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たちはら みちぞう【立原道造】
【回想】 高原の星二つ ──立原道造と沢西健── 杉山美都枝(若林つや)
『ポリタイア』(昭和48年12月)第1巻第4号 編集発行 檀一雄 より (田中克己日記1968年参考資料)
立原さんの第一詩集「萱草に寄す」について、「日本浪曼派」の三巻六号に沢西健さんが書いている。沢山のサラリ・マンたちの雑踏する街のレストランで、立原さんが自分の初の詩集を渡し、沢西さんは宝物のようにうやうやしく両手で受け取ったと言うのである。
それを読んで、立原さんという人にあってみたいと思った。そしてある夏の朝、信濃追分の宿で、立原さんに会った。
前夜おそく宿についた私は、眠れないままに隣室からきこえて来る詩の朗読をきいていた。詩は物語詩の構想となり、それを作曲してオペラにする話となったようだった。立原さんと今井慶明氏であった。
油屋の二階のヴランダ風の縁側に流れこんで来るおびただしい朝霧の中だったが、立原さんは朝おあいするのにふさわしい人だった。
テーブルに向っている立原さんをとりかこむようにして、堀辰雄さん、野村英夫さん、加藤多恵子さん(後の堀夫人)などがいた。浦和の沼のほとりに計画中の「浪曼派」と「四季」のヒヤシンスハウスの設計図を作っていたのだった。住宅設計には群を抜いて優れた建築家ということもその時に知った。
その後、東京で丸ノ内や濠端などを歩きながら建築の話をきいたが、素人の私にもわかるような気がしてたのしかった。
堀さんを中心にして追分に集っている「午前」の詩人たちの毎日はいかにも静かで、孤独だった。堀さんは十一年の九月、立原さんにあてて
「僕みたいなものをかうして山の中に無一物ながら一人ぼっちにさせておいて呉れてゐるなんていふこと、僕は誰に感謝していいか知れない」
と書いている。立原さんも日記(全集三)の中で「快活な人たちは笑ったり手を拍ったりすることが出来るのだ。私はそんなことがきらひだった。」と書いている。
堀さんは大川向の本所小梅、立原さんは日本橋橘町とどちらも下町育ちなのに、ほんとうに追分村の自然の言葉を、光と影を、ききもらすまいとしているようだった。
それぞれの部屋にこもっていることも多かったが、毎日のように浅間山麓の林や森の中を歩き、また軽井沢まで出かけて行くこともあったが、多恵子さんと私はいつでもつれて行ってはもらえなかった。
「有熱児童はだめ、おとなしくまっていなさい。」
「まあ、野村少年まであんなことをいって、くやしいわね、どうしましょう。」
「仕方がないからおひるねにしましょう。」
毎日きまった時刻に熱を出し、おふろもさっとあびるだけしか出来ないような私たちは、並んで横になり、雲でもみているよりほかに仕方がなかった。
やがて大きなスケッチブックを抱えた堀さんを大切にかこむようにして
「今日は芳賀さんの自動車で岩村田まで行ってきました。たのしかった――」
などと言いながら帰ってくるのだった。
それでも一度だけ私たちも汽車に乗って軽井沢まで行ったことがあった。同じ油屋に泊っていた学生の一人がテニスの選手で、軽井沢へ試合にゆくというので、その応援に行ったのだったが、テニスコートのことはすこしもおぼえていない。つるやにいた川端康成氏夫妻を訪ねると、そこに中里恒子さんがいて、
「あの方が堀さん、紹介して。」
などと川端夫人にいったことをおぼえている。
それから二三日して、小諸かどこかの帰りだといって、川端夫妻、中里さんなどが油屋へよったことがあった。例によって、村の中をあちこち案内して、中里さんがたくさん野花とって帰って来た。おし葉にするといって、上等の原稿用紙の間へ無ぞうさに花をならべては重ねていった。そばで見ていた立原さんが
「新聞紙か紙質の悪い雑誌の方がいいでしょう。水を吸いますから」というと中里さんは
「いいの、原稿用紙はたくさんもって来てますから」
と言った。立原さんはそれ以上は何も言はずに例の大な目をじっと見開いていた。
その夜、中里さんは沓掛あたりで中食に食べたおすしが悪かったとかで、軽井沢へは帰らず、川端夫妻だけが帰って行った。油屋も一ぱいで空室はなく、堀さんは枕など抱えて立原さんか野村さんの部屋へ行った。
