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後藤松陰 ごとう しょういん (1797 寛政 9年1月8日 〜 1864 元治元年10月19日)

 『好文字』『竹深荷浄書屋集』『春草詩鈔』『松陰亭集』『松陰詩稿』『松陰文稿』


詩集 『春草先生詩鈔』(写本 岐阜県図書館蔵)  『摂西六家詩鈔』嘉永2年  『近世名家詩鈔』安政5年

村瀬藤城・後藤松陰 選 『清百家絶句』

後藤松陰展と故郷 (ハートピア安八歴史民俗資料館 第1回企画展 平成15年7月19日〜9月28日)

後藤松陰自筆 世話千字文 折帖 (2007年3月入手)   後藤松陰序跋 山陽先生横江帖(復刻) (2008年9月入手)


掛軸1  城山暮雪見附十勝之一

掛軸2  春分

掛軸3  六十七 田園隠棲

色紙4  画芙峰

掛軸5  團魚

掛軸6  春蔬詩

色紙7  新屋雑詩

色紙8  大魚圖

掛軸9  長良峡

掛軸10 題松菌

色紙11 題鶏卵圖

色紙12 詠蟹

掛軸13 春琴老人荷池圖

掛軸14 題諏訪湖圖

掛軸15 五月十三日(竹酔日)

掛軸16 題画竹

掛軸17 讀熊野三山紀略

掛軸18 神岡竹嶼の医屋に寄す

まくり19 中村與一に寄す


墓所「天徳寺」(大阪府大阪市北区与力町)


その他 文献

『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について

木村寛齋の後藤松陰添削詩稿

後藤松陰の手紙([安政三年(1856)]岡田正造 宛)


木崎愛吉『篠崎小竹』(大正13年 [1924]刊行) 91-94p

 後藤松陰の事蹟はこれまで一向その詳細が知られてゐない。又わたくしの手許にも纏まつた材料を持たぬ。曾て松本端さんがわたくしに書き送られた一部分の材料がある。ここに付記して、異日の研究に資することする。
 松陰は寛政九丁巳年正月八日生れ、元治元年十月十九日歿す。享年六十八。
 文政八年の夏五月、永代濱に卜居、身元引受人は小竹にして、「賃房契」(借家証文)の題表を以て、漢文体の借家証文を作れり。当時小竹は齋藤町に居住せり。
 鹿田静七氏の祖母くに子の談に依れば、結婚は卜居と同日であつた。当日は頼先生も手伝ひに来られた。三木三郎とは兄弟同様にて、三木三郎が米屋へ使にゆく、米屋が米を持ち来る。容器なければ松陰は浅黄の襦袢を出し、之に入れよと云はれ米屋も一驚を喫したりと。三木三郎は学僕にて、浴水を汲み、朝夕の掃除をなし、又松陰の供をもなせり。
 多川周碩の談に依れば、永代濱の家は、海部堀中之橋北東角にして、天満屋吉右衛門と云へる金満家の持家なり、吉右衛門、姓を田中と称し、町人には似合はぬ漢学者なりしと。周碩の父漢方医尭民、此家を借りたるが、向ふの家屋を買得して移転したれば、小竹門人なる尭民、小竹に其の移転を報じたるにより、松陰直に此家に入れり。其の前庭に一大松樹あり、由りて松陰と号せりと。周碩、幼名隆造、直に門に入りて論語の素読を受けたり、其れ七八歳の時なり。松陰の結婚は、恐らくは小竹の家に松陰滞在中、其の式を挙げたるならん。周碩、大正三年頃に御影村にて死亡、享年八十七八。
