「日記」 第十一巻 その3(「夜光雲」改題)

昭和12年2月22日 〜 昭和12年12月21日


昭和十二年

  二月二十二日 塚口三郎博士逝去の由。

   塚口克己の思ひ出
かつて海辺の小学校で
「克己同志だね」といつた友だちは
その後肺を病んで死んだ──
俺はある日彼に再会しようと思つた
医科大学の標本室に彼を訪ねると
彼はその骸骨の顎骨を開いて
奥まつた眼窩に微笑を浮かべてゐたが
骨々の継目からは
少し錆の来た銀色の針金が見えた
父博士は「私もいつかここに骨を並べます」
といひ 老人の笑いを浮かべた口もとが
ほんとによく似てゐられるので悲しくなつた

  三月十九日 及落会議。

陰山(一ニ大青山ト云フ)ノ北麓
百靈廟又ハ四子部落ノ辺リニ
(事件ノ性質上今ハ詳[つまびらか]ニスルヲ得ナイ)
彼ノ率ヰテヰタ蒙古兵ノ一部隊ハ
突如トシテ兵変ヲ起シタ
(尤モ蒙古人将校ハ既ニ三四日前ヨリ逃亡シ畢リ
 紅イ傳單ヲ見受ケタ事モ一再デハナカツタガ)
彼ハ兵営カラ数町ノ
砂地ノ上ニ立タサレ
目カクシヲサレテ銃殺サレタ
ソノ後 彼ノ制服ト軍帽トハ
彼ノ従卒ノ有ニ帰シ
彼ノ肉ト骨トハ
蒙古犬ドモガ食ヒ盡シ
彼ノ日来愛読シタ松陰全集ノミガ      ※
砂漠ノ間ニ残ツテヰタト云フ
  ×
一日春風吹き盡くして
夜 厠に立てば砂塵縁を埋めたり
わがこの家に住むも一年に近く
蝸牛の居中 黴埃堆く[うずたかく]なりたり
如かじ一巻の書を携へて
松岳梅林の間に逍遥せんには

  六月十四日
   支那の皇帝曰く
萬物の中央に
天子 朕(われ)住まひたり
朕が妃 朕が樹木
朕が畜 朕が泉水を
第一の城壁囲みたり
そが下にわが祖宗眠れり
王者に相應しく
自が剱佩[は]き
自が冠を頭に戴きて
彼等墓窖の棺の中に住めり
地の深奥に至るまで
朕の玉歩は鳴り響かす
朕の玉座 朕の緑の足台より黙して
等分されたる流れ
東西南北へ
廣大なる地 朕が園を潅(うるほ)さんと流れ行く
ここに朕が畜の
黒き眼 色様々の翼 影映し
外にては様々の都邑
灰色の城壁 密林
数夛の國民の面映れり
綺羅星の如き朕が貴族輩は
朕が囲りに住みて 朕が
彼等の各々が朕の下に来たりし時に因みて      ※
賜ひたる名を持ち
朕が贈りし妻を持ち
一群のその子どもを持ちたり
この地上の凡ての貴族の
眼 丈 唇は朕が作りき
園丁が花作れると同じく
また外城との間には
朕が騎士なる民
朕が農夫なる民住めり
新しき城壁ありて その外に更に
かの征服されし民
愈々愚鈍なる氣質の民
最後の城壁にして
朕が國土と 朕を囲める海に至るまで住めり

  幸福なる家
打開きたる露台にて 一人の老人
オルゲル[※ 風琴]彈きつヽ天に向ひて歌ひゐたり
その脚下の三和土[たたき]には
細き孫と鬚ある孫と剱術をなし
  ×
紫陽花の咲く縁側で
女が髪を洗つてゐる
汽車はその傍を通るとき
一声疳高い汽笛を鳴らし その時
雲間をやぶつて
日光が虹色に輝く
  ×
子供らは雨に退屈し切つて
鉄道唱歌を高声で歌つてゐた
まもなく嫁ぐ此の家の娘が
苺を皿に盛つて現れた
誰かが庭木の葉にゐる青蛙を見つけ
金魚は水盤の中で閃(ひか)つてゐた
  ×
何で此の日がたのしかろ
日々は日毎に暗澹と
わが死にの日は近くなり
日々は日毎に暗澹と
妻はまた子をひり出す
何で此の日がたのしかろ
  ×
輝きて死ぬる虫あり
六月の暗き空より
一時を 輝き出づる日に映(アタ)り
燦々としばし輝き死ぬる虫あり
  ×
此の日々を稚き心もてくらす
わが弱き体愛(カナ)しみ
辱(ハヅカシ)めしばしわすれて
す直なる 返報知らぬ心も
此の日々をしばらくくらす

