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蓮田 善明(はすだ ぜんめい、1904年(明治37年)7月28日 - 1945年(昭和20年)8月19日)

 『ウィキペディア(Wikipedia)』


【そのほか参考資料】

【岐阜時代回想】

〇道下淳氏 「蓮田善明の一年」 情報誌『岐阜を考える』1998年冬・春合併号(岐阜県産業経済研究センター)

〇道下淳氏 「岐阜での蓮田善明 岐阜第二中の教師」 (『悠久の旅 郷土史シリーズ』2012/12道下郁子刊)より

 昭和三十五年の秋のことです。勤め先に送られてきた「熊本日日新聞」を読んでいますと、熊本県・植木町の田原坂公園に、蓮田善明の文学碑が完成した――という記事があり、刻まれた次の短歌も紹介されていました。

 ふるさとの駅におりたち眺めたるかの薄紅葉忘らえなくに

 ちょっと啄木的のところがありますが、なかなかいい歌です。この記事を読みながら、私は「ほほう、善明さんも"肥後もっこす“だったか」と思ったことでした。
 前回まで四回にわたり、本紙上に岐阜市の濃飛育児院をめぐるいろんな人たちについて紹介しましたね。あの第一、二回に登場した明治後期の社会主義詩人、松岡荒村も熊本県人(八代市出身)で、その夫人文子(大垣市出身)について当時調べていた矢先だけに、より印象に残ったのです。

 善明は国文学者であり評論家、歌人、詩人であり、また小説も書くというたいそう幅の広い分野で活動した人物です。国分学の業績ひとつ取り上げても、古事記や本居宣長、鴨長明、森鴎外などに関してすばらしい著書があります。が、日本精神の再認識とかその復活を説える方向に進んでいたため、戦後しばらくは埋もれたままになっていました。近年、再評価されはじめ、彼についての研究書も出されるようになりました。

 ことしも”終戦の日“が近づいて来ました。そして、この日が終わると私はいつも善明のことを思うのです。

 彼は二回にわたり応召、中国大陸や南方戦線に出動しています。せわしい陣中から、せっせと論文や短歌などを雑誌に寄せるという筆まめなところがありました。
 終戦直後の昭和二十年八月十九日、善明はマライ・ジョホールバールの駐留地でピストル自殺をします。当時、迫撃砲中隊の中隊長で、四十二歳でした。死に臨んで遺詠を手にしていたそうですが、憲兵が没収、その内容ははっきりしません。
 善明は、教師としても優れた人物でした。それだけに早く亡くなったのは残念でなりません。

 ことしの春先、敏子未亡人から一通の便りが届きました。それには「子供に手を引かれてシンガポールに出かけ、亡夫の故地を訪ねました。亡夫も満足したことでしょう」という意味のことが記されていました。永年の念願がかないよかったですねーと、私もよそながら喜んだことです。

                   ★

 昭和二年に広島高師を卒業した善明は、一時軍籍(一年志願兵)にあり、翌三年四月、創設されたばかりの岐阜県立岐阜第二中学校(現加納高)に赴任してきました。
 国語、漢文、作文を受け持ち、また一年B組の担任として活躍します。なにしろ生まれたての学校で、生徒は一年生ばかり百五十人。教師は河上和一校長をはじめ十人でした。そんなわけで一人で何役もの仕事を持たねばならず、善明も時には歴史や地理、体操を教えたこともあったようです。

 校舎は当時、工費二十二万円で建築中でした。その間、加納小学校に間借りをして勉強しました。だから善明にとり岐阜二中時代の思い出のすべては、加納小の臨時校舎でのできごとでした。
 教え子たちの話によると、善明は映画俳優の長谷川一夫と作家の太宰治をプラスして二で割ったような優男で、芝居の女形にしたほうがよいと、評判だったそうです。それにもの静かなタイプでしたが、熱が入ると黒板いっぱいに乱雑な字を書き、情熱的な授業をしたということです。
 なにより型どおりの教育をきらい、いつもユニークな方法で生徒を引き付けたといいます。桃太郎のむかし話を漢訳して教えた――とか、教育勅語を白文で出題、それに句読点や反り点を記入させるテストをした話が残っています。彼のざん新な教育ぶりが目に浮かぶような話題です。

 昭和4年3月、善明は岐阜二中から長野県立諏訪中(現諏訪清陵高)へ転任しました。先輩が校長をしており、ぜひ――にと、引っぱったためでした。
 この年発行された岐阜二中の「校友会誌二号」に、生徒たちによる善明寸描といったような記事がのっています。

