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【対談】 田中克己×杉山平一

田中克己×杉山平一

 『文芸広場』(第一法規出版)「昭和文学うらおもて」57,58,59

昭和59年10月     「コギト」のこと   15-22p
昭和59年11月     「コギト」の人々  13-21p
昭和59年12月     詩人 田中克己 12-22p

                    談   田中克己 (詩人、成城大学名誉教授)
                   聞き手 杉山平一 (詩人、帝塚山学院短期大学教授)
                                                        (※HP注:はHP管理人中嶋康博が適宜補った)


「コギト」のこと

 『R火:かぎろひ』のこと

杉山:田中さんが『コギト』を始められたのは、保田さん(保田與重郎)や中島さん(中島栄次郎)と大阪高等学校で同級だったことからでしょうか。 文乙(ぶおつ:文化乙類)ですか。
田中:はい。でも、その前にこれがあったんですよ。(書棚より製本した文集を取り出される。)
杉山:これがあの『R火』ですか。歌集ですね。
田中:そうです。最初は先輩の野田又夫、奥野義兼が『璞人』を譲るからやってくれということで『璞人』にしようかと思ったのですが、 松下武雄が反対して『R火』となったのです。
杉山:『R火』という誌名は誰がつけられたのですか。
田中:松下です。『万葉集』からとったのです。
杉山:「東の野にかぎろひの……」ですね。
田中:そう、そう。人麻呂の歌です。
杉山:『R火』の同人は。
田中:保田、中島、松下、それに曽良の『随行日記』を世に出した杉浦正一郎など十人くらいでした。
杉山:田中さんの学級は、“ロマンティック学級”などと呼ばれたそうですが。
田中:(笑)ええ、安井先生がつけられたんです。
杉山:ガリ版刷りですね。
田中:そうです。謄写版で刷りました。三十頁程度のものでした。
杉山:この冊子はコピーしたものですね。
田中:ええ、神田にいる人(※HP注:神保町山口書店の山口基氏)が持っていて、伊藤佐喜雄が売ったもので、今はそこにしかないんです。僕のところには一冊も残っていません。

田中

杉山:何号まで続いたのですか。
田中:十号です。その後は山内しげる(中田英一)がやりました。
杉山:これによると創刊は昭和五年一月となっていますね。
田中:そう。高等学校二年の終わりの時でしたね。
杉山:創刊号には「アルトハイデルベルヒ、その他」を書かれていますが、この頃からドイツ浪漫派を……。
田中:そうです。ドイツ好きでした。ハイネはとても好きでした。但し、ヒットラーは大嫌いでしたね。
杉山:湯原冬美という方が「方尊寺など」を書かれてますが……。
田中:それが保田ですよ。保田は、それ以後もペンネームを変えますね。(笑)
杉山:出発は皆さん短歌からということですね。
田中:『R火』では、一人が俳句でしたが、あとは皆短歌ということになりますね。

 『コギト』創刊

杉山:そして、その仲間が東大に入って『コギト』を創刊したわけですね。昭和七年ですね。
田中:はい。三月です。大学に入った翌年の、二年生になる前のことでした。
杉山:創刊時は、全員大阪高校出身者ばかりでしたか。
田中:はい、そうです。肥下恒夫、保田與重郎、中島栄次郎、薄井敏夫、松下武雄、小高根太郎などです。
杉山:どなたが発案者なのですか。
田中:自然発生的と言ったらいいでしょうか。
杉山:どういう形でしたか。
田中:大坂高校出身者が集まって、よく話をしていたんですが、その中から出てきたということです。
杉山:『コギト』を創刊した時、肥下さんが金を出されたと聞いていますが……。
田中:そうです。肥下を除く僕達同人が月に十円、肥下は残りの全額を出したわけです。肥下は、一年先輩でしたが、結核で落第していました。彼が、「僕は金持ちや。 足りない分は全部出すから。」ということで、発刊が決まったんですよ。費用は百五十円かかったと思います。
杉山:はあ。しかし、百五十円という金は大変な額ですね。大学を出た人の月給が六十円くらいでしたからね。
田中:そうです。僕は、最初に五十円の講師に就きましたが、周囲が非常にうらやみましたね。結婚したいと言ったら、八十五円にしてくれました。ちなみに、 家賃は十二円でした。(笑)
杉山:とにかく百円の月給があったら、子守りくらい雇えましたからね。で、誰が「コギト」と名づけられたのですか。
田中:保田です。
杉山:もちろん、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」から。
田中:はい。保田はね、非常に外国語が不得手でしたが、『コギト』がぱっと出たところにいいところがあるね(笑)。
杉山:ところで、『コギト』創刊の意義と言いましょうか……どんな抱負を持って出発されたのですか。
田中:それはですね。あの頃の思潮は、ダダイズムかシュールレアリズムか、アナーキズムかマルキシズムだったんですよ。詩の方も、<ギャー、ギャー、 ギャー>と並べてこれが詩だと言う者も出て来て、僕達は、そんな考えには反対で「そんなことはやめにしよう。我々は考える人間になろう。考える文学を創造しよう。」ということになったんです。
杉山:『コギト』の誌名の由来もそこにあるわけですね。
田中:そのとおりです。あくまで「我思う」ですよ。

 創刊号

杉山:あの創刊号を読んでびっくりしたのは、保田さんが「印象批評」という論の中で、「日本の古典が顧みられないから、これからは古典を推奨して行く。」 と主張されたことです。
田中:そうでしょう。びっくりしたでしょう。(笑)『古事記』、『日本書紀』、『和泉式部』、『清少納言』、『後鳥羽院』『芭蕉』へと向かうんですね。
杉山:そうでしたね。しかし同人達のお考えには、それぞれ異なったものがあったのでしょうか。
田中:保田は日本浪曼派、僕なんかはドイツ浪漫派ですね。ノヴァーリス、ハイネ、アイヘンドルフ、シュトルムですね。
杉山:他の方々も。
田中:そうです。ドビュッシーを訳している者もいました。(※HP注:松浦悦郎)
杉山:あの音楽家の……。
田中:ええ。中島はヴァレリー、薄井はシュレーゲルを訳しましたね。それからシェリングを訳している者(※HP注:松下武雄)もいて多士済済。その意味で、 『コギト』は先取的な文芸誌だったと言っていいと思います。
杉山:同人には美学の方が多かったのですか。
田中:大体美学・美術史の連中は、金持ちで暇なのが多かった。(笑)
杉山:勉強したくない者も行きました。(笑)(※HP注:杉山平一も東大美学科美術史学科卒) ところで、文学辞典の中には「民族的古典美を目ざし、 昭和十年代のロマンチシズムの源流となった」と書かれていますが。
田中:大体はそうかも知れませんが、僕自身は、民族的古典美を目ざしたわけではありません。当時の思潮、時代の流れに何か反するものがあって、それを表現しようとしたんだと思います。
杉山:皆それぞれに考えるところあり、ですね。
田中:そう、そう。服部という語学の天才もいましたね。ドイツ語がよくできて。保田が呼んで来て訳させたんですよ。誤訳が一つもなかったですね。 この服部正己は、保田より前に白血病で死にました。 
杉山:そうですか……。それで肥下さんが創刊号に書かれたのは一種のプロレタリア小説であったと言われますが。
田中:そう「手紙」という小説です。その中に「妻よ、子よ、俺は今から闘争に出て行く。」とあるんです。でも実際には闘争には出て行かず、勇ましく百五十円出したんですよ。(笑)
杉山:軍部抬頭、マルキシズム弾圧の時代ですね。文学を担う人々の考え方が極限状況の中で試される時代でもありました。で、田中さん、保田さんは。
田中:僕は左翼学生でした。一体満州事変を許せますか。溥儀を担ぎ出して軍部がやったんです。東大生は皆怒りましたよ。あの時左翼でなければおかしいですわ。
杉山:田中さんも拘留されたと聞きましたが。
田中:そうです。集会に参加しているところを捕まったのです。坂本署で山県警部に尋問されたのです。教室で配られたビラや自分の本があって、一々出所を聞かれました。 名前を書かないと帰さないと言うので、吐いたふりをして、友人の名前を書きました。しかし、共産青年同盟の橋本の名は出しませんでしたね、山県警部は、 おまえのクラスは皆アカだなと言いました。
杉山:そんな中で自己を見失わないでいるということは、実に大変なことたったと思います。
田中「コギト・エルゴ・スム」ですね、本当に。
杉山:ところで『コギト』はどのくらい出されたのですか。
田中:肥下が発行者。コギト発行所から二百部ほどと思います。
杉山:本屋に出されたのですね。
田中:はい。同人の義務として、自分の家の近くの書店に置くこととしました。
杉山:たくさん売れましたか。
田中:売れましたよ。同人雑誌は売れないのが相場ですからね。第一号が六十四冊売れ、皆喜びましたね。それからどんどんと売れるようになり、発行部数も増やしました。
杉山:反応はどうだったのですか。
田中:よかったのではないですか。(笑) その頃は無名だった伊東静雄から、蒲池歓一もいたなあ、すぐに手紙が来ましたよ。
杉山:編集の方はどなたが。
田中:肥下が主にやったんです。校正は肥下と僕です。保田は事務的なことは何もできませんでしたね。
杉山:田中さんも大分編集されたのですか。
田中:ええ、やりましたね。
杉山:私は田中さんから書くように言われたことがありました。
田中:そうそう。あの時は僕が編集したんですよ。確か三十一号で「詩特集」をやりました。竹中郁、伊東、中原、草野、神保、蔵原と、見込みのある人に書かせたんですよ。(笑)
杉山:どうもありがとうございました。

