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田中克己日記 1959


【昭和34年】

 めでたく成城大学の専任が決まり、新年度が始まる前に、そして年末と、この年は懐かしの関西へ二度も帰ることを得た詩人ですが、夫婦の危機はひとまず回避したとはいふものの、“八木さん”の名が話題にあがるたび、悠紀子夫人は当てつけに讃美歌を歌ひ始め、詩人が癇癪を起すといふ夫婦喧嘩には、部外者は失笑してしまふかもしれません。

「帰れば八木嬢より礼のハガキ。悠紀子讃美歌うたひ、わが咎むまで止めず。」(4月11日)

しかし、

「林dr.(※林富士馬)にゆかしめんとすれば「あなたこそゆけ」と。突如腹立ちて鋏でなぐり負傷せしむ。(5月25日)」

 などいふ刃傷沙汰に至っては、もはや穏やかとはいへません。3月には「礼状」が届いてゐますし、11月の下阪時には、明治天皇陵を先づ参拝してゐます。ここは十年前の文化の日(明治節)に、進退窮まった詩人が参拝し、

「くやしさにおほみささぎにこゑあげて泣きしをのこをきみは忘れじ。」(昭和24年11月3日)

 と慟哭した場所でした。確かに日記には名はみえないですが、果たして会ってゐたのかゐなかったのか本当のところはよくわからないのです。年末には、

「とく来ませよきひと来ませはしけやし死ぬほどおもふこひびときませ」(12月7日)

 なんて、誰のことかわからぬ意味深な歌も記されてゐます。日付には「ⴵ」なる印がありますが、一体どんな意味があるのでしょう。

 身の周りにあっても、不倫相手との恋愛相談に乗ってやった卒業生は、念願の結婚を果たしたものの、姑と衝突して早くも雲行きが怪しく、旧友から上京した息子の見合話を頼まれ世話してやれば、「聞いてた美智子様みたいな美人じゃない」と断られ、実はすでに他に恋愛中だったらしく恥をかく。家族への言及ほか、日記中のプライバシーに係はる記述については“八木さん”以外にも、今日存命の関係者に配慮して、文学と関係ないところは伏せたり省略したりしなければならなくなって参りました。

 ただし日頃から使ひ走りをさせたり、素気なくあしらってゐた長男、史さんの就職活動については、企業や役所に同窓を尋ね歩き、外野で気をもむ見たことのない様子が印象的で、就職が大蔵省に決まったことに憮然たる様子を装ふものの、さすがに嬉しかったのでしょう、出世街道を歩む同窓知己に報せて廻るさまには、やはり身内の得意を誇る父親の姿が窺はれ、そのまま残すことにいたしました。

 年末に催された旧友との忘年会はさぞ楽しかったことでしょう。これまでは奢られるのが当たり前だった詩人ですが、割り勘にされなかったことを気にかけ、年明けて残金を律義に返してゐるところなど、経済的なプライドにも変化がみられるやうになります。
 夫人の“佯狂”も、日記に彼女の名が記されなくなる夏以降おさまります。自慢の息子の就職や、狭すぎるアパートからの引越計画によって、このたびは紛れていったやうです。
 さて、この年の興味深い記事としては、上京中の保田與重郎との久しぶりの再会が挙げられます。大泉学園の五味康祐邸に滞在してゐた保田氏ですが、体調思はしくなく、そのまま千駄木の日本医大病院に入院し、胃の手術を受けることになります。

 知遇の医師達を巡り珍しく保田與重郎のことを心配する田中克己ですが、林富士馬の病院では自分自身が度々栄養剤を注射してもらってをり、小高根太郎にはこのさき宿痾となる鬱症状を初めて吐露するなど、無理が利かなくなった体に更年期の症状が現れはじめてゐます。
 とかく人間の悲観的宿命(メメント・モリ)を語りたがる詩人ですが、気にしてゐた胃痛が実は盲腸だったことがわかり、年明け早々遺書めいたことを日記に記し、自らもまた人生初の手術を受けなければならなくなるのでした。

 保田與重郎は無事本復して京都鳴滝に新築した「身余堂」へと帰ります。しかしどんな事情があったのか再び上京して、今度は荻窪の山川京子邸に居候を続けます。

 兄妹誌ともいふべき『風日』『桃』の歌誌をそれぞれ西と東で主宰する二人ですが、どこにあっても昼夜逆転生活をくずさぬ保田氏の夜話に、連日応対してゐる娘の健康を気遣った母堂がたまりかねて苦言を呈したといふ逸話が伝はってゐます。

 また保田氏を訪ねて来た田中克己がこぼす「死んだ方がまし」といふ口癖を、夫山川弘至を戦争で亡くした京子氏が聞き咎め「そんなら死になさい」と言ひ放った逸話も、これは京子氏御本人から伺ひましたがこの時のことでしょう。

新学社へ電話すれば高鳥専務(!)出て、山川宅の保田に電話して返事くれると。やがてかかりて「来よ」といふに、山川京子に電話して道きき荻窪へゆき、都電天沼の南の山川宅へゆく。やがて帰りし山川女史に腹立てて出、(12月14日)

 山川邸は東京の住宅密集地区の中に奇蹟的に当時のままの姿で現存してゐます。このたび日記中に当時の消息が確認されたことに、荻窪までお悔やみに伺った時のことを回想し、感慨を新たにしました。

 京都の親友、羽田明はこの年、中東への旅行を計画。ために音信は少なくなってゐますが、11月には無事帰還してゐます。また彦根時代の詩友で、気にかけてゐた円満寺住職の小林英俊が5月13日に病歿し、藤野一雄氏から訃報を受け取ってゐます。
 そして農業だけでは立ち行かず、病院の事務職にありついた肥下恒夫ですが、澤村修治氏による評伝『悲傷の追想』および『敗戦日本と浪曼派の態度』のなかで明らかにされたやうに、前年の9月、肥下氏は経営姿勢に義憤を感じた病院を辞めて、再度の帰農・清貧生活のうちにありました。前年まで(賀状以外)まったくの没交渉だった田中克己ですが、そのことを坪井明より聞かされると、このたびの下阪時には二度とも自宅を訪ひ、旧交を復活させてゐます。おなじく薄井敏夫や杉浦正一郎の遺族のことも気遣ってをり、身分の安定によって人心地がついた詩人には、再び友人へ心配りもできるやうになったやうです。

 この年は東海地区を犠牲者五千人を出した伊勢湾台風が襲った年ですが、東京は無傷でした。

 名古屋には大阪高校の同窓で水産卸売会社の重役、畠山六右衛門氏が居ました。住居は床上浸水したものの、京都時代の畠山家に家庭教師で通ってゐた史さんによって、無事が確認されてゐます。

 また岐阜には保田與重郎を師に仰ぐ詩歌の後輩岩崎昭弥が居ましたが無事。大災害の前には、田中克己の序文を戴いた詩集『墓碑銘』を「果樹園叢書」の一冊として出版してゐました(4月)。
 彼は『果樹園』『風日』のほか、岐阜の詩誌『詩宴』の同人にもなってゐましたから、その関係で印刷は平光善久が携ってゐます。京都時代の山崎実治といひ、印刷には岐阜人と縁があるものですね。
 戦歿した兄に成り代はり、インパール作戦の惨状を歌ったこの『墓碑銘』ですが、詩集にしては珍しく日を経ず再版が出されてゐます。おそらく刊行直後、市会議員選挙に出馬した彼が、トップ当選を果たしたからではないでしょうか(5月)。

 有卦に入った岩崎氏は、このあと社会党の代議士への道を歩みはじめます。保田與重郎と社会党との取合せは不思議にも感じられますが、肉親を戦争で喪った岩崎氏の思想信条には、保田氏が戦後唱へた「絶対平和論」が、戦後左翼が掲げた理想主義にも重ねられ深く共鳴されたものと思はれます。

 当時の岩崎氏は、岐阜市の土木部建築課で工事設計・管理に携はり、また市職員労組の委員長職にありました。私が東京を引き上げる際、岐阜市の自邸をお訪ねした平成4年には、すでに議員も退かれ、余生を養ってをられましたが、思へば間近に住んで居られたのだから、もっと厚かましく当時の思ひ出話を聞いておけばよかったと、今にして悔やまれます。応接間の壁面に『保田與重郎全集』45冊が整然と並んでゐたことが思ひ起されます。

 ことほど左様に昭和30年代も半ばともなれば、高度経済成長を控へた日本の政治は様変はりをはじめますが、学芸の世界でも、岩崎氏に限らず、たとへば田中克己のやうな非政治的詩人の身の上にも、その影響を直接及ぼしてゐたやうなこともありました。

 それは詩人が前年の昭和33年11月18日に「田中忠雄氏より」招かれ、12月17日に赴いた「田村氏とて戦中満洲にありし人の主催」といふ「三水会」のこと。――これが、当時できたばかりの「宏池会」で“毎月第三水曜日”に催されてゐた勉強会だったらしいのです。
 「田村氏」とは宏池会事務局長、田村敏雄氏のこと。「短波放送会館6階池田事務所」とは、すなはち総理大臣に就任する直前の、当時第2次岸内閣で国務大臣を務めてゐた池田隼人の事務所です。帰りに「宏池会との袋入りの3,000」を渡された、とのことですが、以後、浅野晃氏や東洋大学を逐はれた齋藤晌氏ら学者達に交って講演を聞き、時には講師を務めてもゐたやうです。

 長男の史さんが官庁に就職する際、最初に内定を出してくれた農林省から大蔵省に引き抜かれたのも、詩人が田村敏雄と知り合ったことが力となって働いたのではないでしょうか。而して上京してゐた保田與重郎などは、呼ばれても行くそぶりをみせながら行かなかったのは、その面目の躍如と言へるのではないでしょうか。

 風変りなエピソードとしては、歌誌『日本歌人』の服部三樹子氏が、突如“霊媒師”となり“萩原朔太郎の霊”を下して一同を驚かしたといふ条りがあります。のちに詩集『神聖な約束』に収めた詩篇「萩原朔太郎」でも紹介されてゐますが笑はせます。浅野晃氏の求めに『萩原朔太郎全集』の写真を見せたところ戦慄し、「朔太郎は地獄にあって苦しんで居る」と報告したのだとか(笑)。

 その朔太郎といへば、長女葉子氏によるデビュー作『父・萩原朔太郎』が刊行され好評を博したのもこの年。田中克己も出版記念会の席に呼ばれ、かつての『四季』同人たちが一堂に会した久しぶりの場に列席しましたが、めでたいことで集まるのはこれが最後ではなかったでしょうか。その時の写真が遺されてゐます。

 いったいに、大学での講義の在り様も、現在と余り変らなく感じられるやうになるのも昭和30年代のこのあたりから。文学部では『日本浪曼派』や『四季』を研究対象とする学者や、卒論のテーマに選ぶ大学生も現はれはじめます。

 『日本浪曼派の運動(三枝康高)』といふ新刊本をみつけて買ったり、中原中也や太宰治のことを訪ねて来る学生に対しては、知り得る情報を与へたりしてゐる詩人ですが、自分たちのやってきた文学運動が、客観的に(かつ批判的に)大学で論じられる研究対象に変じてきたことを、次第に身に感じ始めた筈です。

 自分の詩を英訳紹介したいと突然コンタクトを求めてきたLeon Zolbrod氏のごときアメリカ人研究者のことも、かつて“鬼畜米英”を唱へてゐた詩人にして、隔世の感慨も一入だったことでしょう。

 一方では盛んに学術論文を書き、学界に示してはみるものの、新時代に元気なしと東洋学界全体の凋落を嘆く声も世間から上がってをり(気になったのでしょう、記事が貼りつけられてゐます)、恩師の和田清も倒れ、まさに時代の変転を、自ら晩年にさしかかりつつある戸惑ひとともに実感する詩人なのでありました。


昭和34年1月1日〜昭和34年3月19日 「東京日記 4」 本冊画像PDF
25.5cm×18.0cm 横掛ノートに横書き

p1

1月1日
9:00起きる。河出書房より(10,000−1,500)8,800円、1月5日わたしの書留。
八木よし子氏より速達にて「岡田温氏より宇都宮大学に推薦せんと云はれしもことはらんか」と。
午后賀状157枚(親戚知友)+136枚(教へ子)来る。
小畑信良閣下、藤井通雄、白井三郎、加藤和子(岡本)、三田村泰助、山本文雄、服部正己、佐中壮、横田俊一、里井彦七郎、高田かよ子(池元)、筒井護郎、田辺東司、鎌田正美、岩橋節子、岡部長章、饗庭源吾、沢井幸樹、田中禎子、細川清、横田利平、島居清、山口広、西寛治、木村三千子、福地邦樹、北野徳治、宮本正都へ賀状かく。
田中正平よりの賀電、平野家(※2階住人)へ入りしと。16:00雪の中出て畑山家。高橋教諭あいてにくだ巻き、鮭もらひて出、藤田亮策先生を18:00訪ひまゐらせ、年頭の辞申上ぐ。「通訳Gûlumalûn」よみ下さり『川路聖謨日記』よみたくなる様はなさる。
20:00大野家訪ひ、父母あひ手に「成城大学を第2次に受けさすべし」といふ。昌子生不服げなりし。成田の羊羹と月桂冠1本もらひ、雪の中を帰宅。
小松保博、山下幸男、原口恒美、羽倉裕景、堀内民一、橋本俊子、沢井孝子郎、美堂正義、田中修、板原哲夫、井上文夫、公平洋子、眞野喜惣治、高野勝美夫妻、増田春恵、萩原葉子、吉岡武雄、渡辺道夫、林俊郎夫妻、糸屋鎌吉、伊藤佐喜雄、岩佐東一郎に賀状。

1月2日
晴。積雪。鈴木文平、天川勇司、加賀山秀夫、丹波道久、橋本貫一、高橋一好、亀井昇、と浪中7生へ賀状。千葉、鳥山、船木、小室、高橋、三浦と東洋大学関係6枚。田中忠雄、田中洋子、鈴木亨、島稔、河野岑夫、天野忠。けふの賀状13枚。他に硲晃氏より受取。
聖心女子大より土曜落成式と。芳野清氏、角砂糖もち年賀に来たまふ。池内一氏(※池内宏子息)よりお盆を返しにたまふ。風呂へゆけば14:00までなりし。
夜、また悠紀子逆戻りして「この間八木さん怖い目せし」と教へくれし!

1月3日
晴。依子日直出勤。朝湯に11:30ゆく。賀状29枚。中に赤星結婚せしが来あり。京大より授業料1月20日までに支払へと。
14:00出てトロリーバスにて池袋をへて、原田淑人先生に御挨拶に参る。「年末胃病に罹られしも、もはや宜し」と藤田先生に伺ひし也。玄関にて御挨拶すまし悒々と新大久保へ出て帰宅。
賀状ハガキ数枚のみとなり帝塚山関係をみな残すもハガキ売切れと也。依子21:00帰宅。寒し。帝塚山短大の賀状を分類す。T-1(梅田)U-21。

1月4日(日)
雨。京、地域会にとゆく。賀状15枚。中に小林英俊自筆の返しあり。『果樹園』36号。小高根二郎君も服部氏に卦見てもらひしと。
池内一氏に賀状と礼状とかねし手紙かき、14:00依子を留守番に高円寺。柏井昇宅に、お玉叔母を見舞ふ。林医院とて義兄と。その裏なり。televiを見つつ挨拶すませ、われのみ出て丸を訪ひ、挨拶と報告とをすませ、重俊君つれて古本屋。都丸にて『戴冠詩人の御一人者(120)』買ひて与へ、我は『唐宋伝奇集(30)』。また先の古本屋にて竹越与三郎『南国記(50)』買ひ、駅にて別れ、池袋よりbusにて帰宅。悠紀子ら22:30帰り来る。

1月5日
晴。賀状22枚。午后昼寐しゐれば堀口太平氏来訪。葡萄酒1瓶をたまふ。牧章造君、北海道にあり。同人雑誌4冊に関係し、もとより入れずと。詩に誤植あり意味不明と。
夜、帝塚山3回7枚。4回11枚に賀状の返事。

1月6日
晴。賀状11枚。『民間伝承23-1』。12:30家を出て巣鴨をへて神保町。第一銀行支店にて8,500引き出し、都民銀行のぞけば加藤君不在。河出書房にゆき佐藤氏に受取わたし、きけば『西洋史物語』売行き良しと。涌井千恵子への送本たのみ、筑摩へゆけば「編集部会議中」と。山本夏津子へ『現代詩集』の送本たのみ(『文芸』堀辰雄読本40)、『台湾南西諸島水路誌(100)』、『日本民族生成論(150)』買ひてお茶の水駅より飯田橋。
角川書店にゆき大村君呼び、『立原道造全集2,4(800×2×0.8)』買ひ、高円寺にて一昨日見つけし『白頭山登行(200)』買ひ、赤川(※赤川草夫)夫人の「赤ちゃん」にてHigh-ballのみ(100)池袋。
松本善海に電話すれば「研究所」と。林dr.(※林富士馬)に電話すれば「榊山潤氏にゆく」と云ふにtaxiにのりてゆき、榊山邸へ同行。天丼よばれ20:00出て都電にて帰宅。
鈴木幸太郎生来りてport-wine2本くれしと。中野清見(※大高同窓)より「□□君(※息子)世田谷にあり」と。賀状8枚。

p2

1月7日 晴。寒し。帝塚山短大5回生16枚の返事。2部2回生(清水文子の組)6枚同。鈴木幸太郎へ礼状。
2部3回(?伊東まきのクラス)5枚に返事。6回卒業生37枚。
けふ朝昼とも〒なし。悠紀子に紙入れを買ってもらひし。夜、寒き中を大野家へゆけば数学の教師をり、きけば「19:50と約束したり」と。やめて帰る。

1月8日
晴。よべ2:00までねられず、鎮静剤とport-wineとのみしため、めまひせしも防大へ出講。麓教授に挨拶す(平田俊春氏とも話す)。bus代30日に上りたり。帰れば山本達郎教授より『岩波十辞典東洋史』賜はる。服部女史より「申込3件ありし」と。
史より「父の喜寿の祝せよ」と。(けふ麓氏より『寒泉書屋箚記』賜はり原田、和田、青山諸教授の分も托さる)。

1月9日
曇。寒し。帝塚山短大7回15枚の賀状に返事。中河与一氏より「11日15:30よりのラマンチャ新年会に出よ」と。大森倖二氏の賀状。今市佐恵夫人より「また高槻に戻った」と。
12:10聖心女子大にゆきしに青山教授見えず。「海老沢教授の父君の葬儀11日14:00」と掲示あり。和田先生も見えず。史学groupの会ありと助野助教授に誘はれて出れば、長 寿吉、中山謙二、内藤智秀などの老教授出席。17:00中座して帰宅。
夕食すませば依子帰り来り「西川より電話かかりし」と。やがて渡辺藤男氏来訪。「王子英語学校の火木土の高2の講義を」と。早川敏一君を推薦し連絡とることとし、西川に電話して報告す。

1月10日
晴。眩暈す。安田(岸)明子夫人より「2月19、26日いづれにてもよし。横浜駅西口で待つ故、時間しらせ」と。服部英次郎、矢本貞幹2教授より賀状の返事。われ帝塚山短大6回の半ばをあます。
正午、早川君へ速達。山本達郎教授に礼状。午后、賀状みなすむ。安田章生氏より「池田市野町に移りし」と。涌井千恵子より「大阪商工会議所にほぼ きまりし」と。
夜、大野家へゆき、すみて鈴木生の母来り、「北高やめ向ヶ丘高校を受け、他に独協、京北受けさしてよし」と。タバコ呉る。帰途この間の屋台にゆき1本飲む。代とらず。

p2

1月11日(日)
晴。母より2月の喜寿に「借金しても夫婦して来よ」と。家本美枝子(篠崎夫人)より賀状!
午后、京をつれて畑山氏にゆけば、在上海30年なりしといふ岩田氏なる老人来訪中。放談し最中もらひて帰宅。
母の手紙思ひ出せば不快なり。(中河邸のラマンチャの会に欠席電話すれば萩原葉子氏出らる)。
夜、八木さんへ報告。

1月12日
速達来ぬゆゑ8:20家を出て成城。早川敏一君訪へば「返事せし(速達でなかりしこと帰宅後わかる)。西川とは日曜来客ありしゆゑ連絡せざりし。承知した」と。
大学へゆき漢文教へてのち王子英語学校へ電話し、川久保よりの電話きけば「6日より上京中、明日池袋で会はん」と。
昼食して809番地の神田信夫教授訪へば中河与一先生のすぐ近所。「和田先生お悪くなし」と。「通訳Gûlumalûn」抜刷、石橋秀雄君への分を托して帰校。文化史すましてまっすぐ帰宅。
けふ悠紀子、大に電話すればそこにも母の(※寿宴催促の)手紙ゆきし、「近々会って相談せん」となりしと。

1月13日
11:40出て立教大学。手塚教授に会ひ「講義内容届け」ときき(中川講師「台北高校にて上原君と同級、松村氏に終戦後同居せし」と)、教務課へゆけば、すみをるらし。
駅前にて春夫詩集買ひ(140)、成城大学。伊達学生部長に会へば加藤定雄君に似てゐし。中国文学史やり、松村達雄君待ち、大に電話し、金曜に会ふこととす。松村君に茶おごられ、池袋にゆけば、川久保待ちをり、松本善海やがて来る。茶のみしのみにてすぐ別る。
けふ早川敏一君来しと。山根忠雄君より賀状!
夜、大野知子来りて「明日の課業を明後日の19:30にしてくれ」と。

1月14日
晴。11:00王子中の山口広先生訪ね『天壇』返却。弓子の進学相談すれば「成徳はZonte(※不詳)あり十文字高校もいかに」と云はる。
12:00帰宅。筑摩書房より『現代詩集』の買上票。午后、青木弥与子よりまた賀状。入浴。(『心の花』700号買ふ。100)

1月15日
成年の日。晴。依子家居。小山正孝君より「神田へ来たら寄れ」と。白鳥夫人より賀状再送。『詩人連邦2月号』。
正午。賀状の抽籤。5等に河野岑夫、難波逸夫、横田俊一、川勝正一、久田(原田)早苗、徳永ユリ、前田隆一、小松保博、加賀山秀夫、池田勉、小谷恵子の諸氏よりの11枚。
午后、散髪にゆき19:20家を出て岡部長章君に電話すれば不在。大野家へゆき今後火土ときむ。昌子、保母学院を受け、日本女子大家政学部児童科受くと。母君来り、出来心かいなかにて激しくいふ。帰り岡部家へまた電話せしも未だ帰らず。(南極の樺太犬2匹生存に喜ぶ。)

1月16日
晴。早川敏一氏より「学術会議に就職きまりし故云々」。大平(小松)保より無名のハガキは広瀬公生と。坪井明より「富田林に移りし」と。西川より第2回とくり会の写真。聖心女子大へゆけば海老沢氏をり、病気にて式に出られざりしとことはる。和田先生お越しになり、この間学校はじまりゐるをご存じなかりしと。
2時間すませ御一緒して渋谷。大に電話かけて呼び喫茶、「(※帰郷して義母喜寿の宴に)ゆけず」と云へば不可なる顔をせし。三好達治氏ゆきつけの鮨屋のぞきしも居らずとて別る。
帰りて夕食すませれば坂根千鶴子来り、「中千枝子、縁談きまりし」と。やがて岡部長章君来り、「いまのところ返事出来ず、2月初まで待て」と。「和田先生、鈴木俊氏にたのめ」とわれ云ひ、23:00まへ帰りゆく。

1月17日
晴。成城大学。中国文学了へ、図書館へゆき今井(※富士雄)、新城2氏と話す。短大1年の漢文なくなりしこと坂本主事にゆきてわかり、学部はわからず。
ラーメン食ひて2氏と別れ、祖師谷の青山氏にゆけば不在。栗山部長に会へば「心配いらず」と。「『果樹園』伊東静雄号にたのまれゐる」と。出て下北沢下車してのち帰宅。
松本(一秀?)より「18ヒツバメ7ゴウシャニテヒル4ジ30キチツクハナシアリエキマエデタノム」と電報。八木さんより悠紀子に贈物の礼。「宇都宮だめらし」と。
岩田生より「10日父に話して許された。3月11日の式に仲人を」と。
『薔薇』に詩を月末までと。夜、大野家へゆく。(楳垣実教授より『Stories of Children』贈らる。帝塚山学院の刊行にして300部限定なり)。

1月18日(日)
曇。森亮氏より「ユリイカの白詩出版旨くゆかず」と。東順子より「3月24日結婚」と。岩田生へ祝状。
16:30東京駅へ「つばめ」迎へにゆき、松本一秀に案内されて銀座の肉屋「松坂」にてすき焼よばれる。「日本生命の常務の嬢を帝塚山に紹介せよ」と也。西川に電話すればgolf。史の就職骨折りくれると也。
19:00東京駅より倭周蔵に電話せしめて別る。

1月19日
晴。寒し。成城大学へゆく。今井氏、馬淵東一氏の講師招聘むつかしく、代り考へしと。高橋、富永2氏と同車にて帰る。富永氏「短大専任となりし」と。「伊藤佐喜雄26万円の損失にてbarやめし」と。
高橋氏にきけば「福永英二帰朝せし」と。
帰れば原氏よりまた仲人たのみ来る。岩田君の、母をにくむに困ると。(けふ名刺をあつらふ)

1月20日
晴。涌井千恵子より「本うけ取りし」と。『不二』来り、「正田美智子の皇太子妃決定に右翼憤りしも影山正治氏は賛成せし」と。
成城大学へゆき、松村君に会へば「けふは同行できず」と。青山氏にゆけば「岡部君来り、業績托しゆきし」と。平田俊春君の推すは伊勢仙太郎と。餅よばれ駅まで送られて18:30帰宅。
大野家へゆき帰りて入浴。(けふ成城大学の教務に試験2月の第2週にたのむ)。(賀状ハガキの5等賞切手4×11もらふ)。

1月21日
寒さややゆるむも、くしゃみ出て風邪。悠紀子も心悸するとて不快にて云ひ争ふ。
東順子へ祝状。楳垣教授に礼状かく。午后の便にて父より「死んでからは宜しき故、祝に来てくれ。史のことも相談する」と。不快。
林dr.に電話かけてゆけば斎田(斎田昭吉)兄弟も診てもらひに来をり、頓服もらひ注射打ってもらひ、三水会に電話すれば「あっ」と(※みなビックリする)。また薬もらひて出、地下鉄にて霞が関。Taxiにてゆけば18:00。
みなそろひ田村氏(田村敏雄:宏池会事務局長)のみ不在。夕食たまひ、米津三郎氏のソ連の話きく。(※田村氏が)池田勇人の幕僚なることはじめてわかりし。すみていつもの如く虎ノ門にて別れ、taxiにて新橋、22:00帰宅。頓服のむ。

1月22日
頓服またのみて出、防衛大学へmaskしてゆく。麓教授によばれ、手休みゆけば「阿南大将の息を後任にいかにと和田先生にきけ」と。「承知した」といひ、『古義堂文庫目録』贈りて出る。stoveの前にゐて寸時眠りし。16:05出てbusにて途中下車。古本屋にて『羽陵餘蟫(130)』、小野則秋『孫文(30)』、『李太白(60)』買ひ、中華そば食ひて帰宅。藤野君より『黄昏の歌(※小林英俊詩集)』また1冊、小林英俊のレントゲンの所見わるしと。加賀山秀夫より「帝塚山短大の服飾入学の斡旋せよ」と。

1月23日
暖しと。風邪を聖心女子大。青山氏つかまへ阿南氏のこといひ、和田先生より『達延汗(※ダヤン・ハーン)』いただき、教室へ出れば学生「休講せよ」と。
2時間待ちて和田先生に阿南氏のこと問ひまつりすれば「よし」と。
渋谷でお別れし、東横dept.で鰻丼食ひ、高田馬場の古本屋見て帰宅。山本夏津子より受取。けふ名刺出来上る(150)。防大より8,100(1月分)来る。

1月24日
晴。成城大学へ欠講の電話かける自民党峯総裁を再選。小島樹氏より「明治書院訪ねて来る」と。加賀山秀夫を西宮君に紹介す。悠紀子、京都(※義母宅)へは自らゆくといひ、われも賛成す!

1月25日(日)
悠紀子10:00林dr.へとゆく。太田陽子夫人より「2月15日にclass会する」と。藤野一雄君へ礼状。太田夫人へ返事。八木よし子へ手紙と『黄昏の歌』送り、畑山氏を訪へば本郷高校岩田氏訪問中。正月に会ひし岩田氏の令息にして「内山完造の言は半ばうそ」と。
悠紀子、林dr.の診察にては高血圧と。

1月26日
成城大学へ登校。宮本学長と話し、山崎匡輔前学長の久しぶりに来られしと話す。中野□□君より電話かかりしらし。salaryもらひ、高橋邦太郎、富永次郎2氏と新宿で喫茶。富永氏と都電にのりて神田。山本書店へゆき小便耐へられずなり公衆便所さがしにゆきてのち、蒲池歓一氏に寄り、夫人の働かさるを見る。これも高血圧と。蒲池氏「齋藤晌先生よりわがこときかれし」と。
山本にて『台湾外記研究(130)』『満族史論丛[叢](140)』『松牕雑録(50)』買ひてのち、駿河台の古本屋に寄り、『日露戦史2冊(120)』『楊貴妃(50)』買ひ、お茶の水より国電にて帰宅。
けふ明治書院より内河タケ子氏来訪。菓子1折たまひ、「指導資料」かけと(50枚。3月10日まで)。中川(力身)好子より「転居した」と。

1月27日
松本と西宮一民氏へのたより、とりちがへて松本を速達とし、西宮君を普通とす。くさりつつ登校。(朝、松本一秀の速達来り、女子学習院よりの浜田常務令嬢を家政科にとなりし也)。今井氏、大藤氏を専任にすとて栗山部長に会はす。
中国文学史けふにて打切りとし、丸の娘呼びて『日本刀(※アサヒ写真ブック?)』与へんとせしに持参せざることわかる。松村君さそひて下北沢。「Penguin」にゆき茶のみ、『日本唱歌集』買ひて別る。
19:30大野家へゆき鈴木生ややに出来るやうになりしを喜ぶ。「日大豊山高校を受ける」と。すみて鈴木君の母と語り、岡部君に電話して阿南君のこといへば怒る。けふ東順子より「同居なれど心配いらず」と。『薔薇』へ「病む妻」。中川好子夫人へハガキ。

1月28日
明治書院内河タケ子氏へ「承知した」と。山本嘉蔵氏より「春江夫人忌明け。病名は12月11日延髄球痲痺にて」と。「信江夫婦田辺市にあり」と。安田明子夫人へ「2月26日17:30横浜駅西口で会はん」と。
悠紀子、林dr.にゆき診察受け注射と薬たまひしと。久美子よりの「正平、試験の為訪へず」との手紙見て、15:30林dr.訪ねtobacco贈り「今後実費とりたまへ」と云ひ、増田晃の『詩集述志』借り、whiskyのみ注射と薬たまひて都電まで送らる。
大塚車庫前まで歩き、『雲の中を歩んではならない(50)』『日本の建国(120)』『中国革命史(50)』『国辱記(40)』『明治大帝(40)』と文芸春秋1月号(40)買ひて帰宅。

1月29日
防衛大学へゆき、麓教授のところにゆけば阿部教授も同在、阿南君のこと云へば「縁故なら定員を問題とせず。田中君の時はだめなりしに」と阿部教授云ふ。
雨降り、昼食時、中川事務官試験日の出勤をいふ。16:00すましbusまでは1便ぬけ、16:35出発。中央駅にて焼きそば食ひて帰宅。
河出書房より負債の2回目払?として209。『薔薇41』。

1月30日
西宮一民氏より「帝塚山の服飾30人しかとれざるも努力せん、文芸は最少」と。田中正平より「17日すぎ来る」と。住山重子より「山本は昨年3月やめたと。designerの森英恵氏(ひよしや主)に紹介できずや」と。
夜、渡辺道夫君来り、「村上夫人Indiaより帰り、村上ドイツ」と。畑山博氏に紹介状かく。

1月31日
寒し。悠紀子サンビ歌444(※「世のはじめさながらに」)うたひつづけ変なり。中国文学すませ(来週打切るといひ)、相馬大と友だちといふ鈴木(2C)と「七面鳥」へゆき、そば食ひ、来合せし川上恭正と3人にて「車」。鈴木生におごらる。「梅ヶ丘」下車。
増田晃君の母君房子氏に会ひ『述志』3冊もらふ。伊福部氏(※伊福部隆彦)「天皇の歌あるゆゑ、あまり頒つな」と云ひしと也。豪徳寺駅まで送られて帰宅。(巣鴨より新庚申塚まで歩く)
悠紀子あひかはらず444歌ひつづけ「高血圧の方が低血圧より宜しきゆゑ京都へゆきますよ!」と。気分わるくなり、大野家に電話して明日に延ばし入湯。

2月1日(日)
晴。悠紀子ねたままにて、ぶつぶつ云ふ依子炊事。林dr.へと出てゆく。
安田明子夫人より「26日17:30待つ」と。中島悦子より「basketの会をした」と。夜、大野家へゆく。

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2月2日
成城大学へゆく。短大1年の試験は17日2時限と。漢文すませ、西宮君に礼状速達し、漢文の試験問題作。文化史course女生2人のみ。図書館に中沢生ゐるを見(池田館長(※池田勉)に『果樹園』の原稿たのむ)、2生をさそひて「車」にゆく。
雨模様とて鈴木俊氏にゆけず。池袋で下車。手塚氏を図書館に呼出せば採点中。「19日(木)防大の帰り訪ひ参らす」といひ、1月分手当もらひ『唐代小説(100)』『支那語辞典(50)』買ひて帰宅。
松本より「浜田常務2月中旬上京、礼いふ」と。

2月3日
河出書房より2回分として9,000−1,350=7,650来る。12:00出て荻窪。busに乗れば皆大鹿卓氏の葬儀客。香奠1,000供 ふ。尾崎君受付にをり、中谷孝雄、外村繁2氏見当りし。拝礼すまし善福寺池をめぐって竹内好に寄れば不在。夫人と立話し(この間、大阪へゆきしと)、古本屋にて『Heine 2冊(1,200)』。
吉祥寺医院に森良雄訪へば盲腸手術中。隣の食堂にて紅茶のみて再び訪へば「次女多摩美術大図案科受けるも、つてなきや」と。
阿佐ヶ谷で丸の長男に電話し、高円寺駅へ呼出し喫茶して『日本刀』もつと云ふに、ともに出て都丸にて『木芙蓉(180)』『南支旅行(30)』買ひて帰宅。
夜、大野家へゆき帰途、屋台にて1本のむ。小高根二郎君と保田に増田晃『述志』包む。

2月4日
大鹿夫人より会葬礼。『果樹園37』。小島樹君よりハガキ。『Heine全集』検せしにReclam文庫より詩少なく悲観す。
午后の便にて教科書屋より返事せよと。無礼なり。悠紀子羽織を買ひにゆく。われ入浴。児玉敏子生より蜜柑1箱おくらる。

2月5日
防大へゆく。暖かけれどstoveの横にをり。帰り鎌倉にて途中下車。しるこ食ひ帰宅。腹具合あしく粥食ふ。
岩崎昭弥より「(※岐阜)市会議員選挙に出る。67万円損した。原稿送り返せ」と。藤野一雄、加賀山秀夫、住山重子、渡辺道夫より礼状。小高根二郎君より「伊東記念号にぜひ書け」と。
立教大学(山田君)より「木曜5、6時限とした」と。

2月6日
昨日より下痢、胃わるし。高崎の松本悦治氏よりの信、布施より回送。「大高にて講演ききし。伊東の教へ子にて云々」と、質問状に100同封。
東京大高clubより「14日(土)14:00総会」と。午后悠紀子、京と買物にゆく。
岩崎へ詩を返却(速達書留)、手紙もかく。松本氏へも『果樹園』送る。「会ひたし」と返事。
悠紀子、林dr.に礼し、胃の薬をもらひ来る。中山八郎氏より抜刷。

2月7日
下痢なほらず。午后、鍛治初江君より「15日の会に待つ」と。「ゆけず」と返事。松本悦治、池田勉、村松正俊の諸氏に『果樹園』。
夜、大野家へ電話して「あすにして呉れ」と云ひしあと、悠紀子「体の具合悪し」と大に電話し、京都ゆき止め(※義母へ)3,000祝に贈ることとし、21:00東京駅へとゆく。児玉敏子への礼状と『悲歌』。中山八郎氏へ「Gûlumalûn」包む。

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2月8日(日)
晴。悠紀子、依子みな体悪し。われ食欲さかんに起る。ひるすぎ京と梶原へゆき魚返善雄『文学の学び方(50)』買ひ来る。
『日本歌人』来る。わが「立原道造の系図」のす。夜、大野家へゆく。昌子生「高円寺の保田学校に入学許されし」と。吉川『詩経国風 下』買ひて帰宅。

