(2000.07.10up / 2023.12.16update)

解説:雑誌『四季』を俯瞰する (第1次〜第5次)

『四季』総目録   丸山薫による解説

第1次四季

第1次『四季』 1(昭和8年5月) 〜2 (昭和8年7月)

 二冊で終わったクォータリー文芸マガジン。「四季派」の前史とでも云ふべきもの。編輯:堀辰雄。四季社 日下部雄一刊行。

 各冊150ページ以上の内容を持つ実に贅沢な作りで、この陣容のまま続けられなかったのは当然といふべきかもしれない。寄稿者も多彩で、 主に堀辰雄の畏友先輩にあたる人脈で占められてゐるが、自分が編集者として何かを主張したり、そこであぐらをかくための雑誌ではなく、 「一度出してみたかったんだ、かういふ雑誌!」 と、刊行に携った関係者と共に完成品を前によろこびあひ、一とほりの満喫を味はった後は、継続意欲が歇まってしまった、 といふ感じのする「カイエ」(詩帖)である。

寄稿者:室生犀星、永井龍男、竹中郁、神西清、嘉村礒多、三好達治、吉村鉄太郎、佐藤春夫、堀口大学、小林秀雄、中原中也、丸山薫、菱山修三、横光利一、牧野信一、 葛巻義敏、丸岡明、河上徹太郎、滝井孝作、増田篤夫、山下三郎、


第2次四季

第2次『四季』 創刊号(昭和9年10月) 〜81号[終刊号](昭和19年6月)

 立原道造、津村信夫ほか「四季派」と呼ばれる詩人達が活躍。これが所謂日本の戦前抒情詩の精髄が萃まった詩誌としての『四季』の実体であらう。 終戦間際の雑誌統廃合により全81冊で終刊。 四季社 日下部雄一刊行。

 当初の編集者は三好達治・丸山薫・堀辰雄の順に三者となってゐるが、詩人の三好・丸山は名義貸しのやうなもので、 実質は小説家である堀辰雄の雑誌であったとは関係者全員の弁である。とは云へ、前述したごとく彼が何事かを主張するために創刊した雑誌ではなく、 宿痾となった結核を介して実存の文学に沈潜するやうになった彼が、社会からの孤絶を避け、同時に自由に呼吸できる抒情空間を必要としたこと。 つまり自身の創作モチベーションを維持するため、といふのが一番の理由ではなかったらうか。

 一方集まった詩人達の側でも、斯様に効率のよくない堀辰雄の詩人的創作活動を、人柄と共に殊のほか崇めてをり、 その結果、彼の周囲に醸成される一種のサロン的雰囲気を、これまたたいへん奇特な有難いものに思ってゐたこと。 つまりは彼の人徳がなせるところ、彼が声を掛けて同人になるのを断った人があったのを聞かないのも事実である。

 編集実務は後輩と刊行者に任せきりにして、自らはただ気の向くままドイツ文学の翻訳を好き勝手に書き散らかしてゐたのだったが、 同人同士の相関図は、堀辰雄を頂点に一対多に結ばれるといふのでなく、 彼を一段上に戴いたもとで、各者がうまい具合に響きあひ、調和をとって各々の場所を占めてゐた、そんな感じがするものである。 たとへば「三好達治と丸山薫」「室生犀星と萩原朔太郎」「立原道造と津村信夫」といった同年代同士の関係から 「三好達治と萩原朔太郎」「室生犀星と立原道造」「丸山薫と津村信夫」といった世代的な関係において、羨ましい限りにさうなのである。

 この雑誌生え抜きの選手であり、堀辰雄の懐刀ともいふべき詩人立原道造の登場により、雑誌はいきなりそのピークを迎へる。 そして日中戦争に深入りしてゆく国情のなか、戦争詩に汚されることなく夭折した彼は、この雑誌の勲章的な伝説へと祀り上げられることとなる。 ここまでが雑誌の前半史であり、以後、彼の作風は模倣者を数多く生んだ。 さらに「風立ちぬ」を書いた兄貴分の堀辰雄や、弟分の野村英夫とともに、 結核を病んだ彼らが親炙した信州山麓の景観と気候とがサナトリウムの立地条件と一致した。 すなはち「四季、カルイザワ、微熱の詩」といふ、後世の悪評判の出所・所以となっていったのは周知のとほりである。 フィトンチッドが濃密に漂ふ四季派の叙景物に対して、信濃追分、戸隠、発哺の湯等々、 信州の自然風物が果たした役割はまことに大きいものがあったと云はなくてはならない。

