「夜光雲」解題

中嶋康博


 田中克己を昭和初期の抒情詩人として今日位置づけるとき、その主要な活躍の場としては同人雑誌「四季」「コギト」の二誌があげられるであらう。
しかし田中克己を「四季派」の詩人としてとらへることには異論があるのではなからうか。昭和九年創刊の第二次「四季」十年の歴史の中で、その初期から同人に、 そして雑誌の性格に直接関与する編輯同人へと迎へられながらも、詩史上、拠った雑誌を流派として位置づけようとするならば、確かに田中克己は「四季派」の詩人と呼ばれることは尠ない。 むしろ「四季」に先立つこと二年前、昭和七年に創刊された同人誌「コギト」の生へ抜き詩人と呼ぶことが適切であるだらう。
 「コギト」はしかし、昭和十年代といふ抒情詩中興の季節を、「四季」と最も深く係りながらも、戦争による変質と敗戦によってその存立意義にまで遡って抹殺の扱ひを受けてきた雑誌である。 そしてそれに係った文学者の多くも、戦後は身にまつはる証言をなるべく避けてきた、あるひは皆各々に持ってゐた別の拠所となる雑誌の「古き良き思ひ出」の中へ閉じこもって行ったのであった。
 確かに戦時下における問題を孕んで黙殺されてきたこの雑誌は、問題を孕むといふよりも、当初から問題意識の固りのやうな雑誌であった。そしてこの問題意識の固りは、 固りのまま疑晶をとげ、戦争といふ非常時の時代に引きずられてあげくに情勢が赴くまま外からの敗北を宣告された、詩史的に見れば絶滅した恐竜のやうな系譜に終はってゐる様にも私には思はれる。
さうしてこれまでの大方の戦後文藝批評家にしてからが、「コギト」=「日本浪曼派」=それらの盟主であった評論家「保田與重郎」といふ短絡的な図式によって、 戦中文学者を断罪する際の象徴的存在として彼を吊し上げる時、その保守的傾向を固めていった道程を探る為にのみこの雑誌を位置付け、片づけてきたのであった。
 「コギト」は「日本浪曼派」と同様、評論が先行する詩精神高揚の雑誌であったと称せられてゐるけれども、詩の実作において乏しい収穫しか得られなかった訳ではない。
しかし批評家の多くは、思想的彫琢ある作品で否定できぬ美しさを見せつけた詩人、伊東静雄一人の作品を、彼が謂はば同人の構成上、 又世代的にも「コギト」にとって「外様」であったことをよいことに、「コギト」からなるべく引き離して文学史上の「特別席」に祀り上げようとしてきた風に見える。
これもまた戦後といふ「時代」に既定された政治情勢論的な対処には違ひないが、同人雑誌の存在理由といふものを全く無視した横暴な研究態度といっていい。
この際、政治に無縁な「四季派」研究家にしてさへが「「コギト派」同人によって「四季」が悪しき影響の下にひきずりこまれていった云々」といふニュアンスの解説をもって、 「四季派」の詩史上における地位を社会的に保たせようとした「成心」に努めたことも忘れてはなるまい。
 「四季」はおかげで一過的な時代の免罪を得た代はりに、「純粋」の意味を現代に訴へることなく、その現代詩的な意義を完全に消失させて詩史上の化石になってしまったのである。
一方、黙殺されたまま封印を解かれることのなかった「コギト」は「四季」に較べてみれば、それらの作品を分析鑑賞するといふよりか、 むしろ現代詩の置き忘れてきた発想と姿勢を蔵したまま眠ってゐる、再検討の意義について繰り返し考究さるべき今日的な歴史的対象ではないのか。
不確定な雑誌の評価と共に、ここに評価の不確定なまま個性を厳しく吃立させた戦前最後の詩人達の肖像がある。
 そんな、語られること少なかった「コギト」同人の中で、保田與重郎と共にもう一人の極であった人物が田中克己である。
さうして、その人となりを、本人の立場から当時の詩の現場を通して告白してゐる文献として此度、本資料「夜光雲」が発掘された。これはその日記的側面において、 詩人の述懐のタネ本としてちょくちょくその存在を現してきたものの、田中克己といふ「強面」詩人の若年の日の素直な心情告白の部分といふのはこれまで公にされることがなかったから、 全貌が明かになるのは半世紀を経た今回が初めてである。
あはせて「四季」に先だって発足した「コギト」をめぐる人々の文学的出発の様子や、 その制作ノートとして詩精神成立熟成の楽屋内の様子が充分に観取されるから、おそらくはこれまでの云はれのない中傷、 「四季」と「コギト」を心情的に分断して考へようとする「善意」、あるひは詩の本統の歴史から「抒情」を政治的に塗り潰してゆかうとする考へ方にも、 思想的思惑にとらはれぬ新しい世代の詩人の中から何らかの反省が持ち上がるきっかけになることだと思ふ。

