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村瀬藤城・後藤松陰 選 『清百家絶句』


『清百家絶句』 (しんひゃっかぜっく)

1815 文化12年,村瀬藤城,後藤松陰/共編著
風月庄左衛門版,和綴 22.0×15.0cm 全3冊
【上】序:2丁(頼山陽)/ 例:2丁 / 上:32丁    【中】中:22丁  【下】下:23丁

村瀬藤城25才、後藤松陰19才時の処女出版、聖霊派の範となった同時代の清の詩篇を撰したもの。
序文の山陽が既にその境を卒業し、後進に不満の意を述べてゐるところがをかしい。

本文画像 : (早稲田大学古 典籍総合データベースより)



二三従遊、輯清人絶句
相示。余擲其巻。戯曰、咄、辮
髪虜所為。安足取哉。子等
枉費精力耳。既而自咲曰、
我輩開口、輒曰、唐曰宋其

所自撰曾不能髣髴西土
黄口小児。猶夫日臨摸蘭亭。而
不及蘇杭舶商俗書。故凡藝
事皆欲自高処着眼。自低処
下手。蓋低則易攀耳。則辮
髪之詩、亦学唐宋搢紳之

階也。遂取而一閲、略刪其
繁蕪以与之。

 文化乙亥孟冬山陽外史 頼襄 題


二三の従遊(子)、清人の絶句を輯めて相示せり。余、其の巻を擲ちて、戯れに曰く、
「咄(※舌打ちの音)、辮髪(※清朝)の虜の為す所、安んぞ取るに足らんや。子等、精力を枉費するのみ」と。既にして自ら咲(わら)ひて曰く、
「我輩、口を開けば輒ち唐と曰ひ宋と曰ひ其の自ら撰ぶ所、曽(かつ)て西土の黄口小児を髣髴する能はず。
 猶ほ夫れ日(日々に)「蘭亭(序)」を臨摸するがごとし。而して蘇(州)杭(州)の舶商俗書に及ばざりき」と。
故に凡そ芸事は皆な高処より着眼し低処より手を下さんと欲す。蓋し低ければ則ち攀じるに易からんのみ。
則ち辮髪の詩も、また唐宋搢紳を学ぶの階ならん。遂に取りて一閲、略ぼ其の繁蕪を刪りて以て之に与ふ。

 文化乙亥孟冬山陽外史 頼襄 題



清百家絶句 例
一 清詩を選する者、尠からず。概して彼方の一書に就きて抄録す。故に或は康熙に止まり或は乾隆に畫(かく)す。僅かに一斑を見るのみ。今、頗る諸ろの總集別集を蒐め、其の七言斷句を取り、畧ぼ四朝の詩人を具列(ならべる)す。敢へて全豹と曰くに非ざる、然れども明亡以還(以後)の詩體の蔚變(盛んな変化)、庶幾ふ、一覽して窺ふべし。
一 我輩は僻郷の寒生にして素より收貯に乏し。舶来諸集多く其の名を聞くも未だ見るを得ず。即ち一瓻(代を払って)人に乞ふも、亦た悋んで肯へて示されず。自ら遺漏多きを知多る。後來ね當に見聞する所に隨ひて續いて之を補へ。
一 寡陋の採る所、其れ他の撰と、必ずや復冗有らん。然るに此れ寡陋の我輩の若き者に便するのみ。大方の博雅は何ぞ此を須ひんや。「遼豕の誚(井の中の蛙)」固より辭せざる所なり。
一 大家と雖も未だ其の集を見ざる者は畧せり。大家に非ざると雖も其の集を見し者は詳しくす。詳畧の際、頗る不倫(不法)多きも觀者これを恕察せよ。
一 卷分けて三と為す。上卷首めに順康の諸大家を列ぶ。其の餘は大抵篇什を得て多き者、之を上卷に收む。否なる者は次卷終卷に置けり。汪鈍翁(汪琬)の前に在り其の父元御(汪膺)の後に在るが如き、(また)黎士宏の「閩酒曲」はもと周櫟園(周元亮)の「閩茶曲」に俲ふに黎は上卷(31丁)に在り周は次卷(3丁)に在るが如き、皆然り。李笠翁の如き、品流大家に列ぶべからざるも、亦た其の詩多く得て之を上卷に置けり。凡そ順治より乾隆に至る、其の間の人物互ひに錯出して見ゆ。年代の先後は必ずしも次第ならず。
一 各人名の下に字、號、爵、里を注す。未だ其の詳しく知らざる者は闕如す。詩話隨筆中に見る所、或は但だ其の號を呼びて姓名を挙げざる者、一に其の旧に仍れり。體例齟齬はやむを得ざるに出る。又た乾隆初年の人の其の官の後(のち)に貴くなる者、盡くは詳悉し難し。今しばらく本書の挙げる所によりて止む。要は其の詩を取りて其の人を傳ふるにあらざる也。
一 沈氏(沈徳潜)の別裁集に采る者は臺閣邉塞の體を遺す。袁氏(袁枚)の詩話に收める者は香奩竹枝の類を畧す。皆な其の偏する所を避け其の中(中庸)を取る也。他の諸集に至るも亦た此の意に俲へり。既に輯采してョ先生に就き其の簡裁せるを取る。先生淘汰するに十に二三を存すれば精華畢呈す。然るに原本、猶ほ遺珠有り。是れ我輩の罔象ならざるのみ(意味不詳)。
一 呉梅村(呉偉業)の「讀史偶述」(上巻4丁)は盖し崇禎帝を悼む者なり。署題此の如く忌諱を避ける也。他に此に類する者、頗る多く我が國に在るも、何の畏避する所あらん。則ち改署するを妨げず、姑らく其の旧に仍る。觀者自ら之を會せよ。
一 集中、或は明の遺老を載す。皆な節を守り、仕へざる者は之を清人の間に置く。其れ地下に慊然(欝欝)たるを知るべし。今、原本に仍りて名の下に懃々として之を注す。先生、平生人に教ふるに節義を以てす。先の為に、瑣々たる小冊と雖も敢へて忽がせにせざる也。
一 乾隆の三家、獨り蒋蔵園(蔣士銓)を取りて袁倉山(袁枚)、趙雲松(趙耘ッ:趙翼)に及ばず。他日両家の全集を見て、當に之を續編に收べし。

