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『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本について 《資料紹介》

2019年12月江戸風雅の会発行『江戸風雅』20号所載

 江戸時代のベストセラーである、頼山陽(1780-1832)の詩集『山陽詩鈔』。
 このたび、その出版・校正を一任された弟子の後藤松陰(1797-1864)名は機、字は世張、美濃安八郡の人)による書き入れ本が発見され、 その書き入れを元に板木の修正が行われたことが確認された。
 よって修正後の版本との異同を、書き入れられた部分に就いて掲げ、そこから窺われることも一緒に記し、頼山陽研究のための書誌資料として供することとした。※01

   ★

 『山陽詩鈔』は現在、日本古典籍総合目録データベースで検索される版本のうち、「天保三年」という一番古い刊記を持つ四冊(八巻)本が確認され、うち国文学研究資料館、岐阜大学図書館に所蔵するものは、画像もインターネット上に公開されている。(※02国文学研究資料館所蔵本 岐阜大学図書館所蔵本)
 これを岐阜大学図書館にて実見したところ、見返しには「天保癸巳(四年)新鐫 書林五玉堂蔵」とあるのに、奥付の年月は確かに「天保三年歳次壬辰夏四月刻成」となっていた。※03
 頼山陽が亡くなったのは、天保三年九月二十三日である。
 評伝『頼山陽とその時代』のなかで中村真一郎は、「歿前十二日の夕方に、雨のなかを大阪から届けられた」篠崎小竹の序文を喜んで読み、識語を書き入れたものの、「毎日苛いらしながら待っていた校正刷」につ
いては、「とうとう見れないままで死んで行った山陽に同情を禁じ得ない。」と記している(単行本577p)。この奥付の日付をそのまま信ずるなら、病床にあった山陽は、本文の刷り上がりを、せめても手にすることができたことになろう。
 しかしこの版本には、山陽没後天保三年十月の日付を持つ篠崎小竹の「序」が付いており、すでに矛盾を呈している。本文も、広く出回っている「発兌版」(奥付年月を「天保四年歳癸巳三月発兌」とする四冊八巻本※04国文学研究資料館  同(鵜飼文庫))と同じ版木で刷られている。
 和本の世界では、刊記の年がそのまま印刷された年であるとは限らない。殊にベストセラーともなると、摺り版の見極めは難しい。

 このたび発見された『山陽詩鈔』は、見返しを「天保癸巳(四年)新鐫 書林五玉堂蔵」とし、奥付の刊記も同じく「天保四年歳癸巳三月発兌」とする四冊八巻の揃い本である。(25.7cm×18.0cm一、二冊目の原題簽は剥れており、手書きのものが貼られている。)

 

『山陽詩鈔』後藤松陰手澤本   PDF(57.9mb)

 しかし内容を閲するに、「発兌版」の原型といえる版本で、すでに『詩集日本漢詩』第十巻(富士川英郎編・昭和六十一年汲古書院刊)のなかに影印が掲げられた「長沢規矩也旧蔵本」と全く同一のものであることが判った。(※05内閣文庫本)
 ただし本文の鼇頭に、校閲者である後藤松陰自身のものと思われる、詩篇の字句に関する指摘が十二ヶ所、朱筆細書で施されている。うち八ヶ所において、その指摘に従った版木の修正が施され、字句の変更がなされたことが、その後刷られた多くの「発兌版」との比較から確認された。
 以下に、朱筆が施された詩篇のすべてを順番に書きだして、修正後の版本(岐阜大学図書館所蔵本)の異同とともに画像を掲げてみた。

〇「詠史 其二」(巻一、五丁オ)

 詠史 其二
復讎九世亦徒為
業就磨崖未勒碑
袞職豈無周仲甫
簧言獨患晉驪姬
蠶叢半璧開天日
劍璽三朝離國時
不憾陳生謬順逆
蠅(「䵷」と訂正)夙有彥威知 彥威習鑿歯字

