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たなかかつみ【田中克己】 『天遊の詩人 李白(訳書)』 1982 平凡社(中國の名詩4) 250p



  李白略伝    田中克己

 李白の祖先はかれ自身の言によれば、漢の武帝の時の勇将で、匈奴から飛将軍とあだ名された李広であり、そのまた十六世の孫でいまの甘粛省蘭州市に都して西涼の国を建てていた李嵩(りこう)が李白の九世の祖だというのである。

 唐王朝の李氏もこの李嵩の子孫と称しているのであるから、これがまこととするなら、家柄も良いことになるが、李白の最後に遺稿を托したという李陽冰(りようひょう)の「草堂集序」には
「李白の家は・・・中ごろ罪に非ずして条支(じょうし)に流されて姓と名とを変え、五代の間は士族の身分をも離れて庶民となった。唐の神龍(中宗の年号)の初め、李白の父が蜀に逃れ帰ってまた李姓に戻り、そののち李白を生んだのである」
といい、同じく唐の范伝正の「唐左拾遺翰林学士李公新墓碑並序」によると
「隋末の戦乱に当り、隴西の李氏の一支が砕葉(さいよう)に流され、困苦窮乏して姓を変じたため、その同族たる李氏が唐朝を創立しても、一族の籍には載せられなかった。神龍の初め、広漢(四川省)に帰り、客(父の名)が李白を生んでのち、復したのである」
という。これは李白の嫡子伯禽の自筆の十数行の所記によっているというのである。
 条支は白鳥庫吉博士によるとティグリス・ユウフラテス河の川中島のメソポタミアのメセネ、すなわち今のイラク国に充てられたが、唐人の条支はおそらくも少し近くのイランのことであろうと思われる。
 しかし、漢人がそこまで移民するとは考えられないから、范伝正によって砕葉、すなわちイシククリ湖(唐代の熱海)から流れ出るチュー河(唐代の砕葉水)の岸なる砕葉城(今のソ連キルギス共和国のトクマク市)にいて、唐代になって東に移り、父の代に四川に転入したと考える方が合理的である。
 唐王朝からは一族と認められなかったのに、李白は盛んに一族だといい、皇族徐王李延年・延険を従兄弟と呼び、また道王の曾孫李叔雲を叔と呼び、後事を託した李陽水をも一族として従叔と呼んでいる。郭沫若『李白与杜甫』(1971年、北京、人民文学出版社刊)も、世代(輩行)が矛盾していると指摘しながら、李白は血統的には砕葉出身の純粋な漢人だとしている。

 母がみごもった時、太白星(金星)が懐に入ったとゆめ見たので、太白という字(あざな)がついたというのも、このロマンチックな詩人にふさわしい逸話であるが、四川に父が住みついたのはその五歳の時というから、塞外で生まれたと考えて宜しかろう。
 四川へ父が来たのは商業のためらしく、また数十万の遺産をも残し、幼少の時には干支の暗記からはじめて百家の書を読ましたというから、儒教を主とする家柄でなかったことが明らかである。父がみずから教えたのは同じく四川出身の司馬相如の「子虚の賦」だったと李白みずからが述べている(秋、敬亭にて従姪耑の廬山に遊ぶを送るの序)。
「十五の歳また剣術を好み三十にして文章を成し、卿相に歴(めぐ)り抵(いた)る(韓荊州に与える書)」ともいっている。郭沫若はこの文章の後半から、三十歳のころ長安に上ったといっているが、前礼部尚書で益州(四川省北部)長史に左遷された蘇頲(そてい)などに認められたことをいっているので、長安でのことではあるまい。

 玄宗の開元一三年(七二五年)、四川から出て来て各地をめぐったあと、湖北省の安陸のもとの宰相許圉師(きょぎょし)の孫女の婿となり、十年ほどこの方面にとどまった。一男一女が生まれ、男子を明月奴といった。

 開元二三年(七三五年)、安陸を去り、北に向かって太原(山西省太原市)に行ったあと、山東省の済寧市に住まい、結婚して頗黎(はり)・平陽の一男一女が生れた。頗黎が弟で、のち伯禽と名のった。このころ徂徠山(泰安県)の竹渓で孔巣父(こうそうほ)・韓準・裴政(はいせい)・張叔明・陶沔と六人で酒のみ歌っていたので、竹溪の六逸と称せられた。

 天宝元年(七四二年)、浙江省の剡溪(嵊県)にいたが、道友元丹邱(げんたんきゅう)のあとを追って、賀知章・呉筠・玉真公主ら道教関係の推薦で宮廷に召され、泰山に登ってから長安に赴いた。この年、道教の師である胡紫陽が死んだ。長安では翰林院供奉(ぐぶ)として酒宴の際に歌を作らされ「清平調詞」(三首)、「宮中行楽詞」(十首)などが成った。

