(2006.11.27up)
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たなかかつみ【田中克己】散文集


【小説】 多摩川

 新宿を出たときは混んでゐた電車も、晋たちが降りるときにはもう四五人しか残つてゐなかつた。晋たちと親子づれの人達が降りると、 電車は雪のまだらに残つた丘の方へ走り出してゐた。晋は眞冬(みふゆ)と階段をだまつて降りて行つた。改札口を出ると眞冬はどんどん反対の方向にゆかうとするので、晋は、

「おいこつちだよ。」

 と云ひながら眞冬を、羞しがつてゐるなと思つた。さういふ晋自身も改札の男の顔は見ないで通つたのだつた。いつも人のゆきかふ街でばかり知つてゐたお互と、 何だか勝手がちがつて途方に暮れたやうな態だつた。そんなふたりには、一緒に降りた家族連れが、も一つの電車に乗る方向へゆき出したのを、 見ないでも感じで知つて安心したやうな気持を味はつた。ふたりが葉の枯ちた梨畑の間のうねうねした道を堤の方へ歩いてゆくとき、晋は何かを話し出さずにはゐられなかつた。 云ひたい大切なことを何うかするともう云ひ出しさうなので、無理に慌てるな、おちついてと自分で押へながら、晋はこれは梨畑、これは牛とわざとおどけて見せてゐた。

 多摩川は堤に登つて見るとまつ白い磧を露出してゐた。河原のこつち岸よりに一筋の水が申し訳けばかり、しかし、しみとほるほど楚々と流れてゐた。 思ひなしか電車を降りたときよりも陽はかげつてゐた。砂礫採集工事の起重機が遠くの方にぽつねんと立つてゐて、そのあたりで子供が小く二三人集つてゐる。 ふたりとも大変気に入つて了つた景色だつた。

 晋は故郷の風物に似たこの景色からの連想で、語り出してゐた。もうそのころにはさきの落着かぬ気持は大分なくなつてゐた。

 「僕の小かつた頃の思ひ出といふと、きつと思ひ出す景色がこんな景色なのだ。僕たちはさつきの人達やうに親子四人──父と母と妹とで──赫土の露はれた崖の前に立つてゐる。 僕たちのゐる所は小高い土堤で崖との間には水が流れてゐたと思ふ。何といふことなしに四人でだまつて赫土を見てゐると、陽が急にかげつたり照つたりしてゐた。 その景色を思ひ出すたびに僕はしめつぽくなるんだ。何処でのことだかは勿論わからない。」

「そのお母さんはもうなくなられたんでせう。」

「さう、白いショールをしてゐてね。」

 それは意味のない話でもあつたけれど、眞冬と故郷の父とを結びつけて考へさせた。晋は眞冬をもうずつと前から配偶者と決めてるた。眞冬もだから晋の親たちには無関心ではゐられなかつた。 晋はそれを感じ出すともう父を考へるのに眞冬のことをくつつけて考へ出す。眞冬に気に入つて欲しい父を頭の中で考へてゐると、怒つた時の父の醜い顔などがこんぐらがつてゐたたまれぬ気持になる。 父を可哀想だとも思つた。晋自身がもうぢきその頃の父と同じ位置になるのだと、何故だか淡い悲しみを感じ出してゐた。

 ふたりはさうした中にも林の中へ入つてゐた。枯れた笹や蔓草が足や胴にさわつてざわざわ音がした。林の奥で枝を折る音がしきりにした。

「今は柴をとる時なんだ。」

 つまらないことを云つたと晋は苦笑した。それは田舎出の青年が都会生れの少女に米の生る木を教へる調子だつた。

 しかし眞冬は東京で育つた子にちがひなかつた。蛇が出るかも知れないから先にゆけと脅かすと、でも冬眠してゐるんでしょ、と小賢かしく答へる程度の女の子だつた。 もう問題に触れてもいい頃だと晋は思つた。眞冬の腕をかかへると他愛なくついて来た。細い路なのでどつちか一人は薮の根つこを踏みながら歩かねばならなかつた。

「で、君のお父さんは何う云つた。」

 自然に声が硬ばつた。

「別に反対はしないのよ。あなたのことも大ざつぱに聞いただけで、結婚したいのならすればいい。 しかしいままだ行先のあてのない学生でははつきりしたことはきめない方がいいと云ふの。わたし、それ丈云はしただけでも成功だと思ふわ。」

