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田中克己日記 1969


【昭和44年】

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 ベトナム戦争が続く中、アポロ11号が月面着陸を果たした1969年。
 日本では沖縄返還が決定し、アメリカ発祥のフォークソングブームの洗礼を浴びた若者世代は、大学紛争の只中でもがいてをりました。

 一月の東大安田講堂における攻防戦の実況中継が有名ですが、学生運動は各大学に燃え移り、成城大学でも6月に学長に談判を求めての学生集会、そして11月には全学部のストライキにまで発展してゐます。

 当局と学生との間に位置する教員には様々な対応があったやうです。田中ゼミは平常運転を心がけ、民族の歴史を究めんとする外国人の教へ子にも、 懇切丁寧かつ厳しく指導に当ってゐる様子が日記から窺はれます。

 文芸界では、四季派に関して言ふなら、加藤周一の『羊の歌(岩波新書)』が広く読まれます。日本を代表するインテリ文化人ですが、マチネ・ポエティクの一人としてかつては詩も書いてをり、尊敬する堀辰雄の弟子だった立原道造・野村英夫の二人への対照的な評言は、四季派に対する複雑な思ひを感じさせます。田中克己がこれを読んで「反駁の文かきたく(7月4日)」なったのは、どの部分だったでしょう。

 岩波書店が代表するやうなリベラル教養的な史観が社会に浸透する一方で、サブカルチャーに賛同を示す学生運動はまた、フォークソングだけでなくマンガや演劇、任侠映画と並んで日本浪曼派に対する再考の気運をも、戦後生まれの若者らに促しました。

 三島由紀夫の華々しい活躍はもとより、往年の総帥と目されてゐた保田與重郎も、学術誌である『国文学:解釈と鑑賞』に「回想日本浪曼派」を連載。大学時代に学生演説を聞いてゐて拘引された田中克己のことも書かれてをり、単行本『日本浪曼派の時代』に収録されてゐます。

 ベトナム戦争に対する批判が巻き起こってゐた当時、親米体質の与党政治家たちとは異なる保守系の論陣から、影山正治の『日本民族派の運動』や『大東亜戦争肯定論(林房雄)』が放たれたのもこの年のことでした。10月25日に行はれた蓮田善明の25回忌には田中克己も出席しましたが、発言が場を白けさせたのは、もはや浪曼派の闘士とは距離を置いたところに立つ自分に思ひを致すことになったかもしれません。

 昨年秋に刊行された中央公論社の『日本の詩歌』第24巻(丸山薫・田中冬二・立原道造・田中克己・蔵原伸二郎)は好評で、上品な藤色で表紙や函が装釘された叢書は刷を重ねました。のちに文庫にもなり、累計10万部近く刊行されたとのことで、現在でも古本でよく目にすることができます。

 同じ藤色の文字で本文下に印刷された鑑賞コメント。これを書いてくれた阪本越郎が6月10日突然に亡くなり、詩人はたいへんなショックを受けます。一年前の対談の席で、機嫌を直して『四季』に戻り一緒にまたやらうと言ってくれた恩人の急逝でした。

 同書の巻末の解題は大岡信が書いてゐます。「田中克己」論として新刊『現代詩人論(角川選書)』にも収められましたが、対象となった23人のうち14人が昭和戦前期の詩人。すでに発表されてゐた「保田與重郎ノート(『超現実と抒情:昭和十年代の詩精神』に所収)」と共に、戦後世代から存命の旧世代“現代詩人”に対し提起されたハイブロウな評論として話題を呼びました。
 抒情派からは三好達治・丸山薫・立原道造・田中克己の4名が選ばれてゐます。田中克己については昭和初年代の時代相に踏み込んだ考察がなされてをり、詩人もこちらには好感を抱いたやうで「また会ひたい」と著者にハガキを書いてゐます。

 ただ、阪本越郎や小山正孝の説得、そして阪本越郎の追悼会では潮流社の八木憲爾とも同席したのですが、詩人は『四季』に戻ることはありませんでした。

 躁鬱がベースの精神的不調は、過去の病状を(38年)日記の中で振り返ることができるほど寛解したやうにみえます。しかし癇性は直らず、小山正孝らと李白・杜甫を分け合って訳出した平凡社の一大叢書『中国古典文学大系:唐代詩集 上』の新聞広告をみて、自分の名前だけがないことに激怒。 取締役まで謝罪に訪れる騒ぎに発展してゐます。

 前年解説にも書きましたが、この年には『日本の詩歌』に続いて、「田中克己」を単独で立項した角川書店の『現代詩鑑賞講座(第10巻・現代の抒情)』が刊行され、東洋史学者としてではなく日本近代詩の掉尾を飾る抒情詩人の一人として詩人の名が認知される年になりました。

 その解説を書いたのは、戦後の在阪時代に最も親しかった後進の詩人福地邦樹でした。氏が選んだ亡き愛児を歌った「哀歌」を読んで、 詩人は慟哭します。
 教育者として生き甲斐や社会的ステータスを得、文学者としても数々の著書にめぐまれ、家庭にあっては孫たちの成長を夫婦して目を細める生活が今後も約束された現在、報われることの薄かった来し方の半生を自作詩によって振り返るとき、一人不在の次男のことが無性に悲しく思ひ出されたのではないでしょうか。

 「この連作の詩篇にくどくどしい説明は不要であろう。詩は本来、説明を必要としないものではなかろうか。そういう本質的なポエジーの世界をこの 田中克己の「哀歌」は厳然と示しているといえるであろう。」(福地邦樹)

この年の出来事を記します。

【1969年】
1月18日 東大安田講堂のテレビ中継を観る。
2月4日 平凡社の新聞広告に激怒。
2月6日 『現代の抒情』受取り、「哀歌(※『悲歌』所載)」に号泣。
3月17日 『現代詩人論』寄贈、大岡信へ葉書。
3月21日 松本善海を病気見舞。
3月30日 大東塾創立30周年記念祭に寄附。
4月1日 肥下恒夫未亡人、養女と共に上京、一泊。
4月11日 長年にわたって詩作を慫慂された村上新太郎死去。
4月15日 保田與重郎「回想日本浪曼派(『解釈と鑑賞』連載)」の自分の記事を読む。
4月25日 肥下恒夫養女里子氏上京、三泊して帰る。
5月31日 影山正治『日本民族派の運動』寄贈、弟西島大について批判記事を読む。
6月11日 小山正孝より阪本越郎の訃報を受け、通夜におもむく。
6月26日 臨時学生大会。学長と対立。
7月4日 加藤周一『羊の歌』を読む。
7月7日 長男岳父、松浦薫が坂出市長に選出。
7月15日 同僚、富永次郎逝去。
7月21日 アポロ11号月面着陸のテレビ中継を観る。
8月15日 平凡社『唐代詩集 上』受取り。
8月27日 京都での帝塚山学院同窓会に出席。
9月18日 阪本越郎追悼会が高輪プリンスホテルで多くの詩壇関係者を集めて行はれる。
10月25日 荻窪にて蓮田善明25回忌。散会時の発言にて座を白けさす。
10月29日 臨時学生総会。翌日臨時教授会。成城大学、ストに入る。
11月6日 成城大学のスト、短大以外の全学部に。
11月18日 教授会紛糾。学生大挙して経緯報告を要求。
11月22日 佐藤総理、アメリカより沖縄返還を確約される。
11月27日 「授業妨害は処罰」と決まり、29日スト解除。
12月5日 長女依子氏、胆嚢手術のため入院。11日、次女三女が輸血に名古屋までおもむく。
12月21日 次女弓子氏の縁談まとまる。

昭和44年 1月 1日〜昭和44年5月31日
25.3cm×17.7cm 横掛ノートに横書き



1月1日
速達にて松本紀久子といふよりお歳暮、考へれば善海夫人なり。賀状341枚。史、美紀子、雅子来る。夜、電話して松本夫人に礼いふ。

1月2日
けふも晴。賀状30枚あまり書き投函。午后林叔父叔母と大と来る。「李白」ちょっとやる。鬱なり。

1月3日
快晴。京、出勤。弓子遊びに出る。賀状64枚。みな歳末または元日のものなり。
午后、母来り、飯炊きてもってゆく。本屋にて『十二支物語(580)』買ふ。美濃隆子、子をつれ鯣(※するめ)もち来る。『果樹園155』来る。

1月4日
弓子、晴着をきてゆく。9:30東洋学術協会に1,000送り、佐伯にゆき『ハイネ新詩集(70)』買ふ。賀状17枚。
けふは来客なし。「李白」少しづつやりをり。

1月5日(日)
礼拝にゆかず。〒もなく終日無為。

1月6日
賀状60枚余。午後柏井歯科へゆく。母来会はす。「(※入歯は)はずさざるが宜し」と也。
夕方、太田(※太田常蔵:帝大東洋史学科同期)未亡人より「19日14:00一周忌」と。「級友にしらす」といふ。
17:00岡部に電話すれば留守。内村は「出る」といひ、丹波(※丹波鴻一郎)とは「13:30三鷹駅南口にて」となる。
畑山博氏より電話あり、やむなく「あさって19:00ゆく」といふ。
(西川(※西川英夫)より「かはりなきや」。平凡社渡辺春輔氏より「明日午后来る」と。)

1月7日
9:00出て斎藤先生。「渡米お大事に」と申上ぐ。帰り高円寺の古本市へゆき『斎藤茂吉の恋と歌(500)』また買ひ、福地君(※福地邦樹)にその旨いふ。
賀状26枚。渡辺春輔氏来り、本文477枚めと原文140枚めともちゆき「来週来る」と。
本田喜代治先生より「令孫成城の人文(?)学部受験」と。(※省略)
「李白」に疲れ、畑山博氏(※筆名畑山浩。芥川賞作家とは別人)に「けふ19:00訪ふ」と電話す。17:30出て(夕食すませ)王子に着きしに道わからず、
迷ひに迷ひて簡易裁判所のよこの畑山邸につき『詩集驟雨』見ればヨーロッパ旅行の詩よく、
「出版祝賀会に出る」といひ、夫人に弓子の写真と書類おきて出る。畑山氏、滝野川の都電駅まで送ってくれ、大塚をへて帰宅。

1月8日
よべおそくまで眠れず畑山氏のせいなり。電話かかり「発起人となれ」と。坊城教頭も電話口へ出る。(※省略)
松浦母上、電話かけて来られ年始のpresentさる。

1月9日
4:00さめしあと又眠り9:00近く起きる。『今週の日本』へ「17日までに詩承知」の速達しにゆく。
午食あと浅野dr.(※浅野建夫)にゆかんとせしも止め「李白」かく。賀状20通ほど来る。

1月10日
けふにて晴了りか。11:00決意して浅野建夫に原稿返却にゆく。「往診とロータリー」とて出てゆきしあと、夫人と話す。
「次男、恋人のpianistと結婚して福島」と。「長男、福島より帰り孫できた」と。(※省略)
本田喜代治先生にも電話「成城はむつかし」と申上ぐ。夜、依子に電話し「トボつれて来い」といふ。

1月11日
8:30さめ「李白」ちょっとやりて疲れて、午食のあと、荻窪の古本市へ往復歩き、
『太陽系とこよみ(30)』、『タイ王国(50)』、『南蛮記(300)』、『星座神話(500)』買ふ。(※省略)

1月12日(日)
5:00ごろさめ、つらくて礼拝にゆかず。ユ、雨の中を出てゆく。賀状の返事まだ来る。川久保より電話、太田の一周忌のこと、松本善海のこといふ。
夕方、澄より電話「skiiにゆく間、依子母子よこす」と。依子も出て「あす15:30〜16:00つく予定」と。

1月13日
いやいや10:40出て、すしやのぞけば売らず、成城にてpão買ひ、山田教授(※山田俊雄)に『南蛮記』のこと書込み見せれば「新村博士ならず」と。
東洋文化史やり大学院にゆけば、(※指導 省略) 池田生としるこ食ひて帰る。(※学生消息 省略)
泰、何事にも反対いふやうになりし。『軍事史学』への執筆依頼、阿南氏より来りしも「多忙」とことはる。
夜、小武守生より電話「16日坂、山野井と別々に来る」こととなる。

1月14日
10:30出て定期1ヶ月(2,030)買ひ、斎藤病院。先生11日渡米なれど、こみをり薬とり、すし新宿にて買って登校。野田宇太郎氏に会ふ。
14:00教授会までstoveに当り、(※省略) 永々と16:30までつづき、つまらず帰り来る。(※省略)
ユ「依子、泰つれ天沼へゆきし」と。(※省略) 平凡社渡辺氏より電話「土曜に来たまへ」といふ。
畑山氏より電話「案内状ついたか」「つかず」と也。

1月15日(休)
よべ眠れず。(※省略) 〒『驟雨』出版祝賀会のみ。(※省略) 依子、泰、弓子、天沼の母とさそひ合ひ、美紀子の赤ん坊見にと出てゆく。
東大共斗会議に労働者加はりdemoせしもけふは機動隊入らず。
年賀郵便しらべ5等(※庄野潤三、田中冬二、西垣脩ほか14名)の諸氏よりの当りをり。

1月16日
よべ書きし「夜の祈り」を『今週の日本』社、元淵満雄氏に京をして速達せしむ。「李白」ちょっとやりしも江陵まで也。(※省略)
14:00依子映画見にゆきしあと小武守、山野井2生来り、小武守生全然卒論の内容いへず、夕方になって帰りゆく。山野井生「21日再来」と。
京「skiiに霧ヶ峰へ」と出てゆく。

1月17日
よべも殆ど眠りし感なく、10:00の東洋史にゆきnote提出をいへば5人ほど出し皆出来てをらず。(※省略)
出て斎藤病院へ12:00少し前につき鈴木dr.に眠薬追加4日分もらふ(400)。帰りて中国文学史了りとし「魯迅しかなければよめ」といふ。
3生の卒論返りをり、これをもちて帰宅。全田叔母より「来てくれ」とハガキ。羽田博士(※羽田明)より「令妹逝去」と。

1月18日
よべよく眠りしも東大にて戦斗ありteleviの前をはなれず。夕方、安田講堂をのこして停戦。お茶の水方面にても市街戦あり。
『大世界史』来る。澄より電話あり、夜、思ひ出して丹波に電話、お花代のこといひ「三鷹へゆく」と約束す。(※省略)内田夫人に「3人ゆく」とい ふ。
(午后入厠中、平凡社の渡辺氏来り「訳しのこしあり。注なし一つ」と指摘され、あやまって書くこととす。我老衰矣!)

1月19日(日)
聖餐式とて礼拝にゆき一旦帰宅。飯くひ2千円の御花料用意し三鷹につけば13:05。
古本屋見、まつ内、丹波君令息の車にて来り、地図見せしも甲 州街道に出、bus通る道とて車すてれば深大寺町。探し探しし、地主さんに訊ねてわかる。(※太田常蔵一周忌)
内村君既に来をり、旧同僚など4人と嬢息2人とにて、戦後の出家の僧?に長々と読経され閉口す。やがてすし来り、手造りの御馳走ならぶ。
われ食はず茶のみ、拝りて奥さん泣かす。内村君雄弁なり、東大(※安田講堂事件)のこといふ。丹波君と3人出て2人境までtaxiひろひ(290)、荻窪にて別る。
ユ「スマトラ記」に賛成せず。止めんか。

1月20日
よべ京、友と帰り来りしと知らず、朝ヱハガキ呉る。新聞見れば「東大入試したし」と。安田講堂の荒廃を映すがteleviなり。
(加藤学長代理「死人が出ても云々」といひしことはじめて知る)。入試中止ときまり「影山氏の弟子、神道復活で(※日本遺族会会長に)乱暴せしとteleviに出し」とユ。
われ東洋文化史20分やり『太平記』下の四条畷すませ荒本生としるこ食ひ、家へつれ帰りwhiskyのませ21:30まで話す。くたくたに疲る。
(「けふ依子・泰帰りし」と。)

1月21日
10:30出て斎藤病院。若き先生に薬もらひ雨の中を帰る。
昼食して散髪し帰宅すれば坂・山本2生あり、面接のこといひ、小武守生の来しを機に2生帰りしあと18:00まで予習す。(※省略)。

1月22日
9:30出勤かと思ひてゆきしに10:00なりし。12:05すみ、ちらし食ひ、午后考古学2人東洋文化史4人すむ。あとわがよみしは1人のみ。
すみてあす日本史に悪き2人予め見せられ、東洋文化史4人に安心す。成城堂にて払ひ150。『出エジプト記(100)』買ひ、(※省略)
帰れば全田叔母より「会ひたし」と。平凡社渡辺春輔氏より「原稿つづかず」と。(※省略)

1月23日
けふは10:00出勤。うなぎ食ひ、誤字訂正につとむ。16:30すみ、小田急dept.の「平城宮展」にゆかんとせしも止めて帰る。(※省略)
けふ学校にて池田温氏に遭ひユネスコ東ア部文化研究センターの『台湾香港アジア学者名簿』もらふ。全学連の騒ぎ京大に移りし。

1月24日
10:00ゆきて面接、午までにすみ、採点合議。わがsemi山野井生「優」(※省略) より電話「16:00研究室へゆきし。note呈出期限しらず」と。叱って「note送れ65点やる」といふ。
(※省略) けふ帰途「平城宮展」を見、280の案内買ふ。

1月25日
起きしとき雨ふりしも止み、ユpermaに出てゆく。(※省略) 15:00まへ二人して出、霞ヶ関下車。
霞ヶ関ビル34階の『驟雨(※畑山浩詩集)』出版祝賀会にゆけば(※職場の高校関係者)200人以上の大勢にて立食。
田中喜一郎元日比谷高校長の 祝辞のあと、草野心平の乾盃のあと、
山本和夫夫妻と話し27才となりし大野トモ子に遭ひて、うれしきはこれのみ也し。早く席を立ち帰りて夕食。日記よみ返す。
(※省略) 21:00畑山氏より礼の電話。声かれをり。

1月26日(日)
7:00さめしも礼拝にゆかず。(※省略) ユ16:00まで帰らず。帰りしと母対策を話す。弓子も同座。
宮崎智慧さんより電話、来て癌ノイローゼの話す。『花影』再刊。「ユに歌作れ」と也。

1月27日
よべ眠れず。honey-wine3盃のみしが為ならん。喘いで東洋文化史の試験監督す。(※省略)
けふ池田大学院科長、大藤・新城2教授、文部省へ「常民(※日本常民文化専攻)」の説明にゆくと也。
成城堂で『ヒトーパデーシャ(150)』買ふ。ユ、午すぎ来しタカ子に小遣ひ5千円を托せしも大宅、空と。(※省略)

1月28日
10:30出て斎藤dr.。代診の先生に申上ぐれば「酒のめばきかず」と。はじめてのこと也。新宿にて月見そば食ひ(120)、14:00成城へゆき、
堀川、大藤らの諸教授に土田宜子のこといふ。(※省略) 教授会つまらず、すみて教授の会。「たてわり、せよ」といへば「むつかし」と逃げらる。
(けさ角川の鈴木君に電話し「寄贈1冊」とのことに「合計1冊を」といふ)。夜noteを検査し1E橋本由美子をほめて専攻をきけば文化史と。

1月29日
7:00さめ9:00出て『果樹園』へ「スマトラ記」と2,500送る(130)。4年半数来をり訂正の指導す。(※省略)
橋本由美子noteとりに来し故95点といふ。眼鏡かけをり。13:00出て帰宅。福地君より「ハガキ見た」と。吉森夫妻のChristmas-card。
『今週の日本』1.27号来る。タカ子にユ電話すれば「母5千円受取り、すぐき呉れし」と。

1月30日
雨。寒し。10:00登校。小武守生の結論了りしを見て帰宅。『今週の日本』より(12,000−1,200)。
夜、豊田母子より「卒論通過」と。「祝す」といふ。

1月31日
寒く雨。眩暈するとて「成城の試験監督休む」とユにかけさせ、(※省略)
平凡社渡辺氏より電話「出来ず。欠送った」といひ、あとにて「机の上にあり」とあやまる。花井タヅ子夫人に「写真返せ、写真返す」といふ。
(※省略) 午まへ母来り、われにかまはずユに怨みを云はんとするに、われ出てゆけば棄てぜりふして帰りゆく。
ユ、曰く「千草さんと仲戻すつもり」と也。televiの「十代の幸福」に西島千枝子眼鏡かけて出てをり。「李白」よみ、またクタクタとなる。

2月1日
6:00さめ7:00起く。千川稚泉より「定年」と句集送り来る。佐伯にゆき吉田光邦『錬金術(70)』買ひ来る。千川へ礼状。
青木母より賀状代りに「パリー滞在記」。

2月2日(日)
朝寝坊し夫婦とも礼拝にゆかず。小高根二郎君より受取「堀之内歴未亡人より夫君宛の伊東のハガキ見つかった」と。外出せず。

2月3日
斎藤dr.へゆけば女dr.「中にしませう」と。佐伯によりしも何もなし。山野井生来る。(※省略) 夜、賀代嫗より電話「売買について証言を弁護士に」と。

2月4日
晴。朝刊見しに平凡社『唐代詩集 上』小野忍・小山正孝他編訳と見ゆ。9:30平凡社に電話し、2人に「原稿返せ」といひしも埒あかず。
午后4人来り、あやまりしもきかず。
ユ、経夫(※統夫)の弁護士に会ひにゆきし「留守」のこと也。17:00ユ帰り来り、弁護士たのもし。文子側の弁護士と文子怪しと美紗子いふ」 と。

2月5日
9:30平凡社に電話すれば「渡辺春輔氏ゆきし」と。10:00すぎ来られ、いろいろ話し「李白」とりやめときまる。
「原稿返さずば会社あてに交渉す」といふ。タバコ買ひに出、ユ登記所へと出てゆく。
角川の鈴木君に電話すれば「不在」、14:30過ぎてかかり「月曜送らせし」と。
(※平凡社の件につき意見聞けば)「新聞広告より先に著者に見するが礼儀なり」といふ。
澄より夕方電話「近々来る」と也。(※省略)

2月6日
寒し。ユ、三鷹へ弓子の縁談たのみに吊書もちゆく。『現代の抒情』5冊玄関におきあり。
今井翠母子来る。帰りをユ、送り出しあと「哀歌(※『悲歌』所載)」よみ返し声を立てて泣く。(15:00澄より電話「17:00のコダマに乗る」と)。
(※省略) 20:00すぎ澄来り、ユ帰り「母、大と合はず、家出を決意」と。(※省略)

2月7日
8:00起き、澄と話せしあと9:00出て成城。10:15よりの新城博士の日本史の監督し、
15:45まで東洋史のnote検すませ、中国文学史の試験監督すませ、17:00、2女生と出てしるこ食ひ帰宅。
萩原葉子氏より賀状の返事。大高同窓会より「2月20日総会」と。
澄と林より「大、結婚する」につけ母に出てくれ(※と言った)、とわかる。
けふ内村祐之氏の本(※『わが歩みし精神医学の道』か)、成城堂に注文し、(※同姓同名著者の)田中克己『遺伝相談』買ふ。
(「中国研究会の顧問となる」との印押す)。(※省略)

2月8日
寒し。ユ、母に電話かければ出ず。やがて林叔母より電話かかり「いま母来る」と。
竹中郁氏より『詩集そのほか』。(※省略) 平凡社渡辺氏来り「あす局長来る」と。「その要なし」といふ。
小武守、坂、山野井3生来り「預餞会」とてすし食はす。林叔母より「母来り、大阪へゆく」といひしと電話。
叔母のいひつけによりユに電話せしむれば「今夜、大に電話し、その結果にて大阪にゆく」と。

2月9日(日)
晴る。久しぶりに2人にて礼拝にゆく。(※省略) class会に出し美紀子より「史来しや」と。「来ず」といふ。(※省略)
西城−Gomez(※西城正三−Pedro Gomez)のboxing「西城判定勝」と。あやし。

2月10日
9:30出て斎藤dr.。アメリカより帰りてをられ、眠剤のみとさる。かへり白酒買ひ、午后(※授業指導 省略)
夕方散歩に出『文芸春秋3月号』買ひ来りよむ。(※授業指導 省略)

2月11日
9:00近くさめ、成城より「2.16臨時教授会」の通知速達。本田喜代治先生よりお孫さんの受験番号。美紀子より「来る」と。
赤川氏(※赤川草夫)に電話し『シライア語宗教問答』の製本取りのけにゆき、帰れば史夫妻4人来てをり、すしとりて食はす。
13:00すぎ(※卒論指導 省略) 赤川氏、仮製本したまひて持ち来り玉ふに『現代の抒情』お礼に進上す。(※省略)
夕方、弓子帰り来り、京、夜、志賀高原へskiiにゆく。

2月12日
眠り浅く7:00起く。散髪にゆく(この2日間暖し)。そのまへユ、母に電話すれば「大いまだ帰らず」と。『果樹園』来り『不二』来る。
午后、佐伯にゆき『平戸蘭館日記』たのむ。1,500にて4冊出ると。
ユ、買物に出しに、平凡社の友野重役(※友野代三)来りし故「原稿返せ」といふ。(「戦争中成城高校の教師にて堀川博士と同級」と。)
(※教会行事予定 省略)
罪多きわれとぞ思ふ安らかにねむれとのらす主にしたがはで。

2月13日
9:00出て成城へ4年生の成績呈出。成城堂にて『ベトナム民話』買ふ。(「内村祐之氏の本未着」と)。
帰らんとすれば自動車にて「先生」と李生(※李錦順)。家まで運転させ朝鮮関係の本貸す。そのあと散歩に出て『比較言語学(30)』、『イラク(10)』買ふ。
帰れば俊子姉来をり「婆さん(※継母)とのことまかせて」と。(※省略) 電話かけ来し吉田美智子生に「来い」といひ、
17:00すぎ迎へにゆき肉饅頭食はせて食物史の書き方を指導す。「帰り地下鉄東西線にのれ」といふ。

2月14日
8:00起く。星斌夫(※あやお)君より中道邦彦『清初靖南藩と台湾鄭氏との関係』贈らる。(※省略)
televi見をれば、池田生reportもち来り「漢」を草かんむりに書きをり。そこへ渡辺氏来り(※陳謝)、しばらくして去り玉ふ。雨降り来る。

2月15日
よべ23:30弓子帰りしを知らず。7:00起きて朝食後、また眠る。珍し。
古谷久里嫗より歌集『野の隅』贈られてよみゐれば「橋本学生部長夫人の母」と。成城に電話し、会議中の課長にところたしかめる。
ユ14:00まで散歩にゆき中央公論の騒動(※1968年末の労働組合闘争)のこと話す。「三枝女史、嶋中社長に殉ぜし」と。(※省略)
中央公論社より(572,160-64,432)の源泉徴収書。福地君より「校正ミス3ケ所(角川のに)ありし」と。

2月16日(日)
よべ雨なりしに7:00さむれば雪となりをり。
森田先生のお話ききに夫婦して吉祥寺教会。先生すこし老け玉ひし。ご挨拶して吉祥寺にて麺(130)食ひ、登校。
新城・大藤2教授と同行。13:00より文藝学部の教授会。
2月1日逮捕されし元学生(「すりかえ試験にて退学となりし」と)の件にて学長と会見求めしに、その回避の為の会とわかりしのち18:00すぎまで延々とつづく。
すみて雪の中帰れば20:00近し。〒なかりしと。
驢馬にのり五日目につく十字架を知りて来ませしわが主イエスは。

2月17日
斎藤dr.に会ひ、教授会での中立申上げ「よろし」といはる。帰り佐伯にて『文芸春秋2月号』買いひ来りよむ。(※省略)
賀代嫗より「裁判にて家の売渡し認められし云々」。

2月18日
よべ睡眠剤なきも雨降りゐしを知らず。〒なし。電話もなく、弓子の『小学館世界原色百科事典』をアからウまでよみ疲る。(※省略)
入浴中、小山正孝氏より電話「門閉りをり」と。来りしに「村中測太郎君、この間死んだ」と。「(※平凡社の仕事)今まで出来たところにて止める」 といふ。

2月19日
雨。太田常蔵未亡人より電話「来る」と。『大世界史』来り、太田夫人迎へにゆく。「1.5坪不法にとられた」と也。
家へつれかへりユに生を説かす。14:00帰る。(※教へ子結婚 省略)

2月20日
雨。聖心女子大68年度東洋史専攻生より「3月6日会す」と。「欠席、原田先生によろしく」とかく。渡辺さんより「来る」と。そのまへ田中久子来り、柿崎生待つ。
渡辺さん『百科事典』(※お詫びに)もって来しゆゑ(※貰はず)借用証かく。
他に『ドーソン蒙古史U』とサントリーwhisky2本賜はる。李白(※原稿)59才半ばまで渡し「これより校正見る」といふ。
(帰りがけ、ユに「あとやりくれ」といひし由)。二生、菓子おき夕食して19:00去る。

