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田中克己日記 1961
【昭和36年】
昭和36年は、わたし管理人の生れた年ですが、詩人にとっていろいろなことが清算される年となったやうです。
これまで離婚の危機をはらみつつ続いてきた不倫、つまり八木さんへの思慕ですが、最終的な清算が、詩人直々に大阪まで出向いて行はれたのが7月のこと。そののちストレスから来たと思はれる十二指腸潰瘍で詩人はダウンします。さらに父である西島喜代之助が9月20日に逝去してゐるのですが、激甚の日々が綴られたと思はれる、その期間(7月26日〜9月27日)の一冊『東京日記11』が遺されてをりません。
日記の欠損は過去にも『コギト』創刊をはさんだ時期(昭和7年1月28日〜7月16日)に一冊みられました。その時は大学構内で反帝国主義演説を聞いてゐて拘引された「留置事件」があったのでしたが、このたびはどのやうなことが書きとめられてゐたのでしょう。御遺族にも聞き取り中ですが未だ判然としません。
しかしながらこの年を単純に災厄の年と申してよいものかどうかには疑問があります。といふのも、新たなノートに書きはじめられた日記には、夫人同伴で教会へ礼拝に通ふといふ、これまでなかった習慣が現れるやうになるからです。
不倫にまつはる心労のみならず、周りの学者連中が次々に“新制博士号”をとり始めたこと。とりわけ親友の羽田明氏とは、先学を辱める格落ちした権威なんぞには背を向けて、実力をみせつけて世渡りすることを共に確認し合った筈だっただけにショックが大きかったやうです。
また気安く接してゐた帝塚山短大時代の同僚、西宮一民氏も皇学館大学に招聘され(もちろん博士に、そしてのちに学長になられます)、「芳賀檀博士」との関係も、前任校東洋大学を相手取った齋藤晌氏の訴訟・証言に係ってでしょうか、このあたりから雲行きがあやしくなって参ります。羽田氏と同様、斯界の大家の2世学者である今西春秋氏に対しては「彼女に手を出すな」と面と向かって言へない苛立ちを禁じ得ないといった有様(笑)。
かうした精神的ストレスのもろもろが、蕁麻疹よりすすんで十二指腸潰瘍にまで詩人を陥れ、また睡眠剤にたよらねばならない不眠を経てこのさき宿痾となる躁鬱病にまで追ひ込んでゆくことになった。その過程であった父の死によって決定的に、宗教的改心にまで導かれてゆくことになった。そんな推測をしたくもなります。それを証する独白が見当たらないのですが、これまで隠しだてなく書き綴られてきた日記が不自然に欠落してゐるそのことこそ証左とみるべきなのかもしれません。
救ひを求めた宗教がキリスト教だったのは、悠紀子夫人が立教高等女学校出身であったことが与ったでしょう。戦後の一時期、物質的に援けられ、その教へも身近に見聞きしてきた筈の天理教でしたが、そこがそもそも不倫現場となった職場であってみれば、しがらみの多い宗教への帰依はありえないことでした。
けだし八木さん(※日記中では実名を避けて「○○子」を「八木嬢」と記しました)との出会ひは昭和22年、天理図書館への奉職までさかのぼります。
さうして実はそのずっと以前の昭和10年、結婚前の詩人の『夜行雲日記』に
「3月20日 郵便 八木あき子氏、北園克衞氏、衣巻省三氏、中村喜久夫氏。」
と、モダニズム詩人たちの名を差し置いて記される人があるのですが、どうやらそれが八木さんの姉君のことではないかと思はれるのです。
この姉君が、詩人の下阪時に最終的な話し合ひの場に同席して、
「責任をおとりになる必要なし。常識的にふるまはれ家庭に帰られよ」と、詩人に引導を与へてゐます。(7月24日)
ついで八木さんも「親戚中の反対の中をゆき、家庭建設の自信なし云々」。さらに「田中はかかあ思ひで有名」との噂を広められてゐることが判り、観念したやうです。
「愚行ここに終りを告げし也。」(7月25日)
このたびの入信、決意がひとに初めて洩らされたのは、関西旅行から帰ってきて夫人と大喧嘩したのちの4月23日のことで、そののちに記された
「この日ごろたよりよこさぬなれおもひそむかれしごと心いかれる。(5月8日)」
といふ歌から分かるやうに、心の整理がついたからではなく、煩悶のさなかに洩らされたものでした。このときは 打ち明けた旧友の奥さんから笑はれてをります。
また当時、保田與重郎の京都の新宅を訪問(4月5日)しておどろかされ、そこを『風日』歌会の場に定めて実質的な主となる彼とは、これ以後次第に疎遠になってゆくわけですが、青山で『不二』を主宰する影山正治とは通交を保ち、のみならず彼を三水会の講師に推薦(4月26日)してる位ですから、キリスト教と戦時中の文業に対する政治的改心とは、発心時に於いては趣きを異にするものだったといへるのではないでしょうか。
ともあれ欠落した日記の期間に、決定的な心情の転換が行はれたことは確からしく、その後の日記に表れる礼拝や関係書物の購入など一寸奇異にも感じられるほどですが、安心立命に向かふべく、(生来の癇癖こそ矯めることは難しかったものの、)成城大学教授として余生を送るための精神的基盤が、このキリスト教との出会ひによって確たるものになった気がいたします。
洗礼は翌年のことになりますが、これにより永年敬慕してきた堀辰雄の未亡人多恵子氏とは、悠紀子夫人をなかだちにした詩と信仰を通じた個人的な関係ができあがることにもなりました。
さて池田隼人が総理大臣となった宏池会が主催してきた勉強会「三水会」は、この年をもって解散します。三水会に招かれてゐた詩人は、社会人となった長男が官僚の道を進むことになり、人生の中で、最も政治の中枢に近しい位置にあった気がするのですが、「半自敍伝」を『果樹園』に連載開始したのも、公私ともに人生の大きな節目を前にして、半生を振り返ろうとしたのかもしれません。
また年末には大阪高校の同窓会が熱海の名旅館起雲閣で恩師を招いて豪勢に催されます。文乙クラスだった詩人はドイツ語の先生ロベルト・シンチンゲル先生の参加を周旋してゐます。ただこのクラスをまたいだ同窓会、竹内好は参加してゐますが、遠方からの参加組に、語学の秀才で朋友である筈の服部正己、そして保田與重郎と肥下恒夫の名前はありません。
もとより保田與重郎と母校のクラスメートたちの間には、肩寄せ合ふバンカラの友情が入り込む余地はありませんでしたし(そのためかうした際の断りの文言の歯切れも悪さうです)、皆より年長でかつては資産家であった肥下恒夫においても、世俗的成功者が集まる斯様な会に列席するのは憚られたことでしょう。
すでに経済的危機からは脱出してゐたといふ肥下家ですが、以前大阪で行はれた同窓会には会費が払へず、散会間際にやってきて皆を驚かせたといふこともありました。この年、日記に彼の名は『コギト』欠号に関する問合せしか記されず、同窓会の打診も行ってゐない模様です。愛知大学から大阪市立大学に移り、やはり博士号を取った服部正己に至っては、名前さへ日記に現れてをらぬのは少々冷淡に過ぎるやうにも思はれることです。
日記は、かうして旧制高校の友情が培ってきた『コギト』の終焉といふべき悲劇が待つ1962年へと向ふのです。
(追記:日記中の (※○字省略)は人名ですが、入学試験斡旋や試験結果に関はる一般人情報であり伏字といたしました。)
昭和36年1月1日〜昭和36年2月11日 「東京日記 9」
25.4cm×17.8cm 横掛ノートに横書き
1月1日(日)
賀状176枚。35枚を書く。午后また35枚(帝塚山の教へ子と立教・東洋)。
平凡社へ楊貴妃・楊国忠・熊廷弼・李永芳かくと返事。成城大学24枚に返事。
夕方、芳野清氏年賀にと来る。「長は中学1年、3児」と。
1月2日
賀状24枚。うち5枚を除く19枚に返事かく。
12:00、3女と悠紀子と渋谷(※弟宅同居の父母)・天沼(※悠紀子弟宅)へ年賀にと出てゆき、ついで史、出てゆきわれ留守をす。
22:30すぎ連中帰り来り、渋谷にずっと居りし、父神経痛ひどし、母疲れ、山田和三郎の孫、藤村弘文(電気通信研究所)といふが来をりしと。
1月3日
6:00起き出て8:00東京駅。せっつといふに乗り、混むを見つつ沼津下車。富士浅間神社を拝みてのち、千代の家といふにゆく。エンロの会員のみにて男2女2.勉強して酒飲む。
1月4日
11:00宿を出てbusにのり修善寺。散歩ののち昼食。またbusにて三島に出、喫茶する間もなくせっつ号(往復ともなり)にのり、買ひし駅弁くひて21:41品川着。途にすしを土産として帰着。
鈴木(正義?)生、海老を生きしまま持ち来しと。岡田志紀翁(69才と)結核にて入院中と。
悠紀子、キモノ雨のため着られざりしと。伊藤信吉氏より『朔太郎年譜』来る。
1月5日
晴。家居。賀状の返事すむ。本日来りしもの17枚。計268枚也。
国立公立学校の授業料も値上げときまりしと(大学9,000→12,000)
1月6日
和田賀代女史より電話「むつかしけれど野崎生の就職運動つづけゐる」と。
12:00すぎ久しぶりに松崎医院へゆく途、『富士山(40)』、『白馬及立山(40)』、ラトゥーレット『支那の歴史と文化 上(150)』、『諺文初歩(50)』買ひ、治療すみてのち国鉄にて阿佐谷。
瓶詰3ケ(305)買ひ、河北病院西2号館の岡田志紀翁を見舞ふ。安静時間なりしもあはせてもらひ、半羽織も受取ってもらひし。
そのあと『陣中の竪琴(30)』、『長耳国漂流記(80)』など買ひて丸屋市川にてまた『東北の民俗(100)』、『東北の玩具(100)』、『Chto takoe Sintoo?(※神道とは何か?[ロシア語])(50)』、『薬名辞典(100)』と買へば300としてくれし。
『白話本国史1(20)』見つけて買ひ帰宅16:00。
夜、俊子姉より電話かかり(阿佐谷にて数男に電話かけし)「日曜松田宅にてpartyやるゆゑ依子つれて来よ」と。諾せしあと依子にいへば「日直」と。悠紀子21:30ごろ帰来。
1月7日
快晴。賀状の返事17枚。他に7枚。
朝より寿賀子氏の電話2回あり。8日(日)13:00新宿小田急にて寿一と待合せ、宮崎龍介氏を訪ふこととなる。
夜、尾上教授より電話「問題受取りし」と。
悠紀子、田中俊子に電話せしに応答なしと。のちほどかけ「阜子(※たかこ)もゆけず」と言ふ。
1月8日 (※新聞切り貼り「ウシにカケる未来」)
また寿賀子氏より電話かかり「15:30新宿駅で」と。宮崎家の都合によりて変更と。
母、疲れてゐるとのことに悠紀子出てゆく。岸町よりの転送賀状44枚。他に18枚(返事など13枚)。
山田君江より「立原の愛読者だった」と。
14:30出て新宿で寿一待ち、目白の宮崎龍介・白蓮邸へとゆく。(※リンク写真あり)
白蓮女史「浪華の人」知りみ知らずみ(※知ってたり知らなかったり)なりし(※不詳)。龍介氏、3度中共へゆき歓待されしと。
月餅と『李太白』とおきて出、池袋で夕食。「寺島喜八郎翁昨年逝去」と。新宿で別れ、東中野で下車。『わが小説作法(100)』また買ふ。
1月9日(日)
雨。どこへも出ず。〒もなし。
1月10日
雨。賀状の返事3枚。他に4枚。
午后出て松崎医院。ついで成城大学へゆきしも無人。
阪本泉氏と糸屋氏の賀状受取り、定期券の証明もらひ、けさ電話かけ来し坂根生に電話して「あす午前中来よ」といひ、立教大学教務課に「もはや開講」とききてのちbusにて渋谷。
母に会ひ、千草のことかまふなといひ、父にも会ひしてのち、大さそひ出して「六兵衛」とかいふすしやにゆく。
(倉橋文雄氏のこの間会ひしとて伝言の名刺もちをりし)。おごられ礼いひ、「Colombin」にて喫茶して帰宅。
眠し。筑摩の井上氏より電話あり「明日また」といひし由。
1月11日
悠紀子渋谷へゆく。賀状12枚。11:00筑摩の井上氏より「月末までに書け」と。
そのあと蜜柑もちて坂根生来る。麻美子に会ひしと。このごろ手伝ひゐるトリスバーのこときき、出て古本屋見さし(雲呑くふ)てのち立教大学。
平塚・金子2生のみ。30分ほどして手塚教授に会ひ『羽田博士論文集』を羽田にいふこととし、「野崎生、中川講師には考古学をやりたしといふ」とききて出、
トリスバーてっぱ家にゆきてハイボール1杯のみ(180)、坂根生に5円借りて出、小銭作らんと歩く(『中国考古学の旅(350)』を飯島で買ふ)。
1月12日
定期券を並んで買ひ、成城大学へ登校。加賀山秀夫の賀状見る。(寿一へ23日11:00よりの叔父13回忌と叔母1周忌に出席の返事出す)。
史学研究法うまくゆかず「すみません」とあやまれば本間生笑ふ。
午后、漢文すませ(昨日、中川氏にききし通り、松村氏の歓迎会せしと。令嬢結婚せしと)。
帰らんとする途にて尾上氏に遭ひ、試験問題につききく。ついで鈴木生に会ひ海老の礼として文庫与ふ。
今井氏にも会ふ。(新城氏より『社寺と交通』預りしと)。
鎌田女史帰りをり沖縄へ吉田東伍(わが与へし)を置き来しと。
Frazer『金枝篇』成城堂に注文し、下北沢にて手紙投函してのち、寒がり乍ら松崎医院。
帰れば賀状8枚。おほむね返事なり。出雲生への賀状帰り来る。
夜、城平叔父より速達「平鋼治、早稲田と慶応の工科受けるゆゑ宿せわせよ」と也。依子、組合の会とて22:30帰宅。
1月13日
賀状9枚。他に金子喬彦生より「三彩社に就職」と。
城平叔父の件、悠紀子遠藤さんに電話して妹の旅館に世話するとのことに、すぐ返事かかしめ、出て速達。
聖心女子大学では試験問題提出、「ヌルハチについて」「鄭成功について」400字とす。
早くすませ、本田生さそひ「ケマル・アタチュルク」を卒論のthemaとするといふに賛成!喫茶店へつれゆきてのち、宮益坂。
『Daily Ex-press World Atlas(170)』、『The Background of Asia(130)』、『Buddhism in Pakistan(250)』買ひ、ついで『英訳ハイネ詩集(120)』買ひして寒がりつつ帰宅。
明日出発といふ依子に大江叔母へ「婿さがせ」の手紙もたす。
1月14日
6:40起され、7:45家を出て9:00少し前に成城大学につく。田中久夫氏をり、すぐ漢文。
そのあと年中行事のprint原稿作り、筑摩の井上氏に電話すれば未出勤と。
12:00田中氏と出て下北沢でラーメン食ひ『熱帯柳の種子(140)』、『正倉院(250)』、『彭湖風土記(70)』買ってのち筑摩へゆく。
お茶おごられ、他の人たちの原稿見せてもらひ、東博氏に会ってのち、国鉄にて渋谷。大宅へゆけば岑夫まだ来ず。
やがて悠紀子の帰りゆきしあと陽生来り、われ17:30出る。
依子、けふ夜行にて大阪へとゆく。西村美那子より「勤めやめる」と。太田陽子夫人より「原稿かけ」と。
けふ田中氏にきけば「奈良女子大の塩見薫氏、癌にて10日亡くなりし」と。7日は喉頭癌なりし内田暁郎氏葬式なりしと也。
史、渋谷の宴に参加して帰り来る。
1月15日(日)
里井千寿子より「柳枝子氏は母方の祖母」と。10:00悠紀子、森dr.へゆき、大へとの写真と吊書もちかへる。
賀状の抽籤あり、4等に[1名]、5等に[9名](※省略)諸氏の賀状当りをり。
午后、電話かかり吉成、村田の2生蜜柑1箱もちて来る。
けさ速達にて角川より「Heineの13版の印紙1,500枚に検印せよ」と。
1月16日
頭重しとて成城大学へ休みの電話かけさせ、伊藤信吉氏の礼状、堀ノ内歴より手紙「半自叙伝を遠慮しないで書け」と也。
笠野芳子より歌2首。他に『民間伝承』など4冊の雑誌。
夜、史より電話「追加予算で帰れず」と。この日、地震たびたび。
1月17日
寒し。小田急衝突の為不通と。10:00出て松崎医院をへて成城大学。
丸重俊また休みをり(角川の朝比奈嬢に電話し、図説世界文化史大系の16巻ききあはせれば「あり」と。「明後日とりにゆく」といふ。)
すみてアメリカ史やるといふ松島生叱りしにきかず「英語できざるも民俗学・考古学いやゆゑ」と。
そのあと文化史の会で大藤教授「引き続き主任やるべし」と、今井氏も賛成と。意外なり!
年中行事の会に出て21:00帰宅。
坪井より22日より2月5日まで滞在と。白鳥夫人より(令嬢)「服部夫人と会へ」と。増田春恵、西村公晴2君の賀状。
角川より10,500−1,575=7,037来しと。Heineの12版にて5ケ月目也と。
1月18日
晴。9:00出て東大前。西川英夫に電話して坪井の上京のこといひ、研究室にて和田先生年末危ふかりしときく。
三上氏の代りに後藤君『李朝実録』をよむ。三上氏12:00前来り、学術研究費申請の相談す。
すみて坪井へ速達し、「白十字」でlunch食ってのち西川家へゆき夫人に1年ぶりに会ふ。家改築しゐたり。
それよりbusにて大塚。研究所に松本(※松本善海)訪へば他出。またbusにて池袋。しるこ食ひて立教大学。
手塚教授に会へば平塚生、都立の大学院にすると。30分Coxinga(※国姓爺)やり、野崎生に白鳥夫人へ「明後日暇あり」との名刺托し、久保生とcoffeeのみにゆき、地下鉄にて霞が関。
宏池会へゆきて「三水会は24日」ときき、busにて渋谷。Frazerの『金枝篇』さがせしもなく、下北沢の大地堂にきけば「稀覯本」と。
『文学散歩 創刊号(90)』買ひ、2号ももらふこととす。
帰りて夕食に「はもの皮」と「すぐき」。城平叔父より「宿のこと宜し」と。山荘淑子より本の礼。
夜、山中タヅ子より電話「4月20日?結婚式」と。
けふ羽田君(※羽田明)へ「亨先生の論文集上下を手塚氏に頒け賜へ」と手紙。
けふ悠紀子渋谷へゆき「1興叔父の13回忌に山田出席、母も出るゆゑ、悠紀子出るに及ばず、留守たのむ」と也。
帝塚山文芸club会報へ300字。
1月19日
登校の途、短大生と暉峻博士と同車。中村幸彦発見といふ島原文庫を訊ぬれば「島原藩の写本の整理」と。
Zolbrad(※Leon Zolbrad日本文学研究者)のこときけば「期限きれて帰国した」と。
史学研究法すませ、高桑氏と話せば「新村猛、2号と同棲して東京に住み名古屋に通ふ」と也。
ちょっと鎌田氏よりFrazerの『金枝篇』借りて見たあと、聖心女子大学へゆき藤井暎子『日本古代宗教――蛇を中心とした動物群』にexcellentの評点をつけて渡す。題名も不可、研究も不十分なれど比較評点の尺度なければ也。
都電にて広尾橋−青山一丁目−九段上。角川へゆき朝比奈嬢の受付に預けし『図説世界文化史大系 中国2(16巻)(880×0.8=704)』もらひ、文庫5冊(500×0.8=400)買ひして、早大仏文出身といふ嬢と同行すれば、角川源義の嬢にて「アポリネール好き。村上菊一郎の許へゆく」といふ。荻窪まで同行して村上氏留守とわかり帰宅。
亀井昇より「長男をなくし「喪の正月」」と。
1月20日
晴。伊藤信吉氏より「萩原先生の愛人のことくはしくしらべる」と。新坂康子生より賀状の返事の礼。三野裕子生より診断書。
11:40出て聖心女子大学。また出来ずあやまる。すみて(salaryもらふ)しるこ食ひ、吉祥寺にて『北海道伝説集(100)』買ひて帰宅。
(けふ渋谷にて白鳥夫人に電話すれば令嬢の父君病気にて云々。News映画見る)。
1月21日
成城大学へ8:30登校。漢文すませ、前田教務課長より学長印もらひて東洋文庫田中正俊氏へ速達し、今井氏より吉成生の卒論引渡し受け、
田中久夫氏と今井氏の発掘予算獲得談ききてsalaryでるをまち、受取りて出、下北沢で別れ、
古本屋へゆき『文学散歩2(90)』受取り『続北京の市民(90)』見つけ『正倉院三彩(10)』買ひて(天丼60食ふ)松崎医院。
Dr.「鉄道員の息の経済入学につきたのまれゐる」と。古本屋にて鴎外『都幾久斜(※稀覯本つきくさ:月草)(2,000)』放置しあるを注意し、『猟奇(200)』買ひて帰宅。
東洋史談話会の通知来あるのみ。原稿かかず。
夜、永山より電話「鈴木とあす午后来る」と。浪中の教へ子なり。
(朝、城平叔父より速達「友だちもたのむゆゑ26日に来て宿みる」と)。
1月22日(日)
晴。佐々木邦彦君より「梓(満2才)の展覧会す」と。
城平叔父より万美子(※田中万美子)のdevueの写真。森dr.へゆき夫人に写真と吊書返す。
帰りて永山、鈴木の来るをまてば、18:00すぎ電話かけ来る。迎へに薬局へゆき22:00まで話す。カステラ1箱賜ふ。
1月23日
10:00までに渋谷へゆく悠紀子とともに家を出、成城大学。中国文学史はやくすませ、下北沢で雲呑くひてのち帰宅。
京、かぜにて休校しゐる故なり。悠紀子16:30帰宅。大も出て寿一宅の法事すみしと也。
1月24日 △登校。12:00。久しぶりに栗山部長に会ひて主任のこといへば「吾不関焉」と。
東洋文化史に丸重俊をり、時間はじめるとすぐstoveの火curtainにもえつき、藤井裕介消火す。
教務見に来りなどせしを機に「東亜の宗教」と試験問題いひ、研究室へかへる。
『成城文芸』の4月号を委員号とし、次を4月20日しめ切とせばいかにと山田、木桧両委員にいふ。
教授会にて遠足のこと出、2月4日までに出欠とると也。
すみて大藤、池辺2氏と連絡会(今井氏文部省へゆきをり、成城大学にて教授推薦出来るやうになりしと也)。今井氏と大藤氏と別に合ふでもなき様なり。池田教授心臓病とて見舞せんといひしに応へなし。
すみて地理の矢橋謙一郎氏まち、特殊講義交渉すれば「来週まで回答まて」と。
けふ昼食とらず、急ぎ帰る車中、そばへ来るは王子の子とて2B阿出川生ならん。『東洋史研究』来しのみ。
1月25日
朝のうち雨。午より晴れる。11:00まへ出て松崎医院。三鷹駅で浅野建夫夫人と遭ひ、同車して中野で別れ、立教大学。
1月分salaryもらひ、けふにて講義なきため、おほむね休講と知る。貫講師に会ひ挨拶さる。
30分やりて野崎生(学芸大へ願書出せしと)をまち、(doorをあけしが坂根生とておどろきて、のちほど「てっぱ屋」へゆくといひて追ひ返せし)、16:00といひて研究室へゆけば手塚教授も欠なりし。
挨拶すまして古本屋。『天平の文化 上下(300)』と『世界風俗大観(100)』と買ひ、4生と「てっぱ屋」にゆき見れば閉ぢをり。
喫茶してのち、またゆき坂根生に用件きけば「club活動をしらべるため成城へ紹介を」と也。「あす来よ」といひ、
4生にbeerのませ、にぎり飯くはせ(1470)、busにて中野(「てっぱ屋」のまへにて『民族学研究 新1の4(50)』見つく)。
丸に電話して坪井のことにてゆくといひ(先ほど電話して「土曜の都合よし」とききし)、新宿歌舞伎町の「春日」に電話してもらひしも不明。あすも一度電話するといひ、重俊、煦美子と話して帰宅。
北山(和田)章子夫人よりハガキ。「島田生も2世できし」と也。『聖心女子大学紀要』の校正来あり。
けふ賀状の賞品、八丁〒にて受取り「沢山ですな」といはれる。毎年のこと也。
1月26日
よべ6:00より7:00までねしのみ。出て成城大学へゆく途、また阿出川生、村田生と遭ふ。
暉峻、高桑2氏と話せしあと、史学研究法の最終すませ、関西旅行いへば10人以上ありさうと。
そこへ坂根千鶴子生、手塚日出子にる舞芸座生つれ来り、鈴木健司と野口駿雄とまちがへたりせしあと野口生にまかし、帰りて電話ありしといふ早川敏一に電話すれば、入学につきたのむと也。
そのうちゆくといひ、西川、室に電話せしにいづれも不在。(丸夫人より春日の室ありとききし)。
坂根生にsandwich買ひにゆかし、浅賀生より『本草綱目』のこときかれ、(この間、鞄とりかへし波形氏に西川への紹介状かきし)、短2Aの漢文打ち切りといひ、
帰りて睡眠不足につきふらふらとなり、出るところへ福島恵美子生「国文専攻と届け出でしも文化史専攻にかはりたし」と。
前田教務課長にききにゆき、「差し支へなし」ときき、(大藤氏「地理の講師に心当りあり」と)、ともに出て下北沢にて汁粉くはせ、思ひつきて矢野昌彦に電話すればこれも不在。
16:00より17:00までに電話たのむとことづけし、帰りて竹内好に電話すれば「出る」と。松村達雄に電話すれば不在。
19:00になりて西川に電話すれば「まだ帰らず」。坪井に電話して「土曜19:00中村屋2階で待合す」といひ、松村にまた電話すれば「トトヤホテルにて会あり」と。
倉橋文雄氏へハガキかく。けふ城平叔父10,000正平の案内にて来り、渋谷の宿の見分にゆきしと。
1月27日
西川より電話なく、21:30ねむりにつき、2:00目ざめ「半自叙伝1」として小林俊文の出てゆくところまで6枚かく。
ヤルタ会談のことと、小林のかつぎこまるるをつづきとせん。
また眠りて10:00さめ、すぐ出て渋谷へゆき、電話を原田(出席と)、紅松、横山(ともに不在。伝言たのむ)、
杉野(電話のもち主かはりゐし)にかけ、父に自叙伝見せよといへば、歌集の序文にて「わしのやうなものの出すこといらん」と也。
苦笑して出(東横にて防大平田俊春に呼びかけられし)、busにて聖心女子大学。
試験の日割発表見れば2月24日と3月2日。それにてまだ3週間講義あることを知り、教室にてあやまりしあと、またこれにて打切りといふ。
木間瀬教授より話あり、あとにて学生委員来り、史学会に楊貴妃の話することとなる。
出て下通より電話すれば、白鳥家にてはおそろひと。ゆきて南半整地中なるを知る。
令嬢服部夫人、仏女流詩人の宗教詩訳さると。いつにても拝見すといひ、野崎の就職たのみて(先生返事なかりし)出、新宿行のbusにのり「春日」へゆき見る。
コマ劇場の一つ前の通右折れ、右側なりし。秋田のすし(150)食ひ帰宅。
松村、竹内の二家に電話す。けふ山本嘉蔵氏より藤田先生の奥様「中野区鷺宮中山診療所内」と。
9:30就寝。「おぢば」(※天理教発祥の地)へどなりこみにゆきしゆめ見て覚むれば2:30也!
「玄宗と楊貴妃の世界」2枚かく。あと58枚也!
1月28日
その後ねむらず、だるきも成城大学へ登校。漢文教へて打切りといひ、矢野峰人「行春哀歌」うたふ。
眠く、矢野に電話せしもかからず富永次郎氏と遭ひ、八坂安守氏と知合ときく。
これにて伊藤佐喜雄思ひ出し、電話せしに「森良雄来会するや」ときき、「来ず」といひ、来ることとなりしならん。
吉成和也の卒論の要とり、教務に返却(鎌田女史、池田勉氏の見舞300立替へくれしと池辺氏)。
出て駅にゆけば吉成生をり、同車して下北沢。矢野に電話すれば「来る」と。
帰りて昼食し、ひるねす。青木陽生より「三島一教授と中学の卒業生会にて会ひし」と。名刺挿みあり。
相馬大の年賀状。16:00まへ悠紀子帰り来ざるも仕方なく出て新宿。
中村屋にて17:10まで待ち、来りし坪井(※坪井明)と「春日」にゆき、待てば18:00、丸(※丸三郎)、竹内(※竹内好)、矢野(※矢野昌彦)来り、これにて了りとなる。
20:00松村達雄来り紹介す。松村に森のいふごとき面あり。困りて21:00となり、出て新宿駅にて矢野、坪井と別れ、
中野にて丸下車せしあと、吉祥寺の昨日開店との焼鳥屋にてまた竹内におごられて23:00帰宅。入浴。
(新宿「春日」の近くに古本屋あり、坪井を誘ひて入り見しに長野敏一が平瀬己之吉に贈りし『支那の地方財政(10)』と坪井の『大和文学巡礼』とありし)。
1月29日(日)
山本嘉蔵氏へ礼。悠紀子、午后柏井尚子と高沢の叔母の見舞にゆく。
われ10枚として午寝。関口八太郎君への寄書に封をし、『果樹園』社へ原稿と同人費と封をす。
1月30日
2:30に原稿29枚として眠り、8:00起きて成城大学。中国文学史の最終やる。
今井氏、夫人の病気重しときき、藤井生、坪井生に見舞命じてのち、鎌田女史にきけば「ノイローゼにて自殺のおそれあり」と。
(けさ同車せしは戸田事務員にて「退職せし」と)。下北沢で下車。ラーメン食ひ干葡萄買ひて帰宅。
昼寝せんとせしもできず、19:00坂根生より電話かかり「のちほど伺ふ」とのことに、待てば22:00。
■(※不詳)マチ子氏を天野愛一に紹介す(山崎豊子に紹介せよと也)との名刺わたし説教してかへす。けふ『果樹園60』来る。
1月31日
9:00より卒論の面接とのことに、7:00まへ起きてゆけば下北沢で大藤氏と同車。
10:00まで今井氏来ず。学生も来ず。3先生補講せしゆゑ捗らず。午前中4人のみすむ。
(われ吉成生の田島生に清写せしめしを難詰す)。午食ひsandwich食ひ、平凡社へアジア史のことはりいひ、筑摩の井上氏にあやまれば「来週月曜にてよし」と!
東洋文化史すませ、池田勉教授の父君の弔慰たのむこととし、矢橋氏(※矢橋謙一郎)より地理学の特殊講義できずときき((※岐阜県西濃地方の)大理石会社の社長となると)、
大藤氏推薦の小川徹氏のこと栗山部長に了解ささんとせしも会へず。
(7生みな良の採点)。(聖心女子大学の史学club電話「木曜3時15分に来てくれ」と)。松村達雄君やりすごして駅へゆけば池田有宏と同車。西鶴やりしと。
別れて下北沢にて散髪、松崎医院へゆけば浅野dr.の医師団出席の補診のためか満員。やめて帰り来る。
夜、早川敏一君より電話「土曜来訪をまちし。長崎海星高校の中位、水産会社長の息子」と。「来週ゆく」といひ、「願書出さしめよ」といふ。けふはきげんよき也。
石岡の夫の家へ移りゆく挨拶をせず去りし人づま。
2月1日
昨夜よくねて9:00渋谷をへて地下鉄にて本郷3丁目。古本屋2軒見てのち研究室へ定刻ゆけば、講師三上氏すでにあり。
神田、田川2氏も来り、三上氏よめず。来年度も水曜ときまり、田川氏より「藤田先生の奥様面会せぬ方よろし」ときき、rice-curry食ひてのち、
井上にて『朝鮮の服装(250)』、琳琅閣にて『五雑俎(880)』、『荊楚歳時記、開元天宝遺事(500)』と和刻本2種。他に写本『天工開物(5千円)』注文す。
田川氏、蘇東坡集何万円かを買ひし。ともに都電にて東洋文庫。『歳華綺麗』と『唐県志』ともに旨くゆかざりし。
松崎医院によりて帰宅。
白鳥夫人より「お土産わたすつもりなりし」と。佐々木邦彦君より「梓君の個展よく売れTeleviに出し」と。
黒柳直子氏より挨拶。(けさ比企野道子よりreport速達にて来る)。(西川より15:30電話あり「坪井と来てくれ」といひしと)。
2月2日
晴、11:00出て成城大学。栗山部長に会ひ、小川徹氏(法政・都立大)の地理学特講の件いへば「よし」と。
臼井・高桑などの諸氏と閑談、嶋中中央公論社長邸への小森少年(まだ17才と)の暗殺事件(※前日起きた嶋中事件)には批判的なり。
すみて大藤氏に会はんとせしも来ず、池辺君に伝言たのみ、吉成の代作問題となりをるときき、出て渋谷。
聖心女子大へ着きしは15:00まへ(途中rice-curry食ひし)。講師室にて原田、長寿吉、内藤の3老教授会さる。みな80歳前後になり玉ふ。
迎へ来ずいらいらする中15:30となり、Palace roomとやらいふ元宮御殿にゆき木間瀬教授列席のもと「楊貴妃」(※講演)。
16:30ごろすませ都電にて渋谷、帰宅。
城平叔父より「宿は渋谷の宝栄旅館にきめ23日上京し来る」と速達。
正平より土曜午まへの万美子のtelevi出演を電話し来りしと。他人事は心配いらぬ世となりし(依子あす休暇とりて軽井沢と)。
2月3日
家居(昨日、聖心女子大教務課へ休講とどけし)。黒柳直子氏へ祝状!
橋本貫一氏より転居通知。京、1日より流感休暇なり。
『不二』来り、小森少年犯行の原因とといふ「中央公論」所載の深沢七郎「風流夢譚」の批判をのす。
2月4日
9:00出て成城大学。浅沼氏に旅行参加者13人をとどけ、野田宇太郎氏の来ゐるを知る。
琳琅閣の本着けば留め置けと図書館にいひ、12:00山田、野田2氏と井之頭線まで同行。
吉祥寺にて12:40なるゆゑ喫茶して待てば12:00ごろすでに坪井着きをり家にも電話せしと。
つれ帰り、昼食すでにすませしとのことに茶をのませ、疲れゐるを見る。
16:00ともに出て西荻窪にて西川英夫に電話すれば「まだ帰らず」と。
阿佐谷まで送りて別れ、駅前にて『金瓶梅4冊(250)』、『白川集(120)』買ひて帰宅。
(けふ篠原部長に会ひ『寧楽遺文』の請求2重となりしを発見さる。小川氏を地理の講師に呼ぶことと、本棚増してくれとのこと申し出でし)。平塚敬一生より「京大大学院受ける」と。
2月5日(日)
晴。家居。「玄宗と楊貴妃の世界」59枚とす。絵画、彫刻、科学などかかず。依子20:00すぎ[焦]けて帰り来る。
2月6日
登校。中国文学史の試験す。「わが聊斎志異」かくもの多かりし中に横の友のを写すあり。
とがみてのち研究室へ答案もち来させ、大塚、佐藤、齋藤の3Dに来年よりの出席を申し渡す。効ありや否や。
12:30出て(筑摩の井上氏、主婦と生活社の早川氏に電話せし)下北沢でrice-curry。国電にて水道橋。
早川氏にきけば友人の友人の子と。やめよといひていやになり、筑摩にゆき原稿わたし12,000−1,500=10,500貰ひ、19:00池袋の「てっぱ家」でと井上、東2氏に約束して古本市。
『朝鮮人の衣食住(150)』、『民間伝承2(120×2)』、『普通植物図譜(80)』、『吉林全図(150)』買ひて帰宅。
松田亘代(浜田)の移転通知見て、出て「てっぱ家」に着けば坂根欠勤と。やがて東氏来り、井上氏おくれて来る。1,790払ひて出ればtaxi呼止め銀座へつれゆかる。
坂口安吾未亡人のやる「Krakra」といふにて23:00。向ひの「桑の実」にて0時すぎ、井上氏とtaxiにて帰宅。1:00なり(860)。
2月7日
01:30家を出て成城大学。12:00より東洋文化史の試験。丸重俊「時間まちがへし」とおくれて来る。
すみて教授会。小川徹氏(法政大学)の地理講師の件、池辺君の伝言変なりし故、履歴書なかりしも通り、
あと教授資格審査の教授会(栗山、坂本、高田、大藤、相良、田中、山内?、佐野、大山、臼井、百瀬――池田欠)。宮崎、山田2助教授のこと也。
今井氏のこと問題となり、栗山、大藤2氏より説明あり。すみて学科の会。池辺君の篠原氏よりききし芸術専攻の使ひすぎを文化史の剰余よりの件。
篠原氏にききにゆけば帰りしあとと。事務の3女史さそひて餡蜜くひて帰る。
小高根二郎君より「同人費58号まで受取った」と。
2月8日
悠紀子、流感らし。われ午后、立教大学へゆくつもりなりしに、小使reportもち来る。終日家居。
2月9日
登校。宮沢女に皮肉いはる?茶ものまず9:00より試験監督。短大漢文に時間まちがへしと竹内生を研究室に入れてかかせ、午后、経工の監督にゆきてどなる。
すませて大藤氏の案内にて小川徹氏来り、講師たのむ。大正3年生。武蔵高校より東大理学部地理学科出なりと。篠原局長に本のつけもちゆき「これにて」といはる。
琳琅閣の『五雑俎(850)』と『荊楚歳時記(500)』とわがものにし、『天工聞物(5千円)』を学校に買はすこととす。
鎌田氏に800円の立替払ひ、高校1Aの小川氏の女に会ひにゆきしに試験にて帰宅と。受付に託して来る(水曜午前希望を教務に届け出づ)。
松崎医院により薬もらひ、経済に預書出せし国鉄課長に会はさんといはれて帰り来る。
眠くてたまらず。(聖心女子大に明日休講届けんとせしも話中にてかからず)。立教の地図見る。出来てをらず(台湾の地図なきなり)。
2月10日
小高根二郎君に「今後200行と1千円送る」と。白鳥夫人へ「ハイネ服部夫人の」と。
聖心女子大へ電話すれば「教務課で打切り承知」と!