 戦時下の『コギト』と執筆者達

杉山:文学辞典には、『コギト』は「マルキシズム解体後の新文学の創造を目ざした」とありますが、マルキシズムについては……。
田中:いや、僕らは、政治のことには関わらないようにしたんです。文学でやろうや、ということになったのが『コギト』ですね。
杉山:では、政治との関わりは全く無しということで……。
田中:文学で何とかいいところを見せようということでしたね。
杉山:プロレタリア文学については。
田中:私は大嫌いでした。面白くないですよ。でも中野重治だけは好きでした。他の同人達もそうでした。
杉山:同人の方々の執筆意欲は、戦争が始まっても決して落ちなかったですね。
田中:そうです。保田は、特によく書きましたね。大変な売れっ子になりました。
杉山:『コギト』に対する批評はどういう形で出て来たのですか。
田中:小説の方はだめだったのだけれど、評論は、保田、中島、松下。詩は田中と伊東と蔵原と言われてました。
杉山:『コギト』は戦争についてどう考えていたのですか。
田中:はい。皆反対でした。僕はね、特に中国と戦争をすることに対して猛烈に腹が立ちました。戦死者が出るたびに悲歌を作りましたね。
杉山:そうした中に、田中さんのお気持も表れているようですね。そうして、『コギト』の執筆者、寄稿者がどんどん増えていきますね。
田中:僕逹が卒業すると、大阪高校以外の人逹にも寄稿を依頼するようになったんです。保田と肥下が相談して決めていました。
杉山:皆ハイブロー、学者でしたね。
田中:『コギト』に書くことを誇りにしている人が多かったんだと思います。
杉山:藤沢桓夫さんは十年くらい上ですか。
田中:いえ、六年です。一回目に入ったんですが、野球をして落第したんですよ。(笑)
杉山:藤沢さんの雑誌の『辻馬車』からは、わりにいい小説家が出ていますね。
田中:文甲(文化甲類)からも若山タカシ(相野忠雄)が来て、『義眼』という小説を書きましたね。杉浦正一郎も書いてましたね。(※HP注:『コギト』の話。 『辻馬車』には興味なく話に乗ってこない。) 
杉山:同時代の雑誌と言うと……。
田中:はい。岩波の『思想』がありました。『コギト』と『思想』とがすぐれた雑誌と言えたんじやないかと思います。『コギ卜』の後で『四季』が出て、安心しましたね。
杉山:池沢茂や山田新之輔という方々はずっと下級だったのでしょうか。
田中:はい、山田が一年上で、その下に池沢と長尾良がいたんです。
杉山:池沢さんは健在ですが、あの方は映画の批評も書かれてましたね。
田中:読売新聞大阪支局に勤めてましたね。山田は、朝日新聞にいて、吉川幸次郎氏と親しかったようです。
杉山:芳賀檀は、いつ入って来たのですか。
田中:ずっと後ですよ。
杉山:昭和十年頃から書いてますね。
田中:ドイツが好きで、ドイツに一年半程行き、ヒットラー治下のドイツに感心して帰って来たんですよ。彼のヒットラー好きには難儀しましたよ。僕はヒットラーが大嫌いだったから。 保田も嫌いだった。ヒットラー、ムッソリーニ。でも、セントヘレナのナポレオンは好きだったですよ。しかし、芳賀は家柄がいいから、保田はそれに弱かったんじゃないかな。
杉山:『コギト』に対して圧迫もかかって来たんでしょう。
田中:最後の方では、保田は敗戦主義者というレッテルを貼られましたね。名ざしで中河与一が言うのです。そのために兵隊にとられることになるんです。 絶対安静で寝てる肺結核の患者(保田)をとったんだもの。僕も一緒にとられて、えらい目にあったよ。
杉山:亀井勝一郎も批判されましたね。
田中:そうです。亀井のところに右翼が行って殴りました。日本は神国なのに,寺や仏教のことを書いてけしからんというわけです。亀井は殴られっ放しで、 「わたしは仏の慈悲にすがるわ」と言ってましたね。僕もゲートルを巻かないで歩いているところを、明大の学生に「非国民」となじられました。無茶苦茶ですな。
杉山:伊藤佐喜雄さんという方は。
田中:保田が勧めて参加したんです。ずっと最後まで小説を書いていました。『日本浪曼派』にも書いてます。『花の宴』という傑作を書きました。
杉山:増田晃も書いていますね。
田中:増田は天才でした。惜しいことに戦死ですわ。
杉山:吉村善夫も随分書いてますね。
田中:そうです。彼はクリスチャンでね、その方面では非常にすぐれた理論家となりました。ここでは、ドストエフスキー論を書いてますね。
杉山:実に多方面に,わたりますね。
田中:はい。蔵原伸二郎も書いてるなあ。いい詩人だった。……桑原武夫もいる。彼は、大阪高校の先生をしながら、アランの訳をしていたんですよ。
杉山:薬師寺衛もいい詩を書きましたね。(※HP注:本名倉田敬之助1913-1945京都生) 
田中:薬師寺衛は軍医でね、レイテ島に征ったんです。軍医は戦争には参加しないものだったけど、最後には二等兵に指揮されて戦い、戦死したんです。
杉山:そうでしたか。……で、田中さんは薬師寺さんの詩を編まれましたね。(※HP注:『受胎告知』雑誌『果樹園』上で) 
田中:はい。お母さんに頼まれたのです。
杉山:それにしても戦死した方が多いのですね。
田中:ええ。中島もルソン島で戦死です。
杉山:これも惜しい方でしたね。
田中:『コギト』は、ともかく戦争に迎合せずにやって来た雑誌と言えると思います。筋を通して来たと思っています。

 『コギト』と『日本浪曼派』

杉山:ところで、十年に保田さんは『日本浪曼派』を始めますが、『コギト』に飽きたらないものを感じて来たのでしょうか。
田中:『コギト』とは別の形のものを作ろうと思っただけです。
杉山:『コギト』からは、どんな方々が参加されたのですか。
田中:中島と伊東が書きました。保田はね、教師と役人は入れないと言ってたんですが、伊東は入れました。中島は、創刊号のトップに書いて、もう一回詩を書いて、 それだけでやめにしました。僕は全く呼ばれませんでした。『浪曼派』はすぐになくなりましたね。
杉山:では、両者の間に特定の関係はなかったということですね。
田中:そうです。保田と伊東とが両方に入っていたというだけです。
杉山:『日本浪曼派』は戦争に傾いて行き、『コギ卜』は独自の立場を守ったと言えるでしょうか。
田中:そのとおりです。(※HP注:この場合の“日本浪曼派”は雑誌ではなくカテゴライズされた呼称) 
杉山:それにしても『日本浪曼派』は多彩な執筆者がありますね。
田中:太宰治、壇一雄などそうそうたるメンバーが入っていましたが、全然書きませんでしたね。だって、金を払わないから書くだけ損だったんですよ。
杉山:ええ。あの人達は別に売れるんですから。で、『文芸文化』という雑誌は。
田中:それは、広島高師(※HP注:高等師範学校)出身の人逹で作った文芸誌で、成城高校の教師をしていた清水文雄という人がやっていたんですよ。僕や伊東はよく書きましたよ。 清水文雄はまだ健在ですよ。中でも一番強いのは、死んだ蓮田善明だったね。
杉山:それにしても肥下さん、保田さんと出身地が大和川に沿っていますね。
田中:そうですね。大和川からさらに上流が泊瀬(はつせ)で、泊瀬川が川らしくなるところが瓜割(うりわり)で、そこに肥下の実家があったんです。 その河原を保田も開墾したことがあります。石が多くてだめでしたが。
杉山:あの辺の感じと『コギト』や『日本浪曼派』の感じがよく似ているような気がします。(笑)
田中:そうですか。(笑)

