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田中克己日記 1968


【昭和43年】

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 承前、昭和42年の解説に記しましたが、この年いよいよ叢書『日本の詩歌』第24巻(丸山薫・田中冬二・立原道造・田中克己・蔵原伸二郎)(中央公論社)が刊行されます。

 同様のアンソロジーは翌年、角川書店からも刊行され(『現代詩鑑賞講座』第10巻・現代の抒情)、こちらは11人の選集ですが(三好達治・丸山薫・田中冬二・伊藤整・伊東静雄・立原道造・津村信夫・神保光太郎・蔵原伸二郎・野田宇太郎・阪本越郎・田中克己)、日記にあるやうに、詩人に最も親炙した後進である福地邦樹氏を解説者に推薦した詩人は、自らも新たにエッセイ「「コギト」の思い出」を書き下ろしてゐます。

 ベストセラーの角川文庫『ハイネ恋愛詩集(改版)』は、この年1万冊の増刷が二度も掛ります。すでに刊行されてゐる集英社『漢詩大系:白楽天』、文藝春秋社『大世界史:大唐の春』、筑摩書房『世界の歴史:東アジア世界の変貌』、そして翌年刊行される、平凡社『中國古典文學大系:唐代詩集 上』と、新刊本書店の文芸・歴史コーナーに大手出版社各社からの著書・訳書が並ぶやうになったこの時期、詩人田中克己の名は、東洋史学者としての“箔”を付けた格好で、この『日本の詩歌』『現代詩鑑賞講座』2冊により、近代抒情詩人の生き残り代表として認知されます。(詩人自身はこれを“詩壇と学界とどっちからも疎外”と卑屈にとったりするのですが。)

 5月19日に前橋で行はれた萩原朔太郎研究会への出席は、運気の為せる最も象徴的な表れでしょう。(※写真参照。集合写真に戦前からの抒情詩人は見当たらないやうです。現代詩詩人の面相が分からないので御教示をお待ちします。)

 研究会へは昭和40年に一度講演してゐますが、今回は往路の車中、向かひに座った西脇順三郎と一言も口を利かず、同席した萩原葉子氏をハラハラさせたとの面白い逸話があります(※杉山平一との対談参照)。抒情派の旗色が悪かったこの時代の詩壇で、モダニズム派の巨擘と目されてゐた西脇順三郎が、現代詩の発祥者たる萩原朔太郎の後進代表を任ずるやうな格好になってゐたことについて、
 (前年3月6日、小山正孝氏来り「西脇一派は朔太郎の正統つぐ」といふ由。)
 との記述があり、彼ら旧『四季』同人なりの不満を語り合ったのではないでしょうか。
 しかしその小山氏ほか、『果樹園』の盟友である小高根二郎、また『日本の詩歌』の解説を書いてくれた阪本越郎からも、脱退した復刊『四季』への慰留を望まれたものの、詩人は四季派の牙城となった潮流社(具体的には編集にあたった八木憲爾氏)との関係を修復することができませんでした(昭和42年解説参照)。

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 さうして一方の日本浪曼派関係の面々の誘ひからも、何となく距離を置かうという姿勢が窺はれます。
 さきの角川書店アンソロジーに付す解説文章「コギトの思い出」を書き了へ「面白くなし」と記してゐますが(7月28日)、保田與重郎に対する屈折した感情からなのでしょうか。そうであれば手放しの賛辞も何だかよそゆきの言辞に見えてしまひます。
 12月17日には、「『Politeia』来をり、ゲロ吐く思ひしてよみ了る。」
という激烈な書込みがあります。こちらは東洋大学運営に関はる紛議により犬猿の仲となってしまった元同僚、芳賀檀が載せる文章、および杉山美都枝(若林つや)の回想「高原の星二つ 立原道造と沢西健」において、芳賀檀に配慮した描写と、ことにも田中克己のことが「誰かの詩集の出版記念会」、「「四季の人々」という誰かの書いたもの」
などと故意に伏せられてゐることを指してのことかと思はれます。(文中にある、立原道造の枕辺に弥勒菩薩像の絵葉書をもってきたのも田中克己であれば、ここでも直後の芳賀氏の発言にピリピリ反応したことでしょう。よく読むと若林つや氏はどちらかに肩入れしてゐる訳ではないことも分かります。当時のエピソード満載の文章ですので一読を。)

 不二歌道会との付合ひは相変らず続いてゐますし、北海道勇払に建てる浅野晃詩碑の発起人にもなってゐるのですから、このあたり、キリスト者としての思想的なものではなく、あくまで対人関係における相性・好悪によるものといへさうです。
 一方、「津村信夫詩集の秀夫兄の文見てをれば、あまり気持ちよくなきはなぜかわからず。(2月26日)」
 とあるのは、角川文庫『津村信夫詩集』の解説「弟信夫の追憶」を指すものでしょう。読んでみるに、昭和19年2月ごろ津村信夫の病状が一時悪化した際に「兄さんが早まって大騒ぎをしたので四季の連中が沢山見舞ひに来てくれて驚いたよ」との条りがあり、

 自分にはその速達通知がなく、2月6日堀辰雄を訪問した際に同席した塚山勇三、鈴木亨、小山正孝とともに彼の重篤の報せを聞いたのに、見舞に赴かぬまま亡くなってしまった――このことを指してゐるのではないかと思はれます。(後年の『津村信夫全集』栞の文章「敬愛する詩人」には、この悔いを糊塗するやうな文章「私はそれ以前から病気の人を見舞うのは大変嫌いだった。というのは私の見舞った病人はたいてい死んでしまう。」と綴られてゐます。)

 「自分が思ってゐる程には思はれてゐないのではないか、といじけることが多かったのでは」と言ってゐた詩人ですが(長女依子氏談)、
 このたびは萩原朔太郎を顕彰する場に、謂はば抒情詩派から唯一人の代表として招かれもしながら、抒情詩復興の気運をともにすべき詩人たちと歩調を合はせて行動することを得なかった事情は惜しまれ、癇癖と躁鬱とを抱へてゐるとはいへ、やはり「亢竜」だったのでは、との思ひを抱かずにはゐられません。

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 さてプライベートでも、田中家に男子が誕生し、阿佐谷の家屋も正式に購入・改修と、喜ばしいこと尽くめなのですが、
「悠紀子を3ケ撲る(1月4日)」、「二つ撲れば逃ぐ(1月22日)」。
と、残念なDVの記述が「躁」症状に付随して顕れてゐます。
 斎藤茂太院長へと相談におもむき、わざわざ日録に記してゐるのは、自戒の意味を込めてのことでしょう。ですが明治男の気質はキリスト教に改宗しても渝ることはなく、斎藤ドクター自身が「うちでもスローモーションで時々やるが後味わるくてね」なんて回答するところにみられるやうに、(もちろんそれは相手が“患者”であることを気遣ってのことなのですが、)家長が振るふ暴力に寛容ならざるを得なかった当時の家庭と社会とを念頭に読むべきことかと思ひます。

 職場では相変らず外面よろしく、躁状態にあっては、流行りのボウリングに興じてのち学生に内緒を強いたり、仕事で来てゐる女子編集者にも立原道造や堀辰雄の手紙を気前よくあげてしまったりしてゐます(羨ましい!)。
 教授が教へ子を呼んで泊りがけ前提で卒論を指導するなどといふのも、今では考へられぬ古き良き大学生活の姿であったかもしれません。もっともその実態について悠紀子夫人は、
「泣かされなかった子は一人も居ませんでした。」と述懐されてゐる訳ですが(笑)。

 この年の日記でも、私生活で世話になってゐる卒業生に出入差止を言ひ渡し、去年の小山正孝への絶交と同じく、間もなく撤回してゐます。父親に対する次女弓子さんの遺恨についても記されてゐますが、「縁なきゆゑ後妻となれ」とか滅茶苦茶で(苦笑)、自分勝手で強引な見合相手探しにはさぞかし閉口されたことと思はれます。

 人のことを言へた義理ではないですが、詩人は一体に人物を見る際に、猜ふこと(危機意識)薄く、脇が甘い(やうな気がします)。度重なる転職の荒波を、学芸上で結ばれたコネクションに助けられてゐる詩人は、肩書(権威)にたいへん弱く、弓子さんの見合相手を探し回る際にもそうなら、一方で、この年関西在住の服部正己未亡人を自宅に何日も泊らせ、亡き級友の著書再版計画に助力するやうな、旧制高校の友情を理屈抜きで尊ぶ永遠の青年らしいところとも無縁ではありません。(だから面白くて日記を写す作業が苦になりません。)
 後年、詩人が逝去するとすぐ、天理図書館時代の元同僚から厭味満載の人格攻撃を文章で被ってゐますが、傍目にはいい気な感じにみえる詩人的性格に反発を覚えた人は少なくなかったことでしょう。ですがこの年、その人物が雑誌に応募して落選したと田中克己本人に伝へる詩人評には、讒言など一言も書かれてゐなかったことと思ひます。運気が天を突いて巡ってゐるとは、さういふ事なのだなあ、と、日記を写しながら思ったことでした。

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 この年の出来事を記します。

 1月 8日 鶴巻温泉陣屋宿泊。
 1月22日 「高見順『昭和文学盛衰史』買ひしに、保田を畏れをり。蓮田善明、田中克己は記載なし。」
 2月13日 「20:00ごろ小山正孝氏来り、『四季』脱退残念と!」
 2月26日 「津村信夫詩集の秀夫兄の文見てをれば、あまり気持ちよくなきはなぜかわからず。」
 3月10日 『日本の詩歌』解説担当の阪本越郎と面談。「花をも賜り『四季』に還れと云はる。」
 4月 2日 浅野晃詩碑発起人を受諾。
 4月10日 『四季』2号来り、同人名簿に名前残るを知る。
 4月28日 角川書店より「『ハイネ恋愛詩集』5月中旬1万部増刷。」
 5月 7日 「栢木喜一氏より「8月桜井にて講演しろ」と。「体弱り出来ず」と答ふ。」
 5月19日 前橋で行はれた萩原朔太郎研究会へ出席。
 6月 3日 角川書店『ハイネ恋愛詩集』改版5版1万冊の増刷掛る、計30版。
 7月 6日 「入江春行君より『群像』に「詩人とは何か──田中克己について──」応募せしも3次で落ちたと!」
 7月17日 「中央公論社の鈴木女史来り7月8日とりし写真賜ふ。頬こけ写りをり。礼に立原のハガキ1枚。」
 7月29日 角川書店『現代詩鑑賞講座』第10巻 (現代の抒情 現代詩篇 第4)への掲載依頼。解説者に福地邦樹を推す。
 8月 3日 「小高根二郎氏より「中島栄次郎のことかけ」と。」
 8月21日 「けさ保田のこと南北社のため10枚かく。」
 9月1日 筑摩書房『世界の歴史6・東アジア世界の変貌』(「玄宗と楊貴妃の世界」収録)増刷5千部。
 9月 2日 「小倉女史来りし故、道造の筆蹟与ふ。」
 9月16日 新刊『日本の詩歌』を手にする。
 9月24日 「海江田副手に堀辰雄の昭和21.6.3のハガキ与ふ。」
10月12日 角川書店『ハイネ恋愛詩集』改版6版1万冊の増刷掛る、計31版。
10月19日 長男、史氏一家に男児誕生。
11月2〜5日 服部正己未亡人滞在、亡夫の『ゲルマン古韻史の研究』の再版に奔走するもならず。
12月 1日 義母、弟宅へ移りゆく。
12月17日 『Politeia』記事に不快感。

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昭和43年 1月 1日〜昭和43年 3月31日
25.2cm×17.8cm 横掛ノートに横書き

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1月1日
9:00雑煮くひ、そとへ出て杉並郵便局へ林素梅小姐と吉森夫婦への航空便出す。
(ユとのかけにかち1,000円とる。ただしよべの紅白歌合戦はユのみ勝ち50×4とりし也。)
賀状みて難波和子の来しに銀行の無礼咎め、滝本生来しと話す中、史夫婦、雅子をつれて来る(15:00)。
松浦家へ追出せしあと17:00大来り21:00まで酒飲み話す。
角川文庫より72,800(ハイネ)の印税来り、史にきけば「12.28出しの小切手1967年度に入る」と。

1月2日
母、滝本生につれられて東京駅(10:59発、湯河原へと)。大によれば「年末陽生2万円返金に来り、あと千草のhysterieの電話ききし」と。
賀状出しにゆき賀状受取。(※省略) 田代継男氏呼べば来り「新聞社員に弓子を」との結論いひて16:00出る。
駅まで送りハガキ40枚かひ『屈原(150)』買ふ。目加田誠氏、九大より早大へ移りをれり。
平凡社より『日本──歴史と文化』稿料代りに賜はる。18:00まへ、大やっと悪態つきて出てゆく。
20:00東都書房より「花の便り」組上げすみ「承諾たのむ」との速達。

1月3日
東都書房へ断りかく。(よべ21:00眠り6:00さむ。) 賀状の返事かく。
9:00賀状出しにゆき堀多恵さんに夫婦してゆき(留守に早川智慧氏(※宮崎智慧)来り、茶碗くれしと)帰りて昼食。(※省略)
賀状朝夕見しに松本善海なきゆゑ、(佐伯に2度ゆき1度は青木書店見、家につれ帰る)電話して、
夫婦して会ひにゆき「震戦マヒ(※パーキンソン病)」ときき、斎藤dr.にゆかんといへどきかず。
むすこ嫁とり19:30来るをまてずtaxiにて帰り来る(480)。
松浦父上より電話あり「史ら5:20のりし」と。電話かければ母上出しゆゑ礼いひ武田兄の賀状なきを案ずといふ。
(けふ佐伯にて買ひし雑本、夫婦にて6冊、青木氏によれば「佐伯を意地悪爺と業者いふ」と)。壽賀子に長電話して叱る。

1月4日
晴。4:00さむ。弓子7:00ごろより和装しかけて美容院にとゆく。9:00ユ、松本夫人に電話せしに「変りなし」と。
林叔父より電話「けふ母ゆく」といふ。ユ俊子姉に電話すれば「光子産院に入りし」と。散髪にゆく。
大に電話し、この間の晩の電話咎め「3人にて来い」といへどきかず。(※省略)
賀代嫗来りし故、非礼なじり(母と大船で何とか会へしと)、滝本生の出入差止を云ふ。船越にゆかさず。

1月5日
9:00林叔父叔母に泊りしユに電話さす。「寿賀子に寄りて夕方帰宅」と。タバコ買ひ、佐伯にゆき『インドで暮らす(80)』買ひ、賀状整理。
午となり太田温子に賀状出さぬを問へば「成田へきのふゆき風邪なれど来る」と。林富士馬君に電話、文章咎め、
宮崎智慧さんに一昨日のわびいふ。「7日来るつもり」と。
太田温子を迎へに家のまはりにゆき13:25に会ひつれかへる。日本髪にて来る。面接のNo.1なりと脅かしゐるところへ母をつれて寿賀子来る。
17:00喜多村鈴子生、会社ひけたとて来る。cakeもち来り『人間の星』もちかへる。寿賀子の帰りつきしをきく為、電話すれば寿一出て来る。
田中久子生に20:30電話し「あす午前中来い」といふ。

1月6日
久子に「洋装で来い」と云はせ、畑山博に電話すれば「洋行3回。12月3日理事やめた。塩山の三沢老師いざとなれば東洋大へ出てゆく云々」。
田中勤未亡人に電話すれば「正平博士23回忌に案内なかりし」と。
午まへ田中久子と話す中、(※省略) ボーリングの前で待つといふ太田治子、菱田槇子と保坂生とへゆき5人でやる。
保坂最上位、太田最下位、われ4位にて茶のみ、走り帰れば豊田智慧子・美智子の母子まちをり。(※省略)
天野忠より去年9月の詩集(※『動物園の珍しい動物』)、竹内の『魯迅友の会会報40』、中井清『丸山薫の世界』来る。中井氏著を(※豊橋の)史に送ることとす。
夜、太田治子に電話「ボーリングのこと他言無用」といふ。

1月7日(日)
弓子をボーリングにさそへどもきかず。寿一に「よけいな世話やめよ」の電話すれどきかず。
佐伯へゆき『東海道新幹線(110)』買ひ来る。(ユ、われが礼拝にゆくを許さず)。
12:00ユ、帰り来り、14:00出て数男みまへば憔悴しをり。三郎家にて「5日朝光子男児生れし」をたしかめにゆけば、61才と孤居しをり。
(※省略) 帰途今井家を通り、尚子の妹に北京にてといへば「どこかわるきや」と、わがstickに不審起す。
かへりて賀状見て佐々木邦彦の元旦詩筆の画を見、母のすぐ赤阪へ逃げしを知る。
「宮崎智慧さん19:00来る」とて大阪ずし食ひて待つまに (※省略) 19:10宮崎智慧さん、弓子に縁もち来たまふ。

1月8日
3:00さめ(22:00ねむり)ゴタゴタ、ユと話す(弓子ききつけて怒り早番とて7:00出てゆきしと)。
6:00散歩に出、ハガキ10枚駅売店で買ひ帰宅。8:00陣屋に2泊1人を申込む。「けふは3,500以上の室ありなしわからず1万円にてよし」と。
9:00まへ悠紀子より先に出て齋藤dr.。松本善海の病気につき申す内に悠紀子来る。「天才と思ってはダメ」と也。
出て二幸にてユとそばくひ、別れて東豊書店にゆき『天工開物(150)』、『台湾島々歴史輿地誌(350)』買ひ、また小田急にのり東北沢で下車。
近代文学館の笠井女史を訪へば「兄は牧師で詩人、いま雪中で孤りゐる云々」と。Lunch饗しつつ聞き、井之頭線で下北沢下車。
古本なきにおどろく(「暦」を買ひし)。
よしと思ひ、14:20鶴巻温泉陣屋をたずねあて室に入り、係り女中にきけば宮崎邦子(38Aにて本多弘子、鈴木勝美のクラス。高田semiにて直哉かきし画の上手)婿とり(準養子紫藤姓)、1.7才の女児ありと。のちほど丸まげにて来り、beer1本出す。
「20:00名古屋より史帰る」とのことに「娘つれて来よ」といへば20:30電話かけ来て「来訪せよ」と。「入湯する」とことわり22:00就寝。

1月9日
5:00さめ6:00帳場に電話し、ガス煖炉つけなどし、9:00の配膳まで待つ。(きのふ常務のもち来し柏餅みなくひし)。
10:30来し常務に「書画見せよ」といへどきかず、「二度と来る勿れ」となり。はふはふ出て成城着12:00。
研究室開きをり、鎌田、野口2氏とあひ、論文3冊とり、(※省略) 野口君電話して陣屋にまたゆき、すしとらせ(180)、髭そって出、帰宅。
(※省略)

1月10日
10:00眠り5:00さむ。ユ姉に電話し、写真のこといひついでに数男入院とわかる。(※省略)
9:30佐伯へゆき留守の坊やより『北郊雑記(50)』買ひ来る。(※省略) 午食すしとりしあと、太田治子よびボーリングしてわれNo.1。(※省略)
今日、京2日泊りにて苗場山へと出てゆく。20:00すぎ澄に電話すれば呆けた声にて「高松滞在は4日間」とのみ。

1月11日
よべ21:00就寝、4:00覚む。(そのまへねぼけて門まで出し)。
茶のみ菓子くひ、またねむり「トボ」ねごとにいひ、岡坂一福(※浪速中学校校長)と遭ひしところにて覚む(9:00)。
12:00まへ午食して登校。彦根より図書館に来し西田氏(55〜56才と)訪ねしも会へず。(※省略)
短2A「長恨歌」1/3すまして了へしに小林生ききに来る。疲れて母に電話し(44才と)家へつれ帰り19:00までなり、あとは土曜となる。
(ユ明るいところまで送りゆく。) (※省略)

1月12日
1:30覚め眠れず。炬燵に火を入れなどし、7:00ユの起きるを待てば、よべ宮崎(早川)女史より電話「見合はいつか」と逆に問はれしと。
9:00出て成城大学。(※省略) 小倉生『道造全集』ゆづれといふに否といひ、中西博士からかひ(彦根より来し西田氏に逢へば藤野(※藤野一雄)の友といふ)。
すみて小田原へ三好達治の趾見にゆきしも寒し。さむざむと箱根の山におほはれし夜の町にゐてわれは歌はず。
天津の栗を欲りせし女をばあはれ知るかにわれは見やりぬ。
(※省略) 建より「弟を弓子に合はせよ」と。弓子、母を芝居につれゆく。われ夕方より低調となる。数男手術せしと。

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1月13日
6:00さめ(母「帰り来て声かけしに返事せし」と)、火おこし7:30小林生に来よと云へば「午后」と。
8:30松村潤君を面罵して「研究会にゆかず」といふ。9:30佐伯にゆき朝鮮僧の詩集「若槻礼次郎閣下に献ず」とあるを3,500とつけあるを嗤ふ。
東洋文庫に電話すれば岡田君出て泰然自若、われの欠席を認む。『明と清の決戦』の評を『東洋学報』に書くといひ「よし」となる。
(※省略) 17:30ユ帰り来り「惚れた」様子、月収4万2千円2DK1,000の家つきと。大に電話すれば在宅。
けふ母と話し、わが「失敗を父、知らざりし」と也。20:00京、帰宅。20:30弓子、帰宅。機嫌よし。
21:00まへフト数年にての還暦祝を上野精養軒で行ふこととし、招待者を定む。
親子弟妹、斎藤dr.、北杜夫dr.、栗山理一dr.、大藤時彦夫妻、浅野建夫dr.、竹森先生夫妻、森田先生夫妻、集英社鈴木重役省三、齋藤晌dr.、横山薫二dr.、田中健五dr. (わが還暦祝) 43.1.13 弓子の見合の日

1月14日(日)
5:00まへ覚め茶をわかし「サルフの戦」きのふ200×3書きしつづきをやる。
6:00より老母と今井たけ祖母のこと話し「維新の時江戸へ逃げる身分ある夫婦が中川(与力?)にわたし神前家で育てられし」と。
俊一祖父とのこと話し涙出づ。7:30ユ起き出、8:00ひげ剃り9:00出て吉祥寺(Americanといふ菓子とjuice240)9:20教会につき竹森先生と話まいらすれば『大世界史』は見てをられず「9月渡米、Christmasはドイツで」と。
その中お伺ひすといひ、礼拝委員つとめ、帰り『人は何で生きるか(20)』買ひ、竹内好夫人に電話すれば「風邪で臥床」と。「その内お見舞す」といひ、
ユと電車同じくなり、佐伯にて『神皇正統録2冊(100)』と『地下墓所の殉教者(20)』と買ひ帰宅。
百瀬弘氏より「その内に松本を見舞ふ」との便りあり。『民間伝承279』来ありし故、戸田謙介氏へ礼にとbeer3本もちゆく。(※省略)
13:00伊藤生来り、わが「竜之介論」ききて阿部生に会ふと帰りゆく。そのあと田中健五氏海苔もち来り、近々増版と喜ばしゆく。(※省略)
ユ『芥川全集Vol.8』にわれ自ら「発狂せし」と書きしとのことに、野中氏との縁なしといふ。
磯田生にきのふ電話せしが、けふ21:00すぎ母泣き乍ら電話し来り「娘、家出しをり!」と。「鎌田担任にも云へ」といふ。
一方、伊藤生、近(新潟 小川未明やると)、阿部(米沢 伊勢やると)の2生つれて22:00近くまでわが話きき「勉強する」と約束してゆく。

1月15日(成人の日)
3:00前覚む。(※卒論指導省略) 8:30出て各停で千駄ヶ谷下車。睡眠不足と躁と甚だしきを申上ぐれば斎藤dr.、苦き顔さる。
投薬中に眠剤入りをらぬを発見、看護婦にいひmorning serviceのcoffee(60)のみに入りしに、ひまかかる故やめ、新宿まで歩き佐伯にて『若き日の芸術家の肖像(100)』、『日本語の種々相(90)』、『cama-stra(400)』買ひ、史に『一姫二太郎考』送れとユを追い立つ。折しも美紀子より本の礼来り、(※省略)
19:30近く(※省略)君、宮崎智慧氏につれられて来り、(※省略) 弓子に「交際せよ」とすすむ。
(※省略) 鎌田女史より電話「磯田生、家出同棲。(※省略)」と。「仕方なし」と答ふ。

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1月16日
23:00ごろ眠り7:30覚む。斎藤dr.のおかげ也。
10:00麝島マリ子に電話しRomeよりの帰国喜び「けふ13:00ごろ来てみよ」といふ。
ユをして宮崎女史に電話すれば「澁谷君、先生をもしろいが本人わからず」と。「つきあひせよ」と云ひやる。
佐伯へゆき『ガーンディー聖書(30)』買ひ『海上の道』、『江戸文学と中国文学』、『大世界史4』註文す。
高原弦太郎(山田源之助)氏より賀状!。
『日本の詩歌5(朔太郎)』、前川佐美雄『日本の名歌』来る。
帝塚山同窓会の田原氏に電話すれば「空席」と。
中央公論社に電話せしに11:30鈴木女史と竜馬(※佐野竜馬:山岸外史娘婿)とあらはれ「直接石原八束氏と話さん」と。
田原氏「今中に非ずや。われは21期」と。西下して庄野英二氏らに会ふとて後日を約す。
12:30出て成城。鎌田女史に「磯田生のprivacyかまふな」といひ、(※省略)
244での臨時教授会。(※省略) 帰途、関本助教授と同車。新宿でjuiceのませれば「旨し」と也。
20:00ごろ聖ヨゼフ寮の土田生に電話せしに「不在」と。入浴中に電話かかりし故
「20日13:00高田文芸学部長の譴責を受く。主に感謝の祈してもらへ」といふ。
けふ午すぎItariaより帰りし麝島マリ子来り、盗難の時の話をす。知らぬ間に財布前におちゐしと。
われ見し瞬間「buon giorno!」と挨拶す。

1月17日
7:30覚む。9:00出て成城。東洋文化史にて答案の書き方話し「Torna a Surriento」と「おくめ」と歌ひ、
天丼ほぼ食ひ「論語」すませ帰りがけ柳田文庫あきゐるを見て入り(※省略)、
電車に清水常臣生来しゆゑ「革命状況に於るコミュニケーションの機能(岡田ゼミ)」のため、
東豊書店に伴ひ、主人帰る迄にわれは『台湾語典(180)』買ふ。主人「そのうち一食せん」といふ。
帰ればユをらず西角文雄氏より「父桂花儀10月3日死去」と。(※省略)、
西角文雄氏に弔辞かき、花料母と2,000送ることとす。(※省略)
『果樹園』にと「大鉄鎚」作る。「ポリテイア」批判也。

1月18日
5:00前覚め、火おこし湯わかす。7:00ユ起き弓子出勤。(※省略)
10:30柿崎、田中久子2生、広瀬生を伴ひて来る。(※省略)
13:00、4人にて出て(うどん食はせし)成城大学。(※省略)短2Aの唐詩「長恨歌」をわが「コンパクトブックスで見よ」といひて廻覧し王維の「送元二使安西」を再び歌ひてすませれば、
男生1人、漢文の無効を抗議に来て叱られてすみしあと、
文2A石田篤子「熱海よりむりして通学」と泣きて抗弁し、「先生に侮辱された」と失言せし故、
「叱られた」と云ひ直させ、涙ふかせ試験受くるを許す。「クリーニング屋にて家の手伝ひす」と也。
(※省略) 了りて田中久子、庄田2生を誘ひ下北沢下車。風月堂でしるこ食ひ、
佐伯に寄りて『日本語の年輪(65)』買ひ金なくなる。
『大世界史7』来り、村上正二1人にてかき、挿込に岡本敬二かくを見る。
けふ京のさそひにて母芝居にゆくと也。
20:00まへ弓子帰り「(※省略)氏に会った。お父さん変った人ですね」と也。(※省略)
名古屋へ電話すれば「縁談の事きいた!」と。

1月19日
京と母と帰るをまたず、22:00前ねむり5:30覚め、火おこし茶のむ。
きのふ叱りし石田生(熱海)に歌3首。(※省略)
9:00出て成城。清水常臣生と同車、「革命前の報」かき、わが1年の東洋史に「幌子考」かくと也。
2時限『中国后妃伝』よめといひ、semiの時間誰も来ず。
(東豊書店より本『舟車所至』など27,680着きをり。大藤主任のもとに書類わたす)
妹尾生に電話すれば外出、岡田生に電話すればこれも外出と。13:40ごろ来り、増田と共なり、
面接No.1とて心得話し「2.12強羅へゆかん。他の小西、白幡に連絡せよ」といひて茶おごる(320)。
4時限の中国文学史すましsemiの4生(坂、山野井、小武守、山本邦子)と出て成城堂。
(※省略) 同車して聊斎の「嬰寧」などにcheckす。
「大安」来をり。けふ宮崎智慧女史の電話にて「澁谷君、父こはし」といふときき、武蔵関へゆきみしに地主らしとユ。(※省略)
京、(※省略)某の悪評きき来りし故、弓子にstopを命ず。
『サンデー毎日』1.14号を見て成城文芸の9.7は日本一むづかしき事わかる。
依子に電話し「山本利生の方早く」と母とユとこもごも云ふ。

1月20日
6:30覚む。散髪にゆき、(※省略)
すみて『週刊朝日』1月26日号買ふ。「大学授業料を監査する」を見んが為也。
野中夫人より「上品すぎる」とことはり、われ宮崎女史に「縁なし」とことわる。(※省略)
依子より電話「山本利生あす伊勢へ帰る」と也。11:30出て12:30成城大学。
妹尾生をり、待たせて土田生の高田部長譴責に立会ふ。すみてsalaryもらひ、
成城堂で『性と愛情の心理(100)』買ひ、土田生に『世界の詩』買はせ、
「すみれ」へ2生伴ひて喫茶せしめ、われはHamberg-rice。520払ひて土田生と同車。
代々木上原にて下車するを見て南新宿下車。東豊書店にゆき店主と長々と話す。
「妻は日本人、易学生として滞在許可受けアメリカ法を大学院で研究。林素梅(※日本へ)呼ぶ法あり」と。
本多く買ひてまた南新宿よりのり16:00すぎ帰宅すれば林叔母をり。(※省略)
夕刊に鎌田日銀理事(※鎌田正美)停年退職と。西川(※西川英夫)に電話すれば夫人出て「まだ帰らず」と。
(※省略) 西川より電話あり「鎌田、日本証券金融副社長となりし」と。
西川に電話すれば笑ひて相手にならず!