翌日、中里さんが帰ってから、私が立原さんに
「あんなにざくざく原稿用紙を使ったり、急におなかがいたくなったりして――」と言うと
「え、あ」
と困ったような返事をした。私は自分の感情をむき出しにした言葉が急にはずかしくなった。堀さんにしても立原さんにしても、あからさまにそんなことを言うのを、私は一度もきいたことはなかった。
堀さんから立原さんへのある時の手紙にも、
「――君を苦しめてゐるのは都会だよ。しかも君なんぞはやっと都会といふものを知り出した位のものだ。もうすこし雄々しく戦ひたまへ――へこたれるな」
などと書いていいるし、立原さんも油屋でのいやなことなどという文字もあったことだし、いやなことはすべてよけて通り、砂糖菓子のような美しくもろいものだけが、立原さんのすべてだとは思はない。ああいう時代にあんなやさしい美しい詩をかきつづける気魄、自分の詩作に対するつよい信念、やさしく素直な人柄、そういふものが、堀さんという中心によって、ふしぎと人々にやすらぎをあたえたのではあるまいかと、私は思っている。
胸を病む人たちであり、油屋の食事はかなしいものだったが、高原の夜空に輝く大きな星、星からじかに伝はる清冽なもの、そういうものを感じる時があった。
「油屋が炎上し、命からがらにげました。堀さんはるすでしたが、たくさんのリルケの本など失くしました。」
という立原さんのハガキを受けとり、体にさわらなければよいがと心配していたが、その翌年の九月だったと思うが、立原さんの体の具合がまたよくないときいて心配しながら新しく出来た油屋へ行ってみると、割合に元気で、奥の広い部屋の壁ぎわに、深沢紅子さんのまだぬれているような油絵をずらりとならべて、盛岡郊外の深沢さんの両親の休息の家、「生々洞」へしばらく滞在すること、あとから野村さんも行くことになっているとたのしそうに話した。
それから二三日すぎたある冷たい雨の降る宵のことだった。私の部屋は二階だったが、大てい立原さんの広い部屋ですごした。そこは油屋の一番上等の部屋らしく、立原さんは油屋で大切にされている様子だった。宵といっても滞在の客も少く、夜更のようにひっそりとしていた。立原さんは急に何か思いついたらしく、いたずらっ子のように瞳をくるくるさせて、
「今夜ね、ドイノの悲歌の自動車の音がしたら、僕が首をつったまねをしますから。」
と、長押の釘に小さなひもをかけ、その下に行って、畳と、すれすれに爪立つと、長身の首はひものところまでとどくのだった。目をとじて、十字架上のキリストのようなポーズをとると、ほんとうに死んでしまったようになった。その時、玄関先で自動車の止る音がした。
「そら早く、部屋の入口まで、先に立って案内してきて、急に立ちどまりびっくりするんですよ。」
「いや、私、そんな縁起の悪いお芝居、とても出来ない。」
「早く、早く、芳賀さん、ひとりで来てしまいますよ。」
廊下から部屋に入りながら、私は立原さんの演出どおりのせりふを言ったのだったが、当の芳賀さんは一向におどろいた様子もしてくれなかった。
「そんないたずらをする。すこしもびっくりなどしない。」
それよりも、もっとこわい話がある、などといって、堀さんと、川端さんがはじめて軽井沢の森の中の家へたずねて来て、たしかこのあたりだと庭の中に入るとその家は空家で、戸のすき間からのぞいてみると荒縄でしばった箱が一つ部屋の真中においてあり、箱の中から血がながれ出していた。調べさせてみると、ペンキだった。こわいでしょう、などと言って、立原さんと私をがっかりさせた。立原さんは頚がだるかったと言い、私は蒼白な顔をみて、ほんとうに死んでしまったのではないかと、胸をどきどきさせた。
堀さんが「ドイノの悲歌」の仏訳を手にいれ、それをたよりに原詩を読んでみようか、などといっていた頃のことであるが、堀さん立原さん、それに丁度来合せていた竹山道雄さんなどで「ドイノの悲歌」についてきいたことがあった。