 詠史 其二
復讎九世、亦た徒為(とい)(後鳥羽院に溯る武家政治への復讎はむだとなった)
業は就るも、磨崖、未だ碑を勒(きざ)まず
袞職、豈に周の仲甫無からんや(後醍醐天皇に賢臣の補佐はあった謂)
簧言(讒言)獨り患ふ、晋の驪姬を(牝鶏たる阿野廉子を諷す)
蠶叢の半璧、天を開く日(南北半々の吉野朝に比す)
劍璽(神器)三朝、國を離るる時(南朝三代を指す)
憾みず、陳生の順逆を謬れるを(その後の歴史書の姿勢を諷す)
は、夙に彦威の知る有り。   彦威は習鑿歯(正統を説いた歴史家)の字(あざな)なり。

 松陰は朱筆で「紫」と訂正。「紫」 では故事「紫 色䵷[蛙]声:不正な歴史の謂」※06の意味をなさないと指摘している。しかし後の版本において、また後藤松陰の評註を増して公刊された明治十六年版『評 註山陽詩鈔』※07においても、文字は直されていない。ただし日柳燕石が註した『山陽詩註』(富岡鉄齋増校、明治二年梓行)では、 「「蠅」は「䵷」の誤字なり。」と指摘されているので、読書人の間では既知の誤植であったようである。

〇「始寓廉塾」(巻一-七丁ウ)
 
 始寓廉塾
誰道功名與志違
蕭然行李入黄薇
好爵難靡蒲柳質
閑身學製薛蘿衣
南郡青衿新麗澤
山白雪舊恩輝
獨有庭闈最關意
夕陽凝望斷雲飛
鼇頭:「机云下青恐西誤」

 始めて廉塾に寓す
誰か道はん、功名と志と違ふと
蕭然として行李、黄薇[吉備の国]に入る
好爵も靡かせ難し、[私の様な]蒲柳の質を
閑身は製するを學ぶ、薛蘿の衣[隠者の身なり]を
南郡の青衿と、新たなる麗澤[学友の裨益]と
山の白雪に、舊恩[芸藩藩主の恩]は輝く
獨り庭闈[父母の事]の、最も意に關する有りて
夕陽、凝望すれば、斷雲は飛べり
鼇頭:「机云ふ、下の「青」は恐らく「西」の誤りなり。」

 「机云…」は「機云…」(「机」は「機:後藤松陰の諱」の異体字)。
 のちの版本では「南郡青衿」の対句表現「西山白雪」となるよう、「青」が「西」に直されているのだが、一見して板木を直した痕が判る。
 日柳燕石の『評註山陽詩鈔』においても、「「西」は一に「青」と作るも非なり」と頭註されているが、校正者の松陰が「恐らく」と記したのは、これが原稿のまま刷られたことを示している。

〇「元日」巻一-十丁ウ)

 元日
九街雞瑞氛新
簪笏朝正簇紫宸
誰識席門高臥士
木棉衾裡亦生春
鼇頭:「(茶山云)不如新尹東來一絕」
鼇頭:「鳴當作唱」

 元日
九街、雞き、瑞氛(ずいふん)新たなり
簪笏、正に朝して(参内して)紫宸に簇る
誰か識らん、席門(貧家)の高臥の士
木棉の衾裡にも、亦た春を生ず
鼇頭:「(茶山云ふ。)「新尹東來」の一絶に如かず。」
鼇頭:「「鳴」は當に「唱」と作るべし。」

 のちの版本において「鳴:平声」は「唱:仄声」に直されており、松陰の言葉は、明治版『評註山陽詩鈔』頭註において、「唱一作鳴、非(「唱」は一に「鳴」と作るも非なり)」と記されている。

 さて、これは前年(閏二月)に廉塾を去って京で初めて迎えた元日の詩である。版本に反映された菅茶山の頭評には、「新尹東來の一絶には及ばない」とあるが、それを踏まえて次に表れる朱筆をみてみたい。

〇「雑詩」(巻二-七丁ウ)

 雑詩
新尹東來舊尹還
過門車馬日喧闐
諸公鞅掌勤王事
成就吾儕企足
鼇頭:「(茶山云)本色語可壓此巻。」
鼇頭:「机云企足原作高枕似優」

 雑詩
新尹東來して舊尹還る(京都所司代交代の謂)
門を過る車馬、日に喧(かしまし)く闐(みち)る
諸公は鞅掌して王事を勤(いそし)む
成就せん、吾儕(我輩)は企足して眠る
鼇頭:「(茶山云ふ。)本色の語、此の巻を壓すべし。」
鼇頭:「机云ふ、「企足」は原と「高枕」と作して優の似(ごと)し。」

