【座談】 三好達治 人と作品 第4次『四季』創刊号 昭和42年12月10日潮流社発行 061-076p
座談(昭和42年4月8日、於西新橋中国飯店)
出席者 丸山薫、田中克己、黒田三郎、大岡信
その人
田中:三好さんは、大阪の船場の西南のはしの生まれですね。三好さんご自身は、船場生まれ、とは言わなかったように思いますが、丸山さんは知っておられましたか。
丸山:「ぼくは新町の育ちだ」と言っていたけれど、新町というのは色町でしょう。三好は、ぼくが三高に入って、はじめて知ったのだけれども、ぼくは関西というものを全然知らなかったし、おそらく、はじめて親しくなった大阪の人でした。
そのころから、ぼくは詩を書いていて、時々、校友会雑誌などにのっけていたが、そのぼくの前に、突然三好があらわれてきて、友達になったのです。
ところが、ぼくの前にいる三好達治と、他の友だちの前にいる三好達治とは、ずいぶん違うらしいのです。ぼくの前では、泣き虫で、意気地のない、絶望的な三好達治ですが、ぼくと一緒にいるときにでも、他の友だちに出会ったりすると「よう!」とか言って、別人のようにしゃんとしているのです。あれで、なかなか顔も広かったようでした。
終戦後間もなく、ぼくは読売新聞に、三好には国会議員に出られるような有能な面と、ぐずでやくざな面と、二つの面があると書いた。それを村野四郎君が、たいへんおもしろい、と言ってくれたが、村野君は、多少皮肉な目で、三好を見ていたのでしょうね。
田中:ぼくらも同じことで、萩原葉子さんの「天上の花」を読んで、びっくりしました。ああいう半面をまったく知らなかったのです。
丸山:学生時代から「四季」をやる前までは、非常に親しかった。「四季」をやっているころは、三好は発哺ヘ療養に行っていたし、あまりつき合いはなかった。しかし、気持のうえでは、よく通じ合っていたと思いますね。ところが、いよいよ戦争に突入したころから、交渉がなくなったのです。
黒田:丸山さんは、山形に疎開していましたね。
田中:三好さんは、福井だし。
丸山:たまに手紙をくれたが、ほとんどつき合いはなかった。戦後になって、昭和二十六年ごろ、三好が、浜名湖畔にある浜名高校へきたとき、電報をくれて、久しぶりに会いました。
それ以後は、ぼくが上京したときに、ときに一緒に酒飲むくらいでした。三好が亡くなる半月ぐらい前、梶井(基次郎)君の三十年忌で会ったが、そのときは、弱っているような感じで、なんだか変だな、とは思いました。
黒田:三好さんが、梶井さんのことを、東京新聞に書かれたのを読んだときには、鬼気迫るようでしたね。もう全部投げ捨てた、という感じがしたんです。
田中:ぼくは三好さんの一番元気なとき、よく知ってしかいます。ただし戦後会ったのは二、三回で、最後に会ったのは、葉子さんの「父、萩原朔太郎」の出版記念会。三十五年のはじめごろで、元気でしたね。大岡さんは、世田谷のお宅へ遊びに行ったことはありますか。
大岡:いいえ。ぼくは、三、四回しかお目にかかっていないけれども、遊びにこい、と言われていたのですが、いつでも行けると思っていたものですから。
もう十年も前、谷川俊太郎たちと「櫂」という同人雑誌をやっていて、その同人会に、一度三好さんが見えて、そのときはじめてお会いしました。谷川君と岸田衿子さんが結婚する直前でした。三好さんがお仲人をした関係で、お見えになったらしい。たいへん機嫌がよくて、お金をものすごく持っていました。ぼくは、詩人というものは、こんなに金があるものかと驚きました。(笑い)たくさん原稿料をもらった日だったのでしょう。銀座のビア・ホールでおごってくれました。ぼくらは学校出たばかりでしたから、札束を見て、ほんとに驚きました。
田中:おごるのが好きでしたね。「三好君の浪費癖」は桑原武夫さんが書いていましたね。
