詩人田中克己 回想と作品について

浅間山

戦前の浅間山

blue

★出会ひ

 先生との出会ひのことを、かつて自分が最初に出した詩集のあとがきの中で「偶得」の詩をひきあひに語ったことがある。「人生はそんな美しい詩のやうにはゆきませんよ、 小っぽけながら先生は再びハリー誓星を見ることができたんだし、知己だって小っぽけなのはここにをります」との思ひをこめて誌したつもりであった。しかし当のぼく自身の話だが、 先生に出会ふ前、七八年も昔にならうか、詩のやうなものを書き始めた頃、当時出た「現代詩辞典」の中に田中克己の名が享年と共に小さく記されてゐるのを見てやはり、 ああやっぱり知己なんてものは…と、感慨に耽ったことがあったのである。
ところがそれは田中冬二と田中克己の名を混同したために起きた編集上のミスであって、阿佐谷あたりぢゃ先生、読み終った本をすぐまた同じ古本屋に持ちこんでは親父を大きに閉口させてるらしいよ、 など云ふことを聞きおよんだのであった。ぼくはもう矢も盾もたまらなくなってしまった。それまで詩人の家におしかけるといふことなど考へたこともなかったが、 一度死んだと思はれた憧れの詩人が何だか生き返ったやうな、そして本当の「知己」に巡り合ふチャンスはもう今しかないのだと何者かが唆すやうに、 あの「偶得」の詩が頭の中をぐるぐる回り始めたのである。

偶得

ハリー彗星は1910年に現はれ
(その翌年におれは生れたのだ)
その周期は76年と7日だから
1986年に再び見えるといふ
おれはこの書を読み心楽しまなかった
多分おれは一度もこの星を見ないだらう
思ふに人間の相逢ふのもこれに等しいのだ
知己を一人得るはそれほど難く
恋人を一人得るもまた難いのだ
おれの知己はおれの死後に出て来るのだ
おれの恋人はおれの生れる前に死んだのだ

                 「詩集大陸遠望」(昭和15年)より

気が付けば阿佐ヶ谷行きのバスに乗り込んでゐた。そして住居表示を頼りに捜し歩いていった末にたどり着いた詩人の家は折しも夕飯時で、換気扇から流れる煮物の温かい匂ひが、 玄関先に立ち尽くす痴呆のやうな自分をやうやく目覚めさせたのであった。本の上でしか見たことのない敬愛する詩人の表札を前にして、 ぼくはまるで片思ひの恋人の家を見つけた中学生のやうに興奮し、それから木槿の生ひ茂る路地で踵を返した。直接詩人に手紙を書かうといふ上気したある決意とともに。 そのまま門を敲くことをせず一端帰るところが今思へば四季派の流儀?であったらう。思ひつめたやうな「こひぶみ」は一晩で仕上げて後先を考へずに投函した。 中身はそれまで詩雑誌に投稿することなく一人で書きためてきた十余りの詩篇について何ごとかのお言葉を賜りたいとか、そんなものであったらう。 そしてこの手紙に返事がもらへないものならば、先の見えなくなった東京暮しを切り上げて故郷へ帰る決心をつけてゐた。
思へばそれは失意に満ちた当時のぼくにとって大げさな人生の賭けとも呼ぶべきものだった。果して運命の返事は返ってきた、ぼくはわが眼が信じられなかった。

 「貴翰並びにお作12篇拝受、お作は皆詩ですがたった二行ではむりですね。私は四行、中也はもっと長くかきました。旧字旧仮名づかひなつかしく存じました。 おついでの節はお立寄り下さい。九月十三日」