 この朱筆、のちの版本には反映されていないが、明治版『評註山陽詩鈔』の頭註において初めて「翁、企足、本作高枕似優」と記されている。同書にはまた「『世説新語』容止部に云ふ、桓大司馬(桓温)曰く、謝仁祖(謝尚)北窓の下に企脚して琵琶を弾くは、自ら天際眞人の想ひ有る故なり。」との説明も追記されている。
 ところで松陰の朱筆が、詩篇「元日」から、頭評で菅茶山が誉めていたこの詩へと飛んでいるのは偶然だろうか。というのも、茶山が「本色(本音)の語」と呼んだのは、まさに松陰が指摘した「企足」という語に係ることであると思われるからである。
 この詩では、廉塾を逃げ出した山陽が、京に出たものの一向にうだつのあがらぬなか、諸公が勤皇のために働いてくれるお蔭で「企足して(脚を伸ばして)眠れます」との感謝の辞を述べており、 さきの「元日」の詩で「高臥の士」とうそぶいてみせたのと同様、仕官など意になく、清貧を気取る詩であったことを示している。
 菅茶山はそれをからかうつもりで、「元日」の詩との優劣を言い、「企足」という言葉をあざけってほめたのであろうか。さらに後藤松陰が明かすに、 この「企足」という耳遠い言葉も、当初は「高枕(枕を高くして寝られる)」という分かりやすいものであって、その方が良かった(似優)と、わざわざ言挙げているのである。
 さきの頭評と合せて、茶山の山陽に対する複雑な思いが窺われる個所であるとともに、茶山にとっては孫弟子にあたる後藤松陰の指摘にも、二者の関係を時を経て懐かしむ眼差しを感じさせる。

〇「到鄉從杏翁遊其山園翁管郡務多治績」(巻三-二丁オ)

 到鄉從杏坪翁遊其山園翁管郡務多治績
連鋤强梗稱神明
四郡何不底平
却是家園無暇理
賤蓬惡竹滿階生
鼇頭:「机云處恐邉」

 郷に到り杏坪翁に從ひ、其の山園に遊ぶ。翁、郡務を管して治績多し
連りに強梗(剛直)を鋤して、神明と稱さる
四郡の何れか、底平ならざらん
却って是れ家園、理むる暇無し
賤蓬惡竹、階に滿ちて生ふる
鼇頭:「机云ふ、「處」は恐らく「邉」。」

 のちの版本において「處:仄声」は「邉:平声」に直されているが、「恐らく」とあるのは、これが彫り間違いではないことを示している。
 また明治版『評註山陽詩鈔』には「松陰先生曰く“是の時、機また陪遊す。山園の屏障(ついたて)は、皆な白紙にて之を糊し、作有るものは直ちに就いて録す”。」という、増校にあたった同郷の弟子牧百峰によるものと思われる頭註も追加されている。

〇「到長崎」(巻三-八丁ウ)

 到長崎
一分是海二分山
夾海山爲碧玦灣
官樓蠻館家萬戶
高低山色海光間
鼇頭:「机云官楼蛮館當倒置」

 到長崎
一分は是れ海、二分は山
海を夾む山は、碧玦(へきけつ:C状の玉)の灣と爲す
官樓、蠻館、家萬戶
高低山色、海光の間
鼇頭:「机云ふ、「官楼」と「蛮館」と當に倒置すべし。」

 平仄に基づいて直されたか、のちの版本では「蠻館官樓」に変更されている。

〇「荷蘭船行」(巻三-九丁ウ)

 荷蘭船行
碕港西南天水交
忽見空際點秋毫
望樓烽火一怒嗥
二十五堡弓脫弢
街聲如沸四喧嘈
説是西洋來紅毛
飛舸狌迓聞鼓鼛
兩揚信旗防濫叨
船入港來如巨鼇
水淺船大動欲膠
舟連珠纍幾艘
牽之而進聲謷謷
蠻船出水百尺高
海風浙浙颭罽旌
三帆樹桅施萬絛
設機伸縮如桔槔
漆K蠻奴捷於猱
升桅理條手爬搔
下碇满船齊嗷咷
疊發巨礮聲勢豪
蠻情難測廟諜勞
兵營猶不徹豹韜
嗚呼小醜何煩憂目蒿
萬里逐利在貪饕
可憐一葉凌黥濤
譬如浮蟻慕羶臊
毋乃割雞費牛刀
毋乃瓊瑤換木桃
鼇頭:「宮當作官」