丸山:思いきった浪費をやりましたね。そして、ぜいたくな趣味をもっていて、学生時代も、こんなところへ上がるものじゃない、というようなところへも、平気で入っていきました。また、そのかけ合いがうまい。なかなか腰が強くて。そんなとき、よく「おれは大阪の新町育ちで不良少年あがりなんだ」と、意気当たるべからざるものがあった。
ぼくは四条河原町で、三好に、はじめて合鴨を教わった。また寄席が好きでした。彼は関西文化というようなものを、ぼくに注入しようと、啓蒙運動をやったらしい。酔わないときは、ぼくにお世辞を言うんです。ところが、酔っぱらうと「君は野暮な三河武士だ」と言う。(笑い)
とにかく、モダンなことは嫌いだった。そのころはモダンという言葉がはやっていたが、そういうものに、いつも抵抗していました。
田中:北川(冬彦)さんは近江っ子。河盛(好蔵)さんは堺。桑原武夫さんは敦賀の人ですからね。自分は船場の生まれだというんで、いちばん都会人のつもりだったのでしょうね。学校の同輩といっても、みんな年下ですものね。
丸山:梶井(基次郎)君は、ぼくより二つぐらい下だったけれども、ぼくは遅く学校に入ったから、なんとなく先輩のような気がしたが、三好は平気で「あいつらはまだ子供じゃないか」と言っていたし、そう考えていましたね。
黒田:三好さんと丸山さんは、どのぐらいお違いですか。
丸山:ぼくが一つ上です。
田中:三好さんは、士官学校で秩父宮と同級だった、とか書いていますが、秩父宮より二つぐらい年上ですね。
丸山:秩父宮と一緒だったことは、よく話しました。
ぼくと三好が非常に仲がよかったと言うけれども、それはぼくが詩を書いていて、三好が近づいてきたこともあるが、ぼくは商船学校をやめて三高に入ったのだし、三好は士官学校をやめて入ってきた。ほんとうの敗残兵ですね。(笑い)同じく陸海軍に関係があったというので、うまが合ったのです。
三好は、酔っぱらうと、ぼくの前では安心していました。「君、こういう歌、知っているか」と、三好は歌を歌うのはきらいなんだけれども、ぼくの前では歌った。それは西郷さんの歌で、そのころの士官学校の生徒は、そういう趣味をもっていたようです。「西郷どんは駕籠から、逸見どんは馬から…」という歌なんです。鹿児島では、それを「せごどんナ駕籠から、逸見どんナ馬から…」というらしいが、単調なフシで歌うのです。
三好の歌は、どれも単調なんです。たとえば「船頭可愛や音頭の瀬戸…」とか。しかし、単調ななかに、絶望的哀調がありました。伐刀隊の歌もよく歌いました。ぼくは、やっぱりこれは陸軍の兵隊さんだな、というふうに感じました。
田中:話していても、いつも「はい」と、返事がとてもいい。「田中、飲め」とか。あれは幼年学校ですね。
丸山:三好は、はじめ詩を軽蔑していましたよ。(笑い)三高時代でも、非常に詩にあこがれていながら、それに非常に抵抗して、詩などは男子一生の仕事ではないと、社会主義共鳴していました。ぼくが詩の話をしても、表面では、ふん、というような冷淡な態度だった。
ところが、実はそうじゃない。内心はひかれる気持がつよく動いていたようです。それは境遇からもきていたと思いますね。
大岡:どういう理由で士官学校をやめたのか。家庭の事情もあったのではないでしょうか。士官学校で社会主義的な本を読んでいて、上官に反抗したというようなことがあって、やめざるを得なくなったと聞きますが、あれはどうだったのでしょうか。
丸山:それについては、はっきり言わないので、いまだにわからない。けれども、ぼくには、読んではいけない本を読んだりしているうちに、だんだんマークされてきた。それで反抗して、軍人精神にもとる、という理由でやめさせられた、と言っていたが、どうもはっきりしたことは言わなかった。
大岡:お父さんが風変わりな人で、家を飛び出したりしにて、普通ではなかった。そういうこともあって、家の暮らしが楽でない。軍の学校だったら金がいらないから、入ったということのようですね。
