(2015.09.07up / 2019.05.12update) Back
たなかかつみ【田中克己】散文集
【回顧】 「コギト」の思い出 『現代の抒情 現代詩鑑賞講座10』 角川書店 昭和44年より
田中克己
「コギト」は昭和七年三月一日が創刊の日付となっているが、これより前、この年正月に旧制大阪高校の卒業生で、東大文学部その他の一年生が集まって、創刊の相談をした。
場所は東京府豊多摩郡野方町上沼袋二六一の肥下(ひげ)恒夫宅であった。集まったのは七、八人で、「R火かぎろひ」という謄写版ずりの雑誌を高校時代にやっていたものばかり、
原稿を一月以内に持ち寄る約束をし、雑誌の名はきめず、同人費を十円とし、活字印刷とし、足りなければ残りは肥下が出すということとなった。
肥下は大阪府の堺をはじめ方々に大きた土地をもち、その小作料や賃貸料が途方もなく大きいのだと、みなは聞いていたし、東大に入る直前に恋愛し、
東京では家をもち奥さんももっていたので、みなこころよくこの条件を受けいれた。
さて何日かのちに持ち寄った原稿を、保田与重郎は一覧して、「も少し考え直せ」といい、誌名も「コギト」はどうだと提案した。
デカルトの「我思う、故に我在り」という言葉は高校の哲学の時聞に岡野直次郎博土から教わっていたので、みなこの誌名には喜んで賛成した。ただし原稿のもち帰りは、
他の者は知らず、わたしにははなはだきつく感じられ、帰るとすぐそれを焼き棄て(わたしはエッセーを書いて出したのである)、次の集会にはおずおずと詩を提出した。
ただしこわがったのはわたしだけで、他の者は保田の批評(口でいわないで、顔で示した)にはわたしほどこわがらず、もとのまま出したかもしれない。
二月のはじめ、この集会に参加しなかった京大の二人(松下武雄、中島栄次郎)と大阪高校の三年で「R火」を引きついで編集していた山内しげるの原稿も来て、
肥下が探して来た印刷所にわたされた。この印刷所は肥下宅から近く、見積りも安かったのだと思う。同じく野方町上沼袋一五の日本印刷学校という、普通ではない印刷所だった。
さて三月一日に先だつ何日かに印刷ができると、わたしたちはまた肥下宅に集まった。進呈する文壇の先輩や雑誌社、同人雑誌などはもうきめてあって、
袋に入れてその宛名を書きおえると、みな定められた地域の本屋に配本にいくこととなって、何冊かを受けもたされた。
これは京阪の同人にも同じく負わされた義務で、わたしは阿佐谷の数軒、中島は大阪の数店だった。作品が活字になるのは、実は校友会雑誌などで経験していたが、
本屋に頭を下げてたのみにゆき、いやいや置いてもらうのは気が重かった。しかし学校へ通う途中、その本屋に寄って見て、数冊置いたのが一冊へり、
二冊へりしているのをたしかめたのは、わたしだけではなかったろう。
「コギト」は実際、創刊号から何十冊か売れた(その統計はひょっとしたら肥下宅に残っているのではないかと思う)。理由はわたしにはわからないが、
まっ白な表紙にナンバーだけが青で印刷されている清楚さが、その何十人かに手をふれる興味をおこさせ、一部三十銭の価を払わしたのだと思う。
創刊号には肥下、保田、薄井敏夫、杉浦正一郎ら六人の小説と、中島、山内とわたしの詩、保田の印象批評のほか、服部正己訳の「ジンメルの言葉」というのがのっている。 このどれが読者の気に入ったかは、いまだにわたしたちにはわからないが、保田の編輯後記で宜べているとおり、高踏的で、何の為に、何を書くかと問う前に、なぜ文学するか、 なぜ文学しだしたかを問おうという態度が、同感を買ったのではないかと思う。
文壇の反響はこの百二ぺージという堂々たる創刊号にも、同じく百二ぺージの第二号(四月一日発行)に対しても、何一つなかったが、わたしたちは意気軒昂だった。
第二号は学年末の試験中に作られたが、のちに博士になって死ぬ杉浦や服部はもちろん、保田やわたしなどもちゃんと単位は取った。