 荷蘭船行
碕港の西南、天水交はる
忽ち見る、空際、秋毫(微かなもの)を點ずるを
望樓の烽火、一たび怒嗥
二十五堡、弓、弢(とう:弓袋)を脫す
街聲、沸くが如く四(よも)に喧嘈
説く是れ、西洋より紅毛來ると
飛舸、狌(ゆ)き迓(むか)へ鼓鼛(ここう:大太鼓)を聞く
兩つながら信旗を揚げて濫叨(らんとう)を防ぐ
船、港に入り來ること巨鼇(きょごう)の如し
水淺く船大にして動(やや)もすれば膠せんと欲す(海底に着きそうだ)
舟連珠、幾艘を累ね
之を牽いて進む、聲謷々(ごうごう)たり
蠻船、水を出づること百尺の高
海風浙浙として罽旌(けいぼう:織物の旗)を颭(ひるが)えす
三帆、桅(ほばしら)に樹てて萬絛(とう:紐綱)を施し
機を設けて伸縮するは桔槔(はねつるべ)の如し
漆Kの蠻奴は猱(猿)より捷く
桅に升(のぼ)りて條を理(おさ)めるに手もて爬搔す
碇を下して满船、齊しく嗷咷(きょうとう:叫)し
巨礮(大砲)を疊發して聲勢、豪なり
蠻情、測り難く、廟諜(政府の対策)勞し
兵營なほ豹韜(守備)を徹せず
嗚呼(しかしそんなものは)小醜、何ぞ煩さん憂目の蒿(国事の憂慮)を
萬里、利を逐ふは貪饕(たんとう:欲目)に在り
憐むべし、一葉(一艘)にて鯨濤を凌げるを
譬へば浮蟻の羶臊(なまぐさ肉)を慕ふが如し
乃はち「雞を割くに牛刀を費す」なからんや(小事を事々しく裁する必要があろうか)
乃はち「瓊瑤を木桃に換ふる」なからんや(また厚遇する必要もあろうか)
鼇頭:「「宮」は當に「官」と作るべし。」

 これは彫り誤りであった可能性が高いだろう。のちの版本をみると、削られた画(かく)が修復されているのがわかる。


〇「再入肥後」(巻四-十一丁オ)

 再入肥後
改轅思北上
留橐又東肥
山沸硫黃氣
水生紫衣
既冬蛇未蟄
多稼鶴群飛
旅館多灰酒
誰能不憶歸
鼇頭:「机云苦當作苔」

 再び肥後に入る
轅を改めて(行先変更して)北上を思ふ
橐を留む(滞在)る、又た東肥(肥後)。
山は沸く、硫黄の氣
水は生ず、紫の衣
既に冬なるも蛇は未だ蟄せず
多稼(豊穣)、鶴は群れて飛ぶ
旅館、灰酒多し
誰か能く歸るを憶はざらん
鼇頭:「机云ふ、「苦」は當に「苔」と作るべし。」

 これも彫り誤りならば、校正時の見落としである。のちの版本で直されている。

〇「得家書」(巻四-十六丁ウ)

 得家書
剔燈檠
縷縷如聞絮語聲
要識各天相憶處
半秋細報月陰晴
鼇頭:「机云展恐披誤書恐信誤」


 得家書
獨り家げて燈檠 を剔(き)る。
縷縷、聞く如し絮語の聲を
識らんと要す、各天に相ひ憶ふ處
半秋(八月:仲秋)、細かに報ず、月の陰晴を
鼇頭:「机云ふ、「展」は恐らく「披」の誤り。「書」は恐らく「信」の誤り。」

 平仄の変更を試みたものか。のちの版本には採用されなかったが、明治版『評註山陽詩鈔』頭註において、「松陰先生曰く、「展」は「披」の誤り。 「書」は「信」の誤り。」と写しとられている。


〇「芳山」(巻五-一丁ウ)

