「夜光雲」第八巻
20cm×16cm 横掛大学ノートに縦書き(184ページ)
昭和7年7月17日 〜 昭和8年2月4日
夜光雲 巻八
田中克己
一九三二年七月十七日
七月十七日 手紙
つれなききみのこころをたよりにて御文待ちそめてより日の三日四日を経ぬればいまは耐ふべきにあらずとも思ひ乍らさても永らへたるはさりともと思ふこころのあればこそ
この望さへ盡き果てばやがて生命死にぬべし、なほしうらめしきおん心かな
うらみわびかくと告げ得むわれならず昨日の日こそさ思ひすぎし
はるかなるよそびとどちのこひがたりそこさへともしきみつれなきに
いつまでかよもぎのつゆのきりぎりすかぼそくいきむわれがこころか
はなはだも思ひしづめるさよ床にうかぶみおもはやさしきものを
鈴木兄、これは冗談でござゐます
日輪のたヾひとつなるこひゆゑにやせまさる子をわれはゆめむに
おほぞらにわがこひの星凋みたりつれなききみのまなこのいろと
きみこひしこひしとそらにしるしなばきみ見ずとてもひとあはれまむ
火の山の溶岩よりもなほあつきわがこころなれほ[秀]にはいでねど
橋本兄、これも冗談でござゐます
反動の名は保たむか
七月十八日
一枚一枚わたしのめくる骨牌にわたしはあわててひえた悒鬱の後姿を見る。
ああ、秋も近いねと友は云ふ。友も夜鳴く鳥を聞いたのであらうか。
ひるねの後にわたしはじんじんと鳴く蝉を聞く。わたしの中耳には執拗な耳鳴りがある。
わたしは子供の頃の水遊びにそれを得た。
極北のひとはけふもわが身を削るわたしを嘲つて来た。わたしに削り得る肉がまだある
ことをわたしも異としてゐる。かうわたしは返事を書き、やがて破りすてる。と、紙片は
夜空に白く舞ひ上り、夜気は北に流れつつあつた。
わたしがあのひとを見たのは十八の秋であつた。空に旗が流れ、地に獸が潜んだ十八の秋であつた。
わたしはひとりの男につけねらはれてゐる。明るい所で見たときそいつは冷徹極りない顔をしてゐた。暗いところではピカピカはがねを光らすといふ奴だ。 わたしはそれ以来明るいところをよつて歩いてゐる。わたしはいつもヒタヒタいふ足音とあの冷徹な顔を見ねばならぬ。この男をわたしは愛してさへもしてきたが、 この男の属する集団の意志は、この男以上に冷徹であるらしい。わたしはいつか此の男に命令を下してゐるこゑをきいたと思つた。鋭い細いこゑであつた。それは死を後だてとする悪魔を思はせた。
二十日
けふも手紙来ず。固い約束はむなしいことばであつたのだらうか。あの女のやはらかい性質は、私をうれしがらせたにすぎないのだらうか。疑ふことをわたしは畏いとも汚いとも思ふけど。
あめつちはくだけめとてもよそびとにうつさむこころならずとも云へ
あひみねばこころさぶしとうちつけにいはむ子ならずさぶしとは思へ
わすれじとかたくちかひしことばだにいかヾはせむやいまはうたがはし
わすれじのちかひおもへどむねにつのるこのうたがひをいかにせよとや
せうそく[消息]はみじかくあれやこひしぬとたヾひとことをきかまほりすれ
おほぞらにめぐみたるる日へめぐれどわが思ふひとの文得ぬさびしさ
愛(なさけ)あつくともに死にたるひとどちをうらやむ日こそきみほい[本意]なけれ
たらちねのおやにもそむかむたヾひとりおもひさだめしひとゆゑといへ
たらちねのおやもうらみぬしたはしききみにそむけといふはたがこと
二十一日 章君けふ帰りたるはずなれど
×
何にも自信のない身、自意志のない身。
×
人々はすべてマリア様やキリスト様のやうに背光をもつてゐる。
ひとびとは背光を触覚の様にうごかしてそれで他人と接触する。背光同志が接した時、
その時ひとははじめて相知る。
二十二日
蜩は椋の樹の梢にゐた。ゆうぐれの空は海より蒼い。さびしさが一羽の鳥になつて、ゆうひの方にとんでゆく。泥をふくむ風が吹いて来た。
×
暑さ。寒暖計が喀血した。わたしは水銀に暗示を與へる。極北の鳥を思へと。
甲斐信濃の歌 訂正
夏草に紅甘草は光りゐぬをとめとわかれ旅ゆくわれは(立川)
ひるふかくいまだしぼまぬ月見草荒れし磧のそこここに咲くも(豊田)
夏雲のくもりひろごる気配あり紫陽花の にひと髪すきぬ(八王子)
小佛の隧道ちかく汽笛ならし汽車ゆくみちの夏枯草のはな(浅川)
しめやかに杉の木の間にきり降りぬまひるを鳥も啼かざりにけり
嶮し峰[こごしね]のはざまに起る夏の雲みつつおもへばをとめぞはしき(甲斐鳥澤)
まがなしくふたへまぶたのをとめ子を思ひつつ来ぬ甲斐の峽路(大月)
あはれあはれ流離のこころ守りをれば窓辺にありて移る山河(初狩)
辻辻に山見ゆるとふ甲府の町しづかにきけば蝉しき鳴きぬ(甲府)
信玄の館のあとに乱れ咲く夏草の花も見むとおもへや
あまの原くもゐにありて甲斐駒のすさべる姿見ればかなしも(日野春)
南天にかつと日のさしたちまちに現れわたる峰に雪ありき
こごしこごし甲斐の大峰にけふやはたひとのぼりつつつまこふらんか(小淵澤)
なつかしきひとゐるくにの東べに富士晴れ来しを誰に云ふべき
山驛に汽車とまるまを啼きてききしうぐゐすさへもかなしきものを(青柳)
なみよろふ蓮華の峰の八ツ岳のふもとをめぐりわがひるたけぬ
遠天に湖のみづ光りたりここは信濃の茅がやふかき高原(はら)
あえぎつつわが汽車はざまゆくときはくるしきこひをわれもおもひぬ(塩尻)
この驛の構外(そと)は落葉松のまばら葉にちちろと虫の啼くひるなりき(木曽日出塩)
からまつの驛に乳児抱き女降りぬすなはち汽車は動き出にけり
雨あとの濁りはふかし奈良井川いく山川を集めたりけむ(薮原)
茂山にあめのたかぎりふりにけり旅なればおもふひとのとほさを
盆ちかき山間の墓地のひとごゑは墓苔拂ふ母と娘なりし
ゆふちかくなりて心もおちゐしがたぎち[滾ち]の音をきけばなとせむ(美濃中津川)
くれそめば見知らぬ山の原にして光り出る星はおもかげびとを
ひとこひしこひしとおもひ疲れしがまどろむひまはゆめにだに見ず
×
記憶の世界に時間の霧を降らしたまふ、天主は頌むべきかな。母を、恋人をわすれはてて
魚の如き瞳もつに到れば、われわれは主のものとなるゆゑに。
七月二十四日 杉浦正一郎に
蝿うるさしあつき厨のはつたい粉[※麦こがし]
阿羅漢のひるねの様もしばし見よ
琴唄
やちぐさの 秋にいるまの 川わたり かち[徒歩]にてゆけば 妻こひし
牡鹿の啼くも 遠からじかし
狐火の 諏訪の湖 風ふけば 白波さわぐ 沖の辺の 白帆は夫(つま)か かぢとりませる
ゆうされば 槲[かしわ]の上枝の ほのしろみ きり立ちながる 空見れば あはれ女夫の恋の星見ゆ
[※ 大日本史 巻之一 百十八より漢文十五行抄出。] ※
[※ 大日本史 巻之一 百二十一より漢文七行抄出。]
[※ 大日本史 巻七十六より漢文五行抄出。]
[※ 大日本史 巻七十七より漢文八行抄出。]
[※ 大日本史 巻八十九より漢文十二行抄出。]
七月二十五日
赫奕[かくえき]の夏の帝の日輪とわがこひごころいづれか激し
神畏れぬこころの相(さま)も夏の日のきみこひがててくるふわが身か
高天に日は輝けり棕櫚の葉のくだく光にこころふるひき
呪はしき執よ欲よとなげかへど諦め念ふわれにはあらず
たへがたく夏の炎熱の風吹きぬたのしかりし日の君が息吹と
夏のまひる止まず炎天に噴上のしぶきあぐるに似たるわが執
いざ佳偶[妻]よ 大野に出でて 歌はまし 銀のかがやかの笛吹けよ 牧に遊ぶ 畜(けだもの)を呼び集め 野苺の 実を引しぼり たわみたる牝牛の乳
きみを疑ひしことの恥づかしや 日輪の大空にあるがごと 君が信(まこと)は疑ひなし
二十六日 五人會、西川英夫故意に避けたること是非もなや。
Nを
ひとづまと浮名立ちたりあまの川
あまの川夜気の流るる相みせて
ひとつねの相手うたてき晝の月
友眞の家にとめてもらふ
二十七日 肥下を瓜破に問ふに
星や蝶や草花を
愛するにもまして愛したひとと
少年すぎたころに再び會へば
さて何ともなき笑ひにつくろふ才覚はあれど
ありし日の胸の火
またも燃え出るをいかにかすべき
うちあくべきこひにあらねば
うちあけえむわが身にあらざれば
夏草やひともと白き百合の花
青田つヾき風の跡ある野々宮や
紅あつきながれてゐたる空の青
風ふかば崩れんものか雲の峰
またMlle M.を
ふるさとの河内國原青田風しるけきさまにわがこひわたる
麥酒のみ赤ばみしわが顔みつつほほとわらひきをとめなりけば
そのあしたきみがかんばせおもひ見るにさてかたなきはあはれかひなし
わたしの胸をはりさいて
あなたに見せると云ひたいのですが
わたしの胸はこみちです
思ふあなたと
契つたあの子と
ふたりの影がもつれあひ
花園の薔薇と撫子の様でせう
×
ああわたしは何と馬鹿(あほう)なのでせう
あなたとろくさま話したこともない
あなたの顔を見たことも何度あるといふのでせう
あなたを恋すると云へた義理でせうか
あなたは僕(わたし)なんか認めてもゐられない
(きつとさうにちがひない)
これが阿呆の特権です
これが阿呆の本性なのです
わたしはあなたのおもかげを
しつかと抱いて
あなたのご婚禮の日まで失望はしますまい
これが阿呆の幸福(しあはせ)です
これが阿呆に似合ひです
ああ阿呆の恋
阿呆で生きてゐられる世紀
×
いいえ阿呆は生きてゐられない
わたしは何ぼ何でもやはり恥は知つてるのです
わたしはこの世紀の焦燥を感じるのです
わたしは自分にもあるその焦燥を可成り軽蔑して見ます
だけど軽蔑しきれない
それがわたしのひとすぢの恋を妨げました
ああ阿呆にも恋の出来ない世紀
鬱陶しい世紀
おかしこい[ママ]世紀
×
わたしは道化の役をつとめませう
白粉も塗ります
眼のふちに紅をさし 頬を描き
鬘をかぶり 鼻をつくりつけ
大きなカラーをはめて
鶏の啼き声もいたしませう
(幸せにわたしはそれが旨いのです) ※
わたしのおどけがひどければひどいほど
あなたを得てからの報ゐは大きいから
わたしを苦しめたあなたを
わたしは鞭うち
その矯慢をいましめます
他人にはいまでもさうであれと望みつヽ
わたしはあなたに従順を要求します
×
あなたに献げた歌は百首にあまり
あなたにさヽげた詩もたいへんな数です
あなたの に泣いたことを御存じでせうか
あなたを知つてから
わたしは人にやさしくなりました
わたしはあなたを待ちました
努力もせずにたヾ口をあけて
あなたは泳ぎまはる小魚でない
ああその中にがまんがしきれず
わたしは釣針にくひついて
旨くにげるとまた次のにひつかかり
いつもあなたを思ひ出しては
わたしの無節操をあざけります
だけど所詮わたしは釣針に死ぬべき魚です
香しい餌がまた眼の前にぶらさがつてます
どれ ごめんをかうむつて一口食べさしてもらひませう
三十一日 また ※
一日 章君来る
Mlle M.