 文面に中也のことがあるのは、手紙の中で、詩を読んで涙を実際に流したことがあるのは先生と中原中也の詩だけだなどとぬけぬけと綴ったからである。 『大陸遠望』所載の「EinMärchen」と、中也の「渓流」といふ詩は、当時のぼくの一番のお気に入りの抒情詩だった。しかしそのくせ自分ではまだ短い写生のやうなものしか書くことができず、 「二行ではむりです云々」のくだりはその辺りのことを指してのたしなめだったわけである。
さて当時のぼくとて社交辞令を介さぬでもなかったはずだが、四季派の羞らひもいいかげんなもので、たった一枚の葉書に舞ひ上がってしまったぼくは早速お宅に電話をした。 夫人の上品な声で取り次ぎがあって暫くすると、今度の日曜日に来なさいとの大阪なまりの先生の声を初めて耳にした。先生も文学に関して社交辞令を弄する人でないことは後で判ったが、 ともあれ約束通りその週の日曜日に阿佐谷の家におそるおそる訪問することになったのである。九月始めのまだ残暑の厳しい頃で、背広姿のぼくは玄関左手の応接間に通されたが、 しばらくすると着流し姿で先生が現れた。最初の挨拶がどんなだったかは覚えてゐないが、おそらくのっけからお送りした詩の批評をされたのだと思ふ。もっと長く書くやうに、 そしてそれを今度来るときに見せてくれと、一張羅でやって来た訪問者を単なる表敬にしむけるやうにはあしらはない態度が緊張し切った若者をすっかり喜ばせた。先生にしてみれば、 海とも山とも判らぬ当世の文学青年相手に真面目に詩を論ずるなど、余程暇をもてあましてゐたところであったのだらう。
先生の第一印象は、着流しのせゐもあったが、恐ろしい程 「なで肩」で扇風機の風にも靡かんばかりの痩躯なのにはまず驚いた。 細長い腕を飄々とまるで操り人形のやうに動かしながら話をされる様子は、正に生き残った詩人といった印象をぼくに刻みこんだ。大きな黒子のある鼻、 その鼻にかけられた眼鏡の奥に子供のやうな瞳を輝かせ、話振りは何を話題にしても世間臭さを感じさせず、何か清潔な風を身にまとってゐる感じがするのだった。
 先生は「四季」は現在休刊中であるがもう続けるつもりがないので申し訳ないと、しきりに仰言られた。「四季」なる雑誌が第五次を以て今だに刊行されてゐたことなどその時初めて知ったのだが、 けだし先生はぼくのことを「四季」の投稿募集欄でも見てやって来た者か何かと思はれたのかもしれない。そしてその「四季」であるが、半年後に先生はもう一度けじめをつけるために出さう、 君の詩を発表するために出すのだよ、と仰言って最終号を編集されたのだった。記念すべき「四季」には最後の会員を紹介するために不相応な誌面がさかれたが、 生涯の光栄としてぼくはこのことも自分の詩集のあとがきに記さずにはをれなかった。そしてその小っぽけな処女詩集を、先生が「僕に献じてくれた」と悠紀子夫人と共に喜んで下さった晴れがましさを、 今でもはげしくなつかしい羞恥の心なしでは回顧できないのである。
 その日の先生は、それから萩原朔太郎を特集した詩誌を取り上げるとぼくと並んで座り直し、一番好きな詩だといって「わが草木とならん日に」の詩を朗誦して下さった。 「たれかは知らん敗亡の歴史を何に刻むべき…」。「父」をキリストと見倣して静かにその詩の終連「過失を父も許せかし」を繰り返す先生に、詩人の孤独な述志の面影が漂ふのを、 ぼくはうれしいことのやうにさびしいことのやうに見守るばかりだった。そしてこの界隈を着流しで歩く人間はたうとう僕一人になってしまったよ、と笑ひながら、 ドイツの国歌や童謡を大声で口づさまれる、その無防備の詩心をやがて間近に知るに至って、ぼくはしみじみとこの師と仰ぐに足る唯一の 「知己」となる詩人に巡り合った幸せをかみしめたのだった。