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1月21日(日)
7:30覚む。斎藤茂太先生「長男」とのteleviに御出席。9:00出て礼拝。
すみて古本屋。『性神風景(470)』、『涙眼集(30)』、『謡曲(30)』買ひ佐伯に寄り1万2〜3千円の本を成城にといひ、『川柳小話集(80)』もらふ。
昼食後、金沢良雄に電話してゆき2月28日婚礼といふ長女に説教す。
金沢停年後は成蹊大にゆくと也。家まで送り来しゆゑ『Kama-sutra』1冊贈る。
母、数男の見舞に行く。(※省略) 明武谷1勝のあと6敗つづけしがけふは勝つ。
「鈴木きみ」のpen-nameにて「春の風景」8首は『R火2(昭和5年4月)』より写す。(※省略)
大伴道子氏に電話すれば「『紫珠』5日前に送った。稿のった。毎週第3日曜が会合」と。「来月ゆく」といふ。
田中正己氏あての賀状放りあるを知り、悠紀子を3ケ撲る。
賀代嫗に電話し「滝本生に羽織せかしてくれ」といふ。

1月22日
よべ23:00ごろまでねられず。4:30覚む。阿南君「サルフの戦い」評200×14となる。
6:00すぎ新聞とりに出て、よべ雪少々降りしを知る。「大鉄鎚」送ることとす。
8:30出て千駄ヶ谷行にのれば金沢嬢と同車!「まだ愛憎わかず」と。「ゆっくり確実に」と説教す。
齋藤dr.に悠紀子撲りしこといへば「うちでもslow motionで、時々やるが後味わるくてね」との事也し。
「大安」に電話し『金瓶梅(20,000)』買ふ。ヱハガキもらふ。
山口書店のぞけば『楊貴妃とクレオパトラ』1,000と値つきゐし。
水道橋より帰りink買へば小瓶60となりをり!杉山平一氏より詩集『声を限りに』来り、(※省略)
昼食にうどん食ひ、郵便局に『果樹園』への2,000出しにゆけば昼休み。
駅で待ちユのうろちょろするに怒り、また二つ撲れば逃ぐ。本局にゆき現金封筒速達とし、(※省略)
『金瓶梅』のcardやらんとすればユ帰り来り悪態つく(13:30)。
ふと数男見舞にゆく気となり河北病院202号にゆけば1.20手術、10日たちたれど経過宜しからずと見ゆ。
匆々出て栗田にて『大東急記念文庫初公開展解説(100)』買って帰る。
16:00宮崎女史より電話「来て宜きや」と、「宜し」といふ。
17:00来訪。歌8首もち、お礼すなほにもちゆきたまふ。「早川孝太郎先生(※夫君)のcard寄附しても宜し」と也。
河野浩子夫妻へ返信かく。福地邦樹氏へ「詩が出来る」とかく。
京のもち帰りし『紫珠』の「この道」誤植だらけと大伴道子氏にハガキかく。
夜、建より母に電話「弓子と(※省略)と名古屋で見合させん」と也。(※省略)
22:00までかかり「サルフの戦い」評200×18書き了ふ。

1月23日
6:30覚め、茶わかし火おこしす。(※省略)
松村氏に電話すれば「『東洋学報』は和書紹介はだめ『東方学』にと神田氏に話さん。岡田君大丈夫」と。
松本善海に電話すれば「夫人出勤」と。(※省略) 佐伯に寄り『Botticelli(250)』、『裸婦(200)』買ふ。
(※省略) 神田教授より「『東方学』に書評欄なく『史学雑誌』ではどうか」と。
12:00母、赤坂へゆくと同時に出、代々木上原下車。東豊書店へゆき1冊重ねて買ひし本返して、
『琉球与鶏籠山』とり、『中日民族文化交流史(330)』、『太平天国革命史(110)』買ひして南新宿より乗り成城大学。
(※省略) 教授会にて。佐山教授を認める。(※省略)
国井夫人と海江田助手とにて汁粉。駅構内dept.で食ひて帰宅。

1月24日
6:30目覚む。(※省略) 8:30出て9:20成城大学につき10:00より卒論指導。
日本史午前中にすみ(※省略)3生すみしところにて昼食(ちらしずし)。13:00より東洋史の残り(※省略)すまし(※省略)
成城堂にて『大漢和辞典11(4,300)』、『中国2(490)』、『源氏物語(150)』、『浮世六記(100)』、『隠語小辞典(280)』買ひ『灯火の歴史(40)』もらふ。
帰り佐伯に寄り『芥川龍之介拾遺(900)』とりよせたのむ。(※省略) 帰りて炬燵に火入れ『紫珠』の誤植訂正して大伴道子氏宛に包む。
(※省略) 柏戸の負けるを見て大笑ひし、赤坂に電話すれば「大、一仕事せし」と。
佐伯へまた赴き『大唐の春(450)』、『三人の仲間(100)』、『黒いアフリカの宗教(100)』など買ひ来る。(※省略)
坪井明へ「賀状なきはいかが」と『果樹園』の「いきのこり」を送ることとす。

1月25日
7:30覚む。東北工大学長に内田英成(56)を専任とアサヒに見ゆ。
また昨日ナゴヤ駅でソ連副首相バイバコフを木刀もて襲ひし「すりだて某、父は愛宕山自刃の一味にて、いまは不二歌道会なりし」と。
澄のことしきりに思ふも便なし。(※省略) 10:00田中久子、庄田の2優等生来り、一分おくれて柿崎来る。(※省略)
柿崎生去り、ユ帰らざる故、家しめてBowlingにゆけばわれ2位にて66と悪し。
帰りてユ15:30帰るまで待ち、honey-wineのまし、庄田生の観劇に去りしあと田中生に弓子の吊書と写真とわたす。
けふ、この間叱りし石田生喜びて「仏教の話ききたし、家は破産に瀕す」との手紙よこす。うれし。
Bowlingの帰り「うつぎ」にて『弛緩機能(50)』、『恋愛と性的健康(50)』、『日本と比律賓(70)』買ひし。
丸重俊呼びて話すうち准養子可といふことにして「また来よ」といひて21:00帰らす。
ゆふべより弓子skiiにゆきて3人にて淋しければ也。(※省略)

1月26日
7:00覚む。寒し。『金瓶梅』のcard、1オ5すむ。(※省略)
10:00大宮八幡の早川智慧氏に電話すれば「孝太郎先生のcard運賃先払ひにて送る。ただしゆっくりと待て」と。
出て11:00成城大、面接中の室を見やり12:05入ってゆき庄田、田中久、柿崎の3生を優とす。(※成績 省略)
14:00帰らんとすれば大藤主任「他言無用」と。佐伯で駄本見てゐれば今井翠うしろより来る。「美紀子の筆無精叱れよ」といひて別る。
佐伯で雑本買ひ忘れて電話かけてのち取りにゆく。集英社より『詩経 下』にて『漢詩大系』完成の挨拶。
小高根二郎氏より同人費の受取。元気なき明武谷、高見山を投ぐ!
澄より電話「(※仕事の報道で?)すりだてにて手柄立てた。弓子の見合の世話す」らしかりし。
夜21:00「サルフの戦い」の評28✕200草し阿南氏に送ることとす。(※省略)
23:00電話、山本達郎博士より「太田常蔵君、肺癌で亡くなりし」と。礼いひ同級に知らすといふ。

1月27日
4:00.さめ、級友の住所かきぬき、「鴎外の友田中正平」4行かく。
6:30太田君に電話すれば嬢出て「結核といふことにしておいた。葬儀まだきまらず」と泣く。「のちほど伺ふ。同級生にはしらす」といふ。
7:00電話すれば内村不在。松本夫人「悼む」と。岡部出て「いま一人ぐらし。葬儀の日取りしらせ」と。
弓子「早番」と出てゆく。10:00出て三鷹駅より調布行のbusにのり途中で降りて西北へと尋ねてゆけば兵学校の同僚(埼玉大学名誉教授)と見とまり、
涙ながらに挨拶し、学芸大の同僚(桜井芳郎君タンコブつけてをり)来り、葬儀は自宅にて29日13〜14:00。
葬儀屋の見積り8万円会葬礼状500枚などときまり、われ山本達郎博士に悼辞たのむこととなる。
12:00甥の運転する車に乗り禅林寺の鴎外墓にゆき見れば於莵先生の新墓なし!
天ぷらそば(130)食って浅野医院にゆけばdr.をり(※省略)、coffeeのまされ、宅診ひとりすみてのちautoにて三鷹駅。
帰宅すれば鎌田より「謝す」のハガキ。阪本越郎氏より「天下茶屋生れは?」との便りあり。
山本博士に電話すれば「悼辞承知」と。鈴木俊氏に電話すれば「29日差支へあり」と。羽田・川久保・原口3級友に速達にて通知。
阪本氏には「三原郡賀集村」といふ。「正平博士」3枚とし、大江叔母に甚城祖父の生卒年を問ふ手紙かく。
松本健次郎へ「浅野の出版を創元社にてはいかにや」と問ふ。(※省略) 躁の症状われながらいちじるし。(※省略)
21:00すぎ岡部より電話あり「29日12:00三鷹駅南口にて待合す」こととなる。

1月28日(日)
よく眠り8:00覚む。礼拝休む。(※省略) 10:00すぎ佐伯へゆき『English through Pictures(50)』、『現代結婚入門(50)』、『神を尋ねて(30)』、『世界の能(100)』、『雨月物語(70)』買ひ、「うつぎ」にて『標註神皇正統記(100)』買ひ帰る。(※省略)
19:00賀代嫗来り、「数男の見舞にゆけば経過好し」と。20:30賀代嫗去るまへ「田中正平2」(200×3)書き、「田中氏系図」作り了る。
21:10田上生より電話「母、癌でなくなった。告別式30日14〜15:00自宅にて」と涙声也。
冬ぞらに行方もしらず去るひとをなげきておもふわがしあはせを。

p12

1月29日
6:00覚む。睡眠感なし。「田中正平1」(200×7)で了る。9:00前出かけて10:00すぎ斎藤dr.より帰る。
先生「眠剤きつくなきや」とのお問ひに「きつくなし」と答ふ。岡部より電話「(※省略)待合12:30にしてくれよ」と也。
12:00出て三鷹にゆくまへ佐伯にて『雨月物語(20)』、『アメリカの制度風俗研究(20)』買ひ、三鷹駅にてMarble(30)買ひて待つ内、
12:10になりしゆゑ「岡部・内村2君先にゆく」と伝言板にかき了へしところへ和田久徳君と長岡新治郎氏(外務事務官Indonesia研究)。
誘はれてラーメン食ひ駅にゆけばBurma国境より帰りしといふ白鳥芳郎君、自動車にあり。のりかへて大沢橋にて下り、(※省略)
和田、白鳥君ともに忙しとて煙香すまし、13:00より弔辞となり、学芸大学長の次に山本教授、あと主任、親友と長く、葬儀屋いらいらす。
2〜300人の焼香すみ15:00すぎ出棺。(※省略) 美紀子より「翠姉に電話で叱られた」と写真送り来る。(※省略)
川久保より電話「2月上京」と。「善海のことあり必ず来よ」といふ。
沈丁花階に植えおき書斎のみ飾りし友のことをば念ふ。
あす公証人加藤勇に談判にゆくこととす。

1月30日
6:00起き8:00朝食前後に滝本生(よべ泊りし)と話す。縫物代に4,500払ふ。10:00前佐伯へつれゆき文庫買はせ『紫式部日記(20)』買ひ、
加藤勇事務所へゆきガンガンどなれば電話かけ、けふ16:00会ふこととなる。
原口君より「ガン年齢になったか」と。小高根二郎氏より「「正平のこと」かいて宜し。同人費はそのまま。白内障になった」と。
小高根・原口2君へたより。大伴道子氏より「きびしい事わかった」と。
(澄より電話「4日見合さすにつき3日によこせ」と。) 12:30出て池袋より歩き田上博士邸。
ユミ子を呼出し「泣け。けふは泣くな。われ仏像に礼拝せず」といひ「御心のままに」と称へて帰り、雑本8冊買って帰宅。(※省略)
妻を癌になくせし医師の頬のこけかなしくわれはながめたりしか。
み心のままにといひて一礼しひとのまなこを見ざりしわれは。

1月31日
6:00覚む。よべ久しぶりに小雨ありしと。8:30藤原畳店より電話「職人に金わたしてくれ5,000」と。10:00より畳屋始業。
(※省略) 岩崎昭弥へ「写真返せ」とハガキ。(※省略)
その中加藤司法書士より中根建築士来り「早くすます」といひ、和田の印押して帰る。(※省略)
「有高厳博士84才で脳出血の為逝去」と。夜、和田統夫より電話(※省略) 親戚表作り了る(20:30)。

2月1日
京、棚卸しと23:00帰り来しあと寝つき5:30覚む。9:30ユ、飯田橋の拾得物係へと、10:00母、赤坂へと逃げてゆく。
よべ23:00帰りし京、留守番也。(※省略) 坪井明より「松田明自重する」と。
12:00まへ出て成城大学。『日本書紀新講』3冊もち帰ることとす。(※省略)
短2Aの試験にゆき「梓弓春あさきとき漢文の試験にまどふ子らのかなしき」態の歌を黒板にかく。(※省略)
帰宅すればユ帰りをり。(※省略)より電話「(※省略)2月より3ヶ月の休職にてすみし」と。めでたし。
けふ大地堂へ切手売りにゆきしに買はず。『一葉青春日記(40)』買ふ。
図書館に『東洋文庫朝鮮図書目録』貸す。岡田館長に「司書の手伝ひさせよ」といへどもとより相手にされず、6日教授会のあと「17:00より国文大学院の会、700以上」と。(※省略)

2月2日
寒し。7:00さめ火入れ。(※省略) 賀代嫗より「統夫の委任状こさへ印の実印証くる」と。9:30出て途中小田急で学生と話しゆく。
11:30よりの東洋史すませれば、家より電話「羽田カルピス会社にゐる」と。電話して16:00新宿駅で会ふこととす。
帰宅して大江叔母より「祖父甚城明治43年5月9日かぞへ年53才で歿」と。
松本健次郎君より「浅野君の原稿当たってみる他人の事に気をつかふな」と。16:00前、新宿駅東口で待ちし羽田来ず。
2回池内一邸に電話し「家へ電話またくれ」といひをく。けふ岡部より「会ひたし」の電話ありし由。
18:00夕食すまし、羽田へ「行き違ひが残念」とかく。(※省略)
(けふ成城堂にて高見順『昭和文学盛衰史(250)』買ひしに、保田を畏れをり。蓮田善明、田中克己は記載なし。)

2月3日
4:00さめ東洋史の採点すます。小高根二郎氏へ「鴎外の友田中正平1」(200×9)を包む。
8:00弓子cameraをもちて通勤。今夜は名古屋泊り也。(※省略) ユの吉祥寺の浅野君へゆきしあと阿部・伊藤2生来り、小西生来る(すぐ帰りゆく)。
2生にユ、うどん食はし、われ『歌日記』にsignの歌つける。
増田正元の兄より電話「家内亡くなった。あす15:00よりルーテル武蔵野教会にて葬儀」と。
佐伯へ2生とゆき伊東生の為に『芥川』注文す。
Vietnamのかご(150)を共産党書店で『小川未明童話集(50)』と買ひ、いやな本屋で『家庭の医学(150)』買ふ。「震顫痲痺」の項あれどよくわからず。
鬱となり『金瓶梅』card、7枚ウラのみ。18:00川久保より電話あり「来い」といへば「明日午后」と。「台湾地名」のつづきやる。

2月4日(日)
5:00さむ(よべ9:00すぎ眠りし)。立春と。寒し。躁止めの白玉のまぬ知慧つきし。元気出て礼拝にゆき、詩2編つくる。
帰れば太田夫人より「(※香奠は)癌センターに寄附した」と。(ユ増田忠夫人一恵の告別式にゆきし)
15:00川久保君(※川久保悌郎)来り、わがすすめに従ひ、松本善海電話すれば電話口に出て来し。
30年の思ひ出縷々と話し、姪の結婚式まで在京とわかる。すしとり20:30帰りゆく。
20:00ユ、澄に電話すれば「見合すんだ。結果本人よりきけ。6日上京、7日わが家に泊る」とのこと也し。(※省略)
ユまた電話して「弓子にトボ(※泰)つれ来らせ」といへば「不安」と依子きかず!
  キリスト者
けふ節分の日もViet-namでは戦闘があり
血が流され火が燃やされてゐる
その血を流すものは
その火を燃やすものは
共産主義者であり仏教徒であり
とりわけキリスト者だ
この最後の者がわたしの心を痛ましめる
主はいはれた
「右の頬をうたれた時は左の頬を」と
どうしてキリスト者がすぐれた殺人者で
敵すなはち隣人を殺して生きながらへ
主に感謝の祈りができるのだ
愛を身をもって示せないのだ
わたしはキリスト者として祈ってやまない
Viet-namに平和を いな地に平和をと。

2月5日
4:00さめ火おこし茶のむ。けふ立春と。
9:30齋藤dr.に「鬱」申し上ぐれば薬変へたまふ。善海の震戦マヒにはお答へいただけず。
往復とも都電にのり、佐伯にて『日本地理体系関東篇(150)』、『同 大東京篇(200)』、エミル・ルドヴィヒ『クレオパトラ(230)』買って帰る。
阿南君より顧みて他を言ふ返事来る。みそこなひしらし。
(加藤事務所へゆけば受付の女史愛想よくなり、ほめれば笑ふ)。名古屋より電話「トボ来るやもしれず」と。(※省略)
「トボ乗ったが、おばちゃんとではいやと泣いてゐた」と13:15依子より電話あり。16:00には家につき至って機嫌よく、その旨ナゴヤの電話に答ふ。
大と澄と会ってのち東京へ澄来ると也(われ寒気す)。トボ夕食を食はず、間食にて補ひゐるらしも、一刻も静止せず。

2月6日
21:00就寝。3:00覚め、いつもの如く火おこし茶わかす。
 老いの眠りはさめやすく
 子らと孫とのいびきをきく
 何たるしあはせ
 いつこんなことを予想したらうか
 主よ この感謝を受けたまへ
8:00まへ出て9:00まへ登校。(※省略) 教授会に出しに一般教養の不満を長々ときかさる。(※省略) 疲れしにcastillaもらひ出て、
駅で庄田、庄司、田中久子と同車。(※省略) 『果樹園』来る。(けふ神田教授に駅で会ふ)
ユ、けふトボつれて今井翠宅へゆきしに、われと母との悪口ききしと。(※省略)

2月7日
21:00眠り5:00覚む。火おこし茶わかし、色ごはん食べんとせしも旨からず。
8:30出て成城。庄田、庄司訂正す。午前中、東洋文化史、午後漢文の試験をし、庄田生の卒論受取り、教務に呈出。(※省略)
帰れば母来をり。トボけふ高子母子と遊びしと。「澄15:30名古屋発、18:00東京着、大と会ふ」と也。(※省略)
22:00澄来り、トボ眠くなる。健のこと弓子のこと話し23:00すぎ床につきしも眠れず。

2月8日
2時間ほど眠り6:00起き火おこす。10:00澄さめ11:00トボつれて竹内家へとゆく。
鬱の最低となり、澄父子帰り来りしのち、ふとんかぶってゐればトボ来て添寝す。
登記所より人来り、ユ相手をす。(※省略) 
なぜしらぬ畏れにわれはふるへをり主はみ近かにてすくひ玉へよ。
夕方より気分やや直り風呂に入り21:00寝につく。

2月9日
1:30さめ寒しと思へば雪ふりをり。けふはトボ帰る日なり。
はしき孫遠くより来て咳しつついたづらしつつあをなやますも。
この孫の嫁とらん日をわれはゐず神のさだめとよくは知れども。
母に電話すれば「山本来る日きまれば帰る」と。10:30澄より電話「今から来る」と。
12:30別れつらく出てゆき1時間待ち試験監督。4生(来学期ゼミ)「あす15:00ごろ来る」と。(※省略)
帰れば恰も澄より電話、トボの玩具もちあそぶ音聞こえしと。
愛するはかなしかりけり3日間遊びゐし子はとほくに遊ぶ。
別れぎは祖母をつれゆき国鉄の動きしなべに忘れしといふ。
20:00松浦父上より電話「日曜今井へ来て寄る。午前がよいか午后がよいか」と。「午后」と答ふ。

2月10日
寒し。21:00すぎねて3:30さめる。4年の採点いやいやすまし、柏井歯科へ電話すれば「けふより始業」と。折しも露出せし神経にとび上りし也。
11:00荻窪廻りのbusにのり柏井。歯一本抜いてもらひ歩いて帰る。15:00、4生来り、16:00までつらくて堪らず。
帰りゆきしあと床へもぐる。(※省略)

2月11日(日)
ユも礼拝ゆかず。寒し。5:00覚む。(※省略)
折しも松浦父上、武田検事の坊やつれて来訪。武田明氏「四国路」を見よと。もろみ一ケと菓子とを賜ふ。
山本和生君も来り、16:00まで「かぜ」と面白くなき顔しゐる弓子に困りはて、すし食はせて帰り、荻窪の姉を見舞ふとのことに、弓子送らすれば茶のんで帰り来し。
赤川氏より「印刷会社に就職」と。

2月12日
寒く、9:00すぎ出て斎藤dr.。眠剤かへ平行線とて薬かへたまはず。
帰りて昼食旨くなく、早くすまして柏井歯科。「さらに抜くはあとにせん」と数男君も疲れたり!
歩きて帰り芋食ひたくなりしといふ。ユの買ひに出しあとに電報。河内狭山局より
「石浜純太郎先生昨日逝去13日1時自宅にて葬儀。帝塚山学院大学庄野英二」也。(※省略) ユ弔電を打つ。

2月13日
『石浜論叢』見て先生明治21年生を確認す。「伯夷叔斉と狐」なる論文あり。(21:00ねて11:30さむ。)
岩崎昭弥君より速達にて弓子の写真返送!20:00ごろ小山正孝氏来り、『四季』脱退残念と!(母帰り来る。)

2月14日
6:30さむ。(22:00ごろねつきしか)(大工さん下見に来る由也)。(※省略) ものいはず母気味わるがる。

2月15日
22:00眠り8:00覚む。雪降る。(※省略)

2月16日
21:00眠り7:30さむ。庄田生より電話「温泉行とりけし。3月にでもせん」と。
雪、朝の中まだ降り電車まびき運転也。終日無為(母、風邪にて臥床)。

2月17日
雪とけず。10:00『日本』を佐伯へ売りにゆけば3,200に買ひくれし故、『五山文学集(950)』、『帰化人』、『漢文入門』買ふ。(※省略)
庄田生、田中久子と小田急へ払戻しにゆき「遊びに来て宜しきや」とのことに喜びて「来い」といひ、ボーリングにゆきしに満員とて喫茶して別る。
けふ川久保より「太田夫人にあった」とハガキ。