2月21日
寒し。傘もちて9:30登校。成城堂にて羽田明『西域』買ふ。内村祐之氏の本まだ来ず、教務国文にて大学院審査の場所問へどわからず、
野口助教授来り、「常民文化大学院審査に7人来る」とわかる。(※省略) 13:00salaryもらへば7,000余、昇給分としてもらふ。
成城堂に1千円余払ひ、5人さそひて喫茶(720)。新宿にて猩々袴2株買ひ、
佐伯にて『葡萄唐草(320)』買ひ、平凡社の百科事典のこときけば「2.8万円で古本屋売りゐる」と。
ユをらず、猩々袴植えて帰り来しにグッちゃんのむすこの押しかけよめの話きく。Bibleの「しへたぐ」「ちゅうぶ」ともに山田君の辞典にあり。 (※省略)

2月22日
よべ睡眠感なし。雨止み、ユ洗濯す。10:00葉雅美生来り、cardのかき方教へ、佐伯へつれゆき『台湾文化志』予約せしむ(6,500と)。
退屈まぎらさんと吉田生に電話すれば「料理学校」と。ユをして服部夫人に原稿、書留にて返さしむ。
けさ主婦と生活社より速達『旅』に「山麓」を採るが諾否をと。(※省略)
わがいのち永くしありぬ数多く罪犯しつつけふまで来しに。
(弓子けさ早くより妙高へskiiにゆきし)。(※省略)

2月23日(日)
9:00さむ。久しぶりに晴れ、ユ礼拝と総会とにゆく。日野忠夫氏より「印度へ行った」と。
新見正彰といふ人より「お電話できいた。山本文庫見つからなかったがNovalis見て用済んだ」と。おぼえなし。
14:00米山生迎へにゆきつれ帰り『十二支物語』を二人でよみ「十干十二支をちぢめよ」といひしも「考へる」と。18:00送り出し、暦買はす。
ユのすすめにて神戸のaino(※相野)番町(2.2万で全国最大と)へ入り込みし元キリスト者夫婦をteleviにて見る。(※卒論指導 省略)
(米山生の前後に「スマトラ記」200×11書き、送りにゆき『易(420)』買ふ。)

2月24日
3:00めざめ、昂りやまず。7:00起き9:30成城大。(「スマトラ記」速達135)。10:00より卒業生の及落判定。(※省略) すみて、すし出、
そのあと3年よりsemiをとのわが提案につき長々とやり、「来年度までの議題」とす。
14:00家に電話すればユ「松田みす子に呼ばれゐる」と。「ゆけ」といひ、
成城堂にて『漢和辞典』買ひ、もちて田上由美子に祝にゆく。父君に「嫁がせしあと気をつけよ」といひ、15:00出て新宿。
busで柏井(※義弟の歯科)までゆき、まづスープたのみ、ついで一本歯ぬいてもらふ。
平田来をり、弔みいひしも母上なること忘れし。恵「出版社へコネを」と。「OK」といひ、
ユより電話なきに歩きて帰ればユ、恰も帰りをり。(「あすも来よ」と数男dr.の命)。池田温氏より「3、40名60点以下をつけた」と。

2月25日
寒し。7:30さめ成城大へ15分前着き、大学院の面接。(※省略) すみて山田氏をさそひてHennessyのませ飯くはす。「冷血」といひ、 わが「病症見に来た」由。
18:00送り出し数男にゆき「来週来よ」となる。母来り(午前中)、「5千円いらず。勝手にする」といひしと。焼芋食ふ(100円で2本)。
佐伯に寄れば葉生、自動車にて『台湾文化志』もちゆきしと。(※省略)
弓子、折から妙高高原より帰りヱハガキ呉る。京「あす穂高(群馬)オリンピア(※スキー場)へゆく」と。多事也。
(けふ山田君より「幸せな人」といはれ有難し)。坂泰子生に電話「写真受取ったか。山本の式出られず祝電打つ」と。

2月26日
9:30斎藤dr.、新聞のヒステリー調査票のこと申上げしに「誰にもあり」と。
佐伯に寄り『漢方医語略解(2冊にて10)』、『イエス伝詩集(30)』買ひ来る。
李生より「3月帰韓、けふはだめ、あす吉田生と来る」と。山本邦子へ「欠席、主のめぐみにより結ばれしを喜ぶ」と。
澄へ「岐阜の碑三つよんだ」と。中村八鬼氏へ詩集の礼。きのふ来し羽田博士の『西域』の礼かく(山田氏に与へし)。(※省略)
(5日、斎藤先生のあと雅子の雛人形見にゆくこととす。)

2月27日
6:00さむ。「雪降りをり」と。10:00すぎて李に電話すれば「寝坊した」と。深谷に電話すれば「13:00来る」と。(※省略)  12:00まへ李来り「破門かんべん」と。
「孫晋泰・李弘稙(牧野弘一)2教授に指導たのめ」といひ、深谷生も来しに飯くはし、越族のこと話す。
14:00帰りゆきしあとtelevi見るに雪止まず。(※省略) 京22:00すぎ帰り来る。

2月28日
京、「残業」といひて8:00出る。雪積りしまま晴る。丹波哲郎とその兄といふを見れば鴻一郎の異腹なり。
佐伯へ散歩。本なし。(易の本、佐伯にも新本屋にも俗本ありし)。『世界原色百科事典』4冊よみ疲る。(福地君へ「駒井」通訳としたまへとハガキ。)
〒なく、電話なし。あすは国鉄ストなる由。左眼にメバチコ出来る。

予定。God bless me!(※しまった!)
 シロコゴロフ『ツングース語辞典』訳、
 『中世中国語辞典』
 シライヤ語『公教要理』訳による語彙並びに文法

なれ逝きて久しくなりぬ天つ国われものぼらん時たちにけり(25日作)。
20:00「試験延期校若干」とteleviできき、成城大学にかけしも出ず。柿崎生にきけば「母の縁類にかけ8:30登校とのも指示ありし」と答へ来る。

3月1日(※「2月29日」と誤り記す)
7:20覚め、ユ「国鉄異常なし」と。地下鉄にて成城大学(9:10)。試験問題検しまちがひなく、大藤教授より『雑誌5』もらひ試験監督(岡田清氏と)。
12:05すみて昼食(幕の内)。すみて整理まつ間に海江田副手、押しピンにて血噴く。「すぐ治療を」といひのこし、採点にゆき18:00まへ了る。
(滝沢英雄君より「「スマトラ記」見たし、田中館秀三氏(※は昭和26年に)窮死せし!」と)。
一番に夕食にゆけば、内田直作部長をり「ごくろう」といへば恐縮せし様子?「電子計算機いれよ」といふ。
あと残りてひとり食ぶる尾上主任を除き、夕食われ1/10(ちらしの)わけ内田氏にきかれ「胃下垂の上、お菓子多くとりし」といふ(こは信じられず)。
けふ実はわれらが採点室にわが注文のブドー酒来り、あとにて聞けば他はwhiskyなど採ると。18:00すぎ「お先に」といひ、前田総務に挨拶して帰宅。
(目バチコ―関東弁「山田辞典」にては「めばちはものもらひ」と)。
終日気にし目薬(150)登校の途中買ひ、電車の中でもさせしも気持ち悪く薬局で眼帯(50)買ひしに歩けず。家に帰ってはずす。
バアさん(※義母)「自分の荷物もってゆく」と来しと(夕方)。澄、電話にてハガキの礼喜びて云ふ。(成城堂にて5冊本買ひし)。(※省略)
(山本幹子夫人より近況。小高根「蓮田氏の『西康省』買ひしわかりし」云々。「田上由美子の結婚(大野敦と)29日(土)赤坂ホテルニュージャパン」との通知 (※省略)
松浦薫氏四国より。『四季』来り、堀夫人のドイツの便りのす。)

3月2日(日) (※「3月1日」と誤り記す)
よべ眠れず、7:00ごろまでに1〜2時間ねむりしか。ユの太田夫人さそひに教会にゆきしあと、斎藤先生にゆかず、bedにあり。
14:00ユ帰り来り、太田夫人「亭主関白によろしき家あり」と弓子の縁談すすめ「太田の無比なりし」こといひしと。服部夫人より受取。
わが発狂は38年なることを協議す。依子結婚(※1963.4)、和田先生亡くなられ(※1963.6)、池上生[墜]死(※1963.7)のあと『白楽天』かき了へ、中村医院の不親切(※1963.8)にて昂ぜし也。
永山より電話「西武線上に家建てをり。4月新築落成の時招く」と。
賀代嫗より「統夫家買ふ件につきあす18:00ごろ来る」と。午睡30分とる(きのふの弁当に中毒せしか。朝より烈しき下痢、午くづ湯、夜粥なり)。
井上書店に『台湾高砂族系統所属の研究』のとりのけたのむ。「8.500にて4〜5日以内にとりにゆく」と也。

3月3日 (※「3月2日」と誤り記す)
7:00おこされ(よべよく眠る)、9:00まへ出勤。試験問題見了へ、高校へゆく。(古谷久里嫗の手紙につき橋本長四郎氏に語らんとて也)。
ぶじすみ(付添の女生、短1と!)、前田部長にきき、橋本氏にゆけば昼食中、古谷嫗やはり田中博士とわれとまちがへゐしこと判明。
下痢ゆゑとてとりし月見そば13:00すぎまで来ず、食べ了へて採点(午食の席にて西洋史の先生とわれをほめし老教授あり)。
田中薫博士向ひにをられ、高砂族の話承りしに全然ご存じなく(「Siraia語(※Siraya)」「高砂族の帰属」ともにお忘れ、 「Siraia語字典」の出版ご存じなし)、
却って質問受く(齋藤齋先生の名いへば「知る」とのみ)。
また一番にすみ(白酒をもち来るやうたのみ教務部長二つ返事にてくれしも、そのまへ「成城にては造らず」との返事ありし)。
sandwich包ませ挨拶して出しに返答なく入口にて2、3人のhelmet見て、教務に云ひにゆきしに「前田部長にいふ」といふ。
出て見ればすでに影なく前田部長も来ざるゆゑ「見えずなりし」といひ電車に乗る(19:00ごろ)。
納豆を新宿駅にて買ひ(100)帰宅(20:00)。(※省略) 丹麦の首都「哥本哈根」(※デンマークの首都コペンハーゲン)と尾上氏の質問しらぶ。
太田夫人へユ行き、弓子のことたのむ。諏訪澄へ弓子の吊書かへせの電話かければ依子、泰出、澄やっと出て「吊書ねおきで思出せず」と。(※省略)
池田温君より電話「(※成城大学には)4月末までゐる」とのことに「一度来たまへ」といへば「その中に来る」と。
(けふ山川女史(※山川京子)に久しぶりに会ひしに「保田夫人に会ひ、保田に会はず」と。宮崎氏(※宮崎智慧)次男の就職のことでたづぬれば「保田の会社(※新学社)ならん」と)。
(統夫19:00ごろ来り、売買の価格と坪数をきき「裁判の結果、子供は帰らず扶養料月6千円―一年毎に増額―、慰藉料10万円、判定は次回」といひしと)。

3月4日 (※「3月3日」と誤り記す)
きのふ前田部長に伝ふるといひしは宇野君也。牛蒡またしらぶれば「牛蒡子、牛蒡根が薬用にて欧洲原産」と。明代に入りとならん。古谷久里氏へハガキ。
(けさ7:00さめ雪降る) ユ、太田君の方が美男といふに写真見ればわれより低く、しかし病中のわれ化物の如く写りをり。
10:00雪中、地下鉄にて本郷井上書店にゆき『臺灣高砂族系統所属の研究(8,500)』買ふ。
(家にて検すれば台湾総督府の著となり移川子之蔵、馬淵東一、宮本延人3氏の著なりし)。
他に大学へ『大武鑑(2.8万)』、『龍飛御天歌(1.8万)』届くるやうにたのみ、『シライア語辞典』見つかればすぐ報ぜよと名刺たのむ。
ついでに琳琅閣に寄れば主人われを覚えをり、仕方なく『本草綱目』、『鄭成功』その他大学へとたのむ。
白十字にて喫茶(60)、雪中『朝鮮の年中行事』問へばなく、年表は三省堂の他、吉川弘文館にて売りゐる由!
歩行困難を侵し本かかへて帰り焼きそば食ふ。
14:00恰も戸田女史より電話「中国工学の本、訳しくるるや?」と。「見ねばわからずtextもちてよこせ」といふ。
ユも食中りなり。松浦薫氏、観音寺町よりヱハガキ。「2日ほど探せしタバコ入れ炬燵の横にあり」とユ。
内村祐之博士の著(※『わが歩みし精神医学の道』)にユ、うるさくいひドナル(松浦夫人に礼の電話かけてスカせしに聞かざるゆゑ)。夫婦とも奇応丸(※癇の虫薬)のむ!
2女早く帰る。『差別』(※東上高志著)よみ了る。
夕刊に「4日2:30am衞藤瀋吉評議員がたんのう炎の発作を起こして「東大駒場」構内の保健 センターにかつぎこまれたほか云々」機動隊4日8:00am救出と。
『部落の歴史』よみ了る。

3月5日
7:50覚む。5千円もち9:30出、斎藤dr.(ユ、山住医院にゆき血圧130-80「胃腸カタル」といはれ下剤もらひし)。
「今のままにしてくれユ云ひし、われ天才と思ふ」といへば薬かへ玉はず7錠(700)。「現金いらぬはず」といへば「貴重薬なり」と。
出てtaxiにて渋谷東横(200)のれん街地下食堂にてとろろそば(150)食ひ、『日本今昔飲食考(340)』買ひ、新本屋にて年表きけばなし。
若林行のbusにのり池尻住宅前にて下車。引返しタバコやにて道きけば、ユの「八百屋」なりし。
(※史氏新居)すぐわかりRD33へゆけば美紀子、雅子出迎へ、雅子人見知りせずヂイヂイといふ(一度だけバーチャン)。
土産の菓子あけず、白酒われのみ、写真とり、とらる。淳一目覚めおとなし。
「この間クラス会にて皆われとのこと云ひし」と。出て(14:00)busにのり渋谷。新宿まで国鉄。busにて杉並車庫。
柏井歯科、人なきも尚子に池尻住宅前八百屋で買ひしサツマイモ(50)ふかさす。数男食ひたがる。われ1本食ひて歯型とらる。
すみて恵のエンの就職の相手、文芸春秋の田中健五、主婦と生活社の早川敏一、平凡社友野代三の3人をあぐ。みな自信なし。
(ユに電話すれば心細き声なれど喜んでみをらず)。歩きて年表たづねまはり『日本疾病史(450)』買ひ、『庚申信仰(400)』買ひし。
佐伯へゆき『三省堂年表』と『台湾高砂族語彙』とたのみ、semiのこといへばsemiのnoteとる。『台地・農耕・女性(640)』買ふ。
白酒とって帰宅。マキヤ印刷米沢氏来るを待つ(戸田末子女史の紹介)。19:30来り、「三菱自動車工業のengineの説明書の中国訳をしてくれ」と。
われ「読むは得意なれど訳はできず」といへばユ「(※台湾の)頼さんにたのめ」と、手紙かく。(※省略)
帰りしあと入浴。アクビ出る。就寝23:00。(雛人形5万円余となりし)。

3月6日
薄曇。朝方小便にゆき8:00さめ9:30鎌田女史に電話かけ、馬淵東一氏のところききしあと、
はっと気付き東洋文庫岩崎氏に聞けば「Van der Vlis 1時間たてばしらす」と。1時間して11:40きけば「東洋文庫にはなし」と。
Mannheimの竹森満佐一先生に「お帰りまつ」とのみ航空便かく。地図見ればM市はHeiderbergの隣なり。
ゲーリークーパーの「摩天楼」見ゐれば滝本生より電話「ユに会ひに来る」と。
米沢氏より電話「航空便に入れる筈なりし日本切手だめ、他に方法考へる」とユきく。
15:10滝本女史「心不全にて母上1月13日9:40pm逝くなられ、解剖せず(22:07発見)共産党葬にて仏式64才なりし」と。
17:00ユ、滝本生をさそひて出てゆく(この3日前より賀代嫗、家にゐる由)。
京の友、成宗の小沢嬢出てゆく。わがことを「出席きびしき先生」とききゐる由也!
16:40意外にも!池田温氏ひとりで来られ「道わかった」と也。20:30退去までに善海、鈴木(北海道)などの話し、
「加藤先生(※加藤繁)こわかった」とわがいひしあと、帰りぎは「浜口博士(※浜口重国)低血圧にて健在」の由いはれ、「お大事に」と去り玉ふ。
(「志異雑記」「遷界令と五大商」の抜刷呈す) 大秀才なり。
「善海の著書整理には加藤祐三氏がよからん。1920年代以後共産党史の研究あり」と。(※省略)

3月7日
よべ22:00に眠り快眠7:00さむ。8:30出て成城。(※省略) 大藤教授と同行「ご苦労様」と入試委員を謝し、
成城堂へゆき平凡社の大百科事典26冊のうち「日本地図」と「世界地図」とのことに「世界地図」たのみ、『近代日本と朝鮮』と『中国文学十二話』 買ひ、
小田急売場にて『東大と日大教授に高額所得者が多い理由(※『週刊文春』11巻10号p40〜45)』買ひ、
(※リスト省略) とあり。
「私大の教官は国立大学の教官とくらべて一人当たりの学生数は10倍、授業時間は3倍だという。しかも月給は国立より安い。」
「私大経営者は大不在地主。工・医の教授連は、多少は自作もやっている大地主。」
「文科系のタレント教授は自作農。たまにいい“品種”を植えると収穫(印税)が倍増する。」
「私大教官は小作農。助手、大学院生は水のみ百姓――といったところ」と車中よみ了る。
登校すれば大藤、鎌田、野口、伊藤副手をり、茶のみて会議室にゆき人気なきところにて前田部長にきけば「あとで!」といはる。
(この前後に「この間のヘルメットは学校側」と洒々たり)。やがて呼ばれ[他見不要](※入試成績 省略)とわかりしも、他の教官はきかず。
しかも及第者に金つきなし!これにて及第会議了り、判定会のむしかへし(一事は再議せずの民主主義の玉条無視)。
われ「採決」呼ばはり、ややにして挙手(賛成13人)にて、むしかへしとりやめとなる。労組の話、上原君やり、すみて飯(ちらし)。
そのあとDクラスよりの卒業生代表判定を大藤さんにたのみ(新城博士も同)、伊藤副手より書類もらひ、(※省略)
あとは駅にて見れば琳琅閣の納品書2通、見積書2通、請求書2通、あり25,850。
『本草綱目(1,500)』、『南方文化の探求(8,800)』、『交廣印度兩道考(450)』、『安南志略(9,800)』、『鄭成功(2,500)』、
『兩漢迄五代入居中国之蕃人氏族研究(2,000)』、『中国倡妓史(800)』と、但し現物は見ず。
井上書店のは書類現物ともに未着なり。
佐伯によれば「主人、高円寺の市へゆきし」と。おかみさんに「本、来ありや」といへば「来ず」と。いやいや『草の葉(200)』買ひ、14:00帰宅。
(駅前で本田先生に電話すると先生、声嗄れたまふ。ユにも電話)

(※頁頭) 「山田[躁鬱病] 躁状態と鬱状態とをくりかえす精神病。躁状態だけの場合、鬱状態だけの場合もある。
遺伝的な内因性精神病。発病年齢は15〜25歳の間が多い。クレペリン (Kraepelin)が「単発性痴呆(精神分裂病)」に対立させた。」
(※頁頭) ユ「老年期鬱病」老年なる時、ホルモンのアンバランスになる時に起る。自殺することが多い(西条八十のお婿)。遺伝しない。(※省略)
(※頁頭) 「主のめぐみを知れ。何の為に洗礼を受けたかわからない。病ひに克つことなければ宗教は生きてないチンバ…くだらないことかくの止めよ。」
ユ「鬱陶しくなる。」 われ「主はほむべきかな。」『何でも相談せよ』他人はダメ、わたしにだけ。

林崎の妹にも電話し「姉とあそびに来い」といひ、床屋にゆき、非常に怒る産婦人科医に会ふ。シャンプーしてもらひ(500)帰宅。
着物にきかへ、ユ買物にゆきし間に米山電話し「あす10:00来る」といふに「待ってゐる」といふと喜ぶ。
ユ、衣架け(2,800)買ひ来る。懇々と説教「(人間を)変へる」とわれいひし。
『これが大学教授だ(60)』佐伯にて買へば、野田又夫(京大西洋哲学)を「有名教授年間所得一覧」に哲学系(筆頭は多湖、三位は金田一春彦の次にしるし)(※省略)
『果樹園157』来り、渡辺春輔氏より「体の具合わるく受取りおくれた」と来る。入浴の前後に進退きはまる。幸ひなるかな。ふとん敷き眠剤のむ。

3月8日
よべ一度起き(ユ「4:00」と)、8:00さめ、天気よき故、庚申様とりにゆきcamera屋見しもあけをらず(「10:00あく」とユ)。
タバコ買ひ(向ひの酒屋見れば「hennessy」8千円)。米山生10:04来り「十干十二支」やる。新城博士の『迷信』を買ひをり!
「辛酉年表」作り、アジア歴史事典の「干支」うつしてすむ。(貸出表を作る)
村田幸三郎より電話「愚息大東文化学院大経済受けるがよしや」と。「よし、一度遊びに来い」といへば「ゆく!」とドナリて電話切る。
ユ、本棚と洋服箪笥を月賦屋にあつらへにゆく。14:30ユ、本多家へゆきしあと、米山生帰りゆく。
15:00ごろ困ってつひにユに云へば斎藤先生「先生お留守、明日来てよし。それまで安定剤を食後にものめ」と。
その通りchou à crème(※シュークリーム)たべてのみ、とたんに眠る。さむれば洋服箪笥と本棚と来をり。うれし。
夕食くひて旨く、すぐ眠らんとせしもダメ。入浴しまた戦慄。
出てteleviの前にをれば松島生「6年間ごぶさたしをれど覚えをるや」と。
「覚えをらず」と答へれば「NET首となり転々し失職し、3月就職の金いる貸せ」と。「一文もなし」と答へれば「先生相変らずですわ」と言ひて切る。
昨日より枕頭に史(※長男)の手帖、依子(※長女)の写真をおく。けふ梓(※亡き次男)の写真加ふ。

3月9日(日)
6:30覚む。平凡社の『世界地図』『日本地図』doubleにつき史にやることとす。(あとにて弓子欲しがる故とりやめる)。
9:00すぎ弓子にいひて夫婦して地下鉄にて斎藤先生。4番目とて11:00入り、代診先生にユ説明すれば「宇宙・世界計画ありや」と。
計画思い出さうとすれば話かはり「全力投球せぬこと」(高級自動車でもブレーキ大切。自分でブレーキ作れ)承り10分ですみ、薬もらひ「火曜朝また来い」と。
「はもの皮」買ふとユ云ひ三越まで歩き(しる粉屋に入りごぜんしるこ(80)食ふ。) 「はもの皮」無く「くらげうに」買ふ。
「hennessy(ユ、別といふ)」7,500とみて帰宅。焼売買ひて昼飯とす。(弓子わかりをり)本棚に本詰めてたのし。
宮崎さん(※宮崎智慧)に電話すれば「19:00」と。怒って早く飯食ひ19:00すぎユと飯くひ了るをまち、歌の話。
「フルタニクリ嫗(※古谷久里)の歌集もらったがよまない。」「息子の就職たのみたかったがいひ出せなかった。」(※省略)
ユの歌待つことわかりし故われ写し千円ユわたし帰りゆかる。ユ送りに出る。
全力投球に近くなり入浴して讃美歌うたひ眠る(22:00)。マキヤ印刷より頼氏への書翰の写し来。

3月10日
2:00ごろ大より「あにきに同じになりさう」と電話ありユ、「あす来い」といへば「来る」といひしと。
弓子に馬淵東一氏への往復ハガキと高坂清元氏へ『きさらぎ』われに呉れよのハガキ托す。
晴れて9:00となり、corner買ひかたがた佐伯にゆけば『平戸オランダ商館の日記1(1,500)』来をり、借り、
『をとことをんなの民俗誌(150)』、『キリストと神話(25)』、『日本社会とキリスト教(25)』買ひ、corner買はず、しんせい2ケ 買ひ来る。
大まだ来ず。10:00ユ、電話すれば伊勢の甥、母、大と電話口に出「何事もなし。会議あり。すめば19:00〜20:00来るやもしれず」と。
大笑ひしてユ、池田茂寿枝の「勉強の邪魔した」。新垣淑明、山川京子連名の業績とりて登記所へとゆく。両氏に受取かく。(※省略)
「スマトラ記7」5×200書き、くたくたとなる。(※省略)
川久保より電話「12日13:30来る」と。あとにて気付き「すぐゆく」といひ、ユ同道。〒の角曲れば岡邸、
その裏の川久保邸見つけて上がりしに 新築の応接間、嬢接待にいそがしく「(※松本善海の見舞)あさって13:00阿佐谷駅」にと待合せをきめ
「共産主義が本当と云々■■」といへば川 久保■■くなる(ユの観察)。
(※省略) 大よりの電話かからざりしと。

3月11日
8:00さむ。3月10日の大空襲の記録ありといふに見えず。9:00出て地下鉄にて斎藤dr.。
「天才ですね。薬かへません。何日分よろしきや」と。「一週間」と答へ(先生も一服あまるを承知なりし)305円払ふ。
初めてbus(東伏見行)に乗り、区役所前で下車、11:30帰宅。炒そば食ひ散歩に出て戸田謙介氏訪ふ。(※省略)
在宅にて「上がれ」とのことに「2,3分待ち玉へ」といひNikka Whiskyもちゆけば機嫌よく
『The illustrated ethnography of Formosan aborigines (the Yami tribe)』賜はる。「写真版はあれど原本はこれのみにて貴殿もつ方よろし」と也。
鎌田女史にきいてくれとの本しらぶればC.G. Campbell『Tales from the Arab tribes . Lond.,1949.252pp』なりしことはすぐ返事し了る。
けさユ、われと地下鉄入口まで同行、税務署へゆき5.75万を払ふこととなりしと。(※省略)
すす払ひに1時間かかり、われ入浴。夕食すませし処へ京帰宅。馬渕教授へ礼状。
岩生博士に(※借用)諾否のとひあはせ(「新港文書(※台湾のSiraya語文献)」につき)かき了ふ。

3月12日
よべ22:00ね、けさ8:00さむ。「雪降りをり」と。9:30川久保に電話し「雪だね」といへば「(松本の見舞)止めよう」と。
山の上ホテルに電話し「雪につき来ずとよし、話さん」といへば「叔母留守、帰りてのち電話せん」と。(※省略)
東京で史上最大の大雪と(※33cm)。(※省略) 魚屋来る!戸外見ればなるほどしんしんと降り積もる。
(ユ、岩生博士へと馬淵教授への状、投函しchou à crèmeのみ買はず。凍傷となるとさはぐに、われぬるま湯与へてすみ、反対にわれカミソリおとし趾に傷つく。)
和田夫人より長電話「山本文雄氏の紹介にて独協へ入りしといとこ中川いひし」とふるへ上りをり(ユ受ける)。
長火鉢の位置かへれば『三省堂年表』出て来り、佐伯へことわりの電話す。「よろしかったですね」との挨拶なりし。
15:00京帰り来り、ポンポン云ひしあと会社に「地下鉄8本待ちて乗れし」といふ。弓子より電話「1人つれ来る」と。
「雪よりも白く」との歌うたひける母はみ国にゆきませしらむ
televi「明治34年以来の大雪」といふ。「16:30大雪警報解除151年ぶりの台湾坊主(※低気圧)のせい。国電マヒ。17:00まで送電stop。
18:00に30%開始。乗車券発売禁止、地下鉄ラッシュ」と。
17:00「雪止み雨となりし」とユ。
いまさらに何の師よとぞ無言にてわが手はらひし人はありにき(デメ金主事)
19:00まへ弓子、悠々と帰り来る。「三井銀行におそくまでつとめし故、楽なりし」と。
入浴せんとせしにユ、伊集院斉(相良徳三先生)のこといひ出す「金田一京助の舎弟にて狂死せしが親友なりし」と。(※省略)

