぬやもしれぬ」といふに、松浦家に電話し美紀子に「14:00ごろゆく」といひ、肥下夫人の手紙を見て出、
(ユ、高井戸の諏訪家に電話せしに「澄、今夕泊る」とのことなりし)。新宿伊勢丹よりbusにてゆく。
武田の姉、迎へられ「父母に」と美紀子に2万円わたす。すぐ出て帰宅。
ボヤッとしてをれば17:00前、澄来り、ユ買物おそく心配す。「途で友と会ひし」と。帰り来りすし食ふ。
澄「最後の新幹線20:50に乗る」とのことに、すしせかし、19:30地下鉄まで送り依子に電話すれば「泰きのふより便を告げるやうになりし」と。
(あさ船越章来り、久しぶりに永々と話し「5千円、出来ねば3千円明日まで貸してくれ」となりし)。
21:30田中健五氏より電話、文の疑問の点なり。わが文かくも曖昧かと思ひし。

8月11日
暑し(夕方の発表にては37℃3と)。(※暑中見舞 省略) 田中久美子より「卵巣悪きらし」と。散髪やへゆけば冷房あり。

8月12日
暑し。村田昭三郎より「三鷹にをり10:30来る」と。やがて来る。「婚約きまった。10.15の式、静岡でする故出席してくれ」と。一応承諾す。
齋藤氏(文芸春秋社)来り、地図見せて直さす。
そのあと西荻窪より中央公論社第一出版部長、滝沢博夫氏より電話「校正文芸春秋社にてす。月曜14:00ごろ来れ」と。

8月13日(日)
礼拝にゆく。(ユ「体この2〜3日わるし」とてゆかず) すみてまっすぐ帰る。大より電話 (※省略)

8月14日
あさ美紀子より「ユの体いかに」との電話あり。田中健五氏より黎陽の位置につき電話「あとで答へる」といひ、(※暑中見舞 省略)
文芸春秋社へゆく。おほむね石田先生のところの校正を見、15:00すぎすみてhyreにて阿佐谷。「Raw-hide」いつもの如く見る。
文芸春秋社より第3巻来る。夜、稲垣浩邦氏に電話せしに留守。やがてかけ来り(※南方文士徴用)25年ぶりの声きく。
賀代嫗に電話せしに「けふの調停にて文子、離婚に応ぜず婚姻費用と阿佐谷の家をと云ひし。次回は9.15」と。
田中健五氏より「あす工場へゆく故13:00迎へに来る」と電話ありし。

p12

8月15日
televi終戦記念をしつこくやる。(※残暑見舞 省略) 13:00文芸春秋社の齋藤君迎へに来り、hyreにて凸版印刷志村工場。
1/3すまし、あとは2:00出るとのことにまたhyreにて帰宅。統夫より電話あり調停のこと云ひし故「9月末に金わたす。手続は早くする」といふ。
ユ、経理士にゆけば「1月くらゐかかる」とのこと也。
太田常蔵君より大著『ビルマにおける日本軍政史の研究』賜はる。

8月16日
ユをして斎藤dr.にゆかしめ、ついで西荻窪の税務事務所へゆかす。12:00帰り来り、昼食せしに文芸春秋社より連絡なく、13:00電話すれば田中健五氏「志村へ来れ、迎へにゆく」と。
齋藤君来り「昨夜は4:00までやりし」と。ゆきて達磨その他直し、夕食にそば食ひ20:00文の難解箇所きかれ、粛宗の張良娣と張后との区別に困る。(李宝臣の前名は『アジア歴史事典』にて見つく)
20:30帰り、張良娣見つからずその箇所抹消たのむ。(あとにて陳寅格(※の著作)を見てわかりしほか、広平王の代宗なることわかりしも仕方なし)。
(※残暑見舞 省略)

8月17日
9:00田中健五氏より正誤問ひ来る。あと憂鬱甚し。暑きも甚し。裸になりをれば美紀子来り、豊橋のちくわ持ち来る。(※省略)
夜、スワに電話し「20日朝出発、宿いらず」といふ。映画をteleviで見てをれば23:00田中健五氏より電話、王羲之についての質疑也!

8月18日
田中健五氏より「石田先生(※石田幹之助)に写真とりにゆかん」と。拒み得ず14:00文芸春秋社へゆき、赤坂のapartに訪ひ参らす。
2時間近くお話伺ひ、sandwichいただきて帰る。(※本冊付録記事となる) (※残暑見舞 省略)
澄に電話し、あすの宿たのみしと。母にも電話す。

p13

8月19日
成城大より試験予定問合せ。『薔薇』より「白詩の訳くれ」と。依子に電話し「弓子帰れば出て、訪ねる」と電話す。
15:00前、弓子帰りし故、地下鉄にて東京駅へつけば16:00に5分前。
「ひかり」自由席買ひ16:30にのれば浜松近くまで空席あり、その後もち主あらはれ30分ほど立ちてすみし。
busにて千種団地にゆき、泰の映画見、くすぐり、歯ぬきておどろかせ、(※名古屋市)東区葵町38の藤久観光Hotelの402号室にゆく。

8月20日(日)
7:30の電話にて起き、3,500+350の払ひすませ、呼びしtaxiにて駅にゆけば澄ら待ちをり(駅内にて朝定食くふ)。
9:02の「ひかり」にのり10:10新大阪着。taxiにて宝国寺(※菩提寺)にゆけば、おほむね来りをり。(※亡父西島喜代助7回忌)
(城平叔父、えん、康平、初枝、元木氏、朝場重三氏、山本昌三郎、建夫婦子2人、咲耶夫婦子2人、林叔母、渡、片山(喜美子叔母来れず、肥下夫人よりとどきをり)、大、諏訪3人とわれら夫婦にて23人。)
(諏訪、史より2千円づつ、柏井・田中俊子より1千円供ふ)北村院主いま上宮高校と高津の講師と。「再建する故よろしく」との挨拶ありし。
山本治雄に電話せしに夫婦留守。山本の吹田の家に電話して(※省略)、山本出て「来よ」と。電話きれ、夫人出てはじめて途わかる。
千里丘駅よりtaxiにのり、4階建ての長寿丘の無名の家と(taxi1,000)。折から雨ふり来り、
ゆけば来客中にて部長格の就職を夫人のいとこ世話しをり、同席して「まむし」ちょっと食ひ、
ついで部長に自薦の者ありとの件にて22:00まで隣室にて話をり。(※省略) そのあと枕ならべて眠る。

8月21日
10:30迎への車来り、山田村をへて京阪国道。吹田駅前で夫人と下車。新大阪へゆけば「自由席しかなし」と。「こだま」11:05の臨時にのり帰宅。
雨ふり来る。cameraユもちゆき空なりしことわかり失望落胆す。夕方、丸父子に電話し「受験せよ」といふ。

8月22日
9:00成城学園に電話し「サラリー9:00〜15:00」ときき12:30出て貰ひ、成城堂へゆけば『大航海時代』来りをらず。『ユダヤの民と宗教』、『南太平洋の環礁にて』と新書2冊買ひ、田中滋生に会ひ、(※省略) 午飯にさそひ、別れて帰り、
佐伯にて『支那史学史(2,300)』と『アッシリア学(50)』と買ふ。「この間、加藤家へゆき1万円の本買ひし」と。

8月23日
台風低気圧となりしと。10:00出て斎藤dr.。途にて賀代嫗に遭ふ。
『生きている象形文字』買ひしに西夏文字ではなかりし。dr.待たずに会へ「中位ですね」と云はる。すみてすぐ前よりbusにのり松浦家。
7回忌の香典返しもちゆき、坊やの土産賜はる。「史、あす位来さう」と也。(※省略)
夜、美紀子より「史ゐるや」と。依子に電話し「史来たか」と問へば「来ず」と。

8月24日
朝、暑し。京、休みなれどice-skateにと出てゆく。史、午まへ来り、「美紀子入院」と。16:00電話かけ来り「女児生れた」と。
18:00また松浦家より「体重2,500g」と。

8月25日
暑し。白楽天の「楊家南亭(56才秋)」を訳して村上新太郎氏へ送る。佐伯へゆきしになく、栗田でArlington『支那の演劇(700)』見つける。
佐伯は暑しとて休みゐし也。(※省略) 帝塚山学院同窓会報に「わがふるさと」書きて送る。
今井翠(※美紀子氏姉)に電話し「あすユと病院へゆかずや」と。(※省略)

8月26日
ユ、10:00と約束し今井翠と女子医大病院へ(※史氏長女誕生)祝3万円もちてゆく。13:00松浦家へゆきしと電話かけ来る。
弓子帰りしに茶漬食ひ、散髪にゆく。そのあと烈しき夕立。赤ん坊美紀子に似をりと。
(けふ松村赴氏、龍園大飯店より24日付の航空便来る「台湾にてAmi族の歓迎受けし」と也。)
夜、岩崎昭弥君より電話「北海道へゆく。9月に上京の時、会ふ」と。

8月27日(日)
朝やや涼しく8:50阿佐谷駅。礼拝当番として9:20より教会にをり。すみて昼食後、賀代嫗来り、章とちょっと会ひしあとpermaにゆく。
「滝本生、けふ22:00鎌倉へ帰り来る」由。われ150万の基礎云ひ、納得せしや否や不明。
(※省略) 賀代嫗20:00弓子を伴として西荻窪へと出てゆく(章とは話出来ず)。

