【座談】 これからの四季 第4次『四季』創刊号 昭和42年12月10日潮流社発行 119-130p
座談(昭和42年2月17日、於日本橋の天麩羅屋「城」)
出席者 神保光太郎、伊藤整、伊藤桂一、丸山薫、田中冬二、田中克己、萩原葉子、八木憲爾
「四季」の復刊
神保:「四季」を再刊するについて、その挨拶文の中に「前向きの姿勢」という言葉がありますが、この、前向きとは、なんぞや、ということですね。
伊藤(整):それは、あまりはっきり言えないのではないですか。
伊藤(桂):先生方が「四季」の仕事をされた当時、ぼくらはそれにくっついて、なにか受けとっていく世代だったわけです。それから戦争などがあって「四季」が中絶した。いま四季を復刊するについては、前向きの姿勢でいかなければならない。その前向きの姿勢という意味で、ぼくらも参加させていただいたのだと思います。
しかし、本来から言えば、ぼくらより、さらに若い世代、二、三十代の人たちに、ほんとうの前向きの四季的なものが用意されなければならないわけです。
そういう新しい世代が、どの程度あるか、わからない。いまの難解な詩、モダニズムの詩ですが、そうした詩集を送られて読んでも、ほんとうに筋の通ったものは非常に少数で、大部分は、暗中模索しているように思われます。ひどいのになると、全然初歩的なデッサンもできていないのもありますね。
それに詩壇というものは、特殊世界というのか、そうしたものを甘やかしているところがある。それで、いままで、こうしたなかに「四季」のもっていた伝統みたいなものが出てきてもだめだったのではないか。
ところが戦後二十年たって、ようやく時期的には、「四季」あるいは「四季」に代わるべきなにかの運動が、当然起こらなければならないところにきた。そこへ、たまたま「四季」が復刊されて、かつてつくりあげた四季的な精神といったものを再確認するということ、いや再確認などとむずかしく言わなくとも、現代にあっての新しい抒情詩の命脈というものが、どういう形で出ているかをさぐること、こうした意味での舞台としての「四季」がでてくる機運にあったと思います。
そこには、やはり二十年くらいの歳月を必要としたということでしょう。これには、かつて「四季」で活躍された先生方は、その指導者として、やはり責任が解除されていないと思います。
丸山:ぼくたちは、指導者というような、だいそれたことを考えているわけじゃない。(笑い)「四季」の伝統というのか、「四季」でつくりあげたものを、みんなそれぞれ違うだろうがもっている。もちろん、それは時間の経過によって変わってはきている。それで、現在の若い人から見ると、古くさいと思われるところがあるかもしれない。
しかし、われわれは、「四季」を復刊し、われわれの仕事を、若い人たちに見てもらおうと思う。それに対して、新しい世代の人たちが否定するにせよ、肯定するにせよ、なにかそこに現代詩の方向づけに準據するよこうなものが出てくるのではないかと思っているのです。
伊藤(桂):ですから、復刊することは、そのまま使命感――とオーバーな言い方になりますが、そういうことにつながってくると思います。
それからもう一つ。現在の日本の詩が一般に難解だとよく言われるのですが、そうしたものとは別に、これから詩を書こうとするような人たち、いわば、表面には現われない、もっと下の層、ずっと若い人たちの層、そういったものがあると思うのです。そして、これが、これからの詩の畠を耕していく人たちだと思うのです。その人たちと「四季」とが、つながってくるのではないかと考えます。
丸山:われわれもそれを期待しているのです。いまのわからない詩というものは、モダニズムにかぶれたんじゃないでしょうか。
ところがあの時代のモダニズムの詩人たち、その人たちも、現在の詩を見て、悔いのようなものをもっているのではないか。われわれは、こういうつもりでやっていたのではなかったのだ、けれども、あとからた人は、なにか誤解しているようなところがあるのではないか、と。
伊藤(整):この前の「四季」は、「四季」自体が、別に道を新しく切り開くということではなくて、ああいう激しい時代のモダニズムの運動と、政治的な運動と、両方から取り残された、両方に入って行かない、いや、行けない、静かな紳士たちが集まって。(笑い)