ああ眞晝 海の虫ども
水の面に 漂び上りて
水死人むさぼりくらふ その時ぞ
吾妹子は喘ぎて死にぬ
假なれど死(シニ)は悲しく
吾子(アガコ)さへ 先立つ勿れ
  ×
吾友は昨日死にたり
吾妹子は明日をばしらず
その面に死相出でしと
術師らが呪言(マジゴト)聞きぬ
時も時 まひる星あり 東北(ウシトラ)の空に輝く

  九月初八日
 朝登校聞饗庭源吾君轉任京都市立四條商業学校。君赴任浪速中学校在昭和十年四月、
卒業大阪商大高商部直後也。其資性明朗快活雄辧而頭脳極明晰、唯憾小心翼々力迎合人意。
然交与我極深、至以爾汝今聞是報而嗟嘆耳。但浪速中学校非君子之永住之處、君之決意尤可然歟。
午後教護座談会、畢而臨五十嵐達六郎君之嚴父君葬儀於阿倍野新斎場、見大高諸先生、
其後会談与野田松下服部中島諸君、此間有大雨次雷鳴。

  九月初九日
登校、無事、午後訪田村家、未亡人縷々説家計、家産概貸金而当今之時節難回収云。

  九月二十三日
   履歴書
一.明治四十四年八月三十一日、大阪府人西島喜代之助、兵庫縣人田中これんを両親として生る。母の家を継ぐ。
一.明治四十五年(二才) 明治天皇崩御。妹千草生る。
一.大正六年(七才) 母死す。
一.大正七年(八才) 嗣母京都府人今井しづえ来る。大阪府泉北郡高石尋常高等小学校に入学。歌枕、高師浜の地也。
一.大正十二年(十三才) 転居の爲、大阪市浪速区惠美第三小学校に轉学。
一.大正十三年(十四才) 大阪府立今宮中学校に入学。伊原宇三郎、淡徳三郎、藤沢桓夫、武田麟太郎を出したる学校也。
   時に三年上級に石山直一(野上吉郎)、船越章あり。
一.昭和三年(十八才) 大阪高等学校文科乙類に入学。同級に保田與重郎、中島栄次郎、服部正己、松下武雄、松浦悦郎、松田明等あり、
   ロマン的学級と称せらる。隣級文甲に杉浦正一郎、相野忠雄(若山隆)、竹内好あり。理甲に伊藤佐喜雄、
   一年上の文甲に、(三浦常夫)小高根太郎ありき。教授佐々木青葉村(歴史)、財津愛象(漢文)を崇拝す。
一.昭和四年(十九才) 以後三年、野球部マネージヤーとして学業を抛擲して顧みず、詩誌「璞人」の編輯を野田又夫、奥野義兼より譲られ、
   松下、中島と編輯。一月にして保田と代る。
一.昭和五年(二十才) 短歌誌「かぎろひ」を保田と創刊、編輯に当る。この頃、利玄、順に私淑す。  ※
   肥下恒夫、病気休学中なりし爲この年より同級となる。この秋同盟休校あり。
一.昭和六年(二十一才) 茂吉、千樫を愛讀す。中野重治を好んで讀む。皆、保田が感化に依る。かぎろひ十号を以て編輯を中田英一に譲り、
   三月卒業。四月東京帝大東洋史学科に入学。上京して柏井家に寄る。船越章と同室。この頃、盛にマルクス主義書籍を讀む。満州事変起る。
一.昭和七年(二十二才) 三月、コギトを肥下、保田と共に発刊。薄井敏夫及び前掲諸氏夛く同人たり。
   この頃佐藤春雄、志賀直哉を耽讀、ハイネ、シユトルムの詩を愛して訳に努む。伊東静雄と識る。
一.昭和八年(二十三才)。松浦悦 死す。北園克衞、近藤東等のマダム・ブランシユの会員となる。
   酒井正平、川村欽吾、饒正太郎と親しむ。卒業論文の爲、やや東洋史を学ぶ。
一.昭和九年(二十四才)。学成り畢つて帰郷職なし。新聞社の試験を受けたれど通らず、遂に大阪市私立浪速中学に奉職す。先輩清徳保雄の推輓による。
   ノヴアーリス「ハインリヒ・フオン・オフテルデインゲン」をコギトに訳載。
一.昭和十年(二十五才)。五月、柏井悠紀子と結婚。
一.昭和十一年(二十六才)。「歴史学研究」に卒業論文の概要を「清朝の支那沿海」と題して載す。
   オフテルデインゲン「青い花」と題して第一書房より発行。七月、一子史(ふびと)を挙ぐ。
   「四季」同人となる。服部正己と「ザイスの子弟」を共訳、山本文庫より「ヒアシンスと花薔薇」と題して出版。
一.昭和十二年(二十七才)。正月、石浜純太郎先生に就く。清徳保雄死す。
   夏、上京。佐藤春雄先生に就く。史学、文学に共に師を得たり。支那事変大に起る。