13:00出て下北沢、新宿をへて立教大学。研究室の女史に採点わたし、飯島書店にて芳賀矢一『東海道五十三次(120)』、『北京(50)』、『広州一大同(50)』、そのあと西川英夫に電話すれば不在。
歩きて目白に出、『李太白(150)』買ひ、高田馬場まで歩きて帰宅。
風吹きて寒くなる。依子、きのふは組合にて23:00帰宅。けふもおそし。
2月11日
7:20家を出て8:20成城大学。漢文の監督し、定期券の証明もらひ、中沢生に会ひて副手(※以下ページ破れ欠損。)
2月12日(日)
(※ページ破れ欠損。)
2月13日
(※ページ破れ欠損。)
2月14日
(※ページ破れ欠損。)
昭和36年2月15日〜昭和36年7月25日 「東京日記10」
24.9cm×17.8cm 横掛ノートに横書き
2月15日
9:00出て渋谷より地下鉄にて本郷3丁目(出口に改札あるやうになりし)。『Gedichte von Nikolaus Lenau(100)(※レーナウ詩集)』買ひて東大。
山本教授に挨拶し、10:45より宮原氏の読むをきく。12:10すみて(和田先生面会されると神田教授の話なり)地下鉄前へゆく途、琳琅閣に『開天遺事』きけばすでに売れゐし。
木内にて『朝鮮の年中行事(200)』また見つけて買ひ、『続今古奇観(90)』といふを買ひ、rice-curry食ひて(80)地下鉄にて新宿。準急にて14:00成城大学。
さっそく池辺君に遭ひて今井氏のこときき、たづねゆきて10万円ほどの使途きく。川田副手よりもききして、かたはら漢文の採点す。
すみて上原助教授より修学旅行の日程の説明受け、考古学の室へゆけば今井氏ばつの悪さうな顔す。
丸重俊に『朝鮮の年中行事』をあすもち来れといひ、出て下北沢をへて渋谷より虎ノ門。
三水会にゆけば浅野氏流感なりしと。「吉井勇」の話ききしあと話長くなり、次は3月22日にわれ「近世暗殺史」をやることとなる。
出てtaxi、佐藤、勝部の2氏につきあはされ新宿をへて渋谷(330)。帰宅。23:00なり。
2月16日
寒し。8:30出て成城大学。西洋美術史(富永教授)の経Tの試験を監督せしあと、白井紘史よりの電話きき「15:00来よ」といひ、
出て高橋通子と猿渡祥子の2生とたんめん食ひにゆき、帰りて経UAの採点すまし報告。ついで図書館にて「暗殺」をしらぶ。
すみて白井紘史と出て駅にて今井氏を囲む諸生を見、busにて三軒茶屋。喫茶後、三茶書房へゆけば今井氏引率下の山田君江、村田、吉成、川本、郷右近?、西沢?、渡辺らの諸生をり!
渋谷へやりすごしわれ『宝雲抄(80)』、『日本星座方言資料(250)』、『愛情の匂いと生命の味(70)』、『の烏孫歳時記(40)』を買ひ、渋谷へ出て喫茶。帰宅すれど仕事せず。
(けふ2A鈴木淳子生と同車し朔太郎の詩よみて泪もよほすことありとききし)。
2月17日
『伊東静雄全集』来る。よみつつ悠紀子と神山町の伊勢すみ江夫人の安産祝にゆく。母、鈴木夫人来をり。すぐ出て井之頭線駒場へ出、下北沢にてラーメン食ひてのち成城大学。
篠原局長他出とのことに中国文学と中国文学史の4年の成績のみ報告し、出れば鈴木睦美と三野美佐子生とに遭ひ、下北沢でしるこ食はせて帰宅。
高橋邦彦の出版記念会を28日(火)中村屋で18:00よりと。出席と答ふ。(帰り『仏陀の生涯(60)』、『The History of the World(130)』、『The Legacy of the Ancient World(120)』を南口で買ふ)。
2月18日
11:00登校。篠原局長に会ひ、今年度文化史の指定寄附割当90万円中、使用72万円?なるをいへば、年度変りても使用認むと也。
これに喜びて14:00まで研究室にをり(金木生の漢文を山高女史に届け、川田副手より「交通費のみもらひ3日出勤なりし」ときく)、
迎へに来ざるゆゑ予餞会に出ざることとし(わが遭ひし2年みな「出ず」といふ)、村田生に恰も遭ひて、これをいひ、下北沢下車(豪徳寺にて齋藤晌『日本的世界観(30!)』買ふ)。
古本屋見てまはり吉祥寺にてまた探し、最後に北沢にて『昭和犯罪史正談(100)』といふを見つけたり。帰りてこれを読み、assasinationについて書けさうとなる。
太田陽子夫人より「4月いつ来るや」と。寿賀子より写真送付し来る。この間見つけし『続今古奇観』といふをよむ。ふしぎなる本なり。
2月19日(日)
あさがた高野明子夫人と姉、姪のゆめ見る、ふしぎ!小高根二郎、西島寿賀子へ礼状かく。
(※6字省略)氏より「186番で受けるほか、早大、学習院を受験。28日頃上京、丸弁護士とに一席設ける」と。
羽田明君より「吏文辞典受領。送料はいらず」と。
午后田中龍平来り、「兄と別れる故、家庭教師せわせよ」と。そこへ永山光文より電話「たのみごとあり」と。
来しと龍平をひきあはせ、話きけば「大新塗料とて50万円資本の会社こさへるゆゑ西川英夫に紹介たのむ」と也。
2月20日
悠紀子、京をつれて渋谷へゆく。母風邪なりと。弓子休みとて12:00留守におきて登校。(太田陽子夫人より悠紀子へ「了解を求む」とハガキ。)
丸重俊呼びて(丸家へ電話せしに夫人出て登校と知りし)report呈出を命じ(鎌田、池辺、今井の諸氏と会ふ)、池田勉氏の見舞にゆく。
低血圧にて最高80と。金川春三君はいま伊丹高校長と。帰り久しぶりに松崎医院にゆく。湿疹再発でもなきらしかりし。
中村にて『支那商店と商慣習(120)』。悠紀子かへり「この間、健、(※2字省略)家により土産もらひし」ときき来る。
2月21日
悠紀子けふも渋谷へゆく。われ1人となりて11:00出、12:00成城大学。上原、浅沼2氏と修学旅行の日程きめ、大和にて2日、京にて2日、文化史の自由の日を作る。
そのあと中沢よび副手のはじめとして考古学教室にゐる毛受呼ばしめ、日程につき相談せしむることとす。
そのあと採点ちょっとしてふらふらとなり、「栄華」へゆき雲呑くひ、ついで教務で経済学部の志願者数きけば「昨年の志願者にすでに達しゐる」と也。
15:30より高校連絡会。出来る男生はみなよそへゆく様子明白なり(富永次郎氏より『日本の菓子』もらふ。Salaryもとる)。(丸に電話せしに登校と)。
(昨日岩崎昭弥より学校に電話かかりしと也)。夜、早川君より電話。月火に先方の父兄に会ってくれと。深夜、(※6字省略)氏へ速達かく。
2月22日
5:00すぎ眠り、9:30目をさませば無人。そのまま郵便来るを待ち、3月20日の謝恩会通知のみなるを知る。
中村女史より電話、すぐ来て保険料とりゆく。そのあと戸じめして出てゆき中野よりbusにて立教。手塚教授在室。羽田よりのたよりに「原価にて宜し」とありしを伝ふ。
出て古本屋見てあるき、正林堂といふにて『地名アイヌ語小辞典(180)』、『日本博物学史(80)』買ひ、親子丼くひ、丸に電話すれば「夜来よ」と。
歩きて舞芸座にゆき坂根生に会へば「事なし。てっぱ家はやめた」と也!
busにて新井薬師。古本屋を巡礼し『支那南北記(100)』、『和漢薬用植物(100)』買ひ、『大正犯罪史正談(100)』見つけて喜び、中野より丸家にゆきみれば無人。
高円寺にゆき「赤ちゃん」にてhigh-ball2杯(130)。出て電話すれば「丸、半時間して帰る」と。
また古本屋にて『思ひ出(河上肇)(20)』買ひて丸家へゆき(※2字省略)氏の上京の時の相談し、重俊のこと話し「最高裁図書館へ紹介す」とききて出る。
2月23日
悠紀子、渋谷へとゆく。われ12:00出て成城大学。教務前田課長にきけば(速達にて4C山際ミツ子report!を送り来し)「点やってくれ」と。
腹立ち止まざるも出て、思ひつき田中順二郎にゆけば雅子夫人、近くの夫人をあつめをり。この間、藤田夫人と電話で話せしと。
出て大江房子に会へば龍平の話ききて住み込みの家庭教師せわせしもだめなりしと。
経堂まで歩き帰宅。けさ遠足にゆきし京、ひとりにてねてをり。
2月24日
富永次郎氏へ礼状。成城大学謝恩会に「出席」の返事などかき終夜不眠。
京ねごとをいひ、朝計れば微熱。悠紀子と喧嘩して渋谷へゆかずと電話し(寿賀子、千草よる来る由)、浅野建夫dr.に電話せしむ。
『日本語再発見』来る。いやな本なり。
浅野dr.14:00来り、注射打ち薬持参し呉る。
出て聖心女子大。試験答案受取れば「Mother Britt会ひたし」と。2月分3月分のsalaryもらひ益田女史に会へば卒論審査費(あとであければ300円なりし)賜はりし。
出て成城大学へゆき、若葉兄と話しつつ森田、比企野2生に電話せしも共に留守。「28日12:00前に来よ」と伝言す。若葉兄と話して不安となり、梅見にゆくこととす。
11:00出て三鷹。ラーメン食ひ散髪し(160)、浅野dr.にゆき往診費とも230払ひて帰宅。「丸重俊来ざりし」と也。
2月25日
約束の梅見とて6:00起きて見れば雪降りをる!傘もちて7:30出て東京駅。少し早く45分まちて出発。熱海下車。待合せ来ぬ故、伊東へゆき夕食食べずもっぱらしゃべる。
しろじろとやみに梅咲き紅梅のあやなくありしくちをしがりつ。
わがさがかよそに咲く花手折らんととげある木にものぼらんとする。
この木には痛き刺ありひともまた刺さんといましとげをたてをり。
2月26日(日)
(5:30起きしかど4:30まで眠れず)仕度して6:30taxiにて小田原。むかし来し城[趾]の梅見る。早咲きにてよからず。道も悪し(よべ以来小宮母君と姪といふに謝し500を姪に置く)。
税金のつくひる夜兼ねし飯を食ひ(beer小瓶半ばのみて疲れなほる)22:00帰宅。
東京はけふまた雨降りしと。里井千寿子より祖母君「西島さんか」と云ひし由。聖心女子大学より卒業式の案内。欠と返事せん。
早川敏一留守に来り、「受験せぬこととなりし。労を謝す」と挨拶しwhisky1瓶おきゆきしと。唯一の吉報なり。松崎dr.よりは電話かかりしと。
2月27日
『果樹園』へ速達。太田、鍛治2生へ4月3(月)4(火)ならと返事!八坂安守氏へ「電話せよ」と。
角川より本年度証票(10,829)。午后、松崎医院へゆく。湿疹再発しをり。夫人に会ひたしといへば病気と。
「のちほど電話す」といひ、子供の本4冊京へと買ふ。(往きに十返肇『文壇風物誌』買ふ。日本浪曼派復活に対する反対をのせをり)。
夜となりて悠紀子、渋谷より帰り、父また悪く、母、大に叱られ寿賀子を帰せしと。
折柄、森dr.3月3日の大高会にさそひに来をり。Pocket-momeyの問題にてせせら笑ひ、帰りしあと(※悠紀子夫人)「7年間に百万円をためる法云々、梅見か雪見か何見か」といふ。我きげんよく黙す。ふしぎ。
子らねむりしのち、ガリガリ縷々と論じ就寝2:30。
2月28日
10:00出て成城大学。採点報告すます。比企野、森田2女生来りまちゐしかば、reportのテーマに合はざるをいひ、不合格とし、丸よりの電話きく。
成城園へ雲呑くひにゆき、13:00より資格審査会(池田教授出席)。山田俊雄、宮崎孝一2教授の教授昇任、満場一致できまる。快し。
大塚生来りしゆゑ、題目に合はざるをいひ、佐藤、齋藤とともに不合格といふ。(丸重俊来りしゆゑ70点与ふ)。
14:00より教授会。短大より文化史に2人来ることとなりし。組合役員に木桧、後藤の2君新選。
疲れて出、駅前にてcoffeeのみ17:30中村屋へゆけば会場に誰もゐず。Fruits食ひてゆき見れば高橋邦彦『愛のcaricature』にと栗山氏来る。
開会待つまに話きけば「学位論文2千枚をかきし」と。「息子の義弟」の入学なら無条件にて許されんと。
宮崎孝一氏(その他、木桧、浅沼などの諸氏をり)の隣に坐り、昇任祝し、Byron、Dickensをともに語らんといふ。
幹事にたのみ「朔太郎と同郷同境」をいひ、出て(草野心平に遭ふ)地下鉄にて西銀座、taxiにてとどろき橋ぎは下車。
訛りし電話の名にて探しまはりしのち、丸夫人に電話して「治作」とわかり、ゆけば(※6字省略)、丸の2友まちくたびれし様子。意外にも「学習院大にコネつきしゆゑ心配無用」と。
飲み食ひして21:00自動車。丸に概ね話して帰宅。学校へ山本恭子の手紙来をり。「東京にある夜学教へよ」と。
古田房子より「飯坂にゆきし」と。坪井勝也より「予餞会盛会なりし」と。野崎正昭生より「Cathoric中学に1.4万円の専任となりし」と。このごろたのまれごと皆ぬけふしぎ也。
3月1日
家居。富永次郎氏よりハガキ。午后『ノンフィクション全集13』来る。悠紀子、友人にゆき、われ留守して憂鬱なり(昭和22,23年の日記よむ)。
夕方、龍平来り、城平叔父忙しくして会へざるをあやまり、おこし1箱おきゆく。依子、銀行をやめると也。
夜、就寝後、悠紀子われを「嘘つき」といひ、まこといはんとすれば「心臓痛し」といひ2:00ごろまでねむらしめず。
3月2日
9:00出て成城大学。英語を相良氏と、社会をひとりで監督す。出がけ(※2字省略)氏より電話「学習院自信なきゆゑ受けさし、明大も受けさす。自らはけふ帰名」と。
大藤氏と話せしあと眠きため帰り来る。(けさ行きがけの井之頭線で千草と遭ひし)。
森dr.に寄りしに帰宅と。(西川英夫に電話して常務昇任の祝いひ、あすの同窓会にてあふこととなる)。
『果樹園』来をり、堀ノ内歴われを「田中少佐(小児マヒ)」とあだ名す。
井階房一、名古屋支社長となりしと。佐々木邦彦「梓個展3〜8日、銀座松屋7階であり、8日終日会場にゐる」と。
(下北沢の大地堂へゆけば、釣銭事件忘れをり『性風土記(200)』、『南方文化の研究(200)』買ひ、『支那民俗風景(60)』おもひしにたがはずdoubleなりし)。
(下北沢でまたPhilip Morris(130)買ふ)。夜は広大の小倉教授『最後の記録』をよも了へし。
3月3日
牧(志野)和子、野崎正昭2生へ祝ひのハガキ。服部美千代夫人より「立教の出講知らせよ」と。「きまればしらせる」と返事かく。
11:00筑摩書房の井上氏、校正をもち来る。13p.となりをり。「参考書4〜5冊を挙げよ。明日とりに来る」と也。
『果樹園』東博氏へと托し昼食し、採点すませ14:00聖心女子大へもちゆく。田中保隆氏にと1冊ことづけ、出て都電にて信濃町。
時間あまりて聖堂の書籍文物流通会へゆき『真本金瓶梅(680)』、『日本東京所見小説書目(150)』買ひ、『中国菜(2冊160)』といふを買ひして西川に電話すれば「17:00来よ」と。
やむなく歩きて近くまで来れば玉村式索道KKの看板上りをり、3階まで上りゆき受付に聞けば「村田常務(幸三郎)は出張中」と。名刺置き、西川にゆき、今井氏をといへば、これも出張中。
17:30となりてNew Tokyoまで公用車でゆき(※大阪高校同窓会)、Schinzinger先生に挨拶し(残念乍ら(※旧生徒監)佐々木喜市氏にも挨拶す)、矢野、岡本熙、和田浩、福永、倭周蔵、原田運治と近く坐る。
桐山、中西(元労務省次官)、古川(法務政務次官)の講話きき、古藤会長、三浦貢、中村忠夫など東上の会員の話をききしあと飲食。
21:00すみて福永、矢野と西川に茶おごられ、地下鉄にて矢野と新宿。京王にて明大前まで同車して別れる。
けふ桐山、三浦2氏に挨拶す(三浦治、大阪高槻市天王町に在りと)。
帰りて桐山氏のこといへば史、「会ひし時、父を『知らず』といひし」といふ。反対に中西氏われをコツ(※諢名)と識りゐたり。
(大高同窓会名簿買ふ(300)。森dr.訪ぬれば欠勤。自宅に電話すれば風邪と)。
深更「楊貴妃と玄宗の世界」の参考書5冊をあぐ。
3月4日
きのふ暖かりしも今日は普通。9:00まへ出て試験監督に登校。2時間目の短大の英語、3時間目の文芸の社会。
すみて監督の野口生さそひて喫茶。日本古代史を考古学より見ると。別れて電車にのれば若葉弟(けふ若葉兄と羽入田と2人来て11日年中行事の会「追儺」やりてのち1千円にて会食すると。
一先づ出席と答へし)。また誘ひて下北沢でしるこ食ひて帰宅。
佐々木邦彦画伯より梓君の揮毫風景のせし『週刊現代』来り、23日東洋史談話会の案内来をり。
わがのぞみ半ばなれりとただひとりのみを祈るとたより来しゆゑ。
けふ筑摩書房より校正とりに来しと。
3月5日(日)
6:30起き7:45家を出て面接。百瀬、浅沼2氏と組になり12:00をすぎて午前の部すまし(けふより講師室勤務に松崎女来る。前のは悪かりし故よろし)、16:00午后の部すます。
篠原部長に会ひにゆき (※4字省略)の結果聞けば202番にて50万円出せば確実と。丸に電話すれば「その必要なからん」と。愉快でなし。
帰途井之頭線で宮崎孝一氏と同車。上田勤氏の死を知りをり「怒り虫なりし」と。
正平より「資本論よみゐる」と。渋谷へゆきし悠紀子21:00近くまで帰らず。鈴木元夫人、千草と遭ひて話しゐしと。
3月6日
山本恭子より電話あり。夜学駄目といふに10日訪ねてゆくこととす。午后聖心女子大の採点するにわが講義の「moodよかりし」といふが3人ありし。
15:00弓子に留守番たのみて出、聖心女子大へゆけば受付に徳富氏あり。採点わたす。「明日の謝恩会に出るや」と問はれ、「出ず」と答ふ。
歩きて大にゆけば居り、目もて「父にまづ会へ」といふに、会へば機嫌よかりし。昔の執筆の切抜見せらる。文にては情濃やかなり。
母に祝を500の会費にせよといひ、大と出て渋谷。coffeeのみて別る。母の言一々思ひ出せば不愉快なり。
日記よみ(2、3日前よりす)て昭和25年彦根の短大新任まで来る。
(石渡曜子生に電話して「ゆきて好きや」ときけば「宜からず」と)。年中行事の会へも出ざるをいふ。
3月7日
8:00すぎ出て駅より中野行にのり、蚕糸試験場前で下車。丸にゆけば「家へ電話せし」と。
9:15出て中野より地下鉄、まづ最高裁事務次長内藤頼博氏(高遠の旧藩主と)に紹介受け、小出図書館長(※最高裁判所図書館?不詳。)に電話してもらひ、午前中5冊借出す。
花井卓蔵博士の『訟廷論草(7)』の刺客論といふが星亨刺殺の伊庭想太郎を弁護せし也。その他に『湖南事件』を見、午すぎとなり、第一弁護士会へゆけば丸の被告食堂にてbeerとrice-curryと賜ふ。
そのあとまた法務省へつれゆかれ、人事課長西尾善吉郎検事より図書館(※法務省図書館)に紹介受け、別れぎは大高15期とわかる(文乙)。
図書館長松山貞夫氏親切にてcard見しあと司書女史と話し、前田勝太郎いま研修所と知る。
14:30出て(明後日再来といひし)、地下鉄新宿をへて成城。16:30の経済学部の発表みれば(※4字省略)(186番)通りをり。
下北沢駅より丸夫人に電話し、連名の祝電打つといひ、足立生と電車で遭ひ、電話電報に気づき帰宅。
95円にて「セイジョウゴウカクヲシュクス/マル/タナカ」とす。
永山光文より電話かかりし故、西川に話せしことをいふ。次に博光より電話、祝電着いたと名古屋より云ひ来しと也。
ついで20:15名古屋より(※2字省略)夫妻の電話あり「むりしたね」と喜ばる。
川本静江生より「四国を旅行し淡路を望見した」と。沢田博士より『近畿民俗27』。太田次男氏より『平安時代に於ける白居易受容の詩的考察』抜刷。
3月8日
8:40出て成城大学。入試判定会にて120人を成績にてとり、特別寄附50万円、30万円を十数人とり、次に縁故をとる。最低は(※2字省略)講師とかの女にて70点台なりし。
すみてうなぎ食はされ、出て鈴木健司と村田謹一郎とつれ立つを見(卒業式の答辞鈴木正義よむこととなりし!!)、鈴木をともなひて喫茶。
新宿へ出て地下鉄にて松屋。ゴムの犬(350)買ひ、7階の個展見てのち8階の食堂へゆき佐々木夫妻を見つければ梓ねてをり。
ややして同座の丸木位里夫妻紹介され、ソ連・中共にての「原爆の図」展の話きく。ソ連にては延長され、中共は喜ばず北京にてのみやりしと。
別れ告げて出、帰宅。悠紀子をらず。若葉東雄より『文学散歩3』送り来をり。けふ柏岡明に電話せしに「電話はづされをり」と交換手。永山光文より「西川親切なりし」と電話ありしと。
3月9日
9:00出て成城大学。庶務課にゆき3千円(5月末まで)借る。松崎女に会ひしのみ。
図書館で『故事成語辞典』借り、新宿をへて地下鉄にて霞が関に下車すれば声かけしは帝塚山短大の三苫事務長。「文部省へ出張」と。後刻といへばすぐ帰阪と。
法務省図書館へゆき3冊普通書かり、12:30に出て弁護士会下の食堂へゆき湯麺くひをれば「丸先生より電話」と呼び来る。
出れば田中ちがひにて「後刻会はん」とのことなりしも神兵隊事件の書(※三水会講演「暗殺史」の資料)は部外禁とて見せてくれず。
やめて出、喫茶してのち、丸に帰宅をことはる名刺置き、ふと思ひついて地下鉄にて不二歌道会にゆき、鈴木氏(※鈴木正男)に会ひたしといへば不在。
塾監長谷川氏出て『七・五事件公判記録(※大東塾出版部)』貸したまはる。他に『昭和維新の諸事件(30)』といふを買ふ。
再来を約して出、Baedeker『The United States(100)』、吉井勇『恋愛異聞(150)』、『満蒙鬼話(120)』買ひ、寒きゆゑcocoaのみて帰宅。
〒なし。けふ成城より大洋漁業に電話して大塚の寮きき、電話せしに「名古屋の人をらず」と也し。夜、久保靖彦より「くち見つかりし」と電話。
ついで丸重俊より「追儺の原稿とりにゆく」と。「11日出られざるゆゑやめよ。この間来まちゐしに」と返事す。
3月10日
8:00永山光文より電話「西川の世話にて仕事ありさう。丹波道久在京」と。「連絡とりて会はせよ」といふ。
午后、若葉伊奈緒より明日の会に出よと速達。鈴木健司生より「そのうち来る」と。
16:00まへ出て西荻窪より山本恭子に電話すれば「遠足にゆきし」と。「訪問またの日に」と伝言たのみ、永山に電話すれば「外出」と。
若葉に電話し「あすの会出られず」の伝言たのみ、荻窪の古本市にゆき『真山青果全集15(150)』、『施公案(250)』、『支那草木虫魚記(100)』、『日本の古橋(50)』、唐木『森鴎外(80)』買ひ、
永山の電話あるかと急ぎ帰れば、すでにかかり「丹波あす16:00電話して云々」と。
夜、アジアアフリカ作家会議日本協議会の関西支部より速達。
3月11日
16:00永山光文の電話まちゐしにかかり「のちほど丹波と会ひてまた電話す」と。17:30またかかり吉祥寺駅北口にゐると。すぐゆき「春日」といふに案内さる。
きびしき訓練受けゐるらしく21:00小金井の寮へ帰らねばならぬといふ。
鈴木なかなか来ず心配して永山迎へに出、20:00ごろ来しと飯くひて21:00近くなり、丹波を駅まで送り、taxiにのせられて荻窪「八重」といふbarにゆき22:30帰宅。
3人中、鈴木が保守派にて丹波、われ、永山の順なり。丹波『不二』をよみをる。
3月12日(日)
(※4字省略)より電話かかりしゆゑ、出て羽織の紐買ひ(170)駅へゆけば中々来ず。11:00家へ電話し北口教へしことたしかめて北口へ出ればをり(これも家へ電話せしと)、つれ帰り昼食す(14:00)。
学習院も学科通りあす面接と。父は学習院のぞむと。『世界の歴史1』与へフランス語辞典を祝にするといひwhisky1瓶もらふ((※2字省略)氏きのふまで滞京と)。史に送りにやらす(わがゐるところにては史ものいはず)。
太田陽子夫人より「下阪を謝す。みなより集めし」と1.3万円、「金は受取れず」との手紙さっそく書く。
月13日
終日家居。伊藤佐喜雄より『春の日』といふ雑誌を青山虎之助氏が出すにつき出よとハガキ。(朝、(※4字省略)より電話かかり「嬢みな落ち親子ともに悲観、成城2次受ける」と)。
3月14日
雨、家居。10:00さむれば京、遠足に出てをり、佐藤春夫先生の名にて速達「『春の日』出版につき18日(土)17:00田村町新雅(※中国飯店)で会をす」と。
鈴木睦美生より岸町へハガキ。竹内好に電話しアジアアフリカ文学者会へ参加すべきや否ききしに「せよ」と。
午后きげん悪きゆき子出てゆきしあと(※5字省略)夫人来り「次嬢、上智をのこしみな入試に失敗」と。「」成城2次に栗山、池田、坂本、高田氏に云はん」といへば喜びて帰る。
この4、5日むかしの日記をよみ、昭和31年まで来る。依子きのふbonus出しとて、けふcake買ひ来る。
3月15日
8:30出て切符買ひしあと、けふの判定会14:00からと気づく。致し方なく経堂下車、矢野昌彦に電話かけ「日曜嬢をみにゆく」といふ。
そのあと久しぶりに小高根太郎君訪ね、いろいろ話す。『金瓶梅詞話』借り、北口の古本屋にゆき『山椒大夫と森鴎外(80)』買ひ、昼食に炒飯たべてのち成城大学。『明史熊廷弼伝』ちょっと見て14:00すぎよりの判定会に出る。
新baseきまり給与規定案見しに「教授を国立並にす」とあり助教授講師は規定なしとて上原、浅沼2君力説し、われら不快。
出て下北沢で下車。切符買ひ足しまた高井戸のあたり散歩して帰宅。
城平叔父より「平鋼治と阿部公二君とpassの予定ゆゑ下宿さがせ」と。齋藤晌教授より「証人申請は4月27日(木)10:00の予定。その前に会合に都合よき日を指定せよ」と。
夕食後、(※5字省略)君より電話「けふ饅頭もって史を訪ねしに国会。あす来る」と。「も一度史のところへゆけ」といひしがきかず。
そのあと早川敏一君より電話「この間留守に伺って失礼」と。ついで中村書店「けふ2時電話せし」と。「25日午に来たまへ」といふ。
けふ悠紀子、税務署へ確定申告にゆき「9千円未納」といはれしと。変な日なり。
3月16日
雨。けさねざめして9:30まで寝てゐしところへ(※2字省略)姉弟来訪。名古屋の酒まんぢう1折賜はる。
けふ学習院へ手続すると。父大喜びと。
12:30すし食はせて悠紀子に送りにやれば矢野昌彦より電話「速達したから見よ」と。
夕方、杉浦夫人より電話「次女上智大に合格した」と。空室きけば「なし」と。
このごろ金瓶梅をよむ。右原尨(※詩人)、沢田四郎作博士へ受領のハガキ。
夜、田中順二郎君より電話「(※2字省略)次嬢同志社落第、天理大へゆくか帝塚山へむり出来ぬか。明日電話してきく」と也。
3月17日
9:30(※5字省略)君より電話かかり来てよきやと。来いといひ、伊東花子夫人より「29〜30日東京へ来る。連絡方法知らせよ」とのハガキ見る。
(※3字省略)君と赤飯たべ、齋藤晌氏へ「4月16日の日曜あたり如何」と書き、城平叔父には「20日平鋼治君上京の由ゆゑ連絡させよ」との速達かき、
ともに出て郵便局へよりしあと、鴎外墓に詣り写真とってもらひ(※リンク)、busにて吉祥寺((※3字省略)氏の母校大成高校の前を通る)。
井之頭公園を見しのち喫茶、家へつれ帰り(猩々袴2×15買ふ)、夕食せしめ18:30悠紀子に送り出さす。
中沢生より電話「26日ごろ謝恩会す」とのことに「われには謝恩のおぼえなし」とことはる。
そのあと坂根生と話しゐれば(※2字省略)君より電話「帝塚山の2部に入れ(※しかるのちに)1部にかへよ」といへば「天理にやる」とのことなりし。気の毒にしてかつ不快。
けふ(※3字省略)君にきけば(※2字省略)氏も湿疹と。矢野君の速達見しに嬢「十文字高校にては優等なりし」と。
3月18日
(※2字省略)のことにて少し眠りがたかりし。朝がた成城大学のbase-upでわれ53395になり、上原助教授これを見て多すぎるといひ喧嘩せしゆめを見て覚める!
伊東花子氏へ「着京後電話せよ」とハガキ。田中雅子夫人より電話「成城第2次の願書とりにゆきし」といふに「(※2字省略)次嬢よこせ」といひ、はかばかしく返事せぬに「明夕ゆく」といふ。
アジアアフリカ作家会議より「22日(水)14:00東京会館別館へ来よ」と速達、「行く」と返事す。
15:30出て渋谷より地下鉄にて新橋。電話かけてきき田村町4「新雅」といふへゆく。
佐藤先生(※佐藤春夫)来られるまで話相手なく、来られても話相手なし。檀一雄の提唱にて太宰治賞を定める。
『春の日』は6月頃発刊、外村、中谷、檀、伊藤が編集同人にて青山虎之助氏は前にも2千万円出版に金出せしと。
木山、浅見、今官一、伊馬春部(大を識ると)の諸氏と名刺交換。帰りて入浴。
(佐藤先生筆の趣意書に「好色の徒なれどもエロ作家にあらず」とあり、同感をいひし)。
不二出版社より電話あり、留守といへば「明日またかける」と也しと。
3月19日(日)
雨。影山氏よりの電話「神兵隊事件の公判記録を渋谷へもち来りおく」とのことなり、礼いふ。
ついで矢野昌彦より電話「いつ来るや」と。「13:00ゆく」と答ふ。
悠紀子、依子、京、買物にと出てゆく。平塚敬一生より「京大・都大の大学院受け京大落ちし」と。
12:00雨中を出、下高井戸下車。矢野昌彦を訪ね、饗応され栗山部長へ紹介状かく。ついで西垣氏(※西垣脩)へ電話すれば「2部入試にゆきし」と夫人。
15:00出て上町まで電車。田中順二郎にゆけば雅子と湖東章子。湖東への手紙托し4月3,4日下阪をもしらす。17:30出てbusにて渋谷を経て帰宅。
けふ鈴木といふが留守中来りしと。
3月20日
よべ1:00に眠り、さめれば9:00すぎ。卒業式遅刻承知でゆけば11:00にて了る前なりしらしくみな寒かりしと戻り来る。
この間ゆめ見し上原君、「松村嬢、学割で新婚旅行に来し」と機嫌よく話しかけし。
salaryと手当と出る由にて待つ内、新卒6人来り、研究室への贈物といふをくれ、学科主任として礼いひ、謝恩会不参をいひ、
また新卒を囲むtea-partyと呼びに来し羽入田、若菜2先輩に贈物もたし、ゆけば「先生出ぬ会には他の教師も出られぬとの仰せ」といふに「出る」といひ、写真うつされ、
salary+年度末手当28140−所得税4510−住民税460−大学懇話会100−団体保険料20−組合費50−共済組合費 2496=60,704もらひ、
成城園で炒飯(150)食ひ、吉祥寺にて1万円札くづさんと大川周明『回教概論(300)』、『京城大学史学論叢2(250)』、『論語之研究(200)』、重光『昭和の動乱(350)』買ひて、
アワモリ草(30)1株買ひて帰れば、城平叔父より「フミミタ ゲシユクアツタ ゴアンシンコウ アトフミ」と来をり。
3千円とりて悠紀子にわたしてすむ(矢野に電話して栗山氏に番号56教へ来訪をいひしことをいふ。くはしきことは栗山氏にいはざりしが気がかり也)。
3月21日(春分の日)
山本恭子へ「当分ゆけず」とことはり。福地君へ西川への送本代200送る。きのふ悠紀子、天沼にて「船越章televi必要となり、母、妻をはたらかさすなりし」ときき来る。
渋谷へ悠紀子、京をつれてゆきしあと、『和田先生古稀記念論叢』出来上り3500円に割引するとの通知来し。
矢野昌彦君より電話「栗山部長に会ひ、会議に田中君に一言してもらふ」といはれしと。
散歩かたがた散髪にゆき(200)、太田金次郎『法廷やぶにらみ(100)』買ひ、あとで丸才司検事の名あるを見し。
平田家へ寄り一家にて墓詣りといふに父検事と浅野氏とのこといひて帰る。
悠紀子帰り26日に「伊勢よりは誰も来ず」と。父だいぶ元気と。
3月22日
9:00出てお茶の水よりbusにて東大正門前。時間早く琳琅閣に『五雑俎(880)』と『荊楚歳時記(500)』の代払ふ。
「愛媛大学の藤野氏の本60万とかで高知大学へ入り、今西春秋の本(※父、今西龍博士の蔵書)は800万円と見積られし」と。
『大清三朝事略(100)』買ひ、15分間閉ぢし研究室前で待てば阿南君来り、「本日の講師」と。『大清三朝事略』ゆづり、待てど誰も来ず『和田先生古稀記念論叢』見る。
やがて松村潤氏より電話かかり「けふ来られず。後藤君も遅れる」
とのことにて村山氏(喘息と。榎、山本2氏も経験ありと)と止めんといふところへ神田氏来り、後藤君と5人で12:00までよむ。
すみて出て立教大学。salaryもらひ手塚氏と話し、野崎生就職と話しゐざるを知りし。
中野泰雄『父中野正剛伝(100)』買ひ、地下鉄にて西銀座。東京会館別館のアジアアフリカ作家会議協議会といふに出る。
亀井勝一郎、阿部知二に挨拶(中島健蔵を見る)。石川達三、堀田善衛の話きき、井上、依田ら『骨』同人の推薦で呼ばれしことわかる。
茶菓摂りて出、毎日の桐山氏呼べば未出勤。歩きて日比谷公園をよぎり丸に会ふ。
はじめて「止めよ」といふ。また歩きて宏池会(三水会)。大鵬の柏戸に敗れしを見し(とりなほし後)。
暗殺史30分やり21:00出て浅野氏(※浅野晃)と渋谷まで同車、あひかはらずよそよそし(齋藤氏「小学館よりの漢詩叢書にかけ」と。出廷前の会合もある模様なり)。
太田陽子夫人より4月4日(火)大丸前東入ル「燕京」3階にて11:00〜17:00と。
立原健至氏より道造23回忌を26日(日)10:00谷中多法院にてと。
城平叔父より「平鋼治、学校のすぐ近くにて宿みつけし」と。藤田亮策先生奥様より「百ケ日を了へし」と。
合服(10,500)けふ見つけくれ、悠紀子永山光文に遭ひ、家へ電話かけ、西川の紹介にて仕事あり、礼に来んとせし也と。
3月23日
曇。太田夫人へ「4月4日出席」と。立原健次氏へ「当日参れず」と。家居、無為。
3月24日
9:00影山氏より電話「いかがなりしや」とのことに「本にはならず」と答へ、午后ゆくといひしも心ひ直してすぐ出、
宮益坂のぼる中、玄誠堂にて金田一『アイヌラックルの伝説(120)』と上田敏『みをつくし(150)』買ひ、
不二歌道会にゆけば影山、長谷川2氏ともにあり、ややくはしく話し『昭和の動乱』2冊を贈り、
また中村(※中村書店)にて『有職故実(20)』、ついで『故事と成語(100)』買ひ(影山氏に『神兵隊公判速記録』いただく)、
news映画見てのちrice-curryくひ、成城大学へゆき、文芸の第2次志望者384になりしときく!!
