(2006.11.27up)
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たなかかつみ【田中克己】散文集


【小説】 始皇帝の末裔

 三浦常夫が先達て久し振りに来阪して、私の顔を見ていつたことは、「秦の始皇帝のことを書け。」であつた。

  一

 父の末弟になる叔父から電話があつて何時何分にどこそこで会ひたいとのことであつた。私は近頃生れた私の子供のことに違ひないと思つて出かけて行つたが、 会つて見ると話は全然他のことであつた。冷房装置のある食堂で坐つて食べ物と飲物をあつらへるとすぐ、叔父は風呂敷を解いて一巻の巻物をとり出して、まあ御覧といつた。 開いて見ると父の家の系図であつた。(私は生れ落ちるなり母の家を継がされてゐる。)私の家は伝へでは秦の始皇帝の子孫となつてゐて、 三浦常夫もそれを知つてゐるので私にすすめたのであるが、この系図は果して秦の始皇帝より出でた秦氏の系図であつた。叔父は此の系図を本家で写し取つて来たといつて、 さてお前に頼みたいことは、此の系図をもととして、家の歴史を書いて欲しいのだといつた。私は系図を見ながら話を聞いてゐて、内心当惑してゐた。 私には叔父がかういふこと云ひ出す理由もほぼ推測が出来たから、当惑の理由はそれではない。ただ叔父の意識には十二分に我が家の系図を誇る気味が覗はれたので、、 正直な私は当惑を免れなかつたのである。

 一体秦の始皇帝を先祖にもつことは宜しいことであるかどうか。私は東洋史を学んだ者ではあるけれども、今まで秦の始皇帝を品題して見たことはない。 ただ十八史略的な常識から考へて見ると、彼の評判は甚だ香ばしくない。第一にその血統が疑はしい。勿論秦は春秋戦国時代を通じて西戎の国と卑しめられて来た国であるから、 正しい血統の生れであつたとしても大したことはない。しかし伝説によると彼は荘襄王の子ではなくして、王が未だ流浪困苦の際、奇價居くべしと考へ、 之に資と女と供給した陽翟(ようてき)の大賈呂不韋(りょふい)であるといはれる。呂不韋が王に納れた女は当時既に娠んでゐて後、男子を生んだ。 王は知らずして之を己が子としたが、真相は始皇帝の即位後も太妃と呂不韋とが猶ほ通じてゐることによつて暴露した。始皇帝は呂不韋を殺して人の口を塞いだ。

 この伝説は不人気な始皇帝を誣ふるために後人が構へた詐りではあるかも知れぬ。しかし疑を存し置く方が安全であらう。人となりについては、燕の太子丹が壮士荊軻をやつて、 始皇帝を刺さしめんとしたとき、「易水寒し」と歌つて国を出た荊軻の男振りに対し、荊軻が献じた燕国の督亢の地図、窮まつて匕首現はれ、袖を把られて、ふり断つて逃れた見苦しさ、 柱を環(めぐ)つて走りながら剣のことに気がつかす、臣下達に注意されてはじめて剣を負うたあたり、大勇の人とは考へられない。

 しかも既に天下を一統するや、徳三皇を兼ね、功五帝に過ぎたりとして初めて皇帝と称し、自らを称して朕といひ命を制といひ、令を詔となし、皇帝の諡号をやめて、 自ら始皇帝と称し、二世三世と数へて之を万世に伝へんといつたのは、甚だ豪壮のやうではあるが、後顧の計は伴はなかつた。殊に武カのみを以て天下を定めて果して何の徳であるか。 その後天下を分けて三十六郡とし、封侯を置かず、富豪を咸陽に聚め、民間の兵器をすべて収めて鐘鐻金人となし、度量衡、貨幣、文字を一定したのは中央集権の政策として相応しいが、 禍の元は却つてこれらの新政策の中に在つたのであらう。彼の墳土未だ乾かぬに兵を挙げた陳勝、呉広が輩の兵器の不足を訴へたことを聞かない。鋤や鍬が武器となり、 蓆や薦が旗幟となるのは何れの国でも同じことである。しかも統一の政未だ成らぬに賦税を重くし、七十余万人の徒刑の民を用ひて、大に咸陽を築いたが如きは、愚の至りで、 是に至つて彼は支那やローマの皇帝たちや、わが国の邪教の開祖たちの多くが罹つたKaiserliche Kinderkrankhei(※帝国の小児病)を得たのである。 帝はこの八百里に亘る宮殿の離宮や別館のすべてに鐘鼓美人を充し、悪鬼を避けると称してその処々に臨幸して所在を晦まし、人の知つて言ふ者があれば之を殺した。 また不死の霊薬を求めんがために童女童男数千人を率ゐしめて徐市(じょふつ)を海外に出したが、徐市は蓬莱山の近くまで行つて、神人たちの姿が手に取るやうに見えたが、 それ以上は駄目であつたと還つて来て奏した。

 帝はまた一方巨億の資を費して北の方、胡を伐ち、万里の長城を造つて「秦を亡ぼすものは胡ならん」との、讖を絶つたとなし、南のかた越族を伐つて之を平げ三郡を置いたが、 怨嗟の声は巷に満ちた。既に即位後二十九年、博浪沙に韓の遺臣張良の狙撃に遭つたが、その力士をして投ぜしめた鉄椎は誤つて副車に中(あた)り、僅かに難を免れた。 この事件は単なる反動勢力の蠢動と見做してよいが、進歩的であるべき学者たちも始皇帝の新政を喜ばなかつた。ここに於て丞相李斯は奏して、今、諸生は今を師とせずして古を学び、 以て当世を謗り、人民を惑はしてゐる。人、令の下るを聞けば、即ち各々その学を以て之を議し、入りては心に非とし、出でては巷に議し、主に誇りて以て名と為し、 趣を異にして以て高しと為してゐる。故に秦の記録以外の史書を焼き、博士の官以外の者で詩書百家の語を蔵する者は皆出さしめて焼かう。それでも詩書を偶語する者があれば棄市し、 古を以て今を謗る者は九族を誅しよう、と云ひ、始皇帝は之を容れて書を焚くと共に、諸生を捕へて坑(あな)にした。