  日録
終日無爲(秋季皇靈祭休日)晝寝。妻子往田辺。夜澤田君来訪。

  九月二十四日
本日饗庭氏後任吉野廣氏来任。午後訪問杉浦正一郎。夜無爲。

  十月一日(金)、雨降。
 正午 與眞野吉之助氏諍論、左記其大体。
初我与渡部氏在図書室、眞野氏入室曰、
マ・本日職員会事由如何。
ワ・國民精神総動員之爲也。 
マ・何謂総動員、若人與我金、我幹事、若不與、則我不能。 [※ もしも、お金が出ないんなら、私はやらんよ]
田・非金銭之事、要足励精職務、然猶当研鑽國民精神。
マ・我不能、我地位甚卑、我棒給料很賎。
田・勿云、勿云、卿爲教育者[※ あなたは教育者ですよ!]、何爲此言、我不忍聞斯言。
マ・我不能、我地位卑、我棒給賎。
田・卿常出斯言、再勿謂於我面前、若使我爲校長、我誓馘卿首。[※ もし私が校長だったら、あなたなんか絶対クビにしてやる]
マ・願卿爲校長。 [※ ほんに。校長だったらいいのにねぇ]
田・我亦希望之久。然卿常出斯言、我不堪聞。(退去)
  ・・・・・・・於教員室
マ・我等両人須退職。 [※ すべきだ]
田・何謂、我不知當退職之事由。
マ・喧嘩両成敗。
田・然則卿喧嘩再三、何嚮日不罷。[※ どうして前にやめなかったの?]
マ・卿不罷乎。 [※ やめんつもりか]
田・不罷。
マ・其反日本精神甚。
田・不然。
マ・若我等両人在学校、其毒学校最甚。
田・我不認其事態。乞卿暫黙。[※ 黙ってくれんか]

  十月六日(水)霽
午後四時、故田村金之助氏(金剛院義山良佑居士)五七忌也。赴彼邸、其後被招待於歩兵
八連隊南「南浦園」。席上聞、大谷集翁之談、四十年前、聘妓僅々三十銭、雲呑一杯五厘、
麥一升一銭五厘、米一升四銭五厘耳。 〒「日本歌人」十月号。

  十月七日(木)
築地座主宰、友田恭助、爲工兵伍長而戦死於上海戦線之由、哀悼久之。

  十月八日(金) 午後訪問中島栄次郎。囲碁五番、勝越一番也。〒川久保悌郎氏。

  十月九日(土) 朝、会田村春雄君於車中。午後卒業生大江紀作君携一瓢来飲。

  十月十日(日)晴
午前、與妻子[妻子と]観千草[※ 妹]婚嫁衣裳。得間訪服部正己於宅、會々長野敏一来會、聞昨日辞職
浪速時報社、創立ヒルネオン商会。書紹介状(松浦元一氏宛)

  十月十一日(月)快霽
自[より]松下、野田又夫君之「デカルト」出版記念会案内状来。夜赴於皇典研究所主催講演会、  ※
初河野省三講話、愚論可嗤、次陸軍中佐来、次電影。十一時半帰宅。

  十月二十三日(土)
爲妹結婚式上京。夜十時半汽車、與田中城 、昌三二叔父及大江叔母、飲麥酒小罎一本畢酣酔。

  十月二十四日(日)
 午前八時半着京、直入軍人会館。少憇後訪問川久保君於阿佐ケ谷新居、小松清之近傍也。     ※
次訪松本善海。午後二時帰館。改装朝服、列席婚禮、神式也。喜悦有餘、不覚催感涙。夕刻有披露宴。
新郎友人総代吉原飛行士、在近席、新郎諸妹亦在近傍。宴終到柏井家。

  十月二十五日(月)
訪妻之祖母於松田家。午後訪問第一書房与長谷川、春山二氏会談、其後会與コギト同人(肥下、保田、薄井、小高根)及長尾君、於杉田屋印刷所。自保田聞中原中也之訃、夜出於新宿。

  十月二十六日(火)
出京。先於乗車、訪西川英夫於会社、不在。列車中隣於一出征兵士、茨城縣筑波郡之人、齡三十五六才。
云有家児五人、覚責任却很重大、但願戰爭早休止云云。訣別於名古屋駅、十時着田辺之父宅。