★思ひ出すこと

 思ひ出すことといって何から書き起こしたらよいものか。教鞭を執られてゐた先生をぼくは知らないし、当時の面白をかしいエピソードを実際に見知ったわけでもない者が、 訳知り顔でここに引いても仕方ない。さうして先生自らの回想は、その大方を過去に御自身の手で文にされてゐるか、あるひは文にできぬやうなものが殆どで、 先生が口にされる「肥下が」「保田が」といふ言葉尻に、ぼくは昭和文学史の一端に実際に触れてゐるといふ、感激に近いものを汲んで味はってゐたにすぎないからである。 自然、ぼくも先生との話の中では「肥下さん」「保田さん」といふことになってしまふが、畏れながらそのやうな雰囲気にあてられて高揚したまま下宿に戻り、 若き日の彼等の著作を読み耽ってゐた自分が、今はなつかしく思ひ起こされるばかりだ。
阿佐ヶ谷の御自宅へは、五年の間、殆ど月一度の割合で伺ってゐた。最初の半年位は月に三度ほど、また昭和六十三年に一度倒れられ、暫く入院された時には病院に見舞った。 田中克己といへば癇癪と憂鬱の激しい詩人といふ定説になってゐるが、ぼくが先生に対して「癇性」を感じたのはお付き合ひさせて頂いた五年間もの間に一度しかない。 こちらが正面を向いて話す限り決して人を脅すやうなことを言ふ人でないことは、そして嘘を嫌っていつも一番損な役割りを恵まれない者と共に甘受されてこられたことは、 教へ子であった誰もが御存知であらう。とは思ふものの余りにひどい言はれ方を戦争詩とからめて云々する人々が今だにゐるやうで、 さうした風評についてさへ同じ気難し屋の教師であった伊東静雄と比べてみると、教へ子に沢山の発言者を持つことのなかった先生には大層恵まれなかったことと考へられるのである。
 ぼくがただ一度、先生をおっかないと思ったのは、三度目の訪問だったか、ロシア文学が話題に上り、ぼくが「カラマーゾフ」を3日かかって読み通し熱を出した経験を話したことがあった。 すると先生はドストエフスキイなんて駄目だと嫌な顔をされ、ロシアならばトルストイに限るといふやうな態度で取りつく島がない。 訪問も三度目といふこともありぼくも甘えたかったのだらうが、帰ってからすぐ先生に長文の手紙を書いたのが、どうも先生の癇に障ったらしいのである。折り返し一通の葉書が届いた。
「先刻お譲りした『白楽天』はすぐお返し下さい」、何かそんな突き放した感じの一言であったことを覚えてゐる。さあ大変だ。もう先生の前には参れない。これは破門通告書に違ひない。 そのやうに思ひつめるぼくもぼくなら先生も先生であり、考へてみれば二人とも子供みたいではある。しかし面識の浅い者に対してさすがに先生とて一線を劃って付き合ふ礼儀のあったわけであり、 それが普通でぼくが変なわけだが、先生の老人らしからぬ詩人然とした人柄に甘えてどこまでも上がりこんでゆかうとした田舎者の無礼さに改めて気が付くと、 ぼくは後悔の念に苛まれその夜涙したのである。次の日、クリスチャンの先生が留守だらうと思はれる日曜日の午前中に、ぼくはこっそり阿佐ケ谷の御宅を訪れて、 頂いた『白楽天』の本の上に辞去の弁を兼ねた詫び状を添へ、ポストの前で一礼するとしょんぼり帰ってきたのであった。なので直接先生に睨まれた訳ではない。 果たして再び先生からは呼び出しの手紙を頂き(何故ならぼくの下宿には電話などなかったから)、呼び出されて初めて夕食を御馳走になった。 先生はぼくの態度を咎めるどころか夫人から諭された由、しきりに恐縮される。ぼくは一度に胸に温かいものが流れ込んできた心地がして言葉もなかった。 先生を訪ふたび必ず悠紀子夫人の手料理が振舞はれることとなったのもその日からであった。祖父祖母と暮らしたことのない者にとって、貴重なお話もさりながら、 その様なお心遣ひは何より嬉しかったし、夫妻にはぼくが家庭の温もりに縁もなく一人暮らしをしてゐる今時珍らかな文学青年に映ったのだらう。 不自由だらうと仰言っては何くれとなくいろいろなものを持たされたことを、孫のやうな気持で思ひ出さずにはをられない。
昔のアルバムを見せて頂いたのもその夜のことだ。若き日の先生の容姿には、伊東静雄とも立原道造とも違った詩人たる毅然さが漂ってゐて、 コギトの仲間達と撮った写真では保田與重郎の目ざしと共に際立った印象を与へるものだった。先生の若い頃の写真をそれまで中公文庫に載った小さなものしか見たことがなかった私は、 自分の中にある「詩人のイメージ」に新しい風貌のひとつを加へ入れ得た思ひをしたものである。
 言はばそんなことがあって以来、先生には一脈通じた所で物事の好悪についてお聞かせて頂くやうになった気がするのである。まもなく書庫にあった「コギト」の揃ひを、 分けてやるから値段を言ひなさいなどと仰せられたこともあった。もとよりそんな貴重なものに安月給の自分が値段など付けることなどできなかったが、 先生は「復刻を持ってゐればいいんだよ」とあっさり仰言る。一寸不思議にも思ったが、「コギト」は先生にとって既に礼を払ふ必要もない存在として血肉化されてゐたといふことなのだらう。 書庫には「四季」の揃ひもあったが、先生はどちらかと言へば「堀さん」と一緒に自分の名前が表紙を飾ってゐる「四季」をより大切に思ふ心があったやぅだ。その「堀さん」、 生涯敬愛し続けた堀辰雄とは戦前から長い夫妻ぐるみの親交が続いてゐたし、 旧同人等の協力の薄かった第五次「四季」を終刊された際には「自分には堀さんのやうな人徳なく『四季』の名を汚してしまって大変申し訳ないことをした」と後悔された先生であったが、 「四季」を主宰された決意の内には、先生なりの堀辰雄への思ひ入れがあったやうである。「コギト」と「四季」。手製の表紙を付して綴じられた合本の、 本物に触れる感激を堪能させて頂いたことも今となってはなつかしい思ひ出とはなった。