鎌田女史と話してのち高田瑞穂氏訪ぬ。よき邸宅をもてり。『みをつくし』贈りて出、祖師谷大蔵駅前まで歩き、busにて吉祥寺(40)。
富士高校の内村氏より電話ありしと。夕食後またかかりて「久保生を人文地理8時間の講師にはいかに」と。本人に電話してきけば「宜し」となりし。
アジアアフリカ作家会議協議会より「寄付はいくらするや」と速達。
3月25日
8:30家を出、9:10成城大学へつき、恰も来し栗山部長に矢野の嬢のことたのむ。増田とやらいふ婦人待つとのことに、ゆきて会へば増田正元の令嫂。
「次嬢の受験につきそふ。のちほど忠氏来る」とのことに、朱子学関係の論文さがしゐれば忠氏お越し。
昭和4(5?)年の正元の葬り(※昭和6年1月)以来32年ぶりなり。娘も肺に陰影あり(長嬢は国文出にて栗山氏にたのみゐる様子)。
別れて英文の監督し、すみて内村氏よりの電話かかりしときき、久保生の家の電話番号さがしとて(渡辺氏に一応報告す)社会の監督におくれ、教務課長にがき顔しゐし。
すみて立教大学史学科に電話して久保生の番号きけば副手女史、わが声を識りをり。久保家に電話すれば妹出て、「兄、学校へゆきし」と。
千歳船橋よりbusに乗り吉祥寺。帰れば(矢野に電話して「384人中なれど部長承知」といふに「class会31日18:00」と)、西川よりclass会の通知ありし。
けふ京、井之頭小学校の卒業式なりし(けふ来年度の時間割もらひしに2時間目よりあとなり。うれし)。
20:40矢野昌彦より電話「書いたこときいて見れば出来てなし云々」。けふ池辺講師『四川』『江南』2冊持ち来る。
3月26日(日)
雨。6:00起き、7:20出て成城大学へ8:20着き、午前と午後と木檜、佐久間2氏と面接78人。立教女学院より2回目の女子が気の毒なりし。
すみてcoffeeのまされ、雪となりし中を猿楽町までbusに乗り母の70祝にゆく。(※リンク写真あり)
伊勢の治子2児をつれ来をり、父も早くより出てをりと。寿一のとりし映画とテープレコーダーにてあそび(我声、老人の声になりをり)、21:00まへ出て吉祥寺よりtaxiにて帰る。
丹波道久の礼状(21日出し)と鈴木健司生の速達(わび状)と来をり(父、亡母の50年祭のこといふ)。
3月27日
昨夜の雪つもりをり。母より電話「大、4人の姉を呼びて饗す。4時来よ」と。弓子、京をつれて14:30悠紀子出てゆく。
けふ〒2回。午後の便にて佐々木邦彦画伯より礼状。福地君より受取「元市(※最初の『果樹園』印刷会社)の自動車2台となり、主人会ひたがりをる」と。
安田章生氏より『白珠』とハガキ「小高根氏を訪ねし」と也。また速達にて「春の日の会を9日松葉屋見学、会費2千円」と。
(久保生より「内村氏たづね話きまった、1時間200円」と。)
19:00すぎ飯炊き20:30依子を迎へ、3人の帰宅23:30。安田、丹波2氏へ返事。けふ『金瓶梅』の校事すみ『玉燭宝典』をよむ。
3月28日
きのふ寿賀子を加へて5人でご馳走となりしは「阿比留」とて一ツ木町のすっぽん料理にて、大の愛人(同年と)ら3人姉妹のやる店と!!
けふは夜間の遊覧busにのるとて悠紀子また京をつれて留守番にゆく。
われ〒なければ『半自叙伝3』書く。和田賀代女史より電話「野崎生を養子に世話せんと思ふが如何」と也!
中村書店より電話「30日午ごろ来よ」と返事す。
散歩に出て『昭和史(新版)100』買ひ来る。わがとがめし霧社蕃の叛乱かき直しあれどまだをかし。
帝塚山学院同窓会「総会を2日に」と。池田勉氏より「父、愛太郎氏の満中陰志贈った」と。
月29日
晴。中沢生より電話かかり「あす「武蔵野」にて会す」と。「4月3日創立22周年記念祭」と大東塾より。「無条件降伏3」を速達せしむ。
午后電話、小学館の某氏より中国詩全集の編集会を齋藤、蒲池2氏とで3日(月)にと。旅行といって断る。
午后、池田勉氏より香奠返しに風呂敷。武蔵野税務署より9,090の督促状(28日付)。
鍛治初江君より「class会にて待つ」と。悠紀子「帰れず」と電話あり、弓子の買ひ来しめざしを食ふ。夜、また電話。矢野君より心配して也。
3月30日
8:30出て成城大学。10:10より入試判定会はじまる。縁故多きゆゑ250人とることとなり、90人の判定。
(※4字省略)320点にて34番、(※4字省略)は140点にて301番なる上、結核不合格2人の1人なり。
栗山部長「金はとらん」といひ、後藤君の「スヂ通らぬ」との発言にてやめとなりし
(伊東未亡人に電話して成城へ来いといへば、庄野潤三と十合で会ふとのことゆゑ電話を栗山氏にせよといひし)。
380人中、欠29人。40人を上よりとり、寄附200点までと縁故250点まで、補欠も20人こさへし。
すみて矢野夫人に電話し、昨日電話ありしといふ京都新聞東京支局に電話し、筑摩井上君に3度電話せしもだめなりし。
村田、鈴木誘ひに来て吉祥寺をへて保谷の「武蔵野」にゆく。鈴木「田中先生には声ふるはせて叱られし」といひし。(※リンク写真あり)
出て学生7人と今井氏とで吉祥寺「田園」といふ音楽喫茶にゆき、1千円おきて帰宅すれば京都新聞より電話かかりをり。
「湖国についての原稿あす14:30とりに来る。短大にて習ひし」とのことなり。
悠紀子あす建の子らを上野のZooへつれゆくと。入浴。(矢野に電話かければ「栗山部長に会ひ成績良かりしとききし」と)。
3月31日
8:00伊東花子氏より電話「けふこれから田中光子氏に会ふので云々」と。
悠紀子の京をつれて出しあと滋賀新聞へと200×8書き、ごみ穴掘りなどして14:10ごろより表に出て待ちゐれば、
また電話「いま(※時間が)明いた」とのことに「すぐ吉祥寺北口まで来たまへ」といひ、14:20来し滋賀新聞柳野一郎君と写真技師とを迎ふ。
「県立短大にて1年話きき、早稲田の教育へ変りし。筑摩の『世界の歴史』にて成城大学を知りし」と。
「京都新聞にも書け」と。承知して15:00まへ自動車で駅のそばまで送られ、別れて伊東夫人待つまに大阪行往復買ふ。
15:10来し夫人の土産賜らんとするを伴ひてお茶の水下車。「大阪にて福地君に会へばマキのこといふべし」と答へ、
別れて筑摩、井上君に会へば『世界の歴史』送らせしと。また1冊もらひ原稿料のこといへば8千円呉る。
出て『台湾先住民之薬用植物(250)』みつけ、蒲池氏を訪れば「入浴中」と。
山本にゆき学校へと多く小説類を買ひ、われには『台湾番事物産与商務目録(200)』。
蒲池氏に引返せば齋藤晌氏来らる。『世界の歴史』贈り三水会やめんといへば車代ゆゑかまはずと。
「小学館との話合けふにせんか」といはれ「今よりまた会」と申し、busにて農学部前下車。あるきて会場にゆく。
矢野、西川、丸来をり、やがて室、中野、谷口、岡本にてそろひしこととなり、大阪への使者いひつかる。
矢野は栗山部長に5万円するつもりなりしと。3万円にせよといひ、会費1,600を矢野に払ってもらひ写真撮さる。
原田の同僚「面接にていひし先生あり」とに気づき速達せしと。それがまにあはず落ちしですみし。
けふ林富士馬長息千葉に入学ときき電話せしに全家留守なりし。それより「春日」までtaxi。またbeerのみ釣の話すると23:00までつきあはされて帰宅。
『果樹園』来をり、山本の電報おくれて来をり。
4月1日
8:00めざめ9:00出て東京駅10:00まへにつき、「阿蘇」の出るを見しあと「第2阿蘇」といふのがあるに気づき乗ればすいてをり。
浜松下車。『山東みやげ(10)』、『世界の奇習異俗(100)』、『京城(10)』、『寒具抄 :日本名菓撰(40)』買ひ(『浜松市街図(80)』そのまへに買ひ、住吉町の遠きを知りし)、しるこ(50)食ひなどして17:35の名古屋行にのり、18:33豊橋着。やがて来し「霧島」にて下りし山本(※山本治雄)と落合ふ。
今西春秋が礼2万円。他は130づつにてとのことに少なきをいひ、とりあひすとの宣言ききなどして不快きはまりなく、今西の悪口いふ。
4月2日(日)
10:00朝食くひ(2人にて2800を払ひし)11:54にのり13:47名古屋下車。「比叡5号」にのりかへて17:00京都着。
「丸物」にてアラブへの土産とて高価な物買ふにつきあひてのち、普通にて吹田着。土産に日記帖買ひ、夕飯くひてゆく。この日はわれ咎められて不快なれど言葉なし。
4月3日
起きて山本夫妻と話し、夫人の方謡曲熱心ときく。事務所へゆくみち「幽玄」との語を山本よりきき驚く。
元市印刷所に電話すれば「主人けふ都合わるくあすにてはいかが」と女事務員の話。「あすはだめ」といひ川崎に電話すれば不在。
出て(日本レーヨンに電話し小高根二郎君より「昼食に12:00に来よ」とのことなりし)淀屋橋まで歩き、きけば「堀ノ内と福地君と不和」と。「松本一秀の婿優秀」と。
われアジアアフリカ作家会議と「春の日」のこといひ、書かれる友と思ひし。
出て松本にゆき(日本生命)、階下の食堂にて5人のかかあの会員をもよばる。松本の去りしあとちょっと話して、ききし隣の万代千代蔵に会ひにゆけば不在。
名刺を托し、地下鉄にてナンバにゆき、鞄あづけしあと沢田四郎作博士に電話すれば「事故にて臥床」と。
おどろきて千島土地の山本嘉蔵氏に電話すれば「旅行中」と。困りて心斎橋筋を上って阪急別館にゆけば古田房子不在。室きけば「明かず」と。
困りて福地君に電話すれば「来よ」と。片町線までたどりつき、京橋駅の階段下るに寒気立ちし。ゆけば父君に会ひ、大東博士にゆけば夫人迎へて「泊れ」と。
博士の帰らるまで待ちて挨拶し、ナンバまで福地君さそひキツネウドン食ひてのち黒門市場前の汚きHotelに入る。
22:00まで話して笑はし、本与へて別れしあと3:00ごろより眠る(矢野、栗山、林の3氏にハガキ書く)。△(いづもやにてまむし食ひ吉田君に会ひし)。
4月4日
8:00起き9:00出て「五割引食堂」といふにて朝食(80)。(よべの泊り800なりし)。
天牛支店のあくを見て、よべ見しKâma Sûtraの訳(150)買ひ、米沢家へゆけば父母喜び迎へらる。この間帝塚山短大の木村(校務員)来て、わが西下をいひしと。
補聴器買ひて喜ぶ吉野の少年に泪ぐみ「Dega」にゆきて京都の版画ヱハガキの値問へば「しらべおく」と。
出て北上する中、佐渡島金属の梅本思ひ出し!!訪ねて「御門」で喫茶。30年会の話し、取締役となるとの話ききてのち別れ、「燕京」にゆき見れば無人。
川崎に電話して30年会了承せしめ、松田(伊藤)好治郎のaddressきき(西川のため)、
やがて来し鍛治君と郵便局にゆきしあと「燕京」に回りて太田夫人に会ひ1.3万円かへさんとすれば皆の出せし金と。
やがて10人位となりしところにて、またいへば「3先生にて分けよ」と。長沖先生14:00お越し。
そのころまでに武田(男児つれ)、西洞院(2児つれ)、後藤田(男児つれ)、塚本(児つれ)、谷、生田、野崎(男児つれ)、、浅野、橋本(男児つれ)、南隅、三治(男児つれ)の諸夫人と山尾、山中、山荘、相良の諸嬢。
道下夫人よりは電話にて「16:00来る」と。井上斌子よりは「16:00まで決算期にて」と。齋藤はるみよりは「腎臓炎と。」
14:00野崎夫人帰り、16:00道下夫人来しを機に散会。
「御門」にて西洞院夫君と会ひ、戎橋まで出て井上斌子とあひ、茶漬屋にはおくれて来し清水夫人の他は井上、鍛治、山荘、相良、山尾、山中の6嬢。
taxiにて3人去り、地下鉄にて井上、山中2嬢の去りしあと、鍛治嬢と同車にて玉出。
別れて19:15駅に来られし山本嘉蔵氏と沢田四郎作博士訪へば起きておいでにて、『阿波木頭民俗誌』と『沖永良部島民俗誌』と賜ふ。
「10月成城へお出で」と。山本氏は「17日成城へ」と。
大和の民俗は保仙氏、山城は井上氏に話しおかんと。紀州田辺の山本信江に電話かけたまひ、話せどあとにて泉佐野保健所へ5月転勤、2児として1週間前に女児誕生とわかる。
出て20:00ナンバより古田房子に電話すれば不在。「やかましき室はあり」とのことに、たのみて、
「Dega」を思ひ出してゆけば「聞きをらず、値はゆきてしらべよ」と中婆さんのいふに腹立ててどなり、
(福地家にて堀ノ内の手紙を見、妹君8千円にて和島事務所に勤めゐるとききし。
朝電話にて話せし湖東夫人より梅花女子大に次嬢入学の祝を、また電話して湖東にいふ(20:00))、
100円のヱハガキ6組買ひcoffeeのみて出、阪急Hotelにゆけば「母君入院中」と。房子生帰り来るをまちて入浴。
日記かためて書けば1:00(浜谷生また死産と!)。ふしぎなること多かりし。
(帝塚山学園短大にいまは左翼の榊原美文入りしと。西宮君のsalary去年10月より手取り3.9万と!万美子のことは知らず。
元市有泰(※元市印刷社長)、中島悦子の名を夜にいりて思ひ出す)。
わがことを愛するひとの多きゆゑくるしくなりぬわれが心は。
原田運治、井上達三2氏へハガキ。
4月5日
7:00目ざめ食堂へゆけばまだ開かず。中島生の結婚たしかめんと電話しらべしにわからず。
番号きかんと住山生に電話すればかからず。十時生に電話すれば「ちがひます!」と。これにてあきらめ高松生に電話すれば眠さうな声にて田中秀子の婚約をいふ。
朝食くひゐる中に秀子生より電話かかり「玉葱の出来るころ結婚」と。9:00房子生の起きしをまち会計きけば1,050と。
母上入院中にてその係の医師は新谷次郎と。ふしぎなることかな(太郎博士にゆき魚の目とってもらひ帰り来しあとなり)。
元市社長に電話し「そろばん出来る子いかに」といへば「写真送れ」と。伝田生と壽岳博士の媒妁にて話出来上りゐしがこはれしと也。
それより湖東に電話すれば反対せしも「先程の候補者は田中の子といひてのち、東京へ電話す」と。
10:00出てbusにて御堂筋。桜橋といひて車掌に「ちがひますよ」と教へられ、梅田新道で下車。歩きて店あけはじめし高尾書店へゆけば店主喜ぶ。
わが本1,990円に送料100つけて東京に送ることたのみ、学校へも少々買ひし。
大毎へゆけば天野愛一未出勤(長沖氏にきけば坂根よりたのまれし「ぼんち」の作者は渡欧中。権利はみな吉本興業にまかせゐると也)。
産経にゆき早川麗子と和田章子両夫人呼出し、茶のませて早川には出雲生、和田には島田の名刺托し、今沢幸呼ばんとせしも未出勤。
駅への途、阪神電鉄本社へ寄れば大河原倫夫常務取締役となりゐし。新京阪にて四条大宮。
それより電車にて鳴滝(西垣清一郎を思ひ出しつつ)保田家。御陵守の家そっくりなり。着けば伊東夫人をり。
白内障のこといへば「棟方志功の間違ならん」と。伊東夫人一緒に出しゆゑ宇多野療養所前よりbus、白梅町にて夫人下車。
われは千本今出川にて羽田博士(※羽田亨)への供物買ひ(羊羹2本450、保田へは大阪の菓子200)。busにてゆけば博士夫人、令妹とともにお出で。
羽田(※羽田明)は博士になると!!いやになりて引き留むるをきかず(石原、鎌田の「えらいところわからず」といふ故「えらくないもの」といひし)。
京都駅へ出、憤りつつ塔食堂といふにて鰻くひ、吹田の山本へゆく。ここにて学者を5分類す。
1. 博士にならざるを得ず。 羽田
2. 博士にならんとすればなるを得 今西
3. なれるかもしれず 金沢の慶松
4. なれず
5. ならずして博士以上の学力あり
第5種になれとの声きこえ、機嫌なほり安眠。
4月6日
出て駅のこみゐるに11:00の比叡2号にて名古屋。名店街歩く中、ふしぎにも建に会ふ。本庁にて昇任せしと(主任?)。
お茶おごりてのち、また散歩。飯くひて17:00の東海3号に乗りしに坐れず、豊橋で下車。
丸山薫氏に電話して途きき、cheeze2ケ(320)買ひてのち、市電にて競輪場前下車。
タバコヤにtaxi呼んでもらひ土産忘れてゆく(電話してもらへば「忘れてありし」と)。10年ぶりかにて隠者となり「校歌作る」と。
high-ball所望し、古本屋教へられ(宿へ電話すれば佐藤助平博士と同宿ゆゑだめなりし)taxi呼んでもらひて上傳馬町の白文堂、
白井一二とて東洋大学出の古本屋主(※白山詩人同人)、早川孝太郎(※民俗学者)と親友と!東洋大学に工学部出来てうれしと。
『北京事情(100)』、『俗諺集解(150)』、『中国農諺(350)』、『農諺(100)』と珍しき本あれど安くはなし。
金尾の『畿内見物(290)』と『富岡鉄斎(700を650にさせし)』をも買ひ、紹介されし青山旅館といふにゆきて泊る。
4月7日
室の係女中、新参にてきけば「恩師と恋愛、一線を越え親にも勘当受け死にたし」と。大正14年生れと也。
10:32に乗り、酔漢にからまれ、向ひの嬢(静岡へ浜松より出張のダイハツ社員)と仲よくなり、昼食を案内されしのち別れ、古本屋見つけて郷土史物4冊にて340。
また一軒にて『史話と伝説(70)』買ひ、田中屋dept.にゆきしあと高田宣武の名おもひ出せず人事課にて笑はれ、食堂勤務とわかり、ゆけば「清水出張中」と。
主任に「よろしく伝へたまへ」といひ、餡蜜くひしのち、出て沼津行にのり、東京行に沼津にて走りて坐り、帰宅すれば悠紀子「たのしいこともおありでしたらう」とねてをり。
茶漬くひ、子らに土産わたし郵便見る。
成城大学庶務課より「給料(調整給)51,000+暫定手当12/100
6,120+扶養手当(700×2+500×1)1,900=59,020」を4月以降より」と。
井上多喜三郎、藤野一雄2友より「江口」見たと。(※江口三五のことか、意味不詳。)
立教大学より「水曜7〜8時限106教室」と。村山高氏より2月の「中国視察報告」。咲耶、治子の2妹より礼状。
齋藤晌博士(34年法学博士と!)このたび文学博士となられ19日(水)17:30学士会館にて祝賀会と。
森田順子生より「お休みを利用してHawaiiにあり」と!
橿原市の右原氏より「冬木氏ペンを折りし」と。万代千代蔵氏より当日おとしたと700円!
本田晴光氏より「家建てた」と。本多慈子生より「卒論のテーマをケマル・アタチュルクときめた。青年も講義きく」と。
棚橋泰氏より源太郎先生腸閉塞にて逝去されしと(立教講師90才をすぎられしならん)。
花井・山中両家より「20日東京会館にて披露宴」と。
(※悠紀子夫人に)「お疲れでせう」と、床のべられる。
4月8日
終日床にをりしも、歯いたければ20:00たづねまはりて8丁〒前の歯科医にゆき手当受く。
矢野昌彦氏よりワイシャツ贈られ仕立に出しあることわかる。
「八木さんに手紙出す」。「八木さんに買ってもらったもの依子には使はせぬ」。
「2人もとなりし!」「片付くまで」。「古本屋やればよろし」その他(※皮肉で)教へらる。
4月9日(日)
ゆふべ雨風。万代君に礼状。花井・山中両家披露宴に出席、齋藤博士祝賀会に出席の返事。
矢野君に電話すれば「せかず。外に一席設けてよし」と。本荘健男君よりまた東京へ移転した由。
吉成和也生より礼状。西村美那子生より「8月子供うまれる。春休みに来てくれ」と。
渋谷(※西島大の宅)より電話「家見にゆくゆゑ春の日の会にゆけず」と。
あとからでも来よといひ伝へてくれといひ、14:00出て渋谷をへてゆけば、有楽町にて丁度の時間となりbusまちをり。(※佐藤春夫「春の日の会」)
浅野氏(※浅野晃)に挨拶。芳賀博士(※芳賀檀)にも会釈すればいやな顔す。
林富士馬、長尾良もをり、中谷氏(※中谷孝雄)と芳賀博士と同卓。われ神保の卓へゆけば福田清人、呉茂一、島田謹二、西脇順三郎、吉田精一の卓なりし。
富沢有為男、檀一雄、榊山潤の諸氏に挨拶。★
69回の春夫先生の御誕辰とて吉原仲之町松葉屋の趣向こらしたるに笑ひ乍ら、beerのみ、余興了り、吉田教授の島田教授にくってかかるところにて出る。
(米沢)藤田章子夫人に電話して、大阪で父母より貰ひし菓子の礼いひ、渋谷に電話すれば、母「大と16:00別れし」と。
雷門まで歩き地下鉄にて渋谷。加藤定雄重役に遭ひ、次嬢渋沢家へ片づき、長嬢大学にのこり外交官と話ありと(coffeeわれおごりし也)。
ヱハガキ買ひて帰宅。悠紀子、永山光文に会ひ、お茶おごられjuiceもらひ、西川の手より100万円の仕事もらへさうときく。
けふ高尾より本来り、『聖心女子大学論叢16』2冊と抜刷と来る。
(★井上靖「卿(※おんみ)の詩はわが師」といひ、山本健吉、杉森久英に紹介す)
4月10日
晴、寒し。8:30出て浅野博士(※浅野建夫)へ健保証もらひにゆく。川畑貴浩博士(わきがの手術に新宿へ来り、5千円づつとりゐしと)死にしと。
小野忍訳『金瓶梅 上(300)』買ひ、帝塚山2回生への礼状かく。聖心女子大より5月17日の聖心会総長Mother Sabine de Valon歓迎会への出欠を問ふと。
小高根二郎氏より「62号まで同人費受取った。(※連載自叙伝)10枚づつ書け」と。
毛受順子生より「負傷して5月まで欠席」と。鈴木正義生より「講習を受けてゐる」と。坂巻藤子生より「何を目的に生きてゆかねばならぬか」と。
悠紀子、京の第一中学入学式へと出てゆく。「おつりのいらぬ世話」をする由。
竹田、羽田2教授へ『端午考』の抜刷。西村美那子、藤野一雄、吉成和也、小高根二郎の諸氏へハガキ。
入学式にと2人出てゆきしあと、ねてゐれば畠山博光君来り、母君あす来ると。
ソーセージと菓子と呉る。つれ出して白水社の『仏和中辞典(700)』祝として与へる。大塚の幾徳寮に入ると。夕方、山口歯科へゆく。恐怖症のけはひあり。
4月11日
晴。変な日にて子らみな出てゆき畠山母子来ると思ひsandwichの用意せし悠紀子、突如(※八木嬢へ)手紙かくといひ、そのあと顔色かはり、
わが「出来るだけ傷つけぬやう」との伝言せしに茶瓶と湯わかし投げつける。
(このまへ紅茶入れくれ14:00となり畠山夫人来らぬとてsandwich3片呉れし)。
正平より電話あり「15:00すぎ来よ」といひしゆゑ、表にて待ちしも来ず、出て高円寺へと国鉄にのる時、doorに指はさまれ、折れしと思ひ西荻窪で駅手に告げれば、
助役、病院へつれゆき賜ひ「何もなし」と外科のdr.にいはれ赤面。
高円寺より正平にゆけば留守。近くで散髪(80)、兵隊の話し、正平のぞけば帰りし形跡ありてまた不在。
丸に電話すれば全家留守。三鷹まで乗り(30!)、山口歯科にゆき4日ほど休むといひ、帰れば悠紀子、わが洋服かくし、あやまりて、八木嬢へ手紙かく。
正平来り待ち「平鋼治とは無関係」といひしと。菓子1箱呉れしと。
けふ、下駄買ひ(140)、古きを包ませてのち、どこやらに置き忘れし。今井俊三郎・三郎両叔父より祖父母の33回忌ならびに7回忌を5月7日に西大谷でと。
(社会思想刊行会の八坂安守氏より「挿画はこちらで考へる」と電話、「8月31日までに450×600を書く」と約束す)。
村山高氏へ礼状。
4月12日
よべ(※悠紀子夫人)3時間ねて起き、子ら出てゆきしあと「史の関西に転任の時ついてゆき、働く。京のみはこちらに残す」と不眠の結論いふ。
われ反対し、8:30出て、(東大前にてcoffeeのみ、『民謡風土記(100)』買ひて満蒙史料の会。
神田氏をのぞく三上教授ら集り、われ機嫌よく語りしあと出て哀れとなり、新宿にてすし食ひしあと)成城大学。
大藤氏より土曜に学科指導すときき『端午考』を今井、池辺と3氏にくばり、山田俊雄氏に山本書店の目録贈りなどしてゐれば、丸重俊現はれ父に電話せよと。
入学式に出て文芸学部250人中男生38人ときく。
帰りて丸に電話すれば「えらいことになったぞ、17:00新宿「春日」へ来よ」と。
矢野に電話して来校とわかり、つかまへて明日18:00より銀座にて栗山氏と会することとなり、松崎嬢に托して出る。
「春日」にゆけば17:00。丸すでにあり、けさ2時間半にわたり(※悠紀子夫人より)話きき「妻の座を下りるな」といひしと。わが話きき了解せしも軽挙するなといふ。
21:30となり払ってもらひ、taxiにて丸宅。煦美子、夫人、重俊と会ひしのち、疲れて帰宅。
眠れず坂巻藤子氏に「旨く答へられず。八木嬢氏にきけ」と手紙かく(悠紀子、丸の話にて熟睡)。
4月13日
黎明まで眠られず。10:00前起きてきけば「自己の感情をいつはらずに書いて出した」由。
丸山薫氏より「17日上京するも会へず」と。羽田明氏より「17日の午后あたり連絡する」と速達。
午ごろ悠紀子の形勢また悪きゆゑ、出んとすれば、軽挙妄動するなとのことに喧嘩。隣室に子どものねてゐるもかまはず叩きし、結局、京の帰り、泣くを見てやむ。
そこへ坪井、神戸、高井の3生来り、われ入浴し、本見せて話などして(カステラ?貰ひし)、つれ出し喫茶してのち駅にて別れ、
銀座裏の料理屋「新太炉」に18:00着き、矢野君と話すところへ栗山氏来り、20:30謝礼(3万)送るを見、次の会へとtaxiに乗る栗山氏を送る。
(女も艶夢見るといふ仲居の話面白く、暉峻博士、惚菓3種を常用すとの話をかしかりし)。あと地下鉄にて渋谷。
帰れば卓買ひあり「最後の願きいてくれ」と「依子、史の縁談すむまで軽挙妄動せぬこと」をいはれし。
4月14日
中沢晴代生より電話「副手の発令なし」と。「17日来よ」といふ。
悠紀子、史の恋愛しゐるをいひ、依子の恋愛しをらぬをいひ、丸家へ傘返しにと出てゆく。
(鍛治)武田富子夫人より「またおこし」と。竹内好より『魯迅友の会会報』3冊。
電話して在宅たしかめ、ゆきて人格陋劣、学の浅きを自告してのちWerner『A Dictionary of Chinese Mythology』貸し与へられ、
傘忘れて夫人にあと追ひかけられて恐縮し、藤井書店にて『故事成語大辞典(450)』、『古烈女伝(80)』、『怪異思想研究(80)』、『支那文学史 水野平次(130)』と買ひ750円払ひて出、
ラーメン食ひgolden bat(このごろ多く出をり)3ケ買って帰宅。
(昨日悠紀子、茶ダンスをも買ひ、下駄箱、紙屑かごをも注文しゐると。うろたへゐるも哀れなり)。
にくしみはきのふとなりてたかぶりし妻のすがたをあはれとぞ見る。
けふ八木嬢へ手紙。返り言まつとなり。悠紀子15:30帰り来り、三鷹の友を訪ね疲れしとて嘔く。
永山光文より電話「三越の猿渡氏に紹介せよ」と。17日登校後といひ、ついで悠紀子の紹介には日曜来ることとなる。
4月15日
悠紀子うつぶせになりをり、きけばよべねざりしと。やむなく子ら出しあと残り、成城大学教務課へ電話して大藤教授の学科指導に立会へざるをいふ。
ついで浅野建夫dr.に電話して午後の往診乞ふ。その間、種々の問答あれどおぼえず。
13:00京かへりしあと浅野dr.来り、ゆっくりと話きいてくれ、弓子も帰り、カステラ出してくる。
Dr.雨中かへりゆくを見送り、鎮静剤のみて悠紀子眠るまいろいろ考へ、夕食依子がせわするを見、
すみしところへ悠紀子来り、母子の問答きけば「石原慎太郎がyachtに招待す」と依子よみ、悠紀子「それに行きなさいよ」との答に勃然として怒り、依子泣く。
(※「女性なら誰でも自分のヨットに招待する」との雑誌文章に対する軽口に激怒し、母娘ともさんざん殴られた由:依子さん談)。
弓子その問答を黙ってききをり、史帰るをまちてみな引上げ、史引上げしあと悠紀子発作2回。
おかげで『成城文芸』への年中行事やめとなる。
しかるに夜半「本文を尽せ」といはれ、闊然また年中行事をひもとく。
4月16日(日)
悠紀子、早起きしをり、きのふの争論の中「学に専心する代り、一年間成城大学つづけること」にては如何にといひ、妥結し、眠くてたまらぬに永山光文来り、夏蜜柑呉る。
われ神経衰弱を申立てて説教され、悠紀子の友の夫に会ひにゆく。14:00誘ひてwhiskyもちてbusにて丸家。
夫人出て「丸、釣にゆきし」と。「そろひて来し」と伝へたまへといひ、北へ歩きて三和荘にゆけば正平龍平兄弟をり、「大江房子の世話にて家庭教師の口できし」と。
coffeeよばれてbus亭まで送られ、南善福寺行のbusに乗る。終点は竹内好の近くなる故、寄りて夫妻に歓待せらる。
出てラーメン食ひ、古本屋見て『年中行事むかしむかし(140)』買ひて帰宅。眠くてたまらず(勿忘草1株買ふ50円)。
けふ鍛治初江、塚本p子2生より礼状。依子裏千家の会にゆき、弓子よく働く。
4月17日
8:30出て定期券買ひに並び9:00となり、西永福下車。羽田明博士に電話かけ17:00新宿駅出口でと約し、成城大学へ登校。
中国文学史の時間すませ松本善海君に電話し、教務課より来し成績をわたす。内野0なり。
午后の4時限目待つまに相良徳三教授にきけば戦争中北京にて教へ子の旧親王たちに歓待されしと、面白し。
姜生に電話して「あす来よ」といひ(16人が及第にて男生は山田1人)高橋邦太郎氏と出ればすしおごらる。
新宿にて別れ、中央出口にて待ち、松本、羽田とそろひキリンビヤホールにゆき話きけば別に何でもなき様子。わが『端午考』よみて気分だけ出しゐしと。
別れて下北沢。久保靖彦生に電話すれば外出と。「水曜立教で会はん」と伝へしめ帰宅。
悠紀子帰らず2女夕食の仕度しをり。田中俊子姉(※悠紀子夫人実姉)に電話すれば12:00ごろ去りしと。
21:00帰り来り、浅野dr.で夕食よばれしと。浅野夫人にいはすれば「dr.経営に無力」と。日下部産業の古林生より洋酒1箱。
4月18日
9:00出て登校。姜女生まちしも来ず、うろうろして過し、午后また相馬生待ち、おくれ来りしと黒澤明監督の略歴写さしめ、帰りて諸生にreport返却す(丸重俊来り「父ハガキせし」と)。
そのあと文化史専攻会議し(議事録とる)、池辺君にムカムカせしもいはず。
14:00すみて(中沢晴代の無給助手を25日の教授会まで「手伝ひ」とせよと栗山部長)、相馬生を「白樺」といふに案内せしめて喫茶後、別れ、吉祥寺まで帰り松本歯科へゆく。
山尾浩子より手紙来あり。けふ新2Dを検せしに前田正男代議士の令嬢あり。televiの岩下島(※岩下志麻)ありし。
福島妹に聞けば「姉、行方不明」と。三野生、毛受生に電話せしにギブスとれしと(名古屋への電話なり)。
われ中沢母子に電話して無給副手承知と知る。悠紀子16:30三越へwhite-shirts2枚の仕立出来しをとりにゆく。
依子けふ休み。炊事し風呂たく。京の胸ふくらみゐるを見る。入学式の日わがとりし写真3枚現像出来し。
4月19日
よべ3:00に目ざめしあと9:00起きて朝食とり、Mongol史のnote作り松本歯科へゆく。上の虫歯も見つけられし。一度帰りて昼食し、12:30出て下北沢、新宿をへて池袋。
西口きれいな広場になりかけをり。14:00まへ研究室へゆき山田助手、2副手(女)と話せしあと、本見て14:30となり、
5号館にゆけば手塚教授をり、高橋秀助教授と話す中、向ふより来りしは金沢良雄。「荊妻」の意味を問ふ。14:50に106教室にゆき見れば久保靖彦生1人。
この次より『Altan Tobci』と『蒙古源流』(※ともにモンゴル年代記)をよむといひ、富士高校定時制にて人文地理、世界史にて8時間もつときく。
「内村主事によろしく」といひ池袋駅にて別れ、西武dept.に宮崎智慧氏訪へば不在。都電にて神田。主婦と生活社に早川敏一訪へば不在。
大安と内山(※古書店)ひやかして学士会館(※齋藤晌博士号授与祝賀会)。
齋藤博士に祝辞のべ、宮崎幸三、郡司喜一2氏と坐る(郡司博士いま青山学院大学と)。
増原惠吉参議院議員(宇和島中の後輩)、安倍能成(同県人)、太田耕造(アジア大学学長、元文相と)、石田幹之助(藤野、岩本博士と2人にて国学院にて審査せしと)の祝辞のあと、
齋藤氏、故友佐渡タカイチ氏の為に法学博士となりしとの挨拶。
そのあと東洋大学学長佐久間鼎、菅太郎(同郷の代議士)、齋藤忠、大坪保雄(前文部次官)、北岡寿逸(国学院大経済部長)、藤沢親雄、小島威彦と話だんだん下り、小室栄一のゐるに気づき中座。
野溝七生子女史に挨拶し、田中忠雄氏とつれ小便「一切空」といひて出、都電にて渋谷。井之頭線にて帰宅。
依子と同じみちとなり鞄もち呉る。悠紀子「体重11貫600(※43.5kg)となり500匁へりし」と元気なし。永山光文より電話ありしと。
4月20日
よべ相談してmorningをbagに入れて登校。暉峻博士と同車。この間の媚薬の話にてをかし。
福島生来り「心配かけし」と泣く。姜生来り「一か八か」といふ故、さとし教務課につれゆきて試験受けることとせしむ。
短大2Aの漢文すませて浜谷生より「古田房子けふ来宅」との電話に「ゆけず。他の日にせよ」といひ、史学研究法に欠席多きを咎めしに、3年できくつもりの者ありと。
前田正男代議士の嬢「伯父この間よろしく」といひしと。前田隆一社長なり。
学生控室で挨拶せしは矢野光子とて、白水社の仏和辞典を祝として贈り(1千円)、坪井生「受験せしに点なし」と。
答案検して80つけあるを知り教務にゆかしむれば「(※貴方も)来よ」と。
Morningに着換へてゆけば前田課長こわき顔しをり、田島靖子も漏れゐしを訂正し、鈴木生と3人にて「白樺」にゆき喫茶後、坪井と下北沢まで同車(川口講師をり)。
(けさ短大の始まる前に池辺講師来り「学部の指定寄附3分は不当」といふに火曜再考せんといひ、短大と成城主義を強調する故追ひ出せば、のちほど大藤教授来り、話ききしと。のちほど腹立つ)。
渋谷にてbag預け、八木嬢への手紙投函し(けふ来りしは悠紀子の母の座の手紙よみしと今西の執拗なる求愛とをしるす)、地下鉄にて赤坂見附。
taxiにて東京会館(130)。(※花井家・山中家(たづ子氏)結婚披露宴)
帝塚山学院並びに学園長の森礒吉氏をり、話して開会まち、座きまれば主席の左端。隣は丸紅飯田の豊田恭三重役。
前法相、検事長、前検事長の挨拶ありしも、仲人木村法学博士の話にて新郎花井孝医学博士となりしにおどろく。
木村前法相、尾崎一雄の「よしべえ」の梗概を長々とやりし。森氏も話し、丸紅飯田の伊藤専務の話にて「2息の嫁ともに帝塚山」と。
あとにて豊田重役に問ひ、その一人は北沢みち子なりしに気づく(われ結婚披露宴に出しなり)。
20:30新郎新婦の出しあと、練馬区旭ヶ丘(※4字省略)稲田氏と姉のところきき(1階に住むと)、出口で山中父母君に挨拶すれば「父の代りになれ」と。
これにて悒鬱となりて帰宅。土産あければ匙なりし。
けふ畠山夫人、福島よりの帰途立寄り土産に梨とせんべい賜ひ、悠紀子いろいろと話ききしと。のり子君の苦労性を知る。
丸よりのハガキには「何もいふこともなくウイスケを呑みます」と也。
4月21日
山中裕氏より抜刷の受取。12:00昼食して松本歯科に寄り、12:45すませ経堂下車。
小高根太郎を訪ひ『金瓶梅』返却。訳を貸す。夫人不在にて母君帰りたまふ。(※日本レーヨン)重役に二郎君のなるを祝ひ、出て成城大学。