「蓮田先生はニコニコ・頭の毛ムシャムシャ(−)作文の好きな(酒井)中々美男子(森岐正)消えるやうに行かれた(浅野竜)残念(−)」

 たったこれだけの短い文章ですが、生徒たちが善明をどのように受け止めていたかがよくわかります。
 以下は、私が聞いた教え子たちの話です。

「蓮田先生は生徒間の人気者だった。たった一年間だったが、今考えると、実に多くのものを教えていただいた。私にとって忘れることができないのは、私が大人のまねをして難しい文章で作文を書いた。すると先生は、ありのままを自分の文章で書きなさいと、優しく注意されたことです。(山田叡一さん)」
「自分の姉さんかと思うほど女性的で優しかった。いつも目を細めて話されたので親しみがわいた。知多半島の内海で臨海学校があった時、先生も参加された。その食事時、私たちのご飯をせっせと盛って下さった。そのきしゃな手が印象的でした。(片山武夫さん)」

 善明が岐阜二中を去る前月、「校友会誌一号」が発行されています。彼はその「編集後記」に、次のように記しました。これが生徒に対する別れの言葉となりました。

「人間らしい不平を持て。我々が人生に対して真剣な不平を抱くことを忘れた時程みじめなことはない。(中略)真実な不平のある所に火花もある。涙も湧く。力の充実した仕事も生れる。仕事のある所に無上の歓びもある。」

                   ★

 三年ほど前になりますか、敏子未亡人から「岐阜での新婚生活はわずか二カ月余り。私の母が病気になり看病人がないので別居しなければなりませんでした」という話を聞きました。
 善明が結婚したのは岐阜二中時代の昭和三年六月、それから当分別居生活が続きました。その間、彼はせっせと新妻のもとに手紙を書いています。

p1

 朝!朝は八手の葉のやうに健康です
 冷水マサツと体操で赤らんだ顔が
 小鏡の中でかがやく!
 爽かに張りきった日と艶ついた唇が
 あなたを呼ぶ!
 青い、匂ふやうな七月の朝!

 この詩も、新妻への手紙に記されていました。
 善明は、西加納の鷲見という家の二階に下宿していました。一体、どのあたりだろうかと、この地区のことに詳しい鳥沢鈴一さんに協力を求めて探しましたがわかりません。戦災や区画整理で街の表情も住民も変わってしまったのですからむりはありません。
 敏子未亡人の記憶によると、近くに銭湯があったこと。鷲見家には、五郎、敏子の二人の小学生がいたことくらいで、手がかりがつかめませんでした。
 が、幸いなことには鳥沢さんは一時期岐阜二中で教べんをとっており、善明のうわさを聞いたことがあったそうです。その時記憶などから今の岐阜市加鉄砲町三丁目付近と、見当をつけて下さいました。小瀬岐薬大教授の家の五、六軒北向いあたりです。
 善明夫妻は鷲見家の二階で新婚生活をしたようにもいわれておりますが、敏子未亡人によると一軒借りて世帯を持ったとのことです。
 そういえば、善明の手紙の中に、二軒並びの家が十五日(八月)までに建つことになっている。そこを借りる。隣りは体操のK氏が入る――などと記しています。
 そして二人が生活を始めるのは八月十七日からですので、おそらく建てたばかりの新居に入ったとみてよいでしょう。なお、手紙のK氏とは、岐阜二中の体操教師川上浩氏でしょう。

 敏子未亡人によれば、岐阜での2カ月余りは、実に楽しい生活だったということです。一緒に柳ケ瀬へ活動写真(映画)を見に行ったり、鵜飼見物、日本ライン下りなども試み、充実した毎日だったといいます。
 再び別居生活を迎えるわけですが、善明は新居を明け渡し、再び鷲見家の二階に戻ったようにも思われます。
 とにかく優しい心根の人だっただけに、新妻との別居生活は、とても辛かったことでしょう。岐阜での彼の妻を恋うる歌が残されています。

 人言(ひとこと)は夏野の草の繁くとも妹と吾とし携はり寝ば
 この頃の恋の繁けく夏草の苅りはらへども生ひしく如し

                                     (参考文献、小高根二郎著『蓮田善明とその死』)


【詩篇】

 〇 靜寂の中で  「日本詩人」六月号新詩人号(第四巻第六号)大正十三年六月一日発行

p2

秋、十一月の晴れた午後
私は廣い練兵場の一隅に
松山の寂しい麓に
クローバや野菊に埋もれた
一節の長い、空っぽな塹壕を見つけた
中は疎雜に石を積み
板屋根も腐れた
掘り返された墓場のやうな、
くづれゆく歴史を物語るやうな
それは悲しい戰跡──
しかし、今秋の午後
廣い練兵場には人かげもなくしづかだ

私はそこの空氣にさそはれ
ほの暗いその穴の中へ忍び込みよみかけの聖典をひもどく
ま白な頁(ページ)がほのかに私のひとみにかがやき
靜寂な靈は文字に沁みるやうである、