                               ★

 先生の御宅でぼくは何を伺ったらうか。聞く耳のない自らの無学と、訊きそびれた怠慢と、共に我身を責むばかりである。
先生の専門は東洋史であったが、専門の話をされても珍しさうな顔でただ合槌をうつばかりで、ぼくにはどう仕様もないのは先生も御存知だったから、話題はもっぱら昔の思ひ出や詩の話、 それから目の前で映ってゐるテレビの話題などだった。二等兵でとられた時のつらい思ひ出は、軍属で南方へ派遣された時の軒昂たる思ひ出と一緒に、伺ふ毎に必ず出たし、 機嫌のよい時には(入歯があらうとなからうと)ドイツの歌や日本の童謡、果ては奉祝歌(軍歌ではない)の類ひまで朗々と口ずさまれる先生であった(ぼくも一緒に歌はされた。楽しかった。)。 機嫌といへば、自身を「躁鬱病」と決めてかかってゐる節があったが、それを治さうとするよりはむしろ、その病名に拠って人付きあひに生じる面倒から身を守り、 あるひは言ひ出したら聞かないイッコク性分の言訳に当てたられたやうにも思はれたものである。ぼくも先生が「鬱」の日には話し相手を悠紀子夫人と決めこみ、 「実に参った」といった顔でふさぎ込んでゐる先生を肴にしては二人で話に花を咲かせるのが常であったから、「鬱で寝込んでますよ」と電話で伺っても遠慮もせずお邪魔することにしてゐた。 夫人にとつてさういふぼくは、謂はば気難し屋の「病人」を相手に楽しんでくれる調法者でもあって、ぼくが伺ふ日には安心して外出もされる。 偶々喧嘩の後になどやって来ようものなら「詩を書いても詩人になんかなったら駄目ですよ」なんて仰言って夕飯の用意を始める口実になったりした。先生も先生で、 二人きりになれば起き上がり、口癖の「死んだ方がまし」の言葉を皮切りに、毎朝最初に目を通すといふ新聞の死亡欄から、最近死んだ知人のことなどを拾ってぼそぼそと話の糸口をほぐし始めるのである。 思ふに先生の「鬱」はかなり自覚された厭世観によるものではなかったらうか。ただしかし、先生宅の訪問を楽しみにしてゐたのは自分であって、お二人がぼくの様なものでも来てくれて嬉しいと仰言って下さることが、 何より自身には日々の詩作の励みになったものである。「四季」を廃刊された頃からは、詩の添削もして頂けなくなってしまったが、 それでも詩を暫く書かないでお話だけぼんやり伺ってゐると突然、「そう言へばこの頃詩はどうしたのかね」と新作の提出を求められる。先生の黒い眸が輝いてゐる「躁」の時には、 こちらも菓子などパクついてゐる場合ではない。溢れてゐる先生の詩心と向き合はねばならず、しかし議論しても始まらぬのは前に述べた通りだ。むしろこの時とばかり、 受け身にならず質問ばかりしてぼくは甘へた。先生から新しい話題が聞き出せるのはこんな時が一番だったからである。実際こんな時の先生は何でも物事を見通すことができたらしく詩の点だって当然辛い。 一瞥の後の寸評はいつでも触れられたくない所を一言に表して小賢しい作者をドキリとさせるのだった。「果樹園」時代の西垣脩氏が「今ここで詩を書いて下さい」との難題に冷汗をかかれた由だが、 ぼくの場合はさらにその後があって、「できない? ぢや中嶋君、今までの詩を一度全部朗読してくれないか」と仰せつかったりしたものである。折悪しく悠紀子夫人が留守で助け舟もなく、 その時丁度出来上がったばかりの雑誌が手元にあった。今すぐには書けないですよ、と断ることはできても、目の前にあるものを読まれませんとは言へない。 観念したぼくが本当に消え入るやうな小声で読み通すと、先生は「伊東静雄は大きな声を出して自分の詩を読み、リズムを何度も確かめて苦吟したよ」と笑はれた。もっとも先生自身も、 歌は能く歌はれたが自作詩の朗読など聞いたこともない。伊東静雄と朗誦し合ふ姿なんて想像すらできない(笑)。