2月9日
晴。「その一言」2枚かきて11:00速達にて『果樹園』に送る(売上180同封)。
悠紀子の林dr.に出しあと上田阿津子来り、父母の反対押し切って上京したし。職も探すと。俳優学校は池袋と。悠紀子帰るを待ち、ラーメン食はし、ともに池袋(松本一秀より電報アスツバメニテ上京と)。坂根生を呼出して会はし、職探しに再上京せよといひて別る。
帰れば高松直子より浜田常務の令嬢、守本氏に頼み、合格のしらせも受けたと(田中秀子よりハガキ来し)。
保田より嵯峨の新宅通知。鈴木、大野生来るとのことなりしも来ず。夜より雨。

2月10日
晴。悠紀子、大に電話かけしに用なし。「喜寿盛会にて全田叔母も来り、千草2、3日泊ることとなりし」と。15:00松本悦治氏より「近々来たし」とのハガキ見て、大野家へゆき昌子生に「今夜休むやもしれず」と云ひ東京駅。
西川に「松本一秀つれゆく」と電話し、「つばめ」で着きし松本つれてゆく。井辺も来会。西川にbeerおごられ、すしおごられて別れ、大野家へあす18:30ときめて帰宅。依子あすあさって休暇と。

2月11日
高松直子、松本悦治氏へハガキ。山本実子より「20日の都合しらせ」と。「16:00ごろよりならよし。他の日はだめ」と返事。散髪するつもりなりしも寒きゆゑ止む。村上新太郎氏より見舞。18:30大野家へゆけば2嬢ことはりに来る途中に会ふ。20:30すませて帰宅。

2月12日
防大へ杏の砂糖漬もってゆく。山田孝雄『仮名遣の歴史』を図書館より借用す。阿部教授にきけば「阿南君、明日面接。岡部君に悪くなきや」とのことなりし。
16:00すみて泰国の留学生に話しかけられ、浦賀へ下りゆきしに造船所のみ。Rice-curry食ひて京浜急行にて帰宅。
千草来り、喜寿の話せしと。父よりも報告来ありし。

2月13日
朝の中寒し。筑摩書房よりの税金申告票来しを見て(散髪す)、聖心女子大。
青山氏をられしゆゑ岡部君と阿南君のこと報告。和田先生お越しになり、わが休みしをお気付なかりし様子。試験問題を「康熙帝と乾隆帝」「近世の日華関係」とし、乾隆帝伝をT組に貸し、青木訳『Marco Polo』をU組に与へ、和田先生と玄関までゆけば安宅氏より電話と。待てば旧姓村田温にて「20日の会のこと寺本、坂根2君に連絡してくれ」とのことなりし。
和田先生『歴史教育』を玄関に忘れられしゆゑ、電話して預りたのみ、日本教文社に電話すれば田中忠雄氏あす四国へ出発の前来者とのことなりし。
宮益坂の古本屋2軒を見て並河亮『百年の無礼(50)』、後藤末雄『芸術の支那・科学の支那(90)』、具島『激変するアジア(80)』『The U.S.in world affairs(100)』買ひて帰宅。児玉敬子より「知合の歌見よ」と。中山八郎氏より「転身の早い貴兄云々」。夜、坂根千鶴子あたかも来り、20日の会を伝へ得し。

2月14日
曇。『詩人連邦』来しのみ。森良雄へハガキ。西宮一民君へ礼状かく。夜、大野家へゆく。鈴木生あす豊山高校の発表と。

2月15日(日)
夜で雨やむ。岩崎昭弥より「江口・伊藤(※江口三五・伊藤賀祐)2氏に(※選挙応援)たのむ」と。太田陽子夫人より『文芸クラブ通信』。
午后出て長尾良君に『新論3』借りにゆき、帰り松本善海に寄る。「風邪ひきねてゐし」と。池袋の古本屋見しも何もなかりし。太田行蔵『日本語を愛する人々』を夕方さがし出す。

2月16日
『かなづかひ』論考へつつ何もせず。角川より税金票。末吉栄三より「とんぼ会」の写真。
午后の便にて楳垣氏、贈りたまひしを忘れ「他人よりか」と。神崎院長をやめさされしと。宏池会へ「明後日の三水会にはかなづかひにつき話す」と電話して入浴。夜、太田陽子夫人へ礼状。

2月17日
雨。10:00成城大学へゆく。われ一人にて講師室に退屈し、漢文すませ昼食すれば富永次郎氏ら来る。池田勉氏『果樹園』にかきしと。図書館にて石黒修『日本人の国語生活』ほか1冊借出す。
午后また退屈して中国文学史の試験監督。すみて帰宅すれば佐々木生より「20日の会16:30より銀座の不二家にて」と。寺本、坂根2生へハガキにてしらす。児玉敏子より『悲歌』受取りしと。
夜、大野家へゆけば鈴木生来ず。豊山高校落ちとならん。けふ至文堂へ電話し『東洋思想講座5』を送れといひし。

2月18日
雨。城平叔父より速達「万美子のteleviへの就職世話せよ」と。午后日本生命常務浜田勝巳氏、菓子もって礼に見える。会はず。そのあと西宮君よりハガキにて「同氏令嬢成績よかりし」と。鍛治初江君よりも「class会12名出席した」と。山本実子、林の2生、諏訪より「20日16:00不二家にて」と。
16:00出て短波buil.の宏池会へゆく。齋藤、浅野(※齋藤晌・浅野晃)2氏を入れ6人。浅野氏「きみは歴史家といふも時間にまちがひあり」と。かなづかひの話旨く出来ず。すみて座談長く20:00浅野、佐藤2氏と渋谷へ出て国鉄にて帰宅。22:00まへなり。

2月19日
小雨を傘もたずゆく。防大教室変更にてごたごたし5時間目5分やりしのみにて進度不そろひとなる。東助教授と話せば「山根忠雄君と同郷にて呼ぶ気あり」と。
16:06ともにbusにのり(試験問題「近世の日華関係をしるせ」の印刷を味田村光子(てるこ)女史にたのむ)、鎌倉下車。炒飯と雞蛋湯くひ、つりなしとて『世界文化史大系13』買ひ、手塚邸へゆけば、すし出る。石田君の住所また教はらず「史学科主任やりたまふ」と。20:00送られて出、帰宅22:00。
保田より増田晃詩集の受取。村上新太郎氏より「月末までに詩を」と。至文堂より『東洋思想講座5』着きをり。

2月20日
晴。暖し。聖心女子大にゆく。和田先生お越し。近世史を終へ、講師室に帰れば先生待ちをられ(けふ2、3月分のsalaryもらふ)、お供して渋谷。「一生つまらなかった」との仰せ。
お別れして宮益坂のぼれば定休日にて古本屋みな休み。うなぎ食ひ青山6丁目より地下鉄、不二家へゆけば16:00前。誰もゐずice-cream食べて出、人形2つ買ひ16:30また入りて2階に上れば林、山本、村田をり、17:00すぎ佐々木(東京へ嫁ぎ来ると)、上野、住山来り、坂根とにて7人となる。sand-wichたべて出、地下鉄にのれば混みをり、鞄の紐切れる。渋谷のbar探しあて、われはabsinth(※アブサン)のみ、他も洋酒。住山「洋裁の師につれてゆけ」と云ふ。菓子もらひ別れて池袋。
坂根とrice-curryくひ、江上『北アジア史(240)』買ひて帰宅。小高根二郎君よりハガキ。(けふ城平叔父に「万美子に会はせよ」と云ふ速達出す)。中国文学史の採点す。

2月21日
雨。成城大学へゆき、短2と文3の「中国文学史」の採点提出。中国文学の試験監督。すまして帰り来れば中野□□君より電話かかりをり。12:40に経堂で会はんといひ、salary12:30といふにもらはずに出る。
(富永次郎氏「伊藤佐喜雄を知る」と)。ともにすしやにゆき彼はbeer、われはすし食ひ、新宿まで同行。お茶の水にて聖堂にゆき『太平天国的教育(45)』『中國歴史要籍介紹(140)』買ひ、都電にて赤門。山上会議所にゆけば東洋史談話会はじまりをる。竹田龍児氏あり。休憩に桑田六郎博士に挨拶す。和田久徳氏の「宋代の華僑」きき、出れば和田博徳氏『明代の鉄砲伝来とオスマン帝国』の抜刷たまふ。
昨日阿部建夫教授、けふ鳥山喜一翁(71才)の訃を新聞報ぜしも話題にならざりし如し。本郷歩き、大野昌子に電話すれば「あす19:30にせよと云ひし」と。古本屋見て『支那学研究法(80)』見つけてうれし。
帰れば上田阿津子より履歴書。聖心女子大より「写真送れ」と。立教大学より「経済学部の入試監督手伝へ(5日8:30登校)」と。

2月22日(日)
成城大学より「3月20日(金)10:00の卒業式後謝恩会」と。「鳥山喜一氏の告別式けふ14:00より15:00まで」と夫人より。
城平叔父より「3月20日淡路墓参:淡路護国寺参詣、田中大本家挨拶、立川瀬庵寺参詣墓参、明石墓参をすまし5月3日葛井寺にて正式法要を営む。5月3日には来てくれ」と也。
住山重子来り、「森英恵女史に電話し、わが名出し、けふ15:00〜16:00に来よとのことなり」と云ふに15:00新宿駅で待合せ約し、14:40ゆけば待たさせ、旧Wartherあとの店にゆけば不在。15:30自動車にて着きしも「16:00よりにしてくれ」と。も一度云ひて会ひ、coffee出され「福田幸存に東京女子大で習ひし」ときき、出て喫茶。
bus乗場にて別れ、乗りそこなひて引返し、蚕糸試験場下車。丸邸にゆけば悠紀子より電話かかり「田中順二郎夫妻来訪」と。「丸の長男、成城に来る気になりかけし」と。「長女学部3年にすすむ」と。借金返却して18:00すぎ帰宅。
「順二郎転職の意思あり」と。19:30大野家へゆけば鈴木生、豊山高校おちしらし。すみて大野夫人「女先生結婚のためあと引き受けずや」と。断りて「早川敏一君に訊ねて見ん」と云ふ。帰宅。入浴。
けふ浜田勝巳氏へ祝ひの手紙。鍛治初江君へ「3月20日すぎ行くやもしれず」と。岩波新書『東京』買ひ来る。

2月23日
晴。11:00出て聖心女子大へ写真もちゆく。渋谷にて『国語問題正義(20)』買ひしのち新宿へ出てラーメン食ひ、成城大学へゆけばreport一つも出をらず。教務課長に会ひて学科のこときけば「中国文学史脱落ならん」と。「明日、栗山、坂本2氏に会へ」といふ。川上生らに「太宰治」とるため林富士馬に会へと云ふ。
早川敏一訪ぬれば不在。夫人に名刺もらひ帰校して学術会議に電話して話せば「忙し」と。文化史専攻のreport4人のみ受取り、大塚で途中下車。『一皇族の戦争日記(50)』買ひ、都電にて帰宅。正平来ざりしと。寺本夫人より「多忙にて来られざりし」と。
けふ3月20日の謝恩会に欠席を成城大学に通告。悠紀子林dr.にゆきしに移転中と。「明日ゆく」と云ひしと。ことはらん。

2月24日
雪。10:30出て立教大学にゆきしに研究室無人。教務課に「3月5日の試験監督を可」といひ、2月分手当もらひ、柳田国男『野草雑記・野鳥雑記(100)』と『民国の文芸(20)』買ひ、東武dept.でチャーシュー麺たべて成城大学へゆく。
栗山部長にきけば「中国文学史やってもらふ」と。服部三樹子氏の消息きかれ「知らず」と答ふ。(林dr.に「けふゆかず」と電話す)。
坂本主事に短大2年の中国文学の内容をきけば「興味本位にやれ」と!山田孝雄助教授まち、締切3月2日(月)としてもらひ(採点報告も同)、図書館にて内田泉之助『中国文学史』借り、階下にて文化史専攻の連中と話して(けふ鎌田女史に琉球行の餞別として吉田東伍『沖縄之部』贈る)のち出、下北沢にて下車。辻政信『潜行三千里(20)』と『Singapore(20)』他に英文法参考書買ひて帰宅。
前川佐美雄氏より「4月上京」とハガキ。夕食して19:30大野家。鈴木生来ず。昌子生「28日来ずともよし」と。知子生「15:00来る」と。母君に畑山家へ電話してもらへば「後任すてあり」と。最後の礼もらひて出る。Port-wine買ふ。

2月25日
晴。家居。立教大学よりまた「7日(土)の文学部入試監督に出よ。3日(火)13:00大学院修士課程卒業成績判定会に出よ」と。浅賀千里「盲腸炎にて入院report出せず」と。
悠紀子、東十条に2度ゆき鞄なほる。

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2月26日
雪。防衛大学へゆき5時限以外は講義せず「歴史を作るに注意せよ!」と云へば拍手せし。各教官に挨拶せしも麓館長とは会へず名刺托す。
阿部教授「岡部君に気の毒」と。平田俊春君、黒板博士の「奈良県・京都府諸社寺中」なる紹介状見す。豪壮なることかな!
16:06のbusにのれば保柳睦美教授声かけ『地誌目録』賜はる。「藤田先生今後の家のこと心配さる」と。
横浜下車。18:00まへ迄待ち、岸明子来りしとtaxiにて山の上社宅へゆく。夫君、東京へゆきしとて30分まち、televiその他そろひゐるに感心す。夫君、鹿児島産にて(阪大出?)食用油会社の技師。NHKの人にとつぎ来るといふ吉田生にハガキ書き、20:00坂下まで下りて別れ告げ、taxi(80)。22:00すぎ帰宅。
城平叔父、万美子つれて来たまひしと。「父、3月末まで仕事しをる」と?!
住山重子、日生浜田重役より礼状。高田瑞穂教授より学科のこと。不審。
けふ手塚教授へ横須賀駅にてハガキ書きし。(石川道雄氏、ガンで死なれし由、新聞に見え、保柳氏「府立高校にて同僚たりし」と)。

2月27日
晴。終日家居。中野清見オカヤマエキより「28ヒ5ジダイイチベンゴシ会デアイタシ丸ニレンラクタノム」と。
夜になり丸に電話すれば「八王子へゆくにつき都合わるし」と。(井辺太郎より「3月4日(水)18:00泰興楼にて兼清隆二の川崎トキコ(※自動車部品メーカー)へ転任歓迎会」と)。また速達、本位田昇より「富士高校の結果早くわからずや」と。
大野家へ電話すれば「知子あす来られず日曜10:00に来る」と。0:00採点了る。

2月28日
曇。成城大学へ採点報告にゆくと10:00家を出る。高田教授に会ひてきけば我が考へし通りなりし。採点報告すまし、池田教授と話し、文化史専攻の3生呼びて叱り、川上生に電話すれば「林dr.にすでに会ひ4氏に紹介してもらひし」と。
村田生と出て経堂下車。小高根太郎訪へば「関西より帰り来しばかり」と。「高校入試の詮考は各校にてはわからず」と。疲れてものいへず、すぐ出て帰宅。
聖心女子大4年生より「10日14:30謝恩会」と。山本実子より礼状。林dr.より新築にて『果樹園』の会をせよと。浅賀千里より「reportまだ送れず」と。
風呂へゆき中野清見に会ひにゆかず。(けふ池田氏に云へば『成城文芸』は10日にてよしと。杜甫の人名索引作りをり)。

3月1日(日)
弓子、向丘高校の入試にと7:30出てゆく。大野知子生10:30来る。防衛大学卒業式(3月10日)の案内。旅行につき欠席と返事。午后、雨中を畑山氏にゆき、夫妻に礼云ふ。大野schoolのわが乏しきを助けしが為なり。
柳田国男『野鳥雑記』『野草雑記』を礼にもちゆきし。ここにても先だっての採点結果探知はむつかしときく。
帰りて杜甫人名表つくる。弓子帰り来しも成績わからず。悠紀子、依子ともに風邪。けふ京、誕生日とて依子に人形買ってもらふ。

3月2日
曇。城平叔父へ「淡路へ墓参にゆく時間しらし玉へ」と。井辺太郎君へ「4日の兼清隆二歓迎会、所用にて欠席」と。
前川佐美雄氏に「近々会はん」と。安田明子夫人より礼状。成城大学へ「講義要項」を送る。
16:20聖心女子大へゆき「東洋近世史T」の答案とり、帰りのこむbusにてどならる!
富士高校に電話すれば「内村君帰宅」と。帰りて夕食。
岩崎昭弥より『墓碑銘』出すゆゑ序文かけと速達。本位田昇君に電話して「役に立たず」といふ。

3月3日
晴。風吹く。悠紀子、住宅公団へとゆきしあと弓子帰り来り、河出書房より7,970着き「これにて28,660みな済みし」と。
12:00出て立教。手塚、中山、小林の諸氏に会ひ、白鳥先生に会ふ。郁郎君のこと忘れたまはず。
14:00よりの大学院の判定会に出、中沢、菅部長に挨拶し、茶菓ご馳走となりしのみにてすみ、牧水『行人行歌(60)』買ひrice-curryくって帰宅。
岩崎昭弥より『墓碑銘』稿再来、「序文かけ」となり。平田春一氏より『黒薔薇』。平田氏と住山生へハガキ。
悠紀子、税務署へ申告にゆく。丸より電報。電話してあす午、会ふこととなる。岩崎昭弥『墓碑銘』の跋と訂正了る。「杜詩人名索引」了る。

3月4日
晴。よべ眠れず苦しきも11:00出て第一弁護士会に丸を訪ね、築地のふぐ料理に案内され、生れてはじめてチリ鍋とさしみ食はさる。「重俊君、成城の第一次は受けず、第2次受けようかな」といふ由。山本、中野(※山本治雄・中野清見)のうはさし、13:00出て西銀座まで歩き、大阪書籍へ寄れば、前田社長、川口会議のため上京と。角川書店へゆき文庫係の山本君に会へば「重版印税は4ヶ月後支払となりし」と。立原全集の第5巻買ひ「10日送金」ときいて出、都電にて渋谷。
聖心女子大へゆき、16:00まで待ち答案受取り、外へ出て大に電話。「colombin」に呼出し「健の妻疾妬す」ときく。千草夫婦より早大又は慶応の入学費として9万円の借金申込まれしと。気の毒にて茶代払ひて帰宅。
母より「4月半ば、伊勢へゆき5月上京。史はすでに下宿へ移りし」と。成城短大の謝恩会21日との案内。中谷孝雄氏より『在原業平』。(けふ岩崎昭弥へ原稿速達す49)。

3月5日
睡眠不足なれど8:20立教にゆき山田君に見つかり、村本助手と同じ組なることわかる。新館にて240名の監督を6人にて行ふ。高橋幸八郎氏も同役なりし。午、田中正義氏に呼びかけらる。「経済学部教授」と。宮本、海老沢、中川(上原君―成城助教授―と同級と)、手塚氏らと研究室で午餐。 白鳥先生も出席されゐし。14:30すみて疲れて帰宅。
田中順二郎君より「営団の補欠に斡旋す」と。訪れ来しは聖心女子大の山形睦子生。「試験の出来を心配してなり」と。東洋大学の三浦久子氏に電話かけ税金申告票たのむ。
夜、聖心の採点すます。

3月6日
聖心女子大へ採点表速達す。午ねし、入浴し、夕食後電話すれば林dr.「来てよし」と。19:30ゆけば多忙、夫人と話し、「お祝また」といひて帰る。
けふ防衛大学より答案来る。夜、速達、松本悦治君より来あり、「7日か8日の14:00ごろ来る」と。

3月7日
雨。8:30立教大学へゆく。また高橋幸八郎氏とcombiとなる。67人中女子39人の文科受験生中にきのふ態度悪かりし大石といふがゐし。ひる海老沢、白鳥2教授とともにし、番匠谷教授に紹介されし。
14:30すみて15:15帰宅すれば松本君待ちをり。岩崎夫妻より礼状来をり。松本君「住中にて斎田昭吉と同級、大高にてわが話ききし」と。
けふ悠紀子、田中順二郎君に電話かければ「書類せかず」と。西川夫人に保証人たのみにゆき、合over-coat、6,000で見つけて買ひ来し。

3月8日(日)
10:30村田生whiskyもって来り、「亡友の詩集出版したし」と。三浦久子氏より源泉徴収票。岩崎夫妻、中谷孝雄、三浦久子の3氏にハガキ。

3月9日
晴。京、風邪とて休む。朝より「岑参二事」を書きつづける。悠紀子、林dr.にゆく。『果樹園38』来る。村上新太郎氏より「申出に従ひ、来号より詩いらず」と。Schinzinger先生の還暦祝賀を500円よりと。
京、薬のみてのち吐瀉す、絶食す、あはれ。夜、21:30「岑参」書き了る。200×49、不十分なり。
山本実子、辻芙美子へ便り。辻生はけふ送り来し同窓会誌4に我が名をしるすが故なり。(城平叔父へ「必ずゆく」と速達)。
小高根二郎君に「23日ごろ会ひたし」と。川上恭正へハガキ。

3月10日
雨。寒し。散髪し、12:00出て成城大学へゆけば池田氏不在。机の上に原稿おき、教務課長に月収証明してもらひ、会計課へ3月分直送たのみ、busにて渋谷。聖心女子大へゆけば、琴はじまりをる。踊り、劇見ささる。17:30より夕食、わが教へし子ら挨拶に来らず。一人にきけば「点辛し」と也!!
19:00中退して帰宅。23日東洋史談話会の通知ありしのみ。(けふ明治書院に電話してきけば「18日が締切」と!)。(若林光夫氏の姪といふがありし)。

3月11日
曇。雨。史、9:30帰宅。母4.5万円の借金ありと。就職日生にてよしと。阪神はいやと。悠紀子、体わるく、やむを得ず西川の月収表もらひにゆく。林語堂『東西の国民性(30)』買ひてもどる。往復ともにだるし。角川書店より『昭和詩集』の10〜12版の印税826。田中忠雄氏より「18日の会を25日にのばす」と。
大野昌子母子来り、「日本女子大合格しゐし」と。山本、松本2友へ「20日連絡する」と。

3月12日
防大の採点つづけ16:00まへ了る。「春の日の会」の案内来る。「4月9日にて会費2,600」と。防大へ速達にゆき、畑山氏にゆく途中、雨ふり来る。大野家より電話かかりゐしとて共に喜びくる。
けふ史、柏井へゆき、悠紀子税務署と区役所へゆく。

3月13日
10:30出て明治書院。内河女史に会ひ教授参考書借り、大手町へゆき田中順二郎君に書類わたす。「1月後に東京tower出張を命ぜられるやもしれず」と。地下鉄にて池袋。西武dept.の婦人Hallに宮崎女史訪ねる。『日本歌人』近々出る由。東大生をり「すず子君受験した」と。すぐ出れば追ひ来りしも話さず帰宅。
城平叔父より「22日7:30梅田西口に来てBに乗れ」と。松本悦治君より「20日すぎ再来」と。西川より東京今中会の名簿。

3月14日
晴。弓子11:00すぎ表口まで来て「落ちたよ!」と云ひ出てゆく。そのあと悠紀子、林dr.にゆけば「令息板橋高校へまはされし」と。小高根二郎氏より「23日の予定」と。
夕方、弓子帰り来り、小野のこときけばしらずと。悠紀子をして同女の家にゆかしむ。やがて帰り来り「夕刻帰宅せし」と。

3月15日(日)
晴。悠紀子不快。大江叔母へ「22日参加す」と。鍛治初江氏より「20日迎へにゆくゆゑ汽車の時間しらせ」と速達。川崎菅雄「退社して会計士となりし」と。
鍛治君に「21日阪急ホテルへ泊る予定」と速達。小高根君に「23日午訪ふ」とハガキ。和田博徳氏に『明代の鉄砲伝来』につき礼状。
悠紀子、弓子をつれて王子中へゆき成徳女高を受けることとす。夜、岩崎昭弥より速達「ぜひ来れ」と。
史、柏井へ麻雀しにゆく。夜半までに明治書院のため5枚かく。山口先生へ手紙かき本返す。

3月16日
弓子、成徳女高へ願書出しにゆく。文芸日本社より「20日中谷孝雄氏『在原業平』の出版記念会」と。「欠席」の返事出す。
ひる中書きつづけし「李白」109枚にて了りとなる。仕方なし。

3月17日
雨。明治書院へゆき内河タケ子氏に原稿わたす。歩きて大阪書籍にゆけば、支社長長々と話せしのち「前田隆一社長、今月上京せず」と。都電にて帰宅。
大野家へゆけば「つづけて来ずや」と。「来ず」と答へ、仏和辞典を祝ふといふ。
藤田亮策先生に寄れば「試験の監督にゆき玉ひし」と。角川より10,500−1,575−1,280=7,645。
佐々木邦彦君より青龍展の案内と出誕の坊やに梓と名づけしこと。松本一秀君より「20日午まへ電話せよ」と。長尾良君へ礼状。夜、入浴。悠紀子、心臓悪しと。弓子あす成徳の入試と。

3月18日
6:00起き7:00家を出て7:50の東海1号にのり13:23熱田着。畠山家に電話すれば「六右衛門氏長崎出張」と。坊やtaxiにて迎へに来て大瀬子町の宅にゆく。のり子君同志社女高を昨日卒業せし。殿井の女と同classらし。Whiskyのまされ、岐阜の岩崎昭弥に電話すれば「来よ」と。佐々木六郎君に電話すれば「公休」と。
16:10に熱田駅にゆき岐阜につけば岩崎君迎へに来をり、伊藤賀祐に電話して岐山荘。
本位田、丸、中野、浅野晃の諸氏にヱハガキかく。

3月19日
岩崎君のAutobyにのせられ岐阜駅。準急にのり大阪着10:30。吹田(※山本治雄邸)へゆき昼寐。夕方、飯くひかたがた出て電話を渡辺三七子にかけしもまだ帰らず。晩酌に1本つけ疲れなくなる。


昭和34年3月20日〜昭和34年7月10日 「東京日記 5」 本冊画像PDF
25.5cm×18.0cm 横掛ノートに横書き

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3月20日
朝、山本治雄に電話かけ、18:00訪問を約し、梅田にて喫茶。万字屋見て『末摘花(100)』買ひ、淀屋橋まで歩き、日本生命にゆき松本一秀君まつ間、高松直子呼び、12:00会食を約し、松本に今村重役、浜田重役へ挨拶さしてもらふ。「保険学勉強さすべし」と也。
藤原、高松、山内、川崎、谷川5生と昼食すみて地下鉄にて本町。中小企業金融協会さがしまはり、千川と話し、隣が小林政商店なるに寄れば「殿井専務忙し」と。その通りの紡績協会にゆき村山高調査部長に会ひ、岩田生、無事式あげしらしきを知る。
荒木利夫氏に電話してゆき、23日『骨』の会を18:00れんこんやにてときめ、出雲屋に吉田栄次郎君を訪ひ、茶ご馳走となり十合に寄りて山口玲子訪ねしも会へず。阪急Hotelにゆけば古田房子君「明日の止宿承知、清水生より電話かかりし」と。
出て新谷博士訪へば「西垣清一郎氏死にし」と。落涙す。これにて了りて梅田をへて吹田、山本邸訪へば夫妻ともに不在にて、待ちてtelevi見、18:30帰り来し山本と話し、坪井の来るを知る。山本嘉蔵氏に電話すれば「紀伊田辺の信江嬢のところへ孫見にゆかれし」と。山本実子に電話し、beerのまさる。坪井の話にては「肥下に遭ひ、堺脳病院をやめしをききし」と。
湖東に電話すれば「田中順二郎氏より来阪ききし。令嬢大阪女子大に入学せし」と。
入浴し、山本と床を並べて眠る。けふ渡辺三七子に電話し「あす午、大野屋にて鍛治、山中、太田夫人会するに案内してくれる」と。

3月21日
山本家にて8:30起き、夫妻の謡ききて11:00出、兵庫県の地図と『サンデー毎日』を大阪駅で買ひ、busにて内久宝寺町下車。立川PenCo.に着きしは12:00。
渡辺生の案内にて大野屋へゆく。「太田夫人、西村氏といふを見つけくれしも一人息子にて親には話まだせず」と。大野屋にては太田夫人待ちくれ、いろいろ話きく。石川喜久子の写真をもらひ、14:30藤野(南村夫人)、山中、鍛治の3生来り、料理了る。
西宮君に連絡とれ、「18:00〜18:30阪急Hotelへ来る」とのことなりしゆゑ、16:30出て阪急Hotel。山中、鍛治2君と室に通れば「谷川生より17:00電話あり」と。待つ中、17:30電話あり「十合の前で待つ」と。
折から雨降り、谷川、田中文子、平岡英茂、清水文子、柏原美佐子、西岡盈子の6生と9人にて支那料理食ひ、18:30になりて阪急Hotelへ6生と引返せば「西宮君より20:00に来ると電話ありし」と。
6生と話して20:50となりて送り出せば西宮君来り、「神崎院長、胃癌にて余命若干、組合云々」といろいろ聞く。
研究報告数部もらひ、みやげもらひ、古田房子君と送り出し、入浴、就床23:00。
6:30起したのみ840の勘定書もらひ1,100わたしてすみし。「けふ長沖氏televiに出ゐし」と。

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3月22日(日)
よべ殆ど眠らざりし。6:30起きそのまま着衣。地下鉄にて梅田に7:00着。朝食くひて西口へゆけば正平君見つけくれ、集りゐし城平叔父一家と康平叔父一家に会ひしも、大江叔母の車来ず。8:00すぎ出発、9:10明石のフェリーボート乗場にて待ち、無事乗船完了。
はじめて淡路東海岸をゆき、12:00賀集の護国寺着。祖父の回向すます。城平叔父の車の運転は近藤君、康平叔父の車の運転は山下幸男にて「四条畷に家たて母呼びし」と。雨中を田中万米(※賀集村[南淡町]村長)家へゆき、当主と母お操(そー)さんとに挨拶すれば、お操さん、われを「甚城そっくり」といふ。向ひの庭見、「甚城声よき人なりし」ときく。「野田宇太郎によろしく」と云うはれし。
万米家の隣に昔の家引取り、そのままにありし。ここより歩きて立川瀬の庵寺の墓見る。「三つならびし中が祖父祖母の墓」と。これですみ83才のお操嫗のみに送られて出発。洲本の町を通りすがら見て、16:30岩屋着。われは鳴門のみかん漬買ひしにまけてくれし。
明石着17:20。雲晴寺の墓に詣り、人丸神社の上の尾崎家の墓にまいりてのち、明石駅前にてあなごずし食ひ、大阪駅前20:00解散。
われは大江へ泊めてもらふこととなり、預けし鞄とり来り、21:00すぎ着。大江叔母とbeerのみ、話す。「この間、父母来り、母“克己に千草をやさしくせよと云へ”といひし」と。(大江叔母あて悠紀子より「弓子入学できし」と告げ来しと)。

3月23日
9:00藤井寺を出て松原で下車。肥下恒夫を訪ぬれば夫人元気になりゐる。「蔵にしまひし『コギト』をその中送る。妹日本生命の勧誘をする」と。
出しは11:10にて、あはてて日本レーヨンにゆけば小高根二郎君「伊東マキ子を呼びゐる」と。つれにゆきて北浜の料亭にてbeerのませ京料理くはさる。
「小山正孝の(※『果樹園』)やめし理由はなし」と。「山根君の転任かまはず」と。「昨年より総務部長になりゐる」と。マキ子云ひしは「人形芝居に入りしがいかに」と。「しっかりやれ」と云ひ、諸田生、砂川にて白骨となり「恥、々、々」の手帖のこして発見されしをきき、
13:30ともに出て北浜2丁目に来り、沢田直也弁護士訪ひしに不在。名刺おきbusにのり上六で下車。マキ子と別れ、江馬春夫に会ひ、15:00特急まてば平田春一氏をり、奇遇といひて話しつつ奈良着。
前川家へ先に行ってもらひ、野崎そのを訪ね、鞄預ってもらって前川家へゆけば、「藤谷(極楽寺)の発案にて柿本寺復興をやりゐる」と。「4月12日大伴道子夫人出版記念会に上京」と。別れを告げて野崎家に寄れば、菓子くれ駅まで送り呉る。17:00発の京都行特急にて京都着。
三條河原町で下車、れんこんやにゆけば佐々木邦彦、依田義賢2君待ちをり、昨日井上多喜三郎「絶交」といひて帰りしと心配す。「彦根にて我なだめん」といふ中、山前実治、女給をつれて来り、荒木利夫君広島出張の前に来り、井上多喜三郎来り、『骨』創刊当時の同人みな集まる。
愉快に話して歌うたひ、女給のbarにゆき井上君帰りしあと、出て、依田君すし食ひbeer買ひtaxiにて佐々木君の山科の家へゆく。0:00依田君を迎へに来し自動車まで送り、夫妻と1:00まで話し、炬燵に入れてもらって就寝。
(けふ田中忠雄氏へ「25日の三水会欠席」の速達す)。羽田明君には「れんこんや」より電話かけ、「明日午前にゆく」と云ひし。栗山理一氏、京にハガキかく。

3月24日
めざめて床の中にて鍛治、太田、松本一秀、西宮、坪井、山中の諸氏にヱハガキかく。「午前中に」との羽田との約束を依田義賢の春画見、殊に夫人、坊やの顔みたく11:00となり、あはてて四宮のbus停留所にいそぎ京阪三條。
橋を渡りて京阪書房へゆき『木馬と石牛(90)』もらひ、上賀茂行のbusなきを知り、新開通の洛北高校廻りの市電にのり、烏丸車庫より羽田家へ13:00着く。
羽田「6月にIranにゆく」といひ、とめてもきかず。「東京の学会も友なし」といひ、和田先生のことなど話して15:00すぎ父宅へ行けば、「隣近所の夫人を集めて送別会」と。髭そり挨拶すませ、父の思ひ出よみ17:30帰りし父と話す。母それまで「子らみなに感謝す」といひし。千草の子入学のしらせなきは落ちしならん。

3月25日
10:00出て大津に下り、彦根へ着きしは16:17。河村先生(※河村純一医師)訪へば、「待たる中に小林英俊宅より急変、のしらせに行かれ、注射うちもどられし」と。やがてまた先生煩はし、果物もちて(※小林邸へ)ゆけば、床の上に坐り、耳聾すれども意識は正確にて喜び呉る。
戻り「やりや」に車とめられ、藤野君(※藤野一雄)と話しつつ、来るを待ち、来しは井上多喜三郎、広田一彦、若森とわづか五人。0:00まで笑はしつづけ、皆帰りしあとさびしくてたまらず。
生涯の最も悲しき日の如く泣きつつねむるわれにはありし。
岩崎昭弥にハガキかく。

3月26日
4:00まで隣室のさはぎに眠れず。8:00おこされ朝食。汽車のなきに待つま、荷物を「やりや」に預けて短大(※彦根短期大学)へゆく。家政科事務室にゆく。西沢事務長、中村事務らをわれおぼえ、書類もらひ「松村一雄氏在室」ときき、ゆきて酒出さる。中島、川崎、田中禎子などのみ残りゐる様子。
出て荷物とり、汽車時間ききに中村竹次郎君によれば「中村清太郎さんは実弟!」と。時間なきことわかり、あはてて河村御夫婦に挨拶すのし、busにて彦根駅。
米原行にのり(「やりや」にわが出しあと杉本長夫教授よりしとて『湖声(※滋賀県職員労働組合機関紙)』おきあり、母君挨拶されし。「宿賃とらず、茶代とらず」といひしを内緒にて渡せし)、豊橋行にのりかへ、12:00まへ大垣下車。
白井(※白井三郎)に電話してtaxi(110)にてゆく。多忙中会ってくれ、工場ほぼ見せらる。女工員平均一年に10万円貯金すと。食費1,350と。社宅につれゆかれ、夫人と坊やに再会。
13:20「新旧工場長の交代」とて白井の出てゆきしあと、夫人令息と15:30まで話し、すしよばれ、high-ballのみ、呼びもらひしtaxiにて駅にゆき、16:07の準急に乗る。
名古屋よりは満員、豊橋の鰻飯くひ、残金45円となりて帰宅。
郵便受取り、留守中の報告受けしも覚えられず。

3月27日
きのふ山本陽子来り「けふまた来る」といひしと。悠紀子、京をつれて買物に出、山本生16:00来り、史、茶を出す。「文学座受験につき芥川比呂志氏に紹介状かけ」と也。夕食せしめて思ひつき、西垣脩氏に電話して明日会はすこととす。柏原美佐子生より「楽しき集りなりし」と。松本悦治氏より「3月31日(火)上京、午后来る」と。西宮一民君より「理事長邸での教授会」の報告。父より系譜史料。

3月28日
植村清二先生18日付にて「中村林氏に紹介せし」と来しに返事。11:00出て立教大学。3月分手当もらひ、東武dept.でrice-curry食ひ、三鷹の浅野建夫博士訪へば女中「何御用?」と。
夫人呼び出し、上げられて悠紀子の病状話し、ややして出て来し浅野君に東大小石川分院の精神病科笠松博士への紹介もらひ、伊藤賀祐のこといへば「考慮せん」と。「永田(辻部)三郎君の歓迎会4月1日」と案内来あり。autoにて駅まで送られ、竹内好訪へば在宅。「小説かけ」と。
16:00出て(池袋にて中国詩人選集『陶淵明(130)』、藤堂明保『語源漫筆(80)』)、西荻窪まで歩き、楳本『最後の陸軍(30)』、今井登志喜『歴史学研究法(50)』。
丸に電話かけしに出ず、高円寺のplatformよりまたかければ、ゆみ子君出て「母外出、父釣り、兄成城けふ受験せし」と。「村山、田村2氏の上京伝へよ」といひ、池袋。
西武dept.に宮崎智慧氏訪へば「4月12日につき前川氏より応答なし」と。鰻丼くひて林dr.。
芳野清君来をり、酒と飯ふるまはる。「春の日の会」出るが宜しからんと。本みな盗まれしと。芳野君「あす下阪」と。
近くに住むといふ野長瀬正夫氏に電話せしに「来られず」との返答をよき機に起ち、芳野君に祝の計画たのみ、大塚より都電にて帰宅。
堀多恵子夫人より『妻への手紙』。影山正治氏より「代々木が原返還されし」と。(林dr.に悠紀子「宅はにこにこして帰って来た」といひしと!)