8月28日
賀代嫗、章と話し「36万円を5千円月賦で払はす」こととなる。滝本生、電話かけ来り「2人にて軽井沢へゆく」と。
〒なく、昨夜誕生祝に依子より2,500貰ひし故、佐伯へゆき『古代中国の都市とその周辺(900)』、『いんよう石(1,300)』と買ひ来る。
この間、加藤女史へゆきしとき買ひし本の良きものを見せらる。夕方宮崎智慧女史より電話、来たまひて『Odysseia』よませたしと。
筑摩の本教へ、弓子の写真と吊書ともってゆきもらふ。
田中久子より電話「竜かけず」と。「書け」といふ。京「試写みにゆきおそくなる」と電話。

8月29日
朝、母より電話「岑夫の妹死に、帰りおくれる」と。松浦母君に「あす7夜ゆゑ病院へゆく」といへば「腎盂炎また起った」と。
浦和の田中久子生に「来い」といへば11:00来る。卒論の章を示しをれば、
佐々木三九一氏、東京建物より電話かけ「一度会ひたし」と。35年ぶりの声也。林素梅小姐より「義父母へ」と便り。(※省略)
「祖父の祈り」を『果樹園』にと書く。けふも京「帰りおそし」と電話。

8月30日
9:30出て斎藤dr.にゆけば、意外にも満員。薬6日分もらひ、新宿二幸前にゆけば休みと。
伊勢丹にて赤飯・鯛・桃などを買ひ、taxiにて河田町の女子医大病院にゆく。2人室にて「相部屋はきのふ7夜なりし」と。
松浦母上来られるまで赤飯くひ、小さき赤ん坊cameraにとり(あす史、命名に来る由)、busにて新宿西口。
疲れてUniversiade見てをれば賀代嫗・滝本生と来る。われ避けて会はず、帰りしあと全田叔母の「佐治牧師への紹介を」とのハガキ。
硲氏の誕生祝のハガキ。近代文学館より「(※『四季』)欠17号なりし」とのハガキ見る。

8月31日
9:00すぎ出て成城へ10:00すぎつき、あすの準備に白楽天のprint切る。伊藤助手来る。10:30すみし故、
成城堂にて『江戸名所図会3』買ひ、小高根太郎家を訪ふ。「母上83才となられし」と。令息用のautoおきあり。
出て11:30新宿。家へ電話し、12:10地下鉄へ来よといひ、rice-curry食ひ、
銀座へ出て有楽町千代田劇場にて「日本の一番長い日」見る。阿南陸相に三船敏郎扮しをり。
すみて帰れば服部夫人よりたよりあり。夜、美紀子より電話「史、(※名づけに)“ヤス子彰子”をあげて豊橋へ帰った」と。
ユ電話し、われ電話し「ヤス子はスワの泰とまぎらはし。彰子は隣の船越章をり、美を下につけては」をいへば「バーの女給に多し」といひて了る。

9月1日
8:30出て成城大学。3時間やる。(※省略) ゼミは従って柿崎、田中2生のみ。小倉夫人来らず。4時間目白楽天すまし、山野井生と同車。
新宿でjuiceのみて帰宅。角川書店より『現代詩人全集8』の印税1,314来りをり。(※省略) 疲れてteleviのUniversiade見しのみ。
けふ美紀子より電話あり「雅子となるらし」と。

9月2日
10:00佐治良三氏に「全田の叔母に福音伝へたまへ」の速達出し、
佐伯に寄れば『達磨の研究』来てをり「加藤治子氏の売却手伝ひし礼にもち来るつもりなりし」と。こばみて千円置き『蝦夷地(230)』もらふ。
帰りて松村潤氏に電話すれば「東洋文庫休み」と。山根忠雄氏より『竹梅抄』贈らる。
15:00ごろ小山正孝氏来らる。「唐詩の訳は題とともになるべくわかり易くせん」と提議す。17:00ごろ夕食せずして去らる。(※省略)
硲晃氏「『R火』のこと書け」と。

9月3日(日)
礼拝にユとゆく。小高根二郎氏より受取。疲れて何もできず。夜、依子より電話「母来り、豊橋に電話せしも出ず」と。
ユ松浦家に電話すれば父君出て「史、来てをらず。雅子ときまりし。まだ退院せず」と。

9月4日
速達にて大高同窓会より原稿用紙くる。やむなく「かぎろひのこと」2.5書く。名古屋に電話すれば依子・母出て「けふ豊橋へゆく」と也。
佐伯にて『唐詩三百首詳解(150)』買ひ来る。〒他になし。

9月5日
8:30出て定期3ヶ月(5,400)、千駄ヶ谷にて下車。道に迷ひしあと斎藤dr.。「鬱」を申上ぐれば赤玉まし玉ひ、眠剤も強くし玉ふ。
新宿まで歩き、二幸にてすし食ひ(100)、登校。
『二十四史』と『地誌』とを図書館にわたし、中国文学史のprint切りなどして、時間つぶし14:10の教授会(松村赴氏『台湾案内』の新版賜ふ)。
すみて大藤、野口、鎌田3氏と「大学院を文化史とすべきかいな」につき相談。帰りて丹波道久君より「中央公論社の広告を見た云々」。
諏訪母上より「祝送った」。ユ母を迎へに東京駅へゆき、美紀子より電話「2,500gが2,800となりし故、退院許された」と。
Sharmanismのnote作りに閉口す。

9月6日
8:30出て登校。天ぷらそば食ひて2時間教ふ。(※省略)
けふ母、大の所へゆく。「滝本生、電話かけ来しも月末まで断はりし」と。夕、林素梅に手紙かく。

9月7日
よべはわりあひ眠れし。朝、唐詩を2首やりはじめしところへ佐治良三氏より「全田へゆくこと承知」と。
12:30出て成城大学。短2Aに試験の要領はなす。田中久子生の質問受けゐる処へ鎌田女史来り『柳田文庫蔵書目録』たまふ。
「全教員には与へぬこととなりし」と。成城堂でグラネーの本行きがけに買ひ、貸しをること判りし故返しにゆき『文選(650)』買ふ。

9月8日
9:30登校。semi全員出席なれど小西生が1枚かき来しのみ。(※省略) 佐伯で『淮南子註(200)』、『鴎外全集』出て10万円と。(※省略)

9月9日
9:00すぎ出て東洋文庫。松村氏50周年記念の相談にて席を外す。あと『大世界史』の苦心話して帰宅。(※省略)

9月10日(日)
televiに衛藤長老出たまふを見て礼拝に参れば、長老出席。昨夜とりしらし。(※省略)
13:00すみ、阿佐谷にてすし買ひ(110)て帰宅。〒なし。夜、諏訪に母上よりの祝の礼かければ泰出て物いふ。(※省略)

9月11日
小雨。睡眠剤1服なくなりし故、ユに斎藤dr.に寄る様たのむ。赤坂へゆき母と松浦家へゆき「美しき子」とほめられし由。
牛突きに負けし牛はも肉となるために船にとのせられゐるも。

9月12日
雨。10:00出て斎藤dr.。13:00近くまで待たされ、わびらる。昼食してのち成城大学。大藤氏「血圧高し」とて来られず。
文化史といふ大学院作るべきや否16:30まで討議「作る必要なし」と戸口君云ひし。硲君より「原稿受取った」。
田中健五氏来り(※『大世界史4』)30冊置きゆきしと。「頼さんHotelよりも電話ありし」といふにかければ外出しをり。

9月13日
9:30登校。『大世界史』を、高田、山田、野口、鎌田の諸氏に分つ。
台風との事に早く帰れば、南北社常住氏といふが来て「15:00再来」と。「『保田與重郎選集』の挿みこみかけ」と也。
(けさ近代文学館の笠井女史よりも「『四季』の説明かけ」と。「田中冬二氏にかかせよ」といふ。神保の持ち本にてそろひしと也)。
「台風来ず」とのことに虎の門Hallの成城大chorusききにゆき、早く帰る。

9月14日
(※省略) 美紀子に電話すれば「雅子3,200gとなりし」と。12:30出て硲、諏訪へと『大世界史』送る(90×2)。
田中健五氏へ「本3冊ついでに返し玉へ」とかく。登校。栗山、池田、坂本3氏に本わたし、田中久子にも1冊与ふ。
あとのsemi7生にもやるつもり也。(※省略) 佐伯に寄り「鴎外全集買はず」といふ。けふ山田、高田諸氏に云ひしもその気なし。(※省略)

9月15日
よべ眠り少く、起きしより胃を感ず。むつかしき顔してをり明武谷勝ちしを見てはじめて笑ひし。
18:00頼さん(※頼永承)、駅より電話、迎へにゆき『大世界史』その他贈り、夕食すます。「戦争中、山形の部隊にて主計なりし」と。
齋藤齋先生に電話して「あす夜ゆく」と頼さん云ふ。送りにゆきまた胃を感じ、膏薬貼って眠る。