2月18日(日)
6:30さめ炬燵つめたき故、起きて火おこす。7:00ユ起き例の通りsoupのみパン1枚食べ9:00出て教会。(※省略)
古本屋見しも何もなし(ゾッキ本、新本ばかりとなれり)。12:10帰宅。夕方より鼻汁出る。
何かしらずかなしくなりて主にすがる心ほとほと忘れてゐたり。

2月19日
7:30さめ、9:30出て齋藤先生。好調申上ぐ。帰りbusにて柏井歯科。(※省略) けふ白酒、昆布茶、干柿買ふ。
『大世界史9』来る。(※省略)

2月20日
よべねつき悪く、朝はやく覚む。(※省略) 建より電話「山本利生結論出ず」と。(※省略)
成城の入試委員会にゆけば特別寄附の申込みわづか6人(1270人中)と。長々と話あり疲れて、
busにて柏井にゆけば数男青い顔してをり「入歯あさって出来る」と。whisky-bonbon(100)買ひて帰宅。
村田幸三郎の話にては「西野変になって死んだ」と。何事も面白くなし。

2月21日
よべよく眠り7:30覚む。午すぎ野上より電話「25日午后来る」と。(※省略)

2月22日
23:00ごろ眠り7:30覚む。(※省略) 12:30出、成城にてsalary受取り成城堂へ5,700払ひ、教務へ採点出し、14:00からの教授会。
試験監督老人並みの扱ひ受く。(※省略) 帰り柏井歯科へよれば「入歯月曜に出来上り」と。(※省略)
佐伯にて『芥川龍之介未定稿集(810)』受取る。(※省略) けふ加藤事務所に2.8万円余払ひてすみし由。

2月23日
よべ眠り浅く睡眠感なし。(※省略) 昨日池田博士にほめられし故『漢詩大系白楽天』を出して見しに誤植多く残念也。
伊藤雅子、田中美紀子、小山正孝にハガキ。ユ16:30帰宅。母、地下鉄にのりちがへ浅草までゆきしと。(※省略)

2月24日
よべくしゃみ2度せしと。日中就床18:00起きて夕食とる。気分直りし。
金嬉老といふ2人暴力団射殺の後、山中の温泉にこもりしが5日目につかまる。

2月25日(日)
覚むれば8:00。ユもともに礼拝にゆかず。散髪にゆく。福地邦樹君よりハガキ。(※進路相談 省略)

2月26日
9:00出て斎藤dr.。珍しくすきをり。すぐすみ、10:00すぎゆゑcoffeeのみ歩きて赤坂見附までゆけば11:25。
星野田中2夫人をりあと和田道下2夫人の来しと「ちゃんこ」へゆけば階段に3児つれ花井藤田夫人をり、藤井夫人とで7人。(※省略)
15:00すぎまで御馳走になり、我殆ど物云へず、室の次ありとて花井ノリ子ちゃん抱いて出、新宿までtaxi。中野で下車するを見て柏井歯科。
みやげの菓子おき上歯出来上る。津村信夫詩集の秀夫兄の文見てをれば、あまり気持ちよくなきはなぜかわからず。
(※角川文庫『津村信夫詩集』昭27年の解説「弟信夫の追憶」を指すか。)
ユに云はすれば「躁ひどかりし故あたりまへ」と。けふ税務署で「納税多すぎた」由なり、これもふしぎ。

2月27日
よべ睡眠感なく8:00さむ。(※省略)
朝、阪本越郎氏より速達あり、「電話しろ」との事にかければ「3月10日来訪」と。
美紀子より写真2枚、田上由美子より嘆きの手紙。ユ18:30帰り来る。

2月28日
昨日と暖し。駄本佐伯へもちゆき(1300)『南洋日本町の研究(1250)』、『大唐の春(450)』、『芥川未定稿集(810)』ともち、
太田家へゆき、この間の菓子の返礼に『大唐の春』置く。治子不在。
帰りて昼食了へしところへ賀代嫗来りし故、家の売買すみしを云ふ。(※省略)

2月29日
家居。暖かし。(※省略) 藤井陽子夫人よりclass会の礼状。躁でもなく鬱でもなくて困る。
本多さんの夫人来り「船越地代おくれる」とことわりし由。夜、ユ5万円を本多さんにもちゆく。

3月1日
6:00さめ8:00起きして9:00家を出、地下鉄にて新宿へゆき成城大学。短大にわり当ててあり世界史1時間監督し、幕の内食って帰り来る。
暖かけれど元気出ず。藤井夫人にハガキ。(※省略)

3月2日
21:00就寝。6:00めざましで起き、地下鉄にて(この3日間国鉄ストなり)成城大学。8:30に試験本部にゆき文芸の入試監督。
男少し、公立多し。すみて12:00帰宅。昼食す。鬱なり。
母より電話弓子にあり、あとにてきけば「大、弓子、京をつれて苗場へskiiにゆく」と也。太田の父より「本ありがたきもよめず」と。

3月3日(日)
9:00出て高校へ試験監督。すみて大阪ずし。旨くなし。(※省略) 帰れば美紀子より雛の礼。
伊藤桂一氏より『定本竹の思想』。柿崎生より「3.21 13:00〜15:30八芳園にて謝恩会」と。「出」の返事す!(※省略)
弓子、今夜より大の招待にて苗場へskiiにゆくと出てゆく。(※省略) 山本利生君より「横浜へ帰った」と挨拶。

3月4日
6:20起さる。よべ寝つきわるかりし。8:00出て成城大学。
監督のclassで一番に出せし子、八王子の医者の息子にて一字もかきをらずふしぎでたまらず。
昼、弁当出るとのこと也しが野口講師の業績もちて一散に帰宅。(※省略)

3月5日
よべよく眠る。(※省略) 午まへ税金の過剰2万円返り来り、筑摩より『世界の歴史』(昭和36年刊行『世界の歴史6・東アジア世界の変貌』「玄宗と楊貴妃の世界」を収録)増版と。プラスマイナスなく終日臥床。
西川より電話「大高の後輩のむすめの採点しらす」と約束す。

3月6日
定期けふにてきれる。12:30出て成城大学。寄附申込10名余にて128点までとることとなる。西川の云ひし中川女は30点足らず。
帰りて西川に云へば「(※省略)」。賀代嫗来りをり「孫の生ひ立つまで20年生きたし」と!

3月7日
8:30出て成城大学。及落会議簡単にすみしあと、教授のみの会にて前田課長のまちがひ陳謝(※省略)、
つづいて大藤教授の65才にて一旦退職、手当もらひ再任とのこと決議す。われふしぎにも同氏の年齢しらざりし。
また他の教授たち最高給になりゐるらしきこと気付かざりし。帰りてプラスマイナスなしにてをり。
(『展望』に中山正善の功罪のりをり。かなし。)

3月8日
「4月末の陽気」と。汗かきながら炬燵に入りをりし。西川に電話すれば「短大2次受験すすめる」と。
田中健五氏より仙台のかまぼこ、『果樹園145』来り、『Politeia』のこと証明す。つまらんず止めんと思ふ。
入浴前、阪本越郎氏より電話。「10日14:00ごろ来る。履歴書かきおけ」と也。
夜、(※省略)君、弓子に電話し日曜横浜で会ふらし。

3月9日
8:00覚む。「よべ雪ふりし」と。母帰宅。夕食後年譜を書く。

3月10日(日)
20年のけふの大空襲を野田宇太郎「午前3時より」といふ。9:10出て教会。第一列にてPãoloの話承はる。
帰り全学連に怒りたまふ齋藤齋先生とつれ立つ。
15:20阪本越郎氏より電話。「小公園のところにあり」と。70pにて『西康省』より多く引き玉ふ。花をも賜り『四季』に還れと云はる。
通りまで送り、『コギト』見て(※選ばれた各詩の)掲載号しらぶ。

3月11日
齋藤先生へまいり診察中、悠紀子より電話、「阪本氏より2度電話ありし」と。
新宿駅まで歩く中かければ「詩の選改めんか」と。「改めずともよし」と答ふ。
けふは寒し。渋谷国忠氏へ「5.19(日)13:00前橋市立水道会館の朔太郎忌に参る」と返事。(※省略)

3月12日
よべ雨ふりしを覚めてきく。朝は晴れをり。井上文夫氏より「サンケイ大分局へ移りし」と。
中央公論社の鈴木女史より「挨拶に来る。あす14:00」と。14:00田中久子母子お礼にと来り、恐縮しゐれば庄司生も松坂肉もち来る。
喜びてボーリングにゆかんと着換へせし処へ野上夫妻来り、2生逃げ、(※省略) これも物くれ憂鬱となりしあと、ぬるま湯に入れば譏嫌直る!

3月13日
よべ眠剤きかず。(※省略) 図書館より「岡田館長、『東洋学報』買はんといふ」と。「柳田文庫にありといへ」といふ。
14:00中央公論社第一出版部長山崎正夫氏、鈴木女史と挨拶に見える。鬱なれば手持ち無沙汰に困る。写真ほしき由。
散歩かたがた美紀子に「行けず」のハガキ出しにゆけば今井武田姉妹に遭ふ。ふしぎ。
夕方、宮崎智慧氏より電話「19:00来訪」と。来たまへば「瀬越氏の縁談いかに」と。

3月14日
弓子「瀬越氏ことはる」と。(※省略) 12:00出て成城大学。落第者なくなり3.31卒、英文に1人となる。卒業Albumもらふ。
そのあと7人の講師、助教授となる。われ独文の野田倬(あきら)氏をわからず相良守峯博士の判定を伝ふ。
疲れて紅茶のましてもらふ。大藤氏も「疲れし」と。(※省略) 母赤坂へ泊りにゆく。

3月15日
8:00昨日2度電話ありし早川敏一君より電話「長崎の佐藤氏たのむといふ」と。「あす14:00来る」と也。
午后出て登校。(※省略) 代々木八幡よりbusにのれば遠し。依子より3月3日写せし豊橋の写真来る。

3月16日
平仄なくなりし様也。14:30早川敏一氏来り、「佐藤氏は長崎県知事」と。直接の知合でもなき様也。長野敏一の名おぼえをりし。洋菓子呉る。
帰りゆきしあと『インド古代美術展(300)』、『ニューギニア高地人(200)』買ひ来る。夕方より雨ふり来る。
夜、澄より電話「四谷の叔母さん癌で死んだ」と也。

3月17日(日)
晴。ユ礼拝にゆく。11:30澄より電話「今夜お通夜、明日葬儀。トボ依子来ず」と。
母帰りふきげん也。(※省略) 筑摩より「Non-Fiction全集再版」と。
18:30ユと母と四谷の諏訪家へ弔問に出てゆく。19:30弓子帰り来る。

3月18日
8:00さめ9:30出て斎藤dr.。「好調ですね」と薬かへ玉はず。都電にて新宿。成城大学へゆけば前田部長会議中。
女の子に書類預けて古本屋見、駅にて鎌田女史に遭ふ。新宿にて昼食(180)。帰れば母をり(佐伯にて『インカ帝国探検記(80)』買ふ)。
(※省略) 『日本の詩歌』7回は宮沢賢治。
15:00訪ひ来しは岡田、妹尾、増田の3生、果物もち来りしゆゑBowlにつれゆき負け、喫茶して帰る。

3月19日
8:00さむ。11:30散髪にゆく(450)。帰れば母、赤坂へと出てゆく。平塚生へ「就職心がけるもむつかし」とかく。

3月20日
8:30出、地下鉄にて新宿。成城母の館へ一番に入る。式すみ写真とる。(※省略)
岡田ら3人と校門を出、栗山博士と下北沢まで同車。けふ見えざりし庄田生より反物もらふ。

3月21日
雨。小山正孝氏、奈良よりヱハガキ。12:00前、飯くはず出て目黒。時間あまる故歩きしに古本屋閉ぢ都電もなくなってをり。
13:00少し前につき相模女子大の謝恩会のふりそで見る。野口、鎌田2氏着きしところにて贈物(帰りてあけ見れば1万円の図書券なりし!)
大藤教授おくれて来り、感謝の辞のあと「30年後」につき話す。みな悠紀子と同年の52才になるなり。われ昇天しをらんと思ふ。
15:30記念撮影してすみ、雨中taxiなくbusにて目黒駅へつく。けふ庄田生来をり、記念よせがきにと一筆す。

3月22日
『風日』来り、「保田の三男直日、去年6月20日逝去」とあり、典子夫人に慰問のハガキかく。
午后、本やへゆき『草花(250)』、『中国伝来物語(450)』、『西夏文字(300)』を図書券にて買ひ来る。釣銭だめと也。(※省略)

3月23日
9:00出てsalaryもらひ、成城堂の払ひすまし、経済の佐藤君と世界史の監督。すみて昼食せしところへ野田倬君来りしゆゑ、相良博士の批評わたす。
わがHeineの訳あるをこの間はじめて知りしと也。(※省略)
帰り、きのふ見つけし平凡社『大百科事典日本地図(2,000)』買ふ。(※省略)

3月24日(日)
6:00すぎ起き、8:30かっきりに登校。(※省略)
国語の試験に戸口助教授いたはってくれる。2次に指定寄附ふえしと高田部長。男生の英語よかりしと大山教授。
11:00昼飯もらひて帰宅。『東京年中行事1(450)』と『考古学の窓(580)』とを図書券にて買ふ。
肥下夫人より9回忌と皿。(※省略) 佐々木邦彦君NHKの用にて上京と。夜、電話するといひてかからず。

3月25日
雨。9:00出て成城堂『吉利支丹文学・上下(980)』買ふ。高校にての試験監督。教授はわれのみ。すみて昼食。(※省略)
帰れば柿崎生、叔母と礼に来る! 淡路の湊の菊川兼男氏より『正平伝』来る!礼状かき菊川兼清野、こたまの写真あるを云ふ。
歴史地理学会へ会費(1,000)払ふこととす。

3月26日
雨。4:00さめ5:00さめ6:00起き成城大学へ8:20着く。欠席2割? (※試験監督)すまして弁当もらひ、成城堂休みとてまっすぐ帰る。
(※省略) けふにて謝恩会の礼状すむ。佐々木画伯へもハガキかく。母はまだ赤坂にをり。

3月27日
斎藤dr.へ9:30ゆけば丁度すいてをり。出て都電にて山本書店へ1.2万円払ひ2万円ほど注文す。
帰り山口書店に寄れば『楊貴妃とクレオパトラ(1,500)』、『神軍(1,000)』、『元々社楊貴妃とクレオパトラ(500)』とみな高くつけをり。
『黄色い葉の精霊(500)』図書券にて買ひ、(※省略) ユ眼科へゆきしあと犬に吠へられ、(※省略) 荒川・佐山の2生bowlingにさそへどきかず。

3月28日
ユ教会の婦人会へとゆく。京休み也。鈴木文平より「三鷹に店独立せし」と。12:00登校の途、成城堂によれば註文と『太平記1』わたさる!
(※省略) 入学試験委員会に出れば高田部長苦しげ也しも、たのまれしもの皆入る。
帰りて長崎県教育長が来しとて大カステラ置きあり。三郎兄、千葉県の寮長に平田(※賀代嫗の娘婿)の世話にてなりしらしく数男より「日曜に祝せん」と。
(※省略) 西洞院夫人「20:00すぎ来る」と。
(けふ集英社鈴木重役より相談─recordつけんかとの─の電話あり齋藤晌博士と同じく「反対」といふ。)
母も留守に来て、すぐき持ち帰りし也。西洞院夫妻来て迎へにゆき凡ねユ話す。(※省略)

3月29日
9:30出勤。助教授昇任を告げしあと佐野教授の停年挨拶あり。及落を発表。浅沼、戸口ら助教授より抗議ありし。沢崎君退職(フランス語)。
昼食のあと1号館会議に鎌田女史出てもらひ、山本よりの本もち帰れば入口に立教の平塚敏一生をり「関東学院へほぼ転職の見込み」と。
山本の包みあければ『新年風俗志』と『平安朝日本漢文学史の研究』のみなりし。(※省略)

3月30日
曇。9:00まへ一家目覚め、京あはてて出てゆきし。(※省略) 11:30来訪。「佐藤知事寄附入学を子にしらせたくなし」と。「尤も」といひ、(※省略)
下痢して気分すぐれず。

3月31日(日)
7:00さめ8:30家を出て最後の礼拝当番にゆく。(※省略) 175人と礼拝参加者多数にて、了りしあと受洗の試問に長老会あり。
礼拝当番(若き人多し)新しく集められてをりトヨ先生の指図受く。一礼して出、成城大学へ井の頭線のりてゆき、
経済の発表みれば(※省略)の3026なし。(※省略)
小田急DXにてrice-curry食ひ、(※省略) 佐伯にゆきしに『本朝文粋』あれどわが註文ではなき様也し。(※省略)


昭和43年 4月 1日〜昭和43年12月31日
25.2cm×17.8cm 横掛ノートに横書き

p13

4月1日
近くのタバコ屋へ約束のGolden Bat10個もらひにゆく。Johnson米大統領Viet-nam北爆停止を呼びかく。
われキリスト者として喜ぶより不景気になるを恐れる、ふしぎ!

4月2日
晴。家居。「浅野晃氏の詩碑の発起人に」と。「諾」と返事。大高会「欠」と返事。昨日よりSiraya語の『公教要理』写す。
『不二』の鈴木正男氏より「蓮田善明」かきたく伊東静雄伝云々と、「浅野晃氏にあり」と教ふ。
ついで社会思想社より速達。「李白」を9月30日までに400枚と。

4月3日
野上夫人より電話「あすの汽車なく、あさって10:30の光に乗る」と。9:00すぎ出て斎藤dr.。薬かへ玉はず。
新宿まで歩き、佐伯にて『文芸春秋』買ひて帰宅。午后、翠氏より電話「豊橋にゆき土産預かった」と。ついで来りチクワ呉る。
澄より電話「高松より帰り依子くたびれ倒れた」と。
(社会思想社福原清憲氏に電話し、「李白物語はいや。杜甫物語ならかく」と。「再考せん」との返事也。)

4月4日
野上夫人に電話すれば「指定寄附のこと家に来た」と也。(※省略) ユ、母の為新幹線の切符買ひにゆく。
澄より電話「14日の出張に旅費出せば依子母子来る」と也。肥下夫人へのハガキ返り来る!(※省略) 坪井明へ「肥下夫人のところしらせ」とかく。

4月5日
(※省略) 〒なし。母帰り来り大に怒る。(※省略) 野上弘14:00来る筈が15:15来て「道わからざりし」と。
成城教務に電話し「待ちたまへ」といひ、阿佐谷駅前よりtaxiにのれば道ふさがりて中々進まず16:00に20分前に区役所前につき、会計、教務、文書の3課に案内す。徳川一門入学せしと前田部長。佐藤氏も4日手続了へし由。16:10すみ茶のみ電車にて帰り来る。
けふ講師室におきありし山本(※山本書店)よりの本もち帰る。

4月6日
滝本女史久しぶりに来る。喜多村生縁談もち来る。本3冊貸して返す。沢井孝子郎君「扇町商業やめ東海大学に出講」と。
けふ母の76才の誕生日。(※省略)

4月7日(日)
ユ礼拝にゆく。われ滝本女史と話す。『果樹園』来る。午后、弓子(※省略)と会ひにゆき、滝本女史帰りゆく。
(母の諏訪massageにゆきしあと大に5万円預りを云ふ。「建の休職2〜4月」と。) (※省略)

4月8日
沢井孝子郎に祝ひのハガキ。(※省略) Golden-Bat10箱買ひにゆけば「今日はこれで了り」と也。
母、神経痛おこりしとまた諏訪へゆく。佐伯へゆき『ロシアの歴史』と『ロシアの経済地理』もらふ。

4月9日
朝、佐藤知事より服地来る。早川氏に電話せしに「すでに出勤」と。散髪にゆき帰れば(※省略)
澄より電話「11日8:45に乗る」と。夜早川氏より電話あり「感謝してゐる也」と。

4月10日
8:30出て斎藤dr.。下痢申上ぐれば「関係なし」と。賀代嫗来り「俊子夫婦喜びゐる」と。
紀伊國屋にて『和漢朗詠集・梁塵秘抄(1,000)』買ひ帰宅すれば母とユと出る処なり。(※省略)
『四季』2号来り、(※削除されず)同人に名をつらねをり。けふ京「新入社員歓迎旅行」と。20:00母より「着いた」と電話。
依子にユ電話すれば「迎へに来ずて宜し」と。

4月11日
雨。14:00依子と泰と来り、母より「大阪着」の電話(20:00)。野上母子来りドイツ語字典送ることとす。菓子呉れし。
入れ違ひに澄来り「明日竹内訪問」と。

4月12日
7:20覚め8:30出て雨中成城大学の入学式にゆく。野上生をり、すみて写真いつもの通りとらず。
成城堂に寄れば『日本書紀2冊(3,000払ふ)』、『懐風藻(1,000)』、『大漢和辞典12』とどけしと。とりて帰る。
澄「竹内家へゆく」とまだをり、けふは兄の家泊りと。けふ田中於菟弥氏に「鴎外の友田中正平1」を送る。花井夫人より「弓子一度見たし」と。

4月13日
11:00ユ・依子・泰、井の頭動物園へゆく。弓子昼食の世話しくれしあと、田中久子生より電話「庄司生とともにあり」と。
「bowlingに来れ」といひ、弓子茶をして出てゆく。
14:30澄、泰をつれて帰り、ユ依子帰り来りしゆゑbowlingにゆけば庄司生うまし。
すみて帰り澄に聞けば「竹内(※竹内好)仕事せず、奥さんきげん悪し」と。17:00澄、名古屋へと帰りゆく。(※省略)
文化史4回生「4.26(金)クラス会す」と。

4月14日(日)
復活祭の礼拝に出る。(※省略) 夜、早川氏「佐藤知事に会ひし」と。

4月15日
(※省略) 坪井明より電話、「韓国へゆくにつき忙し。肥下夫人のところ知らず」と。
太田常蔵夫人より「本500冊刷り200冊しか売れずと通知あり。いかがせん」と。
「われに任せよ」と云へば「本屋に云へば通知せしのみとて心配いらず」と。(※省略)

4月16日
9:00出て10:00図書館。中国書の著者名教へ、『解釈と鑑賞』に保田のわがことかきゐるをよみしあと、栗山氏(※栗山理一)に言はれ「赤面」といふ。13:00より大学院国文科3新入生と顔合せあり。すみて新城博士に挨拶す。
14:10より教授会。組合役員の選挙などあり。例の如くわれには1票もなし。すみて『大漢和辞典第12冊』と『日本書紀』2冊もちて帰る。
けふ依子外出し、ユ一人にてトボ守りせし也。

4月17日
9:00出て斎藤dr.。帰り佐伯に寄りしも何もなし。硲晃氏より『世界史要表』来る。(※省略)

4月18日
雨。10:00出て新宿にて幕の内弁当(150)買ひ12:00これを食べ、岡田英弘氏来るを待ち、山田主任、高田部長に紹介す。
「鎌田重雄博士日大部長やめられし」と告げられ迷惑す。(※省略)
「河野岑夫来る」とのことに早く出て帰りtelevi見る中、来り「腎臓悪し」と也。
「18:00より会あり」とてユ、南阿佐ヶ谷まで送りゆく。(※省略) 大塚生に「4回のclass会に出られず」と電話す。

4月19日
朝のうち雨。9:00出て成城大学。東洋史(1年)の諸論やり、(※省略) くたくたとなりて帰宅。
日野忠夫氏より「おりにふり思ひ出します」とのハガキもらふ。
けふ依子留守の間、ユ泰を今井翠につれてゆき色々気をつかはせしらし。けふは渋谷の西武開店也。(※省略)

4月20日
「依子泰13:00に乗る」とてユとともに出てゆく。我臥して待つに14:00ユ帰り来る。(※省略) 依子より「安着」の電話あり。
ユ買物に出てゆけば弓子の縁談につき電話「慶応出の1人息子」といふにユ断る。
(※省略)『大世界史』来る。食欲なきを案ずればユ笑ふ!