3月29日(日)
朝下痢。依子、弓子と出てゆく。向井順子、堀ノ内歴、山中京子(井上)、田中季雄の諸氏にハガキ。田中季雄氏「保子生の卒業の礼」として留守にnecktie賜賜はりし也。
午后、依子、弓子のあとを追って京つれて都電にて三越。white-shirtあつらへ(4月9日出来と)青龍展見る。佐々木邦彦君「山望」「残雪譜」2点を出品。ついで大野昌子へと白水社『仏和中辞典(700)』買ひて出、都電にて上野。小島屋へゆけば「田村春雄君、今夜帰りおそし」と。帰りて寝る。
よべより下痢。河村純一博士へ「山望」のヱハガキ。天理図書館へ『Biblia13』の受取。柏原美佐子へ「groupへ」と礼状。羽田明教授に同。
けふ悠紀子、大野家へゆきしに「鈴木生、北高校を受けて落ちし。その母とつれ立って礼に来るつもり」といひしと。

3月30日
井上多喜三郎君へ礼状。山前、依田2君へ同。山田新之輔、涌井千恵子、増田春恵へハガキ。
午后、山中タヅ子より「吾に会ひつかれし」と。折柄訪ひ来しは上田阿津子「親族会議の結果、上京しての演劇研究断念した」と。
14:30坂根千鶴子に会ひにゆかせれば「休校、転居」と。夕食せしめ、ともに尋ね尋ねしてゆけば外出。喫茶して話きけば「東京に信頼する人あり。母は継母」と。
池袋駅にて別れ、帰宅すれば悠紀子電話かけてわれを探しをり。また丸より「デンワセヨ」の電報来あり。かければ「重俊のこと栗山部長に頼んでくれ」と。
その寸前、田村博士に電話して「あす午前中ゆく」ことを約しをりしも「承知した」といひ、坂根生に会へば風邪ひきをり。『果樹園』の110円受取る。
下痢われもなほらず。けふ池袋の国電にて市古お茶の水教授に会ひ、鈴木俊氏へ「会ひたし」の伝言たのみし。

3月31日
よべの睡眠不足こらへて8:30家を出、栗山部長訪へば「丸重俊、学科でき、体格検査さへよければといへ」と。喜んで出て電話すれば丸、出しあとなりし。急ぎて上野の小島屋にゆけば11:00。田村春雄君に都合きけば「明日、明後日の夜よし」と。「のちほど連絡する」といひ、帰りて昼食すませれば松本悦治君来り、前日貸せし本返し『コギト』もちゆくこととなる。
折柄「植村清二先生より紹介受けし」と中村書店主中村林次氏(新潟大学出しあと中央大学出しと)来り、「国姓爺」書かんといへば「宜し」と。 200字詰450枚、夏休みにと約束す。「大野文衛博士にも依頼にゆく」と。
松本君送り出して畑山博氏見舞にゆけば、神経痛癒え北区教育委員と話しゐる。他の会へと出しあと夫人に大野家の話し、養女せしと知りて出る。
「史、あす西下」と。夜、丸に電話すれば煦美子生出て「まだ帰らず」と。中村書店の呉れし『庶民と江戸川柳』よむ。伊東マキより礼状。

4月1日
8:30丸に電話し「明夜、田村博士とゆく」ときめ、春雄に電話し、佐々木邦彦に手紙かきしのみ。
長尾良より「体悪し」と。午后、小林英俊の嬢、明美君より礼状。
けふ永田三郎の歓迎会にゆくや否や定めずゐしところへ山本陽子来り、「文学座の試験に落ちし。西垣君の芥川氏への紹介状使はざりし」と。
中華そば食ひ、ともに出てわれは高野勝美にゆきしに勝美氏は会合。松井信子は帰らず。春名一満にいろいろいひて21:30となり、勝美と話し、亀戸駅まで送らる。「日本はだんだん良くなりゐる」と。
けふ史、10:00ごろ出て西下せし也。

4月2日
上田阿津子より「帰郷する」と。田中万美子より履歴書。白井三郎へ礼状。
午后、鍛治初江より「10月上京」と。山本実子より「見送りせず」と。
16:30出て小島屋にゆけば田村春雄君まだ帰らず。17:00帰来。banana食ひて出、新宿下車。中村屋で手土産買ふを案内しbusにて高円寺。
丸家へつけば「夫人、成城大学へゆきていまだ帰らず」と。重俊文化史専攻とかきしと。由美子の登校も許されしこと夫人帰りてわかり、黒beerさかんに丸のむ。西川に電話すれば帰らず。
20:00すぎ本位田帰りて電話し「令嬢富士高校に入学せし」と。21:30すしくはされ、高円寺駅へ出、神田をへて帰る。
煦美子にきけば「辻生はじめ概ね学部3年にすすみし」と。お茶の水にて加藤定雄の帰り来るにあひし。ふしぎ。

4月3日
『果樹園39』来り、林dr.よりハガキ来る。午后の便にて上田阿津子より貸し忘れし本3冊来り、川崎菅雄、福地邦樹2友よりハガキ来る。小高根二郎、小林明美、川崎菅雄、田中順二郎、野崎その諸氏へハガキ。

4月4日
家居。大森倖二氏より「国立に転居した」と。中野□□君より処女作「鉄工所」(※映画)の試写案内。
午后、鈴木、大野2夫人礼にと来り、大野昌子作の「のれん」その他もらふ。「鈴木生、向丘高校も合格、豊山高校を選びし」と。
平凡社より『アジア歴史事典』に「アミン(※阿敏:清朝軍人)、アルバジン(※ロシア城塞)、伊犁総統事略(※書名)、ウジュムチン(※地名)、ウランチャブ(※地名)、ウランバートル、ウルゲン(※ウルゲンチ:地名)、王昶(※清朝学者)、鰲拝(※オボイ:清朝政治家)、鄂博(※オボー:蒙古の祭場)、鄂尓泰(※オルタイ:清朝政治家)、翁牛特(※オンニュド旗:地名)、可賀敦、可汗(※カガン:ハーン古称)、何秋涛(※清朝官員名)、慶寧寺、海東青鶻(鳥の名)」を5月10日までに書けと。
夕方、丸夫人礼にと来る。「次男、槍ヶ岳にて負傷して帰りし」と。夕食後、京と散歩。

4月5日(日)
雨。聖心女子大より「10日の場所予約されあり、出席なら云へ。授業は23日(土)8:10より」と。
(徳永)秋山昭子夫人より「彦根へゆきしこと宇田良氏よりきいた」と。午后中村氏再訪「やさしきものを書け」と。『川柳』3冊また賜ふ。夜、入浴。

4月6日
城平叔父より「万美子上京した。就職たのむ」と。前川佐美雄氏より『明窓(※大伴道子歌集)』の出版記念会19日と。
午后、東洋文庫へゆき『明清史料乙篇』見了る。太田常蔵君をりし。田川孝三氏に会ひて話せば「藤田亮策先生に記念品贈呈の企てあり」と。16:00帰宅。
渡辺三七子生より「縁談はかどらず」と。山下幸男より「四条畷の新居に移った」と。福島弘子生熊本の家より。
けふよりの新学年に京の担任かはり、松井先生1年担任となりしと。

4月7日
城平叔父へ返事。けさ4:00に起き、6:00再び眠り10:00起きる。東洋文庫へゆかず。大鹿長子夫人より「(※大鹿卓)四十九日明けし」と。16:00散髪にゆきしのみ。

4月8日
秋山昭子夫人、渡辺三七子へハガキ。悠紀子、渋谷の住宅協会へゆく。
13:00出て東洋文庫。『明清史料丁篇』を見、(※清代の)五大商のこと見つけてうれし。小高根二郎氏より「(※来阪中の行動につき)足まめな!」と。森良雄君より「令嬢多摩芸大へ入りし」と。夜半、堀夫人へ礼状。

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4月9日
9:30東洋文庫。『明清史料丁篇』鄭氏関係了り『戊篇』見しも鄭氏関係殆どなし。11:30帰宅。
防衛大学より「欠席者2名の補点を」と。『明窓』の出版記念会19日(日)13:00松平Hotelにてと。
成城大学より来年度時間割送り来り、1時限3日なり!
午后より雨となり出でず。(林dr.に電話して「春の日の会」に出ざるを云ふ)。
夕食後、坂根千鶴子来り、大阪のせんべい2缶たまふ。「18日頃帰阪」と。山本実子、山下幸男、児玉敏子へハガキ。

4月10日
東宮御成婚の日。山本八郎夫人より「長男大阪外大Spain語科へ入学できし」と悠紀子へ。
11:30決意して出、大に電話すれば午后出ると取次の返事。渋谷下車、歩きまはりて不二歌道会の前に出、長谷川幸男氏に会ひ、席すすめられしも、向ひの車庫前に聖心の席あると見てゆけばcarnationの花わたさる。教師寥々学生も少し。
15:15馬車にて東宮同妃来られ、妃殿下行きすぎがけに此方を見られし。渋谷まで歩き、coffeeのみてのち帰宅。
けふ大江叔母へ手紙かく。「祝田橋にて青年、馬車に襲いひかかりし」と夕刊に見ゆ。

4月11日
入学式とてゆき、教務課長に訊ねしあと列席。経済学部は10回、文学部・短大は6回目の入学生と。丸重俊はA組、文学部は女生の方多かりし。
すみて庶務課へ定期券の証明書もらひにゆけば、1ヶ月600×3の通勤手当呉る。図書館へゆけば今井君、柳田国男先生に紹介し呉る。かねての景慕いひ、沢田四郎作博士、岡正雄氏などの名あぐれば、あとで「岡君はドイツ語に日本の民話翻訳せしのみ」と云はる。宮古島が倭寇の拠地なりしことを話され、「いまはそのあと廃址」と。阿達氏『庶民と江戸川柳』を呈上して退去。
成城園にて炒飯食ひ、三輪田よりの短2生に挨拶されて経堂下車。小高根太郎君訪へば陶器造りゐる。
帰途、農大前に出、大江勉に寄れば夫妻とも不在。「千草かへりしところ」と姐やの話!
busにて渋谷。疲れて駅のplat.より電話すれば「大、野球見にゆきし」と。
帰れば八木嬢より礼のハガキ。悠紀子讃美歌うたひ、わが咎むまで止めず。
『羽田博士論集 下』来あり、あとにて松本善海君もち来たまひしと判る。

4月12日(日)
終日家居。〒なし。松本、羽田2君へハガキ。

4月13日
晴。家居。加藤和子氏より「矢田に転居せし」と。夕食後、畑山氏を訪ね、養女のゐつきしを聞く。beerのまされ「渡辺道夫君を講師としてよし」ときく。帰りて渡辺君へハガキかく。

4月14日
13:30小高根二郎氏へ「古い唄」速達。杉本長夫氏へハガキ。成城学園前まで3ヶ月定期買ひ来る(4,060)。午后、悠紀子王子第2小へゆく。
岩崎昭弥君より「詩集出来た。選挙の形勢有利」と。松井先生氏より「日曜に姉と会った」と。
立教大学より「木曜5,6時限241教室」と。中野□□君より再び(※映画の)案内と切符4枚。佐々木邦彦氏より「また4人集まった」と。
夜、出るつもりなりしも寒くてやめし。
けふ渡辺道夫君来り、「京北高校に4月より勤めゐる。甚だ優遇さる。和田先生東洋大学に概説を講ぜらる。村上正二帰朝。佐藤教授停年となり、家庭不和にて九州の嬢家にゆかれし。云々」。畑山邸へことはりにゆかしむ。

4月15日
10:30出て経堂にて下車。中華そば食ひて登校。講師室に野田宇太郎氏あり。講義要項見れば百瀬氏とわれのみ新任教授なりし。研究室きまりゐる様子。
芳野君より電話「林dr.に(※新居祝に)鏡贈らん」といふに反対せし。文化史2年生の女生2人来り7人。早々すまし野田氏とまた話す。「蒲原有明の碑文を矢野峰人先生にかいていただかんと訪問」と。
浅野晃氏に電話してきけば「けふ三水会あり」と。ゆくと云ひ、校門を出れば声かけし鈴木秀穂とcoffeeのみ、新宿よりの地下鉄にはじめて乗り西銀座下車。
腹へりて松坂屋食堂にてくひ、山葉Hotelにゆけば、村田謹一郎と会ふ。ともに「飛鳥美術」と「新しい製鉄所」を見て17:00となり、新橋にてしるこおごり、三水会にゆけば浅野氏あり。けふの講師は高山岩男博士と。中立性を説かる。21:00了りて齋藤氏に東洋大学のこと伝へ、地下鉄乗場にて別れて上野をへて帰宅。
不二歌道会より速達にて「大鹿卓氏追悼」をと。大江房子よりあやまり状。大江叔母より写真。中に父母の訪問時のあり。立教大学より「明日休講」と。

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4月16日
「大鹿卓氏追悼」を『不二』のため書き11:00投函。林dr.に「梅花一両枝」(※新居祝に)もちゆき、近々『果樹園』の会を同邸でときめる。
Lighterとtobaccoと忘れて出、立教大学にゆけば、手塚教授在室。「学部に聴講生ありさう也」と。中川講師にたづぬれば「松村一雄邸に同居せし時ありし」と。
出て中島利一郎『卑語考(400)』、『ウスリー紀行(120)』、『ゴビ沙漠探険記(120)』買ひ、池袋駅前でrice-curry食ひ、一度駅に出しあと考へ、出がけに見し「大安(※古書店)」の広告にひかれ雨中神田にゆき「大安」にて『万暦野獲編(700)』、『南村輟畊録(280)』、『清代碑伝文通検(640)』とを尋ねしに未着と。「予約せよ」といふに署名し、『鄭成功収復台湾記(30)』、『聊斎志異原稿研究(220)』、『太平天国史料(540)』と買ひて出、水道橋までに宮崎来城『鄭成功(50)』と『萩原朔太郎遺稿詩集(30)』と買ひて帰宅。
けさ住山重子より「山本実子と学院に訊ねしもわからざりし」と。平凡社橋本襄尓氏より『アジア歴史事典』の受否返事せよと。
安西均氏より「福岡へ転任、送別会のあと足挫きし」と。夕刊に「神崎驥一けさ死にし」と見ゆ。
(聖心女子大の佐野生『乾隆帝伝』を返却に来しと)。

4月17日
大江房子11:00来訪。大江叔母、住山重子へハガキ書き、平凡社に3項書かずといふ。河出書房より『西洋史物語』3版の印税4,000来る。
堀内歴より「富士正晴、東京の宿舎として林dr.を利用してゐる」と。田中万美子に「一度来よ」といひやる。
午后、父より「浦口町にうつりし」との通知(16日出)。川久保来り、夕食してゆく。送り出し三枝康高『日本浪曼派の運動』買ひ来る。伊東と保田とを論ず。

4月18日
成城大学へと6:30起き、7:30出てゆけば8:40なりし。聴講(東洋文化史)男女合せて40名。この次より9:00開始とし参考書のみ挙げて出る。百瀬教授と挨拶。関本講師(女)も身体検査でしりし美人。「4月分俸給5月4日」との手紙と、山本書店よりの「古書展するにつき本売れ」との手紙とあり。
丸重俊来ず。高校へゆき山川女史(※山川京子)より樽田教諭に紹介受け、重俊のこときけば「女性的」と。講師室に帰り『成城文芸』のための「参考二題」の初校を見、大に電話かけ「13:00ゆく」といひ、昼食して出、下北沢にて乗換へれば吉原陽子に会ふ。「先月16日に結婚、近々池袋に越す」と也。
大に会ひて万美子のこと云へば「承知した」と。「陽生(※青木陽生)この間来りて借金申込みし」と。
渋谷でしるこ食ひ、帰りて渡辺三七子より「30日上京、坂根に泊る」との手紙。辻芙美子よりの手紙。岩田夫妻の「幸せ」との手紙を見、夕食はじむれば坂根来り、ついで山本陽子来て22:00までゐる。
坂根生は今夜下阪ゆゑ「渡辺三七子に連絡せよ」といふ。依子けふ鬼怒川温泉へ泊りがけでゆく。

4月19日(日)
10:00万美子来り、大に電話かければ「外出」と。「近々ゆけ」と云ふ。11:30出て雲呑くはせ、平凡社より「瞿九思(※明代学者)」他2項かけとのハガキに「瞿九思のみ諾」と返事かき、13:00ホテル松平へゆく。
前川氏(※前川佐美雄)すでに在り。beerのまされ、14:00よりの大伴道子女史の『明窓』出版記念会のspeechに中谷孝雄、篠原敏之、浅野晃、栗原潔子(中原)、生方たつ江、伊藤佐喜雄、安藤(柳沢)彦三郎、蔵原伸二郎、榊山潤の諸氏とともにやり、すみて記念撮影後、また夕食たまふ。
佐々木治綱、川田順夫人などと挨拶す。18:30伊藤と出、近々富永次郎氏と訪うふこととす(丸重俊に電話し「あす昼講師室へ来よ」といふ)。

4月20日
傘もちて出、8:45着。2年の中国文学404教室にて4〜50人。ついで3年の中国文学史25人。ともにtextなくて講義できず。2年の講義に相馬弘来てをり「追試受けよ」といふ。
栗山部長に会ひ、あす教授会に出ることわかる。12:00まへ阿南惟敬氏来り、麓保孝氏の紹介の名刺もつ。帰りて講義要項送ることとす。
芳野清君より電話、「林氏への祝に文字をせん、2,000円位」と。丸重俊来りしゆゑ、成城堂へつれゆき岩波の独和辞典を取りよせることとす。
辻芙美子、加藤(岡本)和子へのハガキ投函し下北沢下車。「Penguin」のぞけば尾崎秀眞翁の次男をり、high-ballとcoffeeとのみ、出しあと顔の赤きを消すため中華そば食ひて帰宅。〒なし。

4月21日
8:45成城大学へ着。短2Aの私語に不快。郵便局へゆき眼鏡かけし奥さんに咎められ、肩を小突きて云ひ返しあとにて不快。
馬淵東一氏(都立大教授)に紹介してもらひ、岡正雄氏の名出せしにあとで敵同士とわかりこれも不快。
会計へ扶養家族票と住民票とを出す(史は税のみの扶養家族と)。
けふ研究室出来上り、松村達雄に会ひし。学長より「4月1日付教授に任ず」の辞令もらひし(同時にゆきし大藤氏、定員不足のためとことはり云はれゐし)。
14:10まで待ちて教授会。聴講者に2女学生わが「中国文学史」きくとなりし。
16:30すませ、まっすぐに帰宅すれば田中正平まちをり。夕食させ「藤井寺の法事ゆけず」と云ひし。児玉生より「人生の墓場云々」の結婚通知!

4月22日
よべ下痢。史学研究法のnote作り、早ひる食べて12:30出校。独和辞典(750)買ひ、講師室にゐるを阿部知二と識り、挨拶せしも冷淡!
史学研究法17人出席。すませて「柳田先生研究室へ来られし」ときく。今井富士雄氏に「『二十四史』(3万円にして品ありと山本書店に電話してきく)買ってくれ」と置手紙して帰る(丸重俊に辞典わたす)。
往復ともに『蜻蛉日記』をやるといふ小口生と同車。杉浦美知子夫人(※杉浦正一郎未亡人)より『おくのほそ道評釈』。
城平叔父より5月3日の50年祭の案内。『文芸日本』の懇親会を25日18:00よりと。
あとにて速達にて角川文庫『Heine恋愛詩集10版』1,500枚の印紙。
児玉敏子、原氏夫妻へ祝のハガキ。『文芸日本』へ欠席の通知。山本陽子来り、浅野建夫に紹介状かかし、夕食して帰る。
二夜つづけゆめに見し子は怨みゐずけさは長男戦死のゆめを。
夜半めざめ城平叔父へ「史、代理に出よと手紙出す。その上にて返事す」と。史へ「出よ」との手紙かく。(けふ高崎の松本悦治君、『コギト』を返却に来しと)。

4月23日
よべの雨、朝止む。4:00起きて眠れず。不快なれど11:00王子第2小学校へ投票にゆき、都知事に有田、都会議員に飯塚の名かく。一旦帰りて安田明子夫人より「星野夫人を訪ふ日きめよ」のハガキ。兼清隆二氏の「転居通知」見て立教大学。研究室にて大久保利謙(名大より転任と)、清水博2教授の紹介受く。(あとにて主任に清水氏新任とききし)。
教室2ヶ所に別れいづれも新館。13:00まづ2階にゆけば無人。「研究室に来よ」と書き、待ちゐれば、来しは4年高田。ともに333号へゆき、話す中、3年平塚生来り、それぞれに『太祖実録』貸し、「来週より13:25開始」ときめて研究室に戻り、手塚教授に礼云ひ、教務へゆき会計へゆけば「通告なく計上しあらず」と。
出て駅より電話を聖心女子大教務にかけしも応答なく、やめて帰宅。安田夫人へ時間割写しやる。杉浦夫人、兼清隆二君にハガキ。

4月24日
悠紀子、鈴木氏にゆき、われ留守番。「白井の坊や(紘史)より電話かからざりし」と。阿南惟敬氏より「講義要項うけとった」と。
丸三郎より「重俊毎日愉快そうに通って居る」と。白井の坊やへ「いつでも来よ」と。
午后、知事選で東京都知事東奄太郎勝ち、大阪でも水畑孝良氏負け、佐藤義詮勝ちとわかり不快。
15:30帰り来し京に留守させ、王子中学に山口広氏訪ひしに「帰宅」。藤田亮策先生訪へば無人。
大野家へ寄れば昌子帰らず知子無言。不快なる日なりし。
クセジュ文庫『人類の誕生(80)』買ひ来る。
夜ふかくひとりしづかにゆくひとをわれもさびしく聞きゐたりけり。

4月25日
8:40成城大学へゆく。新宿の昇り口の混むに驚きし。東洋文化史の聴講多く、室に満員なりし。すみて暉峻博士に久しぶりに会ひしに「洋行中の板坂元氏(杉浦正一郎の教へ子)の代りなり」と。
佐藤助手にいひて「岑参2題」の再校もらひ、校正するところへ電話、大阪の中島悦子生にて13:00東京駅へゆくまでひまありさうなりし故「新宿駅のplatformにて11:30に待ちあはす」こととし、急ぎてゆけば11:15。それより12:00まで待ちしも来ず。一度山手線にのりしも引返し12:30頃までにまだ来ず。
そのままお茶の水へゆき明治書院に内河たけ子氏を訪ひ『史記文粋』のこときけば「5月10日ごろ出来」と。古版1冊もらひ、東京都民銀行のぞき見しに「加藤定雄君昼食中」と。
出て古書会館のぞけば『康熙字典(50)』『満洲の美術(50)』あり。昼食代なくなり東洋史談話会(村上正二の帰朝談)やめて帰宅。
大江房子より特急券買へざるを云ひ来る。やがて山本陽子来り、浅野建夫dr.に会ひて「3年間静かにせよ」と云はれしと。Cake1箱呉る。気の毒なり。夕食すすめしも帰る。今夜より炬燵を入れず。

4月26日(日)
暖かく家居。安西均氏より「家にて養生しをり、来よ」と。『東洋史研究17-4』。史より「5月3日藤井寺にゆくこと承知」と。
午后、白井紘史君来る。紙博物館へつれゆきしに日曜休館。夕食せしめて帰す。中島悦子より速達「父母には会ったことにする」と!?
山形睦子、美堂正義2君へヱハガキ。中野□□君へハガキ。
思ふことあまたしあれば汝がおもひしらせよとこそわれは書きしか。

4月27日
雨。成城大学へゆく。新宿の混雑に苦しみ、1時間30分かかりし。1時間目中国文学はまだよく、2時間目学部3年の女生活やめず、困る。
独乙語の春田教授に自己紹介す。高橋邦太郎氏休講とて会はず。健康保険のこときけば「来月中頃証票出来」と。渡辺三七子より「29日乗車、 1,2,3の3日の中に会しん」と!
毛沢東辞任、劉少奇主席となる。

4月28日
成城大学へゆく。短2おとなしくてうれし。『平家物語』に詩経を引く3ヶ所うつし、図書館のcardの排列手伝ひ、今井氏に会へば中華書局の『二十四史』ありし。
松村君と会ひしあと13:00新入生歓迎会といふに出て、丸重俊と会ふ。学科の自慢会に出さる。すみて出、青山定雄氏にゆけば聖心女子大より帰られしところにて、われ解職にてはなからんとの意見なりし。
出て池袋より教育大のbusにて林dr.。京の風邪薬もらひ『果樹園』の会を5月10日と仮に定む。
帰れば〒なし。けふ新聞講座の山本文雄氏と話す。われと田中順二郎君とを親戚と思ひをる。
帰りの電車で話せし女生は熊本水前寺の福島生なりし。21:00案内あり、万美子にて「城平叔父来り、大阪へ帰れとすすめし」と。「あす大を訪ねるつもり」と。
(けふ栗山部長より「主任きめよ」とのことに大藤、今井2氏と話せばわれになれと云えはれ不快。)

4月29日(祭日)
肥下恒夫へ『コギト』33冊分けてくれと手紙。塚山勇三君「裾野高校へ転任」と。安田明子夫人より「2日13:30東横書籍売場にて待合はす」と。『薔薇』43号。

4月30日
岸明子へ「承知した」と。大江叔母より「史には芦屋以来」とのハガキ見る。
『桃』5月号に保田の新居は「身余堂」と。11:30出て東上dept.にてrice-curryたべて立教大学へゆけば海老沢教授をり、「和田先生今年度は休み(隔年講義と)、われはあり」と。「241教室へゆきし」といふ学生来しゆゑ「333教室へ来よ」といひ、13:20ゆきしに来しは高田、平塚2生のみ。Fekulen(※清朝の始祖天女)を「佛姑人」と教ふ。
(けふ4月分手当4,500−360=4,140もらふ)。高橋秀君、一般教養の専任となりしと会ふ。「めでたし」と云ふ。
14:10すませ手塚教授(本日を以て清水教授に主任ゆづると)に挨拶し、古本屋見てまはり、生松敬三『森鴎外(200)』、辻『日支文化の交流(100)』、長沼『和漢の散歩(100)』買ひして帰宅。
八木さんよりハガキ(忙しと)と292.2のtype3p。青木弥与子より「5日〜10日高島屋にて父君の展覧会あり。来て話せ」と。
(けふ立川pen Co.東京支社に電話し「あす15:00電話するゆゑ、ゐよと渡辺嬢に伝へたまへ」と云うふ)。
古本屋にて荷風カリント食ひて死にしとradioの報ずるをききし。79才と。
小高根二郎氏に1,200包み、高橋重臣君に「5月10日在京なりや」をきく。

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5月1日
雨。立教大学より「5月5日の創立5周年祝賀宴に出るか」と速達、「欠」と答ふ。
11:30家を出て渋谷より都電にて聖心女子大へゆき、和田先生来られざるにさびし。5時間目は『韃靼戦争記』を教ふることとす。学生48人? 6時間目は『忠王李秀成自伝』にてこれも34名と。前年より多し。
時間のあひまに立川pen Co.に電話して道きき、雨やみしもゴム長はき傘もちて地下鉄神田より須田町に出て豊島町下車。大和町の支社にゆけば、まもなく渡辺三七子来り、支店長に謝してつれ出す。(神田駅までautoにて送りくれし)。Coffeeのませてのち家につれ帰り、夕食せしむ。「大崎の叔母宅にけふ泊り、3日(日)に再訪」と。
けふ岩崎昭弥より「当選す声援を謝す」の同文電報来り、林富士馬氏より「10日(日)の会17:00からにせよ」と。

5月2日
晴。よべ不眠。8:40成城大学へ登校。相良徳三教授より天理その他きかる。高田瑞穂教授、鈴木治をよく知り、紹介すとのことになりし。
東洋文化史聴講多く、402教室に変更。出欠とれば出席半数。
10:30出て下北沢に下車。鴎外4冊(『蛙(200)』『一幕物 正続(150)』『ギョッツ(150)』)と『楊貴妃とクレオパトラ』2版(100)とを買ひ、天丼くひ渋谷へ出、coffeeのみしあとnews映画見てやっと13:30となり東横dept.。
6階書籍売場にゆきしも14:00まで安田夫人来ず。画本2冊(180)買ひて地下鉄にて神宮外苑前にゆけば藤井夫人と星野の坊やと待つ。「電話を気にして夫人(吉川綾子)家へ帰りし」と也。
19:30までご馳走となる。星野敦志とて龍猪氏の養子。養父母とは殆ど別居同様。また地下鉄にて渋谷に出て別る。美堂正義より手紙。
男らの卑怯好色責めゐるとたよりよこししことは忘れじ(けふ東横にて松村達雄君に遭ひし)。

5月3日(日)
浅賀千里生よりのreportと平凡社より「岳起」かけとの速達。ついで白井紘史より「土曜成城大学に来しも帰りしあとにて月曜2時限すみしころゆく」との便り。
『果樹園40』と小山正孝君より『ガリア戦記』と来る。渡辺生待つ中、11:30となりて眩暈し、貧血とわかる。
そこへ来りしも不快にて、近くの医者へゆけば他出(林dr.に悠紀子をして電話かけしめしに他出なりし)、夫人に注射してもらひしもなほらず。
浅草へ坂根生をして案内せしめ、炬燵いれて昼寐、ややよくなり夕食せしところへ19:002生帰り来り、栗おこしと苺とくれし。すし食はし21:00すぎ坂根の宿へゆかす。
けふHeineの10版来り渡辺に与へ、昨日の『楊貴妃とクレオパトラ』を太田夫人にと托せし。

5月4日
無理して登校。月給呉れるとの故也。(「岳起」かかずと平凡社に返事。村松正俊氏に『果樹園』39,40)。
1,2限とも旨くゆきし。白井坊や来り、ともに出て成城園で炒飯。古本屋にゆき『西国立志編(60)』、『義経記(30)』。「車」にゆきcoffeeのます(成城駅にてけさ浅野忠允君に遭ふ。老いたり矣!転居せしと也)。
学校へつれ帰り、芳野清君に電話すれば「欠勤」と。(相馬弘はじめて良き詩かきしを見せ、聴講の2嬢挨拶に来る。一人は青山学院大にて諸橋博士に習ひしと也)。
高橋邦太郎氏に久しぶりに会ひて「松田みすほ夫人と親類ならずや。松田氏とは仏印にて終戦ともにせし。レバノンより帰り云々」と。
13:00前、会計へゆき4月分salaryもらふ(29,700+1,600+6,260=37,560。所得税1,010。親和会100。差引36,450)。
出て下北沢、古本屋3軒を見、Richthofen『支那旅行日記 上(100)』、『日本漂流奇談(30)』、魯迅『支那小説史 上(120)』、『原爆の図(60)』買ひ、「Penguin」によりcoffeeのみ、帰りて3,600わたせば金1,000以下となりをり。
夕食後、林dr.に『立原全集』5冊もちゆき、風邪の診断うけ注射と投薬。
『文芸日本』の若手2人と会はされ、beer賜はり、敏感との評語もらひて帰宅。
Herz(※心)ふかく受けしいたではまだ癒えずむなしく一日さまよひてあり。
けふ川崎菅雄より「class会名簿訂正せよ」と。鶴崎裕雄より「神崎驥一胃癌の診断に悩みし人間性云々」。
青木弥与子「羽根栄治と15日(金)帝国Hotelにて披露、15:30来るや否や」の案内状。

5月5日(休)
小山正孝、鍛治初江、西宮一民、植村清二、八木嬢の諸氏にハガキ。青木大乗展の案内。小山正孝氏より『ガリア戦記』賜ふと(※前述)。小高根二郎氏より「24号までの同人費受取った。服部三樹子氏消息不明」と。
散髪し、西川に電話すれば「昼寐中」と。15:00出て西川にゆけば起きて来て「鎌田正美の東京への栄転はまこと」と。早川敏一学士院をやめ、主婦と生活社の労務部長と!
名簿の訂正たのみて出、都電にて高島屋へゆけば青木弥与子、生悦住、坂根の3生まちをり、15日の披露に出ることとなる。心なぜかすすまず。
坂根生と東京駅前に出、冷しそば食はせて家へつれ帰る。20:30送り出して服部女史に電話すれば、をりて「歌より外のことやる。17日は出てもよし」と。
けふ午31度の酷暑。

5月6日
けふは普通の気候。チョッキ着て、岩崎昭弥詩集『墓碑銘』と首位当選を報ずる『岐阜タイムス』ならびに「10日の会に出る」といふ高橋重臣君のハガキ見て成城大学へゆく。
駅にて「先生」と来しは辻和子。洋裁に通うふと。
ゆきて阿部知二、野田宇太郎の2氏と話し、芳野清君に電話すれば外出。史学研究法すまし、相馬生の東洋文化史を放棄とききてのち、図書館にて『東洋歴史大辞典』を見、15:00出て下北沢。
中村屋の羊羹買ひて和田先生お訪ねすれば嬢様「30日に日大の教授会にて倒れ入院、面会謝絶」と。悲しくてならず、高田馬場にて下車。都電にて堀口太平君訪へば「多忙」と。
17日の会のこといひ、都電を早稲田にてのりかへて帰宅。
白井紘史より古本のこと。村松正俊氏より「一度会ひたし」と。浅野、芳野、林、高橋の諸氏に会の案内(17日14:00から\300でと)。白井紘史へ「本不要」と。

5月7日
坂根千鶴子より「積極的でないと云はれ眠れざりし」と手紙。林dr.より『立原全集』をよんでゐると。
立教へゆき研究室無人にて、菅 祝四郎君訪へば「ここにはをらず」と。特別手当6千円もらふ。
講義了へ手塚教授に和田先生のこといへば「知らず」と。出て『支那戯曲物語(120)』、『蒙古旅行(250)』、『東洋文化史概説(80)』買ひ帰宅せしに無人。
王子中学に山口広先生訪ね、礼云ひneck-tie贈る。「新宿区揚場町は飯田町の近く」と。
けふ史より「5月3日の前の晩より大江に泊りし」と。坂根・鶴崎の2生へ返事。堀口、西垣、服部の3氏へ会の通知。

5月8日
国鉄上野より地下鉄にて高島屋。青木大乗画伯夫妻に会へば「弥与子君まだ来ず」と。中国古代彫刻展見にゆき(200)、唐代俑に感激して帰れば弥与子君をり。食堂につれゆかれ鰻丼たまはる。「新郎は非鉄金属会社社長にて31才。母、妹と4人ぐらし」と。別れて地下鉄にて渋谷。Busにて聖心女子大。
海老沢教授に和田先生のこと伝へ、2組教ふ。2時間目に正田恵美子(※美智子妃妹)の名あり、その人を見ず。
出て青山学院前で下車。古本屋をまはり、『杜甫 下(120)』、『西廂記(100)』、『中世モルッカ諸島の香料(150)』、『吉利支丹宗門の荒廃(60)』、『読書遍路(100)』、『遊仙窟(30)』、『Histry of China(200)』、『マルコポーロ旅行記(180)』と買ひ漁り、中村書店に『四季』の欠本4冊をたのむ。『詩集西康省(500)』、松下武夫『山上療養館』、『青い花』などありし。
「不二」にてcoffeeのみ『支那地図』忘れしを追ひてもて来、うれし。帰りてねまき着れば(途にて悠紀子に送られし鈴木元夫人に会ふ。婿と嫁と喧嘩してゐたたまれずと語りしと)、坂根・山本2生来る。
22:00帰るまでに眠くなりし。けふ高島屋にて三上次男夫妻、桜井芳郎氏に遭ひ、大鹿卓追悼の『不二』来り、渡辺三七子、同叔父藤本宗治氏の礼状。
伊東花子夫人の「嬢の縁談世話せよ」との手紙。椿下清子生の「中学教師やりをり。中西義章夫妻と識り合ひにて、吾と同級なるに驚く」との手紙。堀ノ内歴より『果樹園』の詩よんだと。