3月13日
7:00さむ。弓子、雪中を出てゆく。京、休みなり。浜口重国『唐代の賤人(※唐王朝の賤人制度)』で学士院賞もらふ。
平凡社渡辺氏に見舞の電話すれば「未着」、女の子笑ひをり安心。(※省略) 空珍しく美し。
何事もみそなはす眼ぞ晴れわたる空の下にて一瞬思ふ。
12:30出、雪なき道とてタバコや(染物屋)に出、新生2ケ(100)買ふ。つり銭もらはんと手出しをり嬢に笑はれ気づき、焼芋屋に会ひ100買ひて佐伯。
『歇後語語彙編(4,200)』、『豫言集解説(700)』、『性における笑の研究(500)』、『日本古代の国家形成(150)』にて50円出し帰り着き(春蘭2株(100)買ふ。)、
「渡辺氏より検査の結果まだわからず」と電話ありしと也。蔵書cardの並べかへし1/4了る。
明武谷4勝1敗、大鵬入院(判定で不満と思はれるが最もいや、扁桃腺) ユ使ひに出て「電気stove見当らず」と、電気ゴタツ直し(100)、
5日の雛と恵、8日の庚申との写真とり来る(1350!)。すぐに貼り
「われ知りぬ愛のアの字のおのづから開きたる口不意にしたるを」と即詠、あとにて直さん。(※省略)
『満文老檔』5冊、和田先生(※和田清)より賜りしに欠きゐしを知り、いまさら師恩と忘恩とを識る。
21:00川久保より電話「あすいかに」といへば「教授会で判定する故だめ」といひしに「あさっては」と。「判定のあとゆゑだめ」といへば「お大事に」と。
われ「なぜ?」と問へば笑ひこけて「奥さんづれでステッキもって来たから」との事に、われも笑ひに笑ひて電話切る。

3月14日
8:00覚む。(よべ1服半のむ)。上厠して出、庶務へゆき3ヶ月分の定期代もらひ、浅香・土肥(断りなし)両副手の紹介あり、
卒業判定12:00までと急ぎ、部長時計ばかり見、12:10すみ、教授会。高城ほか2名の判定委員きまる。(※省略)
(国文博士課程・庶民文化修士課程ほぼ確実──12:00ごろ学長も加はり決定中)
琳琅閣の本と井上(4.6万)ともちて出んとすれば、飯島・中西2君(風呂敷1,050)とかはるがはるもち呉れ、駅前にてtaxiにのればヤミ 800と。
阿佐谷交番前へといひつのる中、20.8.26付入隊予定の少年航空兵志願とわかり、急に態度かへし故、本多氏の地堅め見、千円わたし、
家へ持帰り、柏井へゆく途中、佐伯に寄り、相当の本買ひ、busにて柏井。数男坐らして不意に歯ぬくといひ、中途で折れ止めるといふ。
あと今井ひろ子来りをり、北京以来の話して握手す。明武谷の負け見たり見なかったり。(※省略)
古本屋に寄り中国の衣服の本きけば『服飾事典(田中千代)』その他も買ひ、次いでアーケード本屋『キリスト教問答(50)』と『国文学解釈と鑑賞(600)』2冊買ひ、
タバコ屋(染物屋)で主婦より買ひて帰宅。本多氏に「おめでたう」といひ、ユに祝酒いへば「不要」と。
本のcard作り、夕食し、内村鑑三の本card作りて了る。(※省略)

3月15日
7:20さむ。(田上生の卒論「3月15日の行事」なりし。) 加藤、大内、涙をためて辞表呈出と。
陳祚龍教授博士(われをも教授博士と誤解しをり)へ「クリスマスcard在中の論文、今天開封」とわび状かき、
『和田博士追悼禄』と『志異雑記』と2航空便をユに托す(160と55)。
数男に電話かけ、宏子に電話かけ「来い」といふ。雪にてと絶えし郵便一度に来る。池田温氏より『卒業生名簿』。わが「山麓」のせし『高原』。
八木新太郎あての往復ハガキにて「18日13:00Hotel New Otaniにて卒業生の別れの会す」と。「欠」の返事かく。
織田喜久子『響』来り、見れば「『果樹園』146〜155受贈」と。(※省略)
南隅Bちゃんより「原稿ほぼ集った(和田夫人をのぞき)。還暦の祝する故、下阪せよ!」。
田上由美子生より「ジャジマも出る『あちら』も喜ぶ。鎌田出ず。当日先生のお言葉たまわりたし」と。
田上生にも電話「何を披露にいへばよきや。3月15日につき話さんか。良き子なることをいはんか。」といへば返答なし「思ひつけば電話せよ」といふ。
次に和田夫人に「Henneseyも一本よこせばゆるす。Bちゃんに電話せよ」の二つ云へば「子供進学できなかった」云々。「早くBちゃんに電話を」といひ切る。(※省略)
和田夫人、Bちゃんに電話し、もう書きある原稿送ることとした。還暦をしつこく云ふ故、山荘、Bちゃん、鍛冶、(佐々木)和田、野崎と好きの順云ふ。
「会ひたければいつでもゆく。赤いちゃんちゃんこなど迷信いや」と断言す。
ユ、出がけに「しつこいのはきらはれる」とJealousyを旨く云ふ(宏子に対して也)。詩2篇あり。「わたし」と「老人」と也。のせるところ考へあぐむ。生涯はじめて也。
他に広島に未載の「二十三年」あり。
尚子の説で「柏井で哄笑するは平田と我」とユ。西荻窪の待晨堂にゆき『その人は慰められん』、野辺地天馬『日日の光』を太田夫人の為、ユ買ひ来る。(※省略)
京、日光へskiiにゆき月曜帰るとユ。(※省略)

3月16日(日)
(聖日、めぐみの日「日々是新」)。(※省略) 予定の如く聖餐式へといさみ出る。(※省略)
吉祥寺より教会までノロノロゆき前奏はじまりゐるにユ見えず、長島夫人来しあと前後を見しに人影なく、仕方なく階を登り受付の木村博士夫人にふときけば「入りをり」と。
いそぎ入り、丁度stove前の最後となる。(※省略)
讃美歌74,268,142,140みなむつかしきも一心に高らかに歌ひ、541の「ときわにたえせず」で声嗄れる。
了りて長島夫人を探しゐしに太田夫人現はる!長島夫人に「夫君は?」ときけば「skiiに野沢にゆきし」と。
「わが家の京も日光へゆきをり逢ふこ ともあらん」といひ、「一度お二人で」といひ、柳谷牧師に礼いひ、太田夫人のわれに話かくるを逃げれば長島夫人をり。
やがて花屋に見おきしエビネ もち、切符3枚買ひて乗車、阿佐谷駅にて2人と別れ佐伯にゆき本2冊買ふ。
ユに『男の操縦法』太田夫人に『キリスト教入門書』あはせて100円、 金なく負けさせしあとエビネ一株与へてすます。
佐伯「植える処なし」といふに「物干しに」といひ、平凡社のエビネの項見す。帰りてユにエビネ渡せ ば「田代継男2時ごろ来る」と電話ありしと。(※省略)
田代継男(※軍属派遣時の同僚)来る。われX老人の名を聞かんが為Henessyのみ尽くさせ、弓子さらにTorys出せしも遂に出ず。(夜、『果樹園』見て楊老人と記しあるを識る)
Medan入院の我を見舞ひしとうそつく。「あられたばしる那須の篠原」とSiam猫のことしつこくいひ、菜畑正見を知らず『果樹園』忘れて帰る。
「平野正実」のこといひ、阿佐谷の先生(われ)と清水町の先生(井伏)と純粋及び難しといひしも、酔ひての世辞にて聞きにくければteleviのRugby見てゐし(日韓試合)。
独協に神保(※神保光太郎)の子入り、田代の子国学院の中文にて田中克己semiとなりたきも夫人いやがりてよこさず、とか。(田代の子、われの本を母より金もらひ集めゐる由)
帰りしあと入浴。池田温氏よりの封筒整理せしに手紙入りをり、聊斎志異の誤植示し、鴎外文庫に見にゆきしも性的興味のみと。
鴎外先生愛読し圏点つけられゐしを岡田氏云ひしと。再び(※池田温氏の)送別会を山田教授宅にてやらんと手紙かく。
これにてユに薬のまされ「夜中トボと同じくユを半分畳に押し出せし」と。睡眠感なく7:00まへさむ。

3月17日
『果樹園』そろへ、よべユに見せし『畿内見物』片付ける。きのふ寝がけまで気にせし鈴木俊氏の電話の本人(100〜1000万)つひに来ず、
ユにきけば「心配いらず」と。(ユ、昨夜「民俗夫人に二人して画習はん」といひ、弓子「汝の墓地のこと葬式承知(※心配するな)」といふ。)
(昨日来し克己献金、ユ「けふより100づつ2,100す」といふ)。
(『日本の詩歌』2来り、「三木露風カソリック吉祥寺協会にて葬儀執行、死因昭和39年76才で12月21日三鷹市下連雀郵便局前でtaxiにはねられ29日死去。
葬儀は40年1月18日、井之頭公園大盛寺の牟礼墓地に埋葬。戒名は穐雲院赤蛉露風居士」と松村緑かく)。
(昨日『現代詩人論』来り、大岡信の「田中克己」論少しかき足す)。
大岡信へ「また会ひたし」とヱハガキかき、出しにゆく途、十津川姫母子に遭ふ。「乳屋(※牛乳屋)に途きき来る途中」と。家へ案内しレース呉る。
野崎そののこと云ひ、送りて自動車まで案内す。別れて佐伯へゆき本5,900、長雪隠まつ間に見つけ借用証かく。
『日本のきもの』、『日本社会とキリスト教』、田中薫『台湾の山と蕃人(3500)』、鳥山喜一『勃海史上の諸問題(2200)』、『結婚(900)』、『浮気の味覚』、『簡明歳時記』と也。
「いつでも払ひはよし」と。(3月17日付借用証かく)。和田賀代嫗より電話。(※省略)
「山田先生まで国文学研究室懇談会につき出欠を18日夕方迄にせよ」と。山田氏に電話し「出」といひ、序でに池田温氏のこといへば「4月10日前後にせよ」と。
復活祭と入学式の間なれば、その旨池田氏にかき「日を選べ」とかく。岩生博士に電話すれば「伊豆へゆき不明」と奥様。「大喜びの意お伝へあれ」といふ。
14:00まちこがれ山野井生、坂生と来る(阿南生、「恥かしい」とて来ず)。録音してくれたあと「本物の声より若い」と2人いひ、坂生ゐたたまれずないて去る。15:30
山野井生に石川弘義訳『結婚入門』贈る。(※省略) 夕食出来しとて山野井生、家に電話すれば姉出「鎌倉の件云々」
20:30出るゆゑ送りかたがたタバコ買ひ出る。風速18mと。(※省略)
入浴せず床敷き、弓子の写真1枚加へしを枕頭に置き20:30眠る。(枕頭の袋に弓子の写真加はる)。

3月18日
6:45さむ。新聞まだ来あらず。昨日日光!のskiiあり帰りおそくまでtelevi見ゐし京「いま何時」ときく。(※省略)
岩生成一博士に「ありがたし。いただきにあがる」とヱハガキかく。9:30夫婦して斎藤dr.。
わりあひすいてをりdr.、われとユにちゃんぽんに質問せしあと虎の巻出し薬かへたまふ。われ「神さまの次に謝しまいらす」といひ、ユ薬とれば1週間分805。
二人して歩き200もちて別れ、本位田官舎に訪ねしに戸開かずbell鳴るも応答なし。やむなく近所にてFrench toast食べ(120.このごろ何もかも旨し)、
引返せども、もとのまま。名刺に「いかがにや」と12:26の時間かき郵便入れに投げ入れ帰宅。焼きそば食ひ薬のみ芋食ひ、田中久美子より「とくおば骨折った。見舞出せ」と。
肥下みつる夫人「20日過ぎ発掘の手伝やめし。里子とともに上京する。都合しらせ」。(※省略)
とく叔母に「御入院、久美子よりきいた。神に祈りをる」と速達。肥下夫人には「3月30日以后ならずっとあいてゐる」と速達。
すぐ駅前に出しにゆく。佐伯に寄り中国関係の本3冊(東洋文庫)を榎並生のためとりよせたのみ、帰る(「阿佐谷の先生」の顔したり)。
山本の書目来りをり。(※省略)『北国帯』に「中村三千夫(※渋谷中村書店)詩店主死にし」と出をり。
トトカマ15:00まで待ちしも来ず。16:00柏井へ電話し「来い」とて10円もちて歩みゆけば数男dr.ひとりをり、
「岡田翁の3周忌28日やる。時間未定、仏寺にて」と。われ(国分節子に会ひたきゆゑ)「出席」といふ(文芸の判定の日にて17:00にはすまん)。
懐にせし菓子おき宏子に会はんとせしに風をくらひてゐず。折しもユより電話「飯島生まつ」と。(※省略)
帰れば飯島生をり(※省略)、カマトトの反対なるを知りトトカマと渾名す。(※省略) 21:20去る。(※省略)
飯島生に関西訛いはれ柿・牡蠣を字引ひきて教へし。老了!20日の卒業式欠席を前田部長に伝へんと喜々として肯ふ。
京、炬燵に来り眠る(21:30)、夕刊見れば「羽田明教養部長が・・・病気を理由に辞任した」とあり。
数男、永々と話せし、われに(※終戦時に)中国永住をすすめしは「京大卒、トルコ語、夫妻のねやに隣りて眠れざりしとありし人物」、
帰りて忘れゐしも、呉れし『中華分省地図』の署名にて「佐藤誠」と判明す。

3月19日
入浴して23:00眠りにつき8:00めざむ。(昨日けふにて足に電気ゴタツの火傷気づき、メンソレつけ、豆炭行火とかへることとす)。
快く、朝の祈りす。李方子(垠殿下の妃、梨本宮の王女)の伝『動乱の中の王妃』ユにつづきよみ了り、朝食し、花に肥料かく。
李方子の系図つくりをれば〒。「4月5日16:30中村屋4階にてclass会す」と加藤・浅賀より。「出」の返事かく。
10:00米山生来り、(※省略) 次に村山生来り、(※省略) ついで小武守生来り吉備団子呉る。(※省略)
定期(5,800)買ひ、3生と新宿まで同行、乗りし車に荒本・池田2生をり、成城大学院の不認可をしらず。(※省略)
成城堂にて『世界地図』弓子へともらひ、3生をわが研究室に案内すれば、海江田副手も来り、荷造り呉る。
17:00Madam Changといふにゆけば、齋藤・池田・大藤・福田・坂本浩・高田とそろひ、山田主任の挨拶に齋藤清衛博士の乾杯。
結局福田君の転任を祝し、海江田のおめでたを祝す。われ春哀行歌うたひ、栗山の来し直後、辞去。
駅前にて『獄中記(250)』、たけしまゆり(80)買ひて帰宅。(※省略)
夜、本位田より電話「循環系の病気。丸、関口どうしてゐるか。中野、山本は両悪老人」と。同感して安心す。

3月20日
7:00さむ。快し。朝刊に「仰げば尊しわが師の恩、教の庭にもはやいくとせ、おもへばいとと(疾)しこの年月」とあり。
これまで「いくとし」と歌ひゐし也。
但しこの歌は『蛍の光』につぎ(明治17年)出しもの。『蛍の光(明治14年)』とともに追放されつつあり」と。(※省略)
弓子の買ひ来し自動秤にて41k!(※省略) 10:00吉村生来り『易入門』もつ。村松生来り、(※省略)昼食して13:30ひと先づすませ駅近くまで送り、
佐伯にて『文選索引』を『西洋占星術(150)』、『エチケット(70)』、『禁じられたパズル(120)』と引きかへ帰宅。
14:00より「恐怖の報酬」なる映画を見る。見るもの食ふものみな美し(たけしまゆり植う)。
田中順三郎より横浜への転居通知。(※省略) 京、遊びより帰り来りしにplayerに「楊貴妃」も一度かけてもらふ。
radioを兼ねをりにより、ふと気付き文春の(※文藝春秋社からもらった)radioをきけば「役に立たず」と。昭和の唄きかんとradio借る。(※省略)

3月21日
春分の日。7:00さむ。多忙多恵の一日也。8:30出て足の赴くままに赤川氏訪れしも戸を閉めをり。丸(※丸三郎)にゆけば夫人出て「ようこそ」と。
山草野草みななくなりをり、やがて丸起き来り、「次男金沢大学講師となりし」「依頼者なし」「山本治雄にても言ひてみん」といひ、出て駅。
練馬行にのり野方駅南口下車。途方にくれ、あけゐし店でcoffeeのみ、
道とへば「練馬行にのれ!」と。ややして来りしに乗り、練馬駅−桜台(20)。松本善海邸にゆけば、お手伝さん出て目を丸くす。
(あとにて夫人よりきけば「文士」と思ひしと也)。善海ややよくなりをり「主はほむべきかな」。坊や里帰りしをり、これにキリスト教の入門書わたす。
「もってゐればいいのでせう」と也。再開を約して雨ふりをりしも傘あれば困らず。夫人坊やに途案内され、桜台南より荻窪行にのる。
「ボヤボヤ立ってゐると危し」と。ふと気付き阿佐谷北で下車。放尿後、柏井へゆけば光一もゐて4人。にぎりめし食はさる(善海邸ではカステラ2ケ)。
サッカー見て笑ひに笑ひ前半1−0と勝ち(対メキシコ)ゐるところにて出る(「あす歯で来よ」と也)。
途中、墓地近くの古本屋のぞき、ついでの古本屋の50円の山にて『レミゼラブル1』見つけ喜びて帰宅(残金10円)。
池田温君「もう(※送別)会したくなし」と。主婦と生活社より(3,000−300)「旅情」の礼として呉れ、われを職業「詩人」とす。
千川義雄より「再雇用された」と。ユに促され矢野に電話すれば「大危機」と。
われ幹事して日曜に集まる(矢野、関口、丸、本位田、倭、西川)。会の日未定のままにて関口に電話すれば「汝の電話のあと会ひたくなったが」 云々。
丸のこと、本位田のこといひ、われ幹事して本位田邸に集まることとす。
17:00静岡より電話あり「会ひたし」と。「会ふ要なし」といふ。あひまにcard整理してクタクタとなる。
成城より速達「23、25両日9:00出勤を」と。『大世界史』来る。ユ入浴われついで入浴しcard止め、千川稚泉に「況丁の咲くや庭木の蔭ながら」とかく。
20:34、card了る!!大藤から「大学院の概要2〜3枚かけ。23日にわたせ」と。ねぼけてわからず。

3月22日
6:30覚め、8:00出て成城の会計課にゆけば「課長未出勤」と待たさる。ふと気づきて教務にゆけば「Album講師控室」と。
控室にゆけばなく、3人の女の子と笑ひてのち「先生!」と飯島生。会計にゆきサラリー(手取り8万)もらひてのち成城堂あけさせ、
『筑摩 世界の歴史6』にsignして与ふ。(姉よりのタバコ呉れし)。南新宿で下車。東豊島書局にゆきしにまだあかず。
新宿駅西口上あるきbusにて天沼車庫(途中、あやしげな喫茶店にtoiletかり60円のCaféのむ)。
柏井歯科へゆき「26日に歯なほしにゆく」こととなる。尚子俊子の会へと出てゆきしあとすぐ出、電話すれば「事なし」とユ。
佐伯に5,900払ひこの間の清算して(1,000−270)といふに『現代人とキリスト教』ほか2冊買ふ。昼食すませ(12:00) 『筑摩 世界の歴史』探せしもわからず。
(※省略) 14:00すぎ田上博士に電話し3月15日につき旨く話すといふ。(※省略)
夕刊に中ソ「珍宝島(ダマンスキー島)」での3.15の衝突の写真のす。
和田嫗より電話「文子が美沙子あてに訴訟起し100万円要求す。良風美俗の破壊者として。呼出は5月」と。

3月23日(日)
6:00ユを起こす。茶わかし飲みユsoupのまし、8:00まへ家を出、成城につけば既に2〜3人来をり。問題の検査すみ、ついで模範解答例。
成城堂休み。飯島生に遭ふ。深見義一博士と名刺交換す。一橋大名誉教授経済博士と!
10:30より斎藤尚武君と組んで監督に出しも「先生お体宜しくなき故やすめ」と。肯ひて山口女史と出版の相談す。「ただです」と也し。
12:00に20分前となり、ゆきて斎藤君と代る。けふ答案の取扱に不都合ありし(2人)とて大騒ぎなりし様なり。
昼食うなぎ、ちらし夕食。(※省略) いつもの如く早くすみ、ユに電話かけ「帰れ」とのことに帰らんとすれば、伊藤和子副手追ひ来り、
「永々お世話になり物贈った」と。われ感謝の祈す。(伊藤生amenをいはず)。
帰ればもはや贈物ついてをり、電話して礼いへば母と出られ「返しの品いづれ和子にいはす」と也。筑摩より『西太后』12,600入金したと。
卒業albumもち帰り見てゐる中、坂生に電話「あす来よ。おばさまと」といへばきかず。
「ボーリングしよう」といへば「おおうれし」と来ることとなる!これわが友人也。(※省略)

3月24日
2時さめ上厠。7:00まへまた覚む。伊藤和子へ礼状。白鳥芳郎君へ『上智史学』の礼状かき京にもちゆかし、ハガキ5枚買ひに出る。(※省略)
「スマトラ記」10枚(200字詰)とし、訂正足しユをして2,500出させ、入れにゆかしむ。仇討ちにユ「好きな人の」といひて某女史のハガキわたす。
すぐ「南方考へるのも思ひ出すさへいや」とかく。
待てどくらせど来ぬゆゑ午食くひてのち電話かけ、坂生にゆく。途わからず番地ユにきけば新番号。
電話帳見れば古い番地。また電話し坂生待ち、来ぬに電話すれば叔母上芳子「来る」と。15分泰子来て途案内するに、芳子殿もお越し。
「ギンギンギラギラ」歌って泣きたまふにわれも暗涙催し、お礼に手をとりて拭ひ、山野井生に電話すれば「留守しゐる」と。
「すぐゆく」といひ、(※省略)山野井家。(※省略)
busにのり鶯谷駅。豊田家へ電話し「今まいる」といひ池袋駅。(※省略)
豊田博士帰宅。男同士の話に移りしのち暇告げ、母子の見送り受け駅。(※省略) 22:00買って来し納豆で叱られ日記つけず眠る。(※省略)

3月25日
日々是好日。9:00に10分前に学校へつく。成城堂休み。(※省略) 尾上氏来をり、問題見る。この試験ふしぎに各科とも訂正なし。
成城堂また見にゆき帰り来れば車出るところとて乗りて高校、2時間茫然として待つ。(※省略)
すみて慎重に枚数数へて呈出。またバタバタに乗りユのもたせし昼食くひ、あとにて採点室にありしウドン食へば尾上委員長のなりし。
(※省略) 出て佐伯。『秘境の仏たち』、『高山植物』、『次の一手』、『占いの科学』をわれのために買ひ、有り金5円となり、榎並生のため850の本借る。
その他に注文『地名語源字典』、『東方見聞記』、また納豆100円買って叱らる。(※省略)

3月26日
7:30さむ。快し。散髪にゆきしゃべりちらし、早々すまし、豊田智恵子夫人に電話すれば「11:00来る」と。(※省略)
12:15阿佐谷駅まで送り柏井歯科。「尚子、宝塚みにゆきし」と。数男ゆで卵とcheezeとを賜ひ、言葉改めて「恵の就職にむりするな」と。
歯、上すみ下はまたとて出て平田に遭ひ、墓の古本屋で服飾(中国の)探せばなく、あり金70にて『アサヒ芸能』!買はさる。
帰りて(※省略)、ユの昨日もらひ来し苔植わり、桜葉つぼみもつ。(※省略)
大東塾より「創立30周年記念祭を4月3日18:00大東塾にて」と。ふと『毎日年鑑人名録(昭和7年)』にて「子爵海江田幸吉、京大仏法科、侍従…」といふを見つけ
海江田家に3度電話せしに老女の声にて「維新の時の功」と「波留美君によろしく」といひて切る。
17:00東京駅より佐々木画伯「近々はじめの『骨』集まらう」と也。「ユの予言的中す」とて帰り来り、大いに笑ひ「咲耶のスジガキ」といふ。
(※省略) われよべ火傷せしらしく繃帯してもらふ。

3月27日
6:00ごろさめ茶わかす。本多さん来て前の溝なほす。9:30終了。その前佐伯にゆき850の借金払ひ、『江戸の刑罰(100)』、『京都文学散歩(50)』買ひ千円なくなる。
午食くひ200もち出かけbusにて蚕糸試験場で下車。歩いて坂宅。坂生出で来り「お上がり」といひ、上りてとりちらかしをり。
toiletに2度ゆき出かける坂生と同道、busにのり地下鉄ギンザ、阿南生と1人をり、60のcoffeeのまんとせしに満員。
不二家へゆき、120のice coffeeのみ3生と別れ、有楽町より歩きて(※東京建物)西川英夫を訪ぬ。大阪支店長もをり。(※省略)
忙しとて出て家に電話すれば京出でし故「すぐ帰る」といひ、直行。(※省略)帰宅。『サンデー毎日』買ふ。(※省略)
夜、出来心にて花料1,000もち、柏井へゆく。(電話にて数男、節子を呼びくれし)。子をつれをり『大和文学』を破らんとす。
はふはふ帰り途につき、本多家をすりぬけて帰宅。ユ起きをり「床しけ」といふ。恵多き日也。(※省略)

3月28日
6:00さめ8:00柏井尚子に電話し「法事にゆけず」といへば「それでよし」と。8:30出て成城大学。研究室あけさせ『朝鮮の葬儀』包み「3月の行事」の大要見る。
あすの田上生の卒論披露の為也。9:50になり誰も来ざるに日程表見れば「文芸の査定はあすにて、けふは短大」と。富永次郎氏ら来るに手をあげて逃げ、
教務にゆき「明日の会議欠席」をいふ。成城堂で道きき、礼に『字典』買ひしあとbus2回のりつぎ深大寺につき、柏屋訊ねて菓子買ひ、着きしは11:10。
寒き中ふるへてをれば12:30に上人はじめ一行つき18名となる。上人と向ひてわれ、隣は今井老人、岡田老人はすじ向ひ。次に数男夫婦向ひあふ。
われ半ば食ひ了へし食事はこばせ、また続けて食べ、ソバ来ぬ中、席を立つ(数男の挨拶中々よかりし也)。busにて吉祥寺。国鉄にて帰宅せし。
頼さんよりマキヤ印刷の仕事する人見つかったとの事に、すぐマキヤ印刷に電話すれば「ヨボヨボのヂイサマ云々」電話切れしあと15:30、
社長不明瞭な電話あり。福地邦樹君へ「先生よばはりは止せ」とハガキ。くちなし(ガージニア)ユ、買ひ来る(100)。
(けふ赤川氏より電話「用あるなら日曜に」とありしと)。米沢氏来り、たくみにだまされ頼教授の手紙わたす。カステラいただく。邪気なき浜松産なり。
(トボに電話せしに「ヂイサン今日ワ」とのみ)。

3月29日
春寒この2日つづく。4:00すぎさめ海江田波留美に挨拶かく。茶わかし火をおこしEisenhauer死せしを聞く。
透きとほり遠き空へとゆけるひとわれもしかりと思ひつつをり。
躁甚しく11:00 morning着て赤坂Hotel NEW JAPANへゆき、麝島生と会ふのを喜び(※讃美歌)66番歌ふうちに13:30。
やっと宴始まる。(※田上由美子氏結婚式 省略)中座し、忘れ物とりにもゆかず、まっすぐに帰宅。
高坂翁より「父の側面ゆゑのせず云々」。岩生博士より『台湾大学紀要』2-1来りをるを喜ぶ。
ユ、「あす太田夫人に会ふ」とてpermaに出てゆく。(麝島生「16日来訪」を約せし)。岩生博士に電話せしに御不在、嬢に「よろしく」と願ひをく。
祈りかつうろうろそわそわとするわがさがはつひのさだめと妻子よ知れや。
都留生とわが狂へるを見舞ひし子いとけなきまま年たちにけり。
ウェディングケーキもとらずメモ忘れ狂ひしままに立ち去りにけり。
おちつきの場所と帰りしユキの下すなはち去りぬパーマかけんと。
あるは泣きあるは笑まひし五十年わがみじかき日あといく十日。
あをみとりそを忘れゐし軍医殿いまは亡き身となりたまひつる。
わがユミの縁定めむと亡き友の妻のユいましも心なやます。
わが神が選ばずままに月日たちわがユミの目は曇りたらずや。
ちちのみの父の酒乱をうたひしと父の友すら怒りますらし。
ひたすらの事をうたへとますらをのわれにのらすは何のまがごと。
小武守京子夫人へ「重子生卒業を祝ふ」とハガキ。小野井秀子生に電話すれば「ゆっくり待つ」と也。19:00赤川氏へ電話「あす伺ふ」といふ。
統夫よりユに「あす午后来る」と。21:00麝島生「ごきぶん悪かったか。フラフラと歩き玉ひし」と電話。「悪かったが歩き方はいつものくせ」と答ふ。
「16日来よ」を再びいふ。