日光が落ちこんでゐる
雜草の空隙から
うすい銀のやうに光る空が
くっきりと澄み、
生温い風がだまって額を撫でて行く
山の熊笹を分けて吹く風のさざめきの、幅廣いリズムの中に時々するどく叫ぶ小鳥の聲や
または私の頭の後ろで
死滅近い生命を尚歌ひあかぬこほろぎの聲が
凍るやうな寂の中に波うつ

私はまた果遠くひろがる草原を、
そこにさまよふ風を日光を
この穴の中に瞑目して、胸の中に描く。
私は地中にひそんでゐる地の神のやうに
暗い沈默の靈の上に、白い風景をかんじるのだ。

 〇 草(田中克己氏へ)  『蓮田善明全集』「陣中詩集」625p

出征の日に、あなたの詩は
遠征の彼方から私を呼んだ。
わたしはあなたの詩集を何処に置かうかと携へて来ただけである。

わたしは探検家が、その太古、秘匿されたる宝を、
あやしい絵図そこに開きて索すやうに
あなたの詩集を戦のにはで繙く。

ここでわたしはただ石を見た。
岩の上には、唯、草が風に吹かれてゐた。
わたしはその処々で草を摘み、あなたの詩集にそっと挿んだ。

晏家大山にて、コギト5月号の後記をみて

 〇 押し花  『蓮田善明全集』「陣中詩集」624p

友の美しい詩集に、わたしは
時々、所々で摘みとった草や花を挿んだ。
(ああ、こんな時、こんな所に!)

日経て、詩集を開く時、それら草花
其の儘に押し花となりて、ひつたりと
やさしい姿を、眠ったま残してゐた。

もはやあのやはらかさは無く涸れて、
悲しい一つの形になり果ててはゐたが、
残し得た花の、草の見事さ。

その一つの花を、わたしは或る日見めでて
やぶれぬやうにそっと指もて剝がしてみたるに
葉の裏にも匿れて、又、花がしっかりと着いてゐた。

青興鎮にて


【断章】

  詩のための雑感  『鴎外の方法』所載 『蓮田善明全集』47-50p

〇精神とは心とか心情とか、思想とか知識とか哲学とかとは異ふ。信仰に似たものだ。
唯私は宗教的信仰を精神と言はない。私は詩を言ふ。
詩を精神といふことは日本の文化の独自である。
さういふことは日本を言ふに最もふさはしく思はれる。

〇精神を証明しようと思はない。説明しようと思はない。
証明できないのでもなく説明できないのでもない。
証明しようとしたり説明しようとしたりするものには、証明できないし、説明できないだけである。
もし敢て述べんとなら精神はその消息を語ればよい。
勿論詩人は、花といひ、月といって、花をさし、月をさす、その言葉それだけで詩を成すのである。
詩人は敢てモラルを言はない。小説は花や月や言葉の代りにモラルを言ふのである。ここに皮膜の差がある。

〇日本は小説の国ではない。詩歌の国である。
小説に月や花が入り易い。これは両者の混惑を招くのみならず夫々堕落に陥る。
月花を言へば詩と心得、又小説が風流めく。詩が安っぽく作られ、小説が大成しない。
小説の世界を区劃して之を守らうとしたのは鴎外であったやうに思ふ。
「青年」をみよ。小説は日本人には肌寒い。それ故鴎外は何かつめたく手硬い。
漱石は小説に小説を見ず、日本の風流を見た故、人気は得易かったが黴くさい。
しかし鴎外は日本人なるが故に小説をあんな手硬くしてしまってゐるのであって、西洋人ならあんなに手硬くしてしまったりはしない。
ところが西洋人の小説の身なりの身についたやうすを簡単に見やう見なれて、巧みにスマートに小説いめて書くのが日本小説家の群である。これは成功した傾向ではない。

〇まだ「小説」の探究が足りない。モラル探究が足りない。
「詩」に精神を知らざる輩多し。花を歌ふにあらず、花と言へばよいことを厳しく覚らざる輩多し。

〇精神とは厳粛そのものである。そのために既にモラルを破却して君臨せなければならぬ。況や肉体をや。これを日本人は戦争に於ても実行した。
戦争は唯人を殺し合ふのではない。我を殺す道であった。
文学は人を唯頽廃せしめるのではない。「死ね」と我に命ずるものあり。この苛酷なる声に大いなるものの意志が我に生き及ぶのである。
戦争とか死とかに関する此の年頃の安物の思想で愚痴るなかれ。この「死ね」の声きく彼方こそ詩である。
我々は戦争に於て勝利は常に信じきってゐる。そんなことを気づかって攻撃しない。我々は己の死すべき(決して生物的な生命を惜しみ愛するのではない)場処をひたすら想ふのである。
弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。
此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である。究極の冷厳、自然そのもの。併し生命を踏み超えて凍った精神である。
 日本武尊、御父天皇の「死ね」との御命にて御遠征の帰途、疲ひ労るれ給ひて死に臨み、御歌よみし給ひて
  倭は 国のまぼろぼ たたなづく 青垣山 隠れる 倭し美し