 立原道造の死後、雑誌の後半史は、新たに参加した『コギト』『日本浪曼派』の人脈、および後輩詩人達の成長と活躍とによって彩られてゆく。 そして大東亜戦争に突入した日本が敗北する直前、津村信夫の死をもって、これまた伝説的に終刊した。 抒情の純潔を日本人の良心と等価のやうに扱った詩人達は、不文律の配慮を以て最後までこの雑誌のなかに血腥い空気を持ち込まうとはしなかった。 このことは特筆されてよい。 そしてエコールではなかった一群の詩人達が、戦後永らく「四季派」として批判されてゐた時期を経て、後年はしなくもその名を冠した「学会」が発足し、 研究者のみならず当該詩人達からも追認されるに至ってゐる。現在は歴史的な存在として評価が定着したといってよいと思ふ。

 私は昭和戦前期の一等すぐれた抒情詩人たちがこの雑誌と関り、精華をしめし得たのは、 詩人たち個々の業績の解明もさることながら、それが大日本帝国の体制圧力下でなされたことに、理由および逆説的な意義を認めざるを得ないと考へる者である。
 これは戦後になって「四季派」と呼ばれることを忌避し、戦争詩に手を染めた先輩詩人達を避けて堀辰雄を仰いだマチネ・ポエティクの抒情詩人達が、 高い知性にも拘らず詩作の実験に失敗したことを顧みるとき、一層はっきりと炙り出されてくる事情にも思はれる。 『四季』と『コギト』と二つの雑誌の名を掲げる拙サイトも、二者の違ひと融和の意義とを、最も苛烈であった日本の歴史の必然の中に置いて再認識したい、 といふところから発足してゐる(そのネックに位置したのが、田中克己といふ詩人ではなかったらうか)。

「日本詩人全集第8巻」創元文庫(昭和28年)において、創刊同人の一人であった丸山薫がその辺りの事情について、実に懇切で、正鵠を射た解説を附してゐる。曰く、

 『当時、詩壇の新しい世代を約束する主なグループとしては『四季』のほかに、北川冬彦の主宰する『麺麭(パン)』、春山行夫等のモダニズム派の『新領土』、 草野心平等を中心とする『歴程』などがあつた。これらの系統は今日の詩壇になお形を保つているものだが、それぞれに異色ある理念上、実作上の立場から、いずれもが伝統を認めず、 従つて『四季』の抒情精神を否定する点では一致していた。この間にあつてひとり『コギト』はちがつてゐた。その把持する精神は高度な意味での復古主義であり、 その活動も文化批評やそれのエッセイを主眼にしてはいたが、田中克己をはじめ伊東静雄、小高根二郎等の実作詩人を擁していて、全般に詩人的雰囲気の濃厚なものがあつた。 而して保田與重郎のいわゆる「有羞の詩」と伝統の典雅への郷愁は『四季』のリリシズムに一脈通ずるものがあつたようだ。 たまたまそのような『コギト』理念を抒情にして打ち出したとも言える伊東静雄の第一詩集「わがひとに与ふる哀歌」が出版され(略)両誌は徐々に接近し始めた。 (略)(それは)単に双方の雑誌や詩人達個人に利益したばかりではない。わが国抒情詩史上の祝祭の時として特記していいことかもしれない』

 これが書かれたのが「四季派バッシング」の嵐の中であったことにも驚かざるを得ない。

 前述したやうに『四季』と『コギト』については、両者の編輯同人であった詩人田中克己をキーワードに、 詩人の詩作日記帳「夜光雲」の解題においても管見を述べてゐるので合はせて参照されたい。

