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たなかかつみ【田中克己】散文集
【回顧】 敬愛する詩人 『津村信夫全集』 第3巻月報 角川書店 昭和49年より
私が初めて津村さんに会ったのは昭和十三年だったか、信夫さんが渋谷区南平台から目黒区原町の新宅へ移られたあとで、そこのお宅へ訪ねて行ったときのことだと思う。そのお宅は二階建ての西洋館で、蔓薔薇か何かのある大変瀟洒な芝生があって、いかにも津村さんに似合いの感じで、私なども大変好きな家だった。
もう今ではどんな話をしたか細かい記憶はないが、津村さんはそのとき喜んで迎えてくれて、楽しい一時を過ごした。そのときの印象は何とはなしにふっくらした豫想通りの豊かな感情と豊かな愛情を持った人という感じで、年齢も私より二歳上ということもあってか、それ以来尊敬とそのときの印津村さんに対して持ち、最後までその感情は変わることがなかった。
第二次大戦となって昭和十七年のこと、私は従軍記者として戦線へ行くことになった。ちょうどそのころ「四季」の編集会というのがあり、堀さんの命令で新宿に集まったことがあった。神保光太郎さん、丸山薫さんなどもいらしてそこに津村さんもいたのだが、私もこれだけの人がいるのなら安心し て、決死の覚悟で戦争に行ける、あとはよろしく頼むというような気持ちになり、そんな顔をすると、津村さんはにこにこして、あとは引き受けた、というような顔をしている。私は非常に安心して戦線に出て行くというようなことがあった。
戦線から帰国したところ今度は「四季」同人の歓迎会ということで、そこへ私は出席した。初めに丸山さんの挨拶があって、次に津村さんというとき、私はオヤと思った。丸山さんにそっくりだったから。オヤもう一人丸山さんが居るのかなと感じたくらいであった。というのは今までのふっくらし たところは同じであったが、顔色が非常に変わっていて、私の考えでは、その頃から病気があったのではないかという感じがしている。
津村さんはずっと信州の戸隠の方へ行っていたが、御自分の病気のことはそのころから自覚されていたのではないかと思う。御家族の方々はあるいは気づかれなかったのかもしれないが、私などは久しぶりに会ったものだから、その瞬間に津村さん、どこか悪いのではないかと思ったようなわけだった。
私はそれ以前から病気の人を見舞うのは大変嫌いだった。というのは私の見舞った病人はたいてい死んでしまう。一番ひどい例は立原で、いやいや見舞いに行ったら死にかけている。私の顔をみると、この次来るとき頼みたいことがある。京都の嵯峨野にある広隆寺の弥勒さんの写真を持ってきてくれと言う。それで持っていったわけなのだが…。死の床にはそれが飾ってあった。そんなことに堪えられなくて立原の葬儀には行かなかったような記憶がある。
津村さんが死んだという電報が来て、お通夜に鎌倉へ行ったときのこと、よく憶えているのは犀星先生が「ノプスケ」といって絶叫したことであった。そのとき私は津村さんという人は何て幸せな男だろう。どんなに愛されたことかという感じを持った。犀星先生にも茅野蕭々先生にも愛され、皆に愛されたこんな幸せな一生はないと思う。幸せというのは何だろうと折々考える。
ところで津村さんは戸隠が大変好きでよく出かけていたし、そこを舞台にして書かれた『戸隠の絵本』を私も愛読をしていた。今から考えると戸隠は鬼女で有名な所で、そういう所に特別に忌みを感じないで、寒いときでも病気になってからもたびたび行っている。その点、楽観的で明かるい。そんな心境でいられる彼をやはりうらやましい、幸せな詩人であったと思う。
津村さんの葬儀は北鎌倉の朝比奈宗源先生の元で仏式で行われたが、私はそのあと振り向きもしないで泣きながら帰って来た。私の悪い癖で感情を隠そう隠そうとするので、葬儀の行われている間は何事もなく済ませたのであるが、一人になってからドッとこみ上げてきたのである。津村さんという人 にはそういうことがなく、いつも気持ちのま主で明るくて希望を持って純粋であった。丸山さんは津村さんを非常に可愛がっていたのだが、そのわけもよくわかることである。『愛する神の歌』という詩集、どう考えてみても、「愛する神」はキリストあるいは三位一体の神を言っているのかもしれない。そういうことが論理的に合わないと私は気になることなのだけれども…。
津村さんにはお嬢さんがおられるけれども、まだお生まれにならない前のこと、未来の子どもを予言的に太郎と名づけて呼んでいたことがあった。そんな願望があったのかもしれない…。そのお嬢さんと私の死んだ子どもとは同じ年で、お通夜の席でも、あどけない顔をして「お父さんどうしたの」と言ったりして、私は身も心も張り裂けるような思いをしたことであった。
餘談になるが、丸山さんのことで記憶に残っていることは、四谷辺に丸山さんが住んでいらしたとき、ある日稲垣足穂が訪ねて来たときのことで、彼が五十銭借してくれといったら、丸山さんは「喜んでお貸ししましょう」といい、彼が帰ったあとで、「あれは馬鹿だな、ここへ来て五十銭借りたあとで、歩いて帰るつもりなのかな、電車に乗るつもりなのかな」と話していたことがあった。馬鹿という言葉に非常に愛情がこもっていることを感じた。人間への愛情は、津村さん丸山さんに共通したことだと思う。
私は愛憎のきつい人間なのだが、津村さんには、憎悪の思いは一つもない。私の愛する詩人、尊敬する詩人を一人あげよと言われたら津村さんである。愛する詩人をと言われたら立原になる。尊敬する方は、三好さん堀さん、特に堀さんである。朔太郎先生は私にとって愛する詩人である。年は私よ り上であるけれども、子ども同然の方で、本当に心から親愛している。
私にとっては懐しい詩人が一緒になって「四季」が出来ていたわけであるが、戦後丸山さんの詩をもって閉巻となった。また偶然のことながら、四度めも丸山さんと一緒に「四季」は死んで行ったとも思う。雑誌も人間もいつかは死ぬけれど、いつまでも生きつづけるのは津村さんの詩だろうと思う。
お兄さんの秀夫さんQ先生は映画批評で有名だが、愚劣なものは必ず愚劣だときびしくやられるので、朝日新聞よりもQ先生というと震えあがる程皆こわがった。そんな尊敬すべきお兄さんのいらした津村さんは幸せでうらやましい人だったと思う。
津村さんとの出会い印象など知っていることを強調したけれども、現在の私が一番好きな津村さんの詩は「夕方私は途方に暮れた」という一編である。
(書簡写真は小久保實編『津村信夫書簡・来簡集』1995年帝塚山学院大学日本文学会発行より。)