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後藤松陰 ごとう しょういん (1797 寛政 9年1月8日 〜 1864 元治元年10月19日)
篠崎小竹 しのざき しょうちく (1781 天明元年4月14日 〜 1851 嘉永4年5月8日
篠崎三島 しのざき さんとう (1737 元文 2年 〜 1813 文化10年10月30日)

墓所「天徳寺」(大阪府大阪市北区与力町)
 





 
後藤松陰 ごとう しょういん (1797 寛政 9年1月8日 〜 1864元治元年10月19日)夫妻の墓

 
戦災により墓石がもろくなってゐる(住職談)とのことだが、平成初めの写真が遺ってをり、平成7年(1995)の阪神淡路大震災時に落剥したのではないかと思はれる。

 
後藤松陰書入れ本『山陽詩鈔』、および木村寛齋の松陰添削詩稿の紹介論文発表につき、墓前報告を行った(2020.3.16)。


  ※(木崎愛吉『篠崎小竹』(大正13年 [1924]刊行) 91-94p より)

 後藤松陰の事蹟はこれまで一向その詳細が知られてゐない。又わたくしの手許にも纏まつた材料を持たぬ。曾て松本端さんがわたくしに書き送られた一部分の材料がある。ここに付記して、異日の研究に資することする。
 松陰は寛政九丁巳年正月八日生れ、元治元年十月十九日歿す。享年六十八。
 文政八年の夏五月、永代濱に卜居、身元引受人は小竹にして、「賃房契」(借家証文)の題表を以て、漢文体の借家証文を作れり。当時小竹は齋藤町に居住せり。
 鹿田静七氏の祖母くに子の談に依れば、結婚は卜居と同日であつた。当日は頼先生も手伝ひに来られた。三木三郎とは兄弟同様にて、三木三郎が米屋へ使にゆく、米屋が米を持ち来る。容器なければ松陰は浅黄の襦袢を出し、之に入れよと云はれ米屋も一驚を喫したりと。三木三郎は学僕にて、浴水を汲み、朝夕の掃除をなし、又松陰の供をもなせり。
 多川周碩の談に依れば、永代濱の家は、海部堀中之橋北東角にして、天満屋吉右衛門と云へる金満家の持家なり、吉右衛門、姓を田中と称し、町人には似合はぬ漢学者なりしと。周碩の父漢方医尭民、此家を借りたるが、向ふの家屋を買得して移転したれば、小竹門人なる尭民、小竹に其の移転を報じたるにより、松陰直に此家に入れり。其の前庭に一大松樹あり、由りて松陰と号せりと。周碩、幼名隆造、直に門に入りて論語の素読を受けたり、其れ七八歳の時なり。 松陰の結婚は、恐らくは小竹の家に松陰滞在中、其の式を挙げたるならん。周碩、大正三年頃に御影村にて死亡、享年八十七八。
 永代濱は、井水甚だ不良にして堪へ難ければ、嘉永五六年頃、江戸堀南通四丁目大寺四郎五郎の向ひ濱側なる、大寺家の借屋に転居す。四郎五郎も亦た松陰門人にして金満家なり。慶応時代にも詩会等に出席し、岡本撫山抔と廻縁にてありし。
 当時、同町五丁目に齋藤方策と云へる、蘭学医者あり、其の長男、病に罹りて治し難し。方策既に老て女婿山本徳民入りて業務を助く。其の幼名駒太郎、十二三歳にして松陰の門に入れり。此人明治四十四年二月歿す。享年七十二歳、其の云ふ所左の如し。
 松陰は其の後、其の真向なる北江戸堀に転居し、頗る良井を得て喜悦せられし詩の七絶を見たる如く覚ゆるも、松陰の詩稿、所在不明となりたり。後梶木町御霊筋西南角(当時北濱五丁目旧日本ホテル敷地)に移居す。
 故高木鐵蝶の話に、松陰頗る才名あり。然れども不幸にして早く中風症に罹り、加ふるに家事皆累を及ぼす。親戚三日月藩邸司阪上丈太郎氏(好尚云、丈太郎は條之助か淳蔵の弟、大蔵の兄にて、淳蔵に代りて留守居を勤めたり)其の邸の近傍を選み、堂島渡邊橋北詰西へ一丁西北角北へ入る東側の家を借り先生を移す。曾て篠崎家退転の時、阪上氏の挙動に付き世論を喚起せし例あるに由り、先生の神経頗る過敏となり、懊悩遂に健忘症となれるが如し。其後、備中阪谷朗廬の斡旋により、養子談起りたるを機として、梶木町の旧宅に復することを得て、先生の病もまた多少寛解するを得たりと。配まち女は、安政六年七月十八日歿す、享年五十余歳と聞く、恐らくは五十四五歳、文政八年より安政六年まで三十六年を差引けば、享年五十五歳として結婚前年は十九歳なりと推測するのみなり。
 松陰の事に関し更に洋画家小笠原豊涯さんの厳父久恒翁(洲本藩士、初名守井新助)が、わたくしの為めに、示して下さつた記事がある。翁は松陰に師事した人である。
 松陰先生の宅は、今の内北濱日本ホテルの角屋敷に当り、 松の木も庭中にあり。往来に向ひし処は、書生の塾にて、玄関の踏石の上に、「廣業館」と大書したる三島先生の板額あり、玄関突当りに「松陰書屋」と題せる小竹先生の額あり、その次の間は、そのころ箕山先生の講席にて、「春草堂」といふ頼山陽の額あり。奥の南面の表の間が松陰先生の書齋にて、「温故而知新」といふ佐藤一齋の額を掲げ、その東側の壁をかくして、天井まで高く本箱を積み上げたり。先生の塾へ通学するものは、蔵屋敷の子弟など多かりしに、 中に一人、若い肥つた女丈夫が、漢文の添削を乞ひ、書生の間に交はり臆面もなく来れり。あれが跡見花谿女史ではなかりしかと思ふ。
 箕山。名は元善、字は子長、通称辰之助。尾州の人神谷純一の子。妻坂上氏、名は常磐女。箕山は安政八年正月廿二日歿し、妻は文久二年六月十四日死去。その嗣子桐坪、通称堅蔵、慶応三年四月十一日歿す。