 このことは思想取締の法としては甚だ拙劣なるものであることは、近世の賢明なる為政者すべての熟知するところであるが、始皇帝は、 東西の学に通じた先生方を聘して善導の書を作らしめるが如き生ぬるいことの出来る性格をもつてゐなかつた。但し彼も始めは学者を優待したが、その中に侯生、 盧生なる者があつて彼を謗つて逃げたので、はじめて大に怒つたといふ。御用学者の心理は何処も変らぬと見える。

 ここに至つて天もその暴虐を憤り、三十六年東郡に星堕ち、地に至つて石と化(な)つたが、その面に「始皇死して地分れん」の文があつた。 果して翌年帝出で巡つて雲夢沢(うんぼうたく)より銭塘に至り、回つて瑯琊、之罘(チーフ)より平原津に来つた時、病発して沙邱に崩じた。近臣たちは人心の乱れんことを恐れて喪を秘し、 死骸を車に載せて帰京したが、腐臭によつて覚られんこと.を慮つて、鮑魚(ひもの)を積んで臭を紛らしたといふ。その死を飾つてあまりある挿話である。以上のべたやうな挿話の悉くは信じられもしないし、 秦のあとを嗣いだ漢びとによつて前朝の跡を貶しめるため、故ら作られた悪意にみちたものがあるに違ひない。しかし悲しいかな、民衆は既に始皇帝なる一人格を、 「暴政」といふ抽象名詞の理解を助ける偶像としてか、または「急激なる改革は必ず悪い結果を惹起する」といふアフォリズムとしてのみ理解してゐるのである。 真の歴史家はこれらの偏見や或ひは固定した人物観を打開するには遑をもたないし、卑俗な歴史家は勧善懲悪の御題目に適用する。わたしはこれらの偏見や品題を超越して、 秦の始皇帝を祖とすることを得々としてのべた二千年前の一団の秦人(はたびと)や、今目前に在る肉親の叔父の心事を悲しむのみである。私は叔父に系図の巻物をかへして、 中々難かしい仕事だし、僕も忙がしいので返事はよく考へてからにすると云つた。叔父はなほもくどくどと勧めて、それから席を立つた。 立ちがけに子供に何を買つてやらうと云つたので、私は何も要らないと答へた。

   二

 始皇帝は崩じた時五十歳であつたが、その皇子は二十幾人あつた。長子を扶蘇といひ、嘗て父帝が学者を坑にせんとするを諌めて、逆鱗に触れ、 北の方(かた)上郡にあつて匈奴を伐つてゐた将軍蒙恬の軍を監せしめられてゐた。したがつて始皇帝の崩御の場にはその最も愛してゐた末子の胡亥だけが臨んでゐた。 始皇帝は危篤状態に陥ると宦官趙高に書を作らして扶蘇に葬事を命じたが、趙高は扶蘇の賢明なのを忌み、その蒙恬に擁せられるのを畏れ、書を留めて出さず、始皇帝の崩後、 丞相李斯と謀つて、詐つて胡亥を立てて太子とし、扶蘇には死を賜ふの書を作つた。皇帝の喪は秘せられてあつたから、北にあつてこの書を受けた扶蘇は大に泣いた。 蒙恬が事の真偽明らかならぬ故、再び命を請うてはと勧めたが、彼は聴かないで自殺した。此の孝心篤い薄命の皇子は系図によれば私の家の祖ではない。

 扶蘇の死後、胡亥は喪を発して即位し、二世皇帝となつたが、彼は蒙恬を殺し、専ら李斯や趙高に任じた。彼は父の性質の中亨楽的な一面を受け継いだと見えて、 即位の翌年には趙高に向つてかういつた。「人生は六匹の駿馬が僅かの隙間を馳せ去るが如きものである。自分は已に天下の君であるから、耳目の好む所を悉(つく)し、 心志の楽しむ所を極めて、天寿を終らうと思ふが、如何。」趙高はこの問ひに、陛下は諸公子や大臣から、始皇帝が果して位を譲るの詔があつたか否かを疑はれてゐるから、 まだ駄目であると答へた。そこで胡亥は趙高の計に従つて事に托しては大臣公子を捕へた。これらの公子はすべて胡亥からは兄に当るのだつたが十二人が咸陽の市に戮され、 その他に十公主が磔された。これらの公子たちの名は明らかでない。まだ他に刑の後れてゐる公子将閭及びその同母弟三人があつたが、やはり罪なくして殺された。 公子高なる者は自ら請うて父帝の冡(つか)の傍に葬られんと云つて、自殺した。私の家系の二代目はこれらの公子たちではない。恐らく彼等はその子孫さへ持たなかつたであらう。

 二世の政は愈々乱れて、此の年に既に陳勝呉広等が乱を起した。乱は日に拡大するばかりであったが、実状を告げる者を二世は殺して、鼠窃狗偸となす者を悦んだ。 沛の人劉邦、楚の旧臣項梁、項羽の兄弟も起つた。秦延では宦官趙高が丞相李斯を議して之を殺した。李斯は酷薄な官僚型の人間ではあつたが、才能もあり、殊に弁口に長けてゐた。 獄に殺される時、その中子を顧みて「吾、汝とまた黄犬を牽きて倶に上蔡の東門を出で、狡兎を逐はんと欲すとも、豈に得べけんや」と哭いたと云ふ。 人の死なんとする時は云ふ事好しとは此の類であらうか。この後趙高は権を専らにしたが、抗する者のあることを恐れて、験を設けた。有名な「馬鹿」の挿話である。 しかしさすがに二世皇帝にその専横を覚られることを恐れて、遂に人に命じて殺させることとした。刺客は宮中に入つて帝を捕へ、 その無能無道を責めた。帝は趙高に見えんことを乞ふたが許されない。一郡を得て王とならんといつたが許されない。万戸侯とならんと願つたが許されない。 平民となつて生を全せんといつたが遂に弑された。