 『コギト』廃刊へ

杉山:『コギト』の誌命は比較的長いですね。
田中:ええ。分裂もせずに廃刊を命じられるまで続きました。昭和十九年九月まで百四十六冊出ました。休んだのは一度だけだと思います。
杉山:長く続いた理由はどこにあったのでしょうか。
田中:皆が仲が良かったというところにあると思います。大らかな結びつきが反ってプラスしたんじゃないですか。
杉山:その『コギト』が廃刊になった理由を聞かせて下さい。
田中:ええ。「日本出版会」から廃刊を命じられたんです。『文芸世紀』か、『文芸日本』のどちらかに合併しろと言うのです。僕と保田は、既に『文芸世紀』に入っていたんですが、 中河与一がね、「誰々は愛国者でない。亀井はけしからん、浅野はだめだ。」なんて名ざしで書くわけですよ(※HP注:コラム欄「空陸海」) 。つまらないから保田もやめて、 私もやめましたよ。そうして、『コギト』の紙は全部『文芸日本』(中谷孝雄、浅野晃)にまわすことになったんです。その時にヤミの紙で出したのが、『コギト』の最後の四号ですよ。 だからとても簿いでしょう。
杉山:『コギト』はそれで終わりになってしまったのですか。
田中:その前にね。僕は言ったんですよ。命令に従え、命令どおりにしろなんて実にけしからん。いやしくも文学をやる者の態度ではない。よし、しかるべき所にかけあいに行くと言ったんです。 ところが肥下は、大本営に行くなんてよせ。そんなことはするな、大御旨(おおみむね)に従えと言ったんです。僕が怒って、絶交だ、『コギト』はやめる、と喧嘩したんです。そして、 出て行けと言ったら、庭からショボショボと帰って行ったね。そうして、ヤミの紙で四冊刷ったのがこれでしたよ。だから僕の名前はないのです。
杉山:肥下さんは『コギト』を続けられると思っていたのですね。
田中:そうでしょう。しかし、すぐ兵隊にとられて、『コギト』は本当に終りになってしまうのです。
杉山:十九年八月印刷のこの『コギト』が最終号ですね。
田中:はい。
杉山:でも、薄くても四冊きちんと出されたのは。
田中:どうしても『コギト』をやめたくなかったでしょうが……。保田は寝ているし、僕は怒って絶交しています。仕方なく小高根太郎に後事を託して行ってしまったようです。
杉山:肥下さんとしては随分辛かったでしょうね。
田中:そうだと思いますよ。わたしはあとで仲直りします。
杉山:それはよかった。
  ところで『コギト』が復刻されるそうですが……。
田中:はい。京都の臨川書店から創刊号から十一年第四十九号までの前半が出ました。十七万円もする本ですが、ぜひ読んでもらえるといいと思っています。
杉山:そうですね。戦争直前、戦争中を通じた日本近代文学の貴重な資料と呼べるものと思います。
田中:満州事変から太平洋戦争へという激動の時代に、青年が何を考えていたかを考えるのに、実によい証言となる気がします。

「コギト」の人々

肥下恒夫

杉山:『コギト』同人達のことをうかがいたいのですが。
田中:はい。
杉山:まず最初は肥下さんのことになります。実に印象的なお名前ですね。いったいどんな方でしたか。
田中:ええ、実にさっぱりした好人物でした。魅力的な人間でしたよ。肥下は金持ちでね、全田家(※HP注:まった)から肥下家という肥料問屋に子供養子に行ったのです。 その妹が双子でね、僕が惚れたんですよ。これが初恋だね。(笑) ところがお茶を出すと引っ込んでしまう。どうも姉らしかった。そこで肥下に話したら、肥下曰く、 「おまえには何でもやるけれど、妹だけは決してやらん。なぜって、喧嘩をしたら、おまえと俺と仲が悪くなるじゃないか。と。「なるほど。」と僕は納得しましたね。(笑)
杉山:面白い考え方ですね。(笑)
田中:面白いでしょう。
杉山:さっぱりした方と言うか、田中さんのことをよく知っておられたわけですね。肝胆相照らす仲というのは、そういうことではないかと思いますね。
田中:僕の性格をよくわかっていたんですね。……肥下と僕とは親類なんです。
杉山:はあ。どういう御関係なのですか。

肥下恒夫

田中:肥下の伯父さんが全田教授という大阪高校の先生で、その嫁さんが僕の叔母という関係です。
杉山:十九年に出征された後はどうされたのですか。
田中:戦後の二十四年(※HP注:誤記 昭和37年3月20日)に農薬自殺をしました。
杉山:はあ。
田中:戦争が終わって朝鮮から引き揚げて来たら、不在地主ということで、たった二反しか残っていなかったんです。叔父さんという人が売ってしまったんですよ。 きっとだまされたんだと思います。いわゆる土地持ちの名家だったけれど、土地を失って貧乏になってしまった。その時に保田が、「日本人は、機械文明をやめて農へ帰れ。」という本を出して、 肥下も賛同して頑張ったんですがね。彼がこの二反でエンドウを作ると周囲の者がエンドウを作る。菊を作ると菊を作る。で、作ったものが安くなって、食えなくなったんですよ。
杉山:失意の人だったのですか。
田中:はい。とにかく要領が悪いのよ。大学の時に家から百五十円も仕送りしてもらっていたけれど、「僕は、文学士などになる必要がないから。」と言って、必要な科目もとらないし、 結局はきちんと卒業もしなかったわけですよ。だから、代用教員にもしてもらえないし、手だてがなかったんですね。
杉山:生活に行き詰まり、悩んでおられたんですね。
田中:ええ。非常に悩んだと思いますね。前途を悲観したのだと思います。食えないからと言って、最後は堺の精神病院の事務をしていましたね。
杉山:戦後の極度のインフレの中では、人柄だけでは決して食べていかれませんでしたね。
田中:そうです。前途を悲観して、自殺の確か二日程前の日に保田のところへ行きました。「どうしよう。」といろいろ相談したのだけれど、保田は「さあー。さあー。」と言うばかり。 どうしろなんて誰にも言えなかったんだもの。ただ、もっと力になってほしかったなあ。
杉山:皆が実業家ではなかったのだから仕方ありませんね。
田中:肥下は、その晩奥さんを駅一つ向こうの肥下の兄さんのところへ風呂に入りにやらせて、その留守に農薬を飲んだんですね。奥さんが戻って来た時にはもう死んでいたんです。
杉山:それにしても悲愴と言おうか、不遇の最期でしたね。
田中:……。同窓会にも一度も出て来なかったね。三回もしかけてやっと出て来たんですよ。二階から下りて来た時、「肥下が来た。」と言うので、もう一度二階へ上がりなおした。 ところが食べるものも飲むものも何もありません。そうしたら肥下は、「皆の顔を見て安心した。」と言って、さっと帰ってしまったんですよ。
杉山:どうしてですか。
田中:全く金がなかったんですよ。十円くらいの会費が払えなかったんです。五百円生活の時代です。その時は確か弁護士が大方金を出したんです。
杉山:そうですか。で、田中さんは、作品の上では肥下さんのものを高く評価されなかったようですが……。
田中:実に素晴らしい人間だったと思います。肥下がいなければ僕もなかったかも知れないなあ。
杉山:しかし、肥下さんという方は、『コギト』を支えた大きな存在であったと冋時に、日本近代文学の一典をも支えた偉大な存在であったとも思えますが。
田中:はい、そのとおりです。保田に書かせたのは肥下です。あの頃の世の中で、『日本武尊』などを書いたって、誰が載せるものですか。誰も載せやしませんよ。
杉山:私もそう思います。田中さんの二百行の詩(「西康省」のこと)だって誰が一回で載せるものですか。ああして『コギト』に載ったからこそ、今まで残っ たんだと思います。肥下さんがおられなかったら、『コギト』はなかったかも知れませんね。
田中:そうだと思います。大人物だったね。

 保田與重郎

杉山:保田さんとは随分長いお付き合いでしたね。
田中:いい男だったね。一年の頃は二人で大阪高校の寮に入ってました。生粋の大和人で、俺の家は天皇家より古いんだと言っていばってました。保田は五十七年に死にました。 タバコをやめられないで、肺癌で死にました。
杉山:保田さんは、大変よくお書きになりましたね。
田中:そうですね。二十六冊程出しました。戦争中は特に売れっ子になりました。
杉山:最初の頃は何を……。
田中:最初の頃はね、小説家を目ざしていたんですよ。
杉山:そうですか。それにしてもあの方は、よく勉強されていますね。
田中:そうそう。あいつは、よく本を読むんですよ。本を読むと、またそれを必ず使ったね。だから保田が書いたものは必ずどこかにタネがあり、何でも無駄にしなかったところが、 いかにもあいつらしい。けれども、それで逆に評判を悪くしたんですよ。誰かが保田をひどくやっつけたこともあるんです。
それから保田は、よく人をほめるんですよ。誰でも日本一、日本一とほめるんです。だからね、保田の全集が、今度どこかから出ると言うのですが、そこには手紙を載せないらしい。 僕だって日本一と思っていたよ。それをあいつは『祖国』という雑誌の中に、宮沢賢治と伊東静雄と蔵原伸二郎を日本三大詩人と言ったことがあって、僕怒ったことがあるんですよ。(笑)
杉山:東大では何を勉強されたんですか。
美学専攻でね、確か卒論は、ヘルデルリーンのことでした。
杉山:『コギト』には毎号のように書かれましたね。
田中:ええ。毎号書きましたね。
杉山:あの古典をとりあげたのはよかったですね。
田中:ええ。保田の「考える」ということは古典に向かったんです。
杉山:同じ『コギト』の同人でも、田中さんはドイツ浪漫派だから、保田さんと論争したこともあったのですか。
田中:いいえ、ありませんよ。僕は保田を全く問題にしてなかったんです。保田がもとにしていたのは日本の古典であり、芥川であったんです。僕はドイツ浪漫派。芥川は大嫌いだったね。 芥川の著作は一冊も持っていませんよ。(笑)……ここに、18号に井原左門というのが「ホーレン」という詩を書いてますが、誰だか知っていますか。
杉山:どなたですか。
田中:保田よ。(笑) 井原西鶴のつもりで……。
杉山:あっ、そうか。左門とは近松で、西鶴と近松をくっつけたんですね。(笑)
田中:そうそう。無茶苦茶だよ。(笑)
杉山:保田さんが好んで書かれた古典を批判する人もいたんですか。
田中:中河与一がね、保田を敗戦主義者と呼んでね。保田の美学は、確かに敗北の美学だったからね。
杉山:しかし、戦争中は文壇の寵児となられましたね。文学辞典には、「戦争の進展に伴う狂信的な日本主義イデオロギーの蔓延とともにジャーナリズムの寵児となり、 急速に右傾化した。」とあります。戦後は公職追放されましたね。
田中:そうですね。でも、保田はね、当時東大の国史で、最大の右翼の理論家だった平泉澄は嫌いだったんです。ヒットラー嫌い、ムッソリーニ嫌い、セントへレナのナポレオンは好きなんです。 その反対が芳賀檀ですよ。
杉山:で、保田さんは、十年に『日本浪曼派』を神保さんや亀井勝一郎と創刊されたんですが、何かあったのですか。
田中:いや。何か『コギト』とは別のものを作りたかったんだと思いますね。
杉山:むしろ右寄りと現在見られている保田さんは、戦争には……。
田中:反対ですね。それに肺結核にかかって兵隊にも行けなかったくらいです。ところが中河が名指しで批判するものだから召集されたんです。保田を召集するのに、 同じ連隊区に属する僕もとったんですよ。ひどい話ね。保田のところに憲兵が監視に来てました。ずっと監視されていたんですね。そんな病人で面会謝絶の男を兵隊にとったのですよ。 軍部ってそういうひどいところだね。(笑)でも、戦争から戻った時には、結核はなおっていたんですよ。(笑)
杉山:『コギト』が廃刊された時には、保田さんは肥下さんのあとを継ごうとなさらなかったのですか。
田中:はい、僕は絶交していたし、保田はその気がなかった。保田のしたことはというと、最後の本を出したことですね。『祝詞考』という本で、これが保田の最後のあがきだったね。(※HP注:『校註祝詞』)
杉山:厳しい批判ですね。
田中:僕はね。あいつは神道だと思ったら仏教だったね。自殺した子供も仏教徒だった。「不二歌道会」の連中は、えらく失望したろうと思います。十三人代々木で自決したんですが、 その最高顧問が保田だったんですよ。「かぎろひ忌」で中河が、「不二歌道会」のことで喧嘩したけれど仲直りをしましたと言っているのを聞いて、胸くそ悪くなりましたね。
杉山:戦後『祖国』をやりましたね。
田中:ええ。僕は『祖国』に「老兵の記録」を書いてます。
杉山:保田さんは五十七年に亡くなられましたね。その命日を「かぎろひ忌」と呼ばれるのですね。
田中:僕はね、「コギト忌」にすると思いましたがね。
杉山:保田さんの全集が出るのですか。どこからですか。
田中:わかりませんが、仕事がすすんでいるそうですので、そのうちに出ると思いますよ。
杉山:保田さんも昭和十年代の文学を代表する大きな存在ですね。
田中:はい。そのとおりだと思います。