 芳山
花蹊無處著啼鼯
寺寺樓臺閙戲娛
杉檜參天春日K
荒陵誰弔後醍醐
鼇頭:「机云後字當欠二字今失之」

 芳山(吉野山)
花蹊、處として啼鼯の著(あらは)る無く
寺寺樓臺、戲娯閙(さはが)し
杉檜の天に參(まじ)わりて、春日Kし
荒陵、誰か弔ふ  後醍醐
鼇頭:「机云ふ、「後」字は當に二字を欠くべきに今これを失す。」


 のちの版本では、天皇に対する闕字が施されており、詩稿の不備なのか、校正漏れであったかは不明。日柳燕石の『評註山陽詩鈔』では、この詩は、 不敬と判断されたのか削られている。

〇「過廉塾」(巻八-二十一丁ウ)
 過廉塾
荷枯鴨相逐
菊老蝶猶翻
国ク酒
寒燈黃葉村
吾曹更誰望
父執有君存
臨別無佗語
加餐度旦昏
鼇頭:「机云上語恐話誤」

 廉塾を過ぐ
荷枯れて、鴨、相ひ逐ふ
菊老いて、蝶、猶ほ翻る
、高フ尊(樽)酒(緑酒:上等酒)
寒燈、黄葉村(黄葉村舎:廉塾)
吾曹(われら)、更に誰か望まん
父執(父の友)、君の存する有り
別れに臨んで佗語無く
加餐して旦昏を度(わた)らせん
鼇頭:「机云ふ。上の「語」は恐らく「話」の誤り。」

 のちの版本では「夜語」は「夜話」の誤記として直されている。

 さて、ここであらためて言うと、冒頭に示した「天保三年歳次壬辰夏四月刻成」版もまた、上記個所が改められているということである。「天保三年四月」はやはり誤りである訳だが、干支まで入れていることから単なる書き間違いではなく、何ゆえの成心(理由)があって、山陽生前の刊記が存在することになったのか、今後の謎として残ることになった。

 一応、板木がどうなっているかも検べた。するとほとんどの版本において、第一巻の巻頭「後藤機校」の行の罫線が、下部の両側で少し途切れていることが判明した。うち右側の罫線が途切れていない版本が、現時点で確認できる一番古い板木によって刷られたもののようである。左右の罫線が完美なものは確認されていない。

   ★

 本文の最後に置かれた「後叙」末尾の鼇頭にも朱筆で細書がある。
【後叙】
ョ先生之詩、品格如何。曰。昔人云、古者有詩、而無詩人。今也有詩人、而無詩。能詳此意、而後、先生之詩可與評也。夫所謂無詩者、非無詩也。無眞詩也。古之詩發乎情、而法存乎其中。今之詩作乎法、而情則無矣。情旣亡矣。謂之無詩。亦何不可。今之非詩人、而有詩者、唯先生爲然。先生志氣忼 慨、而性强記該博。无所不窺。尤留心史學與經濟。其中夜讀書。苟遇事涉忠孝節義者、雖或醉而臥、輒竦然起坐。歛襟朗誦。鐘鳴漏盡不省也。
至韻語則特其緒餘而已。未嘗檢類書搜韻書。蓋其抱負之大。而源本之深。溢而爲近體小詩、爲長篇巨作。乃天機之発、而人情之不可已者。是其詩之所以爲眞而超出世之所謂詩人也歟。
故先生之詩、率然讀之。有若澹泊無味者、有若[聱]牙不可解者、然皆相題行文。隨物賦形、寓天倫於風月、而寄人事於比興。讀者一踐其境歷其事、則知向之[聱]牙者皆平易。而澹泊者皆滋味也。是西土名公所有、而我 朝諸賢所或少也。能詳此意者、而後先生之詩可與評也。會書賈某請刻先生詩。爲抄數卷而與之。且附其語於後云爾。
門人美濃後藤機謹題於浪華之松陰亭之南窓。
鼇頭:「抄数巻三字原作借其手抄校云々 先師改之如此  機白」