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 「四季」同人の構成上の性格は、文学的出発をすでにとげた堀辰雄の手によって広く鳩合された先輩詩人や部外者等、云はば「縦」の関係「公」の関係にあると云っていい。
面白をかしく云へば「四季」は、編輯発起人の堀辰雄、三好達治、丸山薫の三者を中心に、その上に萩原朔太郎や室生犀星といった顧問格、 下に三好の「燈下言」によって鍛へられた門下生を従へて、絶えず誰かが客人としてやって来てゐる道場のやうなもので、立原道造や津村信夫は道場生へ抜きので筆頭塾生、 田中克己と神保光太郎はよその道場出身で、この流派に惚れこんでやってきた指南役といったところ、譬へれば新撰組の試衛館みたいなものである。
そして一方田中克己の育った「コギト」とは云へば、旧制大阪高等学校の同級生を中心に、卒業後、同窓会の様な形で大学在学中に結成されたといふ事情からも「横」の関係、 「私」の関係において濃密であると云へる。前に倣へば松下村塾出身の同年輩の志士の一群だらうか。
この志士とも呼ぶべき青年達の問題意識が、いきほひ「コギト」といふ同人雑誌の形に結集し、創刊早々の誌上に現れたのは、 共産主義文学が当局によって「安政の大獄」の如く壊滅に追ひ詰められつつあった昭和七年のことである。
初期の「コギト」について云はれる高踏的な雰囲気には、今日からはエリート意識、青臭さ、あるひは先鋭に過ぎる自意識のもたらす混乱が見てとれるであらう。
しかしそれら「いらだち」とも呼べるものは、逼迫する時代に対する問題意識に充ち、あるひは同人間においては、 各々の言明の云はんとするところを言外において既に見抜いてゐるところが前提になってをり、私達は今日からは考へられない旧制高校の「友情」に注目しなければならない。
全ての「コギト」に係る誤解の芽は、後にも記するやうにこんな浪曼派的(*1)な「解説省略の態度」にあるわけだが、 そしてそれを内側から支へた交友関係を大阪高等学校時代の文学的出発に遡って検証する資料としての性格が、本資料、「夜光雲」ノートの第一巻から第五巻にかけて色濃く見受けられる。
特に歌日記の体裁をとった最初の三巻辺りまでのノートについては、「コギト」の前身である短歌雑誌「R火」の同人等に見せあった形跡があり、 湯原冬美(保田與重郎のペンネーム)が余白に記した読後の感想、ことにもアララギ風の物まねを指摘されての弁明など興味深いものも含まれる。
おそらくはこれに呼応して保田、中島、松下らについても同様の「歌日記」があったのか、あるひはなかったのか詩人に尋ねる機会を持たなかったのは私の怠慢であった。
アララギに投稿してゐた保田與重郎がいかなる経緯でその批判の側に廻っていったのかわからない。が、いづれにせよ「コギト」成立前夜からの報告として珍重すべきものであらう。
そしてこの日記は、開始早々十七歳の年少詩人による、高度な教養を下敷きにした和歌の数々によって埋め尽くされてゐる訳である。万葉仮名まで駆使した古代天皇への賛歌は、 しかしここでは皇国史観とは関係がない、むしろ文学的ロマンチシズムを喚起させる文献や史跡を渉猟することで、夢想の古典世界に絶えず自分を置かうとしてゐた彼の、 歴史嗜好の顕れと云った方がよいであらう。
((*1)私が保田與重郎を初めて読んでまず思ひ浮かべたのはシュペングラーの歴史著述における強引で魅力的な文体であった)