  十一月三日(水)
明治節。雨天、運動会中止。式後、開○○会於阿倍野加都良城。
会畢、訪中島栄次郎。囲碁十数番、中島常先一番之超勝也。

  十一月六日(土)
文芸首都原稿「格吉図六年史」書畢、以速達便送之。

   儒林外史
 儒林外史は清の康煕乾隆間の人、呉敬梓の著した警世小説とも称すべきもので、此種類の支那
小説中最も傑作の名が高い。呉敬梓は安徽省全椒縣の生れで、家は代々官吏を出した名門であり、
甚だ福裕でもあったが、彼が家を嗣ぐや産を治めずして次第に家門が傾いた。此時安徽巡撫趙國
麟が才名を聞き、博学鴻詞科に薦めたが遂に赴かず、家益々貧となるや(江寧[南京])に移り、
茅屋にただ古書数十冊のみを擁して日夜自ら娯しんでゐたが、遂に五十四才にして其地に没した。
著書には此儒林外史以外に、文木山房集(詩集七巻、文集五巻)及詩説七巻がある。かやうな経
歴の人故、この小説は全く時勢を遂ひ栄達を求める讀書人階級を白眼視し、辛辣なる筆鋒を巧み
な叙事の中に蔵めてゐるが、かヽる筆法は実は支那小説の常道であると云つて過言でなく、近くは
魯迅先生の小説にある諷刺の味も、この脈を引いたものではあるまいか。
 この小説は程晉芳の「呉敬梓傳」に據れば、五十巻と云ひ、金和の跋では五十五巻と云ひ、天目
山樵評本では五十六巻であり、齋省堂本では六十巻といふ。蓋し傳寫益々夛きを加へて自ら差違を
爲すに至つたのであらう。自分の見た本は五十五回本であつて附 一巻がある。
 この小説を紹介する動機となつたは、青木正児[まさる]先生の「支那文学概説」(昭和十年弘文
堂發行)に、李渙以来称せられてゐる「三国史」「水滸傳」「西遊記」「金瓶梅」の四大奇書に今
や「紅楼夢」及び「儒林外史」を加へて六大奇書とすべきである、と云はれてゐるのを讀み、かね
がね讀了したく思つてゐたところへ、今夏佐藤春夫先生にお目にかかつた際、先生もその面白味を
激賞してをられたので、懶惰の身に鞭つてかくは略述するのである。

第一回
人生南北夛岐路、將相神仙、也要凡人做
百代興亡朝復暮、江風吹倒前朝樹」

功名富貴無憑據、費盡心情、総把流光誤
渇酒三杯況酔去、水流花謝知何處」

 この一首の詩は年寄の口ぐせであつて、人生の富貴は身外の(みにつかぬ)物であることを云つてるのだが、実際は、 世人は一旦功名を見ると生命を捨てヽも之を求め、手中にした後はじめて、その味はひ蝋を噛むに似たるを知るのである。しかしこのことを昔から今に至るまで看破り得たものがあらうか。