5月9日
雨。8:40成城大学着。講義し、浅賀生の補点80と届け、芳野清君より「木曜電話ありし」とききて出、豪徳寺にてrice-curry食ひ、玉川電車にて三軒茶屋(13)。『鹿鳴集(30)』、『きりしたん史入門(40)』、『靴の音(150)』、『日本風俗史(90)』、『浮世絵(30)』、『印度の法律思想(40)』と買ひ(『印度の法律思想』はdoubleゐし)、cake(220)買ひて安西均氏訪ふ。
「服部三樹子氏の歌集ほし」と。Whiskyのまされんとせしも謝して、三軒茶屋より伊勢丹行のbusにのれば、下北沢を通りし。
帰れば浅野晃氏より「17日の会承知」と。西宮一民氏より「山田俊雄氏に受取りもらひし」と。

5月10日(日)
9:00高橋重臣君来訪。「1ヶ月1.2万円の留学旅費」と。「八木女史うちのかかあより年よりに見えて部長」と。
12:30ラーメン食べてともに出、池袋で別れて、成城高校長室の国語部会にゆく(豪徳寺前にて下車、『李太白(60)』、『支那の風土と建築(30)』、『元明清史略(300)』買ふ)。
図書室にと『李太白』わたし、生徒の出来ざるをきく。17:10散会。神田信夫邸に寄りて見れば無人。
帰れば鈴木元夫人をり、正平留守中に来て母の書きし譲叔母の歌おきゆきしと。21:00まで話し、悠紀子を叩く。

5月11日
8:30成城大学。1時間目、私語せし男学生に「出てゆけ」と叱り不快。栗山部長に主任のこと云へば、早速「遺物整理棚20万円と書籍20万円に決定のことを文化史courseに伝へよ」と云はる。
大山教授「41才にて給料少し」と。浅沼講師「本学は人件費が95%」と。高橋邦太郎氏と話してのち退去。
帰宅すれば鈴木元夫人(林俊子)をり、万美子玄関に来しところ「この間、大に会ひ親切に云はれし」と。「またゆけ」と云ひ入浴。
17:00鈴木夫人帰りゆく。(湖東博士に紹介状書く)。けふ芳野清氏より「会承知」と。

5月12日
傘もちて成城大学。1時限すませ、神田信夫氏訪ひみればまた全家無人。
矢田『三月革命(60)』買ひしも帰りてdoubleとわかる。成城園にて中華そば食ひて帰校すれば芳野君より電話。
12:40身体検査受く。血圧105、視力0.02匡正0.3にて注意さる。(大藤教授に予算40万円通りしこと伝ふ)。
松村達雄君来り、あとにてと思ひ、教授会に出て15:05すみしあと、気持変り、萩原葉子氏に電話かけて「ゆく」といひ、15:40行き話せば、「昨日満17年にて前橋へゆきし」と。ふしぎなることかな。
(けふ八木氏に292.このcopy不要と便りかき、渡辺三七子に返事かき、岩崎、堀ノ内2氏にハガキかきし)。
東洋学講座の案内来りし。

5月13日
大の戯曲集『女優の死』来りしを見て登校。阿部知二、野田宇太郎2講師あり。史学研究法すませ野田宇太郎氏と「田中正平博士夫人に会ひにゆかん」と云ひ、出て神田信夫氏を3度目に訪へば夫人をられ、「(※和田)清博士脳血栓にて胃潰瘍併発。お茶の水の日大病院にて日々帰宅したがりたまふ」と。
出て高田馬場下車。面影橋まで歩き足疲れ都電にて帰宅。
伊勢寿美江(神山町)、子をつれて来り、「母家を出て、帰阪したか我家かと尋ねに来し」と。女の子■つれて土産買ひて帰らしむ。
鍛治初江よりハガキ。けふ果樹園社へ詩を速達す。

5月14日
晴。7:30速達、藤野一雄君より「小林英俊上人13日死亡。葬儀15日14:00」と。弔電「タソガレヲウタヒシヒトハユキマシテクラクサビシクナリニケルカモ」と小林明美嬢へ(120)。
『詩人連邦』見て立教大学へゆけば「史学研究室、新館へ遷りし」と。ゆきて手塚教授の室を見る。明るくて宜し。241号教室へゆけば聴講人を加へ3人となる。すみて古本屋見、ice-cream食べて帰宅。
渡辺三七子より『楊貴妃とクレオパトラ』を太田夫人に渡せしと。あす聖心女子大休講ときめ、のん気なり。

5月15日
晴。小林英信(喪主)より「円満寺住職英俊氏13日1:45往生」の通知。同時に河村dr.よりわが「負托に応へ得ざりし」と。
正午、顔剃りにゆく(70)。帰れば岩崎昭弥より速達「小林氏の密葬に出し。詩集は残部なし」と。
14:30出て東京駅下車。西川英夫訪ぬれば不在。階下の「蘭」にてcoffeeのみ、taxiひろひてゆけば帝国Hotel15:45。来客に一人も知合なく、席は下席にて隣りは新郎羽根氏の親友と。羽根氏は慶応出にて大正13年生れの伸銅屋。みな新郎の商売かねし披露すみてわれ挨拶し、隣の友にautoのせてもらひ東京駅へゆけば、東海道線21:00まで不通、(※新郎新婦)autoにて箱根へゆくこととなる。帰りて隅田先生桃山学院停年の御挨拶を見る、「教育47年」と。

5月16日
雨。成城大学にゆき東洋文化史を講ず。すみて今井氏と話し、林dr.に電話すれば「森房子氏あすの会に出席」と。
12:00帰宅。昼食し、入浴す。16:00出て白金台町の八芳園といふにゆく。教職員100人に近く出席、われ今井、若菜の2君の近くに坐り、若菜の「面白くなし」をききて散会。目黒駅近くを散歩して帰宅す。
梅雨のごとおもくくもれる空のもといぶせくなりてわれもゐたるを。

5月17日(日)
晴。悠紀子、柏井玉叔母へとゆく。万美子、正平を紹介の為なり。われ13:00出て林dr.に(※新築祝の会に)ゆき、夫人にけふの会相談すれば「任せよ」と。やむなく待つ間に野長瀬正夫氏診察受けに来る。
そのあと久礼田夫人服部三樹子氏同道、浅野晃氏来り、芳野君を最後とす。(堀口太平君「夫人病気にて来られず」と)。
服部女史「このごろ霊媒となりをる」といひ、浅野氏の求めに萩原朔太郎先生を見ることとなり、わがもちゆきし全集の写真を見て戦慄、「地獄にあり」と報告す。慄然!!
17:00浅野氏帰りしあと、すしよばれ会費とられず。ともに池袋に出てice creamたべて散会。
帰宅すれば傘返しに来し坂根生まちをり。これも21:30去りしあとわれ疲れて何もせず。
(けふ(※新築祝の)林邸表の文字出来、浅野氏500、われと芳野氏と750づつと定む)。

5月18日
雨。成城大学へ登校。2時間教ふ。学生やうやく怖がる様子なり。栗山部長に服部女史のこといひ、社会科教員免状のこと云ふ。昼食すまして退出。まっすぐに帰宅。
『明窓』(※大伴道子『歌集明窓』)出版記念会の写真来る。岩田知子(原方と!)より「結婚後おもしろくなし」と。
弓子の先生山口広氏来訪。字典を賜ふ。

5月19日
成城大学へゆき短大2年を教へ、山本文雄氏とともに出てcoffeeおごらる。和田先生の病気伝へし。目白で下車。古本屋見しも何もなく、池袋までbusにのりてのち帰宅。
井上斌子より「父失敗、職探してくれ」と。坂根千鶴子より「大に世界戯曲全集借りにゆくに同行せよ」と。
平凡社の明日締切の『アジア歴史事典』の「阿敏、アルバジン、烏珠穆沁(※ウジムチン)、烏蘭察布(※ウランチャブ)、ウラン・バートル、王昶(※おうちょう)、鰲拝(※オボイ)、鄂博(※オボー)、鄂尓泰(※オルタイ)(2枚にす)、翁牛特(※オンニュド)」を書き、気がつけば2:00なりし。

5月20日
晴。朝「Obu(※鄂博)」のつづき書き了へ、平凡社に送り、睡眠不足のまま昼すぎ成城大学へゆく。
史学研究法に出席の2年不快。ただ一人岩手出の鈴木健司といふがまじめゆゑ呼びて話す。庶務課へ健康保険のこと問合せにゆけば「まだ」と。
鈴木正義と出てice-creamたべ、下北沢で下車すれば20日にて定休日。池袋より上十条へゆき見れば、ここも定休なりし。帰れば父より「母と25日上京」と。東洋文庫より『満文老檔 太宗T』と『華夷変態 下』と来あり、うれしく和田先生に謝し奉る。
けふゆきがけ同車せしは聖心女子大の谷宏氏とて「20年ハルマヘラ島にて陸軍大尉たりし」と。話しつつゆきし。
夕方、筑摩書房より『現代詩集』5版までの印税393×4−58×2=780(1,572)来りし。朝の便にては久礼田房子夫人より「紹介たのむ」と。
小林明美嬢より「父死んだとは思へぬ」と。高松直子より日生の入試につき。

5月21日
久礼田氏女婿橋本氏の家のことにて青木大乗夫妻、小出楢重夫人重子に紹介状かく。高松直子、岩田知子へ返事。
東洋文庫、筑摩書房へ受取。12:30までかかり、清代史のノート作り。丸三郎より「家内明るし」。山本陽子生より「中西博士へ紹介状を」と。白井紘史より「早稲田へゆかう」と。大の『女優の死』(※戯曲集)の出版記念会31日(日)。19:00〜21:00有楽町レンガにてとの便り見て立教大学。
14:30すませ、2生さそひてcoffeeのみ、久礼田夫人と五反田駅前で会ひ、紹介状わたし、coffee代払ば菓子一折たまはる。
服部女史の発作については心配いらずと也。別れて亀戸へゆき、カズミチに会へば「成績向上」と。「叔母よりたよりなし」と。連れ出して鰻くはせて帰宅。

5月22日
晴。藤井陽子より「雑司ヶ谷に移転した」と。平凡社より「原稿受取った。のこりは5月末までに」と。
聖心女子大へゆけば講師室ひっそりとしてをり、和田先生の居まさぬ淋しさ抑へがたし。『韃靼戦記』を即座に訳して苦しかりし。
出て大に電話かけしに「外出」と。速達出し『水沫集(50)』『考古学の研究法(130)』買ってのち、雲呑くひて帰宅。
けふ聖心女子のsalaryもらひし。和田先生は無給らし。某先生にとってもらひし写真もらひ来し。

5月23日
雨。成城大学へ登校。文化史に朝鮮の話し、salaryもらひ(共済組合費2,340)、健康保険証もらひ(史の在学証明書出せと)、今井氏と一寸話して出、池袋で下車。鰻丼くひ、雨ゆゑ東洋文庫にゆかず、李長傅『南洋史入門(80)』買ひて帰宅。26日(火)15:00立教大学の史学談話会と。『民間伝承241』。

5月24日(日)
椿下生への詩の批評書き、13:00出て東洋文庫。市古宙三君に会ひしも和田先生のことはあまりわからず。
雨中を出て丹波鴻一郎訪ぬれば袋田温泉より帰りて表口へつきしところ。話きけばこのごろ勤めにもゆかざる様子。和田先生の重症伝へしも驚かず。松本善海に電話すれば坊や出て「松山へ帰省、木曜ごろ帰宅」と。また雨中を日暮里下車。高橋重臣君の下宿訪ぬれば「昨日より帰らず。けふは東大の五月祭か」と。置手紙して帰宅。
けふ萩原葉子さんより「モモンガ入手、三浦久子氏結婚はデマ」と。悠紀子をして大に電話せしむれば「大毎の出発が25日」と。

p12

5月25日
久しぶりに晴。相良徳三郎教授、修学旅行より帰り、参考館のこと云ふ。「大毎の記者たりしことあり」と。栗山氏に会ひしも話せず。
万美子より電話かかり高橋邦太郎氏15:00まで来られずとのことに「大へゆかん」といひ10:30出て経堂下車。苺(100)もちて小高根太郎を訪ふ。陶器作りをつづけてやりをり。
出てラーメン食ひ、下北沢をへて渋谷。東横dept.休みゆゑ、大のapartへ直行すれば「歯医者へ」と。青年2人をり、大掃除す。
13:20万美子より電話かかりし故「直接来い」と云ひ、来てまもなく日活の某氏来り、大帰り来る。「万美子をその中televi局につれゆく」 と也。「明朝父母迎へにゆくか」と問はれ「悠紀子に訊ねる」といふ。坂根生の要る世界戯曲集なしと。
万美子と出て餡蜜くはせ「房子を訪ふ」といふに別る。
池袋にて下車。坂根生を研究所に訪ひ「明日大学にて探してみん」といふ。
けふ小林英俊姉弟へ弔み状と1,000。井上斌子へ「山中タヅ子の父に就職たのみてよきや1週間以内に『No』なら云へ」と。
〒なし。悠紀子に林dr.にゆかしめんとすれば「あなたこそゆけ」と。突如腹立ちて鋏でなぐり負傷せしむ。
(けふ平松幸彦『蒙古(80)』買ふ)。

5月26日
悠紀子父母を東京駅へ迎へに6:05出てゆきしあと、三女に先立ち出る。山本陽子へ中西義章への紹介のハガキ。萩原葉子氏へ礼状。
篠原事務局長に教員免許状のことききにゆけば「まだ」と。あけぼの書房にいひ『中国詩人選集総索引(180)』入手。
高尾嬢に「手紙来ずや」ときけば「来し」といひしあと変にて、失ひしこと判明。憂鬱。
図書館へ『明史』見にゆけば柳田国男先生をらる。一揖せしのみにてすませし。
14:00の教授会まち松村達雄と話す。けふ来ゐし学園理事の坂手氏に高田瑞穂氏より「鈴木治氏の妹婿」とて紹介受く。
そのあと佐野教授「松村一雄氏と同級」ときく。「もと大阪府立女専の先生なりし」と。教授会すませ連絡きれしゆゑ行かぬの速達し、渋谷の大のところへゆけば父母をり、母「健のもとにゐづらし」と泣き、大「父母を近くに呼寄す」といふ。
帰りて里井千鶴子より「この間上京した」とのハガキ。林富士馬氏より「Letterはお3人よりと承知した」とのハガキ見る。
坂根生来り、近代劇全集のアメリカ篇もちゆく。その間速達来り「和田先生の代りに“アルタン汗”、“ウリャンハイ三衛(※蒙古遊牧民の一種)”書け」と平凡社より也し。
けふ弓子の留守中に中村書店来り、あす来るかもしれぬ様子なりしと。

5月27日
悠紀子、父母を歯の治療に数男のところへつれゆくと出てゆきし。われのみ残りしも中村君来ず。岩田知子より礼状。税務署より「近々3万円払ふ」と。
弓子帰り来しゆゑ出て成城大学へゆけば、速達来をり「都合悪し」と。機嫌直り、電話にて「来る」といふ西垣脩君待ち、来しを野田宇太郎氏に引合せ、ともに出て下北沢下車。石川啄木の義弟とかいふに会ひにゆきしも北海道と。「ペンギン」へつれゆき森本ヤス子氏に引合せ、時間おそくなっていらいらす。
17:20出て渋谷をへて地下鉄。西垣君『糸屋鎌吉詩集』の出版記念会発起人引受けよとの用なりし。
虎ノ門にて下車。「三水会」にゆき田中忠雄氏の話きく。日教組講師団名簿に竹内好あり。高山岩男氏の中国の「専制政治」につきての意見面白かりし。21:30すみて浅野氏に服部女史のこときけば「やはり驚いた」と也し。22:10帰宅。
青木大乗画伯より丁寧なる礼状。悠紀子、母より「千草の話ききて困りし。柏井の払ひ克己せよ、大と同じ家に住むつもりなるも健のことにて困る云々」とききて来しと。

5月28日
朝の便にて宮崎智慧氏より『明窓』出版記念会のときの写真来る。12:00出て立教大学(合服洗濯に出し夏服着し)。
salaryもらひ3人に教ふ。(手塚氏と話す)。すみてまた研究室へゆきしも無人。
三笠宮『日本のあけぼの(130)』買ひice-creamたべてbusにて向原下車。林dr.にゆけば散髪と。
まちて帰り来たまひしにbeerのまされ、服部女史の話きく。「運動となりてよき也云々」。注射打ってもらひ、健康保険証返してもらひ、向原より都電にて帰宅。
角川の中西幹根氏14:30来り「あす夕方再訪」といひしと。(けふ平凡社『中央アジア史』を久保生に貸す)。

5月29日
聖心女子大へゆく。田中保隆教授より「また痩せ玉ひし」と云はる。講義の反応宜しからず。和田先生ゐまさぬを悲しみつつ帰り来る。
山中タヅ子生より「井上斌子心配」と。17:30夕食はじめしところへ角川書店の中西氏来り「古典の窓」といふに「杜甫の人と作品」を書け、稿料は1枚300にて15枚を6月23日迄にと。
帰りしあと見本におきし「古典の窓」の近代詩特集(※創刊号)といふを見て大不快。『図説文化史大系』をハイネの印税の差引にて持来ることを中西氏に頼みし也。やめたしと思ふ。
(けふ池袋西武dept.の宮崎女史の写真の礼云ひにゆく。「前川主宰6月6日(土)来る」と。)

5月30日
午後東洋文庫へゆく(成城大学文化祭とて休み也)。『満鮮地理歴史報告12,13』の「兀良哈(※ウリャンハイ=ワルカ)三衛の研究(和田先生)」みにとて也。
すまして名古屋大学の波多野善大氏を見つけ挨拶すれば「東京転任しらざりし」と。『明代健州女直史研究続篇(675)』頒けてもらひ、喫茶してのち松本善海に電話すれば「夫婦とも留守」と。帰りて史より「困りゐる」とのハガキ見る。「7,000円にて不足」と也。夕方入浴。
けふ留守中、山口実先生お越し『日本浪曼派の運動』よみ亀井氏に共感最も多しとの手紙を挿む。

5月31日(日)
10:30古道具にゆき本棚買ひ、整理して待てば運び来る(2,400)。やがて父母来り、子らにと1,000呉れし。父なにも食はず16:00ごろ出てゆく。東京移住も健に遠慮して行へぬらしき様子。
すぐ山本陽子来り、大に紹介の名刺かかす。中西博士「無理せぬ様に」との診断を名刺にかきてあり。平凡社の事典けふが締切なれど不精。

6月1日
午前中「可賀敦、可汗、何秋涛、瞿九思、アルタン汗、兀良哈三衛」を浄書す。
13:00出て平凡社へゆき稿料にて買取の申込す。歩きて山本書店『李詩索引』その他2冊を成城大学に注文し、『洪仁玕(40)』、『蘇東坡全集索引(130)』、石原道博『国姓爺(110)』、『末代皇帝秘聞(220)』、『白鳥博士記念展覧会陳列目録(150)』買ひて出、東京都民銀行支店の加藤定雄のぞきしも不在。
意を決して日大病院に和田先生をお見舞すれば博徳君夫妻看護され会はさる。
「十二指腸潰瘍おこされし」と。俺答汗(※アルタン・ハーン)と兀良哈三衛書きしと申上げれば、枕頭の『明代蒙古史』受取りしやと問はる。座に耐えずして出ればまた呼び戻され、平凡社さらに書くやとのことなりしならん。
欝々として出、Tokyo Times社の『日英華字典(150)』買ひて帰宅。井上斌子より「たのむ」と返事。

6月2日
8:30成城大学。短大2年おとなしく遅刻せぬ様になりし。白井紘史より電話かかりしゆゑ「11:15新宿で会ふ」といひ、丸煦美子にも遭ひし(けふ丸に電話して「そのうち会はん」といふ)。
新宿よりbusにて早稲田。14〜5軒の古本屋見て、『鉄道院満鮮案内記(100)』、『Taschen蘭独辞典(130)』、『有高満蒙史講話(20)』、『陶淵明(120)』、『高桑支那文化史(60)』、『大類概論歴史学(20)』、『神武天皇起源論(150)』と買ひ、すし食ひ(200)、白井紘史が買ふ本に200貸し、また新宿へ出て別る。
立教大学より「文学研究科非常勤講師を委嘱する」の辞令来あり。
投票にゆき、麻生良方(地方)、辻政信(全国区)に投票す。「佐々木喜市氏再婚祝をす」と三火会(※ママ)より通知。夜、山中タヅ子に「井上斌子たのむ」と手紙。里井千寿子にハガキ。

6月3日
10:30家を出る(けさ9:00まで眠りし)。成城大学入口にて辻政信氏の嬢ちゃんに会ふ。阿部知二、野田宇太郎2氏をり、富永次郎氏に「10日伊藤佐喜雄を訪ねん」といはる。
『史学雑誌17』の「太平記は史学に益なし(久米邦武)」借り出して用すみsandwichたべながら2氏の話きく。
阿部氏「上田秋成について書く」と也。やがて丸重俊来り『利根川図志』呉る。父へ「三火会出るや」の手紙かき、本よめと『日本民族』貸し与ふ。
史学研究法30分やり2年鈴木生の「何のためやるか」の疑問に応答し、本2冊貸してのち図書館にゆけば「篠原部長、文部省にゆき、社会科教員免状通ってもいまの3年はだめとききし」との今井氏の話承りて駅にゆけば、当の篠原氏と同車、同じことをきき「栗山部長と相談せん」といふ。
下北沢で下車、「Penguin」にてcoffeeのみしあと『太宰治(50)』買ひて帰宅。角川より『図説世界文化地理大系』6冊来をり、 880×8×0.8=4,224印税差引と。
けふ辻氏当選、麻生落選。前田久吉氏も当選と判明。

6月4日
鈴木治氏へ「坂出氏に会ひし」とハガキ。12:30三木和貴子より「渡部姓となり信州大町に住む」との便り見て、立教大学へゆく。
清水、手塚、宮本、林の3教授1助教授会議中なりし。13:35まで講義して例の如く古本屋へゆき、『生蕃記(50)』『考古学入門(30)』買ひて帰宅。
小高根二郎氏より『果樹園』41号の出来、3日夜とのしらせと『詩学』より「四季について書け」との依頼転送を速達で。
日本歌人より「6日の会を松平Hotelで」と。大江叔母より5月3日の写真。よる床を敷きしあと坂根生来り、貸せし本返却。

6月5日
悠紀子class会にと出てゆく。王子税務署より「28年以来の未納を引き、1.7万円を返す」とハガキ。
11:30出て聖心女子大へゆけば「音楽会で休みのことは掲示せし」と。青山の古本屋見て尾上紫舟『ハイネの詩(80)』中村で買ひて帰宅。散髪にゆく。

6月6日
成城大学へゆき東洋文化史教へ、話やめぬ女生を叱り、すみて出欠とり毛利正が欠2回ありしを云へば「さよか」と引込む。あとにて気になり探せども見当らず。
10:30出て松本善海に電話し「談話会に出るや」ときけば「出る」と。「われもゆく」と云ひ池袋下車。
西武dept.の夫人Hall探しまはり宮崎女史に断り云はんとすれどできず。昼食して帰宅。
山中タヅ子より「井上斌子に問合した上にて世話する」とのハガキ見、13:30また出て東大前にて「Hotel松平」に電話し、宮崎女史に断り云へば、前川氏も出、「用なし、8月また上京」ときく。
談話会にて中山久四郎博士の話ききて困りし。岩井、桑田2博士に挨拶、『東洋学報』に9月号のため書けと云はれし。
松本と出て喫茶しゐれば那珂太郎と西垣脩氏と遭ひ、西垣氏を松本に紹介すれば、松山高校での後輩なりし。
林dr.(※林富士馬)にゆかんと云はれ、地下鉄にて新大塚下車。beerよばれ堀内幸枝女史来会。「船越章と甲府にて識る」と。20:00西垣氏を家に案内し、茶漬食ってもらふ。けふ『成城文芸』5冊もらひ、『果樹園41』来りし。

6月7日(日)
悠紀子、依子買物にゆく。立教大学より「10日までに文部省への調査書記入」のこと云ひ来りしのみ。
午后、白井紘史来り、ともに十条にゆく。八木奘三郎『満洲考古学(300)』買ふ。家までつれ来りしも門口にて帰る。
悠紀子ら「渋谷へゆき父母に会ひし」と。大「山本陽子の青年座入りだめと答へし」と。

6月8日
登校。2時間教へ、栗山教授のこときけば「既に下校」と。駅にて遭ひ、社会科の免状のこと、浪曼派批判のことなど話して新宿。別れて空腹となり、高田馬場下車。戸塚の鰻屋にて丼くひしのち帰宅。
16:30案内して高橋重臣君。「多忙なりし」と云ひ、beer3本賜ふ。のみて夕食し、林dr.にさそひ20:30電話かけてゆき、腹痛の診断書乞へば「慢性盲腸炎」と。ペニシリン打ってもらひてのち、大塚をへて田端で別る。
痛むらしかりし。夕方速達来り、富永次郎氏より「10日の伊藤佐喜雄訪問は延期せん」と也し。

6月9日
出がけ岩崎昭弥より「上京する電話かけよ」の速達を見、新宿駅でかけてかからず、成城大学前の本屋でかければ「ねてゐる」といふを起し、きけば「伊藤賀祐博士は来ず」と。「連絡せよ」と云ひ、17:00まで気にせしもかからず、こちらよりかければ「出てゆきし」と。
けふ教授会で「あすbonus受けとれ」と。「太宰治」のslide見る。感興うすかりし。眠くてたまらず『文芸春秋7月号』をよむ。(小村明美嬢より「香料受取った」と。辻芙美子よりゑはがき)。

6月10日
10:30出て立教大学庶務課へ届出し、肥後和男『神功皇后(150)』買ひ、東口に出て炒麺くひて成城大学へゆけば12:40。史学研究法すまし、夏季手当27,050(内父母の会11,220)もらふ。
雨降り出し、家まで直行す。林dr.より「高橋君の虫様下垂炎に注意要す」と。岩崎昭弥より音沙汰なかりし。

6月11日
雨。高橋重臣君より「林dr.にみてもらひうれし。今夜もゆく」と。12:00出て立教前にて『果樹園』に「遺族」と1,000速達し、手塚教授訪へば会議中。『成城文芸』わたし、我に「会ひたし」といふ学生まちしも来ず、241教室にゆけば来り、3人民俗学専攻とて柳田文庫見たしと。「23日(火)に来よ」といひ、講義し、6月分salaryもらひ、rain-coat1,800にて見つけしを買ひ、busにて新大塚、古本屋見て帰宅。
山本陽子より「大にたのみしも青年座だめなりし」と。林dr.に電話して、今夜高橋君のゆくこと云ひ、17:30出て中河与一邸へゆく。
雨中をゆきしに誰もゐず、定刻をすぎて18:45となり糸屋鎌吉君来、嵯峨信之現はる。「小野十三郎と30年の友」と。いま中河氏の雑誌『人間専科』の編集と。
比留間君、彫刻の舟越保武、芳賀檀氏など来り、beerのまされ西垣脩君の来着を待つ。「28日(日)15:00よりアジア会館で500円の会」といふことになりし。
嵯峨曰く「中原中也のうまさは、いまの若手に3〜4人あり」と。林dr.に電話かけ「高橋君来ゐる」とききし。
21:30となりて舟越氏と出、23:00すぎ王子駅につけば雨ふりをり、悠紀子傘もちて迎へをり。

6月12日
10:00の汽車で帰る父を見送りに悠紀子出る。王子税務署より18,010還り来る。12:00出て聖心女子大。了へて青山通りに出、大木惇夫の2詩集『海原にありて歌へる(25)』『雲と椰子(25)』(※戦争詩集)、他に米人Lee(※Henry GarnseyLee)のフィリッピン詩集『Nothing but praise(20)』買ひ、鰻丼くひて(130)都電にて神田、山本書店にて『太平天国史稿(440)』買ひ、水道橋までの間に『高砂族パイワヌの民芸(80)』、山田孝雄『仮名遣の歴史(100)』、魯迅『中国小説史略(180)』、『日本案内記 北海道篇(50)』、『支那叢話(30)』、中田薫『古代日韓交渉史断片考(200)』と買ひ、足くたびれて帰宅。
「父、きげんよく帰りし」と。

6月13日
「東洋文化史」教へに成城大学。きのふ電話かけ来りしとは誰ならん。今井氏と教務課長に話せしも埒あかず。月賦販売の券、受取る。身体検査の成績もらひしに「血圧105〜65」とあり。12:30帰宅。
午后、和田先生の『東亜史研究 蒙古篇』いただく。平井昌子より「子供できた」と。伊藤佐喜雄より「夫人病気につき7月に延期せよ(富永次郎氏との会)」と。羽根弥与子夫人より挨拶。畑山邸にゆき見しに留守。

6月14日(日)
尾崎秀樹君より『生きてゐるユダ』贈らる。兄君の伊藤律に売られしを知りし話也。「父君零落して死に玉ひし」と。午后、京と散歩せしのみ。

6月15日
成城大学へゆく。栗山部長にあす教員免状のことにて相談すときめる。『瓜哇(※ジャワ)史』『タイ国史』貸出。
『李白』3種研究室へ来る。帰らんとするところへ吉川幸次郎博士の『成城文芸』見たとのハガキ来る。池袋下車。丸物の地下食堂にてrice-curry食ひ(80)、大塚より都電にて辻町下車。古本屋にて『パンの会(30)』、『民俗学入門(70)』買ひて帰宅。
住宅公団へゆきし悠紀子まだ帰らず。太田陽子夫人より本の受取。小高根二郎氏より同人費受取。父より「伊勢に帰着した」と。住山重子生より近状。山本、太田2陽子へハガキ。

6月16日
晴。暑く夏服きて成城大学。大藤教授に話さんとせしも相手にせず。あけぼの書房に金払いひ、栗山部長に社会科免状のこといふ。
11:00出て空腹にて新宿にてrice-curry(60)。池袋より大塚窪町へゆき、昨日見かけし『歴史学の研究法(150)』、『アジアの諸民族(130)』買ひ、都電にて大塚。soft-cream食ひて帰宅。
〒なし。(新宿にて『新国史概説(200)』買ふ)。大江艶、田中昌三2叔に写真の礼。尾崎秀樹氏へ本の礼。

6月17日
「史学研究法」の下調べにと10:30成城大学へ登校。図書館へゆけば柳田国男先生をられ、司書とお話中にて遠慮して『豊臣時代史(田中義成)』探してもらひしになく、『歴史地理』1の4探す中に御帰宅されしらし。
柳田文庫に坪井九馬三『歴史学研究法』はありし。おかげで史学研究法30分でやめ、新聞の詩の選し、高橋邦彦のを採りし。
伊藤佐喜雄に電話して話し、野田宇太郎氏に『パンの会』にsignしてもらひ、阿部知二氏と出ればtaxiに同乗となり新宿で下車。
一旦家に帰り、竹田龍児氏の『成城文芸』の受取みて(けふ学校にも鈴木俊氏より「受取った。火木土は在宅」とのハガキ来ありし)、雨具の用意して池田事務所(※池田勇人事務所)。佐藤君の「風俗と悪」きき、この次は7月15日にて我「ヒミコ」を話すこととなる。
前田隆一氏、浅野晃氏と会ひ「弟入閣やもしれず」と云ひし由。雨中、出て赤坂見附のりかへ池袋をへて帰る。

6月18日
「池田勇人氏入閣きまりし」と、ふしぎ。井上幸子の手紙見て宮本馨太郎教授に会はんとゆけば欠勤らし。手塚氏らと大研究室で話せしのち講義。3年平塚生と4年久保生ととりちがへゐしこと判明。平塚、高田2生とcoffeeのみて別れ、rice-curry食ひしのち帰宅。
井上斌子より「山中タヅ子の父君の昭和起重機製作所に採用決定しうれし」と。夜、山中タヅ子に礼かき、住山、平井、辻3生にもハガキ書く。帝塚山dayなり。

6月19日
出がけ山中タヅ子よりも「井上斌子6月15日より父の会社へ採用」と。渋谷へゆけば驟雨。やや待ち郵便投函して聖心女子大へ着きしは鐘の鳴ると同時なりし。
田中保隆君に会ひ、久しくといひ『果樹園』40,41をわたす。6,7月分のsalaryわたされ、北区民税50づつ引かる。
「韃靼戦記」うまくゆき「忠王李秀成」は旨くゆかざりし。すみて東急dept.にて炒麺(80)食ひ、白鳥邸へ見舞に枇杷(300)もちゆけば「清先生他出」と! 奥様に面謁、郁郎君の「明智光秀(※遺稿戯曲)」お返しすることを云ふ。出てまっすぐ帰り来る。
糸屋鎌吉『首の蔭』出版記念会の案内来をり。井上幸子、藤井陽子の2生に返事。

6月20日
成城へ登校。「Indonesiaの文化」を講ず。Salary13:00からとあり。出て甘いもの買ひ(205)、千歳船橋下車。鈴木俊氏を訪ひ、岡部長章君のことをたのむ。「むつかし」と也。『李朝実録抄』10,11未完と。
昼食にとtoast出され恐縮して退出。経堂に出て古本屋へゆき『タイ国史(100)』、Bernheim『歴史とは何ぞや(50)』、『風来山人春遊記(80)』、黒羽茂『基礎歴史学(60)』、小堀杏奴『回想(80)』買ふ。(小堀氏のはdoubleゐし)。
電車にて鈴木秀穂生に会ひ、下北沢で下車。Coffeeのませて話す。1年おくれし也。14:00帰宅。うどん食ふ。〒なし。

6月21日(日)
家居。安西均氏より全快祝として「鶴の子」1函送られる。午后、京と飛鳥山へ散歩。安西氏、井上斌子へ礼状。

6月22日
朝夕雨とのことにrain-coat着てゆく。栗山部長に27日の会につき話し、白井紘史よりの電話きき、13:00新宿で会ふこととし、 salaryもらふ。区民税梗正して引きあり。
11:30すみて今井富士雄氏に会ひに図書館へゆけば「帰京水曜に延びし」と。丸の坊やをり、「近々父に連絡す」といひ、出て下北沢で昼食(50)。
新宿で紘史に会ひ、「話あり」といふに喫茶すれば「詩作りし」と見せらる(140)。
都電にて神田。山本書店に『國榷』送付たのみ、『敦煌変文彙録(260)』と『顧炎武伝略(40)』買ひ、軒並に『申翼煕先生演説集(20)』、 『新村出選集2(50)』、『文学界と西洋文学(30)』、『花蓮港庁概要(50)』、『台東庁勢一覧(30)』、『台湾風物誌(20)』と買ひ、『満蒙叢書1,2(150)』と『小田切文庫目録(150)』と見つけてうれしく。
また喫茶せしのち東京都民銀行に加藤定雄のぞきしも不在。御茶水駅前にて角川書店の中西氏に電話し「ぎりぎりの締切いつなりや」ときけば「25日」と。
気持よく、紘史を家につれ来る。けふ『朔太郎遺稿(80)』を買ひて与へし。大江叔母より「下阪したら泊れ」と。

6月23日
成城大学へ登校。よべ3:00までねられざりし故苦し。10:30立教大学細田女生来り、図書館へつれゆきしに若葉君のみ。柳田文庫見せ、「まへかけ」をやるといふに13:00柳田先生へつれゆかんとせしも雨降り出し「来るな」とのことなりし。
14:00今井氏帰り来て岩木山麓の発掘の計画をはなす。きけば「立教大学の宮本馨太郎氏とは親し」と。「柳田先生とも悪くなし」とのことに宮本氏の紹介あればど思ひ、「木曜にまた来よ」といひて帰す。
教授会17:00までかかり雨、丁度小止みとなりしを帰り来る。
太田陽子夫人より「また一年伊賀上野へ転住と。藤野和子はKuala Lumpur住ひ」と。深沢紅子女史より画展の案内。

6月24日
朝がた、筒井護郎と京の法華寺といふにゆき寺僧に数千円恐喝せられし(筒井が)をゆめ見て覚む。
11:00出て成城大学。阿部知二氏と話す。史学研究法すみて中沢生と話し、野田宇太郎氏に誘はれ国木田独歩のslide見る。
出て矢沢利彦氏と遭ふ。帰り浅賀生と同車、「日本史の教科書貸せよ」と云ふ。
『東方学18』来る。鍛治初江君よりたより。中村村次君よりたより。夜ふけ「杜甫・人と作品」30枚かき了る。

6月25日
悠紀子をして角川へ速達と東方学会へ550送らしめ、池袋の三越より和田先生、栗山部長、手塚教授、林dr.にお中元贈らしむ。
午后、山本陽子生より「あす17:00坂根生と同来」と。夜、天覧の巨人阪神戦をきく。5x-4にて長島のサヨナラhome-runと描きたるが如し。

6月26日
悠紀子、渋谷の住宅公団へゆく。我、気進まずとて聖心女子大に休講をいはしめて留守す。
〒なし。15:00帰り来しゆゑ入浴。帰れば坂根生まちをり「18:00より用あるゆゑ16:00待合せを山本陽子と約せし」と。
17:30夕食くひてあはてて出てゆく。陽子21:00までをり「秋にまた上京する」と。