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ここで「夜光雲」についての概略を説明する。本資料は大学ノートに縦書きで記された「日記・詩作ノート」とも云ふべきもので、昭和四年二月十一日附の、 奈良行の小旅行の際に作られた歌をもってその初としてゐる。序文日附の八月十九日までの分については、標題下に「○○首の中」とあるから、 おそらくはそれ以前に作ってゐた歌の分量がある程度たまって、詩人自ら何らかのノートにきれいに清書して保存しておく必要に迫られまとめられたものであらう。
序文つきで第一巻と銘打ってあるところを見ても、またそれ以前の作歌について現在何も言及できる資料の存在しない以上、 これをもって田中克己の文学的出発点と見なすのが妥当であると考へられる。作者の名前は「嶺丘耿太郎(みねおかこうたろう)」といふペンネームになってゐる。
「嶺丘」は古泉千樫の処女歌集「川のほとり」の巻頭歌「みんなみの嶺丘山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも」から採られ、 その作歌の出自に「アララギ」を負ってゐたことを明瞭に示したものである。
「耿太郎」の方は私自身が問ひ合はせたところでは、日夏耿之介に影響されたんぢゃないか、といふことである。狷介で和漢洋籍全てに明るい学匠詩人、 日夏耿之介からペンネームを引っぱってきたなど後年の詩人の面目をすでに偲ぶことができよう。(*2)
 しかし詩人田中克己の詩的資質に形を与へたスタイルは、日夏耿之介のゴシックローマン様式とは直接関係のないものだったし、またそれは時と共に様々な変遷を辿ってゐる。
これから順次、それらを追って行くこととするが、まず早熱詩人の資質の根源を作ったのは、やはり家庭環境であると云はねばならないだらう……。
((*2)ちなみに詩人と日夏耿之介の接触は処女詩集出版の折に村上菊一郎氏を介して行はれたが詩人に臆するところあったか好感触を得るも両3度に満たなかったと云ふ。)

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 田中克己は歌人の両親を持ち、そのうち母を肺病にて早くに喪ってゐる。継母を迎へるが、母方の家に家長相続者がゐなかった為にひとり生母方の姓を受け継いだ彼は、 以後、家族との間に生ずる精神的軋轢に度々となく煩悶する。父西島喜代之助は先妻追善にと昭和二年、西島これん歌集「廉子歌集」を上梓するが、 ここにみられるロマンチシズムは次の様な与謝野晶子ばりのものであった。

 百萬の金の小扇みだれちる夕日に立てるわが肩に手に (銀杏樹下にて)
また死の床にあっての歌、
ママちゃんがよくなったらば鹿を見に奈良へゆかうとけふも子のいふ(病める日に)