しかも詩壇の本流でない堀(辰雄)君のような人が中心だった。私は外から見ていたのだけれども。つまり当時の「現時点」にあっての空気などとは関係なく、それぞれ自分独自の詩風を打ち立てていた人が、なんとなく集まったと言える。萩原(朔太郎)さんだって、あのときは、アウト・オブ・デイトでしたよ。時代遅れの感じでしたね。時代遅れというのは、少し言いすぎかもしれないが、「四季」ははじめからそういうものだった。
しかし、時間がたって、泡立っていたものや、沸騰していたものが、鎮まり、整理され、水が澄んでくると、時代遅れに見えたものが最もよく見えてくる。「四季」の仕事も、このように、時がたつにつれて、わかってきたし、目立ってきたと言えるのではなかろうか。いつの時代でも、最前線というか、沸騰している若い人たちには、その反映の詩がある。そして、そういう人たちの大部分は、自分でも自分がよくわからないでやっていると思います。
だから、いまここで、「四季」が、あらためて、そういう沸騰している状態のなかに踏み込んでいって、指導するということではないと考えます。
丸山:泡立ちの底で動かないもの、それを見てほしいし、またそれに吸いよせられてくる人もあるのではないか。表面の泡立ちの一歩手前にいる人たち、詩を素朴に愛している人、これから詩を書こうとする人、そういう人たちに「四季」のようなものは、一つの支えになるのではないか。
伊藤(桂):そうした人たちは予想外に多いのではないでしょうか。
丸山:ところが、これまでは、そういう人が詩を書きだすと、現在見るような泡立ちの中へ巻き込まれてしまうのです。
田中(冬):はっきり言えば、若い良い詩人を掘り出して育てていくことですね。かつての「四季」から立原道造が出たように。
田中(克):立原が出たのが、昭和十二年ですね。あの時代をふり返ってみて、あれからちょうど三十年たっているいま、「四季」の復刊は非常にいい時期だと思いますね。
旧「四季」のころ
神保:この前の「四季」の出たころ、一方にはプロレタリア文学運動があり、他方にはシュール・レアリズムを中心とするモダニズムの運動があった。大正末期の民衆詩派の運動のあとを受けて、まだ、新しい方向がはっきりせず、それこそわあわあと泡立っていた時期であった。第一次世界大戦のあとに生まれたヨーロッパのさまざまなイズムやイデオロギーにもまれていた時期です。そんな時に「四季」が出てきた。それはなんのイデオロギーもかざさなかったし、文学運動的な旗も上げなかった。紳士的と言えば言えるだろうが、堀辰雄を主軸とした友情といったもので、なんとなしに集まった感じだった。
そのころ、すっかり沈黙していた萩原さんが、時代遅れに見えたのもたしかだった。けれども、イデオロギーとか、文壇とか詩壇といったものを、まったく忘れているようなところに、逆に魅力があったといえば言えるでしょう。こんな意味で、現在のように、なんだか、ばかに忙しそうで、まったく右往左往している感じの時期に、ともかく、多少の自覚と自負をもって集まろうとしているところに「前向き」という意味もあると言える。
それに今度は発行を引き受けた八木君も大いにはりきっているから。そこで現在のいわゆる「わからない詩」のことですが、いまの「わからない時」には、ああしたものが生まれる背景と言うか、背後の生活と言うか、そういうものがたいへん稀薄のように思えるのです。「ダダ」にしても、またピカソのようなものにしても、そうしたものが生まれてくる、やむにやまれぬ必然性があったと思う。
ところが現在のそれは、なにかあたまだけで、こねあげている感じが強い。萩原さんの「月に吠えろ」が出たときには、一般には難解とされたが、それだけの背景といったものがあったと思う。それで、時間を経過するにつれて、わかってきた。
こうした現代の詩の混乱は、さきほど伊藤(桂一)さんが言われるように、詩を甘やかしているからとも思います。この点、批評家、伊藤整もそのなかに入りますかな。(笑い)批評家の諸君に大いに責任がありますね。批評家が詩を悪く言うと、あの批評家は詩を知らない、とけなされるのをおそれて用心深くなっているところがありますね。