丸山:そうでしょうね。ただ、ぼくが「君はなぜ軍人になったんだ」と聞いたとき、「ぼくは少年時代に、夜寝るとき、騎兵隊が砂塵を巻いて突撃していく光景が、映画のよう浮かぶ。それにひかれて幼年学校に入ったんだ」と言っていたが、そいつはちょっと。(笑い)
入ったときに、そう観念したのでしょう。やはり境遇からきていたのではないですか。それから、お父さんのことを終始言っていました。三好は、そのとき必ず泣くのです「実は、ぼくの父は、母をおいて家出しちゃつた」と。家庭が暗くて悲惨なようでした。
田中:歌うのは「乳母車」というようにお母さんで、お父さんを歌った詩はないですね。
丸山:それから三好は、惚れやすいタイプでしてね。ある晩、湯ケ島で梶井君と、宇野(千代)さんのことで大喧嘩をしたのです。その翌朝、三好が血まみれの顔になって、河原に倒れていた。梶井君に殴られたわけではない。さみしくなって、一人で真夜中の路を歩いているうちに、酔っぱらっているものだから、河原の石にけつまずいて怪我をしたのです。
一時は、三好が死んでいる、という噂がたちましてね。(笑い)しばらく頭に包帯をしていたが、薬はつけない。袂くず、それにタバコの粉を混ぜてこれを傷口に塗っておけばいいんだ、と言っていました。
袂くずで思い出したが、高等学校のころ、あるとき「きょうはどんよりしている。これは空気が重いのだ」と言う。ぼくは「気圧が低いときは、気分が重いのであって空気のほうは薄くて軽いんだ。つまり気圧計の目盛り上げる力がないんだよ」と言うのですが、三好は空気に重量があるのだと思いこんでいる。それでぼくは、「三好は陸軍だから、最後に理屈はないんだろう」と、からかったものです。しまいに三好は降参したけれども、そういう非科学的なところがありました。
その作品
大岡:三好さんの作品ですけれども、ぼくは「萩原朔太郎」は、非常にいいものだと思います。
丸山:三好は、萩原朔太郎に関するかぎり、恋愛的感情ですね。
田中:そのくせ、処女詩集の「測量船」には、朔太郎的なものは、ないように思いますね。むしろ、よけたんでしょうね。
大岡:資質からいうと、萩原朔太郎には似ていない。むしろ室生犀星のほうに近いと思います。
田中:文語詩は、佐藤春夫の影響を受けたと思います
大岡:初期の詩では、強く影響を受けた詩人についてはその跡を見せないように、努力していたでしょうが、晩年の詩では、先人たちの作品から得たものを、割合い率直に出しているような気がします。薄田泣堇の影響など、かなりありそうな詩句をみかけます。若いときは、たとえば萩原朔太郎の影響を受けたことを示すまいと、潔癖に決意していたように思われますけれども。
黒田:「測量船」などは、いろんな影響を受けたと思われる詩が、無統一な形であるのではないですか。
田中:犀星的なものもあるし、初期の安西冬衛の影響もようありますね。安西さんの影響をみて、びっくりしました。
丸山:安西冬衛の華麗な詩に非常に惚れ込んでいた時がありました。それから「北川君は好きだがその詩はきらいだ」と言っていましたね。
黒田:性格的には、いくらか似たところがありますから。(笑い)安西さんの初期の詩は、実に目がさめるような鮮かな、綺麗さがありますね。
田中:田中冬二さんとも似てますよ。お二人とも信州が好きだから、テーマが同じになってしまったのかな。
丸山:素質も違うし、ぼくは似ていないと思う。
黒田:田中冬二さんには、三好さんのような、一種の執念深さはないと思いますね。
丸山:三好は、最初詩を書くときに、ずいぶん考えて書いていたようです。で、詩は、かくあるべきだ、という思考の結果ではないかと思う。ぼくは自分の好み、趣味におぼれて、書いたようなところがあるけれども。
黒田:いろんな人の影響を、みずから進んで受けたのかもしれませんけれども。