 趙高は報を得て二世皇帝の兄の子、子嬰を立てて秦王とした。子嬰は父の名を詳かにしない。年配からいつて扶蘇の子かとも思はれるが、明記してあるものを知らぬ。 子嬰は趙高を憎み、その二子と共に謀を設けて、彼を殺した。その時沛公劉邦の兵が咸陽に迫り、秦軍が敗れたので子嬰は素車白馬にのり、頸に紐を懸けて降つた。 劉邦の部下の者で之を殺して悪政の怨を晴さうといつた者もあつたが、劉邦は人心収纜のため之を救けた。しかし項羽が咸陽に入るに及んでは二子と共に殺された。

 この子嬰が二子と共に趙高を諌したといふ話は頗る疑はしい。始皇帝が秦王となつたのは十三歳の時で、その後三十七年目に死んでゐるが、秦が亡んだ年、 趙高の誅された年はその後三年目である。扶蘇が子嬰の父であるとした。ら、早婚の習はしのため始皇帝の十五歳の時に生れたとしても、此の時生きてゐてやつと三十五六歳である筈で、 その子として子嬰は多くとも二十歳前後である故、その子は五六歳になるかならぬかである。史記の昔より支那の史家の数の観念の乏しいことは此の調子である。それはさておき、 私の家は子嬰の系統ではなくて、例の巻物によれば実にかの胡亥皇帝の後なのである。

   三

 併し私はこれは疑はしいと思ふ。胡亥は始皇帝の末子であるから、年は二十五六歳を出ではゐまい。その子孫も多くはなかつたらうし、 恐らく趙高の弑逆や秦の亡ぶ争乱の際に遺孽(いげつ)なきに至つたであらうと思はれる。その他に胡亥の刑を免れた公子たちがゐたとしても、 やはり此の乱の際殆ど生命を全くし得なかつたに違ひない。凡そ秦朝の憎まれ方は他の王朝に比して甚だしいと思はれる。 これは何も秦を亡した漢人の手になる『史記』や『漢書』を鵜呑みにしての話ではなくて、凡そ王朝の亡んだ後では、その後も度々その遺王や遺民と称するものが兵を挙げたり、 或ひは身を潜めてゐるのを発見されたりするものであるが、秦に限つてそれを聞かない。但しこの後約五百年を経て東海姫氏国に、秦帝の後と称して帰化した一団の民を除いての話である。 これは蓋し秦朝の不人気を示すものであらねばならぬ。ただ秦は春秋戦国以来の大諸侯の国であるから、王族の繁衍も著しく、その一二の三韓に逃れたもの も無しとはし得ない。しかし燕より遼河を渡り鴨緑江を渡つて朝鮮の地に入つたか、齊より渤海を航(わた)つて遼東に至つたか、 何れにしても亡国の王族の行旅としては至難なものでなければならぬ。

 秦びとの我国に渡来したのは書紀に拠れば応神天皇の十四年のことである。但し弓月君(ゆづきのきみ)とその国の人夫百二十県といつて秦の裔と称したことを云はない。 古事記には秦の造(みやっこ)の祖来朝といふ。姓氏録やその他の伝へには弓月君の父功満王が仲哀天皇の御代に来朝したことを伝へる。とも角此の頃帰朝した集団が後の秦びとの祖先であるらしいが、 之と前後した漢びとと共に韓族と異つた容貌をもつてゐたやうである。書紀には秦びとの渡来を百済(くだら)よりとしてゐるが、ひと或ひは説いて辰韓よりとする。辰韓にも、 百済の地なる馬韓にも現在漢文化の跡が発見されてゐる。殊に辰韓は位置の僻遠にも拘らず、漢の楽浪郡と交通し、又、秦の亡民と称する漢民族を容れた形跡がある故、 何れにしても漢民族との推定は許され得る。秦の亡民と半島で称してゐた民が、始皇帝の裔を称した秦びとであるか否かは断定し難いが、恐らくこの自称には関係があるのだらう。 かくて彼等は海晴れた日、朝鮮海峡を渡つて来朝しようとしたが、新羅(しらぎ)びとに拘留されて来るを得ず、僅かに氏の長の融通王のみが遁れて入朝し、朝廷に旨を奏した。 朝延では直ちに武内宿爾の子、葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)を遣して迎へ取らしめんとされたが、三年に至るまで来らず、平群木菟(へぐりのづく)、 的戸田宿彌(いくはとだのすくね)らの援によつて、漸く来朝するを得た。秦びとは他の帰化人と同じく、京(みやこ)に近い大和国朝津間掖上の地に置かれた。 しかし後には高市郡波多の地に移つたのであらう。秦をハタと訓する所以もその織りなす布の、肌膚に宜しきがゆゑとは牽強に過ぎる。

   四

 秦びとはしかし次第にこの地から分散した。系図では此間融通王より普洞王を経て酒公に至つてゐる。日本紀年はこの三代の間に約二百年を閲してゐるが、応神天皇は御在位四十一年、 御寿百十一(或ひは百三十)、仁徳天皇は御在位八十七年、御寿百十に在しまし、その他の列聖も皆五十歳を超えてゐます時代のことである故、系図の逸脱を考へるにもあたるまい。