6月27日
出がけ羽田明君より速達「1日の飛行機にのる。26日上京、29日の居所、上田勤氏にしらせ」と。
10:00松本善海君に電話せしに未出所と。『國榷』6冊の図書館につきしを見(浅賀生『日本史』もち来りくれし)て11:00池袋着。
三越で昼食、林dr.にゆき注射うってもらふ。よべ睡眠不足の故なり。斎田昭吉の兄来りをりし。帰れば和田先生より「19日御退院」の御挨拶。

6月28日(日)
11:00大貫へ散髪にゆき、帰りて和田先生と手塚氏の中元の礼。角川の『古典の窓』原稿の受取。尾崎秀樹氏の『生きているユダ』の出版記念会4日(土)18:00新宿でとの通知見る。
(羽田君の姉婿上田勤氏に電話かけ、あす成城への電話の時間しらす)。14:00出て靴みがかせ、深沢紅子の展覧会昨日までなりしことを知る。
(※糸屋鎌吉『首の蔭』出版記念会)赤坂のアジア会館へゆけば丁度よき時間なりしも会は1時間おくれてはじまる。
井ノ口基成氏は夫人の弟にて本名西塚俊一とて八戸市の出なることをはじめて知りし。小山正孝君来り、2次会にさそはれ、渋谷のbarにゆき、やがて来し連中と一緒となる。われ早く出て変な男に会ひ、途中の食堂に逃げしあと帰宅。
けふ笹沢美明、村野四郎、高橋新吉、中河与一、三浦久子、公平嬢などと会ひ(久礼田博士、夫人森房子、萩原葉子、大森倖二などとも)、糸屋鎌吉の哭くを見しなり。

6月29日
成城大学へ登校。羽田よりの電話を10:20に待ちしもかからず。
2時間目すまし(reportの題を中国文学史前期の何かよみての感想ときめる)、柳田国男先生と話すを誰かと思ひしに鎌田女史なりし。「八重山列島へゆきし」と。
Sandwichたべ、羽田の電話なきゆゑ上田氏にかければ夫人出られ、博物館へゆきし、やがてかけ来らんと。かかり来りしと「16:00梅ヶ丘駅にて待合せ、和田先生をお見舞ひせん」とのことになり、『國榷』もちて図書館にゆき、鎌田女史より沖縄の永久装備きき、「藷をumuといふ」ときき、今井氏と「明日相談せん」と云ひ、若葉君より洋傘かりて14:10出て、にて下北沢下車。
「Penguin」にゆき見しに締りをり、南口古本屋で『官場現形記2(50)』見つけられうれし。『華訳世界名歌集2冊(20)』と買ひ、店主と話せばわが名知りゐし。
13:50梅ヶ丘駅につきまちゐれば、14:20羽田夫人あらはれ「羽田君おくれる」とのことに和田邸へゆき、招じられて上れば、先生意外にも出て来られ御元気なりし。
羽田のやがて来るを云ひ、匆々退出し途方にくれ、松本に電話して帰宅すすめ、煙草のみつつ夫人と話しをれば羽田現はれ、和田先生にゆくを30分まち、同車にて新宿。
中華料理たべbeerのみ(860)、「羽田空港へ送りにゆかざる」を云ひ(4ヶ月にて帰国と)、駅前にて別れて帰宅。
史より「日本生命ゆきても大して効力なからん」と!(けふ羽田より高山岩男氏信頼できぬ人とききし)。『生きているユダ』出版記念会に「欠席」の返事。健康保険証に史をくはへて返附うけし。

6月30日
雨仕度してゆき、短大2年に宿題だす。すみて今井氏に会ひ、大藤氏の令弟逝去ときく。学科として立てるもの、日本思想史に千葉大の田中久夫氏をといふのみ。
栗山部長に会ひて「篠原氏と話せ」ときき、高田教授より紹介受けて駅南の木村歯科にゆき、奥歯の手当受く。
14:00すぎ立教へゆけば学長選挙とて手塚、宮本2教授ともに不在。ことづけして出、裏にて家永三郎『新日本史(30)』買ひて帰宅。高橋重臣君より「明日来る」とハガキ。夜になりて雨。
けふ平凡社の藤田君に参考書として『東亜史研究 蒙古篇』をいれてくれとハガキ。

7月1日
雨の仕度して登校。12:00につき菓子とcoffee摂り、川上恭正、柏岡明2生と話す。立教大学へ「太宰治」のslide見せにゆき好評なりしと也。
史学研究法すませ3年生と社会科免状のこと話す。篠原部長とれさうなこと学生には云ひしと也。
女生3人に考古学入門を3冊貸し、成城学園名簿とり、歯科へゆきRentgen見せられ治療受く。急いで帰宅。
高橋君待てば20:00来り、23:00まで話しゆく。「この間、鈴木俊氏Schinzinger先生受勲の祝に東京」と。(けふ羽田夫人に悠紀子をして電話かけさせれば「こだま」で帰洛と)。
平凡社より「香妃、三多(※サンド)、朔方備乗を書くや否や」と。

7月2日
あかね書房より150円来る。収入証明もらひに13:00出て成城大学。会計へゆけば「土曜にわたす」と。
丸重俊に会ひ「父、病気」とのことに電話して「19:00ゆく」ときめ、民俗学会の鎌田女史の大神島の話きく。(平凡社へ「朔方備乗」のみかくと返事。)
15:30出て歯科へゆき、歯みがいてもらふ。すみて下北沢の「Penguin」へゆき森本女史に土曜の尾崎君の会、欠席のことわりたのみ、吉祥寺までゆき、古本屋見しあと杉浦家へゆけば、美知子夫人(※杉浦正一郎未亡人)在宅。「長嬢、早稲田の国史に入りし」と。「国文にかはれ」と云ひ、出て高円寺下車。
赤川夫人に顔のみ見せ、丸家へゆく。「S本○氏2嬢あり、中野□□にめあはしたきにてはなきや」調査たのまる。丸「このごろ金入らず」と。beerとすしごち走となり重俊君に中野駅まで送られ、古本屋見しあと帰宅。22:30。
(けふハンカチ忘れ成城堂でもらひ『ブッダの言葉(120)』買ふ)。

7月3日
むし暑し。悠紀子、数男へとゆく。平凡社の藤田正典氏より「ハガキ見た。和田先生にお会ひした」と。
12:30聖心女子大へゆき、田中保隆、青山定雄2教授に会ふ。
「問題を提出せよ」とのことにTはreport「初期の在華耶蘇会(1200字)」、Uは試験「太平天国について」とし、徳富女史?に提出し、東横dept.にてrice-curry食ひ(90)、母に電話すれば「けふ千草宅へゆく」と。

7月4日
暑し。成城大学へゆき、すぐ出て(佐野教授に「丸夫人の旧姓井上」ときく」)木村歯科、「月曜休診」と。
帰って昼食す。住山重子よりハガキ。「十時生、近く結婚」と。入浴せしのみ。

7月5日(日)
暑し。成城大学へゆき2時間目出席者4人につき、つれてcoffeeのみにゆく。(浅賀、村田、国文松浦翠(※後の史氏義姉)と1女生)。12:00帰宅。『果樹園』42号来り、『史苑』来る。

7月6日
暑し。成城短大2年すませて休みとなるも不快。木村歯科にて右奥歯2枚目に金かぶせてもらふ。「あとまた来よ」と也。
coffeeとsandwichと摂り、大藤教授さがせしも「来ず」と。篠原事務局長に会ひ、まかされ、前田教務課長に会ひ、まかされ、やがて来し大藤教授にまかさる。
14:10より教授会。渡辺生(4c)学友会費22万を浪費せし故、7,8,9の3ヶ月間停学と!
16:00すみ、われ図書館にゆき大藤、池田2氏と話さんとせしも出来ず、中馬司書補と竹内のこと話し『類聚国史索引』を池田氏のため買ふこととし、出て坂本経子副手と真向ひに坐りてしらぬ顔され、新宿にて坂本浩氏と同行すれば、小高根君の伊東伝の構成をほむ!
聚楽4階にて坐りまち、池田館長の来しをまちて開会。野田宇太郎氏、北斎の棺内、水となりゐしをいふ。
閉会まぎは「卿は俗人」と高城楢秀助教授にからまれ不快となりまっすぐ帰宅。
川崎菅雄よりclassの名簿来り、西宮一民君より「森氏、院長となるらし。壽岳博士退職等々」。
けふ西川英夫に電話せしに久保亀夫の国鉄大阪支社長陞任の会は音沙汰なし」と。

7月7日
(※記事無し)

7月8日
風吹く。山中タヅ子より『果樹園』わが表書にて受取りしと。
午后、本もちて出、山本書店にて『北京図書館(40)』、『杜甫年譜(400)』、『法顕伝(110)』、『中国近代史稿 vol.1(340)』、『忠王自傳原稿考證與論考據(170)』、『捜神記(85)』、『明清小説講話(55)』など。
蒲池歓一氏を訪へば「齋藤晌氏、博士となられん」と。出て小山正孝氏にゆく旨電話せしあと、「大安」へ寄り予約せし『輟耕録(280)』とり、『玄奘西遊記(120)』、『太平天国史料訳叢(200)』、『西遊記人物辞典(75)』。
小山氏に会ひ喫茶店へゆき、高山(岩男)旋風のこときき、教科書わけてもらふ。この間、三浦氏わが出しあとすぐ居なくなりしと。
加藤定雄君見にゆきしも不在。S本○氏に18:30会はんとのことなりしゆゑ、一旦帰宅。
高尾書店の書目来をり。あはてて飯くひ、朝日新聞にゆけばS本氏入口にあり。父君(※子規門下某歌人)のこときく。(中野清見には2月頃会ひしと?!)
ともに出れば朝日の入口にて長嬢に会ふ。美人にして長身。beer-hallにつれゆかれ、Singaporeを案内せしときく、意外。(佐々木六郎名古屋の次長と)。
21:00帰り来れば坂根千鶴子まちをり、「山本陽子20日頃までゐる」と。「大の芝居延期となりし」と。
丸の供して釣にゆくことを悠紀子に云ふ。(けふ丸に電話せしに不在。「重俊生、熱あるに弘前へ発ちし」と夫人の話)。

7月9日
暑し。『東洋史研究』の半ばもちて13:30成城大学。教務課に手助け求めしに「知らず」と。健康保険証、木村歯科へとりに高尾嬢ゆきくれ、新しきものとかはる。
15:30ふらふらとなりて切り上げ、図書館へゆき中馬君より鄭振鐸『中国俗文学史』上下2冊見つけてもらふ。
丸重俊と連絡とるための場所若葉君にきき、2年生5人と話す。神戸生は宇都宮にて「市中に大垣姓多し」と。木村歯科のぞきしも2,3人をり、向ひで氷小豆くひ、池袋よりbusにて林dr.にゆけば往診中。夫人に注射打っていただき、待てば帰宅。「高橋君来ず」と。芳野君に同君の会たのみ、 beerよばれ大塚へ歩き『中国新文学事典(60)』買って帰宅。
前川佐美雄氏より「大伴道子夫人の誌上出版記念会17日ごろまでに」と。入浴。

7月10日
9:00『東洋史研究』の残りもちて成城へゆき、昼食までに書類ほぼすませ、佐野教授と話せば全田忠蔵(※義理の叔父(肥下恒夫の伯父)・大阪高校時代の教員)識りをり。 「事務局長篠原氏2日間旅行」と。前田教務課長に見せ、「月曜来る」といひ図書館へゆく。
中馬君、都立大へ電話してくれ竹内(※竹内好)在宅ならんとわかりしも北京図書館への手紙かかされ、疲れて2年鈴木生より羊羹食はされ、 14:30となりて出、「Penguin」へ鏡買はんとゆきしも閉りをり。
けふ母来り、悠紀子と浅草へゆきしと。弓子と京とで夕食仕度せしところへ帰り来る。「大、機嫌悪きも母、来月までゐる模様」と。
けふ羽田舒子夫人より礼状。『李白歌詩索引』貸出。(けふ悠紀子学校へゆき「弓子5番」ときき来し)。

p13


昭和34年7月14日〜昭和34年11月1日 「東京日記 6」 本冊画像PDF
25.4cm×18.0cm 横掛ノートに横書き

p14

(※7月11日 記事無し)
(※7月12日 記事無し)
(※7月13日 記事無し)

7月14日
「大安」の広告来て岡崎俊夫5月に死にしと見ゆ。11:30出て12:50成城大学。教務へゆけば課長話中。池田勉館長と話し、細田明子生(立教4年)のこといへば「柳田先生女生に甘く大丈夫」と。その旨ハガキ書き、今井富士雄氏にも書く(ゆきがけ王子局より果樹園社に「魚の目」と1,000と速達)。
帰り歯科医にゆき、大きな歯石とられ赤面。下北沢下車、「Penguin」に寄りcoffeeのみしあと古本屋にゆき『支那文化風景(30)』買ひ、また「Penguin」にてHigh-ball。森本夫人近々軽井沢へゆき休店とすると。
帰れば浅賀千里生よりも岩木山麓よりのヱハガキ。明日の話の予習できず。

7月15日
渡辺道夫氏へ中元の礼状。小畑信良閣下また成城に帰りたまひしと。岩木山神社前より八重樫、四條の2生。
村松正俊氏に『果樹園』包む。16:30出て上野より地下鉄にて池田事務所(※池田勇人事務所)。田中忠雄氏をのぞく7氏あつまり「神武天皇抹殺」を話す。旨くゆかず。
すみて浅野氏(※浅野晃)より服部女史の卦(※占い)しらせありしときく。22:00帰宅。

7月16日
晴。家居。住宅公団の抽籤にもれ、悠紀子また申込みにゆき、われ留守。
角川より4,500−675=3,825来る。
午后、清水文子生より暑中見舞。『千一夜物語(角川文庫)10』買ひ来る。

7月17日
晴。田中忠雄氏より暑中見舞。午すぎ前川佐美雄氏へ大伴道子『明窓』の評3枚を速達す。
堀ノ内歴君より「椿下生の来しも、くはしく話せざりし」と。
夕食後、高橋君の宿へゆきしもいまだ帰らず。田端まで歩きて帰り来る。

7月18日
雨、時々晴る。田中マサ子夫人より「日曜も出勤しゐる。営業第2課」と、切符同封しあり。
午后、今市佐恵夫人のハガキと小高根二郎氏より(※伊東静雄伝の連載につづき)「蓮田善明かく」と。

7月19日(日)
大安より『清代碑伝文通検(640)』入庫と。山本実子生より暑中見舞。高橋君より「父君急逝、21日〜28日熱海へゆくため今夜来訪」と。
天理図書館より暑中見舞。居間のたたみ替へをす。午后入浴。名古屋場所千秋楽。
20:00高橋君来り、父君のこと話し体わるきを云ふ。28日再訪の予定と。

7月20日
〒なし。午まへ林dr.に電話かけ高橋君のこといへば「芳野君の消息なし」と。

7月21日
新川(三鷹市)の住宅抽籤におちしと。午后出て成城大学。
高城助教授をり、大藤、池辺、鎌田の3氏とちょっと会ひてのち俸給もらひ、駅にて弘前より帰りし中沢生に会ひ、木村歯科にゆき歯みがかれ、夏休み中来ぬと了解してもらふ(時間まちに炒飯くひし)。
神田までゆくと水道橋下車。波木井書店にて『三国志演義(360)』、大安に予約の『清代碑伝文通検(640)』とり、『太平天国制度初探(130)』買ひしのち、極東書店にて『敦煌曲子詞集(70)』、『台湾的開発(110)』買へば「先生ではありませんか」と、東洋大学の増村孝雄生。卒業して職なしと。coffeeのませ巣鴨行都電にのり東洋大学前にて下車すると別る。
帰れば山本陽子来をり、同じく住宅落選、補欠のため保証人たのむ。俸給証明あす成城大学へもらひにゆくと也。
山本嘉蔵氏の暑中見舞(堀内信江代筆)。今夕、依子信州へ出発。

7月22日
9:30成城大学会計課に電話して山本陽子への証明たのむ。悠紀子、京をつれて母と東京towerへゆく。
13:00われ出て立教大学、7月分のsalaryもらひ手塚教授に会ふ。暑くてのどかはき、西武dept.にてice-coffeeのみ、婦人Hallに宮崎智慧氏訪ひ「伊吹山へゆかず」といふ。
林dr.に電話すれば外出と。散髪し(160)ゆけば尾崎秀樹氏をり、春夫先生の話きく。芳野君来ずと。
17:30出て尾崎氏とすぐ別れ、都電にて帰宅。
けふ前川佐美雄氏より原稿受取(林dr.にきけば「保田上京中」と)。安田明子夫人より暑中見舞ありしのみ。
「母の頭の治療に7万円を請求されしと。父伊勢にゐつかずと。田中順二郎氏火曜が休み」と悠紀子の話。(けふ立教に手帖忘れしらし)。
夜、丸に電話し、「中野より便まだなし、重俊帰宅」ときく。

7月23日
川上恭正より暑中見舞。13:30訪ひ来しは兼頭淳子、「壽岳博士に叱られしclass。院長夫人、金少しとて入学志願の親より金とらざりし。筒井女われに帰り来れといふ」など話す。
トロリーバスにて浅草へつれゆき、人形買ひ、すし食はせ地下鉄にて神田まで送り、われ都電にて本郷下車。
ペリカン書店?にて『南の星』高橋君の教えへ通りにあるを見付け(30)、『日本人の人種学(100)』、『最古の人類と文化(40)』、『日本及支那本草学(40)』買ひて帰り来る。
武田富子夫人より「10月分娩」と。

7月24日
暑し。林佳子生より「寺本生の住所しらせ」と。小島樹氏、大江房子(?無名)より暑中見舞。
中野清見君より「□□つれてS本氏へゆけ」と。午后出て立教大学。手塚氏に手帖きけば「なし」と!
『邪馬台国(330)』、『平家物語(70)』買ひて帰宅。丸三郎より飲料。依子18:00帰来。エハガキ呉る。
20:00すぎ坂根生来り「21:40にて帰阪」と。青木弥与子うまくゆかざる様子と。山本陽子「成城より証明書もらへし」と。
けふ高崎の松本悦治氏より詩集『海上流浪』来る。うまし。
丸に電話し「中野□□まかす」ときく。(けふ立教中川講師に会ひてきけば「藤田亮策先生、東京に新居建てられしも奈良の研究所長となられし」と)。

7月25日
暑し。午后の温度34℃と。松本悦治氏より「詩集送った」と。丸よりいれちがひにハガキ。増田春恵より暑中見舞。
夜、藤田先生へとゆきしも途中にて引返す。

7月26日(日)
暑し。根木薫生より暑中見舞来しのみ。午后、京つれて「白雪姫」見にゆく。

7月27日
羽田君Teheranよりヱハガキ。「江上教授に会ひし」と。午后、東洋文庫にゆき『世祖実録』と『大東輿地図』とを見る。
帰りがけ石田幹之助先生より挨拶されし。帰れば史より「8月2〜3日に帰省」と。川上恭正よりまたハガキ。

7月28日
中野□□君より「29日頃来る」と。藤井陽子夫人より「1日家へ来よ」と。
13:00東洋文庫。青木富太郎氏をり、市古宙三君をり。『朔方備乗』と『満洲学報6』と見て、15:00出る。(青木氏「和田博徳氏にききしに先生おくにらし」と。)
辻本禧紗子、中島悦子より暑中見舞。鞫治弥生生より「出席を理解ある先生こらへよ」と。
17:00ごろ高橋重臣氏来り、やがて中野□□君来あはす。夕食をともにし、3人にて向原に出、池袋への途おしふると□□君と歩けば「理由あってことはる」と。
林dr.にゆきbeerご馳走となり、22:00大塚駅まで御夫婦にて送らる。われも日暮里駅まで送る。
「留守中、松村生来し」と。運わるきことかな。(□□君と3日15:00高野にて会ふこととす)。
(林dr.、五味康祐宅往診、保田に会ひしに病気なりしと。わがこと云ひしと)。

7月29日
天理図書館より『善本写真集』2冊と『Biblia14』。近藤園枝(文2A)より暑中見舞。
午すぎ五味康祐宅へ電話して保田にといへば「神経痛にてねてゐる」と。「夕方見舞にゆく」といひ、よべの睡眠不足こたへて入浴せしのみ。
堀内節子、丹羽千年、白井紘史より暑中見舞。南隅美弥子より一家3人の写真。
18:00出て大泉学園下車。五味邸へゆけば保田やせてをり、胃も痛み飯くはずと。浅野建夫に電話して病気のこと訊ぬれば「みねばわからず、急性なら一時、胸の病気あるのではなきや。健康保険ありや」と。保田のこと忘れたりと!!
(丸に電話して浅野の電話きき、中野□□のこと云ふ)。
池袋駅より林dr.に電話すれば「来よ」と。ゆきて「日大に紹介せんといふことになりゐし」ときき、「浅野といづれにするか本人に任さん」といひ、五味氏と電話せしもきまらず。
23:00帰れば大野の知子来り、あす再来と。まくわ呉れしと。

7月30日
浅野建夫へ保田の紹介の手紙かく。八木さんに暑中見舞。花井裕・彩姉妹より暑中見舞。
林dr.に電話かけ、「用の時は(※2階に住む)平野弁護士へ呼出しの電話かけよ」といふ。昨夜(※五味邸へ)往診、林dr.の注射にて当分すますこととなりしと也。
午后、上岡昭子生(短2A)より暑中見舞。『明代満蒙史料11、12、索引』来りてそろふ。
夕方、井上恵子より果物set贈らる。夜、けさ来し大野知子のために買ひし参考書2冊をもちゆく。政子、障子をしめて挨拶に出ず。鴎外2冊と『小田原』と買ひし。『古典の窓2』(わが「杜甫の人と作品」のす)もけふ来りし。

7月31日
暑し。朝、速達伊東花子氏より来り、「6日入京、在宅や否や」と也。返事速達す。
藤井陽子夫人より「1日16:00丸物前にて待つ」と!千川雅泉(※義雄)、三浦久子、向井順子より暑中見舞。大高clubより「15日14:00よりbeer-party」と。午后の便にて辻芙美子、中山(青木)正子より暑中見舞。他に無名(大阪商工会議所につとめゐると)。
夕方、林dr.に電話かければ「(※保田與重郎)病院へゆきし」と。『三国志演義120回』を読み了る。

8月1日
暑し。きのふ名古屋38℃を超えしと。郵便局へハガキ出しにゆく。田中雅子夫人よりこの間悠紀子の菓子への礼。
15:00出て池袋。丸物で氷西瓜たべしあと、16:00藤井夫人と会ひ、案内されて雑司ヶ谷の社宅へゆく(ソーセージ(380)を土産に)。夫君は太田の出で法科卒。NHK.TVのプロデューサーと。
beerのまされご馳走となり、都電まで送られ鳥打ち忘れしに気づく。林dr.訪いひしに留守。

8月2日(日)
9:30林dr.より電話、悠紀子出さしめ「保田入院」と識り、われも出てかけ「千駄木町の日本医大病院に入り、胃の切開するやもしれず」ときく。
井上恵子へ礼状。浅野dr.に保田の入院をしらす。
井上恵子より送り状。吉岡信子、志野和子(この間上京は上野生なりし)、安永奈美子・孝子(成城短2A、学2A)より暑中見舞。
硲晃氏より「伊東の長男住高入学、成績抜群」と。藤田亮策先生、奈良国立文化財研究所長と発令。
16:00史、帰省。「公務員試験は9月2日ごろ発表」と。依子電話帖しらべしも池内一氏見当らざりしと。

8月3日
兼頭淳子より礼状。井上(東)順子(夫君『果樹園』よむと)、笠野安子、芳野清(口内炎なりしと)、西菊代(関西televiのanouncerとなりゐると)より暑中見舞。
西宮一民氏より「日生浜田常務にたのみ松本君気を悪くしてゐる様子ゆゑたのむ」と。
林夫人より電話「けふ保田、日大病院で手術」と。すぐ昼食してゆけば五味康祐氏玄関にをり、待合室へゆけば保田夫人と奥西弟(※奥西幸)、五味夫人、長尾(※長尾良)をり「いま手術中」と。永くかかり(夫人と話せば「前より異状ありし。瑞穂、羽田君の家へゆく」と)、不安にて林dr.探しあて病室へゆく。林dr.も不安にて吐血、血沈高かりし経過を話す。手術願ひに1万円出し、手術前にも1万円出せとのことなりしと。弟夫婦来りしを喜び、やがて五味君手術室の看護婦に「手術よかりし」ときき林dr.に云ひ、偶然摘出せし胃を見せらる。穿孔ありしと。林氏にあとたのみ、15:00約束の中野□□君に会ふべく都電。地下鉄にて新宿高野へ15:00着き、「白十字」へ案内されてきけば「サメハダにて」といふ。「明日辺り返事す」といひ、浅野建夫にゆけば「多摩墓地へゆきし」と。
高円寺駅より丸に電話すれば「今夜帰宅おそし」と。保田の病気告げよといひ、池袋下車。林dr.にゆけば「一旦帰りてまた出し」と。夫人に注射打ってもらって帰宅。原(岩田)知子より「4日15:00〜16:00訪問」と。西川に21:00電話せしにまだ帰らず。

8月4日
林dr.に電話せしに「経過良好、費用のこと五味氏信用せし故心配いらず」と。丹羽道久、城平叔父、児玉敏子、友井啓輔、藤田幸子、久保マナ子(短2A)、古田房子、野村朝子より暑中見舞。
大江叔父「十合産業社長やめた」と。S本○氏に電話せしに「今明週は忙し」と。「16日(日)にはいかに」と。社へ来いといふ故、中野□□君のこといふ。
午后の便にて福地邦樹君「『果樹園』はいつも同じ」と。西田とし栄より暑中見舞。西川英夫より偶然昨日午后出せしハガキにて「押上安倍支店長に依子のことたのみし」と。
18:00岩田知子、増田久美子と来り、「草津の帰りにて原義夫氏の許可を得て」と。増田生の先に出しあと(夕食させ蕎麦もらふ)、岩田生つれて銀座へゆき新橋にて汁粉食はしむ。駅にゆけば藤田生といふがあり、これにも漢文を教へしと。22:00の「彗星」の寝台にのりて帰りゆく。

8月5日
山本誠一(陽子の父君)、鈴木幸太郎、四方あや、北野徳治、河野岑夫の諸方より暑中見舞。
史、眼の治療に林dr.にゆき専門医に紹介されしと。丸三郎より電報、すぐ電話すれば「来よ」と。14:30ゆき15:30会へて「中野清見君6日18:00ごろ会ひたし」と。「□□の病気は父ももちし」と。
beerのまされながら語りきき、また地下鉄にて池袋、西武dept.に宮崎(早川)智慧氏訪ひ、保田のこと伝へれば「中谷孝雄氏よりききし」と。(中谷氏、長尾の会社につとめゐると)。
林dr.にゆけば「保田gas出ず、主任教授は安全確言せざりし」と。出て大塚の古本屋のぞき『Portgal(50)』買ひて帰宅。□□君より速達にて「16日のこと承知した」と。
伊東花子氏「6日宿へついてから来る。迎へいらず」!!と。佐々木満禧より暑中見舞。高橋重臣より礼状。
夕食して母近々帰西とのことに悠紀子と史ゆかしめることとして、われは藤田先生。一度呼びしも答へなきゆゑ大野家にゆき、トモ子も都合わるかりしときき「8日9:00に来よ」といひ、藤田先生に電話すれば御在宅にて「来てよし」と。
奈良の官舎は郡山より15分の山中と。1〜2年にてやめ玉ふと。原田先生よりわがききしと思はれし様子、beerご馳走となり蕎麦おきて退出。
悠紀子、史23:30帰り来り、「母7日10:00離京。大、今夜芸術座の初日」と。

8月6日
11:00伊東花子氏より潮来発にて「6ヒ6ジウエノカイサツデマツ」と電報。羽畑桂子、福島弘子(短2A)より暑中見舞。
15:00前出て王子よりbusにて根津宮永町まで乗越し、迷ひつつ日本医大病院へゆき、保田の空気出しをきき喜び、弟にいへば納得せざりし。枕頭に山川京子女史の侍するを見、九死に一生を得し喜び知らぬを感じつつ出て、広小路まで都電。
東京駅にゆき西川訪ねて経過報告す。(奥戸Californiaにゆきしと)。折しも来りしは熊谷とて台北州の課長つとめしあと埼玉茨城で悪評ありし男とて、いままた退職してbrokerする話きき、出て根岸にゐる中野に会ひにゆき、ともに上野に出て一時別れ、伊東夫人やっと見つけ、「わが家へゆきて悠紀子に会ひし。用件は『果樹園』の「伊東伝」。諫早の姉妹怒る」と。わが考へのべ、諫早の姉とわれらの直接談判にせよとすすめ、保田の病院、庄野潤三の訪ひ方教へて別れ、また中野に会ひ、22:05上野発を送りしあと、国電不通。
23:00帰れば伊東夫人の外、増村生また来り、藤井夫人帽子をもち来り、桃呉れしと。羽田夫人より明君の様子しらせたまひ、中田富子、明渡淑江の暑中見舞。浅野建夫dr.より『新しい血液因子』。

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8月7日
田中洋子、堀口太平2氏より暑中見舞。家居。昼寐す。入浴。西岡照子生より暑中見舞。
史、眼医者すみ、悠紀子また体わるしとて林dr.にゆく。けさ10:00の汽車にて母帰りし由。青木夫妻渋谷より荷物の宰領して来りしと。母、2等に乗ることとして大より1万円貰ひしと。けふ松本一秀君へ依頼状かく。
悠紀子、林dr.にて保田夫人に会ひ「近日中に帰洛」とききしと。「林dr.、保田の弟の礼云はぬに気を悪くす」と。

8月8日
9:30大野知子来り、国文法を教へ「明後日また来よ」といふ。11:00出て朝日新聞。S本○氏12日まで休暇と。
丸13:00まで忙しとのことに飯くひ、茶のみ、ゆけば丸の用すまず14:30にと。東京新聞に西寛治氏を訪ぬれば「産経に移りし」と。産経に電話すれば政治部長と!!また茶のみて丸と会ひ、築地まで歩く。(日比谷で大の「かあいい不良少女」興行中なるゆゑ見んとせしも「中途ゆゑだめ」と。受付に大の在否たづねしもわからずと)。
別れて「日本かく戦へり」を二度目に見て帰宅。高田(池元)かよ子夫人、松村達雄、東井昇之進、鍛治初江の諸氏より暑中見舞。
19:00林dr.へと出、保田の周囲を嘲笑してすみし。大塚にて『占領風雲録(20)』買ひ来てよむ。(今西春秋氏より『東方学紀要1』の抜刷贈らる)。

8月9日(日)
6号台風近づくと。東孝子より暑中見舞。18:00増村生来りしゆゑ、畑山博宅へつれて就職斡旋たのむ。beerのまさる。

8月10日
晴。涼し。山本実弁護士(大高12文乙)より暑中見舞。兼頭淳子生より「失名(※ハガキ)は涌井に相違なし」と。里井千鶴子生「玄山へゆきし」と。宮崎智慧女史より「手帖見付からざりし」と。池沢茂君より「坊やの市立丸山学園の担任桐山京子は奈良女子大の郷の教へ子」と。大野知子「風邪にて休む」と。「12日に来よ」といふ。
午后、井上律子残暑見舞。林佳子、住山重子2生白馬より。けふ松山事件の最高裁判決「仙台高裁へ差戻し」と。

8月11日
『果樹園』10冊追加に来る。福地君妹に発送たのみし故と。伊東花子氏より「保田も見舞った」と。
鈴木正義生より残暑見舞。午后出れば霧雨。ついで本降りとなり文庫を出られなくなりしも米田君(栃木県烏山高校)に誘はれ傘さしかけられ、そば食ひし、宿までゆき、小雨となりて帰宅。
山本陽子より挨拶。

8月12日
雨。大野知子来る。藤本時喜子夫人より10月出産と。

8月13日
『果樹園』へ「胃の腑」かき速達す。「同人費20日すぎまで待たれよ」とかく。大野知子教へし。
出て朝日新聞。S本○氏に会へば「16日都合悪くなりし」と。中野□□君にその旨いひ、「23日19:00又は30日18:00にては如何に」とハガキかく。
午飯くひて神田明治書院にゆき、内野女史に会へば「おくれて初校やっとすみしところ」と。稿料よりと『日本文化史講座』6冊をとり、両国、錦糸町を歩いて帰る。
藤井陽子夫人より「この間、夫君とともに来し」と。神戸敏江生(文2D)より尾瀬のハガキ。

8月14日
けさ台風のあふりにて涼し。渡辺三七子より「物送った」と。鈴木敬子、田中秀子より残暑見舞。

8月15日
終戦記念日。12:00出て水道橋より靖国参拝。小雨降り来しゆゑtaxiにて日比谷、New Tokyo(けふ東京大高会か)のNew東宝にて「続・菩提樹」見る。氷西瓜食ひて帰宅。
服部三樹子氏より「保田氏の病気しるや、しらざれば山川京子氏にききてともに見舞はん」と。
田中保子生、和島岩吉氏より暑中見舞。服部氏に電話かけ、病院教へて「ひとりでゆけ」といふ。

8月16日(日)
岩田知子より「原姓をなのらぬわけを姑に云ってやった」と。中野□□君より「23,30両日ともだめならん」と。辻規子生より残暑見舞。成城大学より前期試験について問合せ。

8月17日
家居。午后、山川出版社より女史来り、石橋秀雄君の紹介にて『世界史の研究』にかけと。「themaを云へ」といひて帰らす。
20:30S本○氏に電話かけ「9月10日以后にてもよろし」ときく。(けさ丸に電話かけしに「重俊君また弘前へゆきし」と)。

8月18日
今西春秋氏に礼状。中野□□君にハガキ。太田陽子夫人より「伊賀上野にあり」と。午后入浴。
晩に坂根千鶴子来り、「渡辺三七子に会ひしのみ」と。25日、大の劇見にゆくことを約す。

8月19日
暑し。松浦翠(文VA ※後の史氏義姉)高松よりヱハガキ。午すぎ散髪。山中京子(旧井上)より残暑見舞。
富山県氷見市の橋本芳雄氏とて『戦後吟』その他よみしといふが『Burma従軍記』。
京のひろひし犬ヂステンパーらしく見るにたへず。16:30上衣つけて池田事務所(※池田勇人事務所)。田村、齋藤、浅野、勝部、佐藤、米津氏出席。田中忠雄、高山岩男2氏欠席、浅野氏の「愚管抄」きく。浅野氏「四国旅行中なりし」と。林夫人に電話し、排便苦痛を保田訴へるとききしを告げ、見舞たのむ。
『栽培植物の起源 下(120)』買ひて帰宅。けふ渡辺三七子より靴下2足たまはる。大野知子来り「祖母病気のため休みし」と云ひしと。

8月20日
暑し。住山重子より「鶏卵蕎麦」といふを賜はる。夜、林dr.にゆきしに他出。池袋の本屋にゆき『栽培植物の起源 上』買ひ3冊揃ふ。ハガキ12枚かく。

8月21日
暑し。志賀フミ生(聖心女子大)より「参考書を教へよ」と。畑俊六氏(今高十期)「同窓会をするにつき日時場所指定せよ」とともに往復ハガキ。
12:30出て成城大学へsalaryもらひにゆく。栗山、池田2教授に会ふ。『南島文献資料目録1』出来、もらひし。米津三郎氏より依頼の人名しらべしも4〜5名しかわからず。
出て(10日まで休みと)『長野県地図』買ひ、下北沢で下車。『上野原』『大宮』買ひ、空腹になりて炒飯くひcoffeeのみてのち帰宅。(渡辺三七子のため『歎異抄』買ふ)。

8月22日
暑し。また聖心女子大の畑瑠美子生より参考書の問合せ。川勝重子より「自動車の免許とりし」と。
13:00朝日新聞にゆきS本○氏に中野□□君の手紙見せ、文化人名簿のこときけば「新聞種にならふ者のはなし」と。出てお茶の水。加藤の銀行閉ぢをり、15:00すぎしなり。
『北満風土雑記(100)』、『西力東漸本末(100)』と明治堂で買ひ、『民俗学問題(30)』をゾッキ本で、小見山書店で田川大吉郎『康熙帝(80)』、「大安」で『万暦野獲編』のまだ来ぬのに文句いひ、ヱハガキ買ひ、春夫『前途展く(130)』買ひて波木井書店で『日土土日大辞典(300)』と『世界歴史8(30)』とにて了りとし、後楽園まへで氷のみ、風呂敷買ひ(70)て本包み、本郷3丁目より都電にて帰宅。 22:00入浴。春夫先生の小説面白かりし。

8月23日(日)
けふは涼し。渥美佳子(短2A)より残暑見舞。ひるねせし。羽田夫人と八木よし子氏へヱハガキ。

8月24日
けふも涼し。父より「仕事なく老衰す」と。13:00出て立教大学。Salaryもらひにゆけば会計わが顔知りをり!
手塚、小林2教授と話し、Arseniev『ウスリー探険記(130)』と『黒竜江と北樺太(100)』買ひ、地図『浦和(40)』『熱海(35)』買ひして池袋駅前より林dr.に電話してゆく。
「保田夫人、看護しをり」と。「明日見舞にゆく」といひ都電にて帰宅。
穴川裕代生、軽井沢よりヱハガキ。けふ米津三郎氏へ人名調べつかずと返事。夜、小高根氏に『果樹園』の同人費1,000包む。