ゆふかげにじんじん蝉は鳴き止まず夕陽黄いろき椋の梢に
槐の花おほかた散りて朝夕に涼しさおぼゆ夏おとろへぬ
一葉(ばらん)ゆらがす風涼しけばをとめおもひかすけきこころ保ちてをらむ
やちまたにいでゆきぬとも物念ひなど絶えせむよつかれかへりぬ
夕縁にものかきをれば何の葉か枯れてさびしく畳に散り來
ゆうがたに黄くなる地平を視つむればきみがみこゑもかよひ來るかな
死にゆきしひとはせむなし夕雲の紅くうごける空をながむる
金蓮花永き日照りに枯れにけりわがこひすぎむときのしるしに
青雲のゆうべしづもる時たてばはるけききみにこころかよふも ※
うつそみの因縁かなし御讀経のあひまに蝉の啼くこゑきけば
祖父を父はにくみ、僕は父をにくんだ。僕の家の天井裏をひそかに蛇が這ふことを僕は知つてゐる。白い蛇だと見たひとがある。わたしは蛇を憎む。古い輪廻をにくむ。
×
夕陽が村の家々の白壁を紅く輝かした。稲田の風は眞青だ。わたしは釦をはづす。白いシヤツに夕陽をあてるために。わたしの胸は直ぐ出血しだす。わたしは静かに釦をかける。
もつと静かに血は流れつづける。蜩(カナカナ)。わたしは口からも血を咯く。
×
わたしは庭の楠の梢にのぼる。栗鼠の様にわたしの眼は光る。わたしは憧憬れて西方を見る。遠くの天守閣の鵄尾は金色だ。巷の叫喚がわたしを意識下に引戻す。
わたしは樹下に降り立つとき下駄の片方が裏向いてゐるのを発見する。わたしの跣足[はだし]に苔が触れる。
×
夕立ち前の池にわたしは影を寫す。わたしの髪はメズサの様に乱れてゐる。電閃を藻が受取る。金魚藻と松藻の区別をわたしは知つてゐる。
×
夜深く五位鷺が[去+鳥]々と啼いて飛んだ。
嵐はとうとう來ないで了つた。
遠く汽車が過ぎた。
わたしの思ふ子は遠い海岸に泊(ね)てゐる。
波の音は平野の眞中までは來ない。
五位鷺の啼く森は暗い巨きな影となつて横はつてゐる。
煙突から出る煙が白くたなびいた。
わたしはもう寝よう。
八月三日 深更 「殻」[※不詳]を書く。十二時から三時
八月五日
やうやく雨季ちかし
昨夕の散歩
巻雲は生駒山の北端につらなつてゐた
星田の山にのぼる軌道の灯
生駒の灯はまたたいてゐた
わたしの連れる犬をわたしは畏れた
眼のむしやうに紅い犬と戯れたゆゑに
わたしは女の友達を持たない
その晝よんだレミゼラブルの
理想にとつつかれた青年達の純潔がわたしを悲しませた
饒舌な言葉の豊富な佛蘭西人が
わたしを驚かした
わたしは十町歩くともうつかれた
白粉花のにほひ 布施町の花火
土埃はわたしの足をかさかさにした
わたしの書いた小説を破くのが可哀想でならない
×
愛は利己的であるべきだ。
愛がなければ太陽も消えるとは 太陽と愛する主体との関係を語る。
愛と愛の客体との関係はしばしば無であり得る。
太陽の消えることを提出する場合、人は太陽の存在を主観的に認容したにとどまる。
ブハーリンはそれを論理なしに実践で打ち破つた。
それを中野重治もなした。
ぼくは──愛は利己的であるべきだ。
良心の満足を外に求める時それは愛であり、これを内に求めると知になる。
世界は知と愛と、良心よりなる。
良心は世界理性である。人間の世界理性、獸の理性を僕たちは考へる必要がない。
良心は神である。神は白髪の翁でない。光り輝く王座でない。雲に坐し、雷霆を動かす絶對者でない。
神はおきてである。神は動くものである。人間社會より醸し出だされた聖なる水である。
知と愛に限界を與へ、知と愛を存在せしめる観念である。 ※
それは存在せぬ存在である。
光が物質のちからを必要とせぬと考へられた時、神は光に近かつた。
いまはたとへるべき何もない。一は他の数字を以てたとへられるべきでない。
一は二の二分の一であるといふとき、二を二でわるといふ容易ならぬ式の含まれてゐることを
人々は発見せねばならぬ。しかも、数の存在を定義の以前に認めねばならぬ。
神を定義する時、神の限界するところを以てするならば、それは更に他の定義を必要としよう。
詩人はそれを敢てする。
神の内包をとりあげて無数に頌ふとき、神の無限大なる姿は漸次限界を近くする。無限小に近くするもそれが神の定義である。
パン、葡萄酒を神のみ名に於てすする奴輩を冷笑せよ。
我を無視するヤツバラを殺せ。理想をとつつかまへたと信ずる奴輩を啓蒙せよ。全我を以てほほえみ、生き死にの境を彷徨せよ。凡ての責任を神に帰せよ。
凡ての知と愛とをつくすべきだ。神の流るる光の中に。
八月六日
昨日久し振りに雨降る。七月十二日の驟雨以来、将に二十三日間の日照りなり。
海峡を白い汽船が通つて、その煙は崩れおちる波頭とも見えた。
わたしの登る山笹の道を、あはてて蜥蜴のかくれた方には、一本の桔梗の花が紫色にゆれてゐた。いまこそわたしは女を殺さうと煙草をなげすてた。
その煙が妙に消えやらず、縷々とたちのぼるのがわたしの決心をにぶらした。ふりかへると女はもう、頸動脈から血を噴き出してゐた。わたしの刀はまだ汚れてゐない。
×
古い生家の末裔(すえ)とわたしは秋近い夜をものがたつた。院の寵愛に與つたといふ先祖の白い顔(かんばせ)がわたしの眼前に浮かび上つた。わたしは香を所望した。
幽かなその香をきいてゐると、 先を螢が飛んだ。季節はづれのその光は人魂を連想させた。
女は御息所の美しさを尚も語つてやまなかつた。このひとも美しい。わたしの心があらはれたのだらうか、そのひとはいつか面を紅らめてゐるのだつた。
八月七日 船越章 友眞、西川、林の叔父、田村春雄
八月八日 中島を訪ねる。
七夕の笹をたてた家に案内を請ふと、可愛いい女の子が出て来て不在を告げた。女の子ののどにあせもがいたいたしかつた。
×
八月はわたしに倦怠をもつて来た。日中の涯しない飢餓の沙漠と、ゆふぐれは隠し得ぬ疲労の海とを。まつ白な鶏の樹にゐて啼くゆめを夜にわたしはしばしば見る。
夢の断れ間の倦怠を、眠りながらもまだ感じるわたしを、ひとびとは夏の徴候と見た。
×
海の見える露台に凌霄花を纏はせて、ヨハンナは白い扇を動かす。咽喉まで吹き通る海風をしらぬげに、九月、ああその秋はこの海港を扼殺しようともう、迫つてゐる。
灯のいろの潤ひをヨハンナは扇子で眼から隠す。海に落ちる星の様にヨハンナの十八は、急速に轉げ落ちる。
×
屍門に夾竹桃の花。
窗にペチユニアや金蓮花を咲かせて、病室はいま午後(ひるすぎ)の体温(ねつ)のさかりだ。
×
Je m'ennuys [※ 憂鬱] Mlle.S. Andoh
きりふかき秋のいく夜を停車場のほのけき灯(あかり)にあひ見しひとよ
ある時はきみが丹の頬のやはらかさふともためさんと思ひつつゐき
きみとよむ青き表紙の讀本の挿繪かなしきをりをりも經ぬ
つかれつつ校門いでば駿河台に雲のこりつつゆうぐれにけり
はやあしにわれ追ひ抜きてゆくきみのうしろすがたをひそかに愛でし ※
きみとよむ佛蘭西語つひにすすまねばわが趣奇いたむをりふしもあり ※
八月九日 本位田昇
Erotische Gedichte (Imitatis D. Horiguchi)[※ 堀口大学にならって]
一
わたしはひとりで固いクツシヨンに眠り
天の川のゆめを見ます
白く流れる乳の道を
二
歯のないおばあさんだ、あなたは
歯齦[はぐき]ではわたしの作つた料理はかみきれない
マヨネーズソースはお気に召しましたか
三
小麥畑の畦にひそむ一本耳の兎よ
なんとそんなにこはがつて
耳を動かすのだ
耳を染める紅は羞らひからか
四
愛の女神を産み出した
帆立貝の強靭な貝柱を頌へよ
わたしの指に傷を残した
敏感な貝殻に注意せよ
五
クレオパトラこのかた
頭の尖つた毒蛇に殺されぬ女はひとりもない
六
狹いくぎられた海の上を
夏の暑さに
一組づつ男と女が泳ぎます
疲れてから飲む一口の
飲料の爽かさ
手帛で口もとを拭はねば
おくさん おあがりものが知れませう
疲れが癒ればもう一泳ぎ
それを拒むのは
おくさん却つて失礼です
海の上では泣かうとわらはうと
それは自由です
凡て波まかせとゆきませう (未定稿 [ママ])
八月十一日 丸に
海見ゆる武庫の木の間に手をとりてなげきしひとのおもかげいかに
つまぐれのちるゆうぐれはをとめ子のふたへまぶたをおもふとせずや
a Y.[※ Yukikoに捧げる]
トマトの赤い片をもつた
きり子の玻璃器にも
ゆうがたは青い空がうつり
ゆく雲はいろとりどりの美しさで
空をくぎります
わたしの心にもひとへにきみによる心と
はかない疑ひとがいりまじり
はては消すことも出来ぬほど
濃い疑ひの紫いろに
よるよるの眠りのくるしさを
きみよ思うて文寄せたまへ
×
槐淡く咲くふるさとの家に
アグネス きみを思うてゐれば
蜩の鳴くゆうぐれをかなしんだ
あのころのきみの切ないこころが
しみじみいとほしく
蜩も鳴けよと思へど
あつくるしい油蝉また子供のよぶ松蝉が
ひつきりなしに鳴くばかり──
槐はアグネス きみの庭にはなかつたね
×
薮蚊の出る暗い家に
ひるも蚊取線香を立てて
かなしい恋の詩をよんでゐれば
いつかこの顔はかうやつれて
頬骨の尖りをきみに見せたくもなや
アグネス 迫つたまた會ふ日を
待ちこがれてゐるのは自分だけではなからうね
蚊取線香の匂ひがまた一しきり
そのまにもわたしはやつれるばかりだ
八月十二日 大掃除
颱風雲(あらしぐも)夜にいり西にせまり来ぬ便りよこさぬきみうたがへば
海辺にひと多く寄る海岸にゆかむと云ひてことたちしきみは
きみがふみ十三四日見ぬゆゑにこころすさぶ雄あはれと見ずや
百日紅の永きさかりもすぎなむにいぎとほろしく日々をくらしつ
かにかくにきみそむくごと悪しき日の来む日いかにとわれはすべきぞ
をだしくも[ママ]やさしきこころのままにゐてその日つたなきわざすまじきぞ
この夏はきみ思ふとに明け暮れぬつれなききみはなにのすさびに
くらき雲高空に立ち風吹きぬ東の山の灯は消えむかも
あまりだとも思ふてわたしは潜然と泪を流さうとするが、意気地ない心を嘲るのは他人ばかりではない。泪さへも素直には出てこない。固い誓ひ、やさしい心づくし、
それはわたしの自惚にすぎなかつたらうか。はたは、かの人の心弱さからの口ごかし[ママ]であつたのだらうか。夏の海岸の怪しい寝苦しいゆめが純なかの人をも襲つたのだらうか。
わたしは悲劇の主人公となるにはあまりに現実的すぎる。
わたしは楽しい夢を見るにはあまりに心が細かすぎる。明日にでも便りを手にしたらわたしはすぐそれを机の上に投りだしてもうさつきまでの苦しさ等忘れて了ふのだが、