  はしけやし 吾家の方よ 雲居立ち来も

〇死の彼方に永遠の勝利を立て、勝利の時に死を想ひ死を希求するは、大和びとの家訓である。

〇鴎外は「阿部一族」に斯かる家訓を小説として描いた。
あのやうな世界をも小説として描くことは異常である。それを異常としないのは日本人の異常である。
あれは、鴎外が、「小説」を厳しく踏み越えまいとしながら、却って、「詩」に踏み込んしまった妄執のやうな小説である。
鴎外は「詩」に執り憑かれながら、「詩」を厭うて「小説」を書いた。それ故鴎外外の、小説に作り出でたモラルは、余りに絶望的であった。そのきびしい絶望にわれわれは打たれるのである。
真に小説を西欧人の如くに書くことは今日尚困難である。

〇併し西欧の小説の如く小説を書くことの困難よりも、われわれにとっては、寧ろ、異常な小説こそ課題であらう。
異常な小説を書かないで、安易な詩を混じた小説を書いたり、模倣小説を書いたり、その何れも日本の小説の堕落である。
前者の私小説、後者のすべて表現を事とせる。
鴎外は異常な小説を「自己弁護」と言った。

〇詩は厳密には建設や希求ですらない。命令である。小くとも命令を絶対主義とする。
命ぜられて、その命令の息吹きを受けてその身凍る時、透谷の所謂万物の声を発する。
詩は運命的である。詩人は何人よをりも詩人自ら詩人として運命づけられてあるかの如く感ずる。
故に詩人は為るものでなく生れるものであると言はれる。詩人は悲劇的である。

〇詩とは英雄のわざである。英雄とは近代小学校に於て説く力と政治の人ではない。
不快な俗物的慾望とその実行力の旺盛な人物のことではない。
日本人は本質的に英雄である。一兵が絶対なるものの命令に信従し献身する(「犠牲」などではない)決意に立った時彼らは一人一人英雄となってゆく。そしてその面に詩を書き始める。
彼らは自分がかかる世界から降臨したことを感じ易々ときっぱりとそれに帰って行く。
協同体的な軍隊組織として命令が守られるのではない。命令は既に「死ね」との道である。
死ねと命ずるものは又己を「花」たらしめるものである。
唯一片の花たれ――何たる厳粛ぞ。何たる詩ぞ。

○我々は「詩と真実」と言はない。「詩」とのみ言ふ。
この「真実」層を学び知ったところから日本に小説が始まった。
「真実」とは、「詩」への敵愾である。鴎外は「青年」の中でそれを「敵」と呼んでゐる。
敵愾の此方に「人性」が渦巻く。哲学、思想が慂き起る。
しかし小説が人性の舞台なるが故に、人は実感を味はひ、同情し、力強さを覚え悩み、歓び、これを文学の興奮とする。
自然主義が最初の最大の魅力となった所以である。
言へば今日迄の小説らしき小説何れか自然主義と相通ぜざるなからんや。

〇山上憶良はわれらが古典の日に既に小説家の目をもった最初の人である。
彼が公宴の席に
 憶良らは今は罷らむ子泣くらむその子の母も吾を待つらむぞ
と訣別して帰る時、彼はまことに私情のモラルを立てたのである。
彼はそれ故最初に道徳を歌ひ衣食生活を歌った。彼の汚らしい「貧窮問答歌」をはじめ人性の歌が近代小説を愛する徒に愛重される所以である。
彼遣唐小録として渡唐し、儒仏老の知性を深刻豊富に学び得た。

〇斯かる小説人の生れる時、人麿は挽歌を歌ひ、青春大津皇子壮烈に死したり。
その死の墓標から志貴皇子の新風生れ、赤人の精神を興し古今新古今への伝統をなす。

〇あやまって詩形を以て小説の骨格を語りたる憶良、あやまって散文形を以て詩を言はうとした漱石。
純粋に詩を護らうとした志貴皇子、赤人乃至西行芭蕉、純粋に小説を設計しようとした鴎外、西鶴。

〇詩は必ずしも言葉なくてよし。
足下の花、天空の雲、而して又一片の言葉。神のものなればすでに完璧にして、荘厳せられたり。
言葉なくして些かも欠除なし、東洋特に日本は此の沈黙の詩を知る。
黙すべく強ひらるるはわが国の道なり。かるが故に詩の国と言ひて一毫のあやまちなし。
言葉なくして文学なしとし、言葉を量り言葉をつくすは近代西欧の文芸学の類。
われらが沈黙は、かかる言葉の節約や不足や欠陥ではない。
全くなる世界の言葉の与り知らざる黄金の沈黙である。花なる沈黙である。
 何の木の花とは知らず匂ひかな 芭蕉