 
篠崎小竹 しのざき しょうちく (1781 天明元年4月14日 〜 1851 嘉永4年5月8日夫妻の墓

こちらの墓石も同様に泯滅の危機にある。

  
小竹篠崎先生墓

嘉永四年歳次辛亥五月八日,小竹先生篠崎君,以疾終於大阪尼崎坊之宅,海内人士,識
與不識,莫不盡傷焉,越七年甲寅五月,嗣子公槩綴輯君之行状,郵寄於余,属以碑文,余於
君爲同門後進,其文不足爲君輕重,且君交友滿天下,誌銘之任,應自有其人,辭之一再,公
槩不聴,余乃據狀詮次之,曰,君諱弼,字承弼,小竹及畏堂其別號也,通稱長左衛門,義父諱
應道,字安道,號三島,以蘐園學下帷大阪,本生父諱某,號吉翁,加藤氏,豐後人,業醫寓大阪,
君其仲子也,以天明元年辛丑四月十四日,生於兩國坊僑居,幼而頴異好讀書,九歳從三
島翁受業,翁喜其岐嶷,養以爲子,遂冒篠崎氏,數歳專修家學,東西薄游,徧訪山水人物,才
思與年倶長,翁謂君曰,汝才學已具矣,所乏者識耳,君曰,所學如此,識何由長,願讀洛閩書
以求進境,庶有所得乎,翁可之,時江都學政一新,精里古賀先生執鐸焉,君欲再東游從之,
恐翁不許而不敢面請,潜辭家去,從精里先生,翁不唯無慍容,且寄書先生,以君爲託,先生
既喜君之才,又以翁之故,遇之甚厚,既而先生謂君曰,親老何苦遠游,君タ然感悟,未半歳
而歸養焉,及其代父ヘ授,諄々講經義弗倦,曰,在習而熟之,苟習而熟之,則胸中自有
所得,又謂,宋以後講學者,各有所發明,要之莫若朱子之完善也,支離拘泥,則學者之過耳,
作文詩不甚刻意,曰,文達意而巳,詩言志而巳,何弄巧之爲,然天才秀拔,語自妙霊,毎一篇
出,人爭傳誦焉,書法學元明諸家而[溯]唐,晩年自出機軸,流麗雅健兼有之,君齒コ既[珪,書
名又噪於海内,於是一時著書者,必須君序跋,而後開版矣,作詩若文者,必需君批評,而後
衒世矣,人家門楣上,柱壁屏障間,必得君揮染,而後以爲有光輝,勿論貴賤也,君有耐煩處
劇之才,加之以勤敏,八面酬應,綽々然有餘裕,門無停客,必皆面晤,几無滯牘,必皆手答,晩
患腹痛,久之不愈,庚戌秋余西上訪君,君大喜,留作十日飲,忍痛相欵,有詩見贈,曰,喜君遙
命駕,及我未歸泉,余讀之愴然,遂以其翌年不起,享年七十有一,葬於天滿郷天コ寺先塋
之次,會葬者殆千人,配田中氏,生三男,皆夭,三女,長適處士後藤機,季嫁濱田游士奥邨克
勤,公槩本江戸加藤氏之季子,初從學侗庵古賀先生,後負笈來從君,君收而養之,以配其
仲女,君爲人濶達灑落,躯幹長大,音吐如洪鐘,不喜低語,而心甚精細,通達事務,毫無書生
迂疎之習,趙魏之老,滕薛大夫皆可優爲之,然平生不欲仕官,其言曰,吾邦君臣之道甚嚴,
一委質則身受束縛,旅進旅[退],言不能盡意,有損於我,而無益於彼,不若爲賓師進退任
己,直言讜議,無所顧慮也,諸侯鎮戌大阪者,多聘君爲師,最受知於安中節山公,公已歸藩,
郵筒徃來不斷,阿波巨室稻田氏,甚相信敬,延爲賓師,廩人繼粟,其來大坂,舍其邸,而信宿
於君家,君虚懷容衆,不持門戸之見,凡當世名人,莫不徃來交通焉,少年輩示其著作,苟有
可觀者,則手寫而藏之,其愛才服善,天性也,是以人亦皆愛慕君焉,座客常滿,君善飲善吹
笛及篳篥,接人和易,然其中介然有所守,不可犯以非議也,嘗自題其肖像曰,貞不絶俗郭林
宗,和而不流柳下惠,不爲郷愿不爲甚,欲以平常了百歳,及歿門人探摘其語,私謚曰貞和
先生,可以盡君之性行矣,然猶不可無銘,但後生輩不敢贊一辭,乃又括櫽君平生持論,
以爲銘,曰,
試看天下讀書人有幾許,其名一郷一國者,又有幾許,至其著稱海内者,落々晨星,是孰非
我之黨與,繄文人之相輕,何執コ之偏也,人皆睊々胥讒,我獨由々胥安,於戲休哉,君之言
也,設心如斯,可不謂賢歟