さういふ心を予感してこの日々を、郵便の時間を待つて来たのだが。
×
八月は倦怠ばかりではなかつた。はてしない孤獨と猜疑と、僕の男は腐つて了つた。八月の鰯のうろこを見よ。
黄牛(あめうし)のよだれかはかぬ埃り道
西瓜生々しき皮に蝿ゐる市場かな
疲れつつ御談義聞けば蝉涼し
安居會の外は杉なり蜩なり
×
山路来て桔梗すぐる風を愛でぬ
ひともとは蝉に食はるるエニス[アカシア]かな
蒼茫と暮れかかる峰を見よ。夕べの雲は立ちのぼりつつ、憂鬱の故郷のごと少年を惹く全紅に輝く落暉を見よ。たなびく紅雲は明日への希望を指示す。
後二週日して上京せむ
ふるさとは烈しき日でりにものみな乾き、夾竹桃、百日紅、何と暑い花だらう。ダリヤはいましばらく咲くを止め、巷をゆく乙女にも美しい人達はゐない。秋草の花のごとく、
ひとびとのゆきかふ時はわたしのふるさとを去る日である。その日をとどめよ。時の過ぎることの寂しさ。
八月十三日 櫻井──奈良
たちまちにばななのにほひくと見れば車室におうなそをたうべゐる
かまつかは畠の隅にあかかりき引手の山に虹たちわたり
坪井明
あをによしならのみやこのふたもとの松とことはにならびてゐませ
八月十四日 弘福院
堂裏の小池のひるはひつじぐさ浮葉しづもりその花開かす
佐々木恒清先生の墓 保田、坪井と、先生の長男望君。
先生のみ墓に手向けんと買ひし花の日々草はちりやすき花
み墓べに友のもちゆく日々草白きがこぼれつちにしるしも
先生の鼻ゆづりうけし中学生の望君ものを云はぬ子なりき
保田の元気と自信を見よ
この敵手を白刃もて殺すべし利刃いづこに
八月十五日 中島栄次郎、誠太郎叔父。
わたしの頭顱(とうろ)は雲辺にぬきんで
わたしの髪には一抹の霧がなびく
──懸崖のみやまうすゆきさうにかヽるやうに
わたしの眼は爛々として炬のごとく
わたしの脚は崩れる後からあとから形成される(「巨」−改訂)
×
ゆうぐれの鐘の後で子供のわたし達が遊戯をやめたやうに
二十の過ぎるのを惜しんでわたし達は生きることを止める
八月十六日 清徳保雄、田村春雄。
八月十七日 〃
さふらんやみらぼお橋のはしたもと
×
戰爭の紅い夾竹桃
戰爭の柘榴の実
戰爭は紅玉をちりばめ
戰爭は電閃を支配する
海見ゆる丘に白堊の館たててよすがら血喀くきみがかなしき
鴎らを何の鳥よと訊ぬとももの云ふならね唖の嫗は
わが容顔おとろへにけりこの秋は何のすさびに生きてあるべき
美の廃墟
八月十九日 体温三十八度七分
熱やみてわがゐしときに西空に黄なる太陽は沈みけるかな
わが疫病の熱に
白粉花の匂ひの夜──
朝顔が咲いて
むしあつい朝だ
限りない混乱に
幻と現[うつつ]が立ちかはり
風は南から吹いて
耳殻にかすかな雷鳴
庭の樹を伐り倒す音が
残酷にひびいて
一日はリロオフエの歌
さびしい たのしい
けふ丈の熱い生命を
額に手をあてて妹よ 試みよ
その後で棺の白さを
まざまざとみつめよ
臨終(つひ)の夜とおもへばかなしおもかげのくづるる後のむなしさゆゑに
わがいのちかなしくなれば呻きつつねぐるしき夜をすごさんとする
友よ女(ひと)よせめて亡き名をよびつヽもひとひふたひをいねぬがにゐよ
うつそみの空しき骸はほろぶともかそけき業はとヾめざらめやも
つひに消えぬわが悪業にとこしへの暗をしゆかむひとかなしみて
泣きいさちおらびたけべどかへるべき吾が生(よ)にあらず寂(しづ)けくてゐむ
このいのちいまいく時か在り經つつひとのおもわをせめておもへや
全田の敦子(十一才)僕を美青年と呼ぶ。 ※
観自在菩薩行
[※ 十九日より二十二日迄の体温表あり]
二十二日
白菊や港に星の墜つるころ 津田清
焼砂に烏のおりる小島かな 嶺丘耿
流行性耳下線炎
顔腫れ 顎いたみ こめかみ疲れ 暗みたり
二十四日 神戸。能勢、三浦、増田忠氏。
憶増田正元 十句
生き残る秋蝉さびし墓地の夕
海港の朗らに照りて百船や
秋の日は檣(マスト)の上のべにやんま
生き残る兄の手黒き秋ひでり
死にしひとおもへばくもるしぐれ空
甃路(いしだたみ)のぼりつおりつひととほき
帆船のくだけてゐたる磯の草
白狐(びやくこ)磯に出でて遊ぶ日風なぎぬ
乳母車に赤帽子のこりたそがれぬ
秋蠶(あきご)死にたえて音なき茅屋(わらや)かな
わたしは故友の兄に對してゐる。そのひとは黒い腕を見せつつ、生きてあることの尊さ巨きさを語つた。わたしたちのことばとあそびが、かつて友を殺したのだつた。
わたしたちは頭を垂れていまさらに生きてゐる自分を羞ぢた。まつ黒な蛾が電燈に飛んで来た。友の兄の顔にその影がさつと流れる。
忽ちに死の匂ひはわたしたちの鼻腔を襲ひ、見交はすわたしたちの面貌はもはや生の血流を留めない。
ああ、死の門は開かれた。地獄に咲く蒼き花よ。わたしたちは屍衣(きやうかたびら)の用意の無いのをはぢねばならぬ。
二十六日 大阪を去る。本位田見送つてくれた。
落魄(うらぶれ)の身悄然と荘厳の神の殿(みやゐ)を放たれしが時に金色(こんじき)の陽わが脚をよろめかし孤影巨柱の影にまじりぬ。
丹の碧(あを)の彩ふたたびそのいろを獲、わが身を嘲すむに似たり また泪してゆかむとする眼路のはてやはるかに黒き旋風(つむじ)捲きおこり巨魚(いさな)のごと砂原
(すな)をあげ紅塵(ちり)をたてそのしづもらむとする時 一塊の骸(むくろ)あばきいでて見せぬ。さてわが身 かげとともにそこにとびかよひて醜き骸と一つにあひにけるぞうたてや。
×
軍国の尖塔は緑と白と紅の光芒を廻轉せしめ、そのあわたヾしさがわたしたちを焦燥に陥れた。夜の都会のものがなしい呼吸の刹那刹那を照し出す光芒たち。
緑の光は落着いた光を、白い光は察(さぐ)りを入れる冷い光を、紅は脅かす眼ざしを発する。その中に軍国の都會は頽然と腐れつヽ、その細胞の一つ一つを露き出す。
わたしたちはせん方なげに麥精をのみ、この一瞬の、いまだ許されてあるか偸みつつあるひとときであるかを論ずるのだつた。
三十日 関口八太郎
麻布の兵隊たちとゆきまじりけだもののにほひ嗅ぎつヽをりぬ
兵隊の汗ばみしかほに眼のあるを見つヽををりぬこころかなしみ
坂路をあがれば開く青空のすみとほる間に晩蝉のこゑ
夏ゆけば古きちまたの石垣のしみいる光になにかかなしも
×
後園の薔薇の花を
白衣のマダムに捧げると
何とはかない詩
白い時計台を
白い鳩がめぐつて飛ぶと
この詩人たちは歌つたでせう
センチメンタル ロマンチツク
このことばの説明に
あなたたちの詩は舌足らずです
蝶が夜を截り
月が羽を落し
あなたたちの卓子は汚れますか
a K.Kitazono, N.Inui, I.Takenaka,T.Miyoshi et moi
九月四日 コギト第六号編輯
秋、その他
池を廻り汀に立てば花菖蒲(あやめ)かな
海の空立つ雲わきて多ければ
秋動く白堊の樓に映る雲
童等の青雲呼ばふ時立ちぬ
恋死にてはてなき海の旅に入る
さびしければ無花果もいでもつて来な
來ぬひとを辻にまつひる風吹きぬ
花束の龍膽もあるを贈られし
庵めぐり青栗ゆるる音すなり
白蝶死にて蟻に牽かれぬ日翳りぬ
虚しくてつつましくゐる鴿[はと]三羽
遠き丘にお題目呼ぶ家建ちぬ
海さびしとどろと鳴る日人無き磯
★
ソオダ水をよぎる雲
葡萄にゐる蟻
睫毛には日の翳りの濃さが (ひる──夏の)
★
ひるがほの咲く砂山にひとのぼり恋を語りし日は去りにけり
砂濱にさびしく残る家なりき乙女子つどひ歌うたひしは
薄穂のなびくがごとく波頭砕けもしるき秋さりにけり
★
丘の家に植木屋が入り
山茶花はもう蕾の準備をし出したに違ひない
に紅い実を着ける樹が伐られた
★
築地の方の空の濃さ
香爐の煙より細い雲
二科展の噂
ことしも草花を描くひとがゐる
★
中央理化學実驗所
フラスコに熱する苛性曹達溶液
動物の皮の焦げる匂ひ
わたしの魂を煮つめた透明液を
お嬢さん あなたに差し上げませう
ヘル ドクトオル いやらしい冗談はお止しなさいまし
さて硝酸銀は感光した
春來る海市(※ 小説)(十二枚)書く。蓋し處女作なり。
九月十一日
L’Amour triste (※ 悲しい恋)
いまの世も世に立つわざは知らなくにこひせむをのこしりぞけむとす
なにゆゑに泣くぞと云へばわがゆゑにその母つらしといひしころはや
ひとは如何につれなくとても汝とあ[吾]といとしめばよしといふにうべなふ
青山の山かげの田の穂にいでて垣ほもしげきこひとはなりぬ
泣くを止めていねよといへば寢ねにけりさめてつれなき母かしこみて
九月十二日 コギト第六号校了。関口、松田。
獨逸浪漫派頌詩
一
夜の帷はややにかかげられ
東の方ほの紅らみ
まがきの上霧立ちぬ
園の鳳仙花(バルサム)におく露を見よや
絲杉(ツェダー)はた菩提樹に鳥ひそみ
朗らかに啼きわたり
わがこころ疲れは去りて
新しきひとひを迎ふ
黄金の飾ある馬車に
白馬はつけられ装ひなりぬ
いざ旅立たな 窗辺なる乙女の上に
幸ひの夛かれ その黒髪永く艶やかに
その丹の頬 とことはに頽(おと)ろへざれ
石橋をとどろと馬車の過ぎぬとき
川の辺に釣糸たるる童ゐて
口笛吹くをききたり
誇らかの歌 天國はなれのものなれ
過ぎゆくに山川はうつり
丘のいくつかを越え わが車
游泥に入り わが馬疲れぬ
かくては家にあらましを
景も変りて荒涼の
人無き磯に鳥すさび啼き
風さわぎぬ 湖に波は狂ひ
白波のひまに黒髪みだれ
妖精(エルフ)現れ われに向ひ
叫びいざなふは
いつまでか きみが世ほこり
いつまでか かがやかのかんばせ[顔]たのむ
玖瑰花(ハマナス)の花しぼむがごとく
ながいのちしなへむときに
燭の火のつきるがごとく
ながいのち消えなむときに
なげくともく[悔]ゆともしかじ
永遠の美のくに
水の底にいたりて
わがつまとなりたまはずや
わが腕はしなやかに
きみが腕まき
わが胸はきみ抱くとに
みちふくれむを
わが歌を知りたまはずや
わが踊りめでたまはずや
この時見しは水底より
蒼き光らんらんと輝き
その中に輪舞せるをとめを
見しが そのひとりわがこひびとに
おもかげのかよふと見たり
そは既に死にはてしひと
そのひとの奥津城の辺の
絲杉はうなだれゐしを
たちまちに天の一角
閃きしは一條の電[ママ]
妖気うせ 妖女すでになし
湖はなほもさわぎて
白波はとどろとなりぬ
わが馬はおそれし様に
車牽き狂ひてゆくは
いづくとか 即ちこれ
莎葉の生ふる流沙の原
地に這ふもの 地にひそむもの
怪しげの歌うたひゐしが
こは見るに罪人の変化の相か