 大正の御代に母のことをママと呼ばせる、田中克己の母はクリスチャンであった。若年の彼の周りに母を始めとして、増田正元、 松浦悦郎といった良い思ひ出ばかりを残して逝ったクリスチャンが多く在ったといふ事実は、例へば幼少時にキリスト教に対して嫌な思ひ出しかなかった保田與重郎とは明らかに違ふし、 また後年の改宗に至る一つの布石として考へてよいものと思はれる。
 そして父からは遠く秦氏の血脈を受け継ぎ、その源が始皇帝にまで遡ることは詩人の著書「クレオパトラと楊貴妃」中の「始皇帝の末裔」に詳しい。
詩人はよく自分の「なで肩面長」の風貌をアジア民族に別けるならば漢民族系だらうと吹聴し、実際終戦後中国で現地除隊した時にも中国人に成りすまして些かも怪しまれなかったといふ。
父を介して培はれた幼少時からの萬葉集への傾倒も自づから、故郷大和に格別の思ひ入れがあった保田與重郎とはその趣も異にしてゐたはずである。
それを支へてゐたのは汎アジア的なロマンチシズムであったといへるであらう。斯く背景をもって「夜光雲」の前半には萬葉振り、もしくはアララギに範をとった短歌、 ことにも夭折した学友を悼んだ「挽歌」などを多く書き残してゐる。冒頭草々に記された歌論(「1.与謝野晶子の歌を評す」ほか)も、 弱冠に充たぬ高校生が当代の名歌人を縦横に斬って外すことなく、写生の奥義について既に一家言の見解を指し示してゐることには寔に驚かされる。
 しかしやがてノートに表れる様に、一方で学校において習熟しつつある語学が彼に刺戟したのは、友人の死を通じて儚まれるやうな消極的な意識とは反対の、 盲目的に(彼自身の言葉で云へばエゴイスティックに)生きんとする不可思議な生の意識、とりわけ文学と映画を通じて呼び起された、具体的な対象を定めぬ恋愛感情であった。
ここで今日の我々から見れば奇妙なことには、日記に記された口語の自由詩と、同時に書かれてきた和歌あるひは文語詩の技巧との間に甚だしいアンバランスの感の見られることである。 口語体で書かれた「恋を恋する」詩のかずかずはこの時期に流行った民衆詩派や俗謡調、民謡調のものが目に付き、 さすがに「現代詩馴れ」した眼から見ればさすがに凡庸さを免れぬものも多い。思春期の新しい精神的息吹は旧態然とした文語から口語へと彼を駆るのに、 新時代に適切なスタイルを未だ見つけられずにゐる様子が窺へるのである。これは高校時代全般にわたっての彼に云へることで、 平凡な詩型に収まりきれない「自意識の破綻」を屡々ノート中に書き記してゐることでもわかる。
これが文語を交えた七五調の詩となると(「大阪景物詩(第1巻)」ほか)において見られる如く、語彙のみならずそのイメージの豊饒さにも、 伊東静雄が「早熟の天才」と称したその片鱗を十二分に窺ふことができるものばかりで一寸恐ろしい感じさへする。
また反対に散文となると、例へば母校で起こった、保田與重郎や竹内好など「戦旗」購読者らが音頭を執って扇動したストライキ事件(昭和五年十一月)についての詳細な報告など、 自由闊達な口語で記述してゐてとても面白く読めるのであるから不思議だ。(ここで詩人は自らを保守派として、半ば傍観者の立場を恥ぢつつその始末の逐一を記録してゐる)
 このやうな矛盾が表現の上で解決するには、帝国大学入学に伴ふ上京による文化的洗礼と、それを契機にして結ばれる同人誌「マタムブランシュ」の人々との交友によって、 モタニズムのスタイルを彼が修得するのを俟たねばならないといふことであらう。ただし彼をして口語に向かはしめたこの思春期の開眼については、もう一つ、 数多くの外国映画の鑑賞にも彼を向かはしめたことに留意したい。映画の主人公やナレーターに成り代はって実におびただしい「心情代作歌」が作られるのである。
ここには彼の詩風のひとつ、バラードに対する作歌センスのやうなものの原形を認めたく思ふ。それは後年、史実を元にした独自の叙事詩となって実を結び、 やがては不幸なことに詩人を戦争詩の作り手へと追ひ込む遠因ともなったのであるけれども、それはそれとして極めて強い主観を打ち出す詩人にして客 観的なバラードの作者たりうるといふことは、「コギト派」の浪漫主義解釈に独特のもので、田中克己の特異な才能として特筆されるべきものである。
心情を登場人物に成り代はって述べる同情心といふものは、やがてどうにもならない正義感を伴ひ、 半ばヒステリーを起すことで一見判断を停止した様を人々に提示するコギト派特有の鬱屈と含羞の抒情へと昇華してゆく。 そしてこのからくりに感づいた者は、「叙事によって淡々と抒情しうる」(保田與重郎)と云はれた、叙事の殻の一皮先に描かれた抒情といふ、 詩人の倒言の魔法に酔ひしれることとなるのである。