8月25日
上田阿津子、鬼怒川より「この間東京にゐし」と。昼食後、本人来り(われ「Weji部抹殺(※Weji部:満州の一部族)」かきそめしところへ)、「けふの特急にのりおくれし」と。
ともに出て上野松坂屋。われ氷西瓜くひ「よべは浅草に泊り、今夕旅の知合と風月堂で会ふ」といふと別れて、日本医大病院へカステラ(375)もちゆく。(※保田與重郎)やせて眼凹みたれど経過よろしきらしき。
17:30となりあはてて出、taxiひらひて日比谷(90)。10分前に来りし坂根生とB席(300)に入り「かあいい不良少女」看る。Witのみならん。幕の内弁当くふ。観客2/3の入りにて明日にて了りと。21:00すみ、beerを有楽町駅前でのみ(90)帰り来る。楠戸生より「中島に会ひし」と。

8月26日
佐々木邦彦画伯より青龍展9月1〜13日三越でとの案内。けふ大野知子来し。

8月27日
朝、大野知子来り、母低血圧と。西村公晴氏より『花降』(※歌集)、印刷岩崎昭弥世話し、安田、影山の序文、柳井の跋文なり。
米津三郎氏より「調査いらず」と。畑俊六氏より「29日中央大学前にて」と写真を同封。一人なることわかり「うちへ来よ」と返事出す。
午后、羽田夫人より「母上胃潰瘍」と。柳井道弘君より『芸生殿』2,4。
入浴す。けふまた33℃、「Weji部抹殺」の案成りやや得意なり。

8月28日
暑し(「夜に35℃となりし」とradioにいふ)。坂本紘子生より「ヤソ会の参考書教へよ」と。渡辺三七子より「歎異抄いただいた」と。
9:00岩崎昭弥君来訪、保田を服部三樹子と見舞ふと。『桃』と『風日』の連合会にてききをりしと也。葡萄酒1本たまふ。
午后、小高根二郎氏より「同人費受取った、蓮田善明伝1年つづく」と。
けふ父へ「大の嫁さがせ」と。

8月29日
田中秀子より手紙。13:30畑俊六君来り「矢野健三閣下にも話せし」と。名簿作れといひて帰す。暑く35℃をまた越えしと。夜入浴。
(午まへ大野知子来り、「差し支へ出来て夕方来られず」とことはる)。

8月30日(日)
家居、大野知子来り、弘前にて発掘の吉成和也より「若菜君、丸と5日ころまでゐる」とのハガキ来しのみ。

8月31日
わが48回めの誕生日。〒なく大野知子の家庭教師けふにてすむ。3女にて財布(350)買ひ呉る。夜、大野夫人来り「少しにて」といひて2千円呉る。「知子学習院大受けたがる」と。

p17

9月1日
晴、暑し。午后、秋山昭子夫人のハガキ見てのち、東洋文庫。
入口にて堀敏一君呼び出し、原稿しめ切りを問へば「はっきりはたのんだことにならず」と可怪しな返事なりしも9月10日ごろまでに100枚書くこととなり、帰りがけ神田信夫氏のゐるに気づき、窩集部(※満洲少数民族)のこと問へば「気づかず」と。和田先生宜しきらし。『八旗通志初集』の写真不十分なるも人名cardは出来をりと。出て電停前より松本(※松本善海)に電話し、大塚仲町下車。古本屋のぞきて太田陸郎『支那習俗(130)』、Kent『歴史研究の方法(100)』買ひて松本の研究室。『満洲発達史』見せてもらひ、16:35まで待ちてともに出、池袋の『Green Corner』で喫茶。「土曜に川久保より電話かかりしも不在なりし」と。
別れて本屋にて畑山博氏に電話し「嬢や3年生」とききてのち、子供の本2冊買ひてbusにてゆく。返礼に林檎もらひし。
川久保に電話かからず。(池袋の本屋を出てまた堀氏に会ひ、題きかれ「明末の野人女直について」と答へし)。

9月2日
晴。暑し(36℃を越へしと)。『骨』16号3冊来り「同人に復帰」と。
午后出て東洋文庫。川久保をらず、「昨日は来し」と。田川孝三氏と話し「藤田先生の官舎、郡山市大織冠」と。
15:00すませ松本に電話かけ、氷くひて三越、青龍展見にゆく。佐々木邦彦画伯の「根子岳」「山望」ともによかりし。
裏の日銀へ寄りて見れば「鎌田正美君、文書局長」と。
帰れば平凡社より「「朔方備乗」0.8枚を9月10日までに」と。

9月3日
朝、史より速達「397人中5番で合格、8日までに身分証明書送れ」と。悠紀子区役所へとりにゆき送る。
論文一も進まず憂鬱。夜、明治書院より速達、見れば小島君わが文を改悪す。

9月4日
晴。10:00出て郵便局へ寄り速達出せしあと成城大学。
中国文学(漢文)の試験問題提出。川上恭正に電話してききしあと「中国文学史も試験する」と届け、図書館にゆき池田勉館長と話し、『東国輿地勝覧』下と1冊借り、昼食あつらへしが来ざる故、まちあぐんで出、駅前で天丼食って帰宅。
『果樹園』44号来をり。高田瑞穂氏より前号の受取。林富士馬氏より『ももんが』の田中隆寛「茂吉との対話」に茂吉先生わが詩をほめられしをのすと。
入浴。疲れて仕事できず。けふ図書館にて恰も中野□□君より電話、「今日静岡へゆく。予定つかず」とのことなりし。

9月5日
12:30出て東洋文庫。神田信夫、松村潤2氏の室にゆき『満洲歴史地理第2巻』見せてもらひ、また同じこと話して不快。
帰りても進まず困る。相野忠雄(※大高同窓)より「久保亀夫の会でところきいた」と、珍しき便なり。

9月6日(日)
くたびれる位書きて「野人女直」60枚ほどとなりしのみ。白井紘史より「2日帰京し小説かきゐる」と。林dr.に電話せしに外出と。

9月7日
「野人女直」書きつづけて昼間家にをり、鈴木治氏よりハガキ。千川義雄より「上京す。日取は改めて報ず、西川、倭に会ひたし」と。
夜、林dr.にゆけば「借金7〜80万円したし」と。そこへ電話かかり、五味康祐氏よりにて「保田の散歩につきあへ」と也。ともに出て五味氏の自動車にて日本医大病院。外へ出るを見とどけ歩きしのち、busにて帰宅。
林氏の見付け賜ひし『ももんが』の記事は、田中隆寛(隆尚の兄)の「茂吉との対話」にて、昭和18年1月7日渡会浩氏(明治44年山口生れ、九大医学部卒)と茂吉先生を訪れ、露伴のことのあと突然!?「田中克己の詩はいいな」と云はれる。渡会が田中克己はロマン派であり、支那哲学をやり(ママ)、ノバーリス(ママ)の『青い花』も訳して居ると云ふと「さうか、それはちっとも知らなかった。自分は経歴などちっとも知らずに、ただ詩を見ていいと思ったのだ。之も西洋を一度通したからいいのだ。今の医学でもさうだ云々」といはれし由。わが生涯に華やかなることありし也。

9月8日
よべ3:00に目覚めて眠かりしに朝食して床に再び入れば速達2通。1は史より「11日友だちつれ池田勇人大臣に会ひに来る。宿せわせよ」と。悠紀子、数男に電話してたのむ。
1は古田房子生より「11,12の両日中、第一Hotelへ来るゆゑ会ひたし」と。
そのあと中野清見君来訪。「けさ丸に電話して讃岐喜八君への紹介たのみし故、午后よしときき、さそひに来し」と。
11:00出てtaxiにて日本医大病院「保田には25年ぶりに会ひし」と。13:00近くまで話し、大手町builまでtaxi。昼食おごられ、喫茶して讃岐に連絡たのみ、西寛治氏に電話すれば不在。讃岐君にはわれ20年ぶりにて「通産省あまりconectionきかざるも話して見ん、履歴書よこせ」とのことなりし。
出て西川訪ねて会ひ、千川の来ることいひ、別れて帰宅。
梅田惠以子より「3番目の子できし。夫君左遷」と。服部三樹子、畑俊六2君より礼状。葉山修平『異形の群』寄贈を受く。

9月9日
午後、東洋文庫へゆき。『武皇帝実録』を見つけ得ず。いやになりて堀氏に会ひ、きけば「400×50、締切は12日午前にてよし」となる。
同室の長身の青年(田中正俊君)、わが詩「物皆変改すと声を出してよみ(※植木屋)」をおぼえゐたり。
出て氷しるこ食ひて帰宅。『文芸日本』来り、山室夫人(阿部教授―防衛大学の■妹)の作をのす。
清書しはじめ37枚となる。

9月10日
松本善海君に電話し、『武皇帝実録』見せてもらはんと思ひしに欠勤と。夜、電話すれば「風邪にて休みし」と。白鳥芳郎氏より「2年間の留学にと9日Wien大学へ出発」と。古川政記氏より「前川氏のことにて会ひたく都合しらせ」と。

p18

9月11日
家居、書きつづけゐれば古田房子生来訪。(あさ電話して「来よ」といひし也)「23日Visaとりにまた上京」と。広東語辞典与へ「台北の地図買ひ来れ」といふ。
史、数男のところへ行きしが便なし。深夜「明末の野人女直について」を93枚書き了る。

9月12日
朝、史帰り来る。またちょっと書き直したあと原稿東洋文庫へもちゆけば、堀氏ゐず、田中正俊氏に渡し、『悲歌』贈れば喜ぶ。田中正義氏の弟と。
すぐ帰り『文芸春秋』買ひ来りしをよむ。けふ河野(浜谷)弘子より近況。松本善海より紫陽花の文献として『南部新書』。
ひさしぶりに入浴し、讃岐喜八氏に電話すれば「名古屋へゆきし」と。明朝9:00に電話して都合きくこととなる。
西川へ史ゆかせて紹介たのむ。「大蔵、通産、農林を受ける」と也。帰って来て忙しき中を西原、奥田(農林)、桐山3氏へ紹介の名刺くれしと。

9月13日(日)
10:00史を西原理財局長へゆかす。〒なし。13:50帰り来り、西原夫妻留守(青山南町に住むと)。池田勇人氏は秘書に電話すれば「明日、役所へ来よ」といはれしと。出て畑山氏にゆき、ぼそぼそ話しゐれば(林dr.の金借にいくらか乗気なりし)、増村、家より追ひ来り「畑山氏の世話にて板橋かの中学に3月の講師できし」と。礼云ひて出、家へ帰れば菓子置きあり。
19:00西原局長に電話すれば「明日役所へ10:00によこせ」と。
20:30讃岐氏に電話すれば「あす12:00会社へよこせ」と也。依子箱根の一泊旅行より帰り来る。
けふ丸に電話かけしに魚釣りにゆきしと。丸重俊生に「あす研究室へ来よ」といふ。

9月14日
7:30出て成城大学。漢文やり、田村氏に電話すれば「12:00来らる」と。京大文学部より漢籍目録来あり図書館へもちゆく。
中国文学の時間に疲れて早々に切上げ、川上恭正生に果樹園社への「猫」速達たのみ、丸重俊君と話す中、史よりの電話かかりしらし。讃岐喜八氏に電話すれば12:30なるに「まだ来ず」と。
田村氏(※田村敏雄:宏池会事務局長)に電話し、三宅秘書官への名刺もらふこととし、高橋邦太郎氏と話せしあと、鎌田女史より宮本馨太郎、保田與重郎へと『南島文献目録1』2冊みらひて出、渋谷より虎ノ門へ地下鉄。Taxiにて短波放送会館。田村氏の名刺もらひて帰宅。
史、まだ帰りゐず。山中タヅ子より「結納入りし相手の欠点わかり破約した」と。山本恭子より「子供の世話することとなりし」と手紙2通。
史、帰り来て「西原偉く、紹介受けし秘書課長23日に来よといひし」と。讃岐氏より紹介の通産省秘書課長おぼえゐしと(面接の場にゐしと)。これも「23日面接せん」と。一応これにて夜汽車で帰ると。
夜、西川へ礼の電話かけしも夫人。田中順二郎君に電話すれば「明日午後ゐる」と。

9月15日
8:35登校。短2すまし、栗山部長と話せば「部会の出張希望あらばせよ」と。篠原部長に会へば「書類作りtype打たしゐる」と。けふ山本文雄氏に会ひ、西寛治氏のこといへば「今日会ひて話さん」と。折から電話かかり畑俊六君「会ひたし」とのことに「14:00新橋駅で」といひ、松村達雄君待ちしも来ざる故、出れば門にて会ふ。新橋へ着きしは14:05。Coffeeのませ話きけば「授業料6,000滞り前期試験受けられざるやもしれず」と。
別れて東京towerにゆき田中順二郎君に会ひ、家のこときけば「協会に運動せん」と。公団はせざりし様子なり。towerに上げてもらひ、焼売賜ひcoffeeのませてもらふ。「湖東君10月3日(土)上京、その夜帰阪」と。
帰れば池沢茂君より「桐山京子生は眞君の従妹」と。「胃の腑」よかりしと云々。大道裕子生より「上京しをり都合しらせ」と。けふ山本恭子、山中タヅ子へ手紙かく。

9月16日
11:00出て成城大学。駅前にて神田信夫氏に会ふ。阿部知二氏をり野田宇太郎氏休講。誰かより電話ありしも「まだ来ず」といへば切れしと。
今井氏にいはれ大藤教授と二人して篠原部長に会ひにゆき指導費14日支出たのめば「よし」と。実際には立替へおけと也。
史学研究法の時間、2年少く、いやな顔しゐればあとで3人来て機嫌直りし。
14:00出て新宿より地下鉄にて大手町buil.のCentral硝子に讃岐常務訪ひ、史の履歴書わたす。「3ケ国語出来る」といひしと。出て憂鬱となり、また地下鉄にて上野松坂屋、日光展見にゆく。明刊小説の稀本見んと也。目録2通り買ひ、帰りに東洋文庫の田川氏に会ひし。 (curry-rice食ひてやや元気出る)。あとまた地下鉄にて虎ノ門。短波放送buil.の三水会にゆく。
齋藤晌、浅野晃2氏に(※長男就職の)斡旋たのみしこといひ、田村敏雄氏より「もはや三宅秘書官には話してある」ときき憂鬱。
帰り瀬長『沖縄からの報告』買ふ。坂根千鶴子より「演出家と喧嘩して・・・」と。

9月17日
きのふフルシチョフとアイゼンハワーと会ひし。その前日はソ連の人工衛星月に到達せしと。
大高同窓会より名簿作ると。立教史学会より『史苑』の原稿10月10日までに400×60と。
午、出て東横dept.にて麺くひ、坂根の宿へゆき見て「近々来よ」といふ。史学研究室へゆけば会議中。宮本教授に『(沖縄)南島文献資料目録』渡し、山田助手に15日(木)、原稿持参の約束し、題は「清鮮間のワルカ問題」とす(※ワルカ:ウリャンハイ:蒙古遊牧民の一種)。
東洋文庫に電話すれば堀、田中氏らみな帰りしあとなりし。教室へ3:20ゆけば学生をらず。電話を教務にかけてたしかめ、行きてやっと高田生つかまへ『祖国』の宮崎兄弟特集号貸し、すませて古本屋。『今古奇観訳抄』3冊(100)、『古文書学(170)』買ひして駅までゆき、赤羽行にまち がひてのり、引返してやっとrain-cort忘れしに気づき、とりにゆき、成城大学に電話して「けふの文化史専攻の会にゆかず」といふ。
帰れば西村公晴君より「東路の小夜の中山こえしより眠れぬ夜はやまと懐へる」を書けと短冊。
岩崎昭弥より『墓碑銘』の新版(※再版)。入浴。
夜は坂根生来り「また宿替へする」と。(池袋駅にて小高根太郎君と遭ふ)。

9月18日
桐山、池沢2君に桐山京子のことでたより。台風の余波吹く。
11:30出て聖心女子大。田中保隆氏の住所きき、代田ときく。海老沢教授あり『1609年キリシタン徇教記』賜ふ。
東洋近世史Tはreport「耶蘇会の初期の在華活動」なりしと。Uは「太平天国」の概説を試験することなりしと(25日13:00)。
出て青山車庫前にゆき『Hong Kong Annual repot 1949,1953(100×2)』とGowen『Asia(280)』買ひ、暑がりつつ帰り来る。
けふ8,9と2月分salaryもらひし也(渋谷駅で大に電話せしも不在)。高松直子より「山内妹と角と受け、角入りし」と。
依子、きのふbonus1万円もらひ、我に洋傘買ひ呉れしも、けふは酒のみて帰宅。

9月19日
成城大学へ登校。新城常三氏九州大学へ栄転(茨城大より)とて後任に千葉大、田中久夫氏を推薦。池辺弥君の専任のことで今井、新城2氏と話し、われ栗山部長に話すこととなる。国会図書館上野支部へ電話し、篠崎さん呼びて「沿海州の地図見せよ」といふ。「有無返事す」と。待ちつつ『金の錆』の合評会に出て、篠崎さん待ちくたびれ、出て日暮里より東武動物公園前に出て図書館。地図類は赤坂へゆきしと。
一旦家へ帰り(学士院内の学術会議選挙管理委員会へゆく途中、林dr.に電話してきけば今日の葉山修平の会には出ずと。のちほどゆくといふ)、18:00出て林dr.「葉山はきらひ」と。「Geld(※お金)のこと、さう心配いらず」と。
出てtaxiにて神楽坂。『文芸日本』の諸同人に挨拶して『異形の群』の悪口いはんとせしも無駄と思ひ2分話して坐る。
20:30先に出て神楽坂にて氷しるこ食って帰宅。(けふもゆきがけ知念栄喜君に遭ふ)。

9月20日(日)
依子、京をつれて悠紀子買物にゆき、わが冬over-coatとjacket買ひ来る。午后、京をつれて十条にゆき古川(佐藤)政記君にゆき畑山博氏への紹介状かき、十条の古本屋見て『月下の一群(90)』と『満洲発達史(130)』買ひ来る。

9月21日
暑し。成城大学へゆき果樹園社へ1,000送り、指導費1,000立替ふ。高橋邦太郎氏に会ふ。Printに「宋詞」切り、41+41枚刷ってもらふ。
Salaryもらひ、出て経堂下車。薄井(※薄井敏夫)宅さがせしもわからず。busにて渋谷(経文堂遠藤にて新田興『雲処雑談(20)』、山路閑古『末摘花並べ百員全釈(220)』、山田孝雄『年号読方考証稿(180)』)。
大に電話せしにまた他出。『浮世絵略史(100)』、圀下大慧『印度史観(30)』と買ひて帰宅。
史より「帰るゆゑ、戸籍謄本用意せよ」と。■(平野黎子生、漢文ならひに来て、けふは宮沢賢治の命日と。盛岡生れにてそれのみを知れり)。

9月22日
よべ睡眠不足なれば苦しきも短大の中国文学史すまし、辻規子生より政信氏の手紙受取り(のち岩崎昭弥に送る)、出て成城園にて昼食。
「商女不知亡国恨」を諸橋『漢和大辞典』で杜牧の詩と見つけ、林泰輔『朝鮮通史』よみ、栗山部長に新城氏の後任交渉のこと諾してもらひ、池辺氏は懸案とし、14:10の教授会。「関本女史は出産休暇」と。
相馬弘の芸術専攻への転科も懸案となり、出て世田谷区地図をたよりに薄井宅へゆけば、取こはし中。隣家でききしに「転居先しらず」と。次嬢の友の母にも会ひ、喜多見に移りしことのみわかり、出て緑丘中学へゆき、転居届しをらざるを知る。次嬢は「あきつ」、長嬢千歳丘高校三年とききて、ゆき見んとせしも千歳高校へまちがひゆきゐるに気付き、busにて経堂に帰り、rice-curryくひてのち中野□□君の下宿、世田谷といふを探しまはり、「毎夜、12時1時帰宅」ときき、名刺おきて出、大江勉にゆけば房子のみ。艶叔母負傷、叔父職をやめて元気なきらし。田中万美子、大阪に就職ときめしらし。
出てbusにて渋谷をへて帰宅。(けふ大に電話して礼云ふ。母また来るらし)。
田中雅子夫人より「鍛治君上京の時、class会せん」と。中島悦子より「山本恭子立直りし。久保田初美家出らし」と。

9月23日
9:00出て駒込より東洋文庫。堀、田中2君をらず、『東洋学報』41〜2,3(220)買ひ、田川孝三氏と話し、「京大研究室の間野潜龍助手に出張のこときけ」と教へらる。
出て成城大学へゆく。雨降り雨よけに入りし本屋にて村岡哲『ランケ(120)』。
野田宇太郎氏に会へば「乾直恵の詩集(※遺稿詩集『朝の結滞』)買へ」と(500)。諾して「史学研究法」。30分にてすみ、中野□□よりの電話にて10月3,4日の都合、S本○氏にきけば「よくなし」と。むりに承諾せしめ明日訪問いへば「夫人留守」と。いやになる。
出て千歳丘高校へゆき、薄井はるな呼び出してもらひしに来ず。担任(3年A)横山典子先生に会ひ事情話して狛江町ときき、喜多見へゆき訊ね訊ねして16:00見つければ、あきつのみをり。同居のお婆さんに話し、董子夫人家政婦にて毎夜10時ごろ帰宅。はるなはアルバイトときき、1,000香料に包み(菓子100もちゆきし外)、駅への途をあきつに送らせて別る。
ついで阿佐谷へゆき、おはぎ(100)と羊羹(230)ともちて船越こせん小母訪ね、系図見せてもらふ。章をり、史の合格知りをりし。
出て炒飯くひ、丸に電話し、(※薄井家遺族状況の)報告と薄井はるなの就職依頼す。
(阿佐谷駅前にて『石頭記(200)』、蒋瑞藻『小説考記(250)』、大原利武『満洲史(80)』、『白川集(120)』買ふ)。
丸重俊に中野駅まで送られて帰宅。松本一秀君より手紙。白井紘史より詩。野長瀬正夫氏より『叙情詩集』。

9月24日(彼岸)
桐山眞氏より「京子は姪」と。「小畑閣下は覚えず。今、社会部のデスク」と。
午后入浴。夜、中野□□君より「シゴトニテイケマセンスミマセン」の電報。けさ第一Hotelに電話かけしに「古田房子来泊しをらず」と。

9月25日
10:00出て林dr.。野長瀬氏への手紙托し、この間の『異形の群』の悪口いふ。ついで西武百貨店へゆき、宮崎智慧氏見舞へば全快出勤と。ただし外出中にて会はず。
立教にゆき手塚教授に会ひ、宮本教授と電話で話し、出んとすれば手塚氏追ひ来て「白鳥先生、毛沢東と蒋介石を顧問に研究所を設立されし」と耳打さる。(京都の東洋史研究会へ500送る)。
お茶の水へゆき、『豊橋』『沖縄』買ひ、隣にて『韃靼漂流記の研究(800)』、『アッサム史(200)』、古本市を見て『鴎外柳村記念号(50)(※鴎外と柳村に捧げる記念号『芸林阨焉x)』。
都民銀行のぞき多忙の加藤君にclass会のこといひ、山本書店にて『87種明代伝記引得3冊』を学校へ注文し、『西域地名(50)』、『張蒼水集(260)』買ひてのち、雨中を聖心女子大へゆき、しばし待って答案受取る。reportは出をらずと。
渋谷へ出、帰れば史まだにて、やがて帰り来しにきけば「通産省も成績悪きをいはれ、運動を耳打ちされし」と。桐山喜一郎氏へゆかし、西川に電話すれば帰りをらず。田村敏雄氏に電話すれば「明日三宅秘書官にも一度云はん」と。
西寛治君に電話せしも、これも帰らず。三浦久子氏より「この間は話せざりし」と。古田房子生より「21日上京して即日帰京した」と。
22:00史、帰り来り、「桐山喜一郎氏不在にて明朝電話せよと夫人に云はれし」と。

9月26日
7:30家を出て成城大学。丸に電話して憂鬱をいふ。文化史Indiaをいい加減にすませ、平野黎子に漢文教へ、図書館事務室にゆけば電話電報「ケフノカイトリヤメ、イサイフミ」と。新城氏、田中久夫教授の履歴書もち来り、「1時間で結構、土曜2時限にと。好都合なり」といふ。(昭和11年卒。国民精神文化研究所、教学錬成所、千葉師範をへて教育学部助教授)。
憂鬱にて眠く、出て経堂にてすし食ひ、小高根太郎に会ふ。「心配いらぬ、何とかなるさ」となり、花瓶を賜ふ。
帰宅して史まてば「桐山氏秘書課長をはじめ3通の紹介状たまひし」と。三宅秘書官にも会へざりしと。
夜、友のところへ泊りにゆくといふを叱る。けふ薄井董子夫人より礼状。小高根太郎氏より受取。

9月27日(日)
15号台風(※伊勢湾台風)35m以上吹きしといふも知らず熟睡。9:00起きて讃岐喜八氏を伊皿子に訪ふ。まちがへて日清紡の社長宮島を玄関に呼出し叱られし。
讃岐夫人「戦争中、咲耶と交際せし」と。出て歩きて池田徹君を訪へば、姉君と母上とをり、桂林衡陽作戦に椿部隊司令部にゐし話きく。
西川に電話し、出てbusにて新宿に出、大塚にて下車、『古墳の話』買って帰宅。聖心女子大の和田生よりreport来しのみ。

9月28日
7:30出て成城大学へ8:45着き、漢文と中国文学史との監督。すみてゆっくりをれば悠紀子より電話かかり、田村氏より「電話かけよ」と電報ありしと。すぐ電話すれば「史、弱く見えるとて及落の境、けふ秘書課長に会はせよ」と。
青葉建設に電話して悠紀子にいへば「史、帰らず」と。
柳田文庫に『満鮮地理歴史報告』2,4,5見つけ、うつせしあと出て駅にて鈴木生見つけ「車」にてcoffeeのみ、下北沢にて下車。「Penguin」にゆきhigh-ballのみ、鏡と灰皿(400)買ひて帰れば、史、偶然ながら秘書課長に会ひ、我の詩人なること知りゐしと。自治庁は採用確定しゐると。

9月29日
成城大学へゆき、短2Aの漢文監督し、すみて『満鮮地理歴史報告』を見、栗山部長に田中久夫講師の承諾求め、中野□□君よりの電話をきき「4日(日)夜、好都合」と。4:00出て木村歯科へゆき昨日に引きつづき施療受く。すみて初診料100とらる。
帰れば史あての人事院のハガキにて法務省も受験可能となりをるを知る。自治庁は推薦となりをり
15号台風の名古屋、岐阜の被害大と。畠山氏(※名古屋の畠山六右衛門)へ見舞かけと史にいふ。
夜、聖心女子大Uの採点了る。90〜100也。正田恵美子を96とす。『青い花』4来り、萩原葉子氏の「思ひ出」をのす。

9月30日
8:00家を出、目白より荒井薬師行のbusにて江古田1丁目下車。S本○氏をたづね当てれば令嬢出勤のまぎは。
4日(日)20:30ごろ訪ぬることとす。池袋行のbusにのり雑司ヶ谷5丁目といふに下車。藤井(吉原)陽子夫人訪ぬれば、あげられ、「鍛治君の歓迎会の幹事承知」と。出て西武dept.にてcoffeeのみ、成城大学。
文化史ニュースのP.R.を大藤、今井2氏に見せ、岡谷講師の仏語試験監督を手伝ひ疲る。
けふはじめて東海道線の〒通ぜしらし。
中野□□君へ「4日17:00わが家、又は20:00目白駅出口にて待合せん」との速達かき、下北沢でのりかへて渋谷。
聖心女子大へ採点もちゆき、report受取り、金杉橋行の都電にのり、浜松町より国電にて帰宅。
岩崎昭弥より「5日頃上京するやもしれず」と。千川義雄より「1〜2日、第一Hotelに宿泊。倭周蔵に会ひたし」と。
田中雅子夫人より「既婚者ばかりのclass会に鍛治嬢呼ぶは非礼」と。
けふ坂根千鶴子来り、「よき下宿見つかりしといひし」と。
史、農林省へゆきしに「京大出の文書課長第一候補とする故、よそ止めよ」と。通産省にゆきてそれを云ひしに返答なかりしと。帰り来しにすでに農林省ときめをり。吾も喜ぶ。西川に電話せしに明日差支ある様子。倭に電話せしにまだ帰宅せず。

10月1日
史、農林省へと早く出てゆく。われ『李朝実録抄』よみ入浴す。
東大東洋史研究室より研究出張の問合せ。立教大学史学会より「年会を11月14日(土)」と。『近畿民俗』2冊を沢田四郎作博士より。
8:30史、帰り来り、農林省に誓約書出せしあと大蔵省にことわりにゆきしに(通産省もすまし)、まあ面接せよといはれ、出て議論せしに合格し、農林省と往復せしあと大蔵省ときまりしと。われ呆れて不快。
千川に電話せしに「飯くひに他出せし」と。

10月2日
雨。8:00坂根千鶴子に電話せしに火事知りをり。ついで千川に電話し、12:00第一Hotelで会ふこととす。
9:30東洋文庫へゆき『満鮮地理歴史報告』7の池内先生の論文を見、10:30となりしに松村潤君に会へば「東洋学報の編輯会は通りしも疑義あり」と。
出て国鉄にて東京駅。西川の会社へゆき相談すれば「礼いらざるも桐山、西原2氏には挨拶せよ」と。
住友商事を通で探して反対側なることを知りてのち、地下鉄にて第一Hotel。千川をり、倭来るをまち、来しに自動車にのせられ三田綱町のclubへゆく。昼食饗されてのち、第一Hotelへ送り返され、千川の同行者と3人にて大蔵省。
途中、北鮮帰国者のdans行進を見る。西原理財局長にまたされて会ひ、礼いひ千川を紹介し、すぐ出て別れ、池田事務所(※池田勇人事務所)。田村氏に会へば農林省のこと知り玉ふ。礼いひて出て大手町buil.にゆき讃岐氏に会へば、これも農林省のこと知りをり。礼いひて出、産経の山本文雄氏に会ひて西寛治氏不在を知る。出て野村建設の入社試験中の竹井眞氏に会ひ、女社員より住友商事のbuil.きき、野村氏よりは中学入学の相談受け、住友商事へゆけば、桐山取締役不在。名刺おきて東京駅より帰宅。
立教大学山田昭次副手より1日は休みにてはなかりしと。渡辺道夫君より抜刷と、忙しと。
夕食すませしところへ坂根生来り、火事の有様いふ。折しも電報来り(大蔵省より)、「採用内定、明日10:00来よ」と。
史、けふ讃岐氏に友人の受験斡旋せしと。苦笑。また出てゆく。われ疲れてくたくたとなりし。

10月3日
晴。史、8:30悠紀子より4,500もらひて出てゆく。われ「朔方備乗」8行かきて平凡社へ速達してもらふ。
10:00田中久夫氏のこと気になり、成城大学へゆきしも新城常三氏来ず。図書館見てまはり『事文類聚和刻本』『全唐詩』など見つく。千葉典子、黒柳直子2女史親切なり。京大東洋史研究会へ出張依頼状の送付たのむ。火曜に白馬節会の合同研究会やると。(中野□□君?よりけふ電話かかりし故「来ず」と高尾嬢答へしと)。
13:30高校図書室にての国文学会にゆく。池田、坂本、高田3教授も出席。河村君の「白秋とNovalis」をきく。わが『青い花』はしらず。 すみて疲れに疲れ、山川京子女史と同車にて新宿。また疲れて林dr.にゆき注射打ってもらふ。(保田30日退院と山川女史の話なりし)。
beerのみて元気出、帰れば中野君来ざりしと。野長瀬氏より「もう1冊送る」と。堀敏一氏より「1〜2枚の梗概送れ」と。夜、中野□□君より17:00来るとの電報。

10月4日(日)
京、運動会とて出てゆく。野長瀬正夫氏より詩集。午后それをもちて畑山博君訪ね、碁一番。群馬県へ(教育長?)転任したき様子。
15:30帰りて歌うたひをれば中野□□君来り、讃岐氏よりききし清見君上京きけば「しらず」と。室Hotelに電話かけてきき見しも来をらぬ様子。
夕食し19:00ともに出て目白。coffeeのみしあと、梨1箱買はせ、S本家に(※お見合に)ゆけば、夫人はその積りなりしも嬢しらざるふりして出て来ず。われとS本氏と話し、田中利一氏『週刊アサヒ』編集長として在京と。吉村正一郎定年退職して京都市助役となりしなどきく。
22:00となり出て、bus停留所まで送られ、20:05の最終にて新宿駅西口。high-ballとbeerとにて話す中、「放送局国際局へ、その中ゆきて誘ひ出して見ん」と。宜し。すし食はせて帰り来れば24:00。

10月5日
8:30家を出て成城大学へゆけば岩崎昭弥君より電話ありしと。試験監督し、昼食しゐればまた電話。「17:00ごろ会すむゆゑ家へ来る」と。
午后また試験監督し、騒ぐ子を叱りし。すみて疲れ、駅へゆけば中河与一先生と遇ふ。「詩をかけよ」とのことなりし。
新宿にてお別れし、野口駿雄(LUD)と、その友の早大生とにて白十字にて喫茶。地下鉄にて西銀座。朝日新聞社のS本○氏を訪ぬれば、令嬢「昨夜は照れて云々」と。今後の交際よろしとききて帰宅。
(けふ野村建設の竹井眞君より電話「あす採用のことにて来校」と)。山内厚生課長に話す。千葉司書『故事類苑』の白馬の節会の條よめと来しも果たさず)。

10月6日
曇。10:00成城大学へゆけば、米人レイオン・ゾールブラッド氏より電話かかり、14:00も一度かかると。
木村歯科へゆき痛い目にあはされ、新開店の「すみれ」といふにてrice-curry食ひ、「来月10日頃に」との鎌倉文化会のたより見て「承知」と返事かき、ぶらぶらして入学案内の会しゐればゾールブラッド氏より「死んだ恋人」訳したゆゑ原稿見よ、印税の問題も相談したしと。印税freeとす。原稿みたしと返事し、教授会。
片井生の転科いかがなりしと問はれ返答に困る。田中久夫氏の講師はすみし。そのあと池辺弥氏を栗山部長につれゆき、Veteransをやめさせれば時間できるといひし。16:30来るといふ竹井氏を門前で待ち、定刻来しを山内厚生課長に紹介す。
すみてまた「すみれ」へゆきbeerのまされ、加藤定雄ほむるに一致し、別れて新宿下車。丸に電話すれば帰りをらず。
(けふ中野□□君に交際自由の速達せし)。
鍛治初江氏より「富子2日に男児生れし。20,21両日の都合よき時間を指定せよ」と。千川より礼状。史より「床上浸水せし畠山家に一泊せし」と。
藤井陽子夫人よりclass会云々。昨日(4日)radioに出たなと。(けふ鎌田女史にも云はれしが、医科歯科の田中克己(※人違ひ)なり)。(経堂にてInselの『Rilke』2冊85×2)。

10月7日
雨。成城大学へゆき10:40〜11:40試験監督。すみて身体検査とて13:00まで待ち受ければ血圧110〜70。体重40キロ。
帰れば羽田夫人より、史、訪れて自慢せし様子にて祝ひ状。古田房子「台北市地図見つけし」と。「振袖きて珍しがられし」と。

10月8日
立教大学へゆき山田助手にきけば「試験中も3,4年は休みでなき」由。『史苑』のしめ切22日まで(中川講師と同じく)と頼む。
手塚教授「会合中ゆゑ、すみてより来よ」と。平塚生1人を教へnoteなきに気づきしも家へ置き忘れしと思ひし。手塚氏、白鳥先生のこと慮らる。
出て『ロープートン2冊(100)』買ひて帰宅。
日記とnoteと立教に忘れしこと気づく。米人Leon Zolbrod氏より手紙と訳稿“”My dead beloved。
夜、聖心女子大reportの採点。すみて1:00就眠。

10月9日
晴。10:00立教大学史学研究嫉へゆけば日記とnoteそのままに置きあり。とりて池袋駅より電話かけて大呼び出し、渋谷で会って昼食、喫茶。並木橋の家に移ると。母一室借りくれよといふ由。
聖心女子大へゆき2時間すまし(鴻巣盛廣令息国文の先生なりし)、採点報告し、渋谷へ出て白鳥家へbusでゆく。研究所の話は一言もなかりし。郁郎君の「明智光秀(※遺稿脚本)」返却し、和田節子夫人訪ねんとゆきしも道忘れ。大橋へ出て帰宅。
中野清見君より「10ジデンワセヨ」と。宝ホテルへ電話し、昨日の手紙と同じ内容話してすむ。「明日札幌へゆく」と。けふ『果樹園』来りし。