中島栄次郎

 中島栄次郎

杉山:中島さんとは、大阪高校から東大とずっと一緒だったわけですね。どんな方でしたか。
田中:いいえ。大学は京都です。彼は生粋の大阪人でしたね。 杉山:やはり戦死されたのですね。
田中:ええ。非常に残念ですね。三回召集をうけたんですが、一回目、二回目ともに即日帰郷。三回目にフィリピンに行き、戦死しました。そして、骨帰らず……。
杉山:……で、結婚はされたんですか。
田中:ええ。お寺の一人娘と結婚しました。
杉山:御遺族は。
田中:子供はできなかったんですよ。
杉山:生きておられたら随分いろんな仕事をなさった方ではなかったかと思いますが。
田中:そのとおりです。いいやつでしたね。ほんとうにおとなしいやつでね。僕と将棋と碁のいい相手でしたよ。僕の一番の親友だったね。僕とは非常に気があった。彼が死んだから、 とても悲しかったね。中島は『日本浪曼派』に二回ほど書いたのだけれど、それでおしまいです。自分もちっとも書かなかったね、つまらんと言って、僕を『浪曼派』に入れようとはしなかったね。
杉山:『コギト』にはずっと書いておられたんですか。
田中:ずっと書いてました。
杉山:一本の筋を通された感じがしますね。
田中:『コギト』にはそうした魅力があったのですね。
杉山:中島さんの業績はというと……。
田中:ヴァレリーでしたね。ヴァレリーばかりやって、結局ノートだけが僕たちに残ったんですよ。
杉山:しかし、終わりの方では、殆ど書かれなかったのですね。
田中:最後には、『日本浪曼派』にも『コギト』にもつまらんと言って全く書かなくなったんですよ。彼はね、天理外事専門学校のドイツ語の教師になってました。哲学でなかったんです。
杉山:書く意欲がなくなったんですか。
田中:いや、あったんですよ。あったけど実際は書けなかったんだね。
杉山:意欲の問題ではなかったんですね。
田中:皆、今に召集が来る、来ると思って心配していましたね。僕に召集が来たと言ったら、皆が次は自分だと言ってあわてました。
杉山:ほんとに惜しい方でした。
田中:実はね、中島の姪が名古屋にいるんですが、僕の第五次『四季』を買ってくれてる人ですがね、この人がおじさんの中島の全集を自費出版すると言ってます (※HP注:『中島栄次郎著作選』1993)。
杉山:それはいいことですね。
田中:ぜひたくさんの人に読んでもらって、中島の人となりを理解してほしいですね。

 野田又夫

杉山:野田又夫さんは最初から『コギト』の同人ではなかったのですね。
田中:野田又夫、桑原武夫、五十嵐達六郎を大阪高校の三教授と呼んでましてね,この三人に中島と僕が寄稿を依頼したわけです。
杉山:哲学者ですね。
田中:西田哲学をやりましたね。パスカルの専門家です。
杉山:文学作品はどうですか。
田中:文学好きなんですね。詩や評論は書かなかつたけれど。
杉山:評論ですか。
田中:エッセイを書いてくれました。ところで、この間中島栄次郎全集の序文を書いてくれるように頼まれたんですが、僕は哲学はわからないし、ヴァレリーもわからないから、 野田に頼むように言ったんです。きっと野田又夫が書いてくれることでしょう。京大の哲学で一年上だし、『璞人』を譲った一人だから、書かざるを得ないと思います。

 五十嵐達六郎

杉山:五十嵐さんという方は。
田中:立派な学者でしたね。僕よりは三年上です。堺の金持ちの家から五十嵐家への養子です。ラクビーのウィングをしていて、随分活躍したんですが、召集されて殴られて、 やせ細って死んでしまったのです。
杉山:そうですか。ひどいですねえ。『コギト』にだけ……。
田中:そうです。
杉山:五十嵐さんは哲学者ですね。何を書かれたんですか。
田中:ヘーゲル派の翻訳を載せたんです。桑原、野田、五十嵐と書いて『コギト』が非常に学問的な雑誌になって、ますます評判よくなったんです。そう、そう。五十嵐は、 『アミエルの日記』をずっと訳してたんです。途中で途切れてしまいました。阿倍稀男(あべまれお)というペンネームで書いてたんです。今は文庫にあるけれど、たしか初訳じゃなかったかなあ。
杉山:ところで、『群像』二月号に「五十嵐日記解題」というのが載りましたね。
田中:はい、知っています。戦地の引き揚げ邦人は、引き揚げをする時は持って帰ってはいけないことになっていました。きっと、何かのつてを頼って送ったんだと思います。
杉山:で、その中に『コギト』に触れている部分があるんですね。
田中:ここに(『群像』のその部分を示される)、「深入りはもちろんしていないし、批判的なことを言うのは聞いていないが、ほめなかったのも確実である。」なんて書いてあるけれど、決してそんなことはないよ。
杉山:この記事が誤っているのですか。
田中:そうです。五十嵐は、『コギト』に非常に好感を持っていたし、僕とも仲が良かったんですよ。嫌いな雑誌に書くわけがないじゃありませんか。ぜひ訂正してほしいと思っています。

 伊藤佐喜雄、松下武雄、杉浦正一郎

杉山:伊藤佐喜雄さんという方は。
田中:大阪高校の理乙の学生で、結局卒業できませんでした。後の方で入って来て小説を書きました。
杉山:『コギト』の同人ですね。
田中:そうです。保田に勧められて参加しました。最後には同人となりました。
杉山:小説ばかり書いたのですか。
田中:そうです。お母さんは、伊沢蘭奢とかいう女優さんです。
杉山:『日本浪曼派』の方によく書かれていますね。
田中:そうですね。『日本浪曼派』の生んだ小説家は、『花の宴』を書いた伊藤一人でしょうね。当時はね、肺結核が流行していてね。堀さんも立原もかかって死ぬんだけれど、 二人はきれいだったね。伊藤は、そうきれいではなかったのだけれど、恋をしたんだね。結核は非常に恋をする。
杉山:そうですね。そういう傾向がありますね。で、松下武雄さんは、どういう方だったのですか。
田中:田辺哲学を慕って、結局京都大学に行きました。彼も肺病になって遺言したんですよ。後には中原中也の本をくれました。それを僕は生活に困って、友人に売ってしまいました。
昭和十三年に出たのだけれど、それが追悼号です。そのあとに出たのが、この『山上療養館』という歌集だったのです。