田中(冬):ぼくも同感ですね。それは、伊藤さんなどは詩を最もよく理解しておられるのですから、大いに、厳正にやっていただきたいですね。
神保:それから当時の「四季」は、いわゆる時壇といったものとあまり関係がなかった。どちらかと言えば、作家たちと交わりがあった。詩壇とは関係がうすく、文壇と交渉があったということ、これを意味づけるとすれとば、詩を単に、詩を書く人たちとか、詩壇といった特殊な社会から解放したと思う。
事実、三好達治をはじめ「四季」の詩人たちは、その作品を、詩壇的な雑誌より、一般の文学雑誌や総合雑誌に発表していました。詩壇というと、特殊部落のように見られていることは現在も変わりないと思いますが、こうした点では、「四季」は、のびのびとしていた。もちろん、そこには、多分に詩の通俗化の危険もあったわけですが。
伊藤(桂):あのころの「四季」は、激しい時代の精神のよりどころ、憩いというか、ともかく自由を得るような場所と感ずるものがあった、ということは、さっき伊藤整さんがおっしゃったように、「四季」は、激しい時代の上澄みの場所であり、呼吸が楽にできる場所という点で、やはり特別な意義があったと思います。
「時代に遅れる」と意識しながら、あえてそうあるためには、その人はたいへんな勇気を必要とします。現在も激しく暗い時代だと思います。だからこそ神保さんの言われるような「四季」の意味があると思います。
田中(克):当時、「新潮」「中央公論」「改造」など、総合雑誌がみんな四季の人々の詩をのせてくれた。しかし、そういうところで原稿料をもらって書くのと、「四季」にただで書くのとは、またちがった気持でしたね。「四季」はそういう雑誌だった。
田中(冬):たしかに、「四季」に書くことはたのしかった。いかなる雑誌にもましてね。私は長野上諏訪と信州時代を過ごしたが、この時代が最も制作にあぶらがのっていた。それは「四季」によって、よい意味のライバル意識をかきたてられたからだとも思っている。
伊藤(整):堀君という人は、非常によくものの見えた勇気のある人で、それで、いろいろな人が集まったのではないかな。
丸山:それにしても、いろんなことも言われましたね。無意味な集まりだ、などと。
神保:その時の無意味が、時がたって有意味になったわけですね。
丸山:現在の詩人たちが、かもし出しいるこの泡立ちから、果たして良い詩人が生まれてきいるのだろうか。あの人たちが、書いている作品は、お互い同志わからないし、評価できないでいるというのが、ほんとうではなかろうか。
神保:お互い同志でなく、自分でもわからなくて、暗中模索しているのではなかろうか。
萩原:でも、それぞれ自信はもっているんじゃないですか。若い詩人たちは、すごい自信をもっていますよ。
田中(冬):すごい自信、それは自信過剰のナルシシズムですよ。盲、蛇におじずではないでしょうか。
丸山:自信はあるけれども、結局、衝動で書いているんじゃないですか。客観性がないのです。そういう衝動的なものは、あらゆる作品にみかけます。
萩原:でも衝動だけで書くならば、普段はあんなに自信に満ちて、堂々としていないと思うのですが。
田中(冬):堂々として見えるのは表面的で、内心は不安でいっぱいのように思われます。
伊藤(整):新しい詩の運動というのは、それが失敗したとしても、そのなかのあるものは次の世代に生かされると思う。
だから、現在の現象を、すべて否定するわけにはいかないけれども、現在はある意味で、戦後のいろいろな新しい試みが疲労して、繰り返しになってしまい、道がわからなくなったような時期ではないだろうか。こうれはこの前の「四季」が出たときと同じような詩壇の状態、同じような社会条件と言える感じです。
そこで、こいこで、もっとナイーブな、もっと自己判断力のしっかりしている新しい詩が、今度の「四季」復刊を契機に起こってくるとも思えるし、ぜひそうなってほしい。
詩は栄えているか
神保:青少年や児童雑誌の投稿詩などで、ときどき、なかなか良い詩を書く若い人を発見するのですが、楽しみにしているうちに、その人はいつのまにか、詩を全然書かなくなってしまう。これは、現在の日本の教育制度――受験などにもよるのでしょうが、やはり日本の詩そのものの混乱が、影響をしているではないでしょうか。