 一体に、このロマン派の先達たちは詩の風格で一致する所はあっても作詩の方法は丸きり違ふ。先生曰く、自分は酒も飲まないのに酔っぱらった様になり、 一気呵成に書き上げた後に斧鉞は殆ど加へないと。それは書きなぐった昔の日記に見出される草稿に推敲の後がなく、かつ発表されたものとも変化のないことがよく証明してゐる。 文学は余技の心で臨むべきと心得た若き日の先生の、しかも余技に顕れた発想の不羈と言葉のいなし方には只ただ驚かされる。 先生の下す白黒はっきりした評定に一喜一憂する至極単純な弟子にすぎなかったぼくには、自分が小狡い答案ばかり書き綴る四季派学校の点取り生徒のやうにも思はれたことである (そして今でもさうなのだ)。先生ゐまさざる現在、あれ思ひこれを思へば詩作をめぐって貴重な助言のいくつかも想ひ出されてくる。
 まず読めと薦めて頂いたのは『月下の一群』と鴎外訳の『即興詩人』だった。『即興詩人』は文語に対する現代の若者の反応を試したかったのかもしれない。 「オノマトペの類には用心すること。他にも「ああ」といふ感嘆や、耳に珍しいだけの造語や動植物の名は、なるべく使ふべきでない」なんていふアドバイスもあり、 キャッチーな用語で名を成したやうな詩人についてはその世評を軽蔑してゐた。先生の自然に対するアプローチに、多分の書斎博物誌的な要素があった事は否めないが、 しかし意識的な反動なのか、作られた詩のうちで、学識に裏打ちされた東洋史家ならではの強面の長詩を除けば、普通名詞で流行と不易を描かうとした一見平易に見える詩の多いことにも気づくのである。 私の大好きな宮澤賢治について云へば、信奉宗教が違ふといふより、戦後の保田與重郎さんの発言を気にして触れたくない気味もあったのか知れない。 それは保田氏が日本の三詩人に伊東静雄、蔵原伸二郎、宮澤賢治を挙げたことであったが、伊東、宮澤、萩原朔太郎だったら問題にならなかったのだらうと思ふ。 オノマトペ云々でもないだらうが、水を向けても宮沢賢治の話は暖簾に腕押しなのであった。それから他には「汚い言葉を使ってはならない」と、これははっきり仰言った。 高校時代の日記に記した痰壷の歌についてこれも保田さんから「歌にならんな」と一言で斬って捨てられ恥ぢ入った思ひ出を語って下さった。先生に絶大の影響を与へた保田氏は、 後年も折々、殺伐としたニュースには「目が穢れる」との警句を口にされたといふ。しかし田中先生が表現の上で潔癖を口にきれたのは、最初から知りたくないといふ拒絶感でなく、 むしろ自分を含めた現実に目を瞠った上での諦観をもってして行はれた極めて人間臭いものではなかったかと思ってゐる。そこに元々ヒロイズムなどはないのである。 青年期の詩人に往々にして現れる老成した諦観、それはしかし自らが即し切れない以上はやがて身振りに成り果てるものだった。死の恐怖のもと、 ただ矛盾のうちに詩人は予感されたものを報知し、韜晦する言挙げには言ひ訳も暴露も必要ない。次世代であるアプレゲール詩人達は言ひ訳と暴露の詩に明け暮れたのであるが、 そこに真実と称して欲望に曇らされた現実をのみ見、やはり浮かばれぬものをぼくは感じた。テレビを見てゐた先生がしみじみと仰言ったものだ。
「中嶋君。四季派の詩人はエイズなんかで死んぢゃいかんよ」と。それは当初マスコミに興味本位で取り上げられてゐたエイズといふ意味であったが 「四季派」がマスコミに巻き込まれたらおしまひだといふことをこんな具合に言ひ表すことが、すでに何事か誤解をはらみさうなところで、全くぼくも同感したのだった。