 この道を泣きつつわれのゆきしことわが忘れなばたれかしるらむ

といふ田中克己の代表歌は、さうした彼の抒情と叙事をつなぐ接点に位置するところの、効果としてとめどない感傷へと人を陥れる作品として有名であるが、 本資料中では早くも昭和五年の第四巻中の一首として現れてゐる。
 叙事で埋め尽くされた古典を「殻」あるひは「盾」として愛したのは、日本武尊の「さみなしにあはれ」を採り上げて言挙げた保田與重郎ばかりではなかった。 「コギト」同人に共通してみられた一種の時代へのヒステリックな抵抗の姿勢に起因したものであった。立原道造など穏健な「四季派」の詩人は、そこに至るまでの障壁に対して身構へ、 田中克己を「輪郭だけを描いて色を塗らなかった詩人」として、これに反発を感じたとしても無理からぬことであった。一方戦争に巻きこまれて行く次世代のインテリ達にとって、 さういふ姿勢が、自分を圧迫するもののインサイドにあって自己を保つための強烈なる自立心を呼び覚ますものとして熱狂的に受け入れられたことも首肯できなくもない。 何しろそのやうなイロニーによって孤立した気色ばんだ表情を見せるお互ひの純粋な詩精神を認め合ふのはやっぱり「友情」(この場合で云へば大阪人の)であったのだから。
これは例へば「コギト」が特集を組んで考究した芭蕉、その俳諧仲間のうちに見うけられた、 特殊に共有する符牒的な言葉を使った了解の仕組(つまり保田與重郎云ふところの「芭蕉が発した一言によって全員が泣いてしまふやうな」雰囲気を共有する述志と呼んでもいい)とよく似てゐる。 反対に「四季」が特集を組んだのは、孤独にあって近代的な実存の深淵を見詰めつづけた西洋のリルケであったことを思ひあはせると一層感興は深いだらう。
「コギト」の会合では伊東静雄ひとりが、皆お互ひの詩の批評をしないで雑談ばかりしてゐると云って憤然としてゐたやうだが、そんな事情を良く語ったエピソードである。 さうして詩人のその、映画や新聞記事の主人公の心情を歌はうとする姿勢が公的なものに流れ、やがて文語の形をとって韜晦し、その時々の社会的な信頼を表層で勝ち得るとき、 政治的な立場とは関係なく、田中克己をはじめ広く日本浪曼派の戦争に関る関り方について、初めて詩精神の密度の問題として批判の俎上に上すことの意味が生じるだらう。
残念ながらここには一見(いちげん)の読者を拒絶するための、殻の一皮先に最も甘い果汁を集めようとしたかつての鬱積するイロニーの努力はなく、た だ癇性の皮の下には何の反省もない「ハツタリ」だけが噛まされてゐる。思へば大本営を始め日本の公的な発言の全部が「ハツタリ」であり、「ハツタリ」を信用しなければ、 誰しも生きてゆく気力を見出せなかった時代であったとも云へる。あるひは蓮田善明、三島由紀夫少年を始め、それが「ハツタリ」ではなくなってしまった狂信的な次世代が徐々に形成され、 建前と本音に寸分の間隙のない彼等の云ふままに、彼等を先導した筈の先輩達もまた蹣跚をはじめたのだと云へるかもしれない。戦争についてここでこれ以上触れるのはひとまず措く。