                        伊勢 齋藤謙 撰
                        丹後 野田逸 題表
                        門人 呉 策 書

   安政二年歳次乙卯五月  孝子 槩 建

※(石田誠太郎『大阪人物誌』785ページの碑文写しに拠り、現物写真により一部訂正したものを訓読してみた。)

小竹篠崎先生の墓

嘉永四年、歳次辛亥五月八日、小竹先生篠崎君、疾を以て大阪尼崎坊の宅に終る、海内人士、識ると識らざると、傷み盡せざるはなし。
越えて七年、甲寅五月、嗣子公槩(篠崎竹陰)、君の行状を綴輯して、余に郵寄し、属するに碑文を以てす。
余の君に於けるは同門の後進にして、其文は君の輕重を爲すに足りず、且つ君の交友は天下に滿つ。誌銘の任、應に自(おのづ)から其の人有るべく、之を辭すこと一再。公槩、聴かず。余、乃ち狀(手紙)に據りて之を詮次して(順序だてて)曰く、

君の諱「弼」、字は「承弼」、「小竹」及び「畏堂」は其の別號なり。通稱「長左衛門」、義父の諱は「應道」、字は「安道」、號「三島」、蘐園(徂徠派)の學を以て大阪に下帷す。
本と生父、諱は某、號「吉翁」、加藤氏は豐後の人、醫を業とし大阪に寓す。君は其の仲子なり。天明元年辛丑四月十四日を以て、兩國坊の僑居に生まる。

幼くして頴異、讀書を好み、九歳、三島翁に從ひて業を受く。翁、其の岐嶷(堂々)たるを喜び、養ひ以て子と爲し、遂に篠崎氏を冒す。
數歳、家學を專修し、東西を薄游(質素に旅)し、徧ねく山水人物を訪ひ、才思、年と倶に長ず。翁、君に謂ひて曰く、
汝の才學すでに具はれり。乏しき所は識(識見)のみ、と。君、曰く、
學ぶ所は此の如くなるも、識は何に由りてか長ぜん。願はくは洛閩の書(朱子学)を讀み、以て境を進めんことを求めば、得る所あるに庶(ちかか)らんか、と。翁、之を可とす。