4月21日(日)
よべ眠りし故9:21にて吉祥寺。礼拝に出、外人の説教きく。そのあと総会。(※省略)
齋藤齋先生の質問長く13:30となり、はふはふ出て中華そば(60)食ひ、
阿佐谷に帰り『ハイネ』小林圭子に買ひ、出しところにて伊藤雅子姉妹に遭ふ。
『ポリタイア』より「愛誦吟を」とのことに朔太郎「わが草木とならん日に」と答ふ。

4月22日
眠気さめざるも11:00出てさばずし買ひ(90)登校。月給貰へば「12号俸」と昇級。
すし食はずして中西博士(※中西進)に「太平記やる。日本書紀やめる。」とことはり、東洋文化史に出れば出席よし。
「朝鮮の婚礼よりはじめる」といひてすまし、大学院にては「太平記」よむこととす。(※省略)
帰り高橋邦太郎氏に会ひ、共に喫茶。「70才になり玉ふ。蒲池歓一氏の埋骨式に出し」など承り、
成城堂に7.9千円金払ひ、佐伯にて『太平記3(950)』買ふ。

4月23日
雨。無為。

4月24日
朝より大鬱となる(起きて炬燵ひっくり返し畳までこげゐるを見る)。斎藤先生に悠紀子をゆかし、薬採らしむ。先生おどろかれし?(※省略)

4月25日
11:00登校。(※省略) 『法苑志林』さがし図書館の小泉君と話す。午すぎゼミに2人。(※省略)
ユと入れ代りとなり、京に夕食してもらひ、televi見てゐれば母子21:30帰宅。(※省略)
(人物往来社より「女人伝」かけと。いやといへば「何か男でもよし」と。相手にせず。)

4月26日
『Politeia』と『文芸広場』来しを見て11:30登校。(※卒論指導 省略)
講義にゆき『詩経』よめば最前列の男生「ねむかった」と也。鬱々として帰り来る。(※省略)

4月27日
起きて斎藤夫人お見舞にといひ、9:30ユと出て三鷹。参れば斎藤先生御在宅。夫人「よくなりし」と茶の用意したまふ。
帰れば建より「(※省略)気に入り弓子の気持きいてくれ」と。
小山正孝氏、詩集もちて来たまふ、「相変らず出来ず」と申す。夜、弓子に建の手紙見す。

4月28日(日)
ユと礼拝にゆく。雨。弓子のこと祈りしも聴き玉ふや否。帰り佐伯に寄り、成城への本送りたのみ、『漢学速成(100)』買ひ『龍の星座(400)』借り来る。
丸重俊来り「高校クビとなり民俗調査す」と。いふこと無し。(※省略)  『文芸広場』に「書くことなし」と返事す。(※省略)

4月29日
坪井明より電話「サッカー試合に団長として今より羽田出発。(※省略)」と。
弓子「どうしてもいや」といひ出てゆきしあと、嘆息し、『龍の星座』の代払ひに佐伯へゆき、40円が最後の「新生」5箱買ふ。
夕食の時、弓子帰り来し故、建へ「縁なかりし」との手紙かき、ユと弓子に見す。

4月30日
ユをして建への速達と、青木母(在巴里)への航空便出さしむ。
下痢3回、昼食して出しもかったるく、途中にて引返し、教務へ「教授会欠席」の電話す。(※省略) 小高根二郎君へ同人費のみ送る。

5月1日
2週間ぶりに斎藤dr.に9:30参れば先客4人。「時間を」と先生いはる。帰り佐伯に寄れば「けふ本、成城堂へもちゆきし」と奥さん。
帰宅すれば畳屋来てをり16:00ごろすむ。(※卒論指導 省略) 弓子帰り来て夕食すませしあと、本棚に本入る。(※省略)

5月2日
朝、渡敦子より「肥下夫人の住所、上田町○○○に違なし」と速達。朔太郎研究会より19日の案内あり。
「青木大乗近作展5月7日〜12日、日本橋高島屋で」と。
11:00出てすし(90)買ひゆき、semi了へ、岡田講師に茶のませ、佐伯の本来るを見、小泉司書に渡す。(「天理の目録譲れ」といふに「否」といふ。)
大藤主任「大学院のため漢籍を用意せよ」と。岡田氏を待ち会計。庶務に案内す。
われも受験手当もらひ(2万2千−税)、佐伯にて『植物図鑑』買ひて帰る(900)。

5月3日
散髪にゆく。シャンプーしてもらひ(500)、タバコやに寄れば「golden batは8日まで来ず」と。値上げ(50)となりし新生1箱買ひ、(※省略)
高田寺の古本市。『台湾山地医療伝道記(230)』、『パウロ伝(500)』買ひて帰る。
弓子展覧会にと出てゆき「喜多村生よりまはりし」とて、仲人買ひ出し夫人より長き電話あり。

5月4日
『文芸春秋5月号』買ひ来てよむ。石田博士より「羅香林の本を」と。「田中健五氏に渡した」といふ。

5月5日(日)
さむれば8:00すぎ。礼拝夫婦ともに怠り、われは佐伯にゆき『帝範臣軌(30)』、『日本歴史評林(100)』買ひ来る。
角川より「『ハイネ』5月中旬1万部増刷」と便りあり。夜、トボに電話すれば「動物園にゆきし」と。

5月6日
登校11:00。山内博士「右半身不自由なるも仕事まだ出来る」とて抜刷を各員に著書を研究室にともち来られ、われ1人ゆゑ「ご無理無き様に」といふ。
午飯の時、中西博士より「妃」の字のこと、福田助教授より中国の星につき質問さる。(※省略)
帰りいつものごとく新宿でjuiceのみ「新生」2箱買ひて帰宅。川久保より『満洲馬賊考』来あり。
夜、松田すみ子夫人より「弓子の縁談あり。見合するや」と電話。「する」と答ふ。

5月7日
雨、小高根二郎より同人費受取ったと。栢木喜一氏より「8月桜井にて講演しろ」と。「体弱り出来ず」と答ふ。
午后、若い人社より詩の依頼あり、これも断る。

5月8日
雨。きのふけふ寒く湯たんぽ入れる。9:30出て斎藤先生。薬そのまま也。
帰ればユ、名古屋に電話し「母10日来り、史夫妻12日来る」ときき、松田すみ子夫人に電話し「京大2人のうち弟(※省略)」となりしと。
『インドでくらす』よみ了へる。(文学散歩の会より「21日(火)17:30龍土軒で会」と。出席することとす。)
弓子の帰宅直前、松田夫人より「金曜21:00〜21:30に来れ」と電話。

5月9日
晴る。10:30出(京、休み也)、『インドパキスタン現代史』成城堂で買ひ、図書館にゆけば宇井伯寿『禅宗史』3冊はすでに2部ありとの話。
大藤主任の印もらひ、すし食ひ、岡田君と会ひてのちsemi「ダルマ」の初めを小武守生に書いてやり宇井伯寿貸す。
semiすみて岡田氏まちてprint切る。岡田氏の説にては「河出書房2回目の破産にて大世界史も11回は10万どころか」と也し。(※省略)
佐伯に寄り『ローマ(80)』、『原始基督教史考・基督教の成立(40)』買ひて帰宅。1年の東洋史のnoteを夕食後つくる。

5月10日
9:00まへ出て成城。1年の東洋史第1章「明の興亡」半ばやり野上生の機嫌よきを見る。すみて「楚辞」のprintとり2時間半たちてやり、
そのまへ「眠し」といひし男生に「けふは」ときけば「眠くなかりし」と!
民俗の子らの問ふ漢字・地名の訓おしへ、新宿にてjuiceのみて帰宅。『Biblia』の「眞柱追悼号」来をり。
あはれなる「人」とおもへばわが神のおしへとわれはあはれみゐるも curie eleison!(※キリエエレイソン)
20:00すぎよりの見合にと弓子をつれユ、19:20出てゆく。
21:00すぎ名古屋より母「元気」と。美紀子、雅子をつれて来てをり、これも電話に出す。母子22:30帰り来り、(※省略)。

5月11日
8:30ユの(※省略)に電話するに目をさます。「交際する」と也。
10:00出て高島屋の青木大乗展見にゆく。画伯夫妻木曜に帰りモト生1人でパリぐらしらし。ヱハガキ80×3。(※省略)
佐伯へゆき『日本の自然(40)』、『伝説・瑞兎号(80)』買ふ。釘本久春氏死去、東京外大教授60才と(足立明子の舅也)。(※省略)

5月12日(日)
礼拝にゆく。聖餐式あり。竹森先生「神の宮」と人間を説きたまふ。(※省略)
小高根二郎氏より「15日(水)17:00第一Hotelに来れ」との通知見る。televiにてDavis Cup比律賓との試合見てゐれば、増田より電話あり。
迎へゆき、日記(昭和30年の)見てユともども思出しゐるところへ滝本生「あす来る」と電話。
「16:00以後に来よ」といひ、すし食はせて増田生を返す。夜、名古屋より母14〜15:00に東京着と。

5月13日
11:00出て成城大学。大学院気持よくすませて帰り、母より涙話きく(建、河野へ来しと)。滝本生20:00近くまでゐて帰りゆく。
(けさ喜多村生へ弓子の縁談ことはり、大より久しぶりに電話あり、母とりて「あすゆく」といふ)。

5月14日
9:00小武守生より電話「父よりの贈物もち来る」と。ことはれば「すでに阿佐谷に来てゐる」と。やがて鯛の浜焼もち来り、2時間目ありとすぐ去る。
10:30出て斎藤dr.。薬のみもらひ(満員なりし)、千駄谷へ出て代々木で車。
東豊書店にゆき3万円余の本買ひ、ラーメン(100)食ひて出れば成城大学着13:30。14:00の教授会に大藤氏欠席。(※省略)
17:00までの時間潰しに『砂漠の文化(200)』成城堂で買ひ(佐伯にて『ドイツ語聖書(200)』買ひし)、
17:00になり、池辺、新城2氏とtaxiにのれば、向ヶ丘の紀伊國屋わからず迷ひて400払ふ。
大藤氏の代りに挨拶し、白鳥芳郎君の気焔きく。清先生食卓にわれと手塚、宮本馨太郎の3人の名、記しをらると。
田中久夫氏と久しぶりに話して新宿まで同車。

5月15日
8:30さめ(よべねつき悪かりし)、ユにタバコ買ひにゆかす。(※省略)「会議は踊る」のLilian Harvey何年ぶりかに見て新宿より地下鉄、
第一Hotelにゆけば、小高根二郎氏、すしと飲物ご馳走してくれ、「『果樹園』あと2年つづけるつもり」と。(※省略)
22:00弓子帰り、そのあと京帰宅。

5月16日
母、大の再婚につき怒りしあと林へと出てゆく様子なりしも10:30われ出て、すしなきため幕の内(150)新宿駅で買ひて登校。
昼食せず12:30岡田氏来ぬうちsemi始め写真もとる。了りて「史記項羽本紀抄」切り、
一昨日の車代400もらひて岡田氏の了るをまち、coffeeのみにゆき(100×2)、別れて帰宅。(※省略)
(けふ十勝沖地震、入厠中にあり。余震ときどき。) 前橋より19日の往きの切符来りをり。浪中同窓会より(※省略)、
『軍記物語の母体と環境(200)』買ふ。21:30、picnicにと朝早く出し京、帰宅。弓子もおきし。
(丸(※丸三郎)に電話し、「八戸(※中野清見の住所)いかならん」といへば「心配するな」と。「汝は」と問へば「元気なし」と。)

5月17日
8:50ごろ大阪の山本治雄より電話あり「八戸いかに」とのことに「ケガナキヤ・シンパイス」と電報打てといふ。
そのあと出て(けさ5:30覚め、だるし)登校。1年すまし、また2時間半あき『太平記(朝日の日本古典全書)』買ひしに後藤丹治氏校なりし。
やっと「史記抄」よみ、(※省略) 成城の下より来し2人に「先生の講義おもしろし」ときき、新宿へつけば財布忘れをり。
帰宅すれば「三輪君より忘れありの電話ありし」と。
早くねんとせし処へ宮崎智慧女史お来し「(※見合不首尾に終った)渋谷氏の写真を」とのことに恐縮す。「この間、保田にゆき徹夜して話せし」と。
けふ中央公論社の(※『日本の詩歌』)『斎藤茂吉』来りし。

5月18日
だるく午前中ねてをり、午后、散髪しGolden Bat買ひにゆけば配給なしと。阿南惟敬氏より「論文評を『軍事史学』へ」と。
『詩人連邦145』来り、齋藤晌博士「『誤訳愚訳』は愚著」とかきあり。(※省略)

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5月19日(日)  (※萩原朔太郎研究会)
5:00すぎ覚め、仕方なく8:30出て中野、新宿で降りして上野10:10の急行にのれば、西脇順三郎氏の隣。萩原葉子さん世話やいてくれる。
12:00新前橋着。taxiなく、来合せしautoにて水道会館。大岡信君をり、伊藤信吉氏来ず。
渋谷国忠氏に『新潮』(※昭和41年7月号「四季の人々」所載)贈り、13:30朔太郎研究会総会へと出、14:00すみて記念集会。
満員なるに喜びしも西脇、石原八束(!)の2氏の話つまらず、市長の話あり(広瀬川をきれいにせしと)。
そのあと「朔太郎の友」と自己紹介す。齋藤総彦氏は奇術の弟子なりと。その話おもしろかりし。
すみしあとお墓へ案内され、父上の銘のみなるを見る(旧榎町の寺と)。
また水道会館へ引返せば、われにsignせよといふ人ありし。『西康省』きれいにて8,000といへば肯ふ。
すみて記念撮影すまし、渋谷氏に夕食代返し、busにて駅。
Golden batなく菓子(300)と市街図(150)と買ひ、齋藤氏と同車にて赤羽。20:00帰宅。
(けふ松井好夫博士の『月に吠えるの病理(300)』買ひしに金返さる。)

5月20日
けふも5:00さむ。太田常蔵君の葬儀委員長たりし桜井芳朗教授「耳下腺腫瘍にて死去57才」と朝日に見ゆ。
10:30出て登校。忘れし財布返してもらひ、前橋の菓子を伊藤副手に託す。山田教授「大学院の研究費5万円」と。
午、東豊書店の簡氏、この間注文せし本もち来る(計31,460)。「Tungusの婚礼」早くすませ、すし食ひ、
大学院にゆけば桜井克子休み、池田茂都枝と荒本生とのみ。candy買ひくれし故、萩原さんの会の話し、ちょっとやりてすます。(※省略)
あさ小高根太郎に電話し「大岡信の説に、三浦常夫(※小高根太郎)伊東の朔太郎論かきゐしを云ふ」といへば、「云ひしことなし。伊東に会ひしも2、3回と」。
弓子23:00ごろ帰宅。

5月21日
(※省略) 13:00出て成城。salaryもらひ成城堂の払ひし(826)、野口君と高砂族の話し、大学院教授会に出て「手当5万円を図書費で6月中に」ときく。
16:30となり渋谷に出て都電にて竜土軒へゆけば恰も17:30。(※文学散歩の会)
野田宇太郎、北原隆太郎、宮柊二などの近くに坐る。村松正俊、佳津兄妹もをり。
大悟法利雄の話きく中、便意催ほし逃げ帰る。新宿までtaxi(220)。佐伯にて『朝鮮西教史(1500)』買ふ。

5月22日
ユ、薬とりをかね伊勢丹へと出てゆく。(※省略) 澄より「27日上京」と。賀代嫗2回電話かけ来り「修理との名目で住宅金融公庫より金借れ」と。
太田常蔵氏夫人より『追悼文集』来りし故、受取り出す。佐伯休み。他にて『特定国宝目録(100)』、『日本の過疎地帯(150)』買ひ来る。
すが子より「妹、東京で結婚につき忙し」と母へ電話。

5月23日
渋谷国忠氏より籠贈らる。夕食代返却せしが為也。(※省略) 10:00出てすし(90)買ひ成城大学。
佐伯にて5万円の受領書作ってもらひ『諺苑(880)』、『下学集(2180)』、『元人雑劇序説(1730)』借る。
すし食ひ了へしところへ岡田英弘氏来り、「用あり」と。きけば「今年9月より2年の予定でアメリカへゆく」と。「後任まかした」といひてすむ。
semiすませprint切り「山田教授土曜出勤」とのことに海江田副手に5万円の受領書托す。岡田氏に茶のませ帰宅。(※省略)

5月24日
8:30出て東洋史。また2時間半に困る。(けふ大藤氏に新城博士のこといへば「16号俸なりし」と。「成城のbase低」をいへば同感と也し)。
中国文学史の出席50人位なりし故、早くすまし、新宿でjuiceのみてのち西武dept.の古本市にゆく。『西康省』8,200にて中村の出品にありし。
帰れば筑摩より限定版「現代日本文学全集4,000を印税0.16支払、銀行口座示せ」と。
萩原葉子氏より電話ありしと。弓子ふくれ面しをり。仕方なし。

5月25日
午まへ佐伯へゆき30円の本2冊買ふ。ユ、permaにゆきしあと美紀子より電話「松浦家へ着いた」と。「あす午前中来よ」いひ、
父上出しゆゑ「雅子お世話になる」といふ。母帰り来る(18:00ごろ)。けふ『河9』来り「蒲地観一氏42.9.25肝臓手術後死す」と。
小高根二郎氏より「『果樹園1』呉れ」と。しらべしに3冊のみ。

5月26日(日)
あさ待ちしに10:30美紀子、雅子をつれて来る。写真とり1万円やり、高い高いすれば喜ぶ。
13:40ともに出て阿佐谷駅にてtaxiにのるを見て、荻窪へ出、taxiにて東伏見。松田邸につけば夫妻出て話す中、(※省略)
busにて吉祥寺、ついで古本屋見しのち新宿の聚楽につけば林叔父叔母をり日下の出なる曽祖母の名を知らず。
17:30丹羽千年の学会より着きしを最後に、佐藤夫妻、わが家3人、難波夫婦、丹羽夫婦、寿一夫婦と敏夫父子(女子2人のみ。大きくなりをり)
そろひて金婚と叔父の喜寿。われ叔父とさりげなく話せしも飯まづく困る。別れぎは丹羽千年「金井寅之助と話せし」と。
帰りて洋画劇場見る。(※省略) 平凡社より辞典の印税300。(松田家に「rain-cort忘れし」をいふ。「先方気に入りし」と)。

5月27日
10:00母は赤阪へ。ユはrain-cortとりに吉祥寺へゆくとて、我まづ出て新宿で弁当買ひ、成城で忘れてpão買ひ登校。
東洋文化史早くすまし、大学院すますや、池田生欠伸す。高橋邦太郎氏、研究室に入りをり。本来週写すと也。さそひてOrissaにゆき帰宅。
(佐伯で『文芸春秋』買ふ。) みす子氏(※松田みす子:悠紀子夫人の従妹)「弓子次第」といひしと。
福地君(※福地邦樹)より「叱られること覚悟で『Politeia』に詩かいた」と。22:30澄来る。

5月28日
澄12:00近くまでねてをり。福地君へ「『Politeia』に吸収されて可也」とかき、2,500と「詩人の墓」とを『果樹園』社へ包み、
近代文学館の笠井女史に「伊藤整館長来るや否や」きけば「未定」と。
「自邸へ電話せん、用向きかくかく」といふ(渋谷国忠氏より「市長へハガキでも」といひこしによる)。
成城大学へつけば13:45。(成城堂で『大漢和辞典』の最後の配本受けし)。
大藤氏、わがいひし『原刻影印百部叢書集成』を文部省へ手続きしてくれよとのことに、山本(※山本書店)に電話し見積書速達たのむ(180万円と)。
「17:00から」といふ大学院懇親会に1時間半あり。うろうろして成城大飯店といふへゆく。学生男2女4にて小倉女史来ず。
われ昭和初の流行歌おぼえゐるを証し20:30すみて駅へゆけば池田博士「大藤氏を助けよ。新城博士心配しゐる」と也し。
帰りて澄に電話すればトボに礼いはす。

5月29日
8:00起きがけ宮崎宮子生より電話「父、卒中にて死んだ」と。斎藤dr.へ薬もらひにゆき、山本へゆき『百部叢書集成』の見積書念のためもらひ、1万何千円の本、学生用にと買ふ。また都電にて新宿。pão買ひて成城。大藤氏にいひ文書課へゆけば「見積書3通、申請書2通いる」と。
typeにうってもらふことにし原稿かく。typeにもちゆき山田女史にたのみpão食ふ。
あと用なく『いろは字類抄』大学院にあるを見しのち山田女史に2部受取り、semi中の3先生に先だって帰ることとし、
宮崎宮子に電話すれば「けふ来てもよし」と。busにて二子玉川。(※弔問省略) 帰り自由が丘にてのりかへ渋谷。西武dept.みて阿佐谷。
佐伯にて『異民族の支那統治史(400)』買ひて帰宅。ユまだ帰らず。「Rowhide」また見て待つ。弓子帰り譏嫌わるくなし。
渋谷国忠氏の「前橋市長へ一筆を」との旨を伊藤整氏にかく。

5月30日
10:30出て登校(すし90買ひゆく)。Semiに山野井生来ず。『今昔震旦』の部分4をすまし、狐(※『聊斎志異』)もめど見え、天竺と比島と不十分なり。
「Semiの会を我家で15日に」と定む。岡田君と茶のみにゆき、帰れば坪井明「6月4日夜上京」と。

5月31日
10:30出て登校。2時間目すまし午食のとき、
日本文化史の大学院につき、新城、大山、池田の諸氏、悲観論吐くところへ大藤主任あらはれ「心配いらず」との顔す。
図書館へ『国訳大蔵経』など仏教全集見にゆく。帰れば山野井生来り、「伯父Argentinaより来り、云々」。
折しも大藤教授「事務局長と話し『双書集成』の私学補助、国文よりも出てをり山田教授と話しこちらへ貰った」と也。
山田教授の申請には芸文印書館と出てをり琳琅閣の見積書あり。第4位とてかまはぬこととす。
9学会連合にて皆出てゆきしあと中国文学史了へ、帰りの電車にて萩原葉子氏に会ふ。
「(※山岸外史との)悪い恋愛については10年後にかく。週刊誌こわし」と也。「伊藤整氏に渋谷氏の要請伝へし」を云ふ。
けふユ、「大のもち来し新聞の内容いひし」と。(※省略)

6月1日
大に電話すれば「けふ下阪」と。母帰り来る。夕食後、賀代嫗来りし故、「船越の代りに本多氏に地代払はん」といふ。
(けふ『軍事史研究』の校正来り、(※書評を書いた)阿南君に気の毒なり。) 大工に電話かけさせしに帰らず。

6月2日(日)
ペンテコステ。ユは大掃除とて母、弓子とこれにかかる。われのみゆき転会1人、受洗3人を見る。
animaとて座より下りて来たまふをわれは待ちをり信うすくとも。
帰れば「澄より電話ありし」とて掛けしに「事業部に左遷、部長は社長の妾の子にて30才」と。「ひとり狼となれ」といひし。
大工さん「16日にかかる」と電話ありし。

6月3日
東洋文化史のnote不足のため『黒龍江志稿』もちゆきやっとごまかす。(※省略)
『果樹園』つきしらしく、栗山博士「やめたか」と問はれ「やめず」といふ。
万葉の5説(※不詳)中西博士説く中、「あす国文の会に出る」こととなる。「太平記」も早めにすまし荒本君、池田嬢を研究室に呼ぶ。
池田嬢『続日本紀』よまねばならずと也。帰れば『ハイネ』新5版来てをり、計30版なり(1万部)。
けふ松田みす子女史より「弓子泊りがけでもよし、よこせ」と也。(けふ文書課の戸田末子女史に「10年前は40代なりし」を云ふ。)

6月4日
ユ、みす子女史に電話かければ「弓子、おっちょこちょいと云ひてことはりし」と!
『果樹園』相変らず10冊来る。13:00ゆけばまた柿崎生と同車。Heine与ふ。
(※国文科の会にて)「大学院の紀要つくる。名は田中考へよ。各人50〜80枚かけ」と也。
大藤氏にも伝へ、『成城文芸』に杜甫伝かかんと原稿用紙もらひ来る。母、赤坂へゆきをり!
「懐昔」と題してかきしも旨くゆかず。(※省略)

6月5日
斎藤先生にゆき薬8日分いただき診察うけず。この頃水曜は佐伯休みなり。「懐昔」書き直し「杜甫の晩年」とし、56才以降をかくこととす。
渋谷国忠氏より松井好夫氏「月に吠えるの病理」評のりし上毛新聞来る。
母に電話すれば「大帰らず」。坪井よりも電話にし。美紀子より「雅子へおこづかひ貯金しました云々」と。Robert Kennedy[撃]たる。

6月6日
11:00すし(110)もちてゆきしにsemiに(※卒論指導 省略) すみてprint切り(大藤主任に山本の本21,000の請求書わたす。)
岡田君まちてOrissaにゆく。「羽田夫人、片耳きこえず也」し由。帰れば「Kennedy死せし」と。
夜、中野清見より電話「息子の結婚にて出てきた。図書館倒れた。日曜にでも会はん」と。矢野に電話すれば「日曜娘へゆく」と。
丸に電話し「中野に電話せよ」といふ。

6月7日
9:00出ていつもの如く天ぷらそば(130)注文し、東洋史教へ、陶淵明の予習せしに、(※卒論指導 省略) 
そのあと坪井より電話かかり「17:00阿佐谷駅にて」と。(※省略)
小武守生と出て新宿駅で氷くはせ、佐伯へ借り4,790払ひ坪井と会ひて家へつれ帰る。「三鷹の親類にゐる」と也。
beerのませ、鰻食はせ、西川と電話さし、20:00駅まで送り、佐伯の内儀より『日本文学小辞典(2,150)』、『日本浪曼派批判(750)』買ひて帰る。
「ユ、けふ便秘にて半死の苦しみせし」由。天野忠よりわがこともかきし『わが感傷的アンソロジイ』贈らる。
『不二』も来り、「蓮田善明」のす。

6月8日
8:00中野清見より電話、「日曜、丸宅へ同行せよ13:00高円寺駅にて」と。天野忠へ手紙出しにゆき、佐伯にて中村元『東西文化の交流(800)』、栗田にて『蜀碧・揚州十日記(280)』買ふ。母しびれきらして赤坂より帰り来る。

6月9日(日)
われ礼拝休み、ユ出てゆく。12:30ユ帰りしと同時に出て高円寺。杉野祐二郎(尤次朗と改む)来りをり、中野清見来しとtaxiにて丸宅。
1時間話し煦美子の運転にて高尾山。麓にて姫鱒10尾釣り(1,000)、cableにて頂上(180×5)。
すぐ下りて八王子城阯の方へゆき、荻窪へ19:00すぎ着けば急行なし(とろろそば150×5)。
別れて佐伯にて『御物倭漢朗詠集(5,600)』と『Hammond’s Universal World Atlas(900)』とりて帰る。
岩崎昭弥氏より、以前5千円にて買ひくれし春夫本返却を受く。

6月10日
雨。11:00出て急行・準急にて13:05成城。『御物倭漢朗詠集』見せし。Shirokogoroffの『満洲族の社会組織』より婚姻1時間やる。(※省略)
大学院にゆけば3学生「授業やめよ」といひ、賛成して茶のます(330)。bonusもらひしに22,350-45,270+46,440=227,520也し。
その他に都民税の紙入りをり「205,960払ふため6月20,650、7月以降20,590」と。甚しい哉!