9月16日
胃、感ぜずしてさめる。(※省略)
夕方、和田統夫より「文子離婚100万円出せ、子供はわたさず」と報告。われ「金は今月末まで待て」といひ、鬱となる。
(朝、東洋文庫に電話、神田、岡田2氏出、神田氏「頼さんの歓迎会せん」と。岡田氏「履歴書、業績書承知」と)。
庄野英二氏の「星の牧場(紀伊國屋ホール、劇団民芸)」見にゆかず。鎌倉の賀代嫗に電話すれば「文子、条件付き離婚承知」と。
神田氏21:00電話「頼さんの歓迎会火曜か水曜に」と。(※省略)

p14

9月17日(日)
8:00すぎさめ、礼拝に我はゆかず。午后より「こわくなる」。夕食後ふるへとまる。
(けふ松浦家より電話し来る)。今井翠夫人23:00火事見舞の電話。

9月18日
「朝日」に『大唐の春』と『日本の詩歌 第1巻』発売と出をり。(※省略) けさ8:00さめ、こはさなくなりし。(※怖さ無くなりし)
(※省略) よべの火事はゴールド街なりし。母、大のところへ出てゆく。(※省略)

9月19日
齋藤dr.にゆき「薬も少し強くし玉へ。本のことにて悩む」といひ、1冊みていただく。10:30になりし故帰宅。(※省略)
教授会事なく、堀川、大藤2氏欠のため主任会もなし。山田俊雄教授「『大世界史』一気によみし」と!(前田教務課長、総務部長に陞る)。
成城堂にて『和■の友8月号(150)』とりよせ来る。佐伯に寄り『柳柳州全集(130)』買ふ。(※省略)

9月20日
8:30出て成城。(※省略) 潮流社の八木氏より『四季』を10月半ばに出すにつき、座談会に手を加へよと電話。
帰れば『四季』の内容書来てをり、やがて鈴木女史来り(※座談会の)原稿おきゆく。
けふ諏訪澄より電話、『大世界史』受取った。よみ易しとユ。(※省略)

9月21日
雨。寒し。三好達治座談会にちょっと手を入れる。潮流社に電話すれば鈴木女史「17:00ごろ行く」と。
登校。print切りし処へ田中、岡田2生来り、卒論の原稿かき直す。salaryもらひ短大教へ(成城堂へ払ひ1,800余)、16:00帰宅。
鈴木女史来りしに原稿わたす。

9月22日
きのふ寒く合シャツとせしに、けふは暑く上衣なしにてゆく。(※省略)
帰り山野井生にPhilippine関係の本貸し、来年度のsemi考へさし、ともに餡蜜くって別る。母帰りをり。海老沢博士「役づきやめ仕事す」と。

9月23日
9:00出て東洋文庫。石田、前田2氏に『大世界史4』1冊づつと机上におき、7人にて清実録よむ。
すみて頼氏来るをまちtaxiにて中華料理(西片1丁目万歳楼)へゆく。和田久徳氏と助手の女史とで7人也。
14:00すぎ宴ははてて神田氏払ふを見れば1万2千円ほど也し。われ頼氏と都電にのり四谷へゆく頼氏と別れ、
山本にて小さき本3冊と『満洲叢考』といふを買ひ700円余り払ひ、地図屋にて『大阪府(70)』買ひ、
card屋にて(木原)200枚(180×2)買ひ、国鉄にて帰宅。滝本女史来りしも会はず。

9月24日(日)
礼拝やすみ、美紀子に「明日ゆく」と電話す。22:00岩崎昭弥君「あさって訪ねるかもしれず」と電話。

9月25日
午すぎユと出て駅前で果物買ひ、13:30松浦家。雅子、目鼻立ちよろしく小さけれど元気さうなり。(※省略)
出てtaxi(120)、新宿にて別れて佐伯に寄り帰宅。(※省略) 中野清見君より「27日17:30朝日新聞玄関で会ひたし。竹内、丸にも伝へよ」と。
田中健五氏17:00来り、貸しし本返され「10万部刷った。来月払ふ」と。18:00出てゆき「写真挿みあり」と電話。
20:00丸に中野の件電話すれば「重俊の願書年令超過」と印押して返し来りしと。竹内に電話すれば嬢出しゆゑ伝言たのむ。

9月26日
齋藤dr.にゆく。「不安なくなりし」を云ふ。(※省略)  岩崎昭弥氏「日光より帰りし」とて電話。18:00すぎ駅へ迎へにゆく。
竹内好君より中野清見のこと問ひ返せしに答ふれば「あすゆく」と也。(※省略)

9月27日
竹内より電話かかりし故「中野上京17:30朝日前で。われもゆく」といひ、いやとなる。(※省略)  televiで『裸者と死者』やりをり。
(「蒲地ですが、父亡くなり(25日)けふ密葬、29日通夜、30日葬式」と坊やより。「母君も入院」と也。)(※蒲池歓一氏訃報)
16:00すぎ出て「うつぎ」見しに何も本なく地下鉄銀座。朝日の前に25分立ち中野、竹内、後藤と来り、丸来らず、
ふぐ料理「大雅」とかいふへゆき、だんだん悒鬱になり、5千円おきて帰らんとすれば竹内つっ返す。
地下鉄にて南阿佐谷。『ノーマンメーラー(220×2)』買ふ。

9月28日
「電話」かき『果樹園』に速達。北口古本屋で『鄂倫春語(※おろちょん語)(20)』買ふ。午后また2,500の同人費を出しに行く。(※省略)

9月29日
(※省略) 台北の林素梅より「又一度転居す」と便りあり。
19:00まへ出てcamera屋にて5千円札にかへて地下鉄九段下。
蒲池歓一氏のお通夜といふにゆけば、集英社の鈴木省三重役「急な病気にて」と。饅頭と五勺瓶わたされ帰宅。
不安なくなりし! 賀代嫗より電話「文子につき情報入り離婚費用少くてすむ。くはしくは水曜に」と。

9月30日
ユ6:00前に目覚ましかけおき、起され不機嫌なれど頼教授の歓迎会の借ある故、10:00東洋文庫松村研究室。
阿南氏久しぶりに来り『明と清の決戦』たまふ。すしおごり帰りて臥床。眠れず。母、赤坂へゆき統夫より「2日に150万円とりに来る」と。

10月1日(日)
礼拝委員としてゆく。すみて佐伯に寄り『歌舞伎の話(50)』を持金43円にまけてもらふ。
『果樹園』来る。立教史学会より出欠の問合せ。「欠」とかく。
夜、賀代嫗よりユに電話「文子に計画みなもれるゆゑ話さず」と統夫いひ「50万円わたせ」とのこと也。不快。
けふより『唐詩選』やる筈なりしもできず。

10月2日
雨。ユ午后出しあと角川より(8×8,000-6,400)来る。『唐詩選』やる気にならず。夜、澄より「税、天引きしてをけ」と電話ありし!

10月3日
雨。齋藤dr.「去年よりまし」と申し上ぐ。けふより薬代30円×7とらる。「来週月曜来よ」と。
二幸にてすし食ひ登校。(※省略) 和田統夫来るかと思ひしに来ず。小山正孝氏に電話「『唐詩選』できず」と。(※省略)
後藤孝夫より「天国予約ある故元気出せ。丸の息子のこと山本に話しみる」と。(※省略)
田中健五氏に「竹内、後藤、中野、阿南氏に送本を」とたのむ。

10月4日
久しぶりに晴。11:30よりの試験監督にと10:00家を出る。(賀代嫗より「50万円わたせ」とのことに「受取を」といひし。) (※省略)
出て気がかはり東北沢下車。近代文学館へゆき伊東の詩集と原稿あるを見る。笠井女史みやげに切符3枚くれし(喫茶室でcoffeeのみゐしに)。
帰りて「母のゐる時、賀代嫗来り50万円渡せし」ときく。硲君より「孫へ」と毛糸あみ。依子より写真来をり。

10月5日
小高根二郎君より「蒲地氏にはこの春会ひし」と受取。13:00出て成城大学。(※省略)
17:00近く帰宅。(けふ澄へ『果樹園』、「大高」へ速達す。)

10月6日
曇。13:00まで待ちね頼教授へ写真送る(110)。南新宿で下車。『佩文韻府(1.1万)』送ってくれとたのみ登校。(※省略)
英語補講の試験監督、うしろ向きし男生の答案とり上げ退室命ず。(※省略) すみて鬱々と帰り来る。
岩橋女史(帝塚山短大)より電話「笑へばもとの声」と也し。

10月7日
雨。3:00めざめ苦しく、ユ松浦家、母スワより赤坂へ出てゆきしあと、東洋文庫に欠席申す。神田氏出し。(※省略)
「聖心女子大(前学長)Brittさん69才で昇天」と新聞に見ゆ。ユ帰らざる前に、下歯なほしに柏井へゆく(bus30に値上げ)。
帰ればユ帰宅。「大野家へゆき信州の人と10日見合きめ来し。美紀子10日豊橋へゆく」と。
「スワ夫人わるきゆゑ電話せよ」といふに、依子へ電話すれば「澄12,13上京」と。「泰テレビ見をり」と。(※省略)

10月8日(日)
礼拝にゆかず。中野清見より「この間はありがとう」と!成城大学より「14日12:30大学院教授会」と。
統夫より「5千円受取った」と。角川より「Heine(※改版)3版1万部を10月中旬に」と。(※省略)

