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田中克己日記 1970
【昭和45年】
画期の年にして多忙の秋となった1970年。すでに2年前にGDP世界二位となったニッポンですが、世の中が大阪万博でもりあがる一方、炎上してゐた学生運動は、過激派による「よど号ハイジャック事件」によって新たな局面に入ります。
そしてその対極において、といふべきでしょうか、文芸の世界では、三島由紀夫による自衛隊籠城・自決事件が起きました(11月25日)。
三島由紀夫の蹶起は、エキセントリックなパフォーマンスにもみなされた「切腹」によって、関係者のみならず文壇全体、いな社会全体にゴシップめいた衝撃を与へましたが、彼の精神的な揺籃ともいふべき「日本浪曼派」の人脈からは丁度、中心人物だった保田與重郎が、時代の証言である『日本浪曼派の時代(至文堂)』を刊行し、あたかも三島由紀夫が一番に仰いだ師の評伝『蓮田善明とその死(小高根二郎著:筑摩書房)』の出版記念会が行はれたところでした。
大学教員であった田中克己も当然この事件に驚きます。しかし日記からも窺はれるやうに、憑き物の落ちた、冷めた目でながめてをります。三島由紀夫が盟友浅野晃の詩集朗読をし、東大全共闘と討論会を
行ったことも知ってゐる筈ですが(日記には記述なし)、その人柄については「2度会ひしのみなれど感じわるかりし。」と書いてをり、かつて「伊東静雄の友人です」と卑屈に挨拶したバツの悪い思ひ出と共に、良い思ひ出を抱いてはゐません。
ただし、三島が永年私淑した蓮田善明については事情が異なったやうです。
雑誌『日本浪曼派』の同人にはならなかったものの、自ら謂ふところの“院外団”として執筆して関った国文学同人誌の『文藝文化』。その先頭に立ち、ウルトラ右翼として名高かった蓮田善明に対しては、彼が敗戦時に執った最期の行動(上官を射殺して自決)をこそ、異常な精神下で起きた不幸な事件として悼んでゐますが、かつては自分も当事者であったところのロマン派的心情を十二分に把握した立場から、あくまでも先輩を弔ふ立場を堅持してゐるのです。
蓮田善明と田中克己との間には、蓮田が最初の詩集『西康省』を愛読し、詩人もまたそれを受け第二詩集『大陸遠望』の冒頭献辞にて蓮田善明に捧げるといふ、蜜月の記憶が存在してゐます。そして戦後、終の栖となった成城大学ですが、『文藝文化』四人の同人のうち、栗山理一・池田勉が先輩として在職してをりました。大阪から上京し身分不安定だった彼を専任教授として同僚に引き入れてくれたのは彼らですが、元はといへば、蓮田善明が戦前の成城学園に奉職してゐたことを始まりとした縁しであったやうにも見受けられます。
かうした経緯もあって、雑誌『果樹園』の盟友小高根二郎が伝記連載「蓮田善明とその死」を55回で完結させ(1968年11月)、伊東静雄伝に続く611pといふ一冊の出版にまで漕ぎつけた際には、田中克己は同人誌の掉尾を飾る業績として特別の意を払ひ、出版記念会を東京で執り行うべく段取りから周旋の労を執ってゐます。右翼活動を鮮明にし始めた不二歌道会とのつながりを断ち切る様子がみられないこともさうですが、キリスト者としてはまことに奇特の信条と云はなくてはならないでしょう。
一方、『四季』の関連事項についてはどうかといへば、何と平凡社からの自叙伝依頼を断り、思潮社より打診のあった『伊東静雄研究』『立原道造研究』についても協力を断ってゐます。小高根本に劣らぬ浩瀚な研究書として金字塔と名高いこの二冊は、翌年多数の執筆者了解を取り付けて刊行されますが、麥書房から出す予定だった田中克己の「四季の人々」「コギトの思い出」をまとめた回想本は、どうして出版されなかったのか。
『日本の詩歌』ほかの選詩集、そして大岡信や天野忠の詩人論によって、新たな読者研究者を獲得するチャンスがあった田中克己ですが、愛好家に向けて自らアピールする斯様の類ひの単行本は、竟に一冊も日の目を見ることがありませんでした。この年の日記の中で、詩人は「どの古書店からも好かれるやうになった」と、自分に対する斯界の待遇が一変したことのやうに喜んでゐますが、出版ブーム、現代詩ブームはいつまでも続きません。抒情詩史上の当事者として、もっとできることはなかったのか、私の読書歴のなかでの「田中克己なる詩人を知るまで」を振り返ってみても、まだまだ初老であった筈の田中克己の1970年代は、詩人として惜しまれる10年間であったやうに思はれてなりません。
そして田中家ですが、世に騒がれ始めたウーマンリブもどこ吹く風。妻や娘たちに相変らず遠慮のない暴力を以て叱責する詩人は、教育現場、ゼミ指導でも教へ子を泣かさなかったことはなく、たうとう気弱な学生は発作騒動まで起こす始末。キリスト者らしからぬ「明治の男」ぶりを遺憾なく発揮してゐます。この年も複数の教へ子から結婚披露宴に招かれてゐますから、親身に懐かしまれる先生であったには違ひないのですが、裁縫仕事を依頼するやうになった滝本女史にしても、如何なる話で恩師の遠戚のお婆さんの面倒までみるやうになったのか不明ですが、元教へ子も足しげくなると、身内のやうに気安く頤使できると思ひなしてしまふのでしょう。
たださすがに孫たちへの視線は甘いのですね。どこへ行くにも連れて歩き、家ではテレビを独占され、親元へ帰っていったあとには「孫ロス」を日記に書き綴ってゐます。これには彼らを長く預かることとなった事情も手伝ってゐることでしょう。
といふのも、次女の結婚・出産により新たな孫も増へ、多子多福の田中家なのですが、好事魔多しといふべきか、次男を出産する依子さんが同時に膵臓の病に倒れ、手術のち退院養生を図って帰ったつもりの実家でも気の休まることなく、父親が世話になった斎藤病院に一時入院することになります。
この短期間の入院(療養)についてはこのたび依子さんから電話にて、日記には書かれてゐない事情、すなはち家族にとって腫物の如き存在だった父親に関する御苦労の一斑を伺ひました。
そして話し合ったことには、家族や教へ子を巻き込んでの記述も、詩人・学者としてピークを迎へたと思しきこの1970年あたりを区切りとしたい、以後の公開内容については、依子さん自身は構はないと仰言って下さったものの、現存する関係者のプライバシー配慮を優先し、文芸に関りない記事についてはさらに取捨選択して完結を急ぎたい、といふことでした。
これまでご覧頂いたやうに私生活における詩人の修羅場は、すでに大阪時代の日記のなかで曝し尽してをります。日々の収書については引き続き細かく記録してゆきますが(この時代、行きつけの佐伯書店、成城堂の他、先だって(2019年6月)閉店した中国書専門の東豊書店の記載が目立ちます)、まだまだ残り20年あり先は長いです。ご意見あれば承りたく、皆様には御諒察を願ふ次第です。
この年の出来事を記します。
【1970年】
1月25日 次女弓子氏結婚。
2月3日 長女依子氏、次男出産。
2月6日 平凡社より自叙伝の執筆依頼。
3月5日 小高根二郎『蓮田善明とその死』刊行。3月22日出版記念会。
3月31日 日航「よど」号乗取り事件。
4月30日 佐藤春夫の会。
6月17日 麥書房より「四季の人々」と「コギトの思い出」の出版打診。
8月14日 長女依子氏上京、斎藤病院入院。9月17日退院、11月名古屋へ帰る。
9月18日 思潮社より『伊東静雄研究』『立原道造研究』の出版計画。協力を断る。
11月25日 「三島由紀夫自衛隊にて割腹自殺」テレビで知る。
12月10日 次女弓子氏、長男出産。
12月28日 義弟河野岑夫氏逝去。下阪葬儀出席。
昭和45年 1月 1日〜昭和45年5月25日
25.4cm×18.0cm 横掛ノートに横書き
1月1日
8:00さむ。賀状269枚。大江の叔母より祝でなく5千円、「靴買へ」と也。
「(※賀状の宛名)アイウエオ」の返礼出しに行く。小林英俊詩碑建設会より5千円の受取。
澄より電話「(※急性膵炎にて入院中の長女)依子、便所へ通ふやうになりし」と鼻声也。
14:30滝本三浦2女史、年賀に来る。18:00泰(※依子氏長男)風呂に入れるとつれゆき呉る。
賀状の返事150枚書き疲る。20:00滝本女史、泰つれ帰り「3日にまた来る」と。
今日弓子終日臥床。就寝まで「カ」〜「ト」まで返礼かく。
1月2日
6:00さむ。8:00ユ起き雑煮くはす。賀状了る。美紀子より「午後来る」と。花井タヅ子夫人「電話で年賀します」と。
弓子14:30小林家に年賀に行き、17:00美紀子電話を天沼よりかけ「すぐ来る」と。夕食してそわそわと帰る。
25日の式に出るとなり。(※省略) 大よりも何かいひたげな電話、25日出るとなり。
1月3日
4:30さめ(よべ22:30弓子帰り、向ふの親族殆ど武藤氏にゆき、けふ大と史のところへゆくと也)、茶わかし
8:00パン食ひ、女医先生(※山住医院)にゆき体重40キロとなりしを云ふ。賀状35枚。(※省略)
滝本、トボ(※泰氏)つれゆき呉る。13:30小林君来り弓子と天沼(大をりと)薬王寺へとゆく。
14:00、permaより京帰り、ふり袖の着付に肚たて出てゆきしあと、ユ、返信もちて天沼へとゆく。(澄より電話「依子、肝臓をも悪くせし」
と)
「戦争と平和」前編televiで見る。(※省略) 母、大ともに式に出ると也。
京帰り、振袖ほめられしらしく鏡の前をはなれず。18:00滝本女史「泰、入浴せしめしゆゑつれ来る」と。
探しゐし『五雑俎考』みつかる。昭和13年1月の旧作なれば書き直して『成城文芸』にのせんと思ふ。
餅食ひすぎて胃薬のむ。ユもしかなり。小林家より電話「いとこ日本放送にて待つ」と。入れ違ひに帰り来し。
滝本女史来り、21:30式服の話して帰る。(泰、甘くなりて撲らる)。
1月4日(日)
2:30さめてねられず。9:00駅までタバコ買ひにゆき(京、初出勤)、10:00小林君よりの電話に弓子「まだねてゐし」と。
「吉祥寺へ服地買ひにゆき、小林君と会ふ」と。(※省略) 「戦争と平和」televiで2日間に殆ど見し。けふ賀状58枚。(※省略)
われ『五雑俎考』200×13かく。肥下里子より貸本返却受く。矢野仁一博士逝去と。弓子21:00帰り、(※注文服の為)滝本に寄りしと。
『五雑俎考』補語つけて200×25とす。爽快。澄より「依子につき従兄弟も来り、処置きめる」と。
1月5日
7:00さめ、大江叔母へ礼状かき速達しにゆき、佐伯に店あけさせ、われに4千円、学校へ4万円ほど買ふ。
ユ、買物にと泰つれて出てゆく(11:00)。沢田四郎作博士『山でのことを忘れたか(1,800)』着く。われは3千円贈りし也。(※省略)
ユ、帰り来て昼食せしあと諏訪の姉さんサチ子をつれて来れば、泰「ゆく」といひ下衣もちて出てゆく。年賀にカステラ貰ひし。
けふ賀状なし。滝本女史、直しもって来て呉る。
1月6日
京、成田へゆくとて7:20出る。下痢す。『果樹園167』来る。佐伯にて『女へんの文字(100)』買ひ滝本へゆけば「木野へゆき1時間して帰る」と。
午后ユ、吉祥寺へと出てゆく。諏訪賢氏宅へ電話すれば姉さん出て「トボきげんよし」と也。
「王漁洋の一族」かく気となる。夜、滝本生「弓子と田原町へゆきしに問屋しめゐし。明日またゆく」と也。
1月7日
寒く晴る。7:00さめ10:00ユと弓子と買物に出てゆく。滝本より「必ず16:00に」との電話おくれし。
小川博氏より「鳬」といふ字ありやと。「「鳧」の俗字にてあり」といふ。
「王漁洋の一族」やりて時間過ぐ。12:00賀代嫗、祝ひもち来てくれ(※省略)
折しも澄より電話「1月末まで経過見る。弓子の祝送った」と。「トボ兄宅にあり」といふ。(※賀状省略)
佐伯にて『神武東遷(100)』、『易カード(150)』買ひ、『食生活の知恵』もらふ。
ユ帰り「十合で夜具、家具高島屋で(※省略)」田原町で生地10,500買ひし」と。弓子、銀行の送別会にゆきしと。(※省略)
1月8日
8:00まへさめ「王漁洋の一族」のつづきやる。午すぎ柏井へゆけば数男ゐず、(※省略)
佐伯にゆき保田の『日本浪曼派の時代』注文す。(※省略) 諏訪姉上にユ電話すれば「トボいたって手かからず」と。
(※省略) 夜21:30小高根二郎氏「15日来訪」と。
1月9日
10:00出て成城。図書館へ返本と同時に『國搉6』、『漁洋山人精華録』借る。管財課へゆき西田課長と彦根の話す。(※省略)
成城堂に『大世界史』ののこりを入館たのみ、『女帝と道鏡(200)』、『南方熊楠随筆集(700)』、『中国戦乱詩(600)』、『日本と朝鮮(490)』買ひ、
『新城県志(王漁洋等撰)』見に東洋文庫へゆき(新宿でrice-curry(130)みな平げし、珍し)、ほぼ抄し了へて神田信夫氏に会ひ、
『籌遼碩畫』つまらずといひて帰宅。
夕食に飯1杯半。(※省略) 澄より「15日休み来たし」といひしをユ断りしと也。
弓子の月給(※省略)はじめて聞く。22:00諏訪姉より「トボ喘息はじまりし」と。
1月10日
2:00起き5:00さめユを叱り、トボ迎へにゆかしむ。黙って出、soupとpãoわれにやらしむ。不逞なる女也。京より1千円借る。
土屋夫人に航空便出しにゆき佐伯へ寄る。弓子、家族がき書かせ北区役所へと出てゆく(戸籍謄本4枚をといふ)。
10:30泰、帰り来り風邪らし。母に電話すれば「あす祝ひに来る」と。柏井(※歯科)へゆき下歯しめてもらふ。
澄より旅行鞄、祝ひにもらふ。電話かかり「依子良好」と。折しも喘息・風邪にて帰りし泰のこといふ。
滝本生、ぬひ直し持って来る。賀状69枚来る。18:00再び女医さんに電話し「37.5度以上なら」と薬3服もらふ(65円)。
69枚の返事かき了り、弓子帰り来る。
1月11日(日)
6:00起き礼拝にゆく。時間早すぎ遠藤道具店の番頭さんと話す。帰れば母、大との祝もちて来をり。諏訪姉より電話「いかが」と。(※省略)
弓子けふ仲人へとゆくと。14:30外へ出しまに石油ストーヴ家中まっ黒とす。母さはぎに帰りしあと、花井彩「アメリカへゆく。別れに来る」と五反田より(13:30)。
滝本女史、助けに来り、弓子仮縫にゆく約束と也。弓子19:00まへ滝本へゆきしも和服にてだめと三浦女史。(※省略)
1月12日
6:00さめsoupつくりpão焼き、8:30出て成城大学。中国の葬式のnote忘れ、他の本にてまにあはす。(※省略)
午食の時、中西博士(※中西進)に「端午の節句」わたせば7月号になるやもしれずと。「チンギス汗」の時間に次は「のばら」といふ。(※省略)
佐伯に寄れば「あす学校へ本もちゆく」と。『支那戯曲物語』ありといひ、他の本ととりかふ。
宮崎女史(※宮崎智慧:西武デパート勤務)に電話し「名前がき」たのめば「宜し。今夕来る」と。宮崎女史19:00すぎ来たまひ、われ歌2首かき夕食してもらふ。
式場の名札書き玉ふ由なり。(けふ澄より電話「依子歩きをり。小さき洗濯もす云々」とありしと。)
明武谷、年寄中村となりてteleviに出る。うれし。滝本女史よびて酒のます。弓子の仮縫ひすみし也。23:00すぎ京帰り、滝本去る。
1月13日
10:00すしやに寄れば130〜150と値上しをり。会計に届けし大学院「けふが最後」といふ。教授会なく(※省略)
けふ佐伯より個人研究4,000、文化史37,100の本届けくれしに大藤主任「金なし」と。
佐伯へ寄れば『中国地方志綜録(3900)』来をり。卒論2冊よむ。(※省略)
1月14日
佐伯に10:00ゆき3,900払ひ研究室にゆき、日本史の卒論の残り12冊とって出る。泰、滝本にゆきたがり、ユとゆけば木野の息子来てをりと。
1月15日
9:00起き11:00鈴木敬子の電話きく。榎並元子より「帰京した」と。小高根二郎20分して本郷へと出てゆくを地下鉄まで送り、卒論の誤字訂正す。
(※省略) 小林君来り、弓子風邪にて送らず。(※省略)
1月16日
よべ京帰りしを知らず。8:00さめ卒論2冊見る。優なし。(※省略) 庄田、沢田四郎作、武田明の諸氏に「端午の節句」抜刷送ることとす。(※省略)
寒し。16:00卒論見了る。新城ゼミに優なし。(※省略) 小高根太郎より『鉄斎研究』。富沢有為男氏逝去と夕刊。松村、神田、田川、竹■氏に抜刷送る。
1月17日
7:00さめ火起す。泰、8:30起き来り、グズつくゆゑ叩き、10:20登校。新城ゼミの論文返し野口君より3冊受取る。帰りて昼食。3冊見る。
成城堂で『日本書紀研究1-3』買ふ。弓子友達の披露宴にと出てをり、泰1万円前払ひとし、滝本生つれられてゐず。ユ、弓子の道具買ひに出てゆく。
14:00出て太田家30分探しまはりゆけば半田教授をり。立教で神学教えへし也。9:00次男の運転で三鷹まで自動車。滝本生をり、前田光子より「30人の名教へよ」と。
宮崎女史21:30来り、名札書き23:00すぎ帰りゆく。京外泊。
1月18日(日)
よべ睡眠感なし。9:00起き10:00起き来し滝本とsoup、paoとり、弓子とユの荷造りするを見やる。泰、風邪。
滝本と出てタバコ買ひ、丹前のほころび縫ってもらふ。〒なし。
1月19日
10:00登校。話し相手なし。2Dの「中国の葬式」すまし来週休講をいひ忘る。
2時間、本棚の並べかへにてすまし、1年に「Heidenröslein(※野ばら)」教へ、来週休講といふ。
畠山六右衛門氏より「糖尿で死ぬところだった」と。澄より電話「24日夜来る」、ユ「28日にゆく」といふ。
依子、胆石で17、19と呻きし由。(※省略) 桑原武夫氏に「南都と西京」のことハガキ。
1月20日
6:00ごろより覚める。松浦母上「祝に来る」と。滝本・三浦女史「式服納めに19:00来る」と。
雑煮くって出、野口君より4冊帰り来し卒論、李のを見、教授会。長々とつまらず。すみて柳田国男先生の女婿、堀一郎博士京大停年にて来るほか専任4人。
すみて紅茶のみ茶のみて帰る。(※省略) 19:30滝本・三浦2女史、出来上りもち来る。(※省略)
1月21日
7:00まへ起き8:00出て9:05登校。卒論面接の憎まれ役買ひ、誤字訂正。疲れる。成城堂に7千円払ひ帰宅。肩凝る。
弓子けふは休みゐし。京きのふより休みとりて越後岩原にskiiにゆき、明晩帰ると也。
1月22日
よべ21:00に寝、5:00さめ8:30成城へ登校。中国文学『紅楼夢』と『魯迅』と『聊斎志異』とでもよめといひ、帰りて研究室にてちらし食ひ、
卒論面接にゆけば1人すみしのみ。肩凝らせて帰り、佐伯にて『日本浪曼派の時代(2,750)』とりて帰る。(※省略)
あす冷蔵庫届くとてみなすみし由。泰にtelevi独占さる。
1月23日
よべ睡眠感なし。8:45成城着。礼の如く誤字訂正をやり、(※省略) おくれて草稿出せし藤波と宇津とを半年落第。
(※省略)新城博士義兄逝去と、われと同車にて祝いふ。
弓子の荷物入れ了りしユを見、泰、つれてゆきし滝本生に礼いふ。
1月24日
朝、ユ、色をなしてわれを叱る。母より「式に出られず」と電話。ゆき見れば神経痛にて入湯できずと。
大、火を起こし茶を飲ます。出て柏井に寄りあすのことたのむ。俊子姉と4人で自動車で来ると也。
帰り歩きて佐伯に寄りオドリコ『東洋旅行記(300)』買ふ。寒し。18:00澄来り、泰、態度全然変る。(※省略)
1月25日(日)
8:00さめ泰を澄にたのみて散髪にゆかし、われも散髪にゆく。京、弓子みな10:00起き11:00弓子permaにゆき会場へ直行すと。
澄、銀座へcameraとりにゆき、われ最後となり、佐伯にて『私の歩いてきた道』買ひ私学会館。(※次女弓子氏結婚式)
仲人夫婦に挨拶し、俊子姉より祝(1万)受取り、会場係より「神式にしてくれぬか」と。クリスチャンといひて断り式すみ17:30披露はじまり19:30了る。