 酒公(さけぎみ)は雄略天皇に仕へ奉つた伶人かと思はれる。雄略天皇は畏くも御諡号の示し奉る如く、雄壮大略の君に在しまし、記紀ともに、天皇につき記し奉ることが多い。 日本古代は猛く雄雄しくますことを聖徳の一つと考へ奉つた如く天祖天照大神も和魂荒魂の二つを具へまし、神々ことごとくちはやぶりたまうたのであるが、 古事記はかかる国民的英雄として素戔鳴尊、日本武尊と数へて、天皇のことを記し奉るに至つてゐる。ゆゑに多くの説話に現はれます御姿は真の天子に在して、 美和河辺に赤猪子てふ乙女をみそなはして、いま召してむと詔らしたまま、八十歳を忘れたまひ、蔦城山に一言主神に遇ひまして畏み給ひ、 落葉の御盞に浮べるを知らずして献つた伊勢の釆女(うねめ)を斬らんとして、歌を献つたによりたちまちに赦し給ふなど、古雅な歌謡の中に天衣無縫の龍影を見せ給ふ。 紀もまた歴史的事実の間に、この種類の説話を多くまじへる。ここには一貫して、御心健く直(すなお)にましまし、また善く諌を容れたまうたといふモティーフがある。 秦の酒公もまたこのモティーフに拠る一説話中に出現する。天皇の十二年、木士闘鶏御田(つげのみた)に仰せて始めて楼閣を造らしめ給うたところ、御田、 楼の上を走ること飛び行くが如くであつたが、此時、伊勢の釆女、楼上を仰ぎ見て、彼の疾く行くを怪んで庭に顛仆し、挙ぐるところの饌(みけつもの)を覆した。天皇、 御田が釆女を既に姦したと疑ひ思召し刑せむとされた。此時、秦の酒君侍坐し、琴歌を以て諌め奉らむとし、

  神風の、伊勢の、伊勢の野の、栄えを、五百世経る懸きて、しかし尽くるまでに、
  大君に、堅く仕へ奉らむと、我が命も、永くもがと、云ひし匠(たくみ)やは、あたら匠はや。

と歌つたところ、天皇その意を悟つて赦し給うた。

 この説話は記の伊勢の釆女の説話や、紀の木工猪名部真根に繋はるもの、猪を懼れて樹に縁(のぼ)つた舎人の説話と同系列のものであつて、 みな前述のモティーフによつて天皇の御盛徳を頌へるものである。酒公はしかし事実、天皇の御寵愛を得て、十五年には、諸強族に劫略駆使されてゐた秦びとを、 小子部雷(ちいさこべのいかづち)をして聚めて賜はり、秦氏の伴造(とものみやっこ)となつた。この時秦びとは九十二部一万八千六百七十人あつたといふが、 翌年には再び秦の民を分ち散じて庸調を奉らしめた記事があるゆゑ、名義上の主裁者となつたのみであらうが、此の時秦びとが貢進する絹が朝庭に積蓄したので、 これより酒公に禹都万佐(うづまさ)の姓を賜つた。禹都は堆(うづたか)きことで麻佐は勝に同じく氏格をあらはす姓である。また秦びとを役して八丈の大蔵を宮の側に建て、貢物を納れられ、 酒公を大蔵の掾(ふむびと)に任じたまうたがため、これより宮を長谷(はつせ)朝倉宮といふとある。

 酒公の次は意義、次は忍、次は丹照、次は河、次は国勝、次は川勝と系図に見えてゐるが、川勝までは伝を詳かにしない。紀には此間、 忍または丹照の代に当つて大津父(おおつほ)といふ者がある。

 彼は山城国紀伊郡深草の里の人で、欽明天皇龍潜の日、御夢を驚かし奉つた。即ち人あつて奏して云はく、秦大津父といふ者を寵愛したまはば、壮大に及んで必ず天下を有したまはむと。 そこで寤(さ)め給うて後、使を出されたところ深草の里に同姓名の人を見出した。天皇召し見て、汝何事かありしと問ひ給ふに、答へて、臣伊勢に向ひて商ひて帰り来る時、 山に二匹の狼の相闘ふを見て、抑(おし)止め放して命を生きてきと申上げた。天皇はその報としたまうて近侍とされたが、優寵日に厚く、践祚の後大蔵省に拝し賜うた。 思ふに此の説話は大津父が秦氏の正統でなくして、大蔵の長官に任ぜられたことを説明するものであらう。此時より秦氏は山城国に本拠をもつたと見なければならぬ。大津父の子、 伊侶具はここに稲荷社を建てたが、この後、秦びとはこの社を中心として栄えた。稲荷の祠官大西、松本、毛利、羽倉氏等はこの伊侶具の後裔であり、かの「ふみ分けよ、 大和にはあらぬ唐鳥の、跡見るのみが人の道かは」と歌つた羽倉斎宮(いつき)こと荷田春満(かだのあづままろ)先生も、秦びとの裔でなければならぬ。

 秦びとは大津父の頃には七千五十三戸あつたが、これは雄略朝の口数に此べて大なゐ増加といはねばならない。秦氏はかく大蔵を司ることが世職となつたため、 三蔵検校を世職とした蘇我氏に対して自づと附庸の地位に立つに至つた。大津父の名は例の系図には見えないが、私の家は旧時大津父氏を称したことがあるから、 彼も祖先の一人と認められてゐたのである。その名を系図より逸した理由は、私の考へがあるがここでは云はない。

   五

 紀では大津父の次には秦川勝が現はれる。彼は聖徳太子に親近し奉つた廷臣の一人であり、恐らく秦氏の伴造として大蔵の掾(ふむびと)であつたのだらう。 推古天皇十一年、太子、諸大夫に謂ひたまはく、我に仏の尊像あり、誰か得て恭ひ拝するものぞと。是時、秦造河勝、進み出て、臣拝み奉らむといひ、仏像を賜つて蜂岡寺を造つた。 即ち洛西太秦(うづまさ)の広隆寺でまたの名を太秦公寺といふ。川勝の住地は故に紀伊郡ではなくして、葛野(かどの)郡であり、また大津父の嫡裔ではないらしいが、 同じく巨富を有してゐたことが想像される。この時太子の賜つた仏像は恐らく、現在もなほ広隆寺にある如意輪観音像であらう。太子の建てたまうた中宮寺の、 弥勒(或ひは如意輪といふ)像と様式、相好を同じくして、おほろかに美しくましますゆゑ、理由もなくしてかう考へるのである。太子は二十九年斑鳩宮(いかるがのみや)に 薨じ給うたが、その後四海騒然として天変地異こもごも至つた。蓋し蘇我鞍作、政を執ること厳獅ノ、人々路に落ちたる物を拾はぬに至らしめたため、却つて人心乱を思つたのである。 皇極朝に入つてはこの形勢益々激化し、元年十月地震(なゐ)ふること四度、十一月より十二月にかけては雷しばしば鳴り、二年正月元旦には五色の雲天を覆ひ、 四月には天寒く人々綿袍(わたいれ)三領を着、八月には河内茨田池の水藍色に変じて腥く、十月には童謡あつて、