肥下だけは「コギト」の事務で少し単位をおとし、結局これがたたって留年、最後には卒業の必要なしということで退学することになるのである(学土の称号の必要性をも認めないほど彼は金持だったのである)。
その第二号では中島がトップに「批評」といういい論文をかき、保田も「オプチミスムス」(一としるしながら、次号にはつづきを書いていない)という論文、
わたしもつられて「佐藤春夫小論」というエッセーを書いた。このころわたしは詩人として犀星、重治、冬衛、冬彦を愛し、佐藤先生は小説を好いてみな読んでいたが、
たまたま先生が「武蔵野少女」という小説で、マルクスボーイを揶揄しておいでなので、憤慨したのである。いまの全学連と同じ心情だったことが明らかである。
服部のジンメルの翻訳のつづきのほか、保田、薄井敏夫、肥下らが小説をかき、詩は中島がぬけて杉浦、山内とわたしとが書いている。
第三号はもう大学二年生になった五月の発行で、松下が巻頭の論文をかき、保田は評論と小説、詩はわたし一人で、小説はほかに薄井、肥下が書き、ぺージは少しへって七十二ぺージ、
後記には二号の船越章(同人ではなくわたしの親類でエッセーを投稿した)が、このエッセーに春山行夫氏の反駁があったのをわびている。これが最初の文壇的反響であろう。
肥下の尊敬した横光利一氏やわたしが悪口をいった佐藤先生には、寄贈しているが音沙汰なしであったが、わたしどもはあまりふしぎにも思わなかった。その証拠は四号百二ぺージ、
五号百四十四ぺージと毎月ちゃんと刊行していることである。
この第四号の出たあと「小説文学」という同じく同人雑誌の第四号の文芸時評に、蒔田廉という筆名で、わたしの詩をほめてあった。発行者の肥下は喜んでこれをわたしに見せてくれた。
この蒔田氏が実は長崎県諌早の出身の故蒲池歓一氏の筆名であることは、二十年たって同氏が『石のいのち』という詩集を贈って来られて、はじめて承知した。
同じころまた発行所に無名のハガキが来て「コギトの詩はなかなかよろしい」とほめてあった。肥下とわたしはこの手紙を検して、消印が大阪の住吉局であることを発見した。
五号を出したあとは夏休みで、休刊とし、わたしは帰阪した。中島栄次郎に例のハガキのことを話すと、彼が毎月もってゆく本屋で必ず一冊売れているので、
本屋にたずねると「近くの住吉中学の伊東先生がお買いになる」とのことだった。「コギト」の詩といえば中島とわたしとが一番多く書いている。
二人で申しあわせて伊東先生を訪問することにした。
本屋から住吉中学の前を通りぬけて紀州街道を入ったところに、伊東先生の借家があって、案内を乞うと先生は在宅であった。わたしたちより五つほど年上で、
痩せた色白の人であったが、来意をいうと、[室には通されず玄関で※1]「コギト発行所にもハガキでほめたが、詩は宜しい。わたしも詩を作ります」といって、
「呂」という同人雑誌の同人であることを告げられた。中島は知らなかったが、この雑誌ならわたしは「コギト」発行所に送られてあるのを見て、伊東静雄という詩人をもうおぼえていたのである。
訪問時間は長くなかったが、わたしたちは気持をよくして、再会を約して引き揚げた。ただし伊東さん(のちのちまでもわたしたちは詩人をこう呼んだ)が、
偶然にも蒲池歓一氏と同じく諌早の出身で、大村中学の同窓であることは、ついに伊東静雄の死ぬまで聞かずじまいであった。
伊東がはじめて「コギト」に詩をのせたのは昭和八年八月発行の第十五号からであるが、これはきっと、わたしが夏休みに帰阪して再会し、寄稿をすすめたからであろう。 初対面とちがって、この時の印象はわたしには残っていない。作品は「病院の患者の歌」で、力作であるが、「呂」の六月号にのせたのを再録したのである。 次の第十六号の「新世界のキイノー」も同じく「呂」からの再録で、魂をこめてかくため寡作だった詩人の証明になる。ともにわたしや保田にすすめられて写して送ってくれたのであろう。