時に江都の學政一新し、精里古賀先生、鐸(木鐸)を執れり。君、再び東游して之に從はんと欲し、翁の許さざるを恐れ、而して敢へて面請せず、潜(ひそ)かに家を辭して去り、精里先生に從ふ。
翁、唯(ただ)に慍容(怒り)なきのみならず、且つ書を先生に寄せ、君を以て託すと爲す。先生、既にして(やがて)君の才を喜び、又た翁の故(友人)を以て、之を遇すること甚だ厚くす。既にして(やがて)先生、君に謂ひて曰く、
親老ひたり。何ぞ苦しみて遠游するかと。君、タ然(おののき)として感悟し、未だ半歳ならずして歸養す。其の父に代りてヘ授するに及び、諄々と經義を講じて倦むことあらず。曰く、
在り習ひ(習慣となり)、而して之に熟せり。苟も習ひ之に熟せば、則ち胸中自ら得る所あらんと。

又た謂ふ、宋以後の講學者、各發明する所あり。之を要するに朱子の完善なるごときはなき也。支離拘泥するは、則ち學者の過ちのみと。文詩を作すに甚しくは刻意せず、曰く、
「文は意を達するのみ、詩は志を言ふのみ(『論語』)」、何ぞ巧を弄して之を爲さんと。
然れども天才秀拔、語は自ら妙霊にして、一篇出づる毎に、人爭ひて傳誦す。

書法は元明の諸家を學びて唐に溯り、晩年自らの機軸を出だす。流麗雅健、兼ぬるにこれ有り。君の齒コ、既に(たか)く、書名また海内に噪がし。 是において一時、書を著はす者、必ず君の序跋を須(もと)め、而して後に開版す。詩を作る文者のごときは、必ず君の批評を需め、而してのち世に衒ふ。
人家の門楣の上、柱壁屏障の間、必ず君の揮染を得、而してのち以て光輝あると爲す、貴賤を論ずるなき也。
君は煩處劇しきに耐ふるの才有り、しかのみならず勤敏を以て八面に酬應し、綽々然として餘裕あり。門に客を停めることなく、必ず皆な面晤し、几に牘(てがみ)の滯ることなく、必ず皆な手づから答ふ。

晩(年)に腹痛を患ひ、之を久うして愈(い)えず、庚戌(嘉永3年)秋、余、西上して君を訪ふ。君大いに喜び、留めて十日の飲を作し、痛みを忍んで相欵す。詩ありて贈らるに曰く、
君の遙かに駕を命じ、我が未だ歸泉せざるに及べるを喜ぶと。余、之を讀みて愴然たり。遂に其の翌年を以て起たず。享年七十有一、天滿郷の天コ寺先塋の次に葬る。會葬者、殆(ほとんど)千人。

配は田中氏、三男を生むも皆な夭(わかじに)す。三女、長は處士後藤機(後藤松陰)に適(ゆ)き、季は濱田游士、奥邨克勤に嫁ぐ。
公槩、本と江戸の加藤氏の季子にして、初め侗庵古賀先生に學び從ひ、後に笈を負ひ來り君に從ふ。君、收め而して之を養ひ、配するに其の仲女を以てす。

君、人と爲り濶達灑落、躯幹長大、音吐は洪鐘の如く、低語(ささやき)を喜ばず。而して心は甚だ精細にして、事務に通達し、毫(すこ)しも書生の迂疎の習なし。
趙魏の老(大国の臣)、滕薛の大夫(小国の執事)皆な之を爲すに優なるべけれど(『論語』)、然れども平生仕官を欲せず。其の言に曰く、
吾邦の君臣の道は甚だ嚴にして、一たび委質(初仕官)すれば則ち身は束縛を受け、旅進旅退、言ふも能く意を盡さず、我に於いて損あり。而して彼に於いて益なし。
賓師と爲りて進退は己れに任せ、直言讜議(正論)して、顧慮する所なきにしかざる也。
諸侯の大阪を鎮戌する者(蔵屋敷詰めの者)、多く君を聘して師と爲す。最も知を安中(藩)の節山公(板倉勝明)に受く。公、すでに歸藩して郵筒徃來斷えず。
阿波の巨室(家老)稻田氏、甚だ相ひ信敬して、延いて賓師と爲す。廩人(倉庫番)に粟を繼ぎ(賓師への謝礼法:『孟子』)、其の大坂へ來るや、其の邸を舍とし、君の家に信宿(連泊)す。