松崎嬢のみゐる講師室にて茶のみしあと、月曜の中国文学史のためprint切りsalaryもらふ。
新baseにて61,020−(所得税3460+共済組合費2340+組合費50+親和会150+団体保険料30+信用販費3500)9530=51,490。
下北沢下車。本屋にて『燕山外史(50)』、『Kama-Sutra(70)(※インド性愛書)』、『百万人の写真術(100)』買って帰宅。
依子また昇給せしとて「LM(※L&Mタバコ銘柄)」買ひ呉る。
4月22日
悠紀子より510もらひ久我山にて下車。丸に電話すれば「ねてゐし。月曜会はん」と。
登校。田中久夫氏に会ひ、中沢晴代に中国文学史のprintたのみ、相良教授より「芸術専攻も副手ほしく指定寄附より毎月3千円位出すは如何に」といはれて賛成。
高田教授より『成城文芸』の送料は予めいへばよし、聴講cardは一枚2円などきく。
中沢print刷ってくれ、藤井と修学旅行の相談をし、中国文学史の時間すみて、前田隆一伯父より「近々会はん」との伝言をきき、田中久夫氏さそひて下北沢。
ラーメンおごりて(80)のち『陸奥宗光伝(70)』、Humboldt『世界史の考察(70)』、『家畜文化史(150)』、『随筆大阪(100)』、『明治犯罪史正談(100)』、『白楽天詩鈔(150)』買ひて金なくなり、
田中氏と別れて帰宅すれば、正平縁側に坐りをり「城平叔父26日上京」と。
中庸の話し、依子をDanceにと誘ひしも、16:00となり帰るまぎは依子帰宅。
500借りて駅まで送り、松本歯科に寄り『古事記、日本書紀の探求(50)』買ひて帰宅。
悠紀子、けふ渋谷(※義父母宅)へ5千円もちゆき喜ばれしと。父元気にて3日西下と。林の叔父叔母5月上京と。
夕食中に速達、齋藤晌氏よりにて27日の出廷の打合せ24、25のいづれか学士会館にてと。19:00千野國丸氏に電話して24日(月)17:00と申す。
4月23日(日)
太田陽子夫人へあらためて礼状。湖東栄治郎君へ催促の手紙。金沢良雄へ「荊妻」の訂正。山本嘉蔵氏へ礼状。
午后『和田博士古稀記念東洋史論叢(3500)』来る。伊藤佐喜雄より4月31日までに詩2篇を『春の日』にと。
13:00出て浅野dr.。途中平田宅に寄れば夫婦をり「和田賀代女史、朝出て夜帰り来る」と。
浅野邸につけばdr.午寝しをり。夫人、わが入信の意をいひしに哄笑す。出て買物する悠紀子まち先に帰宅。
4月24日
成城大学へ9:20到着。丸に電話すれば「すでに出し」と。比企野、森田の2生来りいろいろ甘える。森田はHawaiiへゆきしなり。
2人にて「相模の祭」を合作とすと。「内野生退学する。就職せし」と西沢生。
野田宇太郎氏『文学散歩』くれんとせし。漢文すまし昼食くひ(相良教授と栗山教授に会ひ、池辺兼任でなし、指定寄附の配分は主任会議にて相談せん。
無給副手に輔導費として支払ふは考慮せんと也し)。
午后高橋邦太郎氏来り、賑やかなりし。松崎女の母は清水谷を出て帝塚山学院の幼稚園に勤めゐし。父、学位論文をといひつつ死にしと。
相馬生の中国文学史に出ゐるを見て、あす龍之介「藪の中」よまんといひ、千野國丸氏に電話すれば「けふ16:00より学士会館で」と。
14:00出て水道橋に下車。交叉点で声かけしは元東洋大学の渡辺道夫講師。「他日会はん」といひ、都電にて一ツ橋。
学士会館へゆけばすでに橋本女史を加へ福場、児島2弁護士も在席。20:00までいろいろ聞く。簡単に片づくらしきもわが心配症にて危しと思ふ。
新理事長渋沢恵三氏と雨中神保町まで歩き都電にて渋谷。吉祥寺に着けば雨止む。
台北の頼永承氏より「『台湾風物』に国姓爺進台300年記念に何か書け」と。
4月25日
9:30家を出て松本歯科。憂鬱なり。成城大学へ登校。宮崎幸三氏に電話して午后ゆくといひ、子ら相手とし(中村屋のpãoをもちゆきし)、
12:45相馬生に「羅生門(※黒澤映画)」は龍之介の「羅生門」と「藪の中」をあはせしやうなるをきく。
中沢生を無給副手に推薦紹介のためつれゆき、14:20より教授会。
すみて組合の報告あり、助教授、講師のbase低しと木桧委員より訴へられ高田教授「とても不公平ゆゑしらべよ」と。
これにて不快増し、主任会とて入試のやり方、専攻の増加(われ社会専攻を甲南大学に倣へといひし)など議して18:00となり、年中行事の会もとより出ず。
宮崎氏にまた電話してゆく。夕食はまだと答へ「ラーメン食はせたまへ」といひ、いろいろ聞く。20:30出て渋谷までbus(宮崎夫人に葡萄糖注射してもらひし)帰れば22:00。
入浴、予習できずして眠る。毛受順子より診断書と5月1日登校との手紙。
4月26日
満蒙史料の会なれど、立教大学の予習のためゆかず(はじめての欠席なり)。
坪井明より桜塚高校長に松浦氏のあとをつぎて転任と。筑摩書房より『世界の歴史』の稿料の残り6,227(28,737−18,200先渡−4,310税)。
「秋の湖について」をのせし『バルカノン15』2冊。12:00出て散髪し(170)、juiceのみてのち井之頭線。
下北沢で時間つぶしに大地堂へゆき『文学散歩5(90)』と『文身百姿(400)』と買ひ、池袋にて丁度よき時間となる。5号館の控室へゆき見れば金沢良雄をらず。
salaryもらひ教室へゆきて久保生相手にする中、女生2人来る。きけば英文3年と。次の時間も出るやときけば答へず。『蒙古黄金史』久保貸し与ふ。
16:00すませ久保生誘ひしも大学院新入生歓迎会とて来ず。研究室にゆき山田助手に手塚教授の欠講のことたづねしも知らず。
出てしるこ食ひ、地下鉄にて日比谷に下車。弁護士会に丸訪ひしも帰宅。
歩きて虎ノ門にて『アレルギー(100)』、『インドの神話(150)』買ひてゆけば三水会、高山氏をのぞきそろひをり。
すみて福田恒存、影山正治2氏の講師招聘をいふ。芳賀檀の悪口いひし(※明日の出廷に関り、東洋大学残留組の態度に対するものか?)。
佐藤、勝部、齋藤の3氏と新宿までtaxi、吉祥寺駅より電話かければ悠紀子、傘もちて迎へに出しと。待ちてともに帰宅。
けふ京の留守に阿南氏、入学祝もちて珍しき欠席を見舞ひに来たまひしと。
京都新聞より電話かかり28日か1日に「京都の思ひ出」を、と電話ありしと。
4月27日
7:30起きて朝食。8:30出て渋谷より地下鉄にて日比谷。
時間ある故、第一弁護士会へゆき受付に丸への名刺托し、地裁にゆきて待てば、まづ千野氏来り、ともに法廷へゆき、
10:30まで待てば三野弁護士より代理命ぜられしといふ谷弁護士現はれ、事情わからずと異議申立てしらしきもとり上げられず。
10:45開廷、3法官ならび千野氏宣誓の後、福場弁護士の質問に答ふ。われと齋藤、橋本女史の証言は採択されず。
11:30すみて松本楼にゆき昼食。われ喫茶して次回5月25日は旅行中なる故、児島平弁護士に手記送ることとす。また丸訪ねしに居らず。家へ電話すればおくれて着く筈と。
階下で昼食し、来ぬにあきらめて成城大学。
大藤教授と話し、14:10となりし故、史学研究法にゆく。女class委員、われを「皆面白がりをる表情する故」と。
帰りてヱンマ張はる中、大藤教授再来、われと結びつきをりと今井、池辺2君云ひをり、学生にも悪口いふと。無視せよといふ。
(けふ中沢生を篠原部長に紹介。通勤証明出すゆゑ履歴書出せと。健康保険のこといへば「考へをく」と。)
出て大藤、山田2教授と一緒になりしゆゑ、渡辺、西沢の2生さそひて喫茶。
(内野生、北海道放送に就職。退学願出せしらしと)。帰り松本歯科に寄る。(永福町より宮崎氏に電話、法廷の報告す)。『ノンフィクション全集15』来り。
花井たづ子夫人、熊野より礼状「主人も先生にお目にかかりたい」といふ由、うれし。
4月28日
晴。寒し。山中直隆氏へ「井上斌子たのむ」とハガキ。井上多喜三郎氏へ「戦友の歯科医教へよ」と往復ハガキ。坪井明へ「栄転を祝す」とハガキ。
阿南惟敬氏へ礼状。
10:30出て松本歯科に寄り、駅前でさばずし食ひ、渋谷をへて聖心女子大学。青山、田中などの諸氏に挨拶。海老沢氏来り、きけばdr.となりしらし。
東洋近世史は10人あまり。Uは36人にて、みな笑ふ。本多慈子生より史学clubの講演会たのまれしも日あはず。
出て(けふsalaryもらふ。電車賃700となりし。)、都電にてまた本多生と同車。並木橋で下車。
父母居り「父元気にて散髪せし」と。母、三郎叔父の借金のこといひ泣く。船越章週給1.3万円と。めでたし。
出て古本屋見しも買はず。吉祥寺にて南口の資文堂にて『支那民族誌 上(300)』みつけしのみ。
帰れば京都新聞柳野君より電話かかり(われも12:00電話せしに他出なりし)、「1日2日でよし」と。
丁度滋賀日々新聞の稿料2千円来をり。井上斌子より手紙「勤先にては皆親切」と。けふ山中社長へたのみしあとゆゑふしぎ。
浅野亘子生より礼状。古林秀夫氏より「姪の入学ありがたし」と。東横dept.より送り状。
4月29日(祭)
あさ「半自叙伝4」20枚書き了る。古林秀夫氏へ挨拶。 11:30武蔵野郵便局へ速達出しにゆき、帰れど白井紘史まだ来らず。
藤堂卓美夫人より「その節の手土産送った。嬢へ・・・の縁談如何に」と。
若菜東雄より変な手紙来をり、悠紀子「警告状か」といふ。
紘史12:30来り、sandwich食ひ「けふ9:00父着京の予定ゆゑ今まで待った」と。「大伯父松内則三氏とは会ったことなく、近藤妾美(歌人)には父泊る筈」と。
近藤氏に電話せしめしに「未着」と。誘って西荻窪へゆき古本屋にて『印度古聖歌(250)』、『大東亜の音楽(150)』買ひ、紘史にも500与ふ。
ついで荻窪まで歩き千代田謙『歴史学(60)』、『支那典籍史話(60)』、『民俗学(国学院雑誌59-1)(60)』と『楊貴妃とクレオパトラ(60)』と買ひ、
丸に電話してゆくといひ、駅前でjuiceのみてのち別れて都電。
丸家の前で夫人に会えへば「春日」の女、われに同情すといひ、自らは少しも同情せず。
別れてまた蚕糸試験場前に出、busにて吉祥寺に帰る。変な日なりし。
4月30日(日)
西川英夫君より3月31日の記念撮影送り来りしのみ。畠山博光君、電話かけ来しゆゑ「来よ」といひ、12:00来しに昼食さす。
悠紀子、見合さすとて13:30出て15:00まで音沙汰なき故、駅までゆけば会ひ、3人にて東佐見の松田家へゆき、みす子、春恵、まさ子の3姉妹に会ひ、
学習院大4年の息に博光君紹介し、元大蔵官吏の某夫人に紹介受け、whiskyのまされ駅まで博光君送ってのちbusにて帰宅。
依子けふ日直、そのあと正平の世話にてdance-partyと。われ風邪にてのど痛く、I(※今西春秋氏。5/28に後出)のことを妄想す。
5月1日
咽喉痛ければ浅野dr.へ悠紀子に薬とりたのみ、9:00出て成城大学。野田宇太郎、高橋邦太郎2氏ら来る日なり。
中国文学史のprint代50づつ徴収命じぜしに2,000ほど集りし。
けふ連休のためか休む者多し。午后は東洋文化史。これも休みをり。(伊藤佐喜雄に電話かけしに「ちがひます!」)。
藤井生誘ひて喫茶し、旅行の計画を相談す。下北沢大地堂へゆきしも『文学散歩』まだとり来らずと。
疲れて帰り3月30日の謝恩会の写真を浅賀生送り来りしを見る。「東大沖中内科の事務員」と!
悠紀子、浅野dr.にゆけば夫人2息と大阪へゆき、autoなくdr.留守番らしと。
けふ千草来り、この辺りに家さがすと。
5月2日
のど痛し。9:00藤堂夫人よりwhite-shirt(首廻り37にて史に与へん)来る。依子の縁談、もっと小き、もっと悪き相手にと手紙かく。
11:00出て三鷹駅前より成城大学に休講の電話かけ、浅野dr.。のどに薬ぬりたまふ。帰れば井上多喜三郎氏より返事。吉祥寺山下又治郎氏と戦友の歯科医教へらる。
相馬来るかと15:00まで待ち、出て松本歯科。そのあとalbum買ひ、花買ひ、新茶(100g 125円)買ひ来る。
(けふ三鷹にて『日本案内記 近畿篇上(80)』買ふ。)『果樹園63』来る。(京都新聞の原稿ことはる)。
5月3日
大阪へ「つばめ」でゆく父母を送りに悠紀子出しあと8:00すぎ、湖東博士より電話。
「元市氏へは話し親族会議してゐるが、本当に(※依子氏の縁談)希望するや」、「14日上京、17日下阪する」とのことに「われ14日出発、18日電話する」といひ、
依子にきけば「母も反対、ことわってくれ」と。悠紀子の反対は初耳なり。
10:30帰り来しとちょっと話してのち浅野dr.にゆき薬もらひ、湖東の上京いへば「森君にでも知らさん」と。
ついで富士見丘までゆき、伊藤佐喜雄を訪ぬれば「君とこへ行かうと思ってた」と。『春の日』編輯の労ねぎらひ、whisky1瓶おき、busにて吉祥寺。
古本屋にて『北越雪譜(90)』、『露西亜民族の研究(20)』買ひ、昼飯くはんと帰る途、悠紀子依子に会ふ。「相馬生来しゆゑ15:30ごろ再び来れといひし」と。
帰りてねて待てば15:00となり、両人帰り来り、飯くはさずまた喧嘩となり、結局元市氏は(※縁談を断るには義理あり)重すぎると湖東にことわりの手紙代筆さしてわれ眠る。
けふ『不二』来しのみ。
5月4日
湖東君への手紙速達してのち登校。短大の漢文40分やり、すませて大藤氏に天理保仙純剛氏、大阪市大平山教授へ紹介の名刺もらひ、
修学旅行の禅の講演たのむとの手紙かき、羽田君には22日(月)京大考古館の参観たのむハガキかき、
史学研究法も30分位にてすませ「高井、神戸2生に修学旅行補欠の件みなに伝へよ」といふ。
山田君江に電話せしも捉へられざりし也。
けふ宮崎幸三氏に電話すれば「病臥」と。田中順二郎君に電話すれば「雅子2児と帰省、湖東は14日第一こだまにて着京」と。
相馬生さそひて「車」にゆき喫茶。古本屋見しも何もなくて帰宅。
齋藤はるみ生より「8月3〜5日上京」と。宮崎智慧氏より『花影』創刊号。22:00ごろ京都新聞柳野氏より電話「ぜひ書け」といふに「京都には恨み数々あり」といふ。
浅賀千里生へ写真の礼状。(けふ横山薫二(※大高同級生)の婿、北杜夫=斎藤茂吉令息なることを知る)。
5月5日(休日)
谷川真佐枝よりこの間の日生の会の写真送り来る。風邪だいぶよくなりねてゐれば13:00訪ひ来しは渡辺俊子、西沢悦子の2生。午食さしてのち太宰治の墓へつれゆく。
このごろ写真の稽古す。吉祥寺へ送りゆき、busにのせてのち帰宅。けふalbumに貼り了る。
5月6日
成城大学へゆく。中国文学すませ(毛受生出席す)、短大へ講演に来し大岡昇平氏に紹介さる。
武井伸子生に電話せしに「秩父へ採集にゆきし」と。修学旅行参加をすすめし。田中久夫氏と経堂へゆきて昼食し、高山寺の小川氏へ紹介の名刺いただく。
別れて((※久夫氏は)小高根氏へゆくと)われは和田先生へと思ひしも、風邪おうつしするやと、やめて経堂を北にゆき、
中山太郎『土俗私考(130)』、『印度民族運動史(150)』買ひ、散歩のつもりにて歩き、八幡山へ出る。
下高井戸まで京王線にのり、下車してまた古本屋見しも何もなく、明大前まで乗って帰宅(松本歯科に寄る)。
原知子より「3月以来、赤ん坊を入院さす」と、写真。本多慈子生より「インカ展」の切符。高松直子より「田中秀子13日住吉大社で牧追と改姓」と。
京都学大の山崎英夫といふより「卒論伊東ゆゑ『果樹園』くれ」と。
入浴。けふ依子は強羅、史は伊豆長岡へ一泊でゆく。
5月7日(日)
9:00朝食し、大掃除日とて4畳半の本棚とりかたづけ畳3枚のみあげる。
依子、史、午后帰宅。夜、宮崎幸三氏より電話、野尻貞雄氏の都合しらし給いひしもおそすぎるとて「火曜にせん」といふ。
5月8日
登校。中国文学史すませれば山田君江生「昼食を成城園で」と誘ふ。
ゆきて11日(木)同邸にて17:00より3年の歓迎会することとなる。
帰りて東洋文化史の仏教しらべ、すみて渡辺、西沢の2生に本貸し、東洋文化史了へて(前田代議士の令嬢に奈良行をいへば、野崎生よりわが講義きけとの伝言ありしといふ)、
高橋邦太郎、野田宇太郎2氏に誘はれ、busにて深谷。
喫茶し、古本屋に案内さる。(『Guide to Bankok(150)』、『Conquests of Tamerlane(※ティムールの征服) (50)』、『The Painted Skin(30)』)
野田氏と三鷹台まで同車。吉祥寺にて19:00とて松本歯科にゆかず。
保仙純武氏より「18日天理参考館にて待つ」。平山敏治郎氏より「21日(日)南禅寺なりとも案内す。13、14両日上京会はん」と。
依子、わが写せしを現像し来る。もなとれゐたり。入浴。
20:30野尻貞雄氏に電話すれば「あす多忙」と。
(けふ角川書店より電話「Cleopatraを- -全集に入れたし」と。承諾す)。
山田岩三郎氏より「詩の話」の抜刷と『詩人の話』所載の看護学雑誌。平田内蔵吉(沖縄で戦死と)とわが家を探しまはりしと見ゆ。
この日ごろたよりよこさぬなれおもひそむかれしごと心いかれる。
5月9日
9:00家を出て松本歯科に寄り成城大学へゆき、高田氏と栗山部長に忠言せしも心配なき様子。
すみて中沢生に漢文のprintたのみ、相馬生を食後さそひ出して茶のみ(父、会ひたしといふと)、本屋見てのち教授会。
仮進級に丸重俊を押し上げ役とし、独文の後藤氏より注意さる。そのあと指定寄附の分配にて110万円となる。
特別図書費3万円といふが出ることとなる。
すみて下北沢下車。大地堂にて『日本案内記中国四国地方(70)』と『文学散歩4(100)』買ひ、餡蜜くひて丸夫妻に電話し「丸重俊今夜よこせ」といふ。
帰りて待つも来ず。八木嬢に(※今西氏とのこと)問責せんとして勇なく、あやしき手紙かきて疲る。
(けふ宮崎幸三氏に電話すれば「一人にて書きてよし」と。平凡社に電話すれば「辞典の原稿いそがず」と)。
深夜、丸重俊より電話「家みつからず」と。「外国語必ずとれ」と応へて了る。
5月10日
8:30家を出て八木嬢と保仙氏に速達し、松本歯科。大分待たされし。お茶の水まで60円となりをり。
それよりbusにて東大。阿南君待ちをり、ともに上の研究室にゆき、神田教授のよむ番なりし。
すみて阿南君を誘ひて昼食。古本屋見て別れ、上野まで都電。松坂屋に「インカ宝物展」見る。金色燦然たるのみ。
それより山手線にのり大塚で下車。永田精機に矢野昌彦君訪ねしも他出、古本屋見てのち立教大学にゆき、松浦高嶺氏在室を見て挨拶。
ついで5号館その他にゆきしも手塚氏に会はず。
教務課に2週連続休講を届け、教室にゆけば久保生。やがて林女生来り(高木女生は欠)、松浦氏よりきけと云はれしらし。
すまして誘ひて喫茶。別れて西武dept.へゆきしも宮崎智慧氏不在。『大和めぐり(130)』買ひ国鉄にて目黒、学院職員会へゆく。
話相手は百瀬、佐野2老教授。早く出て上原氏より松村教授令嬢の結婚写真見せらる。
歩きて目黒駅へゆく途中、松崎女その他事務室4人に茶おごって帰宅。井上順子生、道後よりヱハガキ。
5月11日
松本歯科へ9:00ゆけば先患者あり。かぶせすみて「またあと」といふこととなる。
出て成城大学へゆけば時間丁度よかりし。
午の時間、旅行の打合せといひしに4人の女生のみ。ねまきとnote持ち来ることをいふ。
(八木嬢の手紙来をり「神の心」またわからずといふ。15日宿へ来る由。他にGeorge Urda氏より本夕の招待状)。
午后は後藤孝講師にbase-upについての疑点を問ひ訊せといひ、史学研究法の時間に梅原博士の講演の紹介をす。
そのあと大藤教授に指定寄附のこと一応話し、すみて梅原博士に18日(※天理参考館)登館のこといへば「日の寄進デーにて不在。学長にことわれ」とのことなりし。
博士の講演は柳田先生の弟子にて民俗学と考古学の関係、ならびに考古学発掘のあとの捜査の必要のことなりし。
すみて柳田、梅原、今井の3代師弟の乗る自動車送り、Urda邸。武井、郷右近、西沢、渡辺、丸、川本静江、石渡の7生と夕食たまひ、
台中のLevy氏によろしくと『楊貴妃』貸してwhiskyもらひ21:00退出。(Urda氏はチェッコ系にて上智大学を29年出し経済学士ときく)。
聖心女子大より電報にて「明日は休め」と。
羽田より「22日のこと午后見学と話しておったが、陳列館考古学教室あて一書を呈せよ」と。青木大乗氏より画展の案内。太田陽子夫人より16日上京と。
5月12日
雨風の止みをまち10:30家を出、歯みがきtube入り(30)買ひ、鳥打帽探せしも見つからずPomade1瓶(300)買ひて成城大学。
浅沼氏より「付添手当日曜に手渡す」ときく。京都大学陳列館考古学教室と天理参考館長へ参観願を栗山文学部長の名で書きtypeで打ってもらひ、
追試験の報告2名(中国文学)分やり、今井氏にきいて平山氏の実家に電話すれば「明日来ん」と。
明夜また電話するといひ、田中順二郎君に電話すれば「湖東兄上京せず」と。
大に電話せしもかからず、教務課長に休講25日までと念押しされ、出て渋谷にて昼食(100)、地下鉄にて高島屋。Hunting(※鳥打帽)きけば1,000なりし。
青木大乗展にゆけば画伯をられ、弥与子嬢三越へゆきをりと待たされ、帰り来しと話せば坂根生昨日来しと。
来客多く席を立てば四谷の歯科医へゆく途、同行せんとtaxi呼び、三省堂前にて別る。『蒙古源流』の製本たのめば6月4日出来(450)と。
それより古本屋見て『満洲の街村信仰(200)』、『南方民族の宗教(150)』、『南の星(100)』、
神保町の角にて『日本案内記近畿篇 下(180)』見つけてうれしく、水道橋まで歩き『35mmSS(200)』買ひて帰宅。
『Biblia18』来をり、これもふしぎ。聖心女子大より「休講となりしは教授会歓迎会のため」と速達来をりし。武蔵野税務署より「18日までに払へ」と最後的通告来をり。
けふ京、高尾山へ遠足にゆきし。(聖心女子大へ19、26日両日休講をしらせし)
5月13日
よべ12:00に目覚めねむれず。朝めまひせしも6:30起き7:40出て新宿につけば8:45。
水谷生来てをり9:20の出発まで甲斐々々しきを見る。
今井氏来り、鎌田、池辺は午后と。平山城阯へ着き、丘へのぼり、持参の果物その他多く、われ水谷生に感心しつづけ也し。
12:30先に出る。成城大学新聞の編輯といふとともに丘を下り、千葉県人会へゆく男女生と駅でともになる。
出欠とりしに欠は13名。出は男生は(※省略)の11人、女生は(※省略)の24人にて計35人。
けさ新宿でかけ、またコーヒー店(沙麗文)にてかけ、地下鉄(ふろしき買ふ100)にて西銀座。
児島弁護士に会へば、齋藤氏の公判6月22日(木)と。東洋大学の通知など置きて出る。
京都新聞にゆかんとせしも柳野一郎思ひ出さず(名刺入れにありしを!)、また地下鉄にて帰宅。
悠紀子「八木嬢への手紙」かき、わが将来の不幸をいふ。
田中順二郎君より電話ありしといふに、かければ湖東君あす第一こだまにて13:30東京着。すぐ水上にゆくとのことに悠紀子らゆかすといふ。
(電報には「18ヒアヒタシ」と来あり)。他に今井俊三郎、三郎2叔父より礼状。
20:00平山敏治郎教授に電話すれば「19日南禅寺南陽院へ電話す」と。(『古代前期の宗教(20)』、『古代後期の宗教(20)』を帰りがけに買ひし)。
5月14日(日) (※修学旅行)
6:30起き(眠り2時間)、東京駅八重洲口南口といふへゆき、茶のむ。そのあと野崎副手にめぐりあひ集合所教へらる。
郷右近、西沢の2生のおくれぐせあるをしらさる。Plat-formにて2年の岩田生juiceをくれ、小川生チョコレートフィンガー呉れしらし。他に中沢、浅賀の2卒業生、山田信江も来る。
11:00高千穂号(※西鹿児島行の急行)発車、名古屋着。出口に毛受生の母三野生を迎へに来てをり。
このころまでに参加者13名のgroup別わかる。20:20奈良着。busにて博物館前着、日吉館に入りbeerのまさる。夜半までさはがし。
5月15日
法隆寺へと2班に分れ、われ2班にて9:00出発。
法隆寺見、夢殿開扉に会ひ、ついで中宮寺見了りて池の畔にて昼食。法輪寺へつけばcameraのcap落せしに気づき、すぐ引返して池の堤で見つけ、井上夫人に挨拶し、末嬢35才ときく。
出て法起寺をへてbusにて薬師寺。脱帽拝礼の掲示あり不愉快。
門前の八百屋にて佐藤誠の思ひ出話し、唐招提寺にて案内の婆さんと話し講堂を見ず。
電車にて日吉館帰来。野崎その夫人に電話して日程いふ。今夜室生行は18日に変更ときく。
松井姉妹の来訪受け、ことわりて夕食。ゆき子に返事(「なるべく早く会ふ」とききて書く)。
5月16日
朝よりごたごたし、橿原考古館の休日なることわかり、まづ博物館に入れ、小野勝年氏の登館10:00ときき、
10:00すぎ(『大和の民俗(400)』と『奈良の町名(100)』と買ふ)事務所にゆけば小野氏いつ来るや不明と。
飛鳥園より天理参考館に電話かけ、日程変更いへば「来てよし」と。13人つれbusにて近鉄駅前より乗れば博物館前通りし。
11:30天理着。中大路より歩きて「親里館」にゆき4階の参考館にてきき、まづ昼食を3階でせんとす。
梅原博士の出がけに会ひ、日程変更に不快の顔されし!
今西のゐるをちらりと見しあと、5回よりはじめて3階4階を見る。われもはじめての物多かりし。
すみて喫茶せしめ、われうどん食ひ相談すれば「もう帰る」との声あり。
別れて高橋重臣君と会ひ、雨止むをまちhigh-ballのむ。同君6月末か7月初めに2年の予定にて渡米と。
案内されて保仙純武氏を訪へば帰らずと。18日の日程変更をわび、またbusにのれば佐藤虎雄氏をり「山田俊雄教授と令息同級」と!
博物館前にてともに下車。別れて帰館すれば、小野氏より電話ありし。鍛治さん訪ね来しと。
18:30小野氏来て話し、野崎母子鍛治さんと来り「けふ大和文華館にて16:00まで待ちし」ときく。
Tobacco1箱を鍛治さん、菓子1折を野崎夫人よりもらふ。雨中送り出して夕食すまし、文化史専攻の話きけば「他のcourseと別行動とりたくなし。仏も見たし」とのことに橿原考古館やめんといへば西沢、渡辺の2生は「見てよし」と。
藤井と4人にて別行動とることとし、もはやカンベン了れりと思ふ。
夜、眠りがたくて困る。この日、藤井にfilm現像を飛鳥園に頼ましむ。
(保仙氏より電話ありしゆゑ、わびいふ。5分後に帰宅されしと。沢田四郎作博士にも挨拶のハガキかく)。
5月17日
よべ高田氏もおそく眠りがたかりし。朝食すまし買切busにて浄瑠璃寺。若奥さんに堀辰雄のこといひ、京都弁の嬢のこと問へば「40才になりし」と。
そのあと岩船寺。ともに城田生、高宮正生に写真の教乞ふ。
すみて日吉館へ帰り、昼食後たのみて西ノ京への旅行付添を辞退。野崎家へゆき父君の写真とり、女子大へゆき図書館に天野忠訪ひ写真とり、
学長選挙といふに名刺托せしところへ服部英次郎現はれ撮影し、すみて横田俊一氏に会ひ撮影、出れば竹内教授に会ふ。前川佐美雄邸門前まで送られ、夫妻に会ふ。
『日本歌人』出す由、すず子嬢帰省しをりと。出て山田新之輔の前通りbell押せしも応答なし。
日吉館に帰れば皆帰り来る。(『ハイネ詩抄(40)』、『正倉院御物棚別目録(80)』買ふ)。
夕食おそく飛鳥園へゆきみれば現像出来をり皆とれゐる。奈良女子大の2教官(1人は大宮氏義兄)と話し、浅沼、上原氏出てゆきしあと夕食。
郡山の松井dr.よりの電話にて八木嬢「24日最終電車にて帰る予定」をいふ。
飛鳥園にて『正倉院小史(50)』。岩田、中沢2生への礼状投函。
5月18日
よべ8時間ねて気持よく早起きし、飛鳥園に現像代(50)払ひ、日吉館より土産もらひ(奈良漬?)、みなと近鉄奈良駅。西大寺まで京都行にのり、
乗換へれば横田利平氏に声かけらる。わが送別会以来、長沖氏にも会はずと。
橿原神宮前下車。湖東君に電話すれば(9:05)すでに出勤。東京にて悠紀子依子に会ひしと夫人。
京都よりまた電話するといひ、9:15一行と別れ渡辺、西沢、藤井の3生と大和歴史館。岩本氏といふが説明し賜ひ、2女生noteとる。藤井生「卒論のthemaつかみし」と!
資料解説書買ひグラウンドの芝生にゆきて昼食。売りに来し林檎買ひ、藤井生の昼寝するを見る。
13:00すぎ出発。神武陵参拝(われそのまへに神宮にゆき、ついで畝傍山口神社の入口に「庚申」の立石ありしを撮り神社の階段を撮る)。
駅にゆきて連絡わるきゆゑ、八木に出て喫茶。桜井にて下車しFilm巻きかへてもらふ。
藤井生の知人にて大阪外語大の中国語学科生といふに外山軍治教授へと名刺托す。
(岩本氏も桜井の人。歴史館にて保田家へ電話すれば「遊びにお越し」といひしは槌三郎翁か?)。
桜井高校女生と話し秋永教頭転任と知りし。準急(13:38)に乗れば飛鳥めぐりの一行のりをり、本間生席をゆづり呉る。それより同行して橋本館に入る。3病生をり。
文化史1室もらひしへゆきて挨拶し、上原助教授と中村地平の話して12:00となり眠る。
5月19日
室生寺見学。温帯羊歯見にと石段を上りし。すみてbusにて室生口。桜井にて国鉄にのりかへ檪本の極楽寺の方を拝み、宇治着。
平等院を観てのち高橋妹、郷右近と抹茶のむ。それより京阪宇治前よりbusにて醍醐、三宝院の庭を見てのち、大宮氏のautoにて南禅寺南陽院着(本坊に挨拶す)。
平山氏より電話なく、電話帖見しも見つからず。明朝6:00起きて9:00に御所見学とわかる。
5月20日
6:00起床、7:00朝食、7:30出て天王町より市電。裁判所前で下車。御所にゆけば30分待たさる。説明よくてうれしかりし。
小憩後、烏丸丸太町まで歩かせ、堀川丸太町まで市電。二条城を見学して11:30となり、西本願寺前で別れることとせしに、概ね京都駅へゆく。
高田氏と学生4人にて西本願寺へゆき、瀧波生を祖母宅にひきとりし小山生と会ひて昼食。われきつねうどん(30)。
羽田に電話すれば夫人出て人文科学研究所と。研究所にかけ今夕南禅寺へ来さすこととし、寺にいへば突然の見学は許さず。
許しても廊下のみにて時間も10:00〜11:00、14:00〜15:00と。法主に電話せんとせしもやめて高田氏待ちて相談すれば「止めん」と。
市電にて東山。知積院見学。ついで博物館。国文専攻と別れて16:00まで観、東山三條にてfilmの現像焼付たのみ、南陽院に帰りてのち湯豆腐にゆく。
そこへ羽田来り、ともに食ひてのち藤枝晃が嬢つれ姪の松村生と来りしに会ふ。出て南陽院に帰り、高田氏以下にことわりて出、
平山教授の家へゆき、あす10:00ごろ来訪とききしあと、れんこんやへゆきて900ほど飲みてのち別れて帰院。
5月21日(日)
おそく起き、別に飯くひ、他の班の出てゆきしあと10:00前平山敏治郎氏来る。菓子をみやげに賜ひ、
話より案内をといふに、参加せしは川本(静)、渡辺、西沢、石渡の4生のみ。藤井生1万円とり返して市中へと出てゆく。
われ11:00出て東山三條の薬局によれば「写真今夜出来」と。羽田に電話して「今夜また電話する」といひ、
京阪にのらんとして京阪書房へゆき『日本行事精説(200)』、『日本人のからだ(460)』、中島竦『清朝史談・雑爼(350)』にて1,000。
一旦出て駅までゆき忘れ物に気づく(『桜井町史』といま一冊図書館へと送らせし)。引返してとり戻し11:50発の特急にて京橋着。
湖東に電話かからず。沢田博士にはかかりて14:00一心寺にての近畿民俗学会にゆくといふ。
昼食し、玉造にて下車。散髪して寺田町下車。湖東に電話して16:00ゆくといひ市電にて一心寺。
沢田、保仙の2氏をはじめ20人集まりゐる。
『十津川の民俗 上下(700)』買ひ「今井の野祭」の映画見てのち豊岡の映画を見、話ききて16:00となり、沢田博士より『庶民の発見』頂いて辞去。
アベノ橋まで市電、湖東宅に着きしは16:20。
次嬢の世話にてbeerのみ茶漬くひ「商家はよせ」ときき、ことわりしききてのち1[7]:30辞去。
京阪三條より東山三條まで歩きてfilmの殆どすべて写りゐるを見る(690払ひし)。
21:00帰院。渡辺らに写真みせてのち羽田より西陣見学の案内の電話受け、それを高田氏に伝へて入浴。
5月22日
6:00目ざめしもゆっくりして9:00門前に集り、東山三條までゆきて市電。
(藤井生「金貸せ。よべ靴買ひし」と。一万円返せしばかりなるも、よべCavaretへ女生3人つれてゆきし仲間ならん。金なしと断る)。
京大へ9:45着き、東洋史研究室のぞけば考古学へ案内され、大学院学生の説明きく。
われ唐代の俑を写せし。そのあと民俗学の研究室見せられ、羽田と諸生に集合場所示せしのち昼食。羽田、払ひ呉れ、別れ告げてかなし。
古本屋2軒見しあと人文科学研究所分室へゆきしに桑原氏(※桑原武夫)不在。
すぐ出て待ち合はせれば川本(静)風邪とて帰り、藤井生不眠とて帰る。
三野生のおくれて来しをあはせ12人にて大原。
まづ寂光院にゆき茶のみしのみ。ついで門前にてうどん食ひ、京へ狸の人形(100)買ひて待ち、建礼門院陵見て三千院。案内の僧、不快なり。諸生の態度もよからず。
14:39発の京都駅行にのり東山三條より帰館。銀閣へゆかんといふが本間らなりし。
平山氏へ礼状かく。あと1日半となりしも朝起き2日つづくを思ひ不快。保仙純剛氏へ礼状。
5月23日
6:00起き、川本広美生けふ帰るとて桂へ高田氏の班とゆくを送る。
7:40出て平安神宮前より一乗寺修学院行busにのり、修学院離宮に8:30に着き、中にて待つ。
9:00まぎはに来りし会社員もあり。案内の男「…ですね」といふ口ぐせあり不快。すみて相談し、銀閣寺を見、門前にて解散(film入れかふ)。
藤井生と銀閣寺前にて豚カツ食ふ(360)。労をねぎらふと也。そのあと古本屋にて『東亜の衣と食(30)』、井上吉次郎『古代社会史談(30)』と『東亜人文学報1〜3(100)』買ひ、
12:10点呼すれば風邪とて宿に帰りし川本静江生のほか、長沢、吉川、三野の3生の姿なし。
9人にて四条大宮より太秦広隆寺、ついで御室妙心寺。そのあと石庭(竜安寺)見て解散。
18:00までに帰館せよといひ、われ独歩して嵐電、市電にて帰り来る。連中はtaxiにて帰りしと。
この夜は最後とてwhiskyとbeer(寺より)のみ放談。同行4人をおどろかす。
5月24日
よべ眠り浅く、6:30近く覚め、藤井班と2班に分れ、蹴上にてbus待てば17:50よりなし。
四条大宮にて西沢生のわが班に入りをるに気づき、8人にて桂。離宮前に着きしは8:30をすぎゐし。
9:00すぎれば吉川生「9:00すぎてますよ」といひにゆく。案内者怒りもせず、親切なる様なりし。
すみて門前よりbusにて苔寺。麦とろろ(130)を食ひしも川本静江、石渡2生と5生と2店に分る!