10月9日
7:30起き、8:30出て斎藤dr.。「少し上向き」と申上ぐれば「いつよりか」と問はれ困りて「昨日より」と申上ぐ。
新宿西口まで歩きbusにて阿佐谷車庫(30)。柏井歯科へ11:00すぎ着き「下入歯来週月曜に出来る」ときく。
弓子12:00すぎ「友人の披露に」とあはてて出てゆき、「明日の見合のため」とpermanentにゆく。(※省略)
けふ林素梅より小包来り「通関料80とられし」と。手紙入りをり「出国の友に託した」と。ふしぎ。9.18出し也。

10月10日
ユ、弓子の見合にと9:00すぎ出てゆく。Berlin Olympicを30年ぶりに見し。(※省略) 岩崎昭弥君より「おかしおくれた」。(※省略)
大高春秋会より「案内いるや」と「いらず」と答ふ。(※省略)
弓子、午食くはず12:30帰り来り、ユその後帰来。「共かせぎをいひし故だめならん」と。
美紀子より電話あり「別れに参る」と。15:30来り、雅子笑ふやうになりをり。今井一家も来り、16:30外に出て写真とる。
taxiにて帰ることとなりし。夜、澄より「12日、泰つれて来る」と。(※省略)

10月11日
(※省略) 頼教授夫妻(劉慶理)と嬢(眞理)より礼状。後藤孝夫より山本へ電話すれば「力及ばざりし」といひし由。(※省略)
澄より「あす11:10、3号車にて」と。(※省略) 夜、丸に電話すれば「夫婦にて旅行」重俊出しに吹田の事いへば「さうでせう」とおどろかず。

10月12日
10:00出てユ、カメラ屋にゆきしもあかずと。東京駅で11:10につくを40分待ち、四谷の諏訪氏までtaxi(240)。(※省略)
澄と別れて地下鉄四谷三丁目より来りて帰宅。白幡生より電話ありしと。『婦人画報』婦人画報「17日16:00文芸春秋社へゆく」こととなる。
白幡夕方電話かけ来り「あす13:00来る」と。
21:00ごろになりて泰むつかしき顔しだせし頃、澄、竹内家より来り「Balconiに出す」と叱ってねかす。
小山氏より「(※平凡社『唐代詩集』原稿)締切12月末となりし」と。

10月13日
依子より電話ありし故「預かれず」といひ、9:00ごろ起き来りし泰見て散髪屋。ユ、泰つれて吉祥寺。
我帰宅すれば澄も起きをり12:30出てゆくを写真にとり、ユと母と送りゆく。
14:30白幡来り、初めの方のみかく。「あす民俗学会年会にゆく」といふ。(※省略)

10月14日
9:00出て成城。はじめの話は「奈良坂は夙」といふことなりし故「夙の証拠ありや」といひしに答へられず。あとにて名刺くれ東洋大学教授荒井貢次郎氏と。
沢田四郎作dr.ゐるを見、挨拶し『大世界史』進呈す。(※省略)
平山氏の話半分きき、鹿児島の村田煕氏の「薩摩盲僧について」きき、総会に出、夕食に出る。鎌田女史挨拶せし。(※省略)
立教の宮本氏(※宮本馨太郎)、教育大の直江博士(※直江広治)と話して18:00となりしゆゑ帰宅。
けふ成城堂にて『大漢和9』受取り『奈良県の考古学(1,500)』買ひし。
家につきし時、滝本生出る寸前にて「弓子の口あり、写真よこせ」との(※賀代嫗よりの)使なりしと。
この間見合せし信州の人「交際したし」といひ来し由。弓子は旅行中なり。

10月15日(日)
6:40起き7:30出て東京駅。新幹線こだま自由席9:25にのり坐る。静岡着。早しとて喫茶hot-cake(50+60)。taxiにてNew八重洲へと10:30。
つけば11:00新郎新婦出で来り写真とる。(※立教教へ子村田昭三郎氏披露宴) (※省略)
「能登へゆく」といふ新郎おきてtaxi拾はんとせしに、新郎呼びゐし車にのせてくれる。
それより駅に出てヱハガキ買ひ、前より知る古本屋へゆき、『王士(200)』、『李太白(90)』買ひ、土産に安倍川餅とワサビ漬(300+100)買ひ、
14:49発の急行にのれば1時間おくれ19:00東京着。佐伯によみ了へし『文芸春秋11月号』売り(70)、すし買って帰り食ふ。
石田先生(※石田幹之助)より「一席設く」とのことに、田中健五氏に電話し「18日の東洋文庫のお話すみてのち」といへば、先生「それぢゃ来月にでも」となりし。
弓子この間の見合の相手断ると也。

10月16日
晴。9:30出て(よべ睡眠感なし)齋藤dr.。「躁」と申上ぐ。都電にて往復しbusにて阿佐谷車庫。
柏井歯科へゆけば「技師病気のため入歯出来をらずと電話せし」と。時に10:00。茶のみ田中克己『基礎人類遺伝学(250)』など買ひて帰宅。
中野清見君より『北湖2』来り、島とわれとのことも書く。(※省略) (けふ林素梅に別便にて衣料送るとヱハガキ(35)。賀代嫗に弓子の写真送る。)
ユ、大野さんに断りにゆく。「父兄らえらき故といはれし」と。夕方colore-filmとりにゆきしに雅子写りわるく3枚のみ也。

10月17日
11:30より及第会議とて10:00出て成城大学。(※省略) 『佩文韻府』7冊来をり(1割引なり)、高田部長に個人研究費よりと手続す。
『二十四史』と『明実録』の書類不足とて山本書店に電話す。(※省略)
天ぷらそば食って大学院につき相談。われ「東洋民俗学または東洋文化史」として申請さる。14:00すみて一旦帰宅。
小高根二郎氏よりの「『四季詩集』ありや」と、中野清見の「11.5山本の新宅祝か」とのたより見る。
15:00まへ出て四谷より歩きて文芸春秋へゆけば30分前、田中健五氏呼出せば、のみもの飲まし社長に電話してくれ「来てよし」となる。
15分前にゆき話す中、婦人画報社来り(※対談)、社長つかれて早々にすむ。taxiひらひて四谷まで乗り帰宅。
(けさ賀代嫗より「(※見合相手)名古屋の人?にてよきか」とあり「よし」と答ふ。) 母、赤坂へゆきをり。
(佐伯へ寄り『仏像の起源(3,300)』借りて来る。礼18,000を小切手でもらひし為也)

10月18日
登校(雨)。高田瑞穂氏『近代耽美派』たまふ。14:00帰宅。小高根太郎のハガキ見る。珍し。電話すれば嬢出て「不在。22:00まで帰らず」と。
17:00出て東洋文庫。18:15より石田先生の「モリソン文庫と東洋文庫」のお話きく。紹介は新文庫長、辻直四郎博士なりし。
すみて先生に御挨拶し、田中健五氏を見る。
「この頃もうよろしきや」と問ひしあり、中川成夫(※歴史考古学者)なり。「いやまだ」と答へ出しに、駒込駅でまたあひ「つきあってくれ」といはれ、ことわらず池袋下車。料理屋にゆき、
また「詩人を専業とすべし、東洋史もかけ、その出来が悪くなき才子なれば困る」といはれ、はうはう出んとすれば仲居助けくれしも外までつきそひtaxiとめてくる。「500円にてゆける処まで」といひ中野駅につけば300なりしもつりやる。
けさ建電話かけ来り「赤坂に母をり」と答へし。 (※省略)

10月19日
「金星にロケットゆき40〜120の高温」と。「溥儀氏死に64才」と。小高根太郎に電話。漢文採点中、母帰り来る。
12:30登校。(※省略) 早くすませて庄田を少し教へて『佩文韻府』もちて同車。新宿にてここより史料写させつつ餡蜜食ふ(20×2)。
「史、豊橋にて評判」の由。佐伯にて『太平天国異聞(550)』借る。
けふ登校して「あす4大学、体育の日にて休み」と知る。京「短大などごめん」と也。(※省略)

10月20日
大学体育祭とて助かる。賀代嫗より調停に「統夫のみ有利となりし」と。井階房一氏より今中19期生名簿来る。
「秋明」と白楽天の「楊家南亭」を訳してのせし『薔薇』91号来り、大伴道子女史より「11月15日までに400×7を」と。
婦人画報社来り、(※17日の対談)速記見せ「10枚書きたせ」と。14:00田中久子、柿崎の2生来り卒論の相談してゆく。
柏井歯科へゆけば「来週義歯できる」と。佐伯にて『台大哲学科研究年報4(30)』買ひ来る。「吉田茂死す。近々国葬」と。(※省略)

10月21日
8:00さめ8:50出て東洋文庫。読合せの終頃、田川博士来る。『東洋文庫50周年展』もらふ。
なくせしと思ひし『明鑑易知録』そろへて貸してあり。
12:10出て新宿にてrice-curry。成城大研究室へゆけば大藤氏「11月のcourse説明に出てくれ」と。
柿崎生をり『檀君考』貸す。成城堂に6千円余り払ひ『大航海叢書9』受取り、柿崎生としるこ食ひ、佐伯に借り3,850払ひて帰宅。 (※省略)

10月22日(日)
久しぶりに礼拝に出席。大野家へゆくユと別れ古本屋2軒見て買はず。
佐伯にて『キリスト教と諸宗教』、『キリスト教■朝』、『国語に及ぼしたる英語の影響』で150。(※省略) 「けふ梅さんへ布送りし」と(180)。