丸山:というのは、非常に感受性が強いんですね。三好の悲哀なども、そこから出てきているんです。
田中:同級生にいい人がいて、その人たちからも非常に影響を受けているのでしょうね。
丸山:もう一つは、理解力が優れている。そういう意味で、秀才だったと思いますね。
黒田:優れた感傷家なんですね。
田中:ぼくの好きな「雪」なども蕪村の絵ですね。三好さんは、佶屈の美を好むというか、東洋的ですね。漢詩もずいぶん読んでいたはずです。
丸山:ぼくは、三好の人間についてしか話ができないけれども、浜名高校にきたときに、会いたい、という電報がきたので会ったときのことですが、浜名湖畔の館山寺に泊まって、帰りは便船があって、湖上を東海道線の鷲津まで出てきたわけです。ちょうど鴨の季節で、たくさん、湖に群り下りては、舞い立つ。
東海道線の上りは、左は浜名湖、右は遠州灘です。遠州灘側には、いまぎれの渡し、があって、そこへ寄せる波が盛り上がって、砂丘の上を越すように見える。ぼくはその景色が好きなんです。三好に「あれを見てくれ。浜名湖へきてあれを見なくちゃ…。」と言うのですが、そのほうはいっこうに見ない。反対側の竹籔がちょこちょこ生えていて、いかにも山水画にでもありそうな風景ばかり見ている。首をねじ向けてやって「こっちのほうを見ろ」というふうに言っても、「ぼくは、このほうがいいんだ」。(笑い)そういうところは頑固ですね。そのときに、ああ、ぼくとは人種が違うな、と思いましたね。(笑い)
田中:士官学校を卒業して、行ったところが、北朝鮮の会寧ですね。珍しいところだから、そこが詩に出てくるかと思ったら、少しも出てこない。慶州とか、日本の京都のようなところは歌っているのですね。辺境は、きらいなんですね。
大岡:三好さんには、非常に矛盾しているところがあったように思います。一方で、いま丸山さんのおっしゃったようなところがあるのだけれども、もう一方では、滅びるものは滅ぶにまかせればよろしい、ワビ、サビ、花鳥風月とか、そういうものは、みんな滅びてしまってもいいんだ、自分は偏狭な
保守主義者と思われているけれども、そうじゃないのだ。ゆくゆく滅びてしまうようなものがあちこちにある、自分はそれらのものの滅びていく姿を、じっくり見守ってやるのだ、自分が保守主義者であるとすれば、そういう意味においてなのだ、ということなんですね。
たしかに三好さんの詩には、ともするとと名所旧跡風なものに目を向けてしまうところがある。反面、いま言ったような意味での一種の荒々しさ、果断さもあったと思います。
丸山:三好の知性は、いまおっしゃったような、ものは滅びるという、進歩主義者でしたろう。ところが感受性、情的な面では、非常に保守的であって、そこで詩を書いていたと思いますね。
大岡:新潮社版の三好達治集の作品は、中野(重治)さんが、非常にはっきりした原則で選ばれていますね。中野さんが選んでいる詩には、「測量船」のなかにあるモダンな感じのものが、実に少ない。それは中野さんの一つの見識を示していると思いますが、その点、ぼくは、びっくりしました。少なくとも「測量船」に関しては、常識的に有名だったいくつもの詩が、ほとんど入っていません。
黒田:ぼくは、やっぱりそういうモダンな詩に、三好さんの可能性があるように思う。そういう意味では、中野さんの選び方は、非常に潔癖な狭い感じがする。三好さんには、そういうモダンな詩に、可能性はかなりあったかと感じますが。
それから、ぼくが一番残念なのは、たくとえば「艸上記」などを読むと、いつも自分を現代詩の落第生扱いをしている。おれは現代詩はだめだという論法で。日本の一流の詩人が、どうしてこんな批判的な言い方をするのか、と情けない感じが先へ出ましてね。