 岩の上に、小猿米焼く、米だにも、喫(た)げて通らせ、山羊(かましし)の老翁(おじ)

 といひ、これが預言となつて十一月には、蘇我鞍作のために聖徳太子の御子山背大兄(やましろのおおえ)王は攻められて、生駒山に自殺し給うた。三年に入つては、 六月、八尺の百合花を献るものあり、剣池に一茎二花の蓮が発見された。これらの異草は白井光太郎博士の植物変異考を見れば明治大正の聖代にも発見されるので、 何等重大な意義をもたぬが如くであるが、これが堂々たる史書の上に誌されては既に一つの意義をもつのである。 古代の人々の眼に天変地異が映じ、伝承されるには常に一定の環境、即ち不安なる社会があるのである。殊に甚しいは、このとき謡歌三首あり、その一に曰く、

 はろばろに、琴ぞ聞ゆる、島の薮原。

その二に曰く、

 彼方(おちかた)の、粟野の雉子(きぎし)、とよもさず、我は寝しかど、人ぞとよもす。

その三に曰く、

 小林に、我を引き入(れ)て、せし人の、面(おもて)も知らす、家も知らずも。

 第一の歌は幽玄にして意を知り難いが、第二、第三の歌に至つてはDecadence(※頽廃)の気むしろあはれを感ぜしめるではないか。 この社会不安は邪教の崇拝を惹き起した。すべての神殿にまします神々が捨てられて、妖しい神が信じられたのである。此年秋七月、 東国不尽(ふじ)河の辺の人、大生部多といふものが、村里の人々に虫を祭ることを薦めて、これは常世の神なり、この神を祭るものは富と寿とを致さむといひ、 神巫(かんなぎ)たちも神託と称して之を勧め、民に財宝を捐てしめ、酒菜六畜を路傍に陳(つら)ねて、歓呼した。故に都鄙これを祭らぬものが無かつたが、此の常世の神と称せられた虫は、 橘や犬山椒に生れる長四寸余、太さ親指ばかり、緑色で黒点があつて蚕に似たりといふから芋虫のたぐひであつたらう。この時秦造河勝は民の惑はさるるを怒つて大生部多を撲つた。 故に神巫らも恐れてこれより勧め祭ることをやめた。そこで時人、歌を作つて、

 太秦は、神とも神と、聞え来る、常世の神を、打ち罰(きた)ますも。

 と言つたといふ。蘇我氏が滅亡すゐ六ケ月前のことである。

   六

 私に先祖を誇示する気持のないことは前にいつた。事実これらの人々は一人の人間を考へさせるには余りに遠いものである。 社会を朧気に浮かし出すために史書にあらはされてゐるにすぎない。もう私はこれ以上、私の家系の人々を論(あげつら)ふ気がしない。 読者も(もしありとすれば)退屈してゐられることであらう。書紀には此後にも秦びとの名が出て来る。それらの人々は私の先祖でなくても、ゆかりのある人々である。 鴎外先生が渋江抽齋や伊澤蘭軒の伝にかかれたやうに、詳しい評伝が、私の家系のことを、おぼろにでも立体的な形をとらしめてくれるのだらうが、私はその筆も根気も、 また云へば自分の家系を云々する厚顔しさも持たぬ。川勝を長々と述べたも他意はない。彼は私の家系中の英雄なのだからである。通俗の歴史が英雄伝のつながりである如く、 系図といふものも、その家の英雄を連ねて線を引くものである。英雄と英雄の間の凡庸の人の名は線とほとんどかはりはない。そして多くの場合忘れられる。 秦氏は酒公と川勝とを二つの頂点として他の世代を忘却してしまつた。この後、書紀やその後の国史にも秦びとの名は多く散見するが、そのつながりは不詳である。大化改新後、 乱を謀つたとて誅せられた右大臣蘇我山田石川麻呂に連坐して絞殺された秦吾寺、保田與重郎君が日本詩歌の最も優れたものとなす齊明天皇の御歌、 「山越えて海わたるとも…」の三章(『戴冠詩人の御一人者』七四頁)を世に忘るるなからしめんため伝へしめられた秦大蔵造万里、 白村江の戦に日本軍中の勇士としてただ一人名の見えてゐゐ秦朴市田来津(えちのたくつ)、壬申の乱に天武天皇側にあつて、犢鼻(たうさぎ)して乗馬した秦造熊、 弘文天皇側にあつて近江の鳥籠(とこ)山に斬られた秦友足、などは伝をもつものであるし、他に僅かに名と官位のみを表す多くの人々がある。その中で秦びとは多くの氏に分散したのである。 新撰姓氏録はその中に秦氏の多くの分派を示してゐる。これらによつて考へると平安朝の初期には、秦びとの分布は全国に遍ねかつた。 上述の如く山城国には紀伊郡の稲荷杜と葛野(かどの)郡の松尾社を中心とする二大集団がある。葛野の秦びとの植民地と見るべきは口丹波、即ち亀岡を中心とする地方の秦びとである。