 次に紹介する人だけが只一人の例外である。
 元朝の末に一人の名利に拘らぬ人が出た。姓は王、名は冕[べん]と云ひ浙江省諸曁[しょき]縣の人であつたが、七才の時父に死に別れた後は母の針仕事で村の学校に通つてゐた。 十才になるとそれもいけなくなつて隣の家の牛飼に雇はれた。この後は毎朝牛を湖の傍の野につれて出、夕方帰つて来て駄賃を貰つたが、 感心なことにはそれを他に使はないで一二ケ月すると本屋へ行つて幾冊かの古本と換へ、牛を放した後、柳の木蔭で讀むことにしてゐた。
 かうした三四年たつたある日のこと、丁度黄梅(つゆ)の時に当つて天気があまり蒸暑いので、牛飼も倦く緑の草の上にねころんでゐると、たちまち黒雲が一面に覆ひかぶさり、 一陣の大雨が降つて通つた。やがて黒雲のふちから白雲があらはれ、其の雲がだんだん散つて一すぢの日光が射して湖はまつ赤になり、湖畔の山は青いのもあり紫や緑のもあり云ひやうもなく美しい。 一方木々の枝は ※すべて雨に洗はれて一しほ色がまし、湖の中の蓮の花は花びらの上に露がたまり葉の上からは露がころころと滴りおちる。
 この有様を見て、王冕は画工になつてこの蓮の花を描きたいと云ふ気になり、それからは銭がたまつても本を買はないで、人にたのんで城内で臙脂[えんじ]や鉛粉の類を買つて来て貰ひ、 蓮花を描く練習をはじめた。三個月もすると、あの時の蓮の花に一つもたがはず、まるで湖からとつて来て紙にはりつけたかと見るまでの絵が出来たのである。 村の人もこれを見て銭をもつて買ひに来る人まで出て来た。王冕は其の金で母親に孝行してゐたが、これを聞きつけて買ひに来る人が縣内到るところからといふ有様になつた。
 しかし王冕は官爵をも求めず、朋友をも納れず、終日戸を閉して書を讀んでゐた、が、ある日楚辞の ※図の屈原の衣冠を見て、さつそくそれに似た衣と冠を作つて、 花明柳媚の頃には牛車に母親をのせ、歌曲を唱ひ乍ら村はづれの湖辺まで行くので、子供たちが笑つて跡をつけて来ても意に介せぬといふ風であつた。
 ところが一日、王冕の許へ諸曁縣の頭役(こづかひ長)で[曜‐日てき]といふのがやつて来て、知縣が王冕の絵を欲しがつてゐると云つた。 王冕は隣の主人がうるさくすヽめるもので止むを得ず承知し、二十四枚の花卉の絵を書き、上に詩を題した。知縣はそれを[曜‐日てき]から聞いて二十四両の銀子 ※を出した。
[曜‐日てき]は其の中から十二両を懐にしまひ込み、十二両を王冕に渡して画帳を持つて帰つた。
 この画帳を何うするかと云ふと、此時諸曁縣の出身で前の大官であつた危素といふものが帰郷してゐて、この人の帰郷の際には天子も城外まで送られ手を握つて十数歩歩かれ、 危素が再三おことはりしてやつと轎に乗つて回られたと云ふ位であり、且は知縣の挙人試験官でもあつた。此人の機嫌を取るた  ※め当時縣内で有名であつた王冕の絵を求めたのであつた。
 さて危素は此の画帳を貰ふと愛玩して手から釈かず、次の日さつそく知縣の許へ礼に来て、作者を問ひ、一度会ひ度いと云ふ有様に知縣は大に喜んで造作もないことヽ受合つた。 [曜‐日てき]が又王冕の許に遣されてその旨を伝へると、王冕は一介の農夫であるからと云つてどうしても聞かない。
[曜‐日てき]は顔色をかへて「一縣の主が一人の百姓を動せぬと云ふことがあるか」とまで云つたが聞かぬ。隣の主人が「古から滅門の[恐ろしい]知縣と云ふではないか」と云つたが聞かぬ。
 そこで隣の主人が三銭二分の銀子を[曜‐日てき]に与へて帰つて旨く云つて貰ふこととしたが、此  ※由を聞いた知縣は、 「これは[虎の威を借る狐]的に[曜‐日てき]のやつが威張り散らしたもので、官吏(やくにん)を見たことのない奴が怖がつたのであらう。 自分は危素先生に受合つておいて呼べぬとあれば笑はれるであらう。仕方がないから村へ行つて呼んで来よう。知縣がわざわざ来たと聞けば大ゐばりでやつて来るかもしれぬ」。
さう考える一方、「堂々たる縣令が一人の村人に会ひに行くとは役所の奴等の笑ひ話にはならぬかしら」とも考へたが、
「先生の先日の口ぶりではよほど尊敬してをられた様子である。その上[尊きを屈して賢を教する]なら後に本にでも書いて貰へるかも知れぬ、これこそ万古千年不朽の仕業である」
と自問自答してやつて来た。
しかるに王冕はわざと親類に行つて留守であつたから、知縣はその無禮を怒つて直にも罰しようと思つたが、危素の思惑をかねてやつと耐へて帰つて行つた。 かヽる有様で王冕の身辺は甚だ危くなつた。彼は母親を隣の主人に頼んで山東省の済南[さいなん]府に来て、こヽで画を描いて賣り生活を立てヽゐる中、 黄河の堤が決(き)れて沢山の被難民がやつて来た。
これを見て王冕は天下の将に乱れんとするを知つて故郷に還つたが、時に危素も朝廷へ還り知縣も栄転した後であつたから、無事に家に戻つて母親に孝行を盡す中、 六年たつて母親が死んだ。その後三年の喪に服したが、一年たたぬ中に天下が大に乱れ、浙江には方國珍が據り、蘇州には張士誠、湖広には陳友諒が據つたがすべて天下の主ではなかつた。
たヾ明の太祖朱元璋は[シ+除]陽に兵を起し、金陵を得て呉王と称したが、これこそ王者の帥(いくさ) ※であつて、忽ちに方國珍を破つて浙江を取つたから、 おかげで町も村も騒ぎなしですんでしまつた。
 ある日の午ごろ、王冕が母親の墓の掃除を終へて帰つて来ると、十幾騎の軍人が村へ入つて来た。
頭立つた一人は頭に武巾を戴き、身に困花戦袍[じんばおり]を穿(き)、色白で美しく眞に王者に相応はしい人であつたが、馬を下りて王冕に、
「こヽが王先生の御宅でせうか」
と尋ね、王冕が
「わたしが王冕で、こヽが家です」
と云ふと、
「これは甚だ有がたい。特にお目にかかり度くて參つたのです」
と云ひ、馬をつながせて家の裏に入り王冕の問ひに答へて朱元璋と名乗り、方國珍を平らげた序に先生に会ひに来たので、浙人の心を服する法は如何と問うた。
王冕は、仁義を以て服すれば何人か服せざらんと答へ、之には元璋も感服して嘆息した。その日は日暮まで談じて朱元璋は帰り去つたが、その後数年ならずして天下を平定し、 大明と国号を建て洪武と年号を定めた。
 危素は元の臣であつたが既に明に降つて重く用ひられてゐたが、自ら尊大に構へたために太祖の怒 ※に触れ、和州へ左遷された。この後、禮部で官吏登用の法を定め、 三年に一度試験を行ひ、四書五経 ※を課目とし八股文で答案を書くことヽ定めた。王冕は之を聞いて悦ばずして云つた。
「これより讀書人はこの栄身の路のみを重んじて文学を軽んずるに到らう」
 洪武四年の夏、王冕は夜、星を見て
「文昌星を貫索星が犯してゐる。一代の文人が厄にあふのだらう」
と云つたが、果してこの後、人の噂で朝廷では浙江の布政使司に詔を下して、王冕を官に任じようと ※してゐると云ひ、次第にやかましくなつて来たので、 遂に会稽山に遁れたが、その後半年して朝廷から咨議參軍の職を授けるとの詔をもつて大官がやつて来た。王冕はその後会稽山にあつて姓名を云はず、 ※後、病を得て世を去つた。
この人こそ一日も官にならず、栄達を欲せぬ只一人の人であつた。