〇然らば、詩と小説、この両者を綜合する「文学」とは如何。
答、詩もし文学ならば小説は文学でなく、小説もし文学ならば詩は文学に非ず。――かかるものこそはじめて文学と私は言はう。
――斯かる表明は、学者的説明でない。評論家的表明である。評論家の表明は矛盾に満ち満ちてゐる。彼は意識してさ迷ふ賢者である。
――学者は調書のみ作ってゐる。そして文学に関係なき役所に報告してゐる。
併し彼らの文章では文学は些かも説明されも、証明されもしてゐない。
彼らは或は擬古文の書ける、或は擬古文の歌の作れる連中である。
そのくせ大抵言文一致体を無条件に認め讚美さへしてゐる。
彼らは真の文学体を知らない。健康なる常識者なのである。

〇「科学精神」と言ふ言葉が世上往々用ゐられてゐる。
併し一般往々「科学」を漠然と考へてゐる知識人の概念の程度では「科学精神」とは安物の造語にすぎぬ。
一寸考へてみてみるがいい。「科学」と「精神」と。
彼らは科学するものの心的態度の如きものを言ってゐる。
思ひきって個人的主観的なものを圧しつぶした昭々明々たる心がけ――実験と帰納と客観的法則とに忠実なる。そしてその態度をできるかぎり政治家や道徳家やそして文芸家にまで要求しようとする。
ところが科学根本理論は今日寧ろその中から主観性を吹き湧かして来てゐるのだ。
そしてその新しい見地に於ける科学が「科学精神」と云ふ時、それは既成の科学概念を他に強ひようとするのでなく、却って科学自らの変革を表明してゐるのである。
「科学精神」と言はなければ科学が立ち行かなくなったのである。
もはや既成の科学主義者の言ふ科学などは、彼らが口に言ふだけで、実際は空家になってゐるのである。

〇精神とは心理や心情ではない。詩は又心情や感情を歌ふのが詩ではない。
もうずゐ分長いこと、文芸とは感情の表情であるとか、詩は感情的で小説は実証的だとかといふ妙な登録カードを作ってゐる人々がある。
作家自ら言ひ、評論家言ひ、況んや学者之に倣って都合よき整理箱を作ってゐる。
精神とは経験を殺戮したところに見える。それは言文一致や擬古文では語れない。文学体を以てのみ語られる。
汝が汝の座に動かずして分るやうに詩の在りかを見せよ、然らざれば我はさやうなものを信ぜず、恐らく勝手なウハ言なり、と言ふも、汝に示すこと能はず。
世にかかる虫のいい連中が多く、又さぅいふ虫のいい註文にも応じ得るかどうかを注意深く監視してゐる見物人が多い。

〇詩は英雄のわざなり。

〇詩人は常住の上に座す。故に預言す。
預言は言文一致体を以て語られず、又恣戯的なる擬古体を以て語られず。
言葉からも抽象された言葉で語られる。心からも抽象された心を以て想ひみられる。
それは峻烈かぎりなき言葉なり。皮肉骨を剝却したる言葉なり。
沈黙より出づる言葉なり。真に高邁卓絶なる言葉なり。

〇詩は預言なり。原始の言葉なるが故にそれは預言なり。簡切にして完絶せり。

〇詩は生活ではない。いかなる高き意味の生活でもない。それほど高い場所を占めてゐる。月花の世界である。


【読書メモ】

『蓮田善明 戦争と文学』井口時男著(2019.1論創社) 読書メモ 2019.4.19-4.29

蓮田善明の文学そのものが禁忌なのであって、その名はたんに無視され忘却されているのではなく今も触穢のごとく忌避されているのではないか。禁忌は、あらゆる欲望を解放したあげくに過飽和から解体期に入ったかとさえ思われる今日の市民社会において依然として「解禁」されていないのではないか。15p

軍隊は知識青年が民衆の中にたたきこまれるほぼ唯一の機会だった。(略)逃げ場もなく、二十四時間生活を共にせざるを得ない同輩として、無知で粗暴で忍耐強くて善良で素朴で野卑で狡猾でおとなしい、矛盾に満ちたまるごとの民衆というものに出会うのだ。29p

少尉として応召した蓮田善明はさいわいにしてそのような陰惨な民衆体験を免れることができた。だが、それは、この「ますらをぶりの文人」が、ついにまるごとの民衆と出会う唯一の機会を失したということでもあるだろう。30p

確認しておきたいのは、これが、学校の教壇にあったとき生徒一人一人の素質に応じて指導すべく一斉指導を排し、(中略) 生徒対教師でなく生徒対生徒の相互援助による教育を実践してきた教育者蓮田善明の、教育方法における決定的な態度変更、教育思想における最終的な転向だったということだ。52p