10月23日
泰へと写真。狩野和加子へ見舞。牛尾三千夫氏隠岐島より『四季(※復刊)』の問合せ。四季社に電話すれば「11月になる」と。

10月24日
牛尾三千夫氏に「『四季』出る」とハガキかき、10:30斎藤dr.にゆけば満員。薬もらひ(805)、小田急にてさばずし(90)買ひて登校。
(※省略) 栗山氏に『東洋文庫展』進上。成城堂に2度ゆき『岩波新書』2冊買ひ、中国地誌研究室にはこび、教授会すみて帰宅。
福地氏(※福地邦樹)より「「祖父のいのり」よし。大東亜史、中国文学と御活躍うれし」と也。(※省略)
けふ『新潮』にのりし小山氏の文(※新潮 1967年11月号p196〜197「 「四季」の復刊と復刻」)よみしによくなかりし。

10月25日
9:00出て成城大学。2時間みな短く切り、(※卒論指導 省略) 帰り柏井歯科へゆき林檎おき、
佐伯にて『梁塵秘抄』、『平安朝時代の詩』、『日本歌謡の展開』、『北米大陸をゆく』にて170にまけいもらふ。(※省略)
浅野晃氏より『流転詩集』来りをり。「賀代嫗来りて調停有利の話せし」と。

10月26日
われに〒なし。12:00出て成城大学。(※省略) 夜、泰に電話すれば「ヂイチャン」といふ。

10月27日
雨。ゆきに小倉夫人と同車。午また来り、卒論「立原道造」としたしと。ゼミに来週休みなるも休む勿れといふ。柿崎「父上京」とて休む。
帰り佐伯にゆき『日本古代国家(200)』買ふ。
(近代文学館より「『四季(※復刻版)』11.20出来る。同人に1部づつ与へる他は申込め。価格28,500」と。) (※省略)
(山野井生「母入院中急死、取調中。学校はやるつもり」と。総務部で香料預かる)。

10月28日
9:00出て東洋文庫。田川博士早く来、阿南氏来り、岡本、岡田、神田、松村氏と我にて6人。
すみて都電にて(白木屋)東横日本橋店の「東洋文庫展」見、案内100にて買ひ、地下鉄にて新宿をへて帰宅。15:00。(※省略)
文芸春秋社より(※『大世界史』印税)170万円来をり(20%税)。笠井女史より電話「『大陸遠望』の刊年を」と。滝本生「あす午来る」と。

10月29日(日)
夫婦とも礼拝にゆかず。13:00滝本生来り14:30帰りゆく。あと母、赤坂より帰り来る。(※省略) 夜「ヤマトにゐたころ」を作る。

10月30日
9:00すぎ駅前郵便局にて『果樹園』へ同人費ゆ2,500よと原稿速達(125)。
佐伯に寄り久保得二『支那文学史 下(20)』買ふ。この間の『鴎外全集』8万円にて仲間に売りしと也。
けふ三井銀行支店へ小切手もちゆけば「定期にせよ」と店と家3回すすめられし。(※省略) 大伴女史より礼状。
角川より(※『ハイネ恋愛詩集』)新4版1万部の受取と見本1冊。(※省略) 13日とりし泰の写真出来しゆゑまた包む。

10月31日
9:30出て新宿より都電四谷三丁目下車。斎藤dr.にゆく。先生「白楽天の母狂死なりや」と問ひ玉ふ。
帰り佐伯に寄り『風筝誤(200)』。依子より「泰『なあに』を訊ねるやうになりし。『二つ』と指2本出す様になりし」と。
けふ13日の写真送りし也。狩野和加子生より「経過よろし」と。けふ吉田茂の国葬也!(昨日、正調オルガン(※田中正平発明)ひく伊藤教授をteleviで見し)。

11月1日
お花料1千円包み9:00出て成城。2時間教ふ。(※省略) 
講義中カギ中へ忘れしまま野口君に帰られ、カギ来るまで待ち14:30となり、山野井生に電話「おそくなる」といひ、
新宿より神田のりかへ御徒町で下車。上野公園前まで歩き都電にのる。「根津宮永町」が「根津一丁目」と改称。すぐ見つかれば父君往診中。
姉上出て「成城国文で習ひし鈴木睦美と同級」と。父上帰られ胃下垂との診断うけ、せんべい頂いて辞去(母君わが死を予言する歌つくりをり)。
御徒町の「江戸っ子」にてアンミツ(90)食べて帰宅。
母、赤坂へゆきをり。賀代嫗よりの電話にて30万円定期とし三井銀行阿佐谷支店喜びし「数男にも10万円返せし」とユの話也。
(佐伯に朝鮮本2部(54×2)と『十三経注疏(1.5万)』を学校へとたのみし)。

11月2日
(※省略) 近代文学館の笠井女史に電話すれば「買はねばならぬと誤読せしは大木実」と。ユ、立教同窓会へとゆき、休みの京、昼食の世話す。
(※省略) 佐伯へゆき『日本之裏面(30)』、『Book of Etiquette (30)』買ひ来る。ユ、日くれて帰り来る。
二度、加藤税理士(公証人)に電話し「地面の検査まだか」と云ひしも埒あかず。(阿南氏に『サルホの戦』の正誤かきて送る)。

11月3日
散髪し、11:00高円寺の古本市へゆく。何もなく『太平洋戦争』2冊買ひ家へ電話して赤川氏に寄りしに「歌会にゆきし」と。
帰りて疲れしもユ、出てゆきし故、RugbyとFootballのtelevi見る。運動会にゆきし弓子帰宅せしあとユ帰り来る。
母に電話し「4万円やる」といへば喜ぶ。夜、松村氏より電話「あすの研究会なし」と。神田、岡田氏ら京都へゆけば也。

11月4日
(※卒論指導 省略) 16:00やっと了り、われ疲る。(白幡まつまに『紫珠』にと「この道」7枚かきし)。
散歩かたがた送りに出て、佐伯に寄れば『外来語辞典(1,620)』来てをり、もって帰る。
けふ小高根二郎氏より「この頃の詩よし。誤植した云々」のハガキ受取りしに夕刊に日レ総務部長取締役としての談話出てをり。
陳祚龍教授より「『大唐の春』受取った他も送れ」と。成城大学より「15日(水)2時限身体検査で休み」と。(※省略)

11月5日(日)
礼拝委員として8:40家を出、つとめ了る。『果樹園』141来る。母帰宅につき4万円贈る。(※省略)

11月6日
よべ雨降りし。妹尾生来ず、杉本長夫氏より『四季』復刊ありがたしと。(※省略) 足立生に電話し「(※披露宴)夫婦出席、祝ひ何にせん」といふ。
潮流社へ『四季』のことで小高根の叱り伝へれば、しばらくして社長出、神保の後記おくれし。20日に出来。」と。
『紫珠』正月号のための「この道」(200×14) 書き了ふ。(※省略)

11月7日
9:30出(よべ眠りおそく、朝早くさめる)、斎藤神経科へゆけば茂太先生御不在。代診の先生に「眠りあさきは薬に慣れしか」といひ、かへてもらふ(210)。小田急構内にて幕の内買ひて登校。柿崎、庄田の2生を見る。14:00より教授会。
すみて『成城文芸』の編集会「50号を200pとし12人にかかす。2月末しめ切」ときまる。
(けふ堀川博士「船越章氏とはいかなる関係か」と。「成城よほど好き学校らし、田中つとまる故」といひし由)。
帰途、佐伯に寄り、請求書1枚追加にとり、『支那文学史』doubleをりを返せば、
Granet『支那古代の祭礼と歌謡(2,100)』と『婦■のはやし(300)』とにとり代へて呉る。(※省略)

11月8日
9:00出て登校。鎌田女史に佐伯の書類わたして大藤主任の印たのむ。「名古屋で大会あり」と野口氏の話也。
けふ小西、田中、増田の3生問ひに来る。帰れば「大伴女史の使ひ来て5千円の礼と手紙と手帛と賜ひし」由。
「賀代嫗も来り、(※家屋代金の既払い分50+)100万円もちゆきし」と。白幡生より電話。

11月9日
大伴氏へ礼状。早川智恵(※宮崎智慧)氏に「一度遊びに来られよ」と。
日本近代文学館の笠井女史に電話すれば「20日すぎ出来上り、(※『四季』原本)返却す」と。12:00出て成城。(※省略)

11月10日
9:00出て成城。久しぶりに昼食に天丼(150)注文し、午食すませて研究室にゆけば「小倉夫人帰りし」と。
けふ大藤、鎌田、野口3氏そろひて名古屋の民俗学会にゆき、われ1人也。(※省略)
川久保より電話「上京中」とのことに「善海見舞はん」といひ、電話かけしむれば「明日14:00〜15:30まで」と「東洋文庫にて会ふ」こととなる。

11月11日
婦人画報社へ問合せの電話ユにたのみ2,000もちて東洋文庫。岡田君来ざる故、田川博士われによます。
45分おくれて岡田君来り、松村君来りしも、川久保来ず。神田氏にたのみて出、昼食とり(星博士、前田勝太郎君と会ふ)、ゆるゆる池袋へゆき、
cheeze買ひて14:00かっきり松本(※松本善海)家へゆけば、川久保をり、2時間ほどゐて松本の病気の名わからず。億劫なることのみわかる。
中村橋より阿佐谷行にのり、帰宅すれば阿南氏のハガキ来てをり、川久保夕食して帰りゆく。「けふ家の調査やっと来し」と。