3月30日(日)
6:00雨。9:30赤川氏に電話。「雨にてゆけず。問題解決」と。居眠り時々し12:00。
「昭森社社主森谷均氏直腸ガンで死す、71才」と。わが服部(※服部正己)との訳稿(※昭和23年『ザイスの学徒(ノヴァーリス)』)そのままとなりし也。
依田義賢の「小僧っ子のはなし」出てをり。ユ、12:00すぎ雨中帰り来る。「太田夫人には会へざりし」と也。
13:30和田統夫来り、「すぐ帰る」とのことに問へば「美沙子待たせをり」と。「共に来よ」といひ、ユと話し「登記所より家の登記書とる」こととなる。
岩生博士にとりあへず礼状かく。高坂翁に280の切手入りのわび状かく。
16:00村田幸三郎より電話「むすこ日大芸術科映画専攻へ入った。住友商事に知合なきや云々」「なし」と答へれば電話きうる。(※省略)
不二歌道会より「寄附申込め」と。「3千円」とす。三鷹市武藤夫人より親切なるハガキ来あり。18:00眠くて耐らず(けさ少しむし也も)。

3月31日
曇。6:00まへ覚め湯わかし、火おこす法知らず、たま火す。
『エチケット』を前田光子に贈らんとす。草木の芽ふく。10:00にユと阿佐谷駅で会ふといひ、〒3千円を不二歌道会へ送り、佐伯へ寄れば『唐代伝奇集2冊(720)』来をり。
ユ10:00かっきりに来り、新宿で喫茶し、霞が関ビルへ11:10つけば前田会長来られをり「やあ」と挨拶し、
ユを引合せし処へ前田光子生、前田夫人とお越し。(※省略) 昼食ご馳走となる。(※省略) 途中写真とり御夫妻とりして20枚とり了へ、
ユと別れて柏井歯科。歯型とられてすむ。帰宅すれば墓地前の店にて『らくがき文化史(150)』買ふ。ユをらず船越の長女「和田嫗来し。あとにて再来」と。
向ひに預りし書留小包どしどし叩きて渡さる。本多夫人にタバコ啣へしまま挨拶せしむくひならむ。
角川書店へ電話すれば「鈴木序夫君不在」、営業の齋藤氏出て「5部送る。多謝」と也し。
ユに云はすれば、あすわれ「李白」やる気ありと。不審。
和田嫗来り「滝本の愛人の末弟、見込ありさう。いまは千葉市原の病院のムツミに付添ふ。その中来る」と。18:40帰りゆく。
先生と呼べば答へずゐたまひし師をば思ふもその年となり(朔太郎2首)。
先生より永く生きむと若き日に思はざりしを永く生きたり。
(けふ野崎その生来ると思ひしは全く誤りなりしとわかる。記憶、耳覚ともに悪し。)
20:00前田光子生へ礼状。21:30西川より電話「本位田退官。わけしらべよ」と。やむなく電話すれば本人出て「公証人となる。皆呼ぶ」と也!
西川にすぐそれを告ぐ。

4月1日
2:00歯痛のためさめ、また眠り、茶わかし、いつもの如くし、7:00すぎユを起こす。すぐ仕度して斎藤dr.。高貴薬を用ひたまひ(805)、ユと別れて成城。
(新宿でhot-cake100食ふ)。教務の児玉女史に「新港文書」の複写たのむ。
『ジンギスカ汗伝(190)』買ひ、神奈川県地図(100)買ひして躁なること明らかなり。柏井へ草餅運ぶ(100)。痛み止めの薬くれ「あさって来よ」と。
ユに電話すれば帰宅しをり、竹森先生Heiderbrgの近くゐてGoetheのWaimar邸を訪はれし話かき玉ふ。
喜多村生より電話「狩野和加子、新婚式に大藤、鎌田出る」由なり。
(けさの新聞に「畑山(※畑山博)、石神井高校長退職」と見ゆ)。ユ、使ひに出しまに肥下夫人より電話「阿佐谷駅南口にあり」と。
喜びて迎へにゆき、里子嬢にいろいろ話す。就寝前、歯また痛み止めの薬のむ。

4月2日
6:00さめ、「翠紅園の光ちゃん(※結婚前の肥下恒夫夫人)」を云ひし丸のこと山本治雄に「たのむ」といふ手紙かく。ユ6:30さむ。
里子ちゃん○○君との結婚すすむ(※思ひ違ひ:里子氏〒より)「国は高松の独りっ子、住友重役の子で朗らか」と。9:52 肥下母子、新所沢へと出てゆく。
写真とり来る(408)。堀内太平より電話ありしをユことわる。夫婦ひるねして宮崎より大野由美のヱハガキ。海江田波留美「法務大臣をしたりか」。
小高根二郎「チクマの小高氏注目してゐる云々」。17:00米山生より「あす午后来る」と。18:30太田夫人より「土日に都立大の人」と。
けふ午前午后と2度昼ねす。前田光子生に電話すれば母君出て「5日すぎ来る」と。弓子きれいな顔して帰り来る。
麝島生より電話「シャボテン券2枚 16日に持って来る」と。アチャコ伝に長沖一氏出て来て元気なり。

4月3日
長沖一氏へハガキかく処へ角川より5冊来る。往復最短距離を歩き柏井歯科。茶2斤(200)とり、帰れば伊藤雅子「出版社につとめた」(※省略)
(肥下夫人より電話あり百済を高麗といひなほす。けふ夜、再泊の様子也)。
11:00すぎ栗山博士より「蓮の詩」どこにあるやと。「陶淵明」と答へ、蓮は恋といふ。すぐ電話し宋の「周敦頤の愛蓮説」「恋は君子」と訂正す。
うつぎ咲き良き庭となり故友らの手紙もやすもむかしおもひて。
筆とればうたとなりゐるさが授けたる父をばおもふ春さりにけり。
(※省略) ユ、税務署に5万7千5百円収めしと。
けんげうも咲けりとわれがしあはせを語ってゐるも妻にかしづく!
山つつじふくらむも見つわが庭の幸せここに極みて[そ]すれ。
13:30米山マチ子生来る。佐伯へつれゆき『庚申信仰の研究』『百鬼夜行』ゼミにとたのみ、もちゆかすこととす。
(※省略) 何事もさきまはりしていふくせのわれたしなめしこの子かなしも。20:00肥下母子来ずとて扉閉める。

4月4日
6:00さめ快し。周敦頤調べ直し、山田君に『現代の抒情』もってゆく気となる。
わが庭にもろもろの花咲き出づる時とはなりぬ朝の光に(昨日百合見つけし)。
12使徒10戒、12月、12単衣、12ローソク、12部族を思ひつく。マチ子のため也。8:30出れば丁度よき時刻となり(「新港文書」の複写に2,800払ふ)、
3人の面接。1人がDの小正月やりし竹内祥子にて「3人とも入学可」となり、昼食にちらし食べて帰宅。
(※省略) (佐伯へゆき「新港文書」の製本たのむ。)
(「小高根二郎君来泊の予定なしと日レ(※東レ)荘より電話ありし」由)。(※省略)

4月5日
6:00さむ。けげんは怪訝なることを知る。9:20咲耶来る。10:00葉先生来る。母は京都人と。12:30昼食して帰りゆく。
太田弘毅君、母上と来らる。14:00帰りゆきしあとすぐ仕度して中村屋に16:20着けば誰もゐず、定刻にて大藤、池辺2氏来り、
教務課長の定まりし話をし、(※省略) 浅賀・加藤(中沢)の2監事と鎌田女史と来り、八重樫(離婚と)、四條と2人つれ立ちて来る。
八重樫に「遊びに来よ」と名刺わたす。鈴木正義来り滔々とcamera-manの意気を述ぶ。吉成風邪にて来られず村田謹一郎、今井富士雄ともに遅れて来る。
われ19:30別れを告げしに大藤氏「会費立替へん」と!(※省略)
けふ渡辺氏「李白」のつづきもち来らる。少し足さんと試み、宮崎智慧氏を21:00まで夫婦して待つ。(※省略)

4月6日(日)
復活祭。太田夫人来りをり、長島夫妻誘ひて来ていただく。前田光子より電話「けふ写真来る」。
ついで来りし故、長島夫妻帰りしあと鎌田女史に電話すれば「古谷兄弟十津川へゆくとて前田光子にたのみし也。昨日の会費千円は大藤氏立替へし」 と。(※省略)
母に1万円長寿祝とす。弓子友達の婚礼へ帰り来りきれい也。福地邦樹君よりハガキ。
快便すませ17:35阿佐谷駅ホームへ上れば母、咲耶をり、四谷まで電車。「てっぱん焼あしたば」といふへ行く。
林叔父夫妻、としを、義一夫妻、千草来りをり、建、大、われらにて11人となり盛んに歌うたふ。
(※三遊亭?)歌奴といふが来てをり(※西島大を)「西島先生」といふ。21:00すみ、生田組と天沼組とに分れ、飲んべえ4人残す。22:00 帰宅。
(※省略) けふ、諏訪(※娘婿)より「11日上京」の電話あり。復活祭の恵なり。

4月7日
6:00さめ、(※省略) われまた詩かく。咲耶14時、建15時帰ると也。14:00李錦順生来り、双六呉る。「朝鮮の年中行事」に付け加へるものなしと!
これを買へといひ『李方子』与ふ。時間割来り、月火木にて月曜1時間あくのみにてよし!美紀子より電話「弓子この間ゆきし」と。
佐伯へ『展望』もちゆき雑誌とかへ来る。『正倉院御物図録(120)』買ふ。不鮮明なり。(※省略)
木瓜咲き、ムラサキ大根花盛りなり。(※省略) 宮崎女史ことわりなくして今日も不来。坂芳子氏の京都よりのはくせんこう8ケ食ふ。旨し。

4月8日
6:00さめ8:00すぎ出て千駄谷より斎藤dr.。薬かへ玉ふ。渋谷行のbusに乗り岩生博士を訪れれば「前橋へゆき玉ひし、法政」と。新港文書返却。
Whisky置きて出、中野行のbusにのる。ユ、浅野dr.に前田光子の写真もちゆく。(※省略)
15:30昼寐より目さませば滝本生と『果樹園158』と来たり。神戸ルーテル教会の某氏より「詩集の出版社見つけよ」と。ことわりの手紙かく。
滝本、隣家へ来るつもりらし。送り出し『現代の抒情』買はせ、帰り来れば宮崎女史より電話「雨降り出せしゆゑ明日来る」と。
あとにて見え歌の夫婦となるちかひす。柿崎生に電話すれば「12日の入学式に来、17日より聴講生となる」と。
ね入らんとする処へ浅野夫人より電話「せの高き子を」と也。

4月9日
6:00さめ「李白」ちょっとやる。ユ、サルビアを植う。早昼食ひ12:45成城堂にて『ポケット日本地図・世界地図』買ひ(靴ベラ100)、 (※省略)
柏井歯科。茶代200渡す。尚子ゐず「船越宅の案件むづかしからん」といふ。可笑。(※省略)
集英社より『日本の名詩』7版刊行と。夜、「李白」ちょっとやり疲る。北落師門をFomalhaut (南うお座α)と注つけるに数書を検する也。

4月10日
6:00さめる。オモト、黄菊、アセビ、苔、沈丁花、チューリップ、[ポットム]、山吹、レンギョウ、サルビア、榊、ツツジ、庭水仙、南天、前庭にあり。
ユ、ダッちゃんへとゆく。桜草の赤と黄とかへる為也。上村肇『みづうみ』来る。10:00マチ子来る。15:00送り出し17日semi修了後下田行承知せしむ。
内庭に木瓜、ムラサキ大根、桜草、三色菫、雪ヤナギ咲き、カヘデ、山椒芽吹く。
われたのしみづうみのごとわき来るうたを書きつつ謝しまつりをり。
ユの提案にて田中久子に下田行すすめしに「庄田生さそってみる!」と。澄19:30来り、茶漬くふ。「明日、大に会ふ」由也。

4月11日
よべ0:00眠り5:00さむ。「李白」1篇訳しねそべりをれば10:00澄起き、母よりの電話に「すぐ行く」といふ。「都市の論理」のこと長々と話す。
「村上新太郎氏死去」と薔薇短歌会より。「青木大乗展15日−20日高島屋で」と。(※省略)
肥下みつる氏より「岡田邸に2泊、全田叔母、牧師様をまた呼ぶつもり」と。佐々木邦彦氏よりの便りに1日の骨の会のこといはず。
14:00大、澄とともに来り、見まはして帰る。肥下夫人へ「里子を夏によこせ」とかく。
平凡社渡辺春輔氏に「19日原稿そろへる」といふ。服部教授、[岩橋]夫人、松村衣栄(『薔薇』主宰)の諸氏へ歌。
もろもろのわが罪のうちたかぶりをとむるすべをしわれはたづぬる。

4月12日
よべ22:00眠り6:00起く。入学式にゆきしに佐伯の本、来をり図書館へもちゆき第一に着席す。すみて『錦とギロの話』買ひて帰宅。
ユ、弓子とすぐ出てゆく。楳垣実教授より「1年半の入院中に奥様亡くなられし」と。昼ねせんとせし処へ統夫来り、茶と角砂糖とおきゆく。
弓子、ユのあと帰り来りきげんよし。われ夕食2度す。(※省略)

4月13日(日)
ユ礼拝にゆき、われゆかず。散髪500となる。(※省略) 『Biblia』来り、コン(※天理図書館八木女史)20年勤続をほめられし。
眞柱追悼に金井寅之助、この髭のこといふ。可笑! わが天にのぼりし時にわが髭のことを語らむ人ありやなし。
ユ買物にゆき相手の父母に町で会ひしと。(「李白」少しやり疲れ佐伯へゆき『ヱ゛トナム史(30)』買ふ。岡本氏といふ何でも書く男なり)。
『大世界史23』来る。けふ5月の陽気にて、田中久子・米山マチ子2生に下田行の誘ひとりけさんとす。米山喜び、田中久子は鎌倉行にて不在。
母上出られ「邪魔」といへば笑はる。麝島生に「あす来よ」といふ。弓子もけふ鎌倉の三井寮へとゆく。

4月14日
晴。9:00まで「李白」やりへとへととなり、大のところへ散歩にゆけば母来るところと。
帰りて昼食すませし処へ滝本生来る。折しも電話かかり麝島生地下鉄より。迎へにゆき、イタリアの写真見せられPerugia(※ペルージャ)の1枚もらふ。
わがひいきにして諸師よりも愛されゐる也。(藤田久一より電話「(※学生照会、省略)」)「2、3日まて」といふ。(※省略)
麝島生「20日、都留生のHimalaya行の別れに来るに会ふを期待す」と也。

4月15日
曇。10:00前方を大藤教授歩くを見る。新任に大山教務部長、学生部長も変る。
予算成立前とて2→3年の進級早々にすみ、浅沼教授、黒崎助教授を承認して12:30了る。
外へ出てspagetti食ひ(150)、高島屋の青木大乗喜寿展初日を見る。母(モト)嬢をり、やつれをり。juice(50)のみ、東西線にて中野まで来る(50)。
百瀬弘氏より『西学東漸記』来をり、すぐ礼状かく。池田温氏より在京中の礼状。藤井通雄氏「今宮高校長となりし」と。(※省略)
(けふ成城堂にて土井正興『イエスキリスト(230)』買ふ。) 「李白」けふはやらざるもすみさう也。(※省略)
保田『解釈と鑑賞』3月号にわが逮捕されしをかく。(※「回想日本浪曼派:ひとつの文学時代  連載23」)

4月16日
雨。6:00起き藤井通雄へハガキ。浅野建夫より電話「夫人、画を習ひをり、昨日留守した。今夜電話す」と。10:00出て千駄ヶ谷より斎藤dr.。
薬のみもらふ(805)。歩きて新宿に出、帰宅。『N.F.全集(※ノンフィクション全集)』3版3,000部とチクマより。(※省略) 「李白」あと3首となる。

4月17日
雪!「李白」やる。浅野夫人「あす来る」由。11:00出てすし買ひて登校(130)。中国文学史少く40〜50人。ゼミ葉、李、米山、深谷、吉村の5人。
吉田生、別れに来るかと思ひしに来ず、村松、榎並休みをり。15:30すまし、米山生としるこ食ひて帰る。
岩生先生より「礼これにてよし」との意のハガキ。京、終日在宅せしらし。昨夜より歯痛む。岩生博士に礼状かく。
楳垣実教授に弔み状かく。夜、松村氏に電話すれば「『万暦武功録』よむ。今週より毎土曜日10:30より」と也。吉田美智子「月曜に別れに来る」 と也。

4月18日
午前中「李白」の「上雲楽」にてすみ、渡辺氏に電話すれば「夕方来る」と。浅野夫人駅より電話かけ来り迎へにゆく。(※省略)
鈴木治氏より『中国后妃伝』見たしと。チクマに電話すれば「在庫あり」と「著者買上として5冊送れ」といひ、鈴木氏に「贈る」といふ。
(※省略) 柏井へ歯直しにゆき(ぬかず)茶のみ、母の方へゆき見しに、あかず帰り来れば渡辺氏来をり、155pまでの初校見す。
つづきわたし「李白」の伝記かきてすますこととす。「今スト中」と、帰りゆく。(※省略)
(佐伯に愚本もちゆき『ルイ14世(75)』、『ローマ法(75)』、『アジアの十字路(50)』とかへんとす)。
(柏井で「歯を外すな」と説教さる)。ユ、花井夫人へ電話「近々ゆく」と。

4月19日
晴。9:00出て東洋文庫へゆく。時間早ければ石田君のぞきしにゐず。神田君来り、茶入れ賜ふ。「学部長代行」との由。
ついで阿南、岡本、田川氏とで『万暦武功録』われよまさる。12:00すみしところへ松村氏来る。われ村松瞳を気にしてすぐ帰りしに電話かかり「永福町にをり」と。
(※省略)「春夫先生の6回忌を5月7日(水)12:00〜15:00般若苑にて」と。「出席」の返事すむ。
村松生来り、池田弥三郎の『男と女の民俗学』返し、ゼミに漢文教ふ。出来わるく無邪気なり。
(東洋文庫の掲示に「青山定雄博士の令息死去」とかかれあり、ユ新聞にてガス中毒と見し「大学講師31才」なり) (※省略)
(けふ駒込で菊池眞一博士に会ひ、亘理とまちがへて恥かく「曙町に住む」と也)。

4月20日(日)
夫婦そろって礼拝にゆく。(われ4:00に覚め、茶わかし6:00にsoupこさへさす)。
総会とて21:00すぎまでかかり長沢夫人の祈り上手なりに感心す。鴎外碑建設委員会より「1口1000円」と来しのみ。(※省略)
美紀子より電話あり「けふ来る」となりし。ユ、弓子の写真とり15:00となる。
宮崎智慧氏に電話し「泊りに来よ」といへば「前川佐美雄氏と上京、赤坂プリンスホテルにあり!」と。
15:30、史一家来り「よろひかぶと」と云ひしを「馬」とかふ。White-Shirt地与ふ。
村松生より「春の日の会のハガキ失った」と泣声の電話あり、出ぬこととす。17:30史一家帰りゆく。(端午の祝にゆくこととす)。

4月21日
9:00前出て10:00登校。入歯気にしながら東洋文化史やり、午食すみて飯島生と話し、別れに来し吉田生よりカステラ貰ひ「野口君のみ披露に呼ぶ」ときき、
漢文のprint切り、浅沼教授!に年令きけば「38才」と。東洋史「チンギスハン」やるといひcardとる(50名近くをりし)。(※省略)
帰れば『日本の詩歌』来る。(※省略) 『民間伝承』に浅野晃氏の「蔵原伸二郎悼記」のりをり。
肥下里子より「倭の朝鮮半島侵略」やると也。(※省略)

4月22日
よべ雨ふりしらし。9:30眠り6:30さむ。竹森先生へ「タバコやめられず」とかく。9:30出て成城堂へ寄り『中国の歴史 中』買ふ。
大学院の講義に柿ア、麝島、竹内洋子の3生出て「五帝本紀」黄帝のところよみ「三皇本紀」にかへることとす。
あと風月堂にてpuddingおごる(320)。佐伯にて青木一夫訳『東方見聞録(700×9)』注文しありしをとる。
丹波道久より「警部となりし」と。祝状かき、「スマトラ記」10×200書き了ふ。
けふマキヤ印刷より電話、「台湾の件うまくゆきし」との礼なりしと。

4月23日
晴。8:30ごろ斎藤先生へ参れば丸をり、「のど乾く」と也。すみて我入り「朝早く目覚めて困る」といへば「夜おそくねよ」との仰せ也(805)。
都電にてチクマにゆき240×80×5払ひ、聞けば「大宮の倉庫にあり」と。受取り呉る。
お茶水駅前にて喫茶。卵くひ(90)、佐伯に寄りて帰宅。ユ、外へ出をり、
ややして電話かかり母「来る」と。大と来りてガス釜あつらへ4、5月分1万円もちて帰る。「今月末西下」との話也。朱介凡『中国諺語論』よむ。

4月24日
佐伯へ寄り2冊「大安」の本注文す。すし買ひて食ひ、渡辺卓氏と話すうち時間となりprint50枚もちて出れば80人位中国文学史に出てをり。
(※省略) 歯、大分なれて声出る様になりし。1行だけ『詩経』よみ、次に追加印刷することとす。野口君と話して時間まちし。
semiに出れば7人そろひをり。葉「軽井沢に別荘あり」と。夏の合宿をいふ。米山生以外はみな弱くて困りたり。
米山生「庚申信仰」すみしと返す。家へつれ来り、苺くはせ、朝来りし『中国后妃伝』1冊与ふ。ユに云はせれば「又々肥えたい」と。
ユの撮りし弓子の写真出来よからず(よべ「山本(※義叔父の親戚)いや」と大にいひ来りしと也)。雅子、淳一のはよくとれをり。
肥下夫人より電話「里子2晩泊めよ」と也。『花影』来り、ユの歌6首のす。こは優待なり。鈴木治氏へ『中国后妃伝』包む。

4月25日
8:00起床(早くよりさめをり)。ユ、三鷹へ弓子の写真もちゆく。旗田巍氏より転居通知。母より電話「ガス釜ついた。弓子きかず」と。
武田豊氏へ『鬼(※詩誌)』の礼。北狄のnote作る。平凡社渡辺氏へ電話すれば「連休前に来訪」と。わがハガキ昨日つきし也。
ユ、太田夫人にゆき「令息の友だちを」とのことにて悠々16:00すぎ帰り来る。われ14:00すし買ひにゆき(130)、note(100)買ひ、タバコ買ひて帰る。
(※省略) 肥下里子より20:00「新宿にあり夕食して22:00までに来る」と也。

4月26日
9:30東洋文庫。神田君来られず阿南君来ず。松村君よみ、岡本、田川氏と4人なり。11:30すみ国鉄にて有楽町。
銀座飯店さがして12:30つけば花井、岸(安田)、吉原、星野、和田、道下(平山)、藤野、田中、藤田、匹田(桝田)の諸夫人来り、中華料理くひ、
14:30となり(※省略) 大阪の南隅夫人に電話すれば「連休あけに通信出来る」と。太田令息より「あす14:00来る」と。里子嬢風呂に入る。

4月27日(日)
8:30里子「考古学会」へと出てゆく。ユ、礼拝にゆく。われ昨日よりやりし「李白の星」のlist了る。泰、電話かけ「栗鼠飼ひゐる」と。
里子嬢「夜おそくなる」と。賀代嫗来り、「隣の家だけは孫にのこす」と。ユと二人して書きし設計書もちゆく。
小武守生より電話「あす夕方来る、父と」と也。里子嬢23:00すぎ帰るを知らず眠る。

4月28日
9:00里子嬢つれて登校。小田急にて「けふは(※大阪へ)早く帰れ」と車[中]警告す。
午食にまちがへてそば食ひしらしく山田君天ぷらそば食ふ。(※省略) 『古墳文化と古代国家』を買ふ。「邪馬台国九州説」也。
「printあさって出来る」との話なりし。けふ沖縄奪還demoに騒然としをり。給仕早く帰る。われも東洋史早くやめ、米山生さそひしもきかず。
佐伯に寄れば注文の『中日辞典』と森三樹三郎とりよせるとのこと也し。筑摩より『后妃伝』また5冊来をり。
渡辺氏14:00来り、跋文の写しと注のぬけしとを置きゆく。さっそくやり了ふ。
ユの話にては「昼食、母と3人にて外食せし」に「里子帰着」の電話なく、18:00近く小武守dr.、2嬢をつれて鯛もちて来訪。
「姉は好かれ妹は秀才」といふ。西島東大教授より1年下にて、海軍軍医止めしあと結婚」と。姉妹、母似らし。
夜、銀座にて大学生とmob(※暴徒)と乱闘と。

4月29日
天皇誕生日。平凡社へ速達出しにゆきユ、午すぎ帰り来る。和田夫人(※忘れ物の)rain-coatとどけ18:00までをり(※省略)
藤井陽子夫人より礼状来り「村山仁氏の7回忌」の案内あり「欠」と通知す。
(和田夫人、野崎カンヅメ社長が叔父とてカンヅメ多くとバナナと賜ふ)。

4月30日
6:00さむ。だるし。狩野和可子(あす結婚)に「富士若葉うつくしく子のとつぎゆく」と打電。ユ、薬とりに出る。
われ去年のnoteとりに母にゆけば、寿一の妻来をり、写真くる。「娘、新宿駅にて掃除のArbeitす」と。
探せしnoteなく一連のnote引下げて帰る。小高根二郎氏より受取。京けふ休みなるも出てゆく。「村山仁氏7回御花料」として1,000送る。
ユ17:00帰り来り「富士山の画を淳一にやり、史東京どまり電話つく、今井翠妊娠ときき来りし」と。
母より「あす東京駅へ送りたのむ」とのことにユ「諾」といふ。

5月1日
さむること8:00。ユ「胃痛みし」と也。散髪にゆく。ナルコユリ、スズラン、アマドコロ咲く。佐伯にやりしエビネ(蘭科)咲きをり。
10:30出て成城大。会計にて試験監督費受取る。税引き4.3万余にて意外に少し。饅頭くひて午食とし、中国文学史教へ、30分前にすまし、
エンマ帳、帖りするうち時間となり、semi。皆出席しをれど専ら村松生のことわざの解釈にて了り、あと風月堂へさそひしに、(※省略)
南新宿より東豊書店にゆき台銀本17冊と『杜工部集2冊(1,200)』、『史地叢考(150)』とにて4,410払ひ、
佐伯へゆき『五体清文鑑譯解2冊(2万)』とし『書経(50)』の外、『壇之浦軍記』くれし!
重きをかかへて帰宅すれば向ひの武谷家より移転の挨拶にハガキ。ユ「母を送りて発車2分前にすべりこみし」と也。

5月2日
『杜詩鏡銓』見つかる。7:30さめ、山野井秀子に電話すれば「連休も忙し」と。小武守のところ聞く。日野開三郎氏へ6,230、送る手続す。
(※省略) 宮崎智慧氏より「あす来訪」と。(栗田へゆき『ギリシヤ語入門(200)』買ふ)。〒なし。

5月3日
憲法発布の日とて休み。弓子「三浦半島へ」と出てゆく。10:00村松生来り、諺よまし、午となれば疲れをり。帰りしあとだるきを押して三鷹。
浅野dr.へゆく。「坊まだ結婚の意思なし」とて前田光子生の写真返さる。
浅野dr.帰り来り、「歯、全部抜いて入れよ。タバコやめよ」と。ふたつながら聞けずといひて帰宅。
20:30宮崎女史来られ『花影』のtopにわが拙き歌のせらる。慚愧にたへず。『R火3』doubleゐしをもち帰りもらふ。

5月4日(日)
夫婦して礼拝にゆく。連休の為か出席者寥々たり。帰りて午食後ひるね1時間半す。本位田昇「大森に公証役場、家は目白のmansion」と。
竹森先生より「タバコのことは余り苦にせぬやうに」と。「『ハイネ』また8千部5月中旬に」と角川より。「杜甫の星」探す。

5月5日
子どもの日とて休み。終日在宅。『軍事史学』来ぬかと阿南君より。「欠」と返事す。
4回生より「26日class会を13:00より」と、これにも「欠」と返事す。泰より「子どもの日だよ」の電話あり。
夜、今井翠に電話し、あす夕方前田光子の話もちゆくこととす。

5月6日
9:30出て成城大学。大学院に柿崎生来ず。麝島竹内2生に『中国后妃伝』贈る。「呂后本紀」やり、すみて媽祖のことしらぶる藤浪生助く。
(午休みSiam文字の軸もち来し図書館員あり)。教授会にて文化史の赤字40万円以上なるをきけば「民族文化」のせいと也。
今年度の予算見せられ(※省略) 19:00今井翠にゆき弟に前田光子のこときいてくれとたのむ。
「春雨物語」が翠の卒論なりしと。帰り寒く、炬燵入れてもらふ。

5月7日
鬱となり、斎藤dr.ユにゆかす。12:00すぎ帰り来り、鱧の皮を三越にて買ひ来る。李白、杜甫の星すみ、白楽天の星見しに少し!
岑参すませ『晋書天文志』写すこととす。17:30坂泰子生より電話「初月給もらひし故来る」とのことに18:30来りしと夕食す。
49kgありと、美しくなりをり。送りかたがたはじめて外出、佐伯へゆき『支那官話字典』きのふ見つけしを買へば180にまけてくれし。
けふ八木重吉よむ。あまり感心せず。主によらむ心あはあは歌ひつつ若くてゆける人とぞ思ふ。