編輯:堀辰雄、三好達治、丸山薫、(編輯同人:神保光太郎、津村信夫、田中克己)。 四季社 日下部雄一刊行。
同人:
(創刊時)堀辰雄、三好達治、丸山薫、津村信夫、立原道造
(第15号より)萩原朔太郎、竹中郁、田中克己、中原中也、辻野久憲、桑原武夫、神西清、神保光太郎、井伏鱒二
(第16号より) 室生犀星
(第19号より)竹村俊郎
(第31号より)阪本越郎
(第35号より)芳賀檀
(第53号より)伊東静雄、山岸外史、保田與重郎、蔵原伸二郎、田中冬二、大山定一
(第68号より)岩田潔、大木実、高森文夫、河盛好蔵、呉茂一、澤西健、杉山平一、塚山勇三
寄稿者: 野村英夫、小山正孝、日塔聡、能美久末夫、中村真一郎ほか


第3次四季

第3次『四季』 再刊号[1巻1号] (昭和21年 8月) 〜 第5号[2巻5号] (昭和22年12月)

 戦後、再び堀辰雄を擁して角川書店から復刊した『四季』。同人制を廃した新たな編集方針を打ち出したが、堀辰雄の病ひが篤くなるとともに、親友神西清の手を煩はせて5冊で終刊した。角川書店 角川源義発行。

 寄稿者として選ばれたのは、四季同人の生き残りからが主だったが、前述の「マチネ・ポエティク」の面々とは同世代ながら、 知性に偏った詩作に反発し、堀辰雄の袖口を反対側からひっぱってゐた野村英夫、小山正孝、塚山勇三ら一群の、まだ若い詩人たちがあった。 正に『四季』の嫡子と呼ばれるべきこれらの若者達が、自身の紙飛行機を羽ばたかせる滑走路として、この商業ベースを公算に入れた雑誌が果たしてふさはしいものであったかどうか。

 堀辰雄自身は彼等をもっと誌面で優遇し、滋養をふんだんにつけさせる必要を感じてゐたやうだが、 彼の意向が十分届かないところで神西清・角川源義による編輯基準は、育ちの甘いこの青年詩人たちを冷たくあしらってしまふこととなる。 結局、才能を芽生えさせたばかりの野村英夫の夭折、そして遂には堀自身の長逝をもって、抒情詩の牙城『四季』の名が担ふべき歴史的役割は、茲に実質的な幕を閉じてしまったのである。

編輯:堀辰雄、神西清

主な執筆者:(第2次同人に加へて) 佐藤春夫、釋迢空、鈴木信太郎、中勘助、片山敏彦、佐藤正彰、中村真一郎、野村英夫、新藤千恵ほか


第4次四季

第4次『四季』 第1巻1号[創刊号](昭和42年12月)〜 第17号[終刊号] (昭和50年 5月)

 潮流社刊行。丸山薫を中心に据えた『四季』残党の旗揚げは、やがて晩すぎた復刊を悔やむやうに追悼号が次々に出され、薫自身のそれにより終刊を迎へた。潮流社 八木憲爾発行。

 「室生萩原の姫君を擁した落武者の旗揚げ」などと皮肉られやうが、尠くとも同人に名前を連ねた人々の気持には、かつて三好達治による「燈下言」が新人を育てたやうに、 当時の「詩集ブーム」のうちにあってやがて自らの孫世代である若い投稿者から瞠目すべき新人が彗星の如く現れ、清新な抒情詩を再び興して復刊した『四季』を牽引してくれるだらう、 そのやうな期待があったやうだ。

 しかしながら難解な表現に終始する現代詩が猖獗を極め、 抒情表現の担ひ手となるべき人材がフォークソングのシンガーソングライターへと流れていった昭和元禄時代である。 当時の若者に対して、世情に超絶した観照表現を期待するといふのは無理な話で、立原道造の如き新人の発掘は残念ながら理想に終はってしまった感が否めない。 けだしそれ以前に現れた若者詩人たちにしても、『四季』を旧時代の詩精神の遺物として葬り去る一方で、 同時に戦争詩を悔いてゐた晩年の三好達治を師に担ぎとりまいてゐた訳で、誠に如才ないと思ったことである。