6月11日
10:00出て斎藤dr.。満員にて1時間半まつ。躁の30才の男われに話しつづける(お中元にハンドレッドハイパー(4,800)三越にて買ひもちゆく)。
成城、パンにてライスカレー(130)食べ、野口氏よりGolden Bat10箱頒けられ(300)、教授会。すみて国文研究室にBatおき忘れ、
中西進博士の「人麻呂と杜甫」きく。「人麻呂つまらず杜甫よし」と思ふ。(※省略)
(けふ大藤氏よりも『山海経』に「鬼門」の語ありやと問はれ大漢和の写しし、四部叢刊の『山海経』もちゆく)
佐伯によれば『キリスト教大事典』来をり、『明治音楽物語(900)』とにて8,700払ふ。

6月12日
岩崎昭弥君より「前から送らうと思ってゐた」と電話、云ふ事なく手紙にて礼かく。午後散歩。

6月13日
ユ、鎌倉へclass会にてゆく。われよべ眠れず。2服のみ11:00母に起され、急ぎゆき成城にてrice-curryくひ、
岡田氏に会へば「後任交渉中。けふは会ありてつきあへず」と。semiすまし4生と喫茶(330)。15:00帰宅。(※省略)
けふ中央公論社より『日本の詩歌10回』と宮崎教授『小説の世紀』たまふ。母と書庫片づけ『韃靼漂流記の研究』見つく。
京、甲府より帰りヱハガキ呉る。

6月14日
8:00さめ9:00出て成城。昼休み成城と経堂の古本屋にゆきてすます。母へ河野より小遣ひ来し故「また赤阪へ出てゆきし」と。
佐伯にて『太平記2(900)』と『ハイネ序説(900)』買ふ。(※省略)

6月15日
本位田の最高検検事となりしと新聞。けふ9:30ごろさめし。14:00ゼミの4生来り、18:00ごろまでをり。
その間『日本浪曼派研究3』来る。『歌日記(※父西島喜代助の歌集)』1冊づつもってゆきもらひ、佐伯にゆきしも何もなし。

6月16日(日)
本位田に祝の電話すれば「子どもらのための東京どまり」と。北の古本屋にゆき『李太白(60)』、『新島襄(180)』買ふ。(※省略)

6月17日
11:00出て、すし(90)買ひ登校。Manchusの婚礼了へ大学院桜井生休みし故、独講。高橋邦太郎氏essaist賞に出てゆきし故、2生と喫茶。
佐伯にて『儒林外史英訳(300)』買ひ一旦帰宅。母帰り来る。夕食の後、写真とりにゆく。高尾山のもの也。
これを丸、中野、杉野に包み、埼玉大学に転任との田中楠弥太氏への挨拶見しも返事かけず。televi22:30まで見る。
(南口はづれの古本屋にてBebel『婦人論(150)』、『本州東部の方言(100)』買ひ、阪本越郎氏より昭和8年の台湾旅行につき質問の電話受く。)
経済学部の尾上一雄教授より「入試委員会引受けよ」と電話。

6月18日
尾上氏より同じ意味の速達。田中楠弥太氏へ於莵丸氏あての手紙同封。10:30出て斎藤dr.にゆけばこみをり、薬のみもらひユに電話し、
「12:30渋谷での待合せ」いひ、busなーにて渋谷。2軒古本屋見しも何もなし。
ユと会ひてItalian Macaloni(180)食ひbusにて白鳥邸。清先生もの云へずなられ握手さる。
30分ほどして出、立教に電話し、手塚教授へ「ひまあらば見舞はれたし」とことづけたのむ。
新宿までbus、紀伊國屋と古本屋と見しも何もなく、阿佐谷へ帰り佐伯で駄本5冊(950)買ふ。
ユ、「伊勢丹より栗山氏に中元送りし」と帰り来し。けふ阪本越郎氏に返事せしに、また問あり。電話せしに「蓮田善明の詩を」と也。(※省略)

6月19日
「胃わるし」とてユ出しあと、母赤阪へ出てゆく。チクマより印税1,300!ユ「母に10万円かせ」といはれし話す。
手塚教授より電話ありし故、白鳥先生のこと話す。依子よりcolor写真来る。午后と夜とに滝本母子より仕立てにて電話。

6月20日
われ下痢。10:00出て成城。semi了り岡田君見つけ「7.13(土)わが家にて送別会す」といふ。
上原君「松村先生上京、末嬢ソ連留学許され困りをらる」と。まっすぐ帰り(けふ行きがけ佐伯にて『遊仙窟全講(1,100)』買ふ。)
阪本氏に「倭寇の詩(蓮田善明氏の)」を写せしを送る。ユ「土曜胃の検査」と。

6月21日
ユ9:00に起し、あはててsoupだけにて登校。教室へゆけば「鐘まだ鳴らず」と『蜀碧』をすすめてすまし、13:00まで待つ間に(※省略)
13:05、salaryもらへば都民税20,650をはじめ所得税8,010と共済組合費7,240など37,360引かれ手取り78,730。
南新宿下車、東豊書店へ杜甫関係の本見にゆきしもなく、『鄭成功紀事編年(300)』、『唐代文化史(400)』、『呉耿尚孔四王全傳(150)』買ひ、
茶よばれて出る。阪本越郎氏より質問状来をり「イザリアの花」といふのわからず。
浅野夫人より「むすこことわった。礼送った」と。けふ依子より電話「畠山六栄門さん福島へ帰る。送別に5千円もちゆかんか」と也しと。

6月22日
ユ8:30河北病院へ胃の検査にとゆく。われ「杜甫の晩年(200×16)」とせし処へ帰り来る。
東洋学術協会へ会費1,000送り、佐伯にて『解釈と鑑賞6月号(230)』買ふ。成城の国文科の紹介あり。(※省略)
浅野夫人よりの小包に礼かく。今井翠より「読売の記者紹介」と。
澄より電話「畠山邸へ送別にゆきし。東京に5時間とどまるも子女に会ふ故会へず」と挨拶ありしと。大あす帰京らし。
夜、川久保より電話「月曜10:00に来る」と也。

6月23日(日)
夫婦して礼拝にゆき、竹森先生にお伺ひしてよろしき日きけば「7月3日14:00」と。
佐伯にて『文芸春秋』買ひてよみしのみ。「杜甫の晩年(200×27)」にて講義のnoteも作らず。
阪本越郎氏より電話あり「近代文学館の『文学』4(※厚生閣)を見させし」とのことに「2にもかきをり」といふ。
(※省略) 吉祥寺教会より「竹森先生の御辞退にてtape –coderもってゆきもらふのみ」と。

6月24日
9:00川久保より電話「朝、来られず12:00ごろちょっと来る」と。ユ、河北病院へとゆく。そのあと川久保よりまた電話「午、成城へゆく」と。
10:00すぎ出てすし買ひて成城。午来し川久保と栗山博士と話さし、穂積高校長へと送り出し、東洋文化史に「ソロン族の社会」紹介し、
すぐ研究室へ帰りて待てば川久保来り、「山内博士に会ひに」と出てゆく。(※省略)
川久保を山内博士の研究室へ迎へにゆく。「ドルメン」時代よりの知合と「成城の不平こぼしたまひし」と。
高橋邦太郎氏にいはれ3人にてOrissa。Coca-colaのみて川久保と地下鉄南阿佐谷にて別る。
あとにて電話かかり「松本(※善海、見舞にもう)来てほしくなしと云ひし」と。牛尾三千夫氏より『大田植と田植歌』賜はる。
渡辺道夫氏より「呉越国の支配構造」の抜刷。ユ「胃炎に過ぎざりし」と。

6月25日
9:30出て千駄ヶ谷より斎藤先生。「好調ですね」と。出て雨降りつづく故、新宿で傘(780)買ひ、
東豊書店へゆき『諸羅県志(240)』、『杜詩錢注(1,000)』買ひ、マカロニ食って登校。大藤教授に山田博士の不平伝ふ。(※省略)
44年度より学費値上げを高田部長いひ出せしも「資料不足にて来週臨時教授会」と。(※省略)
鎌田女史と新宿の支那料理屋へゆく。わがtableみな逃げて新城博士1人となりしを見て逃げ帰る。
阪本氏より質問状。栗山氏より礼状。

6月26日
阪本氏へ速達しにゆく。佐伯へ寄れば「1.7万円成城より来た」と。4万円余りまた買ひ、
われは『ネパール王国探検記(50)』、『恋愛解剖学(450)』買ふ。母に電話すれば「大まだ帰らず。阿佐谷転居すすめる」と。(※省略)
きのふ学校へ来ありし竹内正夫氏「専修大学につとめ鎌倉に住む」といふ挨拶に祝辞。(※省略)

6月27日
あさ依子、トボに電話し「大の帰京来月初め。雨やみし」ときく。10:00すぎ出てすし(90)買ひ登校。semiに山本生来ず(写真くばる)。
すみて佐伯の本もち来しをかぞへしに宇都宮博士の本2冊あり。
(岡田君をしてわざわざ来し山田教授に挨拶さし「倉石博士の女婿池田温君を後任」ともめる。)
李白詩抄printし、岡田君、野口君を7.13(土)15:00阿佐谷に招くこととし、岡田君の出づるを待ちてjuice(260)。
別れて佐伯へ本返しにゆけば『台湾文化史』3冊そろひあり。6千円と。喜びて『日本の憑きもの(200)』とともに買ひ、
帰れば『中国』に「秋晴れ」のせてよきやと。「よし」とかき、夕食して佐伯へゆきたしかめしに「6千円にてまちがひなし」と。
わがもちゆきし『台湾文化史 上』を1,200でといふに『郷愁の民俗』と交換して帰る。
吉川・桑原・貝塚3博士と3名の対談、ユ聞きをり。(※省略)

6月28日
雨中、9:00出て10:20東洋史。「福王立ち、史可法の死(※明末史)」にて止む。野上生来ず。
午休み下北沢へゆき『本』3冊(90×3)買ひ、みつ豆くひて帰校。雨やみをり。中国文学史「李白」やりてすまし帰宅。
「杜甫の晩年」つづけ21:30(69枚×200)、死後のみを残す。けふ安藤真澄(※詩人)の3子より「父6.22、am1:16死去」と。
『中央公論』の鈴木女史より「阪本先生と来る。2かと8日といづれよきや」に「8日」と答へて了る。
小高根二郎の恋を語りし「若い人」来りし。(けふ「杜甫」と同人費2,500を速達せし)。「関口、西部軍総監退職」と夕刊に見えをりし。

6月29日
晴。10:00までに「杜甫」73×200とし、出て成城大学。伊藤副手より原稿用紙受取り、田中久夫氏まち、ともに昼食す(470)。
別れて『成城文芸』の委員会。6人出席。池田博士ゆっくり話し、中西氏ら新委員のまはりもちとなる。
中野にて下車、カロン『日本大王国志(410)』買ひて帰宅。比嘉一夫沖縄より「創価学会となりし」と。
白鳥夫人より「手塚、宮本2教授26日見舞はれ安心した」と。成城大学より「5日13:00、3部合同の教授会」と。

6月30日(日)
夫婦して礼拝にゆく。cristianでなきものの批判は神にまかせてよろしきらし。televiのsports見てすごす。

7月1日
雨もよう。畠山六栄門氏より「福島市に住む」と。論説資料保存会より「志異雑記」掲載すと。12:00昼食して成城大学。
研究室当番制となりをり。『玉燭宝典』と『二十四史』の記入せしのみにてクタクタとなり帰宅。
母帰りをり。滝本生来り、中川夫人と五来教授の情事はなし「近々止めん」と也。

7月2日
8:30出て散髪(500)。斎藤dr.にゆき、永続睡眠をお願ひし、雨中、新宿に焼売(100)買ひて登校。大藤氏来てをり、国文英文の書目の見本見せたまふ。
けふ阿部・海江田両副手とも美紀子と同級なるを知る(あさ「秘書課長補佐に陞任」と電話かけ来し也)。
15:30までcard箱かりて写す(小泉君に連絡す)。疲れし故、出て成城堂のぞき『南北朝論(490)』買ふ。(※省略) 母、建のことにて涙声出す。

7月3日
9:00出て成城大学。11:50までcard写す。新宿にて12:15rice-curry(100)食ひ、阿佐谷にてユと会ひ、竹森先生を訪ひ参らす。
「Michigan洲のHollandにゆかる。」と。「Gravius研究の日本人あり」と伝へ玉へとお願ひす。(※省略)
帰れば澄より電話「大憔悴しをり。けふ辺り伊勢へゆきて帰京」と。建の三重県鰹鮪組合就職を知らず(けさ便り来て母喜び赤阪へゆきし也)。
母より電話「喜びゐる。祝ってくれ」と。ハガキ書く。

7月4日
曇。9:00出て成城大学。引きつづき書目かく。午、天ぷらそば食ひ、14:00まへ来し山野井秀子生と出て新宿で喫茶(140)。別れて帰宅。
浅野晃氏編の『現代日本詩集』にわが詩3篇「秋晴れ」「鳶」「戦友に」を入れたり。

7月5日
雨中9:00出て成城大学。午、天ぷらそば食ひ、あすにて220代(※日本十進分類法(NDC)区分の東洋史)すむこととなりし所にて教授会。
未曾有の3部連合にて妹尾理事長「4.5万円あげ、今のところ東京一の高額にせん」と云ひ、賛成せし様子なりしところへ
戸口、毛利など若手「反対給付を考へよ」「寄附入学やめよ」「高校以下のあり方も考へよ」といひ、「ご尤も」との事にて散会。
母帰り来り、建の手紙見す。(※省略) 22:00史よりユに「松浦家に泊る。あす帰宅」と電話。

7月6日
雨。傘もって出、14:00までに220代了る。(※省略) 14:30帰宅。
中央公論社の鈴木女史より「8日14:00、camera氏と来る。蔵原伸二郎とコギトのこと知りたし云々」。
入江春行君より『群像』に「詩人とは何か──田中克己について──」応募せしも3次で落ちたと!
(※省略) 成城堂にて受験参考書とり『人間茂吉』2冊買ふ。

7月7日(日)
晴。8:00すぎさめ礼拝にゆかず。ユも亦。角川書店より「原稿かけ」と。バカらし。(※省略)
蒲地夫人もと子氏より追悼文のりし『青芝』2冊と『春夏秋冬』贈らる。肝臓癌なりしことをはじめて知る。
朔太郎忌の写真来る。(※省略) 依田義賢氏より『骨』同人5人死に『骨』と改めしと!
夜、小武守生「帰郷」と電話かけ来る。「留年覚悟し父に云へ」といふ。躁也。

7月8日
8:00すぎさめ登校。292(※NDC区分のアジア地理)やり、12:00天ぷらそば食って帰宅。(※省略)
14:30、阪本越郎氏、鈴木女史とcamera-manと来り、相当写されしあと「(※『日本の詩歌』詩篇解説)蔵原のみ残り、渡欧」と。
自動車まで送りゆき白鳥先生の奥様に礼状かく。(佐伯にて『源氏物語の魅力(250)』買ふ。)
よべ母に小遣ひやりし(5,000+弓子3,000+京2,000)に「赤阪へと出てゆきし」と。(※省略)

7月9日
松浦母上よりユに「史けふ泊る」と。9:30出て斎藤dr.。薬のみもらひ11:00登校。(※省略) 292すみ、あとは図書館でやることとし、14:00退出。
『果樹園149』来りしのみ。史18:00来り、入浴夕食後「松浦家へ」と出てゆく(公舎は大橋と)。比嘉一夫生へ公明党大勝の祝かく。
(※省略) 賀代嫗より「あす14:00来る」と。弓子「友だちと富浦へ2日泊りでゆきし」と。

7月10日
7:30さめ成城へゆかず四部叢刊の書名うつす。浜田耕作『東亜考古学研究(150)』買ひ来り、のり付す。
手塚教授より「15日より夏休み」と。白鳥先生のことさしておどろかざる様子。澄より電話「あす上京、兄のところに泊り、あさって朝来る」と。
15:30賀代嫗来り、隣家のことユと話す。本多さん来て木斛の移植してくる(beer4本+1,000)。
短大夜学の木村静子生、滝本生の話にては「今東光の妾となり銀座に新聞やりゐる」と賀代嫗。

7月11日
7:30さめけふも成城へゆかず。大工の鈴木氏より電話かかり「材木店遠く、頭領の手あかず云々」と。叱れば「明日より始める」と。
(※省略) 服部夫人(※服部正己未亡人)より、
「論文typeしアメリカへ送った。すでにregume送りしも反響なし。俳誌にかいてくれるや。肥下夫人、立派な邸に住んでゐる云々」。
(※省略) ユ、本多さんへ地代滞納(賀代嫗名義)2万円余もちゆく。(※省略) 真野喜惣治氏より電話「来たきも道しれず」と。

7月12日
10:00すぎ澄より電話「来る」と。そこへ真野喜惣治氏より「南阿佐谷にあり」と。迎へにゆき帰れば澄来をり「東京へ転任ほぼ出来るらし」。
トボへの土産もたしかへす。齋藤千代夫人より「見舞返し送った」とハガキ。
昼食すまし真野氏送りがてら出て成城。図書館にて目録写すうち前田勝太郎氏来り「来年停年、大学に職ほし」と。
青山博士につれゆけば「鈴木俊氏にたのめ」と。(けふ柿崎生と同車、「田中久子生イタリアへゆく」と也)。

7月13日
登校せず。タバコ買ひ、澄に雑誌送る。14:45家を出て阿佐谷駅。まもなく岡田君来りしも野口君来ぬゆゑ、家へ帰れば電話かかり迎へにゆく。
Golden Bat賜ふ。21:00まで話し「愉快なりし」由。野口君『歌日記』もちゆき(『近代神仙譚』とともに)、岡田君『龍の星座』もちゆく。

7月14日(日)
礼拝にユとゆく。(※省略) すみて佐伯により『コンサイス(50)』買ひて帰らんとすれば、
頭領、手にけがして出て来り、救急病院たづねて篠原医院にゆき手当すみ、指おとさずすみしも仕事出来ずなる。
夕方、鈴木大工来り、材木請求のためと負傷のこととひ、鈴木文平の家に電話し、来りしと夕食ともにす。(※省略)

7月15日
永山光文の会社に9:00電話すればをり。転居せしは事実也。斎藤夫人と山の上Hotelへ礼状出す。諏訪母上より「入院中」と。
母に電話すれば「あすちょっと帰る」と。televiに堀川直義氏出てをり停年退職の話す。(※省略)

p19

7月16日
9:00出て斎藤dr.。「眩暈す」と申上げれば血圧はかり120故、薬かへ玉ふ。
登校。図書館にてcard写し12:30坂、阿南(道長かくと)2生さそひて成城パンへゆき昼食。
14:00来りし山本生に『法苑[珠]林』8冊貸し、ともに研究室へゆきみれば鎌田女史semi生を督し『柳田国男集』の索引のcardを拾はしをり。
帰宅。母帰りをり。「あす中央公論社の鈴木女史14:00来る」と。

7月17日
朝、鈴木文平より電話「材木代15万円となるが宜しきや」と「宜し」と答ふ。10:00まへ頭領来り、材料運ぶ。
14:00中央公論社の鈴木女史来り7月8日とりし写真賜ふ。頬こけ写りをり。礼に立原のハガキ1枚。(※省略)

7月18日
けさも5:00さめ朝風呂に入りダルく成城へゆかず。(※省略)
織田喜久子氏より「杉山平一氏芦屋の金持とのことば恨みゐる」と。
『骨30』杉本長夫氏号也。『日本の詩歌』の春夫よみ了る。大に丸よりききし「家庭イ(2043)」伝ふ。
老人けふ1人来り、夕方までコンクリート流しやる。

7月19日
平凡社の渡辺氏より電話あり「午后早く来たまへ」といふ。保田夫人より「(※直日氏の)1周忌すみし」と。
坪井明、北村鈴子より暑中見舞。暑く30℃を越えしといふに家居。
13:00渡辺氏来り、「李白の訳の写しだけにてもよし。9.15まで」と。
14:30柿崎・田中久子2生来る。田中久子「8.18出発。フランス、イタリヤ(ドイツはフランクフルトのみ)へ男女60名でゆく」と。(※省略)
20:30豊橋に電話すれば史出て来「22日転居」と。「ユ手伝はす故、電話しろ」といふ。けふ母来り「大貧乏」といひしと。

7月20日
9:00まへ出て青山博士に味の素もちゆく。
10:30より1時間半list作りクタクタとなり、鎌田女史に「いつまでやれば宜しきや」と問へば「8月中」と。
成城パンにてマカロニ食ひ、野口君とちょっと話せしあとsalaryもらふ。成城堂に払ひし(『中華飲酒詩選』と『江戸参府紀行』と買ふ。)、
佐伯に寄れば「払ひ受けし」と。『スペイン語4週間(200)』と『東京今と昔』2冊(200)買ひ、帰宅して散髪し、そのあと『文芸春秋』買ひ来てよむ。

7月21日(日)
6:30さめて庭の木に水やり9:00出て礼拝。受洗・転会あり。笹淵博士「そのうち日本浪曼派のことききたし」と。
竹森先生より旅程ならびにその後のことお話しあり、名店会館のイワキにて老眼の検査してもらふ。「30日ごろ出来、15,460なり」と。
1万円だけ前渡しす。帰宅すれば老人の頭領、仕事了へて帰る。関口八太郎君より「練馬に住む」と。
(※暑中見舞 省略) けふも暑く2度入浴。美紀子よりユに「あす9:00手伝に来てくれ」と電話あり。(※省略)

7月22日
ユ8:30「池尻の転宅手伝ひ」にと出てゆく。そのあと来し老爺にわれ麦茶を供し、ハダカにてゐれば17:30帰り来る。
カス本佐伯へもちゆき、『芭蕉文集(800)』、『日本古俗誌(600)』、『Verhalen en legenden van hindoeisme & boeddhisme (600)』とかへてもらふ。
(「池尻3階にて涼しく、美紀子秋に第2児分娩」と武田姉云ひしと。)

7月23日
9:00出て斎藤dr.。薬もらひて出るところへDr.行き合はせられ「来週月曜より日まはり夫人といふ題にてやるゆゑ奥さんに見てもらへ」と。
11:00すぎ成城図書館、3門やり民俗学のところよりとなり14:00。(昼食成城pãoにてrice-curry、130)。成城堂にて『倭の五王(150)』とりて帰宅。
(※暑中見舞 省略) 京帰宅。「上高地へ23:30に乗る」とて20:30出てゆく「帰宅は26日」と。(Camera直しにやる。「1週間ぐらゐかかる」と也。)

7月24日
7:30起き8:30出て成城大学図書館。午前中閲覧者なし。成城堂にて『沙門空海』買ふ。参考書に榊亮三郎博士のなきがふしぎなり。
14:00になりクタクタにて帰宅。(※暑中見舞 省略) 母帰りゐて扇風機もって「赤坂へ」とまた帰りゆく!(※暑中見舞 省略)
20:00河童忌にtelevi、井上良雄、中野重治の2氏見る。トボに電話かける。

7月25日
晴。咲耶より「河野母上元気」と母へ、(※暑中見舞 省略) 今井翠より電話にて「弓子の縁談せかす。見合はわが家にて」と也。
ユ、婦人会へゆき13:00帰宅。吉祥寺のイワオより「眼鏡出来た。残金5,480」と電話ありしゆゑ16:00出て吉祥寺へゆき眼鏡とり、竹森先生に遭ふ。
(※省略) (けさ「コギトの思ひ出」16×400かき、角川の鈴木序夫氏に電話すれば「月末でよし」となりし)。
高森文夫氏の詩集(※『昨日の空』)来り、筑摩の『世界のノンフィクション30』来る。

7月26日
9:30出て入歯忘れしに気付き、とりにゆき、10:30成城。
12:00までに和書すみ、マカロニ・ナポリタン(150)いつもの如く食ひ、洋書card見ればほんの少し。
前田部長につかまり「履歴書の増訂せよ」と写しわたさる。成城堂にて『昨日は今日の物語(400)』買ふ。眼鏡に慣れし。けふ工事一部すむ。
「澄より電話ありし」と。高森氏へ礼状出し(堀川博士と同級)、澄に『世界のノンフィクション30』送らす(140)。(※暑中見舞 省略)
京、上高地よりヱハガキ買って帰宅。

7月27日
7:00目ざむ。大工鈴木氏来り、42万円余の見積りし、内金9万円もちゆく。大藤氏へ「洋書少く45部」と報告す。
美紀子、雅子をつれて午食し、雅子ねむりしを置きて犬とりにゆく(5千円)。雅子さめし故、ユこれを今井につれゆき「taxiにて牛込へゆきし」と。
(※暑中見舞 省略) 夕方、タバコ買ひに出て夕立にあふ。成城大学(文化史)大学院のための書類をととのふ。

7月28日(日)
夫婦とも礼拝やすむ。(※暑中見舞 省略)  「コギトの思ひ出」20×400書き了へ、面白くなし。(※省略)

7月29日
よべ0:00ごろねつき、8:00すぎさむ。角川書店鈴木氏に電話し「原稿みた上にて採答決せよ」といひしに、
のちほど渡辺氏といふが来り、(※翌1969年刊『現代詩鑑賞講座』)第10巻にわれの欄も設く。解説は誰にとのことゆゑ「福地邦樹君に」といふ。
(※暑中見舞 省略) (渡辺氏「近ごろ保田に会ひし」と也。)
福地君に「角川よりたのみあればきかれたし」との速達かき、ユに出さしめ、夕方佐伯にゆき『文春オール読物』7月号の杉森久英「奥野信太郎」よめば母方の祖父は橋本網常(佐内の弟にて軍医総監)、父幸吉氏は弘前師団長たりし。淡路銀行破産に関係ありと、ふしぎ。
夜、『果樹園』へ詩かき了へし途端、田上生より電話「史をことはりし叔母やはり大蔵省へ縁談まとまりし」と。

7月30日
5:00小便に起き(珍しきこと也)、そのあとゆめを見る。8:00起床。ユが耳鼻科より帰るを待ち、駅前郵便局にて果樹園社へ速達(125+2,500)。
斎藤dr.に参れば病室回診か診察とぎれ11:30先生に「ひまはりおばあさん見た」と申上げ、成城教務へ履歴書とどけ、
野口氏研究室にゐるを見て「洋書少く大藤氏に云ひし」と告げ、『太平記』本2部とり、成城堂にて『蝦夷(580)』買ひ、袋もらひ帰宅。
澄より『中国5月号』来てをり、(※暑中見舞 省略)
大「見舞欲し」と、高熱にて云ふときき、ユに地図かかせしもわからず16:00案内させてゆく。
医師よび熱下りしを見て、阿佐谷転住すすめ、虎ノ門より地下鉄にて帰宅。(アメリカ大使館の西側なりし)。

7月31日
他出せず。立原達夫氏より暑中見舞。野上弘より塩こぶ賜ふ。氷見印刷所より「杜甫の晩年」の校正来る。
中西博士に電話し阿部副手(電話かからず)むちゃくちゃと云ひしも、原文は眞漢字、訳などは当用漢字、カナヅカヒは旧制とするといひ、辞引ひきて疲る。
澄より電話「世界ノンフィクション」の『西太后に侍して』着きし礼。村松正俊博士『蛇』来る。

8月1日
ユをして氷見印刷所に速達せしめ、村松正俊博士に『蛇』を思想詩といひ、「太平記と白楽天」かきはじめ、
『中央公論』の小山正孝氏に電話せしに「13:00出勤」と。「16:00ごろ電話を」といひ、数男に歯なほしてもらひにゆく。「あさって再来すべし」と也。
(※暑中見舞 省略) 小山氏14:30電話かけ来り「今夜来る」と。来りて「李白やれ。渡辺氏喜びゐる」となり。

8月2日
televi見すぎならん。疲る。遠藤篤子生「海外旅行する」と。清水文子より暑中見舞。

8月3日
暑し。小高根二郎氏より「中島栄次郎のことかけ」と。(※暑中見舞 省略)
トボ「電話かけよ」といひしと依子、「夏休みに来よ」といへば「澄忙し」と。
母より電話「大まだ癒らず。月曜帰る」とのことに、「6日の裁判の結果ききて帰れ」といふ。(※省略)
白楽をやめ李白やる気となる。

8月4日(日)
夫婦して礼拝にゆく。上着つけず。参加者少かりし。帰りて昼食せし処へ母帰り来り「大、仕事はじめし」と。
滝本生来り「非キリスト教徒はせめず」といへば喜ぶ。(※省略)