(やとはれ仲人何も云はず)。史、中座し、新郎の大阪の伯父挨拶して中座す。美紀子taxiひろひ天沼まで6人乗り母に礼いひ、またtaxiにて帰宅。23:00ねる。
1月26日
8:00さめ疲る。松浦母上より「祝電ついたか」と。小林母上より荻窪11:30と。11:00泰父子、ユ出てゆく。
昼食に鯖ずし買ひ(100)、滝本女史に特講中止いひ、三浦女史に礼いふ。佐伯にて『織物(320)』買ひ、他にて『漢方(120)』買ふ。
ユ16:00帰り来り仲人への礼すみ、(※省略) 小林父上より別府着の電話あり。19:00また本人達より同じ電話、めでたし。
1月27日
寒し。8:00さむ。ユよべ23:00ごろ京帰りしより眠れざりしと。11:00雑煮してくれゐるところへ久我山の姉上、祝もちたまひ、すぐ帰るとてともに出てゆく。
依子よりお粥のみとのたより。(※省略) 夕方ごろ、怪しき男、船越とのあひまに来しとソノ子ちゃん。(※省略)
三井銀行総務課池田さんより「株券できたゆゑ印鑑もって来よ」と。依子へ平安と感謝をと手紙かく。ユ20:00帰り来り飯くはす。
澄に電話し「あす早く発つ」とユいふ。
1月28日
ユ8:00にさめ9:00出てゆく。澄より電話「いつ着くや」と。13:00ごろまでといふ。(※省略)
1月29日
8:00さめ雑煮くひて12:00登校。13:15より中国文学史の監督す。142人受験。すみて麝島生のreport受取りて出る。〒なし。
京、留守し、ユ母子三鷹へゆきしと。京、試写見るとて夕食まへ出てゆく。太田令息来り、(※省略)
21:00澄より「2月2〜3日に早産さす」と。
1月30日
9:00出て10:00成城。誤字訂正17::00近くまでつづく。帰れば『日本の詩歌 俳句』来をり、桂信子なし。山田俊雄よりならん角川の『国語辞典』。
弓子「帰りし。あす来る」と電話かけ来る。53日目の雨の中を京、志賀高原へskiiにゆくと也。
1月31日
よべより53日目の雨降る。右下奧の歯痛み、柏井へゆく。
18:00親類廻りの最後に善一郎夫妻来りし故、『字典』与へ土産いろいろもらふ・(※省略)
2月1日(日)
久しぶりに礼拝にゆく。〒なし。来年度の教授要項かく。夜、滝本女史来る。(※省略)
2月2日
11:00すし買ひてゆき13:15まで待ち、法学の試験監督を助く。帰り柏井歯科へ寄る「も一度来よ」と。(※省略)
『オランダ語4週間(200)』見つけありしを買ふ。京skiiより帰り来る。(※省略)
2月3日
10:30澄より「(※依子氏)産気づき分娩室へ移った」と。ユすぐ出てゆき(※省略) 15:00澄より「ユと泰つきし」と。まだ聞かずと。
17:00「生れた。母子健全、男児」と。母に電話し美紀子に史の検血たのみ、弓子にも同じことたのむ。
20:00入浴中、高松の諏訪節子母上より礼の電話かかり、けふ終日寝て飲食せざりし京出て挨拶す。
2月4日
市賀生への書き直しハガキ送り返し来り、憤慨し杉並郵便局にゆけば「書き直しだめ」と。
「宝典見せよ」といへば「無し」と。「封筒に入れて再送す」と。滝本にゆき不快いふ。
京にすし買って帰り、来りし滝本生と居れど面白からず。20:00ねる。(入浴中、澄より電話「良き名ありや」と)。
2月5日
晴れ、寒し。のど痛く山住先生にゆき薬もらひ、「大学院入試、風邪のため休む」と成城に電話す。諏訪父上より「かまぼこ?」。
澄に電話し「名つかず」といへば「ユら、けふ帰り来る」と。14:00松崎佐知さん来り「2月11日YMCAにて(※省略)結婚式する。出よ」
と。
澄より電話「16:00の新幹線にのった。依子好調」と。19:00ユ帰り来り、滝本生より「けふは伺はず」と。
2月6日
8:00さめユを11:00小林家へゆかす。清算の為なり。11万円わたし、あす清算に来るとなり。午すぎピーコックへゆき屋上で泰あそばし、滝本へゆけば留守「夜来い」といひ、帰りて山住先生に薬もらふ。夜、滝本生来る。
(渡辺さん(※平凡社渡辺春輔氏)来り、本5冊たまひ「4月までに自叙伝300枚かけ」と。)
2月7日
11:00弓子里帰りする前、ユ、泰をつれて松浦家へ祝返しにゆく。〒なく17:30ユ帰り来り、(※省略) われ風邪まだ直らず。概ね家にをり。(※省略)
2月8日(日)
弓子11:30帰りゆく。滝本生、泰つれて出、ユ、天沼へゆき17:00まで留守番、何も出来ず。
2月9日
7:00起き、9:00出て東洋文化史の試験。すみて14:30まで待ち、東洋史の試験。帰り小倉君と共となり、喫茶さそへどもきかず。
柳谷義氏より許婚者つれ来り、「3.15の式に仲人を」と。ユ出て「娘の看護にて出られずやもしれず」と断る。
柿崎生よりふざけたるレポートと写真と来る。
2月10日
寒し。15:00よりの教授会「風邪」と休む。畠山六右衛門氏転居と。宮崎宮子生より「3.14(土)17:00Hotel New
Otaniにて」と。
夜、望月千鶴子生より「3.17Hotel Okuraにて」と。ついで柳谷君「教会の某先生に仲人たのみと」と。
2月11日
弓子、小林(※省略)君と12:00前に来り、泰つれ出し呉る。早々に支度しお茶の水よりYMCAにつきしは13:55。すぐ式はじまり仲人片岡夫妻にみちびかれ新郎新婦入場、式すみて(※省略) われ祝盃の音頭とりをさせらる。(※沢家・松崎家結婚披露宴 省略)
2月12日
9:00ユ、澄に起され朝食支度す。われはだるくて困る。望月千鶴子の式「3.17(火)13:00 Hotel Okuraにて」と案内来る。
2月13日
よべ数年ぶりに睡眠剤のみ忘れて半夜しばしば覚む。10:30澄、泰をつれて竹内家(※恩師の竹内好)へと出てゆく。
卒業生の採点をし、14:00成城へもちゆき、帰りてユが泰を今井へつれゆきしを知らず、ぼやっとまちをり。夜、滝本生呼び疲れて22:30眠る。
2月14日
8:00さめ、9:00集英社より「残部800に改印して出す」と速達来る。(※省略)
加藤定雄より「東京都民銀行を退職、都民興行社長となりし」と。
(けさ小林母上より「弓子病気」とのことにユ、泰をつれてゆけば「風邪にて大したことなかりし」と也。)
2月15日(日)
礼拝にゆかず。だるし。(※省略)
2月16日
同じく終日無為。諏訪セツ母上より見舞文来り「八朔送りし」と。夕方現物つく。ユ、泰をねさせて『白楽天』の印紙800枚押す。
2月17日
無為。ユ、泰を母と柏井へつれゆき16:00帰る。弓子より「鏡台かけ作ってくれ」と電話。
天野忠より「『骨』にかけと荒木利夫より云はれしを云ふ」と。
2月18日
新学社より稿料表来りしのみ。八朔もちて泰と小林邸へゆけば、弓子とともに父上出られ、しんどくてならず早々駅まで弓子に送らせ、
柏井へゆき泰の歯とともにわれのもしめてもらふ。
佐伯にて泰用の雑誌30円でもらひ、帰れば集英社の小川由美子嬢来をり、印さかさまに押せしと。ユに押させ話きけば「伊藤整夫人の兄の子」と。
わが幸せをいひ、伊藤氏の冥福祈る。19:00田無へと帰りゆかる。泰のせいにて何も出来ず。
2月19日
宮崎智慧女史より電話あり「早川孝太郎全集出る。臨川よりも『花祭』出したし」と。臨川ことわれといひ、
泰をつれて滝本へ函もちゆき、代議士の次男来ゐるを見て、今井翠にゆき(3生の結婚式出席の返事と「一日」を『骨』に400×2.2速達65)、
アリちゃんつれ帰る。画うまし。翠女史つれに来りしあと、山住先生へゆき鬱はげしきを申し上ぐれば4回のめと薬賜はる。
入浴中、染谷美重子より電話「3月25日17:00挙式」と。出席といひ、太田温子赤坊つれて帰宅ときき電話す。(※省略)
2月20日
服薬4回にてよく眠る。泰をつれてユ天沼へゆきしあと、太田温子坊や(4ヶ月)つれ椎茸もちて来る。
夜、滝本・三浦2女史来る。坂生「あす9:00来る」と。
2月21日
小雨の中、伴生来り(※求人)会社の要人書をもち来りしに覚む。
佐伯にゆきクラヴィホ『チムール紀行(300)』、『日本誕生の謎(50)』買ひ、封筒買ひ、竹内祥子、麝島眞理子に写真送る。
澄より13:00電話「依子、胆嚢の手術にかかり15:00ごろすむ」と。17:00電話かかり「手術すみし。膵臓わるかりし」と。
大藤氏より電話「24日10:00編入試験に出よ」と。
2月22日(日)
曇。滝本女史おこし三浦女史とともに署名捺印せしめしあと天沼へゆき大、母にたのみ、ついで野中君にもたのみ柏井へゆけば全家留守。
佐伯へゆけば4人分署名して泰へと本呉る。4千円のみ成城払ひし也。すまながって帰宅すれば、署名無効とわかりがっかり(※後出:佐藤誠死刑囚再審請求か)。
夜、澄より電話かかり「順調ゆゑ来ざるがよし」と。
2月23日
よべ眠剤きかず疲る。3月5日クラス会いひ来る、欠席と答ふ。
佐藤先生の7回忌につき『Politeia』よりアンケート。13:30大、来り父(※西島喜代助)の遺稿整理す。『日本の詩歌』来る。
2月24日
7:00ごろよりウトウト覚め、ユを起し10:00まへ成城大学。会計でサラリーもらひ、就職課へゆけば「(※坂生より依頼された求人に)心当た
りなし」と。
10:00より試験監督。(※省略) 13:00よりの教授会まへ、坂本浩氏にきけば「岩野泡鳴は洲本の武家の出」と。「部長改選につき正教授会5日にあり」と。(※省略)
図書館購入、文化史は超過して来学期まで佐伯に払へぬとわかり、あやまりいふ。天野忠君より「おからだもひとつの様子、案じてます」と受取。
坂生にいへば「中山達子に直接いふ」と電話。望月、保阪生へ平服のことわりす。弓子けふ里帰りして泊る。
2月25日
昨夜も眠りよからず。澄より電話「O型の検血5枚欲し」と。
ユ、弓子、泰にて天沼へゆかしむ。(「いのしし」3枚よべかく)。「望」つくる(※長女第2子の名前)。
ユに小高根二郎へ5千円封入速達たのみ出てゆきしあと、滝本生に電話すれば以心伝心「来るところ」と。
澄より電話、あはてて経過よく、赤ん坊もガラス(※保育器)より出るとならん。史の検血証つきしと。
ユ帰り「今井にて遊びし。土曜より兄宅へ預けろ」と。滝本生「O型ゆゑ、よければ献血す云々」。
米山生より電話「アルバイトしゐる。卒業ありがたし」と。(※省略)坂泰子に「中山生と見合って採用してくれ」とたのむ。
夜、澄より電話「3月下旬退院、通院の見込みついた」云々。「泰そろそろつれて来てよし」と。「2日すめば」といふ。
2月26日
よべ泰、他のへやにゆき京と同室、よく眠る。午前中採点すまし、あと記帳となる。ユ、京を武蔵野日赤へつれゆくこととなる。
母より「けふルリ子の(※離婚)調停の最終回にて大、出てゆきし。(※省略)」
13:00、3人帰り京、献血すみしと。ユはだめ。血液型に係らず宜しと。滝本も低血圧ではだめと。
女医さんにゆき尿の検査(異常なし)、血液検査とともに血液型検査(300)たのめばO型と!
米山生来りし故、坂生に電話し「あす面接13:00」となる。(※省略)
2月27日
5:00さめ6:40ユ起き、7:20出て成城。(※省略) 弁当食ひ高田氏に「自叙伝かく」といひ、(※省略) 18:00米山生より電話「坪井工業に決まりし」と。
澄より電話にて「輸血あと2人分でよし」と。けふ採点出し了ふ。(※省略)
2月28日
6:30さめ雪降りゐる中を成城。監督すましcoffeeのみて帰る。(※省略) 澄より電話「依子経過宜し」と。2日午后、泰つれユゆく旨を伝ふ。
佐伯にて『川柳江戸名所図会(380)』買ふ。13:00ユ、泰をつれて諏訪姉に吉祥寺で引き渡しにとゆく(けふと明日半日)。
小高根二郎君より「蓮田善明(※『蓮田善明とその死』)5日発売3,600円×1,200。歓迎会この間ですんだと思ってゐた云々」。(※省略)
3月1日(日)
泰をらず6:30旨くさめ、8:30登校。2時間監督し(※省略)、すみて中食もらひ大学院入試用の漢文問題作製、成城堂で『信長記(280)』
貰ひ、
南新宿下車。東豊書店へゆき来年度払ひとて2万円余買ひ、『清初流入開発東北史(120)』買ひ、劉助教授と話し、
佐伯に寄れば『樹皮布印文陶與造紙印刷術發明(1000)』、『民族学研究所集刊2冊(400)』とし、駄本1冊呉る。
(※古書店から)どこにても好かれるやうなりしか!
(※省略)『風日』は高雄山の小川[義]彰上人(田中久夫氏好く)追悼号、もと東大の学生主事らし! 泰帰宅、きげん好くふざけをり。
3月2日
6:30さめ急いで飯くひ入試にゆく。無事すみ、昼飯もち帰れば泰喜ぶ。坂生より電話「米山といふよい子を世話してくれて」と也。
3月3日
澄より電話「午まへに来る」といふ。(※省略) 11:00ユ、泰をつれて名古屋へと出てゆく。(※省略)
佐伯にゆき『義和団(260)』買ひ、栗田にゆき『日本事物誌2冊(800)』、『女妖啼笑(140)』買ひ来り読む。
赤ん坊のbedもち来しを預りしと向ひの夫人わたさる(今井?)。17:00今井翠より電話「赤ん坊のbedもとは泰用なりし」と。
山田俊雄教授「画をかきゐる」と。
3月4日
また雪。昼飯用野菜もち来れと滝本生にたのめば「30分」と。wineのみて帰りゆく。午后また買物にdept.へゆけばArbeitの学生に当る。
(※省略) (※遠方通話割引)20:00になるをまち名古屋に電話すれば澄、病状を語る。ユ呼び出せば「あす帰来」と。(※省略)
3月5日
7:00さめsoup自分で作り8:10出て成城。第一次入試の及落、243点まで167人えらび、(※省略)119点まで33人、他にsports(※推薦)2人採る。
すみて正教授会18人にて堀川(5)、高田(5)、池田(4)の3人を学部長候補とす。われは最年少の浅沼とするも1票のみ(栗山、大藤などなく大山に票2ありし)。
文化史あつまり来学期より単位に入らぬsemiを新3年に。また新2年の級担任は我ときまり、主任交替は出ざりし。
帰れば京をり「ユ13:00乗車」と。
小高根二郎氏より「京都の染色会社の会長に5月末なる。出版記念会兼歓送迎会の希望日時は5日しらす」と。「丸山学氏(蓮田善明の友)2月27日逝去」ともあり。
帰り東豊書店よりつきし本重くtaxiに乗りて本[多]宅前で下車(610)。値上げ後とて文句いはず。(※省略)
夕食後、東博氏『蓮田善明とその死』もち「小高根二郎氏より」と。
3月6日
8:00さめ速達、追試65とつけて駅に出しにゆき『白鳥庫吉全集2(2,250)』佐伯に来てゐるをとる。
午后ユ泰、今井家へゆきしあと、母「阿佐谷へ買物に来し」と電話。夜、歯痛とて泰つれてユ、柏井へゆく。
3月7日
寒く晴る。9:00出て散髪。田中久夫氏へ高雄の小川上人追悼号送り(35)、佐伯へゆき『水滸伝と支那民族(450)』買ふ。
弓子夫婦、苗場へskiiにゆくとて寄る。弓子送りに皆出しあと澄より「外科をはなれ2〜3日中に一般病室へ。望2600gとなりし」と。
夜、小高根二郎氏を寮でつかまへ「蓮田善明の会」3月21〜22日にと。浅野晃氏に発起人承知してもらふ。(※省略)
3月8日(日)
久しぶりに礼拝にゆく。レンテけふよりと。すみて知る人ほとんどなきに気付く。(※省略)
河野岑夫、腎臓病にて回復おぼつかなしと医師にいはれし由。
3月9日
7:00さめなすことなく15:00鈴木治氏の怪文みてタバコ買ひに出、
帰りて『蓮田善明とその死』出版記念会につき東氏に電話し、あさって筑摩に名簿見せてもらひにゆくといひ、
池田博士(※池田勉:元『文藝文化』同人)に電話せしも研究べやとてかからず。今井氏に電話すれば短大と。かければ「(※本)未着、お手伝ひす」
と。
ついで栗山博士(※栗山理一:元『文藝文化』同人)に云へば「22日(日)午后1時がよし、新宿にせよ、今井君に手伝はせよ」と。
3月10日
母より「河野岑夫見舞にて西下」と電話。ユも出てとめず。
今井信雄氏に電話し「22日の会の発起人となれ。会合の案内手伝ひくれよ」といへば承知。「あす13:00成城大学にて」となる。
泰つれてユ新宿へ染谷美重子への祝出しにゆく。滝本よりユに電話「鏡かけ早く」と云ひしに返答なし。夜、滝本ふくれつらしてもち来しにわれ出ず。
3月11日
けふも2:30さめて睡眠不足。阿佐谷郵便局へゆき往復ハガキ60枚買ひ、地下鉄淡路町にて下車。
筑摩書房にゆけば東君不在。部長出て(※『蓮田善明とその死』)寄贈名簿探しくる。国鉄にて新宿。
中国料理店探し、紀伊国屋ビル4階にてNewTokyoといふが1卓1万円を4卓、前日電話して人数たしかめると。
成城大学にてrice-curry食ひ、今井氏来るをまち「会費3千円にて」と池田博士も立会ひにて定む。案内われ書き、印刷発送今井氏やり呉ると。
出て成城堂にて『文芸春秋』買ひ、帰宅すればユ不在。今井家へゆきしと。小高根氏の人名表も来あり、ほぼわが原案と会ふ。
19:30小高根氏と会しゐる東氏より電話あり「22日の会に10冊ほどもち来たまへ」とわれ云ひ、小高根氏に大体のこと云へば「宜し」と也。
3月12日
8:00さめて10:30登校。大学院2次入試。2時限目の外国語の監督す。3名(※省略)。すみてドイツ語、漢文と採点す。あす10:00面接となり。
帰れば(※省略) 新学社より印税700余。(※牟礼事件)佐藤誠再審委員会より受取と「署名捺印を」と再び来る。鴻上シゲ子といふは母なるらし。
山住先生へゆき薬もらふ。小高根二郎氏に22日の会の案内かく。
3月13日
7:00さむ。ユ、今ね入りしところと。9:30成城着。10:00より3人の大学院生面接、みなよしとなる。ちらしずし食ひ帰宅。ユ留守。
今井、滝本に電話かけしにゐずと。税務署へゆき5万円余、銀行払ひとなりしと帰り来る。(※省略)
佐伯へゆき、さきほどとりし『肉蒲団』代りにもちゆき『関漢卿戯曲集(1200)』買ひ、えびね鉢入り(150)買ひして帰り来る。けふ寒し。
(※省略)
夜、今井信雄氏より「20冊ほどその場に必要」と。われ「写真とるはいかに」といふ。東博氏に電話せしに未だ帰らず、夫人にその旨云ふ。
3月14日
7:00さめ、万国博のteleviみて12:30家を出、成城教授会。宮崎氏とともに宮子の結婚式にゆくとて高田部長に早く部長選をとたのむ。
(※省略)
堀川氏19、高田氏14、池田氏8の票決となり堀川氏引受けるとの態度示す。
すみて宮崎氏まちしも先に出てNewOkuraへゆき紅茶のみて矢野宮子の喜ぶ様子みる。われ2番目の祝辞当りミヤコチャンと呼びてすむ。(※省略)
澄より電話かかり「朝日に入りたし。高垣にきいてくれ」とありしと。困る。
3月15日(日)
6:00起き、soupこさへ9:20出て礼拝にゆく。すみて(※省略)竹内家へ歩き、澄の転職(※希望)いへば「朝日新聞よからん」といひ、筑摩に世話するといはず。お祝ひ(望の)といひて夫人5千円賜ふ。早々出て西友にてrice-curry吃ひ(200)、南口の本屋探せば移転しをり。
探し当てて『日本文学アルバム堀辰雄(250)』買ひcoffee(60)立ち飲みして
教会へ再びゆき、14:00より柳谷・近藤英子の結婚式。讃美歌うたひ階下の披露宴に列席。(※省略)
帰り来れば(※省略) けふ『蓮田善明とその死』の会に伊藤桂一氏「出」の返事来る。
夜「澄のコネ承知か不承知か」の返信つき手紙を高垣金三郎にかく。
3月16日
雨中を10:00登校。2時間半監督す。帰宅17:00。母より電話「河野岑夫萎縮腎」と。百科事典みれば療法なし。〒なし。葉生より19日午食すと。
澄に電話し、高垣、竹内(※竹内好)のこといへば、「依子コレステロールとれず両親の血しらべよ」と也。岑夫に「ニワトコのませよ」とハガキかく。
3月17日
寒し。試験監督免除され、井上文夫氏より日本経済新聞新潟支局長となりし挨拶のほか、『蓮田善明とその死』の会の出欠受取り。
12:00まへ出て咲耶に速達、滝本のぞけば仕事しをり。まづHotel New