5月8日
よべ電気ゴタツせしに朝方停電して目覚めだるし。8:00起き10:30家を出、『楚辞』よむ。
大藤氏に佐伯の受取「5万円也」わたせば、「新城常三博士にももらひてくれんか」と。中国文学史の時間にmyk入る。却ってやり辛し。
semiの時間みな出席。(※省略) 疲れて帰る。(※省略) けふ『果樹園』来り、肥下夫人より礼状。
川村欽吾氏より「転任」の挨拶。(※省略) 朝鮮の葬儀の参考書、家にもなく気がかり也。

5月9日
8:00起き、だるく白楽天の星ちょっと見しのみ。成城へゆくつもりなりしも、あす文庫やめてゆくこととす。
手紙ハガキの整理す。あさ美紀子より電話あり「電話架かりし」也。「だるく結核にあらずやと検査受くる」と也も、2児の養育に音を上げしと認む。
『成吉思汗実録』見つかる。「けふ日中30℃を越えし」と。

5月10日
8:00さむ。不快指数甚しく、だるきも成城へゆき「端午考」ひらふ。(※省略)
佐伯にて『蘇軾 下(150)』見つけて買ふ。(成城pãoにてmacaloni Napolitan食ふ。150)
けふより阿佐谷−新宿、阿佐谷−吉祥寺間ともに40円に値上りせし。鈴木治氏より変なること書きし受取と「菓子送った」由。
昼寐してやや元気出る。けふも30℃なり。坂泰子生へ礼状。肥下夫人へ返事。(このごろ不用のハガキ手紙焼きをり)。

5月11日(日)
礼拝、聖餐式にゆかず。雨。佐伯へゆき新城博士の件たのめば「よし」と。松崎佐知嬢来り、片岡夫人の紹介にて見合す。
比島戦死軍人の令息にて背高き人也。散歩にと送り出し、疲れしを知る。(※省略) 2女、「母の日」とて万年筆を贈り呉る。

5月12日
9:00前出て登校。東洋文化史にて朝鮮の葬儀みじかくやり、すみて山田教授と話す。「神田喜一郎博士の関係にて信夫君識りをり」と。
『史記』のprint切り、(※省略) 帰り、服部の記念のタバコ盆とり、灰皿(120)買ふ。ユ、けふパーマしをり。「明日弓子見合ひ」と(18:00より)。
片岡夫人より電話「太っちょゆゑいや」と。松崎姉君に電話し「縁なかりし」をいふ。(※省略)

5月13日
6:30覚む。(※省略)「午后より雨」と。弓子その中を見合なり。10:30出、米山生と同車。
朝、下痢2回せしもpão2ケ買ひ1ケ食ひ、(※省略) ユ、16:00すぎライスカレーこさへて東急へと出てゆく。
佐伯にて『催眠薬(100)』買ふ。「天理の鈴木治氏より天理羊羹2本賜りし」とて礼状かく。20:30ユ帰り来る。

5月14日
晴。斎藤dr.へ一番にゆき「鬱」申し上げ、薬かへてもらふ。帰り三井銀行前にてユと遭ひ、午、すし買ひに出しのみ。
一日中時間つぶしに弱る。〒なし。弓子きのふの見合の結果、ことわられもせねど「忙しくて交際できず」と也。

5月15日
わが庭に鴬来鳴くうれしさを告げやる人もなくなりにけり。
3時間目『史記』やり、4時限のsemi村松生につかまりつづけ「止めませう」となる。(※省略)
つかれて佐伯に寄り4,400の書債あるをきき「あす」といふ。新城博士の書籍費のことたのみ快諾されし。日野忠夫氏『日本の詩歌』見たと。
賀代嫗より「嫁世話せよ」と電話ありしと。山野井生にいへば承知したと。柿崎生「ことわる」と。
折しも大阪の南隅夫人より電話「6月6日のクラス会に出られぬか」と。「出られぬ、8月なら」といふ。
京に金借り佐伯へ『中日大辞典(3,120)』と『中国古代神話(1,320)』とりにゆき、新城博士の書類もらひ、その旨お宅へ電話す。

5月16日
朝よりこわくて耐らず(5:30覚む)。薬かへたまひしと弓子の断られしが原因か。蒲団かぶり伏しBibleよみす。(※省略)下痢し、午食、粥とす。
ユ、前川佐美雄の『捜神』に昭和30年の作として「四十五の田中克己がやうやくに唐辛子うたひ人生を歎く」との吟、見つけ出す。
夜、平凡社より速達にて「李白」32p来る。良くなし!睡眠薬のむまでふるへをりし。

5月17日
7:00さむ。こわさやや残る。10:00すぎ平凡社渡辺氏に電話し「原稿も送りたまへ」といふ。
山上に説き玉ひつる訓へをば忘れてゐたる時もありけり。
わが心感謝忘れてゐたりけり十字架のかげ身に負ひながら。
賀代嫗来り、2時間ほど章(※船越章)と話し「話つかざりし」と。17:00帰りゆきしあと、山野井秀子生来り、写真と吊書おきゆく。(※省略)
夕食して帰りゆくまでわれ疲れに疲る。
(けふ『山の樹』、村中測太郎追悼号来り、その急逝なりしを知る「晩婚にして2才の遺児あり」)

5月18日(日)
鬱、甚しくユに礼拝休ます。平凡社より原稿速達にて来る(32ページ以上)。あすのnoteすすまず「李白」の校正やる。
『不二』来り、3千円寄附に名出してあり。(※省略)

5月19日
ユを斎藤dr.i8td。鬱いはしめ、われは登校。
朝鮮の葬儀「納棺」まですまし、print切りCingis汗を歯咬みしながらnote作り「1206大汗即位44才」とまでやる。声通らず気の毒也。
倉橋文男氏いまも法政大教授とて甥の倉橋生(1A)名刺もち来る。
帰れば柏井尚子来をり、帰りしあと製本代500もちて佐伯へゆき、きのふ弓子のもち帰りししじみをも頒く。
(※省略) 斎藤dr.「鬱わからず」と夜の分、強くし、眠剤もかへ玉ふ。(※省略)

5月20日
10:00松浦父上、前田光子の写真返却。(※省略) 鬱のこれど登校。「史記 三皇本紀」了り「夏本紀」を次にといふ。教授会(※省略)
浅野晃氏の詩碑に「水野成夫もうかけず南喜一書きて立つ」と也!
スワより「トボ自転車に乗れる」といひ来しと。

5月21日
鬱やや退く。中央公論・文藝春秋より配本あり。(※省略)12:00すぎ賀代嫗より電話「柏井にあり」と。ユ山野井生の写真もちてゆく。
15:00ごろユ帰り「候補39才!」と。「他に話す」こととす。

5月22日
主のたまひしいのち短くなりにけり永遠をおもひて安くしあらむ。
わがいのち永くしなりぬほどほどにおそれつつしみありて行かなむ。
ユ、浅野建夫にゆきしあと、出てすし買ひて登校。けふはmyk旨くゆきしらし。
すみてsemiの前、米山生来り、虎のところよます。あと誘ひい風月堂にて茶のます(李生欠)。(※省略)
佐伯に寄り『瀛涯勝覧(1000)』、『満支習俗考(950)』買ふ。けふ成城堂の払ひせしに3,000余にて少なかりし。
ユの話す浅野夫人、悪妻の鑑たり。桝田紀子より写真の受取り来る。「李白」64page迄校正すます、よくなし。

5月23日
家居。平凡社渡辺氏校正もち来り「地図ほし」と。鬱、ややうすらぐ。南隅夫人に礼状かく。ユ、浅野夫人の悪妻ぶりを披露して不快なり。

5月24日
9:00出て平凡社に半分校正を速達し東洋文庫。1時間まちて岡本、神田(成城大学荒れし由)、田川の3氏来り、『万暦武功録』よむ。
みな大学問題に悩まされゐるものの如し。出て根津二丁目で下車。月見そば(120)食ひ、山野井家へわびにゆく。(※省略)
茶よばれて出、都電にて秋葉原へ出て帰宅。南村夫人に茶賜ふ。弓子「9:30になる」と電話「これにて(※デート)3回目」との由。

5月25日(日)
精霊降臨の日と後でわかりしもゆかず。Cinggis汗よむ。ユ帰り来り「出席少なかりし」と。弓子昼寐しをり。われ鬱にしてnote作れず困る。

5月26日
鬱こらへて登校。2時間やる。東洋史の時間、やっと声通るやうになりし。(『ベトナム民族小史』2冊買ふ)。(※省略)
帰りて夕食し了へたるところへ宮崎智慧女史来り、ユの同人費1千円もち、夕食して帰り玉ふ。(※省略)
花井夫人より「本人同士のみ会はさんか」と。

5月27日
床にゐれば米山生来り、虎(『太平御覧』の)よます。昼食してすみ、帰りしあと柏井尚子、恵の履歴書もち来る。「平凡社の事務へ」と也。
夕方になって美紀子、雅子をつれて来る。「その中、淳一預れ」と也。これにて疲れ切る。(けさ金川春三氏より電話「このみちを」の歌教へよと也)。

5月28日
斎藤dr.に参り、鬱はげしきを申し上ぐ。「下痢は関係なし」と也。
伊勢丹開店を待ち書籍card探せしになく、お茶の水へゆき木原正三堂にて200枚買ふ(200×2)。帰りて呆然としをり。
澄より夜、電話「トボつれて来る。迎へに来よ」と也(1日)。前田光子より「写真返せ」と。あす14:10「成城大学へ来よ」といふ。

5月29日
10:30出て、すし買って登校。中国文学史の時間マイク通らず、声をしぼりて陶淵明やり、print代集めしに69名出し矣。
教務へもちゆき semiの前に来し前田光子に写真返す。semi「蛙とかめ」つき、米山生『古今図書集成』の引くべき処示せと。
疲れて渡辺氏と話せしに浅香副手お茶と菓子出し、(※省略) 渡辺氏と同車にて新宿。帰り佐伯に寄り『支那学』来てをり。1割引くと。
帰宅すればユの友2人と滝本女史と来てをり。「木野代議士に雇はれゐるも今夜は泊る」と也。
「スマトラ記」休むこととす。「『ハイネ』32版8千部」との通知あり。

5月30日
朝、「スマトラ記」あきらめて小高根氏に同人費のみ送る。平凡社より李白地図来りし故かき直す。滝本女史10:00出てゆく。
福地君より「五葉松わからず」と速達、「それにてよし」と速達し、ユ、平凡社よへ地図と恵の履歴書もちゆく。
いよいよむつかしき様子なり。夜、母より電話「2日帰京」と。

5月31日
9:00出て東洋文庫。駒込駅前でcoffee(60)のみてゆけば松村氏来をり、神田田川2氏と4人にてよみ、岡本氏来る。12:00すみてまっすぐ帰宅。
13:00弓子の留守しゐるに焼きそばこさへてもらひ食ふ。
影山正治氏より『日本民族派の運動(1,300)』贈らる。大のことかきてあり、電話かけしにずっと留守らし。
ユ、吉祥寺へ遊びにゆき夕食すむまで帰らず。

昭和44年 6月 1日〜昭和44年12月31日
25.8cm×18.3cm 横掛ノートに横書き



6月1日(日)
快晴。大掃除とて便器、戸をはじめ色々すてにゆく。名古屋へ電話すれば依子出て「トボ風邪ゆゑよこさず」と。大に電話せしもかからず。
夕方までにnote作り了る。『文藝春秋5月号』買ひ来ってよむ。大学教授の苦悩をしるす。
『太平洋諸島の民族(200)』買へば佐伯「『支那学』あす成城へもちゆく」と。

6月2日
8:00さめ9:00登校。山田教授とあすの合同教授会のこと話せば強硬なり。print切り、米山生の史料よみ、疲れてチンギス汗。
(研究費出しとて通知あり。もらひにゆく。)『新約聖書(230)』成城堂にて買ひ、
佐伯に寄り(けふ『支那学』もち来し)『中国人名大辞典(5,500)』、『東洋文化史上の基督教(1,350)』買ふ。母帰りをり、澄夜来る。

6月3日
10:30出て新宿にてすし(130)買ひて登校。大学院へゆく『禹貢』の説明書旨く出来ず「この次に」といひ、14:10より文芸教授会。
山田教授「9月より渡米」と。「富永次郎氏、瀕死となりし」と也。16:10より20:00まで永々と合同教授会。
「学友会会長、山中史雄にかける」とのこと也し。夕食も出ず疲れしに、鎌田女史菓子出し、茶いれてくれ雨傘貸したまふ。
21:30駅にユ迎へに来てくれゐし。

6月4日
よべ12:00すぎまで眠れず。7:00さめ斎藤dr.へ9:40ゆけば患者多くをり。先生、薬を強くしたまひ1,505払ふ。地下鉄にて本郷三丁目。
琳琅閣へゆき3月3日に買ひし本代25,850払ひ『東洋文庫漢籍叢書分類目録(4,000)』買ふ。午食せず、地下鉄にて四谷。
中央線にて代々木下車、東豊書店へゆき『台湾地名研究(3,200)』、『中華全国風俗志』、『西域人与元初政治(400)』買ふ。
注文せしラーメン2時間近くまち皆平げて帰り来る。竹森先生より「Düsseldorfにゆかれし。Heine大学出来る」とのお手紙いただく。
不二歌道会より電話あり、一先づ礼云ひ「2冊欲し」といふ。「その中来る」とのことなりし。
半田良平氏の全歌集、長女林悠紀子夫人より送り来り、見れば「2児を結核に1児をサイパンに失ひ20年5月悶死」らし。気の毒也。

6月5日
10:30すし買ひ、大東塾出版会に2冊分3,000送り登校。「マイク修繕中」とのことに、なしにてやり50円のprint代また集め、 semi村松の諺すます。
(※省略) 疲れて帰りしに19:00大東塾の神谷氏(※神屋二郎)電話かけ「来る」と。区役所前まで迎へにゆけば朝鮮龍興?閔氏の系図もち来る。
年号をのせず干支のみ示す昭和2年のものにして閔妃の一族たり。
Whiskyのみ『日本民族派の運動』2冊置きゆく。(佐伯にて旗田巍『日本と朝鮮』買ふ。)

6月6日
葉生、10:00来り昼食し台湾の開発やりゆく。13:00帰りしあと14:00榎並生来り、亀のことよます。
不二出版部へ歌2首かき署名わすれしらし。渡辺氏(平凡社)より「訊きたきことあり明日4:00ごろ来訪」と。

6月7日
9:00出て東洋文庫。阿南氏久しぶりに来る。次回われよむこととなり、出る時、前田勝太郎君見てその後きけば「口なし」と也。ともに茶のみ帰宅。
渡辺氏来り、誤記誤植をきかる。「笑談」は「冗談」がまこと也と。

6月8日(日)
久しぶりに教会にゆく。太田夫人もユの電話にて来をり。「弓子のこと心がけたまふ」と也。
帰り佐伯に寄り『支那文化談義(550)』買ふ。小高根二郎氏より「2年間在職確実となった。8月号蓮田善明特輯とする」と也。夜、note2つ作る。苦し。

6月9日
10:00登校。2つやりprint切る。「あす文化史の会を目黒です」と。『星座手帖』といふを買ひし(わが忘れし詩をのす)。
帰れば栢木喜一氏より「夏期講座に来い」と。萩原葉子氏より「坊や(朔美)結婚」と。『書経』の「禹貢」殆ど写す。

6月10日
11:00すし買ひ登校。大学院、麝島生来ず。(※省略) 竹内生にきけば「やせゐる」と。
17:00まで待ち、学科の指導する大藤氏より先に新城、鎌田、池田の3氏とbusにて目黒(1,010)。香港園といふにゆく。
「元川崎男爵の邸なり」と。田中久夫、白鳥芳郎、古野博士など見えをり。
学科指導了へし大藤氏来りて開会、白鳥氏、上智の騒動話し、古野氏学士院の思ひ出話す。21:00すぎ了り帰る。鬱なり。(※省略)

6月11日
ユ、薬とりにゆく。小山正孝氏より電話「阪本越郎氏急死、お通夜にゆく」と。われ「葬儀にゆく」といふ。
午后、鈴木女史より電話、吉祥寺よりの路、教へられ、お花料5千円もちてゆく。
(母来り「ルリ子(※大氏の元妻へ)即金100万円、月額70万円にてよしいひしと。建の歎願状に署名せよ」と)。
夫人をられ、急死の模様いはる。通夜の席狭く、早々出てbusにのれば三鷹へ出る。『則天武后(150)』買ふ。

6月12日
登校。mykeまた役に立たず。やっと聞こえる声出るやうになりしらし。
昨日の全学集会800人余出席し200人の要求にて「全学職員と話合ひの場もちたし」と也。(※卒論指導 省略)
ユ「けふも胃わるく医者にゆきし」と。堀さんと三好さんとのことかかねばならぬ事、思出し困る。

6月13日
母来り、建の件につき嘆願書に署名さす。(大よりも電話ありし)。
佐伯へゆき浅見淵『昭和文学側面史(650)』買ふ。(※卒論指導 省略)
筑摩の東博氏にことわりいひしもきかれず4、5枚かく(「三好さんと堀さん」)。
夜、小山正孝氏に電話「阪本越郎氏のことしらしてくれてありがたう」といふ。

6月14日
よべ睡眠感なきも当番ゆゑ東洋文庫にゆく。駒込にて神田氏と遭ひ、きけば「阪大の山田教授と会す」と也。本屋ひやかし大熊規矩男『タバコ』見つ く。
(※省略)
山田氏白髪になりゐたり。10:30よりわれよみ11:30了る。『週刊朝日』の大学紛争記事よめと也。帰りて映画見、『週刊朝日』買ひ帰ってよむ。
(ユをして筑摩に速達せしむ。)
わがむすめわがまごどものみちたれる体思へば泪ながるる(サリドマイド中毒児のteleviを見て)。

6月15日(日)
よべもねつき悪く、3:00すぎねて8:00すぎ覚む。ユも礼拝にゆかず。
14:00葉生来り、すぐあと史夫婦来る。史夫婦と雅子と高島屋へゆき、ユ淳一つれて天沼の母のところへゆき乳母車にのせて17:00帰り来る。
をりしも史夫婦も帰り夕食19:00して史ゐばり美紀子哀れなり。雅子「ヂイチャンバアチャン」といひ、淳一も可愛し。
けふ角川より『現代詩』の印税(17,045−1,704)来りし故、美紀子に1千円渡せし。あとにて聞けば「bonus7万円」と。気の毒なり。
成城大学より「全学集会行ふも20日にこだはらず」と速達来る。(※省略) 二女「父の日」にと万年筆買ってくる。

6月16日
よべよく眠り、成城へゆきしに2時間め東洋文化史野生司生ら「大学法案をどう思ふか」に「反対」といひ、「理事者にもそれを云へ」とすむ。
13:00より学生大会教務で認めしとて4時限休みとなり、李杜のprint切りて帰り、佐伯で田中克彦訳『蒙古の歴史と文化』買ふ。愚著なり。
(※省略) 〒なし。岡田英弘氏へ「会ひたし」と返事。

6月17日
8:00さめ、斎藤dr.へ10:00すぎゆけば満員。薬もらふ(1,005)。すし新宿で買ひ、大学院へゆけば麝島真理子出てをり。『始皇帝本紀』よむ。
14:00すぎしに気づかず教授会へ出れば学長「学生の無礼に怒りをり」と。あすまた「学生会に各専攻よりも出よ」とのことに野口氏にたのむ。
すみて文部省の図書費100万円に『朝鮮学報』15万円をたのむ。
(『コギト』そろひ製本ずみ50万円と臨川の書目に出てをり。けふ佐伯書店、金とりに来るに遭ひし。) (※省略)

6月18日
6:00すぎ覚む。花井夫人より「弓子の見合あすかあさってか指定せよ」と。雨止む。11:00出て全学集会にとゆく。
定期1月分2,330もらふ。13:00まへより母の館へゆき山田教授と並んで坐る。
13:30よりはじまり15:30「成城大学学則に真善美とあり。demoは美ならず」との発言で休憩となる。空気わるき故出て研究室。
鎌田女史にハングル初歩教へてそのまま帰宅。(※省略) 弓子「あす」と花井家に伝へる。

6月19日
登校11:00。myke使へしも李杜の詩に私語多く、叱りてやむ。semi前に葉生、茉莉茶多くもち来し故、研究室へ寄附す。semi少しもやらず写真とりしのみ。
雨降り来しゆゑ電話して緑屋までユに傘もち来さす。(野口氏『朝鮮歳時記』貸し賜はる。)

6月20日
史より電話「大蔵省の研修に衛藤瀋吉氏呼びたし」と。佐伯へゆき『日本民族社会の研究資料(550)』買ふ。
筑摩の東博氏より原稿の受取。真野喜惣治氏より愚痴いひ来る。
夜、衛藤氏に電話すれば「(※依頼は)電話でよし」と。美紀子に電話せしに「今夜おそくなる」と。

6月21日
9:00さむ。ユ「花井家へ」と出てゆく。13:00村松瞳生来り、(※卒論指導 省略)
ユ帰り来り、われに炒そば食はし。、村松に茶出す。村松生15:00ごろ「疲れし」と去る。(※省略)
全田叔母よりハガキ。吉田美智子生より「下河辺姓となりオホーツク海沿ひの門別に住む」と。

6月22日(日)
8:30さめ礼拝にゆく。人少なく衛藤氏も見えず。太田夫人来られ(※省略)
『連合艦隊の最後(150)』買ふ。(※省略) けふ成城大学より「火曜臨時教授会」と電話ありしと。

6月23日
雨。16:00出て向ヶ丘遊園地の紀伊國屋(※料亭)にゆく。われまづ先にて次に来しは築島東大教授、古野、堀川、上原、大藤諸氏と4生とにて河魚料理。
話はずまず21:00すみて築島教授と帰る途「松本善海氏と似てゐる」といはる。

6月24日
晴。よべも睡眠感なし。salaryもらひ(※省略) Heine1冊買ひ、大学院にて竹内生にやる。
14:10より図書館にて教授会、学長弱腰にて「学生と会はず」といひ、学部長また専攻決定を1年のばし3年にせんといふ。(※省略)
佐伯に寄り『はこやのひめごと(650)』と『ベトナムの農民(400)』と買ふ。
花井夫人より「先方も少しわかりたく直接電話かけて会ってよきや」と「よし」といふ。(※省略)

6月25日
よべ久しぶりに安眠。10:00出て三越にて4,800(箱代+100)のwhisky買ひ、斎藤dr.に贈呈。
「睡眠感なかりし」と申し上ぐれば「のど乾きますよ」と薬変へたまひ1,850(1週間分!)。
代々木まで国鉄。東豊書店にゆき『安禄山事迹(150)』、『花村談往(340)』、『台湾土著族的文化語言分類探求(1,560)』にて丁度2千円本買ひて14:30帰宅。
(ラーメン80とりて食ひし)『元典章』の誤字訂正しをれば平凡社渡辺氏お越し。「本文の校正これにて皆了り」とわたされ、次は原文なり。

6月26日
10:30出て、すし買ひ登校。夕立のごとき雨、成城にてあがる。
「けふ学生大会臨時にやる」との掲示ありしが「認めず」とのことに中国文学史にゆけば30人斗り。出席とりてあと「自主性もて」といひて帰らす。
研究室にも来て文句いひしゆゑ「大会に出ていへ」と野口君ともども云ひ、semiに来りし李、米山らにも同じこといひてやる。
学長「学生を信ぜず」といひて面会ことはりしと也。15:30まで待ちて帰り、山野井、坂、小武守3生まてば皆それぞれに苦労しをり。
すし食はせ21:00すぎに帰りゆく。

6月27日
喘息おこる。「花」を『果樹園』社に速達す。夕方、丸重俊に電話し「あすゆけず」といふ。「姜、高橋(旧姓)2人も来り、12人集まる」由なり。

6月28日
風邪らしく、はな水出る。東洋文庫石田君より電話ありし故、松村氏のことわりたのむ。

6月29日(日)
夫婦ともに礼拝にゆかず。午すぎより鼻水のみの風邪となる。深谷多鶴子生に電話してきけば「昨日投票あり。スト派負けし」と。
「越南史やりに来よ」といふ。

6月30日
5:30にさめ、眠きも9:00出て10:00成城。2Cのみストすると掲示し、学生会の役員総辞職(学長を呼べざりしとてスト叫びしも投票にて敗れし也)。
14:10まで待ちて1年の東洋史にゆき風邪にて声出ずといひ出席とりて止む。米山生「水曜に来る」といひ、夕方「榎並生も来る」といふに困る。

7月1日
よべよく眠る。斎藤dr.にゆかんと云へばユ止め、12:30出て成城堂にて『ムガル帝国』とり、図書館4階にて委員会。(※省略)
学長「理屈通れば会ふ」といひし由。

7月2日
ユ、薬とりにゆきしあと(※省略)10:30米山生来り、馬の史料よみしも採れるもの少し。午ユすし買ひて帰り来り、食はせしあと榎並生来り、
同じく『古今図書集成』よみしも亀のところはおほむね採れるとわかる。18:00近くになりて帰りゆく。
ユ病院にてきけば「引けなくなりしと1,805やはりとられし」と。けふ『不二』来り、福地君より「1万9千円貰ひし」と喜び来る。
林俊郎夫婦「相模原市に別荘せし」と。

7月3日
午前中、柏井歯科へゆきしに「明日ぬく」と。(※省略) 村松生来り「女」少しやり帰りゆく。
母来り、「林叔父の家に下宿生せわせよ」と。
小山正孝氏来り「杜甫せかる。地図一枚にせん」と也。

7月4日
午前中、柏井へゆき左の奥歯の根とってもらふ。帰り加藤(※加藤周一)『羊の歌(90)』買ひ来る。14:30榎並生来り「亀」よませ、米山生の来しとともに帰りゆく。
『羊の歌』よみ了り反駁の文かきたくなる。松村氏に電話すれば「あす万暦武功録の最後」と。宮崎女史『花影』もち来り、「保田夫人歌集出す」と。

7月5日
よく眠れず。9:30出て東洋文庫へゆけば岡田英弘氏アメリカより帰りをり。
「野尻のcamp(※日本アルタイ学会:野尻湖クリルタイ)にゆきしあと、松村、神田2氏ともども台湾へゆく。無圏点老档(※『満文老档』)出版となりし」と也。
帰りてみれば村松生来てをり『婦女生活史』の漢文よます。送りかたがた出て柏井へゆき、歯みてもらひ「来週もいちど来よ」と也。(※省略)

7月6日(日)
雨。礼拝にゆかず。和田夫人より「道満生上京中」と。このごろ『元典章』の校をす。

7月7日
雨。ユ、美紀子腎盂炎なれど松浦父(※薫氏)坂出市長となりて留守ゆゑ、淳一見に薬王寺へとゆく。15:30米山生来り『太平御覧』の馬すます。
折からユ帰り「淳一けふは翠姉見てくれる」と。(数男より電話「恵ほとんど書けざりし」と)。

7月8日
ユ、風邪ひどく淳一とりにゆけず夕方ことはれば「美紀子なほりさう」と也。
東豊書店より『通俗編(3,720)(※清代辞典)』入手したと。「送れ」といふ。
朝、速達で来し「李白」原文35p、20pやりて疲る。(榎並生「亀」よませ吉村生来しもゆづらず)。

7月9日
雨。千駄ヶ谷より斎藤dr.。立ち話にて薬かへず。1,855とらる。130のすし買ひて登校。
米山生に「蛇」の写すべき箇所いひ、「李白」原文校了し、すし食ひ米山生に速達出しにゆかせ、
また「蛇」おほむね写せと書置きして委員会に大藤氏と出しに高田部長案の「今年度1次志望みなとる」こと通せしあと(※省略)
けふ淳一、美紀子つれゆきし由なり。

7月10日
雨止む。佐伯へゆき『世界浴場物語(100)』、『南方民族の生態(100)』買ひ来る(よべ眠剤きかず!)。村松生来り (13:00)15:00「約束あり」と走り去る。
(※省略) よべ岩崎昭弥君、江東の都議選(※社会党)応援に来てゐるとて「けふ来よ」といひしも「来られず」と。
平凡社渡辺氏来り「山中吟」doubleゐると。けづりて「相逢行」入れれば「よし」と。
中野清見「次の書店より本出しわれに献呈しゐる」と。田中久子生より奈良漬もらひ礼状かく。田中順三郎氏よりbutter。

7月11日
久しぶりに曇。深谷生来り「さ来週よりやる」と。榎並生より「下痢」と。『たばこの話あれこれ』買ひ来り田中順三郎氏に礼状出す。
東豊書店に電話せし直後『通俗編(3,720)』来る。葉雅美の母より紅茶贈られ電話して「一度来れ」といふ。