この切迫感、偏狭なまでのこの息苦しさこそが後期蓮田善明なのだ、というしかない。だが、この息苦しさの中では、彼自身の愛すべき小品たちのみならず、あらゆる具体の詩は死ぬしかあるまい、という痛ましくも無残な思いさえする。61p

蓮田の文章にはこうした吐き捨てるような激語罵倒語が折々あらわれる。(中略)この烈しい罵倒はそのまま過去の自分への罵倒でもあったはずなのだ。64p
その徹底した自己切断を蓮田の剛直な強さと見る向きもあるが、しかし、過去を秘匿せざるを得ないのは文学者としての連田の弱さだと私は見る。65p

蓮田の思う詩というものが、リアリズムの突きつける「真実」を、とりわけ戦場の「真実」を、また皇軍の「真実」を見て見ぬふりをすることでしか成り立たないものであるなら、そんな詩は守る価値もない脆弱な感傷にすぎまい。まして詩が「真実」の露呈におびえるのならそんな詩は言論統制を布く権力と同調するだけだ。
詩は「真実」を否認したり「真実」から逃避したりするものであってはならず、「真実」を見据えつつ、「彼方」からの未知の光源によって、あるいは自ら未知の光源と化して、地上の「真実」をまった新しく照射するものでなければならないはずだ。120-121p

隔てられていてこそ独りの抒情が高まり詩神は燃えるというその家持のロマン派的な心情において、真の憧憬の対象は「天皇(大君)」にほかなるまい。そのときこの古代の孤立したロマン派の心情は、たちまち二・二六事件の将校たちの天皇への「恋闕」の心情にも通うのではないか。85p

イロニーを知らない剛直の人だった蓮田は、かすかに萌す懐疑には眼をつむって肯定の一面だけを終局にまで展開し、あげく、ふと我に返って反省するしかない。147p

蓮田善明も三島由紀夫も、現世の彼方に憧憬する志向においてまぎれもないロマン主義者であった。しかし彼らは、その文章意識において古典主義者でもあった。三島は主情を抑える文章において、蓮田は、主知的というより統制と呼ぶほうがふさわしかろう意志的な姿勢においてそうだった。156p(少略)

「輝くこの日光の中に忍びこんでゐる/音なき空虚を/歴然と見わくる目」
は、戦争理念が隠蔽する偽善や欺瞞を摘発し告発する批判的視点「自然主義」に該当するだろう。彼らは広義のリアリズムを「自然主義」と呼んで嫌った。蓮田が「真実とは詩への敵愾である」と書くときの「真実」である。169p(少略)

蓮田には「即物主義」の精神が欠けていたし、「はにかみ勝な譬喩的精神」などという繊細にして自在な表現ほど蓮田の文体から遠いものもなかった。172p

蓮田は知行合一の人でありイロニーなどという自己を二重化する偽装の技術とも無縁の人であって、詩的趣味だけを無風の保護区としてこっそり温存するなどという芸当はないのだ。172p

「かつて、信州で自分は自主の一極点に立った。そしてその自意識の中に狭いものを見た。世界を見ないで思ひ上った自主を。そのために最も軽蔑した自分は平坦地に下りたくなった。世界へ出たくなった。自己滅却を意識した。広島(※広島文理科大学国語国文学科)に三年を甘んじた。しかしこれはいけなかった。広島はその環境も学園も空疎(※俗世間)だ。己を没すべき世界的なものはどこにもない。自分の魂は余り忠実にそこで自壊した。学問しに行って、学問の精神も何もかも失った。たうとう台湾にまで自分を追ひやった!広島の罪だ。成城にも広島の空気が濃い。」184p

信州(※の教員生活)では自己への集中において衆人を見下ろす倨傲な高みにまで上ったが、その代償として世界を喪失した、それゆえ広島(※での学び直し生活)では「平坦地」に下りて世人に交わり「自己滅却」に努めたが、そのため自己を失ってしまったと蓮田は述懐する。185p

p4

(※台湾での再度の教員生活からの)上京は流謫からの英雄の帰還に見立てられよう。辺境での仮死と再生を経て中央に帰還する英雄として、彼は今度こそ、自己集中の高みと世界の広がりとを共に獲得せんと決意するのだ。187p

「天オ」を自任する蓮田にとって、軍隊もまた俗人たちが横行する「平坦地」にすぎなかったのである。かつて自意識の孤高の高みから下山した彼は世人にまじって「自己滅却」に努めた。しかしいま、彼はもうそういう自己喪失に至る自己卑下を自分に拒む。自分は「天才」であり、孤立したこの「天才」の方こそが真の「公共」につながり「日本の理想」につながり、つまりは日本の「神=天皇」につながっている、という確信を獲得したからである。唾棄すべきは軍隊内にも横行する俗人どもであり、自分は「天才」の自主を貫けばよいのだ。その日本の「神=天皇」はいずれ自分に「死ね」と命じるだろう。死は究極の「無私」であり「自己滅却」である。189p