Okuraの望月千鶴子の結婚式。(※省略)すみて2時間ある故、小高根二郎訪へば出張と。
西川(※西川英夫)に寄れば「またやせたな」と。令息けふあたり学位貰ふとなり。
有楽町まで国鉄、帝国Hotelにゆけばもはや大分集りをり。保坂文子の母方の叔父岩手より来しと話し(※省略)、銀座の地下鉄乗場に、迷ひ迷ひして帰宅。
午後の便にて片岡久、中谷孝雄、中河与一、小高根太郎、金沢一、岡、青木の諸氏より出席と。阿川氏(※阿川弘之)病気とて会費のみ送り来る。電話して「小高根氏に」ときく。
田中久夫氏より『風日』の礼。ユ、けふ山住先生にゆき萎縮腎とは末期のこととききしと也。
3月18日
家居。小高根二郎氏ひるまへ電話かけ来り「きのふ下阪せし」と。朝、速達にて蓮田夫人、御長男来られず(清水氏(※清水文雄)も来られずと電話ありしと)。
夜、高藤氏より出席と、20名近くなりし也。滝本女史来る。(けふ弓子来りしも、ユ泰天沼へゆきて帰らず。)
森廉三博士定年とて3千円出せと也。
3月19日
東博氏来り「20冊もち来るも小高根氏買上げとしてくれ」と。去りたまひしあと米山生来り「葉生、自動車で待ちゐる」と。
成城より1時間近くかかり(※自動車の)置場もなしといふに、すぐ出て「田園」といふ中華料理へゆく(李生を成城で拾ふ)。村松生まちをり榎並生来ず。(※省略)
けふ女医先生より「タバコ5本にせよ」といはれしにタバコ吸殻入れ皿と眼鏡さしと賜はる。(※省略) 田園調布まで葉生に送られ、米山生と新宿まで同車。
(※『蓮田善明とその死』の会)西岡武■氏出席とて21名となり、あと来られずの通知のみ。
3月20日
3生に礼状。(※省略) New Tokyoより人数きき来りし故、3卓にへらす様たのむ。ユ泰、久我山のスワ賢氏へ送別にゆく。(※省略)
新ゼミの4生に電話せしに1人もゐず。母親恐縮す。18:00まへ、久我山より帰りし泰「歯いたし」と柏井へゆく。
高垣金三郎より速達「この機を延ばせばだめ」と也。夜、澄に電話せしもかからず。
3月21日
小口氏より「出」の速達。澄に電話せしもかからず。蓮田新夫氏より電話「欠」と。
吉祥寺教会より29日復活節、克己献金をと。夜、今井信雄氏より電話「小口氏出られず成城中等部の石井宗吾氏出席」と。
21:00澄に電話すれば「依子あす外出許された」と。今井氏よりまた「早大の川添国基氏と堀内[達]夫、出よきか」と。
3月22日(日)
7:00さむ。礼拝やすむ。依子家より電話し呉る。11:00すぎ出て佐伯で茶のまされ、紀伊国屋ビルのニュートーキョーにゆけば、今井氏既にあり。
(※小高根二郎『蓮田善明とその死』出版記念会)中谷孝雄、小高根太郎、伊藤桂一諸氏と話し、八木四季社社長(※八木憲爾)に「伊藤整追悼かく」
といふ。
今井氏入試判定にと去りしあと15:00勘定せしむれば6×8,618(税共)、2000円と会費を定めし為5.9万より金なく、
筑摩の東博氏より1万円借りて払ひすまし、3冊今井氏にと東氏より借る(11冊ほど売れしと也)。
小高根二郎、東2氏と茶のみ小高根氏払ふ。帰れば保田より「欠」と来あり。今井氏に電話し決算報告いふ。「2冊でも3冊でも欲し」と也。
わが本なくしニュートーキョーに電話すれば「しらべおく」と也し。
3月23日
10:00出て成城大。短大今井氏に精算書と3冊おき(月給もらふ)、新宿ニュートーキョーにゆけば『蓮田善明』とりありし。
(成城堂に払ひし『呪術』買ふ。) 13:00すぎ筑摩にゆき東博氏不在につき小宮氏に1万円と風呂敷ことづける。
山本(※山本書店)まであるき茶のまされ、『台湾民俗(1080)』買ひ、九段下より地下鉄にて帰宅。田中冬二氏の欠席通知来あり。
中山生より「太平天国」につき電話あり「あす12:00すぎ研究室へ来よ」といふ。
3月24日
6:00さめ9:00出て登校。判定会は221点まで109人と寄附つき107点まで38人とり他に体育1人。(※省略)
いやになりそのあとまた教授会のみの会にて昇任選衡委員きめ、ちらし食ふ。中山生来りし故「太平天国」の参考書3冊わたし、
今井信雄氏に研究室に3冊放置されしままの『蓮田善明とその死』のこと電話す。
副手たち5人やめ「あとちゃんとせよ」と捨てぜりふ云ふ。(※省略) 佐伯に寄り『江戸っ子(250)』買ふ。成城堂で『薬』買ふ。
賀代嫗来り「船越近く家賃払ふ」といひし由。(※省略)
3月25日
7:00起く。京、早く出てゆく(skiiの為らし)。9:30武蔵野日赤へとユ出てゆき10:00西岡典子生迎へにゆき12:00過ぎまで指
導。(※省略)
けふユに「礼拝」と2,500小高根二郎氏に速達せしむ。
16:00まへ弓子来り(万国博行の小遣ひもらひに来しと!)、出て大手町で下車。Palace
Hotelの染谷美重子の披露宴にゆく。(※省略)
けふ大山澄太、林房雄、蓮田新夫の3氏より欠席通知。美紀子来り、史の生地聞く。(※省略) 淳一可愛く泰も可愛がりしと。
大より離婚手切れ金借りたく保証人となれ、実印証明と成城の支払証明とくれと。(※省略)
3月26日
柏井尚子より電話「2妹の北京在住の証人となれ」と。
やがて来し今井宏子に「昭和17年1月より21年3月19日仙崎上陸まで同居」証人旗田巍と書く。(※省略)
女医先生にゆき下痢薬ももらふ。(※省略)
3月27日
午后、大来り、書類と印もちゆく。ユ、泰、今井へゆく。中山生より「あす14:00来る」と。
3月28日
中山生来りし故「太平天国の年表つくれ」といふ。夜、依子「一時退院ゆるされし」とユに長き電話。
3月29日(日)
復活記念礼拝にゆく。すみて喫茶後、(※省略) 帰れば太田弘毅君来り、(※省略) wineのまし長話す。
3月30日
7:30さめ9:45成城。成城堂にて『騎馬民族の遺産』買ふ。大探検時代双書まだ来ずと。
出がけ原田運治君より句集『花八つ手』受取る。中西教授、八木、毛利2助教授の審査すみ、阿佐谷まで帰って雲呑くふ。
ユ、母のところへゆきをり。澄より電話「依子の退院せかさず。検査の結果いかに」と。
小高根二郎氏より受取。木村三千子氏より『骨』に参加したと。咲耶より「云はれた通りする」と。(※省略)
3月31日
佐伯へ白鳥博士もちゆき2,700の払ひせんとすれば700に買ひ呉る。日航「よど」号乗取り事件にてtelevi終日なり。
4月1日
日航「よど」号金浦飛行場に釘づけ也。成城より時間割来る。(※『四季』への)伊藤整追悼の詩かけず。
4月2日
塩崎生の来るまへ、丸重俊来り『校註荊楚歳時記 : 中國民俗の歴史的研究』返し、信州の道祖神の本呉る。
塩崎生と入れ違ひに丸帰りゆきし故、13:00まで指導『太平御覧』貸す。けふも終日「よど」号の騒ぎにて20:00学生乗客を出すことに同意したと也。
4月3日
滝本生来りし故、泰預けてユ、赤十字へゆく。われ「鳴海仙吉」を四季社へ速達せしむ。
よど号、乗客を下し山村次官のせて北朝鮮へゆく。その後北朝鮮より無条件返還取り消しと云ひ来しと。
竹内好より『中国を知るために2』贈られ、春夫忌30日17:30といひ来る(出の返事す)。
4月4日
曇。西島順来る。早大の政経に入学と。練馬に下宿す。われドイツ語中辞典やるといふ。
ユ、買物にともに出てゆき帰らず、澄より電話「あす14:00までに来てくれ。自分は22:30来て泊る」と也。
弓子来り、万国博の土産呉る。散髪にゆく。
4月5日(日)
礼拝にゆくまへ「よど」号羽田帰着を見る。礼拝すみて参会者98人。100人を下りしは近年のレコード。「よど号」のせいと也。(※省略)
15:00史夫婦来り、洋行の鞄貸せと。1万円と神田氏より贈られし『白鳥庫吉全集3』とを与ふ。淳一丸々太りをり泰やきもちやきいじめる。
22:00すぎ澄来り、23:00まで話す。「日本televiへかはる運動す」と也。(※省略)
4月6日
9:00澄起きて出てゆくを知るも起きず。西川満氏より電話「水曜13:30にゆく」といふ。阿南惟敬氏来訪。
夜、川久保(※川久保悌郎)より電話「あす帰る。松本善海(※病状)いかん」と。
4月7日
11:00よべ外泊せし澄来り、泰つれ帰る。ふりかへらずしてゆく。
(※省略) 『果樹園170』来り、69才とわが年を誤記す。「望」なる詩なり。20:00電話すれば「疲れて帰着、血液検査たのむ」と澄。(※省略)
4月8日
朝より心がまへして13:30西川満氏に会ひにゆく。茶菓出され夫人出らる。台湾行すすめしも忙しと也。松村一雄先生のこときかる。
帰り薬と茶とたまふ。(※省略) 20:00電話すれば依子帰宅しをり。泰も電話に出る。
今井翠に電話すれば松波夫人離婚して小川姓に戻りしと也。毎夜、吉岡弥之助氏に電話すれどかからず。
4月9日
泰恋しくてたまらず、午すぎ「望」のりし『果樹園170』名古屋へ送る(20)。
三浦貢氏より速達にて(※大阪高校)野球部の会の世話、安達遂氏とわれにたのむ由、
いらいらし安達氏に2回電話して神崎、加福、武田、瀬戸の4氏の外、応援団の我部山、岸野2氏にも連絡乞ふ。
小田幸康氏に電話すれば夫人出られ「申し伝へる。東工大の先生」となりし。(丸に電話し「出る出る」ときき、紅松に電話し「まだ帰らず」と。)
躁ならん。『薬(岩波新書)』買ひdoubleとわかる。(※省略) 竹森先生奥様に電話し礼拝当番おことわりす。
4月10日
8:00さめ(京、伊豆へ旅行)、紅松、丸へ速達し、安井正己、長井孝太郎、笛吹泰三、加納一明の諸氏に返信(速達ハガキ入り)付きの案内し、
高垣、益子、小田の諸氏にハガキかき、阿佐谷南へゆき滝本生と50分話し「泰恋し」といふ。(けふ澄より電話「幼稚園へゆきし」と)。
帰れば関口、小倉脩三より転居状、筑摩の東氏より借用証の名刺2枚返る。高尾書店より『書林』。
夜、関口に電話し「本位田の脳軟化症見舞ってくれ」といへば「人ぎらひとなる。妻もそれにて3年」と。
4月11日
雨、家居。ユ、パーマかけにゆきタバコ買ひ来る。安達氏(法政大工学部教授)より「方々へ知らせた」と。結果を「あす夜しらせたまへ」といふ。
夜、加納氏より「出席」の電話。
4月12日(日)
8:30家を出て登校。入口にて渡されし学園新聞に学長面責の記事ありしも学長挨拶し、入学生代表挨拶し、記念写真写し、
大学院にゆけば堀一郎教授もあり。署名すみ写真とり、学科の指導了りて鎌田女史より菓子賜ひ、
出て成城パンにてマカロニ食はんとする処へ重久武志生来合せ喜びておごり呉る。
家まで伴ひドイツ語のLiedと星と好きときき「会議は踊る」の歌二つ教へ、歌舞伎年中行事与へて帰らす。38才となりしと。
18:00安達教授に電話すれば出席者の名あげ玉ひ、三浦氏には「東京支店の電話かれ」をいひ玉ふ。出席者の中に神崎清、加福達郎のほか仁谷正雄氏の名あげ玉ひ、われとの関係もしり玉ふ様子也。19:30京の友大野嬢、漢文好きといふ弟つれて来る。(※省略)
4月13日
益子輝夫氏に電話すれば「欠」と。笛吹泰三氏より「出」とありし故、ミウラ化学東京支社に電話し「15人出、名簿送る。責任者は田中」と大阪への電話たのむ。そのあと15人の名かき三浦貢氏に速達。
帰り佐伯に寄り岩波の『朝鮮資料による日本語研究』たのみ来る。ユきのふ立会ひし見合、双方よろしとなり。
京都府知事に社会・共産推しし蜷川氏6選にて自民がっくりと。
ユ、今井へゆき昨日夫婦の留守に阿佐谷へ来し松浦市長の土産とり来る。夜、安井正己氏より「欠」と速達。
弓子「(※省略)君宿直」とて泊りに来る。あす留守番出来たとて美紀子に電話し「孫見にゆく」といふ。(※省略)
『史苑』来り「手塚先生謝恩金を5月10日まで」と。
4月14日
長井孝太郎氏より「欠」と速達。弓子来り、京休みし故、薬王寺町に電話かけ「午飯何よろしきや」と問へば「イナリズシ」と。
11:00出て薬王寺へゆけば雅子、淳一庭遊びしをり。
14:00近く大阪の能勢(※能勢正元)より電話「三浦氏に代り万事せわす」と。「幹事以外は18:30集合でよし」と也。
14:00出て15:00まへ帰宅すれば弓子もうゐず。ユ、天沼へゆかず帰り来る。(※省略)
けふ依子より電話「6月上京などせず云々」澄より「あす望退院」らしき電話ありしと。宇宙船13号故障して月着陸できず云々とtelevi。
4月15日
よべ寝つき悪く教授会欠席の通知し、午すぎ佐伯に借金(400)払ひ、北口の古本屋できき新本屋で和裁の本(500)買ひ来る。
(※省略) アポロ13号帰路につきしと。
平凡社渡辺氏より電話あり「(※自叙伝)ユ反対につき」といへば「思ひ出す人々」としてもよし。近日来玉ふと也。
4月16日
よべよく眠る。松浦友久氏より『李白』贈らる。
電電公社万国博運営本部より「大高野球部の会、委員は17:30霞ヶ関ビル30階電電公社総裁室広報部電気通信館制作室へ来い。他の参加者は18:00中二階三井不動産PRコーナーに集まれ」と。
通知4枚かき、安達氏にもその旨電話し、丸にゆくこととす。滝本生12:30来り「三浦女史不機嫌」と。(※省略)
19:00夕食すませ地下鉄にて丸、道迷ひ『乾山』贈れば喜び「出る」と。帰り滝本のゐぬを知りて三浦女史に会ひなだめ云ふ。(※省略)
4月17日
9:00すぎ出て成城。鎌田女史に会ひ、主任教授時代の苦労いひ、大藤主任をつづけさすこと可といふ。(※省略)
大学院にゆき本草やるといひ、出か出ぬかきめよといへば3人出るといひ、(※省略)そのあとsemiし鬼のよみやり、字引買ひ手伝ひて帰宅。
澄より電話「望、夜泣き乳のますに依子neurose、預かるところありや」と。
高円寺ベビーホームにきけば「母親の診断書必要、2ヶ月児では云々」と。今井翠に愛育病院のこときいてくれとたのむ。(※省略)
4月18日
7:20さむれば花井タヅ子夫人より「孔子の師は」と電話、「周公」と答ふ。
澄に電話し「東京ダメ、名古屋日赤にたのめ」といへば「さうする」と。(※省略) 澄より「日赤承知」ときき、美紀子に電話し「姉上へあやまってくれ」といふ。
寒く少し雨降る。午后、安達教授に電話し「大阪62才より38才まで」といふ。「速達未着」と也。
4月19日(日)
ユ、不眠とてわれのみ礼拝にゆく。主の最も愛したまひしはヨハネと也。すみて総会。(※省略)
雨中、阿佐谷へつき佐伯にて傘借り『森鴎外の研究(550)』買ふ。61才にて腎萎縮にて死に玉ひしと也。(※省略)
20:00澄に電話すれば「望けふ入院、(※省略) 一家ぐっすり寝、泰風邪にて38℃」と。
4月20日
10:30出て大阪ずし(150)買ひ、成城大学。けふは堀博士のみなるも鎌田女史来り、大学院生宇野と話す。
国文学の大学院12〜3人をり多すぎるゆゑ3〜5人となる様祈る。ついで2Dの東洋文化史。45人位。(※省略)
澄より電話かかり(※省略) 泰、熱とれ幼稚園へゆきし由。
4月21日
12:00出て成城へ月給とりにゆく。(※省略) 成城堂へ3,705払ひ、順へと独和辞典1冊買ひ、村松助教授と同車。もっと話しかけよといふ。
南新宿で下車。東豊書店へゆき『Cathay and the way
thither』、『東西洋考』、『天妃顯聖録(150)』、『太平天国暦法考訂(300)』にて7千円余払ふ。
葛飾商高の堀江忠道氏来合せ花房氏の弟子とて李白研究すと。「遊びに来たまへ」といふ。
佐伯で『虞初志(280)』買ひて帰り、今井家の留守番より帰りしユに20分先だつ。
夜、葉雅美生へ電話せしも不在。あす欧米旅行へゆく史に「気をつけてゆけ」といふ。
けふ小林氏(※小林英俊)詩碑建立式に来よと速達あり「ゆけず」と返答す。
4月22日
葉雅美に電話すれば「Albumまだあるかしら」と。「もういらず」といふ。ユ池上家弔問にゆき帰れば西島順来る。(※省略)
『日本の詩歌』の最後来る。けふユをして咲耶に(※義弟河野岑夫に)接骨木のませよと速達す。
4月23日
7:00さめ8:00起き9:00家を出て成城大学。大藤主任「昨年度の残りを入れて20万円。個人購入は6万円なれど税つく」と。
中西博士に「五雑俎考」のこときけば「組みゐる。払ひした」と。真珠湾の時5才だったといふ米人と話し、短大にゆき(※省略)
中国文学史の時間にゆけば12〜3名。英文と芸術の学生のみなるに失望困却す。
(けさたき火しゐれば安達氏より「米田のオッサン呼べ」と。帰宅。三浦工業支社に電話し「米田、藤沢、長沖の諸氏にぜひ出てもらふやう社長に伝言を」といふ。)
女医先生に「ちと躁」といへば青丸一つへらさる。夜、滝本来り「忙し」と也。
4月24日
5:00さめ本草のnote作る。11:00すぎ登校(すし150買ひゆく)。大学院控室で本よみ、13:00より1.20講義。菖蒲と石菖とすます。ついでsemi。
これも10分前までやり疲れしも月曜のprint切る(※省略)。
ふらふら出て新宿にて蜜豆食ひ帰宅。依子より手紙と写真。硲晃氏より「旭高校に転任」と。立原達夫氏より「電話つきし」と。
4月25日
成城教務より電話「中国文学史」を金曜2限にすることとなる。
9:30三浦貢氏に電話すれば「藤沢、長沖氏うんと云はず。熊野啓五郎同窓会長出てくれる由。その旨安達教授に伝ふれば宜し」と。
歯茎いたむ故、柏井へゆき膿出してもらひ、帰り『北京(250)』、『父親としての森鴎外(720)』買ふ。(※省略)
小武守圭子より5.17結婚と。披露宴出られずと断る。(※省略) 依子より「まだめまひする」、「澄の情忘るな」とかく。
田川博士よりprint3枚。夕方また歯痛みし故、柏井にゆき雨中、茶もちて帰る。京、吉祥寺へ泊りにゆく。
4月26日(日)
けさ4:00にさめ、眠くて礼拝にユのみゆく。午すぎ散髪にゆけば雨降り来る。宮崎智慧さんより「旅行に15日ほど出る」と。
薄井はるな嬢より5.13スエヒロ築地店で結婚と。
4月27日
朝、小田幸康夫人より集会所はどこと電話あり。10:30すし買って登校。大学院の国文で『和漢朗詠集』の解説よまし、保留、合格をいひわたす。
あと高田教授の渡仏を訊ねしに皆知らず。東洋文化史でちょっとよみ、クラス担任の注意をしクラス委員選ぶを知りて出、
佐藤春夫年表(講談社全集の)を作る叔母(※内山百合子氏)をもつ、われにも贈るといふを誘ひて餡蜜食ひ(わが2科目ともに95点をとりし3年生)、
霞ヶ関ビルへ着き、夕食ちょっと食ひ、30階の電電の広報室へゆきいろいろ話す内、安達教授見え挨拶し、
大阪よりかかる電話待ちしに三浦氏出、大体の段取り云ふ。中二階の集会所へゆけば神崎清氏はじめ大分そろひ、丸もをり、紅松をり。
白井きのふ大阪の対松江戦に出、けふは上京と。紅松喜ぶ。さて対面の場には川勝、能勢、渡辺、豊田、石浜恒夫をり、全寮歌うたひ万歳三唱。
(※省略) 茶またはbeerのむこととなりしも丸(※病中にて)不自由ゆゑことわりて、
仁谷氏に挨拶され、坊やのこときけば文学にすすまずと。依子のこと礼いふ。
丸とtaxiひろひ丸宅まで送り、上りて茶よばれ出れば重俊追ひ来り、駅前で茶のみ説教す。(※省略)
けふ原田先生(※原田淑人)より「花蕊夫人の宮詞」いただく。ありがたし。眞野君(※真野喜惣治)より「楽し」と。
4月28日
雨降る。11:00出てすし(150)買ひて登校。庶民文化大学院のprint切り、14:00より新学部長堀川博士の下にて教授会。
高田君30万円もらひて欧州へゆきしと也。すみて文化史の会、(※省略) 16:00すぎよりの新入生歓迎会に50人計り出るを見、coca-colaのみて早退。
佐伯に寄り『文芸春秋5月号(80)』買ひて帰宅。(※省略) 夕食する中、電話かかり、この間東豊書店にて会ひし都立工商2部の教諭堀江忠道君迎へにゆく。
小石川高校より京都府大を出しと。22:00すぎまで話しゆく。(けふ相良先生と話す。「伊集院斉(※の著書)はまちがひだらけ」の由。)