現在の日本の詩の事情は、こうした若い人たちを、迎え入れる空気になっていないよう思います。
伊藤(整):書かなくなるというは、ぼくの若いときを思い出してみると、あるところまでは書いて、こういうものだと思えるところに来たときに、いわゆる詩人と言う人たちと、顔を付き合わせる機会が出てくる。
「四季」以外の詩人の悪口を言うわけにはいかないけれども(笑)詩人というものは非常に行動的だし、生活のための演技性のある人のほうが出世というか、目立つ。作品よりも、ときによると、そうした演技で目立つ人がある。この人は書く人だな、と思うような感じの人は、そういう演技がやれない。それで、そういう人は、これじゃとてもおれはだめだ、と思ってしまう。
それから、詩人のなかには非常に激しい気性の人がいます。そういう詩人たちのなかに入り、論議したりして書いくうち、しだいに自分は押しつけられてしまって、たえとば、伊藤桂一さんのように、非常に感じ易い人は、ほかのほうに移ってしまう。ぼくも、そういう一人だったかもしれない。(笑い)とても宴会の真ン中で、ほえ声を上げて、怒鳴ったりする勇気はないから「おれは詩人じゃないのだろう」と思って、散文屋のほうになっちやった。
田中(克):「四季」には、そういう人はいなかった。中原中也は、時おりびっくりさせましたがね。
伊藤(整):ところが人をびっくりさせたり、演技的であいったりする人がすべて偽者というわけじゃないから困るんだな。これは昭和初期の人たちだけではなく、明治末期を調べてみても、そういう人が多いですね。啄木などは、激しくても、ほんとうの詩人だから許せますがね。そうでなくて、激しいだけの人もたくさんいたわけですね。
これは、詩というものの本質からくるのでしょうが、小説を書いていると、そうした余裕はないとも思いますね。それと、詩人には、その作品を発表する商業市場があまりないからとも言える。これは、ある意味ではいいことだけれども、また別の意味では残酷なことです。
神保:それに関連しますが、近ごろの詩の全集ブームをどう思いますかね。
伊藤(整):あれは詩の本質とは、かかわりないことで、全集ブームのひとつですね。新しい家が建ったり、あるいは住宅公社の新しい家に入ると、なにか全集や百科事典を飾らなければならないということではないかな。
神保:詩も装飾のひとつに使うというわけですね(笑い)
八木:そういうこともあるだろうが、根本的には小説を中心とする現代文学の衰退と混乱だと思うのです。
たとえば、あの数多くの週刊誌に連載されたものが、そこで瀬踏みされて、単行本になる。週刊誌に連載するということは、非常に多くの層の人たちを狙っているわけでしょう。しかも大量生産ということになり、そういうものが本になっても、いいものを読みたいという人々には、満足できないわけです。それだからこそ古典的な名作を集めた全集が売れるのではないでしょうか。
詩も同様だと思うのです。ぼくらがものを読みはじめたころは、ツルゲーネフ、チェホフ、ドストエフスキー、あるいは日本のすぐれた作品を読んだ。多感な時代というものは、そういうものをしきりに求めるわけです。ところが現在のマスコミは、それにこたえてくれない。
それで若い人たちは、いきおい定評ある作家たちの全集にとびつく。詩もそのひとつとして考えたいのです。けっして、単に装飾用だけだとは思えないのです。
丸山:そういうことも言えるね。若い学生が非常に多くなったということで、出版社のほうも、ああいう人たちのことを考えに入れて、その若い人たちは、きっと詩を求めるだろう、として企画をたてたと思いますね。
伊藤(整):ぼくは、半分冗談で言ったんだが、真面目な意味では、いま言われたような現象になるとも思いまです。いままでの散文中心の文学全集でも、詩人の藤村ともか、萩原さんとか、高村さんなどは売れていますね。それで放っておくわけにはいかない。その後の新しい詩には、これらの人々のものとはちがった、また、散文で満足させられない情緒があると考えてきたわけですね。