(※『鴎外の方法』)近代的な自由主義史観に立つ論文が断固たる決意表明と並んで一冊に収録。蓮田は、客観的研究者の立場から「死=詩」に向けての主体的実践者の立場へと、近代史観を捨て学術用語を捨て、文体を変えて一挙に跳躍した。応召が蓮田の決定的な「転向」だったことがよくわかる1冊だ。197p

「自己弁護」たる小説にとっての「敵」とはなにか。「此の敵」は詩である。詩に対する自己弁護が小説である。」202p
小説はあくまで此岸にとどまって人間の「生き方」を探究し、詩は「生の彼方」「死の彼方」の遠へと憧れるのだ。両者の違いは「皮膜の差」にすぎない。207p

「風流」が支配する世界では詩と小説は敵対できないまま中途半端に野合して両方とも「堕落」する。209p
蓮田流にいえば「物語」は詩と小説の対立を、というより、日本における詩と小説とのあいまいな野合状態を、止揚するための唯一の形式なのである。211p

「もうこんなに、どこまで戦っても死体を打すてて恐らくは誰が戦死したかもそのままになってしまふであらうやうな戦争はやめるといふことが正しいーこんな正しさこそ誰一人動かすことの出来ぬ人道ではあるまいか。」(略)
蓮田善明の「公」と「私」とはひそかな分裂を孕む。213p

そして、蓮田は小説を書き始める。『有心』と題されたその小説は、「今ものがたり」と副題されているにもかかわらず、しかし、けっして「物語」ではなく、作者とほぼ等身大の戦地帰りの人物が帰還後の日常を精細に語るリアリズムの「小説」だった。214p

蓮田は、最初に日本における近代小説の不可能という苦い認識から語り出さなければならなかった。近代小説の不可能とは、とりもなおさず日本における近代の不可能ということである。この敗北の自覚にも似た認識の苦さは、蓮田にあって保田にない。220p

アカデミズムの中で制度化してしまった(略)「国文学」批判が「文藝文化」創刊の主要動機だったといってよい。だから彼らは「論文」形式でなく、敢えて自己投入した批評的スタイルで書き始めた。(略)
池田勉、清水文雄、栗山理一の三人はまだ学究的だったが、蓮田はひとり先頭を走った。223p

歩く男の自己分裂にまで至る異常感覚の原因は、いうまでもなく、帰還兵の身心に刻まれた戦場体験と銃後の日常との齟齬である。227p
小説読者がこういう記述に出会うのは戦後になってから。(略 『有心』に於いて)蓮田善明がそれを書いていたのである。228p

『有心』は、国策文学や従軍ルポが氾濫する昭和十六年の作品として異色であり、孤立していた。すなわち「小説として非常に孤独な」姿をしていた。そして、ひとり山の温泉宿の昼も薄暗い一間でこれを書いていた蓮田善明の姿もまた、ひどく「孤独」なのである。229p

そもそも戦地帰りの彼は、戦場が冷え切った死地だったから日常に馴染めなかったのでなく、死地において真の充溢を味わったからこそぬるい日常に馴染めなかったのである。つまり、死地としての戦場は、彼にとって「冷たい」極みであることにおいて生の充溢した「熱い」極みでもあったのだ。263p

帰還後の蓮田は大東亜戦争開戦後の時流にも乗って多くの「啓蒙的」古典論やエッセイを公表するが大半は戦時下の「公定思想」の域を出ない。一方、一人称による心理小説的形式で書かれた小説『有心』には、統制される以前の声の多様な揺らぎが記されている。(略)「私的な」声が聞こえてくる。267p

幸か不幸か時勢がようやく彼らに追いつき始めたかに見えるこの時期、追いついてきたのは便乗的ばかりである。倫理的厳格主義者である蓮田にはその姑息な便乗主義こそが我慢ならない。
(少略)こうして蓮田の言説はますます過激化、ますます急進化する。286p

蓮田は宣長の国粋主義的側面にのみ焦点を当てて『本居宣長』を書いた。だが文字どおりの国難迫る今、国粋主義的であると同時に現実妥協的でもある宣長の泰然たる二枚腰三枚腰が蓮田にはもはや堪え難かったのである。「本居宣長よりも賀茂真淵」は、蓮田の切迫した危機意識が記させた一行だった。296p