8月5日
鈴木文平、材木運び来り大工、頭領、老手伝とにて玄関こはす。辻英美子、笠野芳子より暑中見舞。(※省略)
午后、柏井歯科へゆく。あと2回ですむと也。阿佐谷七夕saleにて賑ふ中を、松崎君眼鏡かけて歩みゐし。

8月6日
9:30出て斎藤dr.。薬のみもらふこととせしに後まはしとなり結局同じ時間とらる。写真Album(200)七夕大売出しの最後にて買ふ。
鈴木大工頭領とにて玄関あたりのみならず方々もぎとる。停電し東電より来し人「工事屋呼べ」と仮手当してゆく。
「李白」やる気となりしもすすまず。あと25日なり。

8月7日
午前、李白すこしやる(福地君より速達「旅行中に速達来た。引受け19日ごろ来るやもしれず」と)。(※暑中見舞 省略)
数男にゆけば「来週できる」と。佐伯けふ休みをり。母、調停のこと聞くと夕方、赤阪へ出てゆく。
夜、医科歯科の田中博士「南北社より電話かかりし」と。

8月8日
美紀子より電話「14日来る」と。けふは鈴木大工1人にてやる。南北社へ電話せしに「係をらず」と。(※暑中見舞 省略)
「李白」の清書し「杜甫」の再校を見、夜、佐伯へゆき『陶淵明集(90)』買ひ来る。暑し。川久保君より「上京した。あす帰る」と電話。

8月9日
母11:30貸家見に帰り来り、ユとゆきしも空きをらず不便にて汚しと。鈴木大工がけふも1人なり。
南北社へ電話すれば常住氏来り「22日までにコギトのこと10枚かけ」と。(※暑中見舞 省略) 暑く「李白」22枚となりしのみ。

8月10日
朝、福地氏より速達「『南の星』貸せ。40枚のうち10枚書けた。18日頃来る」と。
澄より電話「あす来る。トボつれるやもしれず」と。(※暑中見舞 省略)
20:00依子に電話し「トボ月末まで来るをまて」といふ。李白47×200以上。

8月11日(日)
夫婦とも礼拝にゆかず。大工さん水道屋つれ来る(7.5万円と)。「早くしてくれ」と云ふ。李白の訳、本文64枚×200くたくたとなる。
(※暑中見舞 省略) 澄ナゴヤより電話かけ来り「トボつれぬ。兄宅へ泊る云々」。
昨日より弓子、静岡へ海水浴にと出ゐるに台風近づき雨ふる。運わるき女なるかな。夜、田中久子へ電話し重ねて「気をつけて」といふ。

8月12日
澄よべ兄宅へ来る筈なりしも、大の電話にて「昨夜出発できず、けふはここへ来る」と兄宅へ電話してわかりしと也。(※省略)
しばらくして大「澄と7〜8時までゐる」と。依子より夕方「夫つきしや」の問合せあり。20:00すぎ澄来る。

8月13日
よべ23:00ごろまで澄televi見をり眠れず。10:00すぎ新宿までともにゆき我は斎藤先生。薬いただき傘忘れて新宿よりbus。
天沼車庫より柏井歯科へつきしは12:05。(※省略) 上歯できしを入れてもらひ帰宅して斎藤病院に傘のとりのけ電話にてたのむ。
阪本越郎氏より「15日Moskwaへ出発」と。(夕方電話して「平安を」といふ)。服部夫人より「童話の訳見てもらひに来る」と。(※省略)

8月14日
屋根ふきを鈴木大工さんつれ来る。12:00まへ美紀子、雅子をつれ来る。物いひねいたづらになりをり。今井家へとつれゆくに母も赤阪へと出てゆく。
(※暑中見舞 省略) 鎌田女史「7月26日よりずっと修善寺泊り」と。(※省略)
大より電話「母、宝国寺のこと気にしゐる」と。「も、しばらく待たん」といふ。

8月15日
福地氏よりハガキ「これこれの詩ぬいた」とのことに「悲歌」の掲載誌速達せしめしに午すぎ福地氏来り「「大陸遠望」の掲載誌しりたし」と。
中央公論社の鈴木女史に「『コギト』ありや」ときけば「あり。あすもちゆく」と。
けふ鈴木文平生材木もち来り、鈴木大工「3日休む」と8万円もちゆく。。

8月16日
8:30さめ(よべよく眠れず)、午ごろ中央公論より帰り来し『コギト』にて福地氏の仕事すみ、あと聖霊の話、ユと3人にてす。(※暑中見舞 省略)
ユ19:30の新幹線の切符買ひ来り、18:00まで夕食すまさす。福地君酔って話しやまず駅まで送りしあと「上衣忘れた」の電話ありし。

8月17日
よべ早く眠りよく眠る。母帰り来りしゆゑ、ユを松浦家へ中元もちゆかす。(※暑中見舞 省略) この3日間李白やらず。夜、松浦母上より電話。

8月18日(日)
竹森先生とお別れに参りしに22日お立ち(10:00)との由。齋藤先生(※齋藤齋?)胃潰瘍なりし由。(※残暑見舞 省略)
筑摩より『Non-Fiction』の印税(21,000-2,100)18,900三井銀行に入金と(3千部なりし)。
けふ名古屋の千種団地の事故云々との事(※飛騨川バス転落事故)に依子に電話すれば「きのふ蒲郡へゆきし」と也。

8月19日
(※省略) 『東洋学報50-4』来りし。角川へ立野利男の名書き加へたのむ(係ね鈴木氏)。
東洋文庫岡田君より電話、後任の池田温氏出て来玉ひし故「8.31までに履歴書、業績簡単に。木曜3.4時限と孟子、史記の申送りたのむ」旨云ふ。
京18:30帰宅。「早いわね」のユの言葉に(※悠紀子夫人に対して)激怒す。小山正孝氏より電話ありしに「李白100枚かいた」といふ。

8月20日
8:30出て斎藤dr.。久しぶりでお目にかかり、この前忘れし傘返していただく。帰り『暮しの手帖』の戦中記念号買ふ。
暑くて汗流しをり。(※残暑見舞 省略) 『四季』3受取る。母、増上寺へゆき林泊りと。

8月21日
福地君より速達「角川へ送稿した」と。(※省略) 大伴道子夫人より云々。
13:30出て登校。salaryもらひ大藤氏に会へば「洋書、東洋史はなくてもよし」と。
成城堂に払ひし、『長岡京発掘(280)』買ひて帰宅(氷あづき食べて)。(けさ保田のこと南北社のため10枚かく。※「少年の日のことなど」保田與重郎著作集 第2巻月報)

8月22日
よべ22:00眠り8:00さめ、ユに竹森先生送りにゆかんといひ、出たあと何時出発かわからずなり、
道具屋に寄り茶のみて10:30ゆけば男4人女20人ほど集りをり。
先生「高砂族の本は何といひしや」といはれし故「向ふへお着きになった時お手紙す」といふ。11:00、Hyer来り、先生御夫婦お立ちになる。
帰りて『朔太郎会報』見る。(※省略) 池田温氏より書類来しゆゑ山田主任教授に電話し「9月より新任」と定む。
夜、岡田英弘氏に云へば「もとよりそのつもり」と。けふ「田中正平」を伊藤完夫氏かきしをユ見付く。池田温氏略歴(※略)

8月23日
ユ8:30史宅へとゆく。あすの雅子の誕生祝にと也。
母に「3万円われ出し、大2万円出し、年5万円(10年年賦)とせん。建の名義」にといひ、午食まへに史ら外出とて帰り来る。
(山田教授に書留にて池田氏の書類送る)  (※残暑見舞 省略) 母赤阪へと出てゆき京、下田へよべよりゆきをり3人家内也。
(澄より電話「依子、泰をつれて29日来る。云ふ事よくきく故4〜5日泊めよ」と電話あり。)
中村嫗より保険での借用8万円出来し。けふにて「日まはりおばあさま」了り、チエコの騒動3日目なり。
(午后、長尾良君より「高円寺の伊藤病院に入院。徽宗かきたし。あす退院」と電話あり、すぐゆき何年ぶりかに会ひ来る。
帰りて保田直日追悼の『風日』を見る。イスラエル・アラブ戦争の直後に自殺と。)

8月24日
屋根屋遠藤氏に3.5万払ふ。木山捷平氏、昨日午后食道がんのため64才にて死と朝刊。中西進博士より紀要の休みみとめると。
夕刊には丸岡明氏、肺がんのためけふ午前61才にて死と見ゆ。
けふ中央公論社の鈴木女史より保田の土井晩翠論につきとはれ『詩人全書』ならんといひ、新潮文庫にもある事あとでわかる。
京、けふ21:00友つれて来て泊めると也。

8月25日(日)
ユ礼拝にゆき、われねてをり。帝塚山学院同窓会報にかけと云ひ来る。何もせずどこへもゆかず。京、友だちと横浜へゆきしと。
夜、美紀子より「奥日光へゆきし」と電話。

8月26日
8:30雨一時止みし時、鈴木大工さん電話かけ、午近くまでゐしも雨また降り帰りゆく。(※省略)
Politeia社より「佐藤春夫」につき問合せ。『FOU』を一番好きと答ふ。
中央公論社の鈴木女史に「保田の土井晩翠論、新潮文庫にあり」と答へしに、のちほど蔵原氏の『岩魚』もつやと問はれ「なし」と答ふ。
(※省略)

8月27日
雨(朝のうち)。母帰り来ると同時に出て斎藤dr.へ薬とりにゆく。
新城博士より電話「文部省よりの補助金450万円中65万円あるも買ふ本ありや」と。「東洋史はいらず」と答ふ。
本位田昇より転任挨拶。潮流社より「『四季』同人に高森文夫氏加へし。この間の会に杉山平一氏出し」などいひ来る。

8月28日
雨。家居。澄より「あす9:00又は9:30に乗る」と。荒木利夫氏より「安藤真澄の追悼文かけ」と。
18:00滝本生「来てよろしや」と。「来よ」といひ夕食くはせしあと非常識とがめ、早々帰りゆきしあと賀代嫗来り、訴訟の話す。
けふ「日記」と題し26日の木山、丸山2氏のことかきし也。『骨』30みれば安藤氏の倒れしことかきあり。

8月29日
朝の中晴れて暑し。賀代嫗出入し、昼寐し傍若無人なり。阪本越郎氏伯林より。
渋谷国忠氏「朔太郎旧宅(※保存運動)何とかならう」と(夕刊にてダメにて云々とあり)。台風十号にて夕方より急雨。
けふ12:00、澄より「母子阿佐谷駅に迎えられたし」と。ユ行けば丁度也しと。京につれられて新宿にゆき帰りて機嫌よくなる。
(『果樹園』へ2,500と「日記」、荒木利夫氏に「われ1人は不可」と速達す。)

p19

8月30日
大工さん2日休みしもけふは来る。母、赤阪に林叔父来をりと出てゆく。
澄10:00まへ来り「11:00に乗りて高松へ行く」と出てゆく。よべ竹内邸へゆきし也。
トボ、ユにつれられて今井家へゆき、依子迎へにゆく。
新潮社の『日本文学小辞典』見てゆく中、丸岡桂と丸岡九華とは別人とあり。福地君に訂正申込む。(※丸岡桂:丸岡明の父)
(大より電話「宝国寺へ30万円申込むは反対」と。われ1人にて出すといへば納得せし)。夜、鈴木文平へ「屋根裏の板たのむ。請求書もち来れ」と。

8月31日
わが57回目の誕生日也。「たなかまさこ」と美紀子、誕生祝のcard呉る。
大工さん来り、廊下ほぼ出来しに午すぎ鈴木文平屋根裏板もち来り、8万余の請求書見せ、大工さん検すればぬけをり10万円もちゆく。
大工さんにも10万円払ふ。船越章呼び、文子の訴訟の事いへば「統夫損得には明るけれど一度ゆきて話せ」と也。(※省略)
高松より澄と母上と電話に出「まだ熱とれず」と也し。

9月1日(日)
荒木利夫氏より速達「阿原、依田氏にも書かす云々」。
ユと礼拝にゆく。竹森先生まだMichigan洲Hollandに入り玉はずと。布買ひ麺食ひて戸塚busに乗り、葛の口で下車。茶屋あり松田屋と。
姪なる可愛き子に道きき50mはなれし「味よし」にゆけば統夫夫婦をり。
訴訟の覚悟はなせし故、安心し、もてなし受けてbus待つ内、taxi来しに乗せらる。帰宅16:00すぎ。(※省略)

9月2日
9:00出て登校。三輪さん下へゆき、代りに臼井といふ子入りをり。月見そば(100)あつらへ、3時限目なるに気付きしは教室へゆきてのち也。
新築の図書館見にゆき、定期券代(1か月2,030)もらひ、成城堂にて『問はず語り』採る。後深草院の妾にて他に3人と枕かはせし女の記なり!
桜楓社より中西博士の2著『万葉集の比較文学的研究(7,840)』と『万葉集の研究(7,840)』来をり。3時限に中国の婚姻ちょっとやり、
池田茂都枝に「家持論」のため『続日本紀』よんでやらんといふ処へ小倉女史来りし故、道造の筆蹟与ふ。
高橋邦太郎氏来られ「15:10まで待て」と。池田生と話し高橋氏来られしとOrissaにゆき喫茶。
けふ〒なく、大工さん来り、依子母子、美紀子のもとへゆきをり。
「11月23日に式挙げる。ぜひ出よ。先生どこか悪いのではなきや。北杜夫氏にゆくならずや」と喜多村鈴子生より電話、「あす来る」こととなる。
澄より「名古屋へ帰った」と電話あり。母、依子に同行して西下したき様子也。

9月3日
ユ、斎藤dr.へ8日分の薬とりにゆき、電話局へ泰つれて電話料払ひにゆく。泰もっぱら大工さんになつく。
喜多村生来り「11月23日明治記念館にて挙式」と。「semi休む。祝ほしきもの云へ」と云ひ、送りて駅にゆき、佐伯にて胡曾『詠史詩(150)』買ふ。
『桑原隲蔵全集5』いまだ来ずと。夕方より泰荒れ、ねて了ひ、澄より電話ありしに明後日帰宅と依子いふ。
あす赤坂より母帰宅と也。けふ成城教務課より電話ありしゆゑ「岡田氏のreportあさって我受取る。けふにて受取止めよ」といふ。

9月4日
ユ、依子、泰、吉祥寺の動物園へとゆく。文芸春秋社より電話「詩かけ」と。「十何年ぶりですよ」といふ。
泰うるさく云ふ事きかざる故叱りし(※観ているテレビを何度も消された由:依子氏談)。澄より電話ありし時、依子切符買ひに出をりし。

9月5日
あさ澄より電話、依子母子13:00に乗ると也。山野井生の資料ちょっと訳し、出てゆく時、泰にこりともせず。
すし(90)買ひ、成城堂に『田中正平』注文し、教務にて岡田講師へのreport受取り、午食すまし池田温氏迎へ、高田部長にゆきしに会議中と。
教室教へsemiに出て小武守生の原稿なほし、研究室に帰り明日の中国文学のprint「杜甫詩選」切りをれば、
山内清男博士来られ、大学院に協力求められをり。考古学教室ならびに標本室移転につき話しありと「われしらず」といひ、予定の柳田文庫へ案内す。
すみて研究室へ戻れば池田氏reportの記入やりをり。わがprintすみしと同時に茶のみにゆき話せば、終戦の時中学2年、新制西高校より京大と。
和田先生の思ひ出のみ話して新宿まで同車。泰、京につきそはれにこにこして帰った由。(※省略)
けふ角川より文庫の増版印税(1,456−145)1,311来り、和田統夫・美佐子より礼状。(※省略) 夜、中央公論社より速達にて履歴の校正来る。

9月6日
晴。9:45出て成城。東洋史に鄭芝龍出ず銭謙益の悪口いひてすます。(※省略)
風月堂へゆく途中、キリスト教は邪教と、毛沢東信者也。中国文学史にて杜甫すます。
けふ浅野氏(※浅野晃)詩碑建設世話人会へ5千円ユをして送らしめしに、同会代表小松清氏より「用意できた」と。
三島一氏より「専修大停年、二松学舎に移りし云々」。

9月7日
8:00さめだるし。『文芸春秋』を午后送り来しゆゑよみ了る。青山博士、軽井沢の桃1箱たまふ。母、赤阪へと出てゆく。
今井翠に電話し「国政氏の都合好き日にいつでも」といふ。

9月8日(日)
9:00近くさめ礼拝にゆかず。大工さんも来ず。浅野晃氏詩碑への5千円受取り来る。

9月9日
桜楓社へユをして15,680送らせ10:30まで東洋文化史のnote作り、すし(90)買って登校。山田教授に池田氏の講義はじまりしを云ひ、
東洋文化史すませ、帰途、図書館員に会ひ、本つきをりをきき、見にゆけば山本よりの『明実録』なりし。
鎌田女史つかまへ、山内博士のこといへば、ダメと。東豊書店へゆき、洋書のreprint8万円余と『王国維全集』25,900とを注文す。
(ゆき佐伯にて『文芸春秋』と『展望』とをおき『広隆寺(150)』買ふ。) けふより涼し。(※省略)

9月10日
鈴木正義生、東京へ転任と。11:30出て12:30つき、中国文学史のprintしゐれば大藤教授来り「山内博士にかまふな」と。
(成城堂にて『田中正平と純正調(560)』とる) 14:00より教授会。「漢文岡田氏の代りに池田氏を」と山田教授諮り、
授業料値については「部長、前田部長、池田評議員に任せよ」と。
すみしあと大学院「庶民文化専攻」とにて大藤、鎌田、新城の3氏とわれにて話すうち、海江田副手呼びに来り、
国文大学院の会に出、ひとまづ成城大学国文学論叢とすることとなり、文化史へ帰ればまだ話つづきをり。池辺君をsemiよりはづすこととなる。
18:30夕立の間をぬけて帰れば、雅子をつれて美紀子来しと。(※省略)

9月11日
9:00出て斎藤dr.。薬いただき「役付きにてなき故云々」と申上げて帰る。televiの2つ見てをれば母帰り来る。
西川満氏にハガキ。夜、田上由美子生より電話「三鷹にをり、来る」と。(※省略) 田上生を駅まで送り、入浴すれば22:00なり。

9月12日
(※省略) 10:10出てすしやによれば「まだ出来ず」と。pão買ひて登校。図書館に新着の本のlistたのみ、semiに出る。(※省略)
鈴木女史より「けふ来る」との電話に「17:00帰宅」といひ、池田温氏と同車にて新宿。帰宅してややすれば鈴木女史。
「印刷追ひ込み」と訓きかれ、掲載誌きかれ『コギト』2冊貸す。(※省略)
『成城文芸』51号出来、抜刷30部もらひし故、小山正孝氏にと鈴木女史に托す。

9月13日
早朝さめ、ふらふらと登校。「10月7日の試験監督免ぜられたし」と教務の前沢氏にたのむ。東洋史にて国姓爺教へ、2時間半また困りゐしに、
小武守生来り「長恨歌伝」よませ助かり、Orissaへつれゆきjuiceのませ(260)、「杜子春」のprintよむ。すみて図書館にて書目受取り帰宅。
〒なし。鈴木女史より松下の「芸術哲学」のこと問ひ来りし故31回つづきしShellingの訳といふ。20:00すぎトボに電話すれば元気と。
(けふ大藤教授のすすめとて李錦順semi申込みに来る)。

9月14日
雨。よべよくね、朝『文芸春秋』のため「わたしのうた」を作る。〒なし。televiの洋画を3本見る。

9月15日(日)
5:30覚む。雨止みをり。『コギト』の整理をす。(鈴木女史に創刊号他1冊貸しあり。)
このごろ子猫わが家に泊りをり。礼拝にゆき山内副牧師の話きき、竹森先生のadressもらふ。
帰れば美紀子より電話「渋谷へ本買ひにゆく故来る」と。史も来り、雅子「高い高い」すれば喜ぶ。
夕食時になりても悠紀子、飯出さずして帰りゆく。昨日休みし大工さんけふは来る。

9月16日
よべねつき悪く、早くより床に就きし甲斐なし。11:00出てすし(90)買ひてゆく。
山田教授「田中久夫氏の評伝ふ」。十和田湖見たしと。大藤氏のために伊藤、長谷川に2人にて電話すれば宿満員らし。
「漢代の婚礼」中途にて了へ、久しぶりに大学院。(※省略)
帰れば中央公論社の鈴木女史より電話「山岸外史氏の芥川龍之介出版記念会はいつなりしや」と。
昭和13年と答へしあと「山岸に電話して聞け」といふ。けふ『大世界史』、『日本の詩歌(※自分の回)』来り、山中智恵子氏の歌集(※『みずかありなむ』)来る。
今井翠より「見合を土曜の19:00より自宅にて」とかけ来る。鈴木文平に材木の注文す。
竹森先生にGraviusの本のこと書きまいらす。(天理より『Biblia』来り「新井トシ女史60才にて定年」と。)

9月17日
よべ22:00までtelevi見しもねつきよくなし。午后「安藤真澄さん追悼」400×5かき、ユに出しにゆかしむれば普通便にて出せしと也。
母赤坂へ出てゆき、大工さん午后、雨とて帰りゆく。
早川智慧さんに山中智恵子氏のこときけば『日本歌人』同人と。礼状かく。

9月18日
10:00斎藤dr.へゆき薬かへていただく。鬱となり。帰れば姉俊子来をり、咸子退院しても下宿すとて3万円(敷10万円)で大に貸すと也。
赤坂の母に電話すれば新宿に4間のあり云々。
小山正孝氏より「杜甫」受取った。李白のすすみ如何にと。文芸春秋の羽田女史より受取。(※省略)

9月19日
登校。すし(90)食ひに講師室へゆけば池田温氏すでにあり。試験時間割くばりてあり。(※省略)
池田氏と茶のみてともに帰る。けふ眠剤ききて眠くて耐らず仕事もできず。あすは「国姓爺合戦」の話せん。

9月20日
9:30登校。「国姓爺合戦」の話し、午休み、柿崎生来る。ついで清水常臣生来り『中国報史』よます。
そのあとオリッサへjuiceのみにゆき『ヴゥレリー詩集』買ひね中国文学史に「白楽天と日本文学」やり、「杜甫の晩年」くばる。
今井翠に電話し「あすすしもちゆく」といふ。澄20:00来り「あす高松へゆき岡山に入院の母見舞ふ」と。
(村田幸三郎より酔った様な電話「船富光より120万円借りし」と。)

9月21日
平凡社渡辺氏より李白の催促。月給とりゆくを止め、保田選集(はさみ込みに「少年の日のことなど」のす)来りしを見、
14:00ごろ来りし滝本生に留守たのみ、19:00今井翠の家へ親子3人にて見合にゆく。
電話かかりなどして21:00来りし北野一東大出の読売記者と1時間足らずして別る。すぐそばの駐車場に読売の車またしをり。
帰りて23:00寝につく。

9月22日(日)
8:00さめ礼拝にゆけず。滝本生10:30出てゆく。福地君より「校正にて訂正した」と。弓子けふは「縫物の試験」とかにて早くより外出す。

9月23日
休日也。大工来ず。母帰り来り「俊子の家に入るをいかに」といふ故「止めよ」といふにいやな顔す。
弓子に「縁なきゆゑ後妻となれ」といへば嫌な顔す。(※省略)

9月24日
8:00さめ9:00より入試問題4問つくり、昼食くって登校。教授会すみ入試問題の会。18:00すみ「次は10月22日」と。
『続・北魏洛陽の文化と社会(1,100)』佐伯で買ふ。
広島宇品の松尾静明氏より「原爆反対の詩かけ」と。(けふ海江田副手に堀辰雄の昭和21.6.3のハガキ与ふ。)

9月25日
10:30斎藤dr.にまいれば満員。薬もらひて帰る。竹森先生よりおたより。(※省略)
京、塩原へ1泊旅行にゆく。母「田中俊子姉に会ひ、借家の話きめし」と。きげん良し。

9月26日
雨。鈴木文平来り、3万3千円余もちゆき「これにて了り」と。山野井生来り「Amazon川に住む男にゆきたし」と也。「来月2日再来」と。
母赤坂へとゆく。京、日光のヱハガキ買ひ来る。

9月27日
曇。「スマトラ記」200×10と同人費を『果樹園』へと送る。(※省略)
水道屋、夜に入りて来り水洗出来る様なりしも便所の扉まだつかず。
(夜、西川英夫より「29日大阪での昭六会にゆくや」と電話、「ゆかず」と答ふ。)

9月28日
家居。服部夫人より「東京おくれる」と。『芸亭』来り天理dayなり。
「スマトラ記」のつづきかきしのみ。鎌田女史より電話「東洋史書目多すぎる」と。「何冊へらせば宜しきやききくれ」と返事す。

9月29日(日)
ユのみ礼拝にゆく。(※省略) けふ大工さん来ず。ひげのばしゐれば田上生「父と来り、道わからず」と。
ユのつれゆくまにひげ剃り「来年4月結婚」ときく。泰緬鉄道の軍医としてゆきしと云ふ父上(55才)に恐縮す。
(「スマトラ記」に富久軍医のことかきし直後也。)

9月30日
曇。鈴木大工さん相手に終日。依子より京の仕立にて電話。夜、白水夫人より「その中来訪」と。

10月1日
終日家居。新城博士より「柳田文庫中の東洋史書目を臼井助手に預く」と電話ありしのみ。「二十三年」を広島に速達す。
山野井生より「その中来訪」と。

10月2日
終日家居。筑摩書房より『世界の歴史』改訂版来る(諏訪澄に送る)。
小高根二郎氏より「スマトラ記の散文ありて好都合」と。「李白」(150+40)×200となる。

10月3日
5:00さめてねられず。7:30出て試験監督。池辺氏まちをり研究室の『平城遺文』3冊もちゆく。次の時間は齋藤博士の時間。
すみて月見そば注文し野口、高田諸氏と話す。(※省略)
前田部長をらず「書目64位にしてほしき」由のみききて小倉副手の出勤しゐしを見、宮本生「国会図書館へゆきし」といふに会ふ。
成城堂にて『東京にのこる江戸』とハイネ1冊とを買ふ。14:00帰宅。〒なし。(※省略)

10月4日
6:00すぎさめて7:20出る。講師室の女の子また変りたり。教育原理の監督すまし定期代5,700もらひて帰れば11:00すぎなり。
「大、肝臓わるくした」と。澄「9:00来る」と。
中央公論社の鈴木女史に11人の贈呈たのみ(池田博士をぬかす)「のこり9冊家へ」といふ。
夜、母に電話し見舞いふ。前田部長に云いひしごとく530部に目録を削る。