4月29日
天皇誕生の日。けふも早くさむ。午前中、佐伯へ本注文にゆく。(※省略) 鈴木亨より「跡見学園女子大学文学科に勤めることとなった」と。
ユをして果樹園社に速達せしめ、原田淑人へお礼かく。(※省略) 集英社より旧奥付800枚返却を受く。
4月30日
国鉄ストにてまびき運転と。8:00出て改札止め10分。3台目に乗り成城へ9:30着く。東洋史11:30までにすまし、13:00試験手当取りにゆけば1.3万。
南新宿で下車。東豊書店へゆき『全唐詩』など9千円買ひ15:00帰宅。ユに3,500返し、
蓮田善明の教へ子神谷忠孝氏より阿佐谷転居の通知見て、出て南の古本屋にて700円ほど本買ひ、滝本に寄れば留守。三浦女史出るところと。
スト解除となりし営団地下鉄にて虎ノ門下車。霞ヶ関ホテルへつけば既に多数集りをり。(※佐藤春夫の会)
中谷孝雄、林富士馬、佐藤夫人、竹田竜児、井伏鱒二、庄野兄弟に挨拶し、立食しゐる中、浅野晃氏、尾崎秀樹を紹介す。
年表作製の内山百合子氏に会ひ、姪に蜜豆おごりし礼云はる。文芸春秋社社長、河盛好蔵と知る限りの挨拶し、
(井上靖われを忘れをり。伊藤桂一、杉森久英などを見て挨拶し)森本ヤス子夫人にからまれ神保(※神保光太郎)見て退出。
帰れば美紀子2孫をつれ来をり。(※省略)
5月1日
8:30出て成城。中国文学史の教科書そろはずとて男生を前に並べ礼を教ふ。国文出るやうなりし。
昼休み2Dの身上調書くれと教務にゆけば、月曜用紙を渡すにつきかかせよと。
大学院にて「ヨモギ」やり、すみて次は「ニラ、ニンニク、ネギ」のたぐひやるといふ。
semiにて成城出の西岡典子を罵り「曰」を教へ、示偏を「ネ」とかくこと教へ、西岡、塩崎つれて図書館にゆき参考書を教ふ。
疲れて帰り佐伯に寄り学校へと10冊ほど注文し、われには『鑑草(50)』、『理科年表(100)』買ふ。けふユ、今井へ菓子もちゆき(※省略)
澄より電話、きのふ夫婦して幼稚園へ泰迎へにゆきしと。(※省略)
5月2日
早くさめ9:30佐伯へゆき『ぼらぼらざ・ソロモン(200)』買ひ、昨日成城にと買ひし本、総計せしむれば3万円余なり。
滝本16:30に3嫗つれて来るとのことになりしも19:00になりしと。叱りて止めさす。(※省略)
5月3日(日)
早くさめ、われのみ聖餐式にゆく。帰り佐伯にゆきまた本注文し、
躁とて堀夫人(※堀多恵子)に電話し、応答なきに加藤夫人(※多恵子氏の弟夫人)に電話すれば「堀夫人音楽会、今年の墓参は未定」と。(※省略)
43Aの阿部生電話かけ、来り「いとこの夫に誘惑されをるや」と。「されをり。罪を犯すな」と夫婦して22:30まで話し、出せしあと京帰り来
る。
5月4日
5:00さめ8:00まで待ち京おこし、よべの帰り遅きを責めて叩く。10:30出てすし買ひ、(※省略) 11:16の準急にて登校。
大学院にて国文7人のcard受取る。2人来りしゆゑ、むりするなといひ、5分遅れて東洋文化史。北京の元日のprintすまし、身上調書かかす。
紅茶を研究室にて飲みて帰り、佐伯にて百田宗治『ハイネ青春の書(41)』買ひて帰宅。(※省略)
5月5日
子供の日。よべユ、安定剤のみて眠りし也。われ6:00起きsoup飲む。(※省略)
12:00すぎ山野井秀子来り、13:00片岡さんにつれられ加藤君来る。われ専ら話し「上野のスペイン展へゆけ」と追出し、
滝本へ昨日のカステラ半分もちゆき「運ついてる」と云はれ「ハイヂ」見に15:30までに帰宅。
ユ、菖蒲湯わかす。夜いやいやnote作り、加藤、山野井両方とも「感じよかった」と。最後に加藤母上よりの電話にてすむ。
5月6日
早くさめ休日なるに気づく(よべnote作りし)。山野井生に電話すれば話変り「結婚する気なし」と。「も一度会へ」といひ、夫婦ともに呆然たり。
11:00東洋文庫に電話し松村氏きけば「不在」と。田川氏いへば「不在」と。
勃然と怒り、Dapper (※Olfert Dapperの図譜)の影印1/3なるも融通きかせといへば渡辺氏といふのが出て「承知した」と。
女医先生に行けば赤2粒にしたまひ4度のむこととなる。昼食後、滝本にゆき2女史に猥談し、
すぐ堀多恵さんにゆけば不在らしく加藤俊彦教授出て来しにベル押しもらひ「軽井沢か」ときき、28日!に呼べといふ。
日本の勝利を喜びゐしを嗤はれ、夫人帰宅して茶だし玉ふに出てまた滝本。(※省略)
帰りてユと山野井生のこと考へ、阿部生を19:30訪ぬれば不在。全躁なり。
5月7日
雨、登校。東洋史を教へ渡辺卓氏を待ちしに会はず。
(大藤氏にきのふ加藤俊彦夫人に会ひしを云ひ、法政学長松田教授などを学長候補に挙げれば栗山教授やる気ありと)。
printあすの庶民文化大学院に「ねぎ、おほにら、こにら、おほひる、こひる」切り(※省略)
『日本の医学』買ひ、佐伯に寄り『天壇』いらずといひてすむ。(※省略)
(入口にて片岡さん来しゆゑ、山野井高慢ゆゑ気をつけよと云ふ。) (※省略) 堀夫人電話ありしといふに滞独記面白し、かけとすすむ。
5月8日
霧雨のこる。8:20出て9:20登校。東洋史すませ講師室にをれば佐伯書店、本をもち来る。13:00までうだうだ話し、月曜の東洋文化史のprint切り。
研究室にて『岡正雄教授古稀記念論文集(2,000×0.8)』頒つを見て1冊買ひ、南新宿で下車。東豊書店へゆき『八旗通志初集(128,000)』を予約す。
滝本、三浦来り、躁を認めて22:00帰りゆく。
5月9日
10:00すぎ母に贈り物もちゆき父の袴買ふこととし、はきて帰る。
佐伯に寄り『静盦漢籍解題長編(6,300)』、『俗語典(1,800)』、『唐詩辞書類集(2,600)』買ひ、ユに銀行より金出して払ひにゆかせ、
西岡生に本貸せしあとまた佐伯にゆき6万円の受取かかす。(※省略)
散歩かたがた『文芸春秋6月号』買ひに出て滝本、三浦2生と茶のむ。(※省略)
5月10日(日)
ユのみ礼拝にゆく。袴代のことにてぷんぷんしてゆく。(※省略) 兼頭淳子来り、弓子夫婦来るまでをり、京の買ひしすし食ひ弓子らと入れちがひに去る。
弓子「妊娠12月12日が予定日」と。ユ帰り来り、16:00に2人帰りゆく。
5月11日
曇り時々雨とのことに母に電話し、(※省略) すし買って登校。日本文学と中国文学を1時間やり、疲れてjuiceのみ(※省略)、
北京の年中行事やり(※省略)、栗山博士用ありといふに会へば「古人いへらく鶴、煙を避くの出典は」と。
宿題となり雨のはげしき中をtaxiひろひ(※運転手の)戦犯にて重労働10ヶ月後レンバン島にゆき、またシンガポールに戻りし少年航空兵たりしとの話きき、
630円に1,000わたせば400つり呉る。薄井家より受取来しのみ。
5月12日
午后ノートとりに学校へゆくつもりなりしも阿部生来り、昼食し帰りゆく。
15:30までわれ戦争映画見て、ユ眠れるを見、『果樹園』依子に送りに郵便局へゆき(20)、滝本にゆけば三浦女史ひとりをり、帰れば滝本ゐて神経病らし。
『魔女狩り』、『漢方薬入門』買ふ。17:00入浴せんとしゐれば米山生来り、シュークリームとユに札入れと呉る。坂生に電話して報告す。
けふ石山直一氏より大阪キリスト教短大に就職と。日野忠夫氏より「小冊子送った」と。(※省略)
5月13日
10:00出て登校。「西洋人の東洋渡来」のnoteもち民俗の子2人に漢字の訓み教へ、
12:30(クリームパン1つ食ひ)出て、築地のスエヒロ8階の田岡子・薄井はるなの披露宴にゆく。新郎は労組副委員長、身長180cm以上(※
省略)
挨拶して新婦の衣なほしの間に退出。間違へて高円寺に下車。古本屋見れば『岩波文庫和漢朗詠集』200であり、戦中版なり。
けふ成城堂にて安藤昌益『統道眞伝』上下買ふ。狩野亨吉を『文芸春秋』にてよみしが為なり。
5月14日
5:00さめsoupこさへnote作り、ユのさめるを待ち10:00出て登校。東洋史「景教」の中途までやり、あとprint2枚切り(※省略)
高円寺下車。帰れば京とつれて弓子来り、慢性盲腸炎とわれ診断す。18:00帰りゆきしあと善一郎君より電話あり。(※省略)
5月15日
6:00さめsoup作り9:00出て登校。佐伯の受取を池田博士の函にさし、中国文学史大声でやる(62人)。昼食12:30まで来ず。(※省略)
semi大声にて太平天国よみ、帰り佐伯に寄りしも本なし。(※省略) 楊雲萍氏の掛軸やっと出来、もって来る(2,500)。
李錦順「あさって渡米」と挨拶に来り、オモニにも会ひ「先生若し」といはれし。内村俊雄君より「校長やめ文化財調査する」と。
5月16日
6:00さめ電報を電話で小武守にうち、9:00滝本訪へば2女史をり、(※省略) まっすぐ母にゆき茶のみ、名古屋までユと同行せよといひ、
大の起き来しを見て出、柏井へ寄れば尚子「新茶の時にて茶おくれる」と。佐伯休みをるを見とどけ12:00前、家に帰り、
東洋文庫の松村氏に電話すれば『籌遼碩画』つづけてよみゐると。神田氏呼んで白鳥全集の礼いひ、
坪井(※坪井明)より「20、21両日上京、関口(※関口八太郎)と会ひたし」といふに、関口に電話すれば「2日ともあけおく」と。(※省略)
史「Loreleiの岩に上りし」といふに美紀子に電話すれば「家には便りなし。依子わりあひ元気なりし」云々。(※省略)
久志学の「緑屋前にあり」といふを迎へて夕食せしめ、勉強せよといひ、20:30送りかたがた古本屋2軒見せ『宦官』買はす。(※省略)
5月17日(日)
4:00起き8:00ユ起し、京起し、8:30出て雨中教会へ礼拝当番とてゆく。精霊降臨の日なれど出席138名。
(竹森先生夫妻『果樹園』よみたまひしと。佐伯に寄り赤司道雄『聖書(110)』買ふ。) televi見てをればユ昼寐しをり。〒なし。
5月18日
5:00さむ。soupつくりtelevi見て8:15関口に電話すれば嫁君出て「すでに外出」と。10:30すしやにゆけば10分まてと。散歩してまたゆく。
11:16の準急に立ちて登校。国文の大学院にて川口久雄の訂正し、284(※讃美歌)歌ひてすまし、(※省略) 上元すまして茶のみ帰宅。
佐伯にて『無名白書(100)』買ふ。在日米人の戦争記なり。(※省略) 滝本生来り、三浦女史出てゆきうれしと也。(※省略)
5月19日
6:00さめ8:30出て成城。10:00に月見そばあつらへ12:00より大藤教授の相談といふをきけば3委員会の委員を出せと。われは一般教養委員となる。
中国文学史の『詩経』のprint切り了へざる内14:00となり、教授会にて10万円の書籍費、部長に出せと(請求書3通、納品書1通)。(※
省略)
帰り久志生と同車。疲れて薬足らず。依子より「赤ん坊土曜退院、ねいす(※寝椅子)送れ」と。(※省略)
5月20日
5:00さむ。11:00美紀子、雅子をつれて来り、三鷹の弓子へと出てゆく。われ13:30出て登校。中国文学史に『詩経』切り、
佐伯の請求書もちて大藤教授まちしも会はず。16:00来らるといふ波多野太郎博士まち、
研究室に男生2人と女生2人と来しゆゑ中国語研究会をこさへよといひ、あす学生課へゆくこととす。
博士、広東にて宣伝将校たりしと也。18:00解散して疲れて帰宅。(※省略) 夜、景教のnoteかく。(※省略)
5月21日
6:00さめ8:30出て登校。大藤教授に佐伯の書物の本、捺印してもらひ、東洋史の出欠とり景教了る。張騫の再征の年きかれ訂正せんといふ。
渡辺卓氏に久しぶりに会ふ。print月曜の分まですます。
(午休み村田学生部長と会ひ中国語研究会をわが研究室でやることとす。) salaryもらひ大学院の入試手当4千円もらひ成城堂に払ひし、
神田へ出て図書card200枚(420)買ひ、筑摩の東博氏れば訪ぬれば不在。婦人之友社にて『青春を長もちさせる(490)』買ひ、喫茶(100)。
野尻抱影2冊(40×2)買ひて国鉄。佐伯にて『支那省別全誌(700)』、『日語大学(300)』買ひ、『軍歌集』もらひ『世界名歌170曲集(490)』買ひて帰宅。
坪井より「17:00来る」と電話ありしをきき17:00すぎ関口に阿佐谷まで来れといひ、坪井の17:20来しと話し、ともに関口迎へに駅へゆく。
本位田に坪井をして電話せしめしに不在。21:00、2人帰りゆく。
5月22日
5:00さめしも、よべおそく眠りだるし。仕方なく登校。3時間やる。箕輪生に『玄奘法師西域紀行』を300でゆづる。
弓子来てをり「悪阻にて料理やりたくなく(※省略)君と外食」と。佐々木画伯(※佐々木邦彦)より「8月上京、会ひたし」と。
5月23日
6:30さめ9:00すぎ滝本にゆき一旦帰りて10:00開きし写真屋に弓子の式の写真の現像たのむ。(※省略)
佐伯へゆき『和漢三才図会』と『牧野富太郎全集』のとりよせたのむ。(※省略)
宮崎女史電話かけ来り、11:00来しとすし食ひ、ユをつれて哲学堂の教会へと出てゆく。
われ金もたず天沼の母訪へば「月曜より神経痛起りし。もうあかん。」とのこと也。
大起き来るを見て柏井へゆけば、俊子姉をり、山住先生の診察すすむれば「月曜に」と帰りゆく。
また歩きて帰れば京の友、大野嬢来てをり「卒業試験にはDebussyひくつもり」と。2人、物云はず。夕食して帰りゆく
けふ〒なし。20:00依子に電話すれば「望、退院した」と。
5月24日(日)
6:30さめ教会へゆかずときめゐればユもゆかず。
ひる前、横浜の鈴木女史といふが来り、(※省略)「教師と医者の子、出来悪し。国語勉強せよ」といひて返す。
(※省略) 美紀子より「史、あす夜8:00帰る」と。
5月25日
6:30さめtelevi見てをれば母より「11:00ごろゆく」と。(※省略) われ11:00まへ出てすし買ひ12:00成城大学。
栗山氏に会ひてきけば「国文の会あす」と。大学院、眠る子あり止む。東洋文化史、同じく眠る子あり中止す。
成城堂にて『非ユダヤ的ユダヤ人』、『火縄銃から黒船まで』、『ロマ書の研究』と買ひ、南新宿で下車。東豊書店にゆき『八旗通志初集』10万円の請求書、納入書かかせ、残り28,000と『静嘉堂文庫漢籍分類目録』のどろ棒版(※海賊版)(7,500)とを借用することとす。
帰れば母13:00より15:00まで臥て、あす11:00また来診と。(※省略) 写真の現像出来しをとり来り(2,040)、貼り了ふ。
けふ諏訪よりの(※出産祝ひ返しの)砂糖あければ、わが詩「望」を刷りゐたり。21:30美紀子より「史、帰着」と電話。
昭和45年 5月 26日〜昭和45年12月31日
25.4cm×17.7cm 横掛ノートに横書き
5月26日
晴。母来り、山住先生の診断「結核でなし」と。留守番させてユ、半田女史と公平夫人へと出てゆく。
入れちがひに中山順子来り、忠王の2年やり、母の出せし雑煮食ひて帰りゆく。東豊書店教へ地図買へよといふ。
あと佐伯のぞき14:00滝本へゆき、茶のみ帰れば母、昼寐より覚む。
16:30いやいや五反田へゆき、歩き近鉄大飯店(旧藤山雷太邸)へゆけば、古野博士まちをり。
堀、大藤、新城、田中久子、白鳥芳郎、池辺、鎌田、2副手、野口、小川徹と皆出席。四川料理まづし。
21:00前散会となり、白鳥氏の止めしtaxiにて目黒駅。帰宅して関口に「けさ本位田に電話し、関口とゆくと云ひし」と云へば喜ばれし。(※省略)
5月27日
晴。7:00起き8:00にユ起き来る。母、午まへ帰りゆき、われも滝本にゆけば藤沢より19才の手伝ひ来り、仕事なしと。
(佐伯にて『故事とことわざ辞典(250)』買ひ、ウツギにて『三省堂年表大正2(100)』買ふ。)
珍しく昼寐せしらし。山住先生に「躁と鬱の間」と申し上げしに薬変へ玉はず。
5月28日
晴。東洋史Carpini(※修道会士)やり昼食、(※省略) 波多野博士より本5冊おきあり。(※省略)
東豊書店へゆけば引越し中。2万8千9百円払ひ、あと又といひて出る。けふ〒なし。(※省略) 波多野博士へ礼状かく。
5月29日
登校。きのふ波多野博士来られしと、また本もち来る。中国文学史「楚辞」すみ、東洋文化史「柑橘と石榴」すみ、次は水虫の薬やりくれと。
ゼミの時間、図書館へ『四部双刊』よりの『淮南子』と『太平広記1』借り来り、質問もなし。
帰り佐伯に寄る。夏のbonus、2.45らしく、佐伯などへの払ひなし。『東方学』来り、1,800払へと。弓子来て泊る。(※省略)君、日立へ出張となり。
5月30日
5:00すぎさめ、『果樹園』に「めぐみ」を書く。9:00駅前郵便局のあくを待ち2,500の現金速達し、東方学会へ1,800の会費も払ふ。
10:00成城、山本文雄氏に久しぶりにあひ、田中久夫氏に「待つ」といひて東洋文化史のprint切り、田中氏とマダム・チャンにて昼食。
小高根太郎へゆくといひたまふと別れ、東洋文庫へゆけばしまりをり。(※省略)
神田、松村2氏昼食らしきに14:00まで待てば松村氏、怒り顔にて逃げ、神田氏は相手す。
渡辺氏(図書部)に名刺ことづけ、coffeeのみ(80)、駒込駅前にて大塚敬節『漢方薬(1200)』に水虫の療法あるを見つけて買ひ、帰宅。
坪井より「眠剤やめて酒のめ」と。森本ヤス子氏より「小説見てやれと中谷氏いひし」と。月曜下北沢駅より電話することとなる。
(けさ滝本生、起きがけに来しと也。)
5月31日(日)
6:30起き、坪井へハガキかき、9:10夫婦して礼拝にゆく。礼拝当番ゐず、われ代りとなる。すみて佐伯に寄り衛藤瀋吉氏に云はれし『蔵原伸二郎選集(1800)』と『牧野富太郎選集1,2』、『朝鮮資料による日本語研究』、『唐話辞書類集2』とをとり、(※省略)。
南阿佐ヶ谷にて『一千万人の漢方医学(150)』買ひ、日ソバレーボールに勝ちしを見る。(※省略)
「手塚隆義先生退任の会6.29(月)17:00私学会館にて1,800の会費にて」とのハガキ来り、「出席」と返事す。
6月1日
また5:30さめ、ユ7:30起きるを待つ。10:30出てすしやにゆけばまだ開かず。新宿にて200の焼売買ひ登校。国文の大学院ねむく(※省略)
やめて15:50下北沢「富士屋」で餡蜜食ひ、森本女史に電話かけ、迎へにきてもらひ小説預って帰る(林富士馬氏中風になりしと)。
けさひどき雨なりしも帰りは止みゐたり。佐伯で『岩野泡鳴(450)』買ふ。成城堂で『松浦宮物語』買ふ。
6月2日
早くさめ眠きも森本女史の作よめば香道のこと書き面白くなし。昼食して午すぎ出、下北沢を通り過ぎて登校。30分まちて教授会。(※省略)
これにて17:00すぎ大藤主任に付添の旅費もらはんと鎌田女史探せしも見当らず、帰り途にて2Cの女学生2人に挨拶され、風月堂にておごり(400)、
森本女史にゆけば「21:00ごろまで外出」と。原稿返して帰宅。けさ澄より「依子ノイローゼ」とのことに20:00ユ電話かけ「あすゆく」となる。
6月3日
『半田良平の歌と生涯』つく。昭和20年1月8日「床中にて昨日読み始めし田中克己の『李太白』を読み、却々面白し」とあり、この年5.19逝去し玉ひし也。
ユ、印通帳など置き12:00まへ名古屋へと出てゆく。(※省略) 昼食雲呑(100)食ひ、televiの洋画見る。澄より電話ありし故「ユ行った」といふ。
夕食大阪ずし食ひ、20:00名古屋へ電話かれば依子出て「母着いた」と也。note22:30までかかる。
6月4日
よべ23:00眠り7:00さめsoupこさへpão京に焼いてもらひtelevi見て8:30出、登校。東洋史Rubruk(※修道士)すむ。
中国文学史「史記項羽本紀」、東洋文化史「水虫の薬」、月曜の「北京年中行事」と3枚print切り、bonus2.4ヶ月分ときまりしときき、
東豊書店によれば3階に移転しをり。本、欲しきものなく帰れば京、買物にゆきをり、やがて滝本来り土産にシュークリーム!