11月12日(日)
夫婦とも礼拝にゆかず。日中雨ふる。宮崎智慧氏より「ハガキ見た。忙し」との電話。
けふ日中われだるくて困る(善海に同感せし也)。『大世界史6』来る。

11月13日
(※省略) 婦人画報社に「本返せ」の電話せしも埒明かず(ユ15:00電話すれば「速達にて送る」といひしと)。
13:00出て中野3-23-38文徳書房といふを探しまはり、しもた家なるに『山海経2冊(100×2+70)』送れといふ。
14:30成城大学。(※卒論指導 省略) われ一等短く「おはり」といへば笑ふ。

11月14日
9:30出て斎藤dr.。待合室には1人もゐず、先生おでまし「眠剤代へていただき宜し」と申上げ帰宅。小西生来り2時間ほどして帰る。
硲氏より『大高』来る。夜、蒲地(※蒲地歓一)夫人より電話「『果樹園』を小高根氏より送られし」と也。

p14

11月15日
悠紀子気付き中山正善氏の死を告ぐ。「管長」よりわが(※天理図書館に)ゐる中に「眞柱」と名、変りし也。
やまとなる布留の川べにゐし時にわれをヌルハチとあだなせしはや。
11:30出て、すし買って登校。食ふ間なく『論語』教ふ。帰途、中野で下車。北口の古本屋にて『かくれキリシタン(260)』買ふ。
あはれなり生き神として歯を痛め妻をふたたび失ひしひと。
けふ婦人画報社より本2冊返る。夜、泰に電話すれば「ぢいちゃん」と云ふ。

11月16日
硲氏へ礼状。天野隆一氏より『山』来しゆゑ、これにも礼状かく。(※省略) 12:00出て成績表わたし、print切り、増田の卒論なほしなどす。
漢文すませ山田教授と話さんとせしも、printのこりてだめ。(※省略) 桂信子女史より『句集晩春』贈らる。
けふ「小笠原復帰、その代り…」と日米交渉。夜、小山正孝氏に「唐詩すすまず」と電話す(不在)。 (※省略)
藤猛boxing西独を破りChampionship守る。今井翠写真もって来てくれし故、泰の分3枚包む。

11月17日
太平天国の歴史にて洪秀全を死なし、午、小倉夫人に「つまらん、死にたし」といひ(田中教授より15級俸ときく。われより後輩にして3級上なり)、(※卒論指導 省略)
帰りて硲氏より「『大高』私の分送りました」とのたより見る。

11月18日
母、赤坂へと出てゆく。(〒、天理より眞柱の「出直し」通知。きのふ貰ひしは『Biblia』也)。
あさ9:00すぎ近代文学館の笠井女史より「(※『四季』復刻版)徹夜の校正しゐる」とて『四季』の特集号につき質問。「申込み150ありし」と。
小山正孝氏より「(※唐詩の訳原稿)おくれてもよし」と。(※卒論指導 省略)

11月19日(日)
夫婦とも礼拝にゆかず。夜、小西生より「水曜卒論みてくれよ」と。川久保よりさびしげなハガキ。

11月20日
雨、終日家居。(※卒論指導 省略) 近代文学館の笠井女史より「22日夕、『四季』もち来る」と。

11月21日
11:00出て斎藤病院。診察受けず薬のみもらひ、嫗と同行。「先生に何でもいへ」といひ、すし(90)買って登校。(※省略)
14:00となり(※コース分け)専攻別見れば文化史77名で1位(「歓迎す」といひし由)。面接することとなり、salaryもらふを忘れて帰宅。
母帰りをり。妹尾に電話し「あす来よ」といひ、文徳書房に電話すれば「品切れとりよせ中」と。

11月22日
9:30出て成城大学。月給もらひ、2時間教へ、その間(※卒論指導 省略) 帰り成城堂に払ひし『大漢和』10回の書類もらひ、
『熊野路』、『秘境のキリスト教美術』買ひ、佐伯に寄り『きりしたん・ばてれん(300)』、『きりしたん大名(300)』買ふ。
美紀子より「雅子ああ、ああ云ふ様になりし。」と。(※省略)
19:30近代文学館の笠井女史(立教で「植村眞久」かきしと)、(※『四季』復刻版)写し2箱と3万円とを持ち玉ふ。
3万円を近代文学館に寄付し、立原のハガキ1枚礼に贈る。(※省略)

11月23日
(新嘗祭を勤労感謝の日といふ) 10:30庄田生来り、12:00まで漢文史料よます。
午后散髪にゆきね北口の古本屋にて『伊豆七島(70)』、『現代人の仏教概論(60)』、南口にて『民俗学手帖(250)』買ひて帰り来る。
蒲地廉一郎君より茶。けふユ、風邪にて臥床。林叔父来り「火災保険に入れ」とのことに賀代嫗にきけば「統夫入りゐるならん」と也。
(※卒論指導 省略)

11月24日
9:00出て成城大学。木桧氏の追悼会に出席の届けし、東洋史の時間に「太平天国」すまし、相談の結果「西太后」やることとす。
(文化史に志望の学生挙手せしむれば7〜8人なりし)。午、天ぷらそば大藤氏と食ひ、そのこと云ふ。(※省略)
小倉夫人来し故「時間つぶしに来てゐるか」といへば泣く。(※省略)
堀夫人に電話せしに不在。あとにて電話かかり『四季』つきしと也。けふ母、赤坂へ泊りにゆく。
(紅松君に電話すれば夫人出て「佐治さん12月12日上京」と。「会はせてくれ」とたのむ。)
21:30ごろ澄よりの電話に京出て「兄のところに泊る。本送ってくれる由、年末また来る」ときく。

11月25日
朝がたさめてゐれば弓子「タレカ」と叫ぶ。見にゆけば誰もをらず。あと半眠りして8:40起さる。
賀代嫗より電話「火災保険に入りをらず」と。われも電話して「滝本よこせ」といへば「月曜ゆく」と。
東洋文庫に電話すれば岡田君出て「書類いまかきゐる」と。「ねすごしてゆけず」といふ。
「眞柱の死後」かきし『週刊文春』買ひにゆき、佐伯に寄り石川弘義君訳の『Sexual pleasure in Marriage』買ふ。
『立原全集(4千円)』を買ふ約束す。林叔父来り家に100万円の火災保険つける。史の家財保険も更新し5千円あまりもちゆく。
長野敏一より「月曜視察に成城大学へゆく。会ひたし」と也。しんどし。(※省略)

11月26日(日)
7:00さめ8:00までまた眠り、礼拝ユのみゆかす。田代、岩崎、能勢に「(※縁談)見込みなければ写真返せ」とハガキ。
杉本長夫氏に『四季』複製できたとかき、滝本生来しに泊らすこととす。(※省略)
夜、長野敏一より電話「午后和光へゆく」と。「10:00登校」といふ。

11月27日
9:00出て成城。駅の階段にて長野と同車なりしことわかる。
前田部長に案内し、増田生の文直す内、長野来り「飯くはん」といへどきかず「長女に孫2人あり」と。
午となり野田宇太郎氏■■にてsandwichくひ、別れて下北沢。近代文学館に電話して、伊藤整氏ありやときくに不在と。
仕方なく秋晴れを『星座遍歴(200)』買ひて、井之頭線駒場東大前で下車、書庫の案内してもらふ。
利用者なく『四季』は172人申込ありしと。(※申込者の)内に小倉夫人、成城大学ともになく、彦根の二人と深沢紅子さん、臨川書店4冊などをおぼえし。
帰れば服部(※服部正己)夫人より長きハガキ。田中健五氏より「石田先生のお招きにて来週土曜(12.9)とせん」と。
本位田、西川に電話すればともに在宅。夜「生きのこり」『果樹園』にと書く。
松浦家へ電話し美紀子に「こちらよりゆく」といひ、依子に電話し「『四季』送らず預かる」といふ。

11月28日
(※省略) 母早く帰り来り「ルリ子電話もかけて来し」と。10:00出て斎藤dr.。薬かへていただく。さばずし(120)買ひて登校。(※省略)
(午、澄より電話「(※省略)」といふゆゑ、姉弟をり。その要なし)といふ)。小西の家より歳暮。母入浴の間に依子に電話すれば「澄と史とゆく。新聞televiに大きく出し」と也。坪井明より「華鉄クラブへ明日夕来れ」と。「まづゆく」と云ふ。
澄よりまた電話「(※省略)はみなせられた云々、家族をなぐさめにゆくつもり」と也。

11月29日
9:00出て成城。仏教の伝播の話し、(※卒論指導 省略) 1A、Bの文化史志望の選抜17:00までやる。
すませて東京駅前の華鉄clubの坪井たづね「あす近代文学館へゆく」とて笠井女史に紹介かく。「12.10吉祥寺教会壮年会を12:00より」と。
母、赤坂へゆきをり。(※省略) 岩崎昭弥より「心当りあり生年月日云へ」と電話ありしと。