君、虚懷にして衆を容れ、門戸の見を持たず。凡そ當世の名人にして、徃來交通せざるはなし。少年輩の其の著作を示して、苟くも觀るべき有る者ならば、則ち手づから寫して之を藏す。
其の才を愛し、善に服(したが)ふは天性なり。是を以て人また皆な君を愛慕す。座客常に滿ち、君善く飲み、善く笛及び篳篥を吹く。
人に接するに和易(なごやか)にして、然れども其の中に介然として(堅く)守る所あり。非議(悪口)を以て犯すべからざる也。嘗て自ら其の肖像に題して曰く、
貞にして俗を絶たざる郭林宗、和して流れざる柳下惠、郷愿(偽善者:『論語』)と爲らず、甚(はなはだ)しきを爲さず、平常を以て百歳を了らんと欲す。

歿するに及んで門人其の語を探り摘んで、私(ひそ)かに謚(送り名)して曰く、貞和先生と。以て君の性行を盡すべきか。然れども猶ほ銘の無きを不可とす。
但(しか)し後生の輩、敢て一辭も贊せず、乃ちまた君の平生持論を括櫽して(かついん:ため直して)、以て銘と爲して曰く、

試みに看よ、天下の讀書人、幾許か有る。其れ一郷一國に名ある者、また幾許か有る。其の著の海内に稱せらる者に至っては、落々たる晨星たり。
是れ孰(なん)ぞ我の黨與(仲間)に非ざる。繄(ああ)文人の相ひ輕んじ、何ぞコの偏れるを執るや、人皆な睊々(虎視眈眈)として胥ひ讒(そし)り、我れ獨り由々(満足)と胥ひ安んず。於戲(ああ)休(さいはひ:幸)かな。
君の言や、心を設くること斯の如し、賢と謂はざるべけんや。

                  伊勢 齋藤謙(齋藤拙堂) 撰す。
                  丹後 野田逸(野田笛浦) 題表
                  門人 呉 策(呉北渚) 書す。

   安政二年歳次乙卯五月  孝子 槩(篠崎竹陰) 建つる。

 

配田中氏の墓碑背面。および剥がれ落ちた碑面。

 

篠崎三島 しのざき さんとう  (1737 元文 2年 〜 1813 文化10年10月30日)夫妻の墓

これは篠崎小竹の隣にあった、赤石松宇(1818 文政元年3月17日 〜 1878 明治11年3月18日)の墓碑。
※(「奇人を以て称せられた」といふ。残ってゐた文面に哀れを催されたので控へてきて調べた。石田誠太郎『大阪人物誌』続編 391ページ)。

松宇先生墓

余,名必,字不奪,號松宇,家世稱赤石,不審其系
所由,盖出於播磨赤石,仕故因幡國主池田先
公也,以文政紀元三月十七日生於鳥取,成童
而多病,不交人事,讀書不能深解,好探名勝古
跡,交高人韻士,以有老母不欲遠離家,一遊江
戸,又經歷山陽南海之諸州,萬延紀元五月,寓
浪華,業雕蠱小技,業亦不酷巧,資性踈慵,不能
有益于世,居常羞醉生夢死耳
 右先生所自誌,未碑而歿,在明治十一年
 三月十八日,享年六十一,無子,友人宮原海
 宇,買石碑之,武藤鐵齋既葬祭之,乞余書之,
 遂自刻之,其尊師之誼至哉 村田壽篆額 友人藤澤恒(南岳)撰

余、赤石氏、名は必、字は不奪、松宇と号す。家は世々赤石を稱すも、其の系を審かにせず。由る所けだし播磨赤石に出で、故因幡國主池田先公に仕ふる也。文政紀元三月十七日を以て鳥取に生まる。成童にして多病、人事と交らず。讀書するも深く解する能はず、好んで名勝古蹟を探り、高人韻士と遊ぶ。老母有るを以て家を遠く離るを欲せずも、一たび江戸に遊び、また山陽南海の諸州を経歴し、萬延紀元五月、浪華に寓す。雕蟲の小技を業とするも、亦た酷(はなはだ)しくは巧くせず。資性踈慵、世に益ある能はず、居るに常に酔生夢死を愧づるのみ。

 右、先生自から誌す所、未だ碑ならずして歿す。明治十一年三月十八日に在り、享年六十一。子無く、友人宮原海宇、石を買ひ之を碑にし、武藤鐵齋、既にして之を葬祭し、余に之を書するを乞ふ。遂に自ら之を刻すれば、其れ尊師の誼、至れる哉。村田壽、篆額し、友人藤澤恒(南岳)撰す。


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