清百家絶句 例
一 選清詩者匪尠。概就彼方一書抄録。故或止康熙或畫乾隆。僅見一斑耳。今頗蒐諸總集別集、取其七言斷句畧具列四朝詩人。非敢曰全豹、然明亡以還詩體蔚變庶幾一覽可窺焉。
一 我輩僻郷寒生、素乏收貯。舶来諸集多聞其名、而未得見。即一瓻乞人、亦悋不肯示。自知多遺漏。後來當隨所見聞續而補之。
一 寡陋之所採、其與他撰、必有復冗。然此便於寡陋若我輩者耳。大方博雅何須乎此。遼豕之誚固所不辭
一 雖大家未見其集者畧焉。雖非大家見其集者詳焉。詳畧之際、頗多不倫觀者恕察之。
一 卷分為三。上卷首列順康諸大家。其餘大抵得篇什多者收之上卷。否者置次卷終卷。如汪鈍翁在前、而其父元御在後、黎士宏閩酒曲本俲周櫟園閩茶 曲、而黎在上卷、周在次卷、皆然。如李笠翁、品流不可列大家、亦得其詩多置之上卷。凡順治至乾隆、其間人物互見錯出。年代先後不必次第。
一 各人名下注字號爵里。未知其詳者闕如。詩話隨筆中所見、或但呼其號不挙姓名者、一仍其舊。體例齟齬出不得已。又乾隆初年人、其官後貴者難盡詳悉。今且從本書所挙而止。要取其詩非傳其人也。
一 采於沈氏別裁集者、遺臺閣邉塞之體。收於袁氏詩話者、畧香奩竹枝之類。皆避其所偏、而取其中也。至他諸集、亦俲此意。既輯采就ョ先生取其簡裁。先生淘汰十存二三、精華畢呈。然原本猶有遺珠。是我輩之不罔象耳。
一 呉梅村讀史偶述、盖悼崇禎帝者。署題如此避忌諱也。他類此者、頗多在我國、何所畏避。則不妨改署、姑仍其舊。觀者自會之。
一 集中或載明遺老。皆守節、不仕者置之清人間。其慊然於地下可知。今仍原本、而名下懃々注之。先生平生教人、以節義。為先雖瑣々小冊、不敢忽也。
一 乾隆三家、獨取蒋蔵園。而不及袁倉山趙雲松。他日見両家全集、當收之續編。

(奥付)


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