(※蓮田善明は、やはり古今集より万葉集に親和性の高い「詩人」なのであり、資質に反してバイアスをかけたのは、日本武尊の非情な戦法と運命を称揚した保田與重郎の文章力ではなかったか。保田氏本来の資質「たおやめぶり」への無理な寄り添ひが、論文上で屡々“疑晶”を呈してはゐなかったかと考へさせられます。
また、「蓮田善明は堕ちた天皇の象徴(代理者)としての連隊長を殺し、313p」「その自決において最終的に抗命の罪を詫び、昭和天皇の「政治」に服したことになるのかもしれない。314p」と読み解かれる終章は、本日昭和の日に読了した本にして、なかなかに書き写すこと深刻な要旨です。
しかも品性下劣を疑はれる上司の元で、その教唆も与っての蹶起であったとして、連隊長の出自については、やはり誤解したまま凶行に及んだのであらうことが、悲しくてなりません。
以上、長々と抜書きしました。松本健一著『蓮田善明日本伝説』とともに一読をお勧めします。2019.4.29


【読書メモ】

『三島由紀夫は一〇代をどう生きたか』 西法太郎著(2018.11文学通信) 読書メモ 2019.5.15

 私は三島由紀夫の小説を読んでをらず、(正確に云ふと若い頃『仮面の告白』を嫌悪感で途中挫折してより、敬服すべき文化論のみにて敬遠)、三島研究書として感想を述べられる身分ではありませんが、この度の新刊は、彼の出発期(所謂詩人時代)にあって影響を受けた師友たちを、三島視線で解説した一冊であって、師友らのうち、特段の影響を蒙った蓮田善明については、半分近い頁が割かれてゐます。そして堀辰雄の文学圏に属してゐた先輩の夭折作家、東文彦との交流の先に、彼の祖父石光真清との「邂逅」を見、その故郷で起きた熊本の神風連の物語が冒頭に置かれてゐるのですが、神風連との「結縁」を語るその序章は、他の「屈折――保田與重郎」「黙契――蓮田善明」の章のそれぞれにも影響を与へてゐるといふ格好になってゐます。

 著者自身の持論は控えめに、これまであまた語られてきた批評家達の考察にすべて目を通し、咀嚼された上で述べられてをり、これらの評伝を重要な批評家の指摘を総巡りしながら辿ってゐます。三島由紀夫に関しても、今だに新事実(「花ざかりの森」原稿発見等)が発掘されてゐる現状について驚きましたが、保田與重郎論を上した若き日の大岡信の評論を、すでに有名作家であった三島由紀夫が読み、激賞して出版社気付で激励の手紙を送ってゐたことなども、知りませんでした。

 また持論は控えめと言ひましたが、
「蓮田は終戦の四日後に自決した。私はむしろ玉音放送への抗議の諫死だったと解す。240p。」
 との核心が語られる部分は、松本健一氏の著書『蓮田善明 日本伝説』により“蓮田に射殺された連隊長”の出自が明らかにされた以降の考察として、さきの井口氏の著書の論旨とも軌を一にしてをり、三島が蓮田に対して持った、
 「文化がただ『見られる』ものではなくて『見る』者として見返してくるという認識」
 といふのは、「文化」を「古典」に読み替へれば、まさに『文藝文化』同人の、国文学界に対する問題意識にも当て嵌まることを思ったのでした。

 そして「三島と蓮田が日本武尊の思国歌を取りあげたこの同時性について、小高根二郎は、「運命的な黙契というよりほかに言葉がない」と言っている。245-246p」
と紹介してゐますが、私には井口氏の著書を読んだ時にも感じたやうに、蓮田善明・三島由紀夫の二人が、保田與重郎が日本浪曼派気質の詩人達になしたもっとも“罪”な、つまり昂然たる魅力に富んだ「戴冠詩人の御一人者」に等しくかぶれてしまってゐる証拠ではなかったか、と思ってゐます。

 一番に心に響いた彼等らしい一言のそれぞれを再引して、読後感に代へます。

「百人一首だけでもええ、素直に古典を読む態度と、自分の生活の周辺を見つめる心、吹く風や、色づく木の葉に感動する本当の庶民の心があれば、日本の一番純粋なもんがわかる。159p (保田與重郎)。

「日本人は死に臨んで太古より現代まで、雲を見ていることが多いというのが私の知っているところである。日本は機械を取らざれば、彼らの餌食にさえなるであろう。ただ我も機械を用いて撃ち返せばいいと言うことではすまない。261p(蓮田善明)」

「雷が遠いとき、窓を射る稲妻の光と、雷鳴との間には、思わぬ永い時間がある。私の場合には二十年があった。そして在世時代の蓮田氏は、私には何やら目をつぶす紫の閃光として現れて消え、二十数年後に、本著のみちびきによって、はじめて手ごたえのある、腹に響くなつかしい雷鳴が野の豊饒を約束しつつ、響いて来たのであった。328p(三島由紀夫)」

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