堀さんですら、何ヶ月かかって読んでも果して体読出来るかどうかわからないと言っていたほどだったから、私などにわかるはずもないが、あんなに「ドイノの悲歌」の完訳をまっていた立原さんは、じっと目をとじていたが、やがて眠っているようにすら見えた。つかれきっている、悪くなっているのではないかしら、私は心配だった。昭和十六年、この訳詩が本になった時には、もう立原さんは亡くなっっていた。ほんとうに残念で仕方がない。
すぐ片づくのではないかと思っていた支那事変が、だんだんと拡大して、知人のあの人この人が戦場へと征くようになった。
そんな暗い、どうにもならないような重苦しい頃のある日、台風のために信越線が不通になったことがあった。私たちは追分村の林をぬけたり、森の中に入ったり早い流れをとびこえたりして歩いていた。しゃじく草、、いぶきじゃこう草、みずひき草、たちふうろ、私たちは花の名を一つ一つ声に出して唱えたりしながら、線路に耳をつけて遠くから来ているかも知れない汽車の音をきこうとしたりした。立原さんは時々立ち止って、何となくおちつかない様子なので
「どうなさったの。」ときくと、
「あまりやせてしまって落ちそうなんです。」と言った。
私は、はっとして言葉もなかった。
ふとみると、畠の畔にいま刈りとったばかりのような水々しい桑の枝が一束おいてあった。その中からすんなりとのびた五六本をぬきとって皮をはぎ、三つあみのベルトを作った。とっさにこんなことをする私を、びっくりしてみていたが、この緑色ベルトは大へん気に入ったようだった。
毎日毎日やせていってしまいにはどうなるのか知ら、美しかった両のうで金火箸のようになって死んでいった友人のことなど思い出して気がめいって仕方がなかった。その夜、
「みんな戦場へ戦場へと征き、生活があるのにこのままでよいのか知ら――」
などと言はれ、私は困って
「戦いは前線ばかりではないから――」
と、下手な飜訳のようなことを言った。
盛岡から帰り、割合に元気で、これから京都へ行き、山陰に出て長崎へ行くという立原さんを、誰かの詩集の出版記念会の席から玄関前まで送った記 憶がある。たしか、緑がかった背広に暗紅色のネクタイをしていた。その時、
「あれがほんとうの岡本かの子さんですか。」
などと言った。厚化粧の実物の岡本かの子は立原さんをよほどおどろかしたようだった。
長崎への旅の記録はいたいたしくて、終まで読むのが苦しかった。無理をしてはだめ、早く東京へ帰っていらっしゃいと、つれもどしに行きたいような気がした。
最愛の人にあてて、
「おまへよりも、あのちいさい母が恋しくなるときがある。やりきれない気持だ。おまヘではだめだ。母でなくては」と、書いている。
「僕はおまへを僕のすべてが生きる場所と感じた。」
と言っているほどひかえめでやさしくやわらかい光のような「おまへ」にこんなことを書くのは、よほど体が弱っていたのにちがいない。
立原さんの「最愛のひと」があまりつつましやかなのを意外に思う人があるかも知れないが、私はそうは思はない。
だれも見ていないのに
咲いてゐる花と花
だれもきいていないのに
啼いている鳥と鳥
と、うたっている立原さんは、自然と素朴を愛し、簡素と孤独に生きていた。追分の夏はいろいろの人がゆききしたけれど「にぎやかな夏を過す」ことは、立原さんたちの本質ではなかったと、私は思っている。
立原さんが亡くなる一週間ばかり前の雨の日に、芳賀さんいを案内して、中野の療養所へお見舞に行った。
ここは私にもう幾度と数えきれないほど来たところだった。杉本良吉夫人の杉山智恵子さん、鷹野つぎさん、緒方隆士さん、皆、よい人たちで、皆亡くなってしまった。気持で立原さんの枕元に立ったのだが、私の思ったよりも元気だった。
ライラックの花束と、赤い小さい花のバラの鉢植と本がその日のお見舞の品だった。
「最も寂寥な者こそ遂に道を発見する」本の扉の文字をしばらく見ていたが、何も言はず、左手で静かに本をふせた。
ベッドのわきに弥勒菩薩の思惟像の写真が鋲でとめてあるのを見た芳賀さんが
「この次来るときギリシャの彫刻の美しい写真をもってきましょうか」
ときくと、だまって頚をふった。あの大きな美しい目はもう輝いてはいない。
「いりませんか」と言うと、はっきりと「ええ」とうなずいた。
「立原さん、何かあなたの欲しいものありませんか、近いうちにそれをもって、またお伺いしますから。」
私はだまっていることが苦しくこんなことを言った。