7月12日
曇。9:00さめ東洋文庫へゆきDapper(※Olfert Dapperの図譜)の122pまで複写たのみ(1枚65)、「10日して出来る」ときき、松村君の室へゆき、
明日より野尻のクリルタイの印刷する岡田・ 神田・松村氏に会ひ、石田君に会はず。東豊書店へゆき『通俗編』の代金3,720払ひ、『台湾今古談』買ひて帰る。
林叔父、火災保険に来てをり。『果樹園』来り面白くなし。李生「来られず」と電話せし由。

7月13日(日)
曇。礼拝、聖餐式。竹森先生夫婦「10日ドイツを出、ギリシア、エルサレム、アラブ連合をへて8.15御帰国」の由。
衛藤長老(※衛藤瀋吉)にこの間の電話の失礼わぶ。(※省略) 新学社より印税(830−83)。松浦薫氏より四国新聞「(※坂出市)市長に辛うじて也し」と。
浅野医院より暑中見舞。南隅Bチャン留守中に電話くれ、(※省略) 『元典章』のみやる。榎並生より「明日来る」と。
美紀子に電話し「お祝のしかたしらせ」といふ。

7月14日
斎藤dr.。眠剤のこといへば首かしげたまひ1,505。15:00榎並生来り「亀」よませ卒論できるや否心配す。学科7を残せる也。
(けふ新宿で小高根太郎に遭ふ。「停年近し」と也。)小高根二郎より「次号40p」と。村松生「あす朝来る」と。

7月15日
暑し。村松生10:00来り「軽井沢へゆくまで強行する」とのこと也。
(朝、池田教授(※池田勉)より「富永次郎氏逝去、16日通夜17日密葬19日大学で葬儀」としらせらる。)
ユ、午後母のもとへ子供らの中元5千円もちゆく。留守に尚子来り「平凡社よりダメと通知ありし」と。(※省略)
ユ「松浦家へお祝に3万円もちゆく」と也。

7月16日
暑し。午後榎並生来り『古今図書集成』の「亀」すむ。
17:30出て小金井の富永家へくやみにゆく。古谷綱正氏をり池田氏に案内され仏前に坐りしあと古谷氏と話して帰る。
(※省略) (佐伯にて『平戸蘭館日記(1,450)』借り『山ゆかば苔むす屍』と『秘境西域をゆく』とにて260にして呉る。)
アポロ11号発射にてtelevi 22:50までさわぐ。京「マツナエ家に泊る」と。

7月17日
10:00すぎ葉生来り「台湾の開発」やることとす。午食せしめしところへ榎並生来り「亀」了り「すっぽん」やり、「けふにて止め」と帰りゆく。
ユ、中途松浦家へ祝もちゆき17:00美紀子電話にて「今から帰す」といふ。京帰り来り20:00すし買ひにゆくと入れちがひにユ帰宅。(※省略)
立原達夫氏「八王子へ転宅せし」と。平凡社渡辺氏、地図もち来り、校正させ「あと小山氏に見せる」との由なりし。

7月18日
朝、散髪にゆき佐伯に払ひす。午后米山生来り16:00まで「蛇」やりゆく。午より咽喉いたく飯くへず。(※省略)
松浦薫氏より礼と「史を留守番にする」との電話きく。

7月19日
のど痛く富永氏の友人葬にゆかず。滝本生来りしとユ話すをきく。(※省略)
夕方、山野井秀子来り「木曜見合せし」と「近々京都へ姉とゆく」といひ、医師会の文書直さす。のど大分なほりし。

7月20日(日)
睡眠不足にて礼拝にゆかず。南隅夫人より「8月27日11:00より京都にて(※帝塚山学院)クラス会。鍛冶さん、井上斌子出る」とのこと也。

7月21日
4:00さめ、アポロ月着陸のtelevi見る。あと眠れず10:00出て斎藤dr.。
薬かへたまひ「普通に見える」とのことに成城にゆき、マカロニ・ナポリタン食ひ(150)、大藤教授と話す。
13:00すぎsalaryもらひにゆき成城堂に払ひし『広辞苑第2版』買ふ。佐伯に寄ればあり、残念。
新本屋で岩波文庫『易経』上下とクセジュ『ベトナム史』と買ふ。アポロにて騒しき一日也。

7月22日
暑し。10:00米山生来り午まで「巳」よみしも面白くなく気の毒なり。
午食せしあとともに出て、われは東洋文庫。Dapperのprintきけば、あと1週間後と。
石田君をらず、岡田君をり「明日神田、松村2氏と台湾へゆき来月27、28日ごろ帰る」と。斎藤先生の薬また渇く。(※省略)

7月23日
きのふよりやるはずなりし「女の夜」出来ず。(※省略) 平凡社渡辺氏より「校正送った」と電話。
途にて会ひし戸田謙介氏へwhiskyもちゆき、欠号もらひゐる間に、また電話ありしと。
あとにてかかり「困った」といへば明日来る様子なりし。葉生よりも「あす10:30来る」と。

7月24日
葉生来り、あすより軽井沢と。12:00素麺くひて帰りゆく。
「女の夜」かけず、televi映画見てゐれば渡辺さん来られ、欠行示され恥ぢて訳加へ、李白の説明またへらしてかんべんしてもらふ。
夜、小山正孝氏来り、地図見す。駅まで送りゆく。

7月25日
10:30深谷多鶴子来り「8月1日再来」と。「滝本生来る」といふに淳一つれ今井翠来る。あせもだらけ也。滝本に「薬王寺町のはなれに入るや」 ときく。

7月26日
よべ9:00に眠りしも、ねむくて困る。13:30出て東洋文庫。Dapperの写真122pにて5,025払ひ、石田君さがせしも見つからず。 coffeeのみて帰り来る。
(午、今井翠来る。「12月出産」と。)

7月27日(日)
弓子3日間休みにて、その間淳一ゐる也。ユ疲れて薬王寺に電話せしもいつ帰るや不明。われDapper殆ど役に立たざることわかり落胆す。
21:00史夫婦と雅子と来り、淳一つれ帰る。

7月28日
30℃以上10日もつづく。斎藤dr.にゆき湿疹いへば「裸でねよ」と。1,505払ひtelevi見ゐる中、吉村生来り、
大百科のうらなひ写さし『台湾風俗志』貸せしもよめざる様子。京、高知より帰り来りねる。(※暑中見舞 省略)

7月29日
「スマトラ記」かけず(※暑中見舞 省略) 佐伯に寄りしも本なし。夜食の時、奥歯痛み、数男にゆきしも抜かず。(※省略)

7月30日
34℃を越す暑さ也。柏井へゆき歯みてもらひしも抜かれず。[坂]本美登里(※故阪本越郎)夫人より「9月18日を100日とて追悼会す」と。
(※暑中見舞 省略)  坂本へ「ぜひ出席さしてくれ」と手紙かく。(※省略)

7月31日
暑し。(※暑中見舞 省略) ユ、花井夫人に「先方より連絡なし」と電話す。夜、深谷生より「あす10:00来る」と。

8月1日
柏井歯科へゆき奥歯ぬいてもらふ(大の本『近松浄瑠璃 上』借る。いま下阪中と)。帰りて深谷生の指導す。
筑摩の東博氏『堀辰雄・三好達治』もち来らる。「前川氏の日本歌人会、伊豆長岡であり、われ出席す」と!
和田夫人より「27日のこだま8:00にてよきや」と。「会場は岡崎」と。
坪井明より「体直り沖縄へゆく」と。(※暑中見舞 省略)
田川博士に電話し「ソール大学の李崇寧(言語学)、延世大学の閔永[柱]、高麗大学の李弘[鍾]3教授に紹介たのめ」といはる。
美紀子より電話「3日午后父在宅」し。滝本生に電話して「ユと3人にてゆく」こととなる。

8月2日
李錦順生に航空便出し(60)、柏井歯科。帰り歩く。原伴子生、次女つれて来る。(※省略) 渋谷駅までのbusにのせて帰れば滝本生来をり。

8月3日(日)
礼拝に夫婦ともゆかず。ユのpermaにゆく間、滝本生の相手をし、11:00来し三浦女史といふに会ひ、ユの案内にて松浦家にゆかせしあと、
美紀子より電話「父の飛行機おくれし云々」。
16:00ユ帰り来り「翠の産すむまで貸せず」といひし由。腹立ちてたまらず19:00ごろ滝本生また電話かけ来り「計画おくらす云々」あやまりてすむ。

8月4日
きのふけふと涼し。何もせず午后柏井へ歯でゆき、母に会へば「70万円の税金にて心配」と。(※暑中見舞 省略)
『日本歌人』より「夏行伊豆長岡」での案内「24日午前ゆく」と返事。けふ宮崎智慧女史に電話せしに「12日まで休み」と。

8月5日
午まへ午ねし午后とまちがふ。米山生に電話せしも応答なし。

8月6日
暑し。深谷生に電話し「あす来い」といふ。(※暑中見舞 省略) 小高根二郎氏より「蓮田善明25回忌にゆく」と。
松浦母上より「来る」と電話あり、汗ふきふきことわり聞く。(※暑中見舞 省略)

8月7日
暑し。深谷生来りしに「ヴェトナム書け」といひ、(※暑中見舞 省略)
あす白鳥先生にゆき「淳一とりにゆくこととせし」に、葉生「軽井沢より聞きに帰った」と電話、「あす10:00来い」といふ。

8月8日
暑し。10:00来し葉生に、とっておきの20万分の一台湾地図貸す。(※省略)
13:30出て渋谷東横にて買物し、洗足行にのりちがへ引返して短波前よりbus、白鳥先生をお見舞ひす。ものいへたまはず。
渋谷へ出てbusにて史宅へゆけば2姉手伝ひくれをり。
今井翠母子とtaxiひろひ、淳一つれてtaxi(580)。あともてあまし20:30弓子帰り、すぐあと京帰りしに助かる。

8月9日
8:00さめしも午までねてをり。吉村達代生来り「あすより北海道へゆく」と。淳一の始末に困る。

8月10日(日)
我のみ礼拝にゆく。竹森先生御夫妻「14日夜、羽田へお帰り」と。14:00すぎ淳一もてあましユtaxiにて送りにゆき8:00帰宅。

8月11日
眠剤きかず、淳一と大学院紀要とのためなり。斎藤先生にいへば「書いてみよ」と。「美紀子けふより今井家(※姉宅)へゆく」とユの話。
澄より電話「母上夫妻の見舞にてよくなりし」と。「27日の宿そのうちたのむ」といふ。
夜「女の夜と印地打」2×400かき、ねる。(※省略)

8月12日
家居、寿一夫妻「小諸にゆきし」と。(※省略) 滝本女史来り「15日ごろまでに転居す」と。「女の夜と印地打」8枚となる。televi直し1,700払ふ。

8月13日
8:00さむ。滝本女史、ユと家探しにゆき「2万円にて成宗に見つかりし」と。(※省略) 筑摩より7千円ほど(前借引きあり)。
けふは「女の夜」かかず。平凡社渡辺氏より電話『唐代詩集』3冊あさってもち来ると。
宮崎智慧氏に電話し「日曜(24日)泣く泣くゆく」といへば「亀井勝一郎夫人と同行」と。(※省略)

8月14日
8:00さむ。暑し。「うつぎ」にゆき駄本2冊買ひ「女の夜」かかず。京休みなれど2度3度と出歩く。〒なし。母より「暑し」との電話。

8月15日
無為。柏井尚子、茶もち来る。(※残暑見舞 省略) 渡辺氏16:00ごろ『李白(唐代詩集)』3冊もち来り『南の星』小山氏よりもらひしとsignせしむ。

8月16日
無為。(※暑中見舞 省略) 夕方「関口八太郎夫人逝去、19日雑司ヶ谷で葬儀」と。本位田、丸に電話し「香奠、西川とで1万円とせん」といふ。
滝本生ら「ひっこし了へし」と箒借りに来り、あとにて返しに来る。ともに会はず。

8月17日(日)
夫婦して礼拝にゆき1年ぶりに竹森先生の聖餐式を受く。あと茶話会にて先生御旅行の足どり話さる。太田夫人と話すユに先だって帰宅。
14:00午食。ややして来し松崎淑さんに縁談話し「会ってみる」こととなる。
西川に電話すれば「下阪、あす帰宅」と。池田徹思ひ出して電話すれば「西川にしらす」と也。けふ前川佐美雄氏より「遊びに来よ」と。
姜照美生より暑中見舞。

8月18日
暑し。高校野球決勝の引分け見をり。弓子帰りきのふ干しし海水着盗まれしことわかり不快。
(『果樹園』来る。辻浩子夫人より「クラス会で会ふ」由)。澄より電話かかり「26〜28日親子にて上京す」と。
滝本のapart夫婦して見にゆきしに不在。池田に電話すれば22:00かへり「13:00の告別式でよし」と。香奠3千円づつときめ本位田にもその旨伝ふ。

8月19日
ユに喪章と1万5千円用意させ10:00出て斎藤dr.。鬱と申上ぐ。薬代1,720(8日間)。地下鉄にて新大塚下車。大廻りして雑司ヶ谷墓地につく。
13:00西川来り、池田またず焼香了ふ。(畠山ノリ子、六栄門父子に会ふ)。池田に会へば3千円出し帰りゆく。
西川の車にのり「この間、大阪今中の19期生会にてわが事みないひし」と。(吉村が「よろしくといひし」と)。
東京駅で別れ昼食して地下鉄にて帰宅。坪井に関口夫人の死を告げ(「脳軟化症にて短期間にて死なれし」由)、(※暑中見舞 省略)
京、GelbeSorte2ケ呉る。(佐伯にて『星座(300)』買ふ。) (※省略)

8月20日
暑し。丸より3千円送り来る!(※省略) 14:00出て柏井へゆく途中『文藝春秋』9月号さがせばなし。数男「歯根骨を削らねば」と脅かす。
母のところへゆけば、ユすでにすしと花とを買ひて着きをり。すし食ひしあとユ「松崎女のところへゆき途迷ひし」と1時間近くして帰り来る。
busにのりて荻窪を廻りて帰れば、京「中へ入れず」と怒りをり。

8月21日
10:00出て(李錦順生より「大学で史料あつめてゐる」云々、林素梅(※台湾旅行で知遇)より「右手けがしてご無沙汰した。おみやげの店してゐる」云々)。
成城大学図書館にて『大言海』など見、柳田文庫のぞきしも本なし。大藤教授に会へば「野口君在台。9月10日帰る」と。
salaryもらひ坂本教授より『唐代詩集』の礼いはれ、伊藤講師?より『全唐詩』、『白香山集』などの有無問はれ、
成城堂に『広辞苑』と『良心的兵役拒否の思想』の払ひ(2,993)し、
柏井へゆけば、むつかしき故「9月末まで手術のばす」と。助かりて母にゆき父のモーニングもち帰る。
『日本の詩歌』来る。山田俊雄氏より礼の電話ありしと。滝本・三浦2女史「転宅の挨拶に来し」と也。

8月22日
8:00すぎさむ。林素梅へ航空便。伊勢丹へ雅子のすべり台買ひにゆくユに托す。母上まだ在京也。
(本位田より速達にて3千円来しゆゑ脳軟化症と関口夫人のこといへば自分もそれと)。(※暑中見舞 省略)
われ加藤周一『続・羊の歌』買ひ来りよむ。夕方、和田夫人より電話「27日8:00の新幹線券とれ。速達す」と。

8月23日
8:00さむ。古谷多恵子より「9月2日東京ヒルトンホテルで挙式」と速達「出席」の返事す。集英社より『日本の詩』の印税1,620−162来りをり。
午后散髪にゆき、佐伯に寄り『未解放部落(950)』買ひ来る。

8月24日(日)
5:00さめ、ユ促して国鉄にゆけばまだ急行なし(沼津まで買ひし)。こだま7:55に乗り三島にて下車。伊豆長岡まで電車。taxiにてゆけば朝倉に遭ふ。
前川夫妻、宮崎智慧女史のほか横田俊一教授に挨拶し、茶のみ前川主宰の追悼の辞のあと、われ弔辞と再会とを喜ぶをいふ。
若林百合女史「川田順先生の姪にて夫、京大を退官」と(あとにて大高の先輩、光夫氏夫人と気づく)。
埜沢宏氏(大阪読売論説委員)に挨拶受け「池澤君(※池澤茂)来年停年」ときく。天野忠氏への伝言を横田教授にたのみ、
13:30、busにて西伊豆海岸にゆく人たちと別れ、taxiにて長岡駅(ゆきは220、帰りは180)。
折しも14:25三島始発のこだまに乗り、帰宅すれば、和田夫人27日8:00のgreen券来てをり、礼いふ。「駅まで椿下、ピーちゃん迎へに来てくれる」由。
(「けふすべり台つきし」と美紀子より電話ありしと。)(※省略)
澄より電話かけ来り「26日泊る、27日兄の家にゆくゆゑ名古屋に寄れ」と。「寄らず」といふ。
けふ横田教授より「本出しましたね」といはれ驚きしに、19:00近く帰り来しユに、朝日朝刊に大広告のりをりしを教へらる。
(前川師より『名歌鑑賞』もらひし)
わがひとみ常にかがやきわが心つねに躍るとけふは知りにし。
年をへて主の血染のむ身となりしわが身ばかりかもろびとともに。
ヱ゛トナムにわがゆきし時つるぎ帯び人殺さむとおもひしを恥づ。
わが悔いはつねに罪をば思ひつつ救はれしをば忘れゐること。
(※省略)

8月25日
涼しけれど眠くてたまらず。ユ、母へとゆきちがひに大より電話「母ゆきし」と。午睡し高田瑞穂氏の礼状見る。
『立原道造研究(※小川和佑著)』買ひ来り。読み了る。だるし。

8月26日
雨の中を斎藤dr.。「文春にてお書きになりし犯人の直りし」と反対にわれは上官反抗せしこと申上ぐ。
佐伯にて『詩における現代(250)』買ひ来ってよむ。浅野晃・栗山理一氏より受取。内海琢也氏より「蓮田善明論」。澄21:00すぎ来て「依子妊娠」と。

8月27日
5:00すぎ起き6:00ひげそり食事し7:00出て8:00のGreen車にのる。(※省略) 11:00京都着。
迎へ来てをらずtaxiにて会場「竹中」へゆけば10人ほど既にをり。13:00昼食出る。(※帝塚山学院同窓会)
伊藤、井上、榎本、鍛冶姉妹、相良、太田、塚本、安村、山尾、椿下、中田、野崎、本多、和島、奥村の諸旧姓、あとにて菊池、中馬諸旧姓来る。
中馬の坊やかわゆき年頃也。
15:30出て平安神宮へ中馬、菊池2夫人と中田母子とゆき、中田夫人帰りしあと17:10近く西洞院氏(※菊池氏)車もち来り、京都駅まで送り呉る。
homeに諸夫人諸嬢をり17:38発、アメリカ人多きGreen車なり(帰りの汽車賃ねじこまる)。
『文芸通信(※帝塚山学院文学サークル誌)』われの還暦祝としてわれ編集発行ときむ。
太田夫人necktieくれ、中田夫人細工くれ、みないろいろ貰ひ土産買はず。名古屋出て弁当食ひ20:30東京着。中央線立ちて帰宅。
小高根二郎氏より「本受取った。10月よりユニチカ東京副支社長として単身赴任、2年つとめて止め」とハガキ。

8月28日
花井タヅ子夫人に電話、井上さんの話す縁談見込みないらし。藤野一雄氏より速達「小林英俊詩碑の発起人になれ」と。「諾」の返事し。
『星座の楽しみ』、『朝鮮史入門(600)』買ひ来る。coler-filmの出来上り「土曜夜」と。
賀代嫗来り「11月3日11:00父の50年祭に出よ」と。滝本のapartment見にゆき帰りてまた出てゆく。
真野喜惣治氏より電話「出張中」と。小林英俊詩碑のこと伝ふ。20:00また痴漢来りしを京みつけ、事なし。

8月29日
ダルさつづき何もせず。午すぎ警官来り、痴漢のこときき「ビルマ弓兵団より帰りし群馬県人」と、長々と話してゆく。
船越家、屋根のフキカヘしをり。『世界晴歌考(300)』買ひ来る、可笑。浅野(今村)羊子生へ「こらへよ」とハガキかく。

8月30日
「京都」かき『果樹園』にと速達す(2,500+125)。母来り、昼食代りに団子食ひしのみにて、だるくて困る。
ユに写真屋へゆかせれば10枚[茫]然ととれをりてよろし。夕食後、滝本生来りwineくれる。中野清見より「10月19日ごろ上京」と。

8月31日(日)
58回目の誕生日。「ダルし」といへばユ、礼拝にゆかさず。吉野(中馬)敦子より誕生祝の電報ありしのみ。
ユ16:00ごろ帰宅。「三鷹の本多喜一姉へゆきし」と也。

9月1日
暑し。10:00登校すれば学長との対話要求のプラカードのみあり。中西教授(※中西進)「紀要は明日締切り厳守」と。
「回教徒の葬俗」をあとにするといひ、3月分の定期代もらひ、保田の「ある文学時代」了りしを知りなどして4時限「長春眞人西遊記」ですます。
美紀子の字にて雅子淳一の誕生祝ひの手紙けふつく。(※残暑見舞 省略)
夜、一心に書きしも400×25で了りとなる(女の家と印地打)。(けふ日本民俗学会に1,050払ふ)。

9月2日
8:00さめ、『史記始皇帝本紀』やり、10:30出て成城。morning熱し。大学院早めに了へ(池田博士に『唐代詩集』贈り礼云はる)、教授会。
(※省略) 「この間は日大生50名来りしも警官隊に追ひ返されし」ときく。「女の家と印地打」中西博士にわたせば「他は未提出」と。
「採否おま[かせ]」といひてすむ。15:30出て日本Hilton Hotelへ17:10着く。(※古谷多恵子氏披露宴)
新郎は関医博の長男にてサンフランシスコの某大学院に在学中。(※省略) 雨中、赤坂見附まで歩く。弓子頭打ちしと也。

9月3日
雨止む。5:00一度さめ安定剤のみ9:00起き斎藤dr.へ10:30ゆき12:00御診察。「軽き躁」と申上ぐ。(※残暑見舞 省略)
神田信夫氏「台湾より帰りし」と受取。阪本越郎夫人より「9.18高輪プリンスホテルにて18:00より百ケ日を」と。「出」の返事す。
古谷家への万年筆の受取り来る。(※省略)諸生へ写真送る。
けふ夜来るといひ玉ひし宮崎智慧女史「気分わるくて」と電話。
(けふ平凡社より『中国古典17』初版(※『唐代詩集』印税)1/3=325,700−32,570=293,130来り三井へ入れる)。依子より電話「名古屋で生む」と也。

9月4日
朝、母来り「大より音信なし、河野の式には1万円出しユ行くことにてよし」と也。
出てすし買って登校。渡辺氏と会ひ、山田教授の渡米の日きかる。平凡社より「7千部刷りし」と。ゼミの時間、李生のみ質問し、あとは怠け。(※省略)
成城堂にて『第二次世界大戦夜』、『習俗』、『杜甫(高木正一)』買ふ。夕方新しくつきし電話にて滝本生にかければ三浦女史出て「いま留守」と。
あとにて滝本生来り、母のかたみの布多くユに呉る。われ『堀辰雄・三好達治』与ふ。躁にて元気かつだるし。
賀代嫗より「(※息子の)離婚認められ判決まつ」と。今井翠より「山田教授を羽田に送る」と。「このごろはやらず」と教ふ。
ユ14日13:30市ヶ谷駅まで松崎女史つれゆくこととなる。北ヱ゛トナムのホーチミン胡志明(阮愛國)死す。

9月5日
8:00さめ、(※省略)写真送る。小高根二郎氏より詩や受取。松村潤氏より「楊雲萍教授に会った。『万暦武功録』を6日より」と。
ユ、松浦家にゆけば母上をり「兄この間坂出へ飛行機にてゆきし」と。縁談決まりしならん。「史、逗子へ講習にゆきをり」と。
「畠山紀子を見かけし」と。(※省略)

9月6日
8:30起き東洋文庫へ11:00着く。岡田、松村、神田3氏台湾より帰りをり「楊雲萍氏、喜びし」と。阿南氏来り次を読むこととなる。
coffeeのませ「祐天寺へ葬儀にゆく」といふに新宿にて別る。(※省略) 今中十九期生会より「金払はねば縁切る」と。

9月7日(日)
礼拝にゆく。先生こはくなられしも出席少し。(※省略) 米山生来り「蛇」2時間よます。
ユ「弓子に縁談あり」と吉祥寺へ出てゆき夕立。小山正孝氏より電話「詩人仲間には『唐代詩集』評判よし。阪本越郎の会には出られず」と。
(※省略) 夜、山田教授より電話「あす立つ、お大事に」と。「今井翠の妊娠中にてゆかれぬ」といへば「手紙もらひし」と。
note作りやっと了へし21:00也。

9月8日
10:00登校。L2Cスト一週間と貼紙す。午休み山田氏の補助として学習院教授土井洋一氏に福田氏(成蹊大)より紹介受く。土井忠生氏の後嗣ならん。
printに「長恨歌」切り、Cinggis汗を死なして一般教養すむ。阪本越郎氏の追悼『文藝広場』来る。詩の選者の後任は神保光太郎也。
ユけふ成宗の相手の家見にゆき「相当」といふ。(※省略)礼状。

9月9日
8:00さめ『史記』よみ、礼状かく。10:00『果樹園』163号来る。(※省略) 大学院早々にすまし帰宅。(※省略)
佐伯に寄れば注文せし本まだ来ず2冊追加す。(※省略)礼状かき了へる。19:30宮崎智慧女史来訪、「伊豆行の2日前心悸せし」と。

9月10日
10:00すぎ斎藤dr.。薬のみもらふ(1,400)。佐伯にゆき『新編食物史』、『部落』買ふ。(※省略)礼状。(夕方より雨)。
14:00榎並元子来り「亀と鼈とで了りにせん」と、しきりにくさみして帰りゆく。

9月11日
10:30出てすし買って(130)登校。大藤教授に聞けば「武田明氏、民俗学会に来ず」と。mykeのはめこみ忘れて大声にて中国文学史。
semiにては村松生つき、李生つかれし顔しをり。葉生力なし。「学生総会15:40よりあり」と。
われは成城堂にて石原『文禄慶長の役(440)』買ひ、小倉副手と同車、茶おごりて別れ、佐伯にて『みことばの糧(180)』買ふ。
母10:00に来て「熱あり」と寝てをり。羽田より「次嬢結婚、離れなきや」と。(※省略)
けふ諦めゐし角川のHeineの印税90,567−9,056=81,511来る。入浴中、山野井秀子生より「姉と14日来る」と電話あり。

9月12日
今中十九期生会へ千円送る。母やつれ疲れをり。『骨』33来り、八尋不二氏わがことをいふ。村松生より「あす14:00来る」と。

9月13日
9:30出て東洋文庫。石田君不在。神田、松村、岡本、田川諸氏そろひ、阿南氏よむ。12:00出てcoffee(80)のみて帰宅。昼食す。
14:00村松生来り『中国婦女子の生活史』の宋まですむ。佐伯にて借りし『中国の漢文暦法(2,000)』払ひにゆき、『平和の発見 (100)』買ひ、
新本屋にて『朝鮮の民俗(1,400)』買ふ。夜、滝本生、三浦女史をつれ来り弓子の洋服の寸法はかり21:30までわが話きく。。

9月14日(日)
礼拝にゆく。婦人席少し。帰りて昼食。ユ「松崎女と阿佐谷駅で待合せ」と出てゆく。帰り来れば山野井姉妹来り「父の方すみ、秀子は心当りなし」 と。
ユ、弓子をつれて吉祥寺へゆく。山野井姉妹帰りしあと、留守番す。京帰り21:00ユ帰り、弓子いやいやの顔をす。
電話かかり「明日も会はん」と也。松崎女史より電話「相手よくあすも横浜へゆく」と。(※省略)
弓子の相手横山氏「けふも会ひたし11:00阿佐谷駅」でと也。

9月15日
だるく午までねてをり。ユ、老人の日とて母のところへゆく。「大あす大阪へゆく」と也。(※省略)
弓子17:00ごろ帰り来り、早ねす(きけば「新宿御苑にゆきし」と也)。
宮崎女史より20日歌会「駅よりユに電話す。柳田国男先生の野草雑記ありや」と。「あり。20日ユにもちゆかす」といふ。

9月16日
10:30出がけ伊藤和子生より「大藤、鎌田2先生を招く。来ずとよし」と。(※省略) 教授会。野口助教授帰り来り、比島、台湾の話し、中国地図賜ふ。
夕食後、滝本生来り、トルコ煙草とハンガリー煙草と呉る。(※省略)