頭より悪血ながし
眼には泪あふれぬ
電はここらを打ちて
ひれ伏しぬ 動かずなりぬ
わが車即ち入りぬ 光明の市
三角の柱は天にそびえたつ
これ東都のオベリスク
古の聖王の績 きざみしが
その跡ふ[古]りて誰がよみえむ
門入れば人無き館
荒れ果てしまがきの中に
ひともとの薔薇のしげみ
遅れ咲く花の色香は
これぞこれ わが理想(のぞみ)
憧憬の青き花
處女の瞳もてわが魂を
うばひ果てたり
これ見るに泪は止まず
わが求(と)めし奇(あや)の珍花
とく手折らむと手をふるに
たちまちくずるその花
かひなしやもとの色香は
かすかなる香ひのこりて
かなしげにわれに語りつ
いざきみよ もとの旅路へ
漂白の路に入りね
あこがれはきみがひとよを
求めむもの たはやすく
得べきにあらず きみが見し
わがかほばせは 天なるみ神
きみをして倦まざらしめと
大み心はかりませしぞ
汚辱に染みし きみが身を
魂のはなれむそのとき
天つみ國の門開かれむとき
光明赫奕と輝きいでむ
わが本の性のままに
そのときまでいざ出でませ
漂泊の旅の長路を
教へのままに出でゆけば
氷雨たちまち降り出でて
狼は號[おら]び 虎 奔りぬ
怖えし鹿は岩角より
深き谷間に躍りしが
啼くこゑだにも立てざりき
あはれこごし峰に陽はおちむか
いまゆうぐれの時
馬うつ鞭もしなへたり
氷雨に手はこごり 足は水漬きぬ
孤影悄然と峽路の
溜り水にうつれば
死の手 またわれを招き
わが心臓は痛く搏ちたり
そを掴まむと虚空より
荒鷲は舞ひ降り わが頭
その嘴もて喙ばむとすれば
鞭をあげてふせぐに
四体たちまち崩れて
血の雨わが身体をおほひ
羽毛はわがのんどに入りぬ
時に天眼開け
われに語りぬ
なれおぞ[愚]の小きものよ
いのちの時来りたり
その羽毛を身につけよ
その爪を足につけ
その嘴を その眼をながものとなし
舞ひ上りここまで到れ
おぞの力をふるへかし
かくすれば身は輕々と ひようひようと
氷雨をつきて舞ひのぼり
人間界を見下ろせば
神の殿(みやゐ)も人の家も
わがまなしたにひろごりて
大野のはてに雲ひそみ
氷雨は止みぬ 陽はてりぬ
その晩暉の消えぬ間に
一刻早くのぼらむず
野も森も いまくれはてて
陽の下るより迅くとび
天上界に到りぬれ
ここは常世のくわし[美し]國
水晶の門 瑪瑙の扉
開けば瞰ゆる広らの國
名をだにしらぬ鳥啼けば
羽うるはしき虫飛びぬ
緑のしげみ深ければ
その静もりに知りぬるは
これこそみ神いますところ
みくらの様を拝まむと
茂みを分けば白沙に
神の姿はまた無くて
たヾ一輪の青薔薇
咲くと見るまに神痴[し]れて
たヾ影のごと体(み)を出づるに
花心こゑあり善哉と
嚴しきこゑもゆめうつつ
われ天地としづもりぬ
[※ 万葉集巻一から七首抄出。]
[※ 万葉集巻二から十五首抄出。]
[※ 万葉集巻三から十首抄出。]
[※ 万葉集巻四から二十五首抄出。]
[※ 万葉集巻七から七首抄出。]
九月十七日 丸、友眞、天野、松浦、杉浦、肥下と[コギトの]配本
霖雨漸く晴れ
坂の登り降りに
ちらちらと蒼空が覗き
フルーツパーラの緑の室に
わたしの顔貌は蒼白を極めた
疲労と困憊の秋草が
わたしの脳髄に咲けば
神がみは黄昏を
心からの嗤ひに吼えたまふ
×
つゆけさや龍膽の花運ばるる
×
[※ 以下5行破棄。]
九月二十三日
当世無頼調
木犀よひとしめり吹く秋の風
木の草の実りはかなき葉のしたに
にはたづみ乾きてあつき空の蝉
×
わがものぐるひはいつの日か
×
おしろいのにほひ木犀のにほひ
ひるすぎのラヂオは玄冶店
つまらぬ小説でも書ければ
暢気でいいのですが
むらさめにぬれて巷の女見る
赤き銭てのひらにのせ嗅いで見な
銅銭の一つ二つのこるうすさむさ
銅銭もあまさずなりしひるを眠る
酒の香や隣は菊の初花賣
秋の魚乾魚は魚のうちならず
空とぶや酒のさかなのみそさざい
衣賣らむ本賣らむ海に遠きひる
秋山の木の葉にともる灯の青さ
a T.Hige
金借らむすべは知らねば紙衣[かみこ]着る
九月二十六日 中華辺境兵漸繁
戰爭
一
青服の驃騎兵たちは喇叭を鳴らして夕日の長城を出て行つた
城門の傍の泉に椿が二三輪落ちた──
二
夕陽に尾振る馬を灌ふ兵
吃飯する兵
喇叭を稽古する兵
子供がそのまはりに二三人
三
早朝屯営を出発したらしい兵が二中隊ばかり
小川の辺で憩んでゐる
やがて隊長らしいのが立ち上って
中天の日にま[目]かげをして空を眺めた
中央亜細亜の鷲が舞つてゐるのだ
四
莎草の中の死骸が一躯
銃聲が一発すればつづいて反響のやうにどこからかこたへる二三発
中天の日はしばし翳る
五
炊爨[すいさん]車に烏がとまつて啼いてゐた
青服の死骸から蝶が舞い上つた
六
鴆[ちん・毒鳥の名]に遭ふた将軍は鸚鵡の籠の前で吐血した
明け方ひとびとは鸚鵡を撲殺した
鳥は羽をふるはせながら最後まで将軍の苦悶のこゑを叫んだ
十月八日
遂に晴れぬ邪念もつ身はよるふけの秋風の路をゆきにけるかな
東京の並木のみちをさみしみと酔ひつつゆきぬ木々は揺れつつ
しばしだにもだしてあらば泪おちむ犬にも似つつ吠えてあるかも
竹の葉にをとめの衣はふれにけりおとなのをとめ見ればかなしも
齒をやめばこの秋風は寒けしとよるさへ更けて月傾きぬ
ゆうぐれの乱れゐし雲いづべかもいたむ歯おさへ文よみにけり
街燈は青く光りてゐたりけり病む身を寄する幹のつゆけさ
鐵のてすりのさはり冷けば菊咲く秋ともなりにけるかな
あかあかと花咲きたればをとめ子ら叫べるこゑは空にふれける
此の世にも生きにくくなり生業(しごと)もたぬわれらすら嘆く晝を怠けて
さ夜ふけとよふけの月は陥ちゐつつしどろの足を見ては嗤ひぬ
十月十一日 保田の下宿。
槻の樹の幹白々と光りをり小路を白き猫歩みけり
秋ふかきコスモス咲ける家々にラヂオかたりぬわらべあそびぬ
十月十三日
レンズの世界を恐れよう
歪曲した脚と鼻と
この世紀は細身の洋袴をはき
大きい頭のやり場に困憊してゐる
×
冬の季節は枯草と焚火
雪は吾党の家に積り
風は吾等の足をはらふ
十月十四日 保田與重郎と石神井へ
三宝寺
天人の裳裾は二本の脚を見せ
その眉は長く眼は潤[ママ]く
牡丹の唐草 葡萄の蔓
梵鐘の余韻は柊の茂みにしづもり
象の牙と鼻を哄[わら]へば
「普陀落や燕の鳥もはや去にし」
石神井池
鳰[にお・かいつぶり]の巣や睡蓮咲けば隠れけり
水草に遊ぶや鳰のこゑたてて
石神の祠に寒き朱[あけ]の色
とりどりに冬の實結ぶ小藪かな
茶の花やとしよりて後見まくほし
紅葉にもなるべき相や椿の樹
×
ゆるやかに大地(つち)の傾き起き伏しの武蔵の野辺は大根作りぬ
野に出でてうすらくもりを働けるひとびとを見れば勉むると思ふ
×僕はトルストイを讀んでゐた
わびしらや大根畑の立ち尿[いばり]
沼中に骸くさるる鳥獸
鶇啼きつれ立ちおちぬ森邃[ふか]し
薄野のかぼそき路は絶えもせよ
薄野の虫啼くあたり焚きつくさむ
柿の實を吊してありし土間暗し
×
僕の肋骨は洋燈をつける。宵々毎の蒼暮の時に。
僕は近づくひとびとを近視の眼で瞶める。
牡蠣にでも似たと人は云ふだらう。
僕はカメラの焦点をわざと外す。
ああ、ひとびとは凡て眼を、鋭い発光器を持つてゐる。
僕の肋骨は羞ぢて燈を消す。空の暮れ果てる時に。
カンナの花がまだ残んの光を放つ時に。僕はそれをわびしいと思ふ。
十月十五日
本日傳聞す。伊藤健二郎氏十一日三時三十分永眠し玉ふと。
悲雨の中をお酒のみにゆくも些か故人への贐けなりと。
同行丸、天野両君。
松茸や柚酸つぱくて喫ひにけり ※
柚の香や厨にふきこむ雨冴えて
菊匂ひ佛名いふも泪なり
お供への花散るくれや新佛
喪主の衣はつかに白きゆふくれや
小竹の弟武君もいまは逝き名なしとかや ※
松原に球とるひまをほのえみしわらべの子ろはいづちゆきけむ
十月二十二日 Y旅行。
丸と散歩。
皀夾坂から見た神田は曇り
飯田町の汽車の煙り
靖国神社はお祭りで
桑畠の夕ぐれ迷ひ雀かな
さいかちは伐られて車通ひけり
禾本[かほん]科の雜草ふみてつかれゐる
十月二十三日
霧のシレエネよ
泡沫のアフロデイテよ
生みの母親よ 甘き乳房よ
冷い白い肌膚にとりすがれば
意識の流れにその汁液は混る
十月二十四日 昨日は春山行夫氏より「文学」に執筆依頼ありき
井の頭へゆきし
蒼靄はすすきに流れまとふめり 杉浦正一郎
黄櫨[はぜ]もみぢつめたきいろに霧ふりぬ 相野忠夫 ※
ゆふみづやしろじろ光る時のさま 室 清
幹毎に鳥啼くゆふを葬りかな 松田 明
黍殻のもゆるもかなしうすけむり 後藤孝夫
秋ふかき茶の花もちる垣墻[かきね]かな
野の果の白き館のわらひごゑ
野路ふかく人住まぬ様の館かな
つたもみぢ荒れたる宿のけむりかな
ゆふぞらに鳥落つ木末射しにけり
うきことをかたらはむひとも住みしさま
芋抜くやここは武蔵の吉祥寺
芋の葉にこよひの月はくもらなむ
細みちや友四五人にくれかかる
★
Oh,Chanteur des rues[※ 街の小歌]
青銅の女にわたしはこひをした
わたしの胸の花は夜ひらく
ほつほつと音たてて そのひらくとき
わたしは唇を歪めて咳[しわぶ]く
わたしの胸に塩水が湧く
ああ 虫のこゑ イレエヌよ
おまへの青銅の眉に
おまへの青銅の頬に
むらさきいろの霧がふり
わたしの唾液はねばつこい
こん夜も星空は見えぬだらう
★ Atlantide,(Herrin von Atlantis)
わたしの脚は流沙を踏むに適し
わたしの瞳は幻影(イメエジ)にまどはされることもない
かやつりぐさ
莎草は日中に枯れ
弘法麥は根を千尺の地下に張る
わたしの骸は砂がおほふであらう
わたしの霊魂は海市の殿宮に入るであらう
たヾわたしのせつない感傷は
流沙の原に 颱風の中に
はかない月影を索めてやまぬ──
搖蕩とまた眩暈が襲つて来た
★
わたしは迄北[いほく]の人民です
漢の長城はわたしを塞[さえ]ぎります
わたしは紫髯緑眼の徒です
わたしの笛は漢の公主を泣かしめました
公主の寢園をごぞんじですか
わたしの笛は緑の芽をふきました
春を はこやなぎの澤を
新しい公主の輿[こし]を迎へに參ります
長城の南の雲をごらんなさい
★
あはれゆふべはたヾひとり
ほのけき煬[ママ]にむかひつつ ※
ふみかくときぞたのしけれ
「きみがふむ京(みやこ)は土のしめりかな」
むらさきのくもにしにたち
ふじのたかねもかくされぬ
ゆふづつ[夕星]ひかれすすきのに
「秋山や茸(たけ)くさりゐて路つきぬ」
はるかにともしひかりいで