再録といえば、「コギト」第二十号(昭和九年正月)にのせた「風詩」二篇も旧題「静かなクセニエ抄」(「呂」昭和七年十二月号)と旧題「秋」(「呂」同年十一月号)の再録である。
「呂」が「コギト」とはちがったもっと小さい雑誌だったので、再録してよませたがったとも思えるが、「コギト」はこのころになって、保田、中島、松下の三人の論文が注目されだして、
売れゆきもよくなっていたとはいえ、やはり伊東の寡作の証明だろう。次の第二十一号にのせた「私は強ひられる――」が、「コギト」のために作られた伊東の最初の作品で、
詩人のためには発表の場所が二つできたことになるわけだが、「鴬」を「呂」の二月号に発表すると、ずっと休みがつづき、六月には「コギト」第二十五号と「呂」六月号に「四月の風」を二重発表している。
「呂」がつぶれたのはいつか。「コギト」同人になったのはそのあとで、「晴れた日に」という第二十七号の詩を発表した前後であろう。
「日本浪曼派」に発表した二篇と「四季」「文学界」にのせた一篇と「呂」「コギト」の発表作を合せて二十八篇で『わがひとに与ふる哀歌』が「コギト」発行所から自費出版されたのは、
昭和十年十月で、一代の名著としていまでは誰知らぬ者もないが、発行の時は「古き師と少なき友に献ず」という謙遜よりは、事実に即しての慨嘆の序がつけられていた。
コギト派(同人ではない)の詩人の第二は蔵原伸二郎である。彼は伊東の隣国肥後の阿蘇山のふもとに生まれ、詩も烈しく火を噴いたが、わたしとの少ない交友の場ではほとんどものをいわなかった。
『東洋の満月』を「コギト」にのせはじめたのはその第二十八号(昭和九年九月)で、わたしは大阪でつとめていたので、その間のいきさつは不明だが、保田の文では一束の詩集を示し、
一部は他の雑誌にのせたがとことわって、「コギト」に全部のせることを許したようである。八回に分載されてのち、棟方志功の装幀で大部の一冊となった。
中央アジアの曠野の趣きなど雄大でしかもこまかい描写がわたしたちを喜ばしたが、衛藤瀋吉教授の御教示によると、若くして死んだ副島次郎氏の『中央亜細亜探検記』を愛読したあとがあるという。
この珍らしい本を愛読し、中央アジアを夢想したところに、同県人、『三十三年の夢』の宮崎滔天と同じゆめがあると考えるのはわたしだけではないであろう。
蔵原が「四季」同人となったのは伊東静雄と同じく昭和十六年一月号(第五十三号)からであるが、「四季」は立原、中原、辻野の三同人を失って、これまでしばしば寄稿してもらっていた人の中から、
この二人と山岸外史、保田与重郎、田中冬二、大山定一の五人と、あわせて六人を新同人に加えたのである。伊東が朔太郎の強い推薦で文句なく選び出されたことば勿論だが、
新同人銓衡会にいあわせた記憶はあるが、蔵原は誰が推薦したのか、わたしには覚えはない。もとより『東洋の満月』はみな読んでいて文句はなかったと思う。
「コギト」「四季」「歴程」の詩人たちの詩を集めて、それぞれ一巻とするという計画が、この十六年のはじめに、牛込の山雅房という出版杜で作られ、
『コギト詩集』の編集はわたしにということとなった。わたしはしかたなく、肥下、保田の名を借りて三人の共同編集ということにして、事実は独断専行した。その結果、
六月に限定八百部三百八十七ぺージの大冊ができ上った。創刊以来あしかけ十年で、その間に協力してくれた詩人はすべて、そのほかに当時、
近くに住んで将棋のお相手をさせられた小説家木山捷平氏の旧著『めくらとチンバ』からも選んでのせた。
名前を列記すると伊東、井原左門、池沢茂、磯花佐知男、芳賀檀、檀一雄、中島栄次郎、蔵原、山田新之輔、山岸外史、保田、増田晃、松下武雄、小高根二郎、江頭彦造、真田雅男、