11月30日
母より電話「大帰らぬゆゑ家賃5万円もち来よ」と。宿酔にて成城やすむといふ。(※省略) 「母、気付かず」と。
京15:00すし買って来て食はせしもひもじくてならず。あすも休むこととす。

12月1日
治子より速達来る。「史にもたのんで呉れ」と母に云ふ。
庄田、田中久子の2生、教務へゆき「先生をたほした」といはれしと。「月曜よりゆく」といふ。
大より澄に会ひ「あす16:00まづ阿佐谷に来る。弁護士たのみし」と也。

12月2日
いずみ教会より受取。杉本長夫氏より「『四季』鶴首しゐる」と。(※省略)
近所の医者にゆきしに糖尿の疑ひありと検査し「なし」とわかり、風邪薬くれず注射2本打ち胃薬くれる。
大、豊橋へより史と酒のみ今夜帰京「あす来る」と電話。岡田生より「あす来る」と。

12月3日(日)
13:30岡田生と増田生と来り、(※卒論指導 省略) 15:00大より電話「熱海に泊った。ゆく。」と。
17:00すぎ来て酒のみ「咲耶と伊勢へゆき往復せしのち名古屋に泊り、豊橋へゆき、熱海に泊りし」と。依子にきかれし由。
三好達治かくとて萩原朔太郎関係の本と『四季』『果樹園』もち20:00taxiにて帰りゆく。(※省略)

12月4日
(前略)成城大学に電話し「あすゆくと山田教授に云へ」といふ。酒井賢先生より追悼詩のりし『天理時報』来りし故礼かく。(※省略)
だるき故、熱はかれば36℃の微熱あり!小山正孝氏よりの電話に「『唐詩選』やらず、『四季』もやめる」といふ。「近々来訪」と。
(※省略)

12月5日
9:30出て(平凡社より月刊『百科』に「帰郷」のせよ。稿料3千円と。稿料不要との返事出す)、斎藤dr.。「やつれましたね」と也し。
さばずし(120)買って登校。(※卒論指導 省略)  さばずし食ひ乍ら野口君に付添の危険話し14:00よりの教授会。(※省略)
九大教授新城博士採用ときまりしあと、文化史4人と話す。(※省略)
17:00すみて帰宅すれば、澄電話し来り「大、宿賃払ひし。野垣嫗の葬儀に出し云々」とありしと。(※省略)
ユ、加藤登記所にゆけば「近々ゆく」と。河北病院にゆけば数男(※柏井歯科院長)居らず、家にゆけば「病間に(※歯科)診察す」と!(※省略)

12月6日
よべnoteつくらず10:10登校。(※卒論指導 省略) 柿崎生と3人を成城堂にまたし定期代3月分(5,400)もらひ、岡谷公二氏と同車。
下北沢にて別れ、3生に新宿であん蜜くはせ、柿崎生を伴ひ『柳田国男集1』貸し、茶のませてかへす。(※省略)

12月7日
12:30出て定期券買ひ(5,400)、ゼミの学生の相手をし、すぐ唐詩やり14:00となり浦島子譚よまされ、研究室へ帰れば小西生をり、泣く。
(※卒論指導 省略) また柿崎、庄田、田中生と帰る。大に電話通ぜず母イライラす。
小山正孝氏より電話「19:30来る」と。(※省略)
小山氏に「二流詩人、反動詩人はこの次には入れざるがよし」「唐詩の訳は到底できず」と(※自嘲皮肉)いひ、beerのませ帰ってもらふ。
「数男けふ入院した」と。

12月8日
朝、不快にて迎へ酒し、大学へ「休講」いひ、午まへまた伊藤副手に「妹尾生に本かせ」といはす。
大に母電話かけ11日上京の澄と会ふこととならん。小高根二郎氏より受取と「事件収まった」と。(※省略)
母に電話し「風邪にて日曜のおめでたに出られず」といふ。

12月9日
10:00すぎ小西生来り(※卒論指導 省略) 全田叔母より「佐治先生来りし。ありがたくなし。娘、婿に感謝す」と。
服部夫人(※服部正己未亡人その子氏)より「眞柱の出直しつらし。服部に別れて以来、毎日の生活つまらぬ」と。
『黄山谷』来り、講談社より菓子来る。夜、柿崎生に電話すれば「新聞の校正にゆきし」と母上の言に唖然とする斗りなり。
『果樹園142』来り、依子に電話すれば「18日まで(※省略)」と。大に電話すれば「11日来る」と。
母とユと数男の見舞にゆけば「餓鬼」と。年賀ハガキ400枚(2,150)出来る。
柿崎生21:00電話し来り「先生に見てもらってからでないと清書してはならないのでしょう」と。

p15

12月10日(日)
礼拝当番とてゆきし。(※省略) すみて階下にゆきXmas祝会に出る。(※省略)14:00まへ了る。(※省略)
帰りて茶漬一杯くひ、15:20来し小西生に5枚かかし(※卒論指導 省略) 澄より電話あり「あす19:00くる」と。

12月11日
9:00出て成城。bonus23万余もらひ、柿崎生まちてすまし午めし食はず出て中野にてrice-curry(100)。
佐伯に寄り『今昔物語(4千円)』、『立原道造全集(4千円)』買ひ、届けてもらふ。
帰れば増田生の父上よりbeer1打、大伴道子氏より忘年会の案内。(※省略) 第4次『四季』3冊来る。堀夫人に電話し、
19:00来し澄、大と23:00まで話す。(※省略)

12月12日
澄ねてをり、9:30出て祖師谷の酒屋にbeer1打包ませつつ1千円しかもたざることわかり「明日来る」と名刺おき、
増田家探しまはり、たどりつけば「夫人病気」と会はさず。「のちほど物届ける」といひ、(※卒論指導 省略)
また例の酒屋にゆき地図かきて届けてくれと云へば「承知、配送料いらず」と。
けふユ、斎藤dr.にお歳暮のwhisky(5,000)もちゆきしと。
小西生来り「書けるでせうか」と。あす16:00より2時間と約し、(※卒論指導 省略)
田代継男氏に電話すれば「外出中、私は何もきいてをらず」と夫人冷たき声なりし。「17日の会出られず」と大伴道子氏の台所に伝言たのみ、
澄よりの情報の電話きく。(※省略) 松枝茂夫氏より『紅楼夢』抄訳いただき、頼さんよりChristmas-cardと切手一そろひたまはる。

12月13日
9:30出てのろのろ運転にて10:40成城大学着。文化史の時間は補講することとし、昼食しおしゃべりす。
鎌田女史「矢野副手よりイヂワル婆さんの贈物受けた」と大いに笑ふ。(木桧氏の15日の会に出られずと2千円わたし受取かかす)。
中国文学3行やりてすまし研究室に帰れば、鎌田女史紅茶たまふ。
『世界の宗教』、『日本仏教思想史』成城堂で買ひ、阿佐谷駅にて小西生に遭ひ、先に帰らしGas-lighter直さし、ゆっくり教へゐるところへ、
佐治さんより電話「祈り下され」とたのみ、下痢とて雑炊くふ。(※省略) 「数男明日退院」と。

p16

12月14日
10:00妹尾生と会ひだいたいすむ。短大中国文学すまし、小西生に「家へ来よ」といへばきかず、にらみつけ、来させることとし、
夜20:00名古屋に電話するまで神戸に3回かけ、澄の教へし番号にてはわからざりしを神戸の人教へてくれ、小西の母承知す。

12月15日
9:00出て東洋史やり、西太后の時代あとまはしとす。午、妹尾生来り、(※卒論指導 省略) 
帰れば小西生来てをらず、18:30まで待ち21:00まで6枚かかし22:00ねさせる。
ユ、登記所に和田の三文判わたし、『大高(2,700)』とり来る。

12月16日
8:00すぎ小西生おこし、書かせ、散髪にゆき(400)、一旦帰宅せしめて、丸にゆく。
(『大高』もちゆく。「末女薬大卒業、重俊2日講師としてこれでよし」と)。
帰り財布と風呂敷をなくせしと思ひ騒ぐ。夜22:00ごろまでやり眠らせれば0:30、妹迎へに来てユ、緑屋まで送りゆく(滝本生来る)。

12月17日(日)
礼拝にゆかず。小西母より「9:00ごろ娘ゆかす。祖母大したことなし。娘泊めるな」と。9:00より15:30まで小西生教へ、
きのふ叱りし『四季』の(※原稿)「柳田国男先生」返却を受く(※前日日記に該当電話記事なし)。
夜、台湾の頼、楊2教授と菊池夫妻にChristmas-cardかき、四季編集所へ脱退の通知をす。
『不二』へ3千円賛助ときむ。数男わが言ききて「月曜より再入院」といひ来る。

12月18日
9:30小西生来り10:00よりはじめ(『不二』へ3千円、頼、楊2教授にChristmas-cardユに送らせ、われいづみ教会に3千円献金し)、
『島木赤彦(50)』買ひ、(※省略) 帝塚山同窓会より会報ページ35pにてのせられずとのことわり見る。
16:00小西生追出し、またしばらくして2冊とりにくる。17:00出て四谷見附。taxiつかまらずNew Otaniにてつかまへゆけば松村君まちをり。
「羽田、この間より度々上京」と。龍土軒にゆけば谷田博士御夫婦、令嬢またる。『文芸春秋』よりは田中健五氏ほか4名。
岡田(医科歯科大学長の息とわかる)、松村、神田3氏とで『大唐の春』の感謝の会。石田先生20:30までつとめらる。
四谷見附までハイヤーで送らる。(※省略) けふ澄より「(※省略)」と電話ありしと。数男より「入院せず」と電話。