林をまとひきりたちぬ
ながれてしろき野の川や
「きみがたもとちまたちまたにひるがへれ」
つきさへいでぬきみがまみ
うかべるくもはきみがぬか
ふたへまぶたを思ひ出(で)ば
「ゆく秋や名しらぬ花もすがれつヽ」
わかれはかなしときのまも
とはにわすれじきみが言
なさけはあつくちはあつし
「ふたりしてつむじの雲をみむ日かな」
★
やちまたの京のちまたにたちなげき山ゆ下り来る霧にゐたまへ
わがをとめ雲居にありて菊の香のながるる街にわれおもふとや
音羽山陶器竃(せとものがま)にたつけむり紅葉のこずゑおほふころとか
十一月一日 英子といふ女に惚れた。
ゆふぐれ
ころころと子供等は喉からラムネの玉を吐き出してゐる
木の葉のさへずりを聞く
半ば虧[か]けた金星(ヘルペルス)が坂道を駈けて降りて来る
十一月二日 ポーリンといふ女に惚れた。−深夜−
巨きな犬達がつるんでゐる
啼く声は森閑とした街に怒濤の様にひろがつて行つた
×
毎夜ここまで来ると僕は排尿する
アフロデイテの様に白い情緒が一筋枯草にのびてゐる
×
參星は森林の上で見つけられる
友達は骨を生じた
ああ 花は骨片のやうにカラカラと音たてる
×
肋骨のついた軍服の胸を張つて
僕も女を斬らう
城壁の様に熱い胸を剖いて
白い鳩を飛ばしてやる
×
水龍骨と蜥蜴とを
天琴宮にけあげて見よう
リルリルと鳴りひヾく
わたしの咳をひとりで聞く部屋の窗には
霜の花が咲いた
まるでおまへが純潔かのやうに
十一月六日 竹内好氏
菊作る女に道を訪ねた
金色の実の多く実つた樹
曇り空が動いた
白い雲に日は暮れる
灰色の林がうすれる もう見えない
×
ピアノをひヾかせてたのしげな館々
海は鉛のいろに動かず
ガスタンクの辺に煙はのぼる
力の無い世紀
ああ たのしげだ
×
目白鳥(めじろ)来る館に早し冬の花
時雨して茶點(た)てむ友よ早も来(き)ね
十一月十日 原田満人先生と漢代漆器
棺槨[かんかく・ひつぎ]をあけると無残、若い女の骨骼が三体積み重つてゐた。その歯は雪の様に白く、臀骨はしなやかであつた。足許に漆の朱い器があつた。
開くと青銅の鏡、リボンも故のままに、掛蓋をとれば白粉、嚥脂[えんし]、(鬢油)、笄[こうがい]、櫛、白粉刷毛と銀の鈴が一ケ、女の子の可憐さを想はせた。
ああ、漢の文化は骨となり果てた。この漆器も明日となれば木乃伊[ミイラ]の如く萎へるであらう。
十一月十二日 鬼澤一男の遺稿集
十一月十四日
アダムとイヴこの方ためしのない大暴風雨の夜となつて
人つけの少い乗合に老紳士がのつてゐて
臘の様な涙が鬚まで傳つてゐた
×
鳥達は僕の窓に打ちつけられ 窓框に
その羽毛が一杯につもつた
朝 僕はそれを掃いた 泪を流して
×
僕は肺臓までしみとほる咳をした ※
雨音が一時とぎれた──そのひまにも一度咳をした
眼の前で鬼火が螢の様にとびかうた
傘にとまれと歌つたらよかつた
十一月十五日 コギト校了
死ぬべし 忿怒相のまヽに
女の子は馬鹿なり 年老つた女は厚顔なり
愛する女なんて嘘だ
下宿をかはらう 忿怒相のままに
火鉢を抱いて詩を泣くべし
引三円六十銭也。
十一月二十七日 二、八三
運送屋(丸二) 一.○○
改造(芙蓉堂) ○.五○
散髪(ハイカラ軒) ○.五○
切手(父へ) ○.○三
急須、茶碗(高島屋)○.二○
灰皿 (〃) ○.一○
茶瓶 (〃) ○.一○
盆 (〃) ○.二○
足袋 (〃) ○.二○
十一月二十八日
原稿送料(清徳氏へ) ○.一二 ※
十一月二十九日 ○.八二
引五円十二銭也。 計八円七十二銭也(十四円二十二銭也)。
切手(島へ) ○.○四
バス(阿佐ケ谷−高田寺) ○.○五
ほうじ茶四半斤(〃)○.一八 ※
バレー剃刀刃 (〃) ○.二五
仁丹ハミガキ (〃) ○.一○
スリツパ (高島ヤ) ○.一○ ※
チリ紙 (〃) ○.一○
十一月二十七日
中野区鷺宮一丁目二六八 仙藏院に移る。
ここは阿佐ケ谷より三十分の地。窓を展れば墓地なり。
以歌代日記
鵝鳥啼くこゑきこえゐぬ南天の朱ら実枝垂る枝に向へば
墓原のしづもりふかし遠方に秩父の峰の雪光る見ゆ
ゆふぐれて時雨のあめとなりにけり手足かはゆし時雨冷たければ
風呂に立つわが脚下にころべるは耳あてヽ聞くラヂオなりしか
据風呂にシヤツ脱ぎたれば寒しと思ふしぐれの雨は氷雨となりし
かやぶきの庵をぬらしひそひそと時雨ふる夜をしづこころなし
×
はしけやしをとめゐる家をわが去るに門に立たざりしそのをとめあはれ ※
をとつひときのふのふたひわがひざになみだなきゐしそのをとめあはれ
いとしとてわが抱くときにおのづからまなこにあふるものならしなみだは ※
×
あはれ琴抱きて
杉吹く風に彈じなば
朱実熟(な)る樹の並木道
わが庵と[求]めてをとめ来むかも
十一月二十八日
朝、電車の中でふしぎな女の子を見た。年は十五六、女学校の[?]年生なのに、疲れた敗頽的な顔をし ※
て、長い睫毛の下では瞳が憶病さうに覗いてゐる。顔に雀斑[そばかす]があつたつけ。
十一月二十九日 ヘルマフロデイテ
富士の峰に湧き立つ雲は鷺の宮の林のなかに詩とならずけり
朝日子は遠き屋並をてらしゐぬこころ足らひて縁に出でゐるも
澤向ふの福藏院の森あかく朝日の照らす朝霜けぬがに
世にひとに捨てられつつもこの森にいのち生きなばなんをか云はむ
十一月三十日 三.八九 (十三.三銭)
バツト ○.○七
中国社会史(文求堂) ○.七○
台湾の租佃( 〃 ) ○.四○ ※
インキ(丸善アテナ 三省堂) ○.二四
ノート(〃) ○.一三
飯(第一食堂) ○.一五
茶(森永、稲垣太郎、天野二君)○.五○ ※
菓子(杉浦) ○.二○
食費(四日分) 一.五○
十一月三十日
すがれた菊はかすかに匂ひ
夕日は篁を紅く染める
大根畑に犬が餓えてゐる
[※ 梁江淹、「效院公詩」四行抄出。]
[※ 陳陰鏗、「和傳郎歳暮還湘州」四行抄出。]
十二月一日 (十四○.三三)八.三三(十三二.○○)
バツト ○.○七
玉子丼 ○.二五
肥下に返す 三.○○
松井小母に返す 五.○○
十二月一日
今年の花は皆咲いて了つた
わたしは陶器に夏の花を描く
澤に小鳥が陽を浴びてゐる
★
うめもどきの朱さ
常磐木はいよいよ黝ずみ
わたしの僧房は晝も燈を灯す
凍つた蛇が天井から墜ちる
十二月二日
テアトルコメデイ、戸川秋骨、松井松翁、飯島正、中村正常、太田咲太郎、岸田国士の諸氏。※
佐々木三九一、重三、益子、池田、天野の諸兄。
竹中郁の「象牙海岸」失ふ。
十二月九日 服部とボストン。KANAMORI
Blanc et Noir[※ 黒と白]
黒い三角 白い丸
かみしめれば薄荷のにほふハツカ紙を
むかし かみしめかみしめ 味なくなつたを嘆いたあの心
口の中でとけてあまいチヨコレート
ウイスキーの一しづくも入つて
十二月十一日
アナムネーシス
Reiner Maria Rilke et Y. Okizaki[※ 中島栄次郎]
三月 わたしは諸種の花の種子を蒔く
雲雀がなく 私は思案する
わたしの死んだ母を知る老嫗が来て云ふ
「あなたのおつ母さんも花が好きだつた」と
八月 わたしはわたしの花を見る
黄や紅や藍や 太陽の日時計の文字となつて ※
わたしは繪をかく こゑで繪を
おつ母さんのいいこゑを思ひ出す
十二月 わたしは酒を酌む
荒海のやうに わたしの体内にいろんな血がわきかへり
わたしは夛くの叫びをきく わたしは昂然となる
今一つが「おまへの父がさうだつた」とささやく
ああ 父よ母よ 眉をひそめ こゑをふるはす
ああ 灰になりたまふた 遠い御先祖様よ
ああ 放蕩もののわたしの 御先祖様よ
★
あの手はわたしの腰を纏き
あの足はわたしの足を挾みました
だけど聖母(マリア)様 妬忌(ねた)まないで下さい
あのやせつこけたとげとげの四肢が
わたしに滑つこかつたわけを御存じですか
わたしは始終あなたをおもつてゐました
あのいまはしい時間中
★
硝子の樹をへし折つて
あなたの襟にさしはさまう
クリスマスの日にわたしの贈物と
佐藤竹介君にあふ。詩を上げる。阿佐ケ谷へ
★
月は雲の下へ下りてくる
わたしの冬の星たちよ
わたしの部屋の蝋燭よ
おまへたちはわたしより暗い わたしより
冬の外套の褪せたわたしより
ヴエーヌスの讌[うたげ]
わたしのために白い卓布がしかれ
わたしに銀のさじも置かれた
わたしの椅子の紅い天鵞絨[ビロード]
わたしは黒いネクタイをしめ
おづおづその場にまかり出たが
客人達の様子におどろいて
またもわたしの洞窟にとぢこもる
シユミーズも穿かない貴婦人方
ズボン下一つの殿方
ああ 外は寒いのに
乞食達よりも行儀の悪い格好で
一体何のお料理だといふのだらう
★
固いCatelette 塩のききすぎたSarade
熊たちにでも喰べさせろ
わたしの潔癖は飢をも却ける
わたしが喰べたのは好奇(ものずき)でしかなかつたのだ
わたしの潔癖に歯をガチガチならさせて
十二月十二日 徹夜校了
十二月十三日 高輪芳子心中
索漠とした死の曠野を
あなたはひとりで行く
世紀の險しい峽を
僕もいつ心[一心]に攀ぢてゐます
月夜の雲は虹色の輪郭をもち
高くで 羊たちの様に啼きかはしてゐます
死の痩せたカサカサの手が
あなたの髪の毛を掴むところを
僕はあの『紅い風車』でしたやうに
フツトライトのまだ下で見てゐます
★
袋もあるのにまだ皮をつけてゐる蜜柑の様に
こひびとがいくらあつたつて一人のシエーンハイトのなくなるのはかなしい
その美しさで僕の心をくるんでおきたいのだ
★
あなたはまだ十八です 子供です
大人染みた思案は止しなさい
あなたのそのしなやかな肩で
何のやうな苦しみを擔つたとて
荷物の方がずりこける
そのなめつこさをあなたは肩に持たせなさい
★
西方(さいほう)の黄なるゆふぐれとなりにけり秩父嶺(ちちぶね)に雲たヾよへる見ゆ
秩父山ゆふ日にかすみ死ぬひとの夛き冬の日またくれむとす
きそ[昨日]のよる月におぼろと見えたりしちちぶのみねはひるもかすみぬ
あかあかとすすきにかたむき日はおちぬ鴉しばしば啼きにけるかも
みはしばし仙藏院にとどまりてゆふくれごろにひとをこふるも
うしろより日にてらされて秩父嶺になびくうすぐもほのあかるかも
十二月十五日 《文学》[※ 雑誌]にポエジーのはじめに出る。
十二月十六日
あなたの頭で了解することを
わたしは心臓で知らうとする
あなたが心臓で書くことを
わたしは頭で書かうとする
★ 記憶