しかし読者というのは、どうしてもいくらかずつ遅れがちなもので、たとえば大正初年ごろの詩壇の様子を見ると、三木露風などは、よくわかる詩人で、萩原さんの「月に吠える」が出ると、鷗外や、野口さんがほめたりしたけれども、多くは「わからん、あれは奇っ怪な変てこなものだ」というふうに言われていた。
ですから、さっきから、わからない詩が多すぎるという話があり、作者自身が自分でもわからずに書き、自信がないから強いことを言っている人が多い、といったこともたしかにそうだと思いますが、現在の時点でわからないと言われている人たちのなかからも、本物は出てくる。
これは高村さんとか萩原さんの時で、すでに実験ずみなわけですが、出版企画の場合は、そう簡単にはいかない。時間による本物の選定を待つわけにはいかないのですから、当然、いわゆる「わかる詩」からとりあげることになるわけですね。
神保:それでまず、啄木、藤村、高村、萩原、三好となるのですかね。そこからもう少し出て、どの辺までくるか、丸山薫、田中冬二…。
伊藤(整):もちろん、これらは古典だからね。(笑い)
神保:この辺からさらに進んだら、もうわからないということにもなりかねませんかね。
伊藤(整):それは時代的には簡単に言えないでしょうね。たとえば、島崎藤村にくらべて、土井晩翠には、なかなか読者はついていかない。辰野隆さんなどは、あの詩の何十行かを暗誦するぐらい覚えていたけれども、いまはそういう読者はいないでしょう。
だから時代が古いとか新しいとかいったものより、もっとちがったものがあるわけですね。
神保:それに詩の形や言葉もありますね。今の若い人たちには、文語体の詩はもう読めなくなっているのではないだろうか。
八木:若い世代というものは、小説や詩にひかれるものでしょうが、とくにいま「詩ブーム」と言われるのは、さっき言った小説の混迷と合わせて、時代の流れというものもあると思うのです。 戦後、あらゆるものが混乱して、道義は地に落ち、担ぎ屋や闇市やらあったとき、詩を含めて文学は、非常に衝動的になったりもした。ところが経済も高度成長してきて、物価高だと言いながらも、好きなものが食べられたり、服装も良くなってきたし、たいへん気分的に落着いてきて、ようやく情緒を求めるようになってきているのではなかろうか。
そこで全集が売れるのだろうし、散文のほうに混迷というか、低下というものがあるので、詩が求められるとも思うのです。
しかし、いまのわからない詩ばかりでは、そして、ただ現状肯定だけでは、ほんとうの詩の隆盛には、つながらない…。
伊藤(整):そうですね。
神保:いわゆる現在の小説がだめだと、よく言われるけれども、その理由はどこにあるのですかね。
八木:マスプロダクション、マスコミュニケーションだと思います。
伊藤(整):印刷物の部数が多すぎるということ。ですから詩もあまり広がりすぎると危険になりますね。
丸山:小説や批評がつまらんと言っていても、おもしろいと思うんですよ。娯楽性をもっているし、人間社会のことがよく書かれている。しかし、詩は、それと違うものがあると思っていい。感動です。
結局、今の若い詩人が、本当に感動して書いているかどうか。言葉は非常に巧みです。ぼくらが目まいがするような言葉を使ってくる場合もある。しかし、それが何を基礎にしているのか、わからないのです。素朴でもいいから、もっと感動して書いている詩があれば美しいと思うし、そういうものは残っていく。
一つの言葉でも、感動のこもっているのと、そうでないのとでは、はっりわかります。 子供の詩などに、なかなかおもしろいものがあるのは、ほんとに感動し、おどろいているからです。
伊藤(整):わかりにくい小説や詩などを書くと「あれは観念的だ」とよく言われたね。(笑い)
ところで八木さん、「四季」を出されるについて抱負、激励を、ひとつ、どうですか。(笑い)
八木:なんともぶちょうがないんで。(笑い)
ただ、さきほどからいろいろ話があったけれども、発行人としては、この「四季」が出て、若い詩人などから、たたかれたりするのも、期待はしますね。これもまた「四季」復刊の一つの意義だと思うのです。
(2019.03.10 update)。