木山、三浦常夫、肥下恒夫、森亮、杉浦正一郎にわたしを入れて二十二人で、うち同人は十三人である。この名をあげているうちに数えてみると七人がもういなくなり、
その死者のうち戦死したのが中島、磯花、増田の三人である。
中島は「コギト」の創刊の時からの同人で、「日本浪曼派」の発起人六人のうちの一人、同誌の創刊号にはトップに「浪曼化の機能」という論文をかいている。
この詩集にも保田、松下の詩論とともに「詩の論理と言語」という「思想」にのせた彼の論文を附けた。京大に学び、田辺哲学に心粋し、論理が正確なくせに詩人としての才能も豊かであった。
「コギト」は戦争を讃美し、軍国主義を支持したという人があるが、彼は戦前、戦中ともにこれを讃美することなく、しかも昭和十九年、
新婚早々の妻をのこしてフィリッピンに出征し、二十年ルソン島で戦死した。コギト派が戦争を止め得なかったので、彼みずからは身をもってこれを贖ったといえよう。
この論文のはじめにもエドガー・アラン・ポオの「詩人は詩というモラル以外の何ものをも許容しない」という態度を引いている。わたしなど彼に教えられるばかりであったので、
これを惜しむのみである。
戦死者の第二の磯花佐知男はペンネームで、本名立野利男といい、池沢茂がその妹を娶っている。「コギト」にはたびたび投稿してのち出征したが、 戦死の時と場所をもわたしは忘れてしまった。老年のせいだろうか。この詩集に採った六篇の最後の「薄」という詩は
風に吹かれる銀の薄の穂は
いくさをすすめる旗のやうだ
で終っている。ススキの穂と出征兵士を送る日の丸?との連想を、この人がのちに戦死するだけに、よけいわたしはかなしくふしぎに思う。
増田晃も寄稿者で、三十四歳で出征した中島とちがい、昭和十六年三月(東大法科卒業の翌年)、詩集『白鳥』を出版し、その出版祝賀会は新宿で故伊福部隆彦氏の司会で行なわれ、
高村光太郎先生が出席されたが、これがわたしの先生にお会いした最初の最後であった。
増田君はこのあと旬日ならずして召集を受け、わたしは家へ挨拶に行った。翌年三月陸軍経理学校へ入学のため中支より帰還、八月結婚し九月に再び中支へゆき、十八年七月現地で戦死した。
父君は東大心理学科の助教授増田惟茂博士で、彼の東大入学前になくなられたので、のこされた母君は昭和三十三年と四十二年の二回に遺稿を出版された。
『白鳥』の詩もしらべの高いものであるが、これらの遺稿と遺族とを思うたび、わたしの心は常ならぬ痛みを感じる。
老兵として応召し幸いに帰還したのが、ふしぎにも「コギト」の編輯に当った肥下、保田とわたしの三人だが、肥下はこの詩集にも「使徒の群」という題で
私はつたない筆をとつてひとつのうたを謳ひ出さうとしてみるのだがそれはうたにならなかつた。
限りない美しさがいま私を苦しめる。
私は絶えず、古い魂の故郷のやうにひとつの家族を愛してゐる。
様々な別れの言葉を告げるために私は出かける。しかし私は帰つて来る。わたしはここに横たはる。
私を審くものは誰だ。
人々の行列はまるで使徒のやうに私のかたはらを登つて行く。
とうたい、その一生の予言をしている。「コギト」をはじめたのも彼の決意のせいだったし、「コギト」の雑務はすべてひとりでやり、昭和十九年四月、
百四十一号で出版会から「無用な出版物」として紙の割当てがなくなると、九月まで五冊を独力で出した。文学の「美しさ」を彼ほどあこがれたものはなく、家族への愛も強かった。
わたしはこのヤミ出版に腹を立て、「コギトは不要不急な出版物でない」旨をしかるべき筋に申し立てるといいはったが、肥下がきかないので絶交を申しわたした。
狂気の沙汰であるが、わたしの狂気はもっと早くから起っていたと思う。
戦後、中国から帰還したわたしは、朝鮮から還ってほそぼそ二反百姓をしている彼に和解を申し込み、これは快く受けいれられたが、十年余りして、