12月19日
小雪の中を傘もたず、9:30出て斎藤dr.。患者1人。先生「来週も来よ。便意ある薬なり」と。
出て小田急駅内にて鯖ずし(120)買ひ、12:00着き印押す。14:00より教授会。卒論のthemaおくれしを問題とし、ついで世界旅行の説明あり。
上原氏「今年もやる。57万円で26日ギリシャ、イタリヤ、フランスを主とす」と。専攻4人あつまり短大より受入れ「1人とせん」となる。
「忘年会欠席」とて帰宅。(※卒論指導 省略) 
けふ上原教授はじめて研究室へ来り木桧氏の追悼会に出ざりしとて『追悼文集(500)』置き1,500返還さる。
林素梅より「品物受取った。クリスマスを喜ぶ」と。弓子『文芸手帖』呉る。もとよりわが名なし。
(卒論題目集にて来年の大藤ゼミ12人、田中ゼミ5人、池田ゼミ8人、鎌田ゼミ12人、野口ゼミ8人、山内ゼミ3人。)

12月20日
8:00起き登校。(※卒論指導 省略) 午后、中国文学やり咳しつつ帰り来り『興宣大院君と閔妃(260)』佐伯にて買ひ、帰宅。
中野清見より7回生の思ひ出を出すとの案内来る。「小西生家には電話せし」とユ。澄より漬物。『大世界史7』『日本の詩歌4』着く。(※省略)

12月21日
駅にて鼻おほひ(30)買ひて、登校。9:30なり。10:20に291教室へゆけば17人のみ。仏教各派の説明し11:30となるも質問もなし。
柿崎生に遭ひて貸本返却受け、昼食に四川羹(350)のみ、(※卒論指導 省略)
別れて佐伯に寄り『日本に於る中国文学U』、『支那俗語文学史』買ふ。(※省略)

p17

12月22日
8:00起き(よべ9:00眠りし)10:00成城大学。中国文学史の補講をす。午35分休み(『平妖伝』成城堂で買ふ。) (※省略)
すまして帰り阿佐谷の新本屋で『誤訳愚訳』を買ひて、賀状20枚ほど(恩師長上)にかき、ユに入れにゆかせ、
(澄より「建、大、史と4人名古屋で会せし」旨、電話ありし)。『誤訳愚訳』よめば前野直彬の唐詩の訳を指摘す。(※省略)
妹尾姉より「夏は受取ったではないかも一度送る」と。「夏のは御返しのことした。(※お歳暮)送れば送り返す」といひてすみし。
母より建の手紙につき電話ありし故「その中に上京するとありし」といへば「皆変なり!」と。(※省略)。

12月23日
6:00すぎさめ、9:00をまちて下痢止めに医者へゆきしに往診中と。(※省略)
建より「本位田局長に云々」の電話、黙殺することとす。柏井数男にも「むりするな」と重ねて云ふ。
庄野英二氏に「同窓会の(※寄稿没の)非礼咎めよ。原稿返させよ」とハガキ速達す。
赤川氏来り、塩せんべい賜ふ(beer3本もちゆきもらふ)。潮流社にその前電話せしに「社長まだ来ず」と。
赤川氏「このごろ正宗白鳥邸へ掃除にゆきをり」と。潮流社八木氏より電話ありし故、「(※『四季』同人)脱退の届受取り3人に知らせた」と。
贈呈181人を300人といひしを咎めしに、「それは私の知合」と。これにて電話きり、
小山氏の電話きき「『誤訳愚訳』よみしや」ときけば、「半分よんだ」と。「そのうち」にと切り、(※省略)、
「うつぎ」にゆき、『星の研究(500)』買ひ、一度帰りまた出て佐伯にて『八犬伝(30)』、『御伽草子(20)』買ひ、すし(110)買って戻り食ふ。
ユの出しあと岡田父より歳暮しゆゑ「受取らず」といへばもち帰る。そのあと岡田家に電話せしに「夫人不在」と。京、jar買って呉る。

12月24日(日)
6:00覚め礼拝への途、北沢長谷川夫妻と同車。受洗4名幼児1名。かへれば笠井かほる女史よりChristmas-cardいただきあり。(※省略)
蒲地夫人より歓一氏の宗教と征服否定の詩のりし『斯文』来りをり。
佐伯にてきのふ買はざりし『仮名草子(40)』買ひ、母に電話しなどせしのみ。寒し。(※省略)
名古屋に電話すればトボ「クリスマスおめでとう」といふ。

12月25日
6:00さめ茶わかし新聞よみteleviにて「旅路」見て朝食pao半片。
ユ、眼医者にゆきがけ、田中マリ子Ghosh姓となり帰国、夫と子と3人の写真入りChristmas-card。(※省略)
古本屋にて『江戸と上方(230)』、『俳文学集(220)』買ふ。18:00小山正孝君の代りに鈴木みゆき氏来る(「お茶の水大出て2年目」と。話にならずとお茶のませて返す)。
「小山正孝君すぐ来い」といへば「家内病気」と来ず。絶交申渡す。山本邦子生よりの贈物、郵便屋にことわりてもち帰らす。

12月26日
10:00ユと阿佐谷駅にて会ひ(※省略)、斎藤dr.。12:00近くまで待ち、すこし躁と申上げ、この一年のお礼いふ。次は1月9日なり。
薬とるユに先立ちて出、歩いて紀伊國屋にて『誤訳(250)』探しあて入口にてユ待ち、二幸にてとろろそば(140)食ひ、
佐伯にて『文芸春秋正月号(100)』、村松剛『ユダヤ人(100)』買ひて帰宅。(※省略)
学習研究社より電話「則天武后、楊貴妃かかぬか」と「かかぬ」と云へば「誰か代りを!」と。「無礼を云ふな」と咎めしあと、田中健五氏、茶1箱もち来たまふ。『文芸手帖』のこといひ笑ふ。夕食後、母に電話せし。恰も大帰宅と。(※省略)

12月27日
6:00さめ(※省略) 小高根二郎氏より「同人費受取った。(※復刊『四季』の活字の)大字に吃驚した。四季の方は何とヘマか云々」。
成城大学図書館につとめゐる西田氏より「彦根での知合」と。(※省略) 
中国文学史に聊斎志異の狐を教へゐるところへ、佐野竜馬氏(中公出版局第一出版部)(※山岸外史娘婿)来り、横堀談義きき15日以後再来と!(※省略)
小武守生送りて佐伯へゆき聊斎なき故、かねてよりある『李白』買はす。われも『正月の行事、島根県岡山県(900)』買ふ。(※省略)

12月28日
6:00前さめ賀状かき、楊雲萍教授夫妻と青山定雄教授夫妻とのChristmas-card受取る。2回に分けて賀状出し「ハ」まですむ。
(※省略) 17:30小山正孝君来り、絶交とく。(※省略) (不二歌道会よりbutterもちて来りし塾生にきけば、旅順生れと)。

12月29日
6:00さめ(※省略)、植木の手入れに本多さん2人にて来りしゆゑ、けふ「一日にて」と松の枝伐りたのむ。(※省略)
小西泰子生より「結果!を待つのみ」とる笠井かほる氏より『日本の近代詩』贈られ、礼の電話かければ「きのふより休暇」と。
数男に電話かければ「診察中」と恵。(※省略)
賀状出しにゆき、歩きゐれば関東大径鋼管専務日原喬夫氏、帝塚山同窓会長代理としてあやまりに来り、物呉れんとする故つっ返す。
佐伯へゆき今年最後といひて『流行うらがえし史(330)』買ひ『シルクロード美術展』もらふ。(※省略)
夕方、(※鶴巻温泉)陣屋東京営業所に電話かけ1月9日(火)14:00より1泊3,500以上の室2人と予約す。

12月30日
よべ23:00すぎ京帰りしと。6:00前さめ賀状かき、柏井尚子ひるまへ来しとめしに。「銀行午まで」と逃げゆく。(※省略)
母のとりつぎにて宮崎智慧女史「大宮八幡にて一人退屈」ときき「あとでゆく」といひ、賀状了へ、阿佐谷よりtaxi(220)16:00まで説教す。「はじめ酔って来たかと思ひし」と!色紙2枚かき、保田の自殺せしむすこはハルヒ(※保田直日氏)と教はる。帰途歩くつもりなりしもtaxi拾ひ、阿佐谷駅まで120!
けさ松浦母上に電話せしに「元日午后お宅へ」と。「よこさずともよし」といふ。大より母へ「元日午后来る」と電話ありし。
夜、母に3万円借りてベニヤに30,800払ひにゆかしむ。

12月31日(日)
早く起き、ユを促して本多さんに植木代払ひにゆきしに留守。われのみ駈け足にて礼拝にゆけば齋藤齋先生の隣り。(※省略)
本多さん5,200なりしと。平凡社より「御意にそふ。本送る」と。数男見舞にゆけばやせてをり。
(けふ澄より電話「史ら下田にあり。1〜3日当直。4日3人にて高松へゆく」と。)

付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。


Back