★その詩について

先生が亡くなった年の夏、初めて八王子にある上川霊園を訪ねた。墓前に手を合はせ、鳴きしきる蝉時雨に耳を傾け、 神妙な面持ちでお墓の周りをぶらぶらしてゐたら偶然近くに金子光晴夫妻の墓があるのをみつけて苦笑した。個人主義的な厭戦行動によって戦後、伝説的な復活を遂げた彼とは反対に、 先生には戦中の「神軍」他の著作が物語るやうな、現人神や五族共和を文字通りの理想と信じた自らの過去がある。戦後キリスト者となられ、 サインを求めた詩集にも「神軍と思ひたがへしおろかさは いまに悔ゆるもせむすべもなし」と揮毫された先生であったが、 「不信心な奴は地獄へ落っこちたから顔合はすこともないよ」なんて仰言って笑ってるかもしれない。先生の人の好き嫌ひは有名で、自らも「僕ははじめて会った人は大抵好きになり、 その後だんだん悪いところが見つかるにつれて嫌ひになってゆき、最後にこの人を友だちとしておくか否かの土壇場まで来る」と書いてゐる。 尤もその後「また思ひ直してだんだんと欠点を忘れてゆくといった風」であったやうだが、四季派的な禁欲的な真面目さに破綻をきたしつつあったぼくなど、 先生の所へあと何年か通ってゐたら破門になってゐたかもしれない。打算的な態度を一番に嫌はれた先生にあっては、 「優しさ」は常に「易しさ」に遷元されるものに映ってゐたのではないだらうか。そしてそれを恐れられた先生の詩にも、優しさを正面から歌ったものが少ないことをぼくらは見るのである。 優しさうに見える詩もよく良く見れば残酷を歌ったものであったり、「優しさ」もイロニーの表情に過ぎないことに気付くのだ。歌はれた残酷にどれだけ生身で即し得るのか、 読者はそこに「優しさ」ではなく「悲しみ」を託されるといふ仕組みである。ならばどんな詩に「優しさ」を感じるか、数ある中で一番なのは、

     哀歌

あの曲り角をまがると
おまへの家が見えてくる
小川のよこの木々にかこまれた家だ
もうそこにはゐないのに
おまへが写真でのやうに
今日もしづかにそこで笑ってゐるやうに思ふ
泣いてゐる写真か 怒ってゐる写真
死ぬためにはそれらをのこすべきだ
僕はおまへのことを考へると
だまされたあとのやうにくやしくなる

                   「詩集悲歌」(昭和31年)より

 この詩が収められてゐるのは戦後しばらくして刊行された詩集『悲歌』であるが、ぼくはこの詩を伊東静雄の同じく戦後に出した「反響」所載の「夏の終り」や、 蔵原伸二郎晩年の絶唱「風の中で歌う空っぽの子守歌」といふ詩といつも重ね合はせて考へてしまふのである。それらの詩を心の中で朗誦してゐると、 何か湛へられた大きな運命の質量のやうなものを感じるのだ。詩人達にとってそれはつまり不可避な戦争に翻弄された青春の日々であった訳だが、それが嵐のやうに去った後、 刻印といふより風に吹かれる喪失感として表されてゐるのをまざまざと感ずる。

   夏の終り

                                     伊東静雄

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空を流れてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳は
…さよなら…さやうなら…
…さよなら…さやうなら…
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
…さよなら…さやうなら…
…さよなら…さやうなら…
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる

                 「詩集反響」(昭和22年)より

  風の中で歌う空っぽの子守歌

                 蔵原伸二郎

今日は日曜日
田舎の小学校の庭には
ひっそりしている
窓々に子供たちの
明かるい顔も見えない

ふく風の中で
お前はおじいちゃんの腕に抱かれている
お前の祖父は干乾びた山椒魚のようだ
二つの腕の間を風ばかりが吹き過ぎてゆく

万里子よ
お前は風の中ですやすやと眠っている
お前の頬には
樹蔭のみどりと薔薇色がゆれている
千の光がお前のあどけない唇で唄っている
乳の匂いのするお前のやわらかい肢体は
虚無に浮いている地球と同じ重さただ