美紀子に電話せしめしに母と出て留守。京の買ひ来し茶巾ずし食ひて帰る。
母より電話「薬とりに来る」とのことに、もちゆきてユの名古屋へゆきしこと云ふ。20:00すぎ諏訪に電話すればユ「あす帰る。望つれられず」
と。
6月5日
7:00さめ、soupこさへpão京に焼いてもらひtelevi見て、8:30家を出て3時間教ふ。あす午后中山順子来ると也。
佐伯に寄りしに主人ものいはず、われも何も云はず。帰宅すれば矢本貞幹氏『白骨の想念』といふを贈らる。
(けふ牛山(※内山)百合子女史の姪『佐藤春夫年表』手渡す。) 折しもユより電話「あす午前中、望つれて帰る。6畳きれいにせよ」と。
京よりも電話ありし故「夕食たのむ」といひ、(※省略) シュークリーム食ひまつ。
堺君、牧健二の助手としてteleviに出をり。
ひとたびは主とともに死によみがへりとはに生きむとわれはおもへる。
6月6日
7:00さめ10:00澄より「12:35着く。迎へよ」ときき、11:00すぎ出て連れ帰る。愛嬌よくてよし。小高根二郎氏より「受取った。五孫とは」とのハガキ。
母より電話、心細き声で「手伝ひにゆかうと思った」と也。(中山順子生14:00来て16:00まで太平天国よます。)
6月7日(日)
礼拝にわれのみゆく。衛藤長老に『蔵原伸二郎選集(1800)』わたし金いただく。(※省略)
菅野静江生よりクラス会を13日13:30赤阪TBS会館地下「ざくろ」にてすと。「出」と答ふ。
『果樹園172』来る。史、美紀子、兄を連れて来り、兄と話す。
6月8日
よべ21:00眠り7:00日向に当り眠く大学院。東洋文化史ともに匆々にすます。(※省略)
東豊書店来るとて匆々に帰りねまてば18:00ごろ来り、『八旗通志初集40冊(128,000)』届く。
木曜に2.8万+7.5千わたすといひ、本見せwhiskyのませ20:00となりて帰りゆく。滝本生来り、「美紀子、友だちつれて来りし」と。
眠し。望のせいか。
6月9日
12:00すぎ出て東洋文庫。渡辺氏呼べばDapperの残りのcopy出来をり。18,675払ふ。渡辺氏に礼云ひ、閲覧券書きかえへしてもらひ、
巣鴨、大塚と歩きて林富士馬氏訪ぬれば夫妻にて歓迎。「病気はうそなり。孫まだ」と。
15:15出て池袋まで歩き成城大学へ16:10着き、一般教養委員会といふのに出る。18:30すみ紀伊國屋へゆけばみなそろひをり。
(堀川、上原、大藤、新城と常任のみ)。われ望に会ひたく早々に帰らんとするも20:30まで引き留めらる。(※省略)
(けふ文庫『読史余論』買ふ。)弓子きのふにつづきけふも来しと。
6月10日
7:00さむ。9:00女医さんにゆき鬱と申し上ぐ。『新蓬』(※見原種歌集)出版記念会、栢木喜一氏へともに「ゆかず」と返事かく。
ユ、賀代嫗に1.5万送りにゆく。〒なし。卵買ひに出(10ケ135)しのみ。
6月11日
8:30家を出(6:00さむ)、成城にてbonus30万余受取り「東洋史」。(※省略)print3枚切り、箕輪生さそひてプディング食へば『旧唐書』写しにとまた帰りゆく。
南新宿で下車。(※東豊書店にて)3万5000払ひ『清朝初期的八旗圏地(500)』買ひ『民俗双書』2種注文し、
阿佐谷へ帰り佐伯に行けば「まだ払ひなし」と。『発禁本百年(400)』買ひて帰宅。けふも弓子来しと。
夜、船越の長女「(※近所に)怪しき人影ありし」と。恰も京帰宅。(けふ小倉副手より木原信輔『冬眠帖』受取る)。(※省略)
6月12日
8:40出て登校。中国文学史、大学院へ。semiにて鬼よむ。(※省略) 帰り佐伯に寄り『和漢三才図会』買ふといへば1万円余と。
雨そぼ降る中を帰宅。林富士馬氏より会へて宜かった由。(※省略) 三浦・滝本2女史、ユの夏衣の寸法とりに来る。
6月13日
12:30出て赤坂見附TBS会館下へ13:00前につきIce
coffee(120)のみ、やがて幹事(川本)菅野夫人来り、17人来る由。大藤、鎌田2氏来り、姜照美むすめ李銀喜つれ来り人参呉る。他に旧姓毛受、
根岸、クロちゃん、小川、本間、中谷、郷右近、三野、猿渡、、丸の諸生来り、16:00閉会。
教師1,000づつ出す。帰り佐伯へ寄り『和漢三才図会(10,080)』買ひ、受取りもらふ。
6月14日(日)
8:00さめ礼拝にゆく。長島昭氏の受洗を祝す。雨ふり出て帰宅。(※省略)
午后、松本善海夫人より「姪、斎藤先生(※斎藤茂太)にかかりたし」と。「われもはや通はず」と道筋教ふ。善海の病状には問答なし。(※省略)
6月15日
雨。11:00近く出てすし買って登校。大学院にて「高田瑞穂の詩は津村信夫に似たり」といふ。早くすませ東洋文化史「端午」すみ帰宅。
けさは羽田明らの『大学ゼミナール東洋史』と大伴道子『野葡萄の紅』もらひ、高田瑞穂君に礼状。羽田君にもハガキかく。
6月16日
雨。弓子来る。教授会にとゆき、すみて専攻会。またすみて一般教養の会。18:00までかかり「50分授業とせよ」と提案す。
帰り来れば弓子をり「今夜泊る」となり。庄野英二君より『ユングフラウの月』貰ふ。
6月17日
雨。弓子けふもをり。善一郎君大阪へ出張と也。世田谷梅ヶ丘の書房(※麥書房)より「四季の人々」と「コギトの思い出」とにて1,000部の本出すと也。
牛山(※内山)百合子氏『春夫年譜』にわがこと附け加へんかと。李錦順より「手紙呉れ」とアドレスなしのハガキ。賀代嫗より受取。
6月18日
朝方めづらしく望の泣き声をきく。おかげで眠がり乍ら登校。「マルコポーロ」短く切り上げprint2枚切る。(※省略)
Weigallの『暴君ネロ(角川文庫)』買ひて帰る。弓子「1万円貸せ」といひて帰りゆく。
ハガキ4枚かく。1は(※全集編集中の)角川よりの「津村信夫の書翰ありや」に「1枚もなし」と也。
平凡社より『唐代詩集 下』もらふ。びっしりと組みをり、上とは趣を異にせる故、渡辺春輔氏に礼いふ。(※省略)
6月19日
7:00さめ、ねむがり乍ら登校。午すぎ葉雅美生来り「姉も渡米中」と。李錦順のアドレス教へ呉る。NewYorkにゐる也。
大学院早くすませ、ゼミに出し甘い物食べてprint切らずに帰宅。『四季』7号おくれて7月頃出ると。阪本越郎氏の会7月2日と。(※省略)
6月20日
傘もちて登校(この頃7:00起きとなる)。山本文雄氏に会へば「東海大学スト」と。(※省略) salaryもらはず帰宅。(※省略)
(※天理大学図書館より)『Biblia44』来る。いろいろの事思ひ出す桜かな也。
夜、滝本女史、ユの夏衣をあはせに来り窮屈とわかる。『半田良平の歌と生涯』かきし阿部氏より挨拶ありし故『李太白』喜び読まれし縁をいふ。
6月21日(日)
礼拝当番とて9:20雨中を教会にゆく。男47名女80名出席。帰り佐伯に寄りしに主人旅行。成城よりまだ金来ずとてはふはふ帰宅。
望ますます可愛し。京、同窓会にゆきマツナエ家に泊ると也。(※省略)
6月22日
傘もちて10:20出て女医さんに望の診断料払ひ(500)、すし屋開けざるに餡パン4ケ買ひて登校。salary11万余もらふ。(※省略)
大学院早めにすませ「これで切る。夏休み遊びに来よ」といふ。(※省略)早くすまして帰宅。
真っ暗となりをる空の下、佐伯へゆき『書誌学(3.6万)』買ふ。(※1933-1942年日本書誌学会10冊揃、汲古書院復刻版)あすもち来ると也。
けふ母来り、岑夫見舞にゆきしも「絶望」と。(※省略) スカルノ死す。
6月23日
天気曇。11:00佐伯書店『書誌学』もち北海道の菓子もち来る。一読せしに一向面白くなし。
13:30出て成城大学。大学院の博士課程の相読に出る。一向につまらず。すみてまた一般教養の会に出、つまらぬ顔して18:30すぎまでをり。
帰りて飯くへば依子「ノイローゼひどく上京できず」との電話。(※省略)
6月24日
けふは降らず。李錦順生へのヱハガキかき9:30出しにゆき滝本、佐伯へ寄り、帰れば塩崎律子生まちをり。15:00まで(午食出す)やりて疲る。
ただし鬼ほぼ掴みし様子なり。金曜のsemiに本とることいひて帰す。〒なし。ユ疲れをり。(※省略)
6月25日
9:40登校。「マルコポーロ」試験に出すとす。『和漢三才図会(10,600)』の請求書4枚と納品書1枚とに佐伯の受取そへ大藤主任の印もらふことを浅居副手にたのむ。
帰り東豊書店にゆき『台湾民俗』たのめば『八旗通志』の10万円受取りをり。夜、滝本生来る。(※省略)
6月26日
登校。最後とて夏休みに最善をといひしのみ。semiの4人わが前の家に下宿したしとの様子なりしも便所いかにや。ユをしてあす訊ねさせんと思うふ。
きのふ白井三郎より川西市へ転居との便り来り、けふは薄井董子夫人(※薄井敏夫未亡人)より娘夫婦と同居のこといひ来る。
わがしあはせを思ひ、松本夫人に電話せしに「寝たり起きたり」と善海のこといふ。(※省略)
6月27日
雨降らず。散髪にゆけば600円となりをり。比嘉への手紙、航空便にと郵便局へゆけば30円と。これは安し。
滝本へゆきユの洋服今夜もち来るとききて帰宅。大伴道子氏より「7月中に『野葡萄の紅』の評を」と。一向に通ぜざる也。
18:00ごろ滝本生、ユにもち来り縫代4千円と。これも安く気の毒也。(※省略) 向ひに4生泊めること止めんと思ふ。(※省略)
6月28日(日)
京、結城の友だち来しをしらず。8:00ごろ覚め、礼拝休む。『Politeia』の「春夫先生追悼号」来り、われ歌よみをり。
けふ久しぶりに晴れて30℃を越えしと也。
6月29日
起きて「春夫先生追悼」作り『果樹園』に速達せしあと登校。箕輪生来ずして14:00となり、夏休みの注意をしをへて研究室へ帰れば箕輪生をり。
「貸家だめゆゑ(※わが家へ)月火木金を4人にて分けよ」といひ、帰る途、柿崎生に遭ふ。(※省略)
柿崎生と喫茶し、私学会館へ17:30かっきりにつき、手塚隆義夫婦に挨拶す。この間白鳥先生へゆかれしと。無給名誉教授に推薦と。
林英夫史学科長よりの話あり、わが傍は遠藤武博士也。白鳥先生の話す。20:00帰りて茶漬食ふ。(※省略)
6月30日
曇。(※省略) 牛島洋子「南山大学人類学科に夫赴任」と。12:30出て成城へゆけば山田俊雄氏帰りをり、教授会うだうだつづき、(※省略)
16:00文化史の会にて高知県吾川郡へゆくといふ民俗学の4氏に別れ告げ、教員すべてにゼミもたせよ云々の会に出る。
中西、新井2君談じあひて話終らず。17:00ぬけ出して帰宅。ユ疲れをり。
7月1日
休暇の第1日。オランダ語のよみはじめ疲れしところ、午后阿部生来り「誘惑としれど甘きことば避け難し」と也。
17:00「あす帰郷。世界ハイクにゆく弟の夕食に」と買物に出てゆく。(※省略)
7月2日
午前中、雨。呆然としをり。『八旗通志初集』をよむのみ。12:30意を決して出、渋谷にゆき東急百貨店にて白鳥先生へsheets2枚(2千円)買ひ、
栗山氏に砂糖(2千円)送りたのみ、迷ひて野沢行に乗り白鳥邸。奥さんをられ郁郎君のこといはる。先生「痩せたね」の語のみわかりし。
われ「天国にて研究所を」といひて出づ。佐伯に寄り『離婚(300)』買ふ。愚本なり。成城より払ひありしとて安心す。
小高根二郎氏より「同人費受取った。子幼し云々」。われ幸せなるかな。望、女医さんにゆけば「物食はせよ」となりしと。(※省略)
7月3日
晴。塩崎律子生「午后来る」といひ13:30来り『太平広記』上すむ。帰りしあと依子へ手紙出しにゆき佐伯へ寄りし途にて塩崎生に会ふ。。
望に雑食せしめるとてユ、忙し。(※省略)
7月4日
台風、石垣島を荒し北上中。寒し。「星」の洪承疇の伝記を成城大学国文学論集にかくときむ。(※省略) 「アルク」より原稿かけと。
7月5日(日)
傘もたず駅にゆけば西空くらし。1番の先に坐り聖餐式。すみて長島氏に会釈し、竹森先生に「水曜午前お伺ひす」と申上げ、外を見れば雨。
(※省略) 望、日々に知慧つく。彦根の川村純一dr.より歌集『曲肱』、17年よりSingaporeにありし也。
7月6日
雨。11:30中山順子来り『忠王伝』あと1回にてすむと也。白鳥夫人より紅茶3缶返礼に来り、弓子の素麺来る。
7月7日
曇。7:00さむ。諏訪父上より中元。(※省略) 河村dr.へ手紙出しにゆき4:00来し箕輪生を6:30まで教ふ。(※省略)
諏訪母上より長い手紙「自律神経失調症」と。澄に電話して聞き直せば「今週土曜3人で来る」となりし。
7月8日
傘もちて9:00家を出、calpis3本買ひ(1,000)、竹森先生お訪ねし「御外遊をこの次には3ヶ月間に」とお願ひす。
出て三鷹まで歩き、(※省略) 弓子送りに出て「お父さんまた痩せたね」と。(※省略)
山野井生15:00きっかりに来り、17:30帰りゆく。(※省略)
7月9日
曇。(※省略) 筑摩より印税2千円余!(※省略) 西岡生10:00すぎ来り14:00までやりゆく。(※省略)
7月10日
曇。山野井生より写真速達にて来る。午すぎ立腹してユを撲れば、飯くはさず望つれて出てゆく。
澄より電話「あすおそく着く」と。塩崎律子生来る。午食せず一心に教へゐれば、波多野太郎博士より電話「荻窪にあり」と。
「お越し待つ」といひ、塩崎生教へつづけしに1時間ほどして見ゆ。粵語 客家語、閩語などシンガポールで買ひしを差上ぐ。
阪本越郎氏に似たりとユの話也。(乳母車買ひ来りし「奮発」といふ語は是なるべし)
『国榷』の「洪承疇」ほぼよみ了り、あとかきぬき早くし「星」の第1人とすべし。
麥書房の広告見しに堀夫人の本出しわが本も予告しをり。
『大陸遠望』2,300、『コギト詩集』7,500、『神軍』600、『コギト7-1』1,200、『青い花』800、『ハイネ詩抄』650、
『コギト』122冊24万円、増田晃『白鳥』3,800とあり。
わが本出す。堀夫人のは出せりと。
7月11日
雨。大掃除とてユと大部すてにゆく。午後弓子来る。
成城大学より大学院庶民文化博士課程に業績かけと。かきて出しにゆき佐伯に寄れば『白鳥庫吉全集6』来りをり。
角川より『現代詩人全集8』の印税1707−170。18:00澄、依子、泰来る。弓子も泊る。
7月12日(日)
6:00さめしも礼拝にゆかず。久しぶりにユをゆかしむ。(※省略) 澄、午食せず元気なく帰りゆく。
けふ『果樹園』来る。「めぐみ」とて弓子妊娠告知をかく。弓子夕方まで泰つれて出、電話かけて阿佐谷駅まで送り来る。佐伯にゆき2,250払ふ。
7月13日
曇時々雨。家居。洪承疇の明代記事了りに近くなる。ユ、今井へと泰つれゆきしあと、美紀子より電話「史、銀行局課長補佐とて在京」と。(※省略)
7月14日
午すぎ和田夫人より電話、阿佐谷にありと。迎へにゆけば「8.10Prince
Hotelに11:30までに来よ」と。ice-creamを泰に賜ふ。夫君いまManilaにありと。
箕輪生16:00まで勉強してゆく。阪本美登里夫人より『未来の海へ(※阪本越郎遺稿詩集)』賜ふ。(※省略)
夕方、滝本生、泰へとものもち来り、三鷹より帰りしユ泰の顔見て帰りゆく。
7月15日
晴。家居。『国榷』の「洪承疇」すみ、『清実録』見る。ユ、今井へゆけば「アリちゃん眼病」と。
7月16日
晴。10:00西岡典子生来り、元旦の『古今図書集成』よりの史料よます。書き誤り多きもまあまあなり。
ユ、外科へゆき天沼ゆき17:00まで帰らず。(※省略)
7月17日
中山順子来り「忠王李秀成」一応すむ。ユ、保土ヶ谷にゆき「山野井生、母なきゆゑどうかと思ひゐし」と也。(中山生4月結婚と。石鹸呉る。)
7月18日
ユ出てゆきしあと母来り「(※岑夫氏)接骨木のむや」ときけば「のむもの多くてのまず」と也。(※省略)
7月19日(日)
泰の喘息にて早くさめ、久しぶりに夫婦して礼拝にゆく。暑し。滝本生来り、泰つれゆきしと。
夕方佐伯にゆき『龍の星座(300)』買ひ直す。Valignano『日本巡察記(300)』も買ふ。滝本生21:00ごろ泰返し、ねつくやまた喘息起りて泣く。
7月20日
暑し。滝本女史午すぎ来り、泰ついてゆく。(※暑中見舞 省略) 東京の日本歌人の雑誌出ると。宮崎女史よりも電話かかりユ「会員になる」と返事す。
弓子来る。21:00澄来る。
7月21日
7:00さめ8:30澄より先に出て散髪。帰りて箕輪生来り『旧唐書』の西域よみて『新唐書』と較べ13:30ごろまでかかる。
けふ澄、日光へ旅行。依子母子に帰れとすすむ。(※省略)
7月22日
9:00出て成城へ『書誌学』もちゆきsalaryもらふ。本代(『和漢三才図会』10,800)もわたさる。
成城堂で『文芸春秋』買ひ、今井教授と同車。「この間、小高根太郎に会ひし」と也。南新宿で下車。
東豊書店へゆき『燕都叢考(2.250)』、『Eminent Chinese of the Ch'ing Period(3,840)』、
『台湾地区公蔵方志目録(360)』、『泉州府志選録(180)』、『漳州府志選録(180)』買ひて帰宅。望、風邪と。泰も吸入せしと。
われ山住正己氏、本出されし(岩波新書『教科書』)祝いひしも、(※母堂)先生あまりかまはず。京はやく帰り、澄も日光より疲れて帰り来る。
あす3人帰名の予定らし。(※省略)
7月23日
昨日、山住先生に注射してもらひし故か泰、喘息やむ。ユ、婦人会と太田夫人に会ふため教会へゆき、諏訪夫妻と家を守る。
ユ13:00すぎまで帰らず、いらいらして待てば太田夫人の推す花嫁候補は母なしと。(※省略)
諏訪親子の出てゆきしあと西岡生来り17:00までやりゆく。洪承疇と「星」と旨くかけるや否や危むやうになりし。
7月24日
けふは下痢。学生来ず。暑く33℃。堀多恵子氏より「本送った」と。狩野和加子生より「ルバイヤットよみし」と手紙。
7月25日
暑し。33℃台つづく。堀多恵子氏『葉鶏頭』賜はる。高価なり。美紀子雅子来り、茶もって帰る。
7月26日(日)
礼拝当番とて9:30にゆけば相当番の嫗来ありし。(※省略) 出て森田先生夫人と一緒になり「奥さまによろしく」といはれ「お名前を」といひ恥かく。
吉祥寺駅にてcoffeeのみ、佐伯に寄り『黒人(50)』買ひ、新本屋にて『名画に見るキリスト(250)』買ふ。けふも仕事できず。望にユ困りをり。
7月27日
けふも33℃を越す。8:00望つれてユ、山住dr.にゆけば涼しき処にては望、乳のみしと。何かとまぎれて仕事出来ず。(※暑中見舞 省略)
7月28日
10:00箕輪生来り、機嫌よく教へ昼食せしめゐるに依子より電話、ユ出て「お父ちゃんちょっと」と。