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10月10日
9:00出て成城大学へゆく途、木村歯科へゆき神経とめてもらふ。明治書院より「2,016払へ」と来あり、内河女史に電話かければ「まちがひ」と。
また図書館にゆきreport受取り田島生の母方?磯部の大手姓なるに「拓次との関係調べよ」といふ。
坪井生を昼食にさそへば田島、加藤の2女生も来り「すみれ」にて昼食後、紅茶のまし、別れて小高根太郎を訪ふ。史の就職喜び呉る。
歩きて豪徳寺前に出、桑田『淀君(100)』と『満鮮案内(150)』買ひして帰宅。後者はdoubleなりし。
けふ小高根君より「哺む(※ふくむ・はぐくむ)」を教はりし。毛利生よりreport。
夜半、ゾルブラッド氏に訂正の手紙かく。(けふ依子、林dr.にゆき注射打ってもらひしと)。

10月11日(日)
晴。「清鮮間のワルカ問題」考へるも中々書けず。明治書院の内河タケ女史より詫状と「10,000−2,016−1,500=6,484送った」と。
午后、京つれて十条へゆき、『太平洋2600年史(100)』とBarrows『フィリッピン史(90)』とを買ひ来る。夜、沢田四郎作博士へ礼状。

10月12日
曇。『東洋学報』のため「明末の野人女直について」の梗概3枚かき、10:00出て東洋文庫へゆきしに堀敏一君まだ来をらず。受付に渡して出、成城大学。
けふ沢田四郎作博士にハガキ出せしを鎌田女史に話す。女史は浜松在にて、昨日法事にて帰郷せしと。出て「すみれ」にて昼食し(定期券の証明書庶務にてもらひし)。一廻りして木村歯科にて治療受け、下北沢までゆき中村屋の羊羹買ひて(285)和田先生をお訪ねせしに御在宅。
学士院会員の補充、国際キリスト教大学の後任に2万円出すを某君にせしなど話さる。(夫人われを村上正二と間違へられし)。太守の名を喝竿と云はる。
われワルカのこと話せしに反対もされず、お暇まして水道橋へ出、波木井書店にて『大久保武蔵鎧(30)』、『酒のみのうた(85)』買ひ、小山正孝君呼びて茶のみ、「大安」にゆきて『中国葬俗捜奇(110)』、『中国村落の社会生活(50)』、巌松堂にて『清正記(30)』買ひ、明治堂にて『東韃紀行(150)』買ひて帰宅。

10月13日
依子、佐久間医院にゆき風邪と診断。果樹園社へ「捜索」送る。午食して出て角川書店。立原全集係の大村君呼出し、印税のこときけば「とどこほりをり」と。『図説世界文化史大系』買取りにせんことをたのみ、成城へゆく途、短2福島生と同車。Coffeeおごる。名張にゐしと。父は北海道、母は福島にて安宅産業熊本支店長なり。朝鮮にゐて朱乙温泉をおぼえゐると。
別れて木村歯科、神経ぬいてもらふ。大学へゆきしに無人。祖師谷大蔵まであるき、『中朝事実(30)』買ひ帰宅。
けふ中野□□君より「NHKにまたゆき、elevaterにS本令嬢とのりあはせ、向ふは気付かざりしもいやになりし」と。
渡辺三七子より「太田夫人妊娠か」と。
(鍛治初江嬢に「20日午すぎ三越にて会はん」と速達)。野崎その生より「前田隆一氏16〜21日在京」と。伊東まき生より「人形芝居はげみゐる」と。
けふ悠紀子、松茸1,000もちて田村敏雄氏(渋谷区代々木)へ礼にゆき、伊勢すみえを訪ねしとて17:00帰り来る。

10月14日
晴。11:00出て(丸三郎に電話せしに「12:00こよ」といはれし)、第一弁護士会にゆき中野□□君の手紙見せしに「縁なかりしゆゑ傷つかぬ様ことはれ」とのこと也し。
丸、昨日出血して大事とりゐると。別れてNew Tokyoの大高clubにゆく。竹井眞君の隣は藤田久一にて「勤先の日新製鋼が東京へ移転せし」と也。
隣席に河田為也氏坐り「本位田重美氏あす東京へ来る」と。面会できるやう手配たのむ。中学入学をたのむと也。右隣は私市信夫とて通産省大臣官房考査官、官房長くせある人物を好みしと也。楫西光速氏より挨拶受け、S本○、西寛治2先輩に挨拶して地下鉄にて成城大学。
今井富士雄氏、弘前より帰りをり、「岡正雄氏は明大へ転ず。川久保悌郎君、弘前にて酒のみゐし。新城氏は来年来てもらふつもり」と。
出て木村歯科。すめば16:30となりゐし。帰りて瀧口喜久子生より「猫」よみしと。和田節子夫人より「鍛治君の上京うれし」と。千川義雄より「物送った」と。

10月15日
晴。田中雅子より「またしらせ」と。「日本歌人」より「25日(日)大磯へ吟行せん」と。
11:30出て立教大学。手塚教授に白鳥、和田両先生のこと報じ、講義に珍しく高田、久保の2生出席。しるこ食って成城大学。
大藤教授に経過報告し、山内課長に会って恐縮させ!木村歯科へゆきレントゲン3枚とらる。
池袋より河田為也氏に電話して、折しも来訪の本位田重美氏に出てもらひ、17:30S本○氏にまたかけよとのことなりし故、新宿より電話すれば「今夜、昇君(※弟)と会ふゆゑだめ」とかのことなりし。
帰れば和田夫人より「20日午食くひに来よ」と速達。ことはりの返事かく。
夜、「ワルカ部」40枚となる! 瀧口喜久子に「Tolstoiよめ」と書く。

10月16日
『詩人連邦』来りしのみ。11:30出て聖心女子大へゆく。学長招待に応ずべしと云はれ「応ず」と答ふ。
出て雨降り出せしゆゑ、空いたbusにのりて恵比須に出、河田為也氏に電話かければ「18:00〜18:30に朝日のS本○氏にて待合せよ」と。
折から来し電車にのれば反対の方向にて木村歯科断念し、一旦帰宅し、傘もちて15:30出て朝日新聞。
やがて本位田令嬢(NHK採用と。成城より早大英文を出し才媛)来り、重美氏も16:30来り、あす成城へ来ることとなる。
19:00出て河田為也氏の自動車にて日比谷のrestrant。夕食とbeerご馳走のこととなる。21:30出て別れ帰宅。(千川義雄よりカステラ賜ひ子らと食ふ)。

10月17日
4:00より歯痛み7:30朝食しはじめて癒るまで耐へられぬほどなりし。
登校。Iranの文化をやり、木村歯科へゆけば満員、引返して田中久夫氏に会ひ、新城常三氏と教務課長前田氏に紹介し、栗山氏の置手紙来年度の人事ならびに予算の原案を今井富士雄氏にたのみ、10:00来し本位田氏を案内して篠原局長に会はす(指導費1,000を呉れし)。
ついで中学小学へゆきし本位田氏待ち(佐野教授、高田、池田、坂本の諸氏と)、13:30まで話きき、駅前の「すみれ」へ案内して昼食せしに高田氏早立ちし奢りたまひし。
別れて木村歯科にゆき、痛み止めの薬きき、上智会館の日本民俗学会へゆき、関敬吾氏の話。
中途よりきき、すみて沢田四郎作博士に挨拶す。致し方なく八重樫、四峯の2女性と出て喫茶。
帰宅すれば鍛治君より「20日三越で待合せの件、承知」と。(けふ判明せしにては20日14:10部長室で主任会と!)
本多和子より「上京中、叔母の家にをり18日下阪」と。二紀会の切符同封しあり。
(けふ田島生の父、大手拓次の再従弟とわかりし)。

10月18日(日)
雨。坂根生に電話すれば外出するところ。20日夜電話することとす。
藤井、和田2夫人に「20日鍛治君より昼前に電話するやう言づけたのむ」速達。
夜、中野□□君来り「(※お見合相手)皇太子妃以上と云ひしに、感じよくなかりし」と怨み云ふ。
「ワルカ」67枚となる。

10月19日
雨。12:00出て成城へゆき(「ワルカ」75枚となる)、木村歯科。「セデス」と「新グレロン」5錠のみ胃を悪くせしを云ひしも「胃腸薬のめ」と。
「すみれ」でcoffeeのみ、成城学園の方うかがひしに無人(駅に中止の掲示ありし)。下北沢で下車、中華そば食ひ、『小説チンギス汗(10)』、馬場久治『森鴎外伝(50)』、暉峻康隆『蕪村(50)』と安本買ひ、文教大学の卒論中間発表会に出て森静枝生の「スマトラ発達史」に参考書貸すといふ。
18:00前終り(白鳥先生さきに帰られし)、帰れば佐々木夫人よりハガキ2通。中野清見君より(※息子の見合)決裂をしらざる手紙。史を讃岐君ほめて来しともあり。
平凡社より『アジア歴史事典(1700)』。21:00まで仕事できず。

10月20日
7:00起き7:30出て成城大学。短大2年教へ鍛治君の電話待ち、交換手の役目つとむ。12:10かかりて吉川(星野)、吉原2夫人来をり、田中夫人は子供病気にて来られずと。われ和田夫人にゆくといひすむ。
Health Centreより「尿を失ひし故も一度提出せよ」と電話かけ云々。Leon Zolbrad氏より「訂正した。会ひたし(月金以外在宅)と」。
この間に「ワルカ部」清書10枚。14:00松村君来り「子息腸閉塞にて森良雄dr.に手術してもらひ助かった。礼いってくれ」と。
14:10より主任会。池辺君のこといひ、棚、箱20万円を要求せし。
15:10すみ、木村歯科。16:00すみてbusにて池尻、和田夫人にゆく(夫君いま関東財務局と)。鍛治君とご馳走となる。(※関西の話題)長沖先生盲腸と。放送などは代作と。20:00出て渋谷までtaxi。洋酒のませ材木町の宿まで送りゆき、都電にのれば榎君のり来り、山本教授も入院と。
帰れば森dr.より「松村令息診断して感謝された」と。
けふ研究出張を栗山部長にいひ内諾得、史より「病気ゆゑ帰り来る」と速達ありし。

10月21日
朝中「ワルカ」書きつづけ40枚とし、14:30出て成城大学。高尾嬢に会へば「身体検査は来週」と。
休講となり学生喜びゐしと! 出てsalaryもらひ、1,955を月賦で引かれ、他に1,330の税金あり。
木村歯科でやや待たされ、16:30となり、云へば10分ですみ、三水会へ17:20につく。
けふの講演は植田捷雄博士なりしと。一時間まちがへて来られし故、夕食はやかりし。「印度の現状」をきく。
すみて19号台風の余波の中を帰り来る。
けふ『果樹園』の合本No.3来り、史より「帰らず。1万円依子より借りてくれぬか」の速達来る。
朝4:00までかかり「ワルカ」註とも87枚で了る。(木村三千子氏より松茸一籠贈らる。)

10月22日
よべの仕事にて9:00まで寝、悠紀子松茸もちて林dr.、寺本生へとゆきしあと、12:00出て立教大学。
中川助手に原稿渡し、手塚教授に『西域地名』を寄附し、salaryもらふ。ワルカ部の話し、2生誘ひて喫茶。(森女生へと『バタク戦争記』を中川君に托せし)。
成城大学へゆき、高尾嬢に出張願托し、図書館下へゆきしも相手にされず、木村歯科へゆきしあと、電車で気がかはり下北沢下車。「Penguin」でHigh-ball2杯のみ、waitressとラーメン食ひ、南の書店で『地下一尺集(120)』、『三田村鳶魚一冊(80)』買ひ、丸に電話すれば「来てよし」と。ゆけば「重俊喘息再発」と。
20:00前出て高円寺。駅前にて『チベット(80)下』買ひ、午買ひし「上」と揃ふ。
「赤ちゃん」に寄り、またHigh-ballとくさや(110)。
帰れば寺本夫人男児出生後一ヶ月なりしと。田中マサ子より詫状。

10月23日
朝、依子より電話「坪井来をる故、西川に電話せよ」と。
12:00出て聖心女子大へゆけば始業直前電話あり、(佐々木)和田夫人にて「鍛治君のこと話したし」と。
あとにてかけ直すことを約し、講義す。T組に歴史専攻の2名のみありし。
U組を15分前に了り、下へゆきて和田夫人に電話すれば「大の見合を承知させた。17:00〜17:30三越にゐる」とのことに、大に電話すれば「引越しの最中」と。
「坪井に会ふや」ときけば「会ふ」と。17:00かけ直すと云ひ、並木橋ですし食ひて考へ直し、電話せしもかからず。
16:30三越にゆけば鍛治君未着と(林泉会といふが蝋纈染の会にて出品物の高きに驚きし)。名刺おきて出、途中喫茶店より電話せしに不在。
西川に会ひて坪井の宿にゆき、待つまに(※弟に)電話して「見合するや」ときけば「せず」と。困りしまま坪井と話し、11月4日17:00、藤井寺駅plat-formにて待合せ、肥下にゆくこととす。
beerと料理とおごられ20:00前となり、東京駅へゆき別れて鍛治嬢。話に困り、ice-cream食べ、有楽町へつれゆきJin-fizzのまし、taxiにて宿の前まで送りて別る。
帰れば西宮君よりハガキ。「長沖一氏まだ入院」と、本位田氏よりききしと。
『東洋学報』の校正を小使さんもち来しと。これを眠れぬままやり疲る。

p21

10月24日
8:45成城大学。東洋文化史早くすまし、田中久夫氏と話す。よき人にて「小高根太郎へ同行せん」といふ。今井氏「火曜の学科紹介の時出てくれる」と。printの原稿こさへ教務へ渡す。
和田夫人に厚意を謝するため手紙かく。靖国神社展の目録送る。
木村歯科へゆけば「今日にて来ずともよし」と。出て研究室にて云ひし『大手拓次詩集(70)』買ひに下北沢下車。主人と話し、『帝国文学●●●記念号(100)』買ひしところへ田中保隆教授入り来る。坪井、高田瑞穂氏らの会にはゆかざる様子。新宿にて誘ひcoffeeのみて別る。
帰れば『欧文インド文献綜合目録』来をり、われも研究者に名を連ねをり。
藤井陽子夫人より挨拶。古田房子より「双十節にひとり残りし」と。寺本和代より礼状。
船越こせん小母より「史、就職せしや」と。アポロン社より「『乾直恵詩集』送った(500)」と。

10月25日(日)
岩崎昭弥君より「リンゴ送った」と長野より。
渡辺三七子、森良雄、野崎その、古田房子、Zolbrad氏、西宮一民氏、山本実子へハガキ。

10月26日
9:00家を出、10:00すぎ成城大学。中国文学史やり、大手拓次詩集を田島生にと若葉君に托し、「大唐三蔵取経詩話」原紙にきり、昼食すまして庶務に史のための健康保険の手続ききにゆきて出、鈴木俊氏訪ひしに無人。
歩きて小高根太郎君訪ひ、田中久夫氏つれ来ることいひ、ともに出て新宿で別れ、林dr.に注射打ってもらふ。(西武dept.に宮崎智慧氏訪ひしも見当らず。しるこ食ふ)。
(※林富士馬談)保田に服部女史の神がかりいへば「まはりの者変った奴ばかりの場ゆゑ」と云ひしと。
出て『郡司草(120)』買ひて帰宅。(けふ大に電話すれば「妻の心当りあり。母、来月初来る」と)。
宮崎智慧氏より「思ひ直せ」と。『Biblia15』天理図書館より。『乾直恵詩集』来り、日本学術会議議員投票用紙来る。
王子中学の山口広先生『ヱルテルはなぜ死んだか』もち来玉ひ、「母上死なれし」と悠紀子にいひしと。けふ林dr.と保田のこと語りしあとにてふしぎ。

10月27日
成城大学へ8:45登校。中国文学史すませ学科紹介。今井氏来かたおそく4専攻の最後にまはりしため国文(高田)20分、英文(臼井)25分、芸術(相良、上原)30分と時間くはれ、学生はざわざわし、12:00まへとなりし故、5分でやるといひ、3分いひてすむ。
丸重俊より電話、山本治雄、今夕の「はと」で来ると。「出張旅費出しゆゑとりに来よ」と会計課。
第一弁護士会、丸へ電話せしもゐず、「東京駅で会ふ」と伝言たのみ、14:10の教授会に出る。Cunningの処分問題が主なりし。
すみて帰宅。鶴崎生のハガキ。中島悦子よりのハガキ見る。夕食し、19:15出て東京駅。
丸と会ひ「はと」三等で来し山本迎へ、地下の「松竹梅」酒場でのませ(660)、赤坂へゆき旧馴染の宿さがせしもわからず、「弁慶橋」といふ一見(※いちげん)に上りこむ。
「茨木golf場の件にて来、大蔵、農林に知合紹介せよ」と。西川に電話せしに自分ではたのまず。われより頼み直すこととなる。22:00丸と出てtaxi、新宿で別れて帰宅。
けふ悠紀子に京都出張をいふ。(けふ大阪への電話で山本夫人と話せし)。(宮崎智慧氏に会ひいろいろ云ひし)。

10月28日
8:00西川に電話し、大蔵省のこといへば「さあ」と。原田、鎌田へ連絡の件は承知と。
山本に電話し、石野信一(大蔵省官房長)の名いへば「boat部なりし」と。自分でゆくといふ。
中島悦子、鶴崎裕雄2生へ「2日帝塚山へゆき古田房子に泊る」とハガキ。
雨の中、出て王子中学に山口広先生訪ね『ヱルテル』の礼云ひ『南の星』贈り、京阪より帰りてのち招待することを約して、成城大学へゆけば12:00。
Sandwich食ひZolbrad氏待ち、霧島にのることにきめ、出張旅費もらひ、健保の手続たのみなどし、「海西4部とNurhachi」しらべはじめしところへZolbrad氏来訪。
話せば面白く、図書館案内し、出て茶のませbusにて三軒茶屋。古本屋「三茶書房」につれゆけば本多くありと喜ぶ。
われも『七番日記(80)』、『川柳見世物考(200)』、『東洋考古学(250)』、『内鮮風習理解の書(50)』、『東洋史講座第15(80)』と買ひて出、渋谷まで電車。地下鉄にて赤坂見附下車。
「弁慶橋」(※山本治雄宿舎)見つけて入れば西川、原田の着きしところ。やがて矢野来り、丸おくれ、笑ひ興じ、みなが会費1千円払ふに、われのみ只にて出、原田、西川と東京駅までtaxi。
原田の識る東洋大西洋史助教授、やめて女子大へゆきしときく。四方あや生、神島一雄と結婚の通知来しのみ。

10月29日
和田節子夫人より「同じく悲し」とのたより見て立教大学。
手塚氏令嬢、昨日式すみしらしく、けふは出勤(途中にて白鳥先生に会ひ奉る)。山田助手より「清鮮間のワルカ問題」の英訳を命じられ、「TheWarka Question between Ch’ing Dynasty and Korea」とす。
講義には高田生1人(森生へと『スマトラの民族』2冊と『蘭領印度史』もちゆきし)。すました巨人対南海のteleviを高田生と学生食堂で見、 3−0となりしところにて出、研究室にゆけば手塚氏帰宅。
出て『満洲の探険と鉱業の歴史(100)』、『性崇拝(太田三郎)400』、『シベリア年代記(200)』買ひて帰れば『シベリア年代記』はありし。

古田房子より「11月お越し待つ」とハガキ。入浴。

10月30日
朝、鍛治君より速達「和田夫人より(※下阪予定)きいた」と也。渡辺三七子より速達「(※下阪したら)連絡せよ」と也。
10:30出て東洋文庫。堀敏一君に会ひ、開明堂に再校きいてもらへば「両三日中に出る」と也。仕方なく再校たのみて出る。堀君は硲君(※硲晃)と同級生なりと。伝言ひきうけたり。
駒込駅前にてtoast付coffee(60)飲み、聖心女子大へゆき、教務へ来週の休講ことはり、青山教授に会ひ、きけば「京阪東洋史学会は2日夜、春豊園で」と。
講師室にて田中保隆氏と太宰治の話し、15分前にすませて都電に乗れば「先生」と寄り来し子あり。「太宰の話ききたし」と。珍しきことなり。話しつつ渋谷に着き地下鉄にて上野。二科展見るまへチャーシュー麺食ひ、16:10都立美術館にゆけば受付「いそぎて見よ」と。本多和子の15室「くるしみ」のみ見しもわからず。
出て図書館の篠崎嬢に会ひしに「21:00まで勤務」と。伝言「健康法の結果いかん」と也し。
京成電車にて日暮里をへて帰れば、太田陽子夫人より「妊娠」と。木村三千子より「商売繁盛のしるしに松茸贈りし」と。
村上新太郎氏より「浪曼について14、5枚かけ」と。堀氏へ原稿包み書留にて送れといひしところへ、坂根千鶴子来り、22:30まで話きいてゆく。
けふ岩崎昭弥より林檎贈られし。(けふ小高根二郎氏に『果樹園』の同人費と製本代1,100送る)。

10月31日
7:30出て成城大学。文化史に近代史の始まりとして新航路の発見とキリスト教の東伝とをいひ、10:00まへすまして大阪行の切符買ひ、小田原へつけば阿蘇出るところ。次の雲仙にのり、京都駅へ19:12つき、平中氏に電話すれば「2日の会に出よ」と。史に「その会か翌3日の午、研究所の前に来れ」と速達。大江叔母、肥下に4日訪問をしらせ、駅前に泊る。

11月1日(日)
10:00出て桃山まで汽車。明治天皇陵に参拝。10年前とちがひ、けふより参拝者二三あり。
桓武陵をへて稲荷までゆき、一日の賑はひを見てのち下阪。吹田山本(※山本治雄邸)に泊る。
いろいろ話してうちとけ、一日を了る。


昭和34年11月2日〜昭和34年12月31日 「東京日記 7」 本冊画像PDF
25.9cm×18.0cm 横掛ノートに横書き

p22

11月2日
雨。傘買ってもらひ、11:00山本を出て吹田駅。大阪駅に荷物預け、「Calm」に入って日生の松本一秀君に電話かければ「すぐ来よ」と。
ゆきて新築の南館といふにゆき、契約部長となりしに会ふ。やがて高松、谷川、川崎、山内の4人来る。「藤原はすでにやめ近々上京」と。「宮口は本日あたり分娩予定日」と。
4生と別れ雨中を洋食屋に案内されて昼食たまふ。別れて心斎橋まで地下鉄、阪急Hotelにゆき古田房子生に会ひ「今夜電話する」といひ、帝塚山短大に電話すれば事務の筒井生「みなすでに待つ」と。
『台北市街図』もらひて出、豪雨の中を短大につけば、守本主事「5分間」とことはり、学長室にて退職手当につき、前学長に「告訴するやもしれぬ」といひしも、(※交渉)だめなりしと云ふ。
すみて文芸研究室。川端直太郎氏と源講師のほか、あとにてわかりしは嬢を文芸に入れし中谷信之(逓信病院)。いろいろと話す。山本実子、上野薫子、佐々木慧子、住山、林佳子のgroupと兼頭生。
住高の硲晃氏に電話し、来てもらふこととし、廊下にて今夕の京阪東洋史会さそひしもきかず。送り出してのち岩橋講師、根木薫、田中洋子に会ふ。
15:00姫松病院の長沖一氏を見舞ひ(同窓会名簿を川原止至子氏より貰ふ)にゆく途、理事長夫人に会ふ。早雲もと氏にも会ふ。長沖氏やがて直らん。
出て諸生と別れ、上町線にのれば古田亀夫氏。「その中話しに来てくれ、手続は云々」と。
アベノ橋にて別れ京阪電車にて京都三條。京阪書房に寄り、主人ゐぬに『支那民俗誌』訊ねてみれば「なし」と。フロートの『支那の宗教(100)』買ひ、春豊園にゆけば青木富太郎らの卓に守屋、神田信夫、山田信夫、星斌夫、佐口等あり。
われ老年組にゆき増井経夫と佐中壮2氏の間に坐り、松田寿男、田野開三郎(九大)、中山、平中、鈴木、青山と、これも京阪在住者の少なきに気づく。
神田君ゐるゆゑ(※父君喜一郎博士に気兼ねして)和田先生のこと話せず。静かにすます中、史来り、会へば「にこり」ともせず。500渡し桜井屋のヱハガキたのみ「4日12:00大江にて会はん」といひて別る。
やがて鈴木氏の立ちしを機に出て、本位田重美氏の来るといふすしやにゆきしに、小島博士と来るやもしれずと。
すぐ出て「れんこんや」より依田義賢氏に電話すれば「今夜出られず、多喜さん(※井上多喜三郎)いままで山前(※山前実治宅)にゐし筈」と。握飯くひ、またすしやに電話せしに「まだ来ず」と。出て大阪駅につけば22:10。
公衆電話なく、阪急Hotelへ直接ゆき泊めてもらふこととなり、23:30まで古田生と話す。

11月3日
6:00目ざめ、丸、京、栗山部長にハガキ書き、山中タヅ子、東順子、(中島悦子にはきのふ電話して会へざるをいひし)に電話してのち、荷物と傘預けて京都駅へつけば11:00。研究所に着きて今西春秋氏の始まらざるをきき、宮崎市定博士立会の下に晩餐会出欠問はれて「出る」といひ、会費払ひ(500)、会場に入りて「古代の麻織」(大阪市大佐藤武敏)をきく。つまらず。
すみて今西氏の武皇帝実録の話きく。隣席には滋賀県短大の村上博士。藤枝晃をり、すみてより近づき「印象、彫りあり云々」。
昼食ともにくふ者も見つからず、一人出てうどんくひ、蔦町の梅原いと氏訪へば、雨ややに激しくなる。
「72才となり玉ふ」と。いろいろ話し80周年の府立医大史見せられ、洋傘借りて出、市busにて京阪四條より稲荷へゆき、
東丸神社に羽倉君(※羽倉裕景)訪ひ、羽田の話し(きのふ羽田夫人に電話し「(※羽田明)5〜10日の中に帰国」ときく)、和田先生の話して16:00になりて出、京阪書房に寄りしに主人をらず。
(けふ三笠宮、博物館の隋唐展にゆき、中山正善も来をりと、神田信夫氏よりききし)。
わが『李白(230)』買ひ、『日清太平記(30)』もらひ(五色豆、八橋を500買ひし)てまた研究所(中島利夫をさきほど訪いひしに不在なりし)。
やっとすみし講演(貝塚博士)を待ちて撮影(小野勝年わが前にゐし)。立食の晩餐会に出、天野元之助博士より、このほど成城大学に「米の話」しにゆきしときく。佐藤長来り、「羽田をらぬで淋しいでせう」と。
事実なり。
18:30出て京阪にて京橋。渡辺三七子に電話すれば「東姉妹をも呼びをり(旅行はのびしと)すぐ来よ」と。今里へゆけば迎へ来をり、順子、孝子2生も来着しをり。22:00まで姉妹の話し、タバコ賜ひて帰りしあと、叔父さんまじへて話し、風呂たまひ、お茶漬けたまひ、太田陽子夫人に寄せ書して寝につく。
けふ京阪書房にて小林高四郎博士を大津に案内するとてゐしは三木正浩君。われをはじめ藤岡謙二郎と思ひしと。「膳所高校につとむ」と。

11月4日
6:00目覚む。西川英夫にヱハガキ書き、8:00古漬ほめつつ朝食し、ともに出て今里より上六までゆき、別れて江間春夫自動車局長訪へば「9:30出勤」と。ナンバまでbus。心斎橋筋を上り、阪急ホテルにて鞄とり、傘預け、佐渡島金鉱の梅本(※梅本吉之助)訪ね、川崎に電話して「今夜19:00山本宅にて」といふ。(そのまへ山本に電話して約束せし)。
10:00十合のあくを待ち、山口玲子生を呼出せば中々わからず。姉の婦人服売場につとめゐるにききて呼出し了り、喫茶室にて話す。「小野和子2児となりし」と。「大江叔母毎日来る」と。
別れて地下鉄、近鉄にて藤井寺。大江に着きしは12:00前。史来るまでにいろいろ話し、やがて来しと雞鍋、beerご馳走となり(1千円借り『李白』置きし)、史も500円もらふ。
城平叔父に電話にて「訪ねられず」とことはり、清水生に電話してゆき、悠紀子への手提げもらひ、古本回収にと大江宅まで伴ひ、駅までつれゆき、しるこ食ひ、
別れてplat-formにて15分まち17:00かっきりに来し坪井と肥下(坪井、酒一升を買ふ)を訪ひ、東京の話し、西寛治へよろしくときき、『コギト』その中にといひ、駅で別れ、坪井にアベノ橋まで送らる。
山本に大阪駅より電話せしが19:00。30分してゆけば川崎菅雄来しところにて経理士まだ盛大ではなきらしかりし。夫人への伝言たのみ、22:00送り出してより碁。入浴。将棋とやり、24:00就寝。
けふ丸にと電話し、川崎と丸と会ひゐざるを知りし。

11月5日
よべ山本実子に電話し、姉恭子の家に帰りゐるをきき、渡辺三七子に電話して礼いひ、もはや仕事なくなりしに、山本、丸との連絡に「はと」にて帰れといふ。
9:00先に出て梅田。大河原(※大河原倫夫)を訪へば「10:30ごろ来る」と。久保を訪へば出社しをり、会ってくれ「はと」の切符手続してくれる。
出て大毎の天野愛一訪ひしに「11:00出勤」と。高尾書店にゆき『文久二年上海日記(180!)』、『関西文学散歩(130)』買ひて『支那民俗誌2』あるを成城大学へ送らすこととし、山本にゆけば手紙かきをり、待つま小高根二郎君と大河原に電話し、大河原の重役出勤を皮肉りしと怒らる。
やがてgolf-link問題の連中来りし様子に、山本に1千円出させ11:30出て梅田。公社にて切符買ひ(はとの特急券800)、昼食すませ、12:15乗込み空席多きに気づく。
京都より乗来し隣席は勧銀高橋京都支店長夫人「高雄にをり終戦を台北で迎へし」と。横浜まで話し、迎へに来し慶大2年美学専攻の令嬢とに敬礼さる。
東京駅より丸に電話し、新宿駅西口まで重俊の迎へに来ることとなり、21:00会って山本の手紙と車代(1.5万)わたし、鎌田女史へと五色豆と八橋とをわたしてすむ。帰宅22:00。

11月6日
留守中に来りし郵便、林富士馬氏より「高橋重臣君の住所しらせ」と(悠紀子電話せしと)。
井上多喜三郎君より「10日ごろまでに佐々木邦彦のprofileをかけ」と。
山本八郎氏長女八重子氏「原田一郎氏に嫁し保土谷に住む」との挨拶。
小高根君より「大木篤夫氏、困りて会社に来し」と。新城常三氏より着任の挨拶。
帝塚山短大「同窓会を29日やる」と。
けふ来しは大より転居通知。今西春秋氏より『天命建元考』抜刷。史より「阪急Hotelへゆかざりし」とヱハガキ送り来る。

11月7日
雨。人間専科社より「薄謝呈す。詩を正月号に」と。午后雑誌も来り、前川佐美雄氏より「11月上京とりやめた。唐詩の訳くれ」と。中島悦子生より「十時生曰く、よくもてる先生やな」と。
夜、出て林dr.。注射打ってもらひ、(※戦時中)薬師寺衛とわが家訪れしときく。酒たうべ大塚をへて帰り来る。

11月8日(日)
悠紀子と相談、組合より1万円借りることとす。山本陽子生より「9日14〜15時来訪」と。
けふ山本治雄、久保亀夫の2友、古田房子、東孝子、清水文子、本多和子、四方綾の諸生へヱハガキ。
学術会議へ山本達郎、藤田亮策と投票し、漢文の採点ほぼすませしところへ正平来る。「明日帰阪」と。
城平叔父に手紙かきて托す。

11月9日
8:30家を出て成城大学。別に事なかりしと。栗山部長にも会ふ。漢文の採点記入し、2B(英文)のみ普通なるに気づく。会計より指導費また1千円出し、ふしぎ。
庶務へゆき課長に1万円の借金申込めば「手持ちなし」と。不快。
鎌田女史にゆけば柳田国男先生をられ、五色豆と八橋おあがりになる。『文学界』の松茶庵訊ねまゐらせしに「わからず」と。「西廂記」のprint切り、12:30出て東洋文庫。
国宝2点など見て、岩井博士に羽田のこときけば「便りなし」と。姉婿上田氏と。麓保孝氏に会ひし。
山本陽子来る筈ゆゑ急ぎ帰れば15:00すぎ来り、「長沖氏の世話にて大阪のradio,televi関係にて働きて見る」と。けふ17:00東京駅にて待合せて父と箱根へ行くと。
そこへ坂根生来り、17:00前、2人にて出てゆき切符忘れゆく。19:00すぎ帰り来り、渡辺三七子に寄せ書し、matinetの切符3枚、悠紀子買ひやる(12日 80×3)。
けふ『文芸日本』来り、「Penguin」の閉店を期し「14日同人会をそこにて」と見ゆ。「人間専科」社へ「18日までに詩かく」と返事。

11月10日
8:40成城大学へゆき、山本文雄氏に会ふ。入学案内城平叔父へと送る。
11:30上京の山本太郎と会ひbeerのみ談りて帰宅。『神功皇后』買ふ。鍛治初江君より「大阪で会へぬならまた上京する」と。

11月11日
今西春秋氏、鍛治初江、中島悦子2生へヱハガキ。「佐々木さん」(3枚)を『骨』にと井上多喜三郎氏へ速達(あとにて悠紀子、普通便にて出せしこと判明)。
訪ふ声して川久保悌郎君。史学会に出張し来り、わが姿見えざる故訪ね来し」と。悠紀子をして上田勤邸に電話せしめてきけば「羽田夫人けふ上京、羽田君は明日22:30羽田着」と。
ともに出て昼食し、家へ引返して井上氏宛の便すでに出せしときくところへ角川よりHeineの10版の印税10,500−税1,525−書籍代640=8,285来る。
国民評論社より「1年分760払へ」と。上落合文学堂の書目来り、「『コギト』100冊2万円」と見ゆ。
成城大学へゆき2時間教ふ。実践女子大生より電話かかりしと也。中島利夫氏より「来訪を謝す」と。
15:00実践女子大の中川生(中原中也を卒論にかく)と宗近生(嘉村礒多やると)と来り、『四季』の「中原中也追悼号」を貸せと。土曜にもちゆくと云ひ、「富永次郎氏を明日訪ねよ」といひ、(阪本短大主事相変らず非礼なり)、出て野田宇太郎、高田瑞穂2氏に会ひ、「車」にゆき2生紹介す。
帰りて池袋「green corner」、松本(※松本善海)と川久保とすでに在り、川久保に茶おごらせてすみし(けふ川久保に『英文満鮮案内記』と『シベリア史年表』とを与へし)
(S本○氏に「中野□□、他に恋愛す」と詫び状出せし)。『果樹園』46号来りし。古田房子生より洋傘もち来るやもしれずと。保田與重郎より退院の挨拶。

1月12日
曇。悠紀子「羽田夫人に会ひに」と出てゆく。齋藤晌氏より『詩吟集』来る。
12:00出て東武dept.でrice-curry食ひ、立教大学にゆき「六大学leagueの優勝戦にて学生不在」ときき、教授室にてtelevi見、出てcoffeeのみ4−2にて優勝せしを見て帰れば、悠紀子まだ帰らず。
やがて帰りて「池内邸の破れしと、羽田のsalary万円にて困りをる」などの話きく。
けふ中野清見君へ報告かき、□□恋愛とS本家にいひしを伝ふ。井上多喜三郎君に短冊送らずとかく。
依子、帰り来て「足立支店に転勤命じられし」といふ。

11月13日
雨。上田邸に電話すれば「羽田君よべ2:00に着きまだ眠りゐる」と。散髪して11:30家を出て聖心女子大。すませて渋谷より都電にて赤坂見附。清水谷公園をぬけて池内邸にゆけば一氏出て来られ、2階に案内さる。
婦人と織田武雄氏(同行と)と話し中、羽田君着がへしゐるらしく、旅行中尤も元気なりしときく。「Caspi海の水は日本海と同じく濃かりし」ときき、文部省へゆくといふを地下鉄まで案内して別る。
中野清見君より「(※お見合斡旋につき)すまなかった。明治製菓に工場売れた云々」の手紙もらふ。
白井紘史より「都合しらせ」と。村上新太郎氏より「書け」と。夜、『果樹園』にと「歴史」かく。父より「15日6:00着京、大の新居に入る」と。

11月14日
成城大学へ登校。文化史すませ定期券の証明もらひ、図書館下にゐる。
田中久夫氏と「小高根太郎君をさ来週訪はん」といひ、『支那民俗誌』そろってあることわかる。(高尾より第2巻来あり)。
実践女子大中川生より電話あり、出て東北沢。中華そば食ひながら話し『四季』貸し、赤川(※赤川草夫)夫人へ紹介状かき、別れて池袋。西武dept.。宮崎智慧氏と喫茶。『日本歌人』に7枚20日までに書くこととなる。
古本屋ひやかしてのち史学会。宮本馨太郎氏の「露卯の下駄」おもしろく、白鳥先生に会へば「近々話さん」と。
仁井田陞博士に挨拶して、その中国見学談ききて、懇話会に出る。西武dept.でalbum買ひ、400の会費きちきちとなりし也。
19:30すみて中山久四郎博士(87才と)と90才の老翁(棚橋氏)との足どり危ぶきを見ながら出る。
明治書院より『高等国語指導資料第2巻』来しのみ。