 亡き堀辰雄・三好達治とならんで、丸山薫は『四季』の精神的な支柱として最後に生き残った「鼎」の人物だった。 地方詩壇の会長として終はるかとも思はれた隠棲中の彼を、満を持して(?)登場させるべく田舎から引っ張り出してきたのは、 同郷の後輩で船舶業界誌を経営してゐた潮流社の社長、八木憲爾である。 同人はひろく「隠れ四季派(?)」からも集められ、寄稿者を含む彼ら執筆者達の『四季』といふ大看板に寄せる温度差は、 誇りであったり和解であったり果ては恨み言であったりと様々に伺はれて興味深い。 加へてこのたびの抒情詩の再興が、同時期に気勢を上げてゐた旧『日本浪曼派』の残党以外から、賛同と援護とを得てゐる事情も面白い。

同人:伊藤整、伊藤桂一、井伏鱒二、井上靖、萩原葉子、堀多恵子、河盛好蔵、竹中郁、田中克己、田中冬二、塚山勇三、室生朝子、大木実、大山定一、小高根二郎、呉茂一、桑原武夫、山岸外史、丸山薫、小山正孝、阪本越郎、神保光太郎、杉山平一、高森文夫、野田宇太郎、

付記(2020.11.30):途中の一時期(昭和46年)隔月刊となり、『四季別冊』なる会報冊子を添付して会員に配ってゐる。 内容は、同人を囲む集ひの場で話された講演記録とともに、会員たちの作品が掲げられてをり、両者交歓の場とされたが、3号を以てこの形式を止め、 以後会員の作品も本冊に載せられるやうになった。


第5次四季 イラスト:中嶋康博

第5次『四季』 創刊号(昭和59年 1月) 〜11号[終刊号] (昭和62年 2月)

 四季社 田中克己編輯発行。発刊の志は堀辰雄敬慕の念に由り、堀多恵子に了解を取って創刊された。内容はしかし主宰者の人脈に偏り、 むしろ『コギト』の後継雑誌『果樹園』(全204号1956.1-1973.3)の衣鉢をつぐ雑誌と呼ぶべきかもしれない。

 第4次『四季』廃刊後、潮流社の八木憲爾は残った同人を再び鳩合し、昭和58年1月、季刊雑誌『文学館』を4次『四季』と同じ陣容・体裁で発行したが、 すでに田中冬二も竹中郁も不在の雑誌は野田宇太郎を追悼したところで6冊で終刊する(昭和60年9月)。 この時点で『四季』の名のみならず、旧同人が集ふサロン雑誌の可能性も潰えたものと思はれたやうだ。 第4次『四季』でデビューを飾った後進詩人達も、この頃には30代にさしかかってをり、 東京・関西で「四季:しき」二文字の音を分け合ったが如き『詩』(のち『東京四季』に改名)と『季』といふ雑誌を自分達の手であらたに興してゐる。 すでに発表誌を確保してゐる彼らが、わざわざ躁鬱の激しい癇癪持ちの強面詩人に自作詩の掲載諾否を仰ぐ必要はなかったといってよい。

 一体このやうな「第5次」の『四季』が出されてゐたことさへ、幾人の人が知ってゐたであらう。 杉山平一や小山正孝も勧誘を断ってをり、同人は結局、主宰者の畏友先輩による寄稿の他、田中克己の人柄を熟知容認する教へ子ら、謂はば内輪の関係者で固められ、 一種の個人誌として経営された。

(而して昭和61年の晩夏、この詩人の門を敲いた私は、休刊宣言の後あらためて出すことになった終刊号に初めて自分の詩が活字になったのを見ることになる(日記には同人でなく会員とあり)。 すなはち詩誌『四季』の名のもとに最後の最後に引っかけてもらった訳であります。さらに事情を知りたい方はこちら「詩人田中克己 回想と作品」)

同人:*植村清二、岩崎昭弥、*石山直一、*牛尾三千夫、*小高根太郎、たかはししげおみ、福地邦樹、江頭彦造、川村欽吾、*小杉茂樹、伊達温、*野田又夫、坂ロ允夫、金井寅之助、石濱恒夫、*松枝茂夫、山住正己、*藤澤桓夫、秦海人(田中克己)、*高田瑞穂、田井中弘、*矢野峰人、*浅野晃、 河村純一、高橋渡、花井タヅ子、大東幸子、大野沢緑郎、藤野一雄、森亮、国友則房(*は同人費不要の名誉同人)


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