門前よりbusにて京都駅。浅沼氏らすでにあり、荷も着きゐし。倉敷へゆくを見送ると入場。
13:30となりて別れ告げ、南陽院に帰り朝借りし傘返却。離れより荷物とり蹴上より京阪三條。京阪書房にゆき郵便局問へば包み直し送り呉る。
『漢土故事物語(180)』と『方言大番付(5×50)』買ひ、彙文堂へゆき見る。主人われを忘れし様なり。
『雲崗石窟(140)』、『敦煌壁画服飾資料(300)』、『竜門石窟(170)』、『瓷器(110)』のほか『李太白(100)』ありし。
それより南下して『明治笑府(100)』買ひ、3千円よりなきことに気づく。京阪書房にて預けし鞄とり「用心棒」観んとせしも250と。やめて古本屋2軒見しのちbusにて京阪駅。
鞄みがかせ夕刊よまんとすれば東理博。ともに河原町四条に引返し不二家にて夕食。万年筆贈られ、夕食代1700.また京都駅に引返し、吹田にゆきて(※山本治雄宅?)泊る。
東氏恩賜賞をもらひしと也。
5月25日
11:00宿を出て梅田。荷物預けて茶のみ、大江叔母に電話かければ「29日まで上京」と。
これにて用すみ、なにわ号みつけて乗り、名古屋まで日記よませてのち、下車するを見送り東京着20:15。
帰宅すれば悠紀子をらず、2女眠り、依子起きゐて世話し呉る(のちにて聞けば大江叔母のもとに家事見習にゆくを決心せしと)。
悠紀子10:00ごろ帰宅。大阪へゆき大江叔母、八木嬢、姉と4者対談にのぞみしと。坂根生2度来しと。湖東に会ひしとき、べろんべろんに酔ひゐしと。
講談社より抜刷20部。角川よりHeine14版の印紙1,500の受取。上田阿津子より「家治姓となり泉佐野に住む」と!齋藤博士より「未来を信ずるとともに過去を信じ」と礼状に。
山口広より「治療を中止するな」と。岩井先生古稀記念事業実行委員会より発起人にと。小高根二郎氏より「もっと沢山書きおけ」と。
父母帰り来り、母は父の死後はわが厄介になると云ひし由。大江叔母より「26日夕来よ」と連絡ありしと。「もう気力なし」とのこと也。
5月26日
午前中、床にをり。中村嫗、保険料とりに来る。
角川書店より『現代詩人全集Vol.8』の印税3,164−475=2,689。鈴木(山本)敬子より東京転任(大和町)と。
14:00出て成城大学。(Filmの現像焼付たのみしに「明日18:00出来」と)。3千円の借金返却(利子27!!)。
5月分salaryもらひ、松崎、中沢2女にヱハガキ与へてのち、大藤教授まちて簡単に報告し、
中沢生と風月堂へゆけば山田君江、田島、丸、川本静江の4生出て来り、また中へ入れて茶のます。
そのあとbusにて大江へゆけば艶叔母をり、18:00依子、悠紀子の来るをまち夕食ふるまはる。
高校出の一人息子に母のつく松浦家といふがありと。
20:00出て、けふ電話かけ来し坪井明に電話し「あす16:00中村屋2階で」と約束す。
5月27日
8:00起き9:00出て台北の頼永承・曹永和2氏に抜刷航空便で送る(125)。
成城大学へ登校。田中久夫氏に栂尾へゆかざりしを云ふ。小高根太郎にゆくと出てゆかれしあと中国文学の教室へゆけば20人あまりをり。
3行やりてのち、水谷生呼び平山城阯でのnega与ふ。そのあと相馬生来しゆゑ写真包みしのみにて、ともに出て「すみれ」で昼食。
(けふ定期買ふと2千円悠紀子より借る)。経堂で下車、小高根にゆきみれば田中氏より先となる。
坪井に会ふことをいひ、出て東洋文庫。佐口をり。
『望都県志』15分見しのち田川氏に会ひ、岩井先生古稀記念事業会の発起人承諾書わたし、出て新宿。
古本屋見しあと、中村屋へ15分前にゆき5分前に来し坪井と高野Fruits-Parlour。
喫茶後、向ひのbeer-hallにゆき、気づきて大に電話すれば、母出て青年座の移転祝賀会と。
坪井に「あす家へ電話せよ」といふ。新宿駅にて別れ、現像とりにゆけば385にて金足らず(経堂にて『捜神記(120)』買ひ駒込にてice-cream食べしため也)。
家へ帰りてのち弓子・京にとりにゆかしむ。耳梨を除く三山写りをり。
けふ井上幸子より「坂口姓となりし」と。Non-Fiction全集Vol.16来をり。辻政信氏の行方不明を新聞報じ、われ『インパール』をよみ了る。
(けふ中村屋にて四條治代生に遭ひし。八重樫生5月より出勤と)。
5月28日(日)
河出書房新社より『文芸』再刊と。
よべ1:30より悠紀子と話す。「別居は許さず。それは口実なり」と。
羽田明・東2博士に礼状。夕方までに「無条件降伏5」20枚かき了ふ。
5月29日
登校。坪井明に電話すれば「出し」と。天野忠氏へ写真。沢田博士へ同。
午后、高橋邦太郎氏来り、「京都の仏文学会に風邪のため出ず。松田みす子入院しをらず」と。
栗山部長に旅行の報告す。(午前中は図書館に本返却せし)。
意外にも八木嬢より手紙来り、「はっきりせねばIにゆく」とよめ、不快。
けふ風吹き、むしあつく悒々として帰宅。ゆき子、大江叔母を東京駅に送りしに「心安く来させよ」と依子のことをいひしと。
南禅寺よりの小包やっと着く。夜、頼永承氏に航空便。辻芙美子生へ見舞状。
5月30日
成城大学へ10:00登校。身体検査受く。血圧70〜110.体重41.5kg。
八木嬢の手紙よみ直せば「はっきりせねばI(※今西春秋氏)に縁談世話されん」と也。
高田教授「来週火曜に思ひ出の会せん。皆に伝へよ」と。百瀬教授「本学にも国体観念強き人をりし。名を蓮田(※蓮田善明)といふ」といひ、われと親しかりしと教へらる。
大藤教授より指定寄附の使途原案見せらる。書籍費40万円。芸術に融通せしといふ20万円につき、いはれ、相良教授に問へば「しらず」と。
のちほど池辺も来りいふ。そのあと相良上原2氏来室「しらず」といふ。池田勉氏に訊ぬることとなる。
16:30出て栗山部長と同車。下北沢で別れ大地堂にゆき『かっぱの詩(40)』、『日本案内記九州篇(70)』買ひ、新宿「春日」にゆけば休業。女将出て「丸をり」と。
この間来、悠紀子にたのまれしとて「bonusにて別居よせ。今西にゆづれ」と説教す。
(※八木さん父君と今西龍博士はともに岐阜同郷、今西春秋と丸三郎は中学同級。)
21:00前出てtaxiにて丸宅。夫人に「縁談のもつれ」といひ、重俊・煦美子と話し22:00すぎ帰宅。
『果樹園64』来りをり(けふ200×40速達便にて送りし)。筑摩書房井上氏、留守中来て「『西太后に侍して』の原典貸せ」と名刺おきあり。
(けふ松村達雄にきけば「森良雄、自宅開業の挨拶よこせし」と。丸にきくに「知らず」と。帰れば「留守中来りし」と)。
5月31日
立教のため「チンギス汗の父と母」をかく。湖東へ写真送る。
『花影2(※宮崎智慧主宰)』来る。前川氏と別れしや。
13:00出て下北沢。新宿をへて立教大学。海老沢有道教授5月18日付博士号授与(東大にて)とあり。
菅部長も名誉教授となりしと。手塚教授と話してのち、salaryもらひ、田中正義氏の怒れるを見る(キリスト教行事は至上命令といふに対し、良心こそといふ)。
けふ高木女生(のちにて大阪育ちときく)を加へ3人に講義し、茶のむ。
お茶の水に出て筑摩に『Two Years in the Forbidden City(※紫禁城の二年:西太后に侍して原典)』もちゆけば「訳本必要なりし」と中島君。
井上氏と出て神保町でbeerのみ、中島君来りしにきけば堀川高校より京大仏文、羽田に習ひ桑原武夫氏にも習ひしと。
別れてtaxiにて新宿(190)。てっぱ家にて握飯くひ(290)、帰宅。
(東博氏、歌やめ恋愛中と)。
6月1日
『西太后に侍して』を筑摩に渡せといひ、9:00出て成城大学。
指定寄附の使用予定を篠原、栗山2氏に届け書き、篠原氏に会ひて「書籍はよろし」となり、本棚のこといへば要領を得ず。
大に電話して「けふ16:00青年座にゆく」といひ、短大の漢文すませて昼食。ついで鎌田女史、中沢生と話して史学研究法。
川本広美・長沢の2生にalbum見せ、15:30より文化史の打合会。
20万づつ4人にて本買ふこととし、修学旅行のこと話しいままでの購入を承認しあひ、届けかくうち16:30となる。
「20万芸術専攻にゆづりし」はいまだに判明せず、わがいひ出せしと大藤教授。
17:00出て渋谷。大と茶のみ、いへば「建よりききし」と。このごろ悠紀子わが悪口いひゐる故云々、史、気づきゐるにてはなきや云々。
帰りて鼻かぜひどきゆゑColgen青箱のみて眠る。『東洋史研究20-1』来しのみ。
けふ八木嬢・信子姉妹への信を信子へ出す。
6月2日
前川・野崎その2氏へ写真送る。羽田より「今西と毎週会ふ。一廉の人物で天理にゐても困ることは万々なささう」と。並びに昨春のわが禿げ上りたるを示す写真。
『ハイネ恋愛詩集14版』。「春の日」社より港区麻布今井町に移り、三好達治の娘を編集員とせしと。
10:00、note出来上り11:00すぎ昼食し、聖心女子大へゆく。院長秘書すぐ見つけ稿料2,700賜ふ。Salaryももらふ。
専任諸氏は愉快でなき様子なり。学生はきもちよく、了へて猿楽町。空腹ゆゑちらしずしとりしに父よく食ひ、元気なり。
出て渋谷までbus(増谷文雄『仏陀(130)』買ふ)。古本屋あるき『江戸生活百科第1集(130)』、『アジアの心(30)』、『蘭領印度(20)』、『くれなゐ(60)』など買ひて帰宅。
辻芙美子生より父絶望と、哀れなるたより。
6月3日
4大学文化祭とて休み。風邪ゆゑ臥床。故藤田亮策先生記念事業会より発起人にと。
6月4日(日)
11:00出て成城大学。4大学文化祭といふにゆき見しも教員の姿なく後悔。
すぐ出て渋谷、東横食堂にて豚カツとcoffee(200)。それより都電にて駿河台下、三省堂へゆき見れば製本出来をらず。「あす連絡する」と也。
それより古本屋見てまはり(吉祥寺にて『日支仏教交渉史研究(290)』)、『印度と其の国民運動(30)』、『印度民族誌(300)』を明治書房にて、
向ひの文庫屋にて『Indien(150)』、『The island civilizations of Polynesia(150)』。『Rashomon(50)(※羅生門)』を松村にて。
内山へゆき『西太后に侍して』心がけてくれといひ『敦煌(240)』、『明清史(240)』、『中国掛図(160)』買ひ、『北支名物夜話(100)』にて終りとし、都電にて渋谷、喫茶して帰宅。
白井紘史来て、こぶ一箱父の土産とておきゆきしと。
6月5日
立教大学より非常勤講師の辞令。中馬清福、黒柳直子2氏「15日結婚せし」と。
14:00新調の浴衣着て山下歯科へゆく。井上多喜三郎の戦友と。すみて竹内へ本返却にゆく。「今出しところ」と夫人。
けふ白井三郎・紘史父子へ礼状。
6月6日
8:30出て山下歯科へゆき、金曜にまた来よといはる。成城大学へゆき篠原局長に書籍費の請求し、昨年度の貸借なしときき、ついで大阪の高尾へ請求書のかきかへにて速達。
栗山部長より台湾大学へ9ヶ月日本近代史の講義にゆく適任なきやに「なし」と答へ、
午すぎとなり(松崎女、盲腸にて入院と)、学生たちと話すも相馬生来ず。城田生と猿渡生とより写真もらふ。
教授会、主任会、事なく(社会学専攻を作ると)、上原・浅沼2君のすむをまちて高田瑞穂邸。
22:30まで歓待受け(われwhisky、1瓶もちゆく)、2君の気焔きき、祖師谷まで歩きて帰れば0:00近し。
齋藤晌博士より訴訟のことと、白居易に(※小学館漢詩叢書執筆依頼)きまりし模様と。高橋重臣君より「7月3日出発」と。
6月7日
眩暈せしも推して出、高井戸にて手帖開き、満蒙史料の会、来週とわかり引返す!めまひ止まず。
12:00まへまた出て三省堂(電話かかり「昨日製本もちゆきしも家わからざりし」と云ひしと)、係の男をらず隣の係の男呼びて怪しげな抗議し、450払ふ(背文字入れあらず)。
それより都電にて池袋。立教へ着けば14:45にて茶のみすぐ教室。3人そろひをり、すみて誘へば女生不承々々つき来り、茶のみしあと金払はんとす。めまひするゆゑ三鷹までのりて帰宅。
前川佐美雄氏より「処女作らしくなかなかの腕前」とわが撮りし写真をいふ。林俊郎より「川崎市生田に新築」と。春の日社より「2号への執筆7枚を20日までに」と。
6月8日
成城へ10:00ゆく。途中、暉峻博士と同行、睡眠不足らしくをかしく、ともにjuice立ち飲みしてゆく。
後藤狷士氏「ハイネの田中氏とは同じでなきことを知りし」と、これも可笑。
短大生の代返を発見。史学研究法には「殿下の乗合」をprint使ってやる。すみて山田俊雄氏と同車。吉祥寺にて『平家物語の新しい研究と展望(90)』買ひて帰宅。
悠紀子の友、田中夫人来てをり。東博士より「白眉5娘ならば在東京」と。
けふ不二歌道会より電話かかりしと。齋藤晌博士へ「承知した」とハガキ出す。
(野田宇太郎氏「鴎外生誕100年に田中正平のこと50枚でも書け」と)。影山正治氏より電話ありしと。
6月9日
雨。11:00出て山下歯科。「次は来週火曜来よ」と。東横dept.でrice-curry食って聖心女子大へゆけば「本日休み」と。
老講師にも知らずして来し人あり。すぐ出て全線座で黒澤明「七人の侍」「用心棒」見て帰宅。
(けふ不二歌道会に電話せしに、鈴木正男氏も「用件しらず。あす影山主宰に聞きおかん」と)。
6月10日
成城大学へ登校。漢文やる。藤井来り「母、上京しくれし」とLM(※タバコ)2箱呉れしを1箱高田氏にわたす。写真も呉る。
相馬来り「帰郷しゐし。今月父上上京するゆゑ会へ」と。
12:30まで待ち(高尾書店より手紙来る)bonusもらふ。59,310+父母の会2,9510−税11,860=76,960。
田中久夫氏さそひ京王食堂へゆき海老食ふ(600)。そのあとともに古本屋、岩城堂にて『The Making of Today's Worid(150)』買ひ、不二歌道会へゆき影山氏に会ふ。
保田この間上京「白内障なれど云々」といひし。
肥下より『コギト』の欠本と1000円と送り来しと。(※自分も)1000円を3年間つづけるといひ(14烈士建碑基金)出て、青木正児『楚辞(420)』と角川文庫『今昔物語2冊(200)』買ひて帰宅。
野崎その、沢田四郎作2氏より写真の礼。けふ三省堂子安信雄氏、製本のことにてあやまりに来しと。
6月11日(日)
坪井明より理乙(※大阪高校クラス)の写真来る。白井紘史より転居したと。
午后、悠紀子と出て家具店。本棚あつらへしあとbusにて荻窪。
中央線古本市にゆき平岡訳『水滸伝15冊(700)』、『印度の神々(400)』、『日本歳時記2冊(100)』、『宋元明経済史稿(120)』買ひ、またbusにて帰来。
(丸に電話すれば悠紀子より「母や弟に(※夫婦危機について)いはん」と電話ありしを止めしと)。
西原直廉、理財局長にて退任と(史にきけば八幡製鉄に入ると)。
6月12日
9:30成城大学へゆく。高橋邦太郎氏「話あり」と。何かときけば「湖の辺のバリゲの村」とわが詩(※『南の星』の「湖辺」)おぼえておいで也し。
東洋文化史note忘れしゆゑ、紙にかきてすまし、すぐ出て下北沢。
大地堂にゆき『日本案内記 中国四国篇(70)』買ひ直し、『満洲文化史点描(100)』買ひ、『西太后に侍して』見つけてくれよとたのみ、餡蜜たべ、Camel(130)(※煙草)買って帰宅。
成城大学旅行解散会準備委員、高宮・信濃2生より15日17:30渋谷「鳥新」にて解散会をすると。
夜、速達にて集英社より24日17:30一ツ橋学士会館にて漢詩大系の企画編集会すと。
(岩波文庫『李長吉歌詩集 上(120)』出ゐるを見て買ふ)。
6月13日
山下歯科へゆく。35分待たされ痛し。「木曜また来よ」といはる。
成蹊前よりbusにて三鷹。浅野dr.に写真もちゆけばフランス語の本2冊賜ふ。秀才にして性質よきも患者みえざるに愁し。
出て成城大学へゆけば11:30。個人研究の書類作り「清代史の研究」とし『清史(24,000)』と孟森『清史研究(1,800)』ならびにcard4,000枚(4,000)とす。
相馬と般若心経よみしこととし、本間生にfilm貸し与へ、ついでcoffeeのみ『唐詩選 上(80)』、『李長吉 下』と、『唐詩選 中下』と予約す。
そのあと14:00まで松村と森dr.の話す。
すみて主任会。書籍は承認されしも器具は説明もとめられて出来ず笑はれものとなりしか。
大藤氏探せしもわからず(欠勤と鎌田女史の話なりし)、出て吉祥寺にて『支那風俗の話(50)』、『支那語蕃話(50)』買ひ、帰れば大安より「3,000払へ」とのみ。
このごろ不快不安なり。原因は八木嬢の便なき為なり。
6月14日
よべ0:30ねざめしてだるきも9:00出て渋谷をへて地下鉄。本郷3丁目で下車。『英訳猫町(60)』買ひて東大。
須藤氏の名にて研究費出しゆゑ5万円使えへると。つぎは我にて第1冊了るとなる。
田川氏より抜刷2種もらひ、阿南氏きそひて出れば太田常蔵君に会ふ。3人にて昼食し、琳琅閣見て阿南氏と別れ、「大安」へ和田先生の古稀論叢の3,500送る。
そりあと木内へゆき『海南島民俗誌(280)』、『南方民族と宗教文化(250)』、『淡水郡概況(20)』買ひ、『西太后に侍して』たのめば筑摩よりたのまれしと。大藤教授この間来しと。
学校へと『台湾旧慣冠婚葬祭と年中行事(1,200)』ともう1冊たのむ。
busにて池袋、研究室へゆき、ついで手塚氏に会ひ、会沢君に会ひして30分講義。郵便来てゐるといふゆゑ、とりにゆけばLeidenのBrillより書目。
裏通へ出てbusにて中野へ出て帰宅。〒なし。雨となる。
6月15日
よべ3:00まで水滸伝よむ。登校して木内に電話し、本の追加たのむ。
漢文やりて昼食し、史学研究法(満洲実録を中沢副手に刷ってもらひし)やりてのち、『史林』のそろひ13万を大阪高尾へ注文のこと図書館にたのみ、
(若菜生来て石川啄木のslideに野田・坂本2氏の協力せざりしをいふ)、本多・宮崎2女生をさそひて甘き物たべ、下北沢へゆき、
大地堂に寄り「風流夢譚」のりし『中央公論(100)』と『ミクロネシア民俗誌(150)』買ひて神泉下車。
「鳥新」さがしあててゆけば1,830もらひし(会費800)。文化史の参加者は本間生1人。鈴木恵子生よりfilm返却されて安心。
21:00すみて高田教授と国文の子ら5人、それに本間、山内と喫茶(550)。
すみて山内を姉のやるbarに送りゆきて帰宅。けふ松井博士に(※八木嬢氏からの)返事たのむと速達。
台湾の頼永承氏より『台湾風物11-4』その他来をり。海老沢氏の祝ひ24日(土)17:00江知勝にてと。
林叔父「今治織布をやめ東生田に移転した」と。
6月16日
山下歯科へゆく。レントゲン写真にて奥歯の神経をぬくこととなる。
出て渋谷。大急ぎにてラーメン食ひ(50)、聖心女子大。小林氏6、7月分のsalaryたまひ、8月分は20日より月末まで登校しをりと。
2時間すませ(海老沢氏に24日の会に出るといひし)、都電にて並木橋。
大の留守にゆけば上念の娘もらひしといふ井上氏来訪中。省三郎氏はパシフィックリーグの理事やりゐると。名刺わたして「よろしく」との伝言たのむ。
「林叔父叔母けふ挨拶に来し。敏夫君、理博となりし」と。大の「昭和の子供」は評判もよくなく、肉親相姦的にて見せたくなき様子わかり、出て道玄坂。
『Warren Hastings(50)』、鴎外『新一幕物(300)』買ひて三軒茶屋。参謀本部の地図42枚400(double10枚ありし)。
ついで三茶書房にて『風俗史研究指針(100)』、『南方民族運動史(180)』など買ふ。(『忘れられた国−外蒙紀行(110)』を新本で買ひし)。
帰れば税務署より59万円の収入として予定して税払はぬかと来あり。
6月17日
傘持ちて出、漢文教ふ。すみて「荒野の7人」を相馬生と見る筈なりしも来ず。田中久夫氏とともに出て経堂下車。小高根太郎を訪ひ『金瓶梅』とり返す。
出て田中氏より教へられ、梅ヶ丘下車。麥書房といふにゆく。明治大正の文学書を美しく並べをり。
『李太白(200)』ありしも買はず『大陸遠望(170)』、『畿内見物大阪之巻(600)』、『青い夜道(450)』買ひ、『コギト125(130)』見つけし。
小山正孝らと立原道造拾遺を編纂中と(※『詩人の出発(書痴往来社)』)。
帰宅すればやがて田中正平・龍平の兄弟来り、史帰り、依子熱海泊りと。夕食して帰る。
けふ〒なし。田中冬二氏へ『青い夜道』買ったと。肥下へ(※『コギト』揃のため)あと不足3冊とヱハガキ書く。
6月18日(日)
よべ睡眠不足(不安にてねられざりし)。
午后ひるねしをれば永山光文来り、やうやく仕事順調と。矢野昌彦に紹介かく(矢野より電話ありしゆゑ、30周年の会のこといひ、近々ゆくといふ)。
その話中、山本嘉蔵氏より電話「あす10:00成城で」となる。
17:00出て川崎市東生田の林正哉叔父にゆけば、叔父また今治。としを夫婦と叔母とにて歓待してくれ21:00となる。新茶200g(200)買って帰宅。
依子よべ江の島に泊りしも帰りをり。
6月19日
9:30成城大学にゆく。八木嬢より手紙来てをり「尼ケ崎の姉(※明子氏)に会ってくれ云々」。
山本嘉蔵氏10:00来訪。「藤田亮策先生未亡人、分裂病にて三鷹の精神病院に入院」と。『大陸遠望』贈呈、chocolateいただき柳田文庫を見てもらひ、送り出して中国文学史。
すみて高橋、猿渡2生と昼食。栗山部長より器具の説明をとのことに今井氏さがしにゆき説明さす。「この間醜態なりし」と叱られ今井氏には「業績つくれ」との説教なりし。
すみて東洋文化史すませ、八木嬢の手紙よく見て「7月10日会ひにゆく」と返答。
そのあと鈴木睦美、淳子、福留泰子、若菜東尾の4生と高橋・野田2氏と喫茶。文学散歩の会のことなりし。
すみて両鈴木、若菜2生とを伴ひ、野田氏を麥書房に案内す。われ『別冊三彩正倉院(170)』買ひ、野田氏2女生も買ふ。
けふは太宰治の忌日なりし。(大阪高尾書店へ『大高寮歌集』くれとハガキ書く)。
6月20日
9:00すぎ出て散髪し(170)、山下歯科へゆき「木曜にまた来よ」とききて、下北沢にて中村屋の餡パン(50)買って成城大学。
2個くひ3個を水谷静子に与へ、ついで渡辺俊子より『畿内見物』の返却を受けて『ミクロネシア民俗誌』与ふ。
春の日社にけふ締切のessay書けずといへば「いつにても宜し」と。
相馬生に『羅生門』のdr.Montgomery評を4p訳してやりしあと、卒業albumの写真とられ、史学研究法のprint切り、14:15より教授会。
指定寄附の費途みな通り、ついで研究室の椅子机につき応酬ありしあと、社会学専攻の新設につき、浅沼・上原・木桧3青年の反対あり。
これに大山教授加はり、栗山部長苦境に立つ。大藤、今井2氏喜ぶ色あり。
来週までもち越しとなり、わが室にて文化史専攻の会。今井氏の請求書預り16:30となり、聖心女子大に電話して遅刻ことわりしあと、急いでゆけば17:30。
すでに宴はじまりをり。兼任講師の我、末席に坐らされ話相手は近江の人なる助野助教授のみ。
すみて田中保隆氏さそへば佐藤氏(上智大教授)に誘はれ、原田淑人先生と4人にてtaxi。
渋谷につきて東横会館の屋上にゆきbeer(550)のみ、そのあと田中氏をさそひて「六兵衛」にゆき、われすし食ひ(780)、またさそはれて,おでんや。そのあと茶のみ(190)てすむ。
太田陽子夫人よりたより。高橋匡四郎のことをほめてかきし吉田東洲氏の『古今評論』(けふ木内より小包来り、『成吉思汗は源義経に非ず(300)』も入りをりし)。
6月21日
集英社鈴木氏より速達「24日の会の出欠いかに」と。Note作り昼食してのち出、丁度よき時間となり白鳥先生に途で会ふ。
そのあと手塚教授に会ひ、山田助手に24日の祝賀会出席の返事わたし、茶のみてのち講義。
すみて裏の古本屋にて『人生処方詩集(150)』、『大阪物語(50)』買ひ、地下鉄にて議事堂前下車。宏池会(※三水会)へゆけば齋藤博士見え「証人遠慮しようかと思った云々」。
同博士の話すみて東大の移転、教育に主力を置くわれ皇居京都へといふ。
21:30すみて浅野氏と地下鉄にて渋谷。疲れをり『Non-Fiction全集17』来をり。
けふ太田夫人の礼状。木内へ300送る(送料25)。
6月22日
よべ眠り8:00めざめ、朝食くひて早々に出、渋谷。地下鉄にて裁判所へゆく途、成城短大山高女史に休講とどけ、千野氏見つけて待ち10:30入廷。
われと橋本俊子氏の証人不要。仮処分の必要不必要より齋藤氏に質問、月収は明大にて1.2〜2.2万との答に3.5万の家計いかにするやといはる。
ついで物質的のみならず精神的に不安定とのこと答へらる。
11:00すみて別れ、丸を弁護士会に訪ねしに不出。家に電話すれば「けふは出ず。この間下阪した」と。
それより新宿中村屋、宮崎幸三氏に電話して報告し、堀口太平君に電話してcardたのんでよもやといへば「よし」と。
Rice-curry(150)食ひて登校。われを訪ねて教育大教授来しと。中沢をたづねprintきけば入手せずと。
探し出してたのみ、14:00来訪されしは先輩楫西光速博士。「一人むすこに嫁ほし」と。
具体的条件示せといひて別る。辻、松浦、早川などの名あげしも、山田氏にきけば「早川すでに決定」と也。
(山本書店に電話して清史8冊たのむ)。
義経伝を史学研究法にてやり、栗山部長にこの間のくやみいへばなんでもなき様子。
6月23日
9:30note作り了り、10:30山下歯科へゆく。「おくれてもよし、月曜来よ」と。
東横にてrice-curry食ひ、聖心女子大。われに兵の経験語る人あり。2時間とり蒸暑くて気の毒ゆゑ早くやめて老先生と下通りへ出れば本多生。
渋谷にて安楽生?とやらと2人さそひて喫茶。
下北沢へゆき大地堂にて茶のまされ、やむなく『東洋史統2(250)』買ふ。
けふ栃木県と富山県の地図買ふ(40×2)。
6月24日
9:30成城大学へ登校。図書館にては『史林』つきしと(2.5万の研究費ほぼなくなりし)。
加藤生来り「あす訪ぬ。卒論は蛇をthemaとす」と。
松井・東2氏より安心せる手紙!さっそく返事かく。
11:10漢文すまし来れば相馬父子まちをり、何も話さず。今井氏とよく識るごとし。
12:00送り出して田中久夫氏の帰りしを知る。
朝、神田信夫氏に電話すれば、和田先生向ひの病院に入院しをらると。
中沢副手にprintのことで呼び出せしにすでに配布せしことわかり、あやまりて石渡生と2人さそひて昼食にゆく(530)。
そのあと和田先生に花買ひ(210)お見舞にゆけば看護婦のみ。
つらくて出、鎌田、田島、重久3人とはなして悲しさ忘れ(重久生に地図貸す)、かっぱぶっくす買ひ(暉峻博士と金子登といふとともに「笑ひ」と題す)、出て新宿より地下鉄本郷3丁目。
古本屋歩き『台湾蕃族志1(250)』琳琅閣にて2冊学校へたのみ、17:30となりて江知勝へゆけばすでに時間なり。
井上氏の隣に坐り、聖心女子大の卒業生の前にゐる。原田先生に和田先生のこと申上げ、永々と海老沢、遠藤武(立教、昭和9,10卒と)の2氏の祝あり。
すみて田中保隆、西川2聖心教授と出、まづ秋田料理へゆき田中氏におごられ、渋谷に出ておごり返さんとすれば西川氏止め、田中令嬢と遇ひてすむ(22:30)。帰れば23:00。
本棚来をり(2800)。中馬君に600の買物籠送りしと。肥下恒夫より「影山氏の『コギト』引取りてよし。72、141、142別送する」と。
高尾書店より「大高寮歌集売れし」と。田中秀子より「5月13日挙式、高松直子は10月12日東京に来る」と。
竹田龍児氏より『欽定越史通鑑綱目註索引』。台湾より『文史薈刊1,2』。(けふ堀口太平氏にcardの見本送り見積りたのむ)。
6月25日(日)
加藤隆子11:00まで来ず。雨降る。上野薫子より「伊丹姓となり小山(藤井寺)に住む」と。
加藤生に蛇(神婚伝説)のこときき、内藤湖南『読史双録』貸し、
そば食はすところへ楫西光速博士、令息壽郎氏(昭和8年生富士重工太田工場勤務)を同伴「嫁せわせよ」と(菓子1折たまふ)。
やがて父君去りしあと令息と話せば成蹊出の経済学士。会社はもとの中島飛行機と。
松浦薫子いかにと思ひてまづ帰らしむ。その間、畠山博光君来り、東伏見での写真呉る。
夕食せしめしところへ寿賀子より電話、「来る」とのことに悠紀子迎へにゆき、寿一夫妻にて史へ就職祝にと清酒1本。
依子帰るまで待ってもらひ写真撮り呉る。われ疲れてあり。
6月26日
雨。9:00出て成城大学。池田図書館長に『史林』の端本売ることをいへば「止めよ」と。
栗山部長よりお中元の礼いはれ高橋邦太郎氏の話ききなどして疲る。
東洋史はやくすませ帰り来れば堀口太平氏より電話「card4,200枚できる」とのことなり。急ぎ吉祥寺へ帰りcoffeeのみて山下歯科へゆき「明日も来よ」といはる。
大藤教授より「明日の教授会出られず」とハガキ。阿南惟敬氏より「28日昼食をともにせん」と。
筑摩中島氏より電話あり「あす校正もちゆく」と。
弓子あす早く北海道旅行に出発と。われも早く眠る。
6月27日
朝、悠紀子泣く。わけわからず。不快にて山下歯科「次は木・金のうち」と。
10:00成城大学、やがて筑摩より来し校正見、のこり預り、仕事するつもりなりしも出来ず。『清史』3冊山本より着き9千円。
琳琅閣の本も着く。『史林』の請求書など栗山部長に渡し、相馬生に『羅生門』の筋書訳し、そのあと本間、山田2女生の話きき、教授会におくれて出、マスコミ専攻出来ることとなる。
雨の中、山田教授と同車。三上次男氏と遇ふ。
田中冬二氏より「『四季』みつけたらやる」と。本位田より転任通知「名古屋高検次席」と。
6月28日
雨。9:00出て渋谷で地下鉄待てば安西均氏に会ふ。Design-Centreといふに勤めると名刺呉る。
本郷3丁目下車。coffeeのみて東大東洋史研究室にゆき、小山助手に筑摩のことたのみ、神田、松村、後藤、宮原の4氏のみ出席のところにてわれ『李朝実録』よみ、第1冊了る。
白地図作製に協力すと後藤氏と約す。筑摩来ずといふゆゑ電話かけてゆき、出てbusにて池袋。
立教大学にて6月分salaryもらひしあと引返して『Heine恋愛詩集』と『現代詩人全集』と買ひ、昼食。
『南方全集7(200)』買ひ、一旦講師室に帰り14:50また雨の中ゆき講義すます。
久保生「9月一杯休む」と。林、木2生に本与へ、出て研究室にゆけば無人。
飯島にて『註解歳時記(50)』、『民俗学入門(150)』、『故事成語諺語辞典(200)』、『はだかの日本人(70)』、『おばけの歴史(50)』買ひて池袋駅に出て帰宅。
木内より300の受取。寿一夫妻より礼状。(けふ神田より池袋までのbusにて知念栄喜氏に遇ひ6日森亮氏上京とききし)。
相馬弘の父より中村屋の菓子。集英社より原稿用紙。肥下より『コギト』3冊。これにて皆そろひしこととなる。
6月29日
雨。方々に水害ありしと見ゆ(※通称「三六災害」)。9:30成城大学にゆき短大の漢文やる。面白くなきはなぜやらん。
早くすませしに楫西博士より電話、夫人も出られ「明るき人を」とのことなりし。
近々参るといひ、すし食ひにゆき、史学研究法のprint切り、松浦薫(※美紀子氏父君。のち昭和44-48年坂出市長)の家に電話すれば7月15日ごろ上京と。
妹(※美紀子氏。のち史氏に嫁ぐ)「もはや登校せず。写真はいつでも渡す」と也。姉君にきけば選挙にて忙しく云々と。
史学研究法すませて悒鬱がりつつ吉祥寺。17:00まへなる故、山下歯科へゆく(途にて悠紀子に遭ふ)。「月曜また来よ」と。
入浴。夜、悠紀子に「未亡人になったつもりでをれ」といふ。
6月30日
阿南惟敬氏より「一昨日国鉄不通のため遅刻した。7日来訪」と。高橋重臣氏より電話、あす朝日新聞前にて14:00会ふを約す。
午后、雨やむ。けふにて『水滸伝』よみ了り『古今小説』よむ。
7月1日
雨の中を成城大学にゆく(途にて丸に電話し楫西令息のこといひ、今夕ゆくといふ)。
楫西夫妻に電話し、あす10:00参るといふ。漢文すませ(山田生、本間、三野2生つれ来て指導さす)、田中久夫氏と出、
渋谷で飯くひしあと、西銀座に出、氷汁粉くひしあと朝日新聞のまへで25分待ち、高橋重臣氏に音楽喫茶へつれゆかれ、ともに出て歩きまはりしあとNew-Tokyoにてbeerのむ。
夫人、末女とCanadaの女史(東大人類学教室にて石田英一郎、泉靖一2氏に習ふと)。
写真とりやり16:00となりて女史と同車、三鷹にて下車。帰宅。
途中『モンゴルの砂塵(100)』買ひ、夕食、入浴、20:00となりて丸家へゆきしに夫人のみ。23:00まで待ち、
あす9:00再来をいひて出る(娘は中村生と会ひ、父は会合と。重俊われを怖がりて出ず)。
依子shirtを仕立ゐる。
7月2日(日)
晴。よべ眠れざりし為、9:00まで出られずcameraもちて丸家へゆく途、楫西家へ電話し「午后参る」といふ。
丸夫妻と煦美子と話すに、(※婚期)せかざる様明々たり!写真もちてbusにて渋谷。Restrant京王にてそば食ひbusにて若林。
楫西家にて夫妻、壽郎君に丸との交情いひ、見合ひと形式ばらずにといひ、後の返答まつといへばbeer出さる。まっ赤な顔して出、世田谷代田駅へ出しゆゑ矢野に電話すれば在宅。
ゆきて30周年の趣旨書をかくこととし、永山来しも計画なしと断りしときき、大島と紬売りに来し大丸dept.との問答ききて出、西垣氏を訪ひしに不在。怏々として帰宅。
悠紀子、浅野dr.に礼にゆく。本日28.8℃と。弓子北海道よりゑはがき。
7月3日
小雨。登校して暑く、中国文学史やり、あと殆ど何もせず(丸夫人に電話し、きのふ届けしとのみいふ)。
Sandwichと紅茶にて昼食。大塚生来り、地蔵のこといふ。
佐藤生来り、中国の駅伝制について問ふ。本間group来り『日本案内記』与ふ。東洋文化史は参考書あげしのみ。
木曜の史学研究法きることとし、出てまっすぐに山下歯科。あすも来よと也。
入浴し夕食。けふ学園名簿もらふ。
7月4日
10:30出て山下歯科にゆく。「木曜来よ」と。
11:20成城大学。柴山東宝重役(※大高同窓柴山胖)に電話すれば撮影所と。砧撮影所にかければ重役会と。究問すれば木曜9:30出所と。
また堀口印刷所に電話してcard自宅に届けたまへといふ。
指定寄附による書籍購入の届けし、今井氏に請求書の完備あれといひ、14:00まで相馬に『羅生門』よみ、『成城文芸26』出来しゆゑ編集委員会すといひ、
27号の締切を8月20日とし、次には一般教養部門より委員増加ときめて散会。
渡辺、西沢、川本、郷右近のgroupと喫茶。「8月23日?に新島にslideとりにゆくゆゑ援助せよ」とのことなりしならん。(大藤、鎌田2氏多忙らしかりし)。
帰れば岩井氏古稀記念会に金出せと(1,500也!)。
7月5日
晴。家居。中国小説よみ年中行事を注意す。
15:00畠山博光君来り、20:00近くまでゐる。金沢誠氏にわが名刺わたせしと。本位田昇へ名刺托す。(8月10日ごろまた上京し来ると)。
八木嬢へ20日すぎゆくと訂正の速達す。
7月6日
登校の途、filmの現像焼付たのみ、富永次郎氏と同車してゆく。短大の漢文は唯一人をり白百合より来し畠野生と。
coffee牛乳のませて話し、前田教務課長に会ひにゆけば「学科の説明かけ」と。
忘れゐしを思ひ出し書きつつ渡辺、加藤、坪井、佐藤、大塚(この2生は電話かけて呼びし)の諸生と卒論の助言し『白楽天詩集』4冊を借り出し、
今井氏よりcamera等の請求書受取り、印捺して栗山部長に渡し、外出との東宝砧撮影所長柴山の16:00帰るといふを待つ。
相馬と15:30出て撮影所にゆけば、所長室へ通され、相馬に資料探し承知してくれ、劇場の招待券10枚ほどくれる。
2人で歩けば祖師ヶ谷大蔵駅へ着き、氷しるこ食ひて別れ、中沢、加藤2生と同車なることわかり映画の切符わけて帰宅。
森亮氏より「あすあさ電話せよ」と。田中冬二氏より『四季』43,44送ると。『果樹園』65来る(送料60円!)。
弓子帰宅しをり、依子いれちがひに尾瀬へゆく。
けふ肥下にやっと礼状出す。
7月7日
8:00森亮氏へ電話すれば「本日ひまなし。あす9:00三鷹駅ホームにて会はん。あさっての鴎外・柳村の会にも参加す」と也。
野田宇太郎氏に電話して2氏の追加申込めば「よし」と。
悠紀子、鎌倉行さそひしゆゑ「行かず」といひしにより「尼崎春名姉に会ひにゆく」云々。
羽根田諦、伊丹(上野)薫子、牧迫(田中)秀子3氏へヱハガキ。山下歯科へ12:00前にゆけば午前中の受付11:00までと。恐縮して診察受け帰宅。
夜になるまへ悠紀子渋谷へゆき阿南氏bananaもちて来訪。島田好氏、鳥取大学に奉職と。
7月8日
8:10出て写真現像アキモトにゆけば20枚中19枚とれをり(315)。
三鷹まで乗り、待てば9:10前に森亮氏来り、渋谷まで切符買ひありといふも吉祥寺で乗換へ下北沢まで同車。
あすは上田敏の墓詣りに別口ありて文学散歩の会には同行せずと。わが「半自叙伝」ほめらる。
15:30渋谷の「Juchheim(※ユーハイム)」でと約し成城大学。
高井洋子来り「笑ひについて」の構想話す。暉峻式笑ひについて了解しをり。
他に誰も来ず、中沢副手のぞけばをらず、出んとするところへ(集英社鈴木氏に電話すれば月曜まで出張と)考古学の室にゐるといふに、
ゆきて丸重俊に煦美子の写真3枚わたし、12:45ともに出て中村屋。飯すみしあと「副手やめる」と也!