小高根太郎

杉山:他の方々は、皆さん……。
田中:皆死にました。肺結核で死に、戦争で死に、或いは子供を焼き殺し、皆死にましたよ。杉浦正一郎は直腸癌で死にました。
杉山:酒が好きだったんですか。
田中:いや、恋愛好きですよ(笑)。北大へ行って、教え子と恋愛してね。新聞に書かれたんですよ。高校教諭の奥さんで、自殺しましたよ。彼は生き残って、 佐賀大学へ行き、九州大学に移り、教授になって死にました。死に際にね、カソリックの牧師さんに会い、洗礼名をもらって死にました。
杉山:小高根太郎さんは。
田中:僕より一年上で野田又夫と同い年ですよ。この間電話で話したばかりです。
杉山:戦後はどうされたんですか。
田中:戦後すぐに共産党に入りましたね。だから、大学教授にはなれなかったんですよ。ずっと定時制高校の英語の先生をしてましたね。
杉山:偉い方ですね。
田中:第五次『四季』の表紙の絵は、太郎が描いてくれた絵です。絵はうまいなあ。性格も素晴らしい人間ですね。

 伊東静雄

杉山:伊東さんは、どのようなきっかけで『コギト』に入られたのですか。
田中:ええ。大阪の北畠の大阪高校前の書店で、毎月『コギト』を買う人がいるんですよ。その人が住吉中学の先生をしていた伊東静雄で、『呂』という同人誌に書いていたのだけれど、 それを毎月コギト発行所に送って来るわけよ。こちらが見るといかにもいい。向こうも『コギト』の詩はいいと言ってくれるので、中島と二人で一度会いに行こうやということになったんですよ。
杉山:その頃まだ学生ですね。
田中:そうですよ。住吉中学で住所を聞いて尋ねて行ったんです。でも奥へ上げてくれない。玄関で話をしたんです。伊東も『コギト』の詩はいいとほめるし、 僕達も『呂』の伊東静雄は非常に感心していると言って、お互いにピタッときたわけよ。伊東は、それから『呂』にも書き『コギト』にも書いていたんですが、 風呂屋をやっている『呂』の主催者と喧嘩をして、『呂』を全くやめて『コギト』に来たわけです。
杉山:やはり伊東静雄は『コギト』の伊東静雄として出発したのですね。
田中:そうです。伊東静雄は、『コギト』に入らなかったら、あんなに偉くなれたかったでしょうね。
杉山:伊東さんはどういう方でしたか。
田中:なかなかうるさい存在でした。僕が大阪で『コギト』の会を催す責任者だった時ですが、中島、松下、野田、桑原、五十嵐らが出席したんです。ところが、伊東の詩の話は出ずに、 エンタツ・アチャコの話をしていたら、彼がえらく怒るんですよ。伊東の詩が僕逹よりうまいという評価がなかったので、相手にしなかったわけですよ。伊東は、 自分が一生懸命書いた詩をなぜとりあげないのかと怒ったんですよ。
杉山:同人の方々の中での伊東さんの位置というのは、そんなによいものではなかったのですか。
田中:ええ。敬して通ざけるというところでした。うるさいからです。特に酒を飲むと悪かったね。よく同人と喧嘩をしたんです。
杉山:朔太郎は、伊東さんを高く評価したわけでしょう。
田中:ええ。『わがひとに与ふる哀歌』を読んで、自分の後継者が出来たと言って、たいそう喜んだんです。伊東の詠は敗北の詩だったから、それが朔太郎の気に入ったのだと思います。
杉山:伊東さんは『コギト』の中では……。
田中:別格だったね。『日本浪曼派』詩人と言ったほうがいいかもしれませんね。
杉山:『コギト』で出発して有名になって、『日本浪曼派』へと。
田中:ええ。『文芸文化』も非常に高く買っていましたね。僕が一番たくさん書いたのですが、次が伊東です。だから、十五年に文芸文化叢書の一冊として『夏花』を出したんです。 伊東が紹介してくれて出版したのが、子文書房の『大陸遠望』ですよ。
杉山:『わがひとに与ふる哀歌』の評判は。
田中:非常によかったですね。『コギト』に載せた詩をまとめたのが『わがひとに与ふる哀歌』ですよ。
杉山:伊東さんは肺結核で亡くなりましたね。
田中:新制の阿部野高校の教師になったのだけれど、仕事は面白くなかったそうですよ。僕が危篤だという報せをうけて、保田に頼まれて見舞いに行ったんですよ。 すると奥さんが下の世話をしたところで、病室に案内されて顔を見て、「伊東さん、どうだい。」と言ったら、「あなた、相変らず怒っているかい。」「喧嘩しているかい。」などと言ったよ。 皮肉だったね。それが最後の言葉だったね。二十八年になって死んだのだけれど,葬式にも行ったんですが、既に棺も出てしまったところでした。なぜか僕とはちぐはぐな感じが残っています。

田中克己

詩人 田中克己

 文学の芽生え
杉山:田中さんは大阪生まれですね。
田中:そうです。僕は現在阿倍野区天下茶屋、昔は天王寺村と言ったところで生まれました。明治生まれです。
杉山:田中さんは、母上の姓を継がれましたね。
田中:はい。父は西島喜代之助で、大阪の浪速区の生れ、母はこれんと言って淡路島の出身です。父は長男で,毋は戸主。それで田中の姓を継いだのです。 田中家は淡路島の賀集(かしゅう)村、今の南淡町賀集にあり、先祖の墓もそこにあります。
杉山:母上は、田中さんが幼少の頃に亡くなられましたね。
田中:はい。私が四歳の時でした。
杉山:随分幼くして母上を亡くされたわけですね。
田中:ええ。その後、何人かの女性が、入れ替わり立ち替わり僕の母になるべくやって来ました。随分と復雑な気分になったことを覚えています。
杉山:お父上は、何をしておられたんですか。
田中:はい、銀行員でした。父は、短歌をよく作りました。丸岡桂の『勿告藻:なのりそう』から、佐々木信綱の『心の花』まで、よく投稿していました。自分でも作りましたし、 母も作りました。そうして母が死んで十数年たってから、父は遺稿集を出版しました。『廉子遺稿』です。 今も大切に持っています。

   遺児三人抱きて君の泣きたまふ日をのみ思ふかなしき夜かな

    は、最後の一首です。
杉山:田中さんは、母上死後は継母に育てられたわけですね。
田中:そう。でも、その母親が意地が悪かったんです。僕が悪いことをするでしょう。そうすると、僕をすぐには叱らずに黙っていて父親が帰って来ると細かく言いつけるんです。 実に陰険でしょう。親爺は酒飲んで腹を立てて僕を殴るわけですよ。こんな形で継子いじめをされたんです。まだこの母は92歳になって生きています。僕、恩給の中から毎月一万円ずつ仕送りしているのですよ。
杉山:随分と律儀ですね。
田中:はい(笑)。まじめでしょう(笑)。
杉山:しかし、そのあたりに文学の芽生えがあったのでしょうね。
田中:ええ、そうではなかったかと思います。僕の代表的な歌が生まれたのもこの時です。

    このみちをなきつつわれのゆきしことわがわすれなばたれかしるらむ

    この歌を、父は、日記帳に書いていたんですね。親爺も僕の歌に感動したんですね。
杉山:その時代に、どんな本を読まれたのですか。
田中:瑕で仕方がなかったので、鷗外の『美奈和集』や『即興詩人』を読みました。『即興詩人』は暗誦するくらい読みました。それから高山樗牛全集も読みましたね。 その中にハイネを訳したものがあって、僕は、ハイネが非常に好きになったんです。それに杜甫も好きでしたねえ。
杉山:既にその頃に浪漫主義の芽生えがあったのですね。
田中:まあそういうことになりますか。
杉山:で、高校大学と進まれたわけですが。
田中:ええ。しかし、親爺は、僕に経済学の勉強をさせて、銀行家にさせたかったんですよ。

田中

杉山:そうでしたか。でも結局はそうならずに……。
田中:そうそう。高校で『R火』を始めて、歌に入ったわけです。
杉山:最初は歌人を目ざされたわけですか。
田中:はい。最初に作ったのは歌でしたね。『アララギ』にも二首載ったことがありますよ。皆がびっくりしましたねえ。
杉山:そんな田中さんがどうして東洋史学科に入られたのですか。
田中:だって、僕の父方の祖先は秦の始皇帝※ですもの。父方は帰化人、母方は淡路の海女でしょうね。なぜか非常に中国が好きだったんです。専攻は台湾史。 当時は誰もやる者がなかったんですよ。主任教授も専門違いだから、とてもやりやすかったんです。(笑) (※HP注:「始皇帝の末裔」)
杉山:はい。そこで『コギト』の同人達と出会うわけですね。
田中:そうです。一年遅れた肥下と会いました。保田、薄井、服部は一緒になりましたが、中島と松下は、哲学を学ぶために京都大学へ行きました。
杉山:ところで,田中さんは、抗議集会で拘留されたことがあると聞きましたが……。
田中:はい。昭和七年の二月に「帝国主義反対」の集会に参加して、警察署の暴行が目に余ったので抗議したんですね。そうしたら留置され、坂本署に移されました。 そこに山県警部という、あの中野重治を吐かせたという奴が来て、「中野はウナ丼一杯くれたら吐くと言って吐いた」と言ったので、僕も吐いたふりをして書いたんです。 既に家も家宅捜索してあって、教室で配られたビラなんかも全部ありました。そうして、そのビラや蔵書についてひとつひとつ出所を聞くわけ。それを言わないと帰さないと言うので、 吐いたふりをして、友人の名前を午前三時までかかって書いたんです。もっとも共産党員だった橋本という男の名前だけは書かなかったな。捕まってはかわいそうだもの。橋本は、卒業してすぐ死にました。
杉山:信義を通されるのは田中さんらしいですね。
田中:僕はね、彼に毎月五円やっていたんです。
杉山:カンパですね。
田中:そう、資金援助でしょうね。
杉山:そのすぐ後ですね。『コギト』が出たのは。
田中:はい、三月です。「何かする、創る」ということに飢えていたんだと思いますね。僕達は、それを「考える文学」を創造することに向けたんです。僕は、最初は評論家を目ざしたんですよ。(笑)
杉山:大学を出られると、大阪の中学校の教師になられましたね。
田中:はい。大阪国学院浪速中学校です。給料は五十円から九十五円になりました。
杉山:御結婚はその頃でしたね。