田中:それは大阪的な発想です。自分に近いものはみん遠ざけて、自分のことは悪く言うんです。たとえば「四季」をはじめたときに、まず三好さんは「氷島」がなっていない、と書いた。ぼくは、三好さんは、萩原さんがきらいかと思い、尊敬する三好さんの言にしたがって、萩原先生が亡くなられるまで、一つも読まなかった。これが大変な間違いで、三好さんの本当の先生は朔太郎だった。しかし自分の作品には、朔太郎的なところを出さないようにし、批評では、先生だめじゃないか、というやり方です。
三好さんは、「郷土望景詩」が最高で「月に吠える」と「青猫」の二冊は、萩原さんのかけがえのない大きな仕事だ、というためには「氷島」はよくないということからはじめる。これが三好達治的な論理であると思います。
だいたい三好さんやぼくたち関西人は、近いものを紹介するときその欠点からはじめる。「これはつまらないものですが」と言って、他人に「旨い菓子」をすすめるやり方。この礼儀作法を生まれたときから教わると、三好式の論理になる。奥さんとうまくいかなかったのも、表現のしかたのせいですね。お前が好きだと言えない。
黒田:ですから、三好さんの論法でいったら、「氷島」はいいのだという印象を受けました。
丸山:三好は「氷色について、文法上の間違いを指摘しているけれども、あれはおかしい。しいて自分の立場を確立しようという無理があるような気がしますね。そこに萩原さんらしいくせが出ているんだからいい、と思うのです。
田中:そう言う三好さんの漢詩訳は、読み違いしているけれども、そこがとてもおもしろいですね。
丸山:三好には古風なところがあって、古風な雰囲気を好きな男でした。自分を規制するところがあるでしょう。われわれ明治生まれのものは、そういうものをもっていますが、それが三好には濃厚にある。歌舞伎などが好きでしたね。
田中:見て、泣くほうでしょうね。戦後の代表作は「さようなら日本東京」。あれも、みんな好きなものを片づけているんじゃないですか。国定忠治よ、さようなら、国定忠治が好きだったんだな。(笑い)
黒田:あの詩は、ちょっとかえない。少し安っぽい。あれ以後、ぼくはほとんど読んでいないのです。
大岡:ぼくが詩を読みはじめたころ、三好さんの場合には「測量船」が、いちばん印象的だったけれども、その後三好さんが、自分の詩について語ったものを読むと、「測量船」については、非常に点がからい。それが腑に落ちなかったのですが、今度読み返してみると、三好さんが「測量船」をきらっていた理由も、だんだんわかる気がしてきました。ご自分で、どうも薄っぺらな感じがするのだろうと思います。
丸山:本人に残っているのは悔いだけでしょう。
田中:しかし、やはり発溂として、柔かい感じですよ。あれは捨てることができませんね。
黒田:「測量船」は、いろんな影響のあとが、著しく出ている。それも一人、二人ではない。いろんな影響を集めた詩集という感じがするのです。
もし自分の詩集がそういうものだったら、他人にはわからなくても、やっぱりいやな感じがするのではないか。自分が一つの道を決定して、その道を選んで書いたものではないという嫌悪があるのではないでしょうか。
大岡:思想の支えというか、それがはっきりしていないところが一番きらいだということですね。人の借りもので書いているというのは、自分自身、や はりやりきれない。それに、作品も、たしかにいろんな美点はあるが、後半の詩のように緻密ではない。
黒田:詩そのものは、けっして借りものではないけれども、影響のあとは歴然としているのではないでしょうか。しかし、だからこそ、「測量船」にある可能性を、もっと広げたら、という感じがするのです。
丸山:よくわかります。けれども影響を受けながら、三好として書いている。影響を受けても、感受するものは、三好だけのものです。それを三好は、 もっと自信をもってよかったと思う。それを捨ててしまっているようなところがある。あとで擬古体の詩を書いたりしましたね。またジャムの影響を受けて、「濶ヤ集」「南窗集」など。
黒田:「日まはり」…。