われ聞けば「わたしもうだめ」と泣く計りゆゑ、「ユあすゆかす」といひて切ればユ、早速支度し、望つれて出てゆく。
呆然として箕輪生15:30まで教へ「椿山」へ茶のみに入れば中谷孝雄氏をり「けふ16:00より外村繁氏の年忌」と。「われキリスト者」といひ、
箕輪生とも別れ、途方に暮れて滝本にゆけば、やがて木野代議士の長男来りしゆゑ、また誘ひて茶のまし、別れて帰宅。(※暑中見舞 省略)
京の帰りまてば滝本生20:00ごろ電話かけ「来る」と。餡パンたのみ、来しと話す内、京、帰り来る。23:00滝本beer1本平らげて帰りゆく。
(澄に20:00電話せしに「ユに1〜2日ゐてもらへば心配なし」と。)
7月29日
大伴道子氏に書評速達。澄より電話「Hysterieは前々より。霧ヶ峰へゆきてのち東京へつれゆく」と也。
ユに16:00電話すれば「あす、あさって帰る」とのこと也。午、母すし持ち来り、滝本に仕立さしをり。滝本帰りしあと大へとすしもちて帰る。
(※省略) 佐伯へ5千円にて買ひし本、3.5千円にて売り『未解放部落の歴史と社会(1000)』買ひ、三浦、滝本2女史をさそひ夕食。1千円
おごる。
(けふ山住正己氏の『教科書』買ふ。よく書けをり。) 洪承疇まだ書かず。22:00京帰る直前、2女史帰る。
7月30日
10:30ごろ来るといふ西岡生来ぬまに京、touristへと出てゆく。11:00来り、昼食を中華料理屋にて採り、勉強了りしあと西岡生ひるねす。
われ『果樹園』へ速達しにゆく。帰りたのまれしシャーベット買ひ、起して食べさし、
房州への切符とりにゆき帰り来しと話せば「母親、弟たちをひいきす」とのことなりし。17:15追出し、18:00鰻買ひ来し京に飯たかす。
澄に電話すれば「名古屋豪雨にてかへれず云々」(※暑中見舞 省略)
7月31日
ハガキ5枚書き、澄より「10:15のひかりに乗った」との電話きき、外へ出て滝本に遭ふ。雲呑くひ、佐伯に寄り13:00望抱きしユ見る。
霧ヶ峰へゆくは澄の好き勝手にて、諏訪母上家出と。(※暑中見舞 省略)
弓子来り、小林父上入院、母付添と。(中山順子に電話すれば部の合宿と。母上に叱言いふ。)
8月1日
晴。34.8℃となりしと。家居、呆然としをり。(※暑中見舞 省略) 筑摩書房より竹内好『予見と錯誤』送りしと。
8月2日(日)
礼拝にゆく。すみてまっ先に帰り、佐伯に寄りしも何もなし。(出がけ母来りしも5千円もちて去りしと)。
昼食すませしあと千川の紹介にて大阪鉄工団地事務局の上路親喜君といふが来り、散々話せしあとまっすぐ帰阪とのことに憐れなりし。
弓子来り、小林翁やや宜しき様子と。
8月3日
けふは30℃以下なり。外出せず(タバコ買ひにゆきしのみ)「春夫と中國」200×14かきしところへ中山順子電話かけ来り「すぐ来る」と。
13:00来り、15:30まで「李秀成」よます。原稿かきをり注のつけ方、点の打ち方教ふ。(※暑中見舞 省略)
8月4日
10:30箕輪尚子来り、『旧唐書』天竺をのこしてすみ、次は『資治通鑑』とせんといふ。14:00麥書房電話かけ来り、駅まで迎へにゆけば、
来りて「四季の人々」と「コギトの思ひ出」書き足して何ページとすべきかを云ふ、とのことに、年末までに書かんといふ。
竹内好『予見と錯誤』来る。中央公論社との絶縁などを記す。
大伴道子女史より原稿受取の速達。(※暑中見舞 省略) 澄夫婦、霧ヶ峰より17:00来る。望、寝返りうつやうになる。
「厦門志」に「茘鏡伝」あり。
8月5日
34℃以上となりしと。「春夫と中國」200×29とせしのみ。〒なし。佐伯にゆき佐古『私の政治的発言(70)』、『忘れられた南の島(30)』買ふ。
8月6日
けふも室内34℃以上と。山住dr.にゆけば夫君の本にsignして賜ふ。10:30西岡典子生、浜口真千子生を伴ひ来る。(※省略)
ハガキ出しに泰つれてゆき、公園にて運動神経なきを知る。けふ〒なし。
依子・弓子にて誕生祝に本棚買ひ呉れし。夜、本棚を組み本入れ、ねをりし本凡ねかたづく。(※省略)
8月7日
雨降りすずし。午后、万国博へゆきしとふ塩崎律子生来り、熊本の朝鮮飴呉る。『太平広記』の幽霊あと1回位で了りとならん。(※暑中見舞 省略)
『民間伝承289』来り、元建国大学教授、大間知篤三氏の追悼号なり。元左翼、帰国後柳田先生より破門となりしと。
昨日より右蹠に水虫出来、酢ぬることとす。
8月8日
けふも涼し。佐伯へ『文芸春秋』売り『パプアの亡魂』、『犯罪と刑罰』買ふ。Dapperよむ。
8月9日(日)
7:00さむ。ユを礼拝にゆかしむ。Dapperよむ。滝本生来り、泰預りゆき、午すぎ返しに来り「100円貸せ」と。
8月10日
オランダ語やり10:00すぎユ泰と出て赤坂パレスホテル。和田夫人をり、藤野、平山、田中、吉原、山中、疋田の諸旧姓来り、
星野、岸、藤田、渡辺の4人を欠く。「これにてクラス会に出ず還暦祝の文かけ」といひ、写真和田夫人の坊やにとってもらふ。
(※暑中見舞 省略) Dapper19ページにてnote1冊すむ。
8月11日
Dapperやりつつ箕輪生待てば10:30来る。ユ、望をつれて依子と斎藤神経科にゆき泰を滝本に預けし。電話かかり午飯用意して帰ると。
すし買って12:00帰来。恰も『資治通鑑』の隋のところすみ、唐代を午食のあと紙挟み、疲れに疲る。(※省略) 〒なし。
きのふよりまた「新生」吸ひしも変りなし。斎藤先生の診断にては怕死の観念の圧へつけゐしが出しと也。
8月12日
3:00ごろ望、乳のため泣きしに覚め、あと悪夢見しゆゑ眠りしとわかる。7:00起く。けふもDapper写しをれば午まへ中山順子生より電話。
wineもち来り忠王伝ほぼメドつく。(※暑中見舞 省略) 弓子来り、今井へ泰つれゆけば万博へゆくところと也。
8月13日
けふも涼し。Dapperやり、待てば11:00浜口真千子来り、競馬の漢文よます。午食くひ13:30ごろ帰りゆく。澄の電話に依子出し。
18:00すぎ来りし西岡生の正月行事1時間ほどやり、帰らせば依子また泣きをり、ユ斎藤病院へあすつれゆき入室ささんと。(※暑中見舞 省略)
佐々木邦彦画伯「あすより大丸で個展」と。
主のめぐみゆたかに受くるありがたさ語らんひとのあれとぞおもふ。
8月14日
ユ、泰をのこし依子をつれ望と斎藤病院、午すぎ帰り来る。そのあと依子、室にとぢこもり泣く。
そこへ塩崎生来り、幽霊『太平広記』はこの次にてすむこととなる。その間、依子斎藤病院へ入院ときめ、ユ出てゆく。
塩崎生帰りしあと泰つれて公園。滝本にゆき帰り来れば弓子入りをり。(※省略)
ユ帰り、ともかく入院せしめしと。夕食つくる元気なしとのことに、すしわれ買ひにゆく(480)。そのあと付添さんより電話、入用のもの多くいひ来る。
8月15日
10:00望を残してユ、泰と病院へものもちゆく。昨夜2時間しか寐ざりしと也。
その間、美紀子より電話あり、諏訪澄に10:30電話せよとの史の伝言をいふ。わけわからず、今井翠に泰つれてゆく。(※暑中見舞 省略)
20:30澄より電話かかりし故「史あさって10:30電話くれ」といひし旨伝ふ。
8月16日(日)
聖日なれど夫婦とも礼拝にゆかず。成城大学より前期試験について問合せ。(※暑中見舞 省略)
8月17日
けふも30℃。Dapper4冊目となり52p。鄭氏の項に入る。午まへ裸を見られ、大伴道子氏の書評の校正見る。5千円礼として石鹸一箱とともにたまふ。
(※暑中見舞 省略) 澄より「明日上京」と。依子の面会はユ帰りて聞けといへば夕方電話し来る。
『不二』来り、25年記念号なり。われと同感の人なし。けふ来る筈の中山生水曜にまはし、西岡生「あす来られず」と。(※省略)
宮崎智慧氏より20日すぎ来る。『日本歌人』東京支部会と別に雑誌つづけると。「ユ、双方に入らす」といひやる。
8月18日
Dapperにかかる。澄上京。斎藤病院へゆきしか。17:00前「来る」と電話。(※暑中見舞 省略) きのふより「echo(※エコー)」のむ。50円と安き也。
澄、夕方来り、泰あやし望抱いて20:30の「こだま」にて去る。
8月19日
写真屋へ現像出しにゆけば、金払ひあとでとcolor-film入れ呉る。弓子来り、掛取り来りしに払ひ呉る。
澄より電話かかりし故「けふはゆかず。明日ユゆく。17:00ごろ電話せよ」と答ふ。(※暑中見舞 省略) 泰、理屈いふ故叩く。
(けふ中山順子来り、10:30より13:00まで忠王伝李秀成やりゆく。) Dapper朝夜やり64pまで写す。
8月20日
Dapperやりて待つうち箕輪生来り、13:00帰りゆく。(※残暑見舞 省略)
川久保より電話「上京しゐる」とのことに、「松本を19:00見舞にゆかん」と云ひしあと、泰迎へに薬王寺町へゆき、玄関にてつれ去りtaxi(190)、
川久保19:00すぎ来り、二人で葡萄買ひ(500)見舞へば歯ぬけて言語不明。歯科医へゆけとすすめ歎息して帰宅。22:30。
(けふ虫眼鏡買ふ。500を450に負けてくれし。)
8月21日
けふもDapperやる。ユ、望をつれて病院にゆく。塩崎生来り、『太平広記』第4冊を拾はす。もう1冊ありと。
ユ帰り来り、クリームパンを昼食にくふ。まだ紀要の原稿に手つけず。Dapper写しに懸命なり。マカオを過ぎて福州に着く前となる。(※省略)
8月22日
10:00出て成城大へsalaryもらひにゆき(※省略)、帰り佐伯に寄り狩野直喜『支那文学史(2400)』買ふ。良からず。10:30西岡生来りし故(※省略)
西岡生教へる中、白鳥夫人より「依子いかに」と。「日本一の医師にかけをり」といふ。西岡生のcard少なく、帰りゆく。
母、咲耶宅に3日ゐしと。望やや賢く(うるさく)なりし。(※省略)
8月23日(日)
よべ眠剤のみ忘れ一度目ざむ。この数年来なきことなり。昨日台風にてとまりし釧路ゆきの船出るとて京、マツナエとともにゆく。帰りは飛行機と也。
親の心子しらず。(※省略) いらいらしつつ「春夫と中國」200×37となる。善一郎夫婦17:00ごろ来り、誕生祝を早めにせしと。
8月24日
またDapperにかかりをる中、賀代嫗来り、1.5万もちゆく。船越の1.5万はまちがひなかりし。
福地君(※福地邦樹)より「小高根氏『果樹園』200号まで出す」と。(※省略) ユ、泰つれて斎藤神経科へゆきしあと賀代嫗訴訟のこと話してゆく。
ユ帰り来り、「依子きげん良し」と。10日の写真みなとれをり。
8月25日
船越次女の保証人となる。昨日「勝手な時だけの隣人」と話せしばかりなり。(※省略)佐伯へゆき『牧野選集』4,5借り『華僑(100)』買ひ来る。
東京自疆より9月17,18日の私学会館で会と。出席と答ふ。(※省略)
『牧野選集』のハサミこみ見をれば田中克己のエッセー集出すと予告しあり!「春夫偏論」200×53にて了る。
8月26日
庶民文化の紀要かかず。10:30中山生来り、12:30終り昼食して帰る。浜口生の母より礼状。角川より「ハイネ新9版6,000出す」と。
8月27日
やや秋の気す。午后西岡生来り「正月行事」やる。(※暑中見舞 省略) ユ、2人の子供に疲る。『牧野選集』2冊分払ふ。
8月28日
ユ、望をつれて病院。母入れちがひに来り、宝国寺(※菩提寺)に3万円わたし、「生きてゐる中に」と云ひし由。
12:00ユ帰り来り、滝本化粧して来りしと母の話。帰りしあと昼食し塩崎生の『太平広記』すむ。夜、焼増し出来(880)、7夫人に包む。
この間、千川の紹介にて来し上路氏より「貴台に会ひしに「満足」」と。
8月29日
暑く35℃越えしと。箕輪生来り、菓子もち『資治通鑑』よます。14:00帰りしあとユ、今井へ泰つれゆきしに松浦へアリちゃんとともに預けにゆきしと。
20:30すぎても音沙汰なし。けふこの間のクラス会の6生の写真送る。
(成城大学より電話「山内博士(※山内清男)亡くなられあす自宅にて告別式15:00より」と。) 保田夫人より『くちなし』送られ、礼状かく。
8月30日(日)
7:00起され9:00出て礼拝当番。すみて森長老と「よき先生に当りし」と話して帰る。13:00すぎ出て香奠の紙買ボールペン買ひし。
成城大学へゆけば当直、山内博士の家知らず。駅につけば黒服の連中をり、これについてゆき、
14:30鎌田女史より一括して香奠出せしとのことに記帳し黙祷して出、卒業生ら見、栗山、池田、高田諸教授と話して帰る。
若葉伊奈緒より電話あり(※省略)、jazzやりすぎて学校へ出ず(英文志望)東洋史の点くれと也。
8月31日
59回目の誕生日なれどユ、2人をつれて午に出てゆく。17:00澄より電話かかりし故その旨伝ふ。(※残暑見舞 省略)
澄より電話かかりし故「2児つれまだ帰らず」といへば「薬王寺ならん」と。案の如く薬王寺へ電話すれば「今帰りし」と。
斎藤病院の払ひは10日目。付添さんは「けふはいらず。来週ぐらゐ退院ならん」と。(※省略)
9月1日
29℃と。だるくゆくのいやになり、「春夫璝記」も捨てることとす。(※残暑見舞 省略)
9月2日
30℃をまた越す。けふも登校せず。民俗学会の専任幹事をゑらぶとて電話ありしと。弓子来り、2人の守をしてくれる。ユ全く参りをり。
9月3日
35℃を越えしとあとにてわかりしにワイシャツし、上衣きてゆき扇風機とjuiceとにて「東洋史」35分、print2枚やり、中西博士に「春夫璝記」出せずといふ。
山内博士勝手に代講おき(東大助教授)、礼はせず、大学におきある資料2千万円で売るとの大藤氏の話なりし。(※省略)
佐伯にて駄本2冊買ふ。(※省略)
9月4日
小高根二郎君に同人費送り、中国文学史「李白」までゆく。大学院和泉圭子1人にて成城の世界旅行に参加したと也。
雑談してすましゼミ4人そろひしに「もうそろそろかけ」といふ。(※省略) 林富士馬氏よりハガキ。
ユ、けふ2人つれゆきしも会計わからず、依子あと戻りして退院おくれると。落胆。
(※省略) けふ『モンゴルの征西』、『台湾』買ひ、『草の葉』よむ。きのふよみし海戦に負けたると照らし合はせれば自尊の強き民族なりアメリカは。
9月5日
よべ泰の喘息でさめて眠れず。下痢せしとて山住先生にゆき3日分もらふ。(※省略)
澄より電話あり、ユ今井へゆき保育所に入れるがよからんと云はれしを伝へれば、ユを出せと。
9月6日(日)
11:00託児所とユゆき12:30太田夫人写真もって来る。(※省略) 託児所満員とユことわられしと。(※省略)
ユ帰りしあと餡パン食って佐伯。複本3冊うり、『煬帝と玄宗(250)』などもらひ来る。(※省略) 佐々木邦彦氏より「依子いかに」と見舞。
9月7日
(※省略) 11:00出て登校。国文の大学院出席よく30分ですまし、休みて東洋文化史。これも出席よきもわが質問に答へず。
いやになりてやめ帰宅すれば水道の修繕に来てをり。託児所はゆけざりしと。北杜夫氏「躁」と自ら記す。泰いよいよいふこときかずなる。
9月8日
ユ、母と泰とにて斎藤病院へ払ひにゆく。(7万円ほどと)。われ11:30出て雲呑食って登校。
教授会まへに大藤氏に呼ばれ、山内博士の代講、佐藤京大助教授をひと先づつづけてもらふこととなる。鎌田女史に「春夫偏論」わたす。(※省略)
帰れば(※暑中見舞 省略) 川久保より「また来る」と。澄21:30来り、23:00ごろまで泰さはぐ。
9月9日
10:00澄起き、泰つれてゆき斎藤病院を出て御苑に寄り15:00ごろ来ると。依子は鬱状にて鬱症でなしと斎藤先生いはれしと。(※省略)
16:00すぎ名古屋へ帰りゆく。気の毒なり。
9月10日
9:00出て登校。むし暑し。東洋史「オドリコ」やり、あとprint切り乍ら山田俊雄君と話す。『北平風俗類徴』わすれ『杜甫詩抄』のみにて退散。
新宿にて京と同車。依子まだねてをり。16:00京、泰とにて病院へゆく。澄、Golfの用品を買ひしと也。バカげをり。
小高根二郎君より通勤3時間以上と。真野喜惣治氏より「万博見た」と。『果樹園175』つき小高根氏によればあと25冊なり。
9月11日
9:30登校。3時間教へて疲る。帰りて何もせず20:00眠る。
9月12日
室内25℃と涼し。山野井生来るとのことに昼食して待てば14:00ごろ来り、縁談のこといふ。17:00近くまでゐて帰りゆく。
その間、角川よりHeineの印税5万円来り、依子の払ひすませばこれだけのこると、ユ喜ぶ。
9月13日(日)
礼拝にゆく。父なる神はうしろ姿だけ見える。その姿を見たものは生きないと教へらる。けふは暑し。
澄、高松より電話「依子ゆっくり置き玉へといひしか」ときけば「いはず」と。
9月14日
登校。午食に支那饅頭1ケ半のみにて疲る。帰ればユ、2孫をつれて斎藤博士に会ひ、17日退院願ひゆるされしと也。
9月15日
暑し。西岡生来り、13:00より15:00すぎまでよまし疲る。
9月16日
眠剤のためか、だるくてゐる処へ16:00中山順子生来り、「太平天国の外交」よます。(※省略)
9月17日
けふも眠く8:00起され床上げせずに登校。1年の東洋史早々に切上げ、printに北平の年中行事やればず。2枚切りて逃げ出す。
帰れば喘息の泰ねてをり、まもなく依子つれてユ帰り来る。恐怖症也。困る。21:00澄来る。
9月18日
睡眠不足にて登校。東洋文化史のprint切り、田中東北大教授(物理)と話せば最高俸までなりゐると。大学院けふにて打切りといひ、ゼミ出て家へ来よといふ。
後藤均平氏立教へ来しと。思潮社といふより伊東・立原研究出す云々。澄20:30帰り来し直後、寝に就く。
9月19日
朝、澄名古屋へ帰りゆく。気の毒なり。無為。前川佐美雄氏より茅ケ崎へ転居の予定と。今中十九期生会より通知。(思潮社へことわりの電話す。)
9月20日(日)
礼拝にゆく。教会40周年にてその頃の人2人はありと。受洗者2人、1人は80過ぎの老嫗にて涙出づ。お茶の会ありしも帰り来る。
澄より冬物送るの電話あり。北辰内論説資料保存会より「杜甫の晩年」採録と。(※省略)
9月21日
ユ、郵便局へゆくとて出しあと10:40すしやのぞけば出来ずと。饅頭2ケ買ひてゆき早くくひ了り、大学院へゆけば「中西博士の講義長く飯くふ間待て」と、10分おくれてゆき、牽牛織女の話し(※省略) 月給もらひL2Dに臘八など話し、すまして成城堂へ払ひ、
東豊書店へゆき『唐代長安与西域文明』きけば、なしと。『飲食須知(500)』、『台北市歳時記(500)』と買ひ、
佐伯へ寄り『白鳥全集』第5回未着をいひ、『日本と南洋(250)』とり帰宅。(※省略) 依子また鬱しをり。あす斎藤先生へゆけといふ。