 天宝三載(七四四年)、資知章が辞職帰郷したので、玄宗の命によって送別の詩を作った。この年、みずからも辞職して、山東省に高道士をたずね、 道籙(どうろく道士の称号)を授かったあと各地を旅行したが、開封にとどまることが長かった。杜甫・高適・岑参などの詩人との交友もこの期間のことである。

 天宝一三載(七五四年)、金陵(いま江蘇省南京市)で魏萬(のち魏)と会い、別れて宣城(い安徽省)にゆき、ここに留まった。

 天宝一四載(七五五年)、安禄山が乱を起し、東都洛陽を都として、翌年正月元旦、帝位につき、大皇帝と称した。これよりさき六月に長安が占領される直前、玄宗は四川省に逃れた。
李白は宣城から廬山に赴いた。このとき四番目の妻宗氏もここに避難していた。一五載(七五六年)七月、皇太子が霊武(いま寧夏省)で即位し、年号を至徳とあらためた。弟永王璘(りん)は父玄宗の命で、江陵郡(いま湖北省)大都督となり、李白を招いて幕僚とし、「永王東巡歌」などを作らせた。

 至徳二載(七五七年)二月、粛宗より叛軍と認められた永王の水軍は、官軍と戦って敗北、永王は戦死した。李白は逃れたが捕えられ、尋陽(いま江西省九江市)で獄につながれた。崔渙・宋若思らが赦免を乞うた。獄から出て宋若思の代筆で上奏文を作った。

 乾元元年(七五八年)、夜郎(やろう)へ流罪ときまり、洞庭・三峡をへて巫山(いま四川省)に至った。この間、漢陽で張鎬(ちょうこう)と五月五日に詩の贈答をし、太守王葉の宴にも臨んだ。

 乾元二年(七五九年)、大赦にあい、巫山より長江を下り、江夏(いま武漢市)、岳陽をへて、ま尋陽(九江市)に来た。

 上元二年(七六一年)、金陵(いま江蘇省南京市)に遊び、宣城・秋浦・南陵・当塗といまの安徽省の各地を往来した。

 代宗宝応元年(七六二年)四月、玄宗・粛宗父子が相継いで崩じ、代宗が即位した。李白は当塗県令李陽冰のもとにいて、十一月病死した。臨終に草稿一万巻を李陽冰にわたし、刊行をたのんだ。龍山の東麓に葬られたが、唐の憲宗の元和一二年(八一七年)、青山の南に改葬された。

 范伝正の「墓碑銘序文」によると、当塗地方の観察使に任じられて赴任すると、ただちにその墓を訪れ、墓辺の樹木の樵採を禁じ、墓碑を清掃する一方、李白の子孫をさがすと、三、四年たってやっと孫女二人のいることが判明した。
一人は陳雲という者の妻、一人は劉歓の妻であるが、とも夫はただの農民で、役所に召して会ったら衣服も飾らず、かたちも素朴であった。
ただ振舞いのみは閑雅で、応対もはきはきしていた。聞けば、父の伯禽は、李白の死後三十年の貞元八年(七九一年)に官吏にもならないで死んだ。兄が一人いたが、旅に出てから十二年、今は行方不明である。父兄ともいなくて困窮し、やむを得ず農夫にとついだ。
そんなことで役所の調査にも父祖の恥になると思って隠していたが、このごろ皆から強いられるので、恥を忍んで参った、といい、いい終って泣くのを見て、范伝正も泪が出た。
聞けば、李白は尊敬する斉の謝朓(しゃちょう)にゆかりのある青山に葬ってほしいといったが、それもかなわず龍山の東麓に葬った。墳の高さ三尺、 次第に盛土が崩れて来る、という。
范伝正はこれをあわれんで、下僚の当塗の県令で、これも詩の好きな諸葛縦に命じて、新しい墓を青山の南に造った。
これが元和一二年(八一七年)の正月二三日のことで、旧墳の西六華里だったという。范伝正はまたこの二人の孫女を士族に改嫁させようとしたが、夫婦の道は天命であり天分だといって肯んじない。で、ただその税と徭役とを免じるのにとどめたという。

 これよりまた二十数年後の会昌三年(八四三年)に范伝正と同じことをしたのが裴敬である。かれもこの二孫女に会っているが、「すでに墓を拝しないこと五、六年」といっており、税や賦役もまた復せられていたとみえ、裴敬が時の当塗県令の李都傑にいってこれを免除せしめている。
この少し前、唐の文宗皇帝が唐の三つのすぐれたものとして、李白の詩歌と裴敬の曾叔祖なる裴旻(はいびん)の剣と、張旭の草書とを挙げているのである。
このように李白の名はいよいよ高いのに墓詣りもしない孫女とは不肖の子孫といわざるを得ない。しかし詩酒の人李白にとっては、この方が似つかわしいといえよう(田中克己『李太白』昭和29年、元元社、民族教養新書を参照)。

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