丸山:あれは少し弱い。病気だからしょうがないと、そのころは思っていたが、もう少し三好のもっているものが発展しそうなものなんですがね。
大岡:三好さんは孤高でありながら、またある面で、よそのことを非常に気にする人だっのではないか。いわゆるモダニズムの詩に対する終始一貫した非難攻撃でも、それをあまりに高飛車に非難することによって、自分自身の立場を逆に窮屈に縛ってしまうところがなかったでしょうか
丸山:縛ったというか、むしろ逆の方向へ行った。
大岡:しかし、論争とか喧嘩をする場合には、三好さんの立場は、なかなか強い地盤をもっていたと思います。「自分は現代詩の落伍者である」ということを真っ向から言っておいて、現代詩を徹底的にやっつける。人の足元をちゃんと見ているわけです。(笑い)そこのところがおもしろい。
丸山:ぼくは、そういう三好を好きなんです。つまり、浜名湖で、ぼくの見ろというほうを見ない三好。残念だし、なんと古くさい奴だ、と思ったが、そういうぼくの勝手をあきらめれば、これまた三好達治らしくていい。
桑原武夫は、書いていましたね。「三好君は、自分をいつも危険な立場において、安全な立場においていなかった」。それを桑原君は肯定しているような感じです。あれはいわゆる戦闘的態度なんじゃないですか。
田中:そうですね。戦争中でしたか、「おれはいま必死にたたかっているんだ。この時世に、二十円、三十円で詩を書くなんてバカなことがあるものか。おれは百円出さないと書かないと、出版社に了解させようと思っているんだ」と一生懸命言っていました。この一生懸命が戦鬪的なのですね。
大岡:戦後も、原稿用紙の肩に、原稿料の値段を書いて相手に渡した、という話を聞いたことがあります。
丸山:それは非常にいいことだと思う。詩人は、もう少しそういうところをもっていいのではないでしょうか。あとからくる人のためにも。
田中:やはり国定忠治ですね。(笑い)
大岡:国定忠治的だが、非常に合理主義者なんです。
田中:ただ残念なのは、国語の力はずいぶんあるのだけれども、綺麗な言葉を使って、まとまっていて、萩原さんのように、言いそこなわないですね。
丸山:だから、言葉が軽くて弱い。萩原さんのように、文法を乗りこえて、真から出てきている言葉でなく、肝心のものを殺していますね。
黒田:人間は破れたところのある人ですが、言葉の上では、できるだけ破れまいと努力した感じです。言葉にも破れがあったらと。ぼくは、それを可能性と言うのですけれども。
大岡:そういう試みは「駱駝の瘤にまたがって」で、若干しています。やくざな口ぶりだけれども、身についていない。どうも無理しているようです。どうせやるなら、はっきりと、もっと崩れたほうがいい。崩れそうで崩れないところが、歯がゆい。
そういう意味では、むしろ三好さんがはっきりと雅語、文語を使って書いた詩のほうが、いさぎよい。ただぼくらには、ちょっと縁遠いように思うのですけれども。向こうの世界で書かれている時、という感じです。その美しさ、痛切な悲しさは感じながらも。
丸山:三好は、詩人としては最もジャーナリズムにもてていたし、そんな意味では追っかけられていたし、詩人の筆一本でやっていかなければならない気持があったのだろうから、無理をしてもいたのではないですか。
黒田:ぼくは「天上の花」では、あまりびっくりしなかった。詩というものは、ある生活に結びついているのだろうけれども、そういう興味は薄い。詩は、それだけ読めばいいという考えです。しかし、ああいう裏付けがあると、非常によくわかる。
大岡:そうです。たとえば「花筐」は、ほんとうに花の詩集でしかない、と思ったのです。しかし、萩原葉子さんの文章を読んでから、読み返してみたら、あるものは、哀切をきわめていますね。
田中:丸山さんは、三好さんのフランス語をお聞きになったことがありますか。
丸山:読むのは下手ですね。