 堀さんのこと

田中:はい、昭和十年です。その年ですよ。堀さん(堀辰雄)が『四季』に入らないかと勧めてくれたんです。とても嬉しかったね。
杉山:堀さんが田中さんの詩を見つけて誘われたわけですね。
田中:そうそう,僕は堀さんが一番好きです。素晴らしい人ね。堀さんも前から僕のことが好きだったようです。というのは、あの人は中国文学が好きなんです。特に杜甫は好きね。 僕も杜甫が好きだから非常に合ったんですね。
杉山:翌十一年に同人になられたんですね。
田中:そうです。神保(光太郎)宛の手紙に残っているんですが、「田中君を大阪に一人おいておくとよくならないから入れよう。」と言ってくれたのです。
杉山:よくならない、と言われた理由は。
田中:はい。実際によくならなかったのです。翻訳ばかりして、詩を作らなくなったからです。
杉山:田中さんのことを心から心配されたんですね。それに東京の方がいろいろと剌激を受けるということもあったのでしょう。
田中:そうでしょう。有難いと思います。しかし、東京に出て苦労しました。小高根太郎が中大生の家庭教師。ドイツ語のですが、それで三十円。 鈴木俊先輩が法政中学の教師を見つけてくれて三十円。合計六十円ですが、九十五円でやめて上京したのだから非常に大変でしたね。家内のところに仮住いしました。
杉山:堀さんという方は、実に素晴らしい方でしたね。
田中:そうですね。僕が軍属として南方に行って居ない問、留守宅に見舞いに来て下さったのは堀さん一人だけでしたから。しかも咳をしながら……。 堀さんや立原の手紙は四通しか残っていません。
杉山:どうされたのですか。
田中:大垣国司(くにし)という男がいたんです。僕の唯一人の弟子なんですよ。『コギト』と『四季』の両方に書いていたんですが、この男は兵隊で、上司の許可無くしてものを書けなかったので、 僕が大垣菊男という筆名をつけて載せてやっていたんです。彼にね、僕が出征する時に後事を託して行ったんです。そうしたら、僕宛の朔太郎からの手抵などを全部懐中に入れて歩いて、 宇都宮の実家に預けたんですね。ところが、それが戦災にかかり、皆燃えてしまったんです。
杉山:それは惜しいことをしましたね。
田中:はい。大垣は、昭和二十二年に宇都宮の精神病院で殴られて死んだそうです。
杉山:そうですか。
田中:ええ。堀さんの手紙で、僕を『四季』の同人に推薦するからというのも焼けてしまったし、一番大切にしていた萩原朔太郎の遺影も懐に入れておいてなくしたと言うんです。 堀さんの思い出は尽きませんね。最近では『東京四季』の二十九号に書きました。堀さんの葬儀には出席できず、

  浅間山みねの煙のいつまでもゐますときみを思ひしものを

  と弔電を打ちました。僕は、堀さんを心から敬愛していました。今でも多恵さん(堀辰雄未亡人)と親交が続いており、電話が来たり、 原稿を書いたりしてもらっています。
杉山:東京に出られたのは十三年のことですね。
田中:そうです。あんまり後先のことは考えず、家内の実家に住むことにして、 退職金を全部『西康省』につぎ込んでしまいました。
杉山:『コギト』と『四季』の詩人田中克己の大阪土産ですね。
田中:ええ。百五十円で百二十部刷りました。現在の中国には西康省という省は消えてしまいました。この「西康省」はプロレタリア詩集にも載りました。しかし、 あれは「今は資本家が金を出さない。今に国家がそれを使う」という国家共産主義です。(笑)
杉山:序に、「この道を……」が載っていますが……。
田中:保田がぜひ載せろと言うので載せました。

 朔太郎と達治

杉山:『西康省』の出版記念会には随分著名な方々が集りました。
田中:ええ。これが出席者です。(小冊子を取り出される。) 岡本かの子、宇野浩ニ、佐藤春夫、 朔太郎と三好達治、それに肥下、保田、薄井、立原、丸山などです。会を開いてくれたのは保田です。三好達治の紹介で佐藤春夫の門下に加わったのもこの時です。
杉山:朔太郎という方はどんな方でしたか。
田中:酒が好きだったね。戦争中も僕は酒を飲まないので、配給の酒を持って行くと非常に喜びました。朔太郎は、上州の出身だけれど、お父さんは大阪。朔太郎は、 故郷に入れられないと憎み、嘆いたけれど、当り前ですね。だって本来大阪人なんだから。
杉山:そう言えば竹中郁さんが、朔太郎の詩には大阪風のリズムがあるとおっしゃってましたね。
田中:そうですよ。
杉山:私が田中さんや朔太郎に初めてお会いしたのは、『四季』の「パノンの会」(東京日比谷にある喫茶店の名で、パノンスが実名)でした。
田中:そうでしたね。あの席上で朔太郎と話す人が誰もいないのですよ。仕方なく僕が話し相手となりましたが、僕にね、漢詩の韻や平仄について聞くんですよ。難儀したね。 あまり学問的なところは知らなかったわけですね。それでいてあんな立派な詩の理論を書くのだからたいしたものです。
杉山:朔太郎という方は、いかにも詩人らしい風貌を持った人ですね。
田中:はい,そうでしょうね。僕たちある日言われましたよ。一緒に道を歩いていると、向こうから女が来る。ずると,朔太郎は,「田中君、あの中で誰が一番美人だと思う。」と聞くんです。 僕が「見ていない」と答えると、「君はよくそれで詩が書けるね。」と言われましたよ。(笑) 朔太郎は、その時五十何歳です。詩人ってそんなものですよ・・・朔太郎は、ほんとうの詩人だったねえ。
杉山:三好達治という方は。
田中:そうですね、難しい人だったね。でもとても着物好きでした。堀さんは着物は大嫌いでした。二人の性格の違いが表われてますね。
杉山:そうですか。
田中:三好達治はね、佐藤春夫の姪と離婚して、初恋の人だった萩原葉子さんの叔母さんと結婚したんですが、殴って、蹴って、離婚して……それから佐藤春夫とも喧嘩して……。
杉山:そうでしたね。確か奥さん(佐藤春夫の姪)のことで。
田中:このバカヤロウなんて言いに行くんだもの。それに較べると僕なんかほんとの詩人と違いますね。(笑)
杉山:しかし、三好さんは、田中さんを高く評価されておられたんでしょう。
田中:ええ。非常にかっていてくれましたよ。でもね、……そうですね、僕がクリスチャンになった時からだと思いますが、話をしてくれなくなりましたね。顔をそむけたこともありましたね。