 眞冬は晋をなだめる調子で云つた。晋はやはりと思つて黙つてゐた。

「あなた、もう二年で学校おしまひでせう。だからそれから云つて来てもおそくないつて意味でせう。」

「ではそれまで君とこへ来る縁談は何うするんだ。現に別所君からも、もう云つて来てるぢやないか。」

「わたしがいやといへばおしまひぢやないの。別所さんなんて、此間からわたし、あの人の事が少しでも出ればきつと席を立つてやつたからもう誰も云はないわよ。」

 林の中で赤い帽子を着た田舎の小学生が二三人、何かしてゐた。みんなふたりの方を見てゐた。無表情な顔をしてゐた。二人はしばらく話をとぎらして笹の茎を折つてもつて歩いた。 林が尽きた。夏に月見草などの咲くやうな広い野原でところどころに菜つぱが作つてあつた。枯草の倒れた間に此間降つた雪が冷いと云ふ感じもなく、結晶のやうに固まつて残つてゐた。 向ふの小松原から甲州辺の行商人とでもいつた様子の男が出て来て、晋たちの方は見ないで行つてしまつた。ゆきすぎてしばらくしてから、 晋がふりかへると男は立小便をしながらこつちを見ててゐた。又やり切れない気持になつて来。晋はまた現在の大学の就職率のはなしからはじめねばならないのかと眞冬がもどかしくなつて来た。

「僕はさ来年の三月に間違ひなく卒業する。そのことだけはたしかだ。勿論学士にもなる。しかし君のお父さんも知つてゐるだらうが、大学生はとても就職率がわるいのだ。 それに就職出来ても結婚して、又その上に一家をもつまでには普通のやり方では三十を越えなければ駄目らしい。僕は今二十二で君は十九だ・・・。」

 それまで君は待つといふのかと云ひかけて晋は止めてしまつた。これがさつきからのゐたたまれぬ気持の原因だつた。

眞冬の父や眞冬の答へは晋の予想通りだつた。現在のままでは眞冬の誓ひにも信頼は出来る。しかし卒業して二十四になつて、 それからまだ何年か眞冬を待たす気持は晋自身にも耐へ切れない。弟や妹の多い眞冬の家、それから自分一人を卒業させた後、安穏に余生を送らうと考へてゐる晋の父、 どつちからも経済的な補助の得られないことを知り抜きながら、まだ晋には彼等の結婚を支持する何等かの基礎を与へて欲しい気持が十分にあつたのだ。 眞冬や晋の親たちにとつて結婚の基礎は愛であつたことを、晋は冷嘲的な気持で思ひかへしてゐた。晋たちがその人たち同志以上に愛しあつてゐないと云ふのか。

 また林に入つた。常緑木と落葉樹のいりまじつた林地で明るい日のさす落葉樹──多分くぬぎか楢だつたらう──の林の方へふたりは入つて行つた。 いい加減のところで立ち止つて晋は新聞を敷いて坐つた。眞冬はその前の樹の幹に身をよせて立つてゐた。ひどく背が高く見えた。烏が最上を啼いて通つた。非常にかん高いこゑにそれがきこえた。 眞冬は急に坐つて赤いベレーをぬいだ。髪の毛のにほひがすると晋は思つてゐた。

「わたし働かうと思つてゐるの。お父さんもそれに賛成してゐるの。おまへも世の中へ出て見ると男の見分けがつくつて。」

 晋は打ちのめされたと思つた。さつきの眞冬のことばでそれは予想もしたことだつたが、云へば僻みとも思はれることだつた。

「君のお父さんが僕たちに賛成するわけはないんだ。だからああした返事はいまの僕たちの恋愛を一時的なあそびと軽く見てゐるのだ。そうかも知れない。 だからいまの反対よりも後になつてからのが僕はこわい。」

「僕は君がはなれてゆくとは思はない。しかし、僕たちは恋愛なんて出来る身分ではなかつたのだ。君がそれに気がつくときが怖ろしい。遅くとも二年の後に。」

 このことばを晋は口に出しはしなかつた。陽がまたかげつた。見ると向ふの松の間にかかつたのだつた。突然、「いまどき恋愛なんてものは出来るものだらうか」と云つた晋の友達のことばが、 晋を圧しつけた。この後このことばは呪文のやうに自分たちにつきまとふやうな気がして晋は慄然とした。

 眞冬の体を晋は抱きよせた。軽いからだで口紅と頬紅のにほひがかすかにした。口笛を吹くやうに鳥が啼いた。晋たちはサンドウィッチを食べる。 ものを食べるところは眞冬も醜いと考へて、晋はまた後悔した。

 眞冬の腕時計で一時前になると二人はまた起ち上がつて歩き出した。その少し前に、林の中の道を猟銃をもつた人が晋たちに気づかずに通り過ぎてゐた。向ふの方で銃声がしきりにして、 鳥たちが悲鳴をあげて逃げて来た。晋たちは又堤の方へ出ることにした。暗い竹林を通りぬけるとコンクリートの堤があつた。晋は眞冬の手をもつて堤の上に引きあげた。 遠い対岸で女がひとりそれを見てゐた。