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 さて、この「夜光雲」ノートは見られるやうにその第七巻目を失ってゐる。期間が昭和七年二月より七月まで、丁度「コギト」創刊の時期を含んでの欠落であり大変惜しまれるところである。 その理由は先に述べた在学中に関与した演説事件で拘置所の世話になったことと何か関係があるかもしれない。詩人に間ひ合はせたが覚えがない由にて要領は得なかった。
残されたノートの中にも時折作為的に破られた痕は散見され、夫人日く個人的に迷惑のかかる部分の由であって、いつ誰が削除したものか明らかにし得なかったものの、 さういふ形でとにかくノートは残し得た筈であり、一冊丸ごと処分しなければならぬやうなことが書いてあったと見るよりは、やはり不幸な偶然によるものであったかもしれない。
そして続く第八巻となって、ノートの内容は突如としてモダニズムの色彩が色広くなってゐることに驚く。交友する人々の名前も、 かつて自分がマネージャーをやってゐた大阪高校野球部の人々から「コギト」の同人達へ、そして北園克衞や岩本修蔵、 酒井正平といった当時のモダニズム最先端の人々の名前も繁く上る様になってくる。伊東静雄が田中克己について「その連中(モダニズム詩人達)は軽薄にも田中君を自分等の仲間と思ひ誤った」と評したのも、 穿つたところはあるにせよ、結果的には前述の自己を韜晦させる「殻」を探し求めてゐた彼が、その中に隠す自己の正体として、前向きの批判精神ではなく、 ましてや無意味であることに意義を見出さうとする空っぽのフオルマリズムといったものではなく、少々拗ね気味のポーズをとりたがる「述志」といふ雌伏する正義感を用意してゐたことを思ひ合はせれば、 合点のいくことではある。しかしその表情である「含羞」は伊東同様、保田與重郎から多くを学んだには違ひないが、「殻」として田中克己は古典と共にモダニズムの属性としての「無表情」も愛したわけであり、 これは安西冬衛のロマンチシズムを理解した彼の独創だった。保田與重郎さへが岩本修三の詩集の書評を書くなど、なかなか初期の「コギト」にはモタニズムとの思ひがけない接触があったが、 その原因の全ては田中克己のこの時期の交友関係にあった筈である。(伊東静雄の表現を穿ったものとした所以は、モダニズム詩人の中でも、 例へば北園克衞の伝統抒情詩(村野四郎はこれをスキャンダルと呼んだが)田中克己の抒情と多分にリンクするところが見受けられるからである。
また田中克己の方でもモダニズムの志向した「無意味の詩」について、習作をある程度この創作ノートのうちにこなしてゐることを見ることができるからである。
 また日記の中では、大学東洋史学科を専攻した彼にして、杜甫や李白の名前が出てこないのが不思議に感じられる。それよりもむしろ「ドイツロマン派」に代表される西洋の青春が、 ドイツ語の上達とともに磨きのかかった詩人の資質に漸次働きかける様になってゆくのを見る。もっとも後の「コギト」誌上で認められてゐるやうに、 保田與重郎が民族古典の源流を憧憬した初期ロマン派のへルダーリンを推奨するに対して、田中克己の心をこの頃から占めてゐたのは、 ロマン派から出たロマン派の否定者ハイネであつたことは留意したい。また「コギト」の同人達はなべて中野重治の理解者であったが、 中でも田中克己は枠を破ってどこまでも企技してゆく生き様を、この二人に学んだところが多かった様に思はれる。大阪で行はれてゐた「コギト」同人の持ち回りの発表会では、 詩人はハイネに題を採って帝国主義批判を熱弁し、会後自由主義の桑原武夫をして「現在の日本でそこまでは云ってはいけない」と反対に注意を促された由である。
保田與重郎もそのどこへ飛んでゆくかもしれない正義感を何よりも危なげに思って「コギト」誌上ではかう記してゐる。「田中に関して私は個人の伝説を書かうとはしない。 それに耐へるまでに彼はまだ存在そのものが形式を持ってゐない」と。尤も保田與重郎が詩人の正義感を善意で諌めようとして書く伝説など、書かれるさきから田中克己はそれを覆していったらう。 保田氏はそんな彼をたうとう「日本浪曼派」の同人に加へることを断念したのだった。詩人自身は不参加の理由について「教師は入れんと云ふからこっちから入りたいとも云はなんだが、 教師の伊東が入ったのを見て絶対入ってやるもんかといふ気持になったよ」と述懐してゐた。反対に「日本浪曼派」創刊同人に加へられながらも遂に一度きりの寄稿に終った中島栄次郎と将棋ばかり指しながら、 詩人の内でも非道な権力に対するコスモポリタンな批判精神が、どうやらやがて汎アジア主義といったかたちに収まりがついてしまった様でもあった。 といふのも何といっても帝国主義攻撃の唯一の勢力であった共産主義が日本に於ては潰滅状態であったし、さうでなくても、大きな正義のためには小さな犠牲はやむを得ないといった、 うさんくさい政治の主張には、田中克己はもともとそぐはないものがあったのである。日記に窺はれる左翼文献の渉猟は、多分に当時のインテリの「通過儀礼」といった感が否めないし、 自身が関係してゐたといふ伏字の「○○会」といふのにも政治的な意図が記述からは全く見えてこない。彼は昭和八年八月、大学の卒業論文の資料収集をかねて台湾へ渡航してゐるが、 敬愛する佐藤春夫の小説「女誡扇綺譚」に触発されてのこの旅行で、彼は中国語を話して陋巷を巡り、史跡風物習慣の取材に勉めた。 その姿勢にはアジアへ尽きせぬロマンを求める彼の詩ごころを窺ふことができるが、 当時の台湾ではどんなに市井に分け入ったところで抗日といった意識や気配を住民から感じとることは出来なかったであらうとも考へられる。
 一体、昭和初期の日本において、詩人ハイネの精神は中野重治の共産主義と田中克己に代表される汎アジア主義へと両方に捻じ曲げられたまま疑晶を遂げたのではないかとさへ私には思はれる。 一方は転向により沈黙を強ひられ、一方はアジア主義の建前に乗せられてしまった。もう一人、文壇に出る機会が無かった為に、 鬱々と過ごしながらも戦事中の判断を公に迫られることのないまま迫害を逃れ得た杉浦明平をあげてもよい。「人民文庫」と「日本浪曼派」、 あるひは中野重治と保田與重郎が「一つの幹から出た二つの枝」等といふ形容で云はれたことがあるが、正義感を共に文学的な三つ子の魂としたといふ意味から云へば、 中野重治のハイネ的な資質を鏡の上で右手左手に分け合ったのは同じ詩人としての田中克己であった筈である。保田與重郎はさういふ前提を踏まへた上でもう一つ先、 自分等が美しく絶滅してもよいとする処の「我等の敗北主義」といふ道程を指し示した人ではなかったか。そしてそれは絶滅の美を示す前に、充分恐竜の大きさを後世びとに誇ってしまったのであった。