第二回

 さて山東省[六+兄]州[えんしゅう][シ+文]上縣[ぶんじょうけん]に薛家集[せつかしゅう]といふ村がある。
丁度成化の末年天下繁盛の頃に当つて、村の主だつた人たちが正月八日に相談のため村の寺に集まつたが、その席上、申祥甫といふ頭だつた人が云ひ出すには、
「家の子供も大きくなつたので今年は先生を呼ばねばならぬが、この観音庵を学校にしたら何うだらう」
衆人(みんな)が之に賛成して
「われわれの中にも学校へゆく子供のある家が多い、ついては城内から先生を呼んで来るが好からう」
この時申祥甫の親戚で、集の総甲に任ぜられてゐる夏といふ者が云つた。
「先生なら一人ある。わたしの役所の税金取立方の顧だんな[名前]のたのんでをられた先生、周進と云ふ人で六十何歳になる。 前の知事さんが第一等に推薦されたことがあるがどうしたものかまだ学生[科挙の位]に中つてをられぬ。顧旦那の家では三ケ年来て貰つてをられたが、 昨年顧小舎人(わかだんな)が学に中りなさつた。この村の梅三相と同じに中られたわけだ。その日縣学堂から帰つて来なさる時、 小舎人は頭に方巾を戴き、身には大紅袖をつけ、知縣さんの馬小屋の馬に乗つて笛や太鼓でどんちやんやつて家の門口まで来なさる。 俺たちは役所の者と一緒に迎へて祝盃をかはしたものだ。その後で周先生をも呼んで来て顧旦那が三杯つぎなさつて、それから上座に据ゑなさつた処、先生が芝居を所望された。 その所望されたのは梁[シ+]八十才中状元故事であつたから顧旦那も少しいやな顔をされた。小旦那が八十になつてやつと状元に中ると思ひなさつたからだつたらうが、 その文句の中に梁の教へてゐる生徒が却つて十七、八才で状元に中るといふ唱があつて、これを聞いてはじめて喜びなさつたと云ふもんだ。もしお前さん方が先生が要るなら、 俺は周先生を呼んで来て上げよう」
みんな之に賛成した。翌日、夏総甲は果して周先生に説いて、毎年の宿舎費を十二両とし、毎日二分づつを和尚へ利賄代として、正月二十日からお寺を学堂にして学校を開くこととした。
十六日に顔あはせの宴があつて申祥甫の家に集まつた。村の新しく儒学生員に進んだ梅三相が、陪客(おしょうばん)になつて方巾をかぶつて早くからやつて来た。 午前十時頃に周先生がやつて来た。
犬の啼き声を聞いて申祥甫が迎へに出た。みんなが周の姿を見ると、頭には古い毛の帽子をかぶり、身には黒い紬の直綴[じきとつ]を着てゐたが、 右の袖と尻のところとはぼろぼろに破れてゐるといふ風であつた。
周進は梅玖を紹介されると、謙遜してどうしても拝禮をさせないものだから、梅玖は、「今日は格別です」といふがどうしても聞かない。そこでみんなが、
「年齢から云へば周先生の方が上だ。先生、ちつときまじめもいヽかげんになさい」
と云ふと、梅玖が皆の方を向き直つて
「君たちは我々の学校の規則を知らぬ。老友は小友と年を以て比べるべきでない。ただ今日は格別だから、周さんに上座についてもらはう」と云つた。
もともと明朝の士大夫は、儒学の生員を朋友と云ひ、童生を小友と云ふ。この童生が学生員となると、十何才でも老友と云ひ、学生員になれねば八十才になつても小友と云ふ。 丁度これは娘が嫁にゆく当座は「新娘」[シンニャン]といひ、後には「[女+乃]々」[ナイナイ]「太々」[タイタイ]と云つて新婚と云はないが、 もし嫁でなくて妾へゆくと、白髪になつてもまだ新娘と呼ばれると同じことである。
さて愈々、宴がはじまつて卓の上には猪頭肉や公鶏や鮮魚の肚肺肝腸の類が並べたてられ、みんなはまるで風が残雲をふき拂ふやうに食べ去るが、周進だけは一口も食べない。 そこで申祥甫がわけをきくと周進は、
「私は精進をしてゐるので」と答へた。
「これは失禮しました。どういふわけで精進をなさる」
「先年、母の病中に観音様に願を立てヽ精進にしましたので、もう幾十年になります」。
これを聞いて梅玖が云つた。
「先生が精進なさるといふので、面白い話を思出しました。先日城内の顧旦那の家で、先生のことを唱つた一字から七字までの詩を聞きました」。みんながどんな詩か聞き耳を立てた。
『[豈+犬]、秀才、吃長斎、[髟+胡]鬚満腮、経書不掲開、紙筆自己按排、明年不請我自来』
(ばか、しゅうさい、しょうじんれうりて ひげぼうぼう ほんもよまずに ふでもとらずにらいねんはよばずもまいりやせう)
この詩は[※ 以下欠]
 菓子を吃ひ終り、又一わたり酒盃を廻してから、燈火のつく頃になつて梅玖や村人たちは帰つて行つた。
申祥甫だけは残つて宿の世話をした。
 開館のその日になると、申祥甫はみんなと共に学生をつれて来たが大小とりまぜた子供たちは先生を見ておじぎをした。みんなが帰つた後で周進は書を教へた。
夕方学生が帰つてから各家の授業料を開いて見ると、荀家だけは一銭銀貨に八分の茶代を入れてゐたが、他は三分の家もあれば四分の家もあつた。
銅貨十個ほど ※の家もあつて合はせると一ケ月の飯代には足りないが、周進は之を一まとめにして和尚へ預け、後で清算することとした。
子供たちは馬鹿な牛と同じく一寸目を放すとそとへ出て、瓦や石を投げ飛ばしたり、球を蹴つたりして毎日いたづらを止めない。周進は天性を抑へて坐つて教へた。
 覚えず二ケ月たつて気候が次第に暖かくなつた。周進は晝飯を吃ひ終つて裏門を開けて出、河岸を眺めた。
村ではあるが川辺には幾つかの桃と柳の木が植つてゐて、紅と緑がまじりあつて好いながめであつた。みるみる霧のやうに細い雨が降つて来た。
周進はこれを見て門内に入つて雨中の河岸を見てゐると、煙は遠樹をこめて景色は益々美しい。この雨が段々ひどくなつて来た。
そのとき上流から一隻の船が雨を冒して下つて来たが、河岸に近づくと[※ 以下未完。]