9月17日
ユ、斎藤dr.にゆき近鉄事業部長野崎氏へ弓子の吊書ともちゆく。(※省略) 松崎女史より「一度話ききたし」と。(※省略)
4:00ユ、帰り来り「先生に会ひし、野崎部長には会へざりし」と。(※省略)
前川佐美雄氏より「この間はわざわざありがたう。中谷、浅野2氏来て泊りし」と。(※省略)
Hungaryとのサッカー見てたのし(0−0)。けふ散髪にゆく。あす阪本越郎氏の会の為なり。

9月18日
はれ。10:40出てすし買ひ登校。文学史の時間さはがしく出欠とり、『敦煌遺文』中途でやめ、semiには吉村つく。「土曜午后、吉村来る」 と。
すみてゆっくりし南新宿下車。餡蜜(120)食ひて品川。(※阪本越郎追悼会)
高輪prince Hotelへゆく途、土砂運搬のトラックの途に入り、泥まみれになりそのままHotelへゆき、阪本越郎氏の令妹?の世話にてぬれ雑巾かけしも駄目。
同卓には亀井勝一郎夫人、室生朝子、小山正孝、川口敏夫(初見)が向ふ側、同じ側には三井ふたばこ、大木実、四季八木社長(※八木憲爾)、我。
福田清人の司会の前に夫人の挨拶あり、波多野完治(お茶の水大学長)、西脇順三郎、伊藤信吉、木俣修などの話あり。
田中冬二、竹中郁(「小野十三郎の詩の講義の種本は阪本氏」と)なども話し、令息の挨拶にて21:00すぎ了る。
帰り品川駅にて中央公論の鈴木女史と同車。五反田にて別る。
札幌の早川勝美氏よりたより。千川より「物故者法要に出し」と。『東方学』会費切れと。箕輪生「唐の文化」やりたくゼミに来ると。

9月19日
ハガキ5枚かく。(※省略) 宮崎女史に電話すれば「あす12:00阿佐谷駅にてユと会ふ」と。『ユダヤ人(300)』買ひ来りdoubleとわ かる。
その前『大化の改新』、『沖縄文化叢説(770)』買ふ。夜、松崎女史来り「沢(金)氏、気に入りし」と話す。須川知(ノリ)子生より(※披露宴案内 省略)

9月20日
9:30出て東洋文庫。けふは神田氏休み、岡本氏よみ「次はわれ」と。13:30阿佐谷へ帰り、天ぷらそば(150)食ふ。ユ、宮崎氏の歌会へ出、(※省略)
『日本の詩歌3』来る。吉村生来り『太平御覧』返し、亀と占ひのことやりゆく。
ユ17:00帰宅。前川氏「宮崎・大伴2女史の不和に宮崎氏を叱りし」と。

9月21日(日)
よべ眠剤半分しかのまざりしに、保田のゆめ見て苦しく8:00すぎさめ、礼拝怠る。
けふは聖餐式あり。入信者の祝あるはずなりしも夫婦ともにゆけず。残念也。弓子掃除し13:00出てゆく。
15:00滝本生より「来るに非ずや」と電話(19:00まへゆきし也)、亀井夫人斐子より歌集(※『終ひ薔薇』)送られ礼状かく。
19:00夕食し、入浴の前後にnote作り苦し。史、美紀子2子をつれ来る。淳一太りて可愛し。
母来り「離婚費100万円を大江叔母より借りるやう話してくれ」といふ。弓子に雨靴おきて帰りしあと也。
松浦母上まだ在京「父市長工場誘致にて市議会を与党のみにて開き成案せしめし」こと新聞に見え「母上来るな」との由也。
まるまると肥えし孫はも誕生を前に祖父母を喜ばせ去る。
上一つ下二つ生えし歯を見せて笑ひて去りし孫をおもふも。

9月22日
9:00出て登校。月見そば(130)たのみ、ソロン族と漢軍の葬儀教へ昼食。1時限あきをりし故『詞抄』printせしに「来週木曜は休み」 と。
米山生のため『四部叢刊』の『山海経』と『論衡』2冊を図書館より借用し来り、
Cinggis汗すませしあと、Ögedei(※オゴデイ)の伝にかかり、Batu(※バトゥ)の征西に入らずして止め、
研究室に帰り来れば中西博士「女の夜と印地打」かきたせと返しをり。
馬淵東一氏と話して鎌田女史(お彼岸とて柳田邸へゆきし)まち、竹内生に餡蜜くはす(240)。「小正月をくはしく書く」と也。
雨降る中、佐伯へゆき『枕草子』、『東洋史講座』2冊と島田正郎『アジア(800)』にて1,100払ひて帰れば『アジア』以外はみなdouble。
福地君より「右手の手術せし」と。鍛冶美和生より茶贈らる。夜、飯倉紀子より「10月23日椿山荘で結婚式に出よ」と。(※披露宴案内 省略)

9月23日
下痢す。滝本生に「25日賀代嫗来泊」いひにゆきしに三浦女史のみをり、佐伯にまたゆき『万葉植物図説(400)』と『アメリカ西部開拓史(80)』と買ひ来る。
端午かきたさんと本多く見しも『朝鮮の年中行事』noteみつからず。

9月24日
下痢なほらず。note見つかりし故、ユを斎藤dr.にゆかしむ。雨にて古谷多恵子サンフランシスコより航空便。

9月25日
下痢ぎみなり。午后佐伯へゆきdouble本売り(500)、愚本2冊(430)買ひ『週刊朝日』買ひ来る。松本清張の「鴎外の碑」のれば也。
米山生「あす13:00来る」と。滝本生より「賀代嫗を地下鉄口にて迎へつれ来る」と20:00電話ありし。
「端午の節供」稿なりて1筆も下さず。21:00すぎ2女史賀代嫗と来り、賀代嫗大声を発して泊りゆく。

9月26日
花井夫人の妹の縁談ことわり賀代嫗の用なりしと。(※省略) 「統夫の離婚裁判10月第1回」と。齋藤晌博士よりやっと受取。
夜、礼の巡査長来り「相手吊書わたさず」と。

9月27日
9:00まへさめ、眠き中、朝食し東洋文庫へつき、田川、松村、岡本3氏相手に『万暦武功録』よむ。
12:00すぎとなりcoffee(80)駒込駅前でのみ、帰宅。母来をり「大江へ100万円の借金申込しや」と、「申込まず」と答ふ。
今井信雄氏(※諏訪中時代の教へ子)より10月25日17:00荻窪「桃山」にて「蓮田善明25回忌」す「会費3,500」と、「出」の返事かく。
佐伯にて『中国永楽宮壁画展(70)』買ひ来る。午后筑摩より「『non-fiction全集』増刷、印税21,000−2,100を三井銀行阿佐谷支店に入れし」と。
滝本より「19:30来る」と。宮崎女史「22:00までに時間あれば本返しに来る」と。(※省略)
夜、滝本・三浦2女史、弓子の洋服仕上がりしをもち来をり(宮崎女史『柳田国男集』返し、前川氏の手紙見す)。

9月28日(日)
ユ「月賦の屋根屋来る」とて、われのみ礼拝にゆく。(※省略)
午后、飯倉紀子生、電話かけ来り、駅まで迎へにゆけばfiances田島英明氏と来り、菓子呉る。(※省略)
「蓮田善明25回忌」に、「欠」の返事かきしあと、須川知子生に電話すれば他の先生も招き「出」の返事ありと。
蓮田氏のこといひ、改めて「欠席」をいふ。夜「スマトラ記9」書く20×10。福地君宛に送ることとす。屋根屋即金なら17万円、分割なら17,7000と。

9月29日
下痢こらへて9:00まへ家を出、成城大学で上厠、2時限と4時限とフランス語の試験の補助。
間に李錦順生来りし故、本貸し『韓国文化人類学叢書』と『韓国の民俗』とり返し、他の4冊貸す。(※省略)
けふユをして福地君に速達せしむ(135)。けふ成城堂で『三朝の風俗と文学(670)』、『南方熊楠(600)』買ふ。

9月30日
けふも下痢。10:30出てすし買ひ12:30これを食ってのち「ヴェトナム史」の深谷生教ふ。米山生も来てをり。14:30より英語の試験監督。
けさ出がけに買ひし『週刊朝日』は古にて帰り10.10号買ひ直す。『果樹園』164来り、10月号なり。(※省略)

10月1日
雨。9:30斎藤先生にゆきしに満員。下痢申上ぐ(1,400)。帰りは千駄ヶ谷に出、佐伯にて『インドの説話(160)』買ふ。
夕方出て『Erotica4(480)』買ひ来る。Londonの池田温氏より「11月帰朝」と。夜、高橋重臣君「阿佐谷へ来てをり、あす午前来る」と。

10月2日
10:00すぎ高橋君より電話、迎へにゆく。「大浜君、文学部長」となり。昼食に麺くって「神田へ」と出てゆく。(※省略)
太田夫人より「中央大学出の34才の長男と、この日曜見合するや、即返を」と、「す(※する)。あすユ祝ひにゆく」といふ。「長男13日結婚」 也。

10月3日
8:00すぎ覚む。ユ、9:00すぎ出て太田家へ祝(1万円)もちゆく。14:00帰り「成宗2丁目の34才の長男に日曜弓子会はす」と也。
論説資料保存会より「晩年の杜甫」収録可なりやと。「可」と返事す。

10月4日
10:00出て東洋文庫。『万暦武功録』岡本、松村とわれに田川博士よむ。『文藝春秋10月号(70)』買ひ来りよむ。

10月5日(日)
9:15出て礼拝、ユ、弓子の見合(※小林氏と)にてゆかず。14:00帰り来りて昼食くはす。『不二』来る。
夕方竹内(※竹内好)より電話「中野・後藤(※大高同窓中野清見・後藤孝夫)来る故、会せん、20日ごろする」と。「西川(※西川英夫)にもいへ」といふ。

10月6日
8:00起き10:00登校。試験監督。12:00深谷生来り、ベトナム史よます。
中村生「八幡太郎義家やるにつき漢文教へよ」と、「水曜来い」といひ深谷生は「木曜10:00に来る」となる。15:00疲れて出る。
けふワシントンの山田教授より「退屈す。今井翠、美紀子によろしく」と。関口八太郎君より「七七日すみ寄附した」と。
小高根二郎氏より「原稿受取った。13日よりユニチカ世田谷寮に住む」と。
夜、松崎嬢来り「叔父叔母反対、この話とりやめたのむ」と。そのまへ今井翠に電話し山田教授の伝言つたふ。
けふ太田夫人より「多額の祝にておどろいた。弓子の件、先方9日帰来、10日ごろまた会ひたし」と也し。

10月7日
ユ、須川知子、飯倉紀子2生の結婚祝ひに新宿へゆく。われ下痢し「端午」考へしのみ。12:00ユ帰り来りし故、昼食して登校。
図書館へゆきしも『金光明最勝王経』みつからず、がっかりす。(※省略) 15:00より教授会、「土曜おそはれし2Aの女生まづ大丈夫ならん」 ときく。
すみて「相良徳三先生を兼任教授とすることとなる。72才」と。大藤氏の室に集り1号館移転後のこと相談す。われ「2階がよし」と主張す。
(※省略) 出口王仁三郎の孫より小説(※出口和明『大地の母』)もらふ。

10月8日
雨、だるくユに薬とりにゆかす。中村美智子生来り『義家史料』よまし18:00帰りゆく。野崎氏より電話「候補者せ低くてダメ」と也。
小高根二郎氏より「13日より世田谷区代沢2-1-11ユニチカ世田谷寮にあり」と。(※省略)
けさの中に「端午の節句」400×35とし、中西博士に電話すれば「池田、栗山2博士未提出ゆゑ来週でよし」と。(※省略)

10月9日
雨。母、早くより来り「ルリ子の品物一つもとどかず」と訴へをる由。受取なく送状もなき也。(※省略) 下痢つづく。
15:00深谷生来り「ヴェトナム史」いやいややりゆく。庄田泰子より「あす朝、田中久子と来る」と。弓子銀座から電話(21:00すぎ)。

10月10日(体育の日)
葉生来り「新竹市史」やれといひて本貸すところへ柿崎、田中久子、庄田泰子の3生来る。葉生帰りしあと12:30に待合せと3人とも去る。
『人間の星』(※西川満著1959)来り、山川弘至のことかく故、訪ねてゆけば面会日でなしと。「台湾地図」置き、
佐伯で『結婚論(30)』買ひ『李王朝六百年史(450)』借り来る。(※省略)
けふ新聞に「鎌田重雄死、60才」とあり。神田氏より電話「松村氏葬儀委員長とてあすの研究会とりやめ」と。
けふ角川よりハイネ6版8千部(9×8000+x)送り来る。

10月11日
散髪にゆく。佐伯へ450もちゆけば150呉る。帰りてユの買物まち、12:00出て成城の民俗学会。沢田四郎作博士に会ひてのち開会、
都立大の法科の教授某の話おもしろくなく、来年度「元典章」やらんと思ふ。
丸重俊、都留純也来をり、都留生Nepalへゆきしと。夕食立食にて沢田博士に写真とられ、
博士とならぶをとりくれしは、桜井の松本俊吉氏とて、この夏、栢木喜一氏にいひつけて呼びしに不快といひてことわりしとおぼえをり。
beerちょっと飲みてまっ赤になり困る。帰途、東洋大学大島健彦氏と同行、駅で平山敏治郎博士とともになり「大学院へ来らんか」とよけいなこときき不快となり。
帰宅すれば松崎佐知嬢の姉と叔母来をり「佐知嬢電話に出ず、母とも話さず」と、夫婦してあやまり代り探すといふ。
(白鳥芳郎君「父にもわるきところありし」と鎌田の死にしを知りをり。詩人須崎梅濱氏(※不詳)80才で亡くなられれしと通知あり、鬱気味となる)。

10月12日(日)
寒し。9:20ユ、出てゆきしあと工事人来り、10:00われ茶出す。「鎌田重雄死!、葬儀本日調布市延浄寺にて」と通知あり!
『立教大学史学会名簿』、『人間連邦(詩人連邦の改版)』とともに西川満氏より「火、土以外に来よ」と。
弓子10:00より高尾山へゆくとかいて出かける。山田俊雄氏へ近況かく。ユ、この手紙出しにゆく間に史の一家来る。淳一可愛くなりをり。
買物にと3人出かけしあと淳一眠る。けふ工事一応すみしと也。弓子多摩へゆき寒かりしと也。

10月13日
晴、9:00ごろ悪夢見てさめる。葉雅美に電話「立教史学科出の姉に手伝はせよ」といへば「家にをらず」と。姜照美へおくればせの礼状。
けふは太田弘毅君の結婚式なり。服部夫人へ昨日贈られし梨の礼状。
本田浩生より『室生犀星』贈られ、朝子君離婚の由知る。母来り、ユと買物に出てゆく。
佐伯へdouble本もちゆき150円といふ故『近代文学研究史論(250)』と『ロシア語−英語辞典(100)』買ふ。
(郵便出しにゆき三上次男『陶磁の道』買ひ、滝本によれば留守なりし。帰れば電話かかりをり「近日来る」と。) (※省略)
西川満氏に電話し「その中ゆく」といふ。鎌田重雄のことなど思ひ出して鬱となる。(※亞細亞文化研究所時代に不和の同僚。)
小高根二郎氏に電話すれば25日の「蓮田善明の会にて会ふ」とのこととなる。

10月14日
9:00まへ大工さん金とりに来り、ユ銀行へと走る。われ下河辺美智子に電話す。13:00李生来り『朝鮮語辞典』もちゆく。
そのあと金子書店にて『日本語の系統(250)』買ふ。鬱ひどきとき滝本生来り、憎悪の念を改むることをいふ。21:30となり帰りゆく。

10月15日
だるきも9:00出て斎藤先生に参れば14:00〜16:00と変更と。帰宅してつまらぬ顔して昼食。13:00出てまた斎藤先生にゆき20分まちてお目にかかり鬱はげしといへば薬かへ玉ふ。
都電にのり新宿へ出て帰宅。今宮高校の校長に藤井君なりし。

10月16日
だるがり乍ら10:20出て、すし買ひ登校。教務へゆき311のmykeのこといへば、その時間にゆきくれると。
序でに『朝鮮歳時記』のcopyたのめば、あとにて1,200と出来をり。311ひびきて聞こえざりしと也!
15:50よりの専攻説明会に出れば国文と文化史とにて60人足らずらし。国文の諸氏の説明すみ、話合ひ呼びかける学生あり。
中西助教授とらへられて困りゐるに「文化史の説明せよ」との女生の声あり。なほも呼ぶゆゑ「黙れ、あとで話しに来い」といひ、
大藤教授(歯の治療と)の代りに専攻の性質いひ、ついで鎌田、野口、新城と3氏の話すみ、
わがゼミのこといひて先ほどの学生呼べば4人来り(中に1人タバコ吸ふ女生あり)、理想の社会をといふ。
野口君来り「田中先生は前年体をわるくされし故、われに云へ」と。30分ですみ、鎌田女史に茶菓よばれて帰る。(※省略)

10月17日
だるし。佐伯へゆき『中国古典全集』の既版本納入を奥さんにたのみ、
『中国政治制度史(350?)』買ひて帰れば、榎並生来をり「すっぽん」の古今図書集成の箇所よます。われ3度放尿にゆき17:00までやりて帰す。
成城大学2生課長より電話「あす13:00臨時教授」と。松村潤氏より電話かかりしに、その旨告げ「欠席するやもしれず」といふ。
けふ硲晃(※今宮中時代の教へ子)より「交野へ転居」と。

10月18日
けふ朝より上厠3回、10:00成城教務へ欠席の届せしところへ新城教授より電話、これも休むと也。(※省略)
ユ、渋谷へゆき母と京と西武で会ひ、着物見繕ひしと14:30帰り来る。
夜、肥下夫人より栗一籠たまふ。鬱ややのきし。弓子、会社の遠足にて外泊と。

10月19日(日)
小雨。われくたびれて礼拝にゆかず。Ögödeiの時代のMongolsの征西のノート苦心してつくる。(※省略)
19:00片岡夫人、沢氏つれ来り「松崎女史と沢氏とまだ切れず、応援たのむ」と。われ長[広]舌ふるひ鬱を忘る。
21:00、2氏帰りしあと李錦順生より電話「あす学課なし」と。「来い」といへば「13:00来る」となりし。弓子、那須より帰り来りヱハガキ呉る。
澄に電話し「金ついたか」と問へば「ついた、すぐ返す」とのことに「10万円はやる。弓子の分だけ返せ」といふ。
硲君に「内憂外患」とかく。

10月20日
李生より電話「けふ来ず、あさって来る」と。何も出来ず不安でをり、佐伯へゆき駄本買ひ、学校への本注文す。
竹内(※竹内好)に電話すれば「中国の会」と夫人。2回目電話通じ「22日18:00するが台下すずきうなぎにて会す」と。西川に電話すれば「19:00すぎ行く」と。
矢野の会社に電話し、遠足とのことに夕方かければ「まだ帰らず、その旨伝ふ」と夫人。
滝本生来り、わが躁うべなふ。(そのまへ松崎女史来りし故「主のみめぐみあらば」といふ)。
けふ肥下夫人より「里子の貸し本まだ残りをり」と送状。(※省略) 『日本の詩歌』25回来る。

10月21日
8:00起され朝食後『史記』note作りゐれば矢野より電話「新潟へゆく故出られず」と。(※省略)
成城に電話すれば「午后の講義とりやめ」と。青木母に電話して「遊びに来い」といふ。
母より「西島家の歴史(※https://cogito.jp.net/tanaka/jikaban /NishijimashiRekidaiko.html)かせ」と。河野の婚礼用なり。
わが家に2冊あり1冊は父の訂正本なり。それでなきを貸すこととす。
新宿方面でdemo隊、警官と対峙す。2女早く帰り来り、21万円母に与へ17:00ごろ帰り来る。
(竹内に電話すれば「ねてをり。あすゆく」と。) 十時生電話かけ来り「山本恭子より聞いた。一度来たし」と。
折しも文化勲章に獅子文六ら4人、文化功労者に吉川幸次郎博士とともに島枝師長の名あがる。(※省略)

10月22日
雨。10:00斎藤dr.。成城へゆきsalaryもらひ、教務へゼロックス代1,200払ひ、成城堂にて本3冊買ひ、帰れば李生待ちをり。
『東国歳時記』少しよんでやる。服部さの子夫人(※服部正己未亡人)より便り。河野岑夫より「登夫の結婚式通知あり」(※省略)
ユの買物了りしあと中央線にてお茶の水「寿々喜」といふうなぎ屋にゆけば竹内をり、中野、後藤(※中野清見・後藤孝夫)来り思ひ出話す。
21:30すみ、中野をHotelに送り竹内と同車。
阿佐谷にて下りる時1,000わたす。あとにて夫人より礼の電話あり。けふ佐伯にて『西上総民俗誌(300)』買ふ。

10月23日
京、母の荷物もちに出、家見つからず「大が起きて東京駅までゆきし」と。ユ、滝本生の式服のあつらへにゆきしあと、
村松生来り「15万円をKO生に貸し、しかも断られし」と。card見せて泣く。哀れなり。
昼食くはせしのみにて新宿で別れ、目白駅より徒歩にて椿山荘。鎌田女史と石川生と来をり、あとは名をおぼえず。
15:00近くより(※飯倉紀子氏)披露宴はじまり、われ新婦側の筆頭とて「この子良き子」といふ。「18:00北海道へ羽田発」と。
歩きて帰り来る。(※省略)

10月24日
10:00すぎ、葉生来り『蘭領スペイン領の台湾』すます。『民間伝承286』来る。
佐伯へゆき『ネパール民俗美術展』、『話の事典』、『世界史年表』など買ふ。ユ、西武へ電話して洋服注文す。河野へ「11月23日ユはゆく」と返事す。

10月25日
6:00まへ起き(よべ0:00ごろねつきし)ダルク、東洋文庫休む。11:00前、松浦薫父上、雅子美紀子と来り、市庁でのつき上げ話して帰り ゆく。
(※省略) 雨の中出て荻窪の普茶料理「桃山」へとゆく。中谷孝雄来ず。(※蓮田善明25回忌)
小高根二郎、林富士馬との和解してくれし。みな蓮田善明のよき人なりしことを云ふも、終戦neuroseに触れず。
池田博士(※池田勉)の散会の辞のあと、われそれを云へば小高根二郎「戦局の大勢刻々と入ってゐたから」云々。座を白けさしてすみしのみ。
22:00帰宅。飯一杯食ひ、入浴すれば杉本女史より「明日来たし」と。「14:00すぎ来よ」といふ。

10月26日(日)
6:00まへ起き、ねたらず礼拝休む。(※省略)榎並生14:00来り、われ忘れをり。「太田母子14:30来る」とのことにて、
その旨云ひ元亀のところよみゐれば太田弘毅・節子夫妻来り、節子「詩を作り美人にて高松市の出」と。
「母上にやきもちやかすな」と云ひ了へしところへ文夫人来り「飛鳥旅行す」と。17:00ごろ機嫌よく帰りゆく。(※省略)
夜、村松生より「恋愛やめた」と。「喜ばし」といふ。

10月27日
22:00眠り(眠剤1服半)8:00さむ。だるきも登校。
東洋文化史、古きノートにてすまし、中西博士をほめ、printに『三国志演義』の劉備三顧の箇所切り(「文化祭中止」と)、
浅賀副手に紅茶のまされ1年のMongolsの欧州遠征すまし、ふらふらと帰宅。(※省略)
李生教へる中19:00となり、あはてて女医さんにゆく。「血液しらべしもむ異常なし」と。「太らせてくれ」と薬たのみ帰りて、
李生の夕食すませしを見てまたちょっとやり帰らす。入浴2回、『史記』の予習明日にのばす。

10月28日
悪夢を見てさむ。8:00なり。『史記始皇帝本紀』よみ、14:40出て成城大学。佐伯よりの本来てをり。14:10より教授会。
この間の学長の訓示やぶきし男生の戒飭を議し、(※省略) 夜、深谷生に電話し「あす14:10より臨時学生総会あり、葉生のみ」といふこととす。
(山本達郎『安南史研究』5.5万と『北平風俗類徴』とを琳琅閣にきのふ注文せしもいかがにや)。佐伯に本つきしをいひ、『韓退之集(220)』 買ふ。

10月29日
8:00出て斎藤dr.。35分待ちて眠剤かへていただく。新宿まで歩き柏井へゆき下入歯けづってもらふ。帰りて昼食。
13:30葉生より「歯痛みこられず」とのことに(※仮病と断じて)「臨時学生総会に委任状出せ」といひ、佐伯へゆき『絵馬巡礼と俗信の研究(650)』買ひ、
滝本へゆけば2女史そろひをり茶のませてもらひ帰り来る。〒なし。夜、松村潤氏より「この土曜なし」と。

10月30日
10:30出てすしや未だといふに新宿にて焼売買ひて食ひをれば「けふ12:00より臨時教授会」と。
出れば昨日文芸学部ストに入らんとし「けふ15:00までに学長の会見なければスト」と。高田部長「学生会員に告ぐ」文を見せ、
12:40にて一旦打切りしに藤田槇子来り「11月29日の式に出よ」と。あとにて気づき311教室にゆき見れば女生20名をり、すまずといひ、
コーヒー飲みゼミの子たちに「わが家で」といひ15:40再教授会に出れば「死馬にむちうつな」と「高垣学長の頑固いたし方なし」と。
若手の連中承知せず、学生課に4〜50人の押しよせゐるを見て帰宅。食欲なくてゐるところへ十時フサ子(いま堺姓)より電話「主人旅行中」と。
20:00来りしを迎へにゆき、不自然なる夫婦生活の話きき、ユともども呆れて23:00送り出す。(天野忠より詩集(※『昨日の眺め』)来る。)
(「前橋の渋谷国忠氏肺腫瘍にて逝去」と。)

10月31日
成城のスト新聞にのらず。よべ眠りがたく夜半、半服追加。
10:00すぎ米山生に電話すれば「13:00来る」と。来りて『内閣文庫漢籍目録』引き了らざるにわれ疲れ、16:30もち帰らす。
〒なし。『果樹園』のしめ切り全く忘れゐし。澄より電話あり「ユ11月22日ゆきて泊り、翌朝出て式に出、帰京」と予定いふ。

11月1日
よべ9時間近くねて8:00さめ、朝食して散髪。吉村達代来りしに「アジアの占ひとせよ」と書きかた教へ、午の麺くはせ帰りしあと、
李錦順生に正月元日の項よんでやる。佐伯へゆき駄本2冊買ふ。(※省略)
小山正孝氏に電話すれば「平凡社、残りくれし」と。「われももらへば渡辺氏を宴せん」といふ。

11月2日(日)
7:00さめ、秋山昭子夫人にハガキかき、ユと聖餐式に出、帰りてまてば榎並生14:20来り、わが叱りしにしぶしぶ勉強し帰りゆく。
李生より電話「榎並生をりや」と、「をらず」といへば全学スト反対の為、連絡したき様子也。
有島生より電話「意見ききたし」と、「電話でいふ」と「今頃ストするは高校並」といひ「4日夜来る」こととなる。
滝本生、三浦女史つれ来り、ユの寸法とり22:00帰りゆく。沢田博士の祝賀会の出欠問ひ来る。

11月3日
8:30覚む。10:00ユ、多摩墓地に、弓子dateにと出てゆく。葉生来り、台湾の歴史のはじめやり、すし買ひ来り食はす(13:30)。
村松生来り、「共闘派の女学生を助けるため」云々と。叱りて15:00帰り来しユとともども送り出す。(※省略)
沢田四郎作博士の古希祝に「欠」の返事す。夜、『史記』の「始皇帝本紀」始皇の死までよむ。

11月4日
7:00さめ9:00すぎ斎藤dr.にゆき病状申上ぐ。「急ぎの時は看護婦にいへ」と也。高桑純夫氏より「豊橋大学閉鎖中」と。
大学院にゆき麝島、竹内2生と『史記』よみ始皇帝の死にて了り、高田部長に大藤主任(「採集にゆきし」と)の代理として出、
文芸学部長名義にて「無期限ストは反対」の告示することを了解し、大学院の修士論文の中間報告をきく。池田生に「于」「干」「千」の区別を教へ、
影山生より「油屋焼けしあと堀さん川端康成の別荘に入りし」ときき首をかしぐ。成城大飯店にて桜井生と高田部長の間に坐り大いに笑ふ。

11月5日
8:00さめ『週刊朝日』買ひにゆく。松本清張の「鴎外の婢」よまんと也。帰り来り、米山生に電話かければ「12:00すぎ来る」と。
ユ、滝本へ喪服あつらへに出てゆく。ユ帰り来しあと米山生と麺食べ16:00帰りゆく。
(村松生に電話せしに「序文かく」と。よべ出し慶応の小川生といふが怪しむべし)。
平凡社の渡辺氏来り、残金(137,162−13,761)123,446おきゆかる。22:00小高根二郎氏より電話「兄の就職云々、停年は65才」と。