 堤の道のところどころには鮎漁の休憩所があつて、いまは冬なのでみな戸をしめてゐた。一軒だけ開いてゐるのがあつた。砂利採集工事の人達が出入りするらしかつた。 眞冬は足早にそのまへを歩いた。犬が二匹ついて来た。晋は口笛で犬を呼び、ふりむいて眞冬に、

「犬はきらひかい。」

 と聞いた。眞冬は好きだと答へる。晋は、

「犬を飼はうね。」

 といって一瞬のたのしい気持に我を忘れた。

 犬の一匹だけが人なつこくて、頭をなでてもぢつとしてゐた。もう一匹の方は一寸吼えて見た。妬いてゐるのにちがひなかつた。だけどもう一匹の方もしばらくするともう随いて来なかつた。

 堤の下に竹林のあるところへ来た。子供たちが竹を折つてゐた。眞冬は突然、

「旅人の気持がする。」

 と云ひ出した。晋も急に感傷的になつて、多摩の丘に残つてゐる雪を眺めたりした。

「旅人の気持といふのはね、いまこの堤で見てゐる草や木をもう二度と見ることはないと云ふ気持なのだらうね。さういへば僕達自身だつて、 今日の僕達たちと今度あふ日の僕達では科学的にだつてもうちがつてゐる筈だよ。細胞は刻々に生長したり死滅したりしてゐるのだからね。」

 そんなことも云つて見た。

「だけど一度に変りさへしなければ、変つたとは云はないのね。」

「さういふ気持ぢや物事のつきつめた真理などわかりつこないよ。」

 二人は二ケ領用水の青い急な流を見てゐた。眞冬は修学旅行で見た京都の疏水を思ひ出したと云つた。水は渦巻きながら篁の間の細い水路を降つてゆく。 ここからはもう電車の停留所まで近いと晋は説明した。

桜堤になつてふたりは花見時の酔つ払ひの話をした。けふの堤は静かでよかつたけれどそんな時にここへ来れば大騒ぎだ。 みんな人間て卑怯なものだから酒のカをかりて正気でわるい悪戯をするのだな、と云つた。そんな話題が箴をなしたのかもわからない。河原をトロッコががうがうと音を立てて通つてゐたが、 その軌道は二人の歩いてゐる堤の直ぐ前まで来てゐた。堤との間には河が流れてゐて、その側で人夫たちはトロッコから下りて砂利を掘り出したが、晋たちを見ると口々に何か罵り出した。 聞えて来ることばの中には「木偶の坊」だとか「ごくつぶし」だとかもつと卑猥な言葉があつた。眞冬はすつかり脅へて了つた。向ふから中年の女が来て眞冬の顔をのぞいて行つた。そのひとがゆきすぎると眞冬は呟いた。

「あんなに云はれればいくら何だつて反感がおこるわね。」

 晋はその意味を敏感にさとると、反射的にいけないと思つた。

「それは仕方がないさ、向ふは汗を流して働いてゐるのに、こつちは女をつれて歩いてゐるのだから。」

 さつき、二ケ領用水のあたりで晋たちとすれちがつた会社員夫婦らしい二人もこんな罵声をあびせられたのだらうと思つた。 たまの日曜を散歩に来た人たちのこと考へればまだ晋たちは同情に價しない。だけど働けなければこそ自分たちはいまこんなに悶えもし、 困つてゐるのではないかと自分勝手な弁護的な気持も動いてくると、晋自身もいつか憤つてゐた。仮橋を渡る頃にはもう罵声も止めた働く人たちの群へ、晋は、

「しっかり働けよ。」

 と冷嘲的に低声であびせかけた。眞冬はそれを聞いてゐた。

 晋たちはそれから急に黙りこくつてしまつた。いままでのたのしさが、さうした出来事で一時にこはされてしまつたことに対してはもう人夫らへの憎悪などでは癒されさうもないつきつめた考へに撞着してしまつた。 倫んでゐたひとときのたのしさへの峻烈な批判を晋は自分自身に対してし出した。眞冬も一度そこまでは来たことのある電鉄の経営してゐる遊園の側まで来るとくらい顔したまま、 人の出の少い園の中のブランコや滑り台などの物さびしい様を見やつて、急に疲れが出て来た様子を示した。