 戦争へ

杉山:『大陸遠望』は十五年ですね。伊東静雄の紹介で・・・。
田中:はい。この詩集は蓮田善明に捧げました。
杉山:蓮田善明という方は、どんな方なのですか。
田中:『文芸文化』の同人でね、終戦と同時に、そういう詔勅が出たことは信じられんと言って、連隊長を殺して自殺した男です。非常に強い男でしたね。
杉山:昭和十七年に軍属として一年くらい南方へ行かれましたね
田中:シンガポールにまず行きました。私の留守中に保田が名づけた『神軍』という詩集が出ました。 この題名はまずかった。そういう詩が中にあったですよ。何が神軍なものですか。僕は、その時に大東亜共栄圏を撮る映画班を案内して赤道の向うまで行きました。
杉山:で、ずっとシンガポールに。
田中:いえ、幸いなことに近衛師団付きに左遷されて、ワ二やトラがいるから恐いというスマトラのメダンという町に行きました。数ヶ月いましたが、いい町でした。 僕は、英、独、仏、伊と外国語をを勉強したんですが、何か一つマイナーランゲージを勉強しなくてはと蒙古語もやり、ここではインドネシア語を学びました。三ヶ月もすると、 インドネシア語でものを考えている自分を発見しました。向こう側から兵隊が来て、何部隊はどこですか、なんて聞かれると、咄嗟にインドネシア語で答えちゃうのですね。 するとその兵隊は、何だ日本人かと思ったのに、と不思議な顔をして行ってしまうのです。(笑)おもしろいでしょう。
杉山:田中さんは語学の天才ですね。
田中:いやあ、そんなことはありません。一番難しいのは日本語の標準語ですねえ。(笑)
杉山:そこで交通事故に遭われたとか。
田中:イスラムのラマザン(断食季)があって、断食をするんですが、その終った次の日は陽気に酒を飲んで騷ぐわけ。中国人が僕にビールを一ダースくれたので飲んだのだけれど、 酒飲むと食いたくなるでしょう。ヤキソバを食いに行こうという話になって、車に乗せてくれたのが朝日新間の支局長。道路もガソリンもいいので、 百二十キロで飛ばして目を覚ましたのが一週間後。(笑)自分では記憶がないのだけれど、見舞品をたくさんもらったけれど看護兵に気前よく何でもやったらしくて、 気がつくとサルマタ一枚よ。(笑)腹が減ったので、インドネシア人のボーイとヤキソバを食いに行ったよ。これが無断衛外脱走。次の日からは同時入院の将校二人が私の監視役に廻ったのよ。(笑)
杉山:その年に帰国されたわけですね。
田中:はい。この時のことは『宣伝中隊』に書きました。『祖国』という雑誌です。帰って来てから、僕は次男を殺しました。
杉山:・・・・。
田中:あの頃は男の医者が軍医にとられて居なかったのですね。次男の具合が悪くて女医に見せたんですがね、ひきつけを起こしていたのを肺炎と診断したんです。 ところが本当は疫痢でね。手遅れになってしまったんですよ。新宿の避病院で死にました。
杉山:『悲歌』はその時の詩集ですね。今も大切に持っています。
田中:妻に内緒でね。出版社に金を何とかしろと言って出しました。出来上がってから妻に見せましたが、あの時は本当にしんどかったなあ・・・。 日本が必ず負けること、天皇が現人神でないことも知りました。
杉山:兵隊にとられたのは。
田中:二十年の三月です。中部二十三部隊(三十八連隊)に配属されました。保田も同じ区割りでね。保田と僕を一緒に召集したんですよ。ひどい時代ですからね、 もう一杯おいしいコーヒーが飲めれば戦争に負けてもいいという人もいましたね。
杉山:すぐに終戦ですね。
田中:敗戦ですね。喜びましたよ。もう命令されなくてもいいと思ったけど、違ったなあ、軍規が残っていたんです。上官の命令は朕の命令と心得べしの「朕」がもういないんですよ。 それなのに依然として殴られ、服従させられました。腹が立ちましたね。
杉山:敗戦後はどうしていらしたんですか。
田中:『神軍』という名をつけた詩集でミソをつけてしまったので公職にはつけないかと思っていましたが、和田清先生の紹介で外務省、それから杉浦、服部の紹介で天理図書館に勤めました。
杉山:ずっと天理図書館に。
田中:いえ。二十四年に、もと台北高校の松村教授の紹介で滋賀県立短期大学教授に任じられ、彦根に移りました。ところが、そこが寒くて、寒くて(笑)。伊吹おろし、湿気も多いし、 雪も降る。関節炎と喘息、リュウマチに苦しみ、早く引っ越したいと思いました。だから翌年帝塚山学院短期大学に呼ばれた時はほっとしました。寒いのは苦手です。 この彦根で私が作った詩誌『詩人学校』は今でも続いていますよ。時々原稿も書きます。
杉山:田中さんが関係された詩誌はそのほかに。
田中:依田義賢らと一緒に出した『骨』、小高根二郎、福地邦樹と出した『果樹園』がありました。今は二つともありません。

 著作のこと

杉山:田中さんの著書はどのくらいになりますか。
田中:二十冊程ですね。最初は『青い花』(十一年)です。
杉山:ノヴァーリスの。
田中:でも難しかったね。es(ドイツ語の代名詞、英語のイット)がどこにつくかわからなくてね、誤訳だらけよ。(笑)
杉山:その次が十三年の『西康省』ですね。あんなに立派な和本仕立の詩集はどこにもありませんね。 あの詩は『コギト』に載ったんでしょう。
田中:はい、一度に載せました。中国と戦争をしている時に、相手の郭沫若をほめてるんです。僕がいかに中国魂か、大和魂と違いますよ(笑)、を持っているかわかるでしょう。(笑)
杉山:あのような二百行もの力作を載せるのは『コギト』以外にはなかったでしょうね。
田中:はい、はい。茂吉があの詩集を和漢洋が混在する詩集とほめてくれました。
杉山:しかし、先生は詩人としてはもとより、学者として知られていますね。
田中:よく論文も書きました。研究所員の時代が長かったですからね。ツングースのこと、蘇東坡のこと、李白と杜甫、白居易、それに『僊界考』も書きましたね。
杉山:随分たくさん書かれていますね。立派な博士論文です。
田中:でも、やはり僕は詩人ね。李白や杜甫が好きだもの。特に杜甫は大好きです。
杉山:田中さんの著作は李白が多いですね。
田中:あれはね、杜甫を書く人は山程いるからと杜甫を書かしてくれないからです。でも僕に李白はわかりませんね。だって、僕は酒を飲まないし、道教のことはわからないもの。 戦争中、ずっと杜甫の詩ばかり読んでいました。
杉山:田中さんの性情と似るところがあるのでしょうね。
田中:そうですか。(笑)
杉山:『楊貴妃とクレオパトラ』も書かれましたね。
田中:(笑)僕が論文のつもりで書くと小説にされちゃうんですよ。『楊貴妃伝』なんかもそうですが、あれは楊貴妃の一番正しい伝記ですよ。 ところがそれを小説だと言われるんですよ。(笑)
杉山:そう言えば、田中さんは、初期に『多摩川』という小説を書いてらっしゃいますね。
田中:『コギト』の第十一号です。家内になる少女と多摩川べりを歩いていた時のことで、土方から罵声を浴びせられたんです。いろんなこと言われてきつかったなあ。
杉山:それ以降は書かれなかったのですか。
田中:ええ、僕は、森鴎外が好きなんだけれど、あんなのはどうも書けませんからね。(笑)
杉山:昭和三十年代になると……。
田中:ええ、東洋大学の教授になりましたが、子供は四人いるし、とても経済的に厳しい時代で、僕は要領が悪いから、後先のことをあまり考えずに辞めてしまうのです。 それが悪いのですね。よく、田中は大学で何を勉強したんだ、などと言われました。要領の悪さが一生ついてまわりましたね。とにかく貧乏しまして、家内も働きに出ました。 僕もたくさん安月給の講師を一年間しました。
杉山:それから成城大学に・・・・。
田中:文芸学部の教授になってから、生活もやっと安定しました。
杉山:以後ずつと成城大学ですね。
田中:五十七年三月にやめ、名誉教授にしてもらい、現在は恩給で暮らしています。

 クリスチャン・田中克己

杉山:ところで、田中さんはクリスチャンですね。
田中:はい。日本キリスト教団吉祥寺協会に属しています。もう二十数年前にクリスチャンになりました。
杉山:どうしてクリスチャンになられたのですか。
田中:父の死と安保条約がきっかけでした。
杉山:どういうことですか。
田中:父は医者と坊主が大嫌いでしてね。俺が死んだら骨は大阪湾に流せって言っていたんです。医者が嫌いだから具合が悪くても医者へは行きません。 腹具合が悪くてやっと医者を通したときには、もう手遅れでした。僕は、これには非常に激しいショックを受けましたね。
杉山:……。
田中:それから新安保の時、大体けしからんじゃないですか。他の国の武力で自分の国を守ろうなんて。もう核兵器の時代だから、一層ナンセンスですがね。あの時、僕は、 教師をしていた聖心女子大学で学生に詰問されたのです。「先生は新安保に賛成か、反対か。」と。その時に僕は、「僕の思ったとおりになったら、君達のようにクリスチャンになる。」と約束しました。 私の言うとおり、新安保は通過したが、アイゼンハワーは来なかったのです。そこで私はクリスチャンとなりました。私は、あの時はずっと人間不信に陥っていたのです。
杉山:今はどんな詩をお書きなのですか。
田中:はい。僕は、八木重吉に負けないようなキリスト教の詩を書いています。これで何冊目になるかなあ。 (本堋から瀟洒な詩集を取り出される。)どうですか、いい詩でしょう。
杉山:讃美歌のようですね。
田中:ええ、僕が訳をして、皆で歌いますよ。
杉山:田中さんの詩は、究極では宗教詩に行き就かれたのですか。
田中:そんなこともありませんが、現在はこれを書いてます。
杉山:昨年の暮れに(実際は今年一月発行)『四季(第五次)』を始められましたね。素晴らしいエネルギーですね。
田中:今度三号を出します。三号は「終戦記念号」となります。
杉山:終戦記念ですか。
田中:珍しいでしょう。終戦特集を出す雑誌なんてどこにもないじゃありませんか。今、僕はそれをやります。
杉山:いかにも田中さんらしい。反骨精神が漲っています。
田中:堀さんのことを思って、生きている限り『四季』は続けます。
杉山:すぐれた若い人がたくさん入ってくれば、『四季』は長く続くと思いますよ
田中:やはり詩の本質は抒情詩にあると僕は思います。現代詩は、とにかく無茶苦茶ですよ。
杉山:では、田中さんは、現代詩のアンチテーゼとして『四季』を出し続けられて行かれるのですね。
田中:はい、そのとおりです。