 摂津豊島郡秦野、河内の茨田(まむだ)郡幡多郷の二集団も同じく葛野の秦びとの植民地であらう。しかし土佐や讃岐の秦びとはどう解釈していいのだらうか。 ともかく秦の名を負うた土佐の幡多(はた)郡の秦びとからは後に香曽我部、長曽我部等の氏があらはれる。香曽我部は香美郡の曽我部、長曽我部は長岡郡の曽我部の意であらうが、 しかも彼等の本姓が秦氏であつたことは間違ひない。鴎外先生の長詩はこの長曽我部氏の一英傑信親を詠つたものであるが、わたしの特に興味を感ずるのは、 この戸次(へつぎ)川の戦の相手たる島津家久、及びその将新納(にひろ)忠元、伊集院右衛門が後述する如く、やはり祖系を始皇帝に引いてゐるといふことである。

 讃岐の秦びとからは道昌和尚が出た。中央に残つた秦氏からは文徳天皇の頃、明法博士として惟宗(これむね)の氏を賜つた惟宗直本が出る。この家はこの後明法家として、 後に中原家にその地位を奪はれるまで代々宮廷に奉仕し、また国司として地方に下つた。そして平安中期以後の国司の地方在住の風に従つて、任国に留まり、 その地方の大豪族となつたのが薩摩の島津氏であり、対馬の宗氏であり、越中の神保氏である。島津氏は元暦二年八月、源頼朝から島津庄の下司職に任ぜられた忠久を以てその第一代としてゐるが、 忠久はこの時、官は左兵衛少尉であり、なほ惟宗忠久と称してゐた。またその子忠義もなほ惟宗氏を称してゐたことが明証がある。 島津が既に惟宗姓であればその支族たる新納(にひろ)、町田、伊集院、佐多、樺山は、みな准宗姓即ち秦氏でなければならぬ。ゆゑに台湾総督樺山大将も、伊集院海軍中将も、 佐多医学博士、町田経宇大将もみな薩摩の出身であり、もしこれらの家に系を繋いでゐるとすればみな始皇帝の末裔と云はねばならぬ。しかし島津氏は惟宗姓を嫌つた。 その亨保の頃し作らしめた『島津国史』には

「はじめ丹後局が源頼朝に寵せられ、妊娠したが、北條政子がこれを聞いて怒り、人をして殺させようとした。頼潮はそこで局を日向に流すこととし、その兄比企能員(よしかず)に囑して、 生む所が女子なれば勝手にせよ、男子ならば我に報ぜよ、といつた。局は摂津の住吉社の下に至つて男子を生んだ。これが忠久である。この時治承三年であつた。 偶々藤原基通が社に参詣し、忠久と局を連れて帰り頼朝に告げさせた。頼朝は忠久に名ずけて三郎といひ、丹後局を民部大輔惟宗広言に嫁せしめた。 故に忠久は母に従つて惟宗氏に養はれたのである。文治元年夏、頼朝は忠久を鶴岡に召した。時に七歳であつた。すなはち畠山重忠をして元服を加へさせ名づけて忠久といひ左兵衛少尉に任じた。」

 これが始皇帝の後裔を頼朝の落胤に変へようとの苦しい説話の大体である。さうして同じ苦しい説話をこさへてゐるのが対馬の宗氏である。 その苗字の宗といふ一字が既に惟宗姓であることを裏書してゐるにも拘らず、宗氏も系を平清盛の四男新中納言知盛に繋け、その孤子が乳母の夫右馬助惟宗某に養はれて云々といふ。 越中の神保氏は当国の大族で畠山氏の長臣として藤原氏なる遊佐家と並んで有名な家である。しかしその故郷は上野多胡郡であつた。 故に日木浪曼派の詩人神保光太郎氏がこの上野――越中の神保氏の系に属するならやはり始皇帝の末裔である筈だが、わたしはまだそれを直接氏にたしかめてゐない。

 しかしわたしは何も好んで大名や貴族におのが同族を求めてゐるのではない。ただ島津氏や宗氏がその明らかな系図や史料にも拘らず、 これを抹殺し隠蔽せんとした始皇帝の血統を私の家は決して隠さうとしなかつたことに興味が惹かれるのである。

 わたしの家は河内の秦びとである。前述の茨田郡幡多郷、即ちいまの大阪府北河内郡豊野村の秦、太秦の二大字の地をその居地とする秦びとである。 代々秦氏を称して近衛府の番長、又は府生となり、或は馬寮の官に就いた。秦氏がこの職掌をもつたのは奈良朝の頃からであるらしいが、平安朝に至つては全くこの職掌が固定した。 彼等は白馬(あおうま)の節会(せちえ)や、秋の御牧より奉る牽馬(ひきうま)の行事に奉仕する。望月の駒を引くのは彼等である。競馬に出場するのも下毛野氏に非ずんば秦氏である。 官位は正六位上左近衛府生を先途とする。所謂地下(じげ)の人であつて殿上に昇ることはない。
 しかし天子の御傍近く奉仕することはそれのみで既に光栄である。わたしはその光栄を象徴する一の挿話を史書に見出して感激に胸をときめかした少年の日のことを忘れない。 それは誰しもが知つてゐる増鏡の『おどろの下』に出て来る挿話である。

 「夏の頃、水無瀬(みなせ)殿の釣殿に出でさせ給ひて、氷水(ひみず)めして、水飯やうのものなど、若き上達部(かんだちめ)、殿上人どもに給はせて、 大御酒(みき)参るついでにも「あはれ、古の紫式部こそ、いみじくはありけれ、かの源氏物語にも、近き川の鮎、西川より奉れるいしぶしやうのもの、御前にて調じて、とかけるなむ、 勝れてめでたきぞとよ、只今さやうの料理つかまつりてむや」などのたまふを、秦の何某(なにがし)とかいふ御随身(みずいじん)、勾欄のもと近く候ひけるが、 うけたまはりて池の汀なる篠を少ししきて、白き米(よね)を水に洗ひて奉れり。『拾はば消えなむとにや、これもけしかるわざかな』とて、御衣ぬぎてかづけさせ給ふ、 御かはらけたびたびきこしめす。」