(けふ母、弓子来りしと)。琳琅閣に向達(※向達著『唐代長安与西域文明』)来ある旨電話すれば「あす電話す」と。(※省略)
9月22日
ユ、依子をつれて斎藤dr.。京休みとて2人の孫預かる。12:00帰り来り「先生もう宜しと退院さしたのでなし」といはれ2日間の薬(700)
賜ひしと。
帰りて依子また泣く。佐伯より白鳥全集の欠、電話できき来り、夜、東豊書店より「琳琅閣の向達品切」と。
9月23日
(老人の日!) 10:00箕輪尚子来り、14:00近くまでsemiやりゆく。依子に母来しも泣き、泰つれて出、やがて返しに来る。
夕方、史、雅子4人にて来りさはぎ、「帰らう」が史。とりしうどん食って帰る。(依子出て美紀子と話せし)。
泰、休みなるに山住先生によべの喘息のこといひにゆき、あす幼稚園に紹介すと也。史の来りしあと送り返したまひ恐縮す。雨降る。(※省略)
9月24日
登校。大学院の為の書籍購入につき、我に話なきことわかる。東洋史「イブン・バットゥータ」少しやり、中国文学史のprint「白楽天」すまして帰宅。
けふは依子1人にて斎藤dr.へゆき途中の不安をいひ叱られしと。あす幼稚園の手続し、9月入学となると澄の電話にユいふ。(※省略)
『藤原道長(150)』、『藤原仲麻呂(700)』成城堂で買ひてよむ。
9月25日
9:00出て雨に遭ひ、高校樋口氏に傘きせてもらふ。大学院切りし故、午食のあと塩崎生に古今図書集成の「鬼」の部を選びやる。
すみてsemiまた塩崎生、写しに誤字あるらしくよめざる箇所あり。(経済の中川助教授逝去)。弓子出張とて泊り、京休暇にて珍しく3女そろふ。
9月26日
雨。弓子をるにつき2児のこしてユ出てゆく。われ箕輪尚子に唐の仏教の流入教ふ。(※省略) ユ、柿生より17:30帰り来る。
9月27日(日)
礼拝にゆかず。潮流社より「四季の会す」云々。池内先生(※池内宏)の『日本上代史の一研究』改版と。
9月28日
4人にて山住さんへ注射打ってもらひにゆきしところへ澄より電話あり。『不二』来り、佐伯にゆき『白鳥全集4』借りて帰る。
9月29日
午食し、佐伯へ2,250払ひ、登校。教授会15:40なり。学長、学園長ともに留任したしとなり。
評議員選挙。高田、上原、栗山(われに2票ありし。開闢以来なり)3氏当選。(※省略)
鎌田女史より「春夫偏論」とりかへす。「茘鏡伝」のこと書き加へんと也。(※省略)
9月30日
雨もやう。10:00箕輪生来り、16:00まで唐朝の渡天僧やり義浄まですむ。弓子ゐてくれ、ユ依子と斎藤神経科。大分よくなりし様なり。
向ひで遊びゐし泰帰りて「寒し」とふるへ、計れば40℃以上とて山住dr.にゆきすぐ眠る。『風日』来り、保田の還暦祝歌会せしと。
10月1日
7:30起され、急いで飯食ひ腹具合あしく新宿にて上厠。大学へ9:30ゆき10:10まで塩崎生教へ、001で答案かかせ(101人出席と)、
塩崎生教へゐれば遅刻せしといふ1年女生来り泣く。教務課長に会へば「reportにせよ」といひしと。
また塩崎生教へ、佐伯へ寄り(東豊書店へゆけば店主簡氏ゐず。夫人に『茘鏡記』のこといへばわからず。『中西文化交通小史(290)』買ふ)帰宅。
4日聖餐式との通知見る。泰、熱下りし。
10月2日
幼稚園へと泰ゆき、手続すませすぐ帰り来る。われ山住dr.に礼云ふ。(眠剤弱くしあると也)。242号となりし『詩人学校』来る。
東豊書店より電話「『茘鏡記』貸しある人よりとり返す」と。「来週木曜ゆく」といふ。
10月3日
涼し。(※省略) 散髪し13:00来し塩崎生に「鬼」の定義せよといひ、16:00まで史料よんでやる。けふ泰、幼稚園へゆき譏嫌よし。
『四季』の伊藤整追悼号2冊来る。
10月4日(日)
雨。礼拝当番とて9:00まへ出て教会。けふは聖餐式なれど140人ほど也。阿佐谷古本市にゆかず。泰、風邪なほらず。夜、箕輪生より電話「明日来る」と。
10月5日
曇時々雨。10:00すぎ箕輪生来り、この次より書きだすと也。
夕方佐伯へゆけば『白鳥庫吉全集5』、『平戸オランダ商館日記4』、『牧野富太郎選集5』来りをり4,250!
近江詩人会へ20年経ちし!と便りかく。
10月6日
7:30起き、午食して11:30佐伯へゆき4,320払ひ、カリキュラム委員会に出る。中西博士感じわるく「大学院かけもち止めよ云々」。
結局1年入学時、各人にゼミもたすとなりし。18:00すみて帰り来る。依子、機嫌よくなり泰、まだ風邪なほらず。(※省略)
10月7日
8:00起く。依子、斎藤dr.にゆく。塩崎生に電話すれば「午后来る」と。ハイネの新9版来る(通計34版なり)。
塩崎生14:00菓子もち来り、17:00近く帰りゆく。
10月8日
7:00起き9:00出て成城。「詞抄」のprintし、11:30より試験監督。すみて昼食し、(※省略)
東豊書店へゆけば『茘鏡記』来てをらず。杜新吾『中日関係簡史(100)』買ひて帰り来る。
けふ能勢より「小竹稔きのふ死に、けふ葬式。東京の野球部(※大高OB)にしらせ」と電話ありし故、
夜、丸に電話すれば「離婚した妻、子を連れ岡山?にあり」と。2人で香奠3,000送ることとす。(※省略)
紀伊の國小竹の祝(はふり)の血を引きし強き男も死せりといふも。
10月9日
けふ来るかと9:30電話すれば西岡、中西2生とも不在。昼食後『漫画読本』4冊(100)買ひ来り、(※省略)
集英社より印税4千円来り(母15:00まへ山住dr.へと来り、われ朝ゆきHeine呈す)、夕方、東豊書店より『茘鏡記』手許へ来しと電話。
能勢正元へ「小竹宅へ見舞、丸と2人でゆく」と書く。む
10月10日
8:00起き、小竹夫人へ悼辞かき、3千円同封速達す。(※省略) 浅野晃氏より『観自在讃』来る。
12:30東豊書店へゆき『茘鏡記』など見せてもらひ花茶もらひ、『台湾府噶瑪蘭庁志(360)』、『台湾志略(180)』買って帰る。
このごろまたDapper写しをり。夜、十時(※ととき)巫佐子「浜谷より電話ありし」と喜び来る。
10月11日(日)
8:00さめ礼拝ユにゆかす。Dapper108pまですすむ。13:30西岡典子生来り16:00ごろまでやりて参る。(※省略)
夜、浜谷生より電話「十時に電話し喜ばれし。11月に新築落成」と。
10月12日
雨。Dapperよむ。千川より「class会した」と。佐伯へゆき『東西交渉史(2500)』注文し、大学への本注文す。
夜、藤田秀子来り「11月9日17:00学士会館で披露宴」と。出席を約束す。(※省略)
10月13日
ユ、三鷹の小林妹の出産祝にゆき吉祥寺で遊ぶ。われ西岡生を13:30より16:00まで教へ、佐伯へ払ひにゆく(2,800なりし)。
10月14日
雨。澄、母上つれて第一ホテルに来りをり、夕食をと依子呼びしもゆかず。『東方学』来る。Dapper119pとなり、あすにてすますこととす。
けふ中山順子生来り、原稿10枚ほどかきゐるを直す。
10月15日
依子、泰を幼稚園に送り出してのち斎藤dr.へゆく。京、泰を迎へにゆく。
ユ、諏訪母上の世話するつもりなりしも電話かかり「四谷の叔父宅より通院」と。われ午后散歩に出、Dapperひとまづ了りとす。
原田先生より『考古漫筆』いただき御礼かく。(茘枝は竜眼肉との仰せなり、ともにムクロジ科なれどもややちがひあり。ただし茘枝竜眼は後漢にならべてしるし、同一なるやもしれずと思ひ、原田先生への礼状は延ばさん)。
山住先生へゆき「木曜に参る」と申上ぐ。
10月16日
4:00さめ原田先生の茘枝竜眼につき考ふ。登校。詞教ふ。出席50名足らず也。大学院休みとて『御堂関白記』のかきぬきし、ゼミにゆく。
すみて16:30よりカリキュラム委員会の最終答申出来、夕食18:30ちらしとってもらひ、21:00了り、帰りて疲れて眠る。(※省略)
10月17日
雨、家居。何もせず。夜、澄来る。あす母と病院へゆくと也。
10月18日(日)
晴る。依子、泰を幼稚園の運動会につれゆく。澄、起きて朝食し、四谷の叔父宅の母へとゆく。依子より午飯の催促あり。
西岡生来り、原稿みせしゆゑ直す。澄より「斎藤先生をられざるにより鬱なれど入院如何は火曜に。われ風邪ゆゑ帰名す」と電話ありし也。
成城大学より「けふ運動会中止となりし」と電話あり。あすやるや否や不明。
10月19日
家居。原田先生への礼状かく。
10月20日
教授会にとゆき(※省略)、ついで文化史の会、新城氏欠席わび、われ責任負ひて第6course不成立などいはる。
20:30すみ、大藤氏主任やめたしの発表あり。「3月まで」といふこととなる。帰りて雑煮くひ眠る。
10月21日
5:00歯痛でめざめ、水で冷やし冷やしして9:00柏井にゆき治療受く。「あさってまた来よ」と也。歩きて帰り、眠く、夕食後やっとnote作りす。
10月22日
9:30学校へゆく。大学院のことで文部省へゆく池田前田の諸氏と会ふ。2Dに答案返し満点なきをいふ。(※省略)
『閲微草堂筆記』上なし。大探検時代双書の索引、吉田書店よりわが名宛に請求書来をり、大藤教授にたのむ。(※省略)
南新宿にて東豊書店へゆけば波多野博士も昨日見えしと。台湾の地方志10冊と『通制条格(2,500)』と買ひて帰る。(※省略)『日本詩人』来る。
10月23日
晴。Dapperちょっとやる。箕輪生教へ「明日誰か来させよ」といふ。ユ、太田夫人に会ひに三鷹へゆきし也。
夜、坂泰子生、吊書もち来る。ユ「ふけた!」と也。
(柏井へ歯にてゆき『乱世の皇帝(330)』買ひ、佐伯に寄れば『バタヴィア城日記』来てをり490にまけ呉る。)
坂生、「米山生より」と虫眼鏡もち来る。
10月24日
柏井へゆき歯みてもらふ。「月曜また来よ」と。高円寺まで散歩して帰ればユ、同窓会にと出てゆく。13:30丸重俊と西岡生と同時に来る。
丸よりの1,500(花代)受取り、重俊をかへし西岡生教ふ。けふもDapper。
10月25日(日)
2人とも礼拝にゆかず。ユ13:00より母と四谷へ望をつれてゆく。われねまきにてtelevi見しのみ。
10月26日
9:00出てprint切り、(※省略) 疲れて帰り柏井へゆくを忘れる。山田教授「『書誌学』を国文に買はん」といひ呉る。3.8×0.9となり。
10月27日
柏井へ歯にゆき「あさって来よ」と。佐伯へ寄り3、4、2万の支払ひ票かいてもらひ登校。1時間待ちて大学院の発表きく。
大藤教授、高血圧とて休み、堀博士司会。17:00了り寒し。(※省略)
10月28日
よべ2度目ざむ。10:00箕輪生来り、14:00までやりて帰りゆく。干瓢をくれし。
10月29日
9:00出て成城。イブン・バットラーダつづけてやり点云ってやる。(※省略) 鎌田女史「明日より沖縄」と。
print3枚切りて成城堂にて佐口博士の本とりて帰宅。佐伯に本つきしをいひ『大君の使節(100)』買ひて帰る。(※省略)
美紀子、淳一をつれ来る。望、歯4枚生えたり。中川氏と手塚氏にハガキ。小高根氏へ「老来」。
文学館の笠井女史より「これこれの本ありや」と電話、「なし」と答ふ。
10月30日
「老来」(※発送)ユにたのみ登校。3時間つとめて帰る。(※省略) 中川成夫氏への手紙かきなほす。
けふカリキュラム委員会9日15:00と学部長よりの命あり。藤田秀子の披露宴とて出られずといはん。
45年度人事院勧告による給与表おきあり。われ13号ならば本俸145,000となる筈也。
10月31日
家居。午すぎ『白鳥全集(2,200)』払ひに佐伯へゆき、中川成夫氏に手紙かく。(※省略)
池田怘氏より「小竹氏、心筋梗塞にて駅にて倒れし。遺族未亡人と高校生。3千円集める」と也。丸に電話せしに「受取りし」と。
11月1日(日)
久しぶりに夫婦にて礼拝にゆく。受洗者1人、聖餐式あり。すみて長島昭氏と喫茶して帰宅。三島一氏より転宅通知。
11月2日
よべも歯痛みしゆゑ9:00にゆかんと思ひしも中山順子生教へ、14:00すみて柏井へゆく。(※省略)
11月3日(休)
眠くて午前中臥床。午后、ユ、縁談の世話にて三鷹へゆく。塩崎生「京の土産」もち来り、殆どやらず帰る。(歯痛みケロリンのむ)
本荘実先生83才にて10.21、pm4:17逝去と奧さんより通知。坪井より「東京どうするか」と問合せ。
紅松、本位田に電話し「東京10人1万円贈らん」といふ。夕方、小林夫婦来り、夕食して帰る。(※省略)
11月4日
柏井へ10:00歯でゆき別のところ悪しと。「あすまた来る」こととなり帰宅。西川に電話すれば「忙し」とて(※香奠の件)たのむと。
高垣に電話すれば出て来て「1千円賛成」と。坪井に「東京で1万円作る。君と川崎とで吊ひにゆけ」と速達す。
あとにて西川より電話「同僚の死にて失敬した」云々。けふ西岡生教へ、大分かかる様子なり。中山の婚約指輪知りをり。(※省略)
関口に電話すれば嬢「7日まで旅行」と。
11月5日
Dapperやって待ちをれば箕輪生来り、用意不足にてすぐすむ。午食し「土曜」と帰りゆく。柏井に歯の治療にゆき「土曜また」と。(※省略)
けふ能勢より小竹のこと。(※省略) 戸田謙介氏、不意に来訪whiskyにてもてなせば、(※省略)北海道よりの野菜賜はる。(※省略)
11月6日
登校。中国文学史の出席少なく叱る。大学院、重久来らず演習にならず。すましてゼミ(※省略)。帰り雷雨。家に電話すれば依子の声、ユと同じ。
京、傘もち来る。山本の古本展catalog来る。(※省略) けふ川久保より「学会に来た」と電話ありしと。
11月7日
川久保に電話かくるを忘れ散髪し、柏井へゆき「次は水曜」ときき帰れば、依子名古屋へ帰りしと。ユ、泰を幼稚園へ迎へにゆく。
また喘息起りをり。母来て「大阪へゆきたくなし。岑夫奇蹟的によろしきらし」と也。箕輪生着物で来て、たっぷりやりゆく。
夜、川久保に電話すれば「今夜都合わるし。11日までゐる云々」。20:00依子名古屋へ着きしと。
11月8日(日)
礼拝当番とて9:00ごろ教会へゆく。(※省略)帰り来れば弓子、京にて留守し、泰、山住先生宅へ遊びにゆきしと。午食もよばれ夕方帰り来る。
この前千川の紹介にて来し詩人「来週日曜来て宜しきや」と「午后あきをり」といふ。夜、白詩見るにあすは「上陽白髪人」と「長恨歌」となり。
11月9日
川久保に電話かけてゆけば独りをり。わが如く「太田夫人に頼め」といへど聞かざる様子。午食電話で注文し大学院へゆく。(※省略)
14:00までやり、疲れたといふ顔せし故「長恨歌」の日本文学への摂取を宿題にし帰宅。
『果樹園177』来り、頼永承氏より『台湾史研究−初篇』贈らる。16:00モーニング着て地下鉄にて学士会館。藤田秀子の結婚披露(※省略)。
カーネーションもらひて帰れば、大川周子生「12月5日17:00ホテルオークラの披露に出よ」と。
11月10日
関口八太郎より1千円来る。受取かき佐伯にゆき『デカメロン物語』貰ひ13:00登校。高田瑞穂氏『佐藤春夫年譜』もらひしと。
14:10より大会議となり18:00となりて散会。「われ辞任」、宜し、代りに堀博士に出てもらはんと思ふ。
新城博士と同車。「杉浦、教へ子の人妻と恋愛し自殺せしめし」と。駭然としてユにいへば「服部の奧さんより(※すでに)聞いた」と也。
中山生に電話「あす来るな、あさって研究室に来よ」といふ。
11月11日
よべ眠り浅く、肥下と妹のゆめ見てさめしは8:00。10:50の試験監督にゆく。(※省略)
すみて16:00よりの審査会に大藤教授の代りとして堀博士たのみ帰宅。頼永承氏に礼状かく。依子帰りをり。松浦薫氏、何となく来訪。
1年の東洋史のnote作りをはる。(※省略)
11月12日
8:30出て登校。研究室の鍵失ひしを文書課に届ければ早速呉る。1年東洋史すまして疲れ、print「水滸伝」のみやり、
中央公論社事業部の女史しもち来り5pの「五雑俎考」責了とす。西岡典子と同車。柏井歯科へゆくを忘れ山住先生も忘れかける。(※省略)
11月13日
疲れ朝とれてをり(この頃おきがけゆめ見る)、2時限「水滸伝」の魯智深よみ昼食。鍵出て来たり。(※省略)
『物類称呼』よみ泉州方言思ひ出す。semi疲れて飴くひ早くすまし、土日に来るをきめる。『イエズス会書翰集』佐伯に注文し、
帰宅すれば高垣より千円来り、主婦と生活社より「Ein Märchen」転載をと。山住氏の『日本の子どもの歌』再版を買ふ。
11月14日
朝早くさめ睡眠不足なり。柏井にゆき歯直してもらひ、佐伯にて漫談そろへくれしを5冊とる(150)。箕輪生14:30来り、唐の仏教ほぼすむ。
共に出て新宿で別れ、立教。夜会費(600)払ひ、明治維新とフランス大革命とを比べる公式論に呆れる。手塚氏来ず。中川君も発掘とてをらず。
延々とつづく質問中、退席、裏通りの古本屋見て新宿にてmacaloni(150)食って帰宅。
11月15日(日)
雨。家族連れの礼拝をとのことなりしも夫婦ともゆかず。10:30塩崎律子生来り、14:00近くなりて「他用」と帰りゆく。夕方弓子夫婦寄りて帰る。
われDapperまたつづけをり。
11月16日
10:00昼食を電話で注文してタバコなくなりしゆゑ登校。大学院で「上陽人」の引用いひ、「長恨歌」の引用きく。
早めにすみ、ダルくて北京の婚礼早くすませばL2D「ねむしねむし」といふ。腹立てて帰り、荒本生と同車。金にくてcoffeeおごらず帰宅。
大阪の坪井より電話「12月10日ごろ川崎と本庄先生にゆく。1,000づつにてよし」と也。
成城堂で石田茂作『法隆寺雑記帖(580)』買ふ。望、風邪にて機嫌わるし。泉靖一氏逝去、55才と新聞。手塚、中川成夫両氏に手紙出す。
11月17日
10:00西岡生来り、13:00までやりゆく。山野井生より電話「2人とつきあひ、どちらともきめられず」と。14:30出て成城へゆき、(※省略)
専攻説明会。去年とちがひ静かにてわれを除く各主任説明し、堀川部長よりわれ「上手」といはる。帰りてハガキ6枚「川崎へ1,000送れ」とかく。
11月18日
10:00塩崎生来り、16:00近くまでやり「すすみてうれし」と也。疲れて柏井へゆき神経ぬいてもらひ「あさって来よ」と也。
本庄先生のハガキ投函。夜、Ibn
Battutaのnoteつくる。望うるさく泣く様になりし。けさ隣の歯科医の奧さん死にしとて讃美歌の声す。
昨日死にゐしを大工さん発見せしと也。
11月19日
8:30起され急いで登校。(※省略) 東洋史Ibn Battutaまだすまず、昼食し、あすのprint切りつつ渡す。
清浦といふに「奎吾は」ときけば「曾祖父」と。一日中、雨降り、〒なし。望よく泣く。(角川文庫『十字軍(280)』買ふ。)