 それぞれの師

杉山:田中さんの詩は、朔太郎から出発したのですか。
田中:いいえ。安西冬衛の韃靼海峡から始まったのです。素晴らしい、印象的な詩でした。
杉山:ええ、いい詩ですね。
田中:それから西脇順三郎の『Ambarvalia』ですよ。これも素晴らしいギリシャの詩。僕は、非常に影響をうけてギリシャ的な詩を書きました。真似したんですね。
杉山:そう言えば、田中さんの詩にギリシャ的なものがありました。それでは、 田中さんと西脇さんが汽車の中で一言もものを言わなかったというのは、そんなことが。
田中:(笑)お互いに向い側の席に座って、向うもものを言わない。僕も何も言わない。萩原葉子さんが難儀しましたよ。アイスクリームなどを食べさせたりして、 仲をとりもとうとしたのですが。結局上野から前橋までどっちももの言わずにしまったんですよ。(笑) あの人も変なおっさんだったね。この間死にましたね。
杉山:歌の方は「アララギ」ですか。
田中:いや、木下利玄です。
杉山:文章の方は。
田中:はい。高山樗牛と森鴎外でしたね。
杉山:『即興詩人』でしたね。私も誰かの訳で読みましたが、どうもいけません。鴎外の訳は原文よりもいいくらいです。あの文体を暗誦したら随分いい勉強になると思います。
田中:そうです。いい教材になりますよ。
杉山:俳句の方は全くやりませんか。
田中:はい。だって季語をとったら残るのは何語です。やはり第二芸術ですね。短歌にも季語を入れたらつまらなくなるでしょう。

『コギト』の意味

杉山:で、田中さんにとって『コギト』とは何でしたか。
田中:正に青春そのものでしたね。『コギト』なしに僕は考えられないし、僕なしに『コギト』もなかったと思います。『コギト』の生き残りは僕だけになったけれど、 現代にももう一度「コギト•エルゴ•スム」の意味を生かしたいと思うね。現代は平和そのもののようですが、当時と変わらない気さえすることがあります。戦争と核兵器。 やはり、よく「考える」ということがもっと叫ばれなくてはならない時代だと思います。この意味で『コギト』の復刻は意味があるのではないでしょうか。
杉山:そのとおりですね。

 教育論

杉山:最後になりましたが、この雑誌は全国の教職員向けの雑誌です。田中さんは、長い教師経験がお有りですので、 ぜひその教育論をお聞かせ願いたいと思います。
田中:はい。とにかく生徒は、先生を尊敬しなくてはいけないし、先生も生徒から尊敬される存在でなければいけないと思います。誰かのために勉強していると考える現状ではいけないと思います。 先生も自分にも厳しくなくてはいけませんね。生徒が欠伸をしたら、それは僕の責任だと言って、僕は講義をやめましたね。
それから叱ることも大切ですね。親も子供も先生に甘え過ぎるところが問題なんです。真剣に叱る。それは憎まれるし、嫌われますよ。でもね、真剣に叱った生徒は必ず付いて来る。 昔、中学で僕がゲンコツをくれた生徒達は、いつでもクラス会に出て来ますよ。
杉山:よいお話ですね。教師像のようなものを。
田中:とにかくPTAに左右されないこと。あまり親の顔を見て何かをするようではいけない。自分自身の考えをもって筋を通すことです。そういった個性的な先生が望まれると思います。 画一化された現在、先生も画一化されていますから、先生方には個性をもって頑張ってほしいと思います。個性ある先生には生徒は必ず付いてきます。
杉山:そうですね。
田中:自分自身のしっかりした考え方をもって行勤する。総理大臣や文部大臣が何を言ってもダメですよ。そんな気概がほしいですね。
杉山:私は田中さんがもつと世に知られなくてはならないと常々思います。その意味で『コギト』の復刻は意義あることと喜んでいます。いつまでも御健康で。 またの御活躍を期待しております。貴重なお話をありがとうございました。
田中:こちらこそ。どうもありがとう。(完)

後記
 田中克己先生のお住いは国電中央線阿佐ヶ谷駅から七、八分の、閑静な住宅街にあり、お庭から山鳩の声も聞こえました。その先生のお宅に、本誌のために大阪から杉山平一先生がご足労くださり、 博覧強記の田中先生から『コギト』に関するいろいろと貴重なお話を引き出してくださいました。
 両先生のお話は、古今東西にわたり、縦横無尽に展開されました。両先生の対談以降不足する部分は、田中先生に再びおうかがいし、補足しました。 『コギト』という優れた文芸誌についての対談は今までになかったと思いますので、興味のある読みものになったと思われますが、読者諸兄が不満な部分など感じられましたら、 それはまとめ役のまずさとご寛容いただければ幸です。  『東京四季』同人 山田雅彦

HP管理人付記
 編者の山田雅彦氏が語ってをられるやうに、気分屋で好悪のはげしい田中克己先生の“聞き出し”役として、これ以上の人選は考へられず、特に戦前戦中の細々とした人脈事情を、 呼び水を注しつつ引き出すことのできるひとは杉山平一先生を措いて居なかったやうに思はれます。機嫌よい日の田中先生ならではのリップサービスや、 それも織り込み済みで話を進めてゆかれる杉山先生の大人ぶりが眼前に髣髴とするやうです。なかでも杉山先生が何度となく同情を禁じえないといふ態度で聞き込んだ感のある肥下恒夫氏、 その祥月命日に合せるかのやうに今回のテキスト起こしがなされたこと。未見の評伝の存在とともに作業中に私はこれを知り、 粛然といたしました。茲に併せて雑誌『果樹園』に載せられた追悼文を掲げます。(2015.3.18)


肥下恒夫を哭す (『果樹園』第75号 昭和37年5月)  田中克己

 三月二十一日、小高根太郎邸から夫婦で帰つて来て、一服すると電報「ツネオシスシラス」ヒゲ」とある。 肥下恒夫には昨年の九月これも夫婦で会ひ(※HP注:昭和36年9月25日)、わたしはともかく家内は昭和二十年以来なので、 その日焼けした顔を眺め、元気だと思つたが、焼酎をそばからはなさないといふのには心配したといふ。それで脳溢血による急死かときめで、同窓の諸君、コギトの旧同人に通知する。 元検事、いま弁護士の丸三郎からは夫人に届けてくれといふ香奠とともに次のやうな文章が来た。

 「肥下君とは私的の交わりは薄かつたが、終生を善意で過ごした人として敬意を表します。善意の大人だつただけに時代の激変に処して薄倖な人だつたと思ひます。 未亡人が御気毒だと思ひます。肥下君に関する個人的な追憶――高校二年になつた、学期始めの日に着席すると隣の席に色の白い長髪の男がおとなしやかに坐つていた。 僕の進級はビリだつたので以下はない筈と不思議に思つたが、それが上級から病気で一年おくれた肥下だつた。 非常に親切で色々な学科について前年度の書込みのある教科書によつて僕に教えてくれた。僕はヒゲと呼び得ないのでヒゲサンと呼ぶことにした。(中略)
その頃野球部の連中は伊藤の健ちやんのおごりで翠光園という、今で云うバーへ屡々行った。或る日その店に行つたら小柄な美人が居て「あんた大高?ヒゲさんて知つてはる?」ときかれた。 その子は光チャンと云つたと思う。それから教室の廊下で肥下に「ヒゲさん相当なもんやな。翠光園のミッチャンがよろしく云うとつたで」と云つたら、 肥下は何も云はずにニヤニヤ笑つていた。

肥下恒夫

 それから僕らは二年ほどして東京に来ていた。何かのことで田中の下宿から肥下さんの新家庭を訪問した。ところが紅茶をもつて現れたのは、何と翠光園の光チャンではなかったか。(中略)

 大学では学生服を着た肥下さんは見たことがないが、当時の学生としては珍しかつた背広を着てにこやかに寡黙であつた。肥下さんの姿は今も眼にうかぶ。(下略)」

 法科の丸とはこれで縁が切れるが、わたしはこのあとの肥下を書かずにはをれない。中野区大和町二五二が昭和六年以来の肥下夫婦の住居で、ここに集つて同人雑誌を出す相談をし、 その名は保田のいひ出したコギトときまつたあと、昭和十九年まで、肥下夫妻はすべての雑務をやつてくれた。肥下はそのころ大金持ちで、 毎月一五〇円ををコギトに投じてのこりを同人費で賄ふこととしたが、原稿次第でページ数は問題にしなかつた。しかも横光が好きで、それに負けない好い作品を書くのだといつてゐた本人は、 すこしも書かないで雑務に追はれてゐる。肥下の顔を見るたびにすまない気もし、たびたび説教をした(これがわたしの悪いくせである)。

 戦争末期、サイパンの落ちる直前、出版会から、群小雑誌は統合する、きかなければ紙の配給をとめる、といつて来た。肥下はそれを承知して、「かういふ時勢だもの 」、といふ。 わたくしはそれに反対して、荒い言葉をつかひ、一旦はわたしの説に屈服さしたが、も一度考へ直して肥下が訪ねて来た。わたしは肥下の申し分をきくと、 「本日以後コギトは脱退し、君とは絶好だ 」と申しわたした。その時の肥下のうしろ姿がいまも目につく。
この絶交は二人ともに応召、復員、関西ずまひ、失意と共通の条件がそろつてから、わたしがわびにいつて直つたことになるが、肥下が死んだいまとなつては、 やはりとり返しがつかないと思ふ。肥下が自殺を決行するまで、私は好い友達でなかつたとくやまれてならない。いづれくはしく書く。  『果樹園』第75号 昭和37年5月

(2015.03.18 update)。


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