 永代濱は、井水甚だ不良にして堪へ難ければ、嘉永五六年頃、江戸堀南通四丁目大寺四郎五郎の向ひ濱側なる、大寺家の借屋に転居す。四郎五郎も亦た松陰門人にして金満家なり。慶応時代にも詩会等に出席し、岡本撫山抔と廻縁にてありし。
 当時、同町五丁目に齋藤方策と云へる、蘭学医者あり、其の長男、病に罹りて治し難し。方策既に老て女婿山本徳民入りて業務を助く。其の幼名駒太郎、十二三歳にして松陰の門に入れり。此人明治四十四年二月歿す。享年七十二歳、其の云ふ所左の如し。
 松陰は其の後、其の真向なる北江戸堀に転居し、頗る良井を得て喜悦せられし詩の七絶を見たる如く覚ゆるも、松陰の詩稿、所在不明となりたり。後梶木町御霊筋西南角(当時北濱五丁目旧日本ホテル敷地)に移居す。
 故高木鐵蝶の話に、松陰頗る才名あり。然れども不幸にして早く中風症に罹り、加ふるに家事皆累を及ぼす。親戚三日月藩邸司阪上丈太郎氏(好尚云、丈太郎は條之助か淳蔵の弟、大蔵の兄にて、淳蔵に代りて留守居を勤めたり)其の邸の近傍を選み、堂島渡邊橋北詰西へ一丁西北角北へ入る東側の家を借り先生を移す。曾て篠崎家退転の時、阪上氏の挙動に付き世論を喚起せし例あるに由り、先生の神経頗る過敏となり、懊悩遂に健忘症となれるが如し。其後、備中阪谷朗廬の斡旋により、養子談起りたるを機として、梶木町の旧宅に復することを得て、先生の病もまた多少寛解するを得たりと。配まち女は、安政六年七月十八日歿す、享年五十余歳と聞く、恐らくは五十四五歳、文政八年より安政六年まで三十六年を差引けば、 享年五十五歳として結婚前年は十九歳なりと推測するのみなり。
 松陰の事に関し更に洋画家小笠原豊涯さんの厳父久恒翁(洲本藩士、初名守井新助)が、わたくしの為めに、示して下さつた記事がある。翁は松陰に師事した人である。
 松陰先生の宅は、今の内 北濱日本ホテルの角屋敷に当り、松の木も庭中にあり。往来に向ひし処は、書生の塾にて、玄関の踏石の上に、「廣業館」と大書したる三島先生の板額あり、玄関突当りに「松陰書屋」と題せる小竹先生の額あり、その次の間は、そのころ箕山先生の講席にて、「春草堂」といふ頼山陽の額あり。奥の南面の表の間が松陰先生の書齋にて、「温故而知新」といふ佐藤一齋の額を掲げ、その東側の壁をかくして、天井まで高く本箱を積み上げたり。先生の塾へ通学するものは、蔵屋敷の子弟など多かりしに、中に一人、若い肥つた女丈夫が、漢文の添削を乞ひ、書生の間に交はり臆面もなく来れり。あれが跡見花谿女史ではなかりしかと思ふ。
 箕山。名は元善、字は子長、通称辰之助。尾州の人神谷純一の子。妻坂上氏、名は常磐女。箕山は安政八年正月廿二日歿し、妻は文久二年六月十四日死去。その嗣子桐坪、通称堅蔵、慶応三年四月十一日歿す。