「それでは注文を出します。一度ずつでおしまいになる小さなカンヅメをいくつも――それがサンタクロースのおじいさんが持ってくるような袋の中に入っているとれしいな――」
「はい、かしこまりました。それから――」
「それからね、五月のそよ風をゼリーにして持って来て下さい。もう一つ、非常に美しくておいしくて、口の中に入れるとすっととけてしまう青い星のようなものもたべたいですね。」
「はい、はい、大きなヒヤシンスの花束も添えましょうね。」
私は立原さんの生命はもう少ししか残っていないのではないかしら、東京でやさしいお母さんや親しい人たちの中で静かにしていられなく、せき立てられるように長崎への旅などして、でもあの旅は友人たちへのおいとまごいになってしまうのではないかしら、遠くをみるようにして、星たべたいと言っている。
その頃、私は微熱など出して、ひょろひょろしていたが、健康そのもののような芳賀さんは病人をつかれさせるのではないかと思って心配だった。
五月のそよ風も、高原の青い星もまたずにたったひとりで死んでしまった立原さん。療養所の別棟にささやかな祭壇の前で、読経をきいていたあの時のことを思い出すとさむざむと悲しい。お棺の近くの畳の上に小さなコケシが一つうつぶせにころがっていた。盛岡の楽しい旅の思い出のものででもあったのか知ら、
「コケシをおこしてやって下さい」
立原さんがそう言っているような気がしてならなかった。
お通夜の時にはじめて、橘町の立原さんの部屋へいった。
三階の屋根裏部屋は建築家らしく、これが本格的に調えら入れていた。梁にはきれいな活字のヴァレリーの詩句がきりぬいてはってあり、木の寝台と椅子、寝台の脚の方はもう屋根についているけれど、それがすこしもみじめな感はしないし、柱と柱のくぼみのところにはきっちりと五六冊の洋書がおいてあったり、寝台の枕元の方には、浦和に建てるはずの「ヒヤシンス・ハウス」の旗印の十字架のようなヒヤシンス旗がくりぬいてあった。
その時はどうだったか気がつかなかったが、表に向いているスリガラスの窓には、堀さんの芥川にほめられたという「虫歯」の詩が鉛筆で斜にかいてあったそうだ。
お通夜は友人たちが集り、立原さんもどこかにいて静かな集りのようだったが、それでも何かうらかなしかった。
急なせまいはしごだんを誰かがそっとお酒をはこんで来た。私はそれを受けとり、隣りの席の、私の知らない、立原さんの一高時代の友人の人にそのお酒をついだ。
あとになって、その人が物理専攻の中村整さんということを知り、追分の立原さんの歩いた道を歩き、立原さんの泊った部屋をみたいと言うので案内したことがあったが、中村さんも、もう亡くなった。
堀さん、津村さん、立原さん、野村少年までが亡くなって、あの頃の有熱児童、堀夫人と私が生きている。
お葬式の日も、谷中の墓地の埋葬の日も寒かった。ようやく立原さんの死ということが実感となって友人たちをかなしませた。
立原さんが亡くなって間もなく、その頃「ぐろりあ・そさえて」にいた私は、保田與重郎さんから言われ、立原さんの詩集出版のことで、鎌倉小町へ堀さんを訪ねた。堀さんは用件をきき終ると、きっぱりと断った。私はすこしとまどった。
その後、昭和十六年二月から十八年五月にかけて「立原道造全集」三巻が、山本書店から出版された。
萩原朔太郎、室生犀星、三好達治、津村信夫、芳賀檀、丸山薫、田中克己、神保光太郎の「四季」同人が編集委員に、堀辰雄、杉浦明平、野村英夫、生田勉、小山正孝の五人の編纂校正で、心のこもった立派なものである。その頃は出版統制、紙不足だけで最悪の時だったのに、三巻の見返紙がすこし劣るだけで、印刷、製本、何もかも立派である。
「ぐろりあ・そさえて」の出版物は、堀さんや立原さんの好みではなかった。あの時のことを思うと私はいまでもはずかしい。
室生さんの「立原道造を哭す」という追悼文は、幾度読んでも終りのところで胸が一ぱいになる。それなのに私にはたった一つどうしてもふにおちないことがある。
それはある時、立原さんが、あの「最愛のひと」と一緒に軽井沢に行った。室生さんから「子供たちの教育のためによくない」と言われてしょげていたということ、このおはなしはどこから生れたことか知ら、誰にきいたか思い出せない。