またけたたましくわたしの中で記憶の鸚鵡が啼く
わたしの眼玉をつヽき出さうとするのは明りを求めてゐるからなのに ※
わたしが一寸暗示を与へるとすぐ啼き止む
可哀さうなわたしの記憶 おまへのうすやみに黄金の虹をいまにかけてやるよ
★
おまへの流れる黒髪の川
おまへの鍾乳石 おまへの鳩穴
おまへはわたしを廻(めぐ)る おまへはわたしに合流する
おまへよ おまへよ 月かげの下の谿河よ
★
月光にてらされて 夜目にもほの白い不二の山
雪は吹雪となつて頂上の嵐に狂つてよう
ここ 風呂のしまひ湯が石けんの香をなつかしく流す野原を
ぼくは女の子の体温をかかへてかへつて来る
★
船は疲れて芦の間に纜[ともづな]をおろした
飛び立つ夜鳥
甲板のわたしの髪に霜がおりる
わたしはまどろみゆめ見る 金の星が墜ちると
★
構橋にひとがのぼる
わたしに青いコツプをもつて来る少女
《おたつしやで》──コツプには金星がとけてゐた
十二月十七日
河々の薄氷も固まつた
犬を目がけて海東青鶻[※ 鳥の名]は矢の様に墜ちる
昔の遼の天子の金冠をぼくは見つけた
おまへの歯ならび──そのやうに國境の山々はみつめさされる
★
春ごとに公園の白梅が咲き出すと
ぼくの知つてゐる囚人が牽かれてゆく
「旦那 もすこしだけ世の中を見させて下さい」
頬の汚れた子守女たちがかれの世界に来て坐る
★
子供たちは喉のおくまで見せて聖歌をうたふ
避雷針にとどまる星
ぼくの心臓で鐘のひびきがおさまる
ベツヘルムも眠つたころ──石ころ道に霜がおりてる
★
星明りはぼくの影で消える
かれらの指し示すは知慧か破綻か
ぼくは流れる夜気に見る──虚
しづかな夜にも迷つた鳥たちがぼくの上にとまる
十二月十九日
舗道の旋風(つむじかぜ)に日はくれる
街燈の円弧に白い犬がゐる
★
たのしく女の子は大きなリボンをつけた
蝶々だよ まあ毛蟲だわ
リボンは僕の喪章となる
★
黎子はバラを植ゑてゐた
《どんな花が咲き出すか知れやしない》
ぼくは指を立てヽ脅すまねをする
黎子はもう泣いてゐるのだ
★
本郷通りをボンネツト[※ 帽子]着た女の子がゆく
眼蓋をまつ赤に泣き腫らして
ぼくはシネマのビラを拾つてゐた
★
天花[※ 雪]は半時ばかり現[ママ]えてゐた
弟の手はひどい霜焼だ
にいちやん おさかな
氷に木の葉がとぢこめられてゐた
★
縄飛びしてゐる女の子ら
てんで縄になんかとどきはしない
逆立ちしてゐる黎子をぼくは睨めてやつた
逆さまの顔で笑つて見せる
起ち上がつても笑ひやまない
にいさんの顔つたらありはしなかつたわ
★
玻璃のなかの匂ひ菫
紅と白と緑のボンボン
黎子 Xマスの歌をやつて見な
此の子はマリア様を信仰してゐる
子供のくせに
[※ 藤沢古實の歌九十四首 計、昭和七年十二月十九日、二十日抄出。]
十二月二十二日
雪は天から素馨花(ジャスマン)の匂りをもつて来る
鐘のひびきはわたしの瞳に金の幻をくりひろげる
★留置場
暗い光の中で蒲公英[たんぽぽ]が對になつて咲く
光を待ち受けて自ら光を放つ
★高円寺
橄欖(オリヴイエ)の樹にわたしの幻はかヽり
さぼてんの花は此の街を濶歩する
絲杉の青さ 柊の實の赤さ
★
金牛宮の牡牛の瞳は怒つてゐる
どこの牝牛のせゐでせう ※
軛き[くびき]にわたしは綱をかける
水晶をつないだ念珠 その冷さ
★
棕櫚の樹の傍でわたしの眼は瞠(ひら)いた
生れてはじめての日の光
キラキラと泉に溢れるは生命の水 ※
棕櫚の幹にわたしは新しい感觸を加へる(パルテマイの話)
★
魚たちは金の鱗をもつてゐる
けふいちんちわたしの手は腥(なまぐさ)い
わたしの網の大穴を天使は繕ひたまふ
窓の外から星といふ光で (旁羅[マルコポーロ]の話)
十二月二十三日 松浦帰郷、蠣の家。丸、友眞。
その朝わたしが食膳で割つた鶏子(たまご)は落日(ゆふひ)のやうに紅かつた
ゆふ方わたしは隻脚を失くして運ばれて来た
わたしの隻脚が淋漓と海アネモネの花を染めてゐると確信して
★中華人大氏の失踪について
満州國瀋陽省海甸縣人、大氏をそのゆふ方までわたしは、彼が五色の蛇を呑みこんで銀色の太刀を吐き出す鮮やかな術の場面を、
海盤車[ひとで]座のフツトライトの下で固唾をのんで見まもつてゐたのだつた。
夜半ゆきつけの酒場花骨を出て来ると號外が来た。大氏の失踪について特大號の見出しで。わたしは愕然として煙管(パイプ)をおとした。
その琥珀の管は凍てついた煉瓦の上で粉微塵、わたしは不幸を生まれてはじめて感じた人の如く蹌踉とタクシーを命じた。
気がつくとわたしは外套のままアパートの自分の床にねむつてゐる自分を見出した。棒のやうにわたしの脚は痺れてゐた。多分大陸産の蝎がわたしの脚を這つたに相違ない。
わたしは今更故郷の父母たちに音信を欠かしてゐることを自責した。水道の口が口許まで延びてきた。
そこでわたしは部屋を去る。鞋子(スリッパ)が婦人用のになつてゐた。その外に何の異事があり得よう。煙管がわたしの口に戻つてゐたのだから。
わたしはいつか御濠端を歩いてゐた。足取りは確乎たるものであつた。輕気球が揚がつてゐた。空はよく晴れてビルデイングたちが其處から懸垂してゐる。
わたしは広告の文字を讀む。《大日本帝国萬歳》。
危くわたしはまたも煙管をとりおとすとこだつた。大の字が人間だ!そこから大氏が絹をとつて挨拶してゐる。太陽に絹帽がちかちか光つて眩い。大氏は一歩づつ登りつめる。
気球に觸れたと思ふ途端、足が浮いた。アツといふわたしの叫びごゑに、彼は一寸会釋してそのままの姿勢で空中へ。空気は酒精のやうに冷くなつた。
大氏はもう豆子のやうに小い。風が吹いて木の葉を散らして来た。別れの挨拶状のやうに。
わたしは又酒場花骨の人となる。緑のシエードの下で紳士達が骨牌を弄んでゐる。菫色の菫の花を裏に描いた骨牌、それが慌しくやりとりされはじめ、ひとびとは熱狂して来た。
ひとりが矢庭に自分の頭を頸から外して横へ置くと、みんながそれに倣つた。わたしは起つて行つてそれを交ぜかへし、女達にひとつづヽ分け与へた。みんな辞退する。
扉が開いてひとが入つて来た。牡丹花色の風呂敷をもつて。わたしの手が痩せたその人の手といそがしくいりまじつて、頭たちをその中にかき集める。ほろほろと卓の下にこぼれて止まない。
ふと見ると相手が大氏だつた。わたしは久濶を敍する。大氏は口に手をあてて叱つと云ふ。紳士達は緑のシエードの下で骨牌を弄んでゐる。わたしは大氏とネオンサインを消してまはる。
風呂敷から頭たちを一つ宛とり出してそれらに与へればわけはない、わたしは寂寥とわたしの影を巻く。大氏はその時横丁に入つた。以来出て来ないのだ。
號外は未だに頻発されて、わたしはその煩雑さに ※耐へ切れない。わたしは鶏子(血のやうに紅い)でわづかに命をつなぐやうになつた。
★怕
馬たちがひとりで街を歩いてゐる。
★
此の日聞きしは肥田靖三君急逝の事なり。
二十貫の巨躯、今那辺にかあらむ
★深更に至りて小説一篇を作る。「ある訪問」と仮に名づく
十二月二十五日 けふはいちんち家にゐたり。
寒々と野良はつヾけり遠畦に嵐ふきまく土埃見ゆ
南天の実はこの寺に数夛し嵐に揺れてしづどころなし
みすずかる信濃の雪の高原に柏井数男何たのしめる
気短かの田中克己のいさかひの相手となれりあはれ数男は
北風に向ひてわれはあゆみしが髪ことごとくうしろになびく
ゆふぐれの寒風にゐて中学生枯れし 木の相をゑがけり
赭(あか)黄など枯れしいろのみ使ふめり万象(もの)のさびしき時のしるしと
(仙藏院詠草)
★
空を天車の駆ける音がする
鼠がぼくの寝息を竊[ぬす]む
死が墓碑の文字から甦へる頃だ
★
空だ 漠だ
枯野をゆく水
子を孕む犬
十二月の青葉
★
烈しい風の中で
彼等はパンパンと空気銃をうつてゐた
鳥たちは撃たれた様な格好で
枯野に墜ちて逃げて了つた
烈しい風の中でパンパンと銃声がつづいてゐた
十二月二十七日
雲があの街をおしつける
橋の上を孕んだ女が来る
氷雨に青物が凍てついてゐる──大阪
十二月二十八日 金來る。
シユトルム
街 1857
暗い岸べに 暗い海べに
街はあり
霧は屋並を重く壓へつけ
静寂(しヾま)を破つて海が鳴る
單調(ものうげ)に街のまはりで
ざわめく森もなければ 五月
たえまなく囀る鳥もゐない
渡り鵝鳥がかん高いこゑで
秋の夜を鳴いてすぎるばかり
岸べには草がなびく
けれどわが心はひとへにおまへに倚る
海べの暗い街よ
若い日の魅惑(ゆめ)がいつまでも
ほほえみながらおまへの上で休らふてるから
おお 海辺の暗い街よ
海辺 1854
入海をいま鴎はとび
たそがれははじまつた
濡れた洲の上に
夕焼がうつつてゐる
灰色の島影が
水を搏つてとび去り
島々はゆめのやうに
海霧の中に浮いてゐる
わたしは泡立つ泥の
秘密ありげなこゑをきく
さびしい鳥の叫び──
いままでもいつもかうだつた
もう一度風はそよぎ
それから黙つてしまふ
沖の方からの人声が
だんだんはつきりして來る
子供たち 1852
一、
わたしの膝にはいま
小つちやな奴がのつてゐて
暗がりからわたしを
やさしい眼でみつめてゐる
もう遊びもしない わたしの傍にゐて
だれのとこへも行かうとはしない
小つちやい魂は抜け出して
わたしの中へ入らうとする
二、
わたしのヘエヴエルマン わたしの小僧
お前は家中の日光だ
おまへが明るい眼をひらけば
鳥は歌ひ 子供たちは笑ふ
三月の故に 1853
牡牛は柔らかい草を食べ
堅い莖は残しておく
百姓が後へついて行つて
用意ぶかくそれを刈りはじめる
だから に牛小屋で
牡牛はなんとてき面に啼く
の草のときに賤しんだものを
秣[まぐさ]になつたいまは消化(こな)さねばならぬ
四月 1853
いま囀つてゐるのは あれは鶇
わたしの心を動かすのは それは春
わたしに好意を表しながら
聖靈が地から上つて来るやうなここちがする
生命はゆめのやうに流れる
わたしには花や葉や木のやうに思はれる
園で 1868
御用心 おみ足とお手に御用心
世にもあはれなものにふれないように
いやな毛虫もふみつぶせば
美しい蝶々を殺すことになるのです
來れ 遊ばむ 1882
夏の日の雅びの讌[うたげ] 早やすぎぬ
秋風はあららに吹きぬ 春の日やはた また來なむ
いま蒼ざめし日の光 地にふりそそげ──
來れ 遊ばむ 白き蝶よ
あはれ石竹(なでしこ)も玖瑰(ばら)もいまはなし
みそらには冷き雲のゆきめぐり
かなしやな 夏の日のたのしみ早やもすぎしこと
ああ來れ いまいづこ 白き蝶よ ※