菅茶山『筆のすさび』(安政四年 [1857]刊行) 序

 余かつて漢人の記事を謂ひて「随ひて聞き随ひて録す」とす。もしその虚実の有無に至りては、則ちこれを聴き読む者の各自これを評論す。邦人は則ち然らず。 つねに人の談話を聞くに、すなはち虚無の二字を胸中に置く。それ疑ふべきは、実と虚とを問はず、臆断は録さず。これ奇談異聞の、伝はらざる所以なり。あに東西人気の根、 強弱有らんや。まさに時世人情の然らしむる所ならんや。
 但し我が茶山菅翁は則ち然らず。
 文化戊寅(十五年)、余、山陽先師の西遊に従ひ、神辺駅に至り、始めて翁の謁を得、遂にその塾に三旬許りも寓す。翁、日夕飲酒すれば、輙ち必ず余を呼んで侍さしむ。酒間、 問ふに異聞奇事をもってし、国の産に及ぶ。余もまた偶ま問ふにその著す所の「冬日影」を以てす。翁咲ひて曰く。
 人心は率ね遠きを貴び近きを賎しむ。新しきを喜び陳きを厭ふ。近来、西洋学を重んじて、漢学を軽んず。擩染(濡染:カブレ)の至りなり。或は被髪侏離の語(解し難い外国語)を以て至極となす。 吾これに懼れをなして作る也。今は無用なれば、これを(甲乙の下の)丙丁に付す、と。
 一日、奥(奥州の)のひと某来れり、謁を投じて日く。さきに西遊すれば、今また東還す。一たび芝眉(尊顔)に挹(揖)して(拝謁して)帰らば、則ち吾が願ひ足れりと。翁、 時に年まさに七十、疝を患ふ。辞して見(まみ)えず、ただ命じて駅中に舘(やど)らしむ。既にして夜に入る。某また来りて曰く。先生病ひ有り。如何ともすべからず。願くは塾中の諸君と、 詩をもって会すること一餉時ならんことを。何如。すなはち相ひ共に韻をたたかはせて談咲(談笑)す。これを頃(しばらく)するに、翁手に自ら煙盤を提げて来り坐す。火光を蔽ひ、 一問一答、自ら膝の席に前(すす)むを覚えず。某つひにそれ翁なるを知らざるなり。
 一日、翁余に謂ひて曰く。吾子必ずや筆墨を以て名を成す者なり。僕に三訣有り。これを授けんや否や。余、席を避けて曰く。敢へて請ふなり。 すなはち曰く。
 凡そ文筆を以て業と成さんとせば、飲食を以て陰晷(時間)を費やすなかれ。ただ酢と醤とを小甕にて調和し、投ずるに甲州白梅、乾蘿菔(大根)等を以てせよ。春月に至らば、 或は点ずるに山椒芽を以てすれば、以て酒を下すべし。以て飯も過ぐべし。これ一訣なり。
 凡そ遊び始めの境には、疲れると雖も、輿に乗るなかれ。往々の奇景を錯過す。これ二訣なり。
 凡そ儒を以て名を得たる者は、諸方より必ず多く詩文の改正を乞ふを寄せらる。之を改正するに法有り、知らざるべからず。これ三訣なり。
 (われ)曰く。改正の方とは如何に。翁咲ひて答へず。固く請ふも、つひに言はず。けだし余をして思ひ之を得さしめんと欲するなり。
 これ今を距つること三十又九年。翁の世に有りし文政丁亥(十三年)より三十年かな。このごろ書肆某、翁の随筆四冊を得て、携へ来り一言を乞ふ。ああ、 小子何ぞ翁の書に言を弁ずるをもって足らんや。しかるに強ひて匈(さわ)ぎて止まず。あに余をもって猶ほ翁を識るに及ぶなりとか。この著、翁に在りては、則ち言ふ所の桂林の一枝。 昆山の片玉のみ。而してまたもってその用心異常を見るべし。因てこれを書してこれに与ふ。或はもって随筆の一則を補ふに足りんや。

 安政丙辰(三年)重陽(九月九日)雨窓
                               後進  後藤 機

余嘗謂漢人記事。随聞随録。至若其虚実有無。則聴読焉者各自評論之。邦人則不然。毎聞人談話。輙先置虚無二字於胸中。其可疑者。不問実与虚。臆断不録。是 奇談異聞。所以不伝。豈東西人気根。有強弱邪。将時世人情所使然也邪。但我茶山菅翁則不然。文化戊寅。余従山陽先師西遊。至神辺駅。始得謁翁。遂寓其塾三 旬許。翁日夕飲酒。輙必呼余侍焉。酒間。問以異聞奇事。及国産。余亦偶問以其所著冬日影。翁咲曰。人心率貴遠賎近。喜新厭陳。近来重西洋学。 而軽漢学。擩 染之至。或以被髪侏離語為至極。吾為之懼而作也。今無用。付諸丙丁矣。一日奥人某来。投謁日。向者西遊。今也東還。一挹芝眉而帰。則吾願足矣。翁時年方七 十。患疝。辞而不見。但命舘於駅中。既入夜。某復来曰。先生有病。不可如何。願与塾中請君。以詩会一餉時。何如。乃相共鬮韻談咲。頃之。翁手自提煙盤来 坐。蔽火光。一間一答。不自覚膝之前席。某竟不知其為翁也。一日翁謂余曰。吾子必以筆墨成名者。僕有三訣。授之否。余避席曰。敢請。乃曰。凡以文筆成業。 勿以飲食費陰晷。唯調和酢与醤於小甕。投以甲州白梅。乾蘿菔等。至春月。或点以山椒芽焉。可以下酒。可以過飯。是一訣也。凡始遊之境。雖疲矣。勿乗輿。往 々錯過奇景。是二訣也。凡以儒得名者。諸方必多寄詩文乞改正。改正之有法。不可不知也。是三訣也。日改正之方。如何。翁咲而不答。固請。竟不言。蓋欲使余 思而得之也。此距今三十又九年。翁有世文政丁亥三十年矣。頃書肆某得翁随筆四冊、携来乞一言。鳴乎。小子何足以弁言翁書。而強匈不止。豈以余猶及識翁也 歟。此著在翁。則所言桂林一枝。昆山片玉耳。而亦可以見其用心異常矣。因書此与之。或足以補随筆之一則也耶。
 安政丙辰重陽雨窓
                               後進  後藤 機




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