 水無瀬は河内の秦より淀川を隔てたのみの地である。所がらといひ、御随身の職掌といひ、私の祖先の一人であるに違ひないとは思ふが、秦の何某とのみ、 名さへあげるに憚かられるのである。しかしそれにしてもこの御宴の楽しさ、美しさ、ここに侍つた祖先の感激はいまの私にも共感出来るのである。この秦の何某は後鳥羽院に屡々宮中に召され、 いまも村にその宅址を遺す刀鍛冶秦行綱とは別人であらうが、かくてわが祖先河内の秦氏の院に対し奉る深い関係は否定することが出来ない。

   七

 後鳥羽院はしかもその華やかな宮廷を去つて高くおほろかな御理想を空しく抱かれたまま、隠岐に遷りたまはねばならなかつたが、 この御理想は後醒醐天皇に受けつがれ一旦成就された。この民族の精神の昂揚した時期に於いて、私の家もまた一小英雄をもつ。即ち秦武文がその名である。 その事蹟は太平記巻第十八に出てゐる。増鏡が大鏡に倣つてその著者や読者を当時の唯一の知識階級であつた公卿階級にもつてゐるに対し、平家物語の系統を引き、 また室町時代の文化の下層浸潤を証拠立てて、太平記は読者を庶民にもつてをり、恐らく著者さへも庶民階級であらう。これが増鏡では御随身秦の何某と名さへ記さぬのに対し、 太平記では秦武文と名を明記されてゐる所以であらう。

 さて武文の事蹟は前述の如く太平記巻第十八の春宮(とうぐう)還御の事に附載された一宮御息所(みやすどころ)の事の條に出てゐるのである。 一宮とは後醍醐天皇の第一皇子中務卿宮尊良親王のおんことで、太平記は宮が延元二年三月六日の金ケ崎落城に際し金枝玉葉の御身として前代未聞の壮烈なる御最後を遂げられたことを記し、 次いで春宮が捕へさせられ京都に送られたまうたことを記し、さて一宮の御最後を聞かれた御息所の御悲嘆を記す。御嘆の深いも道理である。宮と御息所の御なからひは尋常のことではない。 太平記によれば宮が立坊の選に漏れたまひ御嘆ふかかつた折、絵合に御覧になつた源氏物語中のHeroin(ヒロイン)優婆塞宮(うばそくのみや)の御女の絵姿に恋ひ渡らせたまうたが、 のち賀茂の糺(ただす)の宮詣でのとき、その絵さながらの美人を見出された。これこそ今出川右大臣公顯の御女で皇后宮の御匣(みくしげ)殿であつたが、 遂に御文の通ふ便りが出来(しゅったい)して

 知らせばや塩やく浦の煙だに思はぬ風になびくならひを

 との御歌を遣はされ、はじめて御仲らひが結ばれたのであつた。しかるに好事魔多し、たちまち元弘の乱の出で来て宮は土佐の畑へお遷りになつた。 宮が京にゐます御息所のことを偲ばれて御嘆きあまりに痛はしく見えたので、御警固の武士も御息所をこの地にお迎へすることをお勧めする。 かくて宮が唯一人召仕はれた右衛門府生秦武文と申す随身が御迎に京に上る、嵯峨の奥深草の里に松の袖垣隙あらはな宿の内に琵琶を弾じたまふところを、内へ入つて御文を参らす。 あれやとばかりあとは御声ないを御輿に参らせて尼ケ崎まで下し進らせ土佐への順風を待つ、その間に筑紫人松浦五郎なるむくつけき武士が懸想しまゐらせて、 一夜郎等三十余人物具ひしひしと堅めて御宿に打つて入る。

 武文は京家の者といひながら心剛に、日頃も度々手柄をあらはした者であるから、枕に立てた太刀をとつて打ち入る敵三人を目の前に切り伏せ、 縁に上つた敵三十余人を大庭へ颯と打落し、門外まで追出したが、敵は唯一人と知つて傍の在家に火をかけ、また喚(わめ)いて寄せる。 武文は浦風に吹蔽はれた煙に目がくれて防ぎやうがなくなり、御息所を掻負ひまゐらせ、磯に出て、沖の船を招いて、この女性を暫く乗せまゐらせたまへと云ふ。 それに答へて真先にさし寄つて来た船は実に意外にも松浦五郎の船であつた。

 武文はそれとも知らず御息所をこれに置きまゐらせ宿の様子を見にとつて返す。さて松浦はこれこそ然るべき契と喜んで船を漕出す。武文はまた磯にかへつてその船、 と呼べども答へず次第に隔たる。どつと嘲笑ふ声が聞える。遂に蔵文はその儀ならすぐ海底の龍神になつてその船を遣るまいものをと腹十文字に掻切つて海底に沈む。

 松浦の船はその夜は大物浦に碇を下し、翌日筑紫を指して漕出で阿波の鳴門にさしかかつたところ、船は俄かに進まず渦に巻込まれる。 かうして三日三夜渦の中を廻つてゐる中さしもの筑紫男も弱り切つて観音の名号を称へると、長持を舁いだ濃紅(こきくれない)を着た仕丁、 白葦毛の馬に白鞍置いたのを牽く八人の舎人の行列についで秦武文が赤糸縅(おどし)の鎧、同じ毛の五枚甲の緒を締め、月毛の馬に乗つて現はれる。松捕はこれを見て、 さては武文の怨霊であつたかと、小舟に御息所と水夫一人をのせまゐらせて波の上に浮べる。かくて御息所は淡路の沼島(ぬしま)に着いて海士(あま)の家に御渡りになつたが、 道の程がなほ覚束ないので、そのままここに御留まりになり、やつと建武の中興になつてから宮に対面されたといふのである。