大岡:福永武彦さんは「パリの憂鬱」を、岩波文庫で訳しているのですが、同じ詩集の三好さんの翻訳は立派だ、と言っていました。語学的には不正確なところが、あるかもしれないが、あれを見たら訳すのが非常にむずかしくなってしまった、と福永さんから聞いたことがあります。
ぼくの感じでは「パリの憂鬱」の三好さんの翻訳は、ちょっと荘重で、重い。「パリの憂鬱」は、もう少し走っているところがあるような気がしますが。
丸山:三好は、ボードレールの散文詩について、「構造が完璧で、言葉に撓(しわ)りがあって、実に力づよい、そこがとても好きだ」と讚嘆していました。「荘重で重い」というあなたの感じは、三好のそうした理解のあらわれじゃないかな。三好がいろんな影響を受けたと言えばそうですが、それは頭のいい、感受性が非常に鋭い人だったからでしょう。しかし三好が死んでみると、三好のいき方がはっきりしてくるわけですね。
黒田:それは、いろいろな影響を受けていても、ちゃんと三好達治の詩です。
田中:三好さんは、日本人では朔太郎をいちばんかい、支那人では陶淵明がいちばん好きだったと思う。ある意味では、陶渕明を気どっていたかもしれないが、いまの人にこの陶淵明がわからない。
黒田:三好さんの場合は、いまの詩と、短歌と、俳句と、同じ次元で考えることができたのではないか。しかし、いまの二十代の詩人には、全然そういう考えはないと思います。
田中:歌集「日まはり」は、詩ですね。
黒田:若年のとき、あれを読んで、歌集とは思っていなかった。詩集だと思っていました。日本の俳句や短歌に、そういう広がりをもたせた感じはありますね。たとえば啄木の短歌が詩だというふうに…。
丸山:それが非常な功績じゃないでしょうか。
大岡:萩原さんが亡くなったときに書いている追悼の詩がありますね。あれなどを読むと、萩原、三好両詩人の資質の差が歴然と感じられます。萩原さんのことを歌っているわけですが、その反面に出ている三好さんというものに、たいへん興味があります。萩原さんのことを夢遊病者とか零の零の人とか、いろいろに形容していますね。零の零──そこがあの「師よ、萩原朔太郎」という詩のいわばクライマックスですが、一方、三好さんはゼロにはどうしてもなれない人ですね。
萩原さんは、ゼロの世界に平気で生きていられたんです。萩原さんと三好さんの間には、ゼロと、それから一、二、三といった数との徹底的な違いみたいなものがあると思います。
萩原さんのゼロは、無限大に広がることもできるゼロですが、三好さんのは一、二、三、四という数字で、努力しながら仕事を積み重ねていった人です。その辺が、非常に違うような気がします。
田中:そこに三好さんの傾倒があると思いますね。自分にないものを、萩原さんがもっておられる。しかし三好さんが萩原さんみたいになることは、つらくてできないですね。
丸山:そう。萩原さんはしあわせな人だと思うが、三好はつらいですよ。
大岡:三好さんは「月に吠えろ」は第一等の詩集であると、言っているけれども、そこで三好さんが言っていることは、真似しても、だれも真似のできない詩集だ。めちゃくちゃに、どこまででも崩れていってしまう詩集。そこに恐ろしいような魅力と同時に、絶対にそこには近づけないという絶望とが、混りあっている。
三好さんは、若いころに、ロシアのニヒリズムに関心をいだいたことを、しばしば書いているけれども、そのつぎに萩原朔太郎がきている。なにか青年時代のニヒリスティックな一種の気分に、萩原朔太郎が明瞭な形を与えたということなのでしょうね。
田中:萩原さんは、家庭もなければ、お金もないし、お酒のみだし、話しても、先輩だとか後輩だとかの考えもない人ですからね。三好さんは、それにはなれなかったわけだ。
大岡:そういう人がすぐ隣にいた、ということは、非常につらかったと思いますね。
(2019.03.10 update)。