別れて渋谷。News映画見、Juchheimにゆき満員の中、森氏と小村光子氏見つけ、東急rest.にて喫茶後、さそひて我家に伴ふ。すし来るまでいろいろ本見す。
田中冬二氏より『四季』43,44賜ひ(※揃ふまで)あと17,66の2冊となる。
小村女史は東邦医大の講師にて荻窪に住むと。内田英成と森氏同級と。三鷹駅近くまで送りゆき帰宅。
けふ悠紀子、京、渋谷へ猫もらひにゆくつもりなりしと。史とまりがけにて出しと(恰も誕生日なり)。
けふ34℃、不快指数84なりしと。
7月9日(日)
睡眠不足なるも6:45起き、渋谷をへて9:00新宿駅西口着。(※文学散歩の会)松村嘉津子女史に紹介され、
最前席に坐り三鷹禅林寺(黄檗宗と)の鴎外墓よりはじまり、千朶山房あと、谷中の上田敏墓地などをへて上野公園で昼食(新宿駅のむすび弁当食ふ)。
それより墨田河を渡り千住宮元町、長命寺へゆき小憩。佃島より渡しに乗り麻布龍土町の龍土軒へ18:00着。
森杏奴さん、嘉治隆一、石田幹之助、啄木婿、高橋邦太郎などみな長く話す。わけても文学好きの素人の長話ききがたかりし。
われ田中正平、船越嘉一郎、金尾文淵堂の話し、杏奴さんうなづく。
21:00となりしゆゑ先に起ち、青山一丁目まで歩く。おつきあひもよいかげんにせんと思ひし。
けふ依子、尾瀬沼より帰り、悠紀子渋谷へゆきしに父弱りをり、報国寺に1万円を玉垣代に寄附すと也。陽生、寿一夫妻も来ゐしと。
7月10日
晴。風やや涼し。山本嘉蔵氏へ写真を送る。13:30山下歯科。帰れば角川より『世界の人間像1』。
10日までといひし堀口君のcard音沙汰なし。猿渡弘氏より缶詰1箱。
7月11日
3:00めざめて田中冬二氏に礼状。『詩人学校』来り「井上多喜三郎氏還暦祝に詩碑を建つ」とあり。
『詩人通信』に山崎実治「三人・線をめぐって」に『線』の投稿者に当時のCommunist田中恒夫(忠雄)散文詩を書くとあり。
缶詰もちて山下歯科にゆく。「明後日来よ」と。14:00ごろより雷雨、あと涼し。
堀口太平氏に電話せしに「card出来しも忙しく」と。「明日来たまへ」といふ。猿渡氏に礼状。
7月12日
昨日より悠紀子、家探しす。渋谷の家せまく暑くて父、耐へられずと也。
11:30無人ゆゑ郵便受取る。中馬(黒柳)直子夫人より祝の受取。鈴木正義生より「東京本部付となりし」と。
成城大学より宮本学長辞任につき21日14:00より3学部合同教授会と。(山中)花井タヅ子夫人より式の写真送り来り「孝さん法務図書館に通ふ」と。
中西夫人(※大家)見つけ、あとたのみて出、下北沢で中村屋のpão買ひ、登校して大藤氏と話す。中沢生(※退職)は考古班と旨くゆかぬも一理由と。
考古班のみく[び]しゐるを我より山田、丸にいはんといひ、講師室にゆけば山本の書目のみ。
『清史』2冊と『白楽天』2冊ととり、集英社に電話すれば「鈴木部長はお宅へならん」とウスヰ氏の話なりし。
筑摩の中島氏に電話すれば(※『西太后に侍して』共訳した故)太田七郎氏の兄弟、国連局にありと電話教へくれ、2月後の話ゆゑせかざりしと。
池田勉氏に学長後任につき問へば「詮衡委員会にてきめる」と。
折から年中行事研究会の山中氏来しにあはてて出、帰宅すれば田中順二郎氏より醤油1缶来をり。
弓子るすして「母、祖母を三鷹の空家に案内しゐる」と。やがて電話中島氏よりかかり「国連局の弟にきけば、太田七郎夫人再婚して貫井にあり。
嬢ももらはれゆきし」と。「(※『西太后に侍して』再版)印税の正当なる受取り人をしらべよ」といひ、18:00来るといふ堀口太平氏まてば丁度の時間に来りcard4,200枚(4千円)届け呉る。
夕食せしるしに敏感すぎる。家建てよなどいひ、創価学会ゆゑ安心立命をしゐる。金をためるがその基礎と。
駅まで送りゆき写真やきましとり帰宅。
けふ三鷹の家見しに母喜び、父も喜び「長沖(※友人である長沖一父君)にちかくなった」といひし直後、死亡通知来しと、あはれ也。
『水滸伝』のcard書きはじむ。
7月13日
朝、母より電話かかり「三鷹の家やめた、遠すぎる」と也!
集英社鈴木氏より「けふ15:00来訪」と。13:30山下歯科へゆく。「あすも来よ」と。水滸伝のcardにて疲る。
西島寿一より依子の写真。花井たづ子氏へヱハガキ。鈴木正義氏にハガキ。高橋雅子夫人へ写真。
16:00すぎ洋菓子もちて鈴木氏(出版部長)来り、12月ごろまでに6篇あつめるつもりと!
神田先生書けざるらしと。夜、龍平来り湿疹と。城平叔父へ無沙汰をわびる手紙を托す。
7月14日
暑し。9:00散髪にゆき(200)、山下歯科にゆく。「月曜に来よ。も少し」と也。
帰りて午睡。『水滸伝』のcardつづける。聖心女子大の本多生父君明氏より葡萄酒2本たまふ。
入浴してのち柏井(※義弟数男宅)へゆく。天津北京のこと記憶うすれたるゆゑききにゆきし也。
7月15日
風吹く。和田先生より全快祝?に砂糖賜ふ。矢野昌彦よりbeer1箱たまふ。
父より長沖父君(英一と)は2日死亡と。
『不二』来り「大賀知周翁、4月6日青酸カリにて自殺なりし」と!
坂根千鶴子より電話かかり「今夜来る」と。ただ一尾のこりし金魚も死ぬ。けふ37.5℃にて記録と(明治9年以来と)。
永山光文来り「方々義理堅いので恐縮しゐる」と。われにも煎餅賜ふ。
坂根千鶴子より電話「夜来る」と。坂根19:30来り食欲不振と。ギャラ6万円にて学校公演したしとて修徳学園石渡経夫氏(※校長)に紹介かく。
7月16日(日)
暑し。家居。『水滸伝』のcardつづける。依子、五井へ海水浴にゆきゐしが帰り来る。
八木嬢へ24日ごろゆくと手紙かく。
7月17日
暑し。悠紀子渋谷へと出てゆく。われ速達出して山下歯科「あと2回ぐらゐ、次はあす」との仰せなり。
山田信江生より「19日田島、武井2生と来て宜しきや電話せよ」と。「よろし」と電話す。
筑摩書房より(※『西太后に侍して』再版:世界ノンフィクション全集)3万4千部14日発行と通知。新聞にも広告あり。
西沢、渡辺2生東山梨牧丘町生捕部落といふより暑中見舞。
和田先生より「本復祝送った」と代筆。矢野昌彦より電話「beer栗山氏にも送った。明日より京阪出張」と。「30年記念会趣意書かいた故送る」と答ふ。
7月18日
長沖一氏へ弔状かく。悠紀子、渋谷へと出てゆく。山下歯科へゆきみれば満員。大高clubより「27日吉岡弥之助氏の漫談あり」と。
筑摩の中島氏より電話ありしと弓子の話にかけみれば「石井夫人すみ子(太田七郎未亡人)21日(金)15:00筑摩へ呼ぶ」と。
「われゆく」と答へ、竹内好に電話すれば「もう挨拶いらぬなりし」と。
悠紀子帰り「父好し。犬の仔1匹1万円。大帰宅。長沖家香奠いらぬといひ来りし。母、林の新築を羨む」と。
夜、「北京」18枚書く。
7月19日
晴。10:00の約束に外に出てみれば山田生と田島生と途きいてをり。呼びて話せば田島生勉強すすみゐる様子。『北方ツングースの社会構成』もちゆく。(2人にてとtobacco10賜ふ)。
楫西博士来訪に逃げ出せし也。予想の如く丸煦美子へのことはりいはる。理由は背高きより小さめがよしと。英国製biscuits1箱賜ふ。返礼に『ノンフィクション全集』1冊を進呈。
15:00となりて出(芳野清より暑中見舞。若菜東尾生より「文学散歩の会」の写真と講義面白くなしの手紙)、西川の会社にゆき天津のこときき、依子の退職いひす。
30年記念会の趣意書の件も了解得し。
出て奈良県の地図買ひ、また地下鉄にて国会議事堂下車。宏池会にゆけば早すぎし。田中忠雄氏にきけば山崎実治氏識りをり。昔、詩作りしを肯定。
齋藤博士来るや否や『白楽天』早くかけと。この間、京都で病臥の神田博士(※神田喜一郎)に会ひ「田中と小林入れしは宜し」といはれし。吉川幸次郎博士を京都でも悪く云ふと。
田中忠雄氏の話すみしあと池田勇人謹呈とScotch Whisky2本もらふ。
丸に電話すれば明後日16:00「春日」で会はんと。帰り浅野、佐藤2氏と同車。佐藤氏、沖縄へ講習にゆくと
(けふ着きし『古今評論』に村松正俊氏東洋大学で学位論文通せしと。わけのわからぬ世の中なり)。
相馬弘生より速達「柴山胖氏より連絡なく、も一度催促してくれ」と。
7月20日
12:00出て果樹園社へ小為替(10)にて1千円送り、柴山氏へ「たのむ」のハガキ速達してのち山下歯科。けふにて了りとなり健保証返してもらふ。
渋谷東宝の切符2枚置く。それより下北沢新宿をへて立教大学。7月分手当もらひ研究室の様子きけば通りかかりし清水教授「手塚さん見えませんよ」と教へらる。
裏の古本屋へゆき『続古典語典(150)』、『アフガン記(50)』、『近世庶民文化10(100)』買ひしあと氷水のみ、busにて中野へ出て丸夫人に「あす17:00に変更と伝へたまへ」といひ吉祥寺。
35mmSS1本(200)買ひて帰宅。井上多喜三郎氏より「山下dr.より便りあった。野田宇太郎氏に会った」とたより。
涌井千恵子、鍋島友三郎、吉村俊子諸氏より暑中見舞。高橋夫人より「写真受取った」と。「北京」を書きをり。
7月21日
悠紀子、京と10:30出て夏の鳥打帽買ひ(500)、成城へ11:30着き、途にて神戸、高井2生と会ひ昼食をともにす。
それより大藤氏待てど来ず、谷氏、山田氏と話し、相馬生、若菜東尾生にハガキ。
八木嬢に24日「なにわ」でゆく。京都で待てと速達かきて投函。
筑摩の中島氏に電話せしに昼食に出しと。Salaryもらひ栗山部長に会ひ、けふの教授会欠席をいひ、14:00となりて鎌田女史と話せしあと出て、
15:00かっきり筑摩書房に着けば中島氏「成城に電話せしに教授会に出席中との返事なりしゆゑ石井文子夫人を16:30まで待てといひ出せし」と。
止むを得ず16:30まで茶のみ話して待ち、来られしと印税8%の半々分割を了承せしめ、嬢が来年1月石井まき子となるを聞く。
ともに出て淡路町より地下鉄、田中正平を知ると。ふしぎ。「春日」にゆけば開店しをり。丸、少し待ちしところと。
20:00までbeerのみ(楫西家の件、了解と)、そば食ひ1,300といふに500われ出しtaxiにのり、われ中野で下車。帰宅すれば「大阪行はいかがなさりし」と悠紀子の話。
本間生より吉川生の父15日に亡くなりしと。
7月22日
9:00京、悠紀子と出、悠紀子が貯金にゆくを駅にて待ち、来れば我包みを一つ忘る。悠紀子引返して取りにゆくを、我と京と東京駅にて待ち、
やがて横須賀線に乗る。坐りて11:00鎌倉着。
busにて名越四つ角下車。また我と京と先にゆけば和田賀代氏待ちをり、午食おそく我ふらふらとなる。
悠紀子、京の海にゆきしあと15:00和田女史の出てゆくを送り写真とる。
そのあと夕方になりて依子、弓子来り夕食。
すみて我、悠紀子と手塚教授宅へゆく。途にて我るると語り、玄関にて手土産おきすぐ出る。変な調子のつづきにて致し方なし。下駄と鎌倉地図(50)と買ふ。
7月23日(日)
朝、5人にて浜にゆく。悠紀子と我とおくれて出、ice-cream食べつつ上り来るをまちて写真うつし、busにて鎌倉駅。
それより鶴ケ岡八幡宮まで歩き(途にて氷食ふ)、近代美術館見、また歩きて切通しのトンネル抜けて帰れば皆をり。
けふ照富の記事あり35才にて5児と(※不詳)。悠紀子泣く。
7月24日
朝5:00起き、6:00すぎ出て鎌倉駅(悠紀子門前まで出て「しっかり」といふ)。
大船にて平塚行に乗り、小田原行にのりかへ小田原にて第2なにわのあるを知り、juice(10)のみてのち乗車(9:04)。
15:29京都に着き(豊橋にて弁当)、16:45ころまで待てば八木女史来る。
憔悴し、殆ど物いはず。姉(※明子氏)大阪駅にて待つといふゆゑ17:00大阪駅に着きしにをらず。あとにて電話し、はじめて出しを待ち、来りしと阪急屋上のbeer-hallにゆく。
「責任をおとりになる必要なし。常識的にふるまはれ家庭に帰られよ」と姉の説なり。
ついで八木女史「親戚中の反対の中をゆき、家庭建設の自信なし云々」。
姉に手土産わたし、八木女史と吹田、千代の家(※不詳)にゆき話きかんとすれば
「羽田夫人より今西夫人にしらせあり。この間見に来、その話にては田中はかかあ思ひで有名と。この一発で陥落せし」と。
われ狂ひしあと心臓動悸し困る。不眠。
7月25日
9:00出て大阪駅。pantieを八木女史買ふを見ゐれば、荒木利夫に会ふ。「元気相」と。
われ事実元気にて氷西瓜食べてのち名古屋まで送るといふに喜びて!!45分まち11:00発の準急に乗る。女史は眠りわれは起きをり。
大垣にて昼食。13:39名古屋着。宇治金時たべて泣くを見る。われ愛情深すぎ、神経質にて云々。
近鉄に送りしあと「なにわ」に乗りしに坐れる。一睡だにせざりしに元気なりし。帰宅21:30。
悠紀子まだ帰りをらず。愚行ここに終りを告げし也。
留守中の郵便、竹内好『不服従の遺産』、『春の日創刊号』。田島靖子生より礼状。波形政一氏より暑中見舞。
長沖一氏より父へ伝言をと父君の病状。武井伸子よりこの間来られざりし詫び状。
山田英樹より「先生ある雑誌に日本の中立主義についてお書きになったと伺ひましたが??」。
中島京子、推野二美子2生より「わかめ」と送り状。前田教務課長より吉川和子の父の香奠につき。
(※空白行のあとページ破り取られノート終る。)
昭和36年7月26日〜昭和36年9月27日 「東京日記11」 欠損
紛失あるひは遺棄されたか事情不明。
この間、十二指腸潰瘍にて入院? 9月20日、父、西島喜代之助死去(78歳)。下阪して葬儀。
昭和36年8月7日 悠紀子夫人と (於自宅)
昭和36年9月25日 肥下恒夫氏夫妻 (於自宅)
昭和36年9月28日〜昭和36年12月31日 「東京日記12」
25.3cm×17.8cm 横掛ノートに横書き
9月28日
よべHyminalを久しぶりにのみ、朝、悠紀子の起きるを知らざりし。
8:50出て成城大学へ9:40着く。近藤園枝生をほめ、教務にて短2の漢文の問題受取り、相良、山田2教授の顔見しのち201教室へゆけば補助の経済学部学生をり。
12問書けば及第といひ(欠1名)、25分位にてみなすませ、そのまま吉祥寺に帰り、佐藤dr.にゆき4日間の薬もらひ、出しところへ悠紀子来る。
ともに帰り井上靖の「詩を語る(13:30〜14:00)」聞かんとせしに議会放送にて流れしらし。
ひるねせんとしてだめ。悠紀子起きて寝汗かきしといふに、浅野dr.に電話してゆき、レントゲン写真してもらふ(480)。
外出の夫人と同車にて三鷹駅(五百井、山本行常、浅野の3人出席と。湖東を加へて4人なり)。
帰りて洗濯し(朝も半ばやりし)、18:00夕食。
ガス代払ひに中西夫人に悠紀子ゆけば、22日「23ヒ大阪ニテアフ 八木嬢」の電報来り、発信者へ戻せしと。
今の手紙といひ、みな「だっておそすぎたんですもの」也。爽快。
弓子けふ尖りをり、依子きげん良く、京「お父ちゃんとお母ちゃんと仲良しにて中位なるをのぞむ!」と。
森dr.も留守中往診に来たと!
9月29日
留守中に来ありし田川孝三氏の見舞状に礼状かく。佐々木邦彦画伯へハガキ。洗濯すまし10:30ごろともに出て渋谷。
京王食堂にて昼食し、別れてわれは聖心女子大。試験問題つきをり。
田中保隆教授より「半自叙伝」はじめてほめられ、十二指腸潰瘍の披露をし、9月分手当もらひてのち2時間講義すませ、試験問題を教へて帰らんとすれば本多慈子生「お大切に」と。
都電にて並木橋。大の宅へゆけば悠紀子をり。仏壇買に東横dept.へ母のともをし、別れてきけば来月より母に小遣与へるを約束したと(父の記録については話なし)。
吉祥寺にて写真の現像たのみ、買物して帰宅(中道郵便局にて「ホショニンノケンイカニ」タナカの電報打つ70)。
大江久美子より「太宰治をよむ」とのたより。
古田房子より「学院に居られたときよりも何だか気分的にふっくらしていらっしゃるやうですし何よりも奥様とお二人で楽しそうに見えて」と。
荒木修教授より「『果樹園』よんだ」と。(けふnote作り了へてコンコンへの手紙の稿かく)。
渋谷より電話せし矢野昌彦より電話あり「来月初に打合せしよう」と。
けふ悠紀子をして東横dept.にて香奠返しとして今井富士雄氏に茶(400)送らしむ。
9月30日
6:30ごろめざめ8:30浅野dr.に電話してきけば「異状なし」と。その間、悠紀子コンコン(※八木嬢?)への手紙清書し、畠山夫人、大江叔母へも手紙かく。
田中俊子(高沢叔母の居所きく)、田中ナツ(けさ帰り、元気らし)、平林文子の諸夫人より悠紀子に電話あり。
11:00悠紀子速達しにゆく。大江久美子へハガキ。林俊子夫人へ連名のハガキ。
京の13:30帰るを待ち誘ひしもきかざるため、2人にて代田2丁目下車。沢辺家さがしまはり、ゆけば高沢えい叔母をり。柏井家の略系図教はる。(※系図)
和子の夫は正明とて全日本観光bus Co.の専務にて慶大出。先妻に2子あり離婚す(信州松本の医家の出と)。1男1女に挨拶され、叔母に送られて出る。
(村井せつ子の長女名古屋の財閥滝家に嫁し不幸と)。
東松原に出て吉祥寺にてすき焼の用意す。(八百屋の若い衆「イツモオマチドオサマ」といふ)。
帰れば帝塚山の名簿来をり、またも「中込アパート(※旧住所)」と記す。
電報来ありオヤサトヤカタ午后0:30発「カズミチノケン」ハナシチュウ」オマチコウ」ハルナ」とあり。爽快。
写真現像1本出来上り330(内焼付10×28)。依子22:00帰り来り、退職手当をふくめ23万円の預金出来しと。
10月1日(日)
立教大学より速達「本務をしらせ」と。「成城大学文芸学部教授」と答ふ。
9:20出て写真の焼付たのみ、日本基督教団吉祥寺教会にゆく。隣席の老人、Bibleと讃美歌集見せてくれる。
11:20すみて遠藤夫人に会ひ「来週の日曜に家見せる」といはる。それよりjuice飲み(35)て田中家。
昨日北海道より帰りし夫妻、rain-coat返却。アイヌ語手拭1本賜る。
帰途買物して家に電話すれば「田中雅子、子供の学校のことにて来る」と。
急ぎ買物して待てば14:30来り、「美知子、和光学園の幼稚園部卒へしあと区立の小学校にやる」と也。
[14:30(※ママ)]帰りゆくを悠紀子送り、写真現像焼付もち来る(280)。Albumに添付して夕食し、19:00出て丸邸。
三郎釣より帰らず。夫人と話せば「重俊また発作」と。われも歯齦炎にて数男に電話し薬のむ。
西川に電話すれば不在。都合教へよと夫人にいひてすむ。
21:00ごろとなり、帰途「赤ちゃん」にゆき赤川夫人(※赤川草夫夫人)に挨拶。帰りて田中雅子のもち来し梨食ふ。
けふ西宮一民氏より、弔ひ1,000と「神宮皇学館大学に転任きまった」と。
田中秀子(牧迫)より「熊取に帰る」と。都丸書店にて李亜農『中国の奴隷制と封建制(130)(訳なり)』。
10月2日
雨。9:30すぎ山下歯科へゆけば、歯槽膿漏と手当賜り、薬もらふ。
ついで無名書房に寄り『亜細亜の四等船室(70)』と『綜合歴史年表(30)』買ひ佐藤dr.。胃の痛みをいへば問題にされず。
帰ればNHKより「婦人の時間」の謝礼(1,000−100)(※不詳)。
14:00ごろ(※誰と?不詳)ともに出て、浅野dr.に保険証もらひにゆく(湖東の出席予定玄関に入れありし)。
ついで『全集叢書総覧(150)』買ひ、雨の中をともに帰る。
西川夫人に電話すれば「昨夜いふを忘れし」と。
母より電話あり「高阪氏、父の初期の詩と履歴とをほしがる」と。われ「金曜にゆく」といふ。ザマ見ろ也。
今日より火鉢に火を入る。金素雲おもしろかりし。
10月3日
雨。依子家にをり。午前の〒にて神田信夫氏の見舞。大江久美子の「太宰論」、大江叔母より「出戻り女の女中帰した」との手紙。
丹羽千年より写真。田中雅子よりの礼状と5通の手紙来る。
われ小高根二郎、西宮一民、神田信夫の諸氏にハガキかく。
13:30山下歯科へゆき、ひるねし午后の便にて鎌田正美より「原田運治君に11月3日の案内なし」とのハガキを見、
悠紀子と出るに、犬つきて来しゆゑ、途かへ、切手はらずに原田への案内投函。きげん悪くなりしも「らかん」に焼増しにゆき見れば休み(第一火曜を休む店多し)。
悠紀子と別れ古本屋にゆけばここも休み。
やむなく「丸善」前にて待ち、屋上の喫茶店にてわれは待ち、ついで「明日弟宅見にゆきてよし」とききしあと、買物すまして帰る。
夜、依子あすより4日間旅行とのことに(※憤慨して「お前が悪い」と:依子さん談)悠紀子を叩きて物いはず。(西川夫人よりも遂に連絡なかりし)。
鎌田へ礼状。Hyminal1錠のむ。
10月4日
雨。朝、起きがけ悠紀子叩き、子ら出しあと春名道子への速達「コンちゃん」気付にて書く(コンbaksiの手紙の写しを示す)。
丹羽千年、白井紘史へハガキ。11:00西川英夫より電話「19:003人にてゆく」ときむ。
清水文子より「滝本会ひたし。依子下阪の時しらせ」と。
小高根二郎より「送稿なく69号欠」と。それぞれに返事かく(『果樹園』には68号まで送りし也)。
けふ依子買物にゆく。依子用のヨーグルトことわる。
17:00夕食し、雨中、依子とわかれわかれにて写真焼付とり(225)、渋谷の東光にて菓子(400)買ひ、地下鉄にて本郷3丁目。
19:20上野駅に荷物預けし依子と会ひ、西川邸(※保証人の西川氏に富士銀行退職挨拶)。夫人ともども色々話し、20:30出て中華そば食ひしあとお茶の水にて依子下車。
22:00帰宅すれば京、弓子ねてゐし。
10月5日
鈴木恵子、西角先生、肥下へ写真送りの手紙かく。
大江久美子より「太宰の悶々日記中に“このみちを”の歌あり」と。
午后ともに出て富士見丘下車。(そのまへ山下歯科へゆき京の払ひすまし、ついで遠藤家を見にゆく)。山田俊雄氏の家探しまはり『玉燭宝典』を届く。医師来診中なりし。
それより南口の古本屋にて尾形亀吉『散楽源流考(170)』買ひ、佐藤dr.にゆきて帰宅。
夜、大江久美子、西村美那子2氏へハガキ。石渡生より電話「渡辺、西沢2生とあす来る」とのことに「明後日午前中にでも来よ」といふ。
10月6日
昨夜Hyminalのむ。9:30山下歯科へゆき「けふにて一時よし」と。シベリアの戦友の話きく。
帰りて悠紀子と大江叔母へ速達(16日依子ゆくと)。
林叔母、治子へ写真。11:00昼食し、渋谷へゆき、時間早きゆゑ、紅茶とエクレール(95)摂ってのち聖心女子大。
海老沢博士を久しぶりに見、あすバザーとておくれし3時間目と4時間目ともに早々に打切り、猿楽町へゆく。
大をり、香奠返しすみしと。母「1周忌には墓を」といふ。われ歌集をといひ、早々出て、伊勢すみ江訪ねしあと、東大前へ出て帰宅。
けふ北区より3,200円余りの35年度の税金催促来る。依子、裏磐梯より19:00帰り来る。
10月7日
雨。本位田昇へ礼状。西宮一民氏へ香奠返し小包とす。
11:30悠紀子買物に出しあと石渡、渡辺、西沢3生、父の弔ひにと果物1籠もち来る。
これと15:00ころまで話す(タン麺とりて食はす)ところへ阿南氏来り、『清史雑考』もうしばらく貸せと饅頭1箱たまふ。
李朝実録の会2回休み、わが病気(※十二指腸潰瘍)知らざりしと。
けふ『春の日3』来り、『果樹園68』来り、手塚教授より「どうしてゐるか」。田中久美子より「この間は逆上した」と。
横山、原田2氏より出席の返事。
10月8日(日)
7:00起床、洗濯してのち9:30家を出、無名書房にて『口語訳聖書(600)』見付け『讃美歌集』は教会にたのみ頒けてもらふ(200)。
竹森牧師の説教きき易く、いつも満員なるを喜ぶ。
帰りて昼食し、14:00また悠紀子と出て南善福寺よりbusにて阿佐谷車庫前(15×2)、柏井家へゆけば数男1人にて留守しをり、台所改築しをる。
写真贈り、悠紀子の俊子姉に電話するをききしのち、busにて荻窪。われは古本屋にて『世界の旅 日本の旅17(40)』。駅にて買物すませし悠紀子と会ひて帰宅。
けふ大江叔母より「よき家政婦見付かりし」と。田中雅子母子ならびに3生の写真、依子とり来る。
われ袴谷太郎氏に『果樹園』包み、手塚隆義氏へ詫び状かく。(柏井昇宅にありし柏井家過去帖の写しを数男宅(尚子筆)より借り来る)。
10月9日
5:30めざめ、友眞(※大高野球部クラスメート友眞久衛)の野球中のmissすなはちrule無視を思ひ出してふしぎ。
それより悠紀子と無益無縁の努力やめんといふ。(コンちゃんの一味への多幸を祈るの手紙かくこととす)。
悠紀子また臀の腫物いたみ出し、9:00出てゆく。われ田中雅子へ写真送る手紙かく。
佐々木邦彦画伯より見舞状。坪井明より「11月3日参加できず。16日20:00本郷真砂町眞誠館に電話せよ」と。
午后三好松子へ訂正のハガキ。16:00悠紀子に春名数義あて「カズミチクンノケンシラセマツ」の電報打たす(70)。
台風24号接近と。重荷ほとんど下りし気持。
10月10日
昨夜10:00尼崎より打電「ゴキボウドウリスル」アトフミ」ハルナ」朝配達。
台風10:00来ると。8:00すぎ台風、房総沖を通り2女休校。西角徳太郎先生より「片山林左右氏は近くゆゑ手渡す」と。
ちょっと午睡し、14:30ともに出て西宮一民君へ香奠返し送らせ(170)、佐藤dr.へゆけばdr.ひとりにて「もうそろそろ」といへば「そうね」と也。
入浴し、矢野昌彦より電話きけば倭周蔵ひとりにて88人に案内出し、恩師呼べといひしと。永山光文より電話「忙し」と。めでたし。
21:00神田信夫氏に「あすの李朝実録の会休む」と。
10月11日
片山林左右氏(高石町とのみ)より「西角さん写真ご持参」と。『史苑』22-1来る。宮本教授「露卯の下駄」のほか手塚教授の論文のる。
14:30出て田中ナツ子氏を訪ふ。東大小石川分院にて「異状なし」の診断ありしと喜ぶ。買物して帰宅。けふは悠紀子の誕生日也。
矢野昌彦より電話「日野月、本田、Schinzinger3先生への連絡たのむ。連絡なかりし文乙の5人には連絡する」と也。
10月12日
史より先に出て8:30本田先生を訪いひまいらすれば「11月3日承知した」と。
出て矢野夫人に電話し、ついで丸に電話す。帰れば矢野より電話。ついで日野月先生に御都合問合せの手紙かく(午后速達す)。
竹内に電話し、本田先生出席をいふ。鈴木啓子、林貞子2夫人より写真の礼。
午后山本実子より1日(11月)挙式と。
けさ春名数義より失礼な手紙。午后また「ホショウニンカエオワル」の電報。畜生ども也。悠紀子、文中の「14日の便りを見た」との箇所に不審かく。
(片根夫人より阿南君夫人の病気のこと悠紀子聞き来りしにより、見舞のハガキかく)。
(けふ名店会館にて座ぶとん5枚買ふ。2.500を6月月賦にす。依子の友だち4人日曜に来るが為なり)。
10月13日
(金)不吉なる日とて出ぬこととす。治子より写真の受取。川上恭正より『きりぎりす』。井上多喜三郎還暦記念会より「11月末までに1口500円」と。
田中夫人、浅野建夫dr.への帰りとて12:00来る。
ともに昼食し、悠紀子送りに出しあと佐藤dr.にゆき、看護婦さんより薬もらひ、film買ひ(山本実子、川上恭正へヱハガキ)て帰宅。
西宮一民氏より見舞状。筑摩の印税来ざるをのぞき、平穏にて幸福なり。
10月14日
8:30出て成城大学。教務に軽快の挨拶し、『清史5』来りしを受取り、堀口太平君よりcardの請求書来をるを見、
栗山部長へと手続をし、『図書だより』に「図書館と私」ののれるを受取りて図書館に寄りしあと、栗山部長宅へ挨拶にゆけば(山田俊雄、堀口太平2家へ電話す)、福岡へ出張と。
経堂下車。小高根太郎を訪ひ写真とる(※リンクあり)。そのあと中華そば(45)食ひ、家に電話して高沢叔母宅にて待合すこととし、梅ヶ丘下車。
麥書房へゆき2冊予約し(紅茶のまさる)、歩きて代田、沢辺家にゆけば悠紀子未着。ややして着き写真とる(松田孝敬来会す)。
叔母過去帖のことあまり知らず。筑摩よりの印税あてにして急ぎ帰宅せしも来ず。平田春一の『歌集帰向』。
平凡社より『アジア歴史事典』の原稿10月25日までにと。
夕方、織原夫人より電話、悠紀子20:00まで出てゆく。(けふ経堂にて静岡県へ民俗採集にゆくといふ鎌田久子女史に遭ふ)。
依子、渋谷にて建に会ひしと。
10月15日(日)
平田春一氏にハガキ。9:30出てすし常に注文してのち、和田家へ寄り、(桑原)織原夫人に挨拶してのち礼拝にゆく。
11:00すみてまた和田家。2夫人1娘(第114銀行勤務)と同行、別れて12:00帰宅。
依子の送別に飯塚(都民銀、向丘同窓)、松原(押上支店)、伊藤、東條(中野北口支店)の4嬢来をり、すし食ひ菓子食ひす。
14:30夫婦して出、大江叔母へ海苔(1,120)2缶買ひ、instant cocoa(100)買ひなどして帰宅。
4嬢いれちがひに去りゆく。
けふ手塚教授より見舞。足立、本間、吉川、山内4生裏磐梯よりヱハガキ。
けふ弓子は運動会。片根夫人より藤原音松教授(成蹊大)脳溢血にて死なれしときく。入浴。
10月16日
曇。夫婦5:00まへに起き、われ大江叔母に母との関係かき、5千円を月々送ることいひ、7:00前、悠紀子依子を送り、出てゆく。挨拶もせざるがわが子なり。
(※これより依子氏、大阪の大江叔母宅に寄寓することとなる。)
8:30出て9:30成城大学。中国文学史のprint切る(白楽天)。そのあと筑摩の武本氏に電話すれば不在。
立教大学へ開講いひ(下北沢にて久保靖彦生に電話し「2女生に出講伝へよ」といひし)、昼食し、若菜生より野田氏『日本近代詩事典』もらふ。
昼食後、高橋邦太郎氏と話し、来りし野田氏より「高麗詩鈔」もらひ、そのあと武本氏よりの電話にて「明日とりにゆく」こととなる。
鈴木生来り、NHKのTelevi部と西島大を識ると。東洋文化史また30分にてやめ、早足に出て下北沢。
家に電話し16:00「丸善」まへにてといひ、大地堂に寄り『文学散歩10』買ひ、吉祥寺にて悠紀子と会ひ丸善食堂にて汁粉くふ。
けふ母に会ひしに疲れゐると。帰れば『不二』と『今中会報』。
日野月先生より「天理教祖伝英訳しをり。3日は四国へゆく」と也。坪井より電報「予定カワル明日シラス」と也。
19:20「依子ツイタ安心セヨ大江」の電報。
21:00すぎ坪井より電話「宿は湯島天神町カシワヤ」と。「あす連絡」と返事す。
(けふ楫西博士より電話「まだ嫁見つからず」と)。
10月17日
11:00牧(志野)和子の転居通知見て成城大学へ登校。
途中、下北沢にて中村屋の饅頭2ケを買ひて弁当とす。栗山部長帰りをり九州大学にて中村幸彦に会ひし様子。高田教授は高知にて荒木修氏に会へざりしと。
12:35相馬生の来るを見て誘ひ出し、梅ヶ丘の麥書房へゆき、この間とりのけもらひし西脇順三郎『あむばるわーりあ(180)』と春夫『まゆみ抄(140)』とをとり、300に負けてもらふ。
ともに下北沢まで歩きcoffeeのみ(100)て別れ、お茶の水をへて筑摩書房。
武本氏に会ひNon-fiction全集の印税ののこり貰ひ、18巻(※『西太后に侍して』)2冊買ひ清算してもらふ(51,765−7,474=44,291)。
出て西川に電話し、仁谷氏のところきき(銀座西新義産業ビル内芙蓉開発)、地下鉄にて西銀座。
ゆきて依子就職中の礼いひ、嬢の聖心女子大2年、お宅の成城町、北京の旧居は南長街なりしことなどききてのち退去(『果樹園』と『西太后に侍して』とを礼とす)。
近くの福助なるすしやにて、わさびきかぬすし食へば600!