わたしが彼の生れ故郷である河内から上京したあと、突然その自殺が伝えられた。わたしは使徒でなかったのだ。使徒なら彼のかたわらを通りすぎ見すてることはなかったと思う。
松下武雄は昭和十三年に肺結核で死んだが、その論文「構想力論」は『コギト詩集』のトツプにのせ、「我と汝」「メノンの歌」と二篇の詩も採っている。 死んだあと保田の序文つきで出版された『山上療養館』はこれらの詩のほか、彼が瀕死で入院した刀根山の病院でよんだ一日一首の歌をのせていて、その強い精神力には感嘆するほかはない。
「コギト」の評論家三人のうち保田与重郎はもっとも詩にたけていて、『コギト詩集』には「セルゲイ・エセーニンの死」という論文のほか本名で「傲蕪の調」という十篇をのせる。その最後は
わが亡き母にも見せたき乙女と
愚かなる息子この土の下に眠る
というのであって、戦争中は国士無双の評論家とほめられ、戦後は多くの評論家から悪罵の限りをつくされた人とは思えない。も一つ井原左門のペンネームで、
彼が「コギト」にのせた「ディオティマ」と題する十一篇の詩をも、わたしは考えあってのせた。ヘルデルリーンを愛した保田の反面をもしめすギリシア調の詩である。
前の論文ではロシア革命のはじめ、その「革命の英雄性」を愛したが、革命がすすむにつれて心の矛盾に耐えかね自殺したセルゲイ・エセーニンを芥川龍之介とはちがうと保田は断言している。
この断言は正しいが、保田は人や作品を見わけることでは、常に当世随一であるばかりでなく、詩人としても稀有の人であり、論文にさえ無上の美を示す。
「コギト」「日本浪曼派」の指導者であったことは当然だが、世上一般に考えられるように、国論ないしは軍部を引きまわす才能はなかった。
高校時代に何もかも知っていながら、ふしぎにドイツ語と教練体操が不得手だった。この二つのことはわたしにはその後の彼の文学生活の予言的徴候だったと思う。
不得手な教練だけが必要だった兵として彼が戦争末期に病床から引き出された時、わたしは偶然、河北省石家荘まで同車したが、彼は列車中でもねてばかりいる病体を、
無事に生きて帰って来て、十五年ほどして胃の大部分をとり、しかも筆を絶たない。この知的な頑健さを無類の聡明とともに喜びたい。
まえに述べたように、「コギト」は十二年間つづき、百四十六号を出したが、はじめは幼な友達のあつまりにすぎず、後になって同志の執筆百何十人かを得たが、
これをコギト派と名づげるならその特徴はいったい何だろう。「文芸文化」昭和十五年十一月号に、富士正晴氏はわたしの第二詩集『大陸遠望』を評したついでに
「コギトの人達は総じて教義あり学識も高く広い人が多く、その創刊の頃の主張の一つにアカデミックなものであろうとするような意嚮があった。これは当時の事情を思えば相当に果敢な方法であり、
また非常に正確なねらいであった。情熱と聡明を共にもたねば得られぬ企画であり、時代の一つの前駆のような趣であったのである」
と断言しておいでである。富士氏はいま「ヴァイキング」という詩誌の主宰者であり、みずから良き詩人であるとともに、伊東静雄の心酔者の一人でもある。
これがいわば「コギト」の文学の特徴をよくいい表わし得ているのも当然であろう。しかし情熱と聡明とをともにもつというような困難を、わたし自身は『大陸遠望』ではもとより、
ほかでもなしおえたなどとは思いも及ばないが、伊東や保田の詩文はそれを明らかに体現していると信じる。増田晃や中島栄次郎なども今の時代に生きていれば、
これを証明してくれることと思う。わたしは自ら任に当らぬのを知りながら、生きのこったので命じられるままにここに拙ない一文を記した。
心ある人はこの一年あまり「国文学解釈と鑑賞」に毎月引きつづき記されている保田の「一つの文学時代※2」をでもよまれたらと思う。
※1正しい回想によっておぎなった。
※2『日本浪曼派の時代』にまとめられた。