  十一月十一日(木)
登校聞知、富樫弘三氏之戦死。氏者浪速中学剱道講師。剱道六段、 ※
性極温厚、他薄交之故不知之。午後弔問松屋町宅、有老母少女。

  十一月十二日(金) 運動会。夜訪田村家。
   秋の湖
僕たちは秋の半日を一緒に暮した
下り列車の三等席のきまりゆゑ
膝つきあはせて親密に
語り合うた
「北支は今は寒いでせうね
私は筑波山の北の麓の生れ
家には五人の子どもがあります
村人たちが旗を立てヽ送つてくれました
子供らゆゑ あの人たちゆゑに
しつかりやらにやならんと思ひます
東京には十日居りました
あの畑に白いはそばでせうか
なんと唐辛子が沢山植つてますね
こヽらは私の國よりずつと豊かなことですね」
汽車は轟々と鉄路を走り
午すぎて一條の鉄橋をわたる
秋の遠江の濱名の湖
日は昃り 船は向ふ引佐の細江
山々はおだやかに湖をとりまき──
兵士はじつと眼をすゑて
樂しげに云ひ出す
「いくさのおかげで珍しいとこを見ました」──

  十一月二十日(土)
信州追分油屋全焼之由、今夏八月五六七、三日間逗留之処也。
今日訪問中島栄次郎。

十一月二十二日(月)
放課後、与校長教頭訪問辻先生家庭。

  十一月二十三日(火)
新嘗祭休日。妻子往于吹田田中三郎宅、予同車赴京都。列席於東
洋史談話会、藤枝、今西、鴛淵諸氏。講説畢而晩餐会。羽田博士、
井上以知爲氏、岡崎博士、石浜先生、三上次男氏並予卓話。出於室
外則燈火管制。與石浜先生帰阪。書信於羽田明君。