出て西川の会社まで歩き、坪井の宿に連絡すればもはや帰りゐる。すぐゆくといひ、明神前で下車。訪ね訪ねしてゆき悠紀子に電話して「来よ」といひ、矢野、丸に電話す。
あす帰阪と。西川来り、悠紀子9:30来るを待ちて西川の自動車にてすき屋橋。地下鉄にて渋谷に出、喫茶して帰宅。
10月18日
9:30ごろ悠紀子さそひて出、佐藤dr.にゆく。「注射やめん。酒もう少し待て」となり。
「丸善」にゆきて悠紀子と会ひ、雑煮くひてのち、別れて井之頭線。下北沢で『Heine恋愛詩集』買ひ、小田急にて新宿をへて目白。
Schinzinger先生を官舎に訪へばお留守。婢「あす午前中お宅」と。
Heineおき名刺おきて出、大塚の矢野昌彦の会社へゆけば昼食時にて矢野他出と。答へる女の子の失礼に怒って出、coffeeのみてのち西武dept.。
文化Hallに宮崎智慧氏訪ひ、不在をよんでもらひ、われは餻子くひ(100)、ice-creamおごりて『日本歌人』との話きき、東博氏との喧嘩きく。
出て立教大学の教務に挨拶。会計にて9月分の手当もらひ、手塚教授に会ひてのち、教室へゆけば久保生と高木女生。誘ひ出して喫茶。
次週は体育祭と。別れて渋谷に出、吉田賢抗『支那思想史概説(20)』買ひ、浜田山にて下車。三水会欠席の電話し、吉祥寺にて藤田元春『歴史地理(60)』買って帰宅。
『東洋史研究20-2』来り60円不足と。矢野より電話かかり、熱海行準急券買ふとのことに「Schinzinger先生の都合わかりてのち」といひ、女の子のこといひて愉快。
10月19日
9:30成城大学へ登校。Schinzinger先生に電話すれば「出席」と。
喜びて「11月3日午后の時間確定すればまた連絡申上げる」といひ、矢野の会社に電話すれば未出勤。
きのふ河野照子生より電話ありしといふにかければ「class会する」と。26日16:00よりとほぼきまり、そのあと短大の漢文。すみて11:00昼食。
矢野よりの電話きき1等の準急券3枚買ってもらふこととす。13:00すぎの汽車と。
そのあと渡辺、中谷の2生と喫茶。あと史学研究法の下調べし、15:00すませて聖心女子大へゆけば「答案お宅へ送りし」と。
出て渋谷。宮益坂の古本屋へゆかんと中華そば食ひ何も買はず『37年度運勢暦(100)』買ひ、菓子買ひて帰宅。
大江久美子より「太宰全集にて金なくなる」と。林叔母より写真の受取。藤井生より欠席のわび。
夜、聖心女子大より答案の書留速達。
けふ悠紀子、額縁(200)買ひ来り、父の遺影を入れる。
10月20日
曇。あさより「北京(半自叙伝9)」20枚、11:00書き了へしところへ小高根太郎君よりハガキ。
「北京の評判よく日経学芸部の日根君から電話でほめて来ました。林富士馬君からもほめて来ました」と。ふしぎ。
Y(今baksiを仮称)の文竜撲りしところにて了り、橋川博士訪問はかき了ふ。
矢野より電話「classの名簿作れ。11月3日12:55の準急券手に入れる。寮歌集たのむ」と。
大阪の硲君(※硲晃:大阪時代の教へ子)に借用の速達書く。
午後、微雨の中を出て浅野邸へゆき、夫人に勇談し、昔に帰りしといはる(速達2通を八町郵便局にて出す。30+60)。
浅野dr.の帰宅せしを見て11月3日の大体を報告し、三鷹駅前にて買物。
平田へ傘借用に悠紀子をゆかせ、古本屋にて『上海漫話(50)』。われも平田にゆきともに帰宅。
本田喜代治先生へ「11月3日おひとりにて起雲閣へ」と手紙。
(咸子の夫槙口、喧嘩して勤め先やめしと)。
20:00すぎ中沢晴代生より電話「日曜class会するにつき見舞に来る」と。ノイローゼいひてことわる。
10月21日
雨。9:00にあはてて出、9:49下北沢より準急。
漢文すませクロちゃん(高橋通子)の卒論のテーマを「東南アジアの宗教とキリスト教」ときめさし、篠原部長と鎌田女史とを会はせ、
月給もらはずに出、東洋文庫にゆき(途中、正宗、鯨岡、水谷の3生と同車)、13:00よりといふ坂野正高氏の「清国行政法について」を13:30よりきく。
田川、神田、阿南の諸氏に見舞いはる。15:00すむを待ち、出て巣鴨(途中、駕籠町の岡埜にて汁粉くふ)、新宿、下北沢をへて帰宅17:00。
佐藤dr.にも寄りて薬もらひし。西宮一民氏より香奠返しの受取。鶴崎祐雄生より手紙。梅田ゑい子の随筆のりし雑誌来る。
(けふ松本善海の話出しにより、駕籠町にて電話すれば嬢出て18:00帰らずと)。
10月22日(日)
雨。吉祥寺教会へゆく。夫人牧師のお話よろしかりし。
〒なく、日野月先生へわび状。保田、梅田ゑい子夫人へハガキ。
夜、class名簿を作り、横山薫二の職名を片根令嬢にききにやれば「次長か」と。
10月23日
8:00ごろ史より先に出、成城大学。2時間目の中国文学のprintに「杜子春」きり、野崎副手に刷ってもらふ。
楫西博士より電話、来訪とのことに12:00待てば「臼井教授の長女と話あり」と。(そのまへ高井洋子に電話して神戸生に連絡せよといひし!)。
よき家族よき嬢なりといひてすみ、salaryもらへばbase-upしをり。
野田、高橋2氏と会ひ4時間目30分にてすますこと約せしに、東洋文化史の時間、正宗・水谷の2委員15分間相談す。
講義やめ出席のみとり「白樺」へ高橋氏誘ひ、野田氏若菜東尾生つれ来しところにて出、梅ヶ丘の「麥」へゆき、鴎外『稲妻(250)』、『埋もれた古代中国 : 明器(80)』買ひて帰宅。
平中苓次氏より11月2日の京都にての会に出るやと!(東方学会よりもまた。いづれも「出ず」と答ふ)。依子より手紙。
10月24日
藤井祐介、浅野晃氏へ近況。(きのふよりいぼ痔とわかる)。
11:00出て中村嫗と途で遭ふ。(小高根二郎君に同人費1千円送る。)
昼食にと下北沢で下車すれば中華そば屋あけず、饅頭2ケ買ってゆき1ケ食って相馬生と会ひ、卒論の章わけやらしをれば高井生来る。
早くすませ図書館にて廃棄なきや問えへば「無し」と。出て山田教授と同車。経堂で下り下高井戸まで歩き中華そば食ふ。16:00すぎ帰宅。
平凡社より「赤字3千円余、今度の稿料2,900にては払へず云々」。本多慈子生より見舞状。依子にけふ小包速達とせしと(230)。
10月25日
本多慈子へ礼状。田中久美子へヱハガキ。
9:00渋谷より地下鉄にて本郷3丁目(新運賃にては40円となると)。時間早きゆゑcoffeeのみ(50)、
『海潮音(50)』買ひして文学部3階研究室へゆけば後藤均平君をり、これも胃潰瘍やりしと。
神田、阿南、岡本、岡田の諸氏とにて6人。田川、宮原の2氏は朝鮮学会にゆきしと!(神田教授11月3日に京都へゆくと也)。
すみて(わがもちゆきし東亜輿地図は不要なりし)阿南君さそひて昼食。おごってもらひ、夫人近々寿美病院へ入る。
11月13日?に防衛大学の文化祭に呼ぶ。
麓保孝氏(※防衛大学図書館長)博士となるなどきき、琳琅閣にて『撫順史話(100)』見付けて贈り、『道教と神話伝説(200)』買ひ、
木内書店にて『大東亜の民俗と文化(20)』買ひ、菊坂にて愛新覚羅慧生のLove-letter集(100)買ひて金なくなり、また地下鉄にて渋谷をへて帰宅。
硲氏より『寮歌集』来をり(郵税190にて夕陽丘予備校の寮歌集10冊も同封)。
大江房子より「依子どうした。おぢ様の体悪しと浜松できいた故近々見舞にゆく」と。
鍛治初江氏より倉敷のヱハガキ。ついで梅田ゑい子生より「依子の婿に心当りあり、条件しめせ」と。
21:30速達、NHKより「井上靖氏の詩を語るは30日13:30に延ばした」と。
10月26日
9:00出て成城大学。松崎女出勤。昨日「河野氏より電話、class会に出よ」とありしと。電話かけしもかからず。
短大の漢文すませ(けふ研究室に椅子と卓のset入りをり)、今井氏より「明日京都へ出張」ときき、
ついで加藤生(龍蛇のこと卒論にしをり、本貸す)、西沢生と話し「大唐三蔵取経詩話」printに切る。(史学研究法すませて相馬生と紅茶のむ)。
16:00千歳船橋駅へゆけば悠紀子まちをり、河野(浜谷)邸へゆけば山本恭子、増田幸子(巨人軍の外野手が夫と)母子、竹内敏子とをり、
やがて井上律子来るを待ちて牛鍋。あす山本恭子妹実子の式に帰阪と。妹の嫁ぎ先は吉野の在林家へとか。
19:00矢野に電話すれば光子嬢出て研究室に来るを忘れしと。駅までとりに来るとなりしも、千歳船橋駅前より電話してもちゆくこととす。
20:30ゆきて書類わたし、土曜切符受取ることとして帰宅。
大江久美子より「31日来訪の予定」と。齋藤はるみ生より「11月10〜11日に上京」と。ふしぎなることかな。
(けふ悠紀子、母に2千円与ふれば仏壇に供へしと!日銀旧友会に1万円寄附せしといひし由)。
10月27日
雨。角川書店より『Heine恋愛詩集15版』を11月上旬に出すと。検印紙2千枚を速達。
聖心女子大の採点を10:30まで行ふ。坪井より「名古屋へ寄った。理丙の写真同封」と。
硲晃氏より「寮歌集返却に及ばず。お世話になった。いつも颯爽としてをられた」。
浅野晃氏より「病気のこと知らなかった」。
昼食し、12:30ともに出て(依子より居住証明書の間違った生年月日につき速達来り、市役所出張所にてらちあかず北区役所へゆくこととなりし也)、
われは井之頭線にて渋谷。公衆電話にて大江勉に電話すれば中々かからず「房子の見舞とりやめて下され」といひ、依子の世話になりをるをいひてすむ。
聖心女子大へゆき教務に採点とどけ、小林氏より10月分の手当もらひ、広尾橋より都電にて専修大学前へ出、
山本書店にて『元典章辞典』注文し『剪燈新話(180)』、『元劇俗語方言例釈(140)』買へば、後者はdoubleなりし。
それより中央大学前のcard屋さがしにゆき『国訳一切経』見つけて問へば3.9万と。あす電話するといひ、card(120×2)200枚買ひ、
お茶の水の地下鉄駅に出て渋谷をへて帰宅(juice(60)をのみし)。
天理より『Biblia20』と『善本写真集16,17』来をり!館員消息に結婚また見え、Con嬢(※不詳、八木嬢のことか)の苦しみを思ふ。
夜、矢野より電話「あす、嬢に切符もちゆかす。文乙の出席者の名をあげよ」と。
10月28日
雨。角川への印紙と硲氏への礼状と速達にして登校。
矢野光子嬢、熱海行の切符2枚もち来しゆゑ、schinzinger先生に電話し、3日11:30に迎へに参る」といふ。
倭周蔵に電話すれば忙しとて出ず「11:30にかけよ」といひ、漢文に出る。
すみて待ちしに中々かからず。小高根太郎君へゆくとて田中久夫氏またし(高田瑞穂氏にきのふもらひし天理の荷風本写真与ふ)。
12:00まへかかりしに自動車よこしてとりに来るとのことに13:00まで待ち、田中久夫氏に小高根家へ先行きたまへといひ
(きのふ約束せし『国訳一切経』3.95万円にて送れと電話せし)、教務へゆけば先ほどゆきちがへとなりしと。
外へ出て見れば運転手見つかり、写真わたし経堂までのせてもらふつもりなりしも住友社宅前とほりし故、下りて大江房子に会ひにゆけば正平もをり!
久美子30〜1日までといふ故「1日に来よ」と伝言たのみ、小高根家へゆき見れば太郎不在。田中氏もそのまま帰りしらし。
経堂より新宿へ出て、柏井へ電話すれば「悠紀子来しところ」と。ゆくといひbusにてゆき、尚子と話す中、中村嫗来り、俊子姉裏磐梯へゆきて不在と。
数男に5千円(電気洗濯機代)托して出、荻窪までbus。われ南口の古本屋にゆき『変態・資料(3冊100×3)』と『源義経(200)』と買ひ、吉祥寺にて悠紀子に会ひて帰宅。
筑摩書房より『現代詩集』1500部を愛蔵版(470)にて出すと。織原氏より5日荻窪「こけし」にて14:00より披露宴と。
矢野昌彦より電話「出席者名簿に横山なし」と。あやまりてすむ。
21:00入浴。(古きcardみな使ひてすむ。快し)、体重39キロ。
10月29日(日)
久しぶりに快晴。9:30出て靴屋に寄りしあと教会。
宣教せよとの意味の説教にて我には向く。すみて「丸善」に悠紀子寄り、5日14:00「こけし」での織原令息披露宴の服求む(5,900)。
買物しつつ帰り小高根二郎君の原稿並に同人費受取。
齋藤はるみの「読売新聞の表彰式にと17日港区「奈良」に1泊、電話かけよ」とのハガキを見る。
午后、木村三千子氏より松茸1籠賜はる。
10月30日
よべ夜半めざめ睡眠不足なれど万年筆わすれて出てゆく。
松崎女われを見ずものいはず。『熊廷弼』写抄し(長与善郎氏73才で昨夜逝去と)、中国文学史に「大唐三蔵取経詩話」やる。
13:10放送室へゆき(藤井生と喫茶)、30分よりの井上靖「詩について」きく。伊東、我、安西と3関西詩人の作1つづつをあぐ。
中途にて帰り(山本書店より『元典章語彙そろはず』と)、東洋文化史やり、すみて高橋邦太郎氏にさそはれて「オリッサ」といふへ再びゆき、
水谷、正宗2生と一緒になり水谷生を紹介す。近所なりと。
出て下北沢下車。『通俗世界全史16(10)』、『日本の新興宗教(20)』買ひ、佐藤dr.に寄り薬もらひ、痔の治療に勝田dr.に紹介の名刺かいてもらふ。
Douglas『ソ連紀行(30)』買ふ。悠紀子「Gelbe Sorte(※タバコ)」2箱買ひ呉る。
保田より「この間上京したにつき熱海にゆけぬ云々、汝の病気は云々」。木村三千子氏より松茸の送り状。
本多慈子生より手紙。高松直子より「丸木姓となり大岡山に住む」と。
10月31日
10:00、熊廷弼・楊貴妃・楊国忠・李永芳の4項を『アジア歴史事典』のため書き了る。
木村三千子氏への礼状とともに中道郵便局に出して登校。速達来をり『国訳一切経』送り状なり。
相馬来ず、松村達雄の講義にゆきしあと退屈してprintに「三国志演義」切りしに、来週月曜は休みとわかる。
鎌田女史と会ひしあと三野生来り「神功皇后」を卒論のthemaに選びさうになる。
足立、本間、吉川3生も来り、西沢生来て変となる。
教授会。今井氏欠席(京都へ出張)。大藤教授と「来年桜田氏を呼び西洋文化史を固定ささん。年中行事の参考書買はん」などいひ、『成城文芸』に中国の年中行事をかくといふ。
主任会にて椅子机setに文化史6万円負担と決まる(けふ森田順子(4D)退学願を出し認めらる)。
出て、下北沢下車。金なくて大地堂に350ほどたのみて帰宅。
日野月先生より「年よりぶるな」と。塚本康彦氏より「保田について書いた」と。
依子より「大阪の友だちに会へず」と。『台湾青年2.28特集号(50)』買ひて帰る。入浴。
11月1日
7:30ごろ起きれば史も起き、珍し。
9:00散髪にゆけば満員。帰りて大江久美子と田中正平の姉弟来るを迎へ、話すところへ畠山ノリ子君より電話、「13:30来よ」といひ、
悠紀子と4人にて太宰治の墓へ参り(往復ともtaxi120×2)、帰りてすし食ひ、太宰の第一次の心中の真相きく。
『悶々日記』の小山清の解説に「このみちを」をわが作と記しあるを見る(塚本氏の保田論ひろひよみし、保田と太宰の近似をいふに感心す。Dadaismなるらし)。
14:00畠山姉弟来り、久美子ら出てゆく。夕食せしめ弓子の三井銀行よりの採用電報来ざるを少々気にす。
(けふ『満文老檔X』来り、アジアアフリカ作家会議より韓国の新聞人3人の死刑に反対の署名するや否やに、すると答へし)。
21:20丸より電話「風邪ひいてゐる。熱海の宿しらせ」と。(太宰の墓より出しところにて阿南惟敬氏に遭ふ。夫人あす飯田橋の国立に入院と)。
深更、鶴崎、浜谷(河野)弘子2生へヱハガキかく。
11月2日
9:00成城大学へゆく。下北沢より富永次郎氏と同車。Gelle Sorte買はす。
短大の講義すませ福島県の吉成より文化史コースに来し小包(林の由)を野口生に引取らせ、
栗山部長に来年民俗学の講師1名と西洋文化史の松田氏一年講義とを認めてもらひ(昼弁当くひ)、Schinzinger先生に電話すれば無人。
出て下北沢下車、大地堂にて『南方民族誌(100)』、『南方開発史(150)』と『文学散歩9(80)』ととりて帰宅。
大安の書目来をり、原三七編今西文庫目録をのす!(『初刻拍案驚奇』の年中行事のnote了る。)
硲晃氏より見舞状。塚本康彦、丸木(高松)尚子2氏へハガキ。けふ矢野光子生に遭ひ父への伝言たのむ。
15:00また買物に出、藤井書店にて『樺太地誌(180)』、『東北犬歩当棒録(150)』、『歴史地理朝鮮号(180)』、『絵図玉嬌梨(80)』と買ひ、『讃美歌(50)』買へば旧版なりし。
佐藤dr.にゆき薬もらひ(写真現像17:00とのことにとらず)て帰り来る。
けふ京、相模湖へ遠足にゆきヱハガキ買って呉れる。よろしき家庭となりし。
20:00三井銀行より弓子に速達「合格、受付案内担当」と。
11月3日
9:00悠紀子と出て「らかん」写真店にゆく。Film中断のため15枚のみ焼付出来。
目白へ10:30着き、古本屋にて『朝鮮の今昔(100)』、『北豆小誌(100)』買ひ、11:00すぎSchinzinger邸にゆけば(学習院も文化祭)、夫人、令妹、子ら2人とみな出られ写真とる。
すぐ出てtaxi拾ひ東京駅(300)。Lunch摂る(300+250+100)。
汽車来る前にplatformへ出、12:40ごろ来し「いづ号」にのれば矢野をり(先生蜜柑を買って下さる)、
Gelbe-Sorteを先生に供し、佐々木喜市氏の批評きき、熱海着14:30(横山薫二も同車)。
(※大阪高校同窓会)taxiにて起雲閣に着けば(160)、山本治雄、川崎菅雄の大阪組すでに着きをり。
部屋割り矢野やり呉れ、入浴し、18:00より宴会(LA(※文甲)矢野、江間、相野、竹内、谷口、前田、室7人。
LB(※文乙)鎌田、川崎、紅松、後藤、田中、西川、原田、山本、横山9人。
SA(※理甲)奥村、鳥居、長谷川3人。
SB(※理乙)浅野、五百井、湖東、森、山本行常5人。
SC(※理丙)河田、内藤、福永、倭4人の29人)。
自己紹介し、日野月先生の手紙を矢野朗読し、撮影し、唄うたひなどして20:00芸者かへせしあと(江間、矢島弘一の犯気を披露す)また入浴(西川ほどの白髪を見す)。
囲碁将棋して就寝(鎌田、谷口は先帰りし)。われ、竹内、相野と同室にて竹内にHyminal与ふ(相野、附属小学の校長となりしと)。
11月4日
11:00覚め、早帰りする西川、横山(娘婿はたして北杜夫なりし)を送り出し、朝食、写真とり10:00両先生(お車代として2,500,1,500)に干魚(500×2)わたし送りにゆき、
熱海銀座にて別れしあとGelbe-Sorte見つけ追ひかけて進呈。
われ矢野より立替1千円返却を受く。われも1箱買ひて宿へ引返せば皆出るところ。
東京へ電話する山本まつ間にLA組ゐなくなり、山本、川崎、紅松と箱根へゆくこととなり(山本、現夫人との新婚旅行におぼえある「お宮の松」の前にて撮影)駅までtaxi。
地図買ひて川崎、山本に与へ(80×2)遊覧券川崎に買ってもらふ(550)。
箱根山中にて霧となり、元箱根にて親子丼食ひ、芦ノ湖を船にてわたりrope-wayは霧中(33分間)、強羅へ下り日銀の仙石寮にゆく3人と別れ(山本にGelbe-Sorte贈る)、
湯本にて小田急にのりかへ、下北沢(190)にて丸に電話。2人の来ざるをいひ、吉祥寺下車。
雨降る故、丸善より電話、上の食堂にてcocoaのみて待ち帰宅。(本庄先生への菓子送りを宿題とす)。
田中久美子より正平の翻意できざりしを悲しむ手紙。悠紀子銭湯へゆく。
史より電話「あす7:00におこせ」と也。(母より電話あり「京都の隣組の写真くれよ」とのことに悠紀子焼増したのみしと)。
11月5日(日)
史7:00前かってに起き、悠紀子permanent-waveに出てゆく。
われ久美子、坪井にハガキ書く。教会へゆき聖餐式をはじめて見る。
谷川真佐枝生より見舞状。帰りてinstantラーメン食ってのち武蔵野祭とて賑ふ駅へ出、西荻窪の「こけし」にゆけば織原夫妻すでに在り。
正昭新夫婦に祝いひ、その向ひに坐り14:10ごろ来し平林、田中、和田の3友すべて単身、浅江夫人のよく勤むるに感心しつつも困る。
16:00織原氏先妻の父君たつをしほに了り、丸に電話すれば「仕事中ゆゑ会へず」と。
悠紀子と別れて古本屋、『魏晋南北朝通史(450)』買ひ、busにて吉祥寺「らかん」に現像たのみて帰宅。
深夜(1:30)悠紀子ゆきみれば史、帰りをり。
11月6日
曇。きのふの披露宴のこと不快。本庄実先生への小包造らせ手紙かく(200+10)。
悠紀子も依子あて書留小包出す。そのあと入れちがひに大江叔母より手紙「記録のことは咲耶にいった」と。
『果樹園』69号。集英社より「新築落成祝を27(月)16:00~17:00に」と。
大高倶楽部より寄附金応募状況「L7Bは15人13口」と。
悠紀子、渋谷へ写真とどけにゆき、われ午睡せんとせし処へまた郵便
畠山敬子嬢より「翌日御親類の方と一緒にとなりし」と。
17:00悠紀子帰来。熱海の写真15/36枚(150)。概ね不要のものは写らざりし也。
(9月24日の山口翁写しの宝国寺の焼増し貰ひ来る。)
11月7日
晴。福地邦樹、天野忠の2詩人にハガキ。いづれも礼状也。
10:00出て吉祥寺中休みなるに気づきしも駅前のcamera屋にて焼増したのみ、千歳船橋駅前より浜谷生に電話して「来よ」といへば、姉照子(京谷夫人)来てをると。
中途までゆき写真わたし、ゆきて母君に挨拶し、大阪外大のIndonesia語講師夫人に挨拶し、中西教授を教へ子といふ。SumatraのMedanの人に嫁ぎし也。
弁当たべさしてもらひ12:10出て成城大学。
相馬生「新城氏の集中講義に出る」と。元典章の字引3冊来をりしを、われに引取り、請求書かき、
『醒世恒言』の訳(辛島驍博士の)見などして時間つぶし、15:50より大講堂にての学科指導。
相良教授にhumoresqueとほめられること去年に同じ。(新城氏来り、本1冊もちゆき近々わが家へ来るとのこと也し)。
帰れば袴谷太郎氏より「北京」よんだ。Victorやめた云々。田中雅子より「10日ほどすれば電話つく」と。
羽田に元典章の字引の1なんとかしてくれとハガキかく。
11月8日
9:00出て渋谷より地下鉄にて本郷3丁目(11月1日より渋谷間40)。
文学部研究室3階につけば10:30にて田川孝三氏のみ。朝鮮学会のこといはず。ややして神田、岡田、松村の諸氏来り、岡田君よむ。
すみて羽田の来るやもしれずときき琳琅閣にて学校の本注文し、本郷3丁目にて昼食し、地下鉄にて池袋(これも30値上)。
研究室の山田君に史学会に出席いひ、6号館にゐれば手塚教授来り、別枝教授より原稿念を押さる。
10月分手当もらひ、タッカーホールの教授室にて久しぶりに菅元部長に会ひ、令弟祝四郎氏のこと訊ぬれば三井鉱山勤務と。
ウーロン茶のまされて久保・高木2生に金元の戦講じ、飯島へゆき山田福田2氏の対談のせし『解釈と鑑賞(100)』買ひ、
『日本の染織(70)』、『中国陶器(80)』買へば後者はdouble。
『学習院文学部研究年報2(10)』買ひ、ぶ新本屋にて『文学アルバム太宰治(200)』久美子のために買ひ渋谷をへて吉祥寺、焼増しとる(465)。
(夜、シンチンゲル、本田2先生、原田、山本、紅松、川崎、湖東の諸友にと包む)。
久美子より手紙来をり、ふしぎ。
(けさ集英社より速達「鈴木豹軒先生の文化勲章受章祝賀を14日17:30学士会館にて」と、出席と返事す)。阿南君の夫人けさ手術したと。
11月9日
4大学体育祭とて休み。朝〒なし。『成城文芸』の原稿かけさうにてうれし。
13:00出て三鷹。悠紀子、平田家へ傘返しにゆき「岡山伯母の13回忌に船越章出ず」ときき来る。
われ古本屋まはり『韓国読本(50)』、『皇帝溥儀(80)』買ふ。午后も〒なし。
写真を2先生5友に送り(送料70)てすむ。久美子へ『太宰治』送る(50)。
11月10日
晴。Note作り10:30了り、昼食して出てゆき、聖心女子大にゆけば訓示あるらしく13:30まで学生をらず。
1時間目、太宰の話さされ、2時間目わりあひ講義出来、疲れて出、不二歌道会へゆけば影山主宰をり、
長谷川氏と2人に不眠症なほりしをいひ「恋愛するぞ」とひやかされて出、Bacdeker『Spanien u. Portugal(130)』買ひ、疲れて帰宅。
(東横dept.にてゆきがけ「Gelbe-Sorte」1箱買ひし)。
鈴木亨と西垣脩2氏、あす小金井にての会に出よといひに来しと。のちほど鈴木より電話ありしも十二指腸のレントゲン検査いはしめて断る。
また電話、山田生より「史学研究会のことにてあす来る」と。
11月11日
10:20山田生来り「史学研究会は文科的行動」と池辺助教授に叱られた。大藤・今井2氏とも同じと。『ソ連旅行』と『中立主義の研究』とを貸して帰す。
共青(※共産青年同盟)の北区責任者となり脱党せしと。久美子より「本代しばらく貸せ」と。
依子より「ぢいさんばあさんにとぢこめられをり」と。
14:00出て荻窪の古本市。『高砂族の話(130)』、『南方随筆(150)』、『朝鮮貴族略歴(100)』、『台湾陣(100)』、『鄭成功(稲垣其外)』おまけにつきをり。
15:00悠紀子と吉祥寺にてまち合せ帰宅。史、けふ役所の連中と旅行とて帰らず。
11月12日(日)
8:00まへ起き(よべ2:00ごろ久しぶりにHyminalのむ)、9:00家を出て教会。帰れば本田、シンチンゲル両先生より礼状。
11月13日
晴。寒き風吹く。成城大学へ登校。琳琅閣より本つきをり。中国文学史すませ3Dに香資の礼いひ、卒論のthemaきめよといふ(三国志演義やる)。
昼食し、野田宇太郎氏より「詩いらず(井上多喜三郎氏かきしと)、田中正平伝1月までに」ときき、
三野生の「神功皇后」やりたしといふをきき(生女姜と往きに同車、これにも韓国史やれといふ)、東洋文化史すませ、
「大安」より『癸巳類稿(480)』、『中国郵駅史料(140)』、『清代碑伝文通検(1,000)』来をるをとり(もち帰り検すれば碑伝文はすでにもちをり!)、寒風の中を急ぎ帰宅。
山本治雄より写真の受取。福地君より「詩かけず」と。
滋賀新聞より電話「金曜までに400×4」と。
11月14日
晴。寒し。12:00まへ成城大学へゆき図書購入の手続などす。
12:30相馬生来り、卒論かきをり黒澤明productionへ入社の試験受けると(あとにて今井氏世話しゐることわかりし)。
ともに茶のみにゆき(110)、高橋、猿渡の2生のため『東鑑』よみやり、松村達雄と話して教授会。
池田勉氏、東洋大学博士となりしと(赤坂全七2D退学せしと)。
すみて文化史会やり、民俗学専攻が主体ときく(山田生の歴史研究会を問題として也)。
松田氏を毎年兼任とすること、民俗学に兼任講師おくことなどきめしあと、今井氏「山内清男氏を専任にしたし」といひ懸案とす。池辺の無礼ありて出、17:30学士会館につく。
鈴木豹軒先生われをわすれ玉ふ。今関天彭氏、耳聾してひとりしゃべり玉ふ。
すみて齋藤、蒲池、辛島驍の3氏と喫茶。50円のcoffeeのみて20:00までをり、別れて都電。渋谷をへて帰宅。(喫茶の代200われ払ひ金なくなる)。
原田運治より礼状。
11月15日
紅松一雄より写真の受取。久美子より『太宰治』の受取、「墓前の写真くれ、正平とは義絶ゆゑもらへず」と。
睡眠剤のためか頭ふらふらし、昼寐せんとせしも不能。
13:00すぎ出て立教大学。久保生ことはりいひて休み。林、高木2女生に教へてのち喫茶に誘へば「忙し」と。
手塚教授に会ひしあと、飯島書店にて『国語改革論争(70)』、『猟奇画報2-4(40)』、『日本地理大系近畿篇(100)』買ひして時間つぶし、地下鉄にて国会議事堂前(40)。
宏池会へゆけばteleviをやりをる。外務省中東課長原氏の話と。
18:00すぎはじまり、佐藤、高山2氏欠。22:00まで付合ひ、浅野氏と渋谷まで同行。『春の日』金なくて出ずと。23:00帰宅。入浴。
村上新太郎氏『歌集 李愁』贈らる。
11月16日
寒し。9:00出て成城大学。唐詩選五言律詩了り、昼食し、久しぶりに栗山部長と話す。
そのあと成績票とりに来るかと待ちし3D来ず。宮崎氏と話す。史学研究法すまし、琳琅閣の請求書受取り「大安」の3冊を図書館にわたす。
(身体検査受けしに前にゐし尾上氏45キロ、あとに来し臼井氏82キロ。十二指腸潰瘍は1年かかる由)。
西沢、渡辺、川本静江、石渡4生さそひて資生堂にゆき喫茶(250)。
(けふ成城にてもGelbe-Sorte買ひし)。佐藤dr.にゆき薬もらひて帰宅。
本庄先生より「菓子受取った。5年ほど前軽い脳溢血にて在宅」と。中村書店の目録来り、『詩集西康省(700)』、『大陸遠望(200)』、『神軍(150)』と。
16:00楫西博士来訪「臼井教授令嬢大きすぎ年25才にてだめ」と悠紀子に伝へしと。
母より「大ゐなくなるゆゑ弓子泊りに来てくれ」と。
琳琅閣より来し『台湾叢書1~3(3,000)』、『大中華京師地理志(500)』、『正倉院考古記(370)』持ち帰る。
個人研究費より払ひもらふ也。
夜、「伊吹おろし」4枚かく。
11月17日
大江久美子より「[万]美子にわびた。Bibleよみをり」との手紙。
今関天彭先生より「会ひたし。『雅友54』奉呈」と。11:30昼食とって出、聖心女子大。
2時間すませ渋谷より地下鉄にて赤坂見附「奈良」旅館にゆきしに未着(16:00也。そのため東横dept.にてまづき松茸うどん(80)くひゆきし)、名刺に「電話せよ」とかきて帰宅。
15:00ごろ滋賀新聞来り「少なすぎる」といひしと。(吉祥寺北沢書店にて『民族(50)』買ひて帰る)。
20:00柳野君より電話「6枚しかなかった」と。
しらべるになし。仕方なくあとにて補充することとし、やがて齋藤はるみの電話きけば「すぐあと着いた。あす成城大学に電話する云々」。
21:00まへ柳野君よりまた電話、原稿よみて筆記さす。
21:30渋谷より電話、悠紀子にあす10:00下北沢へ来てくれと也。
大、関西旅行中にて弓子、けふより泊りにゆきをり。相馬の父(大館市、勇一)より林檎一箱賜ふ。
11月18日
9:00出て成城大学。短大教務の山高女史「会ひたし」といふと。
きけば福田氏の手紙わたされ妊娠して事業延期となりし人妻生のこと。「のちに会ひて」といひ、漢文すませ昼食し、
齋藤はるみの電話を13:00まで待ち、正宗、水谷の2生と話す。かからず。
両中を出て代々木上原下車。古本屋見てのち「紅谷」でエクレールと紅茶。そのあと立教にゆき、中川助教授の平泉の話きき、海老沢氏の話きく。
すみて石井孝博士の講演きき退屈す。そのあと懇親会。一向につまらず。(松浦助教授に松田氏に会ひたき旨いふ)。
20:00散会。明治生命の朝倉課長と石井博士と同車。石井氏大高教授たりしと。
帰れば鍛治君より見舞状来りをり。齋藤はるみ電話かけ来り「14:00までカン詰となりし。あす13:00ごろ電話して1時間来る」と。
(けふ佐藤君に締切24日までのばしてもらひし)。
悠紀子、母と会へば下北沢に家見つかりしとてゆきしに話ちぐはぐとなりしと。千草、姑と喧嘩しゐると。
(けふ矢野光子に会ひ写真わたす。文化史にきめしと。10人になりをり)。
11月19日(日)
7:30目ざめ、9:40家を出て教会へゆく。(来週は参れぬことわが残念なり)。
すみて一旦帰宅。齋藤はるみの電話まち洋服のまま眠りをれば、千草来り、「大、結納おさめの為西下せし。買ひ与へし指環20万円云々」。
不快となりをるところへ齋藤の電話かかりし故、迎へにゆく。21:45の汽車に乗るとのことに家へつれ帰ることとし、悠紀子、買物の間喫茶(100)。
夕食せしめ夫婦して送りに駅までゆく。悠紀子東京駅までのつもり也し。
帰途よくきけば、千草ダイヤの指環の件を自慢にて語りゐる也と!