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 再び脇道へそれてしまった、戻らう。といふのも他でもない、そんな危なげな詩人を見守るべく日記に登場するのが、これまでに挙げたどんな出来事よりも重大な事件であるべき、 「Y」「ゆ」なるイニシャルで伏せられる悠紀子夫人(旧姓柏井)であるからである。
 悠紀子夫人は、詩人とは四つ年下で遠縁の親戚に当たる。立教女学院在学中に洗礼を受け、終生を敬虔なクリスチャンとして、やがては詩人をキリスト教に帰依させる直接の要因となった女性である。 お嬢さん育ちの、伊勢丹でアルバイトをしてゐたモダンガールの彼女を詩人はうまうまと攻略し、結婚後は自らの飢愛する母性に見立て上げたのだらうか、 生活を度外視する詩人といふものの常であるが、その全幅の安心をもって生涯夫人だけには甘へられた感がある。ここに詩人は愛情に関しての現実に交渉する対象を見出すに至り、 自問自問の孤独な思索をする必要は一面なくなったかと思はれる。日記に記される苦しげな告白も、孤独を喞ち恋愛を夢見る呟きから、もどかしげな心情吐露へと変わって行く。 この辺りのことはしかし実際に読んでもらふことにしようではないか。
 さらに結婚を迎へるに至って心情吐露といったこともなくなり、詩作ノートとしての草稿さへほとんど姿を消すやうになると、このノートも最後にはその日その日の出来事を簡潔に記しただけの、 純然たる「日記」に変貌してゆく。実際ノートに「夜光雲」なる表題のつくのは第八巻までであり、以後は単に「日記」というタイトルのもとに、最後は昭和十年三月から十四年二月まで、 三年分を一括して一冊にまとめられてゐる。十二巻以降は見当たらず、この後再び日記が見つかるのは昭和十七年の文士徴用時の南方日記であるが、 そこにはすでに「夜光雲」に遡っての巻号が記されてみないところを見ると、やはりこの昭和十四年二月の時点でひとまず日記をつける習慣がなくなったと見るべきであらう。
ともあれこの三年間を記録した最終巻において交友日録のなかにやうやく私達は「四季派」の人々の名前を見出すこととなるのである。 その記録の淡白に過ぎることは第七巻の欠落と共に惜しむべきと云はざるを得ないが、そこに顕れた事実は紛れもないこととして、 特に詩人の処女詩集である「詩集西康省」出版(昭和十年十月)前後の記述は、田中克己といふ新進詩人を取り巻いてゐた当時の詩壇の状況をよく留めてをり寔に興味深い。
日夏耿之介や佐藤春夫、萩原朔太郎といった先輩詩人の消息から、晩年の立原道造との交遊に至るまで、例へば日本浪曼派へ傾斜していった立原道造にまつはるスキャンダル、 武漢三鎮陥落に伴ふ宮城前で行はれた提灯行列に勇んで参加したなどといふ噂も、記述によって「コギト」校正後の出来事として同行者保田與重郎、小高根太郎、 田中克己のあったことが知られるのである(立原道造はこの日記が終了したひと月後、昭和十四年三月に夭折)。