11月20日
7:30起され10:00登校。昨日借りし昼食代払ひ、大学院博士課程申請の身分書に6ケ所印押し、3、4年の中国文学史。(※省略)
すみて昼食、成績書とりに来ず。大学院へゆき「棗」教へしに食ひしこと見たこともなしと3年の話也。
早くすませ研究室にてAlbum用の写真とるとて待つ。15:40了りsemiやる気なく明日より4日間の家でのsemiの順番定む。午后雨やむ。
『不二』『骨36』来り、成城大学より「学長選挙委員会を作り云々」と。
慶応より「前嶋信次教授の著作集予約6,000」と。四季社より「野田宇太郎を同人にした」と。
『健康』編集部より「詩1篇(5,000)を12月15日までに」と。「諾」の返事す。
11月21日
柏井へゆき歯直してもらふ。昼食して成城大学、salaryとベースアップ6ヶ月分とをもらひにゆく。手当代
(169,260−37,280)131,980。
成城堂に払ひし、高円寺下車。『歴代名画記(600)』買ひ(成城堂『元禄時代』、『妻は囚われているか』買ふ)、大川周子を51:00まで待ち、
万年筆(3,000)選ばし12.5(土)17:00Hotel
Okuraでと案内もらひ、(※省略) 帰れば美紀子、七五三の飴もち雅子、淳一つれ来をり。
箕輪生も待つ。原田運治より「川崎に送った」と。東豊書店「向達(※『唐代長安与西域文明』)入荷」と。
11月22日(日)
礼拝にゆく。13:30塩崎生来り、17:30までやりゆく。この間、今井翠来り、父よりと蜜柑もち来る。林叔父保険とりに来しもわれ出ず(柿くれしと)。
小竹ヨリ子未亡人より丸へと香典返し来る。
11月23日
勤労感謝の日とて連休なるも、西岡生来られずとのことに昨日小竹夫人よりもらひし返しもちて丸にゆく。(※省略)
栢木喜一氏より「歌集送った」と。松浦薫氏へ蜜柑の礼。(※省略)
11月24日
川崎菅雄に関口、高垣の分と合せて3千円包む。中山順子「忠王」すみしゆゑ「太平天国概説かけ」といひ12:30去りしあと3千円送れば75。
13:30登校。鎌田女史に大川周子の舅、宮本教授なりしといへば「前に申した」。14:10より教授会。
学長推薦委員会の投票あり、教授にて1票も無きは我と2〜3人。2人選出し早々帰る途、荒本(国文修士2年)とL2D高橋直嗣さそひて喫茶(240)して帰る。
中川成夫氏より「人事の件了承」とハガキ。ユ血圧最低とて依子斎藤病院へゆきしあと疲れしらし。
けふ成城堂にて『知られざる台湾(200)』と『バビロニアの科学(280)』買ふ。(※省略)
栢木喜一氏より歌集『飛鳥びと』贈られし。『植物祭』にユの歌のせあり。本庄先生奥様へ3千円と弔詞、栢木喜一氏へ歌2首。
11月25日
4:00さむ。あと眠れず。9:00本庄先生未亡人へ弔花代送りに郵便局へゆき、近くの印刷屋に年賀はがきの印刷たのむ。540枚3,200、
12月10日出来と。
西岡生教へゐればteleviききしユ「三島由紀夫自衛隊にて割腹自殺」と。あとにてteleviきけば狂気の沙汰なり。
楯の会5人にてゆき総監しばり演説ブチしあと割腹、副手首斬り、副手も首斬ってもらひしと。2度会ひしのみなれど感じわるかりし。
『東洋学報』来る。東洋学術協議会に2.2千円おくることとす。
11月26日
ユに5,200もらひ9:00出て駅前郵便局。『東洋学報』に2.200送る(〒50)。朝刊みな売切れをり、登校。
米人講師に「三島君の事件しるや」ときけば「しる。いかなるわけにや」と。「狂気の沙汰、われ2度会ひしがabnomalなりし」といふ。
1年文化史の時間に「三島の愛読者ありや」と問へば「なし」。
午休み子安、松野2生来り、ゼミをと。「中国の食物」「中国の結婚」とテーマ与へ判押す。
東豊書店にて『唐代長安与西域文明(2,800)』買ひ2,795しか金なく、doubleし『台湾地誌』置きし処へ簡木桂氏(※
店主)帰り来り、
3冊買戻しくれし故、『明季荷蘭人侵據彭湖殘檔』、『晩清宮廷実紀』買ひて帰る。(※省略)
11月27日
“斎藤家へよばれすき焼きいただく”夢みて、覚むれば6:00。(※省略)
望の相手をし、5,100もち駅前郵便局へゆき中国食品事典代と東方学会と為替として登校。(『朝日ジャーナル』買へば三島を皆非難しをり)。
中国文学史すませ、午休みドヤドヤと来り、橋本美子「アジアの精霊」、小林某「台湾の民俗」、柳川真名子「台湾の通過儀礼」、
斎藤幸子「朝鮮の葬儀」、増田礼子「中国の物語」にハンコ押し、内山百合子氏の姪橋本由美子生迷ひをりと。
植村先生『東洋史十話』、『中国文明の伝統』かし、「月曜までに決心せよ」といひ、疲れてゼミ。あす中山、あさって塩崎、水曜箕輪ときめ、
西岡と同車。佐伯に寄り予算なくなり払ひおくれるといひ、『エジプトの生活(250)』、『西イリアン(500)』借りて帰る。
桂信子の『草花』来をり、宮崎智慧女史来り、「甲鳥書林の男、損をし電話代もてといはれ止める云々」と云ひし由。
和田夫人より東大医学部のインターン28歳に嫁をと。田中久子に電話すれば母親出しゆゑ「その気あらば写真と吊書を」といふ。
11月28日
朝、佐伯へ750の借金払ひにゆき、『沙翁傑作集(50)』買ひて帰る。11:00中山生来り、昼食し、医者に行くと帰る。塩崎生に来よといひ、
(※省略)
17:30までやり、原稿預けて帰りゆく。夕食後直し、(※省略) 「春夫偏論」200×67として了る。躁なり。(※省略)
11月29日(日)
礼拝休み、望を乳母車にのせ『週刊サンケイ(三島号)』買ひにゆき、佐伯に寄れば本来らずと。
これにて午前中すみ、13:00過ぎ来し箕輪生を19:00まて教へ、「大望いだくな」といひやる。(※省略)
11月30日
電話かけて昼飯たのみ11:00登校。佐久間氏に「春夫偏論」わたし、橋本生に「中国の年中行事」かくときき、印押し大学院。三島由紀夫の話す。
(控室で中西博士「あなたと池田氏とだけに」といひ『柿本人麻呂』賜ふ。) 前後塩崎生教へ、その下書もちて帰る。
(成城堂で『国家神道』、『埋もれたシルクロード』買ふ。) 『週刊読売』買ひ、三島の分裂症なりしを記すを見る。
けふ『果樹園』忘れゐしに気づく。(※省略)
12月1日
臨時教授会の前に来る筈なりし中山生来ず。(※省略) 叱れば泣く。神田喜一郎先生に「五雑俎考」包む。
12:00すぎ出て佐伯に寄れば『唐話辞書類集3』と『イエス会通信1』来てあり。研究室に塩崎、中山2生を指導し、下書き預る。
また2人「中国の年中行事」とて来り、ゼミ9人となる。14:00よりの教授会、学長候補選。2度やり高田教授、堀川博士を抑ふ。
ついで専攻の発表あり、文化史は40人、国文は20数名、うと芸術、英文(60+x)、マスコミ(102+x)なり。すみて専攻の会。
次期主任を新城博士と大体きまる。(※省略)
12月2日
寒し。7:00さめ待ちをれば10:30西岡典子生来り「元宵」やらす。「ガンバリきく。恋人は良なりし」と也。
帰りしあと柏井へゆき13日の継男父50年忌を午后にしてくれといふ。(※省略) ついでに母見舞にゆけば大をり、ともに駅まで歩く。
帰れば中山八郎氏より「八大山人の生涯と別号』、「土牛考3篇」と機り、力作なり。(※省略)『健康』より「詩受取」と。(※喪中欠礼 省略)
12月3日
冬over着て8:30家を出る。池辺教授にうしろより声かければ「経済、高垣寅次郎を出しけふ会議」と。
成城堂に寄り『週刊朝日(売切れ)』をたのむ。(※省略) 大藤、野口2氏と話しprint2枚切る。14:00了り阿佐谷着。
古本屋のぞけば漫画読本終刊号あり(60)、大学左翼教授名鑑(150)といふを買ふ。波多野太郎博士ものりをり。(※省略)
山住dr.にゆけば往診中、30分待ち帰り来られしに「躁」と申上げ薬へらさる。
(けさ小高根太郎に電話し、八大山人にまちがひ指摘されをるを云ひしも怕ぢる色なし!)
原田先生、田川、神田、松村、中山八郎の諸氏に「五雑俎考」包む。楊・頼両教授にXmas-card(110×2)。
12月4日
定期3ヶ月買ひ、成城駅で神田信夫氏に会ひ「五雑俎考」わたす。(※省略)「八大山人考」を太郎に送り、
後期試験「付添不必要、noteその他すべて持参可、板書」の届し、中国文学史に「」の狐やり、出席欠席を散々にやっつける。
大学院も散々にやり、ゼミに中山順子泣かして帰り来る。澄より「18:00に乗る」らしき電話。帰途、池田茂都枝と同車。
下北沢の汁粉屋へゆかんといへば「新宿にあり」と案内され、甘くて弱る。Arbeitに教師すと。
けふ成城堂で『百人一首(150)』買ふ。躁にして浪費癖とおしゃべりと出る。
12月5日
晴。7:00起き8:30出て散髪屋、いつもと違ふ所へゆき「30分でしろ、洗髪いらず」といへば550。(※省略)
10:30塩崎生来り、11:00望をつれて依子、澄出てゆく。(望、名古屋ではしづかといひ来し由)。ユ、幼稚園へと泰迎へにゆき、
母へと出てゆきしあと、16:00前となり、塩崎生と地下鉄。虎の門よりホテルオークラへゆき宮本馨太郎教授の長男瑞夫と大川周子との披露宴にゆく。
立教の中川君をり「白鳥清先生の喜寿記念出版につき手塚、白鳥芳郎2氏と相談せよ」と。(※省略)
20:30帰り来れば泰、きげんよし。けふ能勢より「小竹未亡人鹿児島へ帰るらし云々」。(※省略) 夜、箕輪母子をからかふ。
12月6日(日)
晴。9:00起きして礼拝にゆけず、佐伯にゆき、能勢へのハガキ投函せしあと、大学院にと白楽天ちょっと書き、箕輪尚子来るを待つ。
19:30までかかりほぼメドつきし故、泊める筈なりしも帰宅せしむ。(※省略)
渡辺春輔氏より「3男、車にひかれし(5月)」と。早速弔み状かき3,000送ることとす。(※省略)
12月7日
10:00電話して弁当たのみ幼稚園へゆきしユ、帰らざる故、カギかけて出る。
躁はげしく、栗山、山田2氏を驚かし、大学院をふるへ上らし、L2Dを叱りつける。(※省略)
『図像(590)』買ひて帰れば阿部和子電話かけ来り、「来てよろしきや」、「すぐ来い」といへば来て、通産省の堺出身の男と付合ひをると。
(※省略) 滝本生来る。
12月8日
7:00さめ10:00来りし西岡生のsemiやり「元宵」了る。中川生わがまま也と。て昼食して新宿まで同行、13:00前につき躁のやり場に困る。
14:00より2号館の会議室にゆき14:20学長銓衡会。高田教授にほぼきまりしと。(※省略) 委員会となり、文化史専攻の会。
新城博士1月1日より主任教授と。カリキュラム委員には堀博士となる。成城堂にて買ひし戦記集、2冊読みつつ帰宅。(※省略)
12月9日
7:00さめ10:00すぎ中山生来り、15:00まで「太平天国」やりゆく。間に前田共子来り「1月16日16:30大阪ローヤルホテルで結婚披露に出てくれ」と。
うっかり「出る」と返事。弓子来て泊ると。(※省略) 佐伯にて『ハノイの微笑(50)』買ひ来る。(※省略)
夜、ColonよりVasco da GamaまでL1のためnote作る。Magalhaensまでやるつもり也。
12月10日
7:00さめ9:00出てVasco da Gama了りprint切り14:30出てbonusもらふ。261,660+αなり。
東豊書店に寄り『西湖佳話』、『台湾六記』と安い本買ふ内、地図出され4冊(7,200)買ひ、重がり、佐伯にて『康煕大帝(1100)』買ひ、
年賀状440枚とりて帰る。
弓子産気づき入院。泰とジュン子ちゃん見えずとユ、うろうろしをり。叱って三鷹へ物とりにやらせ、泰さがせば裏庭にゐしと蟹江夫人。
20:00河北病院より電話、「男児出生、母子健全」と。ユ、泰つれて見にゆく。小林母上、母、依子に電話す。
山野井生より「あす来る」と。受話器はづしゐし松浦、美紀子出しゆゑ男児誕生をいふ。
12月11日
10:00登校。よべ1:00にさめ、あと寐しや否や不明。中国文学史で中共汉字教へ、すみて昼食。大学院早くすみ、薬草の民俗採集を課す。
semiすぐすまし、家出のわり当すみ、箕輪、塩崎2生と喫茶、帰れば家しまりをり。(※省略) 長尾良君より「母の喪中」と。(※省略)
12月12日
7:00起き10:00来る箕輪生まち10:00すぎ来しを19:30まで相手し、メドつく。
その間、ユ病院、幼稚園、パーマにゆく。善一郎君帰宅し病院を見舞しらし。渡辺春輔氏より「そのうち来る」と。けふ白鳥、栗山2家へ歳暮送らせ、
賀状ア−イ。
12月13日(日)
7:00さめ9:00ごろ出て礼拝委員つとむ。(※省略) 出て吉祥寺の古本店見、荻窪にても同。『おんな』2冊買ひ、『池塘春草』買ひ(1,050)、
柏井へゆけば松田、和田賀代の2女史あり。(※省略) ユ15:00ごろ来りしを機に帰り、佐伯に『池塘春草』と『東洋の歴史9』とかへてもらふ。
17:00中山生来り「先生のことば通りせし云々」「度々説変る」と泣き、手足動かずなりしといふに電話かけて母呼ぶ。
19:30来り、家でも発作ありと。あすより書き直し21日呈出せしむることとす。21:00帰着との電話あり。けふ〒なし。
12月14日
朝から西岡生をよみ、疲れて学校に風邪休講の通知す。
16:00中山生、母と来り「卒論やめた」と。その中やる気となり、母帰し「忠王李秀成」やることとなり1章を直す。
電話教務よりあり「明日臨時教授会に出よ」と。
12月15日
午後、佐伯にゆき『池塘春草』300にてとり返して登校。
14:00はじまりし教授会、16:00まで本論に入らず。妹尾理事長、高田教授の学長任命を拒否せしと。高垣氏を学園長にする為ならんと。
16:00家へ電話し17:30出て中山生に電話して「来い」といひ、帰りて夕食しをれば来る。22:00近くまで書く。
(善一郎君、玄関へ来て「宏一郎」と命名せしと)。
12月16日
不快にてをれば中山生来り、忠王やりをる内、浜口生来り、酒の粕など呉る。(※省略)
鎌田助教授より電話「来週火曜再び臨時教授会。若手の一言居士たち何も云はざりし」と也。小高根太郎よりカンチガヒのハガキ来る。
12月17日
7:00さめ9:00大学へ「風邪にてけふあす休む」と電話し、塩崎生来しゆゑ序文跋文のこといひ、すみて帰りしあと中山生「けふは来られず」
と。
ユ、病院へ往来し16:00(※省略)君と弓子母子来り、祝5万円わたす。(※省略)七夜の赤飯くふ。
12月18日
中山生来ざる故、西岡生来させてすみ、13:00来し中山生すませる。神田先生より「五雑俎」は楽府にありと。(※省略)
けふ賀状みなすむ。佐伯にて『采女(100)』買ひ来る。今井翠来り泰つれゆく。
12月19日
家居。澄、竹内好にゆき転任すすめられしと。
泰、幼稚園の餅つきより帰り、泣き乍らユをつれゆく。ユ阿佐谷駅にて逃げしと語るまでわれ泣きをり。(※理由不詳)
(※省略) 前川佐美雄氏「茅ヶ崎へ転居」と。(※省略)19:00電話かかり「泰、家へ帰りし」と。
12月20日(日)
8:00起き、ユ促してXmas礼拝にゆく。(※省略) 『新潮』探せしも本屋にはまだ出ざるらし。(※省略)
「泰、元気になりし」と電話ありしと也。(※省略) 入浴中、中山順子生より電話「印もらひに来る」と。22:00前来り帰りゆく。
12月21日
9:00家を出、10:00成城堂にて『イスラム帝国の遺産』とり、11:45まで箕輪生の未提出なるにいらいらす。
本戻せしも足らず西岡、中山はすでに呈出せしと本おきあり。帖面と調べれば1冊づつ足らず。
教授会にて妹尾理事長「高田氏以外なら受取る」と。他の候補出さざることとなり、16:00研究室にて卒論分配。
(けふsalaryもらひ14級俸なることわかる。)(中河与一氏に午すぎ成城堂で会ふ。) 帰りて腹たちてならず。(※省略)
12月22日
午后、塩崎生、学校の本以外みな返しすぐ帰りゆく。(※省略) 小林母子来り、宏一郎見てゆく。陳作龍博士、台北へ帰りしとXmasの賀状。(※省略)
12月23日
午睡したり、散髪したり。夜、川久保令嬢来り、正月5日ごろ父子にて太田夫人に会ふと。太田夫人にその旨電話す。
12月24日
阿部和子午前中来り、通産省の某君との話長々とす。野崎その生より「来阪知った。クラス会する云々」と速達。
美紀子2孫をつれて来る。野崎その生へ「クラス会に出られず」と返事。XmasEveにはじめて出しに長島夫妻の外、語る人もなし。
12月25日
雨と雪と降り来る。午后本屋にゆき『香港の水上居民』買ひ来る。森鹿三氏『東洋学研究』来る。(※省略)
12月26日
寒し。ユ珍しく歯痛しと柏井へゆく。我も午后ゆく。けふ筑摩『一茶(※日本詩人選:栗山理一)』来る。(※省略)
新潮『三島由紀夫読本(380)』買ひ来り、よみ了へ不快。
12月27日(日)
ユ礼拝にゆき、われゆかず。午后渡辺春輔氏来り、三男柏の橋ぎはにて轢き殺され、橋ぎはに木標立つと。われ不覚の涙す。
栗山博士へ『一茶』の礼状かく。
12月28日
寒し。5:00ごろ母より電話、「(※義弟河野)岑夫4:40逝去」と。8:00ごろ電話し「われあす葬儀にゆく」といふ。
田中久子母子来りし故、織原氏の嫁の弟の吊書わたし「父上と相談の上返事せよ」といふ。午、帰りしあと歯痛み柏井へゆく。(※省略)
「水田先生亡くなられし」のハガキ後嗣より。(※省略)
12月29日
6:30起き、ユ買ひ呉れし8:20の「光」にのりて大阪。13:00直前にすべり込み写真とらる。西島寿一来をり、骨上げに瓜破葬場でまつ間、
幸夫の婚約者の父吉塚勤治氏と話す。日本評論社員たりしと。4.11挙式に出るといひ、骨上げの後「サラバ・ラバウル」うたふ。
咲耶(※克己妹・喪主)わりあひ元気なり。帰って夕食出され18:00出て西島寿一とナンバで別れ、20:45にのりて23:00東京着。入浴して眠る。
『筑摩書房の三十年』来てをり、酒と金と本の話なり。
12月30日
野上弘夫人より電話、長々と夫と子との間のこといふ。「正月上京の時、同行せよ」といふ。(※省略)
『前嶋信次論集』にと6千円送り、『李U(120)』、『佛遊天竺記考釋(120)』佐伯で買ふ。
12月31日
雨。午后止む。死刑囚より再審要求のハガキ3枚来りしのみ。Dapper写す(p.352)。(※省略)
付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。
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