史、先輩が大平長官の女との結婚の祝にもらひ来しクリスタルの灰皿くれし。けふ鍛治嬢に近況報ず。
11月20日
よべHyminalのみ8:00起き、あはてて仕度し、10:00成城大学。『水滸伝』よみ3Dよびて成績表わたし、本間生と卒論thema話す。
昼食し、川本、西沢2生と林檎くひ、西村生の卒論「酒」とのみにて何も出来ざるをきく。
醸造史とせよといひ、相馬生来しにきけば黒澤productionは人採らずと。
林檎の礼いひ卒業せよとすすめしあと、学生会のすまざるを待てばRugbyの練習中なりしと。
青木生ら16:00来る。ともに準急にて新宿、喫茶店カトレアにゆけば皆まちゐし模様。
紅茶とsandwich食ひ、会費とられず18:00すぎ早退して帰宅。
依子より大江叔父の姪、離婚して来ると(20才)。東洋文庫の箕輪氏70才の祝せよと。川崎菅雄より写真の礼。
11月21日
曇。11:00出て成城大学。文化史専攻志望31人と。
『金瓶梅』中の捲棚を「すきや」と訓じあるを見、相馬生来をらぬゆゑ(『清史』7,8来る)、13:00出てsalaryとり、山田俊雄氏とともに井之頭線。
吉祥寺にて14:00なりしゆゑ、家へ電話せんとすれば悠紀子に頭叩かる。
けふ第3火曜とて店みな休むゆゑ一旦帰り、久美子の手紙(太宰治全集の解説す)と岡崎隆衛氏の「住所しらせ」とのハガキ。『東洋学報43-4』みて三鷹。
ここも休みなれど『太宰全集9』ありし店にゆけば売れしらしく『世界の古典語と名文句(80)』かひ、
三鷹書林にてハルトマン『蒙古シベリア踏破記(100)』、『三民主義(50)』、『台湾実況(30)』買ひて帰り、夕食後21:00までに『成城文芸』の原稿27×24×8としてCingis汗に移る。
(けふ和田夫人に夫婦して遭ひ「弟君転任ほぼ確実」ときく)(佐藤dr.にゆき明日夜、下剤かけることを看護婦さんにいふ)。
11月22日
雨。9:00出て渋谷より地下鉄にて本郷3丁目。
coffeeのみ古本屋にて『沖縄への報復(50)』買ひて東大文学部3階の満蒙史料研究会。すみて阿南君さそひ昼食。
そのあと琳琅閣ひやかし木内書店にて『大陸征旅詩集(20)』、『支那の発見(30)』、『三韓征伐(50)』、『安南民族運動史概説(50)』買ひ(往きに長沢美智子に電話すれば「退学中止、卒論のテーマは山岳信仰とす」と)、矢野昌彦に電話すれば「忙し」と。
busにのり立教大学。11月分のsalaryもらへば丁度時間よくなる。3生そろひ、すませて誘って喫茶。英文の女生も1人来り(410)、帰り同車。
帰宅すれば「佐藤(古川)政記氏21日8:03逝去、告別式はあす10~12:00」と。
山下実子(桶谷)新婚旅行にアメリカへゆきしとBuffaloより。滋賀日々より19日の新聞3部(※湖国に寄せる「伊吹おろし」掲載)。
11月23日(勤労感謝の日)
風吹く。晴。『成城文芸』のための「元明小説中の春の行事」をかき、夜24×27×26とす。200字の85枚ほど也。
〒なく、夜、入浴せしのみ。けさ佐藤dr.に電話かけレントゲン検査のばしてもらひし。
11月24日
寒し。11:00出て岩崎、河村dr.に「滋賀日々」送り、東急食堂にてハヤシライス食ひ聖心女子大。
青山氏(※青山定雄)をり、京都・東京の会ともに(※羽田明が)われを「恐妻ガメツシ」と評判せしと!
和田先生のこと談りしのち2時間すませ、日赤の高阪氏訪ひしに不在。恵比須へ出て三鱗印刷にゆく。
これにて3つめと「年末刷上り可能」と。(東急より成城大に電話せしに佐藤君をらざりし)。
駅前の古本屋にて『古代の大阪(180)(複なりし)』、『南洋群島要覧(80)』買ひ(渋谷にてゆきに岩波文庫『三民主義 上(80)』買ひし)。
下北沢の大地堂にて『大東亜の生態(50)』、『中国近代史(90)』買ひして帰宅。
羽田より消息なく、齋藤はるみより「夫婦づれに恐縮」と。硲晃氏より午、電話かかり「夜またかける」と。
21:30硲氏より電話「あす学校へ」と。
羽田に「元典章放心(※『元典章辞典』安心)せよ。(※私に関する)悪い評判きくなら教示せよ」と。
11月25日
9:00出て成城大学。11:00までに中国文学すます。
そのあと硲君まちて正面入口をうろうろし、12:00かっきりに来たまひしを研究室へ案内、写真2枚とり「すみれ」へゆきて昼食(150×2+50×2)。
それより15:00ごろまで明くとのことに家へさそひ、吉祥寺駅より電話、
池辺にゆきて写真とり、家へともなひ、いろいろ話し『清史稿』2冊と『古代の大阪』『遊仙窟』など贈る。
親類の結婚で来て駒込で泊ると。(※自分についての)京阪の悪評はきかざるらし。
3人にて駅へゆき、神田の古本市にゆかずなり。阿佐谷まで送りて別る。
この15年せわになりしをたびたび謝し、認められしならん。
阿佐谷にて『北京の支那家族生活(200)』、『聚落史上の八王子(40)』、丸屋市川にて田村氏『満洲と満洲国(100)』、村上知行『北平(180)』、
ついで『太宰全集2(290)』、『東洋歴史参考図譜1-3(100)』買ひて帰宅。
けふ滋賀日々社より2千円来しと。1千円づつ分ける。
(阿佐谷より丸に電話せしに「大阪へゆきし」と。重俊生に「月曜研究室へ来よ」といふ)。
11月26日(日)
7:30めざめ、9:15出(写真機忘れ、とりに帰らす)、東中野下車。青原寺へ10:30着けば数男、俊子も来をり。10:45より読経開始。(われ之に不快を感ず。ふしぎ)。
11:30了り(大場、豊田両日歯の先生のほか、林(木下)理事長?も来をり)、中野「ほととぎす」へゆく。
普茶料理たべ14:30散会(賀代女史と平田一家多摩墓地へゆく)。
われらbusにて池袋。乾菓子(350)買ひ、十条下車。佐藤(古川)政記氏のくやみ。浅草の寺に夫人ゆきしとて留守の嫗2人にて脳溢血なりしと(48才)。
十条までまた歩くみち、いろいろのこと思出し、喫茶しながらミシン代の件、悠紀子にただせばはじめより定価わからず。われ勝手に1.8万円ときめしと。不快にて帰宅。
史、わが顔を見て席をはづす。22:00前より話して徹夜。
(けふ岡山伯母忌に来し広瀬夫妻の中、夫人はわが家に6ヶ月居りし少女と。悠紀子喜ぶ)。
11月27日
9:30めざむ。6:00悠紀子起きてのち眠りし也。学校へは休講の電話すでにかけくれしと。
弓子へ三井銀行より父兄11日によこせと。
悠紀子14:00ごろ睡眠剤新グレナイトのみて眠る。われ保険、ミシン代払ふ。
16:30弓子帰来。京も同時。2人をすしやにやり、その持ち帰りしすし1人前くひて2人にて丸善(和田夫人に電話す)にゆき、
和田夫人にことわり(弟宅のこと)いへば「向ふもほっとするでせう」と也。
名刺あつらへ(30日出来)、帰りて硲君よりもらひしinstant-coffeeのむ。
史20:00帰り来しに「毎月4千円の食費いらず」といふ。殆ど外食なれば也。
11月28日
暖く、合over-coatに10:30出て成城大学。
昼食まへ『古今小説(金玉奴棒打薄情郎)』のprintきり、昼食しおへれば、高井、田島の2生来る。
卒論はげまし「白樺」へ喫茶にゆき(200)、考古学へゆきて丸重俊に「来よ」の伝言たのみ、山田生より茉莉茶台湾土産と1缶賜ふ。
茶のみcakeたべてわれのseminarに入るといふ姜に「朝鮮史の一問題」、高橋に「東南アジアの宗教の歴史的考察」、三野に「西紀前後の朝鮮の歴史」の題与へ、
丸生にテーマ出せといひ、本間生に明後日午前中に来よといひ、これにて一応すませ教授会。
文化史コース34人(男3人)、他に短大より4名あり丁度よしと思ひしに、英文の流れを貰ひ、各courseとも50人余りとなる。つまらず。
けふ見れば10月1日の決定にて休職中は原給の20%とわかる。
すみて主任会と思ひまちをれば、けふでなしと。(けふ委員会にて学長審議と)。
桜田勝徳氏を講師として呼ぶこと(松田教授は1月以後に決めると電話できまる)決定。山内氏は1時間ふやし、新城氏やめること今井富士雄氏申入る。
われ試験問題作製委員となり、一般教養の世界史は短大の藤本氏ときまる。
帰り雨ふり「丸善」の2階にてしるこ食ひ待ちをれば、悠紀子傘もち来りしころ雨やむ。
けふ角川よりHeine14rd.の印税(10,500−1,050=9,450)来りをり、「春の日」社新築のため延刊と。
(久美子に『太宰全集』小包にて90、果樹園社へ原稿速達50)。
「29ヒ730ハト11ゴ、ムカヘタノム」ハハと19:00。依子よりも受取来る。
11月29日
5:00悠紀子起き6:00迎へに出てゆく。9:00すぎ帰り来り「鳩は午后7:30」と東京駅にて判明と。
伊藤賀祐より速達「貴学に娘入学さすことは如何に」と。
井上多喜三郎詩碑費1,000。小高根二郎に同人費1,000。散髪して立教大学へゆく途中、しるこ食ひ時間なくなる。
小林、岩村両氏の誤指摘して早くすませ、手塚氏帰宅らしきにbusにて中野、阿佐谷で下車。
丸屋市川へゆき見しに『支那芸術史?』なく『日本及汎太平洋民族の研究(250)』(飯島にて『高山の植物(80)』、『南の植物(50)』買ひし)。
吉祥寺駅より家に電話すれば京出る。「東京駅へ同行ときめし」といひ、帰宅して夕食してゆく(目覚し時計註文せしは朝)。
19:30着の「はと」2分おくれ4ケの荷物もちて八重洲口へ出、taxi(340)で渋谷。
大在宅にて「なぜ報さぬ」といひし。母、岡山へゆきしを内緒にすと。そこの土産の柿もたされて帰宅。
「依子黒くなり元気。はもの皮買ひくれし。正月帰らぬ予定」とのこと也。史、きのふまで帰り早く朝食もす。
大江久美子より手紙。羽田よりは無言。
11月30日
7:30起き成城大学へ登校。
短大の漢文すませ本間、松島2生の卒論題目(「14-16Cの中西文化の日本への影響」「ピューリタニズム」)に印押し、全部卒論テーマ呈出すみしときく(石渡生より)。
13:00より話さんといひし今井、大藤2氏の来るまで、また渡辺、西沢2生と話す。2氏との話にては山内清男氏に1科ふやすこととなり、専任とはせずと。
すみて青田生に白詩のこと教へ、土曜に宿題のこして史学研究法。相馬生ききゐるを見て風月堂に伴ひシュークリームとcoffee。
別れて吉祥寺下車。悠紀子に電話し、会はずともよしとなり、国学院雑誌の『武田博士古稀号(130)』、『同追悼号(100)』買ひ、『先史のアジア(30)』、『慶州の美術(80)』買ひして帰宅。
太田陽子夫人より「山中タヅ子(花井夫人)妊娠か」と。西岡照子生より「山口姓となりし」と。
夜、中華そばの笛きき、買ひにやらす(50×2)。
羽田より便りなし。伊藤賀祐へ返事。(あす速達とせん)。
けふ中西夫人に切炬燵のこといへば喜ぶ色ありしと。転居(※計画)感づきゐしらし。
12月1日
11:00悠紀子に薬とりにゆかせ、少しおくれて出、切ごたつ買はんとせしに休店と。
250借りて雨の中ゆく(伊藤賀祐に入学案内送ると速達)。雨いよいよひどきゆゑ、洗足行busにのり、大宅へゆき母より傘借りる。
聖心女子大学へゆけば12月8日(金)休みと。2時間いつもの通りすませ本多慈子生より「洗礼受ける」ときき、老先生と都電に出て帰宅。
岡崎澄衛氏『揚子江』贈らる。加藤ハルミより「佐々木姓となりし」と。
12月2日
桶谷(山本)実子、太田陽子2夫人へ返事。服部三樹子氏へ「連絡乞ふ」のハガキ。
9:00出て成城大学。山田君江に卒論の構想きき『延喜式神名帳』見よと教へ、漢文すませて青田生に白詩教へ、11:50出て西沢生と英文の子2人と話す。
下北沢下車。大地堂へ寄り『支那文化史(100)』買ひ、渋谷へゆけば13:00に20分前。
やがて来し悠紀子と京王食堂にて昼食(200)。そのあと東横dept.地階にて(さきほど栗山部長に遭ひし)佐藤(1,300)を栗山氏に届けたのみ、
和田先生にと燻製詰合せ(1,000)。青山定雄氏には奈良漬(500)買ひ、青山邸にゆきしに不在。
令息に「恐妻つれ来し」との名刺托し、和田邸にゆけば先生おでましになりしも、もの云ひたまはず。悠紀子「泪出さうになりし」と。
早々退去して西島寿賀子に電話すれば「写真のfilmみつからず」と。下北沢にて喫茶してのち(90)吉祥寺。
忌中欠礼のハガキたのめば1,850と!500内金に置き「七日出来」ときき、丸善道具店にゆき大本棚3,100としてもらふこととして帰宅。
〒なく、史帰りをり、ラーメン2女におごりをり。夕食し入浴。
本棚来り、置く場所を子らの室ときめる(田中久夫氏と来週土曜小高根太郎訪問ときめる)。
羽田より便りなし。
(けふ梅ヶ丘手前の車中、顔見合せしは広西正己君にて名刺交換す。新嘉坡(※シンガポール)以来20年めなり)。
12月3日(日)
7:30起き10:00の礼拝にゆく。泪浮びしはJesusが死して4日目の者を生き返らし玉ふ箇所なり。Christmasもありがたしと思ふ。
出て道具屋(南海屋)に切ごたつの催促にゆき、昼食してのち、本棚の入れかへ16:00までかかる。
疲れていらいらせしも夕食後なほる。
立教史学会より記念写真来る。夜、村上新太郎、大江久美子2氏へハガキかく。20:00すぎ青山定雄氏より礼の電話。
12月4日
9:00出て成城大学の手前で雨降りだす。『古今小説』やり角川に電話してHeineの15版のこときけば朝比奈嬢出て「わからず」と。
昼食後、湿疹といふ高城君と話し、若葉東雄に「わが師朔太郎」かいて渡し『文学散歩11』受取る。
高橋邦太郎氏来しあと、研究室にて年中行事noteし、2Dに教へ、15:40福留、鈴木生ら7人の女生と野田氏と「成城文学散歩の会」の話合ひにつきあふ。「田園」に於いて也。
高橋氏とアド打ち、了りて鈴木生と久我山まで同車(天草版『平家物語』を卒論のテーマとすと)。
けふ来し山本書店の書目に『四時纂要』守屋教授校訂にて出すと也。
〒家に来ず。炬燵も来ざりしと。
12月5日
10:00悠紀子とともに出て炬燵の催促し成城大学へゆく。鎌田女史をらず『朝鮮歴史地理』見られず、月曜のprint切り。
昼食し了へしところへ、今井氏来り、山内講師の件にて栗山部長と話し「皆と会ひたし」といはれしと。
その前に一度会せんといふこととなり、池辺、大藤2氏呼び来る。話かはりて4万円の手当出せと也。
また3本立ての件にて大藤氏と対立。教授会のあとにて再議せん、栗山氏には会談延ばさんといひ、コーヒー牛乳を猿渡ら4女生にのます(猿渡生、立教女学出と)。
教授会は理事長の高垣寅次郎博士を学長に交渉し、ほぼきまりしと報告なりし。
すみて尾上一雄氏に「松島生の指導、公的には不要」といひ、また会議。
われ栗山氏に新カリキュラムいふことになりし。
16:00出て野口生と同車。下北沢にてしるこ付きあはせる。
帰れば彦根の河村dr.より30日出しのハガキ来をり。入浴。(津田左右吉博士逝去88才)。
12月6日
河村dr.へハガキ。午まへちょっと寝る。珍し。
さめて昼食し、13:30出て立教大学。手塚教授見当らず。別枝教授に遇ひ『歴史地理』の原稿いそがずときく。
歳末助けの袋に100入れ女使丁と話す。
“Samarkand”と“長春眞人”をあとにのこし16:00すまし、西武dept.の宮崎智慧氏を訪ね、佐藤(古川)政記氏の弔問いふ。
東口にて『王維(130)』買ふ。尾崎秀樹氏より「文送った」と。
12月7日
9:00出勤。成城大学庶務課で6ヶ月分の定期証明もらひ750×6もらふ。
漢文は詩一篇の解釈鑑賞といふ。昼食し、栗山部長をつかまへんとして出来ず、山田生と話す(鎌田女史また怒りゐると)。
15:00大藤氏と栗山氏に会ふことときまり『中国文学報』さがしなどしてのち、史学研究法にゆき「わが曽祖父」800字かけといひ、15:00やめて栗山氏を待つこと40分。
大藤氏、今井君のことわるく云ひ、栗山氏「やはり民俗学を中心とせよ」と前言くつがへる。
「短大に今井君やり、池辺を学部にと考へよ」とわがいひしごとくなり憂鬱。山内講師の時間ふやすことはだめと也。
指定寄附の本の買ひ方、特殊といはる。すみて時間なくなり、駅へゆけば(『成城文芸』の校正受取る)、渡辺、西沢の2生をり、野口、小川の2生とも同車。
下北沢で3生としるこ食ひ、渋谷で夕食し、悠紀子と落合ひ、都市Center-Hallの合唱会へゆく。最後のHaydonの「四季」よく出来たり(3Cの山部独唱す)。すみて帰宅21:30。
小高根二郎より「散文の同人費1200〜1500」と。尾崎秀樹氏より『決戦下の台湾文学』。すし食ひて眠る。
(切り炬燵の工事人来り、本多しといひしと)。
12月8日
伊藤賀祐より速達「会ひたし」と。
伊藤、尾崎2氏へ喪中ハガキ。12:30ごろ校正もちて出、成城大学図書館にて『金瓶梅』の訳見、訂正ののち佐藤副手のぞきしもゐず、
宮崎教授と話し「あすbonus13:00より」の掲示見て、岡谷講師に遭ひしのち、下北沢。
渋谷をへて恵比須、三鱗印刷へゆき工長に訂正、送りのわびいひ、思案して国鉄飯田橋へゆき都電にて山本書店。
3,020払ひ、成城個人研究費の残り3,550に請求書かき直さしむ(『清史8』とするも、実は『元典章索引』3冊550。
琳琅閣の11月8日の本代4,450をまだ請求しをらざりし)。Calender呉れし(あけ見ればdesk用)。
『台湾文献資料目録(360)』、『入華耶蘇会士列伝(310)』、『帝京歳時紀勝(100)』、『城南漢学(100)』買ひ、金なくなり、蒲池氏に寄りしに不在。
しるこ食ひ(40)、都電にて渋谷。帰宅18:00。
立教大学より「来年度講義内容16日までにしらせ」と。西村美那子より子供の写真。田中雅子より電話2回。
子供の小学校のことなりしもすみし、恰も帰宅せし順二郎とも話す。
けふ畳切り交渉にゆきしと。
12月9日
浅野晃、荒木利夫、饗庭源吾、天野忠、赤川草夫、浅野建夫夫妻へ忌中のハガキ。
9:30成城大学。今井君待ちしに来ず。齋藤愃、山田君江2生と会ひ『中国文学報』借り出せしも『爾雅』のことなし。漢文すませ13:00までbonus待つ。81,510−税16,300+30,850=96,060
田中久夫氏と約束通り出て小高根家(学校のラーメン(35)久しぶりに食ひし)、太郎をり、母堂(79才と)病院へゆきしといふに羊羹2本(320)。15:00までゐて教会へゆくを笑はる。
田中氏と出てcoffeeのみ、下北沢で別れ、吉祥寺南口の古本屋にて『続南方随筆(350)』見つけうれし。
帰宅。悠紀子に95,060わたす。ハガキかき「ア」のみすむ。
(けふ学校へ岩崎より速達「下呂に5階建の旅館つくりし。春夫返す」となり)。
(矢野の令嬢、熱海の写真もち来り、本田・シンチンゲル2先生に送付たのむと)。
12月10日(日)
8:30起き10:00まへ寒き中を教会へゆく。Christmasのお祝はその日でよしと。
すみて買物し、櫓ゴタツの工事人待ちしに来ず。
14:00出て南海屋に「あさってよこせ」といひ、荻窪より電話し、バスにて田中憲三郎(※悠紀子夫人の義兄宅)にゆく。
夫妻をり俊子姉に1.1万円わたし、電気洗濯機2.2万にてすみし。市野氏重態と。
われteleviの中央大学・関学のfoot-ballの試合見、関学1-0にて勝ちしを見てのちbusにて荻窪。
1千円もらひて中央線古書展にゆき『台南市街図(50)』、『台湾全図(50)』、『朝鮮全図(50)』、『朝鮮案内(50)』、『内陸アジア研究(300)』、『高麗郷由来(50)』買ひて帰宅。
けふ〒なし。伊勢丹より矢野昌彦出しの砂糖5.6キロ。(田中正義氏に遇ひ「伝記かけ」といはれし)。
12月11日
9:00出て成城大学。中国文学史の前、山田信江来り、「この前の講義面白かりし」と。
すませしあと堀辰雄かきし中島生来り、「神なく、しかも安心して死んだ」と。
そこへ若葉生来りしゆゑ、文学散歩の会にと600わたし、ついで来りし福留生らより横浜散歩の報告を聞く。
すみて高橋邦太郎氏と話せしあと、Shamanismのnote作りて東洋文化史。また三野、毛受の2生と会ひ、そのあと今井富士雄氏さがし廻り、山内氏の2時間はだめと伝ふ。
けふ悠紀子、渋谷より三井銀行へゆきし筈ゆゑ、新宿、市ヶ谷をへて山本書店。『帝京歳時記勝』とりかへ『南鮮と北鮮(200)』買ひて都電にて帰宅。
京、留守番してゐれば大工来しと。悠紀子、渋谷(※母宅)に4千円わたし「少し」との様子なりしと。『日の友』貰ひ来る。
大江久美子より千円封入「内緒でこれからも送る」と。山下幸男より相愛の女性の身許しらべよと。依子より「正月帰省」と。
角川の朝比奈氏よりHeineの15版は10日ごろ出来ると。
けふ三水会の米津氏に遇ふ。
12月12日
晴。忌中ハガキかく。大工さん来る。11:00出て藤田博士記念会へ1,000送り、切手200貼る。定期6月分7,020買ふ。
大藤氏に「今井氏に話した」といひ、『通俗篇』借出しなどして午休みすごし、相馬の来りしを見「(※卒論)書いてゐる」ときく。
鈴木健司は「1年のばした」と。14:10より教授会。文化史専攻第3次を入れて51名となる(31+16+4)。
『成城文芸』の編集委員を一新することとなる。すみて松村達雄と出てpudding食ひ(100)、Gelbe-Sorte(2箱買ひし)のます。
そのあと下北沢へ出て引返し紀伊国屋へ18:20着き、百瀬教授と柳田為正氏の間に坐り、御曹司よりいろいろきかさる。21:00帰宅。
服部三樹子氏より「占ひもってゆく」と。『果樹園70』来をり。寿賀子よりfilm。Coup d'état(※クーデター:不詳)の計画発覚と。
12月13日
8:00さめ大急ぎで出て定期忘る。東大へお茶の水をへてゆき、講師岡本君来ぬ中、松村君に岩井博士古稀記念論集代に1,500。箕輪老激励会へと1千円托す。
神田君に『果樹園』1冊和田先生へと托す。次回は1月17日にて講師われと。
阿南君と昼食し、そのあと喫茶す。17日ごろ『清史雑考』返却に来ると。別れてbusにて池袋。
立教の史学研究室へゆけば手塚氏講義中。アジア研究室に別枝教授訪ぬればこれまた講義中。
また研究室にゆき15:00手塚氏来りしに「来年度の講義を唐宋の年中行事」と届け、Samarkandの話してのち3生(久保、林、高木)さそひ、
三原堂にて甘い物くひ、busにて荒井薬師。『太宰治全集1(240)』見つけてうれし。
そのあと中野まで歩き『物語東洋史 完(50)』、『アジアの焦点(50)』買ひして帰宅。
山尾浩子より「17日上京、電話する」と速達(けふ喪中欠礼40枚投函)。
(林、高木2生全快祝にと茶碗賜ふ)。夜、喪中欠礼「ハヒフヘホ」まで書く(45枚)。
12月14日
9:00出て成城大学。短大漢文のまへとあとに山田信江の卒論をきく。
午后『玉葉』よまさるることとなり史学研究法は出席とりしのみ。アテネフランセ館長松本氏に挨拶受く。
西沢生に『玉葉』教へ了へしところへ加藤隆子来り、本返却す。鈴木健司ゐるといふに呼び4人にて下北沢でしるこ食ふ。
鈴木は教員となるため実力養成をかねて1年卒論を延ばすと也。帰宅。
奥戸武夫妻Los AngelesよりChristmas-card。角川よりHeine15ed.。田中久美子より1千円封入の手紙「大江の叔母、体わるし」と。
不二歌道会より新年の歌をあげよと。伊藤なつめ(賀祐夫人)より手紙。花井たづ子より「5月12日ごろ出産予定」と。
硲晃氏より「礼状酒のみおくれしも…」と。
21:00ごろ坂根千鶴子来訪。1月の公演切符2枚買ふ(300×2)。旗田巍、小野勝年2氏へ『果樹園』。年賀欠礼35枚。
12月15日
11:00出て渋谷より恵比須の三鱗印刷へ校正もちゆき、ここより日赤行のbusにて聖心女子大。
田中保隆氏に『果樹園』わたし、2時間ともChristmas-cardもらひ礼いふ。火曜slide見に来よの案内もらふ。
12月分salaryもらひ、渋谷行のbusにて青山学院前下車。不二歌道会へ年末の1千円もちゆく。
『太宰治全集3,4』見つく。絶版と印おし820とらる。〒なし。
炬燵の上の板1,100にて丸善家具店より買ひ来しと。
12月16日
9:00出て成城大学。漢文すませ、宮崎生を研究室にまたせゐしに相馬に会ひ、問へば「卒論かきゐる」と。喜びて伴ひ、やがて「白樺」へつれゆく。
宮崎女のほか本多、福留と4女生来る。先出て相馬と別れ、busにて大江にゆけば悠紀子着きしところと。
すしとり呉れしに弁当半分くひ、あとすしよばれ、夫を中心にせよといふ。
出て三軒茶屋までtaxi(130)。古本屋見しあと、しるこ食ひ渋谷へ出、東横dept.にて田中冬二氏へと海苔(500)。
帰り吉祥寺の古本屋も見、佐藤dr.によれば「便に出血なかりし」とのみ。〒なし。けふ久美子への送料160なりしと。
12月17日(日)
雨。教会へゆく。Cristmasには招かれずと也。帰途、畳屋へ寄り、たのめば「今日来る」と。
昼食し、待てば14:00前、山尾浩子生より電話、悠紀子出て東京駅よりの案内す。14:30駅へ迎へにゆき家へつれ帰る。
18:00けふの見合いやに上京せしとわかる。19:30駅まで送りて帰り『讃美歌(230)』買ひ、金100を途にておとす。
けふ寿一より悠紀子に詰責の手紙。小川雅也氏より送り状。本多明氏より「代々木のコーポラスへ移転」と。
「箕輪さんを促ます会」より千円の受取。史、22:00前帰り来て「渋谷へゆきし」と!(畳屋来り、寸法はかる)
12月18日
7:30起床。学校へゆかぬこととし、速達で来し硲晃氏の(※依子氏の見合相手として)福岡国税局勤務東大出の教へ子のことを「謝す、待て」と硲氏へ。
「いかがすべきや」と大江叔母へ速達かく。花井タヅ子、小川雅夫氏へハガキ。そのあと炬燵に入る。畳屋来て半畳入れくれる(750)。
坂口允男氏より「8月父死去」の喪中挨拶。聖心女子大Britt学長よりChristmas-card。
『果樹園』の原稿ちょっとかく。India軍、Port.領Goaに進入と。
12月19日
朝、大江久美子より悠紀子にCocoa1缶を送り来る。立教大学へ講義要項「中国の年中行事史」とし、時間割は「水曜午後、金曜午前可」とすること今年に同じ。
昼食すませて出、速達出して佐藤dr.「も一度検便し今年中に片づけん」と也。
成城へゆけば3Dの卒論テーマの印刷出来をり、見れば吉川生「婚姻制について」と題し、今井君のゼミとなりをり。
鎌田女史にきけば大藤氏来るとのことに待ちて、来しと「桜田氏の履歴書、修学旅行の打ち合せ」につき伝へ、
池辺君と廊下で立話([2]Dに短大6人来させて宜しきや云々)しをれば、吉川生通る。
つかまへて駅前風月堂にてきけば「乱婚制度についてやる」とのことに呆れ、問へば「馬淵氏より習ひし。今井先生は成城出の上、人類学教はりしゆゑ云々」。
聖心女子大のslide見にゆくをやめ原町田まで送り「先生神経質ゆゑ云々」ときき帰り来る。けふ〒なし。
12月20日
『不二』来る。服部三樹子氏より四柱推命。中山八郎氏より『太古のシナ人と塩(※抜刷)』。井階房一へのハガキ返送。
岩井博士の古稀記念会より1,500の受取。田中まさ子夫人より区立小学の件。
依子より29日の特急で帰ると。11:00出て11:55成城大学へつき、論文提出に印必要とのことに相馬まちしも来ず、12:10教務できけば未提出と。
池辺、今井、大藤3氏と審査分担の相談し(矢野光子あす父よりの刷物もち来ると)、山田、藤井2生と茶のみにゆき、野口と同車にて渋谷。赤坂見附まで地下鉄。
17:30高山氏来ず田村氏総理邸にありとのまま話はじまり、すみて階下の「ざくろ」にて(※三水会)忘年会。これにて一応解散となる。
浅野氏(※浅野晃)その直前キリストを非難し、食後齋藤氏裁判遅延を部長2人にせしゆゑといふ。
渋谷までtaxi(200)。22:00帰宅。
大江叔母より「話宜しきゆゑ云々」。大江久美子より「まかす」とまた1,000同封。
日野月先生よりおくやみ。田中まさ子留守に来り、木下病院のせわになりゐると。菓子とシャツおきゆきしと。
(けふ登校の途、風見章氏のくやみにゆく高桑純夫氏と遇ふ。田島靖子生倒れ、母に卒論もち来させしとのことに電話すれば泣く)。
(神田信夫氏に登校の途あひ『果樹園』を和田先生に渡したまひしときく)。
12月21日
9:00硲氏へ(※依子氏見合用の)写真とつり書の入りし手紙速達。悠紀子も大江叔母へ速達かく。
われ整髪店に行き250となりしに驚く。
それより下北沢にて葡萄パン(50)買ひて登校。相馬生、教務にをりといふにゆけば、文句なく卒業論文受領さる!
山田生来り、葉巻?1箱賜ふ(George Urda氏よりのChristmas-card挿みあり)。矢野家へ電話すれば光子生出しと。(田中雅子に電話し「26日午前にゆく」といふ)。
13:30まで待ち、14:00より入試委員会。退屈す。1月23日(火)10:00よりわが研究室にて卒論面接と教務に届けし。
出て下北沢下車。大地堂にゆき『赤嵌記(200)』、『家計簿(100)』買ひ、北の本屋にて井土霊山『白楽天詩集(130)』買って帰宅。
(けふ月給もらひしに年末調整にて6,400返付されし)。夕食後、不二歌道会より電話ありしといふに、かけ返して喪中新年なきをいひてすむ。
伊東花子氏より「喪とは何ぞ?」と。宮本正都氏よりハガキ。山下幸男、山尾浩子より礼状。
長沖一氏より盲腸手術のことのりし『文学雑誌30』。(『占領治下の闘ひ(30)』買ひてよむ)。
12月22日
山尾浩子、中山八郎2氏へハガキ。小高根二郎氏に「当分1,500づつ送る」と。本多生より電話、13:00吉祥寺北口で待合せることとす。
10:00出て八丁郵便局にて我は果樹園社に同人費1,500を小為替にて送る(小為替料20、速達料40)。
悠紀子は依子に5,000と大江への歳暮代2,000送る。
浅野dr.にゆきcookie1箱お歳暮とす。apartまだ落成せず。
別れてわれ『人民公社物語(100)』、『インド史(190)』、『湘南伊豆文学散歩(120)』買ひして昼食に帰り、すぐ出て本多生迎へに駅へゆけば同行は鈴木睦美。
ともに円覚寺へ坐禅にゆく途と。家に伴ひ帰れば本田生「この間まで先生こわかりし」と。
16:30ごろ駅まで送り『唐宋八家文4冊(150)』買ひて帰宅。高松生(丸木夫人)より「あす午後来る」と電話ありしと。
入浴し『通俗篇』よむ。集英社より電気potを贈らる。(2生、千草の落花生と房州の乾物と呉る)。
12月23日
晴。10:00〒。篠田統博士、和田賀代女史より喪中につき挨拶。東洋学術協会よりLevy『楊貴妃』の書評を37年5〜6月頃200×20と。
猿渡弘氏より缶詰1箱。午后になり畠山六右衛門氏より柳葉魚(ししゃも)1箱。
14:30ごろ丸木夫妻来訪。父君は交通公社外国旅行課と。Pine-apple1ケ賜ふ。
17:00ごろ送りゆく。佐藤dr.にて薬もらふ。昨日とけふと『通俗篇』よむ。宮崎幸三氏より喪への慰問。
12月24日(日)
7:30起き朝食。猫をさがすとて京のこすこととし、9:00すぎ出んとすれば見つかる。
(※教会礼拝にて)われ1千円ゆき子500円を献ず。立つ人多く気の毒なり。すみて祝によばれず仕方なく帰宅。
(新受洗者、小児1、女子11人なりし。われ泪を催す)。『通俗篇』と『李朝実録抄』をよむ。
酒井清市氏より歳暮?帝塚山短大の同窓会を1月21日にすとて出欠問合せ。『東洋学報』2冊来る。
12月25日
晴。10:00ごろ出て平凡社2,444送り、国鉄にてお茶の水。
筑摩書房にゆけば東、井上氏などをらず受付の女子にたのみ、『太宰治全集5〜10』を久美子に送ってもらふ(420×0.8×6+120=2,136)。
礼云って出、古本市にゆき『京城帝大十周年論文集(200)』、『台湾鉄道旅行案内(150)』、『変態風俗の研究(130)』、黒谷了太郎『台湾(50)』、
他に『満蒙』の合冊3冊(60+40)買ひ、金なくなり『伊奈』、『高遠』、『塩尻』(35×3)買ってもらひ、鰻丼と肝吸(150+30)食はしてもらひ、
神保町より都電にて渋谷。帰って昼ねしをれば犬吠え、不二歌道会より餅賜ひし。
けふ福地邦樹君より「詩集を出す」と。山口広先生より「長女死亡の忌中」と。
山尾政代氏より「礼に物送った」と。井上多喜三郎氏より「『骨』に書け」と。
田中冬二氏より「受取った」と。川久保悌郎、森中篤美、白鳥夫人より喪中の挨拶。
12月26日
9:00朝食し10:00まへ便もちて佐藤dr.(硲晃氏より27日以後、依子見合との速達にてめさめし)。
出て成城学園前より大蔵住宅。2児をり土産の赤飯団子くひて12:10われ出て成城大学。
『北平風俗類徴』と『四時纂要』借出し、そのあと卒論交換す。
松崎女にいひてcoffeeと菓子と風月堂より運ばしむ(450)。
14:00すませ図書館の忘年会に出さされしあと、山田(type)、高橋(経済研究室)2女に下北沢のしるこに誘ひしあと帰宅。
丸より奈良漬1樽来り、佐藤のぶ氏より「35日すみ香料を寄附せし」と。
『Non-fiction全集24』来り、「23」未着なることわかる。入浴。
2月27日
9:00ごろ起き、依子よりの速達見る。「硲先生24日にお越し」と。
10:00ごろ秋山夫人と千川稚泉氏より喪中への挨拶。『通俗篇』よみ、『李朝実録抄』よむこと昨日に同じ。
富士銀行本店山川さんといふより依子の帰京につき電話ありし。note5冊(100)買って来てもらふ。
12月28日
浅草鳥越の酒井清市氏へカステラの問合せのハガキかく。丸より電話「今夕17:00春日にて会はん」と也。
久美子より「4冊そろった」と。目疲れしか、だるくてたまらず。15:00悠紀子と出て佐藤dr.。「まだ薬のめ」と也。
下北沢をへて新宿へゆけば丁度よき時間となりしも丸未着。
近所の古本屋にて年中行事の本(150)買ひ、も一度「春日」にゆきbeerと酒と少しづつ飲み、1,750の勘定に1千円払ひ、駅前にて別れて帰宅。入浴。
(西川、丸夫人に「女と別れしや」とききしと)。山本幸子氏より悠紀子へ菓子1箱。
12月29日
9:00起き、史あさ8:00ごろ帰宅ときく。11:00朝食。大源より味噌をたまふ。
午后、坂根みつせ氏より肉の味噌漬。夕方山尾一氏より鮭を賜ふ。『通俗篇』と『李朝実録抄』をよむこと一昨日と同じ。
小野勝年氏より『果樹園』の受取に「小川環樹氏と噂す」と。
山尾敏代、室井幸太郎(美代子)氏へ礼状われかき、坂根みつせ、山本幸子氏への礼状を悠紀子かく。
12月30日
晴。史、10:00出といふにゆっくり寝、川本静江生の忌中ハガキと坂根母堂のくやみ見る。
やがて硲氏より「帰郷した本人が見合承知しなかった」の便りを見て落胆!「あとよろしくたのむ」の速達かき、悠紀子に武蔵野局へもちゆきもらふ。
久美子よりまた1千円来る。姉弟ならびに房子らとも縁切れし様子。夕食せんとせしところへ堀口太平氏来訪。「card代受取りし」と最中1折たまふ。
12月31日(日)
9:00起き、教会の礼拝にはじめて遅刻す。
あす6:30より早朝礼拝と。帰れば台湾大学図書館の曹永和氏より賀状。
依子より速達来り「3日の第2富士に乗って帰るかもしれず」と。母より電話、弓子に来いと。ゆけば腕時計(3,300) 買ってもらひしと。
19:30永山光文来り、金繰りに苦労するも3月までの仕事出来たとカステラ呉れる。