11月6日
8:00さめ、10:00すぎ出てすし食ひ成城大学。経済もストに入り、短大のみをあます。中国文学史の教室を245に変えへしも来らず。
2人立ちゐるを見つけ呼び来る。3B、3D、2人也。『三国志』すませ、ゼミに4人来しを教へをれば2Dの某来り、不足いふ。
立たせて榎並と卜ひのcardよみ「あすの学部総会に出よ」といひて帰宅。
来週、民俗研究会に3人ゆくらしく暢気なることかな!夜、李生より電話あり「あす来られず」と。倭周蔵より「大宮前に転居」と。

11月7日
ユをして新聞にゆき藤田槇子生に祝(3,500)贈らす。帰り来り昼食す。『果樹園』来りをり、丁度小高根二郎氏に2,500送りし也。
夜、李生より電話「あす16:00来る。けふ決とれず月曜再び大会」と。「あす14:00葉生来る」と也。
大藤氏より電話「大学院の漢文試験問題作れ。月曜までに」と。(夕方高円寺の古本市にゆきしも何もなし)。

11月8日
7:30さめ、10:00まへ出て東洋文庫。岡本、松村2氏とで田川博士のよむをきく。「次はわがよむ番」と。
13:00阿佐谷に帰り佐伯にて『Erotica2』とり、葉生に14:30まで台湾史の概説をす。「李生の姉、今井翠と同級たりし」と。
翠母子、河野への史の祝2千円もち来て話す。(※省略) 19:30送り出して佐伯へ『Erotica』のそろひ5冊もちゆく。
中河与一先生より「従軍のおまけつきにてはなかりし」と透谷賞の授賞につきハガキ貰ひ「(※詩集でなく)雑文にてもらひガッカリした」と返事かく。

11月9日(日)
礼拝にユゆく。14:00榎並生来りしもnon-poliにて叱りしのみ。帰りしあと佐伯にゆき1,250受取り、
電話ありし川久保にゆき「卒論に原典つかはず」ときく。中河与一氏より「角川の全集に解説かけ」と。「stにてだめ」とお断りす。

11月10日
10:30登校。東洋文化史の教室にゆけば12〜3人(男1人)クラス討論しをり。中にLeaderをりて齋藤かよ子といふ。終始しゃべりてやま ず。
「あとにて来よ」といへば来って「教授の学問的熱心なし」と例あげ、人骨発掘せしを云ふ「3号館の新築工事中のこと也し」と。
14:10になり143号室の前に待ちをれば1人来りし故「学生大会へゆけ」といひ、ゆき見しに「傍聴すなり」と。教授会との面談を要求しをり。
柏手あり。出て諸教官探せしもゐず、大藤氏見つけ(※省略)。
夕方、大に電話すれば「あすより韓国へ5日間ゆく。離婚はそのあと」と。
18:00齋藤かよ子に電話すればやがて帰宅。「教授と面談」ときまりしと。スト解くはそのあと也。
われ「あす出ず」といひ「無礼になるな」といふ。
咲耶より電話「23日出るや」と、「出られず」といひ神式かと問へば「然り」と。けふ都庁の男「ダメ」といひ来りしと。
弓子ハガキ500枚買ひ来る。

11月11日
9:00出て山住dr.、薬かへたまはず。斎藤dr.にゆき薬とり(1,400)代々木まで歩き東豊書店にゆきcoffeeのまされ、200の本 買ひ、
食事の時間も食欲なくpão買ひ、大学院の前後に食ふ。16:00すぎより教授会。
高田部長辞任を申し出でビラの見本見せる。(あとにて堀川教授の書きしものとわかり、新評議員となりしとていよいよ複雑なり)。
(4D、3D、2Dの全員との話合に5人出ることとし「日は民俗の3人帰京後の来週」となる)。(※省略)
天野忠の詩集出版会に「ストにて出られず」といふ。

11月12日
9:00出て10:00登校。11:20より30分監督し14:00面接。国文4人英文2人庶民文化4人を皆入学許可とす。(※省略)
夜、滝本生来り不満をいふ。

11月13日
晴。5回生の名簿送り来りし礼を吉田恒子にかく。(※省略) 12:00出て佐伯により13:30ごろ成城大学。
途に会ひし男生「講義なきや」と。「身体検査にて休みとの事也」といひ、semiまで待ち、写真とらる。(李生「歯医者へゆく」とて来ず)。(※省略)

11月14日
10:00深谷生来り、ヱ゛トナム史少しもわからず。昼食くはせしところへ李生来り、これまた何もわからず。
早々に追ひ返し鬱々とをれば 20:00近く宮崎智慧女史来り、わが顔色見て帰りゆく。
松村潤氏に電話せしに「まだ帰らず」と。「万暦武功録 東三辺 二、三」早くなくなりしらし。

11月15日
暖かし。無為にして村松生来るを待ち、少しやれば「くたびれた」と。藤田槇子母より祝の礼状。

11月16日(日)
礼拝に夫婦してゆく。帰りてユと竹森先生のお話について話合ひ、かみあはず。
突然、史親子来り、(※省略) 淳一、雅子あばれまはり早々に帰りゆく。伊藤整死す。

11月17日
ユに「風邪」と成城へ電話かけさす。雨降り寒く、ユ河北病院へゆけば「あさって9:00バリウムのます」と也。
深谷生より「水曜10:00葉生来り13:00ごろ来る」と電話。雨漏り相当といふに電話せしに不在。

11月18日
9:00出て斎藤dr.。学校騒動申上げ、薬8日分賜ふ(1,600)。11:00すぎ成城へゆきprint。大学院へゆき柿崎の実習の話きく。
麝島マリ子「こぶとり爺さん」ゆると。帰りて教授会。堀川たびたび出入りし、室外に学生坐りをるを見、高田の「無期限ストとかねば停学1年」の案にぎりつぶし、
皆立ち去りしあと学生ら37〜40人出入し、高田に経緯報告要求す。呼びにゆきしも来しは中西と小倉副手のみ。
20:00帰りて小倉とスパゲティ食ひ(300)帰りて飯食ふ。歯わるく咬めず。

11月19日
ユ、炬燵に火入れて河北病院へバリウムのみにゆく(9:00)。10:00葉生来り13:00帰りゆき13:30深谷生来る。ともに指導旨くゆかず。
柏井へゆき下歯抑へてもらふ。けふ京「中央道路にて万国博へ」とゆき、「あす名古屋へ寄る」筈也。
夜、李錦順生に電話してきけば「文化史の諸先生、きみたち尤もといひ、スト反対派何も云へざりし」と。

11月20日
10:45出て、大阪ずし買ひ登校。大藤教授にきのふのこときけば「皆了解してくれ心配いらず。西洋史の卒論希望者4人あり云々」。
12:30(高田部長会議とて会へず)会へず311にゆけば女生1人、ややして小山生(3D)来り、「ストできめた授業反対」といふ内、
女生4人来り、1人小山生に抗議せしあと[を]つけ「あすの総会に出よ」といひ、李生につかまる。
人参また1箱もち来し也。少しもよめず、semiに7人そろひしところにて「下書きせよ、見せに来よ」といひ、ジャンケンにて土日の順きめし。
帰りて夕食するところへ滝本生がもち来しユの洋服の色、気にいらずポンポン云ひて帰らす。
ユ、依子に電話し「行けず」といへば「ああそう」と。京まだ着かざる也。
けふ中央公論より「端午の節句」の校正来をり。(明武谷全負にて休場、引退か。)

11月21日
午前中、校正すませしところへ林叔父、火災保険とりに来る。昼食せしめ、駅まで送り、校正書留速達にて中央公論社石崎晃氏へ送る。
帰れば文芸春秋校正部の関根弘氏(※著名詩人とは別人)、カステラもちて来たまひ、われに作品を示す。「短く」といひて送り出す。
ユ、河野へ1万円と3千円の為替うちにゆき、美紀子に史の参列たのむ。けふ「まづ十二指腸潰瘍」と診断されし也。
京、名古屋にをり、たよりなし。けふ学生総会なり。関根氏にもらひし『諸君12月号』よみstudent powerさっぱりわからず。
20:00すぎ河野岑夫に電話し「史、代りにやる」といふ。(美紀子より連絡つく筈也)。

11月22日
朝、李生より電話「けふ来られず」と。深谷生来り午飯くひ5:00すぎまでをり。この間の文化史の教授と学生の懇談会「ご尤も」ばかりなりしと。
「昨日、議長選に勝ちしもあと教授団との会見をきめしのみにて18:00となりし」と。
佐藤総理、アメリカより「沖縄返還受けた。韓国、台湾、南ヱ゛トナムについては考慮す」といひ来りしと。

11月23日(日)
夫婦とも礼拝休む。14:30吉村達代来り「うらなひ」もう清書すと也!カステラ1箱母よりともち来る。田嶋紀子より式の写真送り来る。

11月24日
10:00登校。あす臨時大学問題審議会の第2次とて11:00校庭を出、六本木より日比谷公園までデモ。文部省前にて牛歩とのビラ呉る。
くさりて東洋文化史にゆきしに5名来り、また待ちて4時限の東洋史に出れば男生3人、女生2人のみ。出席とりて帰る。
この間、葉生来り「家へ来る」と。「16:00よりあと」といひ帰宅。電話すれば歩きて来る。21:00となりユ返す。
けふ成城堂の払3,530−176。「佐伯の請求書、図書館へまはらず」と浅賀副手いふに寄りてわび『白鳥庫吉全集』と『平戸蘭館日記3』たのむ。

11月25日
女医にゆき注射され「診断書いただけるや」と問へば「出す」と。散髪にゆきユをして「大学院と臨時教授会の欠席」を届けさす。
石山直一氏より「停年、帝塚山短大に紹介を」と。杉山平一氏に名刺かきて入る。けふ弓子「寒き中をdate」と。京もおそし。

11月26日
9:30出て斎藤dr.。薬かへたまはず(800!)、混むゆゑ「木曜に来る」と申し上ぐ。フラフラ帰り何もせず。
中央公論より諺文の扱ひと建武年中行事について問合せあり。夜、滝本生来り「平田(※賀代嫗娘婿)免職、家売りて鎌倉へでも来るか」と。不快にて相手できず。

11月27日
10:40出てすし買ひ登校。文芸学部長、教務部長、学生部長の連名にて「12月1日以後の授業妨害は処罰す」と掲示せし由。
中国文学史10人ほどにてやり、semiにてあと1週間の割り当てし「箕輪、西岡2生のsemi承知」と印押し帰る。
夜、鎌田女史より電話「松村助教授のsemiといひし子、1人来るやもしれず」と。けふ外大より満洲口語の採集記来る。岡田君のせい也。

11月28日
寒し。午后榎並生来り『古今図書集成』をウソ[様]にて写しゐるを叱りゐるところへ山野井秀子来り、(※省略) 20:00すぎまで話しゆく。
葉生より「あす李生の代りに来る」と。

11月29日
11:00すぎ出て赤坂見附よりHilton Hotelの藤田槇子生の結婚披露宴に出る。(あさ教務課より「スト解除」の電話ありし)。(※省略)
16:30帰り、葉生の来るのを待ち、卒論ほぼ形をなせしと喜び帰る。

11月30日(日)
9:00さめ礼拝に参らず。雨の中を深谷生来り16:00までをり(3Dの中山順子来り「太平天国やる」と)。
夜、李生より電話「一家留守にて来られず。あす朝、原稿もち来る」と。

12月1日
「けふとあすと休講」の電話かけ、12:30来し李生の論文半分なほせし処にて「13:30より約束あり」と帰りゆく。
米山生14:00、Chou a crèmeもち来り、干支のみすみしこととなる。「あと何か十二支の一つ書け」と注文つける。

12月2日
ユ、斎藤dr.に薬とりにゆき「前の不足分とられし」と。帰りしに女医さんにゆき睡眠薬のこときけば「出します」と也。
午食の時、呼びし村松生来り「腎臓悪きかと浜松へ帰りし」と也。叱りゐるところ葉生来り、年中行事のみをのこすこととなる。
台北の頼永承・劉慶理夫妻よりXmas-card来る。

12月3日
年賀ハガキの印刷たのみにゆく。「15日出来2,500」と。

12月4日
21:00すぎねて4:00ごろ覚む。
 とほい山と湖とのある異教の国を
 わたしはときどき思ひ出す
 わたしは刀をもち甚だ高慢であった
 いま母国の市にゐてわたしはうなだれる
 十字架を握ってゐるからだが
 わたしの心は明るくまるで若くなったかのやうだ
  ×
 ぼくの詩をちょっと愛し
 ヴァレリーに打ち込んでゐた
 フィリピンで戦死して帰ってこないので
 一番の親友と今でも思ってゐる
 彼は子供をもたず著書もなく
 やがて皆から忘れられるだらう
 わたしと再会の日はいつだらうか
高橋重臣君より電話「10:00より会議。出て来ぬか」との様なりし。寒し。9:30来り、夜また来る様子にて帰りゆく。
10:30出てすし買ひ登校。「高田部長わが休みしを気にしてをり」と。
中国文学史、有島らをり、わが愛読書「アンナ・カレーニナ」、「復活」といふも手応へなし。
やめて李生の論文直し(葉と榎並生と休む)わが家にてのsemiわり当てし「何としても通す」顔す。(※卒論指導 省略)
あすゆり返しの学生大会なるもわれ不関焉。帰りて飯くひ了れば高橋君、長女足達眞理つれ来る。「児童文学やる」となり。
駅まで送りゆき寒し。ユけふ河野へ電話すれば「母京都へゆきをり」と。21:30澄より電話「依子調子悪し」と。

12月5日
午前中、深谷生来り「秦漢と越南」ほぼすまし昼食して帰りゆく。15:00榎並生来り「亀」やり50枚に近くなる。(※省略)
頼永承・劉慶理夫妻にXmas-cardかく。夕方、澄より「依子入院、胆嚢の手術す」と。ユ「泰つれにゆく」といふ。

12月6日
ユ8:00起き(よべ23:30澄より電話「トボつれに来い」とのこととなりしと)。9:00すぎ貯金帳と印と1万円置きて出てゆく。
榎並生11:00近く来り、(※卒論指導 省略)
三鷹の小林君に弓子「母をらず、来い」といへば来り、柿呉る。
「史と同い年にて栗橋に疎開しゐし」と。営団地下鉄の技師となり。「近々母上に会はせよ」といひてすし食はせる。
澄よりこれに先だち「依子、手術の要なきかもしれず。ユあすトボつれて来る」と。(※省略)

12月7日(日)
礼拝にゆく。長島さん「お茶にさそはる」、われ「4〜5歳の感情」と自己紹介す。弓子「三鷹の母上に」と出てゆきしあと、ユより電話「点滴療法つづけをる故帰れず」
と。
わがむすめ昇天の日を祈りつつわれは泣くらむなんの涙か。
(※省略) 滝本生に電話すべく三浦女史にゆけばかけてくれ「夜食ともにす」と也。17:30来り、まづきすし買ひ来る。
滝本生whiskyに酔ひ雨の中を帰りゆく。澄より電話「依子、危機脱せし様子」と。(※省略)

12月8日
弓子soup作りくれし故、食べ、京より先出て成城大学。2年生出てをり齋藤カヨ子呼びて来年度semiに出よといへば顔上げず「ハイ」といふ。
中国文学史のprint切り1年に出て「家に来よ。アクビするか私語すれば止める」といふ。
帰りて石山直一氏より「杉山平一君に会ひしもダメ」と。(※省略) 浅野晃の詩碑拠金報告見る。保田3千円出しをり!三島由紀夫5千円!
0:00ユに電話すれば「明日あたりおもゆ食ふ様になれば1度帰る」と。

12月9日
8:00京に起され(春夫先生のゆめみゐし)、すし買って登校。大学院semiにて雑談せしあと麝島・柿崎2生と蜜豆くひて帰宅。
20:00電話せしに澄出て「依子食ふ様になりし」と。ユ出てあす帰ると(「小林氏のことにて三鷹の某女史より電話ありし」と母いふ。)

12月10日
さめて8:00京おこし10:30出て斎藤dr.にゆけば満員。婦長さんにたのみcarte書いていただく(※通院の終了)。J&B(5,000)をお歳暮とし、永年のお礼いふ。1,600なりし。
帰り滝本生に寄りユ帰るをいひ、昼食作ってもらひしも食はず、干柿と干菓子と食ひて深谷生の直ししゐるところへユ弓子にて泰つれて帰り来る。
「依子の容態ややよくなりしも良くて1年間の仕事」と。
米山生来り「馬」の論文おきゆく。「月曜返す」といひ直しをしてゐるところへ、三叉神経痛とて滝本生来る。(※省略)

12月11日
8:00ごろまで横臥。「O型の輸血に京、弓子ナゴヤへゆく」と。哀れ也。トボ喘息気味にして弱く黒し。
10:00出て「すし未だ」といふに成城駅にて雑煮食ふ。けふ高田部長(※高田瑞穂)に久しぶりに会ひ、互ひに心配しあひしを云ふ。東大の同級生なればなり。
bonusと増俸とにて30万円余もらふ。佐伯に寄り『白鳥庫吉全集1』、『古代朝日関係史』、『平戸オランダ商館日誌3』とにて5千円払ひ、痴婆子伝の訳も買ふ。
(※卒論指導 省略)
澄より「弓子の輸血すみて依子元気となり、京は風邪にて輸血できざりし」と。2人とも21:30帰り来る。
泰「喘息」とて山住先生にゆけば、滝本よべ遅く電話し「発作再発せし」と。母来り、夕食して帰りゆく。

12月12日
ユ出てゆきしあと、李生来り、ほぼすまし14:00出て雲呑麺くふ(100)。米山生来り、これもほぼすむ。
ユ15:00ごろ電話かけ来り「母、神経痛にてひっくりかへりし」と。17:00ごろ帰り来る。(※省略) 大東塾より「年末献金を」と。
(※お歳暮 省略) ユの話にては三鷹の仲人「来年正月に結納」とせんと。(※省略)
阿南惟敬氏より「蒙古八旛の指導を早大大学院生に」と、そのひまなし。

12月13日
葉生10:00来り、雑煮くひしあと去る。榎並生来りてデタラメすむ。「村松とともに勉強す」と也。

12月14日(日)
ユのみ礼拝にゆき、泰、弓子と遊ぶ。午、ユ帰り来り、泰つれて天沼へゆき、弓子出てゆく。(※喪中欠礼 お歳暮 省略)

12月15日
9:00出て「周代の葬礼」ちょっとやり、昼食して来し米山生と李生とに2箱づつ本つめさす。1/10にも足らず。葉生来ず。
1年生の「東洋史」Carpini(※イタリアのフランシスコ会士)に托せし教皇の手紙のことのべ、Güyük(※元帝国3代皇帝)の返信はあとにまはしChristmas待つ。
「新年を君たちに」といふ。いつも一番前にゐる男生、吉川博士「李白の田中云々」と。
杉山平一氏より「丁度(※帝塚山短大の欠員)ふさがりし故、(※再就職希望の)石山氏ことわりし」と。(※喪中欠礼 お歳暮 省略)
渡辺春輔氏へ1万円贈ることとす。泰、風邪とて山住女医にゆき、ユ斎藤先生より睡眠薬の申し次ぎなきを悟る。ふしぎなること多し。
詩2篇を『果樹園』に写す。諏訪父上より泰の食はぬみかんなど賜はる。

12月16日
10:50出て大学院にゆき柿崎・麝島2生に本包ませ昼食にさそふ。14:00教授会、新城博士休み。すみて学生代表と対談と。
バカらしくしるこ(130)食ひて飯島生と同車。GoldenBatの礼いふ。母入浴したがりしと。(きのふ出来し賀状500×5)。

12月17日
賀状かきそむ(できるだけ少く)。ユ、白鳥、栗山2家への歳暮に泰つれて新宿。泰やっと鼻汁とまる。今井翠男児出産と。(※省略)
諏訪父上より11日出しの見舞状、恐縮して返事速達し、滝本に寄れば「21日に賀代嫗に会ふ」と。(※省略)
白鳥先生夫人に電話していただき物の礼いひ、新年に伺ふといふ。

12月18日
登校まへ賀状投函。中国文学史(午食雑煮くふ130)に『今古奇観』やり、すみて榎並、村松、葉、深谷生らに卒論呈出の印押し、李生来ざるをふしぎがり、
家に電話すれば母出て「兄、アメリカより癌にて帰国、その前後のことにて云々」「ともかく呈出だけはすべし」といひ、
帰れば米山生、本返還に来る。(※お歳暮 省略) 夜、葉、深谷生より「あす来る」と。

12月19日
寒し。泰、叔母らとね、早く起され泣く。(※省略) 吉村生より「午后来る」と。(※省略) 李生、本返しに来り、吉村来り、午后深谷生来り本返さず。
帝塚山の花井生より電話「2月渡米、1月来る」と。三鷹の仲人より「あす14:00結納、その他の相談は小林氏来り、式は一月に」と弓子のこと也。
16:30澄より「2時間ほどしてくる」と。

12月20日
澄10:00出てゆく。午食くひて(前田光子より推薦ハガキ20枚送られ難儀して書き了へ郵便局へゆき速達95)、暦買ひ(65)、散髪し、ユのパーマかくるとに泰つれて天沼へゆく。
母まだねてをり。(※省略) 比嘉一夫より選挙運動。姜照美ソールより娘李銀喜と来る。めでたし。(※省 略)

12月21日(日)
Christmasとて泰ねてゐるまに出、第一列に坐る(献金5千円)。転会者夫婦と入信者4人みな女なり。
すみて衛藤長老に挨拶すれば令嬢成城文芸受験と!太田夫人来をり、礼いひ、
帰れば比嘉一夫より来ると。公明党の応援の為なりと。中支・南支・仏印・泰と転戦、大阪にて滝川慶治郎の母に会ひしと。感心す。
小林善一郎君来り、弓子に申込み1月に挙式したしと。神前結婚はゆるしてくれとのみいひ、あとはあす来る仲人さんより聞くこととす。
弓子羽田にゆくを送りにゆき帰らず。深谷多鶴子生来り、本返す。(※省略)
みんなみの海にちりにしさくら花惜しみて思へ会ふ日近きも。

12月22日
晴。9:30にと登校。salaryもらひ研究室へゆけばもはや運びをり、小使ひたちに5千円やり11:30までにすみ、午食たべ、
卒論わけ、わが分野口君。交換16日ごろ、面接21〜23日ときまる。(※省略) 汁粉くひ、本郷三丁目より琳琅閣。先客藤井宏にていま国士舘大学と。
64,500の払ひし、喜ばせ『中薬浅説(100)−日本薬草学のexなりとわかる』。
来会せし洪順隆氏の『謝宣城集校注(1,650)』にsignせしめ、『石氏星経の研究(2,200)』にて買ひ、茶のまされ、
いまの主人は養子にて息子と見しは義弟とわかる。いろいろ話して出、帰りて山住女医に眠剤2倍にしてもらひ、20:00近く来し武藤夫人に話きき、(※省略)
結婚式は私学会館にてとなり、帰られしあとこちら側14人+x、向ふがは40人と。(※省略) 食ふもの。見につかずソワソワす。

12月23日
よべ2:00まで眠れず。3服分のみ、さめてユに山住女医にゆかしめれば医師スト。電話かけてもダメ。
(※省略) 武藤夫人、午に電話「土曜に結納」と也。田口久世の『海の妖怪』といふをよむ。モユラといふがあり。(※省略)
私学会館に電話すれば(※省略) 弓子に電話すれば申込みしと。手まはしよきことかな。
十合のこともいひ「早く帰れ」といひして、美紀子に電話「25日式に出てくれ」といふ。母上「依子に蜜柑送りし」と也。
母「27日の結納とりに泰預かる」と。(※省略)

12月24日
寒し。よべ4錠分のみて眠る。(※省略)女医さんにゆき「2服のむ」といへば目を丸くし困らる。「夜また来る」といひ、ユを斎藤dr.にゆかしむこととす。
諏訪節子様より泰へやさしき手紙。 (※Christmas-card省略)
トボつれて諏訪母上へ礼状速達、浜田恒代ニューヨークより来春帰国と。佐伯へ寄れば成城大学より金もらひしと。トボに絵雑誌呉る。
14:40ユ吉祥寺の痔医へゆく。山住先生へゆけば斎藤茂太先生に電話し、安定剤で加減したまふ由。

12月25日
朝、気持よくさめし。出がけ武藤夫人より電話かけ来りしに来客ととぎれ、
出て成城へゆき、卒論とり、試験の届けし、佐伯へ寄り300払ひ、駄本2冊「これにて今年しまひ」といひ、帰りて昼食。
武藤夫人より(※省略) ユ、泰つれて薬王寺町へゆくと也。武藤夫人に電話すれば「当日弓子のみ仏壇に礼せよ」と。
平凡社渡辺泰輔氏より速達で受取。知念栄喜、細川武子2氏に受取。田口久世『海の妖怪』よみ了る。(※省略)
泰へ澄よりChristmas-card。(※省略) 15:00滝本にゆけば不在。三浦女史、茶2杯のませて呉る。
帰りて母に電話すれば「ねてゐる」と。「あとで子供づれゆく」と云ひしに、
ユ帰り来り、翠の友達母子送りて阿佐谷に帰り来りしと。腹立ち太田夫人に土曜の予定いふ。ユ母に電話し「あすゆく云々」。

12月26日
曇。ユ出てゆく。(※省略) 加藤生の「八化け狐」よむ。藤浪泰生に「正月返上」を報告す。ユ14:00帰り大阪うどん食はす。旨し。母ねたままと。
佐伯へ駄本やりにゆき駄本2冊買ふ。15:30ユ3人づれにて渋谷西武へと出てゆく。(※省略) 19:00ユら帰る。弓子より「permaでおそくなる」と。

12月27日
トボ、ユとねる。われ眠剤適度にきき8:00さめ、9:30来し太田夫人に詩人たりしこといひ11:00すぎ来し武藤夫人より結納書もらひ、返ししてすぐ出、
下連雀(※省略)小林克治氏へゆく。(※省略) 心配せし仏壇拝みなく、昼食出され父上1杯をうまさうに飲まる。
太田夫人と弓子を乗せて送りゆくを見つつ三鷹駅へ帰る。(※省略) 神尾小夜子『巫女』よみ了る。

12月28日(日)
6:30さめteleviの選挙見る。前田正夫当選。11:00速達出しにゆき三浦女史と待てば滝本女史帰り来り、29日が仕事おさめ。(※省略)
『成城国文学論集2』2冊来る。佐伯へゆき『アジア文化の基調(150)』買ひ、『南洋日本町の研究(1,000)』借りて帰れば学校におきあり!
弓子、小林君に呼ばれて出てゆく。(※省略)

12月29日
6:00まへ覚む。京帰り、武藤夫人より礼の電話ありしを知らず。代議士選挙の結果、自民300社会40公明47民社31共産14とわかる。
(※省略) 『アジア民族の中心思想(250)』買ふ。1269ページありし西垣美知子の「野原の民俗」(※卒論)よみ了る。「柳」の字を知らず。
(※省略) 『論集』の「五雑俎」(※誤植)につき中西博士に抗議す。「王漁洋の系図」かくこととす。弓子1.25の式の案内もち帰る。
母、大、柏井夫妻・俊子夫妻、諏訪澄・史夫妻、(仲人望月弘夫妻)、太田文・武藤夫妻、友人11名を宛名書す。

12月30日
8:00さめ、茶わかす。10:00阿佐谷郵便局へ9通出しにゆく。(※省略) 滝本女史と入れちがひに佐伯へゆき『中国地方志総合目録』注文す。(※省略)
滝本女史、泰つれ去り、ユ天沼へゆきしあと、太田夫人より1月17日追悼会と。(※太田常蔵三回忌)
17:30母に電話すれば「河野、建にもいへ。ユの手紙では間に合はぬ云々」「大躁を知らずや」といひて電話切る。
ユ入れちがひに帰り来り、われ河野、建に出席いらず祝いらずとかく。18:00われ、さばずし食ひしあと織原夫人、次女をつれ来る。
すし食はせ片岡夫人のつれ来りしX氏とわれと話す内、見合となり、立教3人で引込み、われも滝本女史の泰つれて帰りしを機会に引上ぐ。

12月31日
河野と建に速達しにゆき、書翰箋(80)とマッチ(50)買ひて帰宅。
織原次女「小父さんと話してる間の方が楽しかった」といひ、そのまへに片岡夫人より「つきあひたし」とありしとユ。片岡夫人にことわりてすむ。
(※省略)
わがむすめひとりはとられいまひとりのこされんとはわれは思ひし。
東大の講堂の上赤旗のひるがへりしもゆめにはあらず。
韓国と台湾の上ことあればわが教へ子らゆく年たちぬ。
主のめぐみあつしと思ふさまざまに計画立ててみちびきたまふ。 12月31日詠
 賛美歌284、285を歌はすこと。



付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。


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