(注)「詩集西康省」出版記念会に参会した人々の名前を芳名帖順に列挙する。

詩集西康省の会 昭和十三年十一月十三日 於 丸ノ内 マーブル
岩佐東一郎 池澤茂 長尾良 亀井勝一郎 蔵原伸二郎 三浦常夫 肥下恒夫 立原道造佐藤春夫 増田晃 丸山薫 岡本かの子 薄井敏夫
  田中冬二 津村信夫 神保光太郎 若林つや 宇野浩二 中河与一 保田與重郎
主な欠席者:堀辰雄(病欠)/伊東静雄、中島栄次郎(在阪)

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 さてこのやうに日記は昭和十四年二月十五日の日付を最後にして言辞もなく忽然と終了してしまふ訳だが、実はこの先の数年間こそ、 詩人の身の上を世俗的な意味でもって絶頂期とどん底の時代がたたみかけて通りすぎてゆくのである。第二詩集「大陸遠望」上梓と透谷賞の受賞、 第三詩集「神軍」を置いて文士軍属として南方へ向かひ、大東亜共栄圏の実現を信じた日々。一転、次男を喪ひ、 二等兵として再び徴兵され今度は軍隊の現実を嫌といふほど刻み付けられた敗戦前後のことども。大陸を彷徨した後に帰国してからは、 彼を待ちうけていたのは生活苦と文学者の戦争責任を指弾する新世代詩人の怒号だった。 その栄光と惨落の様子はもはやこの後の「コギト」や「文藝文化」の誌面だけでは全てを窺ひ知ることはできないだらう。「コギト」を支へた肥下恒夫、 「文藝文化」の主筆だった蓮田善明は戦後共に自殺。中島栄次郎、増田晃は戦死した。 保田與重郎も戦後の長い期間沈黙を余儀なくされ彼を中心にしたコギトの友情が営為として再び返り咲くことはなかった。 詩人田中克己の「述志」が次に再び形をなすのは、さうしたなか「抒情詩」が地上における権威を失った戦後暫くして後のこと、昭和32年「詩集悲歌」においてである。
そののちの水脈は「果樹園」の下を伏流し続けた。さうして時代の断層をすき好んで発掘しようとする者にのみ、掬ふことの許されたこの孜々たる一筋の地下の流れが、 今日に至りこの様な形をとってふたたび思ひがけなく地上に小さな泉を設けることとなった、とでも云ったらいいのだらうか。
詩人の文学の原点から頂点に至るまでの過程とぴったり一致し、克明にそれを跡づけてゐるこれらのノートを始めて手にした時、読み進んで行くうちに、 私は将に近代文学史の文献発掘に立ち会ってゐるといふ感動に度々となく汗を握る思ひを味はった。この詩的な示唆に富んだ作物は、 謂はば最もロマン派らしい収穫のひとつとして日本の昭和戦前詩史のなかに位置づけられるのではないかと思ふ。
日記、断章の類ひといふものも、例へば西欧においてはマイナーポエットの残すべき宝石に譬へられる由である。ノヴァーリスの「青い花」を本邦初訳した詩人にして、 この様な詩的な日記帖が遺されてゐたこと、また当時の日本におけるロマン派再興のシナリオにも、これは「日本浪曼派」とは別のイメージから符号するものとして、 例へば松下武雄の遺作集「山上療養館」や先ごろまとめられた「中島栄次郎著作選」と共に、 忘れてはならぬ「コギト派」の収穫になる筈である。

(追記)

 平成6年の夏、田舎の印刷屋でこれらのノートは百部をもって自費復刻出版された。一人で何もかも行ったために結果、余りの誤植の多さや原稿の汚さなど、 我ながら呆れたほどの出来栄えであった。
此度解題も補筆してこの様な形で「完全版」が無償公開される運びになったことはとにもかくにも自らの肩の荷を少しばかりは軽くした思ひがある。
田中先生悠紀子夫人の御霊前に捧げると共に、追記して上梓の挨拶にかへたい。


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