クリスマスの夜 1852
他國の街をわたしは家に残した
子供達をおもふて うれひながら歩いてゐた
それはクリスマスの晩だつた どの通りにも
子供たちの声と 市場の賑ひがわきかへつてゐた
わたしは人込に推されながら
しやがれた声を耳にした
「おぢさん 買つてよ」 やせた手が
玩具を買つて来れとさし出した
わたしはびつくりした 街燈の明りに
蒼い子供の顔が見えた
年はいくつで 男だつたらうか女だつたらうか
押されるのでわたしは識別けられなかつた
ただその子の坐つてゐる石段からいつまでも
その子の面のやうに疲れたこゑがきこえる
「買つてよ おぢさん」 たえまない叫びが
だけど誰とて耳かすものはない
そしてわたしは?──道ばたで乞食の子供と
取引するのは不格好や恥辱だつたらうか
わたしの手が財布にとどくまでに
こゑはわたしの背後で風に消えて了つた
然しわたしはひとりぼつちになつたとき
おそれがわたしの胸をとらへた
まるでわたし自身の子供があの石の上で
パンを求めてゐるのに私が逃げ出したやうに
磔刑に罹りし人 1865
十字架にその苦しき四肢はかけられ
血をもて汚され 踐[いや]しめられぬ
されど處女のごとく常に純きひとは
恐ろしき光景を消し去りぬ
さるに自らその使徒と称するもの
そを青銅(からかね)と石に型どり
寺院の暗に置き
あるはまた明るき野に据えぬ
かくてわれらが時に至りては
純き眼ごとにある畏怖起こりぬ
古き不敬を永遠に傳へつヽ
この宥[なだ]め難き光景よ
思い出づるや 1857
思い出づるや かの春の夜に
われらが部屋の窓ひらき
園を瞰下したりしとき 秘めごともありげに
暗がりに素馨花(ジャスミン)と紫丁香花(リラ)匂り[ママ]しを
星空はわれらが上にひろごりて
なればいとも稚かりし ひそやかに時は過ぎしか
風しづもりゐき 千鳥のこゑ
海邉よりけざやかにひびきわたりて
わが園の樹の梢のうへに
もだして たそがれてゆく陸見つめき
いままたもわれらに春はめぐり来ぬ
いまされど故郷をわれら失ひぬ
いまわれ 夜深く目ざめゐてしばしば耳とむ
風の音 帰郷のひびきつたふかと
ふるさとにひとたび 家を建てむもの
いかで他國に出づべしや
かの方にその眼は常に向けられつ
つひにひとりを止まりぬ──われらはふたり行くなれば
誕生日に 1857
よくぞ云へり 「四十而立」
四十はされど五十のはじめ
暗にゐるわが足許に
新しき朝の時あり
この淵にさへひとたびは
光芒(ひかげ)さしなば われいたくおどろかめ
早も塚より風吹きぬ
秋の日の木犀草(ジャスミン)の香をもちて
寢覺め 1857
虞れ[おそ]にゆめよりわれ覺めぬ
何故しも雲雀はかく夜ふかく歌ふや
晝はすぎぬれ 暁はとほし
褥をば星影てらしたり
さるをわれ いつも雲雀の歌を聞く
ああ 晝のこゑ わがこころ愴[かな]し
破浪戸[はらっこ ※無頼漢] 1864
たとひ俺がまさしき破浪戸であつたとて
俺は一向なんともない
外面如菩薩 内面如夜叉
親友 それこそほんとにお咒(まじな)ひだ
左手に俺は基督[キリスト]の外套の
裾を役にも立たうかと把らまへ
右手には──どうして俺にそんな権利があるのかおまへは信じまいが
王様の黄鼬(てん)の外套をつかまへてるんだ
箴言 1864
或者は問ふ 「それから何うした」
他の者はたヾ問ふ 「本当かい」
ここに於て自由民と
奴隷との差が分れる
×
不幸より先づ
負債(しやくきん)をとりのぞき
その他のことは
忍耐(こらへ)にこらへよ
眞暗 1865
来るべきものいざ来れ
なが生ける中は晝なれば
外[と]つ國に出づるとも
ながゐる土地はわが家なれ
われはながいとしき顔(おも)を見て
未来(ゆくすゑ)の暗を見ず ※
一
墳墓(おくつき)の古い棺の側に
新しい棺がいま置かれた
その中でわが愛人から
麗はしい面貌(おもかげ)が失せてゆくのだ
棺の黒い覆布(おほひ)を
花環が全くかくしてゐる
桃金嬢(ミルテ)の嫩[わか]枝の花環と
白き紫丁香花(ライラック)の花環だ
数日前までは森で
太陽に照らされてゐたものが
いまここ 地中で匂るのだ
五月の百合と山毛欅(ぶな)の青葉と
石の扉はしめられ
上にたヾ小さな格子があるばかりだ
愛する死者は
置き去られひとりでねむる
月の光にてらされて
世界が休らひに入るときに
白い花のまはりをまだ
灰色の蝶がとびまはることだらう
二
時々わたしの胸からおまへの
死以来悩ましてゐたものが退(の)く
すると若い楽しかつた時のやうに
も一度幸せを獲ようとの気がおこる
しかしその時わたしは訊ねる 「幸せとは何だ」
おまへがわたしの許へ帰つて来て
今迄と同じやうに暮らすといふことより外の
答へをわたしは与へ得ない
その時わたしはおまへを墳墓まで
運んで行つたときの朝の日を思出す
そして声なくわたしの希望は睡り入り
もうわたしは幸せを追はうとはしない
三
曠野に出る空気の精のやうに
わたしの眼前に
不死思想がちらちら動く
遠くの蒼もやの中で
それがおまへの姿になる
憧憬の精髄を疲れさす呼息(いぶき)
身を痴れさせるあこがれがわたしを襲ふ
しかしわたしは身をふるひ起し
おまへをめがける
どの日もどの足どりもおまへに向けて
曠野の處女 1865
わたしは薔薇です 早く摘んで下さい
匂りはむなしく雨と風に曝されてます
いいえ 行つて下さい うつちやつといて下さい
わたしは花ではありません わたしはバラではありません
わたしの上衣に風が吹かうと わたしが風をとらへようと
わたしは父も母もない娘なのです
さまよひて 1879
わたしの前で あちこちで
鳥は可愛く歌ひます
ああ 傷ついたわたしの足よ
鳥は可愛くうたひます
わたしはいつまでもさまよひます
いまはどこへ歌は行つたのでせう
もう夕焼も消えました
夜が歌をしめころし
何もかもをかくしたのだ──
だれにわたしの難儀を云はう
森には星もまたたかない
道もところもわからない
丘べには花が
森には花が
暗にどこまでも咲いてゐる
曠野を越えて 1875
曠野をこえてわが歩みひびき
地よりのぼる濛気ともにゆきぬ
秋は来れり 春は遠し
またひとたびも幸(たの)しき時ありや
沸きのぼる濛気まはりに漂ひ
草は黒く 空は虚し
ここを五月にゆきしことなかりせば
生と愛と──すぎていにしよ
一九三三年
一月一日 関口、畠山六栄門氏
元日のゆふ空のもと帰り来しわが眼のまへに大星おつる
蒼々とゆふ西空はくれやらず光りつつ星墜ちてゐたりし ※
元日の日かげあまねしひたすらに日輪こひてきそはゐたりき
★
春山行夫、菊池眞一、本位田昇
[※ここより初版の欠落個所 始]
★
死にたいやな
★
忘却(レエテ)の河を渡り果て 効(やく)なき知慧をふるひすてなば
光明赫奕の眞智に 彼岸に眼覚めなば
月桂の冠をつけ 椰子の葉を身にまとひ
身は常緑葉樹(ときはぎ)と花咲かせなば
★
戰爭といふは何ぞかなしき
一月二日
墓原を遠く見えたる秩父峯に吹雪すらしもたちまち曇る
東村山へゆく
しろがねの雪のみねみねまなかひにもとほりをればこひしきひとも
かうべ垂れわが行く道に日の丸の旗かざしたりここは家群
さみだれはこの枯芝にふりにしか丘ゆきてわがひとり思へば
山の上にはだらはだらに雪ふりていまも降るらしわれに向かひて
幾重山起伏すきはみ雲光りうれひのごとく漂ひたるも
峽路のこごり赤埴はららはららくだけてゆくもわが足ごとに
ひと来(け)ねばこの丘のへに手をとりぬをとめの子ろはわが故に死なむ
少年のこころとなりて一月の冷き水に向ひゐにける
鳥鳴けば雪降ればちちはは思へばかなしといまも思ふこころか
をとめ子の長引眉のいつまでかありもへぬべき生命なるかも
もろともに遠天の雲仰ぎゐぬここだく鳥は啼きつつ墜ちぬ
かもじもの水禽群れて雪もよふ空のもとにもたのしくゐたる
はるけくもわぎへの方に弟妹らめしはむも[思]へばなみだながれつ
[※ここまで初版の欠落個所 終]
ひととほくはなれてくればこほしかもいさかふものとにんげんを知れど
桑の秀は天に向ひて竝みゐたりうすぐろく雲押しわたるとき
にんげんら桑つくりゐる畑丘に元日のひるはうごきゐるかも
いたいたしくひとを思へば北國の上野(かうづけ)のくにに雲晴れわたる
ひるすぎのらぢお琴彈きなげかへるをとめのこゑにわれ死にぬべし
の山にわが身ちかづく柑子など子らのかじれる街道たどり
もろともに死なむと抱きいざなへばさびしく笑みていなみし子ろは
あからひく晝をこほれる山蔭の田の刈株に鳥おつる見ゆ
一月三日 坪井明のFRAU孕みしといふ
カアネーシヨンやスイートピーが花屋に咲いてゐる
大変明るい店だ
誰にとも無しに買つて見たい
僕の愛情を賣るために
一月四日
畏怖
熱帯林に夜吼える虎の爛々たる眼より
荒磯の尖り立ちたる岩の上に腐れてゐたる骸より
畏怖しきものいま來たり
祭りの夜の灯のもてる明るさと
夜咲く花のそこはかとなき艶やかさもち
畏怖しきものいま來れり
北方の大星達の墜つる時 大空の毛布(けぬの)の如く巻き去られ
無花果のごと 人々の黒み疫(えや)みて死ぬる時
その時よりも畏怖しきときは來れり
バビロンの権威(ちから)尚(たふと)き帝王の一言もちて人民(くにたみ)ら頭を刎ねむ
並びたる臣の奴のいづれをか死の座に据えむと睨(ね)めまはす
黄金の王笏もてる手の荒べる淫慾(たはれごこち)ゆゑふるひたるさへ畏怖しく
いまかわれかと待ちゐたるその畏怖よりなほ強き
畏怖は來たり
希臘(ヘレネス)の女神達 浮気ごころのけふやさしく白き腕(かひな)に抱きしめ
明日は黄泉(とこよ)に放つとふその惨酷(むごさ)より 尚強き畏怖は來れり
白癩の疫病の如くふるるともなきに いつとてか眼に見えず忍びより
屍斑のごとくわが肌膚にその跡つけて
畏怖しきものいま來れり
畏怖
父になるかも知れぬとの畏怖が太郎をふるへ上らした
母になるかも知れぬとの畏怖が花子をふるへ上らした
かりそめのたはむれゆゑと太郎は呟く
かりそめのたはむれゆゑと花子は怨む
おれの血がおまへに生きる
あなたの血がわたしに生きる
二十なのに おれは子をもつ
十六でわたしは子を産む
世間は何といふだらう
世間はひどく責めるでせう
かりそめのたはむれゆゑに
かりそめのたはむれゆゑに
おれの父たちもさうだつた
わたしの母たちもさうだつた
父たちが責めよう
母たちが責めよう
その父になるかも知れぬとの畏怖が太郎をふるへ上らした
その母になるかも知れぬとの畏怖が花子をふるへ上らした