【後叙】
ョ先生の詩、品格は如何。曰く。昔人云ふ「古は詩有りて詩人なし。今や詩人有りて詩なし」と。能く此の意を詳らかにしてのち、先生の詩を與(とも)に評すべき也。
夫れ所謂「詩なし」とは、詩なきには非ざる也。眞の詩が無きと也。古の詩は情より發して法はその中に存す。今の詩は法より作して情は則ち無し。情は既に亡きなり。
之を「詩なし」と謂ふ。また何ぞ不可ならんや。今の、詩人に非ずして詩有る者は、唯だ先生のみをして然りとなさん。
先生、志氣忼慨。而して性は強記該博、窺はざる所なし。尤も心を史學と經濟とに留む。其の中夜に讀書して、苟くも事の忠孝節義に渉る者に遇はば、 或ひは醉ひ臥すといへども、輒ち竦然として起坐し、襟を歛めて朗誦して、鐘鳴り漏盡くるとも省みざる也。
韻語に至りては則ち特(ただ)其の緒餘のみ。未だ嘗て類書を檢せず韻書を搜さず。蓋し其の抱負の大にして源本の深き、溢れて近體小詩と爲り、長篇巨作と爲る。
乃ち、天機(天才)の発、而して人情の已むべからざる者、是れその詩の以て眞と為し、而して世のいはゆる詩人に超出する所以なり。
故に先生の詩、率然として之を讀めば、澹泊にして味なきがごときもの有り、聱牙にして解すべからざるがごときもの有り。然るに皆な題に相じて文を行ふ。物に隨いて形を賦し、天倫を風月に寓し、而して人事を比興に寄す。
讀者一たび其の境を踐み其の事を歴すれば、則ち、さきの[聱]牙は皆な平易にして、澹泊なるは皆な滋味なるを知るなり。是れ西土の名公の有する所、而して我朝の諸賢の或ひは少なき所なり。能くこの意を詳かにする者にして、而るのちに先生の詩を與(とも)に評すべき也。たまたま書賈某、先生の詩を刻するを請ふ。ために數卷を抄してこれを與ふ。且つその語を後に附すと爾(しか)云ふ。
 門人、美濃の後藤機、謹しんで浪華の松陰亭の南窓にて題す。
鼇頭:「「數卷を抄す」の三字は、もと“其の手を借りて校を抄す云々”に作る。先師これを此の如く改む。機白[もう]す。」

 すなわち、遺された書翰のなかでふれられているように、加筆と識語とが施された篠崎小竹の「序」と同様、小竹の女婿となった後藤松陰による「後叙」もまた、病床の山陽により目が通され、「云々」以下、冗長に記されていた部分が削られ「抄數卷」の三文字に省略されたことが判る。親友小竹の「序」は、山陽の手が入ったことをそのまま示すような形で公刊されたが、弟子である自分の「後叙」が書き直されたことについては、覚えとして直接、本に書き置くにとどめたのである。

「(前略) 尚々、世張(松陰の字)拙集序、其後ツツキ直し候、如何。」(天保三年九月十一日 篠崎小竹・後藤松陰宛書簡 『頼山陽書翰集』下巻 505p)

   ★

 しかし後藤松陰は、『山陽詩鈔』校正の責任者本人である。なぜ原稿を梓に上す段階でこれらの字を改めなかったのだろうか。
 「手澤本」の巻末に置かれた「後叙」裏の空き丁(頁)には、「校山陽詩鈔刻成題其後」という後藤松陰自身による「題詩(後述)」が墨書きされている。

(※短く改められた同名の詩篇が、嘉永2年版の詞華集『摂西六家詩鈔』(巻4: 松陰餘事)に収められている。)


 校山陽詩鈔刻成題其後
詩抄鐫成人已仙
焚香先奠玉楼魂
菲才甘受陰陶誚

大匠何用字句論
筆底萬珠持世道
腰間一剣報君恩
髯蘇風節誰能続
整頓全篇過邁存
此翁風節誰能続
回首京城泪眼昏
   後藤機


 『山陽詩鈔』を校し刻成して其後に題す
詩抄鐫成して人すでに仙
焚香、先づ奠す玉楼の魂
菲才は甘受す、陰陶[誤字]の誚りを
大匠、何ぞ用ゐん、字句の論を
筆底の萬珠は世道を持し
腰間の一剣は君恩に報ず
髯蘇[蘇軾]の風節、誰か能く続かん
全篇を整頓して過ちは邁(す)ぎて存す。」
此翁の風節、誰か能く続かん
京城を回首すれば泪眼昏し
   後藤機