10月5日
けふにて2日雨。鈴木大工さん来らず。角川より掲載依頼書。全田叔母より「意地悪をする人もあり」と。
佐々木邦彦画伯より「真野氏にきいた云々」。(※省略) タバコ買ひに出て佐伯に寄りしも本なし。
(国分直一『台湾の民俗』新本屋にて1,300)。けふ今井翠より電話「美紀子、松浦家へ入る。国政氏忙しきも15日すぎひま出来る」と也。

10月6日(日)
晴。久しぶりに礼拝にゆく。(大工さん来り、玄関出来る)。 (※省略) 高尾(大阪)の目録来る。

10月7日
『果樹園』152、『東方学』来る。鈴木大工来る。11:00出て虎の門よりtaxiにてHotel Okura。(※教へ子披露宴 省略)
南阿佐谷にて傘、ユもち来らす。(※省略) 松浦家へ電話し美紀子に云へば「新郎田尾唯一のアリミノ」を知りをり(※不詳)。

10月8日
朝、成城大学教務に電話すれば「けふ15:00より教授会」と。12:30出て定期3ケ月分買ふ(5,800)。
栗山博士、文化史の3人ら欠席多く議事もなく新築の図書館見しのみとなる。
夜、小山正孝氏に電話し「今月末までに訳し了へる」といふ。「あす鈴木女史ゆかん」と也。(※省略)

10月9日
壁ぬり来り、鈴木大工来る。午后鈴木女史より電話「16:00ゆく」と。『文芸春秋11月号』来り「わたしの歌」のす。
鈴木女史11:30来り、9冊もちくれ「来月15日三井銀行阿佐谷支店へ支払ふ」と。『日本の詩歌』次は「日本歌謡集」と。
澄19:00すぎ来り「あす朝6:00起きる。依子来年出産」と。けふユ、薬とりにゆきくれし。

10月10日
体育の日と。けさ5:30さめ、ユ起し、澄を送り出せしに睡眠不足とてクタクタ也。横臥しゐしに赤川草夫氏来訪。みかん賜ふ。『日本の詩歌』呈す。
柴野利彦といふ『山の樹』の同人「父は60年富士にて事故死『南の星』の装釘は姉の絵」と。
文芸春秋より稿料来り、赤川氏の眼前にてあけ見れば(11,111-1,111)、1万円にて15年たちしもさほど上りをらず。
美紀子より「来る」と電話、しばらくして来しを見れば史とも3人。雅子ものいふやうなり。わがままなり。
依子「6月出産に1月より来る予定」を云ふ。帰りしあとinternational beauty contestといふを見て疲れに疲る。(※省略)

10月11日
大工さん来、ぬりや来る。斎藤虎五郎翁(90才と)『その折々(※銀行員生活随筆)』賜はる。よみしに父のこと書きあり。明日横浜へ礼にゆかんと思ふ。
母久しぶりに帰宅。

10月12日
大工さん来るを見てユと出、なめこ5缶買ひて根岸までの切符買ひ、11:30駅着、taxiにて1番地におろされ150番地探してゆく。
「西島(※喜代助)の長男」といひ「5分間」といひてとり『その折々』に署名もらはんとせしに、すし出され食べずといへば麺出さる。
2時間近くをり「亡父、中根貞彦氏の三和へゆき[一乃田]支店長いやにてやめし」ことわかる。
「幼き恋書きし原稿着きしや」との問ひに「着きし」と答へ、群馬の出といふに萩原密蔵、朔太郎のことを「主治医、道楽息子」といはる。
「夫人82才にてchristian」と。「再来」といひ途、令嬢に教へていただきしもtaxiにのりてまた根岸へ出、帰りて飯くふ。
角川より『Heine』「6版1万冊を11月上旬に」と来あり。

10月13日(日)
8:00さめ、夫婦とも礼拝にゆかず。我だるくて困る。(※省略) 本位田に電話すれば「心臓わるし。国政検事しらず」と。
母、赤坂へ出てゆきがけ「大の病気なら見舞はず」と我を咎める如し。(けふ川村欽吾氏より電話あり「来玉へ」といへどきかず。)

10月14日
Olympic(※メキシコシティオリンピック)の放送うるさし。母より電話「大のところへ斎藤さんの本もちゆけ」と也。(※省略)
依子に電話せしに「中央公論社より本(※『日本の詩歌』)まだ着かず」と。(鈴木大工に10万円わたす。あす辺り本棚架けんか。)

10月15日
Olympicに三宅兄弟、金・銅(Weight-lifting)。母帰り来り「下北沢のOdeon座向ひの福原病院に入院の大の許へゆく」と。
成城大学より大学院志願者外部よりなく「内部より英・国1名づつ19日11:30より面接に来れ」と。
平凡社の渡辺氏来りしゆゑ「小山君と連絡とれざる」を云いひ、本文170枚(註とも)、原典44枚わたす。
鈴木大工、本棚を了へ、いやいや障子入る。鈴木みゆき女史に達治ハガキと静雄手紙1通を書留速達す。
今井翠来りし故『日本の詩歌』やることとし、献字かきそこなふ。
「国政君15日(けふ)弓子に連絡する」由なるもあてにせず。

10月16日
9:30斎藤dr.。「鬱」を云ひて(※斎藤茂太院長へ)『日本の詩歌』贈りまいらす。
帰り下北沢の福田病院に大[を]見舞ひ「鬱」云ふ。織田喜久子氏より「詩くれ」と。「書けず」と答ふ。
今井翠より電話「国政氏に電話せしもかからず」と也し。
けふ門柱掘りに本多氏たのみしに来てくれ、松茸(南北社より貰ひし)とbeer2本とにてすましてくれし。
筑摩より『世界文学全集 陶淵明』のおりこみに「400×7を23日までに」と。断れどきかず。

10月17日
8:00さめ、まもなく速達『世界文学全集』編集部より懇切なメドかきてあり。
山野井生のため1枚訳して10:30となり、ひげ剃りバッテラ買ふ(100に値上げ)。ゆきて大藤氏に遭ふ。「森鹿三氏、民族学会にて話す」と。
野口武穂氏に『日本の詩歌』贈り、久しぶりに会ひし池田温氏と話してsemiにゆけば山本生、風邪とて休み。山野井生をり、すまして手当もらひしとふ池田氏とまた話し池内博士の机に『日本の詩歌』置き、成城堂に『日本の詩歌』と『文芸春秋』と見す。悒せし。
帰宅すれば札幌の早川勝美氏より「八月の詩のりし悲歌ほし」と15円切手3枚入れあり。『日本の詩歌』見よといひやる。
(※省略) 筑摩より「『世界の歴史巻6』を5千部9.1発行した」と。夜、集英社より電話「折り込み(明清史の)書いてもらふ為23日来る」と也。

10月18日
Olympicちょっと見て8:30出、経堂にて平馬副手と遭ふ。野上生ゐず「欧人の東航」を講じ、
大学院の桜井克子生と話し『日本の詩歌』買へとすすめ、これもちて下北沢の大のところへゆき、volley-ballに日本team Czech(※チェコ)に負けるを見て出る。
中国文学史printせず。佐伯より来し本の手続を伊藤副手にたのみ、帰り佐伯に寄れば『台湾の民俗』来てをり1,140と。
『中国歴史故事』と巌南堂目録と呉る。家の手前にて車に荷物つむ鈴木大工見かけ「金とりに来よ」といへば「いづれ又」と去る。
けふ『中央公論』の春名徹氏より「我社の本ながらよき出来」と。(※省略)
夜、万事をすてて筑摩書房のため「陶淵明を好いた人」400×7をかき了る。

10月19日
史より電話「男児誕生」と!9:30出て筑摩へ原稿送りにゆけば「10円多納」と。
10:30成城につき、成城堂にて『大和考古学散歩(480)』、『近江路(280)』、『耶馬台国への道(280)』買ふ。
『日本の詩歌』は1冊も売れをらず。11:15大学院へゆけば「入りてよし」と。(※省略)
山田、坂本2氏に『日本の詩歌』つきしらし。研究室へ帰り田中久夫氏に久しぶりに会ひpão贈り、
ともに帰らんといへば「新城博士呼びゐる」と。2人にてゆき「11月9日(土)我家へ来たまふ」と也。
13:00まで待ちsalaryもらふ高校の国文の先生にて「文春の詩よみし」といふ人あり。成城堂へは「つけ未成」といふに払はず。
(けふ『大世界史』14冊を基本図書にといひしに「もう金なく買ふな」と佐伯のツケ見て大藤氏より注意されし)。
新宿をへて御茶ノ水、木原正三堂移転しをり。探しあてて180のcard200枚買ひ、ラーメン(80)食ひて地下鉄のりかへ中野に出などし、
佐伯の夫人に1,140払ひ「雑誌とりかたがたあそびに来たまへ」と云ふ。廊下の書棚に本入れ、本棚3つ移す。
けふ筑摩より『non-f.全集』の印税(14,000−1,400)「三井銀行に納金」と。銀行よりも「受入れ」の通知あり。
中野清見より「文集にかけ」と。中公の春名氏より電話「随筆かけ」と。ゆっくりでよきこととなりし。
夜、ユ疲れ、われteleviのOlympic見る。(※省略) 坂本教授『明治という時代』返しに賜はりし。

10月20日(日)
8:00さめ、夫婦して聖餐式にゆく。(※省略) 帰れば中野清見より「丸の消息なく心配」と。喜多村・富山両家の披露宴案内(※省略)
(朝、松浦家に電話し、ユともども母上に礼を云ふ。「雅子泣きて困る」由。)
15:00すぎ田中楠弥田氏、『田中正平と純正調』と菓子もちてお越し。
大変せっかちにて『大唐西域記』の訳きかれてこまり「長澤和俊訳桃源社本(※『玄奘法師西域紀行』)」をやっとお教へして
「高円寺よりbusあり」と出てゆかれしを送りだす。「一男一女」と。「田中家は産後わるく、また養子すぢ、田中館秀三氏の媒妁は父」と。
また「糖尿」とて菓子さし上げられずこぶ茶出せしのみ。夕方さっそく礼状かき2冊送ることとす。夜、大江叔母にハガキかく。
昨日けふ少し「躁」となり李白も200×14かく。

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10月21日
史より「松浦母に挨拶せよ」と電話あり「けふゆく」といふ。ユpermaにゆき母、赤阪へ出しあと、
集英社の三浦君に電話すれば「けふ13:30〜14:00来る」と。澄より「本ついた。読んだ」の電話。
14:30集英社の三浦洋君(青島生まれ、終戦の時中学1年と。慶応出なり)、ゲラもち来り、明清のはさみ込みの文「400×6を月末までに」と。
文化史のことをといひしも、ことわり台湾のこと書かんか。
ユ18:00すぎ誕生祝に5万円とどけ帰り来り、「雅子泣かず」と。けふ〒なし。反日共系のDemo夜、盛んらし。
李白また少しかく。(けふ大江叔母に本、ユ送る。95と。)

10月22日
国電中央線15:00ごろまで停止とtelevi。松浦母上に電話し「25日のお七夜に鯛と赤飯もちゆく」といふ。「美紀子24日退院」と也。
中央公論社に電話し「5冊送れ」といふ。入試問題清書のあと「李白」をちょっとやり、13:00出る。
成城堂に寄れば長嬢「坊やの如き」次子つれて帰りをり。次嬢に本代きけば『大航海時代叢書10(2,500)』来てをり。3,895円払ふ。
田中楠弥田氏にと『大唐の春』一冊買ひ、『ヨブ記』、『舞踊の文化史』と『岩波新書』2冊(150×2)買ひ、卒論のかき方講義にゆけば35人位出てをり。
(※省略) 帰りせき(※急き?)19:00、すぐ電話母にあり「河野千鶴嫗、卒中にて倒れもの云へず」と也。
「Apolo7号地球につきし」と。Olympic反戦斗争などにてtelevi忙し。(※省略)
京「いまより映画見にゆく」と19:30電話かけ来り、叱れどもきかず「きのふの余波にて国電マビキなる」を云ひしも、なり。

10月23日
雨。母赤坂へとゆく。ユ斎藤dr.に薬とりにゆく。われ「李白」つづける。11:00ユ帰り来り、昼食後13:00出て臨時教授会。
「来年度入学金より4.5万円に学費上げ23万7,840円とす(文芸)」との案出され、2時間余りかかる。そのあと賃上げbase表もらふ。(※省略)

10月24日
夜中、雨ふりつづく。『ヨブ記』のせいか2:30すぎても眠れず。眠剤半服、こわきゆめ見6:00ごろ起床。
10:00まへ山本生より電話「けふのsemiわたし1人」と。「15:00ごろ家へ来よ」といふ。(※省略)
河野岑夫へ見舞かき、魚屋に鯛あつらへ(1,000+α)、強飯あつらへす。
桐山眞君に「アサミ丸(氷川丸也)」きくため(※省略)「スマトラかく」と云ひしらべたのむ。15:00山本生来り、(※省略)
佐伯へ雑誌もちゆけば80と。雑本1冊とかへ来る。けふ松浦薫氏、高松より「男児と詩集と祝ふ」と。

10月25日
6:00さむ。昨夜21:00ごろよりねしらしく気分よし。6畳の書棚みな外へゆく。喜多村生に電話「(※結婚祝に)何かほしいものを」と云へば、
「鎌倉彫りの盆」と。「婿つれて来るなら、よし。然らずば来ずとよし」といふもきかず。
13:00すぎ雑誌もって出、cameraにfilm入れ「44年暦(60!)」買ふ。佐伯へゆけば『展望』のみゆゑ350と。
『名詩評釈(450)』買ひ、そばにありし『むらさき(昭和12年10月号)』とりあげれば、亡佚せしわが詩「秋薔薇」のりをり。
50円にまけて呉れ「明朝雑誌とりに来る」と。ユと落ち合ひ新宿まで国鉄。西口よりbusにのれば「乳のましゐる」と。
雅子出で来り、動作はげし。級友2人来をり、1人はいま豊橋在と。おこわと鯛われらもちゆきしを母上出したまひ、みな1碗づつ食ふこととされし。
武田検事にも礼云ひtaxiに乗りしに四谷三丁目へ運ばれ地下鉄にて帰宅。留守に『日本の詩歌』5冊おきあり。
西川英夫より電話、『日本の詩歌』よみゐると。本位田の心臓病しらざりし。(※省略)
ユ、運送屋にゆき「30日、大の宅、本天沼へ移る」こととなる。数男に電話し、その旨いふ。田中小弥太氏へ小包造る。(※省略)

10月26日
けふも晴。佐伯来りし故『文学散歩』そろひを渡す。今井翠より電話「国政氏、蔵相について西下、けふは会へざるも近々」と。
13:00母帰り来り、大の転居通知の原稿かかし、
「河野嫗、水がのどを通るやうになった」と喜ばざる様子に、笑って咎めしところ「聞きそこなひ」「云ひそこなひ」と争ひとなり、出てゆく。
佐々木邦彦君より『文芸春秋』の詩よくわかった、と。中野清見より「『日本の詩歌』よんだ。長生きしてくれ」と。(※省略)
けふ「スマトラ記」200×11かき了ふ。(※省略)

10月27日(日)
8:00さめ快晴なれど礼拝やすむ。松浦父上より電話「まだ名きまらず」と。浪中12期卒生のつどひ(47才と)の案内来る。「欠」の返事と近況かく。
(※省略) 女子Volley-ballでSovietに3-1で敗ける。(※省略) 弓子、久能山のヱハガキもち帰る。昨日行員clubの旅行に加はりしなり。(※省略)

10月28日
6:00さむ。Olympicすむ。俊子姉よりの電話にて「天沼の家、31日修理」とて大の転宅また延びる。
花井タヅ子より電話「読売記者が世話する故、弓子に会はすか」と。「たのむ、日を早くしろ。『日本の詩歌』買へ。医師の後妻せわせよ」といふ。
10:00すぎ出てすし(100)買ひ、『果樹園』へ同人費と原稿送る(130)。(※省略)
新築大学院研究室に荒本生の案内受け「白氏文集と太平記」教へはじむ。池田生休みをり。
15:40すまし高橋邦太郎氏の再び来玉ふをさそひ小武守生と風月堂にてごちそうとなる。
「潜艦にやられしは太洋丸」と云はる。Malay語われよりくはし。同車して新宿で別れ、小武守生を家に伴ひ「楊貴妃(今昔物語の)」すます。(※省略)
帝塚山大学!に充てしBrigham Young Univ.(Utah)の上原幹夫生より「満蒙に対して日本の政策1912-1915の史料教へよ云々」回送され来る。
21:00まへ小武守生了り地下鉄教ふ。その間『上野』の記者より「詩くれ(10日までに)」と電話、「(※掲載する)雑誌くれ」といふ。
けふ眠薬1服のこりゐるを知る。この間飲み忘れしらしく稀有の事なり。服部夫人より「2日来る」とユに電話。

10月29日
7:30さむ。大より電話「河野嫗死し、母喪服とりにゆく」と。9:00母、滝本生と来り、用意ととのへ出てゆく(滝本生東京まで送りし)。
集英社へ「紫禁城の古物」400×4速達す(130)。佐伯へ寄れば『文学案内』2,000と『やまと耶馬台国(1,950)』、『医心方房内(570)』と代へる。
滝本生帰り来る。15:30滝本生帰りしあと萩原葉子女史より「代々木のレジデンスへ移りし」と。(※省略)
トボたち「5日来る」と。17:00河野より「母ついた。赤坂へも知らせ」と電報。ユ弔電打ち大に電話すれば不在!
「近況」帝塚山2回生の『文芸通信』にと書く。(※省略) 夕刊に「心臓移植の北海道の青年死す」とあり。
20:00桐山眞君に電話し、夫人に「わかった。放心せよ」との伝言托す。
けふユにきけば「梓の代りにお前が死ねばよかった」とわれよく弓子にいひ、いまだ本人おぼえてゐると。
夜、『上野』より速達「11.9までに20〜25行の詩を」と。

10月30日
晴。6:00まへおき、9:00まへ斎藤dr.。薬かへたまひ「1週間目に来よ」との仰せ。「『文芸春秋』の詩おもしろかった!」と。(※省略)
帝塚山よりの回送の上原幹夫君に「答へられず。Babojab,Gunsangnorbu(※モンゴルの独立運動家、貢桑諾爾布モンゴル族の王族)知らず」と答ふ。
(※省略) 平凡社の渡辺氏あさ電話くれ、またくれし故「少しより出来をらず」といひ「夕方来る」と也。大工さん来り、38,100円もちゆく。
その間、集英社来り、写真と台北の『故宮博物院写真帖』もちゆく。(※省略) (鈴木大工、「河南省西坪にをりし重砲隊、ここより青島に出し」と。)
山本生来り『日本の詩歌』買はし、『法苑珠林』よむ中、平凡社の渡辺氏来り「訳良し」とほめ、訳文245枚、本文64枚めまでもちゆく。
「一週間毎に訊ねる」と也。桐山氏よりたより「カマクラ丸、白川丸、ひかわ丸か」と。
「わたしの上野」20数行かき了ふ。山本生19:30夕食しをへて帰る。
けふ京より「鎌倉彫、渋谷店になし」と。弓子より「年賀ハガキ何枚必要か」と、「500枚」と答へさす。

10月31日
朝刊に角川の広告『現代詩鑑賞講座全12巻』3「美を夢見る詩人たち」11月末刊行とあり。「中村幸彦、九大文学部長!を辞任」と。
(※省略) 出がけ中野清見よりハガキ「76才とはハレー彗星見るため也」と。
ゆきて池田温氏より「お体大切に」といはれ、名簿買って来てもらふ様たのむ。
(※省略) semiにても「眠し眠し眠し」といひ(神保五弥氏『春臠折甲』の写真版たまはる)、(※省略) 洋書typeの校正し了へて帰宅。
成城堂にて角川文庫『都名所図会 上(260)』買ひ、久志学生のもち来し『日本の詩歌』にsignせし。
依子「澄の沖縄行とりやめとなりし故上京して来ず。母上まだ入院」と電話ありしと。
夜、喜多村鈴子に電話し「南斗は」と聞けば「射手座」と即座に答ふ。感心。

11月1日
晴。7:30さめ8:50美紀子に電話かければ「淳一ときまりし」と。「早くしらさず」といふ。「トボの上京のびし」を云ふ。
ユ、喜多村・太田両家への祝買ひに、池袋西武へゆく。千川稚泉より『俳句作家』200号突破「送る」と。
『近代文学館報』来り「『四季』復刻版品切」と、めでたし。ユ帰り来り「鎌倉彫2,800のを2つ買ひし」と。
午后散髪にゆき500わたし、本位田夫人に電話すれば「春、娘よめにやりて血圧上りしもこのごろ出勤、ふつう15:30帰宅。」と。
宮崎(早川)智慧さんにも電話すれば「来たく思ってゐた」と。花井夫人に電話し「本買ふ。医師の後妻候補は妹の小姑37才、その内書類来る」と。
18:30宮崎さん「永楽町にあり」と電話。宮崎さん来り21:30近くまでをり。(※省略)

11月2日
北爆停止。大河内学長退陣などが話題の日。7:00さむ。
小高根二郎、福地邦樹2君より『日本の詩歌』の受取。いづれも「多忙」と。
『うえの』編集部より原稿受取。「李白」いま299枚。14:00山野井生来り、15:00まへ服部夫人(※服部正己未亡人)来り、
養徳社より37年出せし服部の学位論文『ゲルマン古韻史の研究』呉る。

11月3日(日)
服部夫人起くる1時間前さむ(よべ8:00に眠り6:30さめし)。ユを置きて礼拝にゆく。(※省略)
礼拝すみ、前をゆく齋藤齋先生に「茶のまん」といはれお宅へゆき『早坂一郎先生喜寿記念文集』の抜刷いただく。
齋藤先生「旧二高より大正12年東北大卒、大正14年早坂教授台大へ赴任、台湾にてchristianなるを隠さずにゐたまひし」云々。
「いまの早坂長老はその末弟」と。三鷹より帰り(※省略)、われ服部夫人と話しつつtelevi見る。
ユ、暗くなりて帰り来る。(※省略) 夜、肥下夫人へハガキかき服部夫人に托す。竹森先生への手紙書き直しして封す。

11月4日
5:00さめ、服部夫人の為「Der Kongress Tanzt(※会議は踊る)」思ひ出して書き、8:00起きしに集英社鈴木省三氏への紹介状かく。
高桐書院で出せし北欧神話の改訂版なり(※ ✕高桐書院〇養徳社『ニーベルグ族の厄難』の再刊計画)。
ユ、天沼へとともにゆくに竹森先生への航空便托す。
服部夫人、帰途高円寺の鹿島宗二郎教授(もと愛大、今国士舘にて脳血栓と)へ見舞にゆく由。
12:00まへ服部夫人より電話「鈴木さん会ってくれ、係不在ゆゑ預かるといはれし」と。(※省略)
ユ14:00移転状とりにゆき天沼へ手伝にゆくと。(※省略) ユ帰りしあと鹿島夫妻に駅まで送られしと、夕食すまして服部夫人帰り来る。
21:00まへ依子に電話して大の電話しらす。「トボもうねをり」と!23:30大より電話、ユ出て「滝本生今より帰る」と。(※省略)

11月5日
6:00覚む。服部夫人「姉の家へ」と9:00出てゆく。「李白」317×200。
筑摩より「Non-fiction 2千部を10月31日発行」と。林叔父より大の保険のことと明治37〜38年の今宮の地図書き送らる。
電話にて礼いふ。大に電話「母のことにて一度来てくれ」といふ。(※省略)
12:30出て登校。成城堂にて『銅鐸(480)』、『実在した神話(480)』買ひ、教授会に出、前田部長の苦心談きく。
けふ16:00〜18:00また説明会、「12日も13:00より授業打ち切って説明会」と。話し相手もなく鬱々と帰宅。
ユにいはせれば「母一先づここへ帰らん」と100円賭けたり。
佐々木梓君の『コロスケのぼうけん』贈られ父子に礼かく。京18:00帰り「帝劇へ」と駆けてゆく。
ユと「台湾の工業化」テレビで見る。(※省略)

11月6日
6:00さめ9:00まへ斎藤dr.。躁直り仕事出来なくなりしといひ薬換へていただく。
『江戸切絵図集(200)』見かけ、買ひ来て井上河内守邸(※悠紀子夫人母方先祖の江戸屋敷)の3ヶ処にあるを見つく。ユ赤坂のことは知りり。
佐々木邦彦氏へ『日本の詩歌』、泰へ『コロスケのぼうけん』包む。雨となる。羽田君より町名、電話番号変更。
井上源一郎氏より「文春の詩みた」と。(※省略)
鈴木省三氏より「単発にてはだめ故、小学館にでもきいて見んか」と。礼いひて了る。「小学館もだめ」とすぐまた電話ありし。
タバコ買ひに出て(雨やむ)佐伯にて『ロシヤ(40×2)』と『信仰(20)』買ふ。

11月7日
21:30眠り5:00さむ。アメリカ大統領、接戦の末Nixon(共和党)ときまり騒がし。大岡信君へ挨拶状。(※省略)
11:00まへすし買ひ(100)登校。池田温氏来をり。(※省略) 前田勝太郎君来り鬱陶しき顔しをり。(※省略)
池田温氏に紹介し茶のみて別る。帰宅後すぐ平凡社の渡辺氏より「あす来る」と。(※省略)
服部夫人より電話「弓子この土曜よこせ」と。

11月8日
5:00まへ覚む。「李白」ちょっとやり9:00出て登校。午の時間に文学界の戦中号見にゆきしあと、「猿蟹合戦」の漢文の訓み教へ、
(※省略) 16:00となり帰宅。平凡社の渡辺春輔氏来り『日本の詩歌』にsignせしむ。
折から『果樹園153』来をり父の『歌日記』と『李白』の原文86枚と訳319枚と迄をわたす。
飯食ひて疲れややなほる。「浅野晃の詩碑、来年2月まで水野成夫氏の快癒を待ちて延期」と。
ユ、新幹線買ひにゆき8:30とれしと。壁ぬり風呂直しなどしをり。
夜、服部夫人にユ電話すれば「大阪駅まで迎へに来てくれる」と。万一の用意に大江の叔母への手紙ことづける。
(美紀子に電話「淳一、体重3,000g、われ風邪なれど土日に雅子つれて来る」ときく。「来週に」といふ)。

11月9日
6:00さめ、弓子6:30に起し7:40出てゆく。花井夫人より「後妻候補にあはせる23日午后」とす。
本荘健男に「スマトラ記」包む(25)。11:30成城大学につき田中久夫氏探せしも見ず、
12:30高田、山田2氏と卒業生2人で成城パンにゆき昼食。高田部長おごり賜ふ。
帰りて前田部長室にゐ玉ふ森教授(※森鹿三)、鎌田、大藤3氏と会ひ、森教授には久闊を舒ぶ。
森氏昼食のあと002へゆき、大藤、高田2教授の紹介あって「中国の歳時記と風土記」をきき、16:00となりtaxi来る迄はなす。
「羽田(※羽田明)やはり教養部長」と。「水野清一氏、癌ノイローゼ」と。鎌田女史「石田英一郎氏逝去」を伝ふ。
あす『敦煌遺書』をもち来る約束をし、都留生を見て帰る。(※卒論指導 省略)
『集落の歴史地理』来をり、田中久夫氏来玉はず、「天沼空巣多く富子心配す」と。
20:00生駒の服部家へ電話すれば、弓子機嫌よくをり!