 この章は太平記中、最も複雑を極めた箇所であつて、平家の小督(こごう)の章に擬した優婉な描写もあれば、武文亡霊出現の怪奇な場面もある。 太平記中でも特に民衆に愛せられた箇所ではないかと思ふ。いまも尼ケ崎の某寺には武文の墓がある由である。しかしこの箇所を最も喜んで読んだのば私の父祖であつたらう。 まがひもなく自が祖先の功業を頌へたものだからである。

 しかるにこの武文の事蹟がこの章のあまりにも文学的すぎる叙述からも察せられる如く、また全く架空の説話であるとは──。 私がこの説話の架空談である事を知つたのは水戸の大日本史のお蔭である。その巻九十九の尊良親王伝の註には、この説話を紹介し、増鏡によれば、 御匣殿は宮が畑に遷られたころには既に逝去されてゐたとある。故にそれを本文に載せないと極めて簡単且つ正確に考証し去つてゐる。 いかにも増鏡の「むら時雨」の巻には中宮の御殿殿と呼ばれた御息所が元弘の頃には逝去の由を明らかに記してゐる。かくては武文の事蹟の架空談である事は間違ひもない。

 大日本史は徳川光圀公が寛文十二年に江戸小石川の邸内に彰考館を置き、人見伝、吉弘元常、中村顧言等をして編修に従事せしめてから二百五十年を経てはじめて完成した大著であつて、 それが国体の神髄を明かにし、大義名分の光復に裨益することの多かつた点については誰しも異議をもつべきでないが、ただその考証の点に至つては万遺漏ないとは云ひ難い。 しかるにこの考証に密でない大日本史が、わが祖先の事蹟に関しては甚しく厳密な抹殺を行つてゐるのは少しく皮肉なことのやうに思はれる。 大日本史の前後数十人の総裁の中には故立原道造君の祖なる立原萬先生の名も見え、しかも大日本史の本記別伝八十巻が全く完成し、浄写を畢つて義公の廟に献ぜられたのは、 実に萬先生が総裁であつた寛政十一年の十二月のことに属する。武文の抹殺については萬先生も相当の責任を負つてゐられるわけである。 だからといつて私は立原君に些かの怨みを懐くわけもない。ただわが家の中興の祖として、最も尊敬されてゐる人の真の事蹟が実は全く不明であることを悲しむのみである。

   八

 その後も私の家は代々、交野(かたの)の原から寝屋川が大阪平野に流れ出る出口に位する秦(はた)の地にあつたが、寛文二年に死んだ初代丸屋太兵衛の代にはじめて大阪の町人となつた。 西鶴の云ふ如く町人は金が系図であるとすれば、いまさら何を語らう。それにしても我家は初代太兵衛以来二百五十年の大阪町人である。大阪人を知り町人の性格を知らうとするひとは私と語りたまへ。

 それはとも角初代太兵衛以来三代までは西国町、即ちいまの立売堀(いたちぼり)高橋北詰より一筋内に家があつた。四代太兵衛は松原町に移り、ついで難波村に移つた。 この四代太兵衛は後隠居して通称を喜右衛門と改め、天保九年八十九歳でなくなつた。これがわたしの祖父のまた曽祖父に当る人である。非常に克明な、篤実な町人気質のひとであつたやうで、 詳細な日記、記録を残してゐる。いまわたしの手許にもその手蹟がある。それは没年の前年である天保八年に起つた大塩平八郎の乱のことを記したものである。書体は御家流の細字で、 往来の形をとつた内容は恐らく自身の見聞でなく何かの写しかと思はれるが、相当長文のこの記録を記した心情はわたしにもわかる。瓦版にすることも恐らく許されなかつた、 この未聞の大騒乱を身にしみて感じた自分を何かの形で残して置きたく思つたのに相違ないのである。鴎外先生の『大塩平八郎』に劣らず、 わたしにこの記録が興味ふかいのはただそのためのみであらう。

 この翁の後は孫の二代喜右衛門がついだ。即ち私の曽祖父である。私の祖父はその長男として嘉永四年に湊町の屋敷で生れた。ペルリ来朝の前々年である。 昭和九年八十四歳でなくなる前頃からは重い口を開いてぽつりぽつりと思ひ出を語つた。その僅かな思出話の中で、鳥羽伏見の戦の後、 十五代将軍徳川慶喜公が眼の前を通つて安治川口から乗船するのを実見したといふ話が私には大変印象深く思はれた。通路に赤い毛氈を敷いてその上を将軍様は歩いて行つたと云ふ話である。 祖父は第一回第二回の大阪府会の議員でもあつたのだが、その時の話も聞かず、八十四年の長い生涯もこのひとには何も与へなかつたのかなどと私はそんな不逞な気持で見てゐた折があつただけに、 将軍様を実見したといふ話は私を喜ばせた。いな私をして祖父に対する尊敬の気持を再びよび起させた。

 父はこの祖父のまた長男である。若い頃は竹柏園の会員で『心の花』に「浪速の人」といふペンネームでロマンチックな歌を出してゐた。今も健在であるが、 やはり奇妙に昔を語らない。私も多分さうなるのであらうか。

 系図を辿つて見ると私は秦の始皇帝から六十三代目にあたることになる。この六十三代といふ数字といひ更には始皇帝の裔といふことさへ前述の通り怪しい限りである。 しかし始皇帝の裔と称しない人よりはそれでもいくらか始皇帝に縁があるといへば云へるであらう。私が大学の学科を選んだとき保田與重郎などはそれを云つて喜んだ。 自らもあの東邦のTyrant(※暴君)、焚書坑儒を行つた反文化政策者に無関心ではあり得ない。そして自分の人なみでない我侭もEpicureanism(※快楽趣味)に封する強い傾向も、 始皇帝と結びつけて是認しようとする時さへある。その点で私は始皇帝の直系であるかも知れぬ。そしてその血はまたわが子等にも伝はるのであらうか。 (昭和13年8月 コギト75号、昭和15年2月 コギト92号)


参考資料 『西島氏歴代考』


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