一月五日
一月 屍灰は空をおほひ
壊血に似たものが行人の衣を染める
噴泉に渇してゐる虫達が溺れ 理性は悉く混乱を極めた
★
月の中から墜ちて来た練金術士──街の煙管(パイプ)が秘密をうらぎる
義務の観念に俺は乳鉢を割る 懸声をして
一度びの放蕩に俺の大地はめいつて了つた
★
毒酒は俺の身を浸す 焼けつく疼痛が臓腑でする
俺の吐瀉物は菊の花のやうに凝る
見る見る地獄はまぢかに来る
劔鬪のひびき 殺害のこゑ 俺の神經はまだ効くのか
悪魔め 毒盃を地にすてろ アネモネより紅い花が咲かう
女は呵々笑つてゐる 畜生 賣つたな 鐚[びた]銭で
青の浮いた面が見たや 臓腑を喉から俺は吐く
一月七日
わたしを軸として日が傾けば月が騰つて来た
灰より細いわたしの情緒に加はるゆふがた
また邪鬼(まがつみ)の時刻(とき)が来た [口+阿 口+約 ああ]。
わたしの犯気はとめどない 面[巾+白](かつぎ)をはらふ風が吹き ※
★
飾紐(リュバン)の花は亡びた
理性の縄でくくしつけた獸達がわめく
灰色の悪虐の並木道
飾紐の花は亡びた
★
一月九日
情は痴なり
他は冷なり
★
ああいふ時に泣きごゑを立てたあなたの
不信を僕は責めませう
僕は患者です 藝語いひです
僕はあなたを苛めてあなたへの愛を表現した
馬鹿な母がゐてその場にとび入り
あなたと僕の遊戯は破れました
あなたの不信のすすり泣きゆゑに
★
どんな叱責にも僕は耐えよう
あなたと僕の間さへ旨くゆくなら
だけどその自由を奪ふどんな者にも
僕は凡ゆる譏誚をつくしてやる
ああ あの額に醜い皺のある年老つた女め
あいつが君の母親でさへなければ
僕はあいつの存在を否定したい位だ
★
あなたが医者の妻になり
あなたのYungfrauhantchen[処女膜]が査檢される
ふふんだ 大わらひだ
恥しらずめ 大方金ぶちの眼鏡でもかけて
まだお若いのに口髭の濃い奴だらう
あなたよりおつ母さんが気にいつたと
寢物語におつ母さんに云ふだらう
★
空にヴヱエヌスの星がゐる
今夜も大抵お天気だ
空に娘と母がゐる
また縁談の話か
いつになつたら娘が口説きおとされる
ヴヱエヌスの星よ
おまへがゐるのでわたしはおつ母さんの云ふことがきけぬ
わたしの窓から一刻も早くどいとくれ
はいはい畏まりました
淋しい彼奴の床でも照らしましよ
★不信
柿の樹の虚(むな)しき枝に飛うつり千 雀ももの云はずけり
花咲かむ春來む期をはろばろときみに語りしをいまかわすれし
言こわききみが母刀自[おもとじ]いまもかもこの恋止めときみくどくかも
★
夕霧は澤から立ち昇つて
冷くこの寺院の梢にまとふ ※
わたしはおまへを思つてゐる
あの楽しかつた日のことごとを
恋愛のどの瞬間もが
一の試練の時に外ならないことを
知らずにゐたわたしは馬鹿だつた
ひとは額からたらたらと
油汗をながして成就の門をくぐるのだ
ああ 楽しかつた日々よ
愚かにくらし得た日々よ
★
いまは神や佛をもたのまう
冒涜の罪を犯したわたしにも
神や佛はたしかに
君の母よりは親切なはづだから
ああ人間の母は
額の皺とともに何と醜いことか
十二日
Yより愛の証とき来れり。この日頃安眠を得ざりき。父へ打ち明けむことを決心す。
十三日
北園氏よりマダム・ブランシユの同人たらんことを求め來る
十五日 肥下と銀座へ
岡田安之助邸を訪ふ 異郷の愁情泪ぐまし
帰来 父へ手紙を書く
★高円寺
空に紅き満月出でしかば蛇屋の蛇も冬眠(ねむり)ひそめる
みちばたの青面金剛に燈ともりぬ凍てつきし路に灯影うつして
★
雲が北から南へ動いてゐる
雲間で竪琴がきこえる
退屈なミユーズに退屈する
★
遊んでゐる雲の下で
鳥が一羽迷つてゐた
大へん努力して羽搏いて
竪琴が聞える
★
雲から絲が垂れ下つて
鳥はそこにくくしつけられてゐた
地面は堅く凍てついて
鳥が墜ちると怪我するから
十九日
昨日は校了。共産党記事解禁。大阪では渡辺[古+心 ※名前]が起訴されてゐる。
雪の花片をまきちらすミユーズたち
彼女等の裳は実に白い
彼女等のバスケツトから青いリボンが見えてゐる
★
嘆きいる海の人魚
アネモネを散らす風
月に魚達は懐胎する
★
ひとびとは豚を追ふやうに棍棒を以てヘルクレス達を逐ひ拂つた。
噴泉をもつた庭園に火の子がぱちぱち落ちてゐる。格子にかヽる爵牀(アカンサス)のしげみ。ひとびとは
いつも棍棒をもつてゐねばならぬ。死人の面にはラツクをぬれよ。
一月二十日 コギト10号出来
ゆふ方の忙しいくれいろに、電車は車輪の下に火花を散らして轣轆と構内に入つて来た。わたしの心臓がいくつもその前面に飛びこむで死ぬ。夕方のいそがしい時に。
★
ひとは散歩にふさはしい洋杖をつき、散歩にふさはしい女をつれてゐる。わたしは鬚ののびた面を垂れて埃色の外套をきてゐる。ひとはわたしにつきあたつてすなほにわびてゆく。ああ、そのすなほさの矯慢よ。
一月二十日
こひ歌
[※ 中国の動植物の名前が列挙]
雪ふる原にまよふ鳥われのこころは様ゆゑまよふ
あはでこがるるみのやるせなや南天の実の朱ほどこがれ
思ひ切る身にあらねばこの山寺に鐘もつかぬに日のくれる
誰そや恋ゆゑ身をほろぼすと ほろぼすこひもして見たや
くるかくるかと様待ちかねて雪の野原をたれが來よ
けさの雪原ひとさへゆかず足跡(あと)はわがみのあとばかり
雪野ながるる小河の藍のなんとあらはれたわがおもひ
雪の降る夜は傘はなもちそひとのなさけのあはゆきにぬれてゆきやれ
(仙藏院閑吟集)
★
大砲だ 攻城砲だ
堅塞にたてこもる憎らしい奴らだ
★
肥下はけふ妹のことをふとも云つた。僕は思ひ出す、むかしのことを。
★
凍てついた心臓にあの矢がささる
雪の中に咲く雪割草
たちまち四辺は紫色にかほるのです
★
誰も死の旨い奴などゐはしない。僕の詩も旨くない。
一月二十六日 マダム・ブランシユの会
北園克衞、阪本越郎 、知らないひとびと、知らないお嬢さんたち。
夜ふけ時計は捻釦(ねじ)をまいてゐる
僕の思念はまだはなれぬ
畏ろしいひと達の集りに
僕は活然と身をおこす 僕の体にたれかヾのしかヽつてゐる
──僕の影かも知れない
星の光が一体どの節穴から入りこむのだらう
★ソアレエ
スヰートピーや櫻草や飾窓は大へん綺らびやかだ
花屋の店では呼吸するものを飾る
わたしは本をかヽへてゐる パンの苦労は止さう
搾りとられるわたしの思惟よ
こん夜だけは休らかにおやすみ
遠い風の音 電車のひヾき
★
僕は天井裏に凍つてゐる鼠の死骸を畏れる
僕によく似たあの眼たちはもうとつくに溶け去つて了つた
ガラスの義眼(いれめ)をかれらに箝めよう
大層それは息ぐるしい
★
彼等は豚を屠つてゐる
間断ない叫びごゑと地を搏つ音
その塀外で僕は排尿する
僕たちもあれを食つてゐるのだ──
★
リラの花賣りは白い建物のかげに待ち伏せしてゐた
風の吹く街角で(急に風が来るところで)
リラの花をなびかせてゐた
わたしは佛蘭西語の辞引の紅い華を好んでゐる
リラの花賣は美しい お世辞もいひたくなる位
たヾ わたしの瞳をみつめて畏れない リラの花の匂りよ
★
雨だれのあひまに淫虐の帝をかぞへる
わたしたちと生活と
酒池肉林をわたしたちは恐れる
わたしたちの生活のために
雨だれはとぎれない
★
灰の様に雪が梢からおちる
花咲く春のしるしに
花咲く木々の梢から
さう 屍灰の後から宝石が出る
一月二十五日のきのふはYと二週間以上ぶりに会つた。
お菓子のやうなくちびる。花のやうな女の子。
愛する。愛する。愛する。
一月二十八日 コギト 相野
一月二十九日 Yと多摩川へ
枯草に舞ふ翼の族
遠い對岸は冬の霞
白い磧の寒々とした悪意
★
奴等は砂利を掘り上げてゐた
奴等は俺と俺の少女を侮辱した
奴等の頬はむさくるしい
奴等の脳味噌は固陋である
奴等に俺と俺の少女は脅へる
★
少女の髪をふく風は草の葉をも靡かし
ふたりのひそひそ話に鳥の歌がまじる
陽は松の間にかげり ふたりは蔭にゐる
蜘蛛におびへる少女をしみじみとかい抱き
この時の流れるにひそやかな恥辱を感じてゐた
★
多摩川にさらす手作りさらさらに何ぞこの子のここだかなしき
★
黄金の髪 黄金の陽
烏羽玉の髪 黒耀石の瞳
一月三十一日 Yより手紙。 のおとうつし。
二月四日 身神困憊
ああ 融通の利く奴が世界に充満し
知りもしないことについて得々と喋舌り
他人の間違つた知識を受け賣りし
猥[みだ]りに自らを高しとして
それ同志語りあひ 意気投合して
腹の中でもう悪口を云ひはじめ
下駄の音が消えると内では雜言する
藝術の 知性のとガキめらが吐く
青髭をそりたての男が 女の子だのと花だのと
煙草の脂くさい口からほざく
昨日三色旗をつけてゐた奴が
今日はもう黒襯衣[シャツ]党で
まごまごして挨拶に困るこちとらを
投獄しようとひしめく 何の サアベルが
砲台の口は百軒長屋に向けられ
ドロアースの両口はブルジヨアに向けられ
継ぎのあたつた襯衣の中で「権威」がふるへ
北風も法権も大建築の前で向きをかへる
融通が利かぬ奴はやせこけ青い顔をして
お腹でも痛むかと聞かれる その筈
奴等は生理的以外の悩はもたぬのだ
仁丹以外の薬に何の信用がおけよう
背廣もネクタイも体中広告といふ奴が
大道を悠然と濶歩する
早く行きすぎれば広告の意味をなさぬ
舞台裏では出代りがまだ扮装もしてゐない
まはし一つで出ようとさわぐ
頭取が芝居に出る 支配人が口上云ふ
なんせ大したお芝居だ
前足の仕事を後足がふみ消す
心臓の熱気は遣尿できえる
さうしたもんさ ガキめらひつこめ
金田一氏と愛奴[アイヌ]
北方の夷の國人よ すりきれた生命の草鞋よ
おまへ 縄紋の衣を着て 永遠の太陽を享け
白堊の殿堂に悪魔の使の如くやつて来た
おまへの唇辺の黥墨に俺は羞恥を感じる
おまへの白い髭に俺は恐怖を知る ※
銅色の光線がおまへの周囲にとヾまつて
おまへは凝視の波の中を泳ぐ 夷狄よ
夷狄よ
★
傷いた鹿は心臓のあたりから血を流して
泉のほとりまでくるとおづおづ四辺を見廻はした
片栗の薄紫の花のあたりに彼は口をつけて
音もたてずに水をのむとがくりとつんのめつた
ふくろ角を藺草[いぐさ]の芽のやうに水から出して
彼はもう身うごきもしない 滴る血は地面をつたつて
泉の方へ滲んでゆく 泉と 泉に浸つてゐる鹿の頭を
赤くそめるのももう直ぐだ 梢では鹿の皮の斑紋のやうに
陽が照り昃[かげ]りしてゐる 春だ
[※ 最終ページから反対に、4ページにわたってハイネの伝記記述。]
(第8巻終り)