11月10日(日)
5:00さむ。ユ、礼拝にとゆく。大に10:30電話かけ「高子に鍵預けよ。母のこと旨くいひくれ」と。(※省略)
集英社より服部の原稿書留にて返り来る。(※省略) 12:30出て成城大学。『敦煌遺書』もちゆき森教授にわたす。(※省略)
鈴木正義氏6年目に会ひ握手す。森鹿三氏の話すみ部長室へゆけば、藤野岩友教授と名刺交換。「柳田文庫見玉ふ」とて別れて、
田中久子と柿崎生のゐるAlpsへゆき久子の欧羅巴旅行の写真見、pudding食ひ、金払はんとすれば財布なし。
2生にすすめられて大学に戻り探せしもなく、家に電話すれば「鶴崎祐雄生来をり、財布着物の袖にあり」と。(※省略)
2生と新宿で別れ、飯くひて鶴崎生まち「あす14:00すぎ成城高等部参観ののち大学研究室にて会ふ」こととなる。
20:00すぎ帰りつきしあと入浴。

11月11日
6:00さむ。東洋文化史のnote作り10:40出て大阪ずし(130)買ひ登校。魏晋南北朝の婚姻講じ、昼食すまし、(※省略)
大学院の3生に教へすまし、16:00待てば鶴崎生来り「高校遠足とて中学見学した」と。ともに出て新宿にて喫茶。
銀座へ地下鉄にて出てわからず、鶴崎生に案内されみゆき通り見つけて別れ「皇家飯店」にゆけば佐藤太田両家の披露宴始まりをり。
(※省略) われ野口君の祝電披露し学園の歌うたふ。(※省略) 21:00すみ青梅街道へ5人乗り荻窪へゆく2人残して南阿佐谷で降り帰宅。
弓子帰りをり「宮崎県の人にて父母その地にあり普通の人」と。母より電話「風邪ひきゐるゆゑ少しおくれる」と。

11月12日
秋晴れ。8:00さむ。宿酔にて呆然たり。(※省略) 昼食すればユ「松浦へ」と出てゆく。肥下夫人より「来年来る」と手紙。
角川より電話「あす『西康省』『大陸遠望』の写真とりに来る」と。道教へ「早く来たまへ」といふ。
ユ16:30帰宅。(※省略) 「李白」330枚。

11月13日
服部夫人より速達「(※省略)氏、弓子気に入りし」と。鈴木序夫氏(角川書店、栄三氏の令息)来り、10:00より13:30までゐる。
早大出にて話のわかる青年也。但し「『詩講座』は1月末出る」と。詩集(われと伊東の)写真とり、わが写真1枚とりゆく。
(※省略) 福地君へ角川の『現代詩鑑賞講座10』第三回配本として1月末と通知す。(※省略)
服部夫人より「先方25日過ぎ出張を命ぜられし」と。また「肥下夫人遊びに来し」と。

11月14日
弓子に(※省略)氏のこといひしに照れたる様あり! 11:00出てsemi(※省略) 「きのふおそくまで授業料値上につき学生大会ありし」と。
(※省略) 池田温氏まち1千円わたしprintの礼と東洋史談話会の名簿代とし、喫茶して帰れば、
母、風邪ひきしまま大とあり、近所の女医にゆかしねかす。大、河野嫗の55日に下阪と。

11月15日
9:00出て成城大学。東洋史Macaoの話し時間余る。午、月見そば(110)食ひしあと清水常臣生来り、学生大会の暴なりしを云ふ。
(「きのふも学生Hallで殴られし」と。) 茶のみに連れ出し成城堂で『Heine』買ひて与ふ。
理事長名にて希望にそはんの掲示と。暴力決議反対の各級有志の掲示とあり。(※省略)
けふ中国文学史すみしあと葉、吉田の2人にsemiの印押し、米山生と李生とにて4人となる。(※省略)
弓子年賀ハガキ500枚買ひ来る。

11月16日
朝、喜多村生より電話、披露宴の写真のこと。10:00すぎ出て成城にゆき田中久夫氏に会ひ「この間風邪」ときく。
福田助教授「川村多実二博士は伯父」と。
13:00近くなりて森鹿三氏待ち、すし一緒によばれ「荊楚歳時記」の話きき、わが蔵書紹介されて了りとなる。
柿崎生と隣し、すみて慶応大伊藤氏、馬淵東一氏と大藤氏と5人にて渋谷道玄坂の「古里」といふにつけば、古野清人博士あり。
座のとりもちよくせられ、われ笑ふのみ。21:30閉会となり浅賀千里生とtaxiひろひ駅まで来る(560)。(※省略)
『骨31』3冊来り『大世界史18』来をり。「母熱下りし」と。

11月17日(日)
夫婦して礼拝にゆき、竹森先生の録音半面ききて出、新宿にて月見そば(180)。13:30成城大学。
森教授5分前に着、すみて送り出せしあと重久、川本、羽入田、丸らの卒業生と会す。丸生伴ひて帰る。(※省略)
滝本生来をり。母相変らず臥床。(※省略)

11月18日
(※省略) 10:30出て成城大学。東洋文化史に「唐代の結婚」教へ、ついで大学院講師室にゆけば紅茶のましくる。
すみて成城堂に『コロスケのぼうけん』とり(※省略) 帰れば服部夫人より「原稿預かれ」と。
佐々木邦彦氏より「『日本の詩歌』夫人買ひをり云々。コロスケ推薦となりし」と。「母熱引きし」と。

11月19日
母起きて掃除す。中央公論社より(572,160−税64,432−寄贈7,680(※『日本の詩歌』印税))「500,048三井銀行に入金」と。
筑摩より『世界の歴史』(12,924−1,292)11,632支払と。
平凡社の渡辺氏より「あす原稿とりに夕方来たまふ」と電話。12:30出て成城。「今昔物語」の「達磨」のところ訳しやり教授会。
暴行なかりしも運動部勝ちしと報告あり、すみて16:00来年度の学科編成につき会。
新城博士の意見通り「池辺semiを認める」こととなる。帰れば『日本の詩歌』歌謡篇来をり。
「けふ澄より電話ありし」と。夜、ユ電話すれば「トボ迎へに来てくれ」らし。

11月20日
10:00出て斎藤dr.。「散薬のまずとよし」と。月見そば(180)新宿で食ひ、「今昔物語」の「達磨」の続き (※省略)
18:00近く学校より電話すれば平凡社の渡辺氏「けふ来られず。あす来る」と云こ来しと。

11月21日
11:00出るとき母も天沼へゆく構へなりし。池田温氏より『東洋史卒業生名簿』受取りつり銭もらひ、semi30分ほど多くやる。
(※省略) すみてsalaryもらへば8月1日付12号給111,500と上りしと差額もらひ、
成城堂に払ひ2,754すまし、「水滸伝」のprint切って帰宅。
佐伯にて『吉川博士退休記念文学論集』、『朝鮮常識問答』、『仏教日常語解説』、『比律賓の民族』とにて4,800ほど払ふ。
母「京つれゆきTELEVI見ゐし」と18:00京帰り来ての話なりし。渡辺春輔氏に「けふダメ」の電話。(※省略)
けふ澄より電話「依子流産」と。諏訪父上よりは「母退院、通院す」と偶然電話あり。
「高松よりみかん来し」とて今井翠もち来り「読売記者ダメ」といひしと。(※省略)

11月22日
8:00起き9:00出て登校(下痢しをり)。「Formosa under the Duch」少し講じ、(※省略) 成城の古本屋にゆき、
『中国文学の受容と翻訳(120)』買ひ、pudding(60)食へば丁度16:30。漢文学史に『水滸伝』講じ、急ぎ帰れば、
「渡辺氏18:00来らる」と。待ちて恐縮して本文365枚まで原文99枚までわたし「楼蘭の註おとせし」を云はる。
「11月中にすます」と云ひ、ユより母の高飛車きく。(※省略)
20:00ユ、依子に電話し「トボ早くよりねさされゐし」と。可哀。(※省略)

11月23日
眠し。6:00さめ8:00起き、野上夫人よりの電話「元気、folk-song clubに熱心」と。花井夫人より「弓子にも来い」と、ことわりし。
13:00夫婦して出しところへ雅子抱きし史来る。(『詩人連邦』終刊150号来る。)
印刷屋に年賀ハガキ500枚わたし名刺とともにあつらへる。(2,900と)。緑屋の前で待てばユ、下り来り、なしとて、
「よだろく」家具店にてsofa 2(24,500)、卓子(3,700)と現金で払ひ、われのみ中村屋にてchocolate 1千円買ひ、
中村橋までbus、西武にて江古田(20)13:40着けば「岡島通子氏いま出る」と電話ありしと。やがて弟に運転してもらひしとて来し。(※省略)
江古田駅までたづさんに送られ、中村橋より中野行busにのれば長くかかる。
『朝鮮の芸能(850)』買ひ18:00近くなりてsofaもち来る。服部夫人より「しばらく預れ」と原稿について速達来あり。
けふあすと滝本生、天沼の手伝ひしゐる筈なるも音沙汰なし。雅子今井へゆきし美紀子とともに帰りしらし。

11月24日(日)
礼拝にユのみゆく。われ「李白」訳す。13:00(※省略)氏より電話「阿佐谷駅まで来れ、迎へにゆく」と弓子答へし。
母帰り来り「大の誕生祝す」と赤飯と鯛買ひにゆく。
(※省略)氏来り「宮崎県の山間に父をり」と。「張家口の引揚げ」と。弓子をして送りにゆかしめ京に電話すれば「22:00まで勤務」と。
ユとゆきてcakeの祝もちて帰り来る。(※省略) 小武守生より「あす来る」と。「夕食をかけて来よ」といふ。

11月25日
「李白」すこしやり、前田勝太郎氏より「あす15:30山本文雄氏に会ひに成城へゆく」ときき「われも15:00居り」といひ、
登校。「宋代の婚礼」すまし「太平記」やり了へて帰宅。ややして小武守生来る。21:00まで教へて疲る。(※省略)
服部夫人より「話せざり。夜きく」と電話あり。

11月26日
母、洗濯に帰り来る。5千円を小遣ひにわたす。田中久子より詩集の受取。14:00成城堂にて『日本食生活史(800)』買ひ、
大学院2年の中間発表に出、(※省略)  前田勝太郎君を山本文雄教授に紹介し、学校に帰り野口助教授とともに出、(※省略)
夕方、滝本生来り、「母と天沼へゆきし」と。
服部夫人に電話すれば「写真を(※省略)氏、故郷へ送り1月弓子つれて父母に見せたし」と!
(※省略) 「李白」やっと安禄山の乱に入る(420枚)。(※省略)

11月27日
7:50畑山博氏より電話「詩集出す。定年後つとめ先3つあり」と。(※卒論指導 省略) 14:00出てゆけば、
尾上氏「他の箇所すみし」と。1時間半semiとて去り、帰らざるゆゑ前田部長に涙して帰り来る。(※省略)

11月28日
朝から「李白」ちょっとやり、今月中にはむりとわかる。11:00すぎ出て(※教へ子披露宴 省略) 15:30すみて帰る。
弓子へ(※省略)氏より電話「忙しくて手紙かけず云々。」けさ野村美智子生より(※披露宴招待 省略)。
「スマトラ記」むりして書く。けふ集英社より1,500×5来り、帰り『李太白(100)』買ふ。

11月29日
8:00さめ9:00出て東洋史を教ふ。すみて「清[平]山堂本」のprint切り、
入矢義高訳『雨窓欹枕集』さがしに経堂へゆきしも見つからず(『明治天皇・昭憲皇太后集(70)』買ふ。)
成城堂にて『中国古小説集(650)』、『カラコルムを越えて(190)』と買ふ。了へて帰れば母をり。(※省略)

11月30日
早朝さめ、また眠りて松下武雄のゆめを見し。服部夫人より速達「(※省略)氏、弓子の意思表示のぞむ」と。
(※卒論指導 省略)鬱々たり。(下痢止めに女医にゆき注射打たる。)
福地君より「ひまになりし」と。今中十九期生会の便来り「江口春男昨年12月亡くなりし」と。
ユ天沼へゆきしあと電話かけ「明治天皇のお歌」400×4を不二歌道会へ速達しにゆき(65)、
国府犀東『菩提達磨(200)』買ひて帰れば、ユも帰着しをり。「滝本生神経痛」と。夜、小武守生に電話し「明日夜来よ」といふ。

12月1日(日)
だるくて礼拝休む。速達にて『うえの』2冊来り、ついで稿料(1万−1千)、集英社よりも『日本名詩』3篇(810−81)来る。
12:00まへ出て(運送屋来り、母のものもちゆく)、佐伯に寄り『支那絵画史(7千円)』と和歌森『女の一生』と買ひ、
新宿にゆくに早く高円寺で下車、『牡丹灯籠(70)』買ひて、(※忘年会)会場エル・フラメンゴへゆく。
鎌田女史「八重樫離婚、来年度副手に浅賀いかが」と。荒川生幹事にて来りしは(※省略)13人か。
16:00出て古本屋みて高円寺より帰宅。弓子の同僚来をり。「滝本生、神経痛にて帰りし」と母より電話ありしと。
(竹森先生(※省略)Kirchwaldstraße 42 WestGermanyと)。
18:30小武守生来り、21:00まで教へ、疲れて風呂に5分入り23:00になりしにおどろきて眠る。

12月2日
小武守生より坂生の電話きき「午后来よ」といひ学校へは「休講」の届す。
不二歌道会より5枚あり前後わからずと「よろしく」とたのむ。小武守生帰りしあと、宝国寺(※大阪菩提寺)より10万円の受取来る。
午食少しして古本屋見にゆき『日本女性史 下(50)』見つけ、賀状と名刺の印刷出来上りしをとり来る(2,900)。
坂生来り、大分書きをるを見了へてまた疲る。(けふ渡辺氏「水曜午后来る」と)。

12月3日
「母来る」とのことに10:00すぎ出て、斎藤先生。
廊下にてお会ひせしせいか2人目に呼んでいただき、欝申上げ薬かへていただき、国鉄にて代々木。
東豊書店へゆき『十六世紀之菲律賓華僑(500)』見つけ、『婚俗志(150)』、『中国天主教伝教史(100)』と買ひ、
とってもらひし中華そばちょっと食ひて出、教授会。
「福田助教授、成蹊が母校にて文学科出来る故ゆく」と。その後任と英文一般教養の講師とをとる。
けふ専攻申込わかり英文70マスコミ90文化史49なり。
帰りて(※省略)夕食するところへ山野井生来り「鄭氏の対比交渉かけ」とすすめ、23:00ねしむ。

12月4日
速達にて野村美智子「山崎武と9日17:30Hotel Okuraにて」と来る。山野井生の英文訳して16:00すぎフラフラとなり帰らす。
(弓子きのふ「縁談ことわる」と云ひしに(※省略)氏より封書来し)。花井夫人より「女史いかに」と。
Ottawaの土屋(西沢)悦子夫人よりChristmas-card。けふ渡辺氏より電話「都合わるし」といへば「明日は来られず」と。

(※省略)

12月5日
10:30出て登校11:30。print切らず池田温氏を山田俊雄氏に紹介し「今週にて了り」といふ。後任もきまりし也。
(※卒論指導 省略) 大藤氏「この間学長に和田文子会ひ、また家にも子供つれて来り、夫人同情しをる」と。
久しぶりの雨の中を帰り、疲れて何も出来ず。ユ、賀代嫗に電話すれば「弁護士示談をすすめゐる」と。
弓子、(※省略)氏への電話に「返事出した。あまりよくなし」といひゐる(けふ入試問題の再校、松村氏と了ふ)。

12月6日
10:00登校。noteなしにて鄭成功了り、午食すませれば(※卒論指導 省略) 山野井生に「あとにて来よ」といひ帰宅。
(成城堂にて『ヴェトナムの詩と歴史(900)』見つく)。
ぶどう酒飲み了へしところへ山野井生来り、『明史』呂宋伝と蘇禄伝よまされ、にこにこして帰りゆく。
(※省略) 浪中12期生会の通知。

12月7日
家居。〒なし。17:00来る筈の小武守生来ず(高円寺古本見にゆきし)。電話にて叱り呼びつけ22:00までかかりて「達磨伝」。

12月8日(日)
夫婦とも礼拝休む。小武守生9:00より13:00までかかりて50枚とし了へ、帰らせクタクタとなり(よべ3:00に覚めし)、
散髪にゆき帰れば史、マツ連れて蜜柑もち来り「天沼へゆきし」と。入れ違ひに母来る。
池田温氏より「史記の参考書買へ」と。(※省略) 夜、ユ、服部夫人に電話し「縁談ことわる」と云ふ。

12月9日
疲れて登校。山田教授に『史記』のこといふ。文2DにてMongolsの婚姻早くすまし、
成城堂に小川教授の『中国小説史』とりよせたのみ、大学院にて「太平記」すませAlpsにて荒本・桜井2生と茶のみ、
時間ぎりぎりにHotel Okuraにゆき区会議員の隣となり(※省略)
雨の中20:00出て帰れば山野井生より電話。「明日泊りがけ」ときまる。坂生午后となりし也。
成城堂にて『中国詩史』2冊と『宋詩選』とを買ふ。

12月10日
8:00松浦薫氏より電話「一週間高松へゆくので美紀子を留守番にする」也し。12:30散歩に出『文芸春秋』1月号買ひ来る。
坂生来り「狐」の直しする。『果樹園154』来る。
ユをして薬とりにやらせ一休みし、夕方来し山野井生に「比律賓の華僑」かかせ22:00となり休む。

12月11日
山野井生、午近くまでをり送り出して佐伯に寄り荻窪の古本市、何もなし。Ghosh万里子よりChristmas-card。
織田喜久子女史より「わかづる」で会ありしと。(※喪中欠礼 省略) 年賀状2,3日前より書き出しをり。(※省略)

12月12日
雨。10:30出て成城大学。短大よりの編入につき会議あり。
すみてsemi、山本、坂2生すむ。小武守生一つも書きをらず「夜来い」といふ。
bonus25万余。佐伯にゆき『李朝五百年史(1000)』、『馬来史研究(200)』(成城堂にて『義経伝説(200)』)買ふ。
母、蜜柑たべすぎて医者にゆきねてをりしも、わが顔見て「帰る」と。小武守生19:00来り「楊貴妃」了へて眠る。

12月13日
晴。9:00出て成城大学。1年教へnote検査のこといふ。
午食すませて下北沢。大地堂へゆきしも何もなく『未開社会の女たち(150)』買ひ、しるこ食べて帰校。(※卒論指導 省略)
小武守生まちをり20:30すまし帰らす。

12月14日
8:00まへ覚める。(※Christmas-card省略) 母ちょっと医者の帰りに来り、
11:00山野井生来り、午后小武守生来り14:00帰りゆく。(※省略) 佐伯へ散歩にゆき『仏印研究(100)』、『老化の問題(20)』買ひ来る。
山野井生、京・弓子の帰り来しあと去りゆく。

12月15日(日)
久しぶりに礼拝にゆく。Christmasは桑田孝延師の説教となり。ユをして栗山氏へ歳暮送りにゆかす。
大来り「おかげまいり」もちゆく。新学社より印税830−83来る。田中順三郎氏よりお歳暮。

12月16日
7:00まへ覚める。11:00すしや不在。pão一ケ食ひ「元代の婚姻」教ふ。(※省略)
すみて東豊書店へゆき前後の買物といひ『歴代社会風俗事物考(530)』、『占婆史(170)』、『中国服装史綱(720)』、『北属時期的越南(480)』買ひ来る。
(※喪中欠礼 省略) けふ歴史地理学会に1,000、今中十九期生会に500ユをして送らしむ。(※省略)

12月17日
9;00出て台湾の頼・楊2家へChristmas-card(35×2)。
斎藤dr.へのお歳暮買ふ為、三越のあくのを30分まち5,900のwhiskyもちゆき11:20御診察すみ、
新宿駅にてmacaroni食ひ(150)、成城大学。前田部長にききて(※入試問題の)校正、松村君の室ですませ、研究室に帰り、
「中華飯店で3Dclass会しゐる」とききゆけばまもなく了る。14:00より教授会。(※省略) 小武守生と帰る。
『Politeia』来をり、ゲロ吐く思ひしてよみ了る。
(※芳賀檀の文章および杉山美都枝(若林つや)の回想「高原の星二つ 立原道造と沢西健」に於る、芳賀檀に関はっての描写と思はれる。)

12月18日
(※省略) 服部夫人より「向ふの両親・先生・友人みな反対なりし」と。午后、山野井、坂、小武守生次々と来り、
小武守生夕食して帰る。夜、ユ依子に電話すれば「神経痛、高松の母上見舞にゆく云々」。(※省略)

12月19日
雨。9:20教務課より電話「10:00府中刑務所へ(※入試問題印刷に集合)」と。
すぐひげ剃り小金井よりtaxi(320)、10:30成城より大勢来り、(※省略) 17:00出所。魚刺身くふ。
18:00出てhyerにのり小金井、三鷹高井戸をへて阿佐谷。(※省略)「松浦家にて22日Christmas eve」と電話ありしと。

12月20日
8:00さめ9:00出て前を大藤教授歩くを見る。(※省略) 図書館に『法苑珠林』返し『聊斎志異』借り来る。
聊斎のprint切り大学院の荒本・池田2生と喫茶し、帰りの電車で池田勉博士と同車。
(けふ『成城国文学論集』出て、もらふ。) 『日本の詩歌』、『大世界史』の献本も来る。

12月21日
8:00起き賀状かき11:00登校。卒論読み分けをす。月給もらひ成城パンにて昼食。
ユに電話し「14:30渋谷にて待つ」こととし、卒論2冊重がってもち、ユと会って白鳥邸。
夫人「この夏、癌かと思ひ玉ひし」由、先生握手されるのみ。
佐伯に寄り杉本直次郎『東南アジア史研究1(2,100)』買ふ。(※省略)
高橋重臣氏「壽岳博士(※壽岳文章:旧同僚)にわが教会へゆくをいへば吃驚されし」とChristmas-cardにしるす。(※省略)
早川智慧さんより「山中さんの歌集への礼喜ばれし」と。

12月22日(日)
朝、雨中を礼拝にゆく。桑田秀延博士の説教のあと聖餐式。外へ出れば雨やみをり。(ゆきがけに阿佐谷郵便局に賀状ほうり込み了る)。
(※省略) ユ、松浦家のChristmas-eveへとゆく。22:00帰宅。「松浦父母帰らず。息子も来ざりし」と。

12月23日
(※省略) 筑摩に「陶淵明(※はさみこみ原稿)つきしや」ときけば「本日出来」と。(※省略) 東豊書店より礼。(※省略)
佐伯にゆき『オール読物正月号』買ひ来ればすでに読みゐし。(※省略) 京の友来り、出てゆく。(※省略)

12月24日
9:00すぎ出て斎藤dr.。「1月11日より1月程アメリカへ」と。
帰り神田へ廻り「大安」へゆきしも目当ての本なく『雨窓欹枕集(500)』買ひ来る。(※Christmas-card、喪中欠礼 省略)
(神田の山口書店にて『戦後吟』2千円とつけありし)。18:00すぎ角川の鈴木序夫君来り、校正見せ「哀歌」を写し足しゆく。
(『コギト』そろひ西武の古本屋で35万円なりしと)。弓子お歳暮とて手袋買ひくれる。京Gelbe-sorteh呉る。

12月25日
10:00出て成城へ卒論とりにゆく。佐伯にも本なく、石山直一氏のChristmas-cardと筑摩の『陶淵明・文心雕竜(1200)』と受取る。
卒論2冊よみ「スマトラ記」かけず山野井生に電話せしも不在。母来り「医者の薬代払へ」と!
夕方ね畑山博氏より「詩集出た」と。「正月すぎ学校へとりにゆく。出版祝賀会やれ」といひ、村松正俊、緒方昇などの発起人を提案せし。
山野井生に3度目の電話すれば「あす持ってゆく」と。

12月26日
曇。林素梅よりChristmas-card(21日出)。(※Christmas-card省略) 『日本歌人』秋季号来る。
福地君より「訂正承知」と。15:00山野井生来り「これより名古屋の人と会ふ」と。(※省略)

12月27日
曇。郵便局にゆきしのみ。(※省略) 平凡社の渡辺氏より「年頭に」と。
そのあと不二歌道会より「青梅街道にあり」と。緑屋まで出てゆきbutterもらひ、酒贈る。

12月28日
無為。夜、賀代嫗来て泊る。(小武守生「あす帰郷の前来る」と)。

12月29日(日)
礼拝にゆかず。菊島恒二氏より「『大世界史』と『不二』よみし。『Madame Blanche(※マダムブランシュ)』の同人たりし」と。
同氏の友村瀬春弥氏『御歌に表れた歴代天皇の御心』といふをも贈らる。
佐伯にゆき『隲蔵全集附(900)』買ひ来る。朝、花井タヅ子氏より電話「縁談世話する人に会ひに来よ」と。
14:00すぎ(※悠紀子夫人と弓子氏と)2人して出てゆきしあと、
母来り「Peace」一箱呉れ「新年用の着物あすあさってもち呉るるやう」といひて天沼へ帰りゆく。
電話帳にて菜畑正見を見、欝甚しきに気づく。18:00ごろユと花井夫人とより「今より会ひにゆく」と。
餅二つ焼きて食ひ「スマトラ記」やめることとす。22:00思ひ直して200×10書き了る。(※省略)

12月30日
「スマトラ記」と2,500を『果樹園』社へ速達(130)。賀代嫗10:30帰りゆく。筑摩より(1,500×7−1,050)来る。
『不二』来り、Vo.間違へしためか意味通ぜず。(※省略) 夜「李白」久しぶりにやる。

12月31日
8:30覚む。『東洋学報』来り、角川のHeine(80,152−8,015)来り、硲君より「叱られた夢2晩見た」とのハガキ来る。
和田夫人より入学につき3度電話あり「いとこ近々来訪」と。

付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。


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