「まあひどいことを」と思ったことをおぼえているから私の創作ではない。晩年の室生さんの書いたものや、あちこちからきこえて来る噂話などのことを思うと、あるいはそんなことが一度ぐらいあったかも知れないと思うが、立原さんがどんなにびっくりし悲しまれたことだろう。
家族の方から板橋の方へ越したという通知のあったのも、もう戦前のことだったから、橘町のあの部屋も、もうなくなっているかも知れない。長崎から病を悪くして帰り、
「何もかも、僕のとほりに整へられてゐる部屋が、かへって、かなしくなぐさめてくれる。ちひさい隅までが僕をゆるしてゐる。かつてそれらを僕がこまかい心づかひで愛撫したから」
という友人たちにもなつかしい部屋だったが。
☆ ☆
沢西健さんのことは知らないという人が多い。「四季の人々」という誰かの書いたものを読んだことがあるが、沢西さんの消息だけはわからないと あった。
戦死したということはきいていた。すこし必要があって戦死の場所を問い合せたことがあった。もう大分前のことである。すると、美しい文字の代筆で「父は比島で戦死しました」という返事があった。
この稿をかくについて、なるべくくわしく調べてと初めのころは思っていたが、途中からそんな戸籍調べのようなことは一切やめて、そのかわり私の手元にある「日本浪曼派」「四季」等の沢西さんのものを全部読むことにした。
「日本浪曼派」には「朔とトミ」「獅子奮迅」の二つの長い小説を書いているし、短かいエッセイはほとんど毎号のように書いている。
「朔とトミ」は気のふれた母を持つ旧制高校の学生、朔と若い女の先生につよくひかれている純真な女学生のその妹トミに、はでな叔父の妻をからませた物語。
「獅子奮迅」は海のある町の古い絵画館の茶房の娘と、旧制高校の学生との淡い心のふれあいをたんねんに書いたまじめなものだが、「コギト」には短かい、気のきいた散文詩のようなものもある。
山岸さん、太宰さん、檀さんなどが遠慮なく叱られたり、
「――難解にして高遠らしい論文を書いた人間と、ぢかに真剣に語ってみると他愛もないのである。あんなのはいやだ」
などと勇気のあることを書いている。
立原さんとは大学一年生の「偽画」の頃からの友人で、堀さんの文学をなかに同じ心情に結ばれ、詩と小説に分れても一つの幹から出ている、最後まで心おきない友人のようだった。
私が「ぐろりあ・そさえて」の編集の仕事をしていた頃、沢西さんは市ヶ谷の陸軍省の報道部の中の建物で検閲係をしていた。検閲は内務省関係のはずだが、だんだんと軍がたちはだかっていた頃のことで、どういうことになっていたのかわからないが、門のところで大きな門鑑というものをもらい、それを胸につけて、何度も沢西さんをたずねた。
沢西さんの厚意で事前に原稿を読んでもらうという虫のよいお願いだったが心よく引き受けてくれた。蔵原伸二郎氏の小説「目白師」などはことに朱線が多かった。
あの仕事はきっといやなことだったと思う。カーキ色がざわざわしていて短かい言葉も遠慮しなければならないような空気だった。
「どうもありがとうございました。」
私はいろいろの心情をこめて深くおじぎをするより他何も出来なかった。沢西さんも
「では」などといって別れた。
門鑑を返し、門の外に出るとほっとした。土手の上につばなの穂が白くほうけ、ねじ花がひっそりと咲いていた。それがせめてものなぐさめだった。
その後ドイツ語の先生になって清水へ行き出征、戦死とていうことになった。
沢西さんはどこかで家庭的に不幸なことがあったからと書いているが、少しも暗いところはなかった。はでに自分をおし出すようなところは少しもなかったがヤコブセンの「ここならば薔薇咲かん」は一本になっている。ゲーテの「親和力」も白水社から出ている。それらのものを残し、だまって比島に消えた。
あちこちききあるいたりして、細かいことまで書かれたりするのを、沢西さんは好まないのではないかと思い、短かいおつき合いのことを書くにとどめることにした。
銀座の人ごみの中で、向うから歩いてくる立原さんと沢西さんに会ったりするとうれしかった。丸の内や濠端の大きな建物を、今日は柱、明日は窓、と立原さんの説明をききながら歩いたことも度々だった。