かずかぎりないおじいさんたちが
しわがれ声で唄って消え去ったように
このあやめの花咲くしずかな校庭で
おれもしわがれた声で唄うよ 万里子

 ねんねんよ
 ねんねんよ

おまえのおじいちゃんには
もう何の夢もない
もう何の願いもない
すべてが失敗と悔恨の歴史だ

かわいい万里子ちゃんよ
ほらね いま永遠がとおりすぎるよ
どこかで かすかな水の音がきこえる
どこか遠いところで牛が鳴いている

                 「詩集岩魚」(昭和39年)より

 詩人達の青春は終に「徒労」であったのか。上りつめた高みから突き落とされた彼等は、しかしどん底において「肝に銘じた」訳ではなく、ひたすら「流れた」のであった。 けれどこの流れ出た優しさの何といふ「言ひ訳のない自分」に溢れてゐることだ。彼等の詩作を代表するものは勿論、戦前の不穏な時代に成った数々の「面構へを持った名作」ではあらう。 けれどもこの三つの詩は三者それぞれの個性を一番生のままに表してをり、敢へて言へば肩の力を抜いた詩の「立ち姿」は抒情詩の究極の「あり方」を示してゐる。 ちなみに伊東静雄には同じ「夏の終」なる戦中の作品もあるが、そちらの方では実際に「壮大なもの」が予覚され、嵐の前の静けさなのであろうか、接近する低気圧にむづかり全てが厭になった詩人が、 開戦の讖をなすやうな預言的、終末的な言辞を連ねてをり、これら後作への伏線となってゐることが風味深い。
 さてここではもう一つ、友人への想ひの表し方についてを見てみたい、これも独特のものだ。伊東静雄を再び引き合ひに出して何だが、 「若死をするほどの者は、自分のことだけしか考へないのだ」といふ一節が有名な「若死」といふ詩、これと先ほどの「哀歌」を見比べてみたい。二者通じて言へることは、 自分が怒って見せること、それが悼むべき対称にぶつけられる時に、詩人にはその思惑とは関係なく、神への「甘へ」が、 その結果、何がしかの天罰よ下るものならば下れと身構へる偽悪的な預言者の面影さへが窺はれるといふことだ。詩人の個性としては、この恨みがましい「甘へ」は伊東静雄が得意とし、 後者の「言挙げ」の姿勢は田中克己の方が強いと言へばへば言へるだらうか。作品「大陸遠望」の一種悪魔的な終連はその極点を示すものであり、 そこに表れた金色に輝く幻想の中に詩人自身のロマンのありたけを託すことによって、彼はかつてへルダーリーンが理念として描いてゐたやうな、 歴史を指し示す者としての「詩人」の称号を自らに冠し得たとも言へたのである。
 また別の見方をするならば、他人をくさしたり自分を悪者にすることで相手を持ち上げようとするのは、大阪人ならば誰でも持ち合はせてゐる親愛を表す流儀でもあるわけで、 この、伝統が飽和した機内文化圏の人間だけが持ち得る心情の丁解方法を、ドイツロマン派の文学手法としての「イロニー」、あるいは富士谷御杖が好んで使った「倒言」といった文藝学の概念に絡び付けることに着眼し、 またそれを己れの文化の出自の誇りと共に言挙げしてきた「コギト」の文学精神は、「殺し文句」によるイロニックな上方の「人情文学」なのだと思ふし、 東京が発信する「四季」のスマートな「外づらのよい文学」とは、大層人当りの異なったものであることも分かるのである。
 さて、大阪に住み、良心に即した散文で、このやうに誤解されやすい「コギト」の詩精神を最も弁護した同人こそ本詩「哀歌」で悼まれてゐる中島栄次郎ではなかったか。 この度死後半世紀の後に、遺族と昔の仲間らの尽力によって彼の遺作評論集が刊行された。自ら痛みを感じ文学のリアリティーに肉薄しようとした彼の評論は、 専門を離れる程に闇達な語り口となって、地味ではあるが、誠実真壁な人柄とともに哲学的な正確なアプローチが冴えを見せ、将に木刀を正面に構へて見切ってくる剣士のやうな潔さを感じさせる。 先生は彼を生涯一等の親友であると公言して憚らなかったが良く分かることだ。先生のアルバムの最初には大きく引き伸ばした中島さんの写真が貼つてあったが、 彼が戦死しなかったら「コギト」の評価はどうなってゐたであらう。少なくとも「哀歌」などといふ詩が出来ずに済んだことだけは確かなのであるが。