「菲才は甘受す、陰陶の誚りを」
「大匠、何ぞ用ゐん、字句の論を」
「全篇を整頓、過ちは邁(す)ぎて存す(過ちが多くある)。」あるいは「全篇を整頓、邁(すぐ)れるに過ぎるを存す。」

 これを読めば、細かい字句平仄に拘らなかった先師の書いたままを尊重して上梓したものの、やはり訂正すべくこれらの朱筆が施された、というような経緯だったのだろうか。
 果たして頭註のいくつかは、松陰歿後に公刊された明治十六年刊行の『評註山陽詩鈔』において、追補された頭註として復活している。この手澤本が校閲に使用されたのは間違いないように思われる。

   ★

 以上、生前の頼山陽から実直な弟子として一番に信を置かれ、詩集の出版を一任された郷土の先人後藤松陰、彼が所蔵する手澤本と思しき『山陽詩鈔』について、書誌事項と管見とを記した。同書を所蔵する研究者・研究機関は、上記字句および原本画像との異同を精査することにより、たとい端本であっても初版の同定が可能になるだろう。

 今回の発見を可能にしたのは、インターネットによって多くの異本の書誌、更に原本画像が公開されるようになったからであるといっていい。平仄も、ネット上のチェックツール※08を使用すれば誰でも四声が 検索できる。
 また一方では、漢詩人(旧世代知識人)の蔵書が、後継者なく価値不問のまま市場に溢れ、江戸時代後期の古典籍資料が大量に存続の危機にさらされている現状がある。
 江戸・明治期の漢詩文の研究を進めるにあたって「テキスト」と「原資料」と、謂わば相反する両つの状況が同時進行しているのである。
 筆者は以前にも、『近世名家詩鈔』(安政五年刊行)の初版本を入手し、やはり異同本との比較により安政大獄時の梁川星巌の詩の処遇に関する書誌上の小発見をした。※09 このたびも同様の状況のなかで資料の発掘がなされた結果であると思っている。
 専門の教員でも学生でもないが、敬して遠ざけるのではなく、直接和本と触れ合うことを通して得られるさまざまな情報が、肌で感ずる歴史の記憶としてシェアされるような環境づくり、不要論も出始めた古典教育の現場に、そのような魅力ある原資料の投入が求められてよいのではないかと思っている。

             (二〇一九年九月二十三日 頼山陽祥月命日に)

【※註】
※01:このページ。
※02:国文学研究資料館所蔵本 岐阜大学図書館所蔵本 
他に文教大学越谷図書館所蔵本「菱屋 孫兵衛, 文政元[1818]」があったが、レファレンスの結果、やはり篠崎小竹の序文(天保三年)と板木訂正が施されており、後版と判明している。
※03:版元は五つ列記されている。(須原屋茂兵衛〈江戸日本橋〉,河内屋喜兵衛〈浪華心斎橋〉,河内屋和助〈浪華心斎橋〉,河内屋茂兵衛〈浪華 心斎橋〉,河内屋徳兵衛〈浪華心斎橋〉)
※04:国文学研究資料館  同(鵜飼文庫)ほか、数館の所蔵本の画像が公開されている。版元は六つ列 記されている。(菱屋孫兵衞〈京都御幸町〉,米屋兵介〈藝州廣嶋〉,河内屋喜兵衞〈大阪心斎橋〉,河内屋儀助〈大阪心斎橋〉,河内屋茂兵衞〈大阪 心斎橋〉,河内屋徳兵衞〈大阪心斎橋〉)
※05:「諸本」のなかで内閣文庫本(国立公文書館ホームページに 公開)が「初印本か」と紹介されている。 
※06:「紫色䵷声」故事について。「紫色䵷声、餘分閏位は聖王駆除すると云爾。」(『漢書』王 莽傳贊)     
※07:後藤松陰の評註を追加した明治十六年刊『評註山陽詩鈔』。 早 稲田大学図書館所蔵本が公開されている。
※08:「漢詩のための押韻平仄チェックツール
※09:「四季コギト詩集ホームページ」にて公開

○資料訓読にあたっては、徳田武先生、河井昭乃先生より多大な御教示に与りました。茲にあらためて深謝申し上げます。



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