11月15日(日)
田中忠雄氏より「18日(水)の三水会にぜひ出よ」と。
12:30意外にも長尾良君来り、「早川敏一氏に佐々木望氏より紹介受け、主婦と生活社に話ありしも立消えし」と。
帰りしあと松本善海君に電話すれば「16:00も一度電話ありて羽田との連絡きまる」と。
入浴して16:35またかければ「羽田疲れし」と。「夫婦して挨拶にゆかれよ」といひ、我はすます。
依子けふ新任地足立支店をみにゆきし。

11月16日
5:30悠紀子、父母を迎へに東京駅へとゆき、我、戸締りして10:00成城大学。
高尾嬢休みとて戸田嬢?茶汲みに来をり。12:00悠紀子より電話、父母も出て「健、上京中ゆゑ夕食しに来よ」と。
中国文学史のprintに「三国志演義」切り、文化史専攻の志望18人(国文20、芸術20、英文75)とききてのち出て帰宅。
悠紀子帰らず、戸締りあき、東洋学報の3校、山中タヅ子の手紙、千川稚泉のハガキ来をり。悠紀子帰りしあと、渡辺三七子のヱハガキ琴平より来をり。
けふ伊東マキ、白井紘史にハガキかく。16:30出て大の新居訪ぬれば、大帰らず、健来ず、父母とすき焼しbeerのみて帰宅。

11月17日
9:00成城大学へ登校。中国文学史教へしあと川上生と将棋さす。東洋学報のため追記もかきしが旨くゆかず、教授会となり、文化史専攻18人を確認す。
15:30すみて民俗学会17:30よりありとわかり、図書館にて退屈す。宮地直一氏令息、山中裕氏(史料編纂所員)来り、山中氏を中心に「踏歌」につき研究。20:30カレーそば食って帰宅。
瀧口喜久子生より「復活」よんだと。熊谷芳彦より「ひたち孔版社」を開業と。

11月18日
東洋学報の追記清書。『人間専科』へ「帰還」。10:30起き、髭そり郵便局で速達。
東洋文庫へゆき堀敏一氏に会ひ、英文摘要見ささる。coffeeとtoastとりて登校すれば12:50にてほぼ2,3年全出席。
すみてreportの指導し、「2年生、1年の応ずるもの多きに発憤せし」と坪井勝也の話なり。
漢文教へ、この前休みし連中を研究室に呼び、40代以下に「やめよ」といひ、やめしもの3人?
新宿へ出て中華そば食ひ、地下鉄にて赤坂見附下車。短波放送ビルへゆく間、料亭の櫛比せるにおどろく。
(※三水会にて)勝部君の「アメリカ教育の危機」、浅野晃氏、アメリカ圏の没落きまりしといふ。すみて池田勇人氏の還暦祝に梅一鉢贈ることとし、1,500づつを醵出。新橋まで歩きて帰宅。
けふ村田謹一郎『正倉院宝物展目録(200)』をもち来りくる。

11月19日
前川佐美雄氏へ「2,3日おくれる」とハガキ。長尾良君より「近所に2間(6、4.5、浴室付)の一軒家の貸家あり」とハガキ。
立教の史学研究室へゆき、話さず講義。けふは3人皆出席。すみて「らんぶる」といふへつれゆきcoffee、そのまま帰宅。
夜、大江叔母へ礼状と1,000。

11月20日
NHKより調査票。中村漁波林『詩集墓標』。聖心女子大へゆき、徳富氏にきけば「後期はなるべくreportでない様に」と。2時間すまして帰る途、うしろより追ひ来しは稲富生と名のり太宰治のことこの前聞きに来し生徒。
German Bakeryにて話きけば「わが点きつきは当学2人の1人!父を憎む」と。「英文なれど宿題多きゆゑやめる」と。第2双葉より来しと云々。
別れて大のところへゆけば父不在。母、飴くれ「間借りまだ」と。出てゆく大のtaxiにのせられ恵比須をへて帰宅。
羽田夫人より悠紀子へ「箱根に一泊して帰洛。羽田君さほど疲れをらず」と。年賀用ハガキ300枚買ふ(けふ聖心女子大の11月salaryもらひし也)。

11月21日
成城大学へゆく。坪井生「8日に文化史の会を新宿です」と。齋藤生など珍しき2年の挨拶受けし。
Printに「水滸伝」きり(暉峻博士に『蕪村』に署名たのみし)、「すみれ」へrice-curry食ひにゆき、帰りて田中久夫氏と話し、来週土曜に小高根太郎を訪ふこととす。
13:00salaryもらひ、「史の在学証明書とれ」といはれ、出て経堂下車、古本屋までゆきて小雨ゆゑ小高根家へゆかず。
駅にて久しく会はざりし野尻貞雄氏に会ひ、齋藤晌氏の訴訟のこと問はれ「われもきかず」と答ふ。
宮崎氏(※宮崎幸三)無職にてゐるらしく気の毒なり。
下北沢で下車。『日本と泰国の関係(30)』、『年表世界歴史(100)』買ひ、南口の古本屋へもゆきて話し帰宅。
京都の学会の写真来しのみ。(けふ『蘭領印度辞典』の製本を中馬君に托せし)。

11月22日(日)
羽倉裕景君より「勤評第一号なりしを藤井君に奔走してもらひし」と。
午まへ丸に電話すれば「今から出かけ、夕方帰る」と。15:00ころ中野□□君来り、文学話せしも大分ちがひし。
夕食してともに出、新宿にて別れ、高円寺より丸家にゆけば「重俊喘息にてねてゐる」と。「由美子、noiloseにて学校休みをり」と。
来客と話す丸まち、山本のこと話し、第2夫人の姦通は1回だけなりしとききて出、「赤ちゃん」に寄れば、赤川夫人「この間中川嬢来しも、中原中也夫人(野村家)とは7年会はざるゆゑ、電話帳にて探せといひし」と。High-ball1杯のみ、満員ゆゑ出て帰宅。

11月23日(勤労感謝の日)
家居。悠紀子、依子をつれて大丸へとゆきしあと、父母「二の酉」の帰りと来る。「千草、経堂の案内所に成城学園3間1万円の家の広告見つけし」と。
話すところへ岩崎昭弥君来り、『墓碑銘』の出版記念会盛大なりしと報告。また礼状多く見す。いろいろ話す中、悠紀子ら帰宅。(わが冬over3日で出来上ると)。
父母去り、岩崎引きとめて夕食さす。そのあと『日本歌人』へと「白詩2首」の題にて200字詰11枚かく。
長尾良君に「家いらず」と。中村漁波林氏に「出版記念会の案内せよ」と。保田へ『南島資料』送ることとす。

11月24日 △(※不詳)
成城大学へ登校。午まで岩崎君の電話まつつもりの所へ白井紘史より電話。
「すぐ来よ」といひ、西垣脩氏の休講をいふ故、電話すれば夫人「本日は出講」と。
苦笑しつつ「すみれ」へつれゆき昼食させ、祖師ヶ谷大蔵まで歩き、経堂で下車。
北口の古本屋につれゆき、われは蘆花『巡礼紀行(20)』、『地方史研究法(150)』買ひ、南口の古本屋につれゆけば休み。別れて小高根太郎訪へば「美術館へゆきし」と。夫人に「土曜に田中久夫氏つれ来る」といひ、借りし本3冊返却して帰宅。
悠紀子いまだ帰らず無人なりし。やがて筑摩書房より萩原葉子さんの『父』もち来る。
悠紀子帰りて「成城の1万円の家ふさがりをりし」と。けふ大の誕生日ゆゑ行きて飯くひ来しと。

11月25日
雨。成城大学の学生総会とて休みとなり、家居。田村春雄君より「在京。27日夕方、小島館へ来ぬか」と。
筑摩書房の加藤国夫君扱ひにて「12月8日(火)新宿キリンビヤホールにて萩原葉子さんの出版記念会」と。1950〜1951年の日記よみ返せしのみ。
午后小高根二郎君より「新年号の締切を12月10日に」と。夜、坂根千鶴子来り、memento mori(※死すべき宿命)話していやがらす。悠紀子風邪。小島館へ電話せしむ。

11月26日
晴。萩原葉子氏へ礼のハガキ。古田房子より「今夜おそく着く。29日(日)夕方会はん」と。
12:00出て立教大学。研究室へゆかず教授室にをれば『史苑』の校正もち来呉る。3人そろひし学生に「ヌルハチ年譜」をreportにせよといふ。
すみて教授室にて校正しをれば佐々木喜市講師来会。挨拶し、史学談話会にゆき、校正了る。
手塚氏をはじめ教授みな中退。われのみ最後までのこり、吉村せつ子生の多摩丘陵の年中行事をきき、slide見て、国電にのれば金子喬彦生とて「義和団事変の東南互保運動について」談りしが挨拶す。盛宣懐、張之洞、李鴻章らに排満興漢の精神なかりしを云ひやる。

11月27日
曇。寒し。大丸より冬over-coatもち来る。午まへになりて聖心女子大へ出たくなくなり休講を電話してもらふ。
筑摩の加藤氏より「葉子氏の会17:00」と。大江叔母より「受取った、手紙の字よめず」と、カナ切り抜いて来る。
川久保悌郎君より林檎1箱。あとにて「送った」とのハガキ。
17:30出て上野小島館へ田村春雄博士訪ね、夕食よばれ、のちともに出てわれはHigh-ball。
Taxiにて神田へ案内し、『北京年中行事記(130)』を若葉イナヲの為に見付けしを最後に『富永太郎詩集(30)』、『中華民国三十年史(30)』、『日本風俗史概説(100)』と買ひ、田村君も買ふ。お茶の水にてまた喫茶し、国鉄にのせ上野で別れし(大東勝之助博士Liebe(※愛人)をつくり、夫人さはぎしと)。

11月28日
8:45登校。Note検査を文化史聴講生に申渡し、図書館下にゆく。(坪井生「12月8日の選考会を18:00よりと定めし」と。1,000の輔導費わたし、村田への200も托す)。
田中久夫氏の終るを待ちて、ともに出、経堂の中華そば屋に案内し、ついで小高根邸へゆけば、太郎君まちをり。
14:30ともに出て(田中氏、公田連太郎翁と親しく、徳永康元君と同級と)。
新宿で別れ、池袋で下車。宮崎智慧氏に『日本歌人』にかきしといふ。大岩嬢(室井馬琴令嬢?)に紹介さる。
出て帰れば前川氏より「よき原稿云々」とハガキ来あり。
中野清見君より「今夜19:00来られぬか」の電報来ありし故、宝Hotelに電話して「ゆく」と云ひ、夕食してゆけば姪2人(楽手と女子医大生)来をり、丸20:00来り、22:30まで話し、飲み(姪も!)、taxiにて丸と王子まで同行、下車して帰宅。
夜半、酔発して苦し。(西武dept.で『静岡』『清水』買ふ)。

11月29日(日)
〒なし。午后、田中正平来り「城平叔父きのふまで居り、龍平に成城を受けさす」と。「来月20日すぎ上京、会ひたし」と也。
帰りゆきしあと入浴。夜、史へ「在学証明書送れ」の電報を打たす。
昨朝、古田房子に電話かけ「今回は会へず」とのことなりし故、他出せず。城戸慶子より「青木正樹氏と結婚」と。

11月30日
8:00起きて成城大学へ登校。栗山部長と萩原葉子氏のこと話す。
中国文学史すまし、あすのため「西遊記」のprint切り、高橋邦太郎氏見て図書館下へゆく。みな卒業論文のthemaとどけし由。丸重俊をり「この間、父酔って帰りし」と。13:30出て帰宅。
史より在学証明書送り来しと(代々木上原より代々木八幡まで歩きし)。古田房子より洋傘送り来る。二階の平野夫人、名古屋のういろう賜ふ。

12月1日
8:45登校。短大2年の私語して止まぬに怒りしも不快。早めにすまして『高木地誌目録』より書き抜きし「すみれ」へrice-curry食ひにゆき、帰れば大藤氏「栗山部長へ」と来る。あとにてとなり、また研究室ですごす。松村達雄を見ざりし。
教授会にて1年の専攻につき英文の超過の試験日きまる。一般教養に馬淵東一氏の民族学を入れんと今井富士雄氏提案せし。
池辺弥君、短大の専任にといふことになる模様。史学史をやらんといふと、あとにてといひ『蜘蛛』の合評会に1時間出席して帰宅。不快にして不満。(けふbonus10日ごろとききし)。

12月2日
角川より速達『ハイネ恋愛詩集』11版の印紙1,500枚を4日までにと。
10:40出て靴みがかせ、下北沢下車。昼食してゆき阿部知二氏と一緒になり、S本○氏の伝言をす。
「西島より電話ありし」と「梅ヶ丘よりにて2階4間を1万何千円とかにて貸す」由。「悠紀子に伝へる」といひ、史学研究法と漢文教へる。
その間、実践女子大の中川生来り「中也未亡人と電話で話せし」由。『四季』返し帰りゆく。
鎌田女史より柳田先生の『故郷七十年』頒布を受く(500)。けふ〒なかりし。

p23

12月3日
午前中、豪雨。正午にぴたっと止む。風邪気なりしも立教へゆけば平塚生をり、ややして高田生来る。八旗の一人の一生を創作して語る。最後は内大臣、都統、男爵より失脚せしこととす。
すまして「来週忘年会せん」といひ、林dr.にゆき風邪の注射打ってもらふ。保田また上京して山川京子にゐるらし。
布佐しらべんと池袋で探して『龍ヶ崎』を買ふ。柳田先生の本よまんと也。

12月4日
千川、Zolbrad、中野清見、古田房子の諸生へハガキ。聖心女子大休むこととせし也。『故郷七十年』よみ了る。
午后の便にて中村漁波林氏『墓標』出版記念会12月8日17:30新橋駅2階「日食」にてと。欠席の通知せざるを得ず(※萩原葉子出版記念会と重なる)。
父母来り、駒込の叔母の間斡旋を知りをり。依子けふbonusもらひしとて我にchocolate呉る。

12月5日
晴。登校。文化史やり「休み中、何もなかりし」と高尾嬢の言きき、図書室。田中久夫氏来るを待つ。坪井生とともに出る。
けふ明日の演劇部の切符3枚呉る。新宿で別れ帰宅して昼食。平凡社より世界百科事典「李自成、李之藻」の稿料791来をり。
午后の便にて立教大学より「来年度講義要項を12日までに」と。田中雅子よりハガキ。(※写真を整理して)album貼る。

12月6日(日)
album貼る。角川より検印の受取来りしのみ。散髪にゆく。
午后東洋文庫より「9日(水)9:30よりG.Tuzzi博士の講演」と速達。

12月7日 ⴵ(※不詳)
成城大学へ登校。printに「今古奇観」きり、高尾嬢に空家斡旋たのみしが返事なかりし。坂本助手がS本○氏と近所なることを知る。
けふ栗山部長に「平家物語雑考」を『成城文芸』にのせてよきやをきく。
(※抹消:X’masちかくなりにしをとめらが■■ちまたには金もたぬ吾) とく来ませよきひと来ませはしけやし死ぬほどおもふこひびときませ。
京、この間そろばん学校の試験受けしが、けふ発表あり6級に合格と。

p24

12月8日
登校。1時限すませし(短2Aけふは静かにして、いつもさはぐ村山生あとにて研究室に来しゆゑ諭せし)のち、Zolbrad氏より電話かかりしとて12時までまち、そのあと田島、高井、神戸3女生と「すみれ」にゆき、畠山生にも会ふ。
一度帰宅。よべの睡眠不足の取返しきかずして16:00新宿へゆく(※萩原葉子『父 萩原朔太郎』出版記念会)。
国鉄で蔵原伸二郎に会ひ、ともにキリンビヤホールへゆけば山岸外史あり。握手し、あと三好達治、宇野千代、室生犀星、西脇順三郎、草野心平、壷井繁治(けふ国鉄新宿駅にて幼方直吉氏に会ひ池袋まで話してゆきし)、窪川いね子、その他に久しぶりにて会ふ。
林富士馬、小山正孝、船越章夫妻、森房子、中河与一、堀夫人などの人もあり。奥野信太郎教授とは名刺交換す。
18:00会はじまる前に階下でジョッキ1杯ひとりでのむところへ三浦久子氏現はれ少しく話せし。
19:00坪井生呼びに来り、「栄ずし」へゆけば20人ほど(※成城大学文化史専攻忘年会)。3教師(今井、大藤、池辺)鎌田女史、若葉君のほか3年全部と2年大塚、佐藤、齋藤、鈴木、西村、野口、畠山など来をり。
21:00池辺、中沢と出て中沢生とは高田馬場で別れし。(年賀状300枚を隣の隣の印刷屋にあつらへし)。

2月9日
宿酔気味なれど8:00起き、いそいで仕度し東洋文庫へ9:30よりのTuzzi教授(ローマ大学)の講演ききにゆく。三笠宮、原田淑人博士、中山久四郎博士など見え、わがよこには竹田龍児、中川(立教大学)。
すみて榎一雄君の解説にて1955年以来の烏仗那の発掘報告とわかりし!
村上正二君に挨拶され(小室君には会ひをらずと)、出て成城大学。
史学研究法あひかはらず人数少なく「平家物語雑考」を史料批判にかけしも旨く出来ず。
Zolbrad氏の電話を14:00きき「15日(火)10:30また電話する」とのこととなりし。漢文来週もやることとして、鎌田女史とちょっと話して帰来。
高尾書店の目録来しのみ。(けふ小高根二郎に「悪い恋愛(※萩原葉子のことを書いた詩)」を送り、29日送った同人費受取りしやをきく。仏語講師、岡谷公二君『父 萩原朔太郎』よみしと。もと『新思潮』同人たりしと。『果樹園』を贈る)。

12月10日
12:00出て立教大学。手塚教授に相談し、出講日、水・木ときき、来年度は水曜日に出講、また講義は「明末清初の東南沿海」とす。
3生に17:00池袋で待合せよといひ、成城大学へゆき、大藤教授の都合きけば金土以外は出るとのことなりし。
Bonusもらひしに父兄会よりの26,300を合せて68,000、うち63,000を悠紀子に渡すこととす。
池袋にて高田、久保、平塚の3生と会食(2,460)。高田生就職きまり、久保生は北海道の教職を志望と。
けふ全学連の2学生、国会突入ののち10日余りにて逮捕され、安保反対のため国電午前中大混乱なりしと。
大野夫人、羊羹もち来り、「知子生、学習院と早稲田とのみ受けるといふ」といひおきしと。あつらへし年賀状300枚出来上る(500円)。

12月11日
9:30田中万美子来り「石川島造船所にて設計する芸大出の青年と恋愛しをるゆゑ東京に残りたし。共稼ぎにて5千円の講師を」と。「20日すぎ来る城平叔父に会はせよ」といふ。
11:30ともに出てわれは聖心女子大。胃痛し。来週も休暇ならざるもやめよといふclass、8人休みをり。
Salaryもらひ、卒業album用の写真うつさる。
15:00海老沢教授の研究室にゆき、来年度のこときけば「変更なきが普通」とのことに、また金曜午后となる。
「わが点辛しといふ」と云へば「そんなこともなし」と。出で宮益坂のぼり『漢文入門(250)』、『灰の季節(190)』買ひて帰宅。
〒なし。悠紀子けふ母に歳暮3千円を届けしと。

12月12日
成城大学へ登校。吉田女史と話し卒業生ときく。前田教務課長に研究日を水金と届け、1時間目は考慮してもらふこととす。
柳田先生『七十年』の代金を田島生にことづけしあと、鎌田女史来る。池田勉氏に『成城文芸』へ「平家物語雑考」のせてくれとたのむ。1月10日ごろで宜しき由。
出て下北沢下車。『日本民族(180)』また買ひ、雲呑くひ、新宿より昼間の急行にはじめて乗り四谷下車。都電にて専修大学前下車。
山本書店にゆき、『漢巍六朝民歌選(30)』、『敦煌変文字義通釈(60)』、『詩草木今釈(150)』、『中国和亜非各国友好関係史論叢(60)』、『草木子(70)』、『太平天国文選(180)』、『太平天国資料目録(190)』と買ひ、大安にて『明清史論叢(80)』、『太平天国起義調査報告(135)』買ひ、『毛詩抄(2冊150)』、『東方諸国の新しい歴史(3冊120)』、『満洲歳時記(10)』買ひて都電。巣鴨をへて帰宅。
悠紀子けふ日大芸術科をかりての坂根千鶴子の公演をみにゆく。史より「梅原家へは傘はやくに返却した」と。小高根二郎氏より「同人費受取った」と。清水文子生より岩井美代子の住所。入浴。

12月13日(日)
〒なし。悠紀子と依子と家さがしに出てゆく。14:00畑山博氏を久しぶりに訪ねしに「柳井正夫(元東洋大学同窓会長)の葬儀にゆきし」と(卒中と)。
帰りてしばらくして案内乞ふは意外にも保田與重郎!「16日帰洛、山川京子宅にゐる」と。中谷孝雄氏を訪ふとて早々に帰りゆく(本復祝に猪口賜ひし)。あす新学社へ連絡するといふ(高鳥君は専務と)。
悠紀子帰り来って向ヶ丘遊園駅より10分にて3間の家建てをりと。

12月14日
成城大学へ登校。中国文学史すまし、新学社へ電話すれば高鳥専務(!)出て、山川宅の保田に電話して返事くれると。
やがてかかりて「来よ」といふに、山川京子に電話して道きき荻窪へゆき、都電天沼の南の山川宅へゆく。
荻窪高校の某女史居り。あさって三水会のこといへば「来る」と。やがて帰りし山川女史に腹立てて出、堀辰雄邸の前通りしゆゑ、加藤俊彦夫人に多恵子夫人のもとのまま日暮里住ひときき、丸屋市川に寄り、『三十三年の夢(165)』、『未開人の社会組織(135)』買ひ、駅前でrice-curry食ひ、また古本屋にて『民間伝承・柳田喜寿記念号(50)』見つけ、ついで和堂書店にゆき『今古奇観(2冊700)』買ひて帰宅。
野田又夫氏より転宅通知。けふ悠紀子渋谷へゆき、保田televiに出しをききしと。
和田賀代より電話「女の就職世話してくれる」と也。

12月15日
雨。仕方なく成城大学へゆき、短大2A出席とりしだけにて漢文予習し、手紙かき、図書館下へゆきゐれば、10:30、Zolbrad氏来訪と。
会へば『四庫全書総目提要』見たしと。図書館へつれゆき特別閲覧券発行してもらふ(中馬君「朝日新聞に入社、1月限り退職す」と)。Z氏にsandwichもちゆけば金払ふ。松村達雄と会ひ「その中訪ふ」といふ。
14:10より教授会。『成城文芸』の編集員となる。(池田、栗山両氏には『果樹園』着きしと。我には10日出しの手紙いまごろ着く)。
15:30より主任会(学科の廃合を相談す)。17:00すみてZ氏の返却せし本を見て、アサヒビヤホール(新宿)へゆく。
わが前には柳田為正(お茶の水大助教授、生物学。「医科歯科の田中克己氏を知る」と)。久松潜一博士令息(会計学、楊井克己に習いひしと)治夫(叔父治綱氏は白百合短大にて事故死と)、渡辺篤(生物学)など知らぬ人ばかりなり。
内田直作氏に挨拶し、beer1杯のみ料理食ひて20:00中座。
中島悦子生より「十時生離婚せし」と。白井紘史より「父、羽衣に転宅」と。いづれも7日、9日の投函なり。
(けふ池辺弥君「短大専任決定」と報告来し)。

12月16日
井上(東)順子より8日出しのハガキ来る。12:30成城大学へゆき、史学研究法。中国文学史すませば中村林次君より電話かかり「15:40また電話す」と。
鎌田女史より『甲斐の道祖神』の頒布受け、丸重俊とちょっと話す。
中村君の電話きけば「植村先生の本出し、新宿にゐる」と。16:10待合せを約してゆけばおくれて来り『中国史十話』賜ふ。
別れて短波放送buil.へゆき(※三水会)、田中忠雄、、齋藤晌、浅野晃3氏に「保田来るやもしれず」といひしに来らず。
忘年会を兼ねて齋藤氏の話きき、浅野氏の巡査月給2倍論をきく。
田中順二郎君より歳暮に奈良漬1箱を賜ふ。

12月17日
立教大学は3生と相談してすでに休講と定めたる故、終日家居(「金の鈴」の会、民俗学の会ともに成城大学にてあれどゆかず)。寒し。
悠紀子、渋谷の父母と向ヶ丘遊園地にゆき、(※借家)手附金2千円を渡し来し。登戸1189と。竣成は1月半ばとおくれしと。
「大安」の広告来しのみ。賀状かくこととし、去年と前年の郵便の整理す。夜、坂根千鶴子来り、悠紀子新居のこと夢中に話す。
京、炭素中毒となり、あはてて医師にかつぎ込み注射2本打ってもらふ。失禁し「あと5分にて死ぬところなりし」と。

12月18日
寒し。悠紀子、林dr.と栗山理一氏とにお歳暮とて出てゆく。われ休みし京と留守番しをりしに、13:00帰り来し弓子は映画にとまた出てゆく。
悠紀子帰りしと同時に丸より歳暮としてHam。15:00すぎ出て新宿三越にて砂糖(函入1千円)買ひ、Pilot万年筆(1,000)買ひ、こはれしを修理してもらふこととす(26日出来と)。(王子にて登戸の印(※新住所印)造ってくれと註文、月曜出来と)。
中村屋で喫茶とsandwich。梅ヶ丘の和田先生邸へゆけば奥様出られ、「先生この間また鼻血出されて入院されし」と。お見舞述べて出、下北沢にて下車すれば「Penguin」開きをり、入れば森本夫人不在(新宿駅にて外村繁氏に会ひしが、けふは『文芸日本』の忘年会の筈なり)。廃業のやうにてもなかりし。
井之頭線にて三鷹へゆき、浅野建夫dr.に空腹時の胃の鈍痛いひ、薬もらふ。『癌(Que-sais-je文庫)』贈り『法医学ノート』と『Rh因子と免疫血液学のてびき』、『新しい血液型因子』ともらひ、月曜再来をいひて出、高円寺下車。
丸夫人に電話して歳暮の礼いひ、丸に転宅のこといふ。「中野清見は年内は来ず」と。
都丸書店にて『満蒙の文化(100)』、『朝鮮語の系統(150)』と『東洋思潮』の3冊ならびに『陸奥宗光伝(120)』買ひ、rice-curry食ひて大塚まで国電。古本屋また見てのち都電にて帰宅。

12月19日
寒し。家居。立教史学会より「懇親会18日にす」と出席如何を問ふ往復葉書(12日stamp)。依子忘年会とて23:00帰宅。

12月20日(日)
寒く雨降る。終日家居。年賀状書く。全逓に公労委の斡旋ありしと也(※これにより郵便物遅配解消に向かふ)。
『果樹園』47やっと来る。

12月21日
寒し。晴。午、城平叔父より電報「22日11時八重洲待合室にて待つ」と。賀状200枚書き了る。
15:30出て西川英夫君訪ひしに不在。吉祥寺へゆき(東京駅でrice-curry)、中野の『ある日本人(200)』買ひ、寒きゆゑ致し方なく18:30浅野dr.にゆけば診察しくれる。
4日分の薬もらひ中野の第2冊贈りて帰宅(「賀状を登戸へ出せし」と!)。

(※年賀状名簿)
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12月22日
10:00出て東京駅。西川のぞきしに用談中と。10:50待合室へゆけば城平叔父待ちをり、万美子とは大丸にて12:30会ふ予定と。
「龍平は成城大学経済学部の二次に受ける。万美子の東京に残ること承知、口さがしたのむ。大阪では帝塚山学院にきまりしも断る」と也。
昼食をともにといふをことはり、12:15西川に電話すれば「居り」と。ゆけば「夫人狭心症にて倒れ入院中。礼金は権利ある故、代りを入れよ。登戸は(※先方からの)違約ならば手金の2倍返却す」と(※新居契約につき異変あったか)。
別れてお茶の水にてrice-curry食ひ、成城大学への途、栗山部長に会へば、礼いはれし。中馬司書わがたのみし製本まだ出来ずとあやまる。大藤氏に相談し、27,28の両日伊豆へゆくこととなる。
今井氏は柳田先生にゆきしとて会へず。busにて三軒茶屋。三茶書房にて『世界文化史5冊(400)』、『土器とはにわ(30)』、『太公望・王羲之(40)』、『唐詩入門(50)』、『平家物語(下)(60)』買ひ、渋谷をへて帰宅。
丸夫人より送り状。三上次男氏より『李朝実録抄』をよむ会につき23日15:00東大東洋史研究室に来よと。
山本嘉蔵氏より「1年が夫人春江逝きてながれし」と。萩原葉子氏より礼状。
坂根千鶴子生来り「青木弥与子を呼びて会ひし」と。「26日ごろ帰宅」と。
入浴、けふは冬至の柚湯と。(けふ『果樹園』を坂根、高田、臼井、岡谷の諸氏に頒ち、西川夫人の見舞にゆかす。)

12月23日
晴。悠紀子を西川夫人の見舞にゆかす。中山八郎氏より『八旗淵源試釈』の抜刷。
14:00京、帰り来りしゆゑpão買ひにやり、食べ了って東大。井上書店で『理蕃誌稿1(250)』。
15:15研究室にゆけば神田信夫、護雅夫、後藤均平、岡本、村松潤の諸氏をり、三上次男氏の来るを待ち、1月20日より第1,3水曜10:00に『李朝実録抄』よむこととなる。
17:00出てまた古本屋を見(神田氏にきけば、和田先生経過良く退院され「田中来ぬ」といひをらるる由)、辻政信『Singapore(30)』と『迷宮記(30)』と買ふ。後者はDer Lingの『清宮二年記』の訳なり。
悠紀子、田中雅子にもゆきしと。夕食すませて畑山博氏に電話してゆき、万美子の就職たのむ。大島豊と三沢師とこの間、確執あり、2億8千万円に負債ふえしと。吉田房子生より3日出しの茉莉茶1缶着く。

12月24日
古田房子へ礼状。散髪し、11:30出て東洋文庫へゆき、『東洋学報42-2』3冊もらひ、和田先生へと2冊預かり、taxi(110)にて林dr.。夫妻に今年の礼をいひ、屠蘇2袋いただき池袋へと歩き、立教大学へゆけば会計課しまりをり。
『明石(20)』(※地図)買ひ、ラーメン食ひて和田先生訪ひまいらせれば「お眠り」と。「年頭また参る」といひてbusにて渋谷。
大に行かんとせしもやめ、『台湾の蕃族(250)』買ひて帰宅。高橋重臣君より「喪中欠礼」と。
聖心女子大長Mother BrittよりChristmas-card。『アジア歴史辞典2』。
畑俊六君より「今高東京同窓会につき何もしらず」と。依子Christmas presentに時計の紐呉れる。けふ茉莉茶のみし。
また会ふ日近くしなりぬちまたには主あれまししを祝ふベルの音。

12月25日
晴。寒し。朝刊にて「本位田昇君、釧地方検察庁検事正」と見て、丸に電話すれば知らず。「送別会せん」といひ、本位田家へ電話すれば「検事正すでに出勤、本日世田谷の夫人実家に移転し、正月単身赴任」と夫人の話。「送別会のため時間あけたまへ」といふ。
わが「帰還」のりし『人間専科2-1』と『東洋史研究18-3』来り、渡辺三七子より胴衣贈らる。
午后、胃の鈍痛断えず、ふきげんとなる。Album余白なくなる。(この間より悠々と貼りゐし也)。
けふ父来り、弓子を駒込へ駒込へArbeitにとつれゆく。「明日より」と。
(千草また「陽生のbonus5千円!」とこぼせしと)。大「洋行するつもり」と。)

12月26日
9:00出て浅野dr.にゆき投薬してもらひ、吉祥寺に下車。森良雄dr.にゆけばすぐ臥させ右横隔膜おさへ「痛し」といへば盲腸と!
30日再来といひ、薬ここにてももらふ(昼食その間にせし)。竹内好を訪ひ、いろいろ話し、出て西荻窪。
『官場原形記(50)』買ひ、高円寺下車。丸に電話すれば由美子?出て「父、夕方帰る」と。
都丸書店にて高見順『敗戦日記(280)』、『アジアの覚醒(100)』買ひて金なくなる。(けふ時計の紐買ひし也400)。
池袋にて下車。宮崎智慧氏訪へば大伴道子氏をられ『日本歌人』11月号出来をり、わが文(※「白詩二首」)は1月号と。Busにて帰宅。
史より「28〜29日帰省」と。室井幸太郎氏より「大阪味噌1樽贈りし」と。現物も来あり。南方史研究会より『南方史研究2』に書くや否やと。平凡社アジア史大事典に「春融堂襍記」「シロコゴロフ」「順治帝」書くや否やと。
夕食後、本屋にゆき高見順『昭和文学盛衰史2(290)』、『滝沢馬琴(160)』買ひ、本位田昇に電話すれば「30、31両日に空きあり」と。 丸に電話せしに「まだ帰らず」。
湿疹の薬買ひ来りて塗る。室井、渡辺三七子、中山八郎氏へ礼状。

12月27日(日)
晴。暖し。11:23の伊東行にとゆき、東京駅にて待つ間toast(30)食ひ、小田原越え、熱海にて米田生と遇ひ、伊東にて男1、女5の待てると会ひ、伊豆今川着17:44?。18:05宿へ入る。
この夜、男生2、女生5にてにぎやかなれど、われ湿疹かゆく耐へ難く、3:00まへに目覚む。痒み掻き、朝となり、母病気といふ米田生とともに出て西海岸、水害のあと残れるを見て沼津に出、急行浪速にのり帰宅。23:00。
史、帰りて灯つけをり。前田隆一氏より「喪中欠礼」と。

12月28日
聖心女子大の2classよりChristmas-card。渡辺三七子より送り状。栗山部長より歳暮の礼状。
小高根二郎君より「同人費受取った。卿の50才と異り自らの50才は若し」と。
増田幸子生より転居通知。早川敏一君より「Nikka Whisky」。帰途の汽車にて食べすぎ、昨日よくなりゐし胃、また悪化。

12月29日
10:30家を出て吉祥寺。森良雄dr.に健康保険証わたす(初診料は返却されし)。湿疹にとPredonine A軟膏もらふ(14円と)。盲腸抑へて入院せよと。
4日夜ときめ薬多くもらひて出、Macaroni食べてのち杉浦家。(※故杉浦正一郎)夫人と嬢とに玄関で話し、別に用なきことわかり、橋浦『民俗探訪(30)』買ひて井之頭線。下北沢にて西島寿一にゆきし悠紀子、京と会ひ、急行にて向ヶ丘遊園。
20分ほどかかりて登戸1189にゆき、2間にて建てをるを見、案内所にゆき3間とし、予定日を早く知らすことを条件として約束了る。1万1千円を敷、前家賃、礼金と案内所へとにて4ヶ月払ふこととなる。
また急行にて(15:41発)新宿へ20分で着き、空腹にて京と池袋下車。餡蜜くひbusにて帰宅。
20:00丸に電話すれば本位田とまだ連絡せずと。30分してまたかけ、明日18:00高野2階にて待合し、「春日」へゆくこととなり、西川(けふ依子に電話かけ来り、「坪井来をりしも帰る。会の時間知らせ」となりしと)に電話せしにまだ帰らず。
けふ古田房子生より「ハガキ見た」旨。硲晃氏より「碁二段となりし」と。佐々木画伯より「梓ちゃんもう画描く」との記事のりし「夕刊京都」。

12月30日
晴。森博士に「本位田送別のため18:00高野へ来よ」と電話。
硲、増田幸子、Zolbrad、井上(東)順子、山中タヅ子、中島悦子の諸氏にヱハガキ。南方史研究会へ「3号に書かせたまへ」と。
16:30出て新宿三越。万年筆の修繕成りしをとり、時間余りし故、紀伊国屋にゆき『The Origins of Oriental Civilization』と『Isram in modern histry』買へば480。
高野Fruits Parlourにて待てば森来り、本位田来り、西川来り、丸来る。5人にて「かすが」といふ焼鳥屋。笑ひ話し、他は飲み、われは少し食ひ、釧路検事正を送る。同期のNo.1なりと。
22:00出て(丸、3人より1千円づつ徴収せしを我500のみ出す)、西川とtaxiに乗れば家まで送り来り、悠紀子に挨拶す。

12月31日
曇。『民間伝承』244と『東方学』19と来り、石浜先生古稀記念会より精算書来る。
坪井明君へ大の住所と電話番号とをしらす。短2Aの漢文採点をすます。井川氏にArbeitにゆきし弓子、1千円もらひて帰り来る。(けふ入浴)胃痛うすらぐ。

付記:プライバシーに配慮して人物の名前を一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。


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