「帰るかい、まだ日が高いけれど。」

 と晋が訊ねると、

「どうでも、だけどあの道をゆくと土産物など売つてゐる店が並んでゐるでせう。」

 と云つた。その意味がわからないので、晋が怪訝な顔をしてゐると、

「ほら、前掛なんかした女の人たちが沢山ゐるぢやないの、わたしいやだわ。」

 とささやくやうな調子で云つた。晋は男たちに対しては媚を示すものともなるあの眼の、同性へは酷しい冷嘲のしるしとなるさまを思ひ浮べた。 いまさら郊外散歩など有閑的な企てを考へつかずにはゐられない自分たちの環境をかへり見さされた。何処にでも人がゐる、そして何処にでも批判の眼が酷烈に働く、窮屈な世界だと眞冬は考へよう、 だけど晋自身にはそれを自分たちの社会的な意識や状勢と結び付けずにはゐられなかつた。しかし、

「人の眼など気にしてたら仕様がないよ。まだ僕の田舎に比べたら東京の郊外なんかましな方なんだよ」

 と云つてしとやかに封建的な結婚の仕度をしてゐる故郷の従妹たちのことなど思ひうかべた。しかし従妹たちを哀れむより晋たち自身の方が笑はれるものでなければならない。 そのわけを語らずにはゐられなかつた。

「僕たちのやうな気の弱い人種は駄目だつてことを此頃つくづく悟るんだ。今僕たちの心配してゐる問題だつて父母以外の人に話したつて笑ひものになるよ。 僕の友達でダンサーと同棲してゐる奴がゐるんだが、そいつに云はせると結婚だの恋愛だのはもう大した話題にはならないんだ。経済的環境の許すかぎりさういふことは解決の方法がいくらもある。 つて云ふんだ。好き嫌ひなんか云つてゐるのは野暮だ、もつと唯物的になれつて。」

 眞冬は憫れむやうな眼をして晋を見た。あなたにはさういふ考へ方は出来ない、とその眼は語つてゐるやうに思はれた。晋はそれを受けかへして自分を責めた。さうなんだ、 恋愛なんて間ぬるいことをして、と責める自分自身から云はせたつて、これは一の感傷なんだ。やはり文学青年なんかは実生活でも無能力者なんだ。 精神だの情緒だの反省だのさう云つたものは実生活から搾り出されるものなのに、自分はそれで生活を組立ててゆかうとしてゐる。 それならそれで徹底すれば眞冬との恋愛だつて煩悶することはない筈なのに、やはり現実の要素を気付かずにをれない、眞冬はそれを感付いてゐるだらうか。 女は案外実際的(ザハリッヒ)なのかも知れない。

 道はまた河原の方に降りてゆく、そこで貨物自動車へ砂利を積んでゐる人たちがゐた。眞冬はまた、と云つて立ち止つてしまつたので、晋は無理やりに先に立つて足を早めた。 さすがにそちらの方は見ないようにしてゐた。人達は何も云はなかつたらしい。

 調布町へゆく大道が埃でまつ白に光つてゐた。道ばたには古びた駄菓子屋や交番などがあつた。トラックが後から追つかけて来た。 晋の右側を外套にさはる位すれすれに通りすぎるとき何だか罵声のやうなものを聞いたと思つた。次々に来るトラックが皆さうだつた。 向ふから来るのは明らかに運転台に法被を着た人たちが冷嘲的なほほ笑みとわらひごゑとを浴びせて行つた。晋はもう怒りよりも怖れを感じ出した。 あの人達はみんながみんな一様な気持しかもつてゐないんだね、だけどまだ轢き殺さないだけましだよ、と呟くと眞冬は頷いた。たうたう二人とも逃げるやうに小道をさがして這入つてしまつた。 楽しかつた気分なんか微塵も残つてゐなかつた。その上先刻から急いで歩きすぎたので眞冬はかがとを痛めてしまつた。 びつこを引いてゐる彼女を晋は向ふから来る人に恥かしがりながらはげましてひたすらに停留所へと急いだ。

 眞冬は晋の臆病さをいまこそはつきり知つただらう。しかしこれは自分だけのもつ臆病さではない。晋はかうした場合に立つた友達の幾人かを思ひうかべて見た。 みんなやさしいためらひがちなほほゑみで浮び上つて来た。彼等の間でだけ自分はのびのびとしかも因習だの何だのに全くは無関心になり得ないで生きてゆける。 さう考へると故郷で昔通りの考へ方をしてゐる父たちまでがなつかしく思ひ出された。亡びてゆく人間の種類──その間では力弱い哲学や文学や──最後に恋愛やらが心ぼそく保たれてゐる、 その心弱さを自分たちは教養だの志だのと呼んで来たのだ。

 眞冬も自分もその枷の中で自分たちに相応した悩みをなやみぬく最後の人間なのだ。晋は眞冬の細いしなやかな体つきとびつこを引いてゐる足とを眺めながら急にはげしい愛情と、 憐憫とが湧いて来るのを感じた。風が道ばたの枯草にかさこそと鳴つてわたつた。(昭和8年4月 コギト11号)


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