  十二月二十一日 原君と会ふ。
王國維先生 觀堂集林 巻六
○釋史(我子「史」[ふびと]のために)   [[※]は甲骨文字のためここに表現できず]
 説文解字ニ「史」ハ「事」ヲ記ス者也。「又」ニ从ヒ[したがひ]「中」ヲ持ツハ中正也。
其字古文篆文並ニ[※]ニ作リ、[※]ニ从フ(秦の泰山刻石ノ御史、大夫ノ史、説文大小、
徐ニ本皆此ノ如ク作ル)ト。古文ヲ案ズルニ中正ノ字ハ[※][※][※][※][※]ノ諸形ニ作リ、
而シテ伯仲ノ仲ハ[※]ニ作リ、[※]ニ作ル者ナシ。唯篆文始メテ[※]ニ作ル。
且ツ中正ハ無形ノ物、[※]ハ手持スベキニ非ズ。然ラバ則チ「史」ノ从フ所ノ中ハ果シテ何物ナル乎。
 呉氏大澂曰ク。「史」ハ手簡ヲ執ル形ヲ象ル、ト。然レドモ[※]ト簡ノ形トハ殊ニ類セズ。
江氏永周ノ「禮疑義挙要」云フ。凡ソ官府ノ薄書ハ之ヲ「中」ト謂フ。故ニ諸官言治中、
受中小司寇断庶民獄訟之「中」ハ皆薄書ヲ謂ヒ、猶ホ今ノ案巻ノゴトキ也。此レ「中」字ノ本義。
 故ニ文書ヲ掌ル者、之ヲ「史」ト謂ヒ、其字「又」ニ从ヒ「中」ニ从フ。
 又ハ右手ニシテ手ヲ以テ薄書ヲ持スル也。「吏」字、「事」字皆「中」ノ字有リ。天ニ司中星有リ、
後世「治中」ノ官有ル、皆此義ヲ取ル、ト。

  野原を
雲は天を翔けてゆき
風は野原を吹いてゆき
野原を母さんの
失した子が彷徨つてゆく

通りを木の葉は散つてゆき
木々では鳥が叫んでる
山を越えればどこかしらに
遠い故郷があるはずよ (ヘツセ)

  エリザベート
高い空に漂んでる
白雲のやうに
白く美しくはるかな
あなた エリザベート

雲はゆきさすらふけど
あなたは見もしない
でも暗い夜 あなたの
夢の中を通るでせう

ゆき乍ら銀色に光るものゆゑ
小休みもなくあなたは
その白い雲に甘い懷郷心を
感じられることでせう

永暦十一年七月 明の延平郡王 鄭成功は
艦船を率ゐて北伐の途に上つた
根據地の厦門には一族の鄭泰と宿將の洪旭とが留守をし
その他の將兵はすべて出征した
厦門を出て金門島の岬を廻り 泉州湾を外れて大海に出ると
浪は急に暴く 島影は見る見る西南に小く低くなつて行つた
船内で成功は諸將と協議し
先づ興化府の黄石地方を侵掠し 別に甘輝等は涵頭地方を暴した
侵掠の結果は甚だ好成績で 三日の間に各船とも米粟が山の様に積み込まれた
清軍は手出しもしなかつた
その次には福建の省城 福州の入口である関安鎭に侵入し
こヽへ王秀奇を残して更に出発し
八月十二日には浙江省の台州の門戸である海門港に入ると
こヽを守る清將 張捷 劉崇賢等が小癪にも発砲して来たが
これにかまはず黄岩縣を攻め
守將 王戎に城下の誓をさせ
十八日には台州府を攻めた
此時 軍の威儀堂々たるを見て
台州の總兵官 李必は讃嘆し
又前任の總兵官 馬信は既に鄭成功に降つて重用されゐると聞いて
城上の旗の樹て方もうろたへた様であつたから
鄭成功は馬信を遣して招くと忽ち降参した
二十六日の開城に文官たちは府縣の戸籍簿と徴税の台帳とを献上する
係の楊英が城中の倉庫に入つて
帳簿と合して見て三千余両の銀をとり出した     十二月三十一日

盛宣懷が外債による鉄道國有を宣言し
四川の人士が夛く反抗した時は
彼は十二才で長沙の高等小学にゐたが
級友たちは盛宣懷の首を作つて之に石を投げ
その一人は十一才の呂・・・といつたが 演壇に上つて
慷慨淋漓の演説をし
満座は感動して涙を流した

(つづく)


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