                       ★

  (田中先生の詩の中から好きな一篇)といふことで「哀歌」といふ戦後の作品を挙げた。
優しさを一番感じる作品を探してさうなったが、「胸の中でいつも繰り返される作品」といふことでは京都の舟山逸子さんからは第四次「四季」創刊号に載った「近況」といふ詩のことをお便り頂いた。 詩集「悲歌」以後の先生の作品は、キリスト者の信仰の詩となって詩集「神聖な約束」にも収められてゐる。シニカルな視点が、もはや著者の批判精神ではなく、 生地の性格として透明感あるものに表されてゐろことに清廉を感じる。
そこには年と共に枯淡の境地を展いた詩人の厭世的な死生感が、ユーモアさへ伴ひ存在してゐるやうに思はれる。その若年の日の激しい発現を、例へば近江時代の知人である天野忠は、 詩集「神軍」所載の「Mortality」といふ詩に見出し、絢爛な墨絵を描く若年寄詩人の代表作であると賞揚した。 またぼくの敬愛する詩人木下夕爾も戦後になって同じ「神軍」所載の「恥辱」といふ詩に触れて書いてゐる。著者や詩集の名を忘れたと伏して記すところが、またこの人一流の含差だ。 いづれにせよ物々しい名の戦争詩集から良い詩を選び抜くことのできる二人のこだはりのないセンスが嬉しい。
 さて「厭世」であったり「鬱屈」であったりと、その詩を特徴付けるに内容をもってすれば、およそ現代日本にはそぐひさうもない特色が挙げられるのであるが、 詩人の個性を最も際立たせてゐるのは(当時の抒情詩人達の多くに共通することであるけれど)詩の「内容」ではなく、その「面構へ」なのである。
 とは云っても例へば四季派の寵児である立原道造は、蜂鳥を日干しにする「早春」といふ詩に瞠目し、うろたへた末に拒絶した訳だ(とぼくは思ふ)。同じ「強面」の表情を、 かたや「コギト派」生へ抜きで立原と同年輩詩人であった増田晃は「鰹」の詩において絶賛してをり、彼が立原道造より四年長く生き、 そして戦死したことを考へ合はせれば「不穏な時代に成った数々の面構へを持った名作」と先にぼくが書いたこと、それらを巡って時代の詩人達の受け取り方も、 様々に強ひられてきた時代と共にあることが分かるやうな気がする。例へば保田與重郎が詩人の出現を「文学史的な感銘」と形容した意味が、 当時を生きてゐなかったほくにも転換期の歴史の強面な表情を察することで十分に理解されるのである。それならば今日の日に、 ぼくは田中先生の若き日の作品から一体どんな詩を如何なる意味合ひにおいて採るのか。
 先生が亡くなった時、駆け付け御自宅で長男の史氏から、会葬で配る先生の略歴に何か一篇「詩」を載せたいが何が良いものか意見を求められたことがあった。 印刷行数の問題もあり長いものは無理であったが、時が時であるのを承知の上で、結局ぼくは「寒鳥」といふ「詩集西康省」中の一篇を推したのだった。

  寒鳥

杳かに道を来てふりかへると
雲際をさまざまな旗たてて行列が逝った
わしは山や谷に分けいり
懸崖に菊の花を見たが
菊は眼前に瞠き 懸崖は
掌の指のやうに裂けて見せた
わしは声を出してほうと喚び
一声のあとは幾声も出た

            「詩集西康省」より

「一声のあとは幾声も出た」といふ一行が詩の眼目、ミソである。このやうな一行が出るか出ないかといふ所に詩の良し悪しを見出し、 まるで刀の切れ味を吟味するやうに目を細めて端座する詩人がゐる。清廉な性情に基づいた発露としてここに倫理の影の一片もないことをぼくは戦時下に成ったものであることと関係なく得難いことと感ずるのである。 伊東静雄が苦吟の果てに搾り出した思想的な風格のある絶唱とは一寸肌合ひが違ふし、同じ「強面」でも「射殺」などいふ言葉を飛び道具のやうに連射した戦後の思想詩人とは拠って立つ場所が丸きり違ふ。 それは詩人の眼にとらはれた菊花のけざやかさが、感覚でもつてぼくらに教へてくれることだ。例へばここに天皇制の象徴としての「菊」を見、「行列」に死出の旅へ赴く軍隊を重ねてみてどうなる訳でもない。 ここには「反語」や「あてこすり」もないだらうし、ぼくが先生の葬儀に際して「行列」といふ言葉に託した気持も同じなのであった。一羽の鳥となった詩人の魂に開かれた展望の風景は、 葬儀に参列された方々の心に、キリスト者として神に召された先生とは別の、孤独を自らの宿命と定めてきた「詩人の業」を想はせたかもしれない。 「詩人」と云ひ、その「業」といふのも、さういふ表現を含めて、あくまでも文学上のことではあらう。けれどもその時、ぼくには文学上に味はふ筈の悲しみが一人の生身の人間を喪った悲しみを浄化しながら、 自らにも受け継がれて行く生活上のものとして大切な遺産となったやうな気持がした。この「悲しみ」を受け継ぐといふことは一体どういふことであるのか。先生は、 何度も云ふやうに現代の詩人とは没交渉である上、戦争時代を書いたことで今も白い眼でみられてゐる「抹殺された詩人」である。生前笑ひながらよく、 「大変な先生についたものだねえ」と仰言った言葉は、しかしぼくに当っては自らを侍むべき心強い響きとなって憶ひ返されることとなったのだった。

このみちを泣きつつわれのゆきしこと  わが忘れなばたれかしるらむ

 この歌を再び出すまでもなく、田中克己は謂はば出発の時点で終焉の地点を歌ひ切ってしまった「預言と宿命の詩人」なのであらう。 昭和五年の日記に同じく記された一首がかう復唱する。

たれをかも恨むにあらむこのみちを  いつよりわれはなきそめてこし

付記(この稿1993